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2018年3月 3日 (土)

『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、二〇一五年)あとがき

『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、二〇一五年)あとがき

 本書は、私のはじめての研究論文集である。私は大学院修士課程で戸田芳実氏の指導をうけたが、戸田氏は晩年、「自分の学説をまとめ体系化する作業はやらない、自分にとって緊急かつ示唆的だと思われる論点を自由に追求し、新たな議論の展開は全てをあとの人に任せる」と語っていた。戸田氏が死去したとき、私はその追悼文を書いたが(戸田芳実氏と封建制成立論争」『新しい歴史学のために』二〇四号、一九九一年一一月)、その際、私も仕事を体系化するということは考えないようにしようと思い、研究論文集を出すことはしないという方針を決めた。論文とはようするに歴史家の仕事場に蓄積された事務文書であって、そのうち公開されているものは歴史学の「業界」の共有文書であるから、それは必要な人がコピーして利用すればよいという考え方であった。友人のタランチェフスキ氏に、研究論文集という出版形式は日本の歴史学界に独特のものではないか。ヨーロッパではあまり例がない。歴史家の仕事は歴史叙述あるいは主題の明確な大著を書くことであるというように聞いたことも大きかった。

 これは実際には自己合理化であったかもしれないが、ともかく自分の研究が、本書におさめた論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をきっかけとして、いわゆる社会史から政治史に変化し、研究テーマがいよいよ拡散するなかで、論文集を編むなどということは考慮の外にあったのである。

 私はこういう論文集についての考え方をかえた訳ではない。人文社会科学においても、論文をネットワークデータとして共有し、その類別・参照のシステムを作り上げるべき時期がきていると思う。そしてその基礎として、史料をネットワークで共有し、個々の史料にそくして研究の状況や進展を一望のもとにおくことが可能ではければならないと思う。私のようなものが、こういうことをいうのは空論にすぎないことは重々承知しているが、それにもかかわらず、論文集について考えるようになったのは、みっともないことであるが、ようするに発表した論文のミスや不十分な点を整えるために十分に加筆したいということである。

 いい加減で無鉄砲なところのある私は、新しい分野の研究に挑むのはよいのだが、あわただしいなかで、ミスを放置し、未整理のままにしてきた問題は多い。そういう中で、しばらく前から、既発表の論文について点検をし、あまりはずかしいことがないようにしたいという気持ちが芽生えてきた。学界というものが本当にあるとしたら、その整理済み事務文書棚においておいていただければありがたいと思う。

 校倉書房の山田氏から論文集をだすようにという懇切な要請を受けたのはもっと前のことであった。ただ、要請を受けたのは研究を始めたころにテーマとしていた交通論や漁業史論などであった。「見果てぬ夢」ではあるが、私は、これらの経済史こそが、方法的で学際的な視野を要求されるとともに実証的にもむずかしい問題であり、それゆえにこれこそ、研究者として挑むべき中心問題であるという考え方をいまだに維持している。しかし、それだけに、これはより根本的な研究を必要としており、山田さんの意向はありがたいものであったが、そのときの私には、(また今の私にも)とても具体的に考えられないというのが内心の気持ちであった。そして、研究テーマの拡散と多忙にかまけて山田氏の要請に応えないままで過ぎたのである。

 しかし、しばらく前、職場を退職し残された時間を考えざるをえなくなるなかで、山田氏から再度強い御勧めをうけた。私にも、そのご厚意の意味がよくわかるだけに、ともかく「研究論文集」なるものを出す方向に、はじめて動きだしたのである。ただ、三・一一東日本大震災をうけて開始した地震史の研究を優先するなどのこともあって、御懇請に応えるのが遅れてしまったが、そろそろ御約束をまもらねば友人としての義理が立たないということになり、この六月から本格的な編別構成の検討と必要な加筆をはじめた。

 本書に収録した論文の発表または成稿の原型と時期は次のようなものである。なお、表現などの微調整を除いて内容的な変更については、基本的には注などで【追記】と明記してある。研究が進んでいるなかで、一度発表した論文の追補・修正を【追記】ですませるのが適当でない部分があるということは承知はしている。しかし、本書におさめた論文は研究史のなかではほとんど孤立した位置にあるというのが実際であり、それに免じて御許しを願いたいと思う。

