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2017年6月

2017年6月24日 (土)

『老子』六三章。こういうものに私はなりたい。雨にも負けず

 昨日やった『老子』の六三章である。
 
 私はフランスの東洋学をまったく知らないが、 M. カルタンマルクの『老子と道教』(人文書院)がいい。分かりやすく、老子から道教への接続の具合がいい。ヨーロッパ神秘主義の論理で、老子と道教を読むからであろう。さすがにアンリ・マスペロの遺稿をまとめたという学者だけのことはある。

人文系の学問にとって第二次世界大戦が忘れられないのは、要するに先輩が戦争によって殺されて研究史の空白ができたからだと思う。フランスでマルク・ブロックとアンリ・マスペロがナチスに殺されなかったら、研究状況はまったく違ったろう。日本でも歴史家は沢山死んだ。人文科学は人間のなかに蓄積されるほかないから、衝撃が大きいのだと思う。
 
 マスペロの『道教』の翻訳を川勝義雄氏がしているのに気づいた。私は、谷川道雄・川勝義雄で中国史の勉強をしてきたのに、いままで道教を意識していなかったことが、ここに現れている。

 道教の問題に興味を持ち始めたのは、浙江大学の王勇先生に、「日本の歴史家は、なんで神社の研究をしないのか。神社の人々と親しくしているということを聞くと、日本の歴史家は身構えてしまい、一緒に仕事をしようとしたない人が多い。こういうことで本当に東アジア史を研究する気があるのかどうかが疑問だ。中国の道教と日本の神道は、違うものだが似ているところも多い。あなたはおかしいと思いませんか」と真顔で詰められて以来のことである。

 たしかに道教の問題は歴史家としては、結局、日本の神話および神道というものを、東アジアと日本の文化のなかにどのように正統なものとして位置づけるかに関わっていると考えている。いまのままでは神社と学問の関係はきわめて細いものになっている。これはよいことではないと思う。

 以下、昨日の仕事。
 

いつも無為な状態をめざし、無事を目標として、変わった味を味あわないようにしたい。他者に対しては、小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)をあたえてあげたい。仕事はやさしく見えることの中に困難を見届け、些細なことの中に問題を発見するようにできればいい。社会の困難は細部に原因があり、大問題は些細なことに宿っている。だから哲人は問題を大げさに論ずるのを避け、しかし、よく大きな問題を解決することができるのだ。安請け合いすれば信頼は生まれないし、基礎的な問題を安易に考えていると困難に圧倒されるだけが立ちふさがる。哲人は社会の困難を深く分析し、困難を無為・無事に乗り切ることをめざす。

為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳、図難於其易、為大於其細。
天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不為大、故能成其大。
夫軽諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。

無為(むい)を為し、無事を事として、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(はたら)きを以てす。難きをその易(やす)きに図り、大なるをその細(ちい)さきに為す。
天下の難事は必ず易きより作り、天下の大事は、必ず細さきより作る。是を以て聖人は終に大を為さず、故に能くその大を為す。
夫れ軽がるしく諾せば必ず信寡(すく)なく、易しとすること多からば必ず難きこと多し。是を以て聖人は、猶おこれを難しとす。故に終に難きこと無し。


解説
 老子のいう無為とは、しばしば「何もしないこと」「無理をしないこと」「行動を控えること」と理解される。しかし、ここに「無為をなす」とあることは、無為が一つの行為であり、目標であることをよく示している。水上を行く水鳥が静止しているようにみえながら、実は足を動かしているようなものである。

 個人として「無為・無事・無味」であることを目標とするというのは、宮沢賢治のいう「デクノボー」の境地であろう。「雨にも負けず」のいう「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニワタシハナリタイ」である。たしかに老子の人生哲学は、それを最終目標として生きるための方途を組み立てようとしたものにみえる。

 その第一が「小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(いきおい)を以てす」という他者への姿勢である。この句に共通するのは他者から受けたものに対して、より善いものをあたえ返すということなので(福永)、「小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)(励まし)をあたえてあげたい」と解釈した。これを読んでいると老子は「善意の人」であるという感じがする。

 ただ注意していただきたいのは、この「徳」という字に「はたらき・恵み・いきおい」などの訓読みがある。この字は、普通は儒教の意味での仁義・品格・節操というような意味であるが、老子の場合は「はたらき」という意味が強い。それ故に、この一節は決して「仁義に満ちた仁愛の恵みをあたえる」というようなことではなく、とくに女性的な「はたらき」「いきおい」を意味する。

