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2018年3月

2018年3月15日 (木)

契約、そして文書を毀損してはいけないこと。『老子』79章。

 安田登さんのツイートで、おそらく現在の日本政府の公文書管理の在り方に関係して、公文書の毀損などは文明の終わりだという一節をみた。

 安田さんが、シュメル文明の粘土板は、文書の改竄ができないようになっていることを参照されているのが興味深い。、ともかくシュメル文明となれば、大川周明のいう「大東亜共栄圏」の発想の基礎になっていた文明である。うろ覚えだが、大川はシュメルからシャカ族への文明移行があって、それが東西に広がったのが文明だという論旨があったと思う。仏教正伝の東端の日本の意味をいった訳である。これは平田篤胤以来の超国家主義につながる論理で、そのままではとても学術的なものとはいえないが、ともかく、たしかに公文書毀損というのは文明の出発点における原則をいまだに守れていないという問題である。


 日本でいえば「沽券にかかわる」「男の沽券に関わる」ということわざである。沽券とは契約文書のこと、契約文書をまもらず、それを毀損したりするのは人間ではないということである。
 
 現在の日本の首相の行動を、「江戸時代に戻ったようだ」という意見をみかけるが、それは徳川時代もびっくりである。徳川幕府は相当にしっかりした文書管理システムをもっていたし、町・村の文書管理がしっかりしていたのは歴史学界ではよく知られた話しだ。

 現首相のやっていることは、だから「文明以前」というのが正しい。

 以下に、同じ問題についてふれた、、刊行予定の『現代語訳 老子』の79章の最初の部分を掲げる。「沽券」についての説明がしてある。
 『老子』のいうことは、「契約の信は求めるが、書類を突きつけて人を責めることはしない」という立派なもの。中国でも、そのころには明瞭な文書による社会契約の原則が決まっていた。
 
 


 深く大きな怨恨をなだめようとすることは、必ず別の怨(うら)みの感情を引き起こす。それは決して善ではない。それだから有道の士は契約にもとづく根拠のある主張は続けるが、割符の半分を突きつけて人を責めるようなことはしない。諺(ことわざ)に徳のあるものは契約を尊重するが、徳のないものは人から無理矢理に剥ぎ取ろうとするといわれる通りである。お天道(てんとう)さまは公平無私なものであるが、しかし、恒遠な時間の成り行きというものは、結局、善人のがわに与(くみ)するものだ。
和大怨、必有余怨。安可以為善。
是以聖人執左契、而不責於人。故*有徳司契、無徳司徹。
天道無親、恒与善人。
*底本「故」なし。帛書により補う。
大怨(だいえん)を和すは、必ず余怨(よえん)有り。安(いず)くんぞ以て善と為(な)すべけんや。
是を以て聖人は左契(さけい)を執(と)りて而(しか)も人を責めず。故に、徳有るものは、契を司(つかさど)り、徳なきものは、徹を司る。天道は親(しん)無し、恒にして善人に与(くみ)す。
解説
 『老子』のベースには「慈(なさけぶかさ)」と博愛の思想があるが(■■頁)、それは見方が甘いということではない。六三章でみたように(■■頁)、老子には「怨みに報(むく)ゆるに徳(いきおい)を以てす」という言葉があるが、現実にはそれが通用しない「大怨」というものがある。老子は、そういう「大怨」をなだめることは、必ず別の怨みの感情、「余怨」を引き起こすから、事柄の本性に似合わない、つまり「善」とはいえないという。
 〖蜂屋注釈〗によれば、ここでいう「大怨」とは単に個人の怨みではなく、社会の人々の怨み、社会的な矛盾にもとづく怨みである。これを考える上で参考になるのは、『老子』の影響の下に生まれた初期道教の教典、『太平経』では、罪が個人の罪では終わらず、次世代まで引きつがれることを「承負」といったことである(神塚淑子「『太平経』の世界」『講座道教』(1)、雄山閣出版、一九九九)。「承負」とは後の世代の人が前の世代の罪を「承け」ることであり、前の世代の人が後に世代に罪を「負わせる」ことである。そこには、まずは「親の因果が子に報い」といわれるような親子の間での「承負」があるが、さらに社会全体のレヴェルでの「承負」がある。それは前の世代の人々の犯した罪の全体が次の世代に重層していくことで、そこから『太平経』は時代がくだるにつれて、「承負」の質も量も悪化し、大きくなっていくという末世・末法の観念を導いた。
 これは罪によって傷つけられた人の「怨み」が徐々に大きな「大怨」となっていくことである。『太平経』では「其の承負せる天地開闢以来の流災委毒の謫」「天地開闢已来の帝王人民の承負」という表現にみられるように、この承負は宇宙の始源以来という壮大なスケールで問題にされた。それを経典とした宗教運動、太平道が漢王朝を崩壊させた黄巾の乱の基盤となったのは、いまこそ、そのすべてを決着しなければならないという歴史意識によったのであろう。彼らが漢王朝の戴く儒教的な昊天上帝を「蒼天」とし、その代わりに「黄天」といわれる太平道の戴く天である中黄太一の理想社会がやってくると称して、黄色い頭巾(「黄巾」)をかぶって蜂起したことはよく知られている(渡辺義浩「両漢における天の祭祀と六天説」『両漢儒教の新研究』汲古書院、二〇〇八)。
 『老子』の文面にみえる限りでは、老子は保守主義者であって、反乱を組織するような人ではなく、末世・末法思想のような暗い歴史意識とも無縁であるようにみえる。しかし、逆にいうと、歴史意識や罪意識に流されないだけ、社会の和解しがたい対立から発生する「大怨」というものを冷静にみていたかもしれない。社会には和解しがたい利害の対立にもとづく「大怨」というものがあり、それをなだめることは「善」ではないという断言は、老子の洞察の深さを示している。
 興味深いのは、その代わりに老子がもってくるのが、「故に、徳有るものは、契を司り、徳なきものは、徹を司る」とあるように、社会的な契約の思想であったことである。ここで「契」というのは、商品売買や借財などの契約に使用する割り符のことで、証文を木に刻み、二つに割って契約当事者が半分ずつもった。そして実際に徳(いきおい)のあるものは契約を信頼し守るもので、税金の取り立てのように剥ぎ取るようなことをするのは徳のないもののすることだというのである。
 なお、『老子』のなかで「故に」という場合は、「そういうことだから」として当時の中国で語られていた諺(ことわざ)や格言を引用した場合が多いというが(湯浅邦弘『竹簡学』大阪大学出版会)、これはたしかに諺であろう。同じようなことを日本の諺では「コケンに関わる」という。この「コケン」は漢字で書けば「沽券(こけん)」のことで(「沽」は売るの意)、売買証文で約束したことは守らなければいけないという意味である。この諺の根源を東アジア世界に探れば、『老子』本章にいたりつくのかも知れない。