序論「都市王権と貴族範疇――平安時代の国家と領主諸権力」
 この論文は奈良女子大学「日本史の方法」研究会の編になる『日本史の方法』(創刊号、二〇〇五年三月)に発表したもので、その原形は二〇〇四年一一月に奈良女子大学史学会総会で行われたシンポジウム「平安時代論」での報告であった。本書序論として利用するにあたって国土高権論を書き加え、全面的に修正・追補を行った。削除したシンポジウムの趣旨に関わる部分については下記に引用しておく。シンポジウムの組織と議論のなかで様々な教示をいただいた小路田泰直・西谷地晴美・西村さとみ・森由紀恵の諸氏に感謝したい。
 本来は、このような(都市王権というー追記)問題を立てる場合には、都市と農村の分業と対立という視座それ自身を理論的にふかめる作業から出発しなければならない。社会的分業に関する理論的研究としては、望月清司、黒田紘一郎などのよるべき仕事があるが、しかし、私は、これまでの理論作業には、都市と農村の対立がどのように精神労働と肉体労働の対立によって媒介されていたかという視角が欠如していると考えている。これについては簡単な試論を「情報と記憶」という小文で述べているのでそれを御参照願いたいが(『アーカイヴズの科学』上)、そもそも京都あるいは首都という範疇自身が、特定の観念形態を前提としており、それを捉え直すためには都市・首都が観念形態の領域におよぶ精神的中枢性を、どのように確保しているかを問わざるをえないはずである。そういう考え方から、私は、これまで、問題の理論的な再検討こそがもっとも重要な課題なのだと考えてきたし、それに関係する基礎的な理論研究を優先し(参照、「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三)、中間的な説明はできる限りさけてきた。

 しかし、このシンポジウムの組織過程で、小路田泰直氏から、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四年)で述べたことをもとにして、文明史の中での平安時代の位置について俯瞰的に論ぜよと要請された。右のような私の感じ方は御伝えしたが、しかし、世界史の段階などという問題について発言した以上、自己の研究範囲の全体像を他の分野の研究者にもわかるように展開するのは、研究者としての義務ではないかという小路田氏の正論には抗しがたかった。現在の社会諸科学が陥っている歴史的視座の喪失という危機的状況の中で、歴史学者も社会科学者の一員として、より明解な全体像の構築に努力すべきことは、誰もが認めざるをえないだろう。

 そこで、ともかくもこれまでの自分の仕事をつづり合わせる形で、全体像なるものに挑んでみることにした。しかし、こういう経過からいっても、本稿も理論というものを単純な定義集、あるいは実証成果を自己流に合理化したり説明したりするレトリックと等置してしまう歴史家の宿弊の内部にある。しかも、以下の説明は、世界史的な平安時代論というレヴェルは確保しておらず、シンポジウム組織者からすれば、このような中途半端な議論を要請したのではないということになるだろう。とはいえ、これが私の限度である。

第一章「平安時代の国家と庄園制」(『日本史研究』三六七号、一九九二年大会報告)
 この論文は、久野信義氏とならんで報告した一九九二年の日本史研究会の大会報告である。補論1には大会にむけての準備ペーパーの一部を「平安時代法史論と新制についてのメモ」としておさめた。これをきっかけに故川端新氏などの当時の日本史研究会の若手のメンバーとの交流の機会をもったことを鮮明に記憶している。諸氏の御意見や批判に十分に答えることができなかったことを、いまでも申し訳なく思っている。水野章二氏が大会報告批判を担当してくれたが、今回、補論2として「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」を執筆し、それに対する応答を行った。二〇年も経った今になっての応答は水野氏にはご迷惑なことと思うが、記録を残したく、御了解をいただければ幸いである。

第二章「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」(講座『日本の社会史』②,岩波書店一九八七年)
 私は、交通史と漁業史の研究から勉強をはじめたが、実証を深めないまま、その分野から撤退してしまった。この論文は、撤退にあたって、ともかく自分なりのまとめをしたというもので、そのなかで網野善彦氏のいうことを初めて理解したという記憶が強い。網野さんが保立君の書くものにはかならず僕への批判が入っているとぼやいているときいたのも、このころのことであるが、ようするに網野氏の学説に惹かれていたのだと思う。この論文の最後の部分でわかるように、この論文は静岡県磐田市にあった一の谷中世墳墓群の保存運動のなかで書いたもので、原稿の執筆期限が運動の山場と重なって現地と東京の保存運動の事務局仲間に迷惑をかけてしまったことは申し訳ないことだった。

