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2018年4月

2018年4月20日 (金)

武田清子先生が亡くなられた。

 武田清子先生が亡くなられた。私は国際キリスト教大学で先生をアドヴァーザーとして学部の間を過ごし、いろいろ怒られることばかりであった。

 一〇年ほど前にリベルテ(社会科学研究会)というクラブの会でお逢いし、三年ほど前に『日本史学』(人文書院)という本で、先生の『天皇観の相剋』を取り上げて御送りしたときに電話で御話しをした。「元気ですか」ということで励まされたが、鋭い質問をうけて、学生時代のようにおたおたした。

 いま、国際キリスト教大学の大学史について書かれた『未来をきり拓く大学』を読んでいる。大学時代、大学紛争の自分の経験について、この本を書かれる前に、一度、御話ししておくべきであったと思う。

 以下、上記『日本史学』(人文書院)の『天皇観の相剋』の記事をしばらく掲げ、先生を追悼する意を表したい。
 本当にお世話をかけ、御心配をかけました。


武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)

 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。それは第二次大戦後の国際情勢の中で作られたものであって、それ故に、現憲法における天皇の位置を歴史的に考察するためには大量の外国語史料の蒐集と分析が必要である。

キリスト者の戦争期経験
 本書は、その初めての試みである。今から40年前にこれが可能だったのは、著者が国際キリスト教大学教授に就任後、1965年から2年間、プリンストン、ハーバートの両大学で過ごす機会をもてたためであった。武田は、このとき、アメリカの対日政策の中心にいたジョセフ・バレンタイン(国務省極東部長)、ユージン・デューマン(戦前のアメリカ大使館顧問)、さらに学者ではヒュー・ボートン(近代日本史、ハーバート大学長)、さらにはエドウィン・O・ライシャワー(駐日大使、ハーバード教授)などにインタビューを重ね、しかも彼らのアドヴァイスによって、多くの史料を蒐集することができた。

 実は、私は国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、著者の自伝的メモによれば、武田は何人もの男衆をかかえた関西の古い地主の家で、生け花や琴などの生粋の日本文化のなかで育った。しかし、母の薦めで、ミッションスクール神戸女学院に入学し、大学部三年のときに受洗したことが人生の転機となった。浄土真宗の信者であった母は信仰に入る以上、一生涯それを守り抜けるかと質した上で、それを容認したという。

 受洗の前年、1937年には、キリスト者に対する圧力が強まるなかで、同志社大学総長湯浅八郎が辞職させられ、東京大学では矢内原忠雄が経済学部教授の職を追われるという時代である。そのなかで、著者は、20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事するという道を歩んだ。武田はニーバーにアメリカに残ることを進められたが、日本に戻って苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。こういう経験のなかにいた武田にとって、敗戦前後の時期、世界各国の政府、要人、学者らが、天皇制をどう扱うべきかについて考え、行動した同時代史は他人事ではなかったのである。

アメリカ国務省の知日派ーージョセフ・C・グルー
 検討の出発点は武田が身にしみて知っていたアメリカの世論である。1945年6月のワシントンポストの報じるギャラップ世論調査では、天皇の扱いについて処刑(33%)、裁判(17%)、終身刑(11%)、追放(9%)があわせて70%。回答なし(23%)を除くとほとんどが強硬処置であった。

 アメリカ政府国務省内には日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループと「知日派」とされるグループが存在した。彼らは、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動していたエリートたちであるが、前者でよく知られているのは、有名な中国研究者のオーウェン・ラティモア。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留するように提案している。後者の代表が、前駐日大使のジョセフ・C・グルーである。彼は、日米開戦によって、6ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに、宣教師などとともに送還船に乗せられ、1942年7月20日、モザンビークで、アメリカから送還された日本大使などの一行と交換という形で、ようやくアメリカにたどり着く。武田は、後者の日本大使などと一緒だったから、グルーとすれ違っていることになる。

 帰国したグルーは、アメリカ全土で日本の戦争体制の暴圧と狂気を講演してまわったが、日本の敗戦が決定的になった時点で、アメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、天皇制の廃止はさけるべきであるという主張を展開した。グルーは天皇制自体をどう扱うかは日本国民の選択に属する問題であるとし、その上で、天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であり、その権威を利用して日本の降伏と占領を、これ以上のアメリカ軍人の犠牲がないように進めるべきであると主張したのである。このようなグルーの主張は、グルーが1944年5月に国務省極東局長、年末には国務次官になって明瞭に打ち出され、以降の対日占領政策を規定することになった。