 以下略

 こういうことをやっていると、歴史家は偉そうなことをいう政治家が、心底きらいだというのを自覚する。これが歴史家が現在の支配的政治家に嫌われる理由だろう。 偉そうに日本民族がどうこうといいながら、破廉恥窮まる。
民族主義の名にも保守の名にも値しない。

2018年3月12日 (月)

『老子』20章、学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい

身に迫る。


学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい(第二〇章)

 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。
 だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人は学識を尊敬してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。

 だいたい学問をやっても茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。

 衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。

 みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは明快に腕を振るうが、私の仕事は煩悶(はんもん)が多い。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。

 衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながら田舎住まいを続けている。しかし、そうはいっても、私は違う。私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。


 学を絶てば憂い無し。唯(い)と訶(か)と、相去ること幾何(いくばく)ぞ。美と悪と、相去ること如何(いかん)。人の畏(おそ)るる所も亦た以て人を畏れざるべからず。恍(こう)として其れ未(いま)だ央(つく)さざるかな。衆人は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊(はく)として未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如く、累累(るいるい)として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺(とぼ)し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(どんどん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏(こん)たるが若し。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶々(もんもん)たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして以って鄙(ひ)なり。我れ独り人に異(こと)なりて、食母(しょくぼ)を貴ばんと欲す。

2018年3月 3日 (土)

『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、二〇一五年)あとがき

『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、二〇一五年)あとがき

 本書は、私のはじめての研究論文集である。私は大学院修士課程で戸田芳実氏の指導をうけたが、戸田氏は晩年、「自分の学説をまとめ体系化する作業はやらない、自分にとって緊急かつ示唆的だと思われる論点を自由に追求し、新たな議論の展開は全てをあとの人に任せる」と語っていた。戸田氏が死去したとき、私はその追悼文を書いたが(戸田芳実氏と封建制成立論争」『新しい歴史学のために』二〇四号、一九九一年一一月)、その際、私も仕事を体系化するということは考えないようにしようと思い、研究論文集を出すことはしないという方針を決めた。論文とはようするに歴史家の仕事場に蓄積された事務文書であって、そのうち公開されているものは歴史学の「業界」の共有文書であるから、それは必要な人がコピーして利用すればよいという考え方であった。友人のタランチェフスキ氏に、研究論文集という出版形式は日本の歴史学界に独特のものではないか。ヨーロッパではあまり例がない。歴史家の仕事は歴史叙述あるいは主題の明確な大著を書くことであるというように聞いたことも大きかった。

 これは実際には自己合理化であったかもしれないが、ともかく自分の研究が、本書におさめた論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をきっかけとして、いわゆる社会史から政治史に変化し、研究テーマがいよいよ拡散するなかで、論文集を編むなどということは考慮の外にあったのである。

 私はこういう論文集についての考え方をかえた訳ではない。人文社会科学においても、論文をネットワークデータとして共有し、その類別・参照のシステムを作り上げるべき時期がきていると思う。そしてその基礎として、史料をネットワークで共有し、個々の史料にそくして研究の状況や進展を一望のもとにおくことが可能ではければならないと思う。私のようなものが、こういうことをいうのは空論にすぎないことは重々承知しているが、それにもかかわらず、論文集について考えるようになったのは、みっともないことであるが、ようするに発表した論文のミスや不十分な点を整えるために十分に加筆したいということである。

 いい加減で無鉄砲なところのある私は、新しい分野の研究に挑むのはよいのだが、あわただしいなかで、ミスを放置し、未整理のままにしてきた問題は多い。そういう中で、しばらく前から、既発表の論文について点検をし、あまりはずかしいことがないようにしたいという気持ちが芽生えてきた。学界というものが本当にあるとしたら、その整理済み事務文書棚においておいていただければありがたいと思う。

 校倉書房の山田氏から論文集をだすようにという懇切な要請を受けたのはもっと前のことであった。ただ、要請を受けたのは研究を始めたころにテーマとしていた交通論や漁業史論などであった。「見果てぬ夢」ではあるが、私は、これらの経済史こそが、方法的で学際的な視野を要求されるとともに実証的にもむずかしい問題であり、それゆえにこれこそ、研究者として挑むべき中心問題であるという考え方をいまだに維持している。しかし、それだけに、これはより根本的な研究を必要としており、山田さんの意向はありがたいものであったが、そのときの私には、(また今の私にも)とても具体的に考えられないというのが内心の気持ちであった。そして、研究テーマの拡散と多忙にかまけて山田氏の要請に応えないままで過ぎたのである。

 しかし、しばらく前、職場を退職し残された時間を考えざるをえなくなるなかで、山田氏から再度強い御勧めをうけた。私にも、そのご厚意の意味がよくわかるだけに、ともかく「研究論文集」なるものを出す方向に、はじめて動きだしたのである。ただ、三・一一東日本大震災をうけて開始した地震史の研究を優先するなどのこともあって、御懇請に応えるのが遅れてしまったが、そろそろ御約束をまもらねば友人としての義理が立たないということになり、この六月から本格的な編別構成の検討と必要な加筆をはじめた。

 本書に収録した論文の発表または成稿の原型と時期は次のようなものである。なお、表現などの微調整を除いて内容的な変更については、基本的には注などで【追記】と明記してある。研究が進んでいるなかで、一度発表した論文の追補・修正を【追記】ですませるのが適当でない部分があるということは承知はしている。しかし、本書におさめた論文は研究史のなかではほとんど孤立した位置にあるというのが実際であり、それに免じて御許しを願いたいと思う。

序論「都市王権と貴族範疇――平安時代の国家と領主諸権力」
 この論文は奈良女子大学「日本史の方法」研究会の編になる『日本史の方法』(創刊号、二〇〇五年三月)に発表したもので、その原形は二〇〇四年一一月に奈良女子大学史学会総会で行われたシンポジウム「平安時代論」での報告であった。本書序論として利用するにあたって国土高権論を書き加え、全面的に修正・追補を行った。削除したシンポジウムの趣旨に関わる部分については下記に引用しておく。シンポジウムの組織と議論のなかで様々な教示をいただいた小路田泰直・西谷地晴美・西村さとみ・森由紀恵の諸氏に感謝したい。
 本来は、このような(都市王権というー追記)問題を立てる場合には、都市と農村の分業と対立という視座それ自身を理論的にふかめる作業から出発しなければならない。社会的分業に関する理論的研究としては、望月清司、黒田紘一郎などのよるべき仕事があるが、しかし、私は、これまでの理論作業には、都市と農村の対立がどのように精神労働と肉体労働の対立によって媒介されていたかという視角が欠如していると考えている。これについては簡単な試論を「情報と記憶」という小文で述べているのでそれを御参照願いたいが(『アーカイヴズの科学』上)、そもそも京都あるいは首都という範疇自身が、特定の観念形態を前提としており、それを捉え直すためには都市・首都が観念形態の領域におよぶ精神的中枢性を、どのように確保しているかを問わざるをえないはずである。そういう考え方から、私は、これまで、問題の理論的な再検討こそがもっとも重要な課題なのだと考えてきたし、それに関係する基礎的な理論研究を優先し(参照、「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三)、中間的な説明はできる限りさけてきた。

