何のために「平安時代史」研究をするのか
おそらく20年ぐらい前のハーヴァードでの「平安時代史研究会」のConcluding Discussionの原稿が、PCの中にあったので載せておく。
このころは元気であった。ボストンの川を船でさかのぼっていった時の景色を思い出す。豊かな土地、アメリカ。これがネルーダが歌ったアメリカ大陸の豊かさなのだ。これがネーティヴ・アメリカンの土地だったのだという感興をもったことをよく覚えている。
この研究集会の日本側の企画者は学習院の千野香織さんだった。形がととのう直前になくなられたが、その少し前に職場の前でばったり。御元気だったのにショックであった。
1何のために「平安時代史」研究をするのか。
21世紀の世界、そしてその中で歴史学がおかれた状況は、私たちに対して深刻な思索を要求しています。何のために研究をするか、これについて世界中の歴史家相互で話し合うことが重要になっています。けれども、今日ここで問題としたいのは、歴史学一般ではなく、平安時代史の研究についてです。つまり私はここでみなさんに「何のために平安時代史の研究をやっているか」ということを問いかけてみたいのです。
実は、こういう問題意識は、これまで日本の学会の中にはまったくありませんでした。そもそも、考えてみるとおかしなことなのですが、日本の歴史学界では、今回のような「平安時代史」をテーマにした研究集会がもたれたこともありませんでした。さらに、今回の集会は、歴史学・文学史・宗教史・美術史をふくめてのインターディシプリンな研究集会として大きな意味があるのですが、こういう研究集会の開催はあきらかに世界中ではじめてのことです。私は、今回の画期的な研究集会が、今後日本でも平安時代史をテーマにした総合的・国際的な集会が行われるきっかけになることを願っています。
ともかく、anyway、今回の集会の報告は、あまりに多様で内容豊かであるために、個々の報告の内容にふれることはとてもできません。そこで私の発言は、そのような方向を今後組織していくために、現在考えておくべきことを提案するという形で進めることを御許しいたqだきたいと思います。
2古代史研究と中世史研究の狭間
そういう展望をもってみると、最初の問題は、なぜ平安時代に関する総合的な研究集会が、日本の学界でこれまでもたれなかったのか、なぜこれまで、平安時代研究の意味や展望をめぐっての集中的な討論が行われなかったのかということになります。そして、日本の歴史学界の中にいるものの実感としては、その理由は、この時代が古代史研究と中世史研究の狭間に位置しているという、学界内部の事情にあります。私には、つまりだいたい1980年以降、古代史研究と中世史研究の相互の関係は、とくに排他的・閉鎖的なものになったように思われます。古代史研究と中世史研究は、研究のために必要な知識や修練が大きくことなっており、それに対応して研究者の経歴や生活のパターンもことなっています。冗談ですが、古代史の研究者はきっちりしていて紳士的であり、行政的に有能なのに対し、中世史の研究者は自由というと聞こえがいいが、いいかげんでアナーキーであるといわれます。その中で、平安時代史の専攻者、自分の専門は平安時代史研究であると自覚している人の数はそんなに多くありません。古代史の職業的研究者は、古代の本場である六世紀から奈良時代を、中世史研究者は本格的な中世、つまり鎌倉時代の歴史の究明を自己の第一義の仕事としがちです。こういう状態の中で、平安時代の歴史は「前期」と「後期」にわかれて研究されてきました。つまり、いわゆる「摂関時代」と「院政時代」にわけて研究されてきました。そして、摂関時代は古代史の延長部分として、院政時代は中世史の序論部分として位置づけられ、そういう形で古代史と中世史の棲み分けが行われてきた訳です。
今回の研究集会のテーマは「平安時代における中心と周縁」というテーマの下に開催されていますが、すくなくとも現状では、平安時代史研究自身が歴史学にとってはいわば周縁的な地位にあり、センターは本来の古代史と本来の中世史にあります。しかし、この約400年間にもわたる時代、平安時代が歴史学研究の上で周縁的な意味しかもたないというのは、私には容認できない考え方です。この時代はやはり一つの歴史的な時代として一貫して位置づけることが必要なのではないでしょうか。平安時代を「前期」「後期」に分断する従来の考え方は、無意識にこの時代が一つの歴史的な時代ではないという考え方を前提にしていると思います。そうではなく私たちは、いわば「平安時代史研究を自立」させなければならないのではないでしょうか。
