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カテゴリー「読書」の19件の記事

2016年1月17日 (日)

甲野・松村『筋肉よりも骨を使え』と片山『骨考古学と身体史観』

 『筋肉よりも骨を使え』(『ディスカバー携書』)という甲野善紀・松村卓両氏の対談本を読む。面白かった。甲野氏の武術のことは内田樹氏のブログで知ったが、この本はスポーツトレーナーの松村氏のいう「骨」的内観というのが面白かった。

 「身体」というのは本来「身體」であって、骨というものの認識が中心なのだというのが面白い。私なりに要約すれば、身体は筋肉で動かすのではなく、骨が動くのだ。それが内観できるかどうかが身体の動かし方という意味での「道」にとって決定的な意味をもつというのである。

 韓国と日本の文明形成期の共通性でもっとも重要なものが「骨」だというのが、大学院時代に、先輩の木村誠氏の新羅の「骨品制」(こっぴんせい)についての報告を聞いて以来、考えてきたこと。

 新羅の王権は「貴骨」といって、高い身分的地位は「骨」の身分的ランクで表現される。「骨品」=コッピンの「品」が、いわゆる「品がいい」という意味での「品」の原点にある。そして、日本の身分制は、「カバネ」制というが、カバネとは「尸」(シカバネ)に通ずる言葉で、ようするに「骨」のことである。日本でもっとも最初の身分制が「ウジカバネ」制といわれるのは、韓半島と共通する身分観念、身体観念である。

 これは「人間の評価は棺を覆いて定まる」というが、紀元前後以降の葬送では、身体は風葬・鳥葬の下にあり、棺に入って白骨化してから定まるというような側面もあったかもしれない。葬送というのはサル類のなかでも人間に独自なものであるというが、これは生きていた人間の骨をみることで、人間の体内組織を知る。その経験に生と死の連続を見るというような情緒的認識が、人間にとって決定的な経験となったのではないかと思う。これについてはしばしば遺体を飾るということが強調されるが、むしろ骨を認識するというのが重大だったのではないかと思う。人類学によると、マダかスカルからインドネシアまでの葬送儀礼の中心には骨の儀礼があったという。

 カバネ=「骨」をみて、立派な骨だといって人を偲ぶ感覚とでもいうべきか。文明形成期の身分制に伏在する身体意識はこれかもしれないと思う。昔の人には、骨を動かしているという身体技術の内観が一般的にあって、その上に、この種の骨的身分制が存在しているのではないかと思う。これは骨を意識する武術家やスポーツトレーナーの知識と感覚を前提に考えるべきことがあるのかもしれない。

 日本考古学は「墓」を中心にした学問であるが、片山一道『骨考古学と身体史観』(敬文舎)を読むと、最近ではむしろ「骨」を文理融合的に問題とする学問になっているように思う。

 私は最近書いた「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で、「姓」=「カバネ」=「骨」の身分制は、前方後円墳によって表示されたと論じた。前方後円墳の身分的実態は、そこに収められた骨に対する意識にあると考えるべき幾つかの証拠があるからである。これはすでに柳田国男がいっていることであり、西嶋定生氏も似たことをいっているのであるが、長く無視されてきた観点である。
 全部は、引用できないので、一部を、以下に引用しておく。


 骨カルトの存在を示唆する史料はほかにもある。たとえば、『播磨国風土記』には別嬢が城宮で死去したのち、河を隔てて「日岡」という場所に墓を作ったとある。ところが「その尸を挙げて印南川を度るとき、大き飄、川下より来て、その尸を川中に纏きいれき」という。これは神が骨を動かすという奇跡を語るのであろう。また、飄が尸を運ぶ話しは『日本書紀』天和歌彦にもある。旋風が尸を巻き上げて天に運ぶというのは、死者の魂魄が骨となって昇天する幻想を示すのであろう。

 また同じような話は、ヤマトタケルの神話のなかにも知ることができる。つまり、伊吹山で負傷したヤマトタケルは伊勢国能褒野で死去し、そこに陵墓を作って埋葬された。しかし、ヤマトタケルの魂魄は、そこから白鳥となって飛び立ち、大和・河内に舞い降りたため、そこにまた陵墓を作ったが、白鳥はそこにもとどまらずに天に去った。これがヤマトタケルが三つの白鳥陵をもつ由来であるが、人々が最初の能褒野陵のヒツギを開いたところ、そこには衣のみがあって「屍骨」は存在しなかったという。つまり屍骨は白鳥になって飛び立ったという訳である。おそらく要点は、そこに腐敗にまかされる遺体はなかったということなのであろうが、白骨化は霊魂の解放と精霊化の前提であると考えられていたのであろう。

 八世紀後半の骨壺に人間の骨とともに白鳥の翼の指骨が入っているのが発見されたことがあるが(佐倉市の高岡新山遺跡出土、二〇一一年二月一八日朝日新聞夕刊「魂をはこぶ白鳥の骨」)、これは骨が白鳥のようになって遊飛するという幻想が奈良時代まで残っていたことを示すのであろう。白鳥の白さは骨の白さに対応しているのではないだろうか。

(6)前方後円墳と「屍=骨=カバネ」身分
 さらに重大であったのは、西嶋が人々の族姓身分を表示する「姓=カバネ」という言葉の原義は、「屍=骨=カバネ」にあったと主張したことである。もちろん、このこと自体は、西嶋も引用している幕末の国学者の著作「大勢三転考」などにも記され、栗田寛「氏族考」、柳田国男「葬送の沿革について」『定本柳田国男集』一五巻、筑摩書房)、中田薫「可婆根(姓)考」などによって繰り返し言及されていたことである。しかし、西嶋が右のような史料にも依拠しつつ問題を古墳論として展開したことは画期的な意味をもっていた。

 西嶋は古墳時代に列島のほとんどにひろがった古墳のネットワークを、いわば「骨」のネットワークであるとみたのである。そこでは「姓=カバネ」が「同族関係の象徴的表現としての骨と同語となっている」ということになる。古墳時代は骨が身分をもつ社会であり、古墳に葬られた大王・王族・首長たちの骨は、彼らの身分を表現する。『日本書紀』持統五年八月条には、諸氏族に「その先祖の墓記」を進上させたとあるから、墓が身分の表現であったことは疑いない。それはヤマト王権の国家的な身分秩序としてのカバネの制度を表現している。そして、全国にたくさんある古墳の墳形や規模は、古墳に内蔵された骨の身分を外に表現したものであって、それは古墳時代の国家と社会の秩序を表現する可能性があるということになる。この西嶋の指摘は、考古学界に大きな影響を及ぼした。

 (中略。しかし西島が石母田の批判をうけてカバネ論を撤回したために、それは不徹底なものに止まった。以下、神話論につながる)。 

 『新撰姓氏録』の序文は「ウジカバネ」を「氏骨」と表記しているというのは早くから指摘されていることであるが、それに対応する大量の氏族神話が存在したはずであろう。たとえば、倭国神話の最高神であるタカミムスヒは大国主命の国造りを助けるためにやってきた少彦名命について、「この子は少し憎らしい感じのこどもで、いうことをきかず暴れて、私の指の間から地上に落ちていってしまった子だ」といったという。興味深いのは、その時、「わが産みし児、すべて一千五百座あり」といったということで、ようするに、倭国のほとんどの神が、天神も地神もすべてタカミムスヒの子どもだったというのである(『日本書紀』(神代第八段一書第六)。全国で五〇〇〇を越えるといわれる前方後円(方)墳を考える場合、このタカミムスヒの神統譜を前提としておくことは許されるではないだろうか。さきにふれた彦狭島王の事例が示すように、神聖視された骨を記念する墳墓は、その被葬者が神統譜に参加していることの物的な証拠となったのであろう。

