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atogaki『物語の中世』文庫版あとがき

i『物語の中世』文庫版あとがき 倭国神話論のためにーーー民俗学との関係  この本は、一九七〇年代にさかんだった「社会史」という研究動向の中から生まれたものです。社会史というのは、史料の細部にあらわれる人々の生活や意識に沈潜し、そこから一挙にふり返って社会の全体を一挙に捉え直そうというものでした。日本史でいえば、これは網野善彦・笠松宏至などの中世史研究者を中心とした動きで、この本には、彼らの影響が強く出ていて、たいへんになつかしく感じます。ただ、「社会史」という言葉はヨーロッパ史の側が主唱した言葉で、網野さんなどは、そこから相当の距離をおいていましたから、日本史の側で具体的な研究を行うと同時に、やや先走るように社会史的な方法を強調していたのは、実際上、私ぐらいだったと思います。そういう経過については、最近、『歴史学のアクチュアリティ』(歴史学研究会編、東京大学出版会)で話しましたので、この国の、ここ三〇年ほどの歴史学の研究史に興味のある方は、参照を願えれば幸いです。  しかし、いま、この本を読み直してみて、読者の方に理解していただきたいと思うのは、民俗学との関係です。この本は民俗学の柳田国男・折口信夫の仕事を読み込み、「社会史」の側から受けとめようとする仕事であったと思います。このあとがきでは、そこを現在の時点から追補し、とくに最近考えるようになった倭国神話との関係を述べておきたいと思うのですが、問題は、とくに折口でした。本書の各所に折口批判が隠れていることは、お読みになれば御わかりいただけると思います。しかし、折口は神話の理解について多くの発言をしており、そこに十分に踏みこむことはできませんでした。本書には『物語の中世』という枠がありますから、これはやむをえないことでしたが、私は、これをどうにかして追補したいと感じてきました。「神話・説話・民話」のベースとなるのはやはり神話の世界だからです。  ちょうど本書のもとになる論文を書いた頃に、歴史神話学の重鎮、岡田精司氏が、折口に対して完膚無きまでの批判を展開されていました(岡田『古代祭祀の史的研究』、一九九二年、塙書房)。本書の発行後、すでに一五年が経ちますが、この岡田の仕事をうけて問題を見なおすことは、私にとっては長い間の希望でした。岡田の折口批判の魅力は、折口の史料操作の誤りの指摘から社会的・政治的な立場にまでおよぶ厳しい批判をしながら、同時に折口の視座の独自性を高く評価する、その篤実な姿勢にありました。  私も、及ばずながらそのあとを追いたいということで、実は、最近、倭国神話の全体について、その大枠を見なおす作業を開始したところです。そこで、現在のところ大ざっぱな見取り図ではありますが、以下、そのエッセンスを紹介して、現在の時点での本書への追補ということにしたいと思います。 高皇産霊という神は、火山神・雷神であること  倭国神話の全体像を見なおすという場合、鍵となるのは、倭国神話の至高神の姿を明らかにすることです。現在でも、世間一般では、倭国神話の至高神はアマテラスという印象ですが、それがタカミムスヒという神であったことは、江戸時代の本居宣長によって指摘され、折口も確認し、神話学でも認められていることです。しかし、明治国家が、皇祖神アマテラスの位置を喧伝したこともあって、日本民族は、その神話の至高神が正確にはどんな神であったのか曖昧という状態のままで、この間、過ごしてきた訳です。  これには歴史的な事情がありました。そもそも、『古事記』『日本書紀』の編者自身が「この神は自身から身を隠してしまった」と称して、至高神であったタカミムスヒの姿を曖昧にしてしまったのです。これはタカミムスヒが律令国家のような文明的な国家にはふさわしくないということだったと思います。  そのため、この神の本性はわかりにくく、本居はもっぱらこの神の性格を神名から解こうとして、「ムスビ」の「ムス」は「ムスコ・ムスメ」の「ムス」で生成を意味し、「ビ」は「霊威」を意味するとしました。この神は、物事を「生成する」力をもった「産霊神」であるという理屈です。折口は、その種の理屈が嫌いですので、本居の図式を踏襲しながらも、実態は「結び」の神という点にあると説明しました。  しかし、言語学的に「ムスヒ」の「ヒ」は清音で読むことが明らかとなり、折口の意見は成り立ちません。私は、「ヒ」は「日」=「火光の精」、そして「ムス」の原義は、『字訓』などの用例からしても「熱」という意味であると考えます。熱光の神、つまりギリシャ神話のゼウスと同様に雷神であるということです。これはタカミムスヒが天孫降臨に対する抵抗を排除するために、天から矢を突き降ろしたことにうまく対応します。