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2017年8月
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atogaki黄金国家

あとがき
 本書では、奈良時代後半から平安時代半ばの時期の、東アジアと日本の関係史を、時系列にそって取り扱った。「通説」とは大きく異なっているので、どのように受け止められるかは心配であるが、ともかくも一つの通史的な歴史叙述を提供しようとしたつもりである。そのためもあって、「はじめに」と「序章」では、世界史的な大状況論や方法論を論じるにとどめ、「問題の所在」のような形で、本書の具体的な論点を提示することもしていない。その上、叙述を急ぐ間に、急遽、筆を加えた論点も多く、最初に完成稿を読んでいただいた青木書店の編集者、末松さんに「息をつめて駆けていくような」と評されたハイペースで余裕のない叙述になってしまった。
 そこで最後に、通常とは逆の順序となるが、とくに歴史の研究者・教育者のために、本書が具体的に論証しようとした主な点を、(1)外交史・政治史、(2)「民族複合国家論」、(3)国制イデオロギー論の三点にわけて、まとめておくこととしたい。「はじめに」「序章」での方法論議の点検とあわせて、これらの論点が、はたして論証されているか、あるいは仮説としての価値をもつかどうかについて御批判をいただければありがたいと思う。
 第一に、外交史・政治史にかかわる問題では、まず王の外交大権を表現する遣唐使について、奈良時代の前期遣唐使と九世紀の後期遣唐使の段階的・歴史的相違を、代替りの諸条件に注目して論じた。つまり、当時の東アジア外交の本質が王家相互の外交に求められるとすれば、奈良時代の遣唐使と九世紀の遣唐使の歴史的相違は、天武系王統の時代における皇太子の基本的不在、光仁ー桓武王統の時代における皇太子の常置の維持という事態の中に求められなければならないということになる。また、石母田正が提起した政治史と対外的契機の密接な関連という問題については、それを王権論を中心に捉えなおすという立場をとり、石母田がおもに注目した奈良時代半ばの新羅征討計画の再検討から出発し、光仁ー桓武王統の成立との関連、嵯峨・淳和の迭立問題との関連(恒貞廃太子事件との関連)、宇多ー醍醐王統と寛平遣唐使との関連などについて問題とした。
 これらは政治史の基本にかかわる論点であるが、本書の政治史叙述は基本的な部分で、河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(およびそれを前提とした拙著『平安王朝』)に依拠しており、そうである以上、このような外交史的事実を前提として、将来、もう一度、最初から政治史自身の問題として検証する機会をもちたいと考えている。また、この時期の外交史の展開における天皇の外交王権とは相対的に区別された条件として、佐藤信のいう「大臣外交」という外交制度の展開を想定し、不十分ながら、八世紀の藤原不比等から一〇世紀の藤原忠平へというルートを引いた積もりであるが、これについては九世紀の議論がほぼ欠如しており、これも再検討が必要であると考えている。
 第二の「民族複合国家論」は、石上英一の提唱をもとに考えてきた論点であるが、本書では、八・九世紀を「日本」における民族複合国家の最終的解消の時期としてとらえるという問題提起を試みた。王権内部における百済系王族の位置という周知の事実を、藤原氏北家の興隆を内麻呂が自己の妻・百済永継を桓武に献上し、永継から生まれた真夏・冬嗣を平城・嵯峨に仕えさせて兄弟の間で異なる立身ルートを敷くという論点を中心に再編成し、日本王権と貴族社会の接点の中で渡来系王族・貴族の位置を浮かび上がらせることにつとめた積もりである。