3王権論の不在
私は、数年前、岩波新書の『平安王朝』を執筆し、「平安時代史研究の自立」をめざした作業を開始しました*1。それを前提にして、今回の研究集会にそくして、いくつかの論点を提示してみたいと思います。まず第一には、平安時代の国家の中枢、とくに王権と天皇制をどう考えるかという問題です。従来の考え方では、平安時代前期の「摂関時代」は摂関家が権威を確立していく時代、「摂関政治の発達」の時代として描かれ、平安時代後期の「院政時代」は、徐々に源氏・平家などの「武士」の力が優越していく時代、「武家政治の発達」の時代として描かれます。これは王権論にとってどういうことを意味するかというと、天皇家・王権自身についての分析は、摂関政治と武家政治の発達なるものの影に隠れてしまい、ネガとしかとらえられないということです。そこでは王権自身は主語・サブジェクトとはならず、目的語、オブジェクト、あるいは修飾語、アドジェクティヴの地位におしこめられます。今回の集会の第一セッションで問題とされたように、王権の存立、肉体的な存在自身が「政略結婚」の対象であり、そこでは王権はロボットのように意志をもたず操作される客体、オブジェクトととらえられています。こういう政治的過程をジェンダーバイアスによって単純化してとらえてしまう考え方が、日本でも、フェミニズム的な歴史学によって強力な批判にさらされているのは、第一セッションの議論によってよく御わかりいただけたと思います。
平安時代の天皇制の中には、たとえば桓武と弟の皇太子早良親王の争い、薬子の変と呼ばれた平城上皇と嵯峨天皇の間の争い、承和の変において皇太子恒貞親王を退位させた事件、菅原道真の配流事件にあらわれた宇多と醍醐の父子間の争い、冷泉天皇の狂気をきっかけとして冷泉系とその弟の円融天皇系に分裂した王家が争った問題、それを条件として藤原兼家やその子供の道長が大きな権力をもった問題、白河天皇とその弟の皇太子・実仁親王、輔仁親王との争い、崇徳と後白河の兄弟の争い、そして後白河と高倉の父子の争いなど、最初から最後まで激しい内部的な争いー男と男のはげしくみにくい争いが存在しました。桓武の弟の早良親王は死後、崇道天皇と贈り名されました。そして、後白河の兄の崇徳天皇の贈り名はこの崇道を意識していたのではないかというのが、私の想定です。崇道、崇徳の「崇」とは「崇拝する」「祟りをなすものをおそれる」という意味です。つまり、平安時代は王家内部の兄弟争いによって最初と最後を画されており、当時の人々もそれを自覚していたということになります。王権を中心として摂関家ほかの最高級貴族の全体を巻き込んだ紛争が通常の調停では不可能なほど激化し、結局、武力による決着が必然的なものとなる過程として、平安時代の政治史の全体的な流れと「院政」の登場を分析することが重要です。
従来の考え方の中には、こういう王権内部の激しい争いを無視し、天皇を非政治的な存在、もっぱらネガでありオブジェクトであるかのように考える見方があったことは疑いをいれません。歴史学の問題としては、日本のアカデミズムの中に、天皇の政治的な役割を明瞭に論じることへのタブーともいうべき感情があったことは否定できません。そのおかげで平安時代の王権の実体的な研究はおおきく遅れていた訳です。『平安王朝』を執筆したとき、こんなことも研究されていなかったのかという問題が実にたくさんあるのをしって大変に驚いたことを思い出します。いわゆる批判派の側は、アカデミズムに対して相対的に寛容でしたし、むしろ理論的な研究あるいは社会経済史の研究で精一杯でしたから、まさかそんなことだとは思っていなかった訳です。