 しかし、このシンポジウムの組織過程で、小路田泰直氏から、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四年)で述べたことをもとにして、文明史の中での平安時代の位置について俯瞰的に論ぜよと要請された。右のような私の感じ方は御伝えしたが、しかし、世界史の段階などという問題について発言した以上、自己の研究範囲の全体像を他の分野の研究者にもわかるように展開するのは、研究者としての義務ではないかという小路田氏の正論には抗しがたかった。現在の社会諸科学が陥っている歴史的視座の喪失という危機的状況の中で、歴史学者も社会科学者の一員として、より明解な全体像の構築に努力すべきことは、誰もが認めざるをえないだろう。

 そこで、ともかくもこれまでの自分の仕事をつづり合わせる形で、全体像なるものに挑んでみることにした。しかし、こういう経過からいっても、本稿も理論というものを単純な定義集、あるいは実証成果を自己流に合理化したり説明したりするレトリックと等置してしまう歴史家の宿弊の内部にある。しかも、以下の説明は、世界史的な平安時代論というレヴェルは確保しておらず、シンポジウム組織者からすれば、このような中途半端な議論を要請したのではないということになるだろう。とはいえ、これが私の限度である。

第一章「平安時代の国家と庄園制」(『日本史研究』三六七号、一九九二年大会報告)
 この論文は、久野信義氏とならんで報告した一九九二年の日本史研究会の大会報告である。補論1には大会にむけての準備ペーパーの一部を「平安時代法史論と新制についてのメモ」としておさめた。これをきっかけに故川端新氏などの当時の日本史研究会の若手のメンバーとの交流の機会をもったことを鮮明に記憶している。諸氏の御意見や批判に十分に答えることができなかったことを、いまでも申し訳なく思っている。水野章二氏が大会報告批判を担当してくれたが、今回、補論2として「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」を執筆し、それに対する応答を行った。二〇年も経った今になっての応答は水野氏にはご迷惑なことと思うが、記録を残したく、御了解をいただければ幸いである。

第二章「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」(講座『日本の社会史』②,岩波書店一九八七年)
 私は、交通史と漁業史の研究から勉強をはじめたが、実証を深めないまま、その分野から撤退してしまった。この論文は、撤退にあたって、ともかく自分なりのまとめをしたというもので、そのなかで網野善彦氏のいうことを初めて理解したという記憶が強い。網野さんが保立君の書くものにはかならず僕への批判が入っているとぼやいているときいたのも、このころのことであるが、ようするに網野氏の学説に惹かれていたのだと思う。この論文の最後の部分でわかるように、この論文は静岡県磐田市にあった一の谷中世墳墓群の保存運動のなかで書いたもので、原稿の執筆期限が運動の山場と重なって現地と東京の保存運動の事務局仲間に迷惑をかけてしまったことは申し訳ないことだった。

第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『歴史民俗博物館研究報告』第三九集、一九九二年)
 この論文の原型は一九九一年三月一三日の歴史学研究会中世史部会の平安鎌倉勉強会での報告である。田村憲美氏を初め参会の方々の御教示に感謝したい。右にふれた一の谷中世墳墓群の保存運動の関係でご一緒した新幹線のなかで、この論文の構想を、網野善彦・石井進の両氏に聞いてもらったのは、私にとって貴重な記憶である。その時に上総広常や義経について考えていたことは無理の多いものであったが、網野さんは面白がって聞いてくれ、石井さんは納得する風情がなく、それは論文発表後も同じであった。今回は曖昧なところを書き直し、記述を全面的に追加した。これならば石井さんにも少しは応答をしていただけるのではないかと感じているが、こんなに早く、お二人のご意見をきくことができないという状態になるとは考えていなかった。

第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」(新稿)
 この論文の原型は、歴史教育者協議会の要請で、その会誌『歴史地理教育』七八八号(二〇一二年四月)の特集「平清盛と六波羅幕府」に書いた「院政国家と東国における平氏権力」という小文である。同誌からは、いちど平安時代史研究についての長いインタヴューをうけたことがあり(「文化でとらえ直す平安時代の社会」『歴史地理教育』七〇一号、二〇〇六年)、その続きのようなものである。ただし、拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して完全に書き直し、大幅に追補したので実際には新稿となっていることを御断りしておきたい。
 中心論点は『曾我物語』の理解で、これも石井さんの仕事に教えられながらも納得できない点を書いたものである。私はそもそも頼朝が嫌いであり、それが頼朝の実像をしつこく追究する上で有利であったと感じている。ただ、その意図が歴史学にふさわしい形で成功しているかどうかは、御批判をいただくほかない。

 私は、歴史学の道に入り始めたとき、当時世評の高かった石井氏の『鎌倉幕府』に一一八二年の頼朝は「関東武士団の期待にこたえる鎌倉殿として、もっぱら地味な日常の政治活動に沈潜した」とし、さらに政子の安産祈祷を自身で監督したとして、「いわばこの期間は、頼朝にとっての新家庭建設、鎌倉幕府の地がための時であり、政治家としての手腕をみがく時期であった」とあるのを読んで驚愕した。私にはこのようなことを述べるのが歴史学にとってふさわしいこととは思えなかったのである。その後、こういう叙述が石母田・永原にも共通するもので、これが残っているのは石井の先行研究への尊重を意味しているのかもしれないと思うようにはなった。

 しかし、私にとって、この違和感を明瞭に表明することは「鎌倉幕府」研究の重要な目的であった。『歴史学をみつめ直す』で記したように、石井氏には根本的な点で降参している身でありながら、本書は氏に対する過言をふくんでいるが、この点で、御許し願いたいと思う。ともかくも、院政期から鎌倉期におよぶ石井氏の仕事を徹底的に批判し、乗り越えることなしには、この時代の国家史・政治史の研究を刷新することはできないのである。

