吉野の妹山紀行(妹背山女庭訓の妹山)
九月三〇日。吉野の妹山をみてきた。妹背山女庭訓の妹山である。吉野川が中央構造線を離れて南に流路を変える曲がり鼻の北側にたつ標高二九九メートルほどの小山だが(吉野川川面からは九九メートルと聞いたが)、諸研究がいうようにさすがに目立つ。南側に背山があって、二つの山で本来の吉野、吉野渓谷の入り口のランドマークとなっていたことがよく分かる。ここから川の端の平地が一挙になくなる。立野口という地名は、禁制の野の入り口という意味であろうか。
しかし、まずバスで吉野歴史資料館に行き折良く御教示をうける(ありがとうございました)。発掘では、斉明・持統の吉野宮に続き、その川よりに聖武の吉野宮が確認されている。その故地はいま草原。草原から吉野川に降りるとさすがに見事な川の風景である。象山(きさやま)とは一種の象頭山であることを了解。
上流の岩神神社を見聞。巨大な磐座の下に神社がある。神武記の国押排(国栖の祖神)がでてきた岩という説明があるが、吉野神話の構成者が、この岩に基づいて書いたというのはありうることなのであろうと思う。さらに上流の浄見原神社には行けず。磐座の中に組み込まれているような神社であるという。また丹生神社にもいけず。
吉野は斉明ー天智・天武の母子王朝における聖地である。吉野川の石・石床が道教的風景とされたのであろうと思う。もう一つは鉱物。まずは丹生川上神社という名に現れる水銀だろうか。飛鳥にもっとも近い水銀産地である。主産地の宇陀野とは伊勢街道で吉野はつながっている。また『万葉集』の巻13雑歌に「み吉野の御金の嶽」とでるのは後の吉野の金信仰の最初の形であろうか。
これは道教的な聖地であろうと思う。道観を立てたという斉明の道教趣味が日本の神道のある意味での原点であろうと思う。そういう道教趣味の中でできた聖地であるというのがもっともわかりやすい。子どものうちの、弟の天武が母親の道教趣味をよく継いだ。
問題は吉野が天武系の聖地から金峯山を中心とする修験の中心になっていく過程である。これについては「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』18号)で若干書いてある。
吉野は遠いというのがよく言われることだが、飛鳥からは近く、長谷寺からは南に下って、談山神社、多武峯のルートを下れば、妹山にでる。そんなに遠くないというのが感想。宇陀・吉野は神武神話の舞台であることも実感。
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