タカミムスヒは落雷によって立ち枯れた樹(霹靂樹)に宿るものとされ、その別名を「高木神」ともいいましたが、これが本書でもふれた神話的な巨柱と巨樹の信仰に通じてきます(本書第3章)。 天地鎔造神・タカミムスヒは高千穂に降臨した火山神  「核爆発」の火のことをふくめ、いつの時代でも人間の世界観は、「火」を中心に組み立てられていたということでしょうか。本書の重要なテーマの一つに、竃神のことがありますが、このタカミムスヒが「天地を鎔造した」神であるといわれているのは(『日本書紀』顕宗紀)、そこにも関わってきます。この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというですから、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになります。『荘子』(大宗師第六)には天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」という一節がありますが、それが倭国に伝わっていたようにも思います。益田勝実『火山列島の思想』は、八世紀、海底火山の噴火が、雷電の神が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目しています。これも同じことでしょう。  つまり、タカミムスヒは雷神であると同時に火山神だったということです。火山の噴火の時には、火山性の地震があり、さらに黒雲とともに火山雷が鳴り響くといいます。「天地鎔造」というのはまさにそれにふさわしい表現ではありませんか。  私は、有名な高千穂への天孫降臨神話も、その延長にあると考えています。つまり、『古事記』などによると、タカミムスヒは天孫瓊瓊杵尊を真床追衾で覆って、天磐座を押し離し、天の八重雲をおしわけ、稲穂を投げちらし、「稜威之道別道別而」、天の浮橋に「うきじまりそりたたして」、日向の高千穗峯に天降ったといいます。高千穂は火山ですから、この様子は火山噴火の描写として読み解くことができます。つまり真床追衾というのは、史料で「綿のごとき」物などといわれるスポンジ状の火山噴出物。そして天磐座を押し離すというのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージで、八重雲は噴火の噴煙を表現したもの。さらに稲穂を投げ散らすというのも、九世紀の伊豆の神津島噴火で、白い火山灰が各地で「米花」と呼ばれたというのと同じこと。また「稜威之道別道別而」というのは、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということで、火山雷のイナズマを描写したものでしょう。天の浮橋というのは、火山弾の岩雲のことで、「うきじまりそりたたして」というのは、「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」ということで、火砕流、溶岩流の様子でしょうか。  天孫降臨を司令したのはアマテラスではなく、タカミムスヒであるというのは神話学者はすべて一致していることですが、タカミムスヒが火山神であると理解すれば高千穂神話の理解はたいへんに簡明になります。 「根の堅すの国」とは、鍛冶神ヴァルカンの国をいう  さて、本書第一章の「『竹取物語』と王権神話」の続きの位置をもつ拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で詳しく述べましたが、私はいろいろな経緯があって、神道に興味をもつようになりました。そのなかで、『中臣祓訓解』という鎌倉時代初期の神道書を読み、そこに「根国・底国は无間の大火の底なり」という記述を発見しました。  これは『古事記』のいう「根の堅すの国」という観念と同じことに違いありません。この言葉について、本居は「カタス=片隅」という解釈をしていますが、「堅す」は動詞であることが明らかとなっています。「鍛す」とも書きますので、埴輪を焼くための場所を火をつかって物を堅くする場所の意味で「鍛地」というの同じことでしょう(『日本書紀』)。つまり、「根の堅すの国」とは、ようするに「地下の火の国・鍛冶場の国」ということでしょう。神話時代の人々も、マグマという言葉は知らなくても、地球の深部には巨大な火が燃えていると知っていたことは、ギリシャ神話のいう鍛冶神ヴァルカンの国のことを考えてもわかると思います。  そして、日本でヴァルカンにあたるのは、素戔嗚尊と大国主命になります。彼らが地震の神であることは、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で必要なことを述べました。私が神話論の研究をすることを決めたのは、実は、三、一一東日本太平洋岸地震の後に、この本を書くなかで、地震・噴火の歴史は神話の時代までさかのぼって考える必要があることを知ってからなのです。