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2018年7月

2018年7月11日 (水)

新潮社で日本通史の講演をします。7月27日より。

新潮社で日本通史の講演をします。「新しい時代区分」で日本史を学び直す」

最初は7月27日です。朝日の村山正司編集委員がつきあってくれるという形です。

下記がその趣旨がある新潮社のページです。
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/012kzfzhiscx.html
申し込みもそこからです。

 簡単に時代の特徴を話し、村山さんの質問をうけて詳しく話すという形式ですが、各回、概説のペーパーを配る予定で、日本史全体についてだいたいの研究の到達点と私が考えることについて御話しする予定です。
 第三回目、明治期まで話すというのが約束です。


 新潮社ページより
「新しい時代区分」で日本史を学び直す」

 もはや「平安時代」も「鎌倉時代」も理屈に合わない――「新しい時代区分」で日本史を見直すことにより、大きな時代の流れをつかみ取る白熱歴史講義を開講します。

7月は、「弥生時代・飛鳥時代・奈良時代」を「無紋土器時代・祭銅器時代・古墳時代・大和時代」と読み直します。倭の五王や継体大王の時代までを「古墳時代」、6世紀半ばの欽明大王の時代からを「大和時代」と見直すことで、天皇制の黎明期に迫ります。

8月は、「平安時代・鎌倉時代・室町時代」を「山城時代・北条時代・足利時代」と読み直します。1221年の承久の乱によって始まった「北条時代」が、日本史を大きく二分する画期であったことを解説します。

9月は、「安土桃山時代・江戸時代」を「織豊時代・徳川時代」と読み直します。そして、明治新政府が「疑似儒教国家」であったことを、これまでの時代区分の議論を踏まえて説明していきます。

【第1回】7月27日(金)19時~20時半

     無紋土器(弥生)時代と祭銅器時代

     古墳時代と王権神話

     大和時代と律令王権

【第2回】 8月31日(金)19時~20時半

     山城時代と都市王権

     北条時代と簒奪(武臣)王権

     足利時代と武臣王権

【第3回】 9月28日(金)19時~20時半

     織豊時代と帝国の幻想

     徳川時代と大君王権

     明治時代と擬似儒教国家

【日時】

2018年 7/27(金)、8/31(金)、9/28(金)

        19:00~20:30 全3回
     ※教室開場は30分前です。

【受講料】9,720円(税込3,240円×3回)

【講師紹介】

保立道久 東京大学名誉教授・元史料編纂所長

1948年、東京都生まれ。1973年国際基督教大学卒業。1975年東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。1976年に東京大学史料編纂所助手、1987年同助教授、1995年同教授。2005年から2007年まで同所長をつとめる。2013年定年退任。専攻は日本中世史。主な著書に、『平安王朝』『歴史のなかの大地動乱-奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書)、『物語の中世神話・説話・民話の歴史学』(講談社学術文庫)、『義経の登場
王権論の視座から』(NHKブックス)、『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房歴史科学叢書)など。

(聞き手)村山正司 朝日新聞編集委員

1962年、群馬県桐生市生まれ。一橋大学社会学部卒業。1986年に朝日新聞社に入社。新聞の文化面やオピニオン面、雑誌「論座」などで、人文・社会科学の新しい動向を記事にしたり、寄稿の編集者を務めたりしてきた。共著に『肖像画をめぐる謎 顔が語る日本史』(世界文化社)など。

2018年7月 7日 (土)

平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波(『HUMAN』Vol3、2012年12月)

 平安鎌倉時代の山崩れを含む洪水の史料を探索して書いた論文を公開します。

 大雨での死者が多数に上るという状態が起きないように国土計画と防災を本格的に考えるべき時期であることは明らかだと思います。歴史学も災害史という側面から何か下支えをすることが求められていると思います。

平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波(『HUMAN』Vol3、2012年12月。人間文化研究機構編)

 二・三年前から、この列島を襲う集中豪雨によって各地で山地が地盤崩壊を起こしているという。地質学・土木工学の研究者は、それを深層崩壊(deep-seated landslide)と呼んで国土の安全の保守について警告を発している。とくに二〇一一年三月一一日の東日本太平洋岸地震の揺れは、福島県の葉の木平で、とても地崩れが起こるとは思えないような緩斜面を一挙に崩壊させ、大きな被害を出した。また九月には豪雨が紀伊半島を襲い、和歌山県十津川で谷間の村が対岸の山の深層崩壊によって埋没したことも記憶に新しい。
 このような山地の地盤崩壊は、ただの山崩れというよりも山津波というべきものであろう。集中豪雨は温暖化にともなう気候の不安定化の表現であり、海水温の上昇が直接のきっかけになるという。そして地震がしばしば地盤を揺することが、その深層崩壊に結びつくこともいうまでもない。もちろん、これらは、まずは二〇世紀に進行した国土の乱開発の結果であると考えなければならないが、同時に、温暖化の中で地震の活発期が到来したという条件が、それを倍加しているのである。国土の保守ということが身近な話題となる時代が到来しており、歴史学もそれと無縁ではいられないと思う。

