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2018年6月18日 (月)

摂関期の政治史を1000字で書く。この時代は地震がない時代。

 10世紀後半から11世紀(王統迭立期)の政治史を以下のように1000字で書く仕事をやった。

 一昨日からの続きである。『平安王朝』などで書いたことを書き直した概説なので、ブログにあげる。
 
 大阪が心配である。しかし、ともかく仕事を進めるほかない。

 これはいわゆる摂関時代であるが、この時代は地震がない時代という特徴がある。そんなことは3,11の前にはきづかなかった。後三条の院政期は祇園社が地震でやられたところから始まる。
 地震と政治史には深い関係がある。
 


 男児がないまま朱雀が死去した後、醍醐天皇の末子村上が946年に即位したが、しばらくして長男の冷泉が誕生した。冷泉の誕生は朱雀の即位後、20年間も待たれていた醍醐の孫の世代の王の登場である。将門・純友の反乱も鎮圧されており、9世紀に根を引く怨霊の時代は終了し、王権の前途は洋々としたものにみえた。
 問題は、969年、冷泉が精神の強度な失調によって退位したことである。これによって冷泉の弟の円融が11歳で天皇となり、冷泉の子どもの花山が2歳で皇太子となった。天皇と皇太子が政務を取れない年齢で、しかも叔父・甥の関係ではあるが、相互関係を調整する親族がいないという異常事態である。ここに円融の関白となった藤原兼通、それに対して冷泉と花山に忠義を誓い冷泉に娘超子を娶せた藤原兼家の摂関家の兄弟が、天皇と皇太子を支援して激しく対立するという事態が発生した。円融は現天皇であるが、上記の経過からいって、朝廷には冷泉を継ぐ花山こそが正統な血統であるという雰囲気が強い。こうして朝廷の紛争は泥沼化したが、しかし、10歳の年齢差は大きく、兼通が死去したこともあって、兼家は皇太子、花山の支持者としての立場を棄てて、円融に娘詮子をめあわせ、二人の間からは後の一条天皇が生まれた。冷泉に娶せた超子からは、後の三条が生まれていたから、兼家は円融系と冷泉系の二人の王を聟として外孫を儲けたということになる。対立する王統に両天秤をかけるというやり方である。
 こうして円融が退位して上皇となり、皇太子花山が即位し、その皇太子は一条となることによって王位の迭立が始まった。しかし、その初発で、花山は嫌気がさして二年ほどで有名な出家事件を起こして退位してしまい、一条が即位し、その皇太子には花山の弟、三条がつくという巡りとなった。この天皇一条・皇太子三条に対して、兼家の長男、藤原道隆も親父の兼家と同様、定子・原子という二人の娘を娶せ両天秤をかけた。
 摂関家はこのように両王統に娘を配置し、調停権力として権力中枢を掌握するというやり方をとったのであるが、道隆は急死してしまう。道長の登場である。道長は一条に娘の彰子を娶せ、道隆娘の定子を(定子の兄たちを挑発することによって)出家に追いこみ、他方で定石通りに、三条にも二女の妍子を娶せた。そしてさらに一条の子にも娘の威子を娶せた。この過程で、三条の子の小一条院は皇太子の地位を自らおり、両統の迭立は終わったのである。これは王家において円融系の実力が圧倒的となったことの結果であるが、丁寧なことに道長は皇太子を下りた小一条院にももう一人の娘を嫁入らせている。道長の権威は多くの娘をもち、彼女らを両統の天皇に嫁入らせたという偶然的要因によるものである。
 以上のような迭立の経過を確認すると、(1)冷泉、(2)円融、(3)花山(冷泉子)、(4)一条(円融子)、(5)三条(冷泉子)、(6)後一条(一条子)、(7)小一条院(三条の子、後一条の皇太子)ということになる(下線が冷泉系)。普通、この時代を摂関時代と呼ぶが、それは摂関制を王権の衰弱と理解するためであり、それは正しくない。この経過からも明らかなように、この時代は王統迭立期と呼びたい。

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