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2018年12月

2018年12月18日 (火)

『老子』二八章ーー英訳してみました。 

『老子』二八章ーー英訳してみました。 

女は男を知り、男は女を守り、世界の原初の谷間を開く。谷間には永遠の気が戻ってきて赤ん坊が生まれる。女が男の白い輝きを知り、男が女の黒い神秘を守れば、二人は世界の秘密を映す式盤となる。式盤には永遠の気が満ちて、無極の場所がみえる。女が男の栄誉を知り、男が女を恥辱から守れば、世界には豊かな渓谷が広がっていく。豊かな渓谷には永遠の徳(いきおい)が満ち足りて、原生林の大木(「樸(あらき)」)が戻ってくる。大木は切って器にするが、有道の士は、そのままで国を代表できる。大材を製(つく)するには、できるだけそれを割らないことだ。


Knowing man
and protecting woman,
lovers go to the riverbed of the world.
Where the eternal power
come true again in the infant baby.

Knowing light
and protecting dark,
be a horoscope of the world.
There the eternal unerring power
come back again to boundlessness.

Knowing glory
and protecting humiliation ,
be the valley of the world.
There the eternal power
come again to fulfill the forest .

Ntural wood is cut up
and made into useful things.
But wise souls are natural
to make into leaders of countries.
Just so, a great caving
is done without caving.

其の雄(おす)を知り、其の雌(めす)を守れば、天下の渓(たに)と為る。天下の渓と為れば恒徳離れず、嬰児(えいじ)に復帰す。其の白を知りて、其の黒を守らば、天下の式と為る。天下の式と為れば、恒徳は差(たが)わず、無極(むきよく)に復帰す。其の栄を知りて、其の辱を守らば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、恒徳は乃(すなわ)ち足り、樸に復帰す。樸は散じて則(すなわ)ち器を為(つく)る。聖人はこれを用いれば則ち官の長と為(な)る。故に大制(たいせい)は割(さ)かず。

知其雄、守其雌、為天下渓。為天下渓、恒徳不離、復帰於嬰児。知其白、守其黒、為天下式。為天下式(1)、恒徳不差(2)、復帰於無極。知其榮、守其辱、為天下谷。為天下谷、恒徳乃足、復帰於樸。樸散則為器。聖人用之、則為官長。故大制不割。
(1)「式」は「栻」の略。(2)底本「忒」。「差」の意。

従来の解釈、現代語訳とは相当違っていますが、主語を男女にしたことなど、詳しくは拙著『現代語訳 老子』(ちくま新書)をご覧下さい。現代語訳は新稿です。ルグィンの英訳によった部分があります。

2018年12月10日 (月)

書架散策  永原慶二著『源頼朝』

以前、永原先生について書いた小さな文章もでてきたのであげておきます。
 もう70になったので、書いたメモは上げておかないと残らないので。

書架散策  永原慶二著『源頼朝』


 私のもっている『源頼朝』は、実は従姉妹のもので、高校の頃、彼女の部屋だった田舎の土蔵の二階で手にして、勝手に貰ってしまったものである。自分の部屋をもっていなかった私は、土門拳の写真集があったその土蔵の二階が今でも懐かしい。そこで本書を読んだことが、歴史研究に進む一つの機縁であった。

 永原氏はこの夏に亡くなられたが、本書を刊行した一九五八年、氏は三六歳。その安定した達意の文章には驚くほかはない。

 永原氏は従来の頼朝論を①儒教的な名分論、②「判官贔屓」からの感情的印象論、③山路愛山以来の「平民史学」の自由な歴史叙述の伝統の三つをあげている。そして自己の立場が③にあることを明示しながら、あくまでも激動的な政治史の一部として頼朝を取り上げている。

 本書の特徴は、そういう観点から、政治史のキーとなる頼朝関係の史料を的確に選び出し、周到な説明を加えているところだろう。高校生の頃に読んで、何か読んだこと自身に一種の達成感を感じたのはそのためだったと思う。

 私は、実際にはむしろ永原氏の議論の枠組みを批判することを研究生活の目的としてきた。永原氏からは「判官贔屓」といわれかねないかもしれないが、先日、義経論を書き終わり、ようやく一つの結論をえたような気がしている。

