BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« 白頭山の噴火と広開土王碑文) | トップページ | 日本史の時代名と時代区分(再論) »

2017年10月22日 (日)

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

 政治状況が激動期に入ったようだ。一九七〇年頃以来のことである。野党共闘の動きは学術的にも思想的にもきわめて興味深い事態であることは疑いをいれない。

 これは日本社会の中にある対抗関係が大きく変化したということではないかと思う。一種の二極化である。そこでは従来の「保守・進歩」という対立の図式を考え直さねばならないだろう。歴史家から賛成するという言葉を聞いたことはないが、私の年来の主張は、日本には本当の意味での保守勢力はないが、現在、歴史家は職業者としてはまずは保守でなければならないということだった(「中世の開化主義と開発」一九九〇年発表、『歴史学をみつめ直す』校倉書房所収)。さらにまた現在の政治状況の中では「左翼・右翼」という言葉を使うことも止めた方がよいのではないかと述べてきた。右翼思想には既成の知性に対する「分かったようなことをいうな」という感情的な拒否の側面があって、「極右」の暴力に走らない限り、それも当然に思想の自由の範疇に入る価値をもっていると思うのである(ブログ「保立道久の研究雑記」。2014年11月15日2014/12/14、ブロゴス 2016年08月12日)。

 しかし、歴史家の立場から問題を厳密に考えようとすると、この列島に住む人々にとって、最大の問題が何なのか、「保守」といい、「進歩」といい、「左翼」といい、「右翼」といっても、それらが向き合うべき日本社会の問題は何なのかを正確にみきわめなければ、結局、気分に流れて行ってしまうということになると思う。それらは、所詮、符丁であり、言葉である。

 そういう立場から、私は、しばしば新自由主義といわれることの実際の内容がどういうことなのかを考えてきた。ともかく「新自由主義」というのは言葉がわるい。「新しい自由」、それは普通からみればいいことじゃないかということになる。これは符丁としても決していい符丁ではない。そして、それを詰めていくと、結局、それは人種主義(レーシズム)であり、戦争好きなのではないかと考えるようになった。新自由主義というのは、もちろん、経済思想としてはミルトン・フリードマンのマネタリズムが基礎になっているが、政治思想としてはようするに「ミリタリズム」と「レーシズム」であると思うようになった。もちろん、問題は、なぜマネタリズムが「ミリタリズム」と「レーシズム」に結びつくかということであるが、そこまで十分に書けるかどうかは別にして、以下、若干、長文となるが、まず人種主義(レーシズム)について説明しておきたい。

 さて、現在、日本・アメリカ・ヨーロッパで人種主義の動きが急である。これはきわめて心配なことであるが、私は、歴史的にいうとその基礎にあるのは、やはりヨーロッパだと思う。その根はきわめて深く、十字軍の時期以来のヨーロッパによるイスラム文明に対する挑戦、「追いつけ追い越せ、奪い取れ」という対抗文化にからめとられているのではないか。その文化的気分がベースとなって、政治家による中東移民が社会の困難を作り出しているという宣伝が被害感情を生みだし、ヨーロッパに広範な「イスラム差別」が生み出されているようにみえる。

 問題は、これがきわめて曖昧で不定形の歴史意識としかいえないようなものであることである。それはいわばヨーロッパに居住する人々個々人がもつ微細な歴史意識の誤差が社会意識の歪みとして集合的に現れたものといえようか。私はそこで動いているのは現在の世界史がヨーロッパ地域に生み出した「気分」というべきものなのではないかと思う。つまり、現在の中東における戦争状態は、第二次世界大戦中からのアメリカの帝国的な中東支配が作り出したものである。アメリカこそが、中東の戦争と苦難を生み出し、大量の人間の死と故郷喪失を生み出したことは誰が見ても明らかなことである。その中でヨーロッパの人々は次のように考える。つまり、「悪いのはアメリカだ。それなのに、何故、ヨーロッパが中東の困難に関わらねばならないのか。たしかにヨーロッパは第二次大戦で大きな困難を経験し、ヒトラー・ナチスは最悪のことをした。しかし、アーリア人種主義は克服され、民主主義社会が実現された。ヨーロッパは二〇世紀のナチズムを乗り越え、償ってきた。今になって、なぜ、問題の直接の関係者にならねばならないのか。理不尽であり、理解できない。静かにさせてくれ」という意識である。

