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2018年11月23日 (金)

東大寺大仏と新羅出兵計画  『 歴史地理教育』 673号2004-08)

東大寺大仏と新羅出兵計画ーー
歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 673号2004-08)

 「戦後」の歴史教育において、奈良時代のイメージは、しばしば山上憶良の「貧窮問答歌」、そして反乱を起こして拷問をうけた橘奈良麻呂が語ったという「東大寺を造り、人民辛苦す」という言葉によって語られた。

 このような筋書きを歴史教育に最初に持ち込んだのはおそらく羽仁五郎であろう(羽仁「大化改新」、『羽仁五郎歴史論著作集』3、青木書店)。私は、羽仁の歴史学の意味を全否定するものでも、また羽仁の言説の根拠となった北山茂夫「奈良前期における負担体型の解体」(『歴史科学大系3』校倉書房)の研究史上の意義を否定するものでもない。しかし、「戦後歴史学」を考える場合、この種の羽仁の文章が学問的論文としての体をなしていないことは確認しておくべきだと思う。

 たしかに、はじめての本格的な統一国家として登場した律令制王国の下で、人々が新たなきびしい条件におかれたことは事実である。しかし、それは共同的な性格をもった社会から階級的社会が確立した社会への歴史の変化を、より理論的かつ具体的に論じるなかで自然に理解されるべき問題であるはずである。右の奈良麻呂の言葉をとくに取り出し、必然的に「人民辛苦」を東大寺大仏の歴史的評価の問題と関係させて議論するというのは、あまりに安直・狭隘な「人民史観」である。

 そして、現在からみると、何よりも問題なのは、その視野があまりに「自国史」の枠内に局限されていることである。私は、東大寺大仏の意味を考えるにあたっては、八世紀、二度にわたって高まった新羅出兵計画との関連をふまえなければならないと思う。これを八世紀政治史の最重要点として強調したのは、石母田正『日本の古代国家』であり、その指摘の鋭さはさすがに「戦後歴史学」の主流をになった歴史家にふさわしいものである。そして、この石母田の指摘は、さらに意識的に、同時代の安禄山の反乱をはじめとするユーラシア全体の歴史の理解のなかで生かされてねばならない。この点は、最後に若干ふれるとして、まず東大寺大仏の建立と新羅出兵計画の絡み合いの様子をみてみよう。

 新羅出兵計画は、旧高句麗地域において建国された渤海が、その勢力を拡大し、七二七年、日本に遣使し、自己が高句麗の跡をうける地位にあると称し、「親仁、援を結び、庶くは前経に叶わん」と、日本との同盟を申し入れたことがきっかけとなった。この使者を渤海まで送っていった遣渤海使・引田朝臣虫麻呂が、七三〇年(天平二)八月に帰国して渤海の現況を報告して以降、新羅侵略の議論が一挙に沸騰したのである。同年九月の大納言藤原武智麻呂の大宰帥兼任、十一月の畿内惣官職・諸道鎮撫使の設置、さらにその翌年七三二年(天平四)の諸道節度使の補任は、新羅に対する戦争体制の構築そのものである。その中心に藤原不比等の四人の子供、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂、いわゆる藤原四卿が位置していたのはいうまでもない。そして、同じ年、七三二年に渤海が山東半島登州を攻撃し、唐が新羅に援軍派遣を要求する。こうして、七三五年、新羅は唐から渤海と境を接する唄江以南の地の割譲をうけ、唐との連携を強化しつつ、渤海との戦争状態の前線に立った。

 この中で、七三六年(天平八)に発遣された日本の遣新羅使が、新羅の接遇を「常礼を失う」ものと咎めるという事件が発生した。帰国した彼らの報告をうけた朝廷は、翌七三七年(天平九)二月、主要な官人四十五人を内裏に招集し、意見を開陳させたが、その中には、使者を新羅に遣わして問詰するという意見のほかに、「兵を発し征伐を加えん」というものがあったという。石母田『日本の古代国家』は、この出兵路線を主唱した人物こそ藤原広嗣であったと推定している。こうして、夏四月、伊勢・大神・筑紫住吉・八幡・香椎の諸社に奉幣し「新羅无礼の状」を報知するという状況が展開したのである。

