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2017年11月22日 (水)

『老子』33章「自(みずか)らを知る「明」と「強い志」


 人と議論するには「智」がいるが、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」だ。足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがあるのだ。境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞くことが出来る。

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死而不忘(1)者壽。
(1)底本「亡」。帛書により改む。

人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。

解説
 「自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という言葉はたいへんに有名な言葉である。たしかに、人生にとって「自分を知る」ということはもっとも大事なことだろう。それは誰にとっても一生の仕事である。しかし、そういわれると「そんなことは分かっている」という声が自分の中から聞こえてこないだろうか。分かっていてもどうしようもないことが多い人生の実際からすると、この言葉はお説教に聞こえる。

 しかし、老子は、決して単純なお説教はしない。そこをつかむためには、まず本章が、四つの対句、つまり(1)「人を知る智」と「自(みずか)らを知る明(めい)」、(2)「人に勝つ力」と「自らに勝つ強」、(3)「足るを知る富」と「強を行う志」、(4)「所を失わざる久」と「死しても忘ざる寿(ほぎうた)」の四つの対句でできている全体の脈絡をおさえていく必要がある。老子はこの四つの対句の前句を外面的なものであるとし、後句の意味を強調する。

 まず(1)「人を知る者は智といい、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」は、後句の「自らを知る」という「明」の意味を強調する。前句の「人を知る者は智」というのは、そのままでは意味が分かりにくいが、これは『論語』(堯曰篇)が「言を知らざれば以て人を知ること無きなり」、つまり「言語知識がなければ人を知ることは出来ず、知者ではない」と述べていることへの批判である。もちろん、老子はそういう言語知識が不要であるというのではないが、そういうものは最後には役に立たないというのである。老子は、そういう「智」ではなく、自己と語り、「自(みずか)らを知る」という内面的な能力を育てなければならないというのである。老子の趣旨は前句と後句を対照して論ずることにあるのであって、そう理解すれば了解できるところが増えるのではないだろうか。

 この「明」については最後にもう一度立ち戻ることとして、次の(2)「人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす」という対句も、前句の人と競争して勝つ外面的な力に対しては評価が低く、後句の自己に克つ内面の強さこそが大事だというのである。この「強」は五五章(通項◆番)では「心、気を使うを強と曰う」と説明されているように、自分の内面で心が気を自由に使えるということである。まさに内面の強さということであって、そこで、上記の訳文では、この「自らに勝つ」の「勝つ」については「克己心」の「克(か)つ」という字を使用した。普通、「勝」と「克」は区別されないが、「善くする。堪える。刻む。勝つ」などのニュアンスをもっている「克」の方がふさわしいからである。(なお克については五九章(通項◆番)、六七章(通項◆番)の解説も参照)。

 次の対句(3)「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」も、これまではそう解釈されず曖昧になっているが、曖昧前句は評価が低く、後句は評価が高いはずである。つまり前半の「足るを知る者は富み」という部分は後半の「強を行う志」にくらべて評価が低いはずである。もちろん、「足るを知る」こと自体は、前項四四章(通番6)でみたように、老子にとって重要な知恵であり、「足るを知る」とは人間が自己の自然と身体を信頼して安息にあり、それ故に余裕があるということであった。ここでいっているのは、そのような身心の余裕があれば人間は豊かさをもつことができるということである。老子は「名」「貨」「得」「欲」などに対して強い自己否定を行うが、それが「知足」の境地まで進めば生活の豊かさを享受するのは当然であるというのが、老子の考え方である。

 しかし、老子は決して、そこに止まろうとしない。「富」は外面的なものであって老子は「強を行うものは志有り」として「強を行う」「志」こそを重視するのである。これは老子の思想を消極的なという意味での「無為」と「足るを知る」だけで理解する立場からは異様に聞こえるらしい。たとえば【蜂屋注釈】はこの部分を取り上げて「前句の『強』(「自らに勝((克))つ強(きよう)」のこと、筆者注)は例外として『強行』や『志』の是認は老子らしくない。『強行』は『知足』の反対のあり方である(中略)、この句にはなんらかの誤りがある可能性がある」とまでいう。しかし、ここで「強を行う」「志」が高く評価されていることは明瞭である。ここにいるのは「強」を「志」として実現する決意に満ちた老子なのである。それは「志(こころざし)を天下に得る」(三一章、通項◆番)といわれるような「天下」に関わる「志」であることもいうまでもない。

 以上、本章は対句を重ねて「明」「強」「志」という人生への直截な意思を語っている。これまでの常識では、これは『老子』の人生論のなかでは例外であるということになってしまうが、しかし、むしろこれが『老子』の本質なのである。そう考えなければ、最後の「その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり」という対句は理解できない。【金谷注釈】は、この句を「最も難解」とするが、これは現代語訳に記したように、「最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞く」という一種のロマンが語られているのである。

 今、以前書いたものをブラッシュアップしている。

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