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2018年8月

2018年8月26日 (日)

 『老子』の身体思想が『論語』とことなるのは「男女の性」がはっきりと語られていること。

 『老子』の身体思想が『論語』とことなるのは「男女の性」がはっきりと語られていること。
 『現代語訳 老子』(ちくま新書)の95頁より。

女と男で身体に宿る「信」を継いでいく(第二一章)

 女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。この信が遥かな過去から現在にいたるまで一貫して存在し、つねに衆父(族長)を統括してきたのである。私が族長とはそういうものだと知ったのは、以上のようなことを私も体験したからである。

孔徳之容、唯道是従。
道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。自古及今、其名不去、以閲衆父*。吾何以知衆父之状哉、以此。
*底本「衆甫」。帛書により改む。

孔徳の容(よう)は、唯だ道これに従う。道の物たる、唯だ恍(こう)、唯だ惚(こつ)。忽(こつ)たり恍(こう)たり、其の中に象(しよう)有り。恍たり忽たり、其の中に物有り。窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り。其の精甚だ真なり、其の中に信有り。古(いにしえ)より今に及ぶまで、其の名は去らず。以て衆父(しゆうほ)を閲(す)ぶ。吾れ何を以てか衆父(しゆうほ)の状を知る、此れを以てなり。

解説

 老子は、本章で「性」そのものについてのイメージをふくむ哲学詩を試みた。すでに福永は、中段の「窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り」という「精」は「男女の交合作用に発想の基盤をもつ」と推定している。それでも、本章の記述は、神秘的であるだけに、非常に曖昧で、これまで本章の全体を「性」のイメージにそって理解することはむずかしかった。これがはっきりしたのは、馬王堆墳墓で、「帛書老子」と一緒に『胎産書』『合陰陽方』などの医学書・房中術の書が発見されたためである。それに注目した大形徹は、福永の想定にそって本章の解釈を突き詰めることに成功した(大形徹「『道徳經』にみえる「精」と房中術」『人文学論集』二六、大阪府立大学)。

 解釈のかなめは、やはり福永が着目した「窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り」という句にあった。この「精」が男の「精」そのものであることは福永のいう通りであるが、鍵は「窈(よう)たり冥(めい)たり」の意味であった。この「窈冥」という言葉は、それ自体としては「奥深くほの暗い」というような意味で、一般には別世界あるいは冥界・異界などを示す。『荘子』(外篇、在宥)に仙人が立ち至る場として登場する「窈冥の門」は地下の冥界の門とされる。しかし、馬王堆出土の『胎産書』に「人の産まるるや、冥冥に入り、冥冥より出づれば、乃ち始(たい)(胎)は人となる」という「冥冥」は、後の『産経』に「人の始めて生まるる。冥冥より生まる」とあるのと同じで、女性の体内を意味する。大形は、ここから『荘子』の「窈冥の門」も女性の陰門に通じ、「窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り」というのは、女性性器の中に「精」が宿ったことを婉曲に表現したものに相違ないとした。ようするに、本章は男女が新しい生命を生み出すことをも論じ、そこには性交と受精が示唆されているというのである。

 ただ、大形も本章全体の現代語訳を試みることはしていない。そこで、以下、最初から順次に説明していくと、まず「孔德」という言葉は、周代の鼎の銘文からすでにみえ、普通、「大いなる徳」「深淵なる徳」という意味であるが、「穴の中の空間のように無為の徳」(〖木村注釈〗)というように「孔」の意は残すべきだろう。「孔徳の容(よう)」の「容」は従来の注釈では姿・有様などとされるが、むしろその本来の意味、つまりは「容れること広大」の意味にとりたい。