第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『歴史民俗博物館研究報告』第三九集、一九九二年)
 この論文の原型は一九九一年三月一三日の歴史学研究会中世史部会の平安鎌倉勉強会での報告である。田村憲美氏を初め参会の方々の御教示に感謝したい。右にふれた一の谷中世墳墓群の保存運動の関係でご一緒した新幹線のなかで、この論文の構想を、網野善彦・石井進の両氏に聞いてもらったのは、私にとって貴重な記憶である。その時に上総広常や義経について考えていたことは無理の多いものであったが、網野さんは面白がって聞いてくれ、石井さんは納得する風情がなく、それは論文発表後も同じであった。今回は曖昧なところを書き直し、記述を全面的に追加した。これならば石井さんにも少しは応答をしていただけるのではないかと感じているが、こんなに早く、お二人のご意見をきくことができないという状態になるとは考えていなかった。

第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」(新稿)
 この論文の原型は、歴史教育者協議会の要請で、その会誌『歴史地理教育』七八八号(二〇一二年四月)の特集「平清盛と六波羅幕府」に書いた「院政国家と東国における平氏権力」という小文である。同誌からは、いちど平安時代史研究についての長いインタヴューをうけたことがあり(「文化でとらえ直す平安時代の社会」『歴史地理教育』七〇一号、二〇〇六年)、その続きのようなものである。ただし、拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して完全に書き直し、大幅に追補したので実際には新稿となっていることを御断りしておきたい。
 中心論点は『曾我物語』の理解で、これも石井さんの仕事に教えられながらも納得できない点を書いたものである。私はそもそも頼朝が嫌いであり、それが頼朝の実像をしつこく追究する上で有利であったと感じている。ただ、その意図が歴史学にふさわしい形で成功しているかどうかは、御批判をいただくほかない。

 私は、歴史学の道に入り始めたとき、当時世評の高かった石井氏の『鎌倉幕府』に一一八二年の頼朝は「関東武士団の期待にこたえる鎌倉殿として、もっぱら地味な日常の政治活動に沈潜した」とし、さらに政子の安産祈祷を自身で監督したとして、「いわばこの期間は、頼朝にとっての新家庭建設、鎌倉幕府の地がための時であり、政治家としての手腕をみがく時期であった」とあるのを読んで驚愕した。私にはこのようなことを述べるのが歴史学にとってふさわしいこととは思えなかったのである。その後、こういう叙述が石母田・永原にも共通するもので、これが残っているのは石井の先行研究への尊重を意味しているのかもしれないと思うようにはなった。

 しかし、私にとって、この違和感を明瞭に表明することは「鎌倉幕府」研究の重要な目的であった。『歴史学をみつめ直す』で記したように、石井氏には根本的な点で降参している身でありながら、本書は氏に対する過言をふくんでいるが、この点で、御許し願いたいと思う。ともかくも、院政期から鎌倉期におよぶ石井氏の仕事を徹底的に批判し、乗り越えることなしには、この時代の国家史・政治史の研究を刷新することはできないのである。

 なお、以下に、本書掲載にあたって削除した『歴史地理教育』掲載時の原稿の末尾を転載しておく。
 平氏政権論については、現在でも石井進の「平氏政権」(『日本歴史大系』(中世)、後に著作集三巻)が研究状況を総覧するにはもっとも適当であろう。石井の仕事は、この一〇〇年ほどをかけて日本の近代歴史学が積み上げてきた平氏研究を詳細に跡づけている。しかし、冒頭に述べたような立場からは、石井の概説をふくめ、これらが現代的な歴史意識の豊富化にはすでに対応できないものであることは自明なことであった。
 私見では、一一八〇年代内乱については、それらをすべて一度破棄する心づもりをする必要がある。鎌倉幕府中心史観という没概念な結果論、あるいは武士好きの俗論や、それを残している概説などに流されることがあってはならない。そして、この時期における王家の特殊な腐敗の状況を十分に確認した上で、社会構成論の原則論的な視野を明瞭に持ち、王家の王権と貴族階級の階級配置と地域分布がどのような関係にあったかを冷徹に究明していくことが必要である。
 ただし、私見のような社会構成論は、現在の学界においては明らかに少数意見であり、かつ上記の枠組みはまだ歴史叙述としても試されていないので、このこのような立論が歴史教育の場において本当に利用できるものかは、しばらく留保をしていただきたい。

