腰袋と桃太郎
下記は『物語の中世』(講談社学術文庫)という本に掲載したものですが、そろそろ版元品切れの状態ですので、オープンしてしまいます。ただ画像は載せられませんので、読みにくいとおもいますが、どうぞ。
歴史教育で役に立つといいのですが。
腰袋と桃太郎
桃太郎はおばあさんに作ってもらったキビダンゴを腰につけて旅立った。絵本などでは桃太郎の腰に袋が描かれ、キビダンゴはそこに入っていることになっている。
昔、このような袋は、「腰袋」といった。たとえば、平安時代初期に成立した日本最古の漢和辞書、『新撰字鏡』には、「タイ、■(代巾)、己志不久呂(こしふくろ)」とある。また、江戸時代初めに成立した『日葡辞書』にも「コシブクロ、腰につけて携行する袋」とある。つまり、この言葉は、その間、中世を通じて「物を入れて腰にさげる袋」の意味で使われていたのである。
もちろん、『仮名草子』(「奇異雑談集」5・2)にも「ていしゅ、此雁を市に出して売るべしとて、こしふくろに入れてこしにつけてゆく」などとあるように、この言葉は江戸時代になっても生きている言葉であるが、私は、研究の対象として最も興味深いのは、中世の腰袋であると思う。この小論の課題は、まずは中世の絵巻物の中に、この腰袋の画像を探り、その用途や意味を明らかにすることにある。
そして、迂遠なようにみえるかもしれないが、それを通じて、桃太郎の旅立ちを象徴する「お腰につけたキビダンゴ」のはらむ暗喩の解明にいどんでみたいと思う。柳田国男*1、石田英一郎*2をはじめとして、最近の五来重*3、滑川道夫*4、中内敏夫*5の仕事にいたるまで、民話・桃太郎については、さまざまな議論が行われてきた。それらの議論は、たいへん興味深い論点をはらんでいるが、しかし、『御伽草子』などのテキストの中に、桃太郎民話の十分な痕跡がないこともあって、少なくとも歴史論としては、どれも確実性・実証性の点で不安が残っている。そういう状況の中では、この腰袋の問題は、桃太郎民話を再検討する場合のもっとも着実なよりどころとなるのである。
Ⅰ中世民衆と腰袋
袋はヨーロッパでは金銭を携行するのに使われる。日本では貴族や兵士のそれは香料や薬品、火打石を入れるのに使われる
これは、中世末に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが執筆した、有名な比較文化論の書、『ヨーロッパ文化と日本文化』*6の一節である。ここに明らかなように、日本の腰袋の中にはさまざまなものが入っていたが、その代表は最後にあげられた火打ち道具であった。そのため、普通、腰袋は火打袋といわれている。火打袋という言葉の用例のもっとも早いものは、『源平盛衰記』十六「円満院大輔登山事」の「燧・附茸・硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入れ」という一節であろう。袋の中には燧石以下の発火用具一式が入っていたのである*7。また日蓮上人の書状に「としごろ申つる念仏は捨て候ぬとて火打袋より数珠とりいだしてすつる者あり」という一節も早い用例である。ここからは腰袋の中には数珠なども入っていたことがわかる。ようするにそれは、今でいえば、スキーや山歩きなどの時に使うベルトポーチのようなもの、男の小物入れなのである。なお、女の場合、中世では、脇や胸に護符などの入った護袋を懸けることがあったが、それも実際上は小物入れとして使用されたようである。さしずめ、男のベルトポーチに対して、女のポシェットということになるだろうか。
①腰袋・火打袋の画像
宮本常一の執筆にかかる絵巻物の図像事典、『絵巻物による日本常民生活絵引』*8の索引には、火打袋の図像が全部で三九箇所も数え上げられている。もちろん、それは絵巻に現れる火打袋のごく一部であるが、それを時代順に並べてみると、まず『伴大納言絵詞』の一例、そして、『鳥獣戯画』から一箇所、『粉河寺縁起』から一箇所*9、『北野天神縁起』から2箇所、『一遍聖絵』から7箇所、『当麻曼荼羅縁起』から四箇所、『男衾三郎絵詞』から一箇所、『天狗草紙』から一箇所、『石山寺縁起』から四箇所、『絵師草紙』から二箇所、『春日権現験記絵』から四箇所、『融通念仏縁起』から一箇所、『法然上人絵伝』から5箇所、『福富草紙』から二箇所、『暮帰絵詞』から三箇所、となる。つまり、平安時代末期に成立した『伴大納言絵詞』以降、だいたいどの中世の絵巻にも火打袋は現れるのであるが、この三九箇所という数字は、『絵引』索引の一個の項目の中に数え上げられた頁数としてはきわめて多い方に属する。火打袋は身につける小道具としては絵巻物にもっともよく現れるのものの一つであることがわかる。
まず、知られている限りもっとも古い図①の『伴大納言絵詞』の図像についての『日本常民生活絵引』のの解説を聞こう。
流される伴大納言を送っていく検非違使や随兵の最後にいる男。下部の一人で、長柄傘持ちである。多分は検非違使の用いる長柄傘であろう。烏帽子をかぶり短袖の着物を着、裾のきれたような四幅袴をはき、裸足ではしっている。もっともみじめな服装といえる。その腰に火打袋をさげている。火打袋のことは『古事記』に倭比売命が日本武尊に草薙剣と火打袋を与えたことが出ており、『万葉集』にも「須理夫久路」という言葉が見えている。火打袋は火打金、火打石が入れてあり、火をおこすときに用いるものであり、旅にはなくてならぬものであったから、親しい者の旅に出るときなど、これを餞別におくったのである。『紀貫之集』にも「をりをりに打ちてたく火の煙あらば心さすがにしのべとぞ思ふ」という歌がある。そのほかにも類似の歌がいくつかある。火打袋は多く皮革でつくってある。丈夫だからであろう。火打袋ははじめはこの図に見られるように刀も帯びない丸腰につけていたものであるが、後には刀の鞘につけるようになった。鞘に孔をあけ紐の付けられているのはこれを吊る紐をつけるためであった。
さすがに要をえた解説であるが、いくつか補足すると、まず、倭比売命が日本武尊に草薙剣と火打袋を与えたというのは、いうまでもなく、小碓命(ヤマトタケル・ヤマトオグナ)が東国に出発するに際して、伊勢神宮に立ち寄り、おばの倭比売命がはなむけに草薙剣と「御嚢」を贈ったという話である。そして、相模国焼津の野で火攻めにあったヤマトオグナが、「御嚢」の中を探ってみると、そこには火打石があった。彼は草薙剣で草を薙ぎ、火打を使って向火を焼き、その場を逃れたという訳である。前近代の人々にとって「嚢」はもっとも手近な密閉空間であり、その内側に何かの神秘を求める感情は普遍的なものであったといえよう。神話世界においては、その他にも、イザナギが冥界から帰還した時の清めの際、「次に投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神」という記事があり(『古事記』)、また彦火火出見尊を海界に案内した塩土老翁が「即ち嚢の中の玄櫛を取りて土に投げしかば、五百箇竹林に化成りぬ」ともある(『日本書紀』神代,第十段、この竹林を切って目無堅間の籠をつくった)*10。このような神話・伝説は、腰袋・火打袋がきわめて古くから男たちの腰につけられていた事実を反映しているのではないだろうか*11。ここでは、これ以上、神話の背景にあった具体的な事情を想像することはできないが、ヨーロッパアルプスの氷河の底からほとんど痛まないままの遺体が発見されたという、原始人・アイスマンの腰にもポシェットが装着されていたということである。日本でも、そのような袋の発見は行われているようであり、それにもとづいて袋の考古学的集成が進展し、さらに新たな分析が可能になることを期待したいと思う。
また『絵引』の解説がいう『万葉集』の「須理夫久路」というのは、『万葉集』(巻一八、四一三三)の「針袋これは賜りぬすり袋今は得てしか翁さびせむ」という和歌のことである。ただ、この「すり袋」について『日本古典文学大系』頭注は、『和名抄』行旅具に「楊子漢語抄云、■(竹鹿)(竹冠の下に鹿)子、須利、竹篋也」とあるのをとって、竹の小箱と解釈している。もしそうだとすると、火打袋であるかどうかに疑義が生ずるようであるが、私も『絵引』と同様に、「すり袋」とあることを重視したいと思う。いずれにせよ、■(竹鹿)子も別の表現では燧笥(ひうちげ)といわれたもので、腰につけられていた可能性が高い。この燧笥は『大和物語』一六八話に「蓑一つ着たる法師の腰にひうちげなどゆひつけたるなん」とみえており、また『梁塵秘抄』(巻二、三〇六)に「聖の好む物」としてみえることは有名である。おそらく図②に掲げた『石山寺縁起』の男の腰の小篭のようなものがそれにあたるだろう。なお、『兼盛集』に「旅人は、すりもはたごもむなしきをはやもていましね山のとねたち」とあることからすると、「すり」には、火打袋と同様、火打道具のみでなく、何か別の小物・貴重品も入れられていた可能性があることもわかる。
『絵引』の説明で次ぎに重要なのは「火打袋は多く皮革でつくってある」という指摘である。火打袋が革製であることは、すでに江戸時代の好事家の記述、たとえば『守貞漫稿』(喜多川守貞、第三十編雑器及嚢)、『古今要覧稿』(屋代弘賢、第二百一・二百二、火打袋)などにもみえ、『絵引』はそれらによったのであろう。たしかに、『源平盛衰記』(巻四四)は、右の日本武尊・小碓命の「嚢」について、「今の世までも人の腰刀に錦の赤皮を下げて火打袋と云ふは是故也」といっている。また『太平記』(三三)にも「虎の皮の火打袋」という言葉がみえる。たしかに中世の腰袋が革製を基本としていた可能性は高いと思う。絵巻に描かれた腰袋の画像がしばしば薄茶色であることも、それが生(き)の皮革の色に近いとすれば了解できることである。しかし、問題なのは、火打袋の作り方や仕組みがよくわからないことである。図③・④・⑤・⑥などに、火打袋の仕組みを示唆すると思われる画像をかかげてみた。図③は『一遍聖絵』からとったもので、後腰にさされた腰刀に二本の紐で装着されている様子がわかる。図④は『春日権現験記絵』からとったもので、男が口にくわえた腰刀から二本の飾紐によって腰袋がぶらさがっている。これらの紐は腰刀の下緒(さげお)であって、下緒は腰刀の鞘口のあたり*12から下がっているのである。そして、図⑤は『法然上人絵伝』からとったものである。他の図と同様、腰袋の横面に襞(ひだ)があり、その真ん中に穴があいているようにみえる。また、図⑥は比較的明瞭な図像として『慕帰絵詞』からとったものである。
これらの画像は基本的に同一であり、そこからわかるのは、火打袋の表側にはかならず襞(ひだ)があること、、腰刀の鞘口から下がる二本の下緒が、火打袋の内部または裏面を貫通していること、しかもその緒は火打袋の下部で一度結束されているようにもみえることなどである。この二本の長い紐を利用して、袋の口を開閉して、物を入れたり出したりするのであろう。で近世の好事家たちも、このような点に興味をもったようで、たとえば、『好古小録』は
燧袋ヲ佩タル図、古画ニ散見シテ其製知ルベカラズ、一画巻ニ両面共ニ襞アルコトヲ知ルベキ図アリ、依テ試ニ一嚢ヲ製シテ博古ノ訂正ヲ俟チシニ、其後一故家伝フル所ノ古物ヲ得タリ、余ガ所製ト附合ス
として、次のような図(図⑦)を掲げている。
『好古小録』は、このような構造であった理由として、「或云燧袋両口ニシテ、一口燧ヲ納レ、一口発火ヲ納ルト、其拠ヲ知ラザレドモ、理或ハ然ラン」と述べている。『好古小録』の著者が見た「両面共ニ襞アルコトヲ知ルベキ図」のある「絵」がどのようなものであったかは解らないが、しかし、この復元案の弱点は、腰袋を結束する二本の緒が、火打袋の内部を貫通しているようにみえる絵巻物の図像には照応しないことである。それを満足させるように火打袋の仕組みを推定してみると、次の図⑧のようになるだろうか。仕立て方はいろいろな手技とコツがあるのだろうが、それにもとづいて実際に手製してみたものの写真を図⑨にかかげてみた。この案が正しいかどうかは別として、ともかく、何よりも興味深いのはすでに近世の段階で、中世風の腰袋・火打袋が伝世しておらず、その仕組みがわからなくなっていることであり、この点も、腰袋が中世独自のものであったことを証明している。