 この女性的な「徳」の問題は別の主題となるが、ここでは「徳」の字の意味を説明しておくと、その原型は「彳」と「省」をあわせた字。「省」は「眉」の類字で、その古い字形(金文)からもわかるように、目の上に呪飾りを加えた形で、呪力を持った巫女の目をいう(『字統』)。つまり女性の目のもっている「魅力」の自然な働きが「徳(いきおい)」「徳(はたらき)」ということになる。ようするに「さみしい怨みの気分にはやさしい徳(はたら)きをあたえてあげたい」ということになる。

 次は仕事のやり方についての考え方で、「難きをその易きに図り、大なるをその細さきに為す」というのは、初歩的なことの難しさこそをよくつかむということであって、大問題も細かな問題に解析して一歩一歩処理するということになる。これは常識的な人生訓であり思考法であるが、上述のような他者への姿勢と一緒に、これを実践するには相当の修行が必要なことはいうまでもない。

 老子の人生訓が重要なのは、その先に「天下の難事」「天下の大事」を見据えていることである。この天下については、蜂谷が『老子』に出現した「天下」をほとんど場合に「世の中」「世の中の人々」などと訳していることが参考になるだろう。ようするに天下は「社会」という意味なのである。『老子』は、この「天下=社会」というものの観察で満ちており、『老子』はその意味では社会観の書なのである。

 そして、本章からもはっきりするのは老子は人生訓というものは「社会」の中で考えるほかないという立場をとっていることである。これについては、老子は社会というものは個々の人間という小さな場から見通さなければならないことを直感しているように思う。以下は現代語訳に譲るが、これを読んでいると、老子は、「善意の人である」とともに「正論を言う人」であると思う。

2017年6月21日 (水)

学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい

さいきん、やってる『老子』、これは二〇章です。みにつまされます。

 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人の畏れることは畏れない訳にいかない。しかし、学問をやったって茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。

 衆人は嬉々として、豪勢な肉料理の饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。

 私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは敏腕を振るうが、私の仕事はもたもたしている。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながらも田舎住まいを続けている。だが、私には、ここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。

絶学無憂。唯与訶*、相去幾何。美**与惡、相去何若***。人之所畏、亦不可以不畏。恍兮其未央哉。衆人熙熙、如享太牢、如春登臺。我独泊兮未兆、如嬰児之未孩。累累、若無所帰。衆人皆有餘、而我独遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨若昏。俗人察察、我獨悶悶。惚兮、其若海、恍兮若無止。衆人皆有以、而我独頑似鄙。我欲独異於人、而貴食母。
*底本「阿」。帛書による。**底本「善」。帛書による。***底本「若何」。帛書による。

学を絶てば憂い無し。唯(い)と訶(か)と、相去ること幾何(いくばく)ぞ。美と悪と、相去ること如何(いかん)。人の畏(おそ)るる所は亦た以て畏れざるべからず。恍(こう)として其れ未(いま)だ央(つく)さざるかな。衆人は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊(はく)として未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如く、累累(るいるい)として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺(とぼ)し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(どんどん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏(こん)たるが若し。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶々(もんもん)たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして以って鄙(ひ)なり。我れ独り人に異(こと)なりて、食母(しょくぼ)を貴ばんと欲す。

解説ーー知の鬱屈

 最後の「食母(しょくぼ)を貴ばん」を、普通は、食母を「道」の象徴と理解して「学問を絶っても万物を育む道を母として大事にすることは変わらない」などと訳す。しかし、そういう負け惜しみのようなことをいっては詩にならない。これは夏目漱石の『坊ちゃん』にでる乳母の清(きよ)と同じで、老子にも大事にしている乳母がいたとみた方がよい。
 この章は老子というのが、どういう男なのかを伝えてくれる章で、私は、自分が学者だからかも知れないが、もっとも好きなところである。この章からすると、春秋戦国時代には確実に知識人の生活というものがあるようになっていて、学問をすることを一つの職分とみるようになっていたことが分かる。
 
 何よりもよいのは、学問をするものの誇りや自嘲や鬱屈という、今でも私などには親しい心情のあり方が語られていることで、学問なぞは、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。何の役に立つものか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ、という訳である。しかし、このようにはるか過去の人間の本音を時を隔てて確かに聞き取ることができるというのは、歴史学に独自の愉悦であることも自覚させられる。

 老子には、陶淵明の「帰去来兮辞」と同じ田園主義の最初の現れがある。「帰去來(かへりなん)兮(いざ)、田園 將に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる、既に自ら心を以て形の役と為す、奚(なん)ぞ惆悵して獨り悲しむ」という例の詩である。漱石の『坊ちゃん』には、老子や淵明の感傷が生きていたが、それ以降、日本では田園主義らしい田園主義はなくなってしまったように思う。それは文化として必要なものではないかと思うようになった。

2017年6月20日 (火)