 しかし、奉幣の直後の夏四月から秋にかけて藤原不比等の四人の息子が疫病で全員死去するという事件が発生し、この対新羅戦争の動きは一頓挫することとなる。しかも、翌七三八年(天平一〇)には、長く空位であった皇太子に、阿倍内親王がつき(後の孝謙=称徳女帝、時に二〇歳)、橘諸兄が右大臣となった。これによって王権と廟堂の構成は大きく切り替わったのである。石母田が「諸兄政権の対新羅政策は消極的であるのが特徴」であるとするように、この時期、新羅出兵という衝動は確実に希薄になった。その中で、同年十二月に、広嗣は、大和守から大宰少弐に左遷される。そして孤立した広嗣が「時政の得失を指し」た上表を提出し、反乱に踏み切ったのは、七四〇年(天平一二)のことであった。

 私は、このような動きの背景として、東大寺大仏の造立に結果した聖武の宗教的諸事業の位置を無視できないと考える。まず注目すべきなのは、前述の対新羅政策が議題となった太政官論議の翌月、七三七年(天平九)三月、聖武が国毎に釈迦仏像を造り大般若を写せという命令を発布したことである。『続日本紀』をみれば、これ以降、宮中および諸国での読経・造塔、僧侶への布施などが連続し、聖武が宗教事業に熱中していく様子が明らかである。その中で、七四〇年(天平一二)二月、聖武が河内国の知識寺に詣でて廬遮那仏を見たことが大仏建立の祈願を導いた。結局、新羅出兵の雰囲気を希薄にさせたのは、聖武の宗教事業であったのであり、それにともなう人的・物的負担が、もう一つの国家事業としての新羅出兵の条件を掘りくずしたのである。

 もちろん、新羅出兵という軍事計画の頓挫の理由は、それ自身としては政治史の内部に理由をもとめねばならず、決定的であったのは、新羅出兵を主唱した広嗣の反乱にあった。とくに、聖武の宗教的行動のもう一つの起点が、七四〇年(天平一二)、広嗣の乱の真っ最中、伊勢神宮を「増飾」するために平城京を離れて伊勢に向かったことにあったことは重要であろう。この伊勢行が有名な聖武の「彷徨五年」といわれる遷都・造宮行動につながったのであるが、最近、仁藤智子『平安初期の王権と官僚制』(吉川弘文館、二〇〇〇)は、この東国行幸は、壬申の乱における天武勝利の「由緒」の道を歩み直し、支配の正統性を再確認しようとしたもの、一種の王自身によるデモンストレーションであったという説得的な見解を提出した。それを前提として、さらに、私は、この行動が聖武自身によって伊勢の「増飾」ー「天下神宮」に対する信仰の表出であると明言されていること、そして、この彷徨の最後に到着した紫香楽宮において「大仏建立」の詔が発せられたことに注目したい。「古代史」の研究状況は承知してないが、「廬遮那仏者、聖武皇帝勧進天下衆庶、祈請伊勢大神宮」(「東大寺八幡大菩薩験記」)と言い伝えられ、東大寺と伊勢をつなぐ神話的諸観念が繰り返し想起されたことは、東大寺史の問題としては著名な事実である(永村真『中世寺院史料論』吉川弘文館、二〇〇〇、三五頁)。

 聖武の彷徨は、天武の「由緒」をたどりながらの伊勢巡礼から大仏造立の適地を探り歩くというものであった。聖武は天武の東征神話の上に伊勢信仰と大仏信仰を積み上げ、王権中枢の矛盾を宗教的に救済しようとしたのである。その中で、王家の「氏寺」としての東大寺が完成するとともに王家の「氏神」としての伊勢神宮の地位も確立したというのが、さまざまな議論のある王家宗廟としての伊勢神宮の位置の確立についての私見である。そして、東大寺大仏が、陸奥黄金によって全身を塗金された姿を現したのは、七五二年(天平勝宝四)四月の大仏開眼会であった。そのメインイヴェントとなった五節舞が、天武天皇が吉野山中で幻視したという天女の舞を模したものであること、そのようなものとして『竹取物語』の原風景というべきものであったようするに、この経過のなかには、『続日本紀』には十分には記録されていない伊勢・吉野・大仏・黄金をつらぬく天武王統の神話が表現されているとみなければならないというのは、別に論じた通りである(保立「『竹取物語』と王権神話」『物語の中世』東京大学出版会、一九九八年)。