②腰袋の中の銭
さて先述のように、ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』には「袋はヨーロッパでは金銭を携行するのに使われる。日本では貴族や兵士のそれは香料や薬品、火打石を入れるのに使われる」とあるが、腰袋に銭を入れることがなかったかといえば、そんなことはない。
まず文献史料では、古く奈良時代、銅銭の流通を命じた法令に、納税のために京上する人夫には「一嚢の銭」をもたせて往還の便をはかれとある(『続日本紀』和銅六年三月一九日条)。また平安時代初期、貞観永宝発行に際しての清和天皇の詔にも、当時、一種の激しいインフレーションが起きていて、銭が「嚢裏にたくわえて使いがたく、杖頭に懸けて用に乏し」い状態であったという一節がある(『三代実録』貞観一二年正月二五日条*13)。「杖頭に懸けて」、つまり杖の頭部に銭緡(ぜにさし)をひっかけて持ち歩く風俗と対になっていることからすると、この「嚢=袋」も単に貯蓄用ではなく、携帯のためのものであったことは明らかで、おそらく腰袋であったに違いない。つまり、だいたい八世紀から九世紀にかけての、いわゆる「皇朝十二銭」の時代には、銭を腰袋に入れて携行する風習があったのである。そして中世については、『太平記』(巻三五)の北条氏の被官であった鎌倉武士・青砥左衛門の話が参考になる。これは、戦前には美談として「修身」の教科書に載せられていてたいへんに有名な話であったが、廉直で知られた彼は、ある夜、幕府の役所に出仕する途次、「イツモ燧袋ニ入テ持タル銭ヲ、十文取ハズシテ、滑河ゾ落シ入タリケル」ことがあったという。今でも宇都宮辻子にあった幕府への道筋にあたる滑川のたもとには、それを記念する石碑が立っている。これが美談である所以は、彼が、近辺の町屋で五十文の続松を買って川をさらって銭を拾い出し、そして、十文を取り戻すために五十文の銭を使う無駄を嘲笑した同僚に対して、天下の廻り物の銭をなくしてはならない、続松を買った銭は商人のものとなって民を利するが、川底に沈んだ銭は永久に失われてしまうと説いたためである。やや嘘臭い話ではあるが、実は、この話も火打袋に銭を入れたことの証拠として近世の文人がすでに注目するところであり、『花鴬談』には、茶道の千宗旦がこの青戸左衛門所持と伝える火打袋をもっていたという記録さえある。また『愚得随筆』(朝倉景衡)には「横づらにくちを付たる袋なる故、紐のしまりゆるびて銭ころび出たるなるべし」という細かな観察まであって参考になるのである。
北条氏は全国的に貨幣の流通を促進しようという政策をとっていたと考えられるふしがあり、この説話はまったくの作り話ではないかもしれない。ただ、火打袋の中に銭が入っていた証拠として、より雄弁なのは絵画史料である。
図⑩は、『地藏菩薩霊験記絵』の一場面である。この場面では、願ってもないことに、男が火打袋を開けている様子がわかる。おそらく釣りの帰りなのだろう、肩に担った釣り竿に魚とネギを付けた男が、両手で腰の袋を開けている。これをみると、やはり横面に開閉口があるようで、しかも重要なのは、先に推定したように、二本の紐が下の方で結束されている様子が明らかなことである。『近世風俗誌』(第三十編雑器及嚢)に、「緒締は木欒子(もくれんじ)に孔に穴を穿ちて用之」とあるのが正しいとすると、ムクロジの実(四センチ大、黒色)に穴をあけ、火打袋の下部で紐を通して締めていたのであろうか。
問題なのは、男に向かって、錫杖を持った僧形の人物が柄杓を差し出していることである。詞書によれば、実は、この僧形の人物は、左側に描かれた地藏*14の霊験によって「冥途よりかえりたる入道」であった。入道が「あ((悪))しきやまふ((病))をしてく((死カ))にて侍りしが、閻魔宮とおほしき所にまひりて侍りし程に」、この地藏に救けられて蘇ったというのである。恩返しのために何をしたらいいかと尋ねた入道に対して、地藏は「我いたる東の道、四・五町、水の流れて冬などは道行くものの嘆くなり、その道を作らんのみぞ、我身にとりて望む事にてある」と答え、「我もちたる錫杖をもちてすすめば、人もうけひく(承引)べし」といって、道作りの勧進のための証拠として錫杖をわたしたという。この場面は、その道作りの勧進の場面なのであった。
だから、柄杓を差し出しているのは、勧進・喜捨を乞うためである。今でも、教会などで「献金」の時には小さな柄付き袋が回されるが、この『地藏菩薩霊験記』の柄杓にも銭が入れられることは明らかである。つまり、柄杓を突きつけられた男が腰袋から取り出そうとしているのは、銭であったことになる。
こういう柄杓の使い方は、中世、きわめて一般的であり、やや時代がくだるが、寺社参詣曼荼羅の中にも、図⑪のようなヒシャクはしばしば見ることができる。さらに重要なのは、図⑫の『石山寺縁起』(巻五)である。ここには、石山寺から京都にむかう山道のほとりに小さな御堂があり、その前で、僧が柄杓をだして勧進している様子をみることができる。ということは、このような山道を通行する人も普通に小銭を持ち歩いていたことを意味し、その場合、やはり腰袋が財布の役割をしていたと考えるほかない。そして、『石山寺縁起』の成立は、正中年間(一三二四ー二六)とされているから、遅くとも鎌倉時代末期には、柄杓による銭の勧進、そして腰袋の財布としての役割があったことになる。
ということは、つまり『一遍聖絵』などの鎌倉時代の絵巻物に描かれた庶民のつけている火打袋の中には、相当の確度で銭が入っていたのである。このことは、中世の民衆経済史の上で、実に重要な事実を示唆している。もちろん、これまでも、鎌倉時代、庶民が銭を利用していたことは指摘されていた。しかし、文献史料は、それ自体としては年貢の代銭納のための銭に関する史料であったり、断片的であったりして、民衆の中での銭流通の量や広がりを想定するには隔靴掻痒の感があった。また絵画史料だと、たとえば、『絵引』は『一遍聖絵』の備前国福岡市の場面に、銭をもって布を求める男が描かれていることなどを指摘している。しかし、男たちが日常携帯する火打袋の中に、ごく普通に小銭が入っているというのはまったく新しい問題である。
問題は、彼らがいったいこの小銭を何に使っていたかということだが、『地藏菩薩霊験記絵』の場面をもう一度見ていただきたい。道作りの風景の後ろ、地藏の御堂の右側には、茶釜と茶臼や茶碗を置いた建物がある。正面で僧侶が茶を立てていることでもわかるように、この建物は茶屋としての機能をもっている。そして、道作りの勧進の時は無料で茶を接待することもあっただろうが、普通はいわゆる一服一銭の売茶屋になっていた可能性があるだろう。『洛中洛外図屏風』に描かれた一服一銭の茶屋については、今谷明の研究があるが*15、この茶屋の画像は、『洛中洛外図屏風』の時代をはるかに逆上る貴重な画像であるということができる。また、図⑬は『一遍聖絵』に描かれた伊豆国三島社門前の町屋の様子であるが、女が烏帽子をきた男に草鞋を差し出しているのがみえるだろう。男の前に黒い馬柄杓をもった男(左側で下馬して三島社を礼拝している侍の従者である)がいるためにわかりにくいが、渡政和もいうように*16、男は、腰のところに手をやって、あたかも代金の銭を探っているという様子である。もし、これが認められれば、この画像は火打袋に小銭が入っていたことを示す最古の史料ということになるが、いずれにせよ、街道を行く男たちは、このようにして、街道筋の町屋で小銭を使用していたのである。
そもそも火打袋自身も、市町で商品として売っていたはずである。今のところ、それを明証する史料を提示できないが、ただ、南北朝期、一三四三年(康永二)の史料にみえる京都四条町の小物座、つまり小物を売る商店街の狭い土地に小物の女商人四人と同居していた「腰座商人四人」というのは、おそらく腰袋を商っていたのであろう。というのは、立地からして彼女らは小物の「腰」のものを取り扱っていたことになるからである。彼女らはおのおの一つづつの櫃を置いて営業する権利をもつのみの小商人であったが、南北朝期の京都にはいわば腰袋専門店が並んでいたということになる*17。また、図⑭の町屋は『福富草紙』からとったものであるが、棚の一番上の右側に草履とならんで下がっている丸いものは、『絵引』のいうように、火打袋であろうか*18。もしそうだとすると、火打袋は京都の普通の町屋でも売っていたということになる。
さらに推定を続ければ、図⑮は『一遍聖絵』に描かれた備前の福岡市の一郭に描かれた仮屋であるが、この棚に下がっている薄茶色や赤色の丸いものも、火打袋ではないだろうか。前述のように、火打袋が、丸く切った皮・染革によって作られていたとすると、この画像を火打袋(というよりもそのための染革)とすることに違和感はない。同じ棚に緒のような赤紐が下げられているのも適合的であろう。地方にも革作、染革の職人がいたことを示す史料は、平安時代からあるが*19、鎌倉時代、幕府が「諸方地頭等并町屋沙汰人」に対して、薬染の色革を禁止しているのは、染革職人と地方の町屋の関係を示す史料である(『鎌倉遺文』⑫八六二八)。彼らが武具生産にのみ専従していたとは考えられない。腰袋が本当に皮革製品であるとすると、それは彼らの生産する庶民向けの日用製品の代表になるはずであり、地方市場でもそれが売られていたとして問題はないだろう。この福岡市の屋台は、染革座の出品をふくむ小物座の仮屋なのではないだろうか。
このようにして、鎌倉時代後期は、貨幣の日常的携帯にもとづく消費経済が民衆の間にも深く浸透しはじめた時代なのであり、これこそが中世の貨幣経済のもっとも広範な基礎であったのである。そして、先述の青戸左衛門が落とした銭が「十文」、つまり銭十枚であったように、それが小銭使い経済であることを忘れてはならない。『沙石集』には女性が「金を五十両、守の袋に入て、首にかけて上洛しける」とか、男が道で落とした「袋」の中に「銀の軟挺六」が入っていたという話*20があるから、腰袋に金銀などが入れられる場合もあったであろうが、少なくとも庶民のレヴェルでは、貨幣の使用は卑金属少額貨幣(銅銭)が中心だったのである。
そもそも、銅銭はかさばるものであって、しかも腰袋の中には、火打ち道具その他が入っているのだから、そんなにたくさんの銭は入らない。実際に手製してみた図⑨の火打袋などは火口(ほくち)の替わりにちり紙をパンパンにつめて、どうにか丸い感じになっているのである。その意味では、火打袋はやはり火打袋であって、銭袋ではなかったのであるから、問題を戻すようであるが、ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』が、日本の腰袋はヨーロッパにくらべて金銭というよりも香料・薬品・火打石などの小物を入れるための袋であるというのは正しい側面もあるといえるかもしれない。しかし、厳密には日本の腰袋の中にもどんなに少額であれ、銭が入っていたのである。彼我の相違は、ヨーロッパの貴金属貨幣文化と日本の卑金属貨幣文化の相違全体の問題として、今後よりいっそう広い視野から捉えていかねばならないだろう。
③腰刀と腰袋
