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2018年6月

2018年6月20日 (水)

奈良時代から平安時代への変化について短く論じました。

 奈良時代から平安時代への変化について短く論じました。

 日本の政治にはたくさんのハムレットがいたわけです。

 奈良王朝は天武と持統、さらには二人に非常に近い位置にあった藤原不比等の血をうけるものに王位継承を限ろうとした。それは一方で王家内部の激しい殺し合いと男系断絶をまねき、他方で参議の地位を藤原氏が半ば独占する状態をもたらした。8世紀初めにはヤマト時代の伝統をうけて参議は石上・阿部・大伴などの各畿内氏族からもでており、その下で伝統的な畿内氏族が太政官と役所を分担していたが、それが崩壊したのである。

 これに対して、天智系から立った光仁は妻の聖武の娘と二人の間に生まれた皇太子を死に追い込み(光孝は彼らの怨霊が地震を起こすと考えて恐怖したことが資料に残っている)を、新たな皇統の形成に舵を切った。そして光仁の跡を嗣いだ桓武は閨閥を藤原氏の式家のみに限定し、最有力であった北家の長者藤原魚名を失脚させ(782年)、奈良王朝の廟堂秩序を崩した。桓武は参議に渡来系氏族を加えたが、畿内氏族の登用を維持することはなく、畿内氏族の合議体というヤマト王権の伝統的な性格も消滅した1。ここでヤマト時代は終わり、いわゆる王朝国家の時代に入ったのである。

 決定的なのは、桓武が権力の基盤を8世紀の経過を通じて発展した中央都市域においたことである。桓武は、王都を列島の真ん中、瀬戸内海・琵琶湖・日本海を繋ぐ水上交通と陸上交通の結節点であって山城国に移した。それは山城の南部、長岡京(784年)、次に山城の北部(「平安京」794年)という経過をたどったが、ここでは前者を山城京(長岡)、後者を山城京と表記する。そこに集中する交通・情報網の掌握を通じて莫大な富を享受するようになったことが、都市王権といわれるシステムの基盤になった。そこでは王権は貴族集団を代表して、首都圏を掌握し、また全体として都市・農村関係をおさえていた。その本質は都市貴族的な所有といわれるが、それは都市に集住した貴族による集団的な所有であって、それを王が代表している以上、国家的な所有という形をとる。

 (ただし、王によって代表された畿内氏族の統一体が地方の共同体を支配する、奈良時代までの国家的所有とは本質が異なっている)。

2018年6月18日 (月)

摂関期の政治史を1000字で書く。この時代は地震がない時代。

 10世紀後半から11世紀(王統迭立期)の政治史を以下のように1000字で書く仕事をやった。

 一昨日からの続きである。『平安王朝』などで書いたことを書き直した概説なので、ブログにあげる。
 
 大阪が心配である。しかし、ともかく仕事を進めるほかない。

 これはいわゆる摂関時代であるが、この時代は地震がない時代という特徴がある。そんなことは3,11の前にはきづかなかった。後三条の院政期は祇園社が地震でやられたところから始まる。
 地震と政治史には深い関係がある。
 


