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2017年7月

2017年7月26日 (水)

『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

 本業の関係で、陰陽道の知識をえなければならず、ともかく易経の解説書を読み、それによって易経を拾い読みしてみた。「形而上学」という言葉の典拠が易経にあることは知っていたが、それを実際に読んでみて、日本の学術世界が東アジアの学術用語との連携をうしなっていることの問題を自覚した。

 また藤田省三氏の竹内光浩など編『語る藤田省三』(岩波現代文庫)の徂徠を読んで、たいへんに面白かった。そこに「器」論があるので、それと引っかけて、下記を書いてみた。藤田が「我らが同時代人、徂徠」という理由がよくわかる。
 
 また例によって労働論、労働の二重性論にふれる議論となった。

 また世阿弥がほぼ確実に『老子』を読んでいるだろうということも勉強した。
 
 お読みいただければ幸いです。

 『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

車の三十もある輻(や)(スポーク)が一つの轂(こしき)(ドラム)を共にするが、内側の空無によって車の用(はたら)きが支えられている。粘土をこねて陶器をつくるが、内側の空無にこそ器の用(はたら)きがある。戸と窓をあけて室を作るが、内側の空無にこそ室の用(はたら)きがある。有用物が利便なのは、その物のなかの無用にみえる部分の用(はたら)きによっているのである。

三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以為器。當其無有器之用。鑿牖以為室。當其無有室之用。故有之以為利、無之以為用。

三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり。埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無なるに当たって、室の用あり。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

解説
 冒頭の「三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり」というのは、いわゆる「無用の用」、つまり物の有用さは、実はそのもののもつ「無・無用性」によって支えられているということの巧妙な説明としてよく知られている。

 ただ、解説は二番目の「埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり」からする必要がある。つまり、老子のいう「器」というのは、有用な形をもつものすべてを表現する言葉である。経済学的に言えば、物体は、人間にとってほとんどの場合、何らかの有用性(効用)をもつから、この老子の用語法でいけば、すべての具体的な形をもった物は「器」として定義されることになる。

 老子は、この「器」の有用性を「器の用(はたら)き」(「車の用(はたら)き」「室の用(はたら)き」)と表現する。そして老子は「善」を物事の有用な本性をよく発揮させることとしていたから、この「器の用(はたら)き」の良さこそが「善」であるということになる。老子の「善」の定義の基礎には「器」→「用(はたら)き」という考え方があったことはとくに注意しておきたいことである(藤田一九一頁)。そもそも日本語の「はたらく」の元の形は「徴(はた)る」または「剥る」(「強く取り立てる」「削り取る」)であるという(『和訓栞』『字訓』)。「はたらく」とは強い目的意識の下に物や人間から何かを絞り出すことであって、それはドイツ語のアウスボイトング(Ausbeutung)が搾取という意味をもつと同時に自然を利用する、開発するという意味をもつのと同じことであろう。英語でいえばただの労役labourとは区別された目的意識を明瞭にもった仕事workが「はたらく」ということになる。

 また「器」という言葉は、器量・器用などという言葉が示すように、人間の技能・性格なども意味する言葉になった。荻生徂徠は「『器』とは道具だから特定のものに役に立つものだ。特徴のあるものだ。人間みな得手不得手がある。その得手不得手のない奴はぼんくらでどうにもならん。人がある事柄に役立つことを『器』という。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ」と述べている。

 この頃は「器」という言葉を使うこと自体が少なくなってしまったが、これは実は老子から始まったものなのである。それが中国的な思考方法に深く根付いたのは、紀元前二五〇年前後に編纂された『易経』繋辞伝が「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」と老子の「器」という用語を受容したときにさかのぼるといってよい。『易経』繋辞伝は儒家の編纂したものであるが、そこで形而上(形がない超越的な世界)、形而下(形のある世界)という用語を決めたときに「形而下」の世界は「器」の世界とされたのである(なお、この繋辞伝が、日本でメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となったのだから、そこからすると形而上学という語の淵源は老子にあったことになる)。

 はるかくだって日本の足利時代の能の大成者、世阿弥は「有は見、無は器なり。有を現すものは無なり」(『遊楽習道風見』)と述べている。つまり、有は目の前に見えているが、無は器の本質である。有を有として現す力をもつのは無なのであるということであるが、これは『老子』の本章によるものである。ここからみて、世阿弥は、ほぼ確実に『老子』を読んでいたであろう(石田博一九八四)。日本の芸能において「間」「無言」を大事にする伝統があることはよく知られているが、それが老子の言葉によって表現されていることにもっと注意すべきだろう。
 なお、蜂屋は『老子』には意外なことに観念としての「無」という言葉はほとんど出てこない(蜂屋「中国的思考一八二頁)。もちろん、ただの否定詞として否定表現のために使われる「無」はたくさん出てくるが、本章のような哲学用語らしい用例は第四〇章をのぞいてほとんどなく、その意味でも本章はきわめて重要であると述べている。

2017年7月18日 (火)

『老子』上善は水の若(ごと)し(第八章)

上善は水の若(ごと)し(第八章)

 上品な善というものは水のようなものである。水はすべてを潤して争わない。水は人の利用しない沼沢地に流れ込む。こういう水の性格はきわめて道に近い。それはともかく、住み方の善は地べたに近く棲むことにあり、心の善は奥が深く低いことにあり、友であることの善は思いやり(仁)にあり、言葉の善は言を守る信(まこと)にあり、正しいことの善は自分が治まっていることにあり、事業の善はただ己(おのれ)の能事(できること)をやることにあり、行動の善はただ時を外さないことにある。そもそも争わないというのは人に責任をもっていかないということだ。

上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信(まこと)にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し。

解説
 この「上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る」という章句は人生訓を説いた老子の言葉の中でももっとも有名なものであろう。第七八章には「天下に水より柔弱なるは莫(な)し」とあって、『老子』にとって「水」は柔弱なもの、つまり女性的な「徳(はたらき)」の比喩として使われている。

 人生にとって、この「水」のような争わない「柔弱さ」、「女性的な徳(はたらき)」、そして「水」のような自由が大事だというのが、老子のいいたいことであろうと思う。その意味では、本章は、悠然とした人生の自由を説いた「大きな象に乗って天下を往く」という本節冒頭で掲げた第三五章に対応するものである。ただ、「大象」=「大道」は「道」の比喩であって、どちらかといえば男性的な「道」と自由を説いているのに対して、この「上善、如し」は女性的な「徳(はたらき)」ということになる。そのような意味をふくめてこれを人生訓の最後として掲げることとした。