堰止め湖の形成と決壊

 さて、先日刊行した『歴史のなかの大地動乱ー奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書、二〇一二年八月)で述べたように、八・九世紀も地震の頻発と温暖化の時代であった。八六九年(貞観十一)に発生した陸奥海溝地震(「貞観地震」)は、三・一一東日本太平洋岸地震とほぼ同じ震源と起震構造をもっていた。私は、この地震の規模が、ここ一〇年ほどの地質学者の調査によって震災前にすでに明らかとなっていたことを知らず、あわてて研究に取り組み始めたが、その中で、この時代、しばしば地震や噴火による山間での堰止め湖の形成とその決壊による災害が起きていたことを知った。それは現在起きている問題と基本的に相似した、まさに山津波=深層崩壊の問題である。右の拙著で概観したように、七一五年(和銅八)の遠江(とおとうみ)・三河地(M6,5-7,5)震にともなう洪水、八一八年(弘仁(こうにん)九)の北関東地震(M7,5以上)にともなう「水潦」(洪水)、八八七年(仁和三)の南海トラフ地震(M8~8,5)にともなう八ヶ岳山体の崩壊によって形成された古千曲湖(こちくまこ)の決壊にともなう大洪水などは、その明瞭な事例である。
 さて、このような山地の地盤崩壊の問題を八・九世紀の史料に即して初めて指摘したのは、『古地震』(東京大学出版会、一九八二年)にのった論文「弘仁九年七月地震」(萩原尊禮・山本武夫)であろう。この論文は右にあげた八一八年の北関東地震の史料に「上野(こうづけ)等の境、地震災をなし、水潦相仍(あいかさな)り」とあることを詳しく論じた。それまでの地震学の見解では、この史料のいう「水潦」は津波と誤解されていたが、史料編纂所の山本武夫は、「水潦」とは「洪水」を意味する語であり、この記事は上野国あたりで山地に堰止め湖が形成され、その決壊によって洪水が発生したのであろうと解釈したのである。それまで地震学の側では、南関東も津波に襲われたと考えていた訳であるが、山本氏の歴史地震研究への参加によって、この地震は北関東の内陸地震であることが確定したのである。
 また現在の状況との関係で重要なのは、最後にあげた八八七年の東海南海大津波地震による大洪水であろう。この地震が東海南海大地震であることを論証したのは石橋克彦の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4、一九九九)であるが、石橋は、この論文で、同時に、『日本紀略』に記された翌八八八年の信濃の大洪水は、この地震によって信濃の北八ヶ岳の山体の一部が崩壊して、千曲川に塞き止め湖ができ、それが梅雨時に決壊して引き起こしたものと推定した。そして、現在では、この提言をうけて、考古学・土木工学の全体の研究が進み、この大洪水の規模が明らかとなっている。
 シミュレーションによれば、JR松原湖駅付近の河道閉塞によって形成された古千曲湖は、湛水高一三〇メートル、湛水量五.八億トン、その決壊時の洪水流の流量は約三.五万平方メートル/秒、流速一.六から五.〇メートル/秒(井上公夫ほか「八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(八八七)と決壊」(『日本の天然ダムと対応策』、古今書院、二〇一一年)。そしてその洪水によって佐久・埴科・更級の千曲川流域一帯にひろがる広大な九世紀の条里水田が埋没し、回復不能なほどのダメージを受けた。それを明らかにした長野県の考古学関係者による、この五〇年ほどの営々とした発掘調査の成果は、柳澤亮がまとめている(「仁和の洪水と善光寺平の開発」(『考古学からみた災害と復興』東国古代遺跡研究会、二〇一二年)。予想される南海トラフを震源とする地震が東海地震と連動するかは不明であるが、この九世紀の東海南海連動地震の引き起こした大洪水の詳細は多くの人々に伝えるべき歴史地質学の知識であると思う。

但馬国伊由庄百姓の解状

 このような山津波というべき災害は、この地震列島ではしばしば発生していたに違いない。ただ、右にみた八・九世紀は六国史によって、地方史料が編纂物に残されるルートが存在したが、平安・鎌倉時代には、そのようなルートは失われた。それ故に、それを探るためには文献史学の範囲を越えて、地質学・地震学・考古学の学際的な協力が期待されるが、文献史学の立場からも精細な調査を試みるべきものと思う。京都の貴族は首都圏の外のことを自分の日記に書く必要を感じていないが、しかし、当時の社会は、けっして無文字社会ではなく、むしろ災害が発生すれば、必ず文字に書かれて活発に伝達される社会である。それ故に、史料の探索と読み込みによって災害史の史料を発見する可能性はまだ残っているのである。
 ここではまず筆者が気づいた但馬(たじま)国朝来(あさご)郡の伊由庄(いゆのしょう)の史料に残る大洪水の史料を紹介してみたい。それは藤原為隆という平安時代末期の貴族の貴族の日記の紙背に残された伊由庄百姓の解状(げじょう)である(『京都大学文学部博物館の文書、一一輯 永昌記紙背文書』思文閣出版、一九九三年)。それによれば、鎌倉時代初めの一一九九年(正治一)六月二日から八月六日にかけて、伊由庄では六六日間も干天が続き激しい旱魃(かんばつ)となっていた。ところが、伊由庄百姓が、その事情を訴えた申状(もうしじょう)を提出した直後、今度は、八月十八日の子剋(ねのこく)(夜一二時)から十九日にかけての豪雨に襲われたのである。その直後、百姓たちは洪水の被害を訴え年貢の減免のための調査を訴える二度目の解状を提出した。
 現在残っているのは、この二度目の解状であるが、その末尾では、但馬国の惨状を、飢餓に襲われた「食を求めて得がたきの人々、食物を貪る事、餓鬼に異ならず」と報告している。伊由庄は但馬から播磨へぬける生野(いくの)峠の麓の荘園であって、摂関家がこの地域をおさえていたことからも交通の要衝として豊かな生業をもっていたものと思われる。そこに但馬国の飢えた人々がやってきたというのは事実であったと考えても問題ないと思う。そして、洪水は「国中流死人数千余人、以(ママ)牛馬以同也、流失在(以下欠)」という被害をもたらしたという。もちろん、「数千人」という死者数には若干の誇張があったろう。この一節の続きの部分は、この申状が日記の料紙として切りそろえて利用された関係で欠けているのも残念である。しかし、申状が、「先生の業因を知らざるか」「たとえるに蹄叫((啼力))地獄の如し」などと述べていることのすべてを誇張ということはできず、この洪水の規模がなまなかなものでなかったことは確実である。
 この但馬国洪水が発生した一一九九年は鎌倉時代の初め、つまり八・九世紀から一二世紀くらいまで世界中で続いたとされる「中世温暖期」の最末期にあたる(参照、西谷地晴美『日本中世の気候変動と土地所有』校倉書房書房、二〇一二年)。但馬国で六十六日も日照が続いたという記事は虚偽とすべきではないだろう。ここには温暖化の中での日照の連続が海水温の上昇などをもたらし、激しい集中豪雨が発生したという状況を想定してよいように思われる。

