著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« 首相文書アーカイブ法案の必要について | トップページ | 『老子』二九章。天下は壺の形をした神器である »

2019年2月 3日 (日)

『老子』七四章ーー「死に神」に代わって人を殺す人間は自分を傷つける

『老子』七四章ーー「死に神」に代わって人を殺す人間は自分を傷つける

 もし民衆が死を畏れず決然としていれば、どうして死刑によって彼らを脅かすことができようか。もし民衆が死を畏れながら邪悪な罪を犯せば私が捉えて殺すほかない。私でなくて誰がしてくれよう。民衆がつねに必ず死を畏れるというのは、命を司る死に神がみえるからである。この天然の死刑執行人に代わって殺すというのは、大工の名人に代わって木を切るようなものだ。大工の名人に代わって木を切るのだから手を傷つけないことは稀である。

若民恒且不畏死、奈何以殺懼之也。
若民恒畏死、而為奇者、吾将得而殺之、夫孰敢矣。
若民恒且必畏死、則恒有司殺者。夫代司殺者殺、是代大匠斵也。夫代大匠斵者、則希不傷其手矣。
*本章は帛書によった。

若し民(たみ)、恒に且つ死を畏(おそ)れざれば、奈何(いかん)ぞ殺を以て之を懼(おそ)れしめんや。若し民恒に且つ死を畏れて、而も奇を為す者は、吾将に得て之を殺さんとす。夫れ孰(たれ)か敢(あ)えてせん。若し民恒に且つ必ず死を畏れんには、則ち恒に殺(さつ)を司どる者有るによる。それ殺を司る者に代わって殺すは、これ大匠に代わって断(き)ると謂う。夫れ大匠に代わりて断(き)る者は、その手を傷つけずに有ること希(まれ)なるか。

 本章は『老子』の全章の中で、もっとも現代語訳が難しい、意味を取るのが難しいものだと思う。拙著『現代語訳 老子』(ちくま新書)の解釈では、これは法家への強い批判であると述べた。法家に対して、御前たちは「人を殺すことの怖さがわかっているのか」と難詰したということであると思う。いわば老子の死刑批判である。ただ、老子は本章で邪悪な罪について処刑をするのも「士」の義務であると述べていると私は考えるが、しかし、人を殺すことの怖さを述べているのだと思う。これは現代的に言えば一種の死刑廃止論である。解釈はこの私見にそって考えてよいと思う。裁判官には味読していただきたいものである。
 
 しかし、それにしても気になるのは、老子が「民衆が死を畏れず決然としていれば」という場合に何をイメージしていたかである。老子は民衆の蜂起や抵抗というべきものを目撃したことがあるのだろうか。

 なお、いま改めて、後半部分については「司殺」はおそらく「司命」(星の名)に照応するものであろうと考え直した。その歳、河上公注と蜂屋邦夫注釈を参考とした。蜂屋訳とは依然として趣旨が異なる部分があるが、従来の訳でもっとも上記に近いのは蜂屋訳であるということになる。
 蜂屋先生からはほかに拙著について懇切な指摘をいただいたことに感謝している。

« 首相文書アーカイブ法案の必要について | トップページ | 『老子』二九章。天下は壺の形をした神器である »

東アジア」カテゴリの記事