第五章「義経・頼朝問題と国土高権」(新稿)
 この論文は拙著『義経の登場』の続きとして用意していた原稿の一部を利用して本書のために書き下ろしたものである。その一部はすでに「源義経・源頼朝と島津忠久」「補論、頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』二〇集、二〇〇七年)として発表している。このうち付論の部分は、すべて、本論文に再編・合体したが、島津家文書の分析と島津忠久論については主題の関係で吸収していない。

第六章「鎌倉前期国家における国土分割」(『歴史評論』七〇〇号、二〇〇八年)
 国地頭論争で私も何か議論ができるかもしれないと思ったのは、それを新制論から見ていくという視角を佐藤進一氏の『日本の中世国家』における指摘と、大山喬平氏の論文「文治国地頭の停廃をめぐって」における「天下澄清」というキーワードへの言及を読んでからであった。この論文はもういちど大山説にもどって、第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」で議論し残したことを点検したものである。戸田芳実氏が亡くなるまえ、梅津の病院で、私も国地頭論に参加しようとしているということを御報告したところ、氏は、私の友人・後輩などはみな国地頭論に突き進むが、それがどういうことなのかがわからない。ほかにやることがあるだろうといわれて悲しい思いをしたが、ともかく私なりの結論をだすことができたと感じている。何がほかにやるべきことなのかは今後とも考えてみたい。

第七章「土地範疇と地頭領主権」(『東寺文書と中世の諸相』思文閣出版、二〇一一年)
 この論文は、いまから三年前、職場を退職するあわただしい時期に同室の人々に迷惑をかけながら書いたものである。やはり同室の先輩であった笠松宏至氏の土地法についての仕事を受け継ごうとしたものであることに免じて御許しを願うほかない。またこの論文は、旧職場での大学院のゼミの人々と中田薫を読むということを約束しながら、結局、手間をかけるだけで終わってしまったという苦い記憶に結びついている。これも今は御許しを願うほかはない。

 論文の主題は、笠松氏の著名な論文「本券なし」に学んで、網野善彦・戸田芳実・大山喬平の三氏の仕事を乗り越えようとしたもので、私にとっては大事な位置のある論文である。笠松氏の学恩に感謝したいと考えている。
 なお、本書掲載にあたって論旨不鮮明の部分をできるかぎり書き直した。この書き直し作業は、まず大山喬平氏の「勧農論」に対する批判の部分から着手したが、その作業のなかで大山氏の学説の意味を再認識した。しかし、批判の中枢部分は維持しているつもりである。何十年も前の戸田氏との論争にいまごろ介入されるのは御不快ではないかということを恐れているが、私などの世代にとっては、戦後派歴史学をになった人々のあいだでの立論やニュアンスの相違をどう考えるかは大事な宿題であることを御理解いただければと思う。

 笠松宏至氏によれば、歴史学という学問は「抽象と論理を生命とする学問」(『中世人との対話』三頁)である。本書は抽象のみが多く、史料の徹底的蒐集と分析の上に磨かれるべき論理も甘いといわざるをえないものである。不足な点は重々承知しているつもりなので、残された時間のあいだ努力はするつもりではあるが、正直のところ、これが私の限界である。
 しかし、ともかくも努力はしなくてはならず、その方向を示すものとして、最後に網野善彦氏が亡くなられたのちに名古屋の中世史研究会で開催されたシンポジウム「中世史家・網野―原点の検証―」での報告、「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」(『年報中世史研究』三二号、二〇〇七年)を付論としておさめた。いわゆる戦後派歴史学のもった問題は、このような理論作業なしには批判することも受け継ぐこともできないというのが私見であるので、さらに抽象の度が過ぎるものであるが、目を通していただければ幸いに思う。
 二〇一四年八月四日           

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