さて、先にかかげた腰袋の画像をみればわかるように、中世の腰袋・火打袋は一般に腰刀に付けられるようになっている。そして、この腰刀の画像は、中世の絵巻物にはきわめて一般的であって、絵画に描かれた庶民の男の腰には、ほとんどの場合、その左腰に腰刀があるといってよいほどになる。腰刀は中世の成人男子の「身分標識」ともいえるような性格をもち、黒田日出男によれば、中世は「いわば民衆が腰刀を差す作法の時代」でさえいわれるほどである*21。ただ、厳密には腰刀の携帯の風習それ自体がどのような理由でいつ頃始まったかなどの問題は未解決のままであるが*22、平安時代末期の成立といわれる『粉河寺縁起』には、多くの腰刀の画像が描かれている。数字でいうとどの程度の普及度であったかはもとより不明なものの、遅くともこの頃には腰刀の使用は一般化していたといってよいであろう。広島県の有名な川底の市町遺跡、草戸千軒から出土した腰刀(あるいはその鞘や柄)に関する分析によると*23、中世前期では、腰刀は一般に呑口式という柄が鞘にやや嵌入するするスタイルで、その長さは36センチほど(約一尺一寸余)であるという。そして、鎌倉の佐助ヶ谷遺跡でも、草戸千軒のそれと長さ・規格の点でほぼ同様の大量の腰刀が出土している。しかも草戸千軒では、鎌・鍬先などよりもはるかに多く腰刀の関係遺物が出土しており、農村ではたとえば鍬と腰刀の普及率の相対比はどうかなどは不明であるとしても、特に都市的な場所では、腰刀がきわめて一般的な道具であったことが明らかになっている。腰刀の機能は、まずは工具(木工その他のナイフ・鉈・根掘りシャベルなど)としての意味が高かったと考えられるが、護身用の武具でもあったことはいうまでもない。それのみでなく、考古学の河野真知郎が「この当時まだ料理用の庖丁というのは確立・分化していなかったようである。絵巻物でも『腰刀』と同じような小刀が描かれている。(中略)。この腰刀は万能小刀で、調理の際には庖丁にもされたらしい」と述べているように*24、腰刀には食事用・調理用の庖丁・ナイフとしての意味があった。これは男の食物配分権、家父長権を象徴するものであった可能性も高い。またさらに、中世の貴族・武士などの夫婦の寝室にはしばしば「枕太刀」が置かれているが*25、庶民の場合にも枕頭に腰刀があることを示す絵は多く、このことも腰刀と家父長権の不可分の関係を物語っているようである。
ようするに、だいたい南北朝時代頃までの腰刀は万能小刀、万能ナイフとして、民衆の腰のあり方を特徴づけるものであったのである。問題は、この腰刀に、いつ頃から腰袋が装着されるようになったかということであるが、やはり平安時代末期の成立と想定される『鳥獣人物戯画』(丙巻)に、腰袋が腰刀に装着されている様子が描かれている例(図⑯)、また同じ時期に成立した『粉河寺縁起』の例(図⑰)が、相対的に早い事例であろう。もちろん、注意しておくべきことは、絵巻に描かれた成人男子の腰刀につねに腰袋が下がっているとはいえないことである。『絵引』の索引の腰刀の項にはその掲載頁が九三箇所あがっているが、腰袋の掲載頁は先述のように多いとはいっても三九箇所である。たとえば『粉河寺縁起』には腰刀の画像は多いが、腰刀と腰袋のセットは例外的なものであって、右の⑲の一例だけであることも留意しなければならない。また『一遍聖絵』には総ざらいしてみたところ、(武士が太刀とともに差しているものも含めて)五三ヶの腰刀の画像が描かれているが、それに対して、腰袋の画像は一六ヶでしかない。これは、腰刀は腰の前後に突き出ているから描かれやすいが、それと比べると腰袋はそもそも描かれにくい位置にぶらさがっており、腰袋の画像は、腰袋が腰の後ろに飛び出しているか、または、左向きの人物像で、よく下半身がみえる場合以外には描かれないという事情にもよっているだろう。しかし、腰刀は描かれていても、その鞘に腰袋が下がっていない場合も多いのである。
だから、腰袋を腰刀に装着する風習が、いつ頃、どの程度に一般化したかも、現在のところ確定できないのであるが、しかし、それにしても、『粉河寺縁起』の成立した頃から約一〇〇年余がたって、鎌倉時代後期、一二九九年に成立した『一遍聖絵』になると、腰袋の画像はたしかに目立ちはじめる。たとえば、図⑱をみると、左端の乗馬の男の腰と右側の中州に脱ぎ捨てた着衣の上の二箇所に腰刀・腰袋が描かれている。『一遍聖絵』には、このように一場面の群像の中で複数の人物が腰袋を装着している例を三箇所確認することができる*26。これは男の群像を描く場合に腰刀・腰袋が必須であった事情を示しているといってよいだろう。そして、腰袋を腰につけているのは、『一遍聖絵』をみただけでも、従者・所従とおぼしき人物から、非人、下級の僧侶、下級武士にいたるまできわめて多様な身分に及んでいるのである。
黒田日出男は、中世は「いわば民衆が腰刀を差す作法の時代」であるとしたが、もしそうだとすれば、同じ理由で、日本中世はいわば「民衆が火打袋を腰にさげている時代」ということもできるのではないだろうか。すでにみた画像が示すように、中世の絵巻の腰袋はみなほぼ同じ仕組みで、すべて腰刀への装着を前提にした製品となっているのである。その中で、たとえば今の世の男たちが「ワイシャツ」を着て「ネクタイ」をしめることと同様、成人男子たるものは、本来、腰刀と腰袋をつけているのが普通であるということになったのではないだろうか。もちろん、いわば「ワイシャツ」は着たが「ネクタイ」を付けていないというのと同じように、ちょっとそこまで行くときには、腰刀は差して行くが、腰袋はつけていかないというようなことはあったであろう。男にとっては刃物はどんな場合でも必需品だが、火打袋=財布は必ずしも持って出ない、あるいはそもそも持っていないということもあったのかもしれない。さらに、図⑲は、大工たちの建築現場での群像であるが、腰袋をつけているのは杖尺をもった棟梁だけで、他は腰刀はしていても腰袋を下げていない。このことは、腰刀・腰袋のセットには、多少なりとも正式の扮装であるという身分的なニュアンスがあったことを示すのかもしれない。
そのような事情を具体的に説明することは、現在のところなかなかむずかしいが、中世の庶民男性にとって、腰刀=腰袋の携帯が、成人男子としての資格や身分意識にもかかわるような問題であったのことは明らかである。また、特に腰袋の携帯の一般化は、おそらく、平安末期、銭の流通が「復活」して以降の時代に属する現象で、特に鎌倉時代において貨幣の流通が拡大し、日常的に銭を携帯する風習が生まれたことが大きな条件となっていたとみるのが自然ではないだろうか。そして、鎌倉後期から室町時代にかけて貨幣流通が活発化し、銭の使用が一般化していく中では、腰袋の不所持=銭の不所持は、たとえば現代の男が財布をもつのを忘れて家を出た場合に感じるのと同じような日常意識における一つの不安をもたらすようなことになっていたのではないだろうか。
④腰刀・腰袋の消滅と太刀
腰刀=腰袋のセットを考える上で、象徴的なのは、前掲の『一遍聖絵』の図⑱である。男は、橋のたもとで馬に水浴させるために着衣を脱ぎ捨て、その上に、烏帽子・腰刀・腰袋のセットを置いている。これらの小物にそくしたいい方をすれば、裸体の男子が着物のほかに身につけるものは、頭の「烏帽子」、腰の「腰刀」、そして「火打ち石」と「銭」の入った「腰袋」であるということになるのである。
かって「中世民衆のライフサイクル」*27という論文で検討したように、烏帽子と腰刀と腰袋は、セットとなって男子の元服を表現している。腰刀=腰袋の装着が風習として広がり、一種の規制力ももちはじめる上では、元服のような儀礼的慣行がもった意味が大きいことは明らかである。もちろん、史料的条件もあって、庶民の元服儀礼の詳細は不明な部分が多いが、特にすぐにふれる桃太郎論との関係で注目されるのは、『御伽草子』の「ものぐさ太郎」に現れる「男は三度の晴業(はれわざ)に心つく、元服して魂つく、妻を具して魂つく、または街道なんどを通るにことさら心つくなり」という命題である。このような通過儀礼のあり方が古くから一般的であったことは、『伊勢物語』の「初冠(ういこうぶり)」の段で、初冠=元服が、狩猟と「婚」の旅でもあったことを考えれば明らかで、「元服」と「妻を具す(=婚姻)」と「街道なんどを通る(旅)」の三つは、相互に深く関係していたのである。特に問題なのは、『絵引』が「火打袋は(中略)、旅にはなくてならぬものであったから、親しい者の旅に出るときなど、これを餞別におくったのである。『紀貫之集』にも「をりをりに打ちてたく火の煙あらば心さすがにしのべとぞ思ふ」という歌がある」という通り、腰袋、火打袋には、中世人の意識にとっては旅と切っても切れない連想がはたらいていた*28。そして、中世では、火打石のみでなく、腰袋が旅の途中で支払う小銭のための財布としての役割をもっていたことはいうまでもない。もちろん、若干の小銭が入るだけとしても、腰袋は銭を携帯していることの象徴であったのである。
このようにして、腰刀=腰袋は、元服儀礼を通じて、中世社会の庶民男性の自己意識の一部を構成していたのであるが、その対極にあるのが、武士身分を象徴する太刀(および弓)であったことはいうまでもない。逆にいえば、弓馬の士たる武士は、本来、庶民のものである腰刀=腰袋を腰に付けることはしない。彼らの腰の物で、腰袋に対応するものは太刀につけられた弦巻である。『宗五大草紙』(『群書類従』武家)に「火打袋は四十以後さぐる。但それも晴(はれ)の時は斟酌あるべし。殊に大なるはわろし。さりながら宿老入道はくるしからず」とあるように、腰袋は、身につける場合でも、武士にとって現役を引退した老人の象徴であり、「褻」の装束であり続けたのである。
しかし、このような武士ーー庶民の身分的・階級的な差異をもふくむ価値観は、中世後期になると徐々に変容を遂げていく。まず、考古学的な分析によれば、前述のようにほぼ同じ一尺一寸の長さや仕様をもって全国的に使用されていた腰刀の規格自身が西でも東でも変化していったという。「中世前半には万能刃物として広く使われてきた腰刀が、それぞれの使用分野で用途が特定されるに従って、次第に様々な形態に分化した結果(巾広の庖丁などが出現するという)、中世後半には護身用・戦闘用としての明確な目的を持った刀(呑口式が合口式になるなど)として分離され発展し」ていき、一五世紀以降になると、遺跡からは上記の意味での万能刃物としての腰刀が(および沢山出土していたそれを研ぐための砥石も)ほぼ消失していってしまうというのである。*29。これは絵画史料でもほぼ同様であって、安土桃山時代の『洛中洛外図屏風』では、腰刀は中世前期の絵巻物のように目立つ存在ではなくなっている。腰袋も同様であって、かろうじて確認できる場合でも、図⑳にみられるように、それは腰刀に下げられずに丸腰、しかも右腰に下がっている。この画像自身は、突き出された柄杓からわかるように、腰袋に銭が入っていることを示すものとして重要なのであるが*30、よく見ると、腰袋の構造そのものがいわゆる巾着のように変化していることがわかるだろう。
また絵画史料では、図(21)のような事例が注目される。これは室町時代後期に成立した『暮帰絵詞』の第七巻からとったものであるが、この中間風の男は烏帽子をつけず、長刀を腰に佩き、同時に腰袋付きの腰刀をも差している。おそらく同行の商人(?)の護衛ではないだろうか。このような太刀・腰刀・腰袋の三点セットは本来の中世的な武装のあり方では考えられないことである。武士が太刀と腰刀の両方を腰に差していることはありうるが、その腰刀に腰袋が下がっているというようなことはありえない。そして、このように正規の武士身分とは考えられない男が、太刀をもっていることがありえないのはいうまでもない。彼の差す太刀は、その身分が武士に近いことを示し、腰刀と腰袋はその身分の庶民性を示しているといえようか。ここには、中世的な「腰のもの」のあり方の身分的格差が流動化し、地域社会の中に、太刀の所持が浸透している状況が現れているのである。このような中世的価値観の崩壊状況の延長線上に、よく知られている織田信長の「異相」、つまり『総見記(一)』が「信長の御形儀、甚以て異相なり、不断着し給ふ明衣の両袖をほつしになされ、半袴、燧袋、色々数多着せらる」と述べているような異相(『織田軍記』、史籍集覧、通記類)があるのではないだろうか。
問題は、室町時代後期・戦国時代の庶民社会において「太刀」が、どのように存在したかということにかかわってくるが、これについては、当面、藤木久志のいくつかの指摘が参考になるだろう。藤木は、一五六六年(永禄九)の近江国甲賀郡柏木三方同名中惣の「申合条々」が、咎人の密告者に「拾貫」と「(太刀)一振」を与えるという史料、また刑罰の執行者に対する褒美が「太刀代」と呼ばれている史料などを提示して、太刀が中世における重要な身分標識であったこと確認しつつ、これらの史料によって、地域社会の内部に「(太刀の給与による)身分変更」の状況や、「刀をめぐる共通の儀礼や慣行」の発生を推測している*31。特に後者の刑罰の執行者に「太刀代」が給与されたことを示す史料は村と地域の中における新たな「刑吏」的存在の発生を意味しているように思われ、それは後に述べるように、「武士=もののふ」身分の本質が刑吏にあったということとの関係できわめて興味深い。