 本章の主題は「善」はこの「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」にこそあるということにある。それが物体としての「水」のあり方にそくして語られていることが、この章句を味わい深いものとしている。「居・心・与・言・正・事・動」などの人生の生き方に関わる事柄では「善」は水のもっているような自由と「徳(はたらき)」こそ大事であるというのである。つまり、「居=住み方」の善は地べたに近く棲むことにあるが、それは水が低いところに流れるのと同じであり、「心」の善は奥が深いことにあるが、それは水が深い淵を作るのと同じである。また「友(与)」であることの善は水のように柔弱な思いやり(「仁」)にあり、「言(言葉)」の善は水のように純粋透明な信(まこと)にある。「信(まこと)」とは言語の透明さと誠実を意味するというのである。さらに「正しいこと」の善は自分の内面が明鏡止水(鏡のように静かな水面)のように治まっていることにあるというのである。

 このような「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」の評価が、さらに一種の行動原則にも及んでいることが重要であろう。まず「事」の善、つまり大小の事業における「善」はただ能事(できること)をやるだけというのは、諺でいう「能事畢矣(能事(のうじ)畢(おわ)れり)」、つまり「なすべきことをなし、後は運に任せる」ということである。この諺の典拠は、普通、『易経』(繋辞上)によるというが、言葉としてはそうであっても、本来は『老子』に由来するものであった可能性もあると思う。自分の分担は淡々とこなし、結果は静かに待つという柔軟な受動性ということである。そして、「動(行動)」の善はただ自分の時を外さないことにあるというも、冷静であると同時に水のように即座に反応するという受動のイメージだろうと思う。

 これらの「居ー地」「心ー淵」「与ー仁」「言ー信」「正ー治」「事ー能」「動ー時」のすべてについて、「水」のイメージの内観をもって事にあたれというのが『老子』の人生訓ということになる。もちろん、ここであげられている徳目は『論語』『孟子』などにも出てくるものが多いが、しかし、当時の人々にとっては、本章は、儒家の言説を体系的に組み替える衝撃力をもっていたのではないかと思う。それらの徳目が「水」の受動的で柔弱さな徳(はたらき)と一括して捉えられ、「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」とまとめられることによって、全体のイメージがまったく異なってくるのである(なお「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」は、普通、「争わないから尤(とが)められることもない」と訳されるが、ここは、文脈からいって「争わないとは人に責任をもっていかないことだ」と訳したい)。

 なお、本章で面白いのは、冒頭で「水」の性格について述べた後に、「故に道に幾(ちか)し」とされるところだろう。これは「水と同じように道も無為自然だ」というように抽象的に理解されるが、しかし、例によって、まずはもっと即物的に理解されなければならないだろう。つまり、道路の場所としての性格が水辺の土地や水路と似ているといっているのである。たとえば、日本には「水に流す」という言葉があるが、水路・河原はそもそも汚れ物を排出しておく場所であった。そのため、たとえば平安時代によると、そういう場所で汚物をみてそのまま内裏に参上したり、神事に従ったりしても、「穢れ」のタブーにふれたことにはならないという慣習があった。そして実は道路の「穢れ」も、同じくタブーのはならなかったのである。

 これは河原・水路と道路は社会のなかの開放空間という点で共通性をもっているということだと理解されている(山本幸司一九九二)。つまり道が四通八達するのにそって、川や水路も四通八達していく。道と川・水路の開放空間が自然を区分すると同時にしていき、社会のインフラストラクチャとなっていくのである。日本と中国では「浄穢」観念のあり方は相違しているが、水路・河原と道の性格は共通していたに相違ない。「故に道に幾(ちか)し」というのは、まずはそういう具体的なニュアンスであったに相違ない。

 そして、道と川をくらべれば、老子の好むところは川にあったに違いない。それに対して、これまでの解釈には「故に道に幾(ちか)し」を「水は道に近いほどの価値をもっているのだ」というニュアンスがどうしてもつきまとっているように思う。しかし、川の方が自然と大地に近く、より自由で、より謙虚なものであって、老子にとっては、「道」(男性的な道と理法の世界)よりも、「水の徳(はたらき)」(女性的な受動の徳)の方が本質的に「善」なるものであったことは疑いをいれないと思う。

2017年7月17日 (月)

「『人種問題』と公共―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」

 先日、国際理解教育学会での報告レジュメです。
 素人のアメリカ論で、しかもレジュメですので、読みにくいと思います。

「『人種問題』と公共性・市民性―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」
                20170715保立道久 国際理解教育学会報告
前提としてーー国民・民族・人種について
 世界的に多民族状況の中での公共性を考える必要。他民族の公共性を否定する現状。世界の公共性を考えるために、多民族国家としてのアメリカ論が必要な時代。アメリカへの関心を研究と教育の世界で共有すること。

国民の定義ーー「国民=Natinal」「想像の共同体」B・アンダーソン
 国籍、市民権。日本国憲法一〇条「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係。神聖な実体ではない(レーガン「(アメリカ市民権は)わが国民のもっとも神聖な所有物」)。「物」に執着する「国家主義(スタティズム)」。
 国籍保持者=国民の利益=国益の自決の原則。The Right of Nations to Self-Determination(民族自決権ではなく、国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳すべき)。レーニン「平和に関する布告」→ウィルソン「十四か条の平和原則」→ヴェルサイユ条約→国連憲章(第1条2)「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」。相互に国益の自決権を認め、無用な衝突や戦争をさける。 

民族の定義ーーエスニシティ
 ネーションは誤訳。ナショナリズムという言葉、国民・民族にまたがり適当でない。
J・S・ミル『代議制統治論』の古典的定義(オットー・バウアも同じ)。
「人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として、歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいう」。
 本質は後者の歴史的経験。長い歴史的経験の共通性と運命による協同意識。内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、民族性が生まれたという。民族を成り立たせる「共通性」は固定的なものではなく、一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在しうる。多様かつ状況的で可変的なもの。しかし、国民とは違って法律的=想像的ではなく実在する関係。エスニック集団の否定は、一種の民族虚無主義

スターリンの民族の定義?
 「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」(『マルクス主義と民族問題』)。
 この四条件をもつ集団のみを民族とする、民族の行政的(恣意的)定義。「民族」を「国民」にほぼ近似したものに限り、多様なエスニックな存在を「人種あるいは種族」にすぎないと切り捨て民族としての権利を認めない。裏返しの人種主義。ユダヤ民族などの虐殺の「理論」根拠。旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自決の権利の困難の原因。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていた。