 しかし、うらやましいと思うのは、永原氏の歴史学方法論に対する確信である。本書は政治史を社会構成史の深みから全体的にとらえる視座を正面から打ち出し、しかもそれがわかりやすい。

 どうにかしてそのレヴェルを歴史学の場に復活させたい。そのために何が必要なのかということを、本書は真剣に考えさせるのである。

『永原慶二著作選集』第九巻(歴史理論編)解説

 『永原慶二著作選集』第九巻(歴史学序説、二〇世紀日本の歴史学)解説

 永原慶二さんの著作集への解説の原稿です。
 もうずっと以前、二〇〇八年、つまり一〇年前に書いたものですので、公開してよいだろうと思います。

 ここに書きましたことで覚えているのは、永原さんの内藤湖南評価が石井進氏の内藤湖南評価を呼び起こしたと考えられるとしたことです。それがさらに勝俣鎮夫氏の内藤湖南評価を呼び起こしてたことはいうまでもありません。
 これは現在でも塾考すべき問題をふくんでいるように思います。いうまでもなく、戦後派歴史学にとって「見果てぬ夢」となっているのは、東アジア史の中で、その社会経済構造全体のなかで日本史を考えるということですが、そのとき確実に戻らなければならないのは、日本における内藤ー宮崎市定の東洋史の伝統をどう考えるかということだからです。

 これが戦後派歴史学の評価にも深く関係してくることはいうまでもありません。たとえば呉座勇一氏の『応仁の乱』の前書きには、勝俣鎮夫の内藤評価がふれられていますが、間に永原ー石井進の関係をいれてみるべきでしょう。内藤の日本史についての議論はその応仁の乱論以外にも示唆多いものがあることはいうまでもありません。
 以下、解説です。

  本巻は『歴史学序説』と『20世紀の歴史学』の二冊をおさめた。この二冊は近現代日本の歴史学の学問史、その思想と方法、その社会的位置などに関する、著者の生涯をかけての思考の筋道を示している。

 まず一九七八年に刊行された『歴史学序説』は、「Ⅰ戦後歴史学の展開」「Ⅱ視点と方法」「Ⅲ歴史教育」の三部からなる論文集である。このうち第一部の「戦後歴史学の展開」は近現代史学史の検討にあてられた二本の論文と付論からなっている。まず付論は『日本史研究入門』Ⅲ・Ⅳ(おのおの一九六九、一九七五年刊行、東京大学出版会)の巻頭総論として発表されたものをまとめたものである。この『日本史研究入門』というシリーズは、日本の歴史学の進展を総括するものとして各時代の研究者によく読まれたもので、Ⅲ・Ⅳは著者と井上光貞の共編にかかる。重要なのは、一九六九年分において、早くも、永原が、戦後歴史学の天皇制批判は国内的視野にかたより、帝国意識に対する批判が弱く、その意味で「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べていることである。さらに永原は、戦後歴史学の発展段階論が一国史的・単線的そして西洋中心主義的な傾向をもっていること、それ故に、当時喧伝された正真正銘の西洋中心主義史観、つまり「近代化論」を批判しきるためにも、戦後歴史学の側の自己点検が必要であることを明快に説明している。現在、このような視点は常識的なものとなっているが、この論文は、それが戦後歴史学の内部から登場してきたこと示している。

 次ぎに「歴史意識と歴史の視点」(一九七五年)は、原論文に「日本史学史における中世観の展開」という副題があったことからもわかるように、著者の専門分野である日本中世に即した史学史論である。直接の前提となったのは永原が鹿野政直とともに取り組んだ『日本の歴史家』の編集作業にあり(同書の公刊は一九七六年三月、日本評論社)、永原も原勝郎・内田銀蔵を担当している。評伝という性格もあってか、そこでは彼等への共感が表面にでているが、しかし、この論文では福沢諭吉以降の近代史学史における「脱亜」的発想を摘出し、しかもそれが戦後中世史学、またその中心をなした石母田正の領主制論においても精算されていないという厳しい指摘に連なっている。また、ここで永原が内藤湖南学説を高く評価し、その関係で戦後歴史学における石母田と鈴木良一の間の論争の意味を論じていることも注目される。これは永原が、『下克上の時代』(中央公論『日本の歴史』、■■年)以下の仕事で室町戦国時代に研究の重点をシフトさせていった事情を表現している。と同時にその背景に、この時期、石井進が展開していた鋭利な「封建制」論批判への応答があることも(永原は明記していないが)留意しておくべきだろう。この永原の内藤評価が石井の内藤評価を呼び起こしたと考えられるからである(参照、石井「中世社会論」など、『石井進著作集』六巻)。

