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2017年8月10日 (木)

『老子』。天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

 危機に直面したとき、行動を決断して死をまねくか。自制を決断して活き抜く結果となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応(こた)え、求めないもののところに来て、泰然として善なるものに配慮するだけである。通理(つうり)の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。
天之道、不争而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疎而不漏*。
*底本「失」。日本では『後漢書』により漏を慣用する。

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利あり、或いは害なるも、天の悪とする所は、孰(たれ)かその故を知らん。天の道は、争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ、召(まね)かざるに自(おのずか)ら来り、坦然(たんぜん)として善なるに謀(はか)らう。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎にして漏らさず。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという結果を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。

 たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判官とする場合であって、その結果、「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」などと全体が訳されることになる(武内一九二七)。他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、裁判官、「殺」「活」の状態となる人間、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。

 しかし、そもそも、こういう思想は法家にこそふさわしい。老子は法家にはある意味で儒家に対するよりも批判的であって、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうとは考えられない。

 また上記では「争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは、「天が争う」という発想がおかしい。ここは私が読み下した通りに、「天道というものは争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応える」と訳したい。

 最大の問題、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈である。普通は、この「天網」の「網」の字を紀綱という意味と解釈する。つまり「天網」とは天の法であり、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないというのである。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(【福永注釈】)のことだということになる。そして、老子が法家と違うのは、老子が威圧的な刑法の運用に賛成せず、悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであると主張するところにあるというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 私は、このような解釈にすべて反対である。長谷川如是閑のいうことも「殺」「活」の部分だけは明瞭だが、ほかは曖昧である。むしろ、老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。問題の「天網恢恢、疏にして失わず」のところは「通理の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、決して、実意ある決断が忘失されることはない」と理解するのである。

 それが、そもそも「道」というものの理解、そして老子の世界観・宇宙観からでていることが重要なところである。つまり、私は、「天網」とは、前々項の一四章がいう透明な縄が集まった「微・希・夷」の目にみえない「道」の広がりのことをいうのではないかと思う。それは一四章では自然の「道」、自然法則のことであったが、この場合は、社会的な諸関係のすべてを貫いている通理であるということになる。この形のない、「無」の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。そういうように考えて、この「天網恢恢」を法家の思想から完全に切り離してしまいたい。

 もし、そう理解できれば、本章は、老子が、「道」というものを自然的な法則であると同時に社会的な法則、あるいは社会的な法則という言葉があまりに社会を固定的に捉えてしまう感じがするということならば、社会的な諸関係を貫ぬく通理としても考えていたことを示す重要な章ということになる。そもそも社会的な関連それ自体というものは目に見えないものであるから、それを透明な網のようなものだというのは「道」についての、もっともよい比喩であると思う。私たちが象にのって歩む自由の道について、見ることも聞くこともできず、味もしないといっているような、人間の「道」、社会の「道」についての表現も(三五章)、この章をベースにして理解できるのである。

 こういうように解釈をしていると、社会的電子情報システムというものは、『老子』のいう「天網」の実態をなすものであるように思う。「電網」である。
 ネットワークが意識をもつのではない。ネットワークは多様で個々人の身体にしか宿らない意識が直接に相互関連する場となっており、それを脈動させるのは多数の人間の意識そのものである。
 これは『老子』のいう「道」の天網そのものではないだろうか。『老子』の夢かもしれない。

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