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カテゴリー「心と体」の4件の記事

2015年9月 4日 (金)

老子57

老子57
 国には正義が必要であり、
 争いを収めるには人の意表にでなければならない。
 しかし世界が求めているのは無為だ。
 世界に制約が多ければ人の心は貧しくなり、
 人の心がとがってくれば、
 国は混沌にしずむ。
 そうなれば人の智恵は
 よくは働かない。
 法律を守れといいながら
 国は盗賊の家になっていく。
 
 私はいいたい。
 無為が広がって人に影響し、
 誰もが静かな明け暮れを好んで
 人が正義に生き、
 誰もが無事に生きる中で
 暮らしの豊かさが広がり、
 そして誰もが無欲になる中で
 素朴という原初の徳がみなおされることを

2014年8月14日 (木)

非暴力という思想

 非暴力というものは何か。それは「ーーーでない」ということを意味するが、「ーーである」ということを表現しない。その意味でそれは不十分な言葉である。しかし、言葉は不十分であることによって豊かな内容をあらわすことができる。「非暴力」という言葉は、その事情をもっともよく示す言葉であろうと思う。それは子どもの言葉が豊かであるのと同じことである。子どもの言葉の豊かさを知るということが成熟の最低の条件である。我々の世代のなかには、かって非暴力という思想を一つの思想として認めないという考え方があった。それは成熟していないことの表現であったと思う。

 あるいはまた、それはカタカナの言葉、外国語が不十分であることによって豊かな内容をあらわすことがあるのと同じことである。外国語による概念や感覚の表現を嫌う人々、それを不十分であるという人々は、この事情を知らないのである。「アヒンサ」という言葉がある。これは非暴力というガンジーの思想をもっともよく象徴するといわれるヒンドゥー教などのインド宗教思想の言葉である。仏教でいえば「不殺生戒」である。この言葉によって我々はガンジーを想起し、インドを想起し、それによって「不」あるいは「非」という接頭辞を理解する。言語はその不十分性、何かを表現しきれていないという表示によって、さまざまな記憶と感情を含むことができる。

 非暴力というのはそのなかでももっとも重要な言葉の一つであると思う。それはすでに非暴力ということに歴史があるからである。二〇世紀の反植民地運動の中に位置づけられ、「非暴力・不服従」という言葉として歴史的な運動を表示しうる言葉となっている。「非」という接頭辞が豊かでありうるのは、そこに歴史があるからである。

 しかし、非暴力というものの積極的な内容は何か。それを探ることは現代においてもっとも重要な思想的営為の一つであると思う。思想というものを協同して深めていく上でのキーとなる問題であろうと思う。

 端的にいえば非暴力は怒りの姿である。非暴力が怒りであるというのは矛盾であるように思えるが、怒りのない非暴力という思想はありえない。「非」において認識されるのは、怒りなのである。怒りはあるが暴力ではないという認識である。それは怒りを怒りとして見つめる意識であって、怒りの内面性ということではないだろうか。

 怒りを避けるべきものであるかのようにいうのが今日の通念である。私は、この通念を、この世で実際に組織している人々がいるのではないかと疑う。怒る権利というものがあるとしたら、彼らは、それを人々の目にふれないところにおこうとしているのではないか。人々の目にふれるべきでないのは、怒りではなく憎しみである。怒りと憎しみは本質的に異なっている。憎しみは個的なものであるが、怒りはより深いものである。我々は「思想・信条の自由」をもつといわれるが、怒りは思想に属するとともに固有に信条に属する。


 三木清の「怒りについて」の断章は怒りについて語って余すことがない。三木は怒りの超越性をいい、瞑想性を語ってやまない。神の怒りを語り、「切に義人を思う。義人とは何か、――怒ることを知れるものである」と語った三木が牢獄で身体を掻きむしりながら死んだことを思うと、気持ちが暗くなる。怒りには時があったのであろうと思う。

 夜、目が覚めて考えていて、しかし、結局のところ、怒りとは何か。非暴力ということの内容をなす怒りとは何なのか。現代において、それは「神の怒り」ではありえな。それは人類史そのもののなかからでてくるものでなくてはならない。それは歴史の怒りとでもいうべきものであるほかないのだと思う。
 歴史学が豊かになったのは疑いをいれない。しかし、歴史学というものは何を伝える学問であるのか。歴史学は自己の豊かさに自足しているわけにはいかない。歴史学というものは歴史の怒りを伝える学問であるはずであったのではないか。

