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2017年8月

2017年8月28日 (月)

「自(みずか)らを知る」ーー老子の強靭な意志(三三章)

「自(みずか)らを知る」ーー老子の強靭な意志(三三章)

 人と議論することは「智」だが、しかし、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。もちろん他者に勝つものには力がある。しかし、自らの弱さを見つめて最後まで克(たえ)ることこそが本当の強さだ。そして、気持ちに余裕があるものは豊かになることができるが、自分の弱さを見つめて最後に笑うものには志というものがあるのだ。境遇を保つことができた人は命が長いが、しかし死を懸けても志を忘れないものには祝福がある。

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死自不忘*者壽。
*底本「亡」。帛書による。

人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。


解説

 「自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という言葉はたいへんに有名な言葉である。たしかに、人生にとって「自分を知る」ということはもっとも大事なことだろう。それは誰にとっても一生の仕事であろう。

 「そんなことは分かっている」「もう自分のことは知っている」という訳で、本章は、平凡な人生訓に過ぎないもののように読み飛ばされてしまうかもしれない。しかし、実は、本章の語ることをそれを超えている。本章は、老子が「自らを知る」ということの意味を、その先に来るものとの関係で語った章である。実は老子は、ここで「明」「強」「志」「寿(ほぎうた)」という見通しのもとに人生の最後まで貫くべき強靭な意思について語るのである。

 最初の「人を知る者は智といい、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という対句は、『論語』の「衛霊公篇」が「知者は語るべき人を選び、無駄に『言』を共にすることはしない」と述べ、「堯曰篇」が「言語知識は知者の条件である」としたことへの批判である。老子は人と対論する知識よりも、自己と語り、「自(みずか)らを知る」という内面的な能力を「明(めい)」と称して人間に必須のものとするのである。

 次の「人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす」という対句も同じようなことである。他者に勝つ外面的な力についての老子の評価は低く、「自らに勝つ」内面的な強さを真の「強」であるとする。訳文ではこの「自らに勝つ」の「勝つ」の意味を明瞭にするために「克」という字で表し、「たえる」とルビをふった。普通、「勝」と「克」は区別されないが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、この文脈では「己に克つ」の「克つ」の字を使った方がふさわしい。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いであることが確定している(小島毅一九九六)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う(なお「克」の意味が堪えるであり、それは出来る(「克能」)という意味で「克(か)つ」となっていくことについては、五九章の解説も参照)。

 この「自(みずか)らを知る明(めい)」と「自らに勝((克))つ強(きよう)」は、実は五二章にも「小(しょう)を見るを明(めい)と曰(い)い、柔(じゅう)を守るを強(きょう)と曰う」と解説されている。「自(みずか)らを知る明(めい)」は「小(しょう)を見る明(めい)」に、そして「自らに勝((克))つ強(きよう)」は「柔(じゅう)を守る強(きょう)」に対応しているのである。五二章で、老子が、たとえば母子を中心とした家族のような「小」さく「柔」弱な世界を守るためには、この「明」と「強」が必要だとしているのも興味深いことである。老子は「智」や「力」よりも、「小(しょう)を見る明(めい)」と「柔(じゅう)を守る強(きょう)」を、内面的な能力として高く評価するのである。

 さて、次の対句、つまり「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」という対句についても、これまでと同じように、前半は評価が低く、後半は評価が高いはずである。それ故に、前半の「足るを知る者は富み」という部分は「強を行う志」にくらべて評価が低いということになる。もちろん、「足るを知る」ことは、老子にとって重要な知恵であるが、ここではそれを超える意思が表明されていることになる。「足るを知る者は富」の「富」が外面的なものとして評価が低いことからも、これが自然な解釈である。

 そうだとすると、「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」という対句は、右の現代語訳に記したように、「気持ちに余裕があるものは豊かになることができるが、自分の弱さを見つめて最後に笑うものには志というものがあるのだ」という意味になる。「足るを知る」とは形の内側に満ち足りてくるものを知ることであるが、この場合は内側を信頼できる、余裕があるということであろう。あるいは「足す(足し算する、計算ができる)」という意味もふくむかもしれない。これは老子の思想を「足るを知る」だけで理解する人には異様に聞こえるかもしれないが、これについては、「足るを知る」とは「欲望を抑える」ことだという普通の解釈に従えない理由も含めて、第四四章でもふれる。

 重要なのは、ここで「強を行う」ことが高く評価されていることで、この「強」が先の「柔(じゅう)を守る強(きょう)」であることはいうまでもない。老子は、その「柔(じゅう)を守る強(きょう)」を貫くことを「志」としているのである。たとえば【蜂屋注釈】はこの部分を取り上げて「前句の『強』(「自らに勝((克))つ強(きよう)」のこと、筆者注)は例外として『強行』や『志』の是認は老子らしくない。『強行』は『知足』の反対のあり方である(中略)、この句にはなんらかの誤りがある可能性がある」とするが、それにしたがうことはできない。ここでは「強」とならんで「志」が高く評価されていることは明瞭である。ここにいるのは「強」を「志」として実現する決意に満ちた老子なのである。

 以上、本章は対句を重ねて「明」「強」「志」という人生への直截な意思を語っている。これはこれまでの通説の理解を前提とすると『老子』の人生論のなかでは例外であるということになるが、しかし、むしろこれが『老子』の本質なのである。そしてそれを前提としなければ、最後の「その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり」(境遇を保つことができた人は命が長いが、しかし死を懸けても志を忘れないものには祝福があるいいい)という対句は理解できないであろう。【金谷注釈】は、この句を「最も難解」とするが、ここには一種のロマンが語られているとみるほかない。