円山川の大洪水
 
 この申状の日付は八月二十三日。八月十八日、十九日の豪雨による洪水の直後である。伊由庄の住人が二三人も連署しているから、現地で執筆されたものと思われる。伊由庄という荘園は、但馬国を南北に貫流する円山川(まるやまがわ)の最上流、生野銀山の北に広がる細長い谷間の土地に立地している。この谷間の土地を、いわゆる鉄砲水が襲ったのであろう。解状は「作物、旱魃のため、皆損すと雖(いえど)も、将来の作を募り、餓?の思いを忍び、踵(きびす)を廻らすの思いをなすのところ」「将来の蓄、東西失い了」とある。つまり旱魃で田畠は皆損の状態となったが、飢えながらもどうにか生活を組み立てようとしていたところ、洪水によってすべてを失ってしまったというのである。洪水によって「平地の在家、桑・漆・柿・胡桃子(くるみ)など底を払って流失」、つまり家も樹木も一切が流されてしまった。申状は「日神・水神(のために)、一期の財産奪い取られ了」と嘆いている。
 「山崩のため突き埋めらる名の佃人(でんにん)」とあることから、山崩れによって山際の田地の農民が犠牲になったこともわかる。洪水の規模は、辰戌(たついぬ)(東南東から西北西)の方向に流れる川が、幅二・三町(二〇〇から三〇〇メートル)、長さ二〇町(二キロ)ほどが水に埋まったという。これは方位からいって、伊由庄を貫流して、円山川に流れ込む伊由谷川(いゆだにがわ)のことであろう。そして荘園の「東境川上」の「伊由坂」の付近から「山際」にかけての「洪水の深さ」は「或所は五丈、或所は三・四丈」に達したという。伊由坂とは現在の伊由峠だとすると、そこかを水源とする伊由谷川は、上流ではむしろ東北から南西にかけて流れているから、それが荘園の東境にあたるというのは了解しやすい。一丈を三メートルとすると、高さ一〇メートルから一五メートルの洪水に襲われたことになる。
 この時の但馬国の大洪水では、本流の円山川に流れ込む、この伊由谷川のような、いくつかの河川が流れる山間で山崩が起き、それによってできた小さな堰止め湖が決壊することによって発生した洪水によって災害が拡大したのではないだろうか。たまたま史料が残ったのは伊由谷川だけであるが、「数千人」が死んだ大洪水となれば、それ以外にも何本かの河川で同じようなことが起きたと考えるのが自然だと思う(伊由谷川の南で円山川に流入する多々良木川(たたらぎがわ)の上流には、現在、人造ダムができているが、たとえばそれに重なるような堰止め湖が山崩れによって形成され、それが決壊したのではないだろうか)。円山川は、豊岡・城崎(きのさき)を通って北に流れ、日本海に流れ入っているが、若干の誇張があるだろうとはいえ、「数千人」の死者を出したといわれる洪水は山間地でのこの種の溢水なしには考えられない。

『発心集』入間川の大洪水

 次に参照しておきたいのは、鎌倉時代の説話集、鴨長明編の『発心集(ほっしんしゅう)』(巻四)に伝えられる、武蔵国の入間川(いるまがわ)の大洪水の話である。説話集であるためもあって、いつ頃のことかは記していないが、入間川のほとりに大堤を築いて集落ができていた。ところが、五月雨(さみだれ)のころ「水いかめしう出たりけり。されど、未だ年ごろ、この堤の切れたることなければ、さりとも驚かず」にいた。しかし、雨が降り続く中で、その堤が「雷の如く、よに恐ろしく鳴り響(とよ)む声」とともに決壊したという。驚いて外をみると「二・三町ばかり白み渡りて、海の面と異らず」という状態になっており、家は根こそぎ流されてしまう。主人の男は家の屋根にのって漂ったが、途中で飛び降りて泳ぎださざるをえなかった。その時、幸い流れ残った蘆の葉で少し黒みがかった場所を発見して、そこに辿り着くと、それは実は「水に流れ行く蛇どもの、この蘆にわずかに流れかかりて、次第に鏈り連りつつ、いくらともなく蟠(わだかま)り居たりける」というもので、男は蛇に巻き付かれてどうしようもなくなった。そして、一度海まで流されたものの、偶然、足のつくところについて、蛇を身体から切りはなち、浜に泳ぎ戻ってどうにか助かったという。
 この武蔵国の説話は長明が、鎌倉時代の初めのころ、長明が実際に東国に下った時に集話したものではないかというから、このころ、東国に洪水伝説が存在していたことは認めてよいだろう。私が想起するのは、先に述べた北関東地震によって発生した上野国の「水潦=洪水」の話である。この『発心集』の説話の示すような内陸の大洪水説話の背景として、地震などにともなう山地の地盤崩壊と堰止め湖の決壊による大洪水があったのではないだろうか。平安時代、東国で、現在は記録に残っていない大地震があり、それとともに関東平野の中央部の低地で大洪水が起きた、『発心集』の説話はそれを伝えていると考えてみたい。先述の八ヶ岳の山体崩壊にともなう大洪水の事例などは、きわめて大規模なもので、一面の海という『発心集』の大洪水のイメージに共通している(なおそのほかの洪水伝説としては『宇治拾遺物語』三〇の「唐卒塔婆血つく事」があるが、これは『捜神記』の翻案であるため、日本の災害史史料として利用するのは、そのままでは困難である)。
 
