エリザベス女王の夫君エジンバラ公の話と堀田善衛
今日の東京新聞にイギリスのエリザベス女王の夫君エジンバラ公の話がのっていた。好感を呼ぶ。
エリザベスが13歳のとき海軍の士官候補生であった夫君(18歳)に一目惚れした。そして日本が第二次大戦のき降伏文書に調印したとき、エジンバラ公が戦艦の将校として東京湾にいた。結婚はその後、1947年という経過ははじめて知った。エリザベスの政治判断力は夫君との生活も支えになっているという。
エリザベスついては、堀田善衛の「ヨーロッパ、ヨーロッパ」というエッセイに、エリザベス女王がベルリンの壁を訪れた時のエピソードがある(『天上大風』)。
「壁」をイギリス女王にみせることを政治儀式にしようとしたドイツの首相エアハルトなどの目論見に反して、女王は壁の前で車を降りたものの、すぐに車内に戻ってしまい、しばらく壁の前で「儀式」ができると考えて、車から降りて集まり始めた彼らが、予定外の女王の行動にあわててびっくりして、あたふたする様子がテレビで映ったという。堀田は、「女王の方は誰にとっても、言うまでもなく東西両ドイツの人々にとっても愉快でないものを前にして、長い時間、あるべきではないと、英国の女王として判断をしたものであったろう」と解説している。そしてそれをみている様子を儀式にするという政治的な利用を拒否するという小気味よい女王の行動を堀田は褒めている。
関係するのは、その後のことで、以下は、堀田の文章を引用する。「女王が市中に戻って、ベルリンの市民に向けて、演説というよりも、挨拶をしはじめた。もとより英語である。その挨拶もケネディのそれのような、角もあれば険もあるといったものではなく、ドイツ国民の幸福を祈るというほどのものであった。ところがそのおわりのところで、今度は私がびっくりした。女王が、いまでもはっきり覚えているが、『ーFrom now on, I am going to Hanover, my home town. いまから私はハノーヴァーに行きます。私の故郷の町です』といったのであった。現在の英王家がドイツのハノーヴァー家に出自していることは、私も知らぬではなかったが、”マイ・ホームタウン”には、やはりびっくりさせられたのであった」「そうして、聴衆であったドイツ人諸君も、女王のこの最後の言葉を歓呼して、躍り上がって迎えていた。この女王の振る舞い方、エティケットには、つくづくと感心をさせられた。それだけに、壁が一層醜くみえた」というのである。たしかにこういうのがヨーロッパなのだと思う。
こういう王家のあり方は、彼らがゲルマンの伝統をひく、ヨーロッパ王族の一員であることを示しているのだろう。実際に彼らの間では、相互に複雑な婚姻関係が営まれてきた。
12月2日に九州西洋史学会で、有名なバイユーの綴れ織りについての鶴島博和先生の著書についての報告をせねばならず、急遽、西洋史の勉強である。そこで上記のことを思い出した。おそらくノルマンケストが、こういうヨーロッパ王族の汎ヨーロッパ的なあり方をつくりだしたらしい。
『三銃士』、フランス王妃がイギリス国王と「憎からぬ」関係にあるなどということは、こういう背景の中で理解すべきなのであろう。
日本史家としての問題は、いうまでもなく、東アジアにおける王家相互の関係が、このようなヨーロッパとは大きく異なっていることの理由をどう考えるかである。これはすぐには分からない。九州西洋史学会までじっくり考えたい。
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