 こうして、本章全体の趣旨は、自己の心は「小」にして「柔弱」であるからこそ、「小(しょう)を見る明(めい)」と「柔(じゅう)を守るを強(きょう)」を獲得できるのであって、その「柔(じゅう)を守るを強(きょう)」を行い用いる「志」が立ち、その「志」を死を懸けても忘れないものには「寿(ほぎうた)」があり、喜びがあるのだということになる。

 ここにみえる老子は、普通いわれるような「無為、知足、長久」(行動を控え、欲求をおさえて長命を願う)というイメージとは対極にある(なお、これまでの解釈でもっとも私案に近いのは、ここに人生的な意思の連続性を認める池田(二〇〇六)の見解である。念のために引用すると「人間が、最初に、人我(ひととわれ)を洞察する「智」「明」という認識能力を出発点に取り、人我に対して打ち勝つ「有力」「強」という能力を身につけた上で、それらの諸能力を駆って「富」「有志」という社会的に望ましい状態を経過しながら、最後に、持続と永遠を意味する「久」「壽」という理想の境地に到達する、というカリキュラムを述べる 」とある。ただ、これでは「智・明」「有力・強」「富・有志」「久・壽」が並列されていて、その内でも後者、つまり「明・強・志・寿」を高く評価する強調する対句が生きてこない憾(うら)みがある)。

 さて、話題が飛躍するようであるが、こういう老子の強さは、私にソクラテスを想起させる。よく知られているように、ソクラテスが激しい批判をむけたのはギリシャのソフィストであるが、いってみれば、孔子はソフィストの大家である。『論語』が「言語知識は知者の条件である」「知者は語るべき人を選ぶ」とか、「朋あり、遠くより方(まさ)に来たる。また楽しからずや」などというのは、孔子が議論の人、愛知のソフィストであったことをよく示している。本章で、老子が「自(みずか)らを知る」内面的な力、「明(めい)」こそが重要であるとして、孔子の言語的な「智」の考え方を批判したのは、ソクラテスがアテネのデルフォイ神殿に刻まれていたという「汝自身を知れ」を重視し、ソフィストに対して自己の「無知」を強調したことに似ているように思う。二人がほぼ同時代の存在であったことの意味を解くことは、ヤスパースがいうように世界史の理解にとって決定的な意味をもっていると思う。

2017年8月27日 (日)

『老子』六九章。平和を望んでも戦争を仕掛けられたらどうするか。

 兵法に、「向こうから仕掛けさせて応戦するだけにし、相手が一寸でも攻めてきたら十倍は退く」という格言がある。進軍していても隊列はみえず、威嚇するけれども臂はみえず、武装していても兵器はみえず、攻撃していても向こうにとって敵はみえないというゲリラ戦法である。これを逆に言えば、国にとっての禍(わざわい)は無敵の軍隊をもってしまうことにある。無敵になると、それは宝を失うのとほとんどかわらない。宝は悲哀である。だから「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目に哀しんだ経験が深い方が勝つ」というのだ。

用兵有言。吾不敢為主而為客、不敢進寸而退尺。
是謂行無行、攘無臂、執無兵、扔無敵(1)。
禍莫大於無敵、無敵(2)幾喪吾寶。故抗兵相加、哀者勝矣。
(1)底本「扔無敵、執無兵」。帛書により改む。(2)底本「軽敵、軽敵」。帛書により改む。

兵を用うるに言有り。吾れ敢(あえ)て主と為らずして客と為り、敢て寸を進まずして尺を退く、と。是れを謂うに、行くに行(れつ)なく、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)なく、執(と)るに兵なく、扔(むか)うに敵をなし、と。禍(わざわい)は無敵なるより大いなるはなく、無敵ならば吾寶を喪うに幾(ちか)し。故に兵を抗(あ)げて相(あ)い加(し)かば、哀しむ者勝つ。

解説

 アーシュラ・K・ルグィンは、本章について「合気道や地下抵抗運動、そしてゲリラ戦などへの、したたかな戦術的アドヴァイスである」としている

 しかし、日本の注釈書は、ほとんど、本章を一般的な非戦論の延長で訳してる。たとえば古く【武内注釈】は、本章を「用兵者の言に吾は挑戦者とならずに応戦者となり、寸を進まんよりはむしろ尺を退かんいうが、これは争う意のないことを述べたものである。争う意のないものは行陣すべきところもなく、攘(はら)うべき臂もなく、執るべき兵器もなく、また争うべき敵もなしというのである」と要約している。現在までの注釈は基本的に、これと同じである。

 たださすがに【福永注釈】は「主と為らずして客と為り、敢て寸を進まずして尺を退く」という部分をとって、自衛の戦争で有り、わずかな前進ではなく大きく退却することを重んじるのは猪突しないゲリラ戦法などもその一つと指摘しているが、十分に明瞭ではない。

 問題は、二行目の「是れを謂うに、『行くに行(れつ)なく、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)なく、執(と)るに兵なく、扔(むか)うに敵なし』、と」という部分の解釈である。上記の試訳では、進軍する隊列はみえず、威嚇するが実態はみえず、武装しも兵器はみえず、どこから攻撃されているかも分からないというように、ゲリラ戦法であることを明瞭に訳した。

 これまでのような解釈では、結局、老子は明瞭な軍略はもっておらず、抽象的な精神論になっているということにならざるをえない。これは前項において、「相手に勝つためには、つけあがらせ、強気にならせ、それに乗ずることが上策だ」と述べた老子の軍事思想としてふさわしくないのではないか。また本章末尾に、「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目にあった悲哀の経験が深い方が勝つのだ」とされているのともそぐわないのではないだろうか。私には、老子が、そのような抽象論を立てるとは考えられないのである。