 次の「戦後日本史学の展開と諸潮流」(一九七七年)は、戦後歴史学の全体を俯瞰した雄編である。戦後の社会変動とそれに対応する歴史学の側の課題・方法意識とそれに関わる学会の動向が、原始から現代におよぶ広い視野の下に過不足なく描きだされている。この論文が『二〇世紀の歴史学』の原型をなすことは、一読、明かであろう。「国民的歴史学運動」と、その中心となった「マルクス主義歴史学」に対する評価の厳しさ、大塚久雄・丸山真男などの学問的重みの特筆を確認されたい。また「実証主義」歴史学における個別認識の徹底を目ざす動向を「法則認識の可能性を拡大しつつあるもの」として「歴史研究の本道」と高く評価していることも目立つ。このような論調が、家永三郎が、書評において、本書をマルクス主義歴史学の「自己批判」とし、その「率直さ」を評価する理由であろう(『歴史評論』一九七九年五月号)。と同時に「マルクス主義歴史学」を精算するのではなく、その最良のものを生かそうとする永原の広やかな展望も説得的である。

 第二部の「視点と方法」は六本の論文からなっているが、最初の三本はマルクス歴史学の立場からの歴史学方法論である。まず(1)「歴史学の課題と方法」は、総論であってマルクス歴史学は社会の構造論的把握と人民闘争史的な主体的把握を統合し、さらに歴史の国際的契機を重視することによって、新しい歴史像、世界史像を構想しなければならないとしている。永原の立論はきわめて内省的であって、日本の歴史学は歴史の全体的形象に不得手であり、マルクス歴史学は「いわば孤立しつつ」それに立ち向かわねばならないという。(2)「経済史の課題と方法」は、経済史が経済学とその他の社会科学を媒介する位置にあることを確認した上で、社会構成をウクラードを基礎に論理的・体系的に把握する手法について解説している。永原がウクラードとはエレメント=要素という意味であるとしているのが注目されよう。これは永原のウクラード論が、富のエレメンタルな形態を端緒範疇とする『資本論』的方法に依拠し、封建社会の分析においても小土地所有(フーフェ)ー共同体(ゲマインデ)ー領主制(グルントヘルシャフト)という上向分析が必要であるとする高橋幸八郎のシェーマを受け止めたものであったことを示している。永原には大著『日本経済史』(本著作集第八巻)があるが、経済史の方法論それ自身に関する論文は意外と少なく、その意味できわめて重要な論文である(参照、保立「永原慶二氏の歴史学」『永原慶二の歴史学』永原慶二追悼文集刊行会編、吉川弘文館、二〇〇六年)