 以下、追加。昨日は新橋演舞場で歌舞伎をみた。海老蔵はすばらしい。「中世」という専門家意識があって、能・狂言はみていたが、歌舞伎には長くご無沙汰であった。
 そこで次のようなことを考えた。
 「日本的なものとは何か」といわれると日本を研究しているものは、若干の専門家意識をまじえて、「そういう固定的なものはない」と最初に反応するだろう。それは「女性的なものとは何か」といわれて、フェミニストが「そういう固定的なものはない」と反応するのと同じことである。そして、さらに時間があれば、それらは経過的・一時的・歴史的なものであって、人類史のなかではある種の平準化の道にあるのであって、それが固定的な対立でなくなることによって、人間の多様性が全面的に開花するという説明が付け加わるだろう。民族的なものについても、この列島の上で養ってきた特殊な能力や感覚は人類の財産であって、そのようなものとして人間的自然の宝庫のなかに蓄積されていくということになる。これは正論である。
 こういう正論はすでに存在しており、それは否定できない正しさをもっている。ナショナリズムと、インターナショナリズムないし人類史の立場は二律背反ではないということである。
 しかし、歴史家としては、この正論が正論のままでいて実際の説得性をもたないままでいたのではないかと考える。この歌舞伎の、この海老蔵があたえる感動は何なのか、それを十分に繊細な学術と芸術の論理によって解けているのかどうか。そういうことを考えさせられる。それは『筋肉よりも骨を使え』で語られる身体技術の世界を丁寧に説明できる学術的論理を我々がもっていないという自覚に共通する感想である。これは60代も半ばをすぎると、生き方の智恵に関係してくるだけになかなかきつい感想である。
 
 まだまだ議論はあろうが、「民族」なるものを正確に理解できるかどうか、それがヘイトスピーチに現れるような排他的な感情の地盤にならないように豊かに耕すことができるかどうか。今は、もう一度巡ってきた「民族論」の時代であろうと思う。
 

2014年6月 2日 (月)

東大教師が新入生にすすめる本

 堀田善衛の本が好きでよく読む。
 次は、『UP』東大出版会の宣伝紙に書いた「東大教師が新入生にすすめる本」の記事。相当前である。


1,印象に残った本。

『亂世の文学者』
 堀田善衛の第一エッセイ集。高校時代に神田の古本屋街でみつけた。最近ではさすがに読むことはなくなり、しかも今、ベルギーのルーヴァン大学に在外研究の機会をあたえられていて、本が手許にないので、どこにそんなに惹かれたのかを具体的に説明することはできないが、当時『文芸』に連載されていた堀田の青春自伝『若き日の詩人たちの肖像』を傍らにおいて、その「思想的」解説のようなものとして読んでいた。第二次大戦の中を生身の人間として生きた堀田の言葉は、高校生にも(あるいは高校生だからこそ)説得的で、一時は寝ても覚めても読んでいたように思う。続いて、堀田の「現代史小説」あるいは「歴史小説」、つまり『広場の孤独』『シベリアの森』『時間』『歴史』『海鳴りの底から』『審判』『スフィンクス』などもすべて読み、第二エッセイ集の『歴史と運命』も愛読した。一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で、その後、繰り返すことはなかった。その意味で、印象に残った本といわれると筆頭に挙がる。

『美しきものみし人は』
 この本の原版がでたのは一九六九年一月。私が読んだのは、文庫本になった一九八三年である。何故でたときに読まなかったのか。金がなかったのか、知らなかったのかはわからないが、一九六九年一月といえば東大では七学部団交と確認書締結のまさにその時で、私も大学一年の冬、ちょうど母校の国際キリスト教大学で学生運動への参加を周囲から説得されていた時にあたる。とても、このおもにヨーロッパ絵画を扱った本を読むという雰囲気ではなかったに違いない。もし、これをその時に読んでいたら、もう少し「文化的な」人間になっていたかも知れないと思う。私は、堀田氏がヨーロッパにすみついてしまい、堀田氏はそんなことをいわれたら大変に不愉快であろうが、美術評論家か、文明評論家のようになってしまったことがたいへんに不満であった。しかし、その事情が、これを読んでいると理解できる気もする。堀田氏は、この八月亡くなり、実は、私は出発前後のあわただしさに取り紛れて、そのことを知らずにベルギーにきてしまったが、偶然、唯一「文化的な」本としてもってきていて、氏の小説のあちこちを思い出しながら、愉しんで読んでいる。

2,これだけは読んでおこう。
 私の専攻は日本中世史だが、必読文献といえるものは少ない。そもそも学者の仕事は散文的な作業であって、本は道具にすぎず、道具はたくさんなければ仕事にならない。必読ということになれば、哲学と方法論。大学時代は当節流行のチャラチャラしたものは読まずに、何よりもマルクス、ヘーゲルその他、古典的なものを読んでほしいと思う。そういう常識がないと、少なくとも私のような凡人には根気強い仕事はできない(できなかった)。そこで、ここでは史料それ自体を挙げることとする。

『今昔物語集』(本朝)。文庫本にすると、四冊。『今昔物語集』の文章は簡潔で明解、きわめて読みやすい。大短編小説集のつもりで、全部読んでほしい。奈良・平安時代についての常識もつくし、何よりも、当時生きていた人々の息吹きが伝わってくる。そして、現在でも、そこから無数の研究課題を発見できると思う。石母田正氏の名著『中世的世界の形成』が、『今昔物語集』の一つの説話を古文書によって跡づけることから出発しているのは有名な話。

『御伽草子』。『御伽草子』を読んでいると、『今昔物語集』のもっていたような思想や文化の散文精神というべきものは何処にいってしまったのだろう。日本の中世というのは、それをなくしていく時代、やはり退歩の時代であったのではないかと悲しくなる。けれども最近、おそらくそうではなく、単純にみえる『御伽草子』の中には、むしろ中世の文化の多層化・複雑化の過程があらわれているのだと考えるようになった。『御伽草子』の周辺に存在する諸史料を読み抜き、いつか室町・戦国時代の文化の基底にあったものを考えてみたいというのが、私の夢。見果てぬ夢。

3,東大出版会の本
 笠松宏至氏の二冊の本、『日本中世法史論』『中世人との対話』および同氏が実際上の企画をになったといわれる『中世の罪と罰』を挙げる。また一緒に『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー)も読んでほしい。歴史家の場合でも、小説家と同様、その仕事の全体を読むことはいろいろなことを考えさせてくれるが、笠松氏は、現在の中世史学の常識の基礎部分を作り出すのに関わった有数の歴史家であり、その世界を知ることはかけがえのないものを与えてくれる。最初からテーマと方法のきまった論文でなく、まったく新しい史料の収集と本格的な解釈によって独力で自分の道を切り開いていくような論文を書くことは私にはできない。今になっても、読むたびにそう感じさせられるのはなかなかつらいものがあるが、最初に読む人は、そういう感じ方をしなくてもすむだろうと思う。

2014年4月18日 (金)

歴史家と読書――生涯に100冊の本を徹底的に何度も読む。

歴史家と読書――生涯に100冊の本を徹底的に何度も読む。
 総武線のなか。今日は授業。
 先週は打ち合わせだったので、今日が本当の開始。
 最初に「歴史学における読書」という話をするつもりで、そのメモを作ろうと思う。
 
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昨日、書斎の整理をしていたら、『大塚久雄ーー人と学問』(みすず書房)みがでてきた。
 この本は大塚先生の著作集を編集した岩波書店の石崎津義男氏が先生からの聞き取りにもとづいて先生の逝去の後に出されたもの。大塚さんの伝記としてつかうことができる本である。前は机辺においていたのだが、しばらくみないと思っていたら、別の机にあった。

 なつかしく読んでいたら、大塚さんが「自分の読んだ本はせいぜい一〇〇冊だろう」といったとある。これは100冊の本を徹底的に読んだということだろう。石津さんは、大塚さんの、この断言自身、あるいはその数の少なさに驚いているが、大塚さんの100冊のなかにはマルクス・ウェーバー・ゾンバルトなどの独文や、その他の原書が入っている。しかも、石津さんが神保町近辺の洋書古本屋崇文堂の主人にきいたところ、大塚さんは同じ原書を何度も買っており、それは何度も読むので本が毀れたためだという。

 だから、この数をどこまで一般化できるかは問題が残る。しかし、一定数の本を何度も読むことが大事だということは、おそらく歴史学においてはいまでも通用することなのではないかと思う。