その事情については、それを参照願いたいと思いますが、ここでこの「根の堅す国」に関係して述べておきたいのは、出雲神話のことです。話が飛ぶようで恐縮ですが、東北から下りてきた第四紀火山フロントは、近畿地方で西に方向を転じ、中国地方の日本海側を通って、九州につながっていきます。伯耆大山はそこに属する火山で、歴史時代の噴火の記録は残っていませんが、『出雲風土記』で「火神岳」と呼ばれていることからすると、人々は、この山が火山であることはよく知っていた訳です。  神話時代の人々も、こういう列島の地勢を知っていたのではないでしょうか。ここに、倭国神話のなかでの出雲神話の独特な位置の理由があると、私は考えています。そもそも、「ミトのマグワイ」によってこの列島を生んだと伝えられるイザナミは火山の女神であったというのが、神話学の泰斗、松村武雄の結論です(『日本神話の研究』)。倭国の国土観に火山の影響がきわめて大きかったことは明らかで、しかもイザナミは『古事記』の説明では、その遺体は、「出雲国と伯伎国との堺の比婆山」に葬られ、スサノヲは、母をしたって出雲に降った訳です。私は、この立地は伯耆大山と関係していると考えます。  こう考えると、よく知られたオオクニヌシと因幡の白兎の話もまったく違う視野からみることができます。赤裸になった兎の皮膚を蒲の穂で治したのは、オクニヌシが火山神であると同時に、温泉神として治病の能力をもっていたためであるとされています。しかし、さらに具体的にみると、これは蒲の雄花の黄色い花粉が、実際に治療効果があり、しかもそれが皮膚病の薬として使われた硫黄とダブルイメージになっているためでしょう。小路田泰直氏によれば、オオクニヌシとともに、この列島の国造りにたずさわった小人神・少彦名命(スクナヒコナ)の「スクナ」とは硫黄を意味するということです(小路田『邪馬台国と鉄』)。人々は、オオクニヌシースクナヒコナの神格を、火山ー温泉ー硫黄という連想の下に考えていたに違いありません。ただ、小路田氏は「スクナ」を「酸粉」と理解しますが、これはむしろ「スクモ」(泥炭)という語から理解した方がよいと思います。なお、折口はさすがに天才で、「手のひらにすくもはたけば光るなり」という歌があります(『定本柳田国男集』26巻)。オオクニヌシがはじめて会った時、スクナヒコナを手の中でもてあそんだため、小人神が怒って、オオクニヌシの頬を咬んだといいますが(『日本書紀』)、折口はそれに気づいて、この歌を読んだのではないかと思っています。 大和に侵入した「神武天皇」の神婚のカガイ  タカミムスヒの話に戻りますが、この神は、オオクニヌシに「国譲」を迫り、天孫降臨を司令し、さらにその延長でいわゆる「神武東征」を導きました。実際に、天皇(イワレヒコ)が、大和征服の前後に、この神を祭っています。  面白いのは、大和征服が終了した翌々年、イワレヒコが野原で娘たちに声をかけ、先頭にいたホトタタライススキ姫をつれて河上の家に泊まったという説話です。これが八月のことであったというのが重要で、『竹取物語』によっても、八月は秋のカガイの季節なのです。つまり、イワレヒコ神話には、『竹取』まで続く大和国における男女の出会いの物語がふくまれているのです。問題は、この娘が、三輪山の神が「矢」に変身して溝から厠に侵入して娘の母のホトを突いて生まれたということです。最近、この神が溝から侵入した風情を髣髴とさせるトイレのミニチュアを備えた齋籠の家型埴輪が古墳の造りだし部分にしばしば確認されています。そして、それに対応する「木槽樋」のトイレ遺構が各地で発掘され、それら同時に産屋あるいは神婚儀礼の齋屋の遺構ではないかという意見もでています(黒崎直)。私もそれに賛成で、イワレヒコが泊まった河上の小家も同じような娘宿なのではないかと考えています。  そして、この齋屋に来臨した神も雷神でした。右の三輪山の神(大物主神)は大国主命の後継者で、天孫降臨を前にして天上に昇ってタカミムスヒの娘神をあたえられていたといいますが(『日本書紀』)、龍の姿をもち、やはり雷神でした。ここには雷神=龍神の血が王家の血筋に入り込むという観念が示されているといってよいでしょう。  本書でも、王の跡継ぎは雷鳴時の性交によって宿るという神話を論じました。私は、それこそが本来の「ヒ嗣=日嗣」の観念であったのではないかと考えるにいたっています。なによりも問題なのは、漢の劉邦が龍の血をひくとされているように、これが東アジアに共通する王権の血統観念であったことです(■■■頁)。ただ、ここで追加しておきたいのは、『史記』(周本紀)によると、神龍の吐いた泡を収めた秘函を開けてしまったところ、その泡から守宮が生じ、それが後宮の童女を身ごもらせて生まれた女(褒似)が周王朝を亡ぼしたという有名なエピソードです。  