 それ故に「孔徳の容(よう)は、唯だ道これに従う」とは「女性の深い徳(はたらき)の大きさに「道」が従っていく」という意味になる。ここに女と男の性の交わりが暗喩されているとしたら、「道の物たる、唯だ恍(こう)、唯だ惚(こつ)。忽(こつ)たり恍(こう)たり、其の中に象(しよう)有り」は、道の物としての気配はただ恍惚としており、その中に人間の「象(すがた)」が生ずるということであろう。『胎産書』に妊娠一ヶ月目を「留形(形がつくられる)」と名づけていることも参考になる。そして、「窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り」とは、大形の解釈によって、「窈窈冥冥たる女の孔の中に精が育まれるのである」と理解すべきことになる。「象」に「精」が宿り、人間になっていくという訳である。

 この哲学詩には、「物・惚」「恍・象」「惚・物」「冥・精」「信・真」と韻が読み込まれており、表現は神秘的であるが、その奥に、人間の男女とセックスについての記述があると考えてよいのである。老子がここまで踏み込んで性交や妊娠の世界を描いた理由は、すでにその時代に広まっていた医書や房中術書のような知識にふれるのが自然だったということであろう。しかし、さらに考えられるのは、老子にとって生命の再生産=生殖による血統の維持について論ずることがどうしても必要だったのではないかということである。

 本章の結論は、「其の精甚だ真なり、其の中に信有り。古(いにしえ)より今に及ぶまで、其の名は去らず。以て衆父を閲(す)ぶ」となっている。衆父は『荘子』(外篇、天地篇五)に「族あり祖あり。以て衆父となすべきも云々」とあって族長のことであり、「以て衆父を閲(す)ぶ」とは、男が伝える「精」の中に存在する「信」が歴代の「衆父」=族長を統括し、連続していくということになる。ここには人間の生殖により氏族の「信」が族長の身体を通じて連続していくという観念がある。

 老子の「士大夫」としての立場からすると氏族の血統の男系を持続させることはかけがえのないことであった。もちろん、道の男性原理は、女性の孔徳に容れられることによって持続できるものであり、女と男の性愛とそこに根をもつフェミニズムが大事な意味をもっていた。しかし、老子のフェミニズムもやはり時代の所産なのであって、それはいわば族長的で保守的なフェミニズムというべきものであったのである。

 それにしても、その血統を「信」によって表現するのが興味深い。私はこの信の強調は、おそらく孔子の「信」の考え方に対する批判を含んでいたと思う。『論語』でもっとも多く登場する倫理規範用語が「信」であることはよく知られており、それが人生訓それ自体として貴重なものであることはいうまでもないが、ここで問題としたいのは、「信」の社会的な側面である。たとえば『論語』(顔淵)は王の役割として「食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」といい、そしてその「食」「兵」「信」の三者のうちでは、やむをえず捨てる場合は、まず「兵を去らん」とし、次に「古えより皆な死あり」という理由で「食を去らん」とし、「民は信なくんば立たず」としてもっとも「信」を重視する。まず「兵」をやめるというのは正論であるが、しかし、「食」よりも「信」という孔子の考え方は統治者の目線である。それは王が民に要求する「信」なのである。私は『論語』(為政)の「人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり」という有名な一句にも、そのような要素があるように思う。

 これに対して老子の「信」は士大夫が族長として自立的に維持するものであった。老子は、王権の外側にあり、おのおのの士大夫の氏族に固有なものとして、「信」を考えていたのである。

2018年8月19日 (日)

老子のフェミニズムと身体的愛・性愛

 以下は、『現代語訳 老子』の第一部第三課「女と男が身体を知り、身体を守る」の前置き 

 老子は女と男の性愛について語ることをタブーとしない。『論語』『孟子』そして『荘子』などと大きく異なるのは、この点である。

 その身体思想は女性を大事にする。儒学が「男女、夫婦、父母」などの男を先にする言葉を使うのに対して、『老子』は「雌雄・牝牡・母子」などと女を先に掲げる。『老子』を通読すれば女性的なものへの親近感も明かなことである。

 ただ、老子は女性的なものをもっぱら「和柔」とし、「女ー男」という対比をなかば固定化する。これは老子の族長としての保守主義的な態度であろうが、しかし、この時代、たとえばギリシャの哲学思想の中にはまったく存在しないような女性尊重の思想である。