 つまり、歴史学は一度、頭のなかに記憶することが必要な学問である。しかも多数の史料を読まねばならない。それによって頭のなかで、忘れることは忘れ、残ることは残っていき、残った知識・記憶のなかで相互浸透作用のようなものが起きる。こうして史的実在の写像のようなものが無意識にできてくるのである。

 しかし、無意識とはいっても、実際には重要と判断したものが残っていくのであって、そこでは一種の記憶の結晶術のようなものが働く。そして、この結晶術というのは、結局、専攻研究者の本である。多数の史料を読んでいくが、やはりそれを本の記述にもとづいて結晶してくるのである。歴史家はまず沢山の史料を読むテクニックをもたなければならないが、しかし、他の多くの歴史家の著作をどの程度徹底的に広く読んでいるかが、歴史家の基礎体力のようなものを決定すると思う。


 これは一度、100冊を自分で数えてみようと思う。100冊のリストを作り、それはきちんと並べて動かさないということにすると本棚が片づくかもしれない。考えてみると、「あれ、あの本はどこにいった」ということがしばしば起こるのは、第一は何度も読む本が、しばらく読まないでいると、どこにもみえない。それは自分の評価が高いために特別の扱いをしてしまう。あるいは使用頻度があるため、整理不行き届きになるという場合である。第二は、批判の必要があって何度も読む本で、これは自分の心のなかでは「名著」ではなく、評価が低いので、すぐに「もういいや」と思ってしまって、整理が行き届かないという例である。こういう時は、「またあの本がみえない。批判されるのが嫌で隠れている」などと冗談をいう。

 それは著者の数でいえばどうなるだろうか。50人ほどになるのであろうか。やはり100人ほどになるのであろうか。歴史家の職業というのは狭い世界で成り立っている職業であると思う。

 別の面からいうと、歴史家の著書を読み込むということは、結局は、その歴史家の論文を最大もらさず読む。あるいはその歴史家がもっている感覚のようなものにまで深く入っていくということである。自分のものになった本は、歴史家という職業のなかでは、その職業集団のなかで共有される感覚器のようなものである。歴史家は、蟻のようなもので、他の歴史家の作った触角を自分の前にもってきて、自分の触角にするとでもいおうか。

 ともかく先輩や友人の歴史家の著作は複数読むことによって、その人が自分のなかに取り込んだエッセンスのようなものが、私のなかに入ってくるのである。

 だから、その歴史家の仕事は本でいえば二冊あるいは論文量でいえば1000頁ほどは読んでいることがどうしても必要である。論文の二/三本を読むのは実務であって読書ではない。その論文一つ一つはしばしば実務的なもので、散文的なものであるかもしれない。しかし、1000頁となると、そのカバーする史的世界の範囲は相当に広くなる。それは、その歴史家の仕事がが整った体系をなしているかどうかには関わりない。もちろん、体系をなしていることがのぞましいとはいえ、そこで必要なのは、ともかく史的な知識と直覚が全体的なことである。
 結局、歴史家の頭の環境は、史料を通じて獲得された史的世界に対する知識によってできている。そしてその知識は知識のままではなく、一種の直覚のようなものになっている。その意味では歴史家の頭は職人的なものである。
 そのような知識として自己のなかに蓄積されてメタモルフォーゼされていく本が100冊ということである。

 帰宅。
 授業にでている院生は、今年は、全員院生なので、マスターの間に30冊は読まないとという話しをする。

2013年8月 3日 (土)

池上裕子さん 『織田信長』

Ccf20130803  東京新聞をみていたら(7月28日)、池上裕子さんの大きな写真。歴史学研究会の中世史部会で結城氏法度の勉強会をやったころ、つまり30年以上前からの友人なので、なつかしい。この史料はむずかしい史料で、みんなで読んだその解釈は活字にしようということになって、ちょうど、永原先生が結城市史を編纂されていたこともあって、結城市史にのった。解釈では、みんな池上さんの側に立ちたがった、または池上さんの判定が自分にくだることを競った。ポーシャ姫である。
 この前御会いしたのは、去年の歴史学研究会か、一昨年の同部会の中年部会で国立で飲んだときからだから、もうしばらく御会いしていない。もっと会う機会を作らないと、我々も若くはないので、研究上の交流を十分にしないままになってしまう。
 さて、このインタビゥーは吉川弘文館の人物叢書の『織田信長』の話。私もいただいて通読した。見事な本であると思う。信長は「統一政権」とはいえないというに感心。私も京都を押さえるという点が問題で、都市占領がキーだと思う。そのうち京都論をやってみたいというのが夢であるが、いつ自分の研究でそこまでいけるかというのが、最近の地震研究と神話論があって、見通しが立たなくなった。
 この本への感想では「もっと信長を評価すべきだ」という意見が多かったということで、池上さんの感想。「歴史学者って案外、権力者が好きなんです」。痛烈な人である。「歴史学界の権威者からは『信長は統一政権として評価すべきだ」とい意見があったということであった。こういう馬鹿なことをいう権威者とは誰だ? 
 「権力者は史料も多く、研究成果もえられやすい。村のことを調べようとすると史料は少なく難しい。でも民衆を知りたい」というのは、研究者としての職業倫理であると私なども思う。プロになったら難しいことをやるべきだ。上からつめていかないとならないというのは事実ではあるだろう。若い人がそれをやるのはいい。歴史は史料が第一だから地層のように、上からはいでいかないとならない。しかし、それはいわば考古学でいえば準備仕事で重機でやるべき部分だ(といっても近代の地層を重機ではいでもよいという訳ではないが)。そこは集団労働でみんなでやる部分だ。そこに責任をもちながら、地層の下の方に触覚を働かせるのがプロのはずである。信長などは、重機で掘る部分であり、いわば歴史のゴミ部分であり、正味ではない。私の場合は、清盛とか頼朝とか義経にあたるので、私も早くそれらのゴミ処理を終えたいものである。
 さて、池上さんがよく立派な歴史家が出身するところとして知られる新潟、そして佐渡のご出身であることは知っていた。ただ、農作業の経験があるというのはうかがったことがなかった。以下、それを引用して池上さんへのオマージュにかえる。
 記者の質問「池上さんが農民とか、支配される側に目を向ける原点はどこに」。
 池上さんの答え
 「実家は新潟県佐渡市の農家で、田植え、稲刈りも手伝いました。農民の生活はある程度分かっているし、村という共同体の状況も大体分かります。どのくらい田畑を持っていれば、どんな生活が成り立つか。あんまり成り立たないんですけど。村のみんなで水路をいくつも造り、その先をそれぞれの田んぼに分けていく。そういう共同作業がありながら、みんなが仲良く暮らしているわけではなく、それなりに大変だということも知っています。
 村人が生産にどう携わり、家や家族をどう成り立たせていたか。地域はどうつながっていたのか。権力者は資料も多く、研究成果も得られやすい。村のことを調べようとすると資料は少なく難しい。でも民衆を知りたい」。

2012年8月14日 (火)

マツリゴトは「祭事」ではないというのは常識だが、成沢光『政治のことば』

120814_082252  成沢光さんの『政治のことばー意味の歴史をめぐって』の解説を書いた(講談社学術文庫)。
 日本史の前近代の研究について法史の側から重要な貢献をしている研究者としては石井紫郎氏、政治史研究の側からは成沢さんだと思う。上記は成沢さんの名著、最近の若い研究者では読んだことがないという人もいて驚いた。とくに「古代」「近世」の人たちには読んでほしいものだと思う。あとがきには石母田正・藤田省三の両氏への感謝の言葉が載っている。
 先日、本になって成沢さんに連絡をとった。私などは、この本を前提に考えてきたことが多いので、感謝をしていただいて光栄であった。