ようするに、以上のような、一方で腰刀=腰袋の日常的着用が実質的に消滅しつつあり、他方で、民衆の中から太刀を佩用する存在が登場するという事態は、中世的な「腰のもの」の身分的なあり方の全体的な変貌を意味している。中世後期における庶民の腰からの腰刀=腰袋の消失は、「物」の消失であるとともに、社会や身分状況の大幅な流動化を表現しており、同時に、「太刀」というより上位の身分の象徴物を所持する風習の下降拡大、それ故「身分上昇」とパラレルな関係にあったのである。ここに、腰刀=腰袋の時代、中世という時代は終わったということができるだろう*32。
Ⅱ桃太郎民話の諸要素
さて、いよいよ以上の腰袋・腰刀の検討をふまえて、桃太郎民話について論じることとしたい。この場合、歴史学にとっての最大の問題は、桃太郎民話を物語る中世のテキストが一つとして存在しないことである。本書の次章で検討する「三年寝太郎」は、『御伽草子』の中に「ものぐさ太郎」というほぼ同一の筋書きをもつテキストをもっているが、桃太郎民話には、そのような好都合なテキストは残されていないのである。それ故に、研究者は、現状のような桃太郎民話が、中世に語られていたかについて懐疑的にならざるをえない。しかし私は、すくなくとも桃太郎民話を構成する要素という点からみると、そのおのおのの要素は、中世社会の中に確実に存在していたのではないかと思う。その諸要素とは、まずは「お腰につけたキビダンゴ」、そして「鬼ヶ島への遠征と鬼退治」、さらに「川上から流れてきた桃」となどとなるだろう。
以下、まずはこれらの三つの要素に即して、順次に問題を検討していきたいと思う。もちろん、中世に桃太郎民話に相似した話が語られていたかどうかを先入観をもってみてはならないが、逆にそれが存在しなかったと頭から決めつけることもできないはずである。考えてみれば、そもそも中世社会の中で、どのように民話が語られていたのか、親や老人が子どもに昔話を語ることがあったのであろうかなどという基礎的な問題が、現在の研究段階では、我々にはほとんどわかっていないのである。
①「お腰につけたキビダンゴ」と交換
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビダンゴ、一つ私に下さいな」「あげましょう、あげましょう、これから鬼の征伐についてくるならあげましょう」。
この耳に親しい童謡が示すように、桃太郎の旅は、「キビダンゴ」によって順々に「犬」・「猿」・「雉」の関心と忠誠を買うことによって展開する。桃太郎民話の話型の興味は、「キビダンゴ」を動物たちにあたえながら旅を続けるという点にあるといってよいように思う。図(22)は江戸時代の桃太郎民話を伝える赤本からとったものであるが、少なくとも、この段階では、桃太郎の腰にはたしかに「キビダンゴ」が結い付けられているのである。
もちろん、「キビダンゴ」が、成立期の桃太郎民話の中に存在したということを論証することはできない。しかし、おそらく桃太郎民話の中には、その成立の最初から「キビダンゴ」の話が存在していたのではないだろうか。そう考える根拠の一つは、「キビダンゴ」が民話・猿蟹合戦にもしばしば登場することである。それは、キビダンゴという「物」が特定の意味をもって語られていた可能性を示している*33。たとえば、柳田国男は豊前地方につたわる猿蟹合戦の類話で、馬方の息子が父を殺した山爺に復讐するために、キビダンゴによって栗・針・石臼・粘土などに助太刀を頼んだという話に注目している。そして柳田は、猿蟹合戦について「この交換の成立という点に、話の中心が置かれていたとも見られる」とし、「こうなると癒々もって桃太郎の方に話は近いのである」としている。柳田は、そもそも猿が蟹にあたえた「柿の種」について「柿の種は彼ら(子ども)の知っている限りの最も無価値なもの」であるとしており、これを敷衍すれば、ようするに柳田は、猿蟹合戦や桃太郎民話というのは、「交換」ということのもつ興趣、面白さを中心に作られた民話であるといっているのである*34。
この着眼はさすがに鋭い。私は、このようなほとんど無価値なものが元手となって、幸運な交換の連鎖が始まるという種類の民話は、いわば「交換民話」「とっかえっこ民話」というべきものであると思う。そして、そういえば、想起されるのは「藁しべ長者」の説話であろう*35。いうまでもなく、藁しべ長者譚は、「門をでて最初に手にふれたものが『賜り物』である」という長谷寺の観音のお告げを受けた若い男が、長谷寺の門外で転び、そのときに手にふれたワラシベを、柑子、布、斃馬(たおれうま)(死馬)、田地と順々に交換して長者となったという話である。その成立は、『今昔物語集』(巻一六ー二八)、『宇治拾遺物語』(巻七ー五)の昔まで確実にさかのぼる。そして、この「藁しべ」が、それ自体としては無価値なもののたとえであることは明らかである。鎌倉時代のある一通の古文書には、簡単なことのたとえとして「路の柴を抑えるごとし」(『鎌倉遺文』⑭,一〇八二〇)といういい方がみえているが、そこからみると、道でころんで「藁しべ」をつかむというのは、民話のプロットである前に、一種のことわざであったともいえるであろう。つまり「藁しべ」にせよ、「キビダンゴ」にせよ、「柿の種」にせよ、ここにあるのは、通常の世界では意味のないつまらない物品が、旅や放浪という非日常的な時間・空間において特別な交換のサイクルに入り、遂には大きな結果・致富にいたるいう形の民話なのである。ワラシベ長者譚と桃太郎譚の話の内容は大きく異なっているようにみえるが、交換民話という側面からみると、両者の違いは、ワラシベがキビダンゴとなっていること、交換対象が物品ではなく身体と力の提供、「忠誠」の提供となっていることの二点に過ぎないことになる。
このようにして、桃太郎民話における「キビダンゴ」の要素は、古くより継受されてきた基底的な話型を表現しているのである。とはいえ、藁しべ長者譚は長谷寺信仰を背景にもつ一つの霊験譚でありながらも、現実に起こりうる物語として語られていた。それに対して、桃太郎民話は、中世末期から近世初期の時代における、そのような交換民話のヴァリエーションとして、独特な笑い話・パロディー的性格をもっている。よく知られているように、藁しべ長者譚における「布」は、平安時代、現物貨幣としての性格をもっていた*36、藁しべは「柑子」という有用物に自己の姿を転化した後、さらに正式の交換物・等価形態としての「布」の姿に転変し、それによって交換の連鎖は質的に変化を遂げ、最後には中世の富の一般的形態としての「田地」にまで到達したのである。たしかに、それと同様、桃太郎民話におけるキビダンゴも、旅の費用としていわば一種の現物貨幣としての役割を果たしていたが、しかし、キビダンゴは、貨幣ではなく、藁しべのように貨幣=布に転化することもなかった。キビダンゴは、まったく貨幣としての常識から外れた存在であり、一度も貨幣の姿に変わることはなく、貨幣としては純然たるパロディーの世界に属するものである。そして、そのような「キビダンゴ」による「犬」「猿」「雉」の「忠誠」の獲得というのも、主従関係に対する一つのパロディーであったともいえるのではないだろうか。大仰ないい方ではあるが、いってみれば、キビダンゴは「鬼ヶ島征伐」という民話的世界の中で、「日本一のキビダンゴ」という特殊な交換財としての役割を負うきわめて二律背反な(アンヴィヴァレント)存在であったということになるのである。
私は、「お腰につけたキビダンゴ」というフレーズのもつ、このようなパロディー性は、桃太郎が中世的な価値観からいえば、銭からの完全な疎外、銭の不所持と貧困を体現する存在として描かれていることに対応していると思う。前節で縷々検討したように、中世の成人男子は、旅立ちにあたっては、腰に腰袋をさげ、若干の銭を携帯するのが当然だったのであった。それに対して、「キビダンゴ」を「お腰につけた」桃太郎の姿は、直接に腰袋の不在、貨幣の不所持を寓意している。桃太郎は鬼ヶ島への旅立ちにおいて、普通の「男」の旅装ならば、当然に「腰」に携帯するべき「銭入り」の火打袋を持たない、あるいは持つことすらできない存在、卑賎で疎外された存在として設定されているのである。
②武勇と太刀
次ぎに検討する桃太郎民話の要素は、桃太郎の鬼退治の武勇である。桃太郎は、旅立ちにさいして腰袋と銭さえももつことができない貧困で卑賎な存在でありながら、他方で、鬼退治に出発する「日本一の武勇」の持ち主として設定されている。そして、それを象徴するのが、その旅立ちの姿における太刀の佩装であることはいうまでもない。
これが「キビダンゴ」と同様に、どのように自己矛盾的なものであるかを考えるためには、中世における「鬼退治」「鬼ヶ島征伐」の観念について簡単にふりかえっておかねばならない。まず「鬼」自身については、そもそも武士の和訓・「もののふ」の「もの」とは「鬼」のことであったことが重要である。詳細は別稿を期すほかないが、私は、古代以来、武士が「もののふ」と呼ばれたのは、彼らが王や主人を「もの=鬼」からまもることを最大の職掌とした存在であったからだと考えている。古代ではさまざまな職掌をもつ文武の百官が「物部」と呼ばれたが、それも王を「鬼」から守ることこそが官吏の最大の任務だったからであり、それが武官としての物部氏の専称となったのである。さらに重要なのは、律令制の段階では、物部とは刑部省所管の囚獄司・衛門府・東西の市司におかれた刑吏身分の下級役人のことを意味したことであり、中世の武士はこの刑吏を本質的な職能とする身分であったからこそ、「武士」=「もののふ」という呼称が一般化したのである*37。ようするに、「鬼退治」とは武士の本質にかかわる問題だったといえよう。
そして、「鬼ヶ島」については、別稿「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」(本書第■章)で見たように、『今昔物語集』の昔から、日本の「艮」(うしとら)(=北東)の海域を漂流していくと「鬼ヶ島」に到着するという観念が存在した。そして、それと対をなすようにして、もっとも正統的な武士は、異国に渡って「鬼退治」「虎退治」を敢行して、名を海外に挙げるべきものであるという観念が、古く『日本書紀』の時代から連綿として受け継がれてきたのである。つまり、鬼退治を仕事とする武士は、単に日本本土を防衛するのみでなく、鬼の棲む島にまで出張して征伐しなければならないという訳である。右の別稿でもふれたように、この幻想は、日本と東アジア世界の国際的関係の全体の中で成立しているものであっただけに*38、きわめて執拗なものとして、日本の前近代社会を通じて維持され、再生され続けてきた。特に「元寇」以降、「蒙古=鬼」のイメージと結びついて、この鬼ヶ島のイメージがさらに一般化していったのである。この延長線上に『御伽草子』の「天狗の内裏」「御曹司島渡」などの義経の島渡り・異島征伐説話が存在したことはいうまでもない*39。
桃太郎は、明らかにこの鬼ヶ島幻想を引き継ぎ、その中から生まれた民話である。そこには中世後期の排外主義にとざされた民衆意識の反映があることは疑いないだろう。しかし、桃太郎民話が、民話であるのは、その主人公が銭ももたない、どこの生まれともしれない少年である点にあり、そのような男が武士の本来的任務である鬼退治を敢行するというパロディー性にある。それ故に、桃太郎は銭を入れる腰袋さえももたない人物でありながら、武士身分の象徴としての太刀をもち、主従関係契約の主体となるという二律背反(アンヴィヴァレント)な存在として登場するのである。それは「キビダンゴ」のパロディ性にピッタリと対応している。
そして、そのような話型が大きな違和感なしに流通したという意味で、桃太郎民話は、中世的価値観が動揺の頂点に達した室町時代後期、戦国時代にふさわしい民話であるといえるかもしれない。この時代、腰刀そのものが陳腐化・消失の瀬戸際にあり、その中で腰刀=腰袋をめぐる中世的な価値観は大きく流動化し、また太刀所持の民衆社会への下降拡大が顕著になっていたことはすでに述べたとおりである、もちろん、図(22)の近世の赤本に現れる桃太郎が、腰に太刀をつけているからとって、成立期の桃太郎民話にどのような形で「太刀」が登場していたかはわからない。しかし、民話の構造上、桃太郎は武勇の存在でなければならず、それをもっとも端的に象徴するのはやはり太刀であったというべきであろう。ここに桃太郎は「キビダンゴ」につづいて「太刀」を獲得したのである。