『方丈記』元暦二年の大地震

 平安・鎌倉時代、ほかに洪水による田地の水損を伝える史料は多く、根本的にはその一つ一つについて河川氾濫の様子を復元していく必要があるが、山崩れをともなうような大洪水を伝える史料は、以上で尽きる。しかし、現実には、さらに多くの洪水が山地の地盤崩壊をともなって発生していたに相違ない。その点で参考になるのは、一一八五年(元暦(げんりゃく)二)の地震についての『方丈記』の記述であろう。そこには「山はくずれて、河をうずみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土裂けて、水湧きいで、いはほわれて谷にまろびいる」とある。これは地震にともなう山体崩壊によって河の堰止めが起きたことを示している。この一一八五年の地震はマグニチュード約七・四という激しいもので(阪神大震災はM七・二)、ボーリング調査・ジオスライサー調査によって震源は琵琶湖西岸断層帯にあったことがほぼ確証された(金田平太郎など「群列ジオスライサー調査に基づく琵琶湖西岸断層帯南部の最新活動期」『歴史地震』二三号、二〇〇八年)。別に述べたように(「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』七五〇号、二〇一二年)、この地震は比叡山の堅固な山頂岩盤をゆらし、その西の京都も激震となったが(震度六)、さらに琵琶湖西岸断層帯の南につらなる黄檗(おうばく)断層帯を揺らし、北は比良から饗庭野(あいばの)につらなる断層帯までをも大きく揺らしたと考えられる。そして「美濃・伯耆(ほうき)などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『中山忠親記』)という京中の噂の記録によれば、この地震の揺れが少なかった地域は美濃・伯耆以遠であったというから、逆にいえば、日本海側の伯耆と美濃の間の諸国、つまり越前・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡の諸国では、震度3を越える場合があったという推定がなりたつのである。そして摂津の側は揺れていないから、『方丈記』のいう津波は、後の美濃あたりを震源とする「天正地震」(一五八六年)の場合と同様に、越前・若狭のあたりを襲ったものとしてよい。日本を代表する古典、『方丈記』に描かれた津波が、原発の集中の危険が問題となっている若狭を襲っていた可能性があるというのは、多くの人が知っておいてよいことだと思う。
 ともあれ、そうだとすると、右にふれた伊由庄のある、但馬国も、この一一八五年の近江・山城地震の時、相当の揺れがあったに相違ない。そして、そのほかにも、この時期、京都ではいくつかの地震が記録されている。右の近江・山城地震のほかに、さらに但馬国の地盤を揺るがす地震があったかどうかは分からないが、この時期の地震が中国山地でも山崩れの起こりやすい状態をつくっていたことは否定できないだろう。地震の被害が「地裂・山崩」と定型的に語られるのは、それなりの理由があったはずである。
 たとえば、少し時期を下るが、一三六一年(康安(こうあん)一)の南海地震では紀伊の熊野が大きな被害を受けた。これについて、大和法隆寺の記録『嘉元記』は「熊野山ノ山路并山河等、多以破損」としている。そしてこれと照らし合わせると『太平記』(巻三六)が、この地震によって「紀州の々程裂たる地もなければ」としているのも事実を反映しているとみてよいだろう。この地震が全体として「すべて山川・江河・林野・村落、この災いに合わずと云ふところなし」という被害をもたらしたというのも、定型句ではあるが、参考にすることが許されよう。
 これは昨年(二〇一一)九月の紀伊半島における深層崩壊の様相を、そのまま想起させる。現在進行している深層崩壊は、地質的には、この時の継続でもあるのであろう。そう考えると、今後、地震史料に登場する山崩れの史料を現地とひきあわせて詳細に検討する必要は高いと思う。

山崩れと「山姫様」伝説

 さて、本稿のテーマとしてあたえられた「災害はどう語られてきたか」については、「山崩・山津波」にしぼって考えると、柳田国男が一九三六年に発表した「妖怪談義」(『定本柳田国男集』筑摩書房、四巻)が参考になる。この論文で、柳田は木曾の川筋に残る山崩れと洪水についての伝説を記録している。それによれば、木曾山地に百人もの杣工が入って小屋をかけて泊まっていると、「この杉林だけは残して置いてくれ」という「山姫様」の夢の告げがあった。それにも拘わらず伐採に取懸かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうして、これも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻(しき)りに声が掛かってきた。小屋のもの一同が負けぬ気で声を合わせ、「来いよ!」と遣り返すと忽ち山は崩れ、残らず押し流されて、たった一人、この顛末を話しうるものが生き残ったという。
 こういう山崩れについての伝説が、長い歴史を通じて、この列島で語られてきたのは疑いないだろう。興味深いのは、この山津波を起こした妖怪が「山姫様」という女性であり、柳田は、これを一種の地霊とみていたのではないかと思われることである。柳田は、例の不思議な説得力のある筆致で、この地霊は本来は人々の信仰を集めていた存在であったのではないかと述べている。そして、このような山の女神の例としては、中国地方有数の活火山、石見国三瓶山(さんべさん)西麓にある「浮布池(うきぬのいけ)」に鎮座する邇幣姫(にべひめ)神社の女神の伝承が興味深い。
 野本寛一の紹介によれば、この山に囲まれた幽邃(ゆうすい)な霊池は天武天皇の時代の七世紀南海東海連動地震による山体崩壊にともなう堰止め湖であるという伝承をもち、この池の龍神は、「田を湿す故に人民厚く水霊を崇敬し」、江戸時代までこの池を源流とする静間川流域の人々の信仰を集めていたという(『神と自然の景観論』講談社学術文庫、二〇〇六年)。三瓶山の埋没林調査では、七世紀の噴火や山体崩壊の証拠はでていないようであるが(光谷拓実「年輪年代法と文化財」『日本の美術』四二一号、二〇〇一年)、ともかくも、人々は、この神社は三瓶火山の女神が移座したものと考えていたのだろう。江戸時代の人々は、はるか昔、流域の奧に聳(そび)える火山の女神が身を震わせて堰止め湖を作りだし、人々の生業を助けたのだという信仰を伝えていたのである。

貞観の大災害の伝承

 こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるといわざるをえない。そこでここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくことにしたい。
 実は、この庄司解の冒頭には、「住人など、謹んで古風を承るに、貞観の旱魃の古体承り及ぶところなり、今来は今□□年の旱なり」とあった。「貞観の旱魃」とは九世紀の貞観年間(八五九~七七)に激しかった旱魃ということである。これは鎌倉時代まで有名であったらしいことは『吉田経房記』に一一八五年(元暦二)七月のある貴族の日記に、「貞観の旱」(貞観の日照りの災害)が、この時におきた地震と同じくらい被害が大きかったと回顧されていることでもわかる。先にも述べたように、九世紀は地震の頻発の時代であると同時に、中世温暖期の最初期にあたり、旱魃と飢饉、それに誘発された疫病の流行によって、日本社会は大きな危機の中にあった。
 何よりも興味深いのは、貴族の日記ではなく、地域で作成されたと考えられるこの文書に「貞観の旱魃」が激しかったという伝承が伝えられていることであろう。もちろん、それは中央での記憶を再度持ち込んだものである可能性もあるが、前述のように、この百姓解文は洪水の直後に現地で書かれたものである。この文書の料紙が生漉(きずき)で非繊維物質(柔細胞)が多く少し黄色がかっているというのも、この解状が伊由庄現地で書かれたことを物語っているといってよい。執筆者は百姓の一人か、その中にいる僧形の人物か、あるいは庄家政所に所属する公文のような一定のリテラシーをもっていた人物であろうか。それは分からないが、いずれにせよ地域社会にいる人物が、現在の大旱魃について訴える上で、約三〇〇年の時をこえて過去の大旱魃の伝承を利用しているのである。
 こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるから、ここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくに止めざるをえない。
 