こういう平安時代イメージが社会的なイデオロギーの反映であることも明らかであります。私は、いま、交順社というリタイアした財界人の談話会で、毎月一度、平安時代の歴史の話をしているのですが、平安時代の王権の内部的な矛盾こういう話をすると、「ようするに昔は、悪いことはすべて臣下の間の争いということだったのですよ」というのが感想でした。交順社というのは本来福沢諭吉が設立した結社ですからさすがに見方がリベラルで教えられることが多いのですが、私の話は戦前の皇国史観の教育のなかで語られた天皇のイメージに対する解毒剤になるようです。皇国史観は天皇を神とすることによって、王権をその肉体や具体的な歴史過程から切り離して神聖化・図式化・抽象化・単純化した訳ですが、これが天皇制に関する現在の日本社会のイメージの基本をいまだに拘束しているのです。そして、それは象徴天皇制という現代天皇制のあり方ともうまくマッチしています。つまり、天皇は権力ではなく、権威・象徴であって、それは平安時代の昔から変わらなかったという訳です。こういう立場からいうと、平安時代は、象徴にすぎない非政治的な王権が宮廷文化を花開かせた理想的な時代ということになり、そういうバイアスの下で美化されることになるのです。もちろん、皇国史観と象徴天皇制に特有な天皇制に対する感じ方は、本質的にはことなるものですが、王権の実態を抽象化・単純化するという上では同じ機能をもっているのです。
4「都市王権」
しかし、学問的な議論をする上では、問題はさらにふかめられなければなりません。いま、天皇制の権力と権威という問題を申し上げました。天皇制を非政治的な権威とのみとらえることは正しくありません。そう考えてしまうと、実際には王権がしばしば強力な政治的主体であったことが忘れられてしまうのです。しかし、天皇制を単なる権力的支配の論理でとらえることもできません。平安時代の400年間、栄え続けたことによって、天皇制が強力な文化的権威をもち、日本の文化の基礎構造にしみ通っていることも事実なのです。
これを考えるためには、平安時代の社会構造のなかで、王権と天皇制の位置をとらえ直すというさらに本格的な研究が必要になります。そして、私は、この問題が今回の研究集会のテーマである「中心と周縁」、その相互関係、交通関係という問題に直結していると思います。第一セッションでも、第二セッションのアドルフソン報告でも問題となったように、平安時代の国家と社会は都市と農村の間の統合的関係を維持し発展させていました。従来の考え方では、平安時代は律令制的な中央集権国家の構造が分解していく時代としてとらえられます。平安時代の前期は藤原氏が他の諸氏族を排除していく過程であり、国家が公家貴族のレヴェルで分解していき、後期には武士が公家貴族を圧倒し、さらに本格的に律令国家を分解していくという訳です。まず特定の構造があり、それが分解するという歴史観あるいは歴史の分析方法は、歴史意識としてはもっとも素朴かつ単純なものです。歴史の最初には、黄金の時代、理想的な時代、制度の整った時代があり、それがだんだんだめになっていく、下降していくというとらえ方は、ヨーロッパでも東アジアでも一般的であります。歴史学者も実際上はそれにとらえられいることは、たとえば日本の奈良・平安時代の歴史教科書などをみれば明らかです。都市と地方社会が権力的に一元的に統合されていた時代から、それがバラバラになっていく、私的に分解していく時代という訳です。私の指導教官であった戸田芳実氏は、こういう考え方を口をきわめて批判しました。それは、古代国家の解体史観であって、律令制がどう解体していったかの制度的過程は明らかにできるが、どのように社会構成が変化し、どのように新しい社会が形成されたかは結局明らかにできないという訳です。
私は、実は、日本で、平安時代を封建制が形成される時代であるととらえ、社会の私的な諸関係への分解を中心において問題をとらえる場合にも、こういう解体史観が影響していたことは否定できないように思います。私は、そういう考え方から、一昨年の歴史学研究会大会で、日本の中世を封建制の時代ととらえる考え方とそろそろ決別すべきである。封建制は西ヨーロッパに固有な社会構成であって、日本は一度も封建制っであったことはないと主張しました。