 この開眼会には新羅王子の金泰廉をトップとする総勢七〇〇余人からなる新羅の大規模な参詣使節団が参加した。これは東アジアの国際政治のなかで現実的な外交政策を追求せざるをえない立場にあった新羅が、日本との間に仏教的・宗教的な親和をはかろうとしたものであろう。そして、このような行動の背景には、新羅が大仏建立をみちびいた華厳宗の一大拠点であったことがあったにちがいない。しかし、日本国家はこの宗教的なメッセージをうけとめようとはしなかった。しかも、東大寺大仏の建造が新羅出兵計画の中断の重要な条件であったということは、その完成が日本と韓半島の関係にきなくさい雰囲気を呼び戻すことを意味したというのが東アジア政治史の実際であったのである。新羅の参詣使節の帰国と入れ替わるようにして、十余年ほど途絶えていた渤海使が来日し、長期間にわたって日本に滞在し、彼らは、唐・新羅に対抗するために、ふたたび日本との軍事的提携の確認を申し入れたのである。これが新たな二度目の新羅出兵計画のきっかけとなったのであり、そして、その中軸をになったのが、藤原武智麻呂の子供、仲麻呂であった。

 この後の詳しい経過については、行基の渡来人としての素性の問題をふくめて、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四)の第一章「奈良時代の東アジアと渡来人」を御参照願いたいが、この二度目の新羅出兵計画も、出兵の直前までいきながら、幸いにして、頓挫することになった。そこでは、第一次の新羅出兵計画の破綻における広嗣の反乱と同様、政治史自身の問題としては、王権内部の闘争の中で、淳仁天皇、「偽王」塩焼王と仲麻呂が反乱を起こし、自滅したことが決定的な意味をもっていたことはいうまでもない。しかし、私は、その条件として、やはり日本の朝廷における仏教信仰ととそれにともなう諸事業の進展、そして孝謙=称徳女帝の個性があったと考えるべきであると思う。

 こういう私見には、「このままだと生徒の中には、聖武天皇が聖人君主であったというイメージだけが残ってしまう」という批判(松原直樹「大仏はなぜつくられたのか」『歴史地理教育』二〇〇二年一〇月号)があるかもしれない。しかし、王権論は王権論自身の問題として考究すべきではないだろうか。私見によれば、奈良時代政治史を最初から最後までつらぬいていたのは、天武王統の中でも、天智天皇の血をうけた近親婚の血統、草壁・文武・聖武にのみ王位継承権をあたえようというの強迫観念(オブセッション)である。その中で、天武系王統は、男子がほぼ皆殺しになるという異様な運命をたどり、それが平安時代への移行の政治史の実態であったことを基軸としておさえておくことと、東大寺大仏とそこに籠められた文化的・宗教的価値をふまえることは別個の問題であるはずである。

 そして、この王権論は東アジアにおける比較王権論として議論されなければならない。これについては、二〇〇〇年の歴史学研究会大会で「君が代」問題を中心として試論を提出したが(「現代歴史学と『国民文化』」、保立『歴史学をみつめ直すー封建制概念の放棄』校倉書房、二〇〇四年、所収)、本稿でとくに確認しておきたいのは、新羅出兵計画の発端と頓挫の経過を国民的常識にすることによって、「ユーラシアの中での奈良時代」という歴史像を作り出すことの決定的な意味である。つまり、第二次の新羅出兵計画の最大の前提は、渤海と日本の国家が、七五五年の安禄山の反乱の発生を新羅攻撃の好機と判断したことにあった。そして、そもそも安禄山の反乱は、ユーラシア全域の歴史を前提としてはじめて理解できるものであったのである。つまり、安禄山は、はるか西域、粟特(ソグディアナ)の民族の出自をもつ人物であった。周知のように、ソグド商人たちは三・四世紀以降、ユーラシアの東西交易の世界で大きな位置をもっており、安禄山は、彼らが唐帝国の版図内に同族集落に出自している。それ故に、客観的にみるならば、安禄山の反乱は、七五一年(天平勝宝三)のタラス川の会戦において、ソグディアナ諸国と大食(アラブ)の連合軍が唐帝国を破ったというユーラシアの激動の中で位置づけるべき動きなのである。そして、このタラス川の会戦が、唐帝国のユーラシア中枢部から撤退とイスラム・アラブ圏の台頭、そして結局、イスラムが世界史の中心の位置を占めることによって、長きにわたったソグド商人の東アジアでの活動の終了をもたらしたものであったことはよく知られた事実である。

 当時の日本の王権がまったく関知しなかったことであるが、この時代はこのような脈絡の下で位置づけられるべき時代である。その中においてみると、東大寺大仏は、イスラムの台頭直前に、仏教の世界が、東は日本、南は東南アジアからインドネシアのボルブドール、さらに西南は遠くインド洋上のモルディブ諸島にまで拡大していく世界史的局面の表現とみなければならない。

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