③「桃」と鬼
さて、桃太郎民話の第三の要素は、「桃」である。桃太郎は「桃」から生まれたという民話の形式もあり、老婆が「桃」を食べたことによって若返ったという民話の形式もあるが、いずれにせよ、「桃」は桃太郎民話と一体的な関係にある。
「桃」に特殊な意味をもとめる幻想的な観念の淵源が、さかのぼれば中国の民俗的な思想に由来することはよく知られている。これはいわばヨーロッパのリンゴにあたる聖果・聖樹の観念ということができるであろうが、中国の道教には、桃は不老長寿や多産をもたらし、魔物を退ける力をもった仙果であるという観念が存在したのである。特に昆崙山にすむという西王母(せいおうぼ)が漢の武帝に与えたという巨大な世界樹の桃、蟠桃の伝説は有名で、たとえば日本でも、平安時代初期、仁明天皇の大嘗会の標には「王母の仙桃を偸(ぬす)む童子」の像が飾られていたという(『続日本後紀』天長一〇年一一月一六日条)。また平安時代中期、藤原師通が金峯山に捧げた願文にも「王母の桃、子を結ぶ」という一節が残されており(『平安遺文』⑪補遺二八〇。藤原師通願文)、大江匡房の漢詩序にも「昆崙万歳三宝之桃」という一節があるように(『本朝続文粋』八、『古今著聞集』(第五ー一三)、これは広く普及した観念であった。もちろん、「桃」の幻想の根拠のすべてを「西王母」伝説と中国的な道教思想に帰すべきかどうかについては疑問もあり、たとえば、記紀神話の黄泉比良坂に生えているという桃の木の伝説は、日本古代社会の中で独自に形成されてきた側面も認めなければならないだろう。『日本書紀』(神代上、第五段)には「時に、道の辺に大きなる桃の樹有り、故(かれ)、イザナギ尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷(いかづち)に投げしかば、雷等、皆退走(しりぞき)きぬ、此れ、桃を用て鬼を避く縁なり、時にイザナギ尊、乃ち其の杖を投(なげう)てて曰はく、「此より以還(このかた)、雷敢(え)来じ」とあり、『古事記』には「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃ちたまへば」とある。要するに桃の実は鬼=雷神にぶつけ、桃の木の枝は雷神に対する結界をはるための「杖」となったというのであるが、ここで呪力をもった「桃」の観念が、雷神信仰との関係で語られていることは注目すべきであろう。あるいはここには、「桃」の幻想的観念の古層をみとめるべきなのかもしれない。
このような「桃幻想」は中世社会の中にも広く存在していた。たとえば、『今昔物語集』(巻二七ー二三)には、ある占い師=陰陽師が「此の家に鬼来たらむとす。ゆめゆめ慎み給ふべし」と予言し、「門に物忌の札を立て、桃の木を切り塞ぎて□法をしたり」という記事がみえる。また鎌倉時代の『沙石集』には、ある坊主が、貧乏神を家から追い払うために、「十二月晦日(つごもり)の夜、桃木の枝を我も持ちて、弟子にも小法師にも持たせて、呪を誦し」たという説話がみえる(『沙石集』巻七ー二二)。また『三国相伝陰陽■(車編に官)轄■■内伝金烏玉兔集』には、午頭天王の、守り札として「桃木札」がみえ*40、最近、しばしば中世遺跡から出土する「蘇民将来子孫也」という疫病除けの護符も、桃木で作成されていた可能性が高いと思われる*41。そして、さらに決定的なのは、図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面に描かれた桃である。
絵巻に痛みもあって、図が若干見にくいかもしれないが、女が病臥する男の方をむいて手に捧げている果物が、桃である。その証拠は、この果実の尻がとがっており、また女の膝の前においてある同じ果物をみると、枝についた葉も長いことである(拡大図(24)参照)。もちろん、葉の長さのみに注目すると、枇杷という考え方もなりたち、そういう解釈もあるが*42、しかし、枇杷ならば、逆に果実の尻は引っ込んでいる筈である。それに対してこの果実の尻はとがっている。中世には「桃尻」という言葉があるが、それは桃の果実の尻がとがってすわりの悪いことから、乗馬が下手で鞍に落ち着かないこと、いわゆる尻軽のことをいうのである。なお、今の桃をイメージすると、この絵の果物は小さすぎるようであるが、もちろん、この場合、今の水蜜桃を想像してはならない。現在、我々が食べる桃は、普通のもので重さ二五〇グラムにもなるが,江戸時代以前の日本原産の桃はきわめて小粒で、重さは20ー70グラムほどであったといわれるのである*43。
そして、この女が桃を差し出している理由は、単に、それを病人に食べさせようというのではない。病臥する男は詞書きに「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬ((紙衣))きたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」とあるように、小法師が登場する幻覚神経症に悩んでいる。女が桃を差し出しているのは、その魔を払うためであった。
ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である。これは「桃」によって水を浄化しようとする呪術を意味していたのではないかというが、中世において「桃」と「水」の連想関係が現実に存在したことを明示しているのである。柳田国男は論文「桃太郎の誕生」において、桃太郎民話論を追求する上で、「無闇に子供のように桃というただ一つの特徴を把えて、桃の話ばかり捜してみよう」としてはならないと述べている*44。これは、当時の好事家的な興味関心に対する批判として傾聴するべき面があるが、しかし、桃太郎民話を実際の史料にそくして考えるという立場からすると、この考古学的事実は、川上から「桃」が流れてきたという民話の語り口の背景をなすものとして無視することはできない。柳田国男自身が、同じ論文で、次のように述べていることは、やはり重要である。
元は恐らくは桃の中から,又は瓜の中から出るほどの小さな姫もしくは男の子,即ち人間の腹からは生まれなかったといふことと,それが急速に成長して人になったといふこと,私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居るのみならず,諸社根元記の載録する倭姫古伝の破片にも,姫が玉虫の形をして筥の中に姿を現じたまふといふことがあるのである。それから今一つは水上に浮かんで来て,岸に臨む老女の手に達したといふこと,是が又大切なる点ではなかったかと思ふ.海から次第に遠ざかって,山々の間に入って住んだ日本人は,天から直接に高い嶺の上へ,それから更に麓に降りたまふ神々を迎へ祭る習はしになって居た.だから又谷水の流れに沿うて、人界に近よろうとする精霊を信じたのであった.
つまり、柳田は桃太郎民話の直接の背景には「天から直接に高い嶺の上へ、それから更に麓へ降りたまう神々」が、さらに「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」となって訪れるという観念があるというのである。中世遺跡における「桃と水」の関係という事実を前提として、この柳田の見解をうけとめようとすると、最大の問題は、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたかにあるだろう。
和歌森太郎が「三月三日の行事全体が水の精霊祭」であると述べているように*45、おそらくそれは季節的には、三月三日の桃の節句の時期であったのではないだろうか。貴族の年中行事でこの節句が「上巳の祓」と「曲水宴」、つまり、川面に出ての祓えや川遊びの宴を内容としていたのは、この節句の水祭としての性格を示している。それは伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』や『皇太神宮年中行事』などによれば、古くから桃の花びらを浮かべた酒を飲み、草餅を食べるという風雅な節句であった。そして史料は少ないものの、庶民の間でも、その草餅をつくるための草摘みの野遊びも古くから行われていた(『文徳天皇実録』嘉祥三年五月五日条)。この春の野遊びは貴族の「曲水宴」に対応するような川遊びや潮干狩りを含んでいただろう。史料に頻出する三月三日の節料は、上記の草餅などの他、この海川の初穂を含んでいたに違いない。特に海は、この日ちょうど一年で最大の大潮の時であり、『延喜式』(内膳職)などに知ることのできる漁民の三月の節料は、引潮で現れた広大な砂洲・磯をあさった貝や海藻などからなっていた筈である。
そして、三月は、水ぬるむ季節になるにしたがって、潅漑用水路の整備・修復が本格的に開始される季節である。この節句は潅漑労働の事始めの農休みだったのである。戸田芳実氏が解明したように、先だって二月には「二月田の神祭」が行われているが、その実態は「あらをだのなはしろみづのみなかみを かえるがえるもいのるけふかな」という和歌などが示すように、やはり山から降る流水を祭る「苗代祭り」「水口祭り」であったという*46。そして、この田の神は「右兵衛督忠公月令屏風」に、「仲春たかへする所あり、柳のもとに人々あまたいてみる、たのかみまつる」とあるように、柳の下に勧請されたものであったらしく、また、田の神の依代としての「石」が丸石から道祖神の石像や夷・大黒の像などにいたる多様な形を取り、それが民俗社会における「石」の呪力の基底に存在していたことはよくよく知られているから、おそらくそれは『信貴山縁起』に描かれた、図(25)のような「丸石」を神体とするものであったのであろう。『信貴山縁起』の石の上に立つ木が明らかに柳であることも、この想定に適合的である*47。
そしてこの『信貴山縁起』の場面で興味深いのは、近くの人家の垣根にピンクの桃の花が咲いていることである。田の神を祭って本格的な農作業の季節に入った人々は、桃の花の開花をみながら、本格的に灌漑労働にとりかかっていったのではないだろうか。そして、人々は、桃の実の成る旧暦六月頃まで、自己自身の労働によって「水」と深く関わり合うのである。近世の神祇書によれば、「桃の守り」とは、厄病よけのために桃の若実を五月五日にとって乾燥させたものというが*48、「桃」は、そのような水の季節を連想させる果花樹であったのである。
Ⅵ桃太郎と一寸法師
①感精伝説と守宮神
以上、「キビダンゴ」「武勇と太刀」「桃」という桃太郎民話の諸要素を個別に検討してきたが、それらを総合して中世における桃太郎民話の深層と原型を探るためには、柳田国男が「小さ子物語」と名付けたものの分析を欠くことができない。柳田は右にも引用した論文「桃太郎の誕生」の一節で、次ぎのように述べている。
私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居る。
この柳田の「小さ子」という用語は、『日本霊異記』(上の三)にみえる,雷とともに天から「小子」が落ちてきて女を妊娠させ,頭に蛇をまとった赤ん坊が生まれて,異様に強力な男に成長したという説話などから来ていると思われる。つまり「小さ子」=雷神の精霊という図式が柳田が構想したものなのである。そして雷神が水神であることはいうまでもない。雷神は一般に「龍神」「蛇神」として表現されるが、別稿でみたように*49、中世の史料には梅雨や台風の出水にともなって多数の蛇が山から下流に下っていく様子が報告されており、人々は「蛇」、そしてその「祖」としての「龍」をもって水神と考えていたのである。私は先にみた田の神の神体としての「丸石」は、本来は、この龍のもつという「珠」「玉」を意味したのではないかと考えている。