 老子の軍事思想が決して抽象的なものではないからこそ、結論部分の「国にとっての禍(わざわい)は無敵の軍隊をもってしまうことにある」という断言が説得力をもつのではないかとおもう。そして、最後の「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目に哀しんだ経験が深い方が勝つ」という部分は、書き方からすると一種の格言として流通していたようであるが、その意味も深いものがあるように思う。

 これは日本国憲法の平和主義をどう考えるかということにも関わる。
 外交を基本にしつつ、戦争をしかけられた場合にどうするかという問題は現代世界では、国連があるという点でまったく状況は異なっている。また日本の場合は憲法に平和条項、軍隊不保持の条項があり、しかも実質上の軍隊としての違憲の自衛隊があるという複雑な状況がある。
 現在まで、国連および9条を駆使した外交戦略がとられていないという状況の中で、「万が一戦争を仕掛けられたらどうするか」という問題を純粋に取り出して議論することも難しい。何よりも国連および9条を駆使した外交戦略をどう取るかということを中心に議論することを先行させるのが自然だからである。
 
 しかし、それでも戦争を仕掛けられたらどうするかという問題はある。これは老子のいう自衛戦争の法式、ゲリラ的戦法をとるということではもちろんなく、確実な法式は可能であろうと思う。それは老子の思想の問題ではなく、現代の問題である。しかし、老子の平和思想(および軍事思想)を確認しておくことは無意味でないと思う。つまり、いうまでもなく、老子は私たちがいる東アジア世界における最大の思想家の一人だからである。今から2500年ほど前から、こういう議論があったというのを知るのは無意味ではないだろう。

2017年8月22日 (火)

『老子』77章。天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず

天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず
 アーシュラ・K・ル・グィンを読んでいたら、ルグィンの基本にあるアナキズムは老子に由来するのだと自分で書いていた。本章は、福永光司氏も無政府主義という。
 老子が無政府主義かどうかは別にして、本章は、そういう老子の政治政治思想を考える上では決定的な位置にあるもの。馬王堆からでた帛書によって「天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず」と読み下すのが私見。これまでの読みとは違う新説だが、ほぼ自己納得ができたので、掲げます。

 天地自然の法則は弓を張るように動く。つまり弓を張るには、力が余って高くなってい部分を押し、両端(はし)の下がっているところが挙がってくるようにする。多いところは減らし足らないところは補う。これと同様に人間社会における天下の公共の道は有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが、現在の社会の理屈は不足の者から削って余り有る者に奉らせる。有り余って有るものを取り上げて天のもの、公共のものとして使うように、誰かが動かねばならない。これは道にある者がするほかないことだ。こうして大人は行動にでるが、手柄顔をせず、功をあげてもその地位に居座らない。おのれの賢(えら)さを示そうとはしないのだ。

天之道、其猶張弓也(1)。高者抑之、下者挙之、有餘者損之、不足者補之。
天之道、損有餘而補不足。人之道則不然。損不足以奉有餘。
孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎(2)。
是以聖人為而不恃、功成而不処。其不欲見賢。
(1)底本「興」。帛書により改む。(2)この行、帛書による。

天の道は、それ猶お弓を張るがごときなり。高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然らず。足らざるを損して以て有り余るに奉ず。孰(だ)れか能く有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ずるものぞ。唯有道者のみなるか。是を以て聖人は為(な)して恃まず、功(こう)を成して処らず。其れ賢(けん)を見(あら)わすを欲せず。

解説
 天の道理は弓を張るように動くという場合の、弓はどうはるかについては、四〇章の解説ですでにふれた。「繁弱の弓」などの戦国時代で名高い豪弓は弦を張らない時には強く反り返って逆向きに湾曲した状態になっているので、弦を張るときには弣(ゆづか)(真ん中の部分)を上から押しつけ、両端の弭(低い部分)が自然に持ち上がったところに弦を掛けるという。これは四〇章に述べられた老子の宇宙論の文脈では、「天の道」は上から押さえつけられた弓が下から反発するという「上下=天地」の緊張の中にあるという意味であることは解説した通りである。本章ではそれが「高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う」とも説明されている。

 それが二行目でも「天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う」と繰り返されるのだが、この二番目の「天の道」は天地自然の法則ということではなく、人間社会におけるあるべき公理という意味である。いわば天下公共の道である。通理という自然が人間社会にも通ずる道理であるとされることで、。これと同様に人間社会におけるは有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが「人の道」、人の作為が重なってできてきたやり方は、そうではない。それは足らないところを減らして、有り余ったところに奉ずるというまったく逆転したやり方であるということになる。

 こういう状況は「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」、つまり、有り余って有るものを取り上げて、天のもの、公共のものとする行動を要求しているというのが老子の判定である。

 管見の限りで、こういう解釈は本書が初めてであるが、その事情は、この部分のテキストが帛書では「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることが分かり、それによって本来のテキストが確定して上記のような読み下しが可能となったためである。これまでは「孰(だ)れか能く有り余りて以て、天下に奉ずるや。唯(た)だ道ある者のみ」などという従来からのテキストによって解釈されており、それにもとづいて「どんな人が、あり余っているものによって世の中に奉仕するだろうか。ただ道を身につけた者だけがそうするのだ」(【蜂屋注釈】)と解釈されてきた。これだと、道を身につけた者で余剰をもっているものは世の中にそれを拠出するという意味になる。これによって一種の慈善や社会事業への協力と理解されてきた訳である。

 しかし、問題は、帛書のテキストが「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることがわかっても、発見(一九七三年)の後、現在まで四五年近く、これがほぼ同じ意味で解釈されてきたことである。それは帛書のテキストが「孰(だ)れか能く余り有りて以て天に奉ずるを取ることある者ぞ。唯(た)だ道ある者のみならんか」(【池田注釈】)などと読み下されてきたためで、これによって従来と同じ余剰の拠出という解釈が維持されてきたのである。私は、これは「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」と読むべきだと考える。こうして、老子は、「有り余るもの」から余剰を取って天下公共に振り向けるという再分配の思想をもっていたということになるのである。これで読みは明瞭になるであろう。