「民族複合国家の解消」という問題提起が、十分に明瞭な説明とはなっていないこと、とくに八世紀については俄勉強にもとづく論議に過ぎないということは自覚しているが、九世紀については、王子の乳母・東宮学士・渡来系公卿などを総合的に論じることによって、民族複合国家の解消形態という問題提起の形は整えることができたのではないかと考えている。とくに阿保親王ーー在原業平の渡来系の血統の問題、最後の渡来系公卿としての百済勝義の問題などをふくめて、ここでも仁明朝の位置が大きいことに気づいたのは、私にとっては大きな収穫であった。ただし、「民族複合国家の解消」という場合に国制的にもっとも大きな問題となる渡来系官僚の動向、その氏族意識、また、九世紀における「諸道」の官僚制への浸透において、渡来系官人の「日本化」がもった意味などについて十分に論じることはできなかった。これは、政治史と通史叙述に集中するという本書の性格からいって、やむをえないことであったが、これについてより具体的な議論なしには、「民族複合国家の解消」という問題提起は空論にすぎないという批判がありうることは自覚している。
 なお、この問題提起は、石母田正ー黒田俊雄ー網野善彦と、「戦後歴史学」の中で引き継がれた「島国意識」批判を前提としている。とくに序章で述べたように「島国意識」なるものが歴史家をもとらえる力をもつという網野の問題提起は、尊重され受け継がれなければならないというのが、私の立場である。そしてそれに関わって、「民族複合国家の解消」が、渡来系氏族の社会的な民族性・エスニシティそれ自身の解消と等置すべきものではないことは再確認しておきたい。私としては、九世紀における近江国愛智庄に関する鈴木景二の仕事に依拠しつつ、秦忌寸家継の素性についての論点を追加し、九世紀における地域レヴェルでの渡来系氏族のエスニシティの維持の可能性を示すほぼ唯一の文献史料群を分析できたのはありがたいことであった。とくに、この愛智庄は国際キリスト教大学に提出した不出来な卒論で扱った荘園であり、また秦忌寸家継の素性については、大学院入学後、指導教官となった戸田芳実から個人的に指摘をうけた問題であるので、やっとその指摘を活字にしたという感慨は深い。なお、私は、吉田孝が高松塚古墳の壁画が発見され飛鳥の遺跡を訪ねた時、「高松塚古墳を遠望する丘陵の道路のわきで休息したとき、在日朝鮮人の年配の方が、缶ビールを開けながら、『ここが祖先がやってきたところか』と感慨深くつぶやいておられるのを聞いて、私は深い感動におそわれた」という経験を述べているのを読んで触発され(吉田孝一九九七)、そのしばらく後に執筆した『平安時代』(岩波ジュニア新書)で、八六九年(貞観一一)の「新羅海賊」事件のあおりをくって東国に配流された新羅商人の日本認識、東アジア認識に自己同一化することによって見えてくるものに目を注ぐことが必要なのではないかと述べたことがある。以上によって、そういう視座を検討するための基本的な枠組みの幾分なりとも用意できたとすれば幸いである。
 第三の国制イデオロギー論は、平安国家の国制イデオロギーを「黄金国家」=「金輪聖王・仏教国家」=「万世一系・神国」=「清浄王権」などの等式の連鎖としてとらえるというもので、それは仁藤智子が論じたような「都市王権」の閉鎖的で分節化された都市空間構造が八世紀ー九世紀の過程で形成されるのに対応して生まれてきたものであるというが、私の立場である。またそれが山中恭子『黄金太閤』が示すように(中公新書一九九二)、日本の歴史を長く規定したイデオロギーであったこともいうまでもない。その趣旨は、本書に『黄金国家』なる題名を選択した理由に直結しており、また終章を御覧いただければ明瞭であると考えるので、ここでこれ以上の説明はひかえることとする。