 「マツリゴト=政事」とは「祭事」のことで、祭政一致の日本の「国体」をあらわすというのは、古く北畠親房が『神皇正統記』で述べたところであるが、今でも政治家などは、そう思っている人が多いようである。しかし、竹下登という総理大臣は、「政治」は「ツカサ々々」を束ねて粛々と「ご奉仕」する仕事であると称した。興味深いのは、本居宣長が、奉仕を「マツル」と訓読みすることに注目して「政とは奉仕事である」としていることで、あるいは竹下の口癖はそれをふまえていたのかもしれない。それはすでにわかることではないが、ただ、彼の奉仕の対象が天皇であったことだけは確実であろう。
 さて、政治学の丸山真男も、この宣長説にのっかって「政事の構造」を論じたことがある。丸山は、これを日本では古くから正統性と決定の次元は分離されていたという図式で説明する。そして、政治家は決定を「マツリゴト=奉仕事」という意識でやるから、最後までは責任を取ろうとせず、また天皇は正統性のレヴェルを保証する象徴にすぎないから、そこも無責任ということになっているという訳である。いうまでもなく、これが日本の政治の特徴、いわゆる「無責任の体系」の原型であるというのが丸山の「政事」論の主張である。
 日本人はこういう「語源」の説明が好きで、「ああそうか」と感心してしまう場合が多い。しかしこの種の言葉、本書のいう「政治のことば」の説明に簡単に納得してしまうのは一般にやや危ういことである。私たちは言葉を使っているつもりであるが、実際には、言葉は私たちの外にあって、私たちの心をしばっているのではないか。右にふれた丸山のエッセイも、着眼点はさすがであり、耳に入りやすいものではあるが、私のような歴史学徒からみると実証手続きが十分でなく、本当のところは、どうも落ち着かないところが残るのである。
 それと比べるとに対して、本書で展開された成沢光の「政事」論は歴史学者も了解することができる綿密な仕事である。くわしくはⅠ「古代政治の語彙」の考証を読んでいただくことになるが、次頁の図は、本書の描き出す政治意識の構造の全体を考える中で、私が描いたものである(図、省略、保立『かぐや姫と王権神話』参照)。これを簡単に説明すると、まず「イキホヒ」という言葉は、成沢によれば、「徳」と書く人徳や福徳の力が中核にあるが、さらに「威」と書くことの多い神威や武威もふくむ場合や、「権」と書く政治的な思量の力を意味する場合があって、それらが一種の呪霊的な力によって統一されているという。成沢は、これを『古事記』『日本書紀』などにそくして明解に説明している。
 このうちでもっともオリジナルなのは、最後の「権」という字についての指摘であろう。つまり成沢によれば、この字は「イキホヒ」と読むと同時に「ハカリゴト」とも読む。「ハカリゴト」とは思量・知謀の力であるが、政治は「ハカリゴト」の力であるというのである。そして、そういうことになると、問題の「マツリゴト」は、この「ハカリゴト」の下に位置することになるので、その証拠に「マツリゴトヒト」とは四等官のうちの三等官(「判官」)、役人でいえば下の方に属する。「マツリゴト」とは必ずしも高級な仕事ではなく、私なりにいいかえれば、釣り糸の「オマツリ」を処理するような煩瑣な手続きといえようか。そもそも「マツリゴト」の「マツル」とは「マツワル」と同系の言葉で、主人にマツワリツクように奉仕するのである。
 こういう風にみてくると、政事=祭事が祭政一致の日本の国体だなどというのはただの俗論であり、思いつきにすぎないことは明らかであろう。それは本居宣長以前、レヴェル以下のものであるということであるが、成沢が明らかにしたことは、明らかに、本居宣長(そしてそれに依拠する丸山)を越えている。つまり、「政事の構造」とは、王にとっては、マツリゴトは面倒な雑務という性格をもつのであって、そういうことは他人にやらせて、自分ではやらない。その代わりに、王のそばには、知謀をもってマツリゴトの処理をする「謀」担当者がいて、「政」担当の集団はそのさらに下にいるということになる。王は「無責任」というよりも、この重層的な仕組みによって責任を曖昧にしていくのである。成沢の指摘は、丸山のような説明図式ではなくて、具体的な仕組みに踏みこんだものであるということができるだろう。そして成沢によれば、その「共謀」を代表する地位こそが「摂政」であって、この役職は「政フサネオサム」と訓読みするのだというように敷衍されていく。それを漢字でかけば「総理」となるが、「フサネル」とは束ねる、つまり雑事を束ねて処理するという意味である。そもそも摂政任命の詔勅には「万機を摂政す」などとあるが、「万機」の「機」はマツリゴトと訓読みする。つまり「政を摂る」とは、諸々の「政=機」を総覧してハカリゴトをするという意味なのである。
 以上が、Ⅰ「古代政事の語彙」の紹介であるが、成沢の議論が見事なのは、これが歴史を貫通してⅣ「近代政治の語彙」と密接に関係していく点である。それを味わっていただくためには、読者は、まず以上を頭に入れていただいて、Ⅳの1「『権利』『権力』について」からお読みいただくのがよいかもしれない。そこには、明治初期に作られた「権利」という言葉の「権」が江戸時代においても、「イキホヒ」という意味を保持していたこと、それ故に「権利」とは「イキホヒの利」、恣意的な利益主張というニュアンスをもち、だからこそ、それに対して「義しい務」という言葉が対置されたという目をみはるような説明がある。私はこういうニュアンスはいまだに私たちの社会生活を呪縛していると思う。これはたとえば中学生が日本国憲法の勉強をする際にはかならず伝えるべき、最重要な政治思想史、法思想史の中心問題であると思う。
 そして、Ⅳの2「統治」は、上記のような「政事の構造」から、どのようにして啓蒙的な絶対君主制が生まれてきたかを、「統治」という新語が明治憲法に入るまでの経過にそくして解明している。「万機公論に決すべし」という五ヶ条誓文の一節は誰でも知っているだろうが、それは万機を「フサネオサム」役職、つまり「摂政」をおかずに、政府上層部の「公論」をもって政事を処理するという意味であった。そして、国家上層部内部の「公論」が各省(「司」)大臣制とそれを総括する「総理」という形で組織されるとともに、天皇の絶対的地位について「統治」という言葉が案出されたという。私は、冒頭にふれた「総理大臣」竹下の口癖は、こういう経過を無意識に継承したものではないかと思う。
 このように「古代」と「近代」を一貫して語るというのは、方法と全体像を重視する成沢のような立場ではじめて可能となるものであって、現在のところ、歴史学者にはむずかしい力業である。しかも私などにとっての驚きは、執筆の時期が「近代」の方が早いことである。著者の頭の中では、まず「近代政治の語彙」についての意見が半ばはできていて、それにあわせて「古代政治の語彙」について追究したという経過らしい。そして、このような現在と過去を歴史貫通的にとらえるという方法意識は、Ⅲ「近世都市意識の言語」も同じである。
 そのテーマは、ガラっと変わって江戸期に形成された時間意識、それに対応する労働観、身体観、都市空間論などであり、江戸期社会が都市による(人間自身の身体もふくめた)自然の集団的な平準化が進んだ社会であることを系統的に描き出している。これに対して、歴史学界では、今でも江戸時代を「封建社会」という風習があるが、私は日本社会は「封建制」社会であったことはないと考えている。それは封建制の概念論にかかわる問題であるが、なによりも、「封建制」ということによって、江戸時代と現代社会の共通性が曖昧になっているのが大きな問題である。むしろ本書がいうように、江戸期社会は現代日本の世俗秩序の起源に位置しているというべきものだと思う。とくに重要なのは、江戸期における社会集団の均質化が「文明化」と近代資本主義の展開を直接に支えたとする著者の観点であろう。従来の「封建社会から資本主義」というシェーマでは、多かれ少なかれ資本主義化の条件として「私的・近代的」な社会経済関係が探索される。しかし、そもそも資本主義は現実の社会関係としては、世界史上もっとも集団的な生産様式なのであるから、私にも、その移行は、江戸期都市社会における分節的な集団的構造が直接に編成替えされる過程が中心であったように思えるのである。
 問題は、このような都市的構造と「政事の構造」の関係であるが、著者はそれを歴史論の二冊目、『現代日本の社会秩序ー歴史的起源をもとめて』(岩波書店、一九九七)で追究している。これは本書の解説の範囲を越えているが、そこでは「なぜ学校の先生は”一糸乱れず静粛に整然と”生徒を集団行動させたがるのか」などという問いから発して、現代日本の世俗秩序の起源が語られている。そこに著者の現在から過去にさかのぼる方法の到達点が示されているが、これに対して、著者の歴史研究の初心を物語るのが第二章「国家意識と世界像をめぐって」である。ここには「蕃国と小国」「<辺土小国>の日本」の二本の論文がふくまれている。前者は『日本書紀』などで朝鮮諸国が「宝国」「金銀の蕃国」といわれていること、後者では日本を「辺土粟散の国」に過ぎないとする意識が末法思想や本地垂跡説の裏側にあったという意外な事実が印象深く描き出されている。
 この二つの論文は、私たちの世代の歴史研究者が東アジア世界論に接近していく上で大きな影響をもったものだが、前者はいわゆる仏教公伝記事、後者は道元と親鸞が切り口となっている。つまり、どちらも仏教の世界像が問題の中心なのである。著者が右の『現代日本の社会秩序』でも道元を取り上げていることをみると、どうも著者は、日本の前近代の思想においては、仏教がもつ位置を重く評価しているらしい。そして、これが同じ政治思想史にとり組みながら、丸山と著者の論調が大きく異なる原因になっているように、私は思う。丸山が重視する儒教にくらべて、東アジアの仏教はきわめて錯綜した問題で、そう簡単な図式化を許さないところがあるのである。
 とはいえ、残念ながら、古代から現代におよぶ著者の政治思想史の構想の中で、仏教がどういう位置にあるのかは、右の『現代日本の社会秩序』を読んでも、もう一つ不明であるというのが率直なところである。しかし、それは著者が扱ってきた問題領域があまりに広く、かつ著者の宗教観にもかかわって、やむをえないように感じる。これは、著者の体系が、ともかくも歴史学界によってもう少し理解され議論された後に辿りなおされなければならない問題なのだと思う。
 それにしても、本書の初版が発刊されてから、もう三〇年近くにもなる。学問というものは進まないものだと思う。もちろん、各分野ではいろいろなことが分かるようになったのではあるが、本書の扱っているような根本的な問題、歴史の各時代を通じた問題、あるいはいわゆる学際的な問題というのは容易に突破することができない。私は本書の中身のほとんどを、雑誌論文の形で読み、それはずっと頭の中にあって根を張り続けていたのだが、三・四年前、『竹取物語』の求婚者たちのイキホヒが著者のいう基準でかき分けられているのに気づいた時は本当に驚いた。そして実は、この解説は、その図が著者の目にとまったために私が書くことになったものである。
 先日、そのことではじめてお目にかかった時は、長い間の相談相手に初めてあったとでもいうべきか、非常に奇妙な感じがした。最近、著者は生命医療の問題に研究対象を三転され、すでに歴史研究の足は洗ったとおっしゃっているが、このご縁で実際に御話しをうかがうことができるようになり、この本がでたら飲もうということにもなっていて、人間をつなぐ時間というものの不思議さを感じている。
                  (東京大学史料編纂所教授)