 彼らの視野には、ヨーロッパがアメリカの世界支配を利用しつつ共同で世界から利益をうけていた共犯性は入ってこない。また中東の困難の直接の歴史的由来が19世紀におけるヨーロッパの中東支配と、その最後の無責任ともいうべきイスラエル建国を推進・容認したバルフォア宣言にあることも視野には入らない。さらには16世紀以降の世界資本主義の形成がまずはアフリカと環インド洋地域からの収奪によって支えられていたという歴史認識もない。こうして彼らの意識は一挙に、ヨーロッパとイスラム世界との文化的対抗と衝突という十字軍によって象徴されるイメージにすっ飛んでしまうのである。それはその意味で世界史が生み出した「歴史気分」のようなものであり、こうして、その中核には中東の諸民族を差別する「人種イデオロギー」を中核にもつものとなるのである。

 その意味で、この「人種イデオロギー」は世界史的に新たに登場した独特なイデオロギーのあり方、社会意識のスタイルなのであって、そのようなものが現在の世界史の重要な構成要素となっているのである。このような独特な歴史意識、より正確にいえは世界史意識は、もちろん、ヨーロッパが一人で産みだしたものではない。それは一九八〇年代のサッチャー・レーガン時代を基点としてヨーロッパ・アメリカの国家意識の交流、そしてそのつぎには社会意識の奔流のような交流のなかで生み出されたものであるといってよいと思う。その社会経済的根源には、この時期以降、明瞭に動き出したナオミ・クラインのいうショック・ドクトリンを具備するにいたった資本主義、そして情報資本主義の急速な発展があることもいうまでもない。その中で、九・一一事件が発生し、それに対して、世界史的愚劣ともいうべきジョージ・ブッシュの「十字軍」宣言が行われ、イラク戦争が中東地域の社会政治状況を決定的に不安定化させ泥沼化させた。

 そして、現在は、ブッシュ以上の「お馬鹿」がアメリカ大統領となって赤裸々なレーシズム、白人至上主義を鼓吹しているというのが歴史の流れである。これがきわめて醜悪なのは、この人種差別がヨーロッパとは違って直近の人種差別の体制、20世紀の人種差別の由来を引いていることである。16世紀以来のネーティヴ・アメリカンの諸民族に対する「人種差別」と、一八世紀以来のアフリカン・アメリカン差別、さらには19世紀以来のユダヤ民族や東欧・ラテンアメリカからの移民に対する差別の根を深く引いていることである。現在、それが一挙に中東の人々に対する「宗教的・人種的差別」、「イスラム」差別に拡大している。アメリカは多民族構成国家でありながら、その支配イデオロギーは人種差別にあり、アメリカの多民族構成資本主義においては民族を「人種」の名の下に身分差別し、賃金を抑え、人々を分断することは根がらみのやり方であった。それは、ネーティヴ・アメリカンの人々、強制連行されたアフリカン・アメリカンの人々のみでなく、後からくる移民に対する差別をもふくんでいた。もちろん、そういう中で、一九六〇年代から七〇年代にかけてのマーチン・ルーサー・キング牧師などの動きをふくむ社会運動の中で20世紀の人種主義の根は一度断たれたかのような雰囲気をみせた。ヨーロッパと同じように、アメリカは人種主義を超克したという訳である。しかし、実はその岩盤はきわめて強固であって、後退したかのようにみえた正真正銘の人種主義が、レーガン以降、急速に肥大化した。そして、現在のトランプ政権下のアメリカにおける人種差別の実態は、その醜悪なる結果であることはいうまでもない。

