老子には戦争論があります。今の東アジアで重要なものと思います。
老子には戦争論があります。今の東アジアで重要なものと思います。
以下、いま本にしている『老子』注釈の一部です。
中国の戦国時代の後期には、秦の始皇帝の曾祖父・昭王は斬首二万(楚)、斬首二四万(韓・魏)、斬首四万(魏)、斬首一五万(魏)、斬首五万(韓)と戦争で敵国の人々を殺し続け、前二六〇年には趙との戦争で四五万人も殺戮したと伝えられる。これ以外にも戦争は日常の風景であった。この時代の世界で、これだけの戦争による大量死を経験したことは中国の歴史に巨大な影響をあたえた。民衆からでた劉邦が漢帝国を建設し、その漢帝国を巨大な民衆宗教運動、太平道の運動が黄巾の全国一揆を起こして凋落に追い込んだのは、明らかに、この戦争経験の余波である。
老子の戦争論は、いわゆる平和主義、反戦主義に貫かれている。ただ注意すべきなのは、老子が自衛戦争の必要は否定せず、防衛的なゲリラ戦法の提案をさえしていることである。このような戦争論の基礎に、老子の「死」についての考え方があることも注意しておきたい。というよりも、老子は中国史上ではじめて起きた大量の戦争死を経験するなかで、人間の生死について考えざるをえなかったのであろう。そしてそれが老子の思想が前代の孔子ともっとも異なる点であった。
第76章「固くこわばったものは死の影の下にある」を取り上げてみます。
人が生まれたときは柔らかで弱々しいが、死体は筋肉と靱帯が硬直して堅くなる。万物も同様で、草木が生えるときは柔らかでなよなよしているが、死ぬと枯れてかさかさになる。だから、固くこわばったものは死の影の下にあり、柔らかで弱々しいものこそ生の仲間なのだ。ようするに、兵が強くても、ずっと勝ち続けることはできない。木が強ければ伐られて終わってしまうのと同じだ。こうして強大なものが地面の下にいって、柔弱なものが地上に残るのである。
人之生也柔弱、其死也筋肕(1)堅強。万物草木之生也柔脆、其死也枯槁。
故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。
是以兵強則不勝、木強則竟(2)。
強大処下、柔弱処上。
(1)「筋肕」は帛書により補入。(2)底本「共」。帛書「競」。「竟」の借字。
人の生まるるや柔(にゆう)弱(じやく)、その死するや筋肕(きんじん)堅強(けんきよう)。万物草木の生(は)え生(しよう)ずるや柔脆(にゆうぜい)、その死するや枯槁(ここう)。故に堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒なり。ここを以て兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち竟(お)わる。強大は下に処(お)り、柔弱は上に処る。
解説
「人の生まるるや柔(にゆう)弱(じやく)」というのは老子の好きな赤ん坊のイメージである。その対極にあるのが堅い枯れ枝と硬直した死体である。戦国時代の人々にとって戦場に放置された死体は珍しいものではなかった。そして、軍隊がいくら強くても、勝ち続けることはできない。結局、堅く強いものは死の世界に行き、柔弱なものこそが生の世界なのだというのが、人々の痛切な実感であった。
殷の時代に犠牲とされた多数の異民族の遺骨が出土したことは大きな衝撃をあたえた。ただ、神話時代における人身供犠は、人間論としては重大な問題であるが、多かれ少なかれ世界各地で行われたことである。これに対して、文明化への時代、戦国時代における戦争虐殺はいわば「原罪」の位置を占めるものとして中国の歴史に巨大な衝撃をあたえた。老子の思想はそれを正面から問うたものであった。
日本において、万をこえる人々を虐殺した内戦は、織田信長の時代までは起きることはなかった。これは幸いなことであるが、しかし、そのため人間の「原罪」を厳しく問うたキリスト教と同様に、老子の思想を深いところで受け止める条件は日本社会にはなかった。そして、「原罪」の思想がこの国に根付かなかったことは、信長・秀吉以降、現在にいたる歴史に様々な思想的問題をもたらしているように思う。
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