「人種」(レースrace)の定義
「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」(ユネスコ、一九六七年『人種および人種偏見についての声明』)。人種という語の使用自体が人種主義(racism)と断定。
 リンネ「白色人種(ヨーロッパ、創意に富む)・赤色人種(アメリカ、自己の運命に自足)・蒼色人種(アジア、黄色人種、高慢・貪欲)・黒色人種(狡猾・怠け者)」と分類。
 分子生物学、生物分類学のレヴェルから批判。「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA類型というような用語を使うほかない。「人類ー人種」という言葉は問題ばらみ。普通の分類学では「類」が上位概念であって、その下に「種」がある。「類」は進化の系統が同じ動物で、それに対して「種」は相互に性交繁殖できる集団をいう。ただ「霊長類」の場合は、「霊長類」の下に「人類」があり、人類は一種であり、相互に性交繁殖できる存在である。生物学の用語法では「人種」という言葉は不要なのである。「霊長類」という用語をつくったリンネが同時に「人種」という言葉を作ってしまったのが間違い。
 哲学の「類」(独語gattung、英語genus)という概念に関わってくる。つまり人間の最大の特性が独特な意識をもつこと。フォイエルバッハは、人間の意識が動物とくらべてもっとも独自な特徴を「人間は自分自身にとって同時に我であり、汝である。彼は自分自身を他の人間の立場において見ることができる」点に求めている。人間には霊的な意識というものがあって、そこから自分と他者を同じ本姓をもつものと意識するような存在である。フォイエルバッハはこういう人間のあり方を類的性格(gattungswessen)と読んでいる。
 人種は身分制的な制度、観念としてエスニシティ間関係を作り、その形態を変化させる。人種的身分差別は、特定のエスニック集団をもっぱら、動物的な特徴に還元するイデオロギー。そのエスニック集団を他種動物として扱い、「類」と認めない。暴力を振るうものは自分を人間から人間の顔をした動物に変化させ、同時に他者を人間から動物に引き落とす。特定のエスニック集団に属するものが、他のエスニック集団に対して集団暴力を行使することであり、人種主義とは動物的な暴力の合理化意識。暴力の妄想。

Ⅰ人種主義イデオロギーの系譜とアメリカ資本主義
(1)近代人種主義の起原とキリスト教ヨーロッパ帝国
(イ)人種主義の起原と王権神話ーートマス・ペイン
 ヨーロッパ民主主義の形成を考える場合に、その外側で同時に人種主義の形成と世界化が進んだことを無視できない。人種主義を遡っていくとヨーロッパ諸国の王権の血統神話に突き当たる(フレドリクソン『人種主義の歴史』)。スペイン=ゴート、フランス=フランク、ドイツ=ゲルマン、イギリス=アングロ・サクソンとノルマンなどのゲルマン諸族の神話である。彼らはキリスト教信仰を受け入れるなかで、その神話をアダム・ノア以来の旧約聖書の系譜と奇妙な形で結びつけた。たとえばゴートの王はノアの子のヤペテの血統を引いており、イギリスの先住民ブリトン人も同じだが、アングロサクソン人はノアの長子セムにつながる血統をもっているなどの伝説である。こうしてヨーロッパ各地でゲルマンの王権神話が絶対主義王権の血の呪物性の神話(王権神授説)に結晶したのである。
 トマス・ペインは、これを一言で要約して「異教徒は死んだ国王を崇拝した。そしてキリスト教徒の世界は、このやり方を進めて生きている国王を崇拝した」と述べている(『コモン・センス』)。死んだ国王に対する崇拝とは王権神話そのものである。
 ヨーロッパ諸国の王権は、十字軍以降、イスラム帝国に挑戦する中で、それを融合させ、キリスト教的な一つの「人種」意識を作り出した。先導したのはスペイン・ポルトガルの両国。つまり一四九二年の一月、スペインはグラナダを攻略して、イベリア半島からイスラム勢力を追い落とすことに成功した。そして続いて三月、ユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。グラナダ攻略の成功をうけて、スペインの対外交易に深く関わっていたユダヤ教徒の力を削ぎ、統制しようとした。ヨーロッパでは十字軍遠征の前後からのユダヤ人虐殺(ポグロム)がしばしば発生したが、これによってヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別の体制が決定的となった。
 ユダヤ教徒に対する「人種」迫害は、キリスト教徒を特別な人種ととらえるイデオロギーを成立させる。ドン・キホーテが自身のことを「光輝あるゴート人」と自称し、サンチョが「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、「ゴート人=キリスト教徒」をもってイスラムやユダヤ教徒と差別化する強烈な意識。
 スペインで、世界的な人種主義イデオロギーの枠組みが作られた。「人種=レース」という言葉自身が、スペイン語のrazaから始まった。「カスタ(種姓=身分)」という言葉もイベリア半島で個々のキリスト教徒としての筋目の正しさを表現する言葉。これがポルトガルによってインド支配に導入され、それをイギリスが受け継ぐなかで、英語にもカーストという言葉が入り、それによってインド身分制度の一般的な表現になったのである。

(ロ)スペイン・ポルトガルの環大西洋支配
 このスペインで作られた人種身分のイデオロギーがアフリカやアメリカの諸民族にもほぼ同時に適用され、一つの世界的な人種主義イデオロギーに展開した。
 つまり、グラナダ陥落の翌月、イサベル女王はコロンブスの出航計画への支援を決断した。コロンブスの計画は、大西洋を西に航海してインドに到達するという破天荒なものであったが、その構想はイスラム世界をインドの側から包囲し、また中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を最終的に追い落とすこと。グラナダ陥落、ユダヤ人の改宗統制という経過のなかで、それと一体となった世界進出の野望を抱いたのである。
 コロンブスのアメリカ大陸への到達によって、スペイン・ポルトガル両国は世界侵略の拠点として、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を獲得した。両国の急速な世界帝国化であり、これにオランダ・イギリス・フランスが続き、ヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略の衝動に身をゆだねた。それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきもので、多頭の複合帝国であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴。このヨーロッパキリスト教帝国の中核に「キリスト教人種」意識があったことは否定できない。

(ハ)大西洋クレオールとアフリカ奴隷・アメリカ先住民
 イベリア両国の帝国的発展の基礎となったのはアフリカ西海岸への勢力拡張であった。一五世紀にはポルトガル・スペインは西海岸で金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、マディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいていた。
 この地域に進出してアフリカの人々と商業などの恒常的な接触をもつ人々が登場した。彼らは現地で生活を営むなかでアフリカの言語を操り、西海岸の各地に商館を設置してネットワークを広げていった。職業は上級の商人から船員、あるいは通訳や乗組員などさまざま、彼らはクレオールといわれるようになった。
 コロンブスは、到着したカリブ海に金を産する島を発見し、結局、その島の人民を絶滅させ、さらにカリブ海の社会の全体を崩壊させた。アメリカ侵略はすぐに大陸に及び、一五二一年にはアステカ帝国、一五三二年にはインカ帝国を圧伏し、支配拠点として商館を中心として城塞都市を造り出した。クレオールたちはアフリカ西海岸にいとなんだ商館のネットワークを大西洋をこえてアメリカ大陸に拡大したのである。
 長く世界から孤立していて天然痘などの伝染病に免疫をもたなかったアメリカの人々は大量に死んでいき、各地で人口は激減した。そして、その労働力を補うようにして、アフリカの人々がアメリカに奴隷として連行された。