 なお、以下に、本書掲載にあたって削除した『歴史地理教育』掲載時の原稿の末尾を転載しておく。
 平氏政権論については、現在でも石井進の「平氏政権」(『日本歴史大系』(中世)、後に著作集三巻)が研究状況を総覧するにはもっとも適当であろう。石井の仕事は、この一〇〇年ほどをかけて日本の近代歴史学が積み上げてきた平氏研究を詳細に跡づけている。しかし、冒頭に述べたような立場からは、石井の概説をふくめ、これらが現代的な歴史意識の豊富化にはすでに対応できないものであることは自明なことであった。
 私見では、一一八〇年代内乱については、それらをすべて一度破棄する心づもりをする必要がある。鎌倉幕府中心史観という没概念な結果論、あるいは武士好きの俗論や、それを残している概説などに流されることがあってはならない。そして、この時期における王家の特殊な腐敗の状況を十分に確認した上で、社会構成論の原則論的な視野を明瞭に持ち、王家の王権と貴族階級の階級配置と地域分布がどのような関係にあったかを冷徹に究明していくことが必要である。
 ただし、私見のような社会構成論は、現在の学界においては明らかに少数意見であり、かつ上記の枠組みはまだ歴史叙述としても試されていないので、このこのような立論が歴史教育の場において本当に利用できるものかは、しばらく留保をしていただきたい。

第五章「義経・頼朝問題と国土高権」(新稿)
 この論文は拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して本書のために書き下ろしたものである。その一部はすでに「源義経・源頼朝と島津忠久」「補論、頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』二〇集、二〇〇七年)として発表している。このうち付論の部分は、すべて、本論文に再編・合体したが、島津家文書の分析と島津忠久論については主題の関係で吸収していない。

第六章「鎌倉前期国家における国土分割」(『歴史評論』七〇〇号、二〇〇八年)
 国地頭論争で私も何か議論ができるかもしれないと思ったのは、それを新制論から見ていくという視角を佐藤進一氏の『日本の中世国家』における指摘と、大山喬平氏の論文「文治国地頭の停廃をめぐって」における「天下澄清」というキーワードへの言及を読んでからであった。この論文はもういちど大山説にもどって、第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」で議論し残したことを点検したものである。戸田芳実氏が亡くなるまえ、梅津の病院で、私も国地頭論に参加しようとしているということを御報告したところ、氏は、私の友人・後輩などはみな国地頭論に突き進むが、それがどういうことなのかがわからない。ほかにやることがあるだろうといわれて悲しい思いをしたが、ともかく私なりの結論をだすことができたと感じている。何がほかにやるべきことなのかは今後とも考えてみたい。

第七章「土地範疇と地頭領主権」(『東寺文書と中世の諸相』思文閣出版、二〇一一年)
 この論文は、いまから三年前、職場を退職するあわただしい時期に同室の人々に迷惑をかけながら書いたものである。やはり同室の先輩であった笠松宏至氏の土地法についての仕事を受け継ごうとしたものであることに免じて御許しを願うほかない。またこの論文は、旧職場での大学院のゼミの人々と中田薫を読むということを約束しながら、結局、手間をかけるだけで終わってしまったという苦い記憶に結びついている。これも今は御許しを願うほかはない。

 論文の主題は、笠松氏の著名な論文「本券なし」に学んで、網野善彦・戸田芳実・大山喬平の三氏の仕事を乗り越えようとしたもので、私にとっては大事な位置のある論文である。笠松氏の学恩に感謝したいと考えている。
 なお、本書掲載にあたって論旨不鮮明の部分をできるかぎり書き直した。この書き直し作業は、まず大山喬平氏の「勧農論」に対する批判の部分から着手したが、その作業のなかで大山氏の学説の意味を再認識した。しかし、批判の中枢部分は維持しているつもりである。何十年も前の戸田氏との論争にいまごろ介入されるのは御不快ではないかということを恐れているが、私などの世代にとっては、戦後派歴史学をになった人々のあいだでの立論やニュアンスの相違をどう考えるかは大事な宿題であることを御理解いただければと思う。

 笠松宏至氏によれば、歴史学という学問は「抽象と論理を生命とする学問」(『中世人との対話』三頁)である。本書は抽象のみが多く、史料の徹底的蒐集と分析の上に磨かれるべき論理も甘いといわざるをえないものである。不足な点は重々承知しているつもりなので、残された時間のあいだ努力はするつもりではあるが、正直のところ、これが私の限界である。
 しかし、ともかくも努力はしなくてはならず、その方向を示すものとして、最後に網野善彦氏が亡くなられたのちに名古屋の中世史研究会で開催されたシンポジウム「中世史家・網野―原点の検証―」での報告、「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」(『年報中世史研究』三二号、二〇〇七年)を付論としておさめた。いわゆる戦後派歴史学のもった問題は、このような理論作業なしには批判することも受け継ぐこともできないというのが私見であるので、さらに抽象の度が過ぎるものであるが、目を通していただければ幸いに思う。
 二〇一四年八月四日           

倭国神話論のために(民俗学との関係)『物語の中世』あとがき公開

倭国神話論のためにーーー民俗学との関係

 この本は、一九七〇年代にさかんだった「社会史」という研究動向の中から生まれたものです。社会史というのは、史料の細部にあらわれる人々の生活や意識に沈潜し、そこから一挙にふり返って社会の全体を一挙に捉え直そうというものでした。日本史でいえば、これは網野善彦・笠松宏至などの中世史研究者を中心とした動きで、この本には、彼らの影響が強く出ていて、たいへんになつかしく感じます。ただ、「社会史」という言葉はヨーロッパ史の側が主唱した言葉で、網野さんなどは、そこから相当の距離をおいていましたから、日本史の側で具体的な研究を行うと同時に、やや先走るように社会史的な方法を強調していたのは、実際上、私ぐらいだったと思います。そういう経過については、最近、『歴史学のアクチュアリティ』(歴史学研究会編、東京大学出版会)で話しましたので、この国の、ここ三〇年ほどの歴史学の研究史に興味のある方は、参照を願えれば幸いです。

 しかし、いま、この本を読み直してみて、読者の方に理解していただきたいと思うのは、民俗学との関係です。この本は民俗学の柳田国男・折口信夫の仕事を読み込み、「社会史」の側から受けとめようとする仕事であったと思います。このあとがきでは、そこを現在の時点から追補し、とくに最近考えるようになった倭国神話との関係を述べておきたいと思うのですが、問題は、とくに折口でした。本書の各所に折口批判が隠れていることは、お読みになれば御わかりいただけると思います。しかし、折口は神話の理解について多くの発言をしており、そこに十分に踏みこむことはできませんでした。本書には『物語の中世』という枠がありますから、これはやむをえないことでしたが、私は、これをどうにかして追補したいと感じてきました。「神話・説話・民話」のベースとなるのはやはり神話の世界だからです。

