『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり
本業の関係で、陰陽道の知識をえなければならず、ともかく易経の解説書を読み、それによって易経を拾い読みしてみた。「形而上学」という言葉の典拠が易経にあることは知っていたが、それを実際に読んでみて、日本の学術世界が東アジアの学術用語との連携をうしなっていることの問題を自覚した。
また藤田省三氏の竹内光浩など編『語る藤田省三』(岩波現代文庫)の徂徠を読んで、たいへんに面白かった。そこに「器」論があるので、それと引っかけて、下記を書いてみた。藤田が「我らが同時代人、徂徠」という理由がよくわかる。
また例によって労働論、労働の二重性論にふれる議論となった。
また世阿弥がほぼ確実に『老子』を読んでいるだろうということも勉強した。
お読みいただければ幸いです。
『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり
車の三十もある輻(や)(スポーク)が一つの轂(こしき)(ドラム)を共にするが、内側の空無によって車の用(はたら)きが支えられている。粘土をこねて陶器をつくるが、内側の空無にこそ器の用(はたら)きがある。戸と窓をあけて室を作るが、内側の空無にこそ室の用(はたら)きがある。有用物が利便なのは、その物のなかの無用にみえる部分の用(はたら)きによっているのである。
三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以為器。當其無有器之用。鑿牖以為室。當其無有室之用。故有之以為利、無之以為用。
三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり。埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無なるに当たって、室の用あり。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。
解説
冒頭の「三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり」というのは、いわゆる「無用の用」、つまり物の有用さは、実はそのもののもつ「無・無用性」によって支えられているということの巧妙な説明としてよく知られている。
ただ、解説は二番目の「埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり」からする必要がある。つまり、老子のいう「器」というのは、有用な形をもつものすべてを表現する言葉である。経済学的に言えば、物体は、人間にとってほとんどの場合、何らかの有用性(効用)をもつから、この老子の用語法でいけば、すべての具体的な形をもった物は「器」として定義されることになる。
老子は、この「器」の有用性を「器の用(はたら)き」(「車の用(はたら)き」「室の用(はたら)き」)と表現する。そして老子は「善」を物事の有用な本性をよく発揮させることとしていたから、この「器の用(はたら)き」の良さこそが「善」であるということになる。老子の「善」の定義の基礎には「器」→「用(はたら)き」という考え方があったことはとくに注意しておきたいことである(藤田一九一頁)。そもそも日本語の「はたらく」の元の形は「徴(はた)る」または「剥る」(「強く取り立てる」「削り取る」)であるという(『和訓栞』『字訓』)。「はたらく」とは強い目的意識の下に物や人間から何かを絞り出すことであって、それはドイツ語のアウスボイトング(Ausbeutung)が搾取という意味をもつと同時に自然を利用する、開発するという意味をもつのと同じことであろう。英語でいえばただの労役labourとは区別された目的意識を明瞭にもった仕事workが「はたらく」ということになる。
また「器」という言葉は、器量・器用などという言葉が示すように、人間の技能・性格なども意味する言葉になった。荻生徂徠は「『器』とは道具だから特定のものに役に立つものだ。特徴のあるものだ。人間みな得手不得手がある。その得手不得手のない奴はぼんくらでどうにもならん。人がある事柄に役立つことを『器』という。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ」と述べている。
この頃は「器」という言葉を使うこと自体が少なくなってしまったが、これは実は老子から始まったものなのである。それが中国的な思考方法に深く根付いたのは、紀元前二五〇年前後に編纂された『易経』繋辞伝が「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」と老子の「器」という用語を受容したときにさかのぼるといってよい。『易経』繋辞伝は儒家の編纂したものであるが、そこで形而上(形がない超越的な世界)、形而下(形のある世界)という用語を決めたときに「形而下」の世界は「器」の世界とされたのである(なお、この繋辞伝が、日本でメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となったのだから、そこからすると形而上学という語の淵源は老子にあったことになる)。
はるかくだって日本の足利時代の能の大成者、世阿弥は「有は見、無は器なり。有を現すものは無なり」(『遊楽習道風見』)と述べている。つまり、有は目の前に見えているが、無は器の本質である。有を有として現す力をもつのは無なのであるということであるが、これは『老子』の本章によるものである。ここからみて、世阿弥は、ほぼ確実に『老子』を読んでいたであろう(石田博一九八四)。日本の芸能において「間」「無言」を大事にする伝統があることはよく知られているが、それが老子の言葉によって表現されていることにもっと注意すべきだろう。
なお、蜂屋は『老子』には意外なことに観念としての「無」という言葉はほとんど出てこない(蜂屋「中国的思考一八二頁)。もちろん、ただの否定詞として否定表現のために使われる「無」はたくさん出てくるが、本章のような哲学用語らしい用例は第四〇章をのぞいてほとんどなく、その意味でも本章はきわめて重要であると述べている。
« 『老子』上善は水の若(ごと)し(第八章) | トップページ | 『老子』、大国も小国も自由な連邦(第六一章) »
「宗教」カテゴリの記事
- 老子には戦争論があります。今の東アジアで重要なものと思います。(2018.02.21)
- 『老子』第一章。星々を産む宇宙の女神の衆妙の門(2018.01.02)
- 『老子』33章「自(みずか)らを知る「明」と「強い志」(2017.11.22)
- 『老子』政治に関わって天下の公共のために働くということ(2017.08.18)
- 『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)(2017.08.12)