(2)WASPイデオロギーとアメリカ植民奴隷制国家
 ここに生まれたクレオールーーアフリカンーーアメリカ先住民の間の関係が、肌の色の相違にもとづく「白人種」という人種差別のイデオロギーの体系を作り出した。十字軍は「キリスト教人種」という観念は生み出したが、それは「白人種」という観念ではなかった。人々の移動が各大陸にほぼ限定され、出自や共同体・職能集団にもとづく不平等が普通であった前近代のヨーロッパ社会内部で「白人種」という観念は生まれようがなかった。

(イ)WASPイデオロギーと植民侵略国家
 トーマス・ペインはアメリカの独立とイギリスに対する戦いを呼びかけるなかで、「イギリスではなく、ヨーロッパがアメリカの祖国だ。この新世界はこれまで、ヨーロッパの各地方で市民的・宗教的自由を求めて迫害された人びとのための避難所であった。彼らを生まれ故郷から追い出したのと同じ暴政が、今、その子孫をつけねらっている」(『コモン・センス』)といっている。これは絶対主義反対の主張、フランス革命につらなる。
 しかし、ペインはイギリス国王を批判するのに、その野蛮さは「インディアンにも勝る」「インディアン黒人をけしかけて我々を滅ぼそうとしている」とし、先住民やアフロ・アメリカンへの支配を当然視する。これはアメリカ独立宣言がイギリス議会が「植民地の善き人民の正義の声と血族の訴え」に耳を塞いだと恨み言を述べているのと同じこと。先住民とアフリカ大陸出自の人びとの位置を無視している本質は同じ。ここには「白人種」人種主義の成立がある。「アメリカ市民の体内に流れている同類の血はーーアメリカ市民の連邦を聖別している」「偉大な帝国の同胞市民」(マディソン『ザ・フェデラリスト』)
 アメリカ連邦憲法(一条二節三)は選挙権をもつ「自由人」を規定しているが、これは実質上、「白人」憲法である。ネーティヴ・アメリカンやアフロ・アメリカンは「自由人」ではない存在としてそこから明瞭に排除excludeされている。アメリカ連邦憲法は彼らに対して人種主義を宣言した憲法として成立した。キング牧師、「はずかしい憲法」。
 次に人身売買と暴力的強制によってアメリカに連行されたアフリカ大陸出自の人びとを移民ということはできない。彼らも憲法において「自由人以外の人数」として扱われている。アメリカが「移民の国」であったというのは問題が多い。
 19世紀アメリカの人種主義はの中心はWASPの人種主義(White(白い)Anglo-Saxon(アングロサクソン)Protestant(新教徒))にあった。その後にやってきたアイルランド人、ドイツ人などの新しい移民たちは、特権人種WASPをトップとする階層的な秩序に組み込まれていったのである。南北戦争の最中にイギリスの『タイムス』が「(南部の)我々の同族たちにあらゆる精神的な支持をあたえる義務がある」と主張したことは、この段階になっても、イギリスの支配層がアメリカの奴隷主と「同族」のアングロ・サクソン意識をもっていたことを示す。そして『タイムス』が北軍を「略奪者や抑圧者の雑種種属(a mixed race)」と罵って南軍の勇敢さをたたえるのは、ようするに北軍をアイルランド人、ドイツ人さらにはアフロ・アメリカンの混成部隊と蔑視していることを示している。ここにはWASP奴隷主の下にいる「雑種種族」、ドイツ・アイルランド・アフロ・アメリカンなどが連携せざるをえないという状況が明瞭に現れている。

(ロ)アメリカ先住民文明と国家への植民侵略
 白人人種イデオロギーは、アメリカ先住民を「赤」あるいは「褐色」人種とし、東アジアの諸民族を「黄色」人種と一括することによって世界的なイデオロギーとして完成した。
 一八世紀まではアメリカ大陸の中心はヨーロッパに近いカリブ海、さらに金銀鉱山のある中米・アンデス地域にあった。スペイン人はメキシコ・リマ・クスコなどの城塞都市を作り、アステカ・インカ両帝国の支配機構を利用して周囲の農村地帯の支配は現地首長にゆだねるというやり方をとった。このためアメリカ先住民は奴隷化されて連行されたアフリカンとは違って、その文明から切り離されることはなかった。彼らはその地位を前提としてスペイン人クレオールたちの拠点都市に必死になって入り込んだ。都市に居住するクレオールの側でも従者や見習いの労働力は必要であったから、彼らの間に、徐々に労働や婚姻の関係がうまれ、こうして「混血」のメスティーソという存在が広く登場してきた。
 これに対して北アメリカはむしろ辺境であって、イギリスは、そこに定住農業を営むところから植民を始めた。当初はネーティブ・アメリカンの協力をえる側面も強かったが、続々と形を整える先住民の諸民族の国家との条約関係を拡大し破棄し、侵略を強化した。南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由はネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。ワシントンを初めとして一九世紀半ば過ぎまでは大統領はほとんどインディアン・ファイターであった。
 アメリカ先住民はアメリカの大地の本来の領有者であったが、ヨーロッパ人の植民活動によって一九世紀にはきわめて狭い居留地に追い込まれ、それ以外の土地をすべて剥奪された。ここにネーティヴ・アメリカンの諸民族が、ある意味で一つの「民族」として行動せざるをえない歴史が始まった。

(ハ)「白人種」イデオロギーとアフリカ人種
 「白人種ー黒人種」という人種身分は、人種主義の上でもっとも重大な身分となった。ここでも聖書に記されたキリスト教的な「人種」知識は大きな役割をした。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。そして旧約聖書の創世記では、彼は従兄弟たちに奴隷として仕えるという不思議な呪いをうけている。
 アフリカンという人種観念はヨーロッパ王権中枢で作り出されたものである。奴隷貿易はヨーロッパの各王家が特許した奴隷貿易会社に独占されていた。広大なアフリカ大陸で言語も文化も身体的な特徴も異なる民族に属する人々が大地から暴力的に切り離された。彼らの出自を船積地によって「ギネア国」「ギネア種」などと「国」「種」(カスタ)といった言葉で区別する慣習があった。異なる民族を強制的に同一の身分とすることによって、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」身分は成立したのである。
彼らは肥沃な南部農業地帯の農場において奴隷として搾取され、膨大な資本と富をアメリカにもたらした。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあった。一九世紀半ばまでのアメリカ国家元首はみな奴隷所有者である。このアフロ・アメリカンが同時に奴隷身分であり、その刻印が植民奴隷制国家アメリカの基軸として北アメリカという大国において社会システムの中に根深く打ち込まれ、きわめて強固なものとなった。こういう中でアフロ・アメリカンは「人種」ではなく、歴史によって民族となっていった。
 南北戦争(一八六一~一八六五)における北軍の勝利、そして奴隷解放宣言(一八六三年)にもかかわらず、現実には、南部白人民主党のクー・クラックス・クランなどのテロ組織を利用することも辞さない反転攻勢によって、この時期以降、社会生活における人種分離と黒人参政権の剥奪が二〇世紀にむけてむしろ本格的に進展したのである。現実には、一九世紀後半にはドイツ人やアイルランド人などは「白人化」してWASPと一体化し、激しいアフロ・アメリカンに対する人種差別が再登場し、いわば全白人集団によるアフロ・アメリカンに対する厳しい法的差別と生活のゲットー化が進むという最悪の経過を辿った。この居住分離は現在も基本的に同様である。アメリカの人種主義の深さは「異人種婚禁止州法」が長く残り、2000年、最後に州民投票でその廃止をきめたアラバマ州では投票者の40%が禁止法の存続を望んだ事実に現れている。