祇園御霊会の発祥

 とくに注意しておきたいのは、貞観年間の災害が平安・鎌倉時代の歴史にとって実際に大きな意味をもっていたことである。それは、これが祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)の開始と関わっていたことに象徴されている。つまり祇園御霊会は貞観年間における旱魃と飢饉、そして疫病の流行、さらには八六八年(貞観一〇)の播磨地震(M7・0)、翌八六九年(貞観一一)年の陸奥海溝地震(M8・3)などの地震の頻発という未曾有の災害の中で、それをうち払うようにして始まったものである。よく知られているように御霊会は八・九世紀の王家の内紛の中で怨霊化し、天皇の身体に祟る呪能をもつとされた人々を鎮める祭りであり、しかも、この怨霊こそが、地震・疫病から旱魃までを引き起こすものと考えられていた。そして河音能平(かわねよしやす)が、その概略を描き出したように、続発する災害の中で、むしろこの怨霊を村落に迎え取って地主神に祭り上げ、同時に、その呪能をもって支配層に対して抵抗するアジールを形成しようという村落レベルでの民衆的な動きが存在したのである。河音によれば、この祇園さらには北野に由来をひく天王社、天神社こそが平安時代以降の村落の地主神の主流をなしたのである(「王土思想と神仏習合」『岩波講座日本歴史4』一九七六年、後に『河音能平著作集2』、文理閣、二〇一一年)。河音はアジールという言葉を使わず、「自由の精神の拠点」といっているが、この図式は網野善彦のいう「無縁の自覚化」というアジール論と実質上、同じもので、網野も河音の見解が自説の前提であることを認めている(『無縁・久界・楽』平凡社、一九七六年)。私は、この怨霊の村落への迎え入れと地主神化という民衆的な動きが、日本社会が神話の時代から離陸していく上で決定的な位置をもったと考えている。
 祇園御霊会の発祥は八六九年(貞観一一)、陸奥海溝地震の発生した直後の六月と伝えられている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、祇園御霊会は、折りからの旱魃・飢饉・疫病を鎮めるのみでなく、直接にはこの大地震や前年の播磨地震を鎮めるという背景をもって開始された。そもそも祇園御霊会は、播磨の広峰神社から牛頭天王(ごずてんのう)=素戔鳴尊(すさのおのみこと)が京都にやってきて始まったとされているが、それは陸奥地震の前年の播磨地震が播磨山崎断層を震源として発生したことぬきには考えられない。山崎断層は広峰神社の近くを通って摂津にいたるが、地震はそこから跳ね返って京都を揺らした。人々が地震を引き起こした巨大な地霊は播磨から京都までやってきたという幻想を描いたに違いない。そして、これも小著で論じたように、この地震を引き起こした怨霊は、この播磨地震と同年に伊豆で死去した伴善男(とものよしお)以外に考えられない。もちろん、六国史はそのような事情について語らないが、内裏応天門(おうてんもん)焼失事件の犯人として処断された伴善男が、恨みを呑んで、疫神となっていることは『今昔物語集』に明らかなのである。

村落の伝承と人々の力

 「貞観の旱魃」という言葉は、このような事情の下に朝野で長く記憶されたのである。もちろん、これはたとえば但馬国の人々が御霊会の開始時期として「貞観」という時代を意識し、三〇〇年前の災害と危機の時代を歴史的に位置づけていたということではない。しかし、今津勝紀の論文「古代の災害と地域社会」(『歴史科学』一九六号、二〇〇九年)によれば、貞観年間の旱魃は、とくに中国地方において猛威をふるい、しばしば村落が丸ごと消えてしまうほどの被害をあたえたという。それ故に、「貞観の旱魃」が、但馬国というレヴェルでは、それなりに伝承されていた可能性は否定できないのである。
 我々は、平安・鎌倉時代の荘園村落というと、村落の記憶や伝承などをもたない一時的な結合にすぎないものと考えがちになるのではないだろうか。しかし、伊由庄百姓解のそれなりに整った文字と文面をみていると、それは現代人の一種の偏見にしかすぎないのではないかと感じる。荘園村落の人々がたとえば旱魃の時にあたって自己の要求を摂関家に対して堂々と提出する力量をもっていたということは、彼らが、その経験や記憶においても相当の蓄積をもっていたことを意味しているのである。もちろん、現在残された文献史料には、そのような事情はまったくの片鱗としてしか現れない。また彼らの意識のスタイルは、たとえば柳田が述べたような伝説的な形態をとっていたかもしれない。しかし、生活を作っていくために必要な伝承は、彼らの中に確実に存在していたように思うのである。

「災害はどのように語られてきたか」史料の問題

 さて、右にふれた但馬国伊由庄の洪水についての史料は、「山崩」という用語をふくむという点でも貴重なものである。この用例は、データベースを検索しても、平安・鎌倉時代における地方社会での「山崩」という用語の用例としては唯一のものである。編者の竹内理三先生の御遺族の御許可をいただいて、『平安遺文』(平安時代の全古文書集)は科研で、『鎌倉遺文』(鎌倉時代の全古文書集)は、私のいる史料編纂所の事業としてフルテキスト化して、データベースとして公開された。ただ、この伊由庄百姓解はヒットしない。それは、この文書が翻刻されたのは、竹内先生が『鎌倉遺文』を編纂された後のことであったためである。しかし、この史料が、「山崩」という用語一つをとっても、データベース化されるべき貴重な史料であることは明らかである。同データベースは、現在、「協調作業環境下での中世文書の網羅的収集による古文書学の再構築」プロジェクト(近藤成一代表、科研、基盤(A))によって追補の計画が進んでおり、その成果が期待されているところである。
 石橋克彦を代表とする科研「古代・中世の全地震史料の校訂・電子化と国際標準震度データベース構築に関する研究」によって作成された「[古代・中世]地震・噴火データベース」は、文理融合を実質化するためには歴史史料のデータベース化が基礎となることを鮮明に示した。これによって各地の人々がその地域で起きた「古代・中世」の地震について原データを入手できるようになったことの意味は計り知れないものがある。そして、今後の国土保全を考えると、それを様々な側面で発展させることはアカデミーの責任であると思う。 
 「災害はどう語られてきたか」という問題は、実は、このような問題、つまり、それを今後、どのような準備と態勢で語るべきかということに関わってくる。それにしても、歴史家としては、こういう貴重な史料を残してくれた伊由庄の住人たちに感謝し、この文書を提出して、都の摂関家に訴えた後、彼らが安穏な生活を確保したということを願いたくなるのである。
 
