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2018年6月17日 (日)

いわゆる「院政期」の政治史を1000字で書けという要請に答えて。

 いわゆる「院政期」の政治史を1000字で書けという要請に答えて。

 以下の通り。ただ、10世紀から11世紀を「摂関期」というのはまずくて、「冷泉・円融の二つの王統の迭立期」であるというのが前提となります。王統が迭立する(代わる代わる立つ)というと「鎌倉時代」後期の大覚寺統・持明院統というのが教科書の知識ですが、この迭立が10世紀にもあるというのが決定的な知識であるというのが私見です。

王家専制期の政治史(1000字)

 父を円融系、母を冷泉系にもつ後三条天皇が即位し、王統が合体したことは王権を大きく変化させた。後三条の後をうけて白河が作り出したのは、王家の家父長が「院」という称号の下で作り出した王家専制の体制であった。その専制的性格は後に承久の乱において消失したが、「院政」という制度自体は、15世紀にいたるまで王権の基本的な形となった。「院政」はむしろ正統的な天皇制のあり方であったことに注意する必要がある。それと区別するため、この時期を王家専制期と称することとするが、この王家専制の形骸化が「院政」を作り出したことにも注意されたい。

 王家が専制の傾向を強めた理由は、一統化することによって逆に王権内部の紛議が激化したことにある。実は後三条は母の冷泉系の血を汲む実仁を白河の皇太子とし、そこに王統を流そうとしていた。これに対する白河の反発が自己の血統への固執をもたらし、子の堀河の死去後の政治危機の中で孫の幼帝鳥羽に養女の少女璋子を娶せ、しかも彼女を自己の性的対象としたことである。白河には『源氏物語』の紫上幻想を地で行くという意識があったという。鳥羽と璋子の間に生まれた崇徳が白河の胤であるという噂が発生したのは当然であった。崇徳は曾祖父に溺愛されて即位したが、白河死去後、鳥羽は崇徳を退位させて、異母弟の近衛を即位させる。崇徳は、父の鳥羽が近衛が若死にしても弟の後白河を即位させ、自分の子どもに王位は回そうとしないのをみて、1156年、父の死去と同時に後白河に対してクーデターを起こした。このような王族内の愛憎劇は限度をしらず、勝利した後白河は退位して子どもの二条を即位させたが、二条が前帝近衛の妻を妃にむかえ父鳥羽の周囲の勢力と通ずるのを嫌った。こうして1159年、後白河は男色関係にある近臣が二条を攻撃することを容認し、王都は二度目の合戦に突入した。

 このように王家専制は王家内部矛盾の激しさの表現であった。この時期の王家内紛は従来のような兄弟、親族間の内紛ではなく父子間の対立、しかも院と天皇の対立という決定的なスタイルをとったのである。武力によってすべてを決着するしかない時代の開始である。結局、この二度の合戦の中で、勝者として現れたのは平清盛であった。こうして1168年、後白河と清盛の義妹との間に生まれた高倉が即位し、武家を外戚とする平家王朝が形成されたのである。

 しかし、それは続くことはなく、1179年、後白河と高倉の父子関係が破綻し、後白河が鳥羽殿に幽閉されるや、歴史を20年前に戻そうという敗者源氏の蜂起が全国をおおうことになった。

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