2012年6月17日 (日)

日記。成沢光著『政治のことば』と『平安遺文』の学恩ということ。

Cimg0316  これは千葉公園の大賀ハス。先週の火曜?。今はもっと咲いているはず。今日は日曜なのに所用ででるが、その途中、自転車をオーバーホールに出す途中で見に行くつもり。

 成沢光さんの『政治のことば』が文庫になるので、その解説をせよということで、やっと書き終わる。『かぐや姫と王権神話』で、『政治のことば』の「マツリゴト」論、「イキホヒ」論に依拠して議論したのが、成沢さんの目にとまって、解説を依頼されたもの。

 この本は1984年の出版だが、収録された論文は平凡社の『月刊百科』で読んだのだから、もう30年近く前に読んだことになる。それ以来、頭の中に、この本の趣旨が根をはってきたのだから、その解説を依頼されるというのは、光栄なことである。

 しかも先週、わざわざ成沢さんと編集の人が職場にきてくれて、はじめてお目にかかる。「先生の御考えは、私の頭の中に移っています。よく知っています」ということであるが、直接におめにかかるのは、何とも奇妙な感じである。編集者の方からメールで依頼をうけ、御引き受けしたところ、その後、先生ご自身からメールが来たときも奇妙な感じであった。電脳とネットワークを通じて連絡がある前に、活字を通じて、同じ情報が、私の頭の中に存在していたのだが、それが電子情報をつうじて再会し、さらに直接にお目にかかるという訳である。そして頭の中にある思考もそれを還元すれば電子情報なのであるから、これはどういうことなのであろう。ともかく御会いしたこともないのに、懐かしいというか、光栄というか。

 私は、ずっと丸山真男の「歴史意識の古層」というエッセイの批判をしようとしていて、その根拠が成沢さんの仕事と石母田正さんの仕事、そして黒田俊雄さんの仕事である。昨日は、その最終確認のために「古層」論文ののっている丸山の『忠誠と反逆』を探したが、でてこない。これまでも『忠誠と反逆』を探すとでてこないことがあったが、これは別分野の本の置き場所がはっきりせず、しかも、この本は、時々、使うのででてこないらしい。これは本棚の抜本的な片づけをするほかないときめ、Mちゃんに分給を払って片づけを開始したら、でてきた。そこでこの本は、私の頭の中では関係している黒田俊雄著作集のそばにおくことにした。そして『政治のことば』もそこにおくことにした。視線がそこを通るたびに、批判の課題を思い出すことにしたい。

 下記は、解説の一節。

『政治のことば』はけっして読みやすいという本ではないが、読者は、この筋を頭に入れていただいた上で、まず第四章の第一論文「『権利』『権力』について」からお読みいただくのがよいかもしれない。そこには、明治初期に作られた「権利」という言葉が「イキホヒの利」、恣意的な利益主張というニュアンスをもち、だからこそ、それに対して「義しい務」という言葉が対置されたという目をみはるような説明がある。こういうニュアンスはいまだに私たちの社会生活を呪縛している。

 この解説をPCの「先輩研究者」というフォルダーに保存したら、竹内理三先生の追悼文集に書いた「『平安遺文』の学恩ということ」という文章があった。いろいろなことを思い出した。下記のようなもの。

 『平安遺文』の学恩ということ
               保立道久
 『平安遺文』二七一五号文書の勝尾寺文書は、「村の人々・座につくはかりの人々」という村座の記事によって有名なものであるが、その直前に次のような一節がある。