しかし、この「小さ子」という言葉は、それ自体としては「侏儒」=小人という意味であった(『書言字考節用集』四)*50。ようするに、「小さ子」物語とは、それ自体としては世界各地に分布する小人伝説の一つなのであって、そういう観点から割り切っていえば、桃太郎民話の中にひそむ「仙果と小人」という話型自体は、たとえば白雪姫伝説における「リンゴ」と「七人の小人」と変わらないことになるだろう。さすがにそこまではいっていないものの、そのような普遍論的な見方は、柳田の仕事を引き継いだ石田英一郎の見解では、特に強調されている。その点で、ややもすれば神秘化して受け取られる余地のある柳田の言説と対比して、石田の研究はきわめて重要な意味をもっているのであるが、石田によれば、日本の小人伝説の特徴は、王権の始祖を「龍蛇の裔」に求める東アジアから沿太平洋にひろがる古代信仰の一部であることにあった。たとえば、『南越志』には、端渓の人、温氏の媼が水中にえた不思議な卵が、守宮に変異し、さらに龍にかわって、媼のために働いたという龍母伝説が載せられており、そのような事例はきわめて多いという*51。そのもっとも著名なものが、たとえば漢王朝の始祖・劉邦(りゅうほう)は母が雷電に感じて受胎したという感精伝説であろう。そして、問題は、このような観念が日本王権の内部にも存在したことであって、たとえば,雄略天皇が后と「婚合」している最中,その場に小子部(ちひさこべ)栖軽というお付きの従者が誤って踏み入ると同時に雷がなり,ことを妨げられた天皇が激怒したという話が知られている。そして、咎められた栖軽は天皇の「汝、鳴雷(なるかみ)を請け奉らむや」という命令によって、雷雲を追跡し、「天の鳴雷神、天皇請け呼び奉る」と叫んで、落ちてきた雷神を捕まえ、それを「■(挙の下に車)籠(こしこ)」に入れて宮廷に連行したというのである*52。この説話には、一方で、雷鳴の時の性交、そしてその性交によって生まれた子どもは特別な意味をもっていること、他方で、小子部=侏儒は、雷神を統御しうる異能をもつ存在であり、その意味で雷神に通ずる存在であることなどの感精伝説にかかわる王権神話を示している*53。
古代と比べて中世の王権は、より文明化されており、雄略天皇の場合のように明瞭な逸話は残っていないが、しかし、このような観念は中世にまで伝えられていたと考えられる。それを示唆する史料の第一は、孔雀は「雷の声を聞いて孕む」という言説との関係で、知足院関白藤原忠実が「雷するにおそれなき物」として、「人界には転輪聖王」と述べたと伝えられることである(『中外抄』上)。これは王の身体と性についての中世の仏教的言説の一部であるといってよいだろう。第二は、王の性の場所を象徴する清涼殿の塗籠・「夜の御殿」に棲み、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊、「守宮神」といわれた霊威の性格であって、別稿でみたように*54、一方で、それは「夜ノ御殿ノ傍、塗籠ノウチヒラヒラトヒラメキ光りケレバ」という雷光、稲光を発散する天神としての性格をもち、他方で「七八歳バカリナル小童」の姿をとる小人神でもあったのである(『続古事談』五、諸道)。中世の王の性の周囲に雷鳴と小人の観念が残っていたことは確実であろう。第三は、鎌倉時代、ある貴族の日記に残されていた噂話であって、それによれば、京都二条堀河の武士の宿所に落ちた雷が「小法師」となって、大勢の見物人がみている前を内裏の方向に走っていったという(『平戸記』寛元三年正月一二日条)*55。後にふれるように、ここで雷神が「小法師」といわれていることは興味深い問題を示唆するが、彼が内裏の方向に走り去ったということからすると、これも王権と雷神小童の関係を示す神話の一部として理解できよう*56。
このような神話・伝説は、江戸時代になっても,金太郎は山姥が雷鳴によって受胎してうまれた子どもであるという俗説になって残っているのであり、桃太郎民話の中に、このような伝説が流れ込んでいることは十分に了解できるのである*57。
②お椀の舟・針の刀・茶袋
桃太郎民話、桃太郎伝説の背景には確実に中世社会の現実のイデオロギーが存在していたといわねばならないだろう。もちろん、以上の検討によっても、桃太郎民話が、はたして中世において実際に物語られていたかどうかは論証することはできない。しかし、ここまでくれば、すくなくとも桃太郎伝説に近い民話が存在していたことを想定することは許されるのではないだろうか。そして、何よりも強調したいことは、これまでの分析をふまえると、『御伽草子』の一寸法師譚を、桃太郎民話の類話としてとらえることが可能となることである*58。
何度も参照した文章ではあるが、柳田は「私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居る」と述べている。そして、ひるがえって考えてみれば、そもそも桃太郎と一寸法師は、なによりも子どものない祖父(おじ)と祖母(おば)のもとに誕生し、鬼退治に出かけたという点で同じ設定から出発した物語である。それはどちらも中世社会において広汎に語られていたと想定される「祖父(おじ)・祖母(おば)之物語」(『異制庭訓往来』)であり、「鬼ヶ島」譚であるという点で話の枠組みを共通しているのである。また第二に重要なことは、柳田の言い方をかりれば、どちらも「水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」として共通した性格をもっていることである。つまり一寸法師も桃太郎と同様に、旅の道行きが民話の語り口の中心になっているが、それは水上の旅行であり、しかも桃太郎が桃に乗って流下したのと同様、一寸法師も「お椀の舟と箸の櫂」に乗っているのである。「桃」と「お椀」は、古代神話的ないい方をすれば、両者とも「目無堅間」の籠であって、民話的な乗り物の性格として大きく変わる物ではないであろう。そして、第三に注目すべきなのは、一寸法師の出発の扮装であって、それは次のように描かれている。
(親に嫌われ、そういうことならば)何方へも行かばやと思ひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つうばに請い給へば、取り出(いだ)したびにける。すなはち麦はら((藁))にて柄鞘をこしらへ、都へ上らばと思ひしが、自然、舟なくてはいかがあるべきとて、又うばに御器と、箸とたべと申うけ、
『御伽草子』の一寸法師では、親に「化物風情(ばけものふぜい)」と思われ、それを口惜しがって旅に出たことになっているが、そのような筋立ては、桃太郎民話の場合にもあるので異とするには足りない。つまり、どちらの場合も、旅立ちに際して親かからは無価値なものが与えられているのである。相違は、それがキビダンゴか「針・麦わらの鞘・お椀」かであるにすぎない。そして、特に重要なのは、ここでは明瞭に「太刀」が登場していることであって、針というイミテーションであれ、「化物風情」が「太刀」をもち武勲をあげるというプロットは、桃太郎・一寸法師に共通しているのである。もちろん、この場合、桃太郎・一寸法師の背後に「鬼ヶ島」観念を自明のものとする排外主義的な観念を想定することもできるし、また人々が太刀を腰に差して立身をこころざした時代を反映しているということもできる。しかし、同時に、一寸法師譚の中に、桃太郎民話と同様、武士の象徴としての「太刀」という観念に対するパロディーをみてとることもできるのではないだろうか。私は、民話の中に隠された社会意識は、それなりに複雑なものとみなければならないと思う。
以上を確認した上で、あらためて注目されるのは、一寸法師譚も一種の交換説話としての側面をもっていることである。管見の限りでは、これまで、一寸法師が「茶袋」を持っていたことは注目されてこなかった。彼は、その中に「精米」を蓄えていたのである。『御伽草子』を引用しよう。
あるみつもの((ママ))の精米取り、茶袋に入れ、姫君の臥しておはしけるに、謀をめぐらし、姫君の御口に塗り、さて茶袋ばかり持ちて泣き居たり、宰相殿御覧じて、御尋ねありければ、「姫君の、わらはがこの程取り集めて置候精米を、取らせ給ひ御参り候」と申せば、宰相殿大きに怒らせ給ひければ、案の如く姫君の御口につきてあり、「まことは((に))いつはりならず、かかる者を都に置きて何かせん、いかにも失なふべし」とて、一寸法師に仰せつけらるる、一寸法師申しけるは、「わらはが物を取らせ給ひて候ほどに、とにかくにも計らひ候らへとありける」とて、心のうちにうれしく思ふ事限りなし。姫君は、ただ夢の心地して、あきれはててぞおはしける。
つまり、一寸法師は、「茶袋」に入っていた精米を姫君の口のまわりに塗り、「わらはが物を取らせ給ひて候ほどに、とにかくにも計らひ候らへとありける」と主張して、姫君の身体を手に入れたのである。茶袋とは「葉茶を入れるのに用いる小さな紙袋」(『日葡辞書』)のことであるが、これによって姫の献身を買うという点では、茶袋の精米は、桃太郎の「お腰につけたキビダンゴ」と同じ意味をもっていたのである。そして、この一寸法師のもっていた茶袋が腰袋の代替物であることは、「針」が「太刀」の貧弱な代替物であったことと同じである。この二つの小人民話、小人の武勇譚に、「太刀」と「お腰につけたキビダンゴ=腰袋」、「針」と「茶袋」という同義のものが、同じ意味をもって登場するのは、桃太郎と一寸法師の民話の深い関連性を示している。
このようにして、両者はほとんど同じプロットの物語であるといっても何の問題もない。そしてそのことは桃太郎民話と一寸法師譚は同じ時代的背景と源流をもつこと、それ故に『御伽草子』の一寸法師が中世に物語られていたとすれば、同じように桃太郎民話も物語られていたであろうことを示している。
③法師と塗籠
さて、最後に図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面をもう一度ふりかえってみたい。病臥する男の枕頭に現れた小法師たちは、詞書きで「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬ((紙衣))きたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」と説明されている。別稿でもふれたように*59、『今昔物語集』(巻二七ー三〇)には、ある親子づれが、方違のために下京あたりの家に宿泊したところ、「夜半ばかりに、塗籠の戸を細目に開けて、其処より丈(たけ)五寸ばかりなる五位ども」が現れて、枕上を襲ったという説話がある。その様子はこの図とまったく同じもので、ちょうど「たけ五寸」という身長まで一致しているのが注目される。そうだとすると、この小人姿のものたちは、『今昔物語集』に「塗籠の戸を細目に開けて」とあるように、屋敷の納戸=「塗籠」に棲む霊、守宮神の姿をも示しているということになる。このような「小法師」姿の寝室霊が、後の座敷ボッコ、座敷童子幻想に通ずるものであったことは明らかであろう。
特に興味深いのは、『病草紙』の詞書きが、これらの塗籠の小人を「法師」と呼んでいることである。そして、前述したように、鎌倉時代に武士の宿所に落ちた雷神も「小法師」の姿をして内裏方面に走り去ったといわれている。このことは、古くから寝室霊と雷神の双方が同じ「小法師」のイメージをもっていたことを示している。この「小法師」という言葉は、横井清の検討によれば*60、「年若い僧」という一般的な意味のほかに「中世・近世に宮中の清掃などの雑役にしたがった身分の低い人」という意味がある。これは一寸法師が、なかば賎視された奉仕者、「いっきょうなるものにて有けり」「げにもおもしろき者なり」という道化として、貴族のもとに雇用されたことに対応しているのではないだろうか。
私は、図(23)に描かれた小人たちの姿は、明らかに『御伽草子』の「一寸法師」の名前やその姿形の由来に関係していると思う。人々は、一寸法師の姿をこのような寝室霊と二重化してイメージしていたのである。それは一種の寝室幻想であったといえよう。そして、一寸法師が、こういう寝室幻想と通底する存在であったことは、そもそも一寸法師が、子どもに恵まれない爺と婆が住吉明神に祈誓してさずかった「申し子」であったことからもいえることであると思う。