 本書では、従来の注釈書の解釈に踏み込んで私見との相違を解説するという作業は基本的に省略してあるが、この問題は重大なので、以上、やや詳しくふれた。

2017年8月18日 (金)

『老子』政治に関わって天下の公共のために働くということ

善の徳はつつましやかに始まって無限の負担となる(『老子』五九章)

政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ。これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれる。人々が早くから服いてきてくれれば、その善の徳(いきおい)を重ねて積んでいくことができる。善の徳(いきおい)を重ねて積んでいけば、克(たえ)られないことはなくなる。克(たえ)られないことがなくなれば、善の徳は極限がなくなる。極限がなくなるまで克(たえ)ていけば、初めて国を守ることができるのだ。国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ。これを四方に根(旁根)を深くはり、主根(柢)を固くするという。そうすれば、長生きをして見るべきものを見ることができる。

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以(1)早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無夫克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有国。有国之母、可以長久。
是謂深根固柢。長生久視之道。
(1)底本「謂」。帛書により改む。

人を治(おさ)め天に事(つか)うるは、嗇(しよく)に若(し)くは莫(な)し。夫(そ)れ唯(ただ)嗇(しよく)なり。是(ここ)を以(もつ)て早く服(ふく)す。早く服する、之(これ)を重(かさ)ねて徳を積むと謂(い)う。重ねて徳を積めば、則(すなわ)ち克(たえ)ざる無し。克(たえ)ざる無ければ、則ちその極を知る莫(な)し。その極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国の母を有てば以て長久なるべし。是(こ)れを根を深くし柢を固くすという。長生久視(ちようせいきゆうし)の道なり。

解説
 「人を治(おさ)め天に事(つか)うる」を「政治に関わって天下の公共のために働く」と訳した。「人を治(おさ)め」とは士大夫としての責任をいうのであろうが、一般的にいえば政治ということであろう。また「天に事(つか)うる」について、これまでの注釈は天帝・天神の祭祀をするという意味が、老子の天はそのようなものではない。天下の公共という意味であろう。

 その条件は、つつましやかな生活(嗇)を送ることだというのは、現在でもあてはまるような原則であろう。老子は、これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれるという(服には「むつむ」「満足させる」「得る」「つける」などの意味がある)。そしてそれによって天下の公共に奉仕するという善の意思の徳(いきおい)を蓄積することができるという。それがあれば何にでも克(たえ)らることができるが、義務は無限に広がっていくというのが老子のいうことである。この「克」は、普通、「何にでも勝つことができる」と翻訳されるが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、老子に「克=勝つ」は相応しくない。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いで、「己をちぢむ」と訳すべきであることが確定している(小島毅)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う。そもそもそれでは本章の意味は通らないのである。

 本章は、こうして、天下の公共に関わることは、進めば進むほど、堪えるべきことと、なすべきことは無限に増えてくることだと述べる。そしてそれを極限まで辿ることが国を守ることだと論ずるのである。

 以上、従来の解釈とは大きく異なっているが、このような読みの根拠となったのは、「徳」という言葉がもっている「いきおい、はたらき」という語義である。本章は、政治との関わりがもたらす無限軌道のようなものを、「徳」を積み重ねるというのはどういうことかを中心にして論じているのだろ思う。そういう観点から考えると、本章の実際の結論となっている「国の母を有てば以て長久なるべし」という言葉は「国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ」と訳せるであろう。老子にとって「徳」という言葉は、その人々を養う徳(はたらき)にそって、どうしても母性的・女性的なニュアンスを含むものになるらしい。これも、本章を「徳」の語義を中心に読む理由である。

 冒頭の「政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ」というのは、日本の政治家、とくに現在、そのトップにいる政治家にいいたいことだ。

 『老子』のいう「天=公共」というのは示唆深い。

 若い人たちが作った「未来のための公共」という言葉に通ずるように思う。

2017年8月12日 (土)

『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

 よく知られているように、毛沢東は自己を秦の始皇帝に比較した。その馬鹿さ加減は、彼が中国史に対して見識と教養をもたず、学術的精神がなく、結局、野心とレトリックとと独裁の政治家であったことの証明である。一種の王朝を作るというのは、どのような時代にも人間に宿る妄想であって、毛沢東は現代的覇王となろうとしたのである。このような怪物を日本の中国侵略が作り出したのである。戦争が作り出したのである。

 トランプをみても安倍氏の友達主義、近親者主義、「自分は例外、自分は偉い」という自己意識をみても、政治権力の「王朝化の妄想」というのは、つねに発生する。北朝鮮をみても、「王朝」というのはけっして過去の問題ではないのだと思う。、

 中国にもどれば、そして共産党を称する中国の支配政党は、実際にはスターリニズムと毛沢東王朝主義を基本的に精算していないといわざるを得ないが、彼らは、自己を法家であるとか、儒家の伝統をうけるだとか、ときどき馬鹿なことをいいだす。しかし、彼らは決して、中国の伝統的な反権威主義と「共同主義」・ユトーピアの思想を代表する『老子』に自己を近づけようとはしない。