 男児がないまま朱雀が死去した後、醍醐天皇の末子村上が946年に即位したが、しばらくして長男の冷泉が誕生した。冷泉の誕生は朱雀の即位後、20年間も待たれていた醍醐の孫の世代の王の登場である。将門・純友の反乱も鎮圧されており、9世紀に根を引く怨霊の時代は終了し、王権の前途は洋々としたものにみえた。
 問題は、969年、冷泉が精神の強度な失調によって退位したことである。これによって冷泉の弟の円融が11歳で天皇となり、冷泉の子どもの花山が2歳で皇太子となった。天皇と皇太子が政務を取れない年齢で、しかも叔父・甥の関係ではあるが、相互関係を調整する親族がいないという異常事態である。ここに円融の関白となった藤原兼通、それに対して冷泉と花山に忠義を誓い冷泉に娘超子を娶せた藤原兼家の摂関家の兄弟が、天皇と皇太子を支援して激しく対立するという事態が発生した。円融は現天皇であるが、上記の経過からいって、朝廷には冷泉を継ぐ花山こそが正統な血統であるという雰囲気が強い。こうして朝廷の紛争は泥沼化したが、しかし、10歳の年齢差は大きく、兼通が死去したこともあって、兼家は皇太子、花山の支持者としての立場を棄てて、円融に娘詮子をめあわせ、二人の間からは後の一条天皇が生まれた。冷泉に娶せた超子からは、後の三条が生まれていたから、兼家は円融系と冷泉系の二人の王を聟として外孫を儲けたということになる。対立する王統に両天秤をかけるというやり方である。
 こうして円融が退位して上皇となり、皇太子花山が即位し、その皇太子は一条となることによって王位の迭立が始まった。しかし、その初発で、花山は嫌気がさして二年ほどで有名な出家事件を起こして退位してしまい、一条が即位し、その皇太子には花山の弟、三条がつくという巡りとなった。この天皇一条・皇太子三条に対して、兼家の長男、藤原道隆も親父の兼家と同様、定子・原子という二人の娘を娶せ両天秤をかけた。
 摂関家はこのように両王統に娘を配置し、調停権力として権力中枢を掌握するというやり方をとったのであるが、道隆は急死してしまう。道長の登場である。道長は一条に娘の彰子を娶せ、道隆娘の定子を(定子の兄たちを挑発することによって)出家に追いこみ、他方で定石通りに、三条にも二女の妍子を娶せた。そしてさらに一条の子にも娘の威子を娶せた。この過程で、三条の子の小一条院は皇太子の地位を自らおり、両統の迭立は終わったのである。これは王家において円融系の実力が圧倒的となったことの結果であるが、丁寧なことに道長は皇太子を下りた小一条院にももう一人の娘を嫁入らせている。道長の権威は多くの娘をもち、彼女らを両統の天皇に嫁入らせたという偶然的要因によるものである。
 以上のような迭立の経過を確認すると、(1)冷泉、(2)円融、(3)花山(冷泉子)、(4)一条(円融子)、(5)三条(冷泉子)、(6)後一条(一条子)、(7)小一条院(三条の子、後一条の皇太子)ということになる(下線が冷泉系)。普通、この時代を摂関時代と呼ぶが、それは摂関制を王権の衰弱と理解するためであり、それは正しくない。この経過からも明らかなように、この時代は王統迭立期と呼びたい。

9世紀の政治史を1000字で書くと噴火と地震の怨霊が入ってくる。

 9世紀の政治史を1000字で書けという要請で、朝からやっていた。どうしても噴火と地震の怨霊が入ってくる。

 そこに茨木・高槻での地震の情報。人がなくなっているという情報。きつい。

 熊本地震のときから、そして昨年霧島にいってからも、地震噴火との追いかけっこで研究をしているという感じになっている。早く地震火山神話論を仕上げたいといろいろ他の仕事も入る。

 先日も地震研に行ったが、大地動乱と追いかけっこで研究しているというのは地震学・火山学の人と話していると実感する。

  

 桓武が山城北部に再遷都を強行した背景には、長岡京が弟の皇太子早良に反乱の嫌疑をかけて自死に追い込んだ現場であるという事情があった。晩年の桓武は早良の怨霊への恐怖の中で過ごした。桓武が平城・嵯峨・淳和の三人の息子に王位継承権をあたえて競わせる態度をとったのは、この不安に原因がある。しかし、それが裏目にでて、まず平城上皇クーデター事件(810年)で平城が脱落し、嵯峨から淳和への移行は無事だったものの、嵯峨の息子仁明天皇と淳和の息子恒貞皇太子のペアのとき、皇太子が反乱を疑われ廃位された(842年)。この内紛の中で憤死した平城の側近藤原仲成、廃太子恒貞の側近橘逸勢、文室宮田麻呂などが怨霊の列に加わった。

 王統を統一した仁明は大きな権威をもったが、そのため仁明の死は子文徳の即位のみでなく孫の清和を一歳で皇太子につけるという結果を導き、しかも文徳が在位8年で死去したために清和は幼帝即位したのである。この急激な変化が原因となった廟堂の矛盾の中で応天門放火事件が発生し、仁明の側近であった伴善男が配流され、死去して再び怨霊となったのである。

 9世紀は富士の大噴火、播磨地震、陸奥大地震など日本列島の噴火・地震の活発期であったが、それたが怨霊の引き起こしたものと観念されたことが政治の混迷を激しくした。もっとも重大であったのは、菅原道真の怨霊化の問題である。つまり、清和の子の陽成が殺人事件を起こし退位したために王位は仁明の子ですでに老齢の光孝に戻ったが、その子宇多は抜擢した菅原道真の娘を息子の嫁にした。そこに男児が生まれるに及んで、退位した宇多と現天皇醍醐との間隙が大きくなり、その中で攻撃された道真は配流された太宰府で死去し怨霊となったのである。