 重要なのは、グルーと原爆投下問題との関わりである。つまり、1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は、君主国であることを否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくするという説得であって、トルーマンは、一時それに賛成し、グルーの提案は、ポツダム宣言の草案にも「(日本が)再び侵略を意図せざることを世界が納得するに至った場合には、現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする(This may include a constitutional monarchy under the present dynasty)」と記入された。

 しかし、アメリカ軍部は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいた。彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったに違いない。グルーの提案は、結局、原爆の投下を優先する国務長官バーンズと軍部、そしてトルーマンの意思によって潰えたのである。とはいえ、グルーは必死に行動し、最後は7月17日のポツダム会談に出席するために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにその所信を述べたメモを突っこむという「執拗なまでの熱心さは異常なほど」であったという。しかし、ポツダム会談の前日、7月16日、ニューメキシコにおける原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。上記の宣言草案の一節は正文には反映しなかったのである。

 当時の天皇制政府が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものを何よりも優先していたことはよく知られている。そのため、降伏しか道がないことを知りながら、政府は無意味な躊躇によって時日を空費し、ポツダム宣言の受諾は原爆投下後にずれ込んだ。この間、沖縄では壮絶な地上戦が展開され、県民の4人に一人が死去するという惨禍をもたらしたことは忘れてはならないことである。

 陸軍長官スティムソンは、翌年、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、もし最初のトルーマンの判断が維持され、もう少し早い時期に、降伏後も日本の君主制は保持されうると発表していたならば、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」という忌まわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。

終戦の経過を正確に認識する意味
 この経過は、本書の「天皇か原爆か 日本の無条件降伏の鍵」という章で初めて明らかにされたのであるが、これを正確に認識しておくことは、いまでも当事国にとっては必須のことであろう。とくに私が注意しておきたいのは、これが政治史だけの問題ではないことである。つまり、本書のあとがきで、武田は「青年期の思想的苦悩と深い関係をもつ問題であったがゆえに、近代日本における天皇制の問題に切実な関心をもってきた一学徒として、’敗戦と天皇制’の問題をめぐってあとづけたこの小著を、今日、青年期にある息子と、そして同じ世代の、戦後に生まれ育った若い人々に対して、私どもの世代から伝達しておきたい一つの記録としておくりたいと思う」と述べている。武田が本書を執筆した背景には、キリスト者としての戦争期体験をふまえ、天皇制をめぐる日本「土着」の価値観というものをどのように読み解くかという内発的欲求があったのである。

 武田はそういう立場から、「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場として、相当の頁数を使って、日本で過ごし、この国を愛した欧米人の日本観を紹介している。たとえば、日本で生まれ育ち、朝鮮で医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストラリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。武田はこれらを専攻の近代日本思想史に位置づけているが、そのほかにも本書は多くの示唆をふくんでいる。

 もちろん、本書はすでに40年前のものであり、参考文献にかかげたような新しい研究を参照しなければならない。また本書でもっとも欠けているのは中国・朝鮮・ベトナムなどのアジアからの視座であろう。著者も認めているように、それは当時の世界政治のなかで大きな位置をもっていた「社会主義」の動きをどう評価するかという問題にも関わってくる。現在、日本のコミュニズムの側からも、この時期の国際政治におけるスターリンの異様にして巨大な罪悪が史料にもとづいて明瞭に描かれるようになっているが、私が国際キリスト教大学で武田の指導をうけていたころ、すでに武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが「20世紀社会主義」の全体主義的性格を強く批判していたことは記憶に新しい。こういう問題においては、時は過ぎ去らないものだと思う。

 歴史学においても、20世紀の歴史のすべてをあらためて見直すべき時期が来ていることは確実である。

参考文献
荒井信一『原爆投下への道』(東京大学出版会 、1985年)
中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』(岩波新書、1989年)
藤村信『ヤルター戦後史の起点』(岩波書店、1985年)
不破哲三『スターリン秘史』(新日本出版社、2014年)

2018年4月18日 (水)

歴史と神話を学ぶ


歴史は学ぶものー御自分の疑問は学界にとっても疑問である場合が多い
過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。
しかも、歴史学を含む社会科学や人文科学のみでなく、自然科学の力によって過去を新しい形で知ることが可能となっている。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。