 (3)の「歴史認識・叙述における人間の問題」(一九七七年)は、いわゆる昭和史論争を総括した論文である。最近の『昭和史論争を問う』(大門正克編、日本経済評論社、二〇〇六)、とくに同書中の和田悠「昭和史論争のなかの知識人」などを読むと、批判をしかけた亀井勝一郎の思想と処世の実態と対比して、遠山茂樹の反批判が、的確かつ穏当なものであったことが印象づけられる。現在の観点からみれば、日本浪漫派に属したのみでなく、実際に戦争賛美の言論を行った亀井が「歴史教育の究極の目的は自己放棄を教えることにある」(亀井「現代歴史家への疑問」『文藝春秋』一九五六年三月)などと繰り返したことに内面性は感じられず、それこそが「人間不在」と思えるが、しかし、永原の総括も、遠山と同様に、不思議なほど穏やかなものである。そして、昭和史論争を試金石として展開した、歴史の「必然性」に対する「可能性」、「階級」に対する「民衆」の概念などの立論は、永原の歴史理論にとって緊要な位置をもった。なお、永原が遠山の議論に「歴史認識そのものに特定の政治的基準が無媒介に導入されてくる」ニュアンスがあると論じていることも注目される。この論文の重点は、実は遠山の議論を引き継ぐと同時に、遠山と対峙する点にあったのではないかとさえ思える。たとえば前述の『日本史研究入門』の編者がⅡからⅢで遠山茂樹・佐藤進一の共編から井上光貞・永原慶二の共編に変わっていることが示すように、永原は遠山を引き継いで戦後の歴史学界を代表する位置についた。家永教科書訴訟をはじめ、遠山・永原の二人の労苦によって第二次世界大戦後の歴史学界が支えられた面は大きく、本論文は、そのような遠山・永原の関係をふまえて読まれる必要がある。

 その他の第二部の所収論文は、おもに講演記録であるが、どれも歴史学の社会的役割にかかわって学界的共同を訴えたものである。そして六〇年代から七〇年代にかけて新しく展開された「民衆史研究」「人民闘争史研究」を理解し、それを支えようとした永原の姿勢を示す点でも共通している。現在の学界状況では、このような真っ正面からの議論に違和感をもつ人も多いかもしれないし、当時、ちょうど研究の道に進みつつあった私などは、逆にあたりまえすぎると感じた記憶もある。しかし、後に永原の講演を何度かきく機会があり、その理路整然とした、そして戦前の国家と戦争の実態を知る世代としての実感に裏打ちされた気迫に襟を正すこととなった。是非、この明解さに対峙していただきたいと思う。なお講演であるだけに、専門の中世史を例として議論を展開した部分も多く、たとえば「歴史学の方法と民衆像」には、「在地領主=中間層」論など永原理論のエッセンスを意外な言葉で語った部分があり、中世史の専攻者には熟読する価値があるものである。また、本書全体との関係では、この論文が、一九六九年四月の東京地方裁判所民事二部における教科書訴訟(第二次)における遠山証言「『歴史をささえる人々』と日ソ中立条約の記述」から説き起こしていることが重要であろう。遠山証言は、民衆史を基軸にする分析が歴史の総合的把握を可能にするという方法論が、近現代史学史に一貫していることを論じて共感をよんだ。それが永原の史学史研究に影響したことは確実である。

 『歴史学序説』の第三部「歴史教育」は、六本の論文からなる。(1)「歴史学と歴史教育」(一九六八年)は、歴史教育に対して「国家に対する愛情」の涵養を要求した一九六八年の新学習指導要領に対する全面的な批判の文章、(2)「歴史教育の自由のために」(一九七〇年)は家永三郎氏の教科書に対する検定が違憲であるという判決、いわゆる杉本判決に対する評価、(3)「歴史意識の形成と教科書叙述」(一九七六年)は教科書の執筆者としての被検定経験の記録である。これに対して、(4)「史話か通史か」(一九七六年)、(5)「歴史をめぐる事実と評価」(一九七七年)、(6)「歴史から何を学ばせるか」(一九七八年)は、相対的に短文であるが、そのうち(6)は一九七八年の新学習指導要領の点検であって、ちょうど(1)に対応している。

 第三部は、要するに一九六〇年代の最後から一九七〇年代の後半にかけての歴史教育をめぐる全体的な状況を論じたものであり、杉本判決の時期に大学時代を送った私などの世代にとっては自己の原点に関係する諸論文である。多様な内容を含んでいるが、教育論との関係で重要なのは、やはり永原の議論が遠山茂樹の歴史教育論と深く関係しながら形成された事実であろう(参照、遠山『歴史学から歴史教育へ』■■■)。これは戦後史学史における永原と遠山の先述のような位置からしても、歴史教育学の問題としても、今後、詳細な検討が必要となる問題である。なお、本著作集の第一〇巻には『歴史教育と歴史観』として著者の歴史教育論がまとめらる予定であり、歴史教育論については、それをあわせて議論が必要であることも注意しておきたい。