 先日の日文研の研究会で教わったハーバート随一の人気講義であるというのマイケル・ピュエットの中国哲学講義『ハーバートの人生が変わる東洋哲学』を読んだ。たいへん面白い。この講義は、アメリカ社会論や世界の現状についての見方も比較的妥当なものだ。アメリカと中国を考えて生きて行かざるをえない日本ということを考えると、私たちがどこまで戻り、どこら辺から考えたらよいかを示唆してくれる。
 『老子』論も面白かった。老子の言う「道」は諸物の関連そのものであるという。老子がいわゆる弁証法(世界の関連性が全面的であり、その関連は目に見えないが実在する)論者であることを正しく指摘している。「道」は関連だという。さらに『老子』を隠遁的な思想家というのは間違いで、むしろ状況や世界を変える方法を説いたという。これも正しいと思う。
 
 私jは、社会理論にとって倫理学、非倫理的な存在たる人間をどうするかということは根本的に重要と考えてきた。弱い人間という自己意識がつきまとい現実に弱い人間である私のような存在、社会・歴史理論に現実には耐ええないような存在にとっての根本問題と考えてきた。教条のようでないそれをどう考えるのか。これを考える上で、中国の歴史と思想を検討することが大きな意味をもつということを始めて知った。そういう意味でも、マイケル・ピュエットの議論は参考になる。

 しかし、問題は、老子には一種の社会科学があるということで、これをマイケル・ピュエットは考慮していない。

 以下に注釈した『老子』三七章は、『老子』の社会論をもっともよく示すものの一つであろうと思う。


王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

世界を貫通している恒遠なる「道」は人が名前をつけて管理できるようなものではない。もし諸国の王がこの道理を守って勝手なことをしなければ、万物は自(おの)ずから豊かになるだろう。しかし豊かさの中で王が不当な欲をむさぼることがある。その時は、私はそれを鎮めて止めさせるために、無名の樸(あらき)(生の樹皮がついた木)を示す。自然そのものの樸をみればまさに足るを知ることができる。そして足るを知って静謐さが戻れば、天下はまた自ずから定まっていく。

道恒無名*。侯王若能守、万物將自為(下に心)**。為(下に心)**而欲作、吾將鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦將知足***。知足***以静、天下將自定。

*底本「為」、帛書により改む。**底本「化」。帛書により改む。為(下に心)は為に同じ。***底本「無欲」。楚簡によった。

道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自(おの)ずから為(な)らんとす。為(な)して欲作(おこ)らば、吾れ将(まさ)に之(これ)を鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす。無名の樸、夫れ亦(ま)た将(まさ)に足るを知らん。足るを知りて以て静かならば、天下は将(まさ)に自ずから定まらんとす。

解説
 この章は『老子』が王権との実際上の関わりをどうするかについて、その考え方を明瞭に述べた章である。老子は王権というものを本質的に疑っていたが、王権が「道」の通理を認めることは望ましいと考えていた(参照、第三二章)。しかし、その上で、王権が不当な欲をむさぼった場合は、それを鎮めなければならない。そのために「吾」は王に無名の樸(生の樹皮がついた木)を示すだろう、というのが老子のいうことである。『老子』で「吾」というのは老子自身のことをいうのは明らかで、ここはそう解釈するほかないところである。

 問題は王に「無名の樸」を示すとは、どういうことかであるが、確実なのは、本章の直前、第三二章に、樸(あらき)は誰の臣下でもない自由な存在だと述べられていることである。しかも、本章の冒頭の「道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自のずから」の部分も第三二章とまったく同文であって、これは本章と第三二章が「侯王」の問題、王権論をテーマとしていることを示している。これから考えると、本章で「吾」が樸(あらき)を示すというのは、すべての「名」と「形」を捨ててしまう。つまり王の臣下の地位を降りるという意思表明であろうと思う。老子の口調からすると退任の意思は明瞭ということであろう。

 このような解釈は、これまで存在しないが、「①侯王、もし能(よ)くこれを守らば、②万物は将(まさ)に自のずから為(な)らんとす。③為して④欲作(おこ)らば、吾れ将に⑤これを鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす」という場合、本章のテーマが王権論にあるとすれば、上記の訳文に示したように、(1)の主語は「侯王」であり、②の主語は「万物」であり、③の主語も万物、そして④の主語は「侯王」であり、それ故に、⑤の「之(これ)」は「侯王の欲」と考えるほかないと思う。実際上、これまでの解釈は①~⑤が何を主語として何を意味しているかでまったく一致していない。それ故に私案を提出する意味は十分にあると思う。

 このように、王に対して私はあなたの臣下ではない自由な存在だと述べ、さらに無名の樸は足るを知るためにあるのであって、そうなれば静謐さが戻るというのは「あなたは天下の静謐にとっての障害である」というに等しい。そして、これと前項の第三九章の最終句、つまり、王に対する「名誉ばかり求めていると、名誉は消えるぞ。そもそも美しい琭玉などというものは欲してもしょうがない。本をいえば、それは落ちていた石にすぎない」という警告は一体のものである。実際上、これは、状況によっては王権への公然とした異議申し立てが必要であるという姿勢を示すものであったというほかない。

 そもそも老子の活動期をBC三〇〇年頃と仮定すると、秦の始皇帝が即位したのは、その約五〇年後、同じ年に漢帝国の創始者、高祖・劉邦が江蘇省の庶民の家に生まれている。歴史の流れは急であって、始皇帝はBC二二一年に最後に残った斉を滅ぼして秦帝国の皇帝位につくも、一一年後には死去してしまう。その翌年、BC二〇九年、中国史上、最初の民衆反乱といわれる陳勝・呉広の反乱が発生して秦帝国はもろくも崩壊に向かった。注目すべきなのは、陳勝は若いときから日雇い人として他人の土地を耕していたという出身であったことである。そして彼は、兵役の途上、反乱を起こし「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王も将軍も生まれによって決まっている訳ではない)と呼号した。そして、この過程で成り上がって漢帝国を建設した劉邦も庶民出身の遊侠人であったのである。劉邦の軍事勢力の中心にいたのは劉邦と同郷の庶民たちであって、劉邦の死後に相次いで丞相となった蕭何(しようか)も曾参(そうさん)も胥吏(しより)という民衆から徴用された下級官吏であり(蕭何(しようか)は県の主吏掾、曾参(そうさん)は郷の獄吏)、将軍として名を売った樊噲(はんかい)は犬殺しの身分であった。