 

高畑勲さんがなくなった。『かぐや姫の物語』について

 高畑勲さんがなくなった。
 下記はもう5年前『ユリイカ』(638号)に書いた『『かぐや姫の物語』についての感想。


火山神カグヤ姫とカグツチ

 『竹取物語』は平安時代の物語のようにみえる。たしかに、それは王朝において天皇が主催する豊明節会の舞踏会に「舞姫」として出仕させられる女性たちの立場から書かれているように読めるのである。つまり、かぐや姫がミカドの許に召されるのは、まさにその舞踏会への動員の季節であって、かぐや姫は、それを嫌だといい、強制されるなら死んでしまうという。この舞踏会についての具体的なことは『物語の中世』(講談社学術文庫)で書いたので繰り返さないが、この物語が一二・三歳で舞姫に動員される平安時代の中下級貴族の娘たちに好んで読まれたのは、当然であったろう。彼女らも私は天女だと叫びだしたいときがあったに違いない。

 しかし、高畑勲氏の「かぐや姫の物語」が示すように、実際には、『竹取物語』は相当に手のこんだ組み立てをもった話である。ここでは、それが神話の時代にさかのぼる由来をもった物語であることを示すことにしたい。

 それはカグヤ姫の本性の問題にかかわっている。つまり、カグヤ姫という名前をもった王族や王妃が『古事記』『日本書紀』に何人かあらわれるが、これは『字訓』のカグの項によって、揺らめく火のように美しい姫と解釈される。神話時代の火の神をカグツチというが、カグヤ姫のカグはそのカグであって、カグヤ姫はカグツチに対応する存在である。

 検討をカグツチから始めるが、カグツチは列島ヤポネシアを生んだ大地母神イザナミから生まれるとき、イザナミのミホトに火傷を負わせ、イザナミを死に追い込んだ少年神である。神話学の松村武雄によれば、このイザナミのカグツチ出産は火山噴火を神話化したものであって、カグツチは単なる火の神ではなく、火山噴火の火を示す神であるということになる(『日本神話の研究』)。

火の神カグツチと竹珠の物忌女

 さて、カグツチについては、イザナミの出産の場面のほか、『日本書紀』の神武紀に重要な記事がある。それはイワレヒコ(神武)が、大和国に攻め込むにあたって行った呪祷において使用した「火」が「嚴の香來雷(かぐつち)」と呼ばれていることである。この呪祷においては、大和の香具山から取ってきた「土」によって「埴瓮」が作られ、火と水と米と薪などが用意されて炊飯が行われ、イワレヒコは天神タカミムスヒに扮装し、大伴氏の遠祖とされる道臣命が「齋主」となってイワレヒコ=タカミムスヒに奉仕した。その中心は「火」の呪祷であり、神タカミムスヒの前で、「齋主」が「火=カグツチ」の世話をするというものであったから、これは夜の儀礼であったに相違ない。
 問題は、齋主への任命が、道臣命に「嚴媛」という名をあたえるという形で行われたことである。これは名前だけではなく、実際に道臣命を女性に扮装させたということであろう。益田勝実は、このような男が男に女装をさせて自己を祭らせる「神ー齋主」の関係を、サルのマウンティングと同じだとしているが(「日本の神話的想像力」『秘儀の島』))、このイワレヒコがタカミムスヒに扮して営まれた呪祭は、タカミムスヒの祭りの内容を直接に示唆するほとんど唯一の文献史料であり、それが女装者によって営まれたことは、本来のタカミムスヒの祭祀が女性によって営まれたものであることを示唆する。
 そもそも、この祭祀のもっとも重要な祭具である「埴瓮=嚴瓮」は『万葉集』の時代においても、女性の祭る物であった。それは「わが屋戸の 御諸を立てて 枕辺に 齋瓮(いはひべ)を居(す)ゑ 竹玉を間無く貫き垂り」などと歌われる(四二〇)。そのほか「床の辺」(四三三一)という例もあり、ようするに、忌瓮は女が眠って神を迎える夜の臥床のそばに据えられているのである。注目しておきたいのは、これらの歌においては、女が竹玉を貫いた御統(環飾)を身につけていることである。これは、女性の忌姿において青竹(もしくは青い菅玉)の飾りが大事な意味をもっていたことを示している。拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で述べたように、この竹珠を物忌みの証拠とする少女の姿こそ、竹から生まれた「カグヤ姫」の原像であると考えられる。嚴瓮に揺れて光る火。その火の神カグツチと、それをみまもるカグヤ姫である。