人類史の成熟の季節?
人間の作りだしたものによって世界が破壊できるほどの状況が生まれている。歴史と自然に対する責任をふまえ、過去の事柄を正確に偏見なく、事実に即して理解することが成熟した社会のために決定的に重要になっている。人類史は成熟の季節に入らなければならない。
そのための歴史文化というものを考える。


神話の価値観を正確に読む
神話というものを素直に読むこと。そこには現代とは大きく違った価値観が存在する。
童話やファンタジーを読むように読むことが必要。
他面では、現代の倫理と比べて理解しがたい観念や習慣が存在する。たとえばイザナキ・イザナミ、オオヒルメムチ・スサノヲの兄弟結婚は現代の価値観とは異なる。だからといってそれを明らかにしないという態度は取らない。


神話を読むときの感じ方について
宗教的心理、呪術的心理を自分で経験しなければならない。けれども研究する場合は、それを外側から冷静に観察する目をもたなくてはならない。原始宗教や呪術を自分で信じようとするのではない。それは無理。むしろ自分を実験台にして観察すること。神話的心理というのは人間に通有のものでその意味では自分を実験台にできる。


神話研究の手続きーーあくまでも事実を重視
次ぎに重要なのは、神話の分析においては、なによりも事実を大事にすることが必要だということである。
手続きとしてはまず神話世界内部の事実の確定から進む。
第一が祭祀、制度と呪術組織、呪術の内容。第二が神名、言語分析。第三が神名分析を前提とした神格、第四が神話それ自体の分析
その上で、経済的・社会的・文化的・政治的な諸事実との照合に進む。


神話の研究はむずかしいーーあくまでも補助線
逆にいうと、神話の分析は、事実分析のための補助線を引くことができるかも知れないが、それだけでは事実を確定することはできない。歴史を考える本筋が神話研究であるとはいえない。
体系的な知識ー読書。
『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)
『物語の中世』(講談社学術文庫)


神話と過去への内省
1946年1月1日昭和天皇の詔書。神話は過去において政治的に利用された。政治利用とは、文化ではなく「架空ナル観念」(虚偽)として利用されたということ。この過去を明瞭に内省しておくことが必要。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」 、

2018年4月16日 (月)

天皇の身分行為と憲法学

 私は論文「日本前近代の国家と天皇」(『歴史学の挑んだ課題』)の冒頭で次のように書いた。


天皇制の遺存は独特な歴史現象であるといわれることがある。しかし、現代日本の国制が世界史的に独自な点は、むしろ元首自体が不在となっていることにある。それは第二次大戦の戦後処理の結果として生まれた。そこでは天皇の王身分が確認されたが、しかし、それは限定された国事行為の儀礼を標識とする身分であって、統治権も元首性も消去されている。大日本帝国憲法の「国の元首にして統治権を総攪す」という規定は廃棄され、帝国的天皇制あるいは絶対主義天皇制は倒壊した。それを曖昧にして、象徴天皇制は歴史上の天皇制の伝統に照応しているかのように論じてはならないというのが戦後派歴史学の立場であった(黒田俊雄 一九六七、永原慶二 一九八九)。


 現憲法の規定する日本国家に元首が存在するかどうか、あるいは存在するとしたら誰が元首かという問題については著名な法学者の間で重大な相違がある。私見は清宮四郎『法律学全集3 憲法Ⅰ』(有斐閣、1957年)が日本国家に元首は存在しないというのが至当であると考えるが、これは完全に孤立した見解である。たとえば小林直樹、樋口陽一氏などの諸氏の見解は曖昧であって、私には、これを曖昧にしたままでいられるのは、率直にいって憲法学者に歴史感覚が欠如しているためだと考えている。この点が曖昧では、日本国家の重要な特質の一つを捉えることはできない。元首のいない国家というのはきわめて珍しい国家であって、私たちはそれを正確に意識し、日本の将来構想の中に位置づけなければならない。

 さて、天皇の地位は君主でなく王権ももたないが、その王身分は承認されているというのは(拙著、『日本史学』、安田浩氏の著書『天皇の政治史』の紹介)、その私的行為が憲法と皇室典範に規定された範囲で法的な意味をもった身分行為として存在していることを意味する。それは法治国家として尊重せらるべきものである。身分行為である以上、それは本質的に私的な行為であるとはいっても、それは公的性格をもった身分行為なのである。それ故に譲位も本質的には私的行為であり、身分行為の枠内にあることは当然であって本質的な意味で公的行為であるということはいえないとしても、公的な性格を付与された身分行為となることは明らかである。譲位制度が日本の王権において七世紀に登場した日本王権の特殊な性格を表示するものであることは荒木敏夫『日本古代王権の研究』に指摘がある。