 考えてみれば、こういう庶民出身の人々が反乱の中で巨大な帝国の国家中枢を占拠するというのは、世界史的にも希有な事態である。これは、もちろん戦国時代から秦漢帝国の時代にかけての政治史の激動と戦争の中で起きたことではあるが、しかし、他面で、民衆の中に反権威主義的な思想が相当に深く蓄積されていたことを想定せざるをえない。そしてそのような思想の材料を提供したのは『老子』以外には考えられないのではないだろうか。本章や第三九章が人々の抵抗や反乱の論理を提供した可能性は高いのではないだろうか。

 ともあれ、漢帝国の初期において『老子』の思想が帝国中枢でもてはやされていたのは歴史的事実である。象徴的なのは、『史記』が右の庶民丞相の曾参(そうさん)の政治は老子の教えによっていたとするなかで「治道は清静なれば民自ずから定まる」という言葉を引いていることである。これはまさに『老子』本章の言葉である。また曽参と同じく建国の功臣で丞相をつとめた陳平が「老子の術を好む」といわれ、武帝に九卿の一人であった問う鄧公が「老子の言を修む」といわれているなど、その例は枚挙に暇がない(参照【池田注釈】四五九頁)。また本書でも何度か参照してきた『淮南子』は、前漢の武帝の頃に淮南王の劉安(前一七九~一二二)が学者を集めて編纂させたものであるが、そこには『老子』の思想が大きく取り入れられていた。これは『老子』が民衆反乱をふくむ政治的な行動の指針となりえたというだけでなく国家思想に深く入り込んでいたことを示している。秦の始皇帝の最初の宰相、呂不韋の編纂した『呂氏春秋』にも『老子』の影響がきわめて強いこと、『史記』の著者、司馬遷とその父の司馬談が『老子』の思想を血肉化していたことなどもよく知られている。これは『老子』が、中国にはじめて登場した本格的な思想と哲学の体系を代表していた以上、ある意味で当然のことであったろう。

 よく知られているように、中国には、周王朝の時代から、王権は「天帝の命」をうけて位につくというの国家思想があった。『孟子』には伝説的な聖帝、堯・舜・禹の間での「禅譲」という平和的な方式と、湯・武が行った「放伐」という暴力的な方式の二つが述べられているのはよく知られている。これに対して、老子には儒学が前提としていた「天帝」「天命」という観念はなく、その国家思想は、道理に反して不当な欲望にふける王を元の木阿弥にして退場させるというより単純なものであったが、そこには相当の哲学的あるいは社会科学的な論理があったのである。

 しかし、所詮、漢の帝国秩序の強化とともに、このような老子の思想は周縁に追いやられる運命にあった。そのような動向の中で、儒学は、はじめて漢帝国の国教となり国家思想の中枢の位置を占めることができたのである。私は孔子・孟子の儒学の思想的意味を軽視しようとは思わないが、しかし、それまでの儒学が哲学思想としては何といっても深さと体系性を欠いていたことは否定できないと思う。儒学は『老子』の思想と対決する中で始めて国家思想として自己を作りかえることに成功したのだと思う。その中で、天命をうけた王権が「徳政」をほどこすことによって持続し、そうでなければ「天命」が革まり、王家が交代し、その氏姓が易(か)わるという、いわゆる易姓革命の思想が中華帝国の思想として体系化されていったのである。

2017年8月10日 (木)

『老子』。天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

 危機に直面したとき、行動を決断して死をまねくか。自制を決断して活き抜く結果となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応(こた)え、求めないもののところに来て、泰然として善なるものに配慮するだけである。通理(つうり)の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。
天之道、不争而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疎而不漏*。
*底本「失」。日本では『後漢書』により漏を慣用する。

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利あり、或いは害なるも、天の悪とする所は、孰(たれ)かその故を知らん。天の道は、争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ、召(まね)かざるに自(おのずか)ら来り、坦然(たんぜん)として善なるに謀(はか)らう。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎にして漏らさず。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという結果を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。

 たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判官とする場合であって、その結果、「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」などと全体が訳されることになる(武内一九二七)。他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、裁判官、「殺」「活」の状態となる人間、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。

 しかし、そもそも、こういう思想は法家にこそふさわしい。老子は法家にはある意味で儒家に対するよりも批判的であって、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうとは考えられない。

 また上記では「争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは、「天が争う」という発想がおかしい。ここは私が読み下した通りに、「天道というものは争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応える」と訳したい。

 最大の問題、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈である。普通は、この「天網」の「網」の字を紀綱という意味と解釈する。つまり「天網」とは天の法であり、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないというのである。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(【福永注釈】)のことだということになる。そして、老子が法家と違うのは、老子が威圧的な刑法の運用に賛成せず、悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであると主張するところにあるというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 私は、このような解釈にすべて反対である。長谷川如是閑のいうことも「殺」「活」の部分だけは明瞭だが、ほかは曖昧である。むしろ、老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。問題の「天網恢恢、疏にして失わず」のところは「通理の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、決して、実意ある決断が忘失されることはない」と理解するのである。

 それが、そもそも「道」というものの理解、そして老子の世界観・宇宙観からでていることが重要なところである。つまり、私は、「天網」とは、前々項の一四章がいう透明な縄が集まった「微・希・夷」の目にみえない「道」の広がりのことをいうのではないかと思う。それは一四章では自然の「道」、自然法則のことであったが、この場合は、社会的な諸関係のすべてを貫いている通理であるということになる。この形のない、「無」の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。そういうように考えて、この「天網恢恢」を法家の思想から完全に切り離してしまいたい。