 ちょうど本書のもとになる論文を書いた頃に、歴史神話学の重鎮、岡田精司氏が、折口に対して完膚無きまでの批判を展開されていました(岡田『古代祭祀の史的研究』、一九九二年、塙書房)。本書の発行後、すでに一五年が経ちますが、この岡田の仕事をうけて問題を見なおすことは、私にとっては長い間の希望でした。岡田の折口批判の魅力は、折口の史料操作の誤りの指摘から社会的・政治的な立場にまでおよぶ厳しい批判をしながら、同時に折口の視座の独自性を高く評価する、その篤実な姿勢にありました。

 私も、及ばずながらそのあとを追いたいということで、実は、最近、倭国神話の全体について、その大枠を見なおす作業を開始したところです。そこで、現在のところ大ざっぱな見取り図ではありますが、以下、そのエッセンスを紹介して、現在の時点での本書への追補ということにしたいと思います。
高皇産霊((タカミムスヒ))という神は、火山神・雷神であること

 倭国神話の全体像を見なおすという場合、鍵となるのは、倭国神話の至高神の姿を明らかにすることです。現在でも、世間一般では、倭国神話の至高神はアマテラスという印象ですが、それがタカミムスヒという神であったことは、江戸時代の本居宣長によって指摘され、折口も確認し、神話学でも認められていることです。しかし、明治国家が、皇祖神アマテラスの位置を喧伝したこともあって、日本民族は、その神話の至高神が正確にはどんな神であったのか曖昧という状態のままで、この間、過ごしてきた訳です。

 これには歴史的な事情がありました。そもそも、『古事記』『日本書紀』の編者自身が「この神は自身から身を隠してしまった」と称して、至高神であったタカミムスヒの姿を曖昧にしてしまったのです。これはタカミムスヒが律令国家のような文明的な国家にはふさわしくないということだったと思います。

 そのため、この神の本性はわかりにくく、本居はもっぱらこの神の性格を神名から解こうとして、「ムスビ」の「ムス」は「ムスコ・ムスメ」の「ムス」で生成を意味し、「ビ」は「霊威」を意味するとしました。この神は、物事を「生成する」力をもった「産霊神」であるという理屈です。折口は、その種の理屈が嫌いですので、本居の図式を踏襲しながらも、実態は「結び」の神という点にあると説明しました。

 しかし、言語学的に「ムスヒ」の「ヒ」は清音で読むことが明らかとなり、折口の意見は成り立ちません。私は、「ヒ」は「日」=「火光の精」、そして「ムス」の原義は、『字訓』などの用例からしても「熱」という意味であると考えます。熱光の神、つまりギリシャ神話のゼウスと同様に雷神であるということです。これはタカミムスヒが天孫降臨に対する抵抗を排除するために、天から矢を突き降ろしたことにうまく対応します。タカミムスヒは落雷によって立ち枯れた樹(霹靂樹)に宿るものとされ、その別名を「高木神」ともいいましたが、これが本書でもふれた神話的な巨柱と巨樹の信仰に通じてきます(本書第3章)。

天地鎔造神・タカミムスヒは高千穂に降臨した火山神
 「核爆発」の火のことをふくめ、いつの時代でも人間の世界観は、「火」を中心に組み立てられていたということでしょうか。本書の重要なテーマの一つに、竃神のことがありますが、このタカミムスヒが「天地を鎔造した」神であるといわれているのは(『日本書紀』顕宗紀)、そこにも関わってきます。この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというですから、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになります。『荘子』(大宗師第六)には天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」という一節がありますが、それが倭国に伝わっていたようにも思います。益田勝実『火山列島の思想』は、八世紀、海底火山の噴火が、雷電の神が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目しています。これも同じことでしょう。

 つまり、タカミムスヒは雷神であると同時に火山神だったということです。火山の噴火の時には、火山性の地震があり、さらに黒雲とともに火山雷が鳴り響くといいます。「天地鎔造」というのはまさにそれにふさわしい表現ではありませんか。

 私は、有名な高千穂への天孫降臨神話も、その延長にあると考えています。つまり、『古事記』などによると、タカミムスヒは天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を真床追衾(マドコオブスナ)で覆って、天磐座(アマノイワクラ)を押し離し、天の八重雲をおしわけ、稲穂を投げちらし、「稜威之道別道別而(イツノチワキチワキテ)」、天の浮橋に「うきじまりそりたたして」、日向の高千穗峯に天降ったといいます。高千穂は火山ですから、この様子は火山噴火の描写として読み解くことができます。つまり真床追衾というのは、史料で「綿のごとき」物などといわれるスポンジ状の火山噴出物。そして天磐座を押し離すというのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージで、八重雲は噴火の噴煙を表現したもの。さらに稲穂を投げ散らすというのも、九世紀の伊豆の神津島噴火で、白い火山灰が各地で「米花」と呼ばれたというのと同じこと。また「稜威之道別道別而」というのは、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということで、火山雷のイナズマを描写したものでしょう。天の浮橋というのは、火山弾の岩雲のことで、「うきじまりそりたたして」というのは、「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」ということで、火砕流、溶岩流の様子でしょうか。

 天孫降臨を司令したのはアマテラスではなく、タカミムスヒであるというのは神話学者はすべて一致していることですが、タカミムスヒが火山神であると理解すれば高千穂神話の理解はたいへんに簡明になります。
「根の堅すの国」とは、鍛冶神ヴァルカンの国をいう

 さて、本書第一章の「『竹取物語』と王権神話」の続きの位置をもつ拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で詳しく述べましたが、私はいろいろな経緯があって、神道に興味をもつようになりました。そのなかで、『中臣祓訓解』という鎌倉時代初期の神道書を読み、そこに「根国・底国は无間の大火の底なり」という記述を発見しました。

 これは『古事記』のいう「根の堅すの国」という観念と同じことに違いありません。この言葉について、本居は「カタス=片隅」という解釈をしていますが、「堅す」は動詞であることが明らかとなっています。「鍛す」とも書きますので、埴輪を焼くための場所を火をつかって物を堅くする場所の意味で「鍛地(かたしどころ)」というの同じことでしょう(『日本書紀』)。つまり、「根の堅すの国」とは、ようするに「地下の火の国・鍛冶場の国」ということでしょう。神話時代の人々も、マグマという言葉は知らなくても、地球の深部には巨大な火が燃えていると知っていたことは、ギリシャ神話のいう鍛冶神ヴァルカンの国のことを考えてもわかると思います。