 そのような直近の歴史を連続的に引いている点では、日本も同じである。つまり、「大東亜戦争」を主導した「八紘一宇」「皇国史観」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーはナチスと同じく、「神話」によって嘉せられた日本の「現人神」たる天皇制とそれに連なる血統・人種こそが世界支配者となる使命をもつのだという明瞭な人種主義イデオロギーであった。しかも、それは、アジアでは日本のみがヨーロッパと対抗できる使命をもっており、それ故に、日本はアジアから離れて、それを支配する地位に到達しなければならないという明治時代以来の「脱亜論」をともなっていた。というよりも、この「脱亜論」によって、日本国家のアジア侵略は合理化され、それによって天皇制的人種イデオロギーが形成されたといった方が事態を正確に反映しているといえるだろう。それはまさに世界支配の思想だったのであって、それによってこそ、ナチスと日本の軍事同盟は、両者が人種主義イデオロギーにもとづいて世界分割をするという了解に達したのである。

 もちろん、日本国憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べ、「戦争」の中で強制した「隷従、圧迫と偏狭」、ようするに人種主義を法的には廃絶する精神を含んでいる。それは、第二次世界大戦において、その中枢にいた昭和天皇自身がいわゆる「天皇の人間宣言」において、神権的な人種主義イデオロギーを基本的なところで離脱したこととセットになっていたのである。日本の王家が、ここ三〇年ほどの実際において、日本国憲法の精神にそって行動してきたこともよく知られている。

 しかし、自民党や経団連の一部などの国家中枢部には、第二次世界大戦で頂点に達した人種差別イデオロギーは根深く生き残っている。彼らは、中国・韓国から東南アジアに対する神権的な人種主義イデオロギーの強制と、それにもとづく植民地支配、戦争侵略の歴史事実を認めず、その事実を隠蔽することにいまだに固執している。彼らは第二次世界大戦において日本は敗北し、その戦争犯罪を認め、その証として日本国憲法が成立し、天皇が国政に対する権限をもたない「象徴」の地位になったことを承認しようとしない。彼らは、戦後世界秩序の公理そのものを承認しようとしないのである。

 これは事柄の性格からして人種主義イデオロギーの維持という本質をもっていることは明らかなことである。しかし、きわめて奇妙なのは、この国家の歴史意識がヨーロッパよりもさらに曖昧であって、そもそも、国家中枢に人種主義、レーシズムが存在するということがほとんど意識されていないことであろう。国民の多数は、我々は第二次世界大戦で敗戦したとはいえ、その経験を克服し、人種主義などという大層な思想とは無縁であると考えている。そもそも、大日本帝国のイデオロギーがナチスとならぶ人種主義であったという世界史についての常識も存在していないし、さらに正確に言えば、大日本帝国のイデオロギーというものがどういうものであったかはほとんどの人が知らないというのが実際である。第二次大戦前までの日本国民のほとんどが信じていて皇国史観の中枢をなした神々の物語り自体をほとんどの人々は知らない。アマテラスという名前だけは知っているが、その物語はほとんど知らず、誰でもが知っていた、アマテラスがこの国土の支配権を天皇家にあたえた天壌無窮の神勅のこともまったく知らないという脱色された世界である。国家中枢部にいて「大東亜戦争」の正統性を信じている人々さえも、実は詳しいことは知らないという奇怪さである。

 そうである以上、背後に「日本会議」があって主導したといわれる、現政権、安倍政権の国家イデオロギーもきわめて曖昧である。その中軸には大日本帝国の天皇制イデオロギーと神話史観があるはずであったが、現在の天皇家自身が現憲法秩序の一部に安定的に入っており、そういうものからは断絶している。それ故にそこにあるのは建前だけの国家史観、内容のない枠組みにすぎない。しかし、それでも、それは人種主義的なイデオロギーと雰囲気をしみ出させる。私にとって、それをあまりに反国民的・反民族的な姿において示してショックだったのは、辺野古基地拡張の反対運動を抑圧するために本土から覇権された機動隊の青年が、沖縄の人々に対して「土人」と罵ったことであった。また韓国・朝鮮・中国の人々に対するヘイト・クライムが日本社会の中には濃厚に持続していることもいうまでもない。中身のないイデオロギーが、このような行為に人々を走らせるというのは、きわめて怖いことだと思う。

