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2018年11月

2018年11月23日 (金)

『竹取物語』の不審本文を読みなおす

以下は一五年ほど前に人間文化研究機構で「編纂」という仕事について話した原稿の一部です(活字になっているはず)。これもPCの中からでてきた。ブログに上げておけば忘れない。
 
 『かぐや姫と王権神話』(126頁)で書いたことに説明ですので、研究的な文章ですが、他の研究者の邪魔にはならないと考えてあげておきます。
 
 まず編纂とは何かということから御話をしたいと思います。私は、最近、『かぐや姫と王権神話』という本を執筆するにあたって、『竹取物語』の本文の校訂という仕事をしました。『竹取物語』には四・五カ所の「不審本文」といわれる、昔から意味不明の箇所がありまして、それについてこれまで編纂という仕事に従っていたものの立場から案を出すという作業でした。

 編纂ということを考える上では、ちょうどよいので、そのうちの一つを題材として説明させていただきますと、たとえば、車持皇子が蓬莱の玉枝を偽造するという場面があります。彼が密かに偽造を担当する鍛冶工を集める場面が次のようにでてきます。


垣を三重にし籠めて、皇子も同じ所に籠り給ひて、知らせ給ひたる限り十六そをかみに〔て〕くどをあけて玉の枝を作り給ふ。

 これは少し漢字に起こしてありますが、原文ではすべてひらがなになっています。そのうち傍点の「十六そをかみにくどをあけて」という部分が意味不明なので、これまでたとえば、「領知する限りの十六所の荘園を」などと解釈されてきました。「十六そ」の「そ」は、仮名では「所」という字を崩した仮名で書いてありますので、これは「十六所」としてもいいのです。しかし、そこまではよいとしても、「かみにくどをあけて」というのは、どうしてもわからないという訳でした。

 これについて「十六そをかみに」の「に」を「て」に変えてみます。これは変体仮名といって、ひら仮名の別の書体では「に」と「て」は酷似する場合がありますので、許される校訂です。そうしますと、「知る限りの十六所拝みて」と読むことができることになります。

 十六所というのは、十六所祈祷といいまして、伊勢神宮を中心として、近畿地方の有名な神社をえらんで、朝廷が祈祷することをいます。もし、そう読めるとしますと、『竹取物語』の成立は九世紀の末と考えられておりますので、この史料は、十六所祈祷の初見史料ということになります。これは平安時代の神道の成立を示すたいへんに重要な問題となってきます。

 そして「くど」は「竈突」。つまり鎌倉時代の『名語記』という辞書には、家の竈神のそばにあける煙出をいうとありますので、「竈突=煙出」と考えました。神様に祈るためには、煙をあげなければならないという考え方は古くからありますので、まさにそれだということになります。こうしてこれまでわからないといわれていた文章について、「知っている限りの十六所の神社に祈祷をして」、潔齋をして玉枝作りにかかったということで、うまく意味が通じた。一字を「に」を「て」に校訂するだけでうまくいったということになります。

 『竹取物語』の校訂というのは江戸時代からされているわけですが、もしかしたらこれで日本の文化の基礎について確実に一つの仕事を付け加えたということになります。編纂というのは、こういう意味では、歴史文化の基礎をつちかうものだと考えることができます。

 もちろん、編纂というのは、まずは人文社会科学における基礎研究です。自然科学でいえば「実験」にあたるきわめて地味な作業で、いわゆる「考証」という作業です。この事業は、非常に手間と人員がかかる地味な作業です(以下はコンピュータと編纂の話しにつき省略)

何のために「平安時代史」研究をするのか

おそらく20年ぐらい前のハーヴァードでの「平安時代史研究会」のConcluding Discussionの原稿が、PCの中にあったので載せておく。

このころは元気であった。ボストンの川を船でさかのぼっていった時の景色を思い出す。豊かな土地、アメリカ。これがネルーダが歌ったアメリカ大陸の豊かさなのだ。これがネーティヴ・アメリカンの土地だったのだという感興をもったことをよく覚えている。

 この研究集会の日本側の企画者は学習院の千野香織さんだった。形がととのう直前になくなられたが、その少し前に職場の前でばったり。御元気だったのにショックであった。


1何のために「平安時代史」研究をするのか。

 21世紀の世界、そしてその中で歴史学がおかれた状況は、私たちに対して深刻な思索を要求しています。何のために研究をするか、これについて世界中の歴史家相互で話し合うことが重要になっています。けれども、今日ここで問題としたいのは、歴史学一般ではなく、平安時代史の研究についてです。つまり私はここでみなさんに「何のために平安時代史の研究をやっているか」ということを問いかけてみたいのです。

 実は、こういう問題意識は、これまで日本の学会の中にはまったくありませんでした。そもそも、考えてみるとおかしなことなのですが、日本の歴史学界では、今回のような「平安時代史」をテーマにした研究集会がもたれたこともありませんでした。さらに、今回の集会は、歴史学・文学史・宗教史・美術史をふくめてのインターディシプリンな研究集会として大きな意味があるのですが、こういう研究集会の開催はあきらかに世界中ではじめてのことです。私は、今回の画期的な研究集会が、今後日本でも平安時代史をテーマにした総合的・国際的な集会が行われるきっかけになることを願っています。

 ともかく、anyway、今回の集会の報告は、あまりに多様で内容豊かであるために、個々の報告の内容にふれることはとてもできません。そこで私の発言は、そのような方向を今後組織していくために、現在考えておくべきことを提案するという形で進めることを御許しいたqだきたいと思います。

2古代史研究と中世史研究の狭間

 そういう展望をもってみると、最初の問題は、なぜ平安時代に関する総合的な研究集会が、日本の学界でこれまでもたれなかったのか、なぜこれまで、平安時代研究の意味や展望をめぐっての集中的な討論が行われなかったのかということになります。そして、日本の歴史学界の中にいるものの実感としては、その理由は、この時代が古代史研究と中世史研究の狭間に位置しているという、学界内部の事情にあります。私には、つまりだいたい1980年以降、古代史研究と中世史研究の相互の関係は、とくに排他的・閉鎖的なものになったように思われます。古代史研究と中世史研究は、研究のために必要な知識や修練が大きくことなっており、それに対応して研究者の経歴や生活のパターンもことなっています。冗談ですが、古代史の研究者はきっちりしていて紳士的であり、行政的に有能なのに対し、中世史の研究者は自由というと聞こえがいいが、いいかげんでアナーキーであるといわれます。その中で、平安時代史の専攻者、自分の専門は平安時代史研究であると自覚している人の数はそんなに多くありません。古代史の職業的研究者は、古代の本場である六世紀から奈良時代を、中世史研究者は本格的な中世、つまり鎌倉時代の歴史の究明を自己の第一義の仕事としがちです。こういう状態の中で、平安時代の歴史は「前期」と「後期」にわかれて研究されてきました。つまり、いわゆる「摂関時代」と「院政時代」にわけて研究されてきました。そして、摂関時代は古代史の延長部分として、院政時代は中世史の序論部分として位置づけられ、そういう形で古代史と中世史の棲み分けが行われてきた訳です。