 そして後々まで強い影響を残したのは、醍醐が清涼殿への落雷のショックで死去したことであった。それのみでなく、さらに二人の皇太子を含む天皇の子・孫などが相次いで死去し、後を襲った子どもの朱雀天皇にも男児がなく、王権の血統が不安定であったことが道真の怨霊への恐れを決定的なものとした。とくに朱雀がようやく元服した翌々939年、平将門が道真の怨霊によって新皇に叙任されたと称して反乱に決起したことは朝廷を大きく動揺させた。道真は普通、雷神とされるが、将門反乱後に吉野に籠もった僧は、道真が吉野の地下で雷神のみでなく地震神を従えているのを目撃したともいい、それが938年畿内大地震などの天変地妖への恐怖からうまれた観念であった可能性は高い。

2018年6月17日 (日)

いわゆる「院政期」の政治史を1000字で書けという要請に答えて。

 いわゆる「院政期」の政治史を1000字で書けという要請に答えて。

 以下の通り。ただ、10世紀から11世紀を「摂関期」というのはまずくて、「冷泉・円融の二つの王統の迭立期」であるというのが前提となります。王統が迭立する(代わる代わる立つ)というと「鎌倉時代」後期の大覚寺統・持明院統というのが教科書の知識ですが、この迭立が10世紀にもあるというのが決定的な知識であるというのが私見です。

王家専制期の政治史(1000字)

 父を円融系、母を冷泉系にもつ後三条天皇が即位し、王統が合体したことは王権を大きく変化させた。後三条の後をうけて白河が作り出したのは、王家の家父長が「院」という称号の下で作り出した王家専制の体制であった。その専制的性格は後に承久の乱において消失したが、「院政」という制度自体は、15世紀にいたるまで王権の基本的な形となった。「院政」はむしろ正統的な天皇制のあり方であったことに注意する必要がある。それと区別するため、この時期を王家専制期と称することとするが、この王家専制の形骸化が「院政」を作り出したことにも注意されたい。

 王家が専制の傾向を強めた理由は、一統化することによって逆に王権内部の紛議が激化したことにある。実は後三条は母の冷泉系の血を汲む実仁を白河の皇太子とし、そこに王統を流そうとしていた。これに対する白河の反発が自己の血統への固執をもたらし、子の堀河の死去後の政治危機の中で孫の幼帝鳥羽に養女の少女璋子を娶せ、しかも彼女を自己の性的対象としたことである。白河には『源氏物語』の紫上幻想を地で行くという意識があったという。鳥羽と璋子の間に生まれた崇徳が白河の胤であるという噂が発生したのは当然であった。崇徳は曾祖父に溺愛されて即位したが、白河死去後、鳥羽は崇徳を退位させて、異母弟の近衛を即位させる。崇徳は、父の鳥羽が近衛が若死にしても弟の後白河を即位させ、自分の子どもに王位は回そうとしないのをみて、1156年、父の死去と同時に後白河に対してクーデターを起こした。このような王族内の愛憎劇は限度をしらず、勝利した後白河は退位して子どもの二条を即位させたが、二条が前帝近衛の妻を妃にむかえ父鳥羽の周囲の勢力と通ずるのを嫌った。こうして1159年、後白河は男色関係にある近臣が二条を攻撃することを容認し、王都は二度目の合戦に突入した。

 このように王家専制は王家内部矛盾の激しさの表現であった。この時期の王家内紛は従来のような兄弟、親族間の内紛ではなく父子間の対立、しかも院と天皇の対立という決定的なスタイルをとったのである。武力によってすべてを決着するしかない時代の開始である。結局、この二度の合戦の中で、勝者として現れたのは平清盛であった。こうして1168年、後白河と清盛の義妹との間に生まれた高倉が即位し、武家を外戚とする平家王朝が形成されたのである。

 しかし、それは続くことはなく、1179年、後白河と高倉の父子関係が破綻し、後白河が鳥羽殿に幽閉されるや、歴史を20年前に戻そうという敗者源氏の蜂起が全国をおおうことになった。

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