 そして、日本でヴァルカンにあたるのは、素戔嗚尊と大国主命になります。彼らが地震の神であることは、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で必要なことを述べました。私が神話論の研究をすることを決めたのは、実は、三、一一東日本太平洋岸地震の後に、この本を書くなかで、地震・噴火の歴史は神話の時代までさかのぼって考える必要があることを知ってからなのです。その事情については、それを参照願いたいと思いますが、ここでこの「根の堅す国」に関係して述べておきたいのは、出雲神話のことです。話が飛ぶようで恐縮ですが、東北から下りてきた第四紀火山フロントは、近畿地方で西に方向を転じ、中国地方の日本海側を通って、九州につながっていきます。伯耆大山はそこに属する火山で、歴史時代の噴火の記録は残っていませんが、『出雲風土記』で「火神岳」と呼ばれていることからすると、人々は、この山が火山であることはよく知っていた訳です。

 神話時代の人々も、こういう列島の地勢を知っていたのではないでしょうか。ここに、倭国神話のなかでの出雲神話の独特な位置の理由があると、私は考えています。そもそも、「ミトのマグワイ」によってこの列島を生んだと伝えられるイザナミは火山の女神であったというのが、神話学の泰斗、松村武雄の結論です(『日本神話の研究』)。倭国の国土観に火山の影響がきわめて大きかったことは明らかで、しかもイザナミは『古事記』の説明では、その遺体は、「出雲国と伯伎国との堺の比婆山」に葬られ、スサノヲは、母をしたって出雲に降った訳です。私は、この立地は伯耆大山と関係していると考えます。

 こう考えると、よく知られたオオクニヌシと因幡の白兎の話もまったく違う視野からみることができます。赤裸になった兎の皮膚を蒲の穂で治したのは、オクニヌシが火山神であると同時に、温泉神として治病の能力をもっていたためであるとされています。しかし、さらに具体的にみると、これは蒲の雄花の黄色い花粉が、実際に治療効果があり、しかもそれが皮膚病の薬として使われた硫黄とダブルイメージになっているためでしょう。小路田泰直氏によれば、オオクニヌシとともに、この列島の国造りにたずさわった小人神・少彦名命(スクナヒコナ)の「スクナ」とは硫黄を意味するということです(小路田『邪馬台国と鉄』)。人々は、オオクニヌシースクナヒコナの神格を、火山ー温泉ー硫黄という連想の下に考えていたに違いありません。ただ、小路田氏は「スクナ」を「酸粉」と理解しますが、これはむしろ「スクモ」(泥炭)という語から理解した方がよいと思います。なお、折口はさすがに天才で、「手のひらにすくもはたけば光るなり」という歌があります(『定本柳田国男集』26巻)。オオクニヌシがはじめて会った時、スクナヒコナを手の中でもてあそんだため、小人神が怒って、オオクニヌシの頬を咬んだといいますが(『日本書紀』)、折口はそれに気づいて、この歌を読んだのではないかと思っています。
大和に侵入した「神武天皇(イワレヒコ)」の神婚のカガイ

 タカミムスヒの話に戻りますが、この神は、オオクニヌシに「国譲」を迫り、天孫降臨を司令し、さらにその延長でいわゆる「神武東征」を導きました。実際に、天皇(イワレヒコ)が、大和征服の前後に、この神を祭っています。

 面白いのは、大和征服が終了した翌々年、イワレヒコが野原で娘たちに声をかけ、先頭にいたホトタタライススキ姫をつれて河上の家に泊まったという説話です。これが八月のことであったというのが重要で、『竹取物語』によっても、八月は秋のカガイの季節なのです。つまり、イワレヒコ神話には、『竹取』まで続く大和国における男女の出会いの物語がふくまれているのです。問題は、この娘が、三輪山の神が「矢」に変身して溝から厠に侵入して娘の母のホトを突いて生まれたということです。最近、この神が溝から侵入した風情を髣髴とさせるトイレのミニチュアを備えた齋籠の家型埴輪が古墳の造りだし部分にしばしば確認されています。そして、それに対応する「木槽樋」のトイレ遺構が各地で発掘され、それら同時に産屋あるいは神婚儀礼の齋屋の遺構ではないかという意見もでています(黒崎直)。私もそれに賛成で、イワレヒコが泊まった河上の小家も同じような娘宿なのではないかと考えています。

 そして、この齋屋に来臨した神も雷神でした。右の三輪山の神(大物主神)は大国主命の後継者で、天孫降臨を前にして天上に昇ってタカミムスヒの娘神をあたえられていたといいますが(『日本書紀』)、龍の姿をもち、やはり雷神でした。ここには雷神=龍神の血が王家の血筋に入り込むという観念が示されているといってよいでしょう。

 本書でも、王の跡継ぎは雷鳴時の性交によって宿るという神話を論じました。私は、それこそが本来の「ヒ嗣=日嗣」の観念であったのではないかと考えるにいたっています。なによりも問題なのは、漢の劉邦が龍の血をひくとされているように、これが東アジアに共通する王権の血統観念であったことです(■■■頁)。ただ、ここで追加しておきたいのは、『史記』(周本紀)によると、神龍の吐いた泡を収めた秘函を開けてしまったところ、その泡から守宮が生じ、それが後宮の童女を身ごもらせて生まれた女(褒似)が周王朝を亡ぼしたという有名なエピソードです。

 龍神が転じて守宮神となるという訳ですが、これも本書でふれたように、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊が「守宮神」と呼ばれたというのは、こうして直接に倭国神話とその陰に潜む東アジアに普遍的な王権思想に結びつく問題であったことになります(二四二~三頁)。
倭国の王権は海の世界から生まれたのではないか。

 さて、以上、もっぱら火山神タカミムスヒの問題を中心に、追加的な説明をしてきましたが、本書では海の世界についても、第二章「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」、第六章「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」で論じました。とくに第二章では、王権と海上世界の関係がきわめて古くまでさかのぼることを述べてあります。

 御承知のように、柳田と折口は、この列島にいたる南の海の道を重視していました。とくに折口が倭国の王権には南方の「常世の国」に起源をもつ「水の女」の伝説がまとわりついていることを一貫して強調していました。折口の「水の女」論には、岡田の厳しい批判があって、私も、歴史家としては全面的にそれに同意するものです。しかし、現在の日本にとっての沖縄の位置を考えるたびに、私は柳田・折口の考えたことの視野の広さには感心させられることも多いのです。