かの畠はあけとりて、われつくりて、ちしをもんてハ、あふらかゐて、す正・二月のおこなゐ、又まいやのたうみつのみあかし、けたいすへからず、

 右は『平安遺文』の第四版(一九七五年)によったものであるが、だいたいの意味は、畠を「上取」って自作し、その地子で油をかって、修正会、修二会などに使用せよということだろうか。ところが、三版(一九七〇年)では、傍線部のところは、「あふらかゐてす、正二月のおこなゐ」となっている。竹内先生は、だいたい四版に際して、点の位置を「す」の後から前に訂正したことになる。
 私は、一九七三年に国際キリスト教大学を卒業し、都立大学の大学院で、戸田芳実氏の指導をうけた。実は、進学の前後に戸田さんの下宿にうかがった時、ちょうど戸田さんは、この文書の点の打ち方についての竹内先生あての葉書を書いていたのである。このころ、戸田さんは『箕面市史』の関係で、勝尾寺文書を読んでいたはずだから、その中で気づいたのだろう。戸田さんは、その葉書を見せてくれ、もし指摘が正しければ『平安遺文』の学恩に少しでも酬いることになるといっていた。結果からみると、竹内先生はこの時の戸田さんの意見を容れられたことになる。
 学部時代、大学には専任教官はいなかったが、日本の前近代史を研究したいと考えた私は、最初は近世史の研究書を読み出した。しかし、卒論を書くには、ともかくも史料を読まねばならないこと、一人で近世文書を読むのは無理とすると、中世の活字になっている史料を読むほかないことはすぐにわかり、図書館の棚にならんでいた『平安遺文』に目をつけた。大学四年の夏に石母田さんの『中世的世界の形成』を読み、そこに使用されている史料を『平安遺文』から拾い読みしたのである。そして、私が中世文書の読み方を教わったのは、その頃、歴史学研究会の委員をやっていた渡辺正樹さんである。歴研の事務所に電話して渡辺さんを紹介してもらい、電話で話して、高田馬場の駅の裏手の喫茶店であうことを約束し、『平安遺文』を目印にして会ったことをおぼえている。その時に渡辺さんから読んでごらんといわれた、『平安遺文』第一巻の近江国大国郷の土地売券類を素材として、私は卒論を書いた。
 こういうことだから、大学院に進学することを許可された直後に、戸田さんが『平安遺文』の読みの訂正を報告する葉書を書いているのをみて、私はまったく感心してしまったのである。そして、こういう形で研究を始めた私は、その後、長く、『平安遺文』の研究さえできれば十分という感じ方から解放されなかった。後に、私は、史料編纂所の古文書部に就職したが、その直後に、古文書の部屋でもった古文書集の編纂についての勉強会で、編年文書さえあれば十分というような極論をいって笑われたのも、そのせいだったと思う。さすがに、現在の調査・研究段階で所蔵者別の文書集の編纂が不可欠な意味をもつことは、すぐに理解したが、自分の研究では、『平安遺文』を扱っていればよいという根本気分は、その後も長く続いた。
 私がこういう感じ方から離れることができたのは、『鎌倉遺文』の出版が相当の冊数まで進み、発刊されるごとに『鎌倉遺文』の全体を読む習慣がついてからのことであった。『平安遺文』の世界から離れて徐々に「中世史らしい」研究に近づくようになったのにも、先生の学恩を受けていることになる。
 また、私が史料編纂所に入所したころは、竹内先生はまだ御元気で、時々古文書の部屋にも来られていた。古文書部の諸先輩は竹内先生のことを本当に敬愛していて、史料編纂所時代の竹内先生のエピソードをよく聞かされた。私自身も、編纂していた『大徳寺文書』一二巻の二九八三号文書の「作不」という字が読めずに困っていた時のことが忘れられない。笠松さんから、これは先生にうかがえばすぐわかるからといわれて、ちょうど部屋にこられた先生に、私は、緊張してうかがった。先生がすぐに読んでくれたこと、そして、笠松さんがあたかも自分で読んだかのように自慢そうだったのをよくおぼえている。
 もちろん、笠松さんに読んでもらった字は数え切れず、そのため、私は、編纂というものは「一字一宿」の恩義ということだと思い定めたのだが、それにしても、誰でも思うことではあるけれども、『平安遺文』『鎌倉遺文』に対する恩義ということになると、その総字数からいっても計算することができない種類のものになるのである。

2012年3月15日 (木)

読書とネットワーク、リルケの『フィレンツェだより』

               20120315
 読書とネットワークということを考えると、若い人は所有するものとしての本に、魅力を感じなくなっているのだろうと思う。それは、所有というよりも、まずは本が消費の対象にもならないということかもしれない。消費はやはり一種の「虚飾」や「流行」を必要としている。現在の「流行」「虚飾」の世界の中では、自分自身の意思で、何かを買おうという場合に、本を買おうという消費意識がでてこないのはやむをえない。
 しかし、本というものは、そもそも所有しなければ話しにならない。「一冊の本、あるいは一枚の絵について、本当にはっきりした見解をもつためには、それを所有しなければならない」のである。これはリルケの『フィレンツェだより』の言い方で、リルケはそれにつづけて

「わたくしが使いなれている一冊の本は、本当に親しく自分の歴史をわたくしに語ってくれる。わたくしがその本を使用すればするほど、今度はわたくしの方がその本に自分の話を聞かせたくなり、本は聞き手に廻るのである。友だちになった本は、喜んでこの楽しい役目の交換を引きうけてくれる。そこから予見できない情況が生まれてくる。時がたつにつれて、本は実際に印刷されているものの十倍もの内容を持つようになる」

といっている。

 こういう本への対し方が大学生の中で消失しつつある。大学にいるとよくわかるが、そもそも知識人世界でも、実際上、そうなっているのだから、これはいわば必然のことである。それにもかかわらず、いわゆる「情報化社会」(あまりいい言葉ではない)にふさわしい親密な知性のあり方が生まれていないのは、おそるべきことだ。同じ『フィレンツェ日記』の言い方だと、

ああ、早く来すぎた人々の痛ましい苦悩。彼らは蝋燭に火が点けられて玩具が輝くより前に、ノエルの木の部屋に入った子供たちのようである。彼らは敷居から立ち去ろうとしながらも、この興ざめた暗闇の前に、彼らの哀れな眼がそれに馴れるまで立ちつくすのである。

 
 ということになるだろうか。情報化の圧倒的な波が形をとる前に、大きな横波にさらされている若い人たちは、本当にたいへんだと思う。彼らは小船を組み立てる前に、突風にさらわれ、薄板にすがって底知れぬ海の上を漂っている。
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 この『フィレンツェだより』は、森有正の訳したもの。仕事の出張なので、ちくま文庫の一冊だけポケットにいれてきた。これを読むことによって『マルテ』や『ドウィノ』がリルケの立場から具体的に理解できるように思う。
子供部屋のたとえなどは『マルテ』そのものである。
 
 リルケが「所有」という言葉によって「本」を語っているのは、『ドウィノの悲歌』の「T・U・タクシス夫人の所有から」という副題の意味を明瞭に物語っている。高校生の頃に読んだ時は、この奇妙な副題の意味がわからなかった。タクシス夫人の『リルケの思い出』を読んでも、何も分からなかった。それが今頃分かるというのは、とうとう「本」を「所有」した。または所有されたということであろうか。
 小さなものの所有、しかも意識と知識と感情に直接にかかわってくる、それとして物質的な効用のないものを所有する親密な意識。リルケの『フィレンツェだより』は、19世紀末期に成立した文化的公衆というものへの批判と位置づけられるのであろうが、公衆の成立、読書の成立の中で、ぎゃくに「本の個人的な所有」、ほとんど身体的な個人的な所有という意識が鮮明になったというのが興味深い。

 私は、中井正一が好きなので、こういう問題を「委員会の論理」その他の、彼の仕事を通じて考えることになるが、中井の議論との関係では、このような「本のあり方」をどう考えるかが問題となる。以前も書いたと思うが、中井の言い方では、紀元前後以降の「経典」の誕生は、世界宗教の信仰集団の共有物として形成されたと説明することができ、それはその背後に直接に教団というネットワークをもっている。日本の宗教史でいう「聖教」というものであって、この聖教と経典の所有は寺院ないし教団の「財」であって、個人が管理するとしても、組織的な所有の対象なのである。そして、中井の言い方では、経典の共同所有に対応するものが「瞑想」であるということになる。一般に瞑想は個人的なものと考えられがちだが、実際には、瞑想のための共通する手段が与えられることで「瞑想」も可能になるというのが、中井の見解の独自なところだろ思う。「瞑想」には共同性が前提になっているというところがキーであると思う。
 中井の見解を敷衍すれば、これに対して、「近世」における中国の宋代に由来するブックの形態の一般化が、ヨーロッパでグーテンベルク革命をへて、近代社会へ向かうということになる。もちろん、ヨーロッパの職能集団、ギルドが共有のアーカイヴズをもっていたことはよく知られている。実際に、ヨーロッパのアーカイヴズは、ギルドによる組織的な文書所有からはじまっている。それは教会のアーカイヴズと共通する側面があるのだろうと思う。しかし、それらは権利にかかわる世俗文書であることが決定的に違っている。それは瞑想の手段でも対象でもない。それは、契約の文書化と技術の記述という手工業から資本主義にむかう社会的・経済的趨勢の中で蓄積される。そして専門職の中での科学技術が大量の手引き書としての本を作り出すのである。こうして知識・技術・情報の私的所有の担保としてのBooKが展開したのだと思う。すぐにそのページにたどり着くことができる「本」。瞑想・記憶・崇拝の対象ではなく、参照する対象としての「本」、小規模な外部記憶装置としての「本」である。
 リルケがいっているのは、その最終局面。19世紀における「公衆」という形での公共圏、読書というものが形成される中で起こったことなのであろう。私は、読書やリテラシーについての研究が全体としてどうなっているのかをしらない。しかし、こういう点では、私たちの世代とリルケは私たちの時代の先頭にいた先輩であって、私たちの世代がリルケの世代に属することは実感的に理解できる。
 いま「情報化」によって起きようとしていることは、こうした「経典=集団所有」というシステムから、「本=個人所有」というシステムへの転換を、ある意味で逆転させること、つまり「サーバー=集団所有」のシステムへの転換である。そこに新たな共同性を獲得することによって、「瞑想」の世界を復権する。外部脳の連携を武器として、新たな連携と連帯を構想する。それを瞑想と内省として形作ることが、必要な時代になっている。
 この場合、決定的なのは、ネットワークの向こう、コンピュータ端末のむこうでむすばれている集団への帰属意識の問題なのであろうと思う。若い人々が、その意味で、本の身体的所有からはなれ、ネットワークの向こうを注視して生きていくのは、きわめて自然なことなのであろう。その場が、その部屋がリルケのいうような、「早すぎた人々」が立ちすくむ小暗い部屋でないことを望むばかりである。そして、そこから、ときどきは戻ってきて、やはり「本」を中心とした日常世界の身体的所有の親密さを大事にしてほしいとも思うのである。
 