 ただ、このような立論にとって、黒田俊雄の学説が決定的な意味をもっていたことだけは銘記しておきたいと思う。ずっと以前、歴史学研究会の一九八二年大会における村井章介報告「中世日本の国際意識について」(村井一九八八)の報告準備の過程で、村井が黒田説を前提として「国際意識のわくづけ」を論じたのに対して、批判的な意見をいったことを記憶しているが、今になって、私も、やはり黒田学説を前提にすることが必要であるという立場に到達したということになる。そして、その結論は、村井報告のいう「社会意識としての対外観」のさらなる解明は、国制イデオロギーの全構造、そして国際的商品の利用価値に付着するエキゾチックでフェティッシュな意識形態という側面から進められねばならないというものとなった。この点は、終章で詳しく述べたように、山内晋次などによって新たな段階に進められている、本書が前提とした近年の平安時代対外関係史研究に対する私なりの問題提起でもある。
 さて、本書では、本来は、平安時代全体について論ずる予定であったが、検討を進める中で、論述の起点が徐々に八世紀にさかのぼり、それによって平安時代については一〇世紀の半ばまでを論ずるだけで制限枚数に達してしまった。そのような経過を辿ったのは、このようなテーマをあたえられた以上、石母田正の議論と格闘せざるをえなかったことの結果であって、やむをえなかったとは考えているが、そのような事情によって執筆テーマが拡大・縮小し、執筆が遅れたことについて、関係者の御許しをえたいと思う。また、平安時代後期については、近刊の論集『歴史学をみつめ直すーー封建制概念の放棄』(校倉書房)に、本書の出発点となった「平安時代の国際意識」「現代歴史学と国民文化ー社会史・平安文化・東アジア」などの文章を収め、そこで若干の追補を行う予定である。なお、この論集は、その副題「封建制概念の放棄」でわかるように、本書の方法論議の前提となっている文章も収録する予定であるので、その意味でも御参照願えれば幸いである。
    
 本書は、今年九月から十月にかけての一ヶ月間、ロシア史の和田春樹氏の要請で、モスクワ大学での講義を受け持つこととなり、その機会に、講義とその準備以外の時間をつぎ込むことによって、やっと完稿することができたものである。しかし、「自称社会主義」なるものの残骸を目撃することとなったモスクワでの一人の生活には、気の重さもあった。ロシアの大学人たちが、旧体制のひどさを語り、そこから解放されてほっとしたというのに対しては、私も「ソ連崩壊」の時の歓迎の記憶を思い起こし、強く共感したが、しかし、他方で、現在のような「帝国」と私利私欲の横行、アフリカ・中央アジア地域の不運を強制された諸国家群の貧困、そして世界的な環境と伝統の破壊が、これ以上進んでいってよいとは、私にはとても思えない。その意味では、私たちの世代にとって、次の社会構成の展望は必須のものである。とはいえ、ロシアという現場に立つと、二〇世紀における様々な戦争と犯罪の中で、「自称社会主義」の犯罪が、簡単に乗り越えることができないような内容をもっていることも実感される。モスクワは暖かな晴天が続き、宿舎のアパートを囲む木々の黄葉は輝き、少し離れたモスクワ河河畔の広大な公園はさらに美しかったが、道を歩けば、そこを歩いている一人一人の人々にとって「自称社会主義」の歴史はどのようなものだったのかという疑問が浮かんでくる。それが私にとっての自然であった。
 モスクワで我しらずに引きつけられたのは、その博物館の展示の豊かさ、とくに中央アジア・シベリアから発掘された考古遺物のすばらしさであった。しかし、それらの遺物も、ソ連による中央アジアに対する「帝国」的支配の遺産という側面をもっている。訪問した「科学アカデミー」の東洋学研究所は、予算・研究条件がひどく悪化している様子が、傍目にも明らかであり、発掘調査の諸記録を保存し、公開するための研究体制と後継者の育成が万全とはとても思えなかった。他国のことであるから、発言をはばかるべきことも多いが、そもそも「遺跡の発掘」とは必然的に「遺跡の破壊」をともなうというのは考古学の常識であろう。一つの歴史的崩落を経過した国に滞在して、いろいろな意味で、ロシアの大学と学術の再興を願う気持ちをいだくようになったが、しかし、国家は、どのような運命に逢着しても、調査を組織し、遺物を動かした責任をとり続けるべきものである。