 なお、漢の王族、劉向(BC七七~六)の『列仙伝』の老子の項に「好んで精気を養い、接して施さざるを貴ぶ」(男性精気を養い、女性に接しても精を放たない)とあるように、老子は早くからいわゆる「房中術(寝室の性の技法)」の祖とされていた。房中術は王侯の後宮から始まったもので、老子がその祖であるとは考えにくい。しかし、老子がその身体思想にもとづいて「養生」を強調しただけでなく、セックスを率直に論じたことが、この伝承の生まれる理由となったことは十分に考えられよう。

2018年8月13日 (月)

中国と中国の歴史を儒教ではなく、逆転して『老子』からみる

『現代語訳 老子』(ちくま新書)という本を書いた。
 一言で言えば、中国と中国の歴史を儒教ではなく、逆転して『老子』からみるということであったと思う。中国儒教はやはり問題が多い。むしろ孔子の本質や、その智恵は儒教にではなく、老子に引き継がれたのではないか。

中国社会に深く根ざした『老子』の思想というものを知らずにいると、どこかで中国の理解をまちがうのではないか。儒教を種にして中国文化を決めつける本がでているが、逆の側からもみる余裕が必要なのではないかと思う。

 そもそも中国儒教は宋代の朱熹の朱子学の段階で大きく変化して、「理」を強調し始めるが、その「理」とはほとんど老子のいう「道」と同じ観念なのではないか。中国儒学は1000年の時をかけて、結局、『老子』の思想に屈服するという経過をたどったのではないかと考えた。

 以前、儒学をよく知る友人に、「儒学というものを思想としてどう評価するのか」「儒学は好きか」と尋ねたことがある。記憶では、それに対して、彼は非常に複雑な顔をして、答えをひかえた。儒学というものを思想としてみるのではなく、一つの「言説」としてみて、たとえば日本社会にどういうように「儒学」のイデオロギーが知らず知らずに入っているかなどを検討する参照基準として利用することはできるが、しかし、「思想」としてみると、儒学にはあまり魅力がないのではないかというのが、私などの感じる正直なところである。

 もちろん、孔子の言葉自身は、やはり今でも魅力がある。たとえば安田登氏の身体感覚で読む論語などは、孔子の言葉のそういう魅力をつたえている。また白川静氏の『孔子伝』などは何と言っても魅力がある。だから儒学を考えるとは、その落差をつねに意識しながら中国文化をみていくことなのだろう。

 これは結局、日本人、というよりも日本語を話す人間にとっての漢文の魅力ということでもあろう。本書で詳しく示したように、日本のことわざのなかには『老子』に根拠をもつものが相当に多く、その原型となっている『老子』を少しでも読んだことは、自分に不思議な言語感覚をあたえてくれたように思う。そして、漢詩である。こういう詩が日本人にとってもつ魅力というものは否定しがたいと思う。

 昔話をするようであるが、ようするに五〇年前までは学校では漢文の授業が相当にあり、またそれに結びつく形で習字の授業もあったので、そういうものを通じて中国というものを感じることがあった。私などの世代だと、それが一挙に崩れたのが毛沢東の「文化大革命」なるものであった。おかしなことをやる国だという印象である。私は、魯迅や老舎などの中国文学も少しは読んだ方だと思うが、「文化大革命」とともに中国の思想・文学というものに興味を失ったように思う。

 現在では、そういう状況はさらに局限まで進んでいる。こうして「東アジア世界についての教養」の基礎の部分が壊れてしまったということではないか。これは考えてみれば大変なことだ。ヨーロッパやアメリカをみていればよいのだというのは何と言っても成立しない考え方だ。日本の文化を基礎にするとしても世界はどうでもいいということにはならないからだ。