 いま、京都出張の帰りの新幹線の中。昨日の夜、何度も目が覚めてしまい。ぼそぼそと、リルケの永遠を語る言葉を読み、こんなことを書いていた。リルケの文章は勁い。
 しかし、それにしても、この『フィレンツェだより』の文庫の森による解説のトーンは懐かしい。私は国際キリスト教大学の卒業だが、晩年の森はしばしばICUに滞在した。カナダハウスという学寮にいた私は、早朝、眼がさめてしまうと、チャペルに行き、二階席の一番後ろの隅で、森がチャペルのパイプオルガンを弾くのを好んで聞いた。チェペルの脇口があいていて、森がやっている時は、途中からキラキラと空間に広がるようなオルガンの音が聞こえてくることを覚えている。寮には、森に気に入られた先輩もいたが、近くで見る、無精ひげを生やした憂鬱さをきわめたような森の顔と姿も、よく覚えている。
 いまの時代は、ほとんど森のものを読むというようなことはないのだろうが、なにしろ、あの時代は、私が受験した時のICUの人文科学の入試問題自身が森の『バビロンの流れのほとりにて』であったような時代である。あまり勉強をしなかった私が、浪人生活を切り上げることができた一つの理由は、その問題はよくわかったためであったように思う。
 ここまで書いてきて、我々の世代を覆っていた奇妙なつながりと、偶然の網の目の中へのとらわれを実感する。それは歴史があたえてくれた保護でもあった。現在は、それらがすべて破砕された時代である。「パット、ハギトラレタアトノ世界」。若い人々の苦闘の稔りのない暗さと、つらそうな軽さのことを思う。

2012年3月12日 (月)

地震火山58石橋克彦『原発震災』

 3月11日は、半日かけて石橋克彦氏の『原発震災』を読んだ。せっかくいただきながら、余裕がないまま通読せずにいたが、今日、時間をとって全部読むことにして自転車で出た。花見川の自転車ルートにでる前の谷戸は春。はこべの花の写真をとったが、青がきれいにはでない。
120311_131024  この本のプロローグは「いまこそ地震付き原発との決別を」という題。そして本書の全体の構成と趣旨の説明がある。福島原発事故について、「もし、この事故並みか、それ以上の原発事故が再び起これば、日本という国は立ち行かなくなるだろう」とある。これが本書のキートーンである。そして、本書で同じように目立つ言葉は「起こる可能性のあることは、すぐにも起こる」という言葉とあわせると、本書のもつ問いが根源的という意味でラディカルであるということがよくわかる。
 プロローグは、「津波の前に地震動で重大事故が起こった可能性」についての詳細な分析としても重要なものである。東電の公表資料にもとずいて著者は、福島第一原発の揺れの加速度時刻歴波形のグラフを作成し、その地震動の強さと継続時間を算出し、それにもとづいて津波以前に原発の機器の重要部分が破壊されていたことを、ほとんど否定が困難な精度で示す。そして問題を津波の高さのみに帰そうという一部の曖昧な主張を退ける。
 著者は、現在、(政府の事故調査委員会、畑村委員長)(この部分あやまり、失礼しました)、国会事故調(黒川清委員長)
に参加されているから、この作業は、その委員としての職責にも関係するものであると思われるが、これによって、日本の原発のすべてが、事故を起こす可能性が論証されている。そもそも建設の安全基準が甘いという重大問題である。
 こういうものが自然科学者のラディカリズムなのだと思う。歴史家は、基本的にはリベラルで保守的な判断を日常意識としてはもたざるをえないというのが、私などの考え方である。そういう意味でのリベラリズムは歴史家にとっては大切なもので、リベラリズムと(史料を扱う上での)トリヴィアリズムなしに歴史家は職業を営むことはできない。もとより、歴史家にとっても根源主義という意味でのラディカリズムは必要なものである。そもそも「根=ラディックス、Radix」に入り込むのが歴史家の仕事である以上、それは当然のことである。しかし、歴史家にとって、リベラリズムとラディカリズムを現実に統一して仕事を進めることはむずかしい。歴史家にとっては理論と論理はそのためにあるのであるが、これに対して、自然科学は仕事それ自身が理論と論理なしには進まないのである。自然科学のラディカリズムは、その意味で本当に頼もしいものだと思う。
 本書の全体の紹介は、私の任ではないが、まず構成だけを紹介しておくと、第一章「福井志摩第一原発を地震・津波が襲った」、第二章「地震列島の原発震災」、第三章「科学と科学者の責任」、第四章「安全神話と危機管理」、第五章「自然の摂理に逆らわない文化」、エピローグ「浜岡原発震災で何が起こるか」となっている。
 もっとも考えさせられたのは、原発の「燃料」のゴミ処理問題に対する地震学者としての見解である。ようするに(少なくとも日本列島における)地層処分は無理、無責任以外の何物でもないという見解である。これを読んでいると、一体、それでは、この「核のゴミ」をどう処置したらよいのかということについて、自然系の学者、学界は公開で徹底議論をする義務があるということを強く思わせる。そもそも地球科学の学界と合意なしに地層処分が計画され、法律まで存在するというのは、原子力研究の乱暴な独走であって、第二次大戦後の自然科学界の最大のスキャンダルである。それなしに企画されて政策的に遂行された「もんじゅ」計画の賛同者・責任者は、文殊菩薩の前でどう説明するのであろうか。これは学者・学界として他人事ではない。一時、大学では「説明可能性、アカウンタビィリティ」ということがいわれたが、おそらく、これは最大の説明責任であろう。
 私も直接の関係者から、この地層処分の話をきいたことがあるが、座談の場であったこともあって、十分に問うことをしなかった記憶がある。核のゴミ処理をふくめれば、原発はとても経済的に成立する事業ではないというのはよく知られていたことではあるが、これが「科学と科学者の責任」にかかわる最大の問題であるということを大学は明瞭にしなければならないと思う。第二次大戦後、「科学者の社会的責任」という議論が、湯川・坂田などの核物理学グループを中心にして議論になったことはよく知られているが、そのような議論が自然系から出てきた理由を実感させられた。
 歴史地震の研究を始めたものの立場から引き込まれたのは、「『駿河湾地震説』小史」である。人文社会系のメンバーにとっては、ここを起点にして地震学の研究史を辿るのがわかりやすいと思う。ちょうど、その時期が、現代地震学の二つの基礎理論、つまり著者のいうところの「現代地震学の二本柱(地震がどのように起こるかを示す断層模型論と、地震がなぜ起こるかを理解するプレートテクトニクス)の誕生・普及」(38頁)の時期であったことが何よりも興味深い。学史といわゆる「予知」問題、学問と社会的な責任が重なり合って問題になる状況はなかなかきびしいものがある。
 なお、これとの関係で、この時期こそが「原発が新・増設されはじめた60年代後半から70年代前半」にあたることは歴史的な皮肉あるいは悲劇であるというのが著者の原点であることがよくわかる。この時期、地震学からの原発立地についての議論を組み立てる学問条件が十分でなく、しかもこの時期までは、地震活動の相対的な平穏期であったことが、原発の異常な立地の条件になっているというのが著者の一貫した観測。