2014年4月26日 (土)

必見。成人男女の睡眠時間の国際比較図

 もっとも親愛なる友人から、今おそわったデータ。ソウル・フラワー・ユニオンのツイッターから。もとデータは舞田敏彦さんのツイッタ。 ‏@tmaita77・およびブログ「データえっせい」http://tmaita77.blogspot.jp/

 日本はもっとも人々が寝ていない国。そして、女の人の方が、睡眠時間が短いという世界でもっとも珍しい国であるということ。ネットワークの情報力というのはものすごい物だ。

 こういう事実は小学校で全国共通におしえなければならない。教えるというのは言葉が悪い。「こどもたちに伝えるべき事実だ」。

 中井久夫さんによれば睡眠がとれていれば人間の心はどうにかなっていく、平衡を保っていくことができるということだが、睡眠が少ない民族というのはどうなっていくのだろう。これは日本民族にとって実は最大の問題なのかもしれない。
 ウーム。こういうことに対応できる歴史学をどう作っていくか。民族論の基礎問題だ。民族の基礎構造はここに眠っている。そしてもっとも基礎構造が日本と似ているのは韓国であるということになる。ウーム

 神話論の次は義経論にもどる予定だが、その次は、どうしても「寝太郎」論(『物語の中世』所収)に再挑戦である。
 この論文では嗜眠症の分析をした。「大寝」の子どもが急に起きあがってエネルギーにみちた働き者に転換するという、日本の民話のなかでもっとも心あたたまる民話の根にあるものが、「下人」の青年に対する暖かい目を前提としているのではないかという仮説を提出した論文である。中井さんの『治療文化論』における「民俗・民族」のもつ独自な治療文化という問題に触発されたもの。

 歴史における睡眠と心の病。
 ゼミのみなさん。連休明けのゼミのテーマは物ぐさ太郎と寝太郎論です。この図表は確認しておいてください。
 
 横軸が男の睡眠時間(分)。縦軸が女の睡眠時間。


成人男女の睡眠時間の国際比較図。日本の女性は一番寝ていない。しかも,「男性>女性」という珍しい社会。 pic.twitter.com/1fPaH4MAfN
Photo_2

 以下は舞田さんの説明
 OECDは先月,“Balancing paid work, unpaid work and leisure” という資料を公表しました。1日あたりの生活行動の平均時間が国ごとに掲載されています。15~64歳の成人男女のデータです。
http://www.oecd.org/gender/data/balancingpaidworkunpaidworkandleisure.htm

 先日,日経デュアルに寄稿した記事では,家事と仕事時間の国際比較をしたのですが,睡眠時間を比べてみると,こちらも「日本的」な特徴が出ています。今回は,その図をご覧いただきましょう。

 ここでいう平均時間とは,平日・休日をひっくるめた1日あたりの平均時間です。統計の年次は国によって異なりますが,おおよそ2009年近辺となっています(日本は2011年)。横軸に男性,縦軸に女性の平均睡眠時間をとった座標上に,28の国をプロットしてみました。各国の位置に注意してください。
それにしてもスウェーデンというのはどういう国だ。日本列島の女性はみんなスウェーデンに行きましょう。
 そしてノルウェーとはどういう国だ。そばなのに違う。

もう一つ。昼寝の時間は入っているのだろうか。

2011年4月12日 (火)