 迂闊な話しであるが、この本を書いて、はじめて「中国」とその歴史について本格的に考えてみたということになる。日本の歴史家としてこういうことでよかったのかという反省が強い。そのため、あとがきには「一日も早く小学校で漢文の授業が復活することを願いつつ」と書いた。

 『老子』にはこれまでも注釈が多いが、それらには納得できないところも多く、何よりも著名な学者の書いた注釈がほとんど各章においてといってよいほど、相互に食い違っているのを知った。本書を書く仕事は、それらを読んで、選択し、その中から正解を考える仕事であったが、その上に相当の私説を付け加えることになった。

 これが正解とは限らないことはいうまでもないが、これによって少しでも『老子』を読みやすくする議論が進み、中国の歴史文化のみでなく、老子の思想と深い関係のある日本の歴史文化、とくに神話と神道と理解する一助となればいいと思う。ともかく、日本社会の教養のあり方が、中国思想の理解と日本史がまったく離れている状況は考えなければならないと思う。

 乱暴なことをいうようだが、もうヨーロッパ哲学はいいから、東アジアの哲学を考えて欲しい。ともかく『老子』のいう「善」「徳」がアリストテレスのいう「善」「徳」と同じことだというのは、哲学者に十分考えて欲しいことだ。また哲学では「形而上学」という言葉があるが、これも本書で述べたように、私は、この言葉の本は、「形」を越えるという老子の思想に原点があると思う。それを確認せずに哲学の用語を操っている現代哲学には根本的な不信をもつ。

 これらを含めて東アジアというものを考える手段を根っこから考えないといけないと思った。

 私は、最近、日本神話の研究に専念しており、そのためにも『老子』を読まなければと一念発起したというのが実際だが、歴史学者としては、私は『老子』を読むことは、日本に歴史主義を復興する基礎になるものと考えている。帯に「豊かな詩的イメージの向こうに直言する『保守主義者』としての老子がみえる」とあるが、現在の日本では、慷慨する保守主義というべきものが必要だと思う。その際、なによりも保守の名にふさわしい歴史の尊重を期待したいが、とくに(自分でも最近、強く意識するようになったのに口幅ったいが)『老子』『論語』くらいは読んでおいて欲しいものだと思う。

 相当にこれまでと違った解釈をし、さらには老子は牛でなくて象に乗っているとか、中国思想史学界の通説と違って、老子は実際に紀元前三世紀に生きていた人物であるとか、『老子』の善不善論と親鸞の善不善論の趣旨が同じだとか、いろいろ物騒なことを書いたので、学界がどう反応してくれるかは心配だが、関係する友人からは、ともかく勉強したことは認めるということなので、ありがたいことだと思っている。

 ともかく、『現代語訳 老子』は、八一章を「運鈍根で生きる・星空と神話と「士」の実践哲学・王と平和と世直しと」の三部に分け、さらに各部を幾つかの課にわけて解説しました。課の解説をお読みいただき、次に現代語訳を読んで、解説の部分は気になったところだけを飛ばし読みしてみて下さい。

2018年8月 6日 (月)

新潮社の講演(日本史の時代区分)を聞いていただいている方へ

 先日の講演で、継体大王のころには、神社の原型があった可能性が高いと申しあげた畿内の神社の名前を具体的に知りたいというご質問に答えて、神社名を列挙しておきます。
 もとのデータは、を菊地照夫『古代王権の宗教的世界観と出雲』掲載の図です。
 ただ、「継体王朝のころには」というのはあくまでも私見です。

a山城国乙訓郡、「羽束師坐高御産日神社」
b山城国葛野郡「木嶋坐天照御魂神社」
c山城国久世郡「水主坐天照御魂神社」
d大和国添上郡「宇奈太理坐高御魂神社」
e大和国城上郡「他田坐天照御魂神社」
f大和国城下郡「鏡作坐天照御魂神社」
g大和国十市郡「目原高御魂神社」
h摂津国嶋下郡「新屋坐天照御魂神社」

 このころの中心はやはりタカミムスヒであったと考えております。

 

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