 その他、いろいろなことを考えさせられた。歴史地震論にかかわる部分は重要だが、省略する。

 なお、私個人として興味を引かれたことがある。私は、原発の安全「神話」という用語は、神話の思想的な意味を過剰に低くみるものだという意見である。著者は、同じことを「空疎な呪文」というように表現しているが、これが正しいと思う。たしかに原発問題の根っこにあるのは、「自由なエネルギーに対する」呪文、呪物性、フェティシズムである。それが商品のフェティシズム全体を支えるものになっているというのが、日本の資本主義的消費風俗の根っこにあるということだと思う。水は天下のまわりものが、電気に変わったという訳だ。

2012年3月 4日 (日)

岩波文庫「私の三冊」

120303_152909  昨日はひな祭り。娘と相談があって昼食事。彼女に草餅をかってもらい、その後、私は、稲毛浜へ自転車。久しぶりの浜辺である。漁船がおいてあった。30年くらい前まで現用の小型底引き漁船。これで相当沖まででていた。

 必要があってド・ラメトリーの『人間機械論』を書棚から探し出した。大拙とラメトリーなどというのは昔の話か。娘にラメトリーをどう読んだかと話しても現実感はないか。

 「人間の存在の理由が、その存在そのものの中にないかどうか、誰が知っていよう。人間はおそらく偶然に地球の表面のどこか一点に投 120303_153612_2 げ出されたものであり、いかにして、またなにゆえ投げ出されたかは知ることができず、ただ生活し、死滅しなければならぬことを知りうるのみである」。

「われわれは自然の野においてはまことに一匹の土竜にほかならない。われわれのそこに印する足跡はこの動物の歩く距離と似たりよったりである」(人間機械論)

 以前に書いた岩波文庫からの「私の三冊」を下記に。

(1)『経済学・哲学草稿』(マルクス/城塚登・田中吉六訳)

高校時代、はじめて徹底的に読んだ「哲学書」。傍線の跡が懐かしい。私は歴史学に進んだが、今から考えると、天才的な思想の発生の場を確認する作業は歴史学のテキストクリティークに似ている。

(2)『人間機械論』(ド・ラ・メトリ/杉捷夫訳)

唯物論は「物」への感性を大事にする面と、「物」に特殊な呪術性を与えることへの哄笑の両側面をもつ。そこから生まれる明るい冗舌と快楽主義によって、現代を告知したフランス唯物論の傑作。

(3)竹取物語(阪倉篤義校訂)

私は岩波文庫の薄いのが好きだ。安いから高校生も揃えやすい。『竹取』の著者は、日本思想史において始めて王権・天皇制に対峙する想像力をもった人物。日本文学の中でも出色の完成度をもつ。

          『図書』臨時増刊、2007年四月

2011年12月31日 (土)

今年読んだ本、見たもの、そして仕事の勉強

 今年も暮れる。大晦日
 今年の読書で大きかったのは久しぶりに(おそらく30年以上ぶりに)中井正一の『美と集団の論理』を手にしたこと。学生時代の愛読書。いつのまにか書棚になくなっており、北海道での講演でふれたこともあって、読みたくなって、古書で購入。相当部数出た本なのであろうか。意外と安くて驚いた。黄色い装丁が懐かしい。
 他方、美術出版社の『中井正一全集』は書棚にあり、いまそれを手にしている。高校時代のメモが入っているのには驚いた。以前から気になっているのは、全集2の「日本の美」という、戦後、NHKでの講座をまとめた小冊子の内容。これは「日本の美」というものへの賛歌である。たとえば、こういう文章。「日本の神殿の中心である伊勢神宮が、二十一年ごとに建てかえられつづけながら、ここに一千年もの間、しかも滅びることもなく、その様式方法も変えられることもなく、ここに至っていることも、まことに注意すべきことであります。北京の紫禁城のように、または遠く、あのエジプトの宮殿のように、大きく、いかめしく、滅びることがないことを誇りとして造ることを嫌い通すことがむしろ日本では千年つづいたといえましょう」「あえて素木をもって造る時、すでに脱出の用意をしながら、そのうつりゆく清純な生成感、生きているという「生な香り」を神殿の本質と考えようとしたことは、世界に類例のない、民族のこころであります」。
 中井は国会図書館の創設時の副館長。アジア太平洋戦争にむかう戦前の治安維持法体制に抗して動き、特高に逮捕され、以降、敗戦まで、その監視下にあったという経歴をもつ人物である。そういう中井が、「ナショナルな美」というものを強調し、「日本文化論」に近いことをいう。中井の美学が、美の評価のあり方として正しいのか。事実評価としてどうなのか。歴史家としてどう検討したらよいのか。久野収は解説で、この『日本の美』について、「内容については、専門外の編者は何も述べることはできない。ただ読者諸君の評価と批判をまつばかりである」としている。解説によれば、哲学者中井は、特高の監視の下で、「日本の美」についての本格的な調査研究を始めたという。哲学者中井は、その直前に「日本浪漫派」の民族主義・国家主義を批判した「リアリズム論の基礎問題二三」を書いているのである。
 私は、これは結局、保守主義という問題に関わってくると思う。保守主義が納得できる保守主義であるためには、伝統の「美」への共感と理解に十分な筋が通っていなければならない。そういうもので、中井の日本の美についての議論がありうるのかどうか、それは私には、まだわからないが、ここら辺をどう考えるかは、つめてみたいところである。今年の年初のエントリーで書いたが、加藤周一の議論も点検対象なのだが、それとあわせて中井の議論を、歴史家として点検すること。時間ができたらやりたいことである。
111231_212936  展覧会でよかったのは、近くの千葉市美術館でやった浅川巧の蒐集した朝鮮陶器の展覧会。朝鮮に対する植民地支配に批判をもち、柳宗悦と交流し、朝鮮の山と林業のために働いて、彼の地で客死した。浅川の蒐集した陶器をみていると、アジアにおける保守主義はアジアの美を尊重する保守主義でなければならないことを実感する。好きな朝鮮陶磁をゆっくりみられたのは、今年の贅沢であった。千葉市美術館はなにしろすいている。
 さて、自分の勉強で今年の収穫は、古墳時代から奈良時代の勉強をしたこと。地震論と地震火山神話論をやる必要から、ほぼ30年ぶりで勉強のし直しをやった。津田左右吉の明解さがやはり好きなこと、門脇禎二さん、山尾幸久さんの学説が身にあうことなどを確認。それから神話論の溝口睦子さんの仕事にはじめて親しんだことも勉強になった。とくに、溝口さんの仕事を勉強して、どうもおかしいと思っていた丸山真男の「古層」論文の実証と方法の変なところを確認できたのは収穫。
 地震論では、結局、方法論としては、河音能平・関口裕子の怨霊論が一番役に立つというお里が知れる結論となった。つまり、宗教論からいくと、自然神としての雷神、地震神、火山神が三位一体の構造をなしており、それが八・九世紀の過程で、全体として疫神化していく、そして支配層にも恐れられる、それらの疫神・怨霊を中心にした神々が地主神となって新たな村落ができあがっていくという議論。
 関口さんの1972年歴史学研究会大会報告は、歴史学の勉強を始めたころ、始めて聞いた学会報告。関口さんの早口の報告の雰囲気を思い出す。いまではほとんど評価を聞くことがないが、私はきわめて重要な報告であるという意見を変えていない。関口さんの死去のしばらく前に本郷の地下鉄の駅で会えたのは、私にとっては本当にありがたかったこと。私は関口ファンなので、今書いているものに関口さん賛歌をかけるのがうれしい。

 他方、河音さんについては、河音能平著作集での私の解説が不十分であったことが自分でわかってしまいショックである。河音さんはなくなっているから取り返しがつかない。

 さて、ともあれ、みなさん。どうぞ、よいお年を。
 同学のみなさんへ。歴史学の社会的役割を重視する立場にとっては、前近代史研究にとっても、正念場の年になるのではないかと思います。必要な議論をさけずにいきましょう。