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« 『老子』20章、学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい | トップページ | 『老子』一八章。倫理に欠陥のある人々が倫理を説教する(一八章) »

2018年3月15日 (木)

契約、そして文書を毀損してはいけないこと。『老子』79章。

 安田登さんのツイートで、おそらく現在の日本政府の公文書管理の在り方に関係して、公文書の毀損などは文明の終わりだという一節をみた。

 安田さんが、シュメル文明の粘土板は、文書の改竄ができないようになっていることを参照されているのが興味深い。、ともかくシュメル文明となれば、大川周明のいう「大東亜共栄圏」の発想の基礎になっていた文明である。うろ覚えだが、大川はシュメルからシャカ族への文明移行があって、それが東西に広がったのが文明だという論旨があったと思う。仏教正伝の東端の日本の意味をいった訳である。これは平田篤胤以来の超国家主義につながる論理で、そのままではとても学術的なものとはいえないが、ともかく、たしかに公文書毀損というのは文明の出発点における原則をいまだに守れていないという問題である。


 日本でいえば「沽券にかかわる」「男の沽券に関わる」ということわざである。沽券とは契約文書のこと、契約文書をまもらず、それを毀損したりするのは人間ではないということである。
 
 現在の日本の首相の行動を、「江戸時代に戻ったようだ」という意見をみかけるが、それは徳川時代もびっくりである。徳川幕府は相当にしっかりした文書管理システムをもっていたし、町・村の文書管理がしっかりしていたのは歴史学界ではよく知られた話しだ。

 現首相のやっていることは、だから「文明以前」というのが正しい。

 以下に、同じ問題についてふれた、、刊行予定の『現代語訳 老子』の79章の最初の部分を掲げる。「沽券」についての説明がしてある。
 『老子』のいうことは、「契約の信は求めるが、書類を突きつけて人を責めることはしない」という立派なもの。中国でも、そのころには明瞭な文書による社会契約の原則が決まっていた。
 
 


 深く大きな怨恨をなだめようとすることは、必ず別の怨(うら)みの感情を引き起こす。それは決して善ではない。それだから有道の士は契約にもとづく根拠のある主張は続けるが、割符の半分を突きつけて人を責めるようなことはしない。諺(ことわざ)に徳のあるものは契約を尊重するが、徳のないものは人から無理矢理に剥ぎ取ろうとするといわれる通りである。お天道(てんとう)さまは公平無私なものであるが、しかし、恒遠な時間の成り行きというものは、結局、善人のがわに与(くみ)するものだ。
和大怨、必有余怨。安可以為善。
是以聖人執左契、而不責於人。故*有徳司契、無徳司徹。
天道無親、恒与善人。
*底本「故」なし。帛書により補う。
大怨(だいえん)を和すは、必ず余怨(よえん)有り。安(いず)くんぞ以て善と為(な)すべけんや。
是を以て聖人は左契(さけい)を執(と)りて而(しか)も人を責めず。故に、徳有るものは、契を司(つかさど)り、徳なきものは、徹を司る。天道は親(しん)無し、恒にして善人に与(くみ)す。
解説
 『老子』のベースには「慈(なさけぶかさ)」と博愛の思想があるが(■■頁)、それは見方が甘いということではない。六三章でみたように(■■頁)、老子には「怨みに報(むく)ゆるに徳(いきおい)を以てす」という言葉があるが、現実にはそれが通用しない「大怨」というものがある。老子は、そういう「大怨」をなだめることは、必ず別の怨みの感情、「余怨」を引き起こすから、事柄の本性に似合わない、つまり「善」とはいえないという。
 〖蜂屋注釈〗によれば、ここでいう「大怨」とは単に個人の怨みではなく、社会の人々の怨み、社会的な矛盾にもとづく怨みである。これを考える上で参考になるのは、『老子』の影響の下に生まれた初期道教の教典、『太平経』では、罪が個人の罪では終わらず、次世代まで引きつがれることを「承負」といったことである(神塚淑子「『太平経』の世界」『講座道教』(1)、雄山閣出版、一九九九)。「承負」とは後の世代の人が前の世代の罪を「承け」ることであり、前の世代の人が後に世代に罪を「負わせる」ことである。そこには、まずは「親の因果が子に報い」といわれるような親子の間での「承負」があるが、さらに社会全体のレヴェルでの「承負」がある。それは前の世代の人々の犯した罪の全体が次の世代に重層していくことで、そこから『太平経』は時代がくだるにつれて、「承負」の質も量も悪化し、大きくなっていくという末世・末法の観念を導いた。
 これは罪によって傷つけられた人の「怨み」が徐々に大きな「大怨」となっていくことである。『太平経』では「其の承負せる天地開闢以来の流災委毒の謫」「天地開闢已来の帝王人民の承負」という表現にみられるように、この承負は宇宙の始源以来という壮大なスケールで問題にされた。それを経典とした宗教運動、太平道が漢王朝を崩壊させた黄巾の乱の基盤となったのは、いまこそ、そのすべてを決着しなければならないという歴史意識によったのであろう。彼らが漢王朝の戴く儒教的な昊天上帝を「蒼天」とし、その代わりに「黄天」といわれる太平道の戴く天である中黄太一の理想社会がやってくると称して、黄色い頭巾(「黄巾」)をかぶって蜂起したことはよく知られている(渡辺義浩「両漢における天の祭祀と六天説」『両漢儒教の新研究』汲古書院、二〇〇八)。
 『老子』の文面にみえる限りでは、老子は保守主義者であって、反乱を組織するような人ではなく、末世・末法思想のような暗い歴史意識とも無縁であるようにみえる。しかし、逆にいうと、歴史意識や罪意識に流されないだけ、社会の和解しがたい対立から発生する「大怨」というものを冷静にみていたかもしれない。社会には和解しがたい利害の対立にもとづく「大怨」というものがあり、それをなだめることは「善」ではないという断言は、老子の洞察の深さを示している。
 興味深いのは、その代わりに老子がもってくるのが、「故に、徳有るものは、契を司り、徳なきものは、徹を司る」とあるように、社会的な契約の思想であったことである。ここで「契」というのは、商品売買や借財などの契約に使用する割り符のことで、証文を木に刻み、二つに割って契約当事者が半分ずつもった。そして実際に徳(いきおい)のあるものは契約を信頼し守るもので、税金の取り立てのように剥ぎ取るようなことをするのは徳のないもののすることだというのである。
 なお、『老子』のなかで「故に」という場合は、「そういうことだから」として当時の中国で語られていた諺(ことわざ)や格言を引用した場合が多いというが(湯浅邦弘『竹簡学』大阪大学出版会)、これはたしかに諺であろう。同じようなことを日本の諺では「コケンに関わる」という。この「コケン」は漢字で書けば「沽券(こけん)」のことで(「沽」は売るの意)、売買証文で約束したことは守らなければいけないという意味である。この諺の根源を東アジア世界に探れば、『老子』本章にいたりつくのかも知れない。

 以下略

 こういうことをやっていると、歴史家は偉そうなことをいう政治家が、心底きらいだというのを自覚する。これが歴史家が現在の支配的政治家に嫌われる理由だろう。 偉そうに日本民族がどうこうといいながら、破廉恥窮まる。
民族主義の名にも保守の名にも値しない。

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