中井久夫『世に棲む患者』

 先日、娘が、朝早くスコップをもって出かける。地震による液状化に襲われた千葉の病院で、まだ一階部分に泥が貯まっているところがあり、その掻い出しのためであるという。夜からちょうどい大きさのスコップがなかったかといっているので、早朝、久しく見ていなかった小さめのスコップを探して、玄関にたてかけておいた。
 スコップをもった彼女の後ろ姿を夫婦で窓からみていた。
 社会との関わりが奉仕に始まるというのは、私たちの世代ではあまりないことであったと思う。「社会奉仕」というと、私財をもつ人々が行うか、あるいはよかれあしかれ「役所」のイニシアティヴの下に行われるというのが、一般であって、私などは、そういうものは「うさんくさい」ものとみていた。そもそも、私たちの世代だと、社会のさまざまな単位は、それなりに自足していて、社会の他の集団の構成員が個人として奉仕するということは社会システムに予定されていなかったのである。
 かわりにやったのは「カンパ」ということである。そんなに金もないのに、あるいは金がないからか、出す方も、募る方もよくやった。金がないのはいまでも変わらず、カンパをするという習慣も変わらない。その何となくのうしろめたさ
 しかし、現在の若い世代が、「社会奉仕」に参加するというのは、自然なことだと思う。労働が単純労働で、しかも必ず感謝される奉仕労働であるというのは、やる方にとってはやりやすいことである。集団労働になれていない青年にとって、これは緊張がなく、余裕がもてるものだと思う。震災からの復旧のみでなく、そういう奉仕労働のことをよく考えることが必要になっている社会なのかも知れない。
 泥を掻き出すというのはいわゆる「人海戦術」なのだろう。ちょうどよい大きさのスコップが必要な、非力な娘にも、奉仕の仕事がかかって来るというのは、ありがたいことである。もちろん、スコップの使い方一つをとっても、身体の技術や慣れがいる。娘がスコップを使えるとは思えない。しかし、娘の力でも単純労働としてみれば、人の半分あるいは四分の三はかならず役に立つ。単純労働は加減乗除が可能な労働、量としての労働である。これは経済学の基本問題だが、人海戦術の単純労働だと、それがみえやすい。
 そもそも、人は単純労働力に還元されてしまえば、みんな平等である。労働の基礎には、つねに、この平等性が潜在しているが、それは知識としてではなく、体感するほかないものだと思う。単純労働への集中は、一種の動物的な活力の共同をともなうが、それは同時に原始的な平等の感覚を生む。普通のアルバイトだとそうはいかないが、奉仕の単純労働で、そううことを感じてほしいものだと思う。
 いま、大学生のアルバイトは、本当に職種が多様化している。私が学生時代には大学生が同世代の中でしめる割合はまだ25%になっていなかったから、労働予備軍としての期待はシステム化されていた訳ではなかった。それは相当前から変わり始め、さらに労働者派遣業が「合法化」され、そしてそれらの技術的・社会的な基礎としてのコンピュータネットワークと通信手段の発達によって、青年のアルバイトは完全にシステムの中に組み込まれた。そういう状況を切り返すという意味でも、社会奉仕というのは意味があるのかもしれないと思う。
 考えてみると、私たちの世代だと、子供の労働は、水汲、掃除、雑巾かけ、草むしり、犬の散歩などがまだ日常的に子供のやるべきこととして残っていたと思う。そして集団労働としては、年末の大掃除があった。これは単純労働ではなくて、大人の労働を子供がみならうスタイルのものだったが、やはりよい習慣だったと思う。わが家でもやるべきであったというのが最近の反省。そういう機会が減っているという意味でも、「社会奉仕」頑張れである。

 昨日、中井久夫氏の『世に棲む患者』を読んでいたら、統合失調症の人がが退院した後、最初に必要な社会との関わりは消費であると書いてあった。入院している時でも、病院の前の商店で何か買えば、お愛想の一つもいってくれる。これがいい。そして、患者が個性的な消費のルートをつないでいけば、それは恢復への道に開けている。それが「非患者」の中で生きていくための常同性の知覚にもっとも近いというのである。
 たしかに、消費は、個人個人の社会的な関わりとしてもっとも楽でもので、個人と個人が対等な別人格であるという原理を、消費の度に確認できる。各々は特別な意味をもった購買でも、そこに無縁・対等という普遍的なものがつねにつらぬいている。無縁・対等という原理を純粋に感覚的に知るためには、純粋な交換が必要であるということは、どのような社会になっても変わらないことなのではないだろうか。もちろん、物が「商品」として存在するという状況の複雑性は、様々な問題を引き起こすが、しかし、その中に交換それ自体というものを感知することは、つねに可能であり、また必要なことでもある。
 中井氏は、これを以前の精神病棟では「労働による恢復」ということがしばしばいわれたこととの関係でも述べていて、生産的な労働はやはり複雑な要素をふくみ、まずは生産よりも消費を考える方がよいという訳である。

 労働の単純さと、消費の単純さというのは、どういう場合でも、生活にとって大事なものなのだと思う。