 そもそも永原は、本書の「はしがき」で、自己自身のことを「歴史理論そのものを専攻するものではない。従ってこうした書物をつくることを初めから目ざした訳ではなかった」としている。それにも関わらず、本書を刊行する理由は「最近数年間のあいだに生みだされた」「ほぼ一連の関心」の強さにあると説明している。実際、本書の諸論文のうちの相当部分が、その数年の短期間に執筆されている。そして、この「一連の関心」が、第三部で取り扱われた国民の歴史意識と歴史教育の問題にあることは明かである。永原は、歴史教育の国家主義化を動きを「戦前復帰」とまでは考えない論者が多いことに対して、歴史教育の目的が「教化」へとすりかえられたことの確認を要求している。実際、このような論者は今でも多いというべきであろうが、その錯誤を指摘する永原の論調にはゆずれないものがあるようにみえる。

 『歴史学序説』に紙幅を費やしてしまったが、以上の解説は、永原の思考の筋道が一貫しているだけに、その二五年後に執筆された『二〇世紀日本の歴史学』の解説ともなりうる側面がある。そこで以下では、紙幅の関係もあって『二〇世紀日本の歴史学』の成立事情について簡単な説明をし、若干の特徴にふれることで解説の責めをふさぎたいと思う。もちろん、『二〇世紀日本の歴史学』の扱う問題はさらに広範であり、しかも永原一流の明快さをもって書き下ろされたものである。それ故に、躊躇するところは多いが、ともかく、この解説が無用な蛇足あるいは不協和音とならないことを願うのみである。

 さて、『二〇世紀日本の歴史学』の執筆の事情は、「まえがき」に明記されているように、二〇〇一年、またも歴史教科書問題が発生したことにあった。このような事態が二一世紀になっても繰り返されたことは永原にとっては大きな衝撃であったに違いない。この問題を永原は「教科書問題を歴史学・歴史教育の歴史にさかのぼって根源的に考え、また批判するためにも、史学史への理解・認識が不可欠である」と受け止め、本書の執筆に踏み切ったという。印象的なのは、本書の巻末近く、「国家権力とそのサポーターとしての国家主義者による歴史教育の領有を見すごすことは、歴史学の研究者としては、一歩もゆずることのできないところである。今日、その危険が高まっている事態を、どこまで歴史学と歴史教育の歴史にそくして深く認識するかは、歴史研究者・教育者にとわれている良心と責任の問題である」(284頁)という文章であろう。そして、「現在をきびしく受け止める「批判」精神を堅持すると同時に、多角的に歴史をみてゆく努力のなかから、二一世紀の日本史学もまた新たな発展を生みだしてゆくであろう」という「おわりに」の文章(■■■頁)がそれに対応するものであることも明かであろう。

 この永原の期待に応えられるかどうかは、多くの研究者の意思にゆだねられている問題であるが、この明瞭なメッセージ性が独自な立論によって支えられていることに留意したい。私は、その意味での本書の独自性の第一は、永原が二〇世紀の史学史をアカデミズム歴史学の通史を中軸に描ききった点に求めることができると思う。いわゆる「戦後歴史学」には自己をアカデミズム外のものと認識する傾向があった。永原はアカデミズムのもつ「無思想性」を難詰する点では人後に落ちないが、しかし、永原はアカデミズムという用語をマックス・ウェーバーがいう「職業としての学問」という意味で、自己認識のための用語として正面から使用している。そして、永原の総括したアカデミズム史学史論は、学界の職業的な常識として受け止めるべき内容をもっている。また、永原が、歴史学という職業の日本社会おける困難さを凝視する中から、歴史学の学問の自由と責務の問題として教育問題を取り上げていることは重ねて注意を喚起しておきたい。