 もし、そう理解できれば、本章は、老子が、「道」というものを自然的な法則であると同時に社会的な法則、あるいは社会的な法則という言葉があまりに社会を固定的に捉えてしまう感じがするということならば、社会的な諸関係を貫ぬく通理としても考えていたことを示す重要な章ということになる。そもそも社会的な関連それ自体というものは目に見えないものであるから、それを透明な網のようなものだというのは「道」についての、もっともよい比喩であると思う。私たちが象にのって歩む自由の道について、見ることも聞くこともできず、味もしないといっているような、人間の「道」、社会の「道」についての表現も(三五章)、この章をベースにして理解できるのである。

 こういうように解釈をしていると、社会的電子情報システムというものは、『老子』のいう「天網」の実態をなすものであるように思う。「電網」である。
 ネットワークが意識をもつのではない。ネットワークは多様で個々人の身体にしか宿らない意識が直接に相互関連する場となっており、それを脈動させるのは多数の人間の意識そのものである。
 これは『老子』のいう「道」の天網そのものではないだろうか。『老子』の夢かもしれない。

2017年8月 8日 (火)

『老子』「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だ(第三八章)。


 『老子』の三八章。「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だという題をつけたが、東アジアの言葉の世界では、つねに顧みられるべき章であろうと思う。老子の怒りは、今にも通ずる実質をもっている。

 「道」から発した善(よ)い「徳」は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)があり、そうでない「徳」は徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がない。善(よ)い「徳」は無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが「仁」というものは為(な)したようでも実際には何も為(し)ていない。また「義」というものは言葉だけで、やることはやったんだと居直るための口実になっている。さらに善いという「礼」になると、働きかけて相手が打算通りに応じないと腕まくりをして詰めよっていく。要するに、「道」を失った世界に「徳」が残り、「徳」を失った世界に「仁」が生まれ、「仁」が消えると「義」がつっぱり、「義」もなくなると「礼」がしゃしゃり出るという訳だ。この最後の「礼」がもっとも問題であって、まっとうな「信」がなくなって、そこから乱離が始まっていき、一方的な打算にもとづいてあだ華のような道理を説く。これほど人間を愚劣にすることはない。これらをふまえて、鍛えられた大人は部厚く構えて軽薄には動かず、実際を大事にして見かけの華々しさは無視する。その取捨選択に筋を通すのだ。

上徳、不徳是以有徳。下徳、不失徳是以無徳。上徳、無為而無以為*。
上仁、為之而無以為。上義、為之而有以為。上礼、為之而莫之應、則攘臂而扔之。
故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後礼。
夫礼者、忠信之薄而乱之首。前識者、道之華而愚之始。
是以大丈夫、処其厚不居其薄、処其実不居其華。故去彼取此。
*底本は、ここに「下徳、為之而有以為」とある。帛書及び『韓非子』(解老篇)にはなく、それに従った。

上徳は、徳ならずして是(ここ)を以て徳あり。下徳は、徳を失わずして是を以て徳なし。上徳は、無為にし而(て)、以て為すこと無し。下徳は、之(これ)を為し而(て)、以て為すありとす。上仁は、之を為し而(て)、以て為すことなし。上義は之を為し而(て)、以て為すありとす。上礼は之を為し而(て)、之に応ずる莫(な)くんば、則(すなわ)ち臂(ひじ)を攘げ而(て)、之に扔(むか)う。故に道を失い而(て)、後に徳あり、徳を失い而(て)、後に仁あり、仁を失い而(て)、後に義あり、義を失い而(て)、後に礼あり。夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにし而(て)、乱の首(はじめ)なり。前識なる者は、道の華(はな)にし而(て)、愚の始めなり。是を以て大丈夫は、その厚きに処(お)りて、その薄きに居らず、其の実(じつ)に処りて其の華に居らず。故に彼れを去(す)てて此(これ)を取る。

解説 
 本章は郭店楚簡にはふくまれていないが、帛書では、『老子』は本章から始まっていた。帛書老子は「德」と「道」という二つの篇名をもって編纂されており、現行本と相違して「徳篇」が先にきているのである。それ故に帛書老子のトップは、この章になっているのである。
 その事情はよくわからないが、郭店楚簡は帛書以降のような五千字の『老子』が出来上がっていく途中の経過を示しているという意見をとると(【池田注釈】)、本章は一種の総論のようにして追加されたものかも知れない。目立つのは「仁・義・礼」という儒学の徳目に対する、『老子』には珍しいほどの激しい論難であって、ほとんど罵倒に近い。
 それだけに『老子』には珍しく分かりやすい話であるが、順にみていくと、「上徳」という言葉は、ほかに第四一章にも「上徳は谷の若し」とみえて、「道」にみちびかれた「徳」という意味である。この上徳は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)がある卓越した徳であり、無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが、「下徳」になると徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がなく、その中から「仁」というものが生まれ、これは形だけやったようでも何もやっていない。さらに「義」というものになると、やることはやったんだと言葉に逃げるだけになる。最悪なのは「礼」というもので、これは実際には相手に自分に都合のよい期待をかけて、相手がそれに応じないと威嚇するというもので、手前勝手な打算が上品そうな顔をしたものにすぎないという。
 こういうことでは世も末だというのが老子の慨嘆であって、「道」→「徳」→「仁」→「義」→「礼」と人間が形だけを気にするようになってきたのは許しがたいという訳である。これはもちろん、「仁・義・礼」を強調する儒学に対する批判である。しかし、このような怒りにも似た感情は単に儒学に対する批判であったとは考えられない。むしろ実際にはすべての徳目を形骸化してしまう社会の風潮に対する慨嘆から発しているのではないだろうか。つまり、これは戦国時代ににおける国家の文明化の中で蕩々と進行していた人間関係の形骸化が「仁・義・礼」などという美名によって隠されることへの批判であり、また国家の官僚機構のなかで強くなってくる形式的な倫理への批判であったというのが至当であろう。
 老子は「仁・義・礼」の徳目自体を否定しているのではないだろう。老子は、上記のような蕩々と進む人間関係と倫理の形骸化に対して孔子から始まった「士大夫」の知識人世界が十分な批判の論理をもたず、それに流されることへの警鐘を発したのだと考えたい。