私は中世の物語・民話の一定部分を寝室幻想(そして密室幻想)の物語として類型化することができると考えている。今、詳細を論じる用意はないが、この話型はさらに大きくわけて中世の民話の基本をなしたと考えられる祖父(おじ)・祖母(おば)の物語と、「大歳の火」「見るなの座敷」などの密室宝物物語*61に分類できるだろう。それは一つの家族の秘密としての性や富にかかわる幻想形態であって、桃太郎民話が前者の祖父祖母の物語、寝室の回春幻想に属することはいうまでもない。図(23)が示すように、塗籠・寝室の霊威と「桃」の呪力をもって関係した人々が、その幻想の中で、桃の呪力によって撃退される小人のみでなく、逆に桃の呪力を体現する小人を想像するのは自然な成り行きなのである。大きくいえば、それは王家の寝室幻想とイデオロギー的なスタイルを共通するものであり、いわば庶民的なスタイルにまで薄められた雷神感精伝説であったのである。
柳田の説によりながら、私は、前節の最後で、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたのであろうかと自問して、その季節が晩春三月の桃の節句であったのではないかと述べたが、以上が、「どのような場で」という自問に対する答えである。
*1柳田国男「桃太郎の誕生」『定本柳田国男集』第八巻、筑摩書房、一九三〇年の講演。
*2石田『桃太郎の母』講談社学術文庫版、一九八四年(原著は一九五六年刊行)
*3五来重『鬼むかし』角川選書、一九九一年(原著は一九八四年刊行)
*4滑川道夫『桃太郎像の変容』、東京書籍、一九八一年
*5中内敏夫「教材『桃太郎』話の心性史」『叢書 産育と教育の社会史Ⅰ 学校のない社会 学校のある社会』、新評論、一九八三年
*6岩波文庫。この史料については千々和到氏の教示を受けた。
*7ここで燧という場合には、火打石と火打金(火鎌)の両者を意味したものであろう。柳田は次のように述べている。「(火打金について)旅をする人には袋に入れて腰に下げられるように、小さく手際よくこしらえたのもあって、こういうのが三つか四つ、どこの家にも転がっていたのです」(「火の昔」『定本柳田国男集』第二一巻、筑摩書房)。また中世の鎌倉から出土している火打鉄については、「発火具で多く出土するのは『火打鉄(鎌)』と燧石である。火打鉄のほうは中央のもり上がった舟形の側面の鉄板で、丸みをもつ下端がやや厚く作られている。もり上がる上部は透かし彫りふうの唐草文で飾られる場合もあるが、頂上に一孔があり、紐か房を取りつけられるようになっている」という報告がある(河野真知郎『中世都市鎌倉ーー遺跡が語る武士の都』、講談社選書メチエ、一九九五年)。附茸というのは、火口・ホクチであるが、おそらく火打袋は、これが詰め込まれてふくらんでいたものと思う。
*8『絵巻物による日本常民生活絵引』平凡社
*9なお、『絵引』(③四一頁)は『粉河寺縁起』、第二段(第八紙、第二〇断片)のお堂の前で観音を拝む男の腰に腰袋があるとするが、これは袴の脇開の部分が丸く描かれているのを誤解したもの。図⑱にはその直前の第八紙、第一五断片の図像をかかげた。『粉河寺縁起』における腰袋の画像は、この一点のみである。
*10なおこのような袋一般の問題については、「袋」(弘文堂■■■)で研究課題の概略をのべたことがある。また保立道久「『大袋』の謎を解く」(『中世の愛と従属』、平凡社、一九八六年)、湯浅治久『』東京堂出版
*11なお、火打袋でなく、燧石自身に関わる神話・伝説の存在も注目すべきである。柳田国男は「多くの生石伝説に伊勢又は熊野から燧袋に入れて持って来た大岩を説くのも、同じ(石が成長するというー保立注)思想の変形かと思ふ」として、大岩が燧石の成長したものであるという事例を紹介し(「巫女考」『定本柳田国男集』第九巻、筑摩書房)、また火打岩がダイダラ坊の燧石であったという伝説も紹介している(「ダイダラ坊の足跡」『定本柳田国男集』第五巻、筑摩書房)。「古宮ノ岩ハ燧石ニシテ村人屡々来リテ之ヲ虧キ取ルガ為ニ、此ニハ馬蹄ノ跡ノ残レル者無キナリ」(「山島民譚集」(馬蹄石)『定本柳田国男集』第二七巻、筑摩書房)というような伝説をはらむ燧石は各地に存在したにちがいない。
*12鞘口につけられた栗形という穴のあいた刀装品から下がっているのが普通である。なお、この栗形が帯に引っかかっるので、刀はずりおちないことになる。
*13後者の「杖頭に懸けて」というのは、杖の頭部に銭緡をひっかけて持ち歩く風俗をいうのであろう。京都府加悦町の施薬寺所蔵の与謝蕪村筆「方士求不死薬像」には、そのような風俗をみることができる。この絵は、中国に題材をとった江戸時代の絵画であるが、おそらく、このような図像のもとになった中国絵画が存在するのではないかと思う(この画像は京都文化博物館の展示『ほとけ・さむらい・むら』、一九九二年七月、図録掲載番号98番でみることができる)。なお、『年中行事絵巻』巻四には、鹿杖をもった念仏聖が描かれている。図版が不鮮明で明瞭ではないが、その鹿杖には数珠・経巻の外に銭のようなものが懸けられているかのようにもみえる。数珠を杖の頭に懸ける絵はほかにもあるから、同じような形態をもつ銭緡を杖に懸けて運搬することはあったとみてよい。
*14なお、少し脇道に入るが、御堂の中の丈六の地藏自身も、土で作り、「千人の手跡をとりあつめて、御はだへをはハりたてまつり、御身の中には、両界の曼荼羅をはじめてもろくの経をかミにも石にもかきてこめたる」というものであった。このことは、この地藏自身、おそらく民衆から反古を集めて膚を塗り、経石を胎内に納めることを売り物にした広汎な勧進によって作られたものであり、勧進の成果であったのであろう。また、このことが文字文化の民衆への浸透を物語っていることも興味深い。一般に文字文化の発展と貨幣の流通は相互に支え合っているはずだからである。
*15今谷「一服一銭の茶」(今谷明『京都・一五四七年』、平凡社、一九八八年)。なお今谷の仕事によれば、史料に残る一服一銭の茶屋はほとんどが寺社の境内や門前に営まれていることも参考になる。
*16渡政和「絵画資料に見る中世の銭」、『埼玉県立歴史資料館研究紀要』一五・一六号、一九九三・一九九四年
*17書陵部所蔵、鷹司家旧蔵本■■■■■■。参照、奥野高広「京都の町座」(『歴史地理』八三巻四号、一九五二年)。豊田武『座の研究』(同著作集①、一一三頁、吉川弘文館、一九八二年高橋康夫「中世都市空間の様相と特質」(『日本都市史入門』①東京大学出版会、一九八九年)も参照。ただし腰座=腰袋座という推定は保立に責任がある。
*18なお『絵引』は「火打袋?」としている。たしかに、中世の普通の火打袋とは、若干、形が異なっており、後にふれるような巾着に似た形状をしているようにもみえる。もしそうだとすると、部分的であれ、腰袋の巾着化が『福富草紙』の成立時には進展していたことになる。
*19古代では前沢和之「古代の皮革」(大阪歴史学会編『古代国家の形成と展開』、一九七六年、吉川弘文館)があるが、中世の皮革産業については研究がない。当面、豊田武『中世日本の商業』(同著作集②、吉川弘文館、一九八二年)を参照。
*20両者とも『沙石集』(巻九)。前者の話は駿河国原中宿で女性が水浴の際に護袋を忘れたという話。後者の話は「宋朝」で評判になった事件についての「近年帰朝の僧の説」として載せられている。「袋」の中に「銀」が入れられているという細部は、日本の貨幣文化の史料として評価可能であろう。
*21黒田日出男「腰に差す物」(『姿としぐさの中世史』、平凡社、一九八六年)。なお、腰刀という用語の初見は管見の限りでは、『今昔物語集』(二五巻四)にある。また文書では『平安遺文』三三五八、『鎌倉遺文』三四、二六四九七などがある。後者は強盗に腰刀を取られたという史料。
*22なお、先に引用した火打袋に関する『絵引』の解説には「火打袋ははじめはこの図に見られるように刀も帯びない丸腰につけていたものであるが、後には刀の鞘につけるようになった。鞘に孔をあけ紐の付けられているのはこれを吊る紐をつけるためであった」という指摘がある。火打袋は丸腰につけられている形から、腰刀に下げられる形に時代的に変化するというのである。たしかに、先にふれた「皇朝十二銭」の時代の銭袋は、おそらく丸腰につけていたのではないかと思われる。また平安時代には先にもふれた「■(竹鹿)子」「燧笥」のような木製あるいは竹製の小箱・小籠もよく利用されていたようで、その場合も丸腰につけられていただろう。そして、『絵引』がいうように図①の『伴大納言絵詞』の腰袋は丸腰につけられているが、『伴大納言絵詞』を点検してみると、そこに描かれた庶民はそもそも腰刀をしていない。画家は、腰刀を差さない庶民の姿を古体な風俗として、『伴大納言絵詞』の舞台となった九世紀の応天門の変の頃にふさわしいと考えていたのかもしれない。それに対して、『絵引』も引用する紀貫之の和歌、「折くに打てたく火の煙あらば心さすかをしのべとぞ思」(『後撰集』一三〇四)にみえる「さすが」が、もし「刺刀」=「腰刀」の意味をかけていたとすると、すくなくとも貫之の頃には、腰刀と火打袋がセットとなっていたことになるだろう。ただ、この和歌は、「陸奥へまかりける人に、火うちをつかはすとて、書きつけ侍ける」という詞書きに続くものであるから、日常の姿というよりも、旅装としては腰刀と腰袋がセットになっていたということであり、また「さすが」=「刺刀」という解釈は、藤原為家の『古今為家抄、または『後撰集正義』に由縁するもので別の解釈もありうるので、確定的なことはいえない。たとえば、『古今要覧稿』(器財部、火打袋)や『古事類苑』(兵事部、刀剣三)も「さすが」=「刺刀」という同じ解釈をしているが、『CDーROM版八代集』は「心ざすか」を「『心を籠めてお送りする香』に『そうはいうものの(遠く離れたというものの)』の意の『さすが』を掛ける。貫之集には『同じ少将、物へゆく人に火打ちの具して、これにたきものを加へてやるに、よめる』とあって、『薫物』の縁で『心ざす香(私が心を籠めてお贈りする香)を偲んでください』という意であることがわかる」と解釈している。また私見では、この「さすが」は「金交具」(かこ、かねへんと交の字を横に並べた字)の一部としての刺金(さすが)(ベルトの金具環の真ん中にある金串)を意味した、つまり、この貫之の和歌で歌われている火打袋は止め金具つきの構造をもっていた可能性もあるのではないかとも思う。『伊勢物語』(一三)に「むさし鐙さすがにかけて頼むにはとはぬもつらし、問ふもうるさし」とあるが、同じ言葉の遊びではないだろうか。本稿では意味の確定はできないので、御教示を請いたい。
*23『草戸千軒町遺跡発掘調査報告』Ⅴ、一九九六年、3,金属製品、(志田原重人執筆部分)。この報告書の分析は、視野が広く、中世の腰刀についての必読文献である。また『佐助ヶ谷遺跡(鎌倉税務署用地)発掘調査報告書』一九九三年(4装身具、斉木秀雄執筆)も参照。どちらの遺跡でも腰刀を日常的に研いでいたことを想定するに足りる大量の砥石が発掘されているのも注目される。なお、腰刀の考古学的分析については、下津間康夫氏の教示を受けた。記して感謝したい。
*24河野真知郎前掲書、一八六頁
*25保立「塗籠と女の領域」、同『中世の愛と従属』所収、平凡社、一九八六年
*26『一遍聖絵』(『日本の絵巻』、中央公論社)。一六二・一六三頁、一六八頁、一八五頁の三箇所。
*27「中世民衆のライフサイクル」『講座日本通史⑦中世Ⅰ』、岩波書店、一九九三年
*28その外にも、たとえば『公忠集』に「い中へくだる人のもとにしろきふくろをあをきものしてすりて、ひうちをいれてやるとて」として、「うち見ては、おもひ出よと我やどのしのぶ草してすれるなりけり」という和歌がある。また『後撰和歌集』一三〇九にも「遠き国へまかりける友達に、火うちにそへてつかはしける」という詞書きで、「このたびも我を忘れぬ物ならばうち見むたびに思いでなん」という和歌がある。
*29前掲『草戸千軒町遺跡発掘調査報告』Ⅴ
*30この画像の腰袋に銭が入っていることの指摘は渡政和前掲論文にある。