(3)アメリカ資本主義とヴェブレン

(イ)資本主義と人種主義
 人種主義イデオロギーは資本の本源的蓄積、世界資本主義の形成を先導したイデオロギーであった。アメリカの特殊性はこのなかでアメリカ大陸植民と奴隷制を統合して展開したところにある。レオン・ポリアコフによれば、ナチスを結果したアーリヤ神話は、ゴート・フランク・ゲルマン、さらにはケルト諸族の神話が一九世紀に融合したもの。そこには露骨な神秘主義のほかに、一九世紀後半にアメリカで発展した人種主義優生学が合流した。ヨーロッパの人種主義はナチスの行動によって基本的な点で破綻したから、現在残存している強力な人種主義はアメリカのみとなっている。
 このような経過の最大の理由は人種主義と資本主義の結合にある。資本主義の形成はプロレタリアの形成をともなった。プロレタリアは、普通、労働者と訳されるが、本来は、ローマ時代の貧民ラテン語のProlesからきたもので、子供しか財産のない人々、子供を増やすことでしか国家に奉仕できない人々、いわば貧乏人の子沢山という意味を含んだ言葉、ようするに人間動物ということになる。プロレタリアの翻訳としては「労働種族」がよい。マルクスはプロレタリアは「個体としては弱い、絶えず狩り立てられる動物の種の大量再生産を思い起こさせる」(『資本論』Ⅰ672)、「労働者の諸要求とは、国民経済学にとってはただ、労働者を労働している間じゅう養う必要、しかも労働種族が死に絶えないようにという限りで養う必要でしかない」(『経済学哲学草稿』)などとする。
 動物としての人間の労働はLabourといわれる。これに対してアメリカの経済学者、ヴェブレンはで「勤労laborへの忌避は製作本能(Workmanship)にかならずともなうものなのかどうか」という論点を議論しているが、Labourに対するものが、製作workであると(「製作本能と忌避される労働」)。
 日本語で言えば、Labourは「勤労」。貝原益軒「養生訓」に「身体は日々少づつ労働すべし、久しく安座すべからず」とあって、「体をつかってはたらくこと」という意味。「労」の意味は「疲れる、苦しむ、力を激しく使う、骨を折る」、倭訓では「いたわしい」と読む。英語のLabourも、つらさ、骨折りが基本となる意味で、「重荷を負ってつまずきながら歩く」という意味。
 これに対して、workは「はたらく」「仕事」。もとの形は「はたる(徴る)」(『和訓栞』)。「徴る」は「強く求める、請求する」「取り立てる、徴収する」という意味。『和訓栞』は、この「徴る=強く求める」ということを自分自身に対してする、「我が身をはたる」というのが「はたらく」という言葉のもとであろうという訳である。自分が自分を「はたらかせる」。「事に仕える」、一定の目的をめがけて働く。これは職人的労働。
 一七世紀イギリスの傑出した社会改革者、ジョン・ベラーズの言によって説明すると、ベラーズは「肉体労働Bodily laborはもともと神のおきてである。労働が肉体の健康にとって必要なのは、食事が肉体の生存にとって必要なのと同じである。なぜなら安逸によってまぬがれる苦痛は、病気となって現れるからである。労働は生命のランプに油を注ぎ、思考はランプに点火する」と述べている。ここで「生命のランプに油を注ぐ」労働は勤労laborであり、ランプに点火する「思考」は労働の中に存在する目的意識であり、創造性であるのであって、製作本能workの一部であるということになる。
 資本主義とは、前近代と対比した場合、労働の目的意識を生産流通の巨大な機構が代表し、個々人の労働のWorkの側面を骨抜きにしてLabour化し、そこを基準に労働力を売買し、生産・流通システムの付属「物」として、動物として扱うシステムである。これは社会の側の抵抗によって、そのままの形では動かないが、しかし、人種主義は、このような人間の動物化に対する社会の抵抗をもっとも弱める。

(ロ)成立したアメリカ資本主義の略奪的性格ーー南北戦争後
 南北戦争後一八八〇年代に本格的な工業化と都市化の時代が始まり、この前後にアメリカは植民奴隷制社会から資本主義社会に展開する。一八六〇年から一九〇〇年のあいだに、工業投資額は一二倍に、工業生産額は四倍に増加し、アメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国へ変身していった。このときアメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国となったが、同時に金融資本主義化。株式と電信の利用。
 これは移民労働の増大の時期でもあった。一八六〇年から1900年の間に一四〇〇万人の移民。一八八〇年代まではイギリス・ドイツ、スカンディナビア、アイルランド。北・西欧。九〇年代以降は南東欧の出身者。西海岸には中国人、日本人、南西部ではメキシコ系。二〇世紀初頭に大量の移民の流入。
 東部の工場やアパラチア地方の炭坑の労働力はヨーロッパから流入してきたばかりの移民たちの労働に依存していたが、雇用主たちは、様々な民族的背景をもつ労働者たちを、その比率を入念に管理しながら各の作業場・採鉱所に配置していた。民族グループをそのまま労働隊に編成し、そしてグループを超えた組織化や抵抗を未然に防ぐ方策としたのである。フォーディズムは移民労働の組織のために創案された。一九一四年にフォードの労働者は約一三〇〇〇人、そのうち東欧とイタリアなどの移民労働者が九〇〇〇人余。作業工程の細分化にともなう労働の単純化・モジュール化は、このような移民労働組織のために創案された。労働におけるモジュール制。
 これは、ネーティヴ・アメリカンの抵抗の粉砕、フロンティアの終了(一八九三)年、そして同時にアフロ・アメリカン差別の体制確立という人種主義の再編と同時期であった。このように巨大な分裂を抱え込んだ資本主義国家はめずらしい。この分裂と差異を利潤化する運動のなかで自然も肉体もすり減っていった。 