 問題は、その歴史的文脈である。つまり、まずそれをささえているのが、明治時代の脱亜論と同じ、東アジアからの「分離」の意識であり、しかもそれが、今回は、アメリカの世界支配にのみ込まれることよって「脱亜」するという志向であったことである。東アジア諸民族を一括して、日本民族とは異なる、「我々は脱亜だ」という心理は民族とはことなる基準での差別、非科学的な「人種差別」の論理にならざるをえない。

 もちろん、私も、アメリカ経済への編入は敗戦国としてなかば必然的な当然の方向であったと思う。戦後社会の復興、戦後資本主義の復興につとめた経済界の動きにも尊重するべきものがあるのはいうまでもない。しかし、歴史家としては、日本資本主義の復興が朝鮮戦争特需から始まり、それ以降、アメリカの側にたって「脱亜」の立場を取ったことまで合理化することはできない。何よりも問題なのは、レーガン・ブッシュ以降の新たな戦争の危機をはらみはじめた世界情勢のなかで、日本の国家中枢が、共和党中枢からトランプにいたるアメリカ人種主義の中枢に従属する姿勢を明瞭にしたことである。日本の国家中枢部はここで、客観的には、ヨーロッパ・アメリカを席巻する新たな人種主義イデオロギーの中に、「脱亜論」を位置づけ、ヨーロッパ・アメリカの人種主義的風潮にことよせて、第二次世界大戦における日本の人種主義イデオロギーを復権するという立場に立ったのである。私は、彼らが自分たちがどういう立場に立ったのかを十分に認識できていたとは思わない。彼らは、世界の大勢ということを理由にしてアメリカに追従したにすぎない。しかし、彼らの選択した立場は、客観的にはそういうことである。

 こうして、日本の国家中枢部が人種主義的なイデオロギーに固執するなかで、アメリカの支配層に対する拝跪と従属を強化し、自己が無内容であるだけに、アメリカの人種主義イデオロギーに影響されるというきわめて奇妙な事態が生まれた。これは二度目の道である。これは振り返ってみれば、戦前の大日本帝国が人種主義イデオロギーを共通基盤としてヒトラー・ナチスと結合したことと同じ図式であるといわざるをえないだろう。

 日本社会にとって深刻なことは、このような国家中枢の動きが、アジア経済の拡大と変転、アジアからの経済的なキャッチアップを恐れる意識、そして巨大な中国経済に対する不能感、ダイナミックは韓国の経済と社会の動きに対する不安感などなどをベースとして生まれていることである。さらに最近、ガバナンスや透明性の欠如、企業倫理の欠如などが国際的に明らかになっているだけに、日本資本主義は失速とミスの恐怖感に襲われるようなことがあれば、この混迷はいよいよ深まることになるだろう。

 こうして、世界における人種主義の新たな登場の中心はアメリカにあったが、そのベースはヨーロッパにあり、その反対回りで、アメリカと日本の人種主義的動きが始まったということになるだろう。私は、この基礎となった最大の条件は、たとえば二〇一六年一月の世界経済フォーラムでは世界の資産保有額上位六二人の総資産額が下位五〇パーセント、つまり世界人口の半分の人々の総資産に匹敵するという異様な格差拡大の中にあった。これは世界資本主義の中心、アメリカから始まったが、ヨーロッパでも日本でも、さらにロシアでも中国でも、そのような実態は拡大している。巨大な生産諸力と富の集積のなかで発生した、巨大な階級間格差であって、これは歴史上で初めてのことであるといってよい異様な事態である。この富の集積は単なる奢侈や贅沢を諸個人に保障するというレヴェルのものでなく、富を集中した階層に一般人とはまったく異なる生態系と環境を作り出すものであって、そこには異なる動物が発生しているのである。そして富の集中が極端になれば、そのトリクル・ダウンもそれなりの規模をもつことになり、そこには様々な寄生動物、いわゆる労働貴族などが生息している。こうして、特殊な富者と普通の人間・労働者の生活・環境の相違は、両者が生態系と身体的自由の範囲が絶対的に異なる別の動物であるかのようなレヴェルに達している。1パーセント以下の超富裕層が国民の生産諸力と資産の大部分を横領するという状態が固定化するなかで、実現しているのは、下層の人々は、実際上、一種の労働種族、労働動物にすぎないというシステムである。