*31藤木久志「落書・高札・褒美」同『戦国の作法』平凡社、一九八七年
*32なお、この問題は有名な「諸国百姓等、かたな・わきさし・ゆみ・やり・てつはう、其外武具のたくひ所持候琴、堅御停止候」という一五八八年(天正一六)に発布された秀吉の刀狩り令の評価とかかわってくる。刀狩令の前提となった条件こそ、上記の二重の事態であったのではないだろうか。塚本学『生類をめぐる政治』(平凡社選書、一九八三年)が近世の村にも鉄砲などの武具が存在することを指摘して、刀狩令の再検討の必要を主張したことをうけて、最近、藤木久志は、以下のような主張を展開している。中世に「武装する自力の村」が存在し、それは近世にいたっても全面的に否定されることはなかった。刀狩令をふくむ豊臣平和令の歴史的課題は、村落相互の争いによる絶えざる流血という中世的な自力の惨禍から人々を解放することであり、村落の武装権から「人を殺す権利」は剥奪したものの、自力救済権そのものを否定することはなかった。そのために、百姓はそれに同意を与えたのである、と(藤木『豊臣平和令と戦国社会』、一九八五年、『村と領主の戦国世界』一九九七年、どちらも東京大学出版会)。しかし、本稿では、中世後期の地域的武装は、一方で個人的・日常的な武具携帯の消滅、他方で地域社会内部からの「刑吏」的な武装者の簇生という、中世前期とは異なる歴史的特徴をもっていると把握している。刀狩りによって武装解除された丸腰の近世民衆というイメージが事実に反するのと同じように、少なくとも中世後期の地域社会においては、武具、腰刀、さらに太刀の所持自身が「百姓の武装権」といえるほどにまでに一般的であったとは考えられない。ここは、この問題を詳論する場所ではないが、このような事態を分析するためには、「刑」と「武」と暴力・犯罪身分の諸関連を、その階層性をふまえ、地域社会にそくして新たな形で解析することを課題としたい考えていることは付言しておきたい。
*33柳田は「餅を背中に負うて持って行って食わせたといい、或いは米を袋に携えて夜の床で共に噛んだということなども、おそらくはその婚姻の合式確実のものであったことを語るので、従って桃太郎の黍団子ないしは舌切雀の糊なども、今は童話化して全然別の目的に用立っているけれども、事によるとこれもまたかってこの語りごとの中に、求婚成功の一節があった痕跡であるのかも知れぬのである」と述べている(「田螺の長者」『定本柳田国男集』第八巻、筑摩書房)。つまりキビダンゴは婚資としての意味をもっているというのである(なお、柳田は「米を袋に携えて夜の床で共に噛んだ」というのが一寸法師の「打撒の米を入れた袋」に通ずるとしている。これは後に述べるキビダンゴと打撒米の同値性の問題にかかわる。また婚資としての意味をもつ餅の問題については、本書■章「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」を参照)。これとは、まったく逆の発想であるが、五来前掲書は、「キビダンゴ」の原型を霊供としての粢団子のであるとし、これをもって鬼を饗したのが転じたものとする。いずれにせよ、キビダンゴに特定の意味がこめられていたことは確実である。
*34柳田国男「猿と蟹」『定本柳田国男集』第六巻、筑摩書房
*35藁しべ長者譚についても柳田国男「藁しべ長者と蜂」『定本柳田国男集』第六巻、筑摩書房、参照。
*36中世前期における価値形態の問題についての私見は、保立「中世前期の新制と沽価法ーー都市王権の法、市場・貨幣・財政」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年)を参照。なお、藁しべ長者譚においては、『今昔物語集』においても『宇治拾遺物語』においても、男が所得した布を「脇に挟む」で歩き出すとされているのは興味深い。布は「脇に挟んで」持ち歩くものだったのである。
*37武士の本質が犯罪とかかわって発生する刑吏身分であったという考え方については、保立「日本中世の諸身分と王権」(『講座前近代の天皇』③、青木書店、一九九三年)を参照されたい。また「もの」という語素を含む言葉についての私見は、本書第■章「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」■■■頁を参照。
*38なお、この問題については、村井章介『アジアのなかの中世日本』校倉書房、一九八八年を参照。
*39平安時代に発生した鬼ヶ島のイメージが『御伽草子』の成立時期まで、どのように「成長」していったかについては、黒田日出男「政治秩序と血ーー『御曹司島渡』のイデオロギー」および「知恵比べとしての外交と鬼ーー『吉備大臣入唐絵巻』」(両者とも黒田『歴史としての御伽草子』ペリカン社、一九九六年、所収)を参照。
*40「爰■■削桃木札、書写急急如律令文、令弾指、彼牒収賤女袂中」とある。なお、ここにいう「弾指」とは指をはじいて音を出す呪術的手技をいう。なお同じような史料としては、追儺の時に、破邪のために葦の矢とともに使用した「桃の弓」がある(『内裏式』(『群書類従』公事部)十二月大儺式に「□(門がまえに韋)司二人、各持桃弓・葦矢」、『左経記』治安二年一二月三〇日条に「陰陽寮取葦矢・桃弓等、奉上、」とある)。
*41水野正好「『護符』の成立と展開」、『歴史と地理』四四二号、一九九二年六月。なお、水野論文には蘇民将来の札の材質についての分析はない。それが桃木製であったというのは、私の推定に留まる。
*42『病草紙』解説(『日本の絵巻⑦ 餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻』、小松茂美執筆)。小松は「傍らから女房が枇杷の実をすすめるが、閉じた眼を開こうともしない」と解説する。
*43『週刊朝日百科・植物の世界』(モモ・アーモンド・ウメ)51号。一九九五年
*44注1前掲
*45和歌森太郎『年中行事』(日本歴史新書)
*46戸田芳実「10-13世紀の農業労働と村落」、同『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年
*47なお、この画像は、これまでもっぱら道祖神の神体であるとされてきたが、道祖神と田の神の神格には深い関係があることはいうまでもない。そして、この丸石の回りに幤・斎串がさされている様子こそ、「右兵衛督忠公月令屏風」が「たのかみまつる」と描写した風景なのではないだろうか。そのようによく知られた画材が絵巻物にも反映している可能性は高いと思う。
*48「神祇伯家行事伝」『古事類苑』神祇三六、所引。
*49保立「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』②、岩波書店、一九八七年
*50なお、「小さ子」という言葉は『御伽草子』の「御曹司島渡り」でも使用されている。
*51前掲石田『桃太郎の母』二〇五頁
*52『日本霊異記』上の一(中田祝夫校注『日本古典文学全集』小学館)。この■籠は雷神の神座であったと考えられる。この■の訓「コシ」は興福寺本の古訓であるが、中田はこれを「竹で編んだ乗物」と解釈している。しかし、諸橋轍次『大漢和辞典』によれば、この■という字には「輿」という意味とともに、「食物を運ぶ道具、ホカイ」の意味がある。よって、『延喜式』(巻一、神祇一、四時祭上)の鳴雷(このいかつち)神条に、「祭料」の「輦籠(こしこ)一口、『延喜式』(巻三、神祇三、臨時祭)の霹靂神祭条に、「輿籠(こしこ)一脚」とあるコシコと同じものと思われる。折口信夫は、後者の『延喜式』のコシコについて「供え物を盛った器で、脚あるいは口をもって数えられるところからみると、台の助けをまたずに、じかに据えることの出来るもので、しかも甕・壺のように蓋はなく、上に口をあいていたものと思われる」(「髯籠の話」、『古代研究(民俗学編)』)と述べ、これを移動神座としての「髯籠」の原型としてる。折口は特にふれていないが、問題はこのコシコを供物の盛物、神座として利用する例は、『延喜式』では雷神に限られていることで、また上記の『日本霊異記』の説話からも、コシコ=髯籠が特に雷神の神座と観念されていたことが明らかなことである(なお霹靂神祭条には「若し新たに霹靂神あらば、件により鎮祭し、山野に移棄せよ」とある。この際にコシコが移動神座となったことは明らかであろう)。私は、『竹取物語』において、竹取りの翁が「かぐや姫」を呼び得たのも、彼の籠を編む仕事に関係していたと考える。なお、折口の髯籠論の意味については、本書第■章の「巨柱神話と『天道花』」を参照。
*53これがきわめて古くからの観念だったことは,辰巳和弘『高殿の考古学』(白水社、一九九〇年)を参照。辰巳は豪族居館の考古学的な分析を前提として、奈良の佐味田古墳から出土した家屋文鏡の図像を解析し、雷が今にも落下しようとしている高殿の中には,キヌガサがさしかけられていること,戸がしまっていることなどから首長がこもっており、彼は妃と同衾して神の来臨をまっているとした。また仁徳天皇が,ある朝,高殿の上で国中をみまわし,「民のかまどはにぎわいにけり」という歌を詠んだという話は有名だが、これも仁徳と妃の同衾の場における国見であるという。
*54保立前掲「塗籠と女の領域」。なお、現在の段階では正確なことはいえないが、「守宮神」という名前にも一定の意味があった可能性がある。というのは、「守宮神」の「守宮」とは、「ヤモリ」、つまり、しばしば人間の住居に住み着く爬虫類のヤモリを意味する。このヤモリが、平安時代初期の日本語辞書=『和名抄』では「常に屋壁に在る故に守宮と名づく也」という説明が付され、「龍子」・「蜥蜴」と同義とされているのである。もし、これを採用することができれば、ヤモリは邸宅にすむ龍の子であるということになる。石田の紹介によれば、本文でふれたように『南越志』には「守宮」=ヤモリが登場しており、このような観念は中国で成立したものである可能性が高いから、それによって直接に日本中世の童子神にかかわる意識形態を説明しうるものかどうかは問題が残るが、一応述べておきたい。
*55この史料については高橋昌明『酒呑童子の誕生』(中公新書、一九九二年)を参照。なお、本書にはその他にも「雷」についての有益な分析がある。
*56落雷が天道と王権の怒りを表現することについては、本書第■章「煙出と釜殿」を参照。
*57『前太平記』、高崎正秀著作集第七巻『金太郎誕生譚』、桜楓社、一九七一年。
*58なお、柳田は「一寸法師であれ物臭太郎であれ、ないし竹取の翁の小さき姫であれ、(桃太郎民話とは)事跡も出現の形式も著しく遠ざかっていて、ただその中間に地方採集の幾つかの口承説話を置いて見てはじめて両者の連絡を知ることが出来るのみである」(「田螺の長者」『定本柳田国男集』第八巻、筑摩書房)としているように、一寸法師と桃太郎譚の連続性を強調しており、口承説話の分析の上からは両者を一体のものとみうることをほぼ論証している。本稿は若干視角を違えて同じ作業に取り組んだものに過ぎない。
*59保立前掲「塗籠と女の領域」
*60横井清「夢と現の『小法師』たち」(同『的と胞衣ー中世人の生と死』平凡社、一九八八年)。なお、『沙石集』(巻七ー二二)に、ある僧侶が「弟子の僧一人、小法師一人」をもっていたという話があるのも参考になろう。そもそも「法師」という言葉自体、出家者全体についていうが、日常用語としては、「法師は僧の下にこそ侍るべけれ」(『選集抄』(一六)といわれ、僧の下に位置づけられ、僧への雑務の奉仕を職務とする、いわゆる「公人」的な存在であることも注意される。なお、笠松宏至はこの「法師とよばれる下級の僧侶」は一般に独身者であったが、彼らが性犯罪、強姦罪をおかした場合には、俗人の場合よりも情状酌量する慣習があったのではないかと述べている(笠松「式目はやさしいか」、同『法と言葉の中世史』平凡社選書、一九八四年)。この問題については本書第■章「秘面の女・露面の女」も参照。
*61「大歳の火」についての私見は、保立前掲「塗籠と女の領域」を参照。また「見るなの座敷」ついては、河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波書店、一九八二年を参照。