火山の女神ーカグヤ姫とワクムスヒ

 さて、右の神武紀の記事について、『日本書紀』(岩波、日本古典文学大系本)の頭注は、ここに「火・水・食物・山・野・木・草の神が現れる」のは「世界生成神話の断片が変形して入り込んだものと見られる」とするが、たしかに、この場面は、列島の国土が形成されるクライマクスの場面、つまりイザナミが火の神カグツチを生んで死去する有り様とそっくりである。一応、下記に『日本書紀』『古事記』の関係部分を引用しておく。
「この子を生みまししに因りて、美蕃登(みほと)灸((焼))かえ((れ))て、病み臥してあり。多具理(たぐり)に成りませる神の名は金山(カナヤマ)毗古(ヒコ)神、次ぎに金山毗売(ヒメ)神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波迩夜須(ハニヤス)毗古神、次に波迩夜須(ハニヤス)毗売神。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売神(ミツハノメノカミ)。次に和久産巣日神(ワクムスビノカミ)。この神の子は豊宇気毗売神(トヨウケビメノカミ)と謂う」(『古事記』)
「時に伊弉冉尊、軻遇突智がために、焦かれて終りましぬ。その終りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姫及び水神罔象女を生む。即ち軻遇突智、埴山姫を娶きて、稚産霊を生む。この神の頭の上に、蚕と桑と生れり。臍の中に五穀生れり」(『日本書紀』神代第五段、一書第二)
 この場面は、地母神の死によって、大地の富がもたらされるというコスモロジーを語っているということができよう。その富が金属・陶土などの非農業的な性格を帯びていることを見逃してはなるまい。そして、松村のいうように、カグツチの誕生が火山噴火を意味するとすると、それは、神話時代の人々が、火山噴火によって大地の富がもたらされたという神話的な直感をもっていたことを証することになる。現代の火山学者たちもまったく同じことをいう。彼らは、自己の学問の職責に関わって、火山噴火こそが、この列島の自然地形の多様性と土壌の豊かさをもたらしたのだと主張するのである。私は、それ神話の言葉でも語った方がよいように思う。
 さて、この世界創成神話における神々の噴火の光景をもう少し詳しくみてみよう。まずこの火山噴火の中心がカグツチであることはいうまでもない。噴火におけるカグツチの威力は爆発力であり、それは火山雷において象徴されているといってよいだろう。現在でも各地にカグツチを祭る神社が存在するが、それは知る限りでは雷神である。
 それ故に、カグヤ姫もただに火の女神であるのみでなく、火山の女神であるに違いない。カグヤ姫が火山の女神であることは、彼女の地上への遺品、不死の薬や手紙が、結局、富士山から焼き上げられたという『竹取物語』の結末が象徴しているのである。富士山頂には竹林があると観念されていたこと、富士の噴火のときに女神が山頂を舞うという幻視がされていることなどは、『かぐや姫と王権神話』を参照いただきたい。
 問題は、このカグヤ姫は、上記の『日本書紀』『古事記』に描かれたイザナミの出産=噴火の場面に登場する神々の誰に比定すべきかということである。金属の神でも、土や水の神でもないとすれば、私は、それはおそらくワクムスヒにあたるのではないかと考える。「ムスヒ」という神名もカグヤ姫にふさわしい。別の機会をえて詳しく説明する予定であるが、すでに『歴史のなかの大地動乱』で簡単に述べてあるように、このムスヒについての本居宣長以来の説明は間違いである。つまり『古事記伝』は「産巣(ムス)は生(ムス)なり、其は男子(ムスコ)女子(ムスメ)、又苔(コケ)の牟須(ムス)など云う牟須(ムス)にて、物の成出るを云」という漢字語義からの推測が一般であり、こういう推測のもとに、たとえば丸山真男の「歴史意識の古層」のような大仰な議論がされているのであるが、しかし、『類聚名義抄』に「蒸<ムス、フスホル、アツシ、ムシモノ、ウモス>とあるのが正解で、「ムス」とはそれ自体としては、暖気・熱気という意味である。八六七年の別府鶴見岳の噴火の様子が「昼は黒雲の蒸し、夜は炎火の熾り」といわれていることを重視したい。そして「ヒ」を「霊」とする本居の解釈があたらないことはすでに溝口睦子がいう通りであって(「記紀神話解釈の一つの試み」『文学』四二ー二)、私は、これは「威力ある日・光」であろうと考えている。ようするに「ムスヒ」とは「熱光」ということである。こう考えた場合、三宅和朗が、倭国の神話の世界においては「神や自然が発する光」「太陽(日)と火の光」が大きな霊威をもつものとして受けとめられていたと述べていることが重要な意味をもってくる(『古代の王権祭祀と自然』)。
 こうしてワクムスヒという神名は「稚い熱火の女神」という意味となり、まさにカグヤ姫にふさわしい。火山噴火においてカグツチを象徴するのは火山雷であると述べたが、それに対応してカグヤ姫の姿を象徴するものを考えれば、それは、九世紀の史料では「金色眩曜」などといわれる火山噴火の時に発生する美しい「奇光」であろうか。エネルギーに満ち、マグマから立ち上って、突進し、揺れながら姿をかえ、金色と黄・赤・青に色をかえていく、美しい火山の光学現象は火山の写真集をみれば、すぐに見ることができる。高畑アニメで嵐のように疾走するカグヤ姫の荒々しさの本質は、これではないかということになる。

ワクムスヒとオオゲツヒメの殺害

 さて、上に引用した部分からわかるように、このワクムスヒ(=カグヤ姫)という神は、『古事記』では実はイザナミが最後に生んだ神であり、さらにその子にトヨウケ姫が生まれたという。またやはり上に引用した『日本書紀』の一文では、この少女神は、少年神カグツチの娘であるという。グロテスクな話しであるが、カグツチは、火傷に苦しむ母が垂れ流した「屎(くそ)」に生じた女神、土の神「ハニヤス姫」に飛びかかって犯し、ワクムスヒは、そこから生まれたというのである。
 重大なのは、このワクムスヒこそが農業の富をもたらす神であったことである。まず『古事記』では、ワクムスヒからトヨウケ姫が生まれたというが、「豊=トヨ」は「立派な、厳粛な」というような意味であるから、彼女の名前の実態はウケにある。そして「ウケ」とは、『日本書紀』の神武紀に「稲魂女、これを于迦能迷(ウカノメ)と云う」とあるように、稲魂(いなだま)、稲の穀霊のことである。後になると宇賀神などともいって「富」一般を表現する神となるが、厳密にいえば、ウケの「ウ」は、言葉を発する時の勢いで出る発語の「う」であって、語幹の「ケ」が穀物・穀霊を意味する。現在でも「あさげ・ゆうげ」などというのは、この「ケ」が食物の意味で残っているのである。トヨウケ神とは農業の神なのである。
 これに対して、『日本書紀』では、ワクムスヒ自身の頭に「蚕と桑」がなり、臍には「五穀」がなったとある。これはメタファーとしては、ワクムスヒは死んで、その遺体に「蚕・桑・穀物の種」がなったということであろう。そして、『日本書紀』では、火の神カグツチが土の神ハニヤス姫を犯して稚い熱火の女神(ワクムスヒ)が生まれたというのだから、これを焼き畑の象徴と考えるのも自然であろう。この神話には、この列島に棲んだ人々が、火山噴火の火から「火」を獲得し、その「火」が土壌を肥やすということを知ったという遙かな記憶が残されているのであろうか。
 従来、焼き畑の女神とされているのは、もう一人の「ケ」姫、オオゲツ姫(ウケモチ神)という女神である。彼女は月読命、あるいは素戔嗚尊に殺害される女神である。スサノヲの場合について説明すると、彼は、倭国神話の主人公ともいえるトリックスターであって、母をしたって泣き騒ぎ、地震と津波を引き起こすが、天に上って姉のアマテラスに敗北して大地に降ってくる。その途中で、もう一人の姉のオオゲツ姫を無惨に殺害するのであるが、この女神の死体の頭には蚕、目には稲種、耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生ったということになる。
 スサノヲは、この近親殺害の経験によってはじめてマザコンから抜け出し、王者にふさわしい人格を獲得し、人間もその殺害から恩恵をうけて農業の富をあたえられて、今を生きているというのが倭国神話の筋書きである。スサノヲはこの後に、初めて出雲に下って、火山・伯耆大山の下にある「根の鍛すの国」(地下の鍛冶場の王国)に君臨するということになるのである(参照、保立『歴史のなかの大地動乱』岩波新書)。
 