 なおいうまでもないことであるが、日本社会には法的な「身分」は存在しないというのが憲法の規定するところであるが、天皇の王身分は、その例外として存在を承認されているものである。しかし、それが一つの社会的な身分・階層意識の中に存在していることもいうまでもない。そのような「(社会的)身分」は憲法的な変革においても十分に慎重に扱うべきものであって、少なくとも私的・強行的に社会が廃止したり、逆に特権化したりするべきものではないことは、一九世紀から二〇世紀の世界史が明らかにした教訓である。その意味でも、将来の問題は、物事の流れと国民の総意によるとしかいいようがないものであると思う。

2018年4月12日 (木)

「無知が先か、無責任が先か」

 国家中枢部の状態について「これは無知のせいなのか、無責任のせいなのか」ということを考えさせられるというのはきついことである。

 もちろん、「無知が先か、無責任が先か」という言い方にはやや語弊がある。いうまでもなく、「知があればよい(賢ければよい)」、「責任をとっていればよい」ということではないからである。

 また、「無知が先か、無責任が先か」というのは、「鶏が先か、卵が先か」というのと同じことかもしれない。そして、こういう鶏・卵問題には通常、より根本的な問題があるということが多い。無知が中枢に侵入するというのは、いわば「無知」が社会的に浮上するという動力が働いているということである。その動力が何かということを、よく考えてみる必要があると思う。その側面からみれば、「無知」「無責任」が社会の中枢で脚光を浴びてしまうのは、同じ構造によるものだろう。

 しかし、それにしても、やはり「無知が先か、無責任が先か」というのは重要な問題だと思う。そして、どちらかといえば、これは「無知」が先なのではないか。「失敗学」という考え方があるが、「無知」というのは、そこからいえば「失敗」の初期条件だろう。
 「無責任」というのは、どちらかといえば「結果責任」に関わることで、うまくいっているうちは、「無責任」は問われないで済んでしまうことも多い。そういう局面が、これまで多かったのだろう。間違った初期条件から出発して、「責任」を取っていると、結局、「無責任」になるという訳である。

 日本の政治風土を「無責任の体系」として特徴づけたのは、よく知られているように、丸山真男であるが、ここから考えると、むしろ「無知の体系」というものが日本社会に根づいているということの方が重大な問題なのかもしれない。
 
 ともあれ、問題は日本社会の「体質」とか、社会風土、文化意識、政治意識などといわれる問題ではなく、社会のシステムや構造の問題、上の言い方では「無知」が中枢に押し上げられるような社会的動力の問題である。これをキチンと考えておかないと、私たちの国家は国際的に恥をかくということになりかねない。これも日本的な「恥の文化」かも知れないが、ともかく信じられない話である。

 以上、再掲。二〇一五年七月より。

2018年4月 5日 (木)

『老子』一八章。倫理に欠陥のある人々が倫理を説教する(一八章)

大道廃、有仁義。智恵出、有大偽。六親不和、有孝慈。国家昏乱、有忠臣。

大道廃(すた)れて仁義(じんぎ)有り。智慧出(いだ)でて大偽(たいぎ)有り。六親和せずして孝慈有り。国家昏乱(こんらん)して忠臣有り。

 道義を破壊しておいて仁義を説教し、智恵をつかってこれは偉大な人為であるなどという大嘘をつく。そして親族の中で喧嘩をしていながら孝行(こうこう)を説教し、国家を混乱させておきながら忠臣づらをする。そういう人々がいる。

解説
 〖木村注釈〗は本章を「世にもてはやされる仁義・知恵・孝慈・忠臣などに何ほどの価値があろうか。道が失われた結果、この世に出現した末世のあだ花にすぎない」と要約する。儒教の徳目は現実の悪化を反映しているにすぎない、という逆説的な批判が本章の趣旨であるというのである。それはその通りだろう。しかし、これに対して〖長谷川注釈〗は、老子は知識階級の知的興味に訴えるのでなく、むしろ多数者に対して、実際的関心にもとづいて感情的あるいは直感的にものを言うところに迫力があるとする。