 今回の研究集会のテーマは「平安時代における中心と周縁」というテーマの下に開催されていますが、すくなくとも現状では、平安時代史研究自身が歴史学にとってはいわば周縁的な地位にあり、センターは本来の古代史と本来の中世史にあります。しかし、この約400年間にもわたる時代、平安時代が歴史学研究の上で周縁的な意味しかもたないというのは、私には容認できない考え方です。この時代はやはり一つの歴史的な時代として一貫して位置づけることが必要なのではないでしょうか。平安時代を「前期」「後期」に分断する従来の考え方は、無意識にこの時代が一つの歴史的な時代ではないという考え方を前提にしていると思います。そうではなく私たちは、いわば「平安時代史研究を自立」させなければならないのではないでしょうか。

3王権論の不在
 私は、数年前、岩波新書の『平安王朝』を執筆し、「平安時代史研究の自立」をめざした作業を開始しました*1。それを前提にして、今回の研究集会にそくして、いくつかの論点を提示してみたいと思います。まず第一には、平安時代の国家の中枢、とくに王権と天皇制をどう考えるかという問題です。従来の考え方では、平安時代前期の「摂関時代」は摂関家が権威を確立していく時代、「摂関政治の発達」の時代として描かれ、平安時代後期の「院政時代」は、徐々に源氏・平家などの「武士」の力が優越していく時代、「武家政治の発達」の時代として描かれます。これは王権論にとってどういうことを意味するかというと、天皇家・王権自身についての分析は、摂関政治と武家政治の発達なるものの影に隠れてしまい、ネガとしかとらえられないということです。そこでは王権自身は主語・サブジェクトとはならず、目的語、オブジェクト、あるいは修飾語、アドジェクティヴの地位におしこめられます。今回の集会の第一セッションで問題とされたように、王権の存立、肉体的な存在自身が「政略結婚」の対象であり、そこでは王権はロボットのように意志をもたず操作される客体、オブジェクトととらえられています。こういう政治的過程をジェンダーバイアスによって単純化してとらえてしまう考え方が、日本でも、フェミニズム的な歴史学によって強力な批判にさらされているのは、第一セッションの議論によってよく御わかりいただけたと思います。

 平安時代の天皇制の中には、たとえば桓武と弟の皇太子早良親王の争い、薬子の変と呼ばれた平城上皇と嵯峨天皇の間の争い、承和の変において皇太子恒貞親王を退位させた事件、菅原道真の配流事件にあらわれた宇多と醍醐の父子間の争い、冷泉天皇の狂気をきっかけとして冷泉系とその弟の円融天皇系に分裂した王家が争った問題、それを条件として藤原兼家やその子供の道長が大きな権力をもった問題、白河天皇とその弟の皇太子・実仁親王、輔仁親王との争い、崇徳と後白河の兄弟の争い、そして後白河と高倉の父子の争いなど、最初から最後まで激しい内部的な争いー男と男のはげしくみにくい争いが存在しました。桓武の弟の早良親王は死後、崇道天皇と贈り名されました。そして、後白河の兄の崇徳天皇の贈り名はこの崇道を意識していたのではないかというのが、私の想定です。崇道、崇徳の「崇」とは「崇拝する」「祟りをなすものをおそれる」という意味です。つまり、平安時代は王家内部の兄弟争いによって最初と最後を画されており、当時の人々もそれを自覚していたということになります。王権を中心として摂関家ほかの最高級貴族の全体を巻き込んだ紛争が通常の調停では不可能なほど激化し、結局、武力による決着が必然的なものとなる過程として、平安時代の政治史の全体的な流れと「院政」の登場を分析することが重要です。

 従来の考え方の中には、こういう王権内部の激しい争いを無視し、天皇を非政治的な存在、もっぱらネガでありオブジェクトであるかのように考える見方があったことは疑いをいれません。歴史学の問題としては、日本のアカデミズムの中に、天皇の政治的な役割を明瞭に論じることへのタブーともいうべき感情があったことは否定できません。そのおかげで平安時代の王権の実体的な研究はおおきく遅れていた訳です。『平安王朝』を執筆したとき、こんなことも研究されていなかったのかという問題が実にたくさんあるのをしって大変に驚いたことを思い出します。いわゆる批判派の側は、アカデミズムに対して相対的に寛容でしたし、むしろ理論的な研究あるいは社会経済史の研究で精一杯でしたから、まさかそんなことだとは思っていなかった訳です。

 こういう平安時代イメージが社会的なイデオロギーの反映であることも明らかであります。私は、いま、交順社というリタイアした財界人の談話会で、毎月一度、平安時代の歴史の話をしているのですが、平安時代の王権の内部的な矛盾こういう話をすると、「ようするに昔は、悪いことはすべて臣下の間の争いということだったのですよ」というのが感想でした。交順社というのは本来福沢諭吉が設立した結社ですからさすがに見方がリベラルで教えられることが多いのですが、私の話は戦前の皇国史観の教育のなかで語られた天皇のイメージに対する解毒剤になるようです。皇国史観は天皇を神とすることによって、王権をその肉体や具体的な歴史過程から切り離して神聖化・図式化・抽象化・単純化した訳ですが、これが天皇制に関する現在の日本社会のイメージの基本をいまだに拘束しているのです。そして、それは象徴天皇制という現代天皇制のあり方ともうまくマッチしています。つまり、天皇は権力ではなく、権威・象徴であって、それは平安時代の昔から変わらなかったという訳です。こういう立場からいうと、平安時代は、象徴にすぎない非政治的な王権が宮廷文化を花開かせた理想的な時代ということになり、そういうバイアスの下で美化されることになるのです。もちろん、皇国史観と象徴天皇制に特有な天皇制に対する感じ方は、本質的にはことなるものですが、王権の実態を抽象化・単純化するという上では同じ機能をもっているのです。

4「都市王権」
 しかし、学問的な議論をする上では、問題はさらにふかめられなければなりません。いま、天皇制の権力と権威という問題を申し上げました。天皇制を非政治的な権威とのみとらえることは正しくありません。そう考えてしまうと、実際には王権がしばしば強力な政治的主体であったことが忘れられてしまうのです。しかし、天皇制を単なる権力的支配の論理でとらえることもできません。平安時代の400年間、栄え続けたことによって、天皇制が強力な文化的権威をもち、日本の文化の基礎構造にしみ通っていることも事実なのです。