 これに関係して述べておきたいのが、最近の学界では紀元前後に倭国の政治的中心が九州から近畿地方に移動したと考えられるようになったことです。そして、それとともにいわゆる「神武東征」の背後に何らかの事実があったのではないかという感じ方にだんだん抵抗感がなくなっているようにもみえます。ただ、私は、九州勢力が、長駆、大和を軍事的に征服したというのが事実とは考えられません。むしろ騎馬民族ならぬ朝鮮半島の「海民」の移住を重視する網野善彦氏の見解を前提とすると、列島の王権の萌芽は海の世界にあったのではないかと考えています。

 つまり、王家の直接の祖先神であるイザナキ・イザナミは海の匂いの強い神々です。イサナは鯨ですから、この名前は鯨男・鯨女ということになると思います。そして、岡田がその詳細な国生神話の分析において論じたように、この神の故郷は淡路島周辺の海人集団のなかにありました。ただ、この場合の問題は、火山島ではない淡路島に火山神話としての本質をもつ国生神話が生まれたことをどう考えるかということですが、しかし、これは南島から沖縄、南九州に連なり、朝鮮半島にも広がる火山地帯で縦横に活躍する海民が火山神話をもっていたとすれば解決するように思います。淡路から紀伊、さらに伊勢に固有の地盤をもつ海民集団。そして、彼らは海民によくあるように広域的な血縁関係を九州地方南部や朝鮮半島まで広げていたのでしょう。

 折口が重視したように、そもそも王権は淡路の海人を「海部馳使丁」として駆使していましたし、両者の間には皇子の養育をふくむ伝統的な関係がありました。また九世紀の氏族系譜、『新撰姓氏録』にこの両神を祖とする氏族がまったく現れないことは、王家それ自身の深層の記憶においてはイザナキ・イザナミの位置が大きかったことを意味します。乱暴なことをいうようですが、これは王権の淡路出自を示唆するのではないでしょうか。私はいわゆる「古代史」の研究者ではありませんので、自由に発言しますが、網野が論じたような「海原」の世界の大きさは神話時代の社会に構成的な影響をもっていたはずであると考えるものです。

 こうして、倭国王権が南九州ー北九州ー瀬戸内海をつなぐ海民勢力のなかから生まれた可能性があるとすると、理論的な見通しとしては、王権は石母田正ー網野善彦が強調する通り、地域間・民族間の交通関係から生まれた、あるいは交通形態そのものであったということになります。神話論のみで、こういう議論をするのが適当ではないことは知っていますが、『隋書』倭国伝(開皇二十年(六〇〇年)に「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあることの意味を考えてほしいと思うのです。倭王の姓は「アメ=海」であったのではないでしょうか。日本の天皇家は本来無姓であるとか、「倭」を姓とするという意見が一般ですが、私は、むしろ彼らは瀬戸内の島を出自とするということが記憶に残ることを好まず、もとの姓を隠したのではないかと考えています。王権はまず海民の出身であることを隠し、次ぎに至高神タカミムスヒを隠したということになります。

 以上、気になっていた、折口ー岡田の仕事と向き合うという仕事について、さきは長いですが、ともかく、このあとがきで、中間的な経過を報告できるところまで来たことにほっとしています。そして、この追補によって、ともかくも、本書から徐々にさかのぼって古典神話世界を理解し、この国の歴史の解明と神話理解の刷新に新しい道がついていくかもしれないという可能性を読みとっていただければ、たいへんありがたく思います。

2018年3月 2日 (金)

神社、神道を日本文化の中に位置づけていく仕事

 ようやく神話論の執筆に入った。下記は、前提となる折口信夫の議論についてのメモである。

 全面的に書き直したので、素原稿を、記録のためにここに掲げておく。四年ほど前の世田谷の市民講座のために作った原稿である。

 こういう研究史に属する問題は、自由に書くことにしている。だいたいの趣旨はすでに『日本史の30冊』(人文書院)にも書いた。また タカミムスヒが火山神、雷神であるという肝心のことについては『歴史のなかの大地動乱』や、『物語の中世』のあとがきで展開してある。

 私は、歴史家として神社、神道を日本文化、日本の歴史文化の中に位置づけていく仕事を人生の一つの仕事としているが、これはその原点のようなものである。
 


折口の目指した神道とムスビの神

 問題の中心は、タカミムスヒという神はどういう神なのかということである。ただ、これについては実に様々な意見があって、その紹介から始めるのは最初からあまりに問題をこんがらがらせる。そこでこれについては、いちおう私見を説き終わった後に、タカミムスヒという神名の由来を考えるときに詳論することとするが、しかし、やはり問題の検討の方向を従来の学説との関係で示唆しておくことは必要だろうと思う。そこでここでは、私見にもっとも近接した見解として折口信夫の学説をかかげ、それを一つの「導きの糸」としておくことにしたい。

 さて、よく知られているように、折口は、民俗学者であると同時に、近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家である。その思想と行動に毀誉褒貶が激しいのは当然のことであるが、神話論の学術的な研究にとってはいわば本居以来の正統を受ける位置にある学者であることは確認しておきたい。

 第二次大戦の結果が折口に大きなショックをあたえたことはいうまでもない。この問題は、近代日本思想史における折口の位置からしても真剣な検討に値する問題なので(参照、安藤礼二『場所と産霊』講談社、二〇一〇年)、ここでも少しだけふれておくと、折口は、国家神道の崩壊と天皇の「人間宣言」をうけて、新たな神道のあり方を打ち出そうとした。そのなかで中心的な論説と目すべきは「天子非即神論」という論説である。その中心部分を引用すると、「今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」ということになる。折口は、国家神道を主導した学説は、「素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」と断言し、国家神道の下でむしろ抑圧されたり、軽視されたりしていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興しようとしたのである。

 そして、折口のいう新しい神道が、「ムスビ」の神を中心にした神道であったのである。つまり、前述のように、本居は、物事を生成する霊威として、「産霊=ムスビ」の神を考えたのであるが、折口は、それをうけて「産霊=ムスビ」の神を文字通り、「結び」の力をもった神、つまり至高な霊魂を人に「結ぶ」という力をもった神として理解できるとしたのである。端的にいえば、折口は「産霊の神」を「縁結びの神」に似たものと考えたといってもよい。詳しくは「ムスヒ」の語義を考えるときに説明することになるが、それは本居の見解をさらに具体化しようとしたものであったということができるだろう。

