『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)
よく知られているように、毛沢東は自己を秦の始皇帝に比較した。その馬鹿さ加減は、彼が中国史に対して見識と教養をもたず、学術的精神がなく、結局、野心とレトリックとと独裁の政治家であったことの証明である。一種の王朝を作るというのは、どのような時代にも人間に宿る妄想であって、毛沢東は現代的覇王となろうとしたのである。このような怪物を日本の中国侵略が作り出したのである。戦争が作り出したのである。
トランプをみても安倍氏の友達主義、近親者主義、「自分は例外、自分は偉い」という自己意識をみても、政治権力の「王朝化の妄想」というのは、つねに発生する。北朝鮮をみても、「王朝」というのはけっして過去の問題ではないのだと思う。、
中国にもどれば、そして共産党を称する中国の支配政党は、実際にはスターリニズムと毛沢東王朝主義を基本的に精算していないといわざるを得ないが、彼らは、自己を法家であるとか、儒家の伝統をうけるだとか、ときどき馬鹿なことをいいだす。しかし、彼らは決して、中国の伝統的な反権威主義と「共同主義」・ユトーピアの思想を代表する『老子』に自己を近づけようとはしない。
先日の日文研の研究会で教わったハーバート随一の人気講義であるというのマイケル・ピュエットの中国哲学講義『ハーバートの人生が変わる東洋哲学』を読んだ。たいへん面白い。この講義は、アメリカ社会論や世界の現状についての見方も比較的妥当なものだ。アメリカと中国を考えて生きて行かざるをえない日本ということを考えると、私たちがどこまで戻り、どこら辺から考えたらよいかを示唆してくれる。
『老子』論も面白かった。老子の言う「道」は諸物の関連そのものであるという。老子がいわゆる弁証法(世界の関連性が全面的であり、その関連は目に見えないが実在する)論者であることを正しく指摘している。「道」は関連だという。さらに『老子』を隠遁的な思想家というのは間違いで、むしろ状況や世界を変える方法を説いたという。これも正しいと思う。
私jは、社会理論にとって倫理学、非倫理的な存在たる人間をどうするかということは根本的に重要と考えてきた。弱い人間という自己意識がつきまとい現実に弱い人間である私のような存在、社会・歴史理論に現実には耐ええないような存在にとっての根本問題と考えてきた。教条のようでないそれをどう考えるのか。これを考える上で、中国の歴史と思想を検討することが大きな意味をもつということを始めて知った。そういう意味でも、マイケル・ピュエットの議論は参考になる。
しかし、問題は、老子には一種の社会科学があるということで、これをマイケル・ピュエットは考慮していない。
以下に注釈した『老子』三七章は、『老子』の社会論をもっともよく示すものの一つであろうと思う。
王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)
世界を貫通している恒遠なる「道」は人が名前をつけて管理できるようなものではない。もし諸国の王がこの道理を守って勝手なことをしなければ、万物は自(おの)ずから豊かになるだろう。しかし豊かさの中で王が不当な欲をむさぼることがある。その時は、私はそれを鎮めて止めさせるために、無名の樸(あらき)(生の樹皮がついた木)を示す。自然そのものの樸をみればまさに足るを知ることができる。そして足るを知って静謐さが戻れば、天下はまた自ずから定まっていく。
道恒無名*。侯王若能守、万物將自為(下に心)**。為(下に心)**而欲作、吾將鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦將知足***。知足***以静、天下將自定。
*底本「為」、帛書により改む。**底本「化」。帛書により改む。為(下に心)は為に同じ。***底本「無欲」。楚簡によった。
道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自(おの)ずから為(な)らんとす。為(な)して欲作(おこ)らば、吾れ将(まさ)に之(これ)を鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす。無名の樸、夫れ亦(ま)た将(まさ)に足るを知らん。足るを知りて以て静かならば、天下は将(まさ)に自ずから定まらんとす。
解説
この章は『老子』が王権との実際上の関わりをどうするかについて、その考え方を明瞭に述べた章である。老子は王権というものを本質的に疑っていたが、王権が「道」の通理を認めることは望ましいと考えていた(参照、第三二章)。しかし、その上で、王権が不当な欲をむさぼった場合は、それを鎮めなければならない。そのために「吾」は王に無名の樸(生の樹皮がついた木)を示すだろう、というのが老子のいうことである。『老子』で「吾」というのは老子自身のことをいうのは明らかで、ここはそう解釈するほかないところである。
問題は王に「無名の樸」を示すとは、どういうことかであるが、確実なのは、本章の直前、第三二章に、樸(あらき)は誰の臣下でもない自由な存在だと述べられていることである。しかも、本章の冒頭の「道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自のずから」の部分も第三二章とまったく同文であって、これは本章と第三二章が「侯王」の問題、王権論をテーマとしていることを示している。これから考えると、本章で「吾」が樸(あらき)を示すというのは、すべての「名」と「形」を捨ててしまう。つまり王の臣下の地位を降りるという意思表明であろうと思う。老子の口調からすると退任の意思は明瞭ということであろう。