 これを考えるためには、平安時代の社会構造のなかで、王権と天皇制の位置をとらえ直すというさらに本格的な研究が必要になります。そして、私は、この問題が今回の研究集会のテーマである「中心と周縁」、その相互関係、交通関係という問題に直結していると思います。第一セッションでも、第二セッションのアドルフソン報告でも問題となったように、平安時代の国家と社会は都市と農村の間の統合的関係を維持し発展させていました。従来の考え方では、平安時代は律令制的な中央集権国家の構造が分解していく時代としてとらえられます。平安時代の前期は藤原氏が他の諸氏族を排除していく過程であり、国家が公家貴族のレヴェルで分解していき、後期には武士が公家貴族を圧倒し、さらに本格的に律令国家を分解していくという訳です。まず特定の構造があり、それが分解するという歴史観あるいは歴史の分析方法は、歴史意識としてはもっとも素朴かつ単純なものです。歴史の最初には、黄金の時代、理想的な時代、制度の整った時代があり、それがだんだんだめになっていく、下降していくというとらえ方は、ヨーロッパでも東アジアでも一般的であります。歴史学者も実際上はそれにとらえられいることは、たとえば日本の奈良・平安時代の歴史教科書などをみれば明らかです。都市と地方社会が権力的に一元的に統合されていた時代から、それがバラバラになっていく、私的に分解していく時代という訳です。私の指導教官であった戸田芳実氏は、こういう考え方を口をきわめて批判しました。それは、古代国家の解体史観であって、律令制がどう解体していったかの制度的過程は明らかにできるが、どのように社会構成が変化し、どのように新しい社会が形成されたかは結局明らかにできないという訳です。

 私は、実は、日本で、平安時代を封建制が形成される時代であるととらえ、社会の私的な諸関係への分解を中心において問題をとらえる場合にも、こういう解体史観が影響していたことは否定できないように思います。私は、そういう考え方から、一昨年の歴史学研究会大会で、日本の中世を封建制の時代ととらえる考え方とそろそろ決別すべきである。封建制は西ヨーロッパに固有な社会構成であって、日本は一度も封建制っであったことはないと主張しました。

 もちろん、私は、これまでの歴史学が展開してきた封建制、フューダリズムの議論自身がフュータイルであった、無駄であったというわけではありません。とくに黒田俊雄・戸田芳実の考え方は、封建制という用語は使用していますが、実際上、西ヨーロッパとは大きくことなる社会の構造を指摘していました。つまり、彼らの考え方によると、平安時代の支配階層をなした公家貴族と武家貴族(および宗教貴族)は、基本的には都市貴族として共通した性格をもって連合していたこと、そして、その頂点にはつねに王権と天皇制が存在していたということになります。平安時代の国家、王朝国家は王権を中心とし、中央都市・京都を中心として地方社会を支配し、統合していました。こういう社会における王権の国家的・社会的なあり方は「都市王権」という範疇によって表現するのが適当であるというのが、私の意見です。この「都市王権」の概念について、ここでくわしく論じることはできませんが、ようするに宮廷貴族・軍事貴族は、中央都市領域を固有の拠点として、そこにおける分業を支配し、都市近郊を領主的に支配するとともに、都市が地方社会に対してもっている規制力を自己の支配権力のなかに編成していたということになります。都市王権は、このような都市的な領有を代表しているのです。源氏物語には、都市の民衆生活のなかに「田舎の通い」つまり、地方への出稼ぎ、あるいは商業活動が含まれていたことを示す有名な一節がありますが、王権はそういう都市の民衆の活動をも含みこんで支配権力をつくりだしていたのです。

5ナショナリズムと千野香織さんの問題提起
 さて、本来は、都市王権・都市貴族に対応する地方エリート・地方貴族のあり方、そして都市貴族と地方貴族の関係という今回の研究集会にそくした議論を展開しなけれgばなりません。しかし、第一セッションに関するコメントでほとんどの時間を使ってしまい、すでに時間がありません。そこでたいへん申し訳なく思いますが、ここで、なぜ私たちが平安時代史を研究するのかという最初の問題にもどり、また第二・第三・第四・第五セッションで展開された宗教・文化・国際関係の議論についても若干ふれながら、私の話を終えるということで御許し願いたいと思います。

 実は、この問題については、本来は、私ではなく、今回の集会の企画に携わり、ご自身で報告の予定であった千野香織さんからの発言があるべきであったでしょう。彼女が、この場にいらっしゃらないのはきわめて残念です。千野さんは、この点で一つの方針をもっている方でしたから、平安時代史研究のインターディスシプリナリな、学際的な議論の発展のために必要な方であったことを実感します。彼女は、そもそもの何のために平安時代史研究をやるのかについても議論する必要を痛感されていたように思われます。彼女は、昨年12月19日、御死去のしばらく前に連続的な講演会を組織し、その第一回目に御自分で講演をされました。その講演記録が彼女が編者をしていた岩波書店の講座『近代日本の文化史』の四巻目の月報にのっております。彼女はそこで、「日本美術史」というものを物語る枠組み、そして日本美術史という学問の枠組み自身が、基本的なところで19世紀以来あまり変わっていないのと指摘しています。私も、彼女がいうのとほとんど同じ意味で、平安時代史の枠組みが、古くから変わっていないところがあるのではないかと感じているので、この点をとくに議論したかったと痛感しました。

 そして、この旧来の感じ方というのは、一言でいえば「日本美術史を国民意識をかきたてるように使う」、しかもその場合、西洋美術史それ自身を基準にもってきて、日本の芸術家もそれと同じように偉いのだと語るという種類のものであったといいます。平安時代の文化について、たとえば『源氏物語』は世界で最初の長編小説であって、その叙述方法はプルーストの『失われた時をもとめて』と共通するというような言い方が今でもされますが、それと同じものという訳です。こういう見方にかけているのは、日本の文化を実際に大きな相互的な影響をもった東アジア世界のなかでとらえるという観点です。そして、こう考えてみると、実は、第二セッションから第五セッションまでの議論は言語にせよ、宗教にせよ、文化にせよ、貿易にせよ、どれも、この日本と東アジアという問題に関係していること、その視野なしには議論できないものであったことに気がつきます。この点でも、今回の研究集会はきわめてよく組織されていたと思います。私は、いま、『黄金国家ーー東アジアと平安日本』という本を執筆しているのですが、ようするに、平安時代の宗教・文化を最初から日本に独自なものとみるのでなく、平安時代を通じて、相互関係のなかで形成されたものとみることが重要だと思います。