 一六世紀の世界資本主義の形成の時期には、ヨーロッパでも大量の人々が浮浪化した。マルクスは彼らを労働種族と呼ぶと同時に、プロレタリアートと呼んだが、これはラテン語のProlesからきたもので、人間らしい資産はなく子供を作るしか能力のない種族という意味であった。同じ時期、たとえばアフリカ・アメリカやインドなどをみれば明らかなように世界では大量の人々が人間として扱われず、死の運命に追い込まれ、あるいは殺された。現在のような巨大な階級格差の拡大という事態は、そのような人間の動物視、労働者蔑視、いわば資本主義的な人間の動物視が新たな形で現れたものといえるように思う。現在の世界史における新たな人種主義の浮上をどのように捉えるかは、たとえばネグリの『帝国』が先駆的な指摘をしているように、今後とも様々な議論があるであろうが、私は、その基礎的な条件は、このような超資本主義ともいえるような資本主義の状況にあるのではないかと考えている。

 このような状況は世界を16世紀からの長期の時間のなかでみること、それゆえに「未来」を見ること、その意味で学術の本質のところから「進歩」の立場を取ることという、歴史学にとってはきわめて困難な、しかし、もちろんそれなくしては学問としての社会的責務を最終的には果たすことができないという課題にぶち当たらせることになる。「進歩」の立場から「保守」をカヴァーする形で学術世界に貢献するという歴史学固有の役割にぶち当たらせる。

 なお、最後に人種主義(レーシズム)というもの、それ自体について確認しておきたい。ユネスコは第二次世界大戦後、この問題を重視して議論を重ね、「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」と結論している(一九六七年声明)。ようするに、「人種」という言葉自身が民族間に身分秩序(ハイアラーキー)をもちこむ無根拠な言葉であるというのが、当時の段階での分子生物学、人類学、歴史学などの参加の中での結論であった。これは世界の学術世界における一種の公準というべきものである。それ故に、歴史学にとっても、人類の誕生、世界への拡散、様々な神話から説き起こして諸民族の歴史にまで説き及び、この公準を説得的なものにしていくのはもっとも重要な仕事であることはいうをまたない。

 人種差別とは、特定のエスニック集団をもっぱら、肉体的・動物的な特徴に還元するイデオロギーであって、そのエスニック集団を同じ「類」と認めないというものである。それ故に、これは一面で、身分差別のもっとも奥深い根拠になり、身分的特権や身分差別の差別の心情を増殖させる。もう一面で、これは女性と男性の肉体的相違を差別的にとらえて、人間を「第一の性」と「第二の性」に区分する男権主義と、必ずといってよいほど響き合うことになる。そしてそれは戦争好き(ミリタリズム)に接続していく。ようするにレーシズムとは身体とその欲望への嗜癖の心情全体の温床なのであり、それが民族間関係、世界的な背景の下で語られる場合はレーシズムにならざるをえないという構造になっているのであるのであるが、現代のイデオロギーはすべて直接にグローバルなものとならざるをえず、すべてが突き詰めたところでは結局人種主義に融解していかざるをえないのである。
 このようなレーシズムにたいこうするものは、単純な「人類意識」、人類は同じという事実であり、その意味でのヒューマニズムになっているのだと思う。これは19世紀とのもっとも大きな相違かもしれない。

« 白頭山の噴火と広開土王碑文) | トップページ | 日本史の時代名と時代区分(再論) »

歴史理論」カテゴリの記事