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2018年6月18日 (月)

9世紀の政治史を1000字で書くと噴火と地震の怨霊が入ってくる。

 9世紀の政治史を1000字で書けという要請で、朝からやっていた。どうしても噴火と地震の怨霊が入ってくる。

 そこに茨木・高槻での地震の情報。人がなくなっているという情報。きつい。

 熊本地震のときから、そして昨年霧島にいってからも、地震噴火との追いかけっこで研究をしているという感じになっている。早く地震火山神話論を仕上げたいといろいろ他の仕事も入る。

 先日も地震研に行ったが、大地動乱と追いかけっこで研究しているというのは地震学・火山学の人と話していると実感する。

  

 桓武が山城北部に再遷都を強行した背景には、長岡京が弟の皇太子早良に反乱の嫌疑をかけて自死に追い込んだ現場であるという事情があった。晩年の桓武は早良の怨霊への恐怖の中で過ごした。桓武が平城・嵯峨・淳和の三人の息子に王位継承権をあたえて競わせる態度をとったのは、この不安に原因がある。しかし、それが裏目にでて、まず平城上皇クーデター事件(810年)で平城が脱落し、嵯峨から淳和への移行は無事だったものの、嵯峨の息子仁明天皇と淳和の息子恒貞皇太子のペアのとき、皇太子が反乱を疑われ廃位された(842年)。この内紛の中で憤死した平城の側近藤原仲成、廃太子恒貞の側近橘逸勢、文室宮田麻呂などが怨霊の列に加わった。

 王統を統一した仁明は大きな権威をもったが、そのため仁明の死は子文徳の即位のみでなく孫の清和を一歳で皇太子につけるという結果を導き、しかも文徳が在位8年で死去したために清和は幼帝即位したのである。この急激な変化が原因となった廟堂の矛盾の中で応天門放火事件が発生し、仁明の側近であった伴善男が配流され、死去して再び怨霊となったのである。

 9世紀は富士の大噴火、播磨地震、陸奥大地震など日本列島の噴火・地震の活発期であったが、それたが怨霊の引き起こしたものと観念されたことが政治の混迷を激しくした。もっとも重大であったのは、菅原道真の怨霊化の問題である。つまり、清和の子の陽成が殺人事件を起こし退位したために王位は仁明の子ですでに老齢の光孝に戻ったが、その子宇多は抜擢した菅原道真の娘を息子の嫁にした。そこに男児が生まれるに及んで、退位した宇多と現天皇醍醐との間隙が大きくなり、その中で攻撃された道真は配流された太宰府で死去し怨霊となったのである。

 そして後々まで強い影響を残したのは、醍醐が清涼殿への落雷のショックで死去したことであった。それのみでなく、さらに二人の皇太子を含む天皇の子・孫などが相次いで死去し、後を襲った子どもの朱雀天皇にも男児がなく、王権の血統が不安定であったことが道真の怨霊への恐れを決定的なものとした。とくに朱雀がようやく元服した翌々939年、平将門が道真の怨霊によって新皇に叙任されたと称して反乱に決起したことは朝廷を大きく動揺させた。道真は普通、雷神とされるが、将門反乱後に吉野に籠もった僧は、道真が吉野の地下で雷神のみでなく地震神を従えているのを目撃したともいい、それが938年畿内大地震などの天変地妖への恐怖からうまれた観念であった可能性は高い。

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