2017年8月 7日 (月)

『老子』、大国も小国も自由な連邦(第六一章)

 連邦制ということを東アジアで考えるためには、一方ではアメリカ連邦(合衆国ではなく、こういうように国号を訳している)、他方で「中華帝国」のことを考える必要があるが、考える上でもむずかしいのはいうまでもなく、中華帝国である。これは世界史全体の基礎問題に直結してくる。おそらく、これを考える上でも原点は『老子』になる。

大国も小国も自由な連邦(第六一章)
 大国はいわば大河の下流であり、世の中の多くのものが交流する場であり、いわば「天下の牝」ともいうべき開かれた女の位置にある。女はつねに静かにしていて男に勝つが、それは平静さをたもって下手にでるからだ。だから、大国が小国にへりくだれば大国は小国の信頼を得るし、小国が大国にへりくだれば小国も大国の保障を得ることができる。これは、大国が小国を併せて人口を増やし、代わりに小国が大国の傘下に入る連邦の関係でなければならない。こうして両方がそれぞれの必要を得ることができるが、そのためには、まず大国がへり下らなければならない。

大国者下流、天下之交、天下之牝。牝恒以静勝牡、以其*静故**為下。
故大国以下小国、則取小国、小国以下大国、則取大国。故或下以取、或下而取。
大国不過欲兼畜人、小国不過欲入事人。
夫兩者各得其所欲、大者宜為下。
*底本「其」なし。**底本「故」なし。

大国は下流なり。天下の交なり、天下の牝なり。牝は恒に静を以て牡に勝つ。その静を以て故に下るを為せばなり。故に大国は以て小国に下らば則ち小国を取り、小国は以て大国に下らば則ち大国を取る。故に或いは下りて以て取り、或は下りて而も取る。大国は人を兼ね畜わんと欲するに過ぎず、小国は入りて人に事へんと欲するに過ぎず。それ兩者は各おのその欲する所を得ん。大なる者、宜しく下るを為すべし。

解説

 【木村注釈】は「大国は下流なり」というのは、有名な成語・諺であろうとする。もとより、この諺の源流は分からないが、相当に古いのではないだろうか。『論語』(子張篇二〇)に「君子は下流に居ることを悪む。天下の悪事みな焉れに帰す」(君子は下流にいるのを嫌う。そこには全ての悪が集まる)とあるのも、ちょうど真反対であるが参考になるように思う。

 続く「天下の交なり」というのは、大国が天下の交流の場であるということであり、「天下の牝なり」というのは、【長谷川注釈】もいうようにたくさんの雄が雌を求めて集まるように、大国にむかって小国があつまることであろう。そして大国が多数の小国の帰順をえるためには平静な姿勢で世界に開かれてへりくだっているのが必要だという。

 次に「大国は以て小国に下らば則ち小国を取り」とあるが、ここで「取り」という語を併合すると訳す注釈も多い。しかし、これは【福永注釈】が、『荀子』(王制篇)に「鄭国の子産は民を取りし者」とある「取る」と同じで信頼をえるということであるとするのが正しいだろう。「大国は以て小国に下らば則ち小国を取り」というのは、「大国が小国にへりくだれば大国は小国の信頼を得る」という意味になのである。ここでは大国と小国の関係は占領や従属・併合の関係ではなく、基本的には信頼の関係、同盟の関係とされていることに注意すべきだろう。

 続いて「大国は人を兼ね畜わんと欲するに過ぎず、小国は入りて人に事へんと欲するに過ぎず」というのは、「過ぎてはならない」という意味で取りたい。大国は関係する人口が増えることからくる利益、小国は大国の傘下で保障をえることの利益に関心を限るべきであって、それ以上の利益を相互に期待しては成らず、主権は放棄しないということである。

 このようにみてくると、大国・小国の関係を相対的に対等なものとして描いた【木村注釈】を例外として、これまでのほとんどの注釈が(【福永注釈】をふくめて)、本章は大国の立場から書かれたものだとしているのは問題が多いことがわかる。むしろ、本章は、大国と小国が基本的には対等な関係を結んで連合すること、つまり連邦制を論じているというべきであろう。本章でみてきたような老子の国家のあり方や戦争と平和についての主張は、すべてこの大小を問わず諸国家は対等であり、必要な場合は連邦を組むという考え方に支えられたものであった可能性があるのである。

 以上が認められるとすれば、老子の時代に、このような連邦国家の考え方があったことが興味深い問題となる。春秋時代の中国には約二〇〇以上の都市国家が全土に分布していたが、戦国時代には、それらは秦・蜀・楚・韓・魏・宋・魯・趙・斉などのより領域的な国家に整理されていった。そこで諸国の間で秦や斉を大国としていわゆる合従連衡(同盟関係の組み直し)が行われたにはよく知られた事実である。その背景には、『老子』本章に残されたような連邦国家という考え方が、おそらく春秋時代より連続して中国社会に流れ続けていたのではないだろうか。秦漢帝国の形成はそれを一挙に夢物語のようにしたとしても、その底流は続いたものとみたい。

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