 もちろん、日本は東アジア世界とは違う国であるという見方はきわめて古いもので、それこそ平安時代から存在しました。たとえば「漢文」ではなく、「和歌」こそが日本文化を代表する。つまり「人の心のみならず鬼の心さえも動かすのは和歌である」という古今集序の言説は、平安時代そして中世を通じて繰り返されました。たとえば、史料の上で明瞭に天皇の万世一系の思想をのべた初めての史料である9世紀仁明天皇の四十歳のお祝いのセレモニーの史料には、同時に、古今集の序と同じ言葉が語られています。また中世、和歌の力によって「鬼」をおいはらう、そしてこの鬼にはしばしば異国の人々のことをイメージされていたという史料もあります。こういうきわめてナショナリステイックな思想と文化の観念が古くから存在し、それが現在も再生産されていることに私たちは注意しなければならないでしょう。

 少し、千野さんの文章から話しがずれましたが、こういう問題について意識的な研究を進めることは彼女の本意であろうと思います。そして、私は、彼女が、この講演で、昨年、ナショナリスティックな立場から執筆され、教科書の検定と採択を突破しようとして大きな話題となった扶桑社版の中学校歴史教科書に対して、強い批判を述べています。「奈良時代にはすぐれた仏師が登場した」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵する」というようなことを書く教科書叙述が、政界やメディアの強い支援をうけるという事態は、彼女に強い違和感を抱かせるものであった訳です。私たちの仕事はそれ自身として学問的な作業ですが、歴史学は、どの国でも同じことでしょうが、同時にこういう社会的な問題とつねにきりむすばざるをえません。私は、歴史学・宗教学・言語学・美術史などのインターディスシプリナリーな国際的な交流は、そういう問題に関する交流もふくみこんで展開してほしいと思います。

 とはいえ、いうまでもなく、その出発点は、あくまでも我々の仕事の対象に即したものでなければなりません。過去を過去として突き放して感覚すること、観察すること、分析すること、そのためには、歴史学の立場からいうと、理想的には、過去の痕跡を示す史料を細大漏らさずすべてを自分の視野におさめること、読解に専門的な知識が必要な宗教史の史料であるからといって、また普通の研究者には読みにくい漢文・漢詩・仏教史料・御経・聖教であるからといってそれを排除するのではなく、すべてを見ることの必要性を確認しておくことが必要です。そしてそのためにこそ、学際的な研究態度が必要になるのだと思います。

さいごに
 以上をふまえて最後に強調しておきたいことは、現代の学問、そして国際的な規模で展開される平安時代史研究は、そのために強力な道具をもっている、つまり発達したインターネットの技術とデータベースをもっているということです。実は、来週、6月21日・22日に、私の職場、東京大学史料編纂所で、COEのジャパンメモリープロジェクトの主催で研究集会「日本学研究と史料学の国際化」が開催されます。私は、このプロジェクトの最初からのメンバーで、責任者の一人として、日本史史料のデータベース化の仕事に取り組んできました。その立場から、今、史料編纂所のホームページからは、平安遺文・大日本古文書、貞信公記・小右記などの大日本古記録のフルテキスト、そして、最近では大日本史料の版面画像が公開されていることを御報告しておきたいと思います。また遅くとも、この秋にはいわゆる『史料稿本』、未刊行部分の『大日本史料』の原稿の画像が公開されます。今後、さらに本朝文粋などの文学史料もふくむ『国史大系』をフルテキスト化することを計画しています。ようするに、今後4・5年の間に、平安時代の歴史史料の相当部分がデータベース化されることは確実です。

 平安時代は、世界の同時代の歴史のなかでみても、宮廷社会から在地社会にいたるまで、明らかに例外的に文献史料に恵まれた時代です。それを国際的な共同のなかで共有し、共同的な研究を進めることはきわめて大きな意味があるでしょう。そういう方向にむけて今回の集会が大きなインパクトを与えることは疑いがありません。

東大寺大仏と新羅出兵計画  『 歴史地理教育』 673号2004-08)

東大寺大仏と新羅出兵計画ーー
歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 673号2004-08)

 「戦後」の歴史教育において、奈良時代のイメージは、しばしば山上憶良の「貧窮問答歌」、そして反乱を起こして拷問をうけた橘奈良麻呂が語ったという「東大寺を造り、人民辛苦す」という言葉によって語られた。

 このような筋書きを歴史教育に最初に持ち込んだのはおそらく羽仁五郎であろう(羽仁「大化改新」、『羽仁五郎歴史論著作集』3、青木書店)。私は、羽仁の歴史学の意味を全否定するものでも、また羽仁の言説の根拠となった北山茂夫「奈良前期における負担体型の解体」(『歴史科学大系3』校倉書房)の研究史上の意義を否定するものでもない。しかし、「戦後歴史学」を考える場合、この種の羽仁の文章が学問的論文としての体をなしていないことは確認しておくべきだと思う。

 たしかに、はじめての本格的な統一国家として登場した律令制王国の下で、人々が新たなきびしい条件におかれたことは事実である。しかし、それは共同的な性格をもった社会から階級的社会が確立した社会への歴史の変化を、より理論的かつ具体的に論じるなかで自然に理解されるべき問題であるはずである。右の奈良麻呂の言葉をとくに取り出し、必然的に「人民辛苦」を東大寺大仏の歴史的評価の問題と関係させて議論するというのは、あまりに安直・狭隘な「人民史観」である。

 そして、現在からみると、何よりも問題なのは、その視野があまりに「自国史」の枠内に局限されていることである。私は、東大寺大仏の意味を考えるにあたっては、八世紀、二度にわたって高まった新羅出兵計画との関連をふまえなければならないと思う。これを八世紀政治史の最重要点として強調したのは、石母田正『日本の古代国家』であり、その指摘の鋭さはさすがに「戦後歴史学」の主流をになった歴史家にふさわしいものである。そして、この石母田の指摘は、さらに意識的に、同時代の安禄山の反乱をはじめとするユーラシア全体の歴史の理解のなかで生かされてねばならない。この点は、最後に若干ふれるとして、まず東大寺大仏の建立と新羅出兵計画の絡み合いの様子をみてみよう。