 第二の独自性は、筆者とほぼ同世代に属する中世史の研究者、稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実らに対する無視、あるいは厳しすぎるとも思える批判である。本書は研究動向を代表する個人中心に叙述にメリハリをつける方法をとっており、その意味と限界は、今後あらためて論じられねばならないであろうが、他の時代の研究者については、むしろバランスのよい評価が目立つから、いわゆる「戦後歴史学」に自己の生き方を重ねてきた同学の同僚に対する厳しい筆致は、一読不思議な感に打たれる。たとえば、永原は、網野善彦の見解は、単なるロマン主義にとどまらず戦前の日本浪漫派に通ずるものとし(227)、黒田俊雄・戸田芳実の研究は(176)、講座派的着眼ではなく労農派的論理に通ずるとまでいうのである。しかし、ここから分かることは、永原の視線が第二次世界大戦前の社会における学術と文化にすえられていることである。そこにあるのは、「はしがき」が「同時代の史学史を書くことは、自分の歴史観をすべてさらけだすことにもなるから、今はただこのような思いに免じてお許しいただく他ないと割り切った」と述べるような「同時代」を生きたもの同士の覚悟だったのであろう。笠松宏至は「網野善彦さんの思い出」という対談で本書にふれて、永原と網野の間の兄弟のように親しい特別な関係を証している(『図書』二〇〇七年五月)。そこには、たしかに後の世代には「うかがいしれない」ような内実があることを忘れないようにしたい。

 本書は、すでに多くの読者に迎えられ、かつ『歴史評論』の特集「歴史学と歴史教育ー二〇世紀から二一世紀へ」(二〇〇四年二月号)において、高橋典幸・大串潤児・今野日出晴・中村政則・鹿野政直などによる充実した批評・書評があり、また著者の逝去後に開催された追悼シンポジウムにおいても多面的な報告があり、私もそこで本書にふれて私見をのべた(前掲『永原慶二の歴史学』)。

 今後、右にかいつまんで述べた本書の独自性や、問題性をふくめ、本書をベースとして、史学史の議論が精密化することになるだろう。しかし、率直にいって、本書を越えるような史学史の書き直しは、きわめて困難な作業である。つまり、永原は、本書の「おわりに」で、戦後の歴史学の第三期、一九七〇年代以降には明瞭な歴史理論が存在しない、そして「二一世紀にむけての日本の歴史学はどのような方向に進むか。それについての答案は、研究者一人一人が書きつづけるほかはない」として、要求される「厳密な実証性と厳しい理論性」の水準を解説している。本書の書き直しは、そのような営為の先に展望するしかない課題である。それがどう展開するかが、まだ見とおせない以上、少なくとも「中世史」の研究者は、当分の間、本書を通じて、永原の声を聞き続けなければならないと思う。

2018年12月 9日 (日)

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

12月8日の明治大学博物館での講演の概要。事前宣伝文書にのったもの。

 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたのは主に八・九世紀の地震・噴火の歴史でした。私はこの時期を大地動乱の時代と考えました。

 その後、私は、日本列島での地震や火山活動の活発期は、これまでだいたい三回ほどあったのではないかと考えるに至りました。その第一は紀元前後の時期で、東北地方で今回の3,11陸奥沖海溝地震と同様の津波痕跡が確認されており、また南海トラフ地震の大きな痕跡も確定しています。第二は右の新書で取り扱った時期になりますが、第三は一五世紀に起こった3・11と相似した一四五四年の奥州津波から始まり、一七〇七年の南海トラフ巨大地震から富士噴火につながる時期になります。

 ようするに、日本列島における大地動乱期は六〇〇年ほどの相対的安定期をおいて始まって、三〇〇年ほど続くのではないかということです。ただ、このような長期の周期性が本当にあるのかどうかは、地球科学によって確定されるべきことで、これは史料からみる限りではという仮説にすぎません。

 もしそうだとすると、現在は列島が知られる限りで四度目の「大地動乱期」に入ったということになります。これは理学的に確定したことではなく仮説にすぎませんが、ただ「大地動乱の時代」というと今にも天地がひっくり返るかのような印象ですが、もし、この仮説が正しいとすると、この事態を考え、備える相当の時間が許されているということになります(もちろん、ふたたび原発事故を起こすというようなことになれば天地はひっくり返りますが)。