 折口は、この「産霊=ムスビ=結び」の神を中心とする新しい神道を、タカミムスヒを無視してきた国家神道とは違うものとして作りだそうとしたのである。折口信夫は、「ムスビ=産霊」の神は「我々の信仰しつづけている神道」「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であるという。「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」として「民間神道」の意味を強調しているのも重大であろう。折口は「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」とまでいって、いわば民俗学によって、神道の宗教改革を実現しようとしたのである。若い神道者たちを前にした講演においては、折口は、この産霊の信仰について「あなた方は、神道の為に努力して頂くのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」と高唱している。

折口の忘れられた見解
 ただ、残念ながら、現在の歴史神話学の水準では、この折口の新説は言語学的な解釈として成立しえないことが確認されている。折口晩年の努力はある意味で無駄であったことになるが、ただ、問題は、折口が「産霊=結び」説以外にも重要なことを述べていたことにある。それは第二次大戦後、一九四七年に折口が発表した論文「道徳の発生」で述べたものである。肝心なところを引用しておくと次のようになる。

「この神には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である。

 わが国の神界についての伝承は、其(元の神のこと――筆者注)から派生した神、其よりも遅れた神を最初に近い時期に遡上させ、神々の教えを整理したために、この神の性格も単純に断片化したものと思われる。だから、創造神でないまでも、至上神であるところの元の神の性質が、完全に伝わっていないのである。
 おそらく天上から人間を見膽り、悪に対して罰を降すこともあったのであろうと思う。ところが、天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている。これはその点が喪失したものとみてよい。人間にとって、利益でない神の感覚を迷惑だと思った人々は、そういう知能を持つ神を、悪神と思うようになった。(中略)

 原始基督教的にえほばを考える時も、この研究の為のよい対照になる。もちろん、それぞれ特殊性があるのだから、完全に当らぬ所こそあるべきである。天地の意志と言うほど抽象的ではないが、神と言うほど具体的でもない。私どもは。これを既存者と言う名で呼んで、神なる語の印象を避けようとする。(中略)
 既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う。これは神以前の既存者のなすところである。而も天帝も、えほばも亦、こうした威力ある既存者であったのである」(「道徳の発生」『折口信夫全集⑮、傍点筆者)*1


 つまり折口は、『古事記』『日本書紀』を作る段階で、神界の教えを整理したということがあり、その時、「派生した神=遅れた神」の地位を遡上させたという。ここで折口がいう「派生した神=遅れた神」というのは、ようするにアマテラスのことである。つまりアマテラスを中心に神界の教えを整理したために、「元の神=至上神」の性質についての伝承が喪失した。それ故に、「天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている」という。しかし、「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」などの神々は、本来、彼らは「創造神ではないものの」、「元の神」「既存者」として至上神であって、天変地妖を降すような神であった。折口は、「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」のうちの後の二者、タカミムスヒとカミムスヒを「産霊=ムスビ」の神と考えるのであるが、そのような姿以前に、彼らは「元の神」「既存者」としては天変地妖を降すような悪神としての姿をもっていたというのである。

 この天変地妖とは「大風・豪雨・洪水・落雷・降雹など」ということであるから、折口は、これらの神々に荒々しい自然神としての性格を読みとろうとしいていたことになる。しかも「琉球・台湾・南方諸島にもっとも近似した神観」というのであるから、これを敷衍すれば「天変地異」として火山の噴火や地震が当然に視野に入ってきたのではないだろうか。また上記の引用部分につづいて、折口は、この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」であるという捉え方も提出している(「道徳の発生」『全集』一五巻)。ようするに折口のいう「神道」の基礎にある考え方としての「忌み=謹慎」の宗教倫理の原点に、この至上神があるという訳である。

 これは通常、折口説とされている「産霊=ムスビ神」論とは異なっているが、私が、いまだに「導きの糸」として注目すべきものであると考えているのは、現在ではほとんど忘れられている、この折口の理解である。これは折口にとって一つの確信であったことは、それがしばらく後に行われた柳田国男との対談でも繰り返されていることによってわかる。折口は、「霊魂が入ってできる神以前に神観念がある。それが『既存者』というべきもの」と説明している(折口・柳田一九四九、二三七頁)。

 残念ながら、折口は、この「至上神=元の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。しかし、私は、曖昧な形であれ、この折口の議論は、タカミムスヒを論ずる際の「導きの糸」とするだけの意味をもっていると考えている。

神話の研究の意味と方法

以下は、ある講演で話したことです。

神話の研究の意味と方法
歴史は学ぶものー御自分の疑問は学界にとっても疑問である場合が多い
過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。
しかも、歴史学を含む社会科学や人文科学のみでなく、自然科学の力によって過去を新しい形で知ることが可能となっている。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。

人類史の成熟の季節?
人間の作りだしたものによって世界が破壊できるほどの状況が生まれている。歴史と自然に対する責任をふまえ、過去の事柄を正確に偏見なく、事実に即して理解することが成熟した社会のために決定的に重要になっている。人類史は成熟の季節に入らなければならない。
そのための歴史文化というものを考える。

神話の価値観を正確に読む
神話というものを素直に読むこと。そこには現代とは大きく違った価値観が存在する。
童話やファンタジーを読むように読むことが必要。
他面では、現代の倫理と比べて理解しがたい観念や習慣が存在する。たとえばイザナキ・イザナミ、オオヒルメムチ・スサノヲの兄弟結婚は現代の価値観とは異なる。だからといってそれを明らかにしないという態度は取らない。

神話を読むときの感じ方について
宗教的心理、呪術的心理を自分で経験しなければならない。けれども研究する場合は、それを外側から冷静に観察する目をもたなくてはならない。原始宗教や呪術を自分で信じようとするのではない。それは無理。むしろ自分を実験台にして観察すること。神話的心理というのは人間に通有のものでその意味では自分を実験台にできる。

神話研究の手続きーーあくまでも事実を重視
次ぎに重要なのは、神話の分析においては、なによりも事実を大事にすることが必要だということである。
手続きとしてはまず神話世界内部の事実の確定から進む。
第一が祭祀、制度と呪術組織、呪術の内容。第二が神名、言語分析。第三が神名分析を前提とした神格、第四が神話それ自体の分析
その上で、経済的・社会的・文化的・政治的な諸事実との照合に進む。

神話の研究はむずかしいーーあくまでも補助線
逆にいうと、神話の分析は、事実分析のための補助線を引くことができるかも知れないが、それだけでは事実を確定することはできない。歴史を考える本筋が神話研究であるとはいえない。
体系的な知識ー読書。
『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)
『物語の中世』(講談社学術文庫)

神話と過去への内省
1946年1月1日昭和天皇の詔書。神話は過去において政治的に利用された。政治利用とは、文化ではなく「架空ナル観念」(虚偽)として利用されたということ。この過去を明瞭に内省しておくことが必要。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」 、

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