 新羅出兵計画は、旧高句麗地域において建国された渤海が、その勢力を拡大し、七二七年、日本に遣使し、自己が高句麗の跡をうける地位にあると称し、「親仁、援を結び、庶くは前経に叶わん」と、日本との同盟を申し入れたことがきっかけとなった。この使者を渤海まで送っていった遣渤海使・引田朝臣虫麻呂が、七三〇年(天平二)八月に帰国して渤海の現況を報告して以降、新羅侵略の議論が一挙に沸騰したのである。同年九月の大納言藤原武智麻呂の大宰帥兼任、十一月の畿内惣官職・諸道鎮撫使の設置、さらにその翌年七三二年(天平四)の諸道節度使の補任は、新羅に対する戦争体制の構築そのものである。その中心に藤原不比等の四人の子供、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂、いわゆる藤原四卿が位置していたのはいうまでもない。そして、同じ年、七三二年に渤海が山東半島登州を攻撃し、唐が新羅に援軍派遣を要求する。こうして、七三五年、新羅は唐から渤海と境を接する唄江以南の地の割譲をうけ、唐との連携を強化しつつ、渤海との戦争状態の前線に立った。

 この中で、七三六年(天平八)に発遣された日本の遣新羅使が、新羅の接遇を「常礼を失う」ものと咎めるという事件が発生した。帰国した彼らの報告をうけた朝廷は、翌七三七年(天平九)二月、主要な官人四十五人を内裏に招集し、意見を開陳させたが、その中には、使者を新羅に遣わして問詰するという意見のほかに、「兵を発し征伐を加えん」というものがあったという。石母田『日本の古代国家』は、この出兵路線を主唱した人物こそ藤原広嗣であったと推定している。こうして、夏四月、伊勢・大神・筑紫住吉・八幡・香椎の諸社に奉幣し「新羅无礼の状」を報知するという状況が展開したのである。

 しかし、奉幣の直後の夏四月から秋にかけて藤原不比等の四人の息子が疫病で全員死去するという事件が発生し、この対新羅戦争の動きは一頓挫することとなる。しかも、翌七三八年(天平一〇)には、長く空位であった皇太子に、阿倍内親王がつき(後の孝謙=称徳女帝、時に二〇歳)、橘諸兄が右大臣となった。これによって王権と廟堂の構成は大きく切り替わったのである。石母田が「諸兄政権の対新羅政策は消極的であるのが特徴」であるとするように、この時期、新羅出兵という衝動は確実に希薄になった。その中で、同年十二月に、広嗣は、大和守から大宰少弐に左遷される。そして孤立した広嗣が「時政の得失を指し」た上表を提出し、反乱に踏み切ったのは、七四〇年(天平一二)のことであった。

 私は、このような動きの背景として、東大寺大仏の造立に結果した聖武の宗教的諸事業の位置を無視できないと考える。まず注目すべきなのは、前述の対新羅政策が議題となった太政官論議の翌月、七三七年(天平九)三月、聖武が国毎に釈迦仏像を造り大般若を写せという命令を発布したことである。『続日本紀』をみれば、これ以降、宮中および諸国での読経・造塔、僧侶への布施などが連続し、聖武が宗教事業に熱中していく様子が明らかである。その中で、七四〇年(天平一二)二月、聖武が河内国の知識寺に詣でて廬遮那仏を見たことが大仏建立の祈願を導いた。結局、新羅出兵の雰囲気を希薄にさせたのは、聖武の宗教事業であったのであり、それにともなう人的・物的負担が、もう一つの国家事業としての新羅出兵の条件を掘りくずしたのである。

 もちろん、新羅出兵という軍事計画の頓挫の理由は、それ自身としては政治史の内部に理由をもとめねばならず、決定的であったのは、新羅出兵を主唱した広嗣の反乱にあった。とくに、聖武の宗教的行動のもう一つの起点が、七四〇年(天平一二)、広嗣の乱の真っ最中、伊勢神宮を「増飾」するために平城京を離れて伊勢に向かったことにあったことは重要であろう。この伊勢行が有名な聖武の「彷徨五年」といわれる遷都・造宮行動につながったのであるが、最近、仁藤智子『平安初期の王権と官僚制』(吉川弘文館、二〇〇〇)は、この東国行幸は、壬申の乱における天武勝利の「由緒」の道を歩み直し、支配の正統性を再確認しようとしたもの、一種の王自身によるデモンストレーションであったという説得的な見解を提出した。それを前提として、さらに、私は、この行動が聖武自身によって伊勢の「増飾」ー「天下神宮」に対する信仰の表出であると明言されていること、そして、この彷徨の最後に到着した紫香楽宮において「大仏建立」の詔が発せられたことに注目したい。「古代史」の研究状況は承知してないが、「廬遮那仏者、聖武皇帝勧進天下衆庶、祈請伊勢大神宮」(「東大寺八幡大菩薩験記」)と言い伝えられ、東大寺と伊勢をつなぐ神話的諸観念が繰り返し想起されたことは、東大寺史の問題としては著名な事実である(永村真『中世寺院史料論』吉川弘文館、二〇〇〇、三五頁)。

 聖武の彷徨は、天武の「由緒」をたどりながらの伊勢巡礼から大仏造立の適地を探り歩くというものであった。聖武は天武の東征神話の上に伊勢信仰と大仏信仰を積み上げ、王権中枢の矛盾を宗教的に救済しようとしたのである。その中で、王家の「氏寺」としての東大寺が完成するとともに王家の「氏神」としての伊勢神宮の地位も確立したというのが、さまざまな議論のある王家宗廟としての伊勢神宮の位置の確立についての私見である。そして、東大寺大仏が、陸奥黄金によって全身を塗金された姿を現したのは、七五二年(天平勝宝四)四月の大仏開眼会であった。そのメインイヴェントとなった五節舞が、天武天皇が吉野山中で幻視したという天女の舞を模したものであること、そのようなものとして『竹取物語』の原風景というべきものであったようするに、この経過のなかには、『続日本紀』には十分には記録されていない伊勢・吉野・大仏・黄金をつらぬく天武王統の神話が表現されているとみなければならないというのは、別に論じた通りである(保立「『竹取物語』と王権神話」『物語の中世』東京大学出版会、一九九八年)。

 この開眼会には新羅王子の金泰廉をトップとする総勢七〇〇余人からなる新羅の大規模な参詣使節団が参加した。これは東アジアの国際政治のなかで現実的な外交政策を追求せざるをえない立場にあった新羅が、日本との間に仏教的・宗教的な親和をはかろうとしたものであろう。そして、このような行動の背景には、新羅が大仏建立をみちびいた華厳宗の一大拠点であったことがあったにちがいない。しかし、日本国家はこの宗教的なメッセージをうけとめようとはしなかった。しかも、東大寺大仏の建造が新羅出兵計画の中断の重要な条件であったということは、その完成が日本と韓半島の関係にきなくさい雰囲気を呼び戻すことを意味したというのが東アジア政治史の実際であったのである。新羅の参詣使節の帰国と入れ替わるようにして、十余年ほど途絶えていた渤海使が来日し、長期間にわたって日本に滞在し、彼らは、唐・新羅に対抗するために、ふたたび日本との軍事的提携の確認を申し入れたのである。これが新たな二度目の新羅出兵計画のきっかけとなったのであり、そして、その中軸をになったのが、藤原武智麻呂の子供、仲麻呂であった。