アリストファネスの「鳥」の語る宇宙生成の物語はつぎのようなものである。

アリストファネスの「鳥」の語る宇宙生成の物語はつぎのようなものである。

「はじめに混沌があり、さらに夜と幽冥と黄泉があった。しかしまだ大地も下空も蒼穹もなかった。その幽冥の果てに黒い翼の夜が一人で卵を産んだ。その中から生まれたのが金色の羽をもつ愛であって、これが広い黄泉のなかで暗澹とした翼をもつ混沌との間に多くの鳥たちを儲け、この鳥たちが最初に光りに出会ったのである。こうして愛があらゆるものを交わらせる前には不死の神々もいなかった。愛によって蒼穹も大洋も神々の族も生じたのだ」
『初期ギリシャ哲学者断片集』

2017年6月17日 (土)

今日は千葉の朝日カルチャーセンターで「日蓮聖教紙背文書と千葉の町・村」という講演。以下が要約

 今日は千葉の朝日カルチャーセンターで「日蓮聖教紙背文書と千葉の町・村」という講演。以下が要約
 はじめに
  中山法華経寺の所蔵する日蓮上人筆の聖教は、書状などの反古を裏返してノートに仕立てて執筆された(総通数一一七通)。
(1)『双紙要文』、文永六年(一二六九)頃、四三通
(2)『天台肝要文』、文永六年(一二六九)頃。三八通
(3)『破禅宗』、文永一二年(一二七五)。八通
(4)『秘書要文』。正元二年(一二五九))二八通
『千葉県史』資料編中世2所収
これらのうち宛先が分かるもの四〇通。うち富木氏に宛てたもの二三通。その殆どが、日蓮の外護者。中山法華経寺の開基の檀那であり、下総国守護であった千葉氏の吏僚。富木常忍。日蓮側近の活動が分かる。
用紙として日蓮に渡されなければ失われてしまったような日常的な手紙であるだけに、逆にきわめて価値が高い
 
 千葉の町と村について12・13世紀の状況を話す。末尾の論文によって一応の全体像を話した。
 

 率直に言って千葉県や千葉市は、は歴史文化や自然環境保護に冷淡である。生活しやすい町を作る上でも問題が多い。市史の通史編さえない。千葉は房総と三浦と東京湾岸をつなぐ重要地域だが、都市計画が本当にひどい。
 いつもサイクリングにでかける自転車道を通るたびにそう思う。

 以下は最後の結論部分
①歴史的景観
  猪鼻山からの景色は富士が見え、港がみえる景勝の地であった。歴史学からいうと、「猪鼻城」なるものは無意味であると同時に、「港の見える丘・聖地」という基本的なイメージを曖昧にする有害なものということにある。

 日本の各地に立てられている城は、第二次世界大戦後、歴史的景観を破壊し、無秩序な乱開発を行ってきた日本史上、もっとも非文化的な歴代政府の象徴である。これが歴史学者共通の意見です。

 千葉市の景観を部分的にでも復元する都市計画を、今後、考える上で、日蓮聖教紙背文書の位置は大きい。歴史を学ぶことは景観と自然の現状と将来への展望を考えることである。今が最後の機会かもしれない。

②千葉荘の町と村の両方が分かる。
 日蓮聖教紙背文書は、千葉けん千葉市にとって書くことのできない歴史的文化財である。領主=千葉氏、地主=寺山殿、百姓=橘重光(相当に有力)。普通、これまでは東国の百姓は、こういう自立性をもっていないと考えられる場合が多かった。そんなことはないということになる

 考古学的な分析、発掘・調査によってさらに具体的に地域の状況を知っていく必要がある。梁瀬裕一は「住民の姿などの具体的な中世千葉の解明は今後の課題である。そのためには、現市街地の下に埋もれている中世都市千葉の発掘調査が、是非とも必要であることを強調しておきたい」とする。
 
③アーカイヴズについて
 これは偶然に残った文書である。しかし、宗教文化財がいかに重要であるか。大事なものと考えることによって残ってきた。これらの文書は、中世の千葉県の社会の実態を知るために、きわめて興味深い文書である。全国的に希有な文書といってよい。
 過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。これだけ苦労する。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。日本社会は乱開発が普通であるとともに、アーカイヴズが存在せず、遅れた非文明的な社会。
 現在の社会の歴史の情報を一〇〇年後、一〇〇〇年後の人に伝える。その覚悟をもって国家社会を運営すること。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。


 参考文献。
 梁瀬裕一「中世の千葉町」(野口実編『千葉氏の研究』名著出版)。同「中世の千葉 ~千葉堀内の景観について~」(『千葉いまむかし』第13号)。

 保立道久「日蓮聖教紙背文書、二通」(一九九一年、後に野口実編『千葉氏の研究』名著出版)

『千葉市源町遺跡群』発掘報告書(二〇〇一年千葉市文化財調査協会)梁瀬裕一執筆

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