 私も、本章を読むと、儒学に対する批判よりも、国家社会の現実、そしてそのような現実をもたらした国家中枢の人々に対する批判の激しさに打たれる。そこで、これまでの注釈書の訳とは異なり、「道義を破壊しておいて仁義を説教し」と訳して、それがまずは国家の中枢をにぎる人々への批判であることを明示した。これまでの訳は、「大道が失われたために」「あざとい理知が出現したために」「家族の親和が消えたために」「国家秩序が乱れたために」などとなっているが、それでは倫理を破壊し問題を作り出した当人たちが、シャアシャアと倫理を説教することへの批判という本章の趣旨が曖昧になってしまう。

 もちろん、老子の儒家批判は厳しいものがあったが、それは批判のための批判ではなかった。老子は、上記のような状態であるにもかかわらず、儒家がそれを不問にふして、遙か以前の孔子の倫理を国家の要路の人々に説き続けることに大きな違和感をもったのであろう。なお、この点で注意しておきたいのは、本章が楚簡にも存在していて、文意も変わっていないことである。このことは、本章が老子の学問の初心を示すものであり、老子は警世の念から出発して儒学の現状に対する違和感を深めたことを意味すると思う。

 老子の批判は、まず何よりも孟子に対する批判であった。つまり、本章冒頭に「大道廃(すた)れて仁義(じんぎ)有り」とある「仁義」を強調したのは孟子(前三七二?~二八九?)であった。「仁」については四九章ですでにふれたように「親しみ、恵み」という意味であり、「義」は正しいという意味であるが、『論語』には「仁」と「義」の倫理はあるが、「仁義」という連語は登場しない。「仁義」という言葉を作り、それを基準にして「恵み深く正しい政治」=「仁政」という政治理念を明瞭に打ち出したのは孟子であった。孟子はBC三二〇年頃に梁の恵王に仁義の道を説いて以降、斉(せい)国・滕(とう)国などの政治顧問として活動し、斉(せい)国の最高顧問としては燕国への戦争を進めたという。

 孟子の立場は君臣を中心とする身分秩序を重視するもので、その「仁義・仁政」は、実際には国家が民衆を支配する名義・名分をあたえるという面が大きかった。そこでは「仁」とは王侯・貴族の仁愛・慈悲に、「義」は君臣秩序の正しさに矮小化されたといってよい。孟子のそのような立場は、とくに平和主義と兼愛(身分を超えた博愛)にもとづく生産と福利の向上を掲げる墨家に対する攻撃に象徴されている。老子が批判したのは、何よりも、この孟子の仁義・仁政イデオロギーであった。

 そして本章二句目の「智慧出(いだ)でて大偽(たいぎ)有り」で批判の対象となったのは、やはり儒家の荀子(前三一三~二三八以降)であった。この句にでる「大偽(たいぎ)」とは、『荀子』(性悪篇)に「人の性は悪なり、その善は偽なり」とでる「偽」を意味している。荀子はいわゆる性悪説で有名であるが、むしろその性悪を矯正するための「為」(作為、人為)を強調し、そのための諸制度と礼を総合的に論じた思想家である。そして、「偽」の原意は必ずしも「いつわり・あざむき」ではなく、人為による物の変化をいうという(『字統』)。つまり、「為」と「偽」は相通じる意味をもって使われていたのである。

 荀子の立場は後の韓非子などの法家に近い。「智慧出(いだ)でて大偽(たいぎ)有り」とは、そのような知識の人為にもとづく国家思想が、「大いなる人為」であるどころか、やはり実際には「大いなる偽(いつわ)り」であるという強烈な皮肉あるいは批判であるのかもしれない。

 なお、この荀子批判を表現する「智慧出(いだ)でて大偽(たいぎ)有り」は楚簡には存在せず、楚簡が成立してから後、荀子の性悪説と「為・偽」の思想が知られてきた頃に追加されて、後の馬王堆の帛書にも反映したものとされており、これは『老子』という本がどのように出来上がってきたかを示す重大な事実であるともいう(〖池田注釈〗九一頁)。もとより、この追加の経過がどのようなものであったかは不明であるが、これによって『老子』に孟子から荀子へと儒学の中枢部への批判が追加されたことになる。その意味でも本章を孔子を含む儒家一般に対する批判であるということは躊躇されるのである。

 次の「六親和せずして孝慈有り」も同じ論理で「家族の中で喧嘩をしていながら孝行を説教する」と訳した。「六親」は「親子・兄弟・夫婦」であるというが、もう少し広く親族としてみた。これも直接には王侯・貴族の内部でのもめ事をいう。そして、「国家昏乱(こんらん)して忠臣有り」は説明不要だろう。ここには老子の強い義憤が率直に表現されている。

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