 この後の詳しい経過については、行基の渡来人としての素性の問題をふくめて、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四)の第一章「奈良時代の東アジアと渡来人」を御参照願いたいが、この二度目の新羅出兵計画も、出兵の直前までいきながら、幸いにして、頓挫することになった。そこでは、第一次の新羅出兵計画の破綻における広嗣の反乱と同様、政治史自身の問題としては、王権内部の闘争の中で、淳仁天皇、「偽王」塩焼王と仲麻呂が反乱を起こし、自滅したことが決定的な意味をもっていたことはいうまでもない。しかし、私は、その条件として、やはり日本の朝廷における仏教信仰ととそれにともなう諸事業の進展、そして孝謙=称徳女帝の個性があったと考えるべきであると思う。

 こういう私見には、「このままだと生徒の中には、聖武天皇が聖人君主であったというイメージだけが残ってしまう」という批判(松原直樹「大仏はなぜつくられたのか」『歴史地理教育』二〇〇二年一〇月号)があるかもしれない。しかし、王権論は王権論自身の問題として考究すべきではないだろうか。私見によれば、奈良時代政治史を最初から最後までつらぬいていたのは、天武王統の中でも、天智天皇の血をうけた近親婚の血統、草壁・文武・聖武にのみ王位継承権をあたえようというの強迫観念(オブセッション)である。その中で、天武系王統は、男子がほぼ皆殺しになるという異様な運命をたどり、それが平安時代への移行の政治史の実態であったことを基軸としておさえておくことと、東大寺大仏とそこに籠められた文化的・宗教的価値をふまえることは別個の問題であるはずである。

 そして、この王権論は東アジアにおける比較王権論として議論されなければならない。これについては、二〇〇〇年の歴史学研究会大会で「君が代」問題を中心として試論を提出したが(「現代歴史学と『国民文化』」、保立『歴史学をみつめ直すー封建制概念の放棄』校倉書房、二〇〇四年、所収)、本稿でとくに確認しておきたいのは、新羅出兵計画の発端と頓挫の経過を国民的常識にすることによって、「ユーラシアの中での奈良時代」という歴史像を作り出すことの決定的な意味である。つまり、第二次の新羅出兵計画の最大の前提は、渤海と日本の国家が、七五五年の安禄山の反乱の発生を新羅攻撃の好機と判断したことにあった。そして、そもそも安禄山の反乱は、ユーラシア全域の歴史を前提としてはじめて理解できるものであったのである。つまり、安禄山は、はるか西域、粟特(ソグディアナ)の民族の出自をもつ人物であった。周知のように、ソグド商人たちは三・四世紀以降、ユーラシアの東西交易の世界で大きな位置をもっており、安禄山は、彼らが唐帝国の版図内に同族集落に出自している。それ故に、客観的にみるならば、安禄山の反乱は、七五一年(天平勝宝三)のタラス川の会戦において、ソグディアナ諸国と大食(アラブ)の連合軍が唐帝国を破ったというユーラシアの激動の中で位置づけるべき動きなのである。そして、このタラス川の会戦が、唐帝国のユーラシア中枢部から撤退とイスラム・アラブ圏の台頭、そして結局、イスラムが世界史の中心の位置を占めることによって、長きにわたったソグド商人の東アジアでの活動の終了をもたらしたものであったことはよく知られた事実である。

 当時の日本の王権がまったく関知しなかったことであるが、この時代はこのような脈絡の下で位置づけられるべき時代である。その中においてみると、東大寺大仏は、イスラムの台頭直前に、仏教の世界が、東は日本、南は東南アジアからインドネシアのボルブドール、さらに西南は遠くインド洋上のモルディブ諸島にまで拡大していく世界史的局面の表現とみなければならない。

2018年11月13日 (火)

今書いている本『倭国神話論の刷新 タカミムスヒとカミムスヒ』の「はじめに」

 いま書いている本の「はじめに」ができましたので、アップしておきます。
 完全にこのままになるかどうかは分かりませんが、私は本の執筆のある段階で「はじめに」を書かないと続きが賭けない方なので、書きました。これが書けたということで順調に進むことを予期しています。

『倭国神話論の刷新 火山と竈の至高神、タカミムスヒとカミムスヒ』

はじめにー忘れられた神

神話の至高神は天照大神か

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神天照大神(アマテラス)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。アマテラスが、その孫の天津彦彦瓊々杵尊(ニニギ)が下界に下るにあたって与えた神勅であって、この神勅をうけてアマテラスの子孫、ニニギの子孫として天皇家が万世一系の王統を維持し、「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(日本)を統治するという訳である。

 現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがない人はいなかった。たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。

 続いて、一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』はアメリカに対する宣戦布告の五ヶ月前にあたる。そこでは『国体の本義』よりもさらに明瞭に日本の「国体」は天照大神の子孫としての現人神である天皇が国家を統治することにあることが述べられている。「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」というのである。

 またこの『臣民の道』はとくに「臣民」の忠義を強調する。一部引用すると、「我らの祖先は大方は名もなき民として、日に夜に皇国の富強に努めその繁栄に竭くし、忠良なる臣民としての生涯を送ってきたのである」「臣民の道は、皇孫降臨の際奉仕せられた神々の精神をそのままに、億兆心を一にして天皇にまつろひ奉るにある」「神勅を下し給ふて君臣の大義を定め、民の生くべき道を示され、(中略)臣民を赤子として愛撫せられた」「君臣の間に於いて現はれた最も根源的なものが忠であり、(中略)而して天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。神と君、君と臣とはまさに一体である」などとある。天皇と臣民の関係は、神と人間の関係、神とそこに一体化すべき臣下、民の関係であるというのである。このような君臣関係の捉え方は、すでに『国体の本義』にもあって、そこには「身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの」、「上に立つものー下に働くもの、それら各々が分を守ることによって集団の和は得られ」、その上に立って「君臣相和」などとあった。しかし『臣民の道』において、「民・臣下」の忠義の道がさらに強調されるようになっていることは明らかである。