 こうして、博物館をみていても、ロシアにおいては、オリエンタリズムあるいはアジア支配のイデオロギーが十分に精算されていないのではないかという方向に、思考は推転していく。実は、それは出発前にふと読み残していたことに気づいてもってきた、レールモントフの『現代の英雄』を読みながらの感想でもあった。『現代の英雄』の最初がグルジア、トリビシからの旅に始まることを知ったとたんに、この小説をもってきたのは正解であったと思ったが、しかし、読み進むにつれ、引き込まれただけに、小説の中に流れる濃厚なオリエンタリズムには驚愕した。プーシキンのナショナリスティックな心情は周知のことであるから、考えてみれば、その後継者にあたるレールモントフを読んで驚いていても仕方がないのではあるが、しかし、『現代の英雄』はロシア文学史の常識では「ニヒリスト」の典型を描いたものであったはずである。この驚きは、中央アジアとの関係では、ロシアは一九世紀以来、大きな思想的変革は遂げていないのではないか。それは「自称社会主義」の本質に関わるのではないかなどという疑問にすぐに結びついていく。『現代の英雄』の文庫本は、ずっと以前、大学時代に買ったもので、長い間、書棚のレールモントフをみるたびに、これは何時か読まなければと思っていた私としては、「レールモントフ、おまえもか」という感じがした。
 こういう気分の中で、本書執筆のための心理的集中は、ロシア史の概説書を読み、またユーラシア史に関する本書でもふれたような著作を読み直すことで支えられた。私がロシアに行くということを知って、それらの本を読むことを進めてくれた知人に感謝したいと思う。そして、それと同時に、昨年、二〇〇二年の冬、韓国国史編纂委員会を訪問し、新羅の古都・慶州を訪ねた時の印象が鮮烈であったことにもふれておきたい。とくに、国立慶州博物館で武寧王陵・金冠塚・天馬塚などから出土した見事な「黄金細工」の遺物をみたことは、本書のテーマに直結していた。そして、その意味では、クレムリンの武器庫博物館でちょうどキルギスタンの「黄金の秘宝」の小展示があり、モスクワ大学のシーモノヴァ先生、神戸外国語大学のエルマコーワ先生の紹介で、キルギスタン出身の学芸員のアイヌーラさんの説明をうけることができたのも幸運であった(アイヌーラさんの専攻が江戸時代末期の美術史で、実は日本語が達者だだけに、ぎゃくに緊張しながら流暢な通訳をいただいたロシア近代美術史の福間加容さんにも感謝したい)。クレムリンの北につらなる国立モスクワ歴史博物館にも多くの中央アジアからスキタイにかけての「黄金文化」の遺物が展示されていたが、これらが、朝鮮三国時代の「黄金文化」の広大な背景であったことについては、本文でも参照した近刊の『日本の美術』「黄金細工と金銅装」(河田貞二〇〇三)でも述べられている通りである。
 昨年冬に韓国国史編纂委員会を訪問した時には、それが「日本」ー「韓国」ー「ユーラシア」という広範囲な歴史の現場を実感する最初のきっかけになるとはまったく考えていなかったが、親切に御案内いただいた国史編纂委員会の方々に、機会をえて、このことを報告したいと思う。その時、慶州博物館で日本の「勾玉」とまったく同じ大量の「勾玉」の遺物をみて驚き、さらに展示の説明によって、それが中央アジア遊牧民の身体装飾の直接の影響の下にあるということを始めて知ったこと、そしてモスクワでの博物館巡りで、どこかにシベリアの「勾玉」の現物が展示されていないかと期待したが、存在しなかったこと、どこに行けばみられるのだろうかなどということも話したいと思う。
 それにしても、「勾玉」という、この一事をとっても、韓国と日本、彼我の歴史家の常識の相違は、いったいどういうことなのだろうか。自分の無知をさしおいていうのではないが、歴史家相互の常識の相違は、「国民」相互の常識の相違にも反映するだろう。本書で展開したような世界史の波動と対外関係などの理論的・実証的研究を進めることも重要ではあるが、それと同時に、歴史家同士、実感と文化のレヴェルでの交流がもっと必要なのかもしれないということを強く感じるのである。