(ハ)ソースティン・ヴェブレンの資本主義批判
 ヴェブレン『有閑階級の理論』は「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例であるとする。ヴェブレンの議論は該博な人類学的知識にもつづく体系であって、その論理はいわば「人種」論的な経済学というべきものである。それはWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から一九世紀末期の資本主義の確立の時代まで一貫して連続していたこと、そしてアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に指摘した仕事である。
 この略奪性が19世紀末に金融化したアメリカ資本主義における略奪性をもった「有閑階級」に遺伝している。彼らは、そのような略奪文化の歴史を前提として生産的な仕事(インダストリ)ではなく、銀行業や弁護士業などの金融的な詐取にかかわる金銭的な職業をバックとした略奪的な気質、敵愾心、習性をもっている。有閑階級の上品な生活は労働(Industryインダストリ)への寄生であり、労働は、その中で「製作本能(Workmanship)」の面よりも「勤労labor」の面を強くしている(三五九頁)と論じた。
 ヴェブレンーガルブレイスの系統に代表される制度派経済学は、ケインズ主義経済学と相互影響しなはら、アメリカ経済学の反主流として強い影響力をもっている。「ヌン兼的市場経済制度が円滑に機能するためには社会的共通資本の強化が制度条件であって、その社会的共通資本は職業的専門家によって専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理運営されなければならない。
 伊東光晴は、日本を代表するケインズ経済学者であるが、その著『ガルブレイス』は、アメリカは「人種が階級をつくった多民族国家」であるという断定から始まっている。伊東は、それを強制連行された奴隷や貧困な移民が、言語・教育・技能などの諸条件による職種選択条件におうじて順次に社会階層を作り、下層が低賃金の単純労働の職種に押し込められ、その最下層に「かって奴隷であった黒人」が位置する構造と説明している。右に述べた意味での、人種主義的な暴力や身分システムがどのように形成されるかは、伊藤がいう社会階層の基本をなす職種や労働実態に論ずる必要があるだろう。

Ⅱ公共性の不在とアメリカ民主主義

(1)私人自由主義イデオロギーー市民権の不平等と社会権の不在
①リバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)
 憲法の「自由人」規定、自立した強者が自由を謳歌し、選挙権をもち公共の主人となるのだというアメリカ的な「共和主義」の観念。このようなイデオロギーのことをリバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)というが、これは現在も生き続けている。「一九世紀の確信は、あらゆる個人が全力をあげて自分のために努力することによって、また機会がありさえすればいつでも隣人を踏みつけることによって進歩は生じるという考え方」(パース「進化の三様式」)。

②労働の尊厳と公共性
 公共性とは人間が「類的存在」であるという公理を社会に貫くことであるとすれば、その基礎は労働の尊厳にある。それは労働のworkとしての専門性を相互に評価すること、そして労働のlaborとしての自然性を提供し合うことにある。前者は専門性のネットワークの中に社会構成員の全員が組織されることであり、後者は身体的自然の再生産と環境的自然の持続的開発に全員がかかわることであるはずである。労働の「労」は身体に関わり、「働く」は社会的職能にかかわる。「労」はコミュニティを通じて身体・家族と環境に関わる。「働く」はアソシエーションを通じて社会の分業に関わる。
 そのようなworkとlabourを環境と歴史の中に感じることができる社会が「公共」の原点。それを諸民族と国家が総括することにより、逆に専門性のネットワークとコミュニティが強化され、国家が軽量化していく道筋を構想すること。
 アメリカのインフラは、その建設が下手をすると南北戦争の後くらいまで遡り修理が大問題。水路・橋・道路などは奴隷労働あるいは差別された労働で作られたことが多く公共で作ってきたという意識が弱い。貧しい自治体は道路が荒れ放題になるという公共心のなさはこの歴史をひいている。

③植民奴隷制国家由来の人種主義と公共性
 植民奴隷制国家においては、奴隷を所有し、先住民の所有を犯すばらばらな原子のような人々の間では社会的連携が生まれない。人種差別がある中での公共とは、自分たちの仲間にとっての公共にしかすぎない。うまれるのは上昇志向サークルと利己派閥ネットワーク。アメリカ社会における個人主義とは、しばしば派閥ネットワークに属していくための「個人的な友人」関係を重視することと一体となっている。トクヴィルは、これをアメリカで非常に多い任意団体、結社の存在に結びつけて語っている。アメリカの結社が、しばしば、実際上は、二大政党の派閥的なネットワークに入っていくための入り口になっていることは無視できないところだろう。身分制社会には結社の自由の発展は困難。

(2)植民連邦制と公共性
①植民地型連邦国家アメリカ
 アメリカ人の大国意識の裏側には個人主義=民主主義=連邦国家という等式がぴったりと張り付いているのである。しかし、アメリカ連邦制は深刻な問題を抱えている。
 アメリカの連邦制は、植民地型の連邦制。北米植民地はイギリス領の段階で先住民を国家とみなして条約をむすんだが、それによって割譲され占有した土地はイギリス国王に帰属するもので、各植民地政府はその代理とみなされた。対英独立の戦争はイギリスと先住民に対する二正面作戦として闘われた。植民地連合にとっての強敵は実際には先住民の部族組織であり、ここを起点として、彼らはそれに対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。対英独立戦争に勝利した連邦はこの国王の位置に就いたのである。
 もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「邦」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、ショーニー族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連邦はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。
 ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。この横領体制を法的に固めたのが合州国憲法。インディアンは「その他すべての人々」および税負担の免除つまりインディアンとの通商を規制することは(諸外国および諸州間の通商と同様に)連邦権限とされ(憲法一条八節三項)、また各州は条約締結の権利をもたないとされ(同一条一〇節一項)、さらに連邦は「直属する領土」を支配するとされている(同第四条第三節第二項)。領土とは各州の外側に広がる先住民の居住する大地のことである。植民地型の連邦制国家の憲法の中でも、連邦成立の根拠が先住民との条約(戦争と占領)の関係にあることが書かれている国家はめずらしい。
 この連邦制の根本的由来(植民地型連邦制)をベースにして、民族分布の濃淡、多様性にともなう多様な人種差別、地域差別が状況をきわめて困難なものとしてきた。

