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2017年8月22日 (火)

『老子』77章。天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず

天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず
 アーシュラ・K・ル・グィンを読んでいたら、ルグィンの基本にあるアナキズムは老子に由来するのだと自分で書いていた。本章は、福永光司氏も無政府主義という。
 老子が無政府主義かどうかは別にして、本章は、そういう老子の政治政治思想を考える上では決定的な位置にあるもの。馬王堆からでた帛書によって「天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず」と読み下すのが私見。これまでの読みとは違う新説だが、ほぼ自己納得ができたので、掲げます。

 天地自然の法則は弓を張るように動く。つまり弓を張るには、力が余って高くなってい部分を押し、両端(はし)の下がっているところが挙がってくるようにする。多いところは減らし足らないところは補う。これと同様に人間社会における天下の公共の道は有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが、現在の社会の理屈は不足の者から削って余り有る者に奉らせる。有り余って有るものを取り上げて天のもの、公共のものとして使うように、誰かが動かねばならない。これは道にある者がするほかないことだ。こうして大人は行動にでるが、手柄顔をせず、功をあげてもその地位に居座らない。おのれの賢(えら)さを示そうとはしないのだ。

天之道、其猶張弓也(1)。高者抑之、下者挙之、有餘者損之、不足者補之。
天之道、損有餘而補不足。人之道則不然。損不足以奉有餘。
孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎(2)。
是以聖人為而不恃、功成而不処。其不欲見賢。
(1)底本「興」。帛書により改む。(2)この行、帛書による。

天の道は、それ猶お弓を張るがごときなり。高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然らず。足らざるを損して以て有り余るに奉ず。孰(だ)れか能く有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ずるものぞ。唯有道者のみなるか。是を以て聖人は為(な)して恃まず、功(こう)を成して処らず。其れ賢(けん)を見(あら)わすを欲せず。

解説
 天の道理は弓を張るように動くという場合の、弓はどうはるかについては、四〇章の解説ですでにふれた。「繁弱の弓」などの戦国時代で名高い豪弓は弦を張らない時には強く反り返って逆向きに湾曲した状態になっているので、弦を張るときには弣(ゆづか)(真ん中の部分)を上から押しつけ、両端の弭(低い部分)が自然に持ち上がったところに弦を掛けるという。これは四〇章に述べられた老子の宇宙論の文脈では、「天の道」は上から押さえつけられた弓が下から反発するという「上下=天地」の緊張の中にあるという意味であることは解説した通りである。本章ではそれが「高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う」とも説明されている。

 それが二行目でも「天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う」と繰り返されるのだが、この二番目の「天の道」は天地自然の法則ということではなく、人間社会におけるあるべき公理という意味である。いわば天下公共の道である。通理という自然が人間社会にも通ずる道理であるとされることで、。これと同様に人間社会におけるは有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが「人の道」、人の作為が重なってできてきたやり方は、そうではない。それは足らないところを減らして、有り余ったところに奉ずるというまったく逆転したやり方であるということになる。

 こういう状況は「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」、つまり、有り余って有るものを取り上げて、天のもの、公共のものとする行動を要求しているというのが老子の判定である。

 管見の限りで、こういう解釈は本書が初めてであるが、その事情は、この部分のテキストが帛書では「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることが分かり、それによって本来のテキストが確定して上記のような読み下しが可能となったためである。これまでは「孰(だ)れか能く有り余りて以て、天下に奉ずるや。唯(た)だ道ある者のみ」などという従来からのテキストによって解釈されており、それにもとづいて「どんな人が、あり余っているものによって世の中に奉仕するだろうか。ただ道を身につけた者だけがそうするのだ」(【蜂屋注釈】)と解釈されてきた。これだと、道を身につけた者で余剰をもっているものは世の中にそれを拠出するという意味になる。これによって一種の慈善や社会事業への協力と理解されてきた訳である。

 しかし、問題は、帛書のテキストが「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることがわかっても、発見(一九七三年)の後、現在まで四五年近く、これがほぼ同じ意味で解釈されてきたことである。それは帛書のテキストが「孰(だ)れか能く余り有りて以て天に奉ずるを取ることある者ぞ。唯(た)だ道ある者のみならんか」(【池田注釈】)などと読み下されてきたためで、これによって従来と同じ余剰の拠出という解釈が維持されてきたのである。私は、これは「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」と読むべきだと考える。こうして、老子は、「有り余るもの」から余剰を取って天下公共に振り向けるという再分配の思想をもっていたということになるのである。これで読みは明瞭になるであろう。

 本書では、従来の注釈書の解釈に踏み込んで私見との相違を解説するという作業は基本的に省略してあるが、この問題は重大なので、以上、やや詳しくふれた。

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