 さて、そろそろ、例によって長くなった「あとがき」を終えるが、もう一つ、昨年、韓国から帰国後、本書執筆のために読んだ田村円澄氏の『古代東アジアの国家と仏教』(田村二〇〇二)のことにふれておきたい。いうまでもなく、田村氏は仏教史の分野では、最長老の研究者の御一人であり、本書では、日本の飛鳥・奈良時代の朝鮮仏教と日本仏教の深い関係について、現在の議論レヴェルを作り出した諸業績を参照させていただいた。とくに、東大寺大仏開眼会への大人数の新羅使節団に大仏巡礼という性格を看取された論文「平城京の新羅使」は、本書の叙述が八世紀にまでさかのぼっていく直接のきっかけをなしたものである。それを確認するために、『古代東アジアの国家と仏教』を読み、さらに同書に第一論文として収められた「新羅文武王と仏教」を読んで、私は、やはり韓国の国史編纂委員会の方々の案内によって訪れた、慶州の東、菩提寺の感恩寺の沖の海中にうづくまる文武王の墓、「大王岩」を見学した経験が、一つの像を結んだという感想をもった。
 この海中墓は、七世紀後半の新羅・文武王が、その死去に際して「倭兵を鎮めんと欲し、海龍となる」(『三国遺事』)と決意し、そのために築かれたという伝承をもち、それは日韓の歴史学界の中でも通説となっているものである。私がこの海中墓の存在を知ったのは、約七・八年前、前著『平安王朝』を執筆した時のことであるが、韓国ではきわめて著名な事柄であることはいうまでもない。私が、前述のような彼我の歴史常識の相違を考えながら、冬の強風の中で、この海中墓を前にして、韓国の側から日本海=東海の荒波を眺めることに一つの感慨をもったことは御理解いただけると思う。ところが、この田村論文は、新羅における「東海散骨」の民俗風習一般に着目することによって、この通説を再検討し、「文武王は死後、『崇奉仏法』と『守護邦家』を果たすため、護国の大竜となることを願ったが、(中略)、文武王の誓願である『守護邦家』は、倭の新羅侵攻を防御する、という単一のこととするより、新羅の国土と人民を擁護するという高次の意味をもっていたと見るべきではないか」とした。そのような宗教的心情の存在を想定することによって、自己を「畜生道」に落とすことをも顧みなかった「王者の苦悩」と「心願の深さ」、そして「その王者の『恩』に感動した当時の新羅の人々の対応」が内在的に理解できるのではないかというのが田村氏の結論である。
 ここは田村氏の通説批判を検討する場でもなく、私はその任でもないが、細部のニュアンスは別として、またこの伝承自身をどう評価するは別として、田村氏の議論の趣旨に教えられたことは多い。本書に引きつけていえば、国の安穏と守護=「平和」を願った「文武の海中墓」と「東大寺大仏」はともかくも共軛的な場の中で検討されるべきもののように思う。本書の「はじめに」で引用したように、宮崎市貞氏は「歴史家の本当の任務は、むしろ先入観として世人の歴史意識を支配している幾多の枠そのものの検討にある」と述べている。私は、宮崎のように歴史学のあり方について確信をもって断言できるだけの質量をもった仕事を行ってはいないが、しかし、「通説」「歴史意識の枠組み」にとらわれず、この仕事をもっぱら事実にもとづいて遂行することが、歴史家の仕事であることは、もう一度、自己確認したいと思う。そしてそれと同時に、田村氏のような碩学が、右の論集の序文で、日本と東アジアの諸国の間のいわゆる「歴史問題」について、「われわれは謙虚に、この『歴史』と『事実』を認め、またこれを共有する諸国と同列・同格の立場で、原因解明の努力をなすべき段階を迎えている。そしてこれは、日本人ひとりひとりの自覚の問題であり、また責務である」と述べていることの意味を肝に銘じたいと思う。
    二〇〇三年一一月                保立道久