もちろん、私は、これまでの歴史学が展開してきた封建制、フューダリズムの議論自身がフュータイルであった、無駄であったというわけではありません。とくに黒田俊雄・戸田芳実の考え方は、封建制という用語は使用していますが、実際上、西ヨーロッパとは大きくことなる社会の構造を指摘していました。つまり、彼らの考え方によると、平安時代の支配階層をなした公家貴族と武家貴族(および宗教貴族)は、基本的には都市貴族として共通した性格をもって連合していたこと、そして、その頂点にはつねに王権と天皇制が存在していたということになります。平安時代の国家、王朝国家は王権を中心とし、中央都市・京都を中心として地方社会を支配し、統合していました。こういう社会における王権の国家的・社会的なあり方は「都市王権」という範疇によって表現するのが適当であるというのが、私の意見です。この「都市王権」の概念について、ここでくわしく論じることはできませんが、ようするに宮廷貴族・軍事貴族は、中央都市領域を固有の拠点として、そこにおける分業を支配し、都市近郊を領主的に支配するとともに、都市が地方社会に対してもっている規制力を自己の支配権力のなかに編成していたということになります。都市王権は、このような都市的な領有を代表しているのです。源氏物語には、都市の民衆生活のなかに「田舎の通い」つまり、地方への出稼ぎ、あるいは商業活動が含まれていたことを示す有名な一節がありますが、王権はそういう都市の民衆の活動をも含みこんで支配権力をつくりだしていたのです。
5ナショナリズムと千野香織さんの問題提起
さて、本来は、都市王権・都市貴族に対応する地方エリート・地方貴族のあり方、そして都市貴族と地方貴族の関係という今回の研究集会にそくした議論を展開しなけれgばなりません。しかし、第一セッションに関するコメントでほとんどの時間を使ってしまい、すでに時間がありません。そこでたいへん申し訳なく思いますが、ここで、なぜ私たちが平安時代史を研究するのかという最初の問題にもどり、また第二・第三・第四・第五セッションで展開された宗教・文化・国際関係の議論についても若干ふれながら、私の話を終えるということで御許し願いたいと思います。
実は、この問題については、本来は、私ではなく、今回の集会の企画に携わり、ご自身で報告の予定であった千野香織さんからの発言があるべきであったでしょう。彼女が、この場にいらっしゃらないのはきわめて残念です。千野さんは、この点で一つの方針をもっている方でしたから、平安時代史研究のインターディスシプリナリな、学際的な議論の発展のために必要な方であったことを実感します。彼女は、そもそもの何のために平安時代史研究をやるのかについても議論する必要を痛感されていたように思われます。彼女は、昨年12月19日、御死去のしばらく前に連続的な講演会を組織し、その第一回目に御自分で講演をされました。その講演記録が彼女が編者をしていた岩波書店の講座『近代日本の文化史』の四巻目の月報にのっております。彼女はそこで、「日本美術史」というものを物語る枠組み、そして日本美術史という学問の枠組み自身が、基本的なところで19世紀以来あまり変わっていないのと指摘しています。私も、彼女がいうのとほとんど同じ意味で、平安時代史の枠組みが、古くから変わっていないところがあるのではないかと感じているので、この点をとくに議論したかったと痛感しました。
そして、この旧来の感じ方というのは、一言でいえば「日本美術史を国民意識をかきたてるように使う」、しかもその場合、西洋美術史それ自身を基準にもってきて、日本の芸術家もそれと同じように偉いのだと語るという種類のものであったといいます。平安時代の文化について、たとえば『源氏物語』は世界で最初の長編小説であって、その叙述方法はプルーストの『失われた時をもとめて』と共通するというような言い方が今でもされますが、それと同じものという訳です。こういう見方にかけているのは、日本の文化を実際に大きな相互的な影響をもった東アジア世界のなかでとらえるという観点です。そして、こう考えてみると、実は、第二セッションから第五セッションまでの議論は言語にせよ、宗教にせよ、文化にせよ、貿易にせよ、どれも、この日本と東アジアという問題に関係していること、その視野なしには議論できないものであったことに気がつきます。この点でも、今回の研究集会はきわめてよく組織されていたと思います。私は、いま、『黄金国家ーー東アジアと平安日本』という本を執筆しているのですが、ようするに、平安時代の宗教・文化を最初から日本に独自なものとみるのでなく、平安時代を通じて、相互関係のなかで形成されたものとみることが重要だと思います。