②アメリカの地方制度
 アメリカ憲法は連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。つまり福祉や教育(初等から大学院まで)それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。弁護士・医師などの専門職の資格付与も国家資格ではなく、州政府が行う。
 州(五〇)は「郡、county」の行政区画(全国で三〇〇〇余)に区分されており、その基礎単位は自治体で、その中には憲章を有して自治権を強めて「市」というべきものになった自治体と一般のタウンがある。これらの「郡」「市」「町」などの自治体は約四万にも上り、ほかにも独自の自治的行政を行う学区・特別区などが約五万もあって、その規模や権限が多様であることがアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしている。
 小規模な自治体では市長をおかず、理事会が運営者であったり、運営を外部の行政会社に委託するなどという極端な場合もある。これは田舎の寄り合いがそのまま現代に続いていると考えれば分かりやすい。警察は自治体警察で、刑務所も自治体で運営する。
 これは政府権限の連邦・州分割といわれるが、これは行政の責任を曖昧にする。まず問題なのは、その配分は、基本的には所得税の約八割が連邦、売上税の約六割強が州政府、財産税の九割以上が自治体という配分になっている(なお、連邦に行った所得税の残りが州、州に行った売上税の残りは連邦)。実際には行政責任を曖昧にするものであって、行政の系統性と民衆奉仕を困難にする。アメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。
 連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまう。
 教育予算の財源は自治体の固定資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる。

③連邦制の国際比較ーー財政調整制度
 連邦制の国際比較。ヨーロッパの連邦制はなかば自生的なもの。それは連邦を構成する各邦・各地域の間での財政調整の方式をともなっていた。同一のパイをどう分けるか。
 たとえばドイツ。ドイツ帝国は帝国(ライヒ)が関税、州(ラント)は所得税や地税、営業税を徴収するという税源分離方式をとり、帝国財政から州や共同体(ゲマインデ=コミューン)に資金を分与する垂直的な財政調整を行っていたが、二〇世紀初頭のワイマール憲法は連邦制を規定しながらも、生存権の社会的保障(社会権)などの福祉国家理念を実現するために所得税などを中央に集中した上で、州への分与の形での垂直的な財政調整を強めた(皮肉、これがナチスによる地方主権の剥奪を導いた)。第二次大戦後の憲法はドイツを「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定し、州の主権を復活するとともに、ラントやゲマインデの相互の財政調整について、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出する」役割を与えられている(基本法第72条)。こうして「豊かな州」と「貧しい州」の格差がでることのないように各州の代表者が議席をもつドイツ上院において財政的な調整が行われている。
 ヨーロッパの連邦制・准連邦制あるいは連邦制的な傾向は、以上のように各地方の教育・福祉・道路・インフラなどの公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度を伴っていた。このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつ。これが、ドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。
 これに対してアメリカ連邦制は「財政調整なき連邦制」といわれる。「豊かな州」と「貧しい州」、「豊かな市町村」と「貧しい市町村」が生まれるのは自由競争である以上やむをえない。能力と必要に応じて儲かる企業を連れてきて州財政を維持すればよいという「市場競争型連邦制」といわれる。
 (元首クリントンの行政指令一三一三二号)「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」などとある。州や市町村の抱える問題は、そのレヴェルにまかせ放任する。
 クリントンはレーガンが開始した連邦政府による州や自治体への補助金を削減する動向を拡大。これによってローズヴェルトからケネディ、ジョンソンへと続いた公共分野におけるナショナル・ミニマムを追求する民主党の論理を放棄していったのである。

日本史の30冊。豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)

豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)
『日本史の30冊』に載せたものです。沖縄について新城郁夫・鹿野政直『沖縄を生きるということ』(岩波書店)を読んでいて、この原稿を載せようと考えました。沖縄の歴史を基礎常識にしていくことの重大性を思いました。

