奈良時代から平安時代への変化について短く論じました。
奈良時代から平安時代への変化について短く論じました。
日本の政治にはたくさんのハムレットがいたわけです。
奈良王朝は天武と持統、さらには二人に非常に近い位置にあった藤原不比等の血をうけるものに王位継承を限ろうとした。それは一方で王家内部の激しい殺し合いと男系断絶をまねき、他方で参議の地位を藤原氏が半ば独占する状態をもたらした。8世紀初めにはヤマト時代の伝統をうけて参議は石上・阿部・大伴などの各畿内氏族からもでており、その下で伝統的な畿内氏族が太政官と役所を分担していたが、それが崩壊したのである。
これに対して、天智系から立った光仁は妻の聖武の娘と二人の間に生まれた皇太子を死に追い込み(光孝は彼らの怨霊が地震を起こすと考えて恐怖したことが資料に残っている)を、新たな皇統の形成に舵を切った。そして光仁の跡を嗣いだ桓武は閨閥を藤原氏の式家のみに限定し、最有力であった北家の長者藤原魚名を失脚させ(782年)、奈良王朝の廟堂秩序を崩した。桓武は参議に渡来系氏族を加えたが、畿内氏族の登用を維持することはなく、畿内氏族の合議体というヤマト王権の伝統的な性格も消滅した1。ここでヤマト時代は終わり、いわゆる王朝国家の時代に入ったのである。
決定的なのは、桓武が権力の基盤を8世紀の経過を通じて発展した中央都市域においたことである。桓武は、王都を列島の真ん中、瀬戸内海・琵琶湖・日本海を繋ぐ水上交通と陸上交通の結節点であって山城国に移した。それは山城の南部、長岡京(784年)、次に山城の北部(「平安京」794年)という経過をたどったが、ここでは前者を山城京(長岡)、後者を山城京と表記する。そこに集中する交通・情報網の掌握を通じて莫大な富を享受するようになったことが、都市王権といわれるシステムの基盤になった。そこでは王権は貴族集団を代表して、首都圏を掌握し、また全体として都市・農村関係をおさえていた。その本質は都市貴族的な所有といわれるが、それは都市に集住した貴族による集団的な所有であって、それを王が代表している以上、国家的な所有という形をとる。
(ただし、王によって代表された畿内氏族の統一体が地方の共同体を支配する、奈良時代までの国家的所有とは本質が異なっている)。