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2018年4月16日 (月)

天皇の身分行為と憲法学

 私は論文「日本前近代の国家と天皇」(『歴史学の挑んだ課題』)の冒頭で次のように書いた。


天皇制の遺存は独特な歴史現象であるといわれることがある。しかし、現代日本の国制が世界史的に独自な点は、むしろ元首自体が不在となっていることにある。それは第二次大戦の戦後処理の結果として生まれた。そこでは天皇の王身分が確認されたが、しかし、それは限定された国事行為の儀礼を標識とする身分であって、統治権も元首性も消去されている。大日本帝国憲法の「国の元首にして統治権を総攪す」という規定は廃棄され、帝国的天皇制あるいは絶対主義天皇制は倒壊した。それを曖昧にして、象徴天皇制は歴史上の天皇制の伝統に照応しているかのように論じてはならないというのが戦後派歴史学の立場であった(黒田俊雄 一九六七、永原慶二 一九八九)。


 現憲法の規定する日本国家に元首が存在するかどうか、あるいは存在するとしたら誰が元首かという問題については著名な法学者の間で重大な相違がある。私見は清宮四郎『法律学全集3 憲法Ⅰ』(有斐閣、1957年)が日本国家に元首は存在しないというのが至当であると考えるが、これは完全に孤立した見解である。たとえば小林直樹、樋口陽一氏などの諸氏の見解は曖昧であって、私には、これを曖昧にしたままでいられるのは、率直にいって憲法学者に歴史感覚が欠如しているためだと考えている。この点が曖昧では、日本国家の重要な特質の一つを捉えることはできない。元首のいない国家というのはきわめて珍しい国家であって、私たちはそれを正確に意識し、日本の将来構想の中に位置づけなければならない。

 さて、天皇の地位は君主でなく王権ももたないが、その王身分は承認されているというのは(拙著、『日本史学』、安田浩氏の著書『天皇の政治史』の紹介)、その私的行為が憲法と皇室典範に規定された範囲で法的な意味をもった身分行為として存在していることを意味する。それは法治国家として尊重せらるべきものである。身分行為である以上、それは本質的に私的な行為であるとはいっても、それは公的性格をもった身分行為なのである。それ故に譲位も本質的には私的行為であり、身分行為の枠内にあることは当然であって本質的な意味で公的行為であるということはいえないとしても、公的な性格を付与された身分行為となることは明らかである。譲位制度が日本の王権において七世紀に登場した日本王権の特殊な性格を表示するものであることは荒木敏夫『日本古代王権の研究』に指摘がある。

 なおいうまでもないことであるが、日本社会には法的な「身分」は存在しないというのが憲法の規定するところであるが、天皇の王身分は、その例外として存在を承認されているものである。しかし、それが一つの社会的な身分・階層意識の中に存在していることもいうまでもない。そのような「(社会的)身分」は憲法的な変革においても十分に慎重に扱うべきものであって、少なくとも私的・強行的に社会が廃止したり、逆に特権化したりするべきものではないことは、一九世紀から二〇世紀の世界史が明らかにした教訓である。その意味でも、将来の問題は、物事の流れと国民の総意によるとしかいいようがないものであると思う。

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