皇極女帝の近江行幸と地震神。ある博物館での講演会の要旨。
ある博物館での講演会の要旨。
皇極女帝の近江行幸と地震神
七世紀初期くらいまでの天皇は四〇前後で即位して、終身、天皇の座にいるもの
であったが、中大兄が蘇我入鹿を襲撃した、有名な645年の事件を機に譲位と
いう天皇の行動の仕方を作ったのが皇極女帝である。女帝は弟の孝徳を天皇と
し、自分は「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)の地位についた。これは、実際
上、後の太上天皇にあたるもので、中国と違って奈良時代から上皇の位置が強
かったという日本の天皇制の特徴の原型を示すものといってよい。女帝は夫の舒
明の死によって即位したのであるが、女帝自身が、継体・欽明・敏達・舒明と続
く継体王統の正統を継ぐ位置にあった。
いうまでもなく近江は継体王統の最大の根拠地であるが、皇極女帝も近江と深
い縁をもっていた。斉明五年(六五九)に女帝が(おそらく中大兄・大海人の二
人の息子も一緒に、吉野から近江の平浦宮に行幸したことである。吉野には畿内
の神々のうちで最高の神位をもつ大名持神社があり、有名な妹背山のうちの妹山
を神体としている。そして平浦宮の北には日吉神社の神体山である牛尾山があ
る。両方を訪れればわかるように、この二つの山はいわゆる甘南備型の美麗な山
であって、実はそこには地震の神が宿っているのである。講演では、女帝が、こ
の行幸に籠めた意図を御説明したい。