龍神が転じて守宮神となるという訳ですが、これも本書でふれたように、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊が「守宮神」と呼ばれたというのは、こうして直接に倭国神話とその陰に潜む東アジアに普遍的な王権思想に結びつく問題であったことになります(二四二~三頁)。 倭国の王権は海の世界から生まれたのではないか。  さて、以上、もっぱら火山神タカミムスヒの問題を中心に、追加的な説明をしてきましたが、本書では海の世界についても、第二章「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」、第六章「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」で論じました。とくに第二章では、王権と海上世界の関係がきわめて古くまでさかのぼることを述べてあります。  御承知のように、柳田と折口は、この列島にいたる南の海の道を重視していました。とくに折口が倭国の王権には南方の「常世の国」に起源をもつ「水の女」の伝説がまとわりついていることを一貫して強調していました。折口の「水の女」論には、岡田の厳しい批判があって、私も、歴史家としては全面的にそれに同意するものです。しかし、現在の日本にとっての沖縄の位置を考えるたびに、私は柳田・折口の考えたことの視野の広さには感心させられることも多いのです。  これに関係して述べておきたいのが、最近の学界では紀元前後に倭国の政治的中心が九州から近畿地方に移動したと考えられるようになったことです。そして、それとともにいわゆる「神武東征」の背後に何らかの事実があったのではないかという感じ方にだんだん抵抗感がなくなっているようにもみえます。ただ、私は、九州勢力が、長駆、大和を軍事的に征服したというのが事実とは考えられません。むしろ騎馬民族ならぬ朝鮮半島の「海民」の移住を重視する網野善彦氏の見解を前提とすると、列島の王権の萌芽は海の世界にあったのではないかと考えています。  つまり、王家の直接の祖先神であるイザナキ・イザナミは海の匂いの強い神々です。イサナは鯨ですから、この名前は鯨男・鯨女ということになると思います。そして、岡田がその詳細な国生神話の分析において論じたように、この神の故郷は淡路島周辺の海人集団のなかにありました。ただ、この場合の問題は、火山島ではない淡路島に火山神話としての本質をもつ国生神話が生まれたことをどう考えるかということですが、しかし、これは南島から沖縄、南九州に連なり、朝鮮半島にも広がる火山地帯で縦横に活躍する海民が火山神話をもっていたとすれば解決するように思います。淡路から紀伊、さらに伊勢に固有の地盤をもつ海民集団。そして、彼らは海民によくあるように広域的な血縁関係を九州地方南部や朝鮮半島まで広げていたのでしょう。  折口が重視したように、そもそも王権は淡路の海人を「海部馳使丁」として駆使していましたし、両者の間には皇子の養育をふくむ伝統的な関係がありました。また九世紀の氏族系譜、『新撰姓氏録』にこの両神を祖とする氏族がまったく現れないことは、王家それ自身の深層の記憶においてはイザナキ・イザナミの位置が大きかったことを意味します。乱暴なことをいうようですが、これは王権の淡路出自を示唆するのではないでしょうか。私はいわゆる「古代史」の研究者ではありませんので、自由に発言しますが、網野が論じたような「海原」の世界の大きさは神話時代の社会に構成的な影響をもっていたはずであると考えるものです。  こうして、倭国王権が南九州ー北九州ー瀬戸内海をつなぐ海民勢力のなかから生まれた可能性があるとすると、理論的な見通しとしては、王権は石母田正ー網野善彦が強調する通り、地域間・民族間の交通関係から生まれた、あるいは交通形態そのものであったということになります。神話論のみで、こういう議論をするのが適当ではないことは知っていますが、『隋書』倭国伝(開皇二十年(六〇〇年)に「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあることの意味を考えてほしいと思うのです。倭王の姓は「アメ=海」であったのではないでしょうか。日本の天皇家は本来無姓であるとか、「倭」を姓とするという意見が一般ですが、私は、むしろ彼らは瀬戸内の島を出自とするということが記憶に残ることを好まず、もとの姓を隠したのではないかと考えています。王権はまず海民の出身であることを隠し、次ぎに至高神タカミムスヒを隠したということになります。  以上、気になっていた、折口ー岡田の仕事と向き合うという仕事について、さきは長いですが、ともかく、このあとがきで、中間的な経過を報告できるところまで来たことにほっとしています。そして、この追補によって、ともかくも、本書から徐々にさかのぼって古典神話世界を理解し、この国の歴史の解明と神話理解の刷新に新しい道がついていくかもしれないという可能性を読みとっていただければ、たいへんありがたく思います。