『老子』六三章。こういうものに私はなりたい。雨にも負けず
昨日やった『老子』の六三章である。
私はフランスの東洋学をまったく知らないが、 M. カルタンマルクの『老子と道教』(人文書院)がいい。分かりやすく、老子から道教への接続の具合がいい。ヨーロッパ神秘主義の論理で、老子と道教を読むからであろう。さすがにアンリ・マスペロの遺稿をまとめたという学者だけのことはある。
人文系の学問にとって第二次世界大戦が忘れられないのは、要するに先輩が戦争によって殺されて研究史の空白ができたからだと思う。フランスでマルク・ブロックとアンリ・マスペロがナチスに殺されなかったら、研究状況はまったく違ったろう。日本でも歴史家は沢山死んだ。人文科学は人間のなかに蓄積されるほかないから、衝撃が大きいのだと思う。
マスペロの『道教』の翻訳を川勝義雄氏がしているのに気づいた。私は、谷川道雄・川勝義雄で中国史の勉強をしてきたのに、いままで道教を意識していなかったことが、ここに現れている。
道教の問題に興味を持ち始めたのは、浙江大学の王勇先生に、「日本の歴史家は、なんで神社の研究をしないのか。神社の人々と親しくしているということを聞くと、日本の歴史家は身構えてしまい、一緒に仕事をしようとしたない人が多い。こういうことで本当に東アジア史を研究する気があるのかどうかが疑問だ。中国の道教と日本の神道は、違うものだが似ているところも多い。あなたはおかしいと思いませんか」と真顔で詰められて以来のことである。
たしかに道教の問題は歴史家としては、結局、日本の神話および神道というものを、東アジアと日本の文化のなかにどのように正統なものとして位置づけるかに関わっていると考えている。いまのままでは神社と学問の関係はきわめて細いものになっている。これはよいことではないと思う。
以下、昨日の仕事。
いつも無為な状態をめざし、無事を目標として、変わった味を味あわないようにしたい。他者に対しては、小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)をあたえてあげたい。仕事はやさしく見えることの中に困難を見届け、些細なことの中に問題を発見するようにできればいい。社会の困難は細部に原因があり、大問題は些細なことに宿っている。だから哲人は問題を大げさに論ずるのを避け、しかし、よく大きな問題を解決することができるのだ。安請け合いすれば信頼は生まれないし、基礎的な問題を安易に考えていると困難に圧倒されるだけが立ちふさがる。哲人は社会の困難を深く分析し、困難を無為・無事に乗り切ることをめざす。
為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳、図難於其易、為大於其細。
天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不為大、故能成其大。
夫軽諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。
無為(むい)を為し、無事を事として、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(はたら)きを以てす。難きをその易(やす)きに図り、大なるをその細(ちい)さきに為す。
天下の難事は必ず易きより作り、天下の大事は、必ず細さきより作る。是を以て聖人は終に大を為さず、故に能くその大を為す。
夫れ軽がるしく諾せば必ず信寡(すく)なく、易しとすること多からば必ず難きこと多し。是を以て聖人は、猶おこれを難しとす。故に終に難きこと無し。
解説
老子のいう無為とは、しばしば「何もしないこと」「無理をしないこと」「行動を控えること」と理解される。しかし、ここに「無為をなす」とあることは、無為が一つの行為であり、目標であることをよく示している。水上を行く水鳥が静止しているようにみえながら、実は足を動かしているようなものである。
個人として「無為・無事・無味」であることを目標とするというのは、宮沢賢治のいう「デクノボー」の境地であろう。「雨にも負けず」のいう「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニワタシハナリタイ」である。たしかに老子の人生哲学は、それを最終目標として生きるための方途を組み立てようとしたものにみえる。
その第一が「小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(いきおい)を以てす」という他者への姿勢である。この句に共通するのは他者から受けたものに対して、より善いものをあたえ返すということなので(福永)、「小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)(励まし)をあたえてあげたい」と解釈した。これを読んでいると老子は「善意の人」であるという感じがする。
ただ注意していただきたいのは、この「徳」という字に「はたらき・恵み・いきおい」などの訓読みがある。この字は、普通は儒教の意味での仁義・品格・節操というような意味であるが、老子の場合は「はたらき」という意味が強い。それ故に、この一節は決して「仁義に満ちた仁愛の恵みをあたえる」というようなことではなく、とくに女性的な「はたらき」「いきおい」を意味する。
この女性的な「徳」の問題は別の主題となるが、ここでは「徳」の字の意味を説明しておくと、その原型は「彳」と「省」をあわせた字。「省」は「眉」の類字で、その古い字形(金文)からもわかるように、目の上に呪飾りを加えた形で、呪力を持った巫女の目をいう(『字統』)。つまり女性の目のもっている「魅力」の自然な働きが「徳(いきおい)」「徳(はたらき)」ということになる。ようするに「さみしい怨みの気分にはやさしい徳(はたら)きをあたえてあげたい」ということになる。
次は仕事のやり方についての考え方で、「難きをその易きに図り、大なるをその細さきに為す」というのは、初歩的なことの難しさこそをよくつかむということであって、大問題も細かな問題に解析して一歩一歩処理するということになる。これは常識的な人生訓であり思考法であるが、上述のような他者への姿勢と一緒に、これを実践するには相当の修行が必要なことはいうまでもない。
老子の人生訓が重要なのは、その先に「天下の難事」「天下の大事」を見据えていることである。この天下については、蜂谷が『老子』に出現した「天下」をほとんど場合に「世の中」「世の中の人々」などと訳していることが参考になるだろう。ようするに天下は「社会」という意味なのである。『老子』は、この「天下=社会」というものの観察で満ちており、『老子』はその意味では社会観の書なのである。
そして、本章からもはっきりするのは老子は人生訓というものは「社会」の中で考えるほかないという立場をとっていることである。これについては、老子は社会というものは個々の人間という小さな場から見通さなければならないことを直感しているように思う。以下は現代語訳に譲るが、これを読んでいると、老子は、「善意の人である」とともに「正論を言う人」であると思う。