「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」
 1963年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。
 『沖縄』の筆頭著者・比嘉春潮は柳田国男に師事した著名な民俗学者であり、彼がこのように問題を設定したのはめざましいことである。しかし、問題は事実認識にあった。つまり、新書『沖縄』は「本土」と琉球の「民族的」近接性を強調する一方で、琉球を固定的に「僻地」とみてしまう。弥生時代に農業の道をとらなかったために農業の発達が遅れ、停滞的な歩みの中で沖縄は眠っていたとまでいうのである。こうして近縁的な社会の相違は「発展の相違」に還元されて理解され、琉球は「本土」にくらべ、社会発展史上で一〇世紀も遅れていたと結論される。しばらく前までは、「本土」の歴史学界でも一四世紀の琉球王国ははじめての古代国家であり、薩摩の武力進入(一六〇九年)は、封建国家による古代国家の統合であるなどという意見がしばしば聞かれた。
 この種の抽象論は今でも克服されていないが、比嘉たちの議論には彼らなりの理由があった。琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって中央集権を確定した明治国家の支配の下で、琉球が直面した差別と収奪を強調するあまり、彼らは、琉球史の枠組を苦難と「貧しさ」を基軸として描いてしまったのである。
 しかし、近年の琉球史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈、多様な海産物と硫黄・砂糖などの特産品をもち、「僻地」であるどころか東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明瞭にした。琉球史を無前提に「日本史の一環」ということはできないというのである。その起点を作ったのは、太閤検地論で有名な沖縄出身の歴史学者、安良城盛昭であり、その影響の下で本格的な史料分析によって琉球王国の国制を明らかにした高良倉吉であった。
 本書はそれ以来、二〇年ほどの研究の到達点を示している。残念ながら、本書は通史ではなく、編者による序論と六本の論文からなる研究論集であるが、しかし、「本土」と琉球が各々異なりながらも深く関係しあって発展と変化の道を歩んできた枠組を明らかにすることに成功している
琉球王国の歴史
 その時代区分は、序論とⅠ章「琉球王国の形成と東アジア」(安里進)で述べられており、その(1)草創期縄文文化は、南アジアに特徴的な丸ノミなどをともなうもので、琉球弧ルートで鹿児島に到ったが、六四〇〇年前の鬼界カルデラ噴火で壊滅した。その後、展開したのは(2)「貝塚文化」であって、北部九州の縄文文化との交流も維持しながら独自化の道を歩み、中国とのタカラガイ交易などを特徴としていた。そして本土の弥生時代に対応する時期を(3)「貝塚後期文化」といい、そこでは旧石器時代以後の温暖化のなかで発達したサンゴ礁の生態系に依拠した生業システムが形成される。彼らは、豊かな漁撈と独占的な貝交易によって弥生農耕文化を受けいれる必要がなかった。そもそも農業の発展のみを社会分析のモノサシとするようなことは誤りであるというのが本書の視座である。
 「本土」の古墳時代以降に対応する(4)貝塚文化最末期には、ホラガイが仏教の法具とされ、日本を経由して大陸に流通し、さらに唐で発達した螺鈿細工の原料としてのヤコウガイも移出される。その代わりに人びとは鉄器を入手するが、このような交易の統括において役割を高めた首長が、琉球の各地域に盤踞し始めたのである。
 これをうけてだいたい一〇世紀以降、「本土」の平安時代に対応する時期に(5)原グスク時代が始まる。中国の宋代における華僑の東南アジア展開のような交易の広域化に対応して、この時期、長崎産の石鍋や徳之島産の須恵質陶器カムィ焼が琉球全域に流通する。そして、畠作や水田が本格化し、人口が増大する。その中枢には城塞形の小さなグスク的遺跡が位置していた。そして、一三世紀以降、いよいよ(6)大型グスクの時代が始まり、浦添グスクに拠点をもつ初期中山王家の勢力が他のグスクを圧倒した地位をもって出発した。一四世紀に入ると中山から山南・山北が分離して三山時代が始まるが、一四二〇年代には思紹と尚巴志の父子(第一尚氏)が三山を統一し首里へ拠点を移す。その後、第二尚氏への王朝交替があって尚真王期には(在位一五世紀後半から一六世紀)琉球王国は琉球全域におよぶ繁栄した王国となる。(7)琉球王国の時代である。この時期、琉球は東南アジアにまで貿易船を送り、「万国の津梁」と自称したという。
 問題は、この琉球王国の繁栄が明の冊封と海禁体制のなかでの琉球の特権的地位に支えられていたことで、しかも、時代がすぐにヨーロッパ勢力のアジア登場にむかっていたことである。これがアフリカと南アメリカにおける人間の大量殺害によって特徴づけられ、「長い一六世紀」ともいわれる世界資本主義の原始蓄積期であることはいうまでもない。そして、本書Ⅱ章「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(真栄平房昭)に記されているように、この原蓄の推進要因となったグローバルな貴金属流通の中枢に、メキシコ銀のアジア中国還流と膨大な日本銀の増産があった。
 こうして世界史は近代の帝国の競合の時代に入り、東アジアでは中華帝国の最後の建設と崩壊の時期に入っていく。それに先だって日本が秀吉の朝鮮出兵という帝国的冒険に突入し、それは無益な破壊をもたらしただけで終わったものの、極東の小帝国としての日本(参照、本書■頁)を担保する形で、薩摩の琉球への侵略と武力統合が行われた。
 (8)徳川期の琉球王国は、一方で徳川幕藩体制の下に統合され、他方で清への朝貢体制を維持したが、その中で逆に芸能・生活文化から国制にいたるまで琉球としての特色が意識された。Ⅲ章「自立への模索」(田名真之)は、この純化・独自化の逆説を「琉球的身分制」と「史書の編纂」という側面から描き出している。またⅣ章「伝統社会のなかの女性」(池宮正治・小野まさ子)は沖縄の女性史の分野にあてられており、祭祀と芸能、さらに繊維の生産と貢納を中心とした女性の位置について論じている。Ⅲ・Ⅳを通じて歴史学の側から琉球文化の成熟の様相が語られるが、全体として女性の位置が独自なようにみえるのは、本書の論調からすると、海洋国家に独自な男女間の社会分業ということに関わるのであろうか。なお、Ⅱ章において、琉球が日本列島の南北軸の西南端という位置を生かして徳川期の列島市場との結合を高めながら、砂糖を大阪に出荷する見返りに渡唐銀を入手し、北海の昆布などの海産物の輸出ルートに乗るという遠心性を確保していることなども、「両属と自立」という図柄のなかに位置づけられている。
 さて、以上が前近代部分のだいたいの紹介であるが、Ⅴ章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守)、Ⅵ「世界市場に夢想される帝国」(冨山一郎)は、中華帝国体制の崩壊の隙間を狙って明治国家によって行われた琉球王国の政治的廃絶から(「琉球処分」)、日本の帝国経済の台湾への拡大のなかで必然化された徳川期琉球の砂糖産業の経済的破綻(「いわゆる「ソテツ地獄」)までを取り扱っている。とくにⅤの分析は鋭いもので「琉球処分」がやはり国際的な不法行為であったことを明らかにしているように思う(なお、本書には、これに対応する薩摩の琉球王国侵略についての具体的な記述がないが、これは紙屋敦之の仕事などによって補充する必要がある)。
「日本人」という言葉のワナ
 冒頭に述べたように、本書は、通史ではない。しかし、この紹介からもわかるように、本書は、具体的な記述のなかで、前近代史と近代史を統一的・連続的に説明するという通史にとってもっとも重要な視座を提供している。何よりも重要なのは、本書が、琉球史というもっとも重要な部面において、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方を実際の叙述において乗り越えたということであろう。私も、民族なるものは、(法的関係としては固定された、できれば、このように再版で直します)「国家ー国民」の関係とは異なって基本的に状況的なものであると考える。それが実際の社会・社会構造と異なるレヴェルで自己運動し、客観的に「形成」されたり「統一」されたりする実態をもつというのは幻想にすぎない。悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生 活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という民族の固定的定義は、その幻想を形式論理で包んだものにすぎない。
 すでに新書『沖縄』も「どこかに‘日本人’または‘日本民族’なるものがいて、ぜんぶ同じ体質と同じ文化をもち、同じような歴史的発展をしてきたという考え方」を痛烈に批判していた。比嘉らが「ナショナリズム」を「無関心」や「差別」を突き抜けて希求される「国民的な連帯意識」の問題としたことは冒頭に引用した通りである。たしかに「民族」とは、人びとの「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。
 しかし、国家と社会の間に存在する公的な圏域が民族の名をもってよびだされる場合、それが民主主義的なものか、あるいは魔物となるかはすべて時と場合による。琉球史は、この歴史学にとって緊要な方法問題に直結する分野であり、本書は、それを具体的な実証の場所で考える上での試金石となっている。

参考文献
比嘉春潮・霜田正次・新里恵二『沖縄』、岩波新書1963年
安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス、1980年
高良倉吉『琉球王国の構造』吉川弘文館、1987年
安里進『琉球の王権とグスク』山川出版社、2006年
西里喜行など著『沖縄県の歴史』山川出版社、2004年
赤嶺守『琉球王国』講談社、2004年

2017年7月12日 (水)

上善は水の若(ごと)し(『老子』第八章)

 上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し。


 上品な善というものは水のようなものである。水はすべてを潤して争わない。水は人の利用しない沼沢地に流れ込む。しかし、これは自然の理法であり、人間の歩むべき道でもある。住み方の善は、地べたに近く棲むことにあり、心の善は奥が深く低いことにあり、交友することの善は自分が仁であることにあり、言葉の善は自分の言を守る信にあり、正しいことの善は自分が治まっていることにあり、事業の善はただ自分の能を尽くすことにあり、行動の善はただ自分の時を外さないことにある。そもそも争わないというのは人に責任をもっていかないということだ。


上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

 読み下しの仕方を通常とは変えてみた。こちらの方が意味がとりやすいと思う。

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