 なお、第一の時期については、これが倭国神話の形成期にあたるのではないか、そのために倭国神話は地震火山神話というべき性格をもったのではないかと考えています。これについては右の新書でふれましたが、現在、それを敷衍して詳しく倭国神話を考える作業をしており、それについて御話しします。その一端は最近出版しました『現代語訳 老子』(ちくま新書)にも記しましたので参照願えれば幸いです。

2018年12月 6日 (木)

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄 2016年のもの。再掲

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄  保立道久
原掲載、『CROSS T&T』No.52.2016.2(一般社団法人 総合科学研究機構)。
ただし、刊行論文には大きな錯誤があり、刊行直後に読んでいただいた石橋克彦氏の指摘をうけ、論の基本部分に変更を加えた。氏の教示に感謝したい。なお論の責任はすべて筆者にあることはいうまでもない。(2016,4,4)。

 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。

 さて、この、地震は、菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)に記録されているもので、この年、8月14日に「地震暴風」があったという記録である。これによってでた被害は「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という相当のものであった。これはいわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、『日本後紀』の伝本はなく、抄録本の『日本紀略』の同日条に「地震暴風」とあるのみである。

 問題は『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があったことである。雉は雷電や地震を察知してなくという観念があって、その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸(くび)を句(ま)げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように日本でも、そういう史料は多い。さらに問題となるのは、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を淡路国に派遣し、仏経を転読させて、「崇道天皇」の霊に陳謝したという記事があることである。

 この崇道天皇とは時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したのである。

 問題の「恠異」は、この崇道天皇の怨霊が起こしたものであったということになるが、その中身については、これまで「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであった。それらは右のような雉のもっている意味を見逃していたのである。そもそもこの時代、地震の怨霊は大問題であった。桓武の父、光仁天皇は、妻の井上内親王と(桓武の前の皇太子)他戸親王を迫害し死に追い込んだが、775年、彼らが幽閉された場所で死去した直後に地震が連続した。恐怖にかられた光仁は内裏に僧侶二百人を集めて大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の「恠異」を払う大祓を行ったという。桓武もその恐怖の記憶にとらわれていたはずである。これまで早良親王の怨霊はもっぱら雷神としての性格をいわれるのみであったが、ここに早良親王の怨霊が地震を起こす霊威とも考えられていた可能性が生まれる。

 早良親王が「崇道天皇」という追号をあたえられるのは、この地震より少し後のことであるが、私は、こういう文脈で、この地震を「崇道天皇地震」と呼んでおきたいと思う。重大なのは、この地震が「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という、相当の大きさをもつ地震であったことである。もちろん、史料に余震がみえないのは南海トラフ地震ではしばしば余震が続くとされることからすると問題があるが、『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは十分に考えられるであろう。それよりも問題なのは、「地震暴風」とあることで、そこから、被害は地震被害ではなく、実際は暴風被害であったのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、この頃、坊門はまだ新築であった。それが左右の両京で倒壊したというのをすべて暴風とするのはむずかしい。

 もちろん、この地震の規模は、将来、考古学が葛野遷都直後、いわゆる「平安京」の最初期における坊門の発掘調査に何カ所かで成功した後になるかもしれないが、しかし、以上のような文脈のなかで考えれば、この地震を恐怖の対象となるような相当の規模のものであったと考えることは許されるだろう。私は、ここから、この地震がまさに南海トラフ大地震であったのではないかと推定したい。

 このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。800年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。翌月23日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。

 私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使(たとひ)日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧(やす)らかに是(か)くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。

 結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。

 最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。

 さて、私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。

 もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。

 政府や責任諸官庁あるいは東京電力などは、それらの警告を無視し、マスコミも、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。これはとても科学先進国とはいえない事態であったというほかない。

 右の地震火山部会の建議「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について」が、大略、「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」という趣旨のものとなったのは、それを踏まえたものであった。この建議については2月刊行の『地殻災害の軽減と学術・教育』(日本学術叢書22、日本学術会議編)に詳しく解説される予定で、私も、そこに歴史学からの意見を書いたので、そちらを参照していただければと思う。

 こうして、私は、東日本大震災も東京電力の原発事故も人災であったことを詳しく知って一種の義憤にかられざるをえなかった。これを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、以上に述べたような政治史や宗教史のみならず、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。

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