 ここにあるのは、アマテラスが「天壌無窮の神勅」によって現人神たる天皇に国家を統治する権限をあたえたという神話である。その観点からいえば、アマテラスが神話の「至高神」であるということは疑えないことであろう。実際、後にもふれるように『古事記』にも『日本書紀』にもアマテラスを「至高神」として扱う記事はいくつも存在する。またこれが現在の日本でも一つの常識的なものであることはいうまでもない。

 このような歴史観、つまり「国体」の本質は臣民は天皇に対して敬神愛国の精神をもって奉仕することにあり、それによって「国史」は貫かれているという歴史観を、普通、皇国史観という。『国体の本義』と『臣民の道』の二つの文書は、この史観を国定の歴史の見方としたものである。それと対比するため、次に終戦の年の翌年一月に発せられた昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」の要点を引用してみよう。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

 ここにいう<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「架空ナル観念」というものが、以上にみてきた『国体の本義』や『臣民の道』によって展開されたものであることはいうまでもない。現在になってみれば、この思想が有効でないのは自然なことである。

 しかし、本書は、この皇国史観それ自体に立ち入って論ずることは課題としていない。私が問題としたいのは、その前提となっている神話の理解そのものであり、とくに倭国神話の中には天照大神ではない神話の至高神がたしかに存在したという事実そのものである。

 つまり、『古事記』の冒頭には、次のように「天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」の三神が登場する。

「天地初めて発りし時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
現代語訳。天地が始めて発生したとき、高天原に成った神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神であった。この三柱の神は、みな独神と成られて、身を隠しされた)

 これによれば、天地の生成のとき、まず(1)アマノミナカヌシ(天御中主)という神、そして(2)タカミムスヒ(高御産巣日)という神、そしてタカミムスヒのペアのようにして(3)カミムスヒ(神産巣日)という神が登場したというのである。これらの神々は『古事記』序文でも天地が形成される前の混沌から初めて発生して「造化の首」(創造の最初)となったとされている。この順序からいけば、アマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの、いわゆる「造化三神」こそが神話の「至高神」というにふさわしいものではないか。

 それに対してアマテラスはもっと後に登場する。つまり、『古事記』によれば、この造化三神の次ぎには、(4)宇摩志阿斯訶備比古遲(ウマシアシカビヒコヂ)神、(5)天之常立(アメノトコタチ)神が登場し(以上を「別天神」という)、さらに(6)国之常立(クニノトコタチ)神、(7)豊雲野(トヨクモノ)神の二神がきて、次ぎに五組のペアの神がくる。(8)宇比地邇(ウヒヂニ)神、(9)妹須比智邇(イモスヒヂニ)神、(10)角杙(ツノグイ)神、(11)妹活杙(イモイクグイ)神、(12)意富斗能地(オホトノヂ)神、(13)妹大斗乃辨(イモオオトノベ)神、(14)淤母陀流(オモダル)神、(15)妹阿夜訶志古泥(イモアヤカシコネ)神、(16)伊邪那岐(イザナキ)神、(17)妹伊邪那美(イモイザナミ)神である(以上を「神世七代」という)。この部分は全体で「別天神」五柱、「神世七代」一二柱、総計一七柱となるが、文字数にすると決して多いものではなく、神名を並べただけで、その神名の意味も全体の文脈も解釈が定まっていない。そして、最後にイザナキ・イザナミの男女の神がきて、彼らが「天の浮橋」に立って「天の沼矛」でどろどろした海をかき回してオノゴロ島という島を作り、その上に天から降り立って性交して国土や神々を産んだという。その物語がイザナミの死とイザナキの地獄巡り、そして天照大神・月読命・須佐之男命の三貴神の誕生と続くことはよく知られているだろう。

 たしかにアマテラスは「天壌無窮の神勅」によって天皇に国土の統治権をあたえたという点では「至高神」であるといえるかもしれない。しかし、アマテラスは、この長い神々の系図、神統譜の最後に登場するのであって、その側面からすると、神々の世界の中で至高神といえるかどうかは問題があるだろう。これは至高神といっても、その神がどのような意味で至高神であるかは厳密に考えなければならないということを意味する。そもそも、造化三神といわれるアマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの三神はどういう神であって、その神とアマテラスはいったいどういう関係なのかを説明することなしに、ただアマテラスを至上神であるといっても、神話とその物語の理解としてはほとんど意味がないことになるだろう。

 しかも問題なのは、実は「造化三神」こそ「至高神」であるという主張が古くから存在したことである。しかもそれは古く一二世紀以降に発達した伊勢神道で確認できる。伊勢神宮とは外宮を中心に展開したものであるが、そこでは神話の至高神はトップに登場するアマノミナカヌシであるという意見が強力に主張された。そしてそれを受け継いだ足利時代の吉田神道においても、徳川時代の垂加神道においても同じような主張は繰り返されている。

 またなによりも徳川時代の「国学」の大成者、本居宣長はタカミムスヒこそが神話の「至高神」であるとした。本書で詳しくみていくように、『古事記』でも『日本書紀』でもタカミムスヒはいかにも「至高神」らしい姿と行動をみせており、この宣長の学説は、二三〇年ほどが経った今でも、実は学界では通説というべき位置をもっているのである。

 奇妙なのは、それにも関わらず、現在の日本では倭国神話の「至高神」というともっぱら天照大神であるということになっていることである。他方、アマノミナカヌシやタカミムスヒなどの神が、現在の日本ではほとんど知られていない。神道について相当に深い信仰をもつか、あるいは神話に専門的な興味をもっている人々以外、ほとんどの人は、この神の名前を知らないのではないだろうか。アマノミナカヌシとタカミムスヒの両方の名前を知っている人は、日本の国籍をもつ人のうち一〇〇人に一人もいないのではないだろうか。

 神話の至高神がどのような神であるかというのは神話を世界観として考える上では決定的な問題である。もちろん、ある民族の神話において至高神と考えることができる神が二人、または複数いるということはありうることであるが、その場合は、その複数の至高神の関係、つまり、ここでいえばアマノミナカヌシ・タカミムスヒとアマテラスの関係はどのようなものであるかというのは大問題になるはずである。ところが、日本社会で神話について語られる場合でも、これはまったく問題にならない。それどころかアマノミナカヌシ・タカミムスヒという神の名前さえも知られていないのである。

 これはあまりに偏頗な状態であるといわざるをえない。世界各国では考えられない事態である。ヨーロッパでは一七世紀以降、ゲルマンやケルトなどの民族的な神話についての研究が進み、それはいわゆる国民国家の形成のなかで大きな位置をもった。これと同様に、日本でも早く一八世紀の「国学」において本格的な神話研究が始まったのは学術の歴史として誇るべきことであるが、しかし、もっとも肝心の神話の至上神の名前さえも多くの人びとが知られていない。日本の民族的な神話、というよりも「日本」という国号ができる前、九州から近畿地方を舞台に語られ、日本の国家形成の重要な条件となった神話についての本居宣長以来の研究はほとんど社会の中に知られておらず、神話の至高神の名前さえ十分には知られていないのである。