このような解釈は、これまで存在しないが、「①侯王、もし能(よ)くこれを守らば、②万物は将(まさ)に自のずから為(な)らんとす。③為して④欲作(おこ)らば、吾れ将に⑤これを鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす」という場合、本章のテーマが王権論にあるとすれば、上記の訳文に示したように、(1)の主語は「侯王」であり、②の主語は「万物」であり、③の主語も万物、そして④の主語は「侯王」であり、それ故に、⑤の「之(これ)」は「侯王の欲」と考えるほかないと思う。実際上、これまでの解釈は①~⑤が何を主語として何を意味しているかでまったく一致していない。それ故に私案を提出する意味は十分にあると思う。
このように、王に対して私はあなたの臣下ではない自由な存在だと述べ、さらに無名の樸は足るを知るためにあるのであって、そうなれば静謐さが戻るというのは「あなたは天下の静謐にとっての障害である」というに等しい。そして、これと前項の第三九章の最終句、つまり、王に対する「名誉ばかり求めていると、名誉は消えるぞ。そもそも美しい琭玉などというものは欲してもしょうがない。本をいえば、それは落ちていた石にすぎない」という警告は一体のものである。実際上、これは、状況によっては王権への公然とした異議申し立てが必要であるという姿勢を示すものであったというほかない。
そもそも老子の活動期をBC三〇〇年頃と仮定すると、秦の始皇帝が即位したのは、その約五〇年後、同じ年に漢帝国の創始者、高祖・劉邦が江蘇省の庶民の家に生まれている。歴史の流れは急であって、始皇帝はBC二二一年に最後に残った斉を滅ぼして秦帝国の皇帝位につくも、一一年後には死去してしまう。その翌年、BC二〇九年、中国史上、最初の民衆反乱といわれる陳勝・呉広の反乱が発生して秦帝国はもろくも崩壊に向かった。注目すべきなのは、陳勝は若いときから日雇い人として他人の土地を耕していたという出身であったことである。そして彼は、兵役の途上、反乱を起こし「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王も将軍も生まれによって決まっている訳ではない)と呼号した。そして、この過程で成り上がって漢帝国を建設した劉邦も庶民出身の遊侠人であったのである。劉邦の軍事勢力の中心にいたのは劉邦と同郷の庶民たちであって、劉邦の死後に相次いで丞相となった蕭何(しようか)も曾参(そうさん)も胥吏(しより)という民衆から徴用された下級官吏であり(蕭何(しようか)は県の主吏掾、曾参(そうさん)は郷の獄吏)、将軍として名を売った樊噲(はんかい)は犬殺しの身分であった。
考えてみれば、こういう庶民出身の人々が反乱の中で巨大な帝国の国家中枢を占拠するというのは、世界史的にも希有な事態である。これは、もちろん戦国時代から秦漢帝国の時代にかけての政治史の激動と戦争の中で起きたことではあるが、しかし、他面で、民衆の中に反権威主義的な思想が相当に深く蓄積されていたことを想定せざるをえない。そしてそのような思想の材料を提供したのは『老子』以外には考えられないのではないだろうか。本章や第三九章が人々の抵抗や反乱の論理を提供した可能性は高いのではないだろうか。
ともあれ、漢帝国の初期において『老子』の思想が帝国中枢でもてはやされていたのは歴史的事実である。象徴的なのは、『史記』が右の庶民丞相の曾参(そうさん)の政治は老子の教えによっていたとするなかで「治道は清静なれば民自ずから定まる」という言葉を引いていることである。これはまさに『老子』本章の言葉である。また曽参と同じく建国の功臣で丞相をつとめた陳平が「老子の術を好む」といわれ、武帝に九卿の一人であった問う鄧公が「老子の言を修む」といわれているなど、その例は枚挙に暇がない(参照【池田注釈】四五九頁)。また本書でも何度か参照してきた『淮南子』は、前漢の武帝の頃に淮南王の劉安(前一七九~一二二)が学者を集めて編纂させたものであるが、そこには『老子』の思想が大きく取り入れられていた。これは『老子』が民衆反乱をふくむ政治的な行動の指針となりえたというだけでなく国家思想に深く入り込んでいたことを示している。秦の始皇帝の最初の宰相、呂不韋の編纂した『呂氏春秋』にも『老子』の影響がきわめて強いこと、『史記』の著者、司馬遷とその父の司馬談が『老子』の思想を血肉化していたことなどもよく知られている。これは『老子』が、中国にはじめて登場した本格的な思想と哲学の体系を代表していた以上、ある意味で当然のことであったろう。
よく知られているように、中国には、周王朝の時代から、王権は「天帝の命」をうけて位につくというの国家思想があった。『孟子』には伝説的な聖帝、堯・舜・禹の間での「禅譲」という平和的な方式と、湯・武が行った「放伐」という暴力的な方式の二つが述べられているのはよく知られている。これに対して、老子には儒学が前提としていた「天帝」「天命」という観念はなく、その国家思想は、道理に反して不当な欲望にふける王を元の木阿弥にして退場させるというより単純なものであったが、そこには相当の哲学的あるいは社会科学的な論理があったのである。
しかし、所詮、漢の帝国秩序の強化とともに、このような老子の思想は周縁に追いやられる運命にあった。そのような動向の中で、儒学は、はじめて漢帝国の国教となり国家思想の中枢の位置を占めることができたのである。私は孔子・孟子の儒学の思想的意味を軽視しようとは思わないが、しかし、それまでの儒学が哲学思想としては何といっても深さと体系性を欠いていたことは否定できないと思う。儒学は『老子』の思想と対決する中で始めて国家思想として自己を作りかえることに成功したのだと思う。その中で、天命をうけた王権が「徳政」をほどこすことによって持続し、そうでなければ「天命」が革まり、王家が交代し、その氏姓が易(か)わるという、いわゆる易姓革命の思想が中華帝国の思想として体系化されていったのである。
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