もちろん、日本は東アジア世界とは違う国であるという見方はきわめて古いもので、それこそ平安時代から存在しました。たとえば「漢文」ではなく、「和歌」こそが日本文化を代表する。つまり「人の心のみならず鬼の心さえも動かすのは和歌である」という古今集序の言説は、平安時代そして中世を通じて繰り返されました。たとえば、史料の上で明瞭に天皇の万世一系の思想をのべた初めての史料である9世紀仁明天皇の四十歳のお祝いのセレモニーの史料には、同時に、古今集の序と同じ言葉が語られています。また中世、和歌の力によって「鬼」をおいはらう、そしてこの鬼にはしばしば異国の人々のことをイメージされていたという史料もあります。こういうきわめてナショナリステイックな思想と文化の観念が古くから存在し、それが現在も再生産されていることに私たちは注意しなければならないでしょう。
少し、千野さんの文章から話しがずれましたが、こういう問題について意識的な研究を進めることは彼女の本意であろうと思います。そして、私は、彼女が、この講演で、昨年、ナショナリスティックな立場から執筆され、教科書の検定と採択を突破しようとして大きな話題となった扶桑社版の中学校歴史教科書に対して、強い批判を述べています。「奈良時代にはすぐれた仏師が登場した」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵する」というようなことを書く教科書叙述が、政界やメディアの強い支援をうけるという事態は、彼女に強い違和感を抱かせるものであった訳です。私たちの仕事はそれ自身として学問的な作業ですが、歴史学は、どの国でも同じことでしょうが、同時にこういう社会的な問題とつねにきりむすばざるをえません。私は、歴史学・宗教学・言語学・美術史などのインターディスシプリナリーな国際的な交流は、そういう問題に関する交流もふくみこんで展開してほしいと思います。
とはいえ、いうまでもなく、その出発点は、あくまでも我々の仕事の対象に即したものでなければなりません。過去を過去として突き放して感覚すること、観察すること、分析すること、そのためには、歴史学の立場からいうと、理想的には、過去の痕跡を示す史料を細大漏らさずすべてを自分の視野におさめること、読解に専門的な知識が必要な宗教史の史料であるからといって、また普通の研究者には読みにくい漢文・漢詩・仏教史料・御経・聖教であるからといってそれを排除するのではなく、すべてを見ることの必要性を確認しておくことが必要です。そしてそのためにこそ、学際的な研究態度が必要になるのだと思います。
さいごに
以上をふまえて最後に強調しておきたいことは、現代の学問、そして国際的な規模で展開される平安時代史研究は、そのために強力な道具をもっている、つまり発達したインターネットの技術とデータベースをもっているということです。実は、来週、6月21日・22日に、私の職場、東京大学史料編纂所で、COEのジャパンメモリープロジェクトの主催で研究集会「日本学研究と史料学の国際化」が開催されます。私は、このプロジェクトの最初からのメンバーで、責任者の一人として、日本史史料のデータベース化の仕事に取り組んできました。その立場から、今、史料編纂所のホームページからは、平安遺文・大日本古文書、貞信公記・小右記などの大日本古記録のフルテキスト、そして、最近では大日本史料の版面画像が公開されていることを御報告しておきたいと思います。また遅くとも、この秋にはいわゆる『史料稿本』、未刊行部分の『大日本史料』の原稿の画像が公開されます。今後、さらに本朝文粋などの文学史料もふくむ『国史大系』をフルテキスト化することを計画しています。ようするに、今後4・5年の間に、平安時代の歴史史料の相当部分がデータベース化されることは確実です。
平安時代は、世界の同時代の歴史のなかでみても、宮廷社会から在地社会にいたるまで、明らかに例外的に文献史料に恵まれた時代です。それを国際的な共同のなかで共有し、共同的な研究を進めることはきわめて大きな意味があるでしょう。そういう方向にむけて今回の集会が大きなインパクトを与えることは疑いがありません。