広瀬神社とカグヤ姫

 ようするにどの場合も男の暴力にさらされた女神の遺体から農業がはじまったというわけである。すでに述べたように、『竹取物語』のカグヤ姫の原像は、物忌みの証拠として何重もの青緑の竹珠の御統によって、その身を呪縛された少女の姿にあった。そして、これも『かぐや姫と王権神話』を御参照願いたいが、より具体的には、カグヤ姫の原型は、広瀬神社の大忌祭に奉仕する「物忌」の少女に求めることができる。彼女らは、広瀬神社の大忌祭を前にして長い潔斎の生活を送る。これが『竹取物語』の描く天に帰る前の時期のかぐや姫の引き籠もりと憂愁の生活そのものなのである。
 広瀬神社は、大和国の西部、奈良盆地を乱流する河川が合流する地点にある。広瀬神社をかかえる広陵町は、「かぐや姫の里」をキャッチフレーズにしている町であるが、これは事実を反映したものである。広陵町の南には讃岐神社があるが、竹取翁の名前の「讃岐造」は、それと関係がある。翁などの所属する忌部氏は、朝廷の祭器の資材や建築を担当していた氏族であるから、その縁で竹細工にも関係したのであろう。
 広瀬神社は、忌部氏との関係も深かったと思われるのだが、祭神はワカウカ姫という。さきほどカグヤ姫と同じ女神と考えたワクムスヒと微妙に似た名前である。そして、広瀬ワカウカ姫は、伊勢外宮のトヨウカ姫とも縁が深く、室町時代になると同体であるという説がある。前述のように『古事記』によれば、ワクムスヒートヨオカ姫は親子であったが、そのトヨウカ姫と縁の深い広瀬ワカウカ姫が無限にワクムスヒ=カグヤ姫に近い女神であることは御了解いただけるだろう。しかも、伊勢外宮のトヨウカ姫も、広瀬神社のワカウカ姫も月の女神なのである。比較神話学によれば、どの国でも月神はしばしば女神で農業神を兼ねるということであるが、もし以上の推論が正しければ、それはヤポネシアにおいても同じであったということになる。
 さて、奈良を好きな方なら、広瀬神社の祭神が月の女神であるというのは、すぐにわかるのではないだろうか。奈良では、月は広瀬野に沈む。広瀬野の上、二上山にかかる月は『万葉集』にも歌われていて、よく知られている。
 そして、右の図は、『春日権現験記絵』の巻頭に登場する月の仙女であるが、この竹林も広瀬神社近くの竹林である。平安時代になると、一時は伊勢神宮とならぶような位置にあった広瀬神社は奈良の田舎の神社になっていき、春日神社が藤原氏の氏神として栄えたために、絵巻物ではこの場面は「春日大明神は満月円明の如来」と説明され、この仙女も春日の神ということになっていて、ご丁寧に十二単の女房装束をしている。しかし、本来の広瀬の月の女神は、より凄絶な畏怖すべき美しさをもつものであったろう。それは、今でも、春日神社の夜の森に光る月光の冴え冴えとした様子に近いより原始的なものであったように思うのである。
おわりに
 高畑「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき?娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。
 興味深いのは、高畑アニメが、月の世界を「死の世界」とみて、その世界から地球をみるという視点をとったことであった。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。それが感動的なのは、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。
 高畑勲監督の『かぐや姫の物語』は、火山の女神としてのかぐや姫を描いているわけではない。ただ歴史学からの解説としては、かぐや姫という存在が、なぜ死の世界に近いのかということを、彼女が火山の女神=月の女神=農業の女神であるという事情から説明するほかない。
 試写でみた限りで、もっとも印象的であったのは、月に帰還させられたかぐや姫が、どこまでも清浄な月面に泣き伏している姿であった。私は、神話時代の人々も、月面をこのようなものとして想像したに相違ないと納得した。そこにあるのは清浄で荒々しい「死の世界」、地質学的な自然そのものである。火山の噴火という激しくも凄絶に美しい地質学的な自然のなかに倒れ臥している女神。『竹取物語』という文芸に没入することを通じて、このアニメ映画は、歴史家が『竹取物語』に感じるものと同じものを直感しているのかもしれないと思う。
 物質世界は、社会的自然、生態的自然、地質学的自然、そして宇宙へと拡大する階層的断裂のなかにある。人間が屈曲して生きている社会的自然の周囲に存在する「虫・鳥・草」などの生態的自然をぱっとはぎ取られ、地質学的な自然に直面させられること。神話時代から、人類はその黙示録的な恐怖を知っていたに違いないと思う。原民喜のいう「ぱっとはぎ取られた後の世界」の入り口を見させられた現在、ともかくも歴史学は過去への想像力を提供することに務めなければならないと思う。

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