 日本では人文諸科学の学者の常識と国民の知識の間に大きなギャップがあるということはよく言われることであるが、これはその中でももっとも大きなギャップというべきであろう。もとより、このようになった事情は、この国の近代の歴史が辿った蹉跌多い歴史に原因があったといえるだろう。つまり、日本では明治国家がアマテラス信仰を国定化し、第二次大戦中に、それが戦争の中で鼓舞された。これが、いわば「羹にこりて膾を吹く」というべき事態をもたらし、神話を一種のタブーとし、それについての知識を曖昧なものとし、結果として、伝統文化のなかでの神話の位置を大きく下げる結果をもたらしたことは否定できない。

 しかし、このような奇妙な事態の責任を歴史の経過のみに求めることが許されるのであろうか。つまり『国体の本義』のイデオロギーによって遂行された戦争が無惨な結果を日本と東アジアにもたらしてから、すでに七〇年余になる。また本居宣長によって神話の本格的な学術的研究が開始されてから数えれば二三〇年以上の時間が経過しているのである。それにも関わらず、神話学・歴史学の常識が日本社会に知られていないのは、やはり神話学・歴史学の側にも相当の責任があるというべきなのではないだろうか。

 この責任を果たし、新しく分かりやすい形で伝統的な神話の実像を説明し、それによって、一時はほとんどの日本人が信じていた<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「観念」が、どのような意味で「架空」であるかを説明すること。それによってこそ、『国体の本義』『臣民の道』の影響の下で人生を送った様々な人々の経験を追体験し、記憶し、再出発することが、本当の意味で可能になるのではないだろうか。それを終えなければ「日本人」にとって、あの戦争は終わったことにはならないのではないか。

2018年11月10日 (土)

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神アマテラス(天照大神)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがないひとはいなかった。

 たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。天照大神が「至高神」であるというのである。

 一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』は「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」と、さらに詳しく説明している。こういう状況の中で、国民はこの「天壌無窮の神勅」をなかば暗記していたのである。

 さて、こういう「天壌無窮の神勅」歴史観を、普通、皇国史観というが、この皇国史観それ自体の評価は別として、問題としたいのは、皇国史観の支えとなっていた、天照大神が「至高神」であるという考え方である。

 もちろん、残念ながら、現在の日本でも倭国神話の「至高神」は天照大神であるという考え方が、いまでも一つの常識である。しかし、これは厳密にいえば誤った常識であって、倭国神話の至高神がタカミムスヒという神であることは、有名な徳川時代の「国学」の完成者、本居宣長自身が明らかにしていたことであり、また本居の弟子をもって自認し、皇国史観の元祖のようにいわれる平田篤胤も、タカミムスヒが本来の至高神であることは当然のこととしていたのである。現在の神話研究でも、それが引き継がれていることはいうまでもない。

 さて、現代の日本では倭国神話の神といえばもっぱらアマテラスとなっていて、タカミムスヒは、その名前さえもほとんど忘却されているというのは、本居宣長の努力をほとんど無にするに等しいことであることは強調しておきたいと思う。このようなことになっているのは、いうまでもなく、第二次大戦の下で、『国体の本義』のような道徳書が徹底的に普及されたために、あらためて日本神話の至上神といえばもっぱらアマテラスということになったためである。またこういう経過を含む第二次世界大戦の敗戦によって人々は「神話」そのものに疑いの目をもつようになったことも否定できない。本居宣長の国学は、明治時代の国家の国家思想を作る上で決定的な役割を果たしたのであるが、そこに生み出された政治は本居宣長の国学の教説の根本を伝えることに失敗したということになるだろう。

 この問題は、結局、本居にいたる日本の神道学説をどう考え、以降の神道学説をどう考え、それといわゆる国家神道の関係をどう考えるかに関係してくる。

 なお、私は二年ほど前から神話論の研究を始めたのですが、そのとき、まず日本神話の基礎になっている老荘思想を知っておかねばと云うことで『老子』を読み、本居が、神道が老荘思想に近いといっていることが事実であると確認しました。こうして、結局、『現代語訳 老子』(ちくま新書)という本まで書くことになったのですが、他方、『国体の本義』も読まねばということで、詳細に読む作業をつづけてきました。驚いたのは、両者がクロスしてきたことで、『国体の本義』が日本の思想の基調をなした諸思想のうち、儒教と仏教を誉めあげながら『老子』の思想は「歴史的基礎のない個人主義におちいった」としていることでした。『国体の本義』は本居の研究成果を無視すると、同時に老荘思想を批判し、拒否していたということになります。『国体の本義』の主張の要点は、ようするに日本社会に存在していた「個人主義」のすべてを否定するということだったのですが、その個人主義を支えていた伝統思想は老荘思想であった訳ですから、狙いはきわめて正確であったということになると思います。これが驚きでした。

2018年11月 4日 (日)

講演の予告、内容概略「最初に譲位した天皇、斉明女帝と大己貴(大国主)信仰」

12月1日(午後二時より)に近江の野洲市歴史民俗博物館で「最初に譲位した天皇、斉明女帝と大己貴(大国主)信仰ーー天皇と地震と近江」という講演をします。

 以下が予告の内容です。

 7世紀初期ごろまで天皇は40歳前後で即位して、終身、天皇の座にありましたが、乙巳の変を機に、譲位という天皇の行動の仕方を作ったのが皇極女帝(重祚して斉明女帝)です。女帝は弟の孝徳を天皇とし、自分は「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)の地位につきました。これは、実際上、後の太上天皇にあたるものです。

 女帝は継体王統の正統を継ぐ位置にありました。近江は継体王統の最大の根拠地であり、皇極女帝も近江と深い縁をもっていました。

 孝徳天皇の崩御後に、重祚(再び天皇に即位すること)した斉明女帝は、斉明五年(659)に吉野に行幸し、同地から近江の平浦宮に行幸しました。吉野には畿内の神々のうちで最高の神位をもつ大名持神社(おおなもちじんじゃ)があり、そして平浦宮の北には日吉神社の神体山である牛尾山があります。この二つの甘南備型の山には地震の神が宿っているとされています。

 講演では、女帝が、この行幸に籠めた意図についてお話しいただきますが、近江における大国主(おおなもち)信仰の話しにもなりますので、記念すべき兵主神社の展覧会にもふさわしいものと考えています。

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