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カテゴリー「研究史(歴史学)」の51件の記事

2017年9月 5日 (火)

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
 『日本研究』五五集。日文研編集、20175,31

要約
 日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において八世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。問題は、それが論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。それはまた梅原が鈴木が日本仏教を無前提に禅と真宗を中心に捉えているという批判にも通ずるものであるように見える。残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しを必要としていることを示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。
鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。


日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
 二〇一一年三月一一日の陸奥沖海溝地震の後、地震・火山史の研究にとりくむようになった歴史家は多い。たしかに歴史家には、この国の地震・噴火について調査し、それを伝える職能的な義務があるだろう。私も、そのように考えて八・九世紀の地震と噴火の史料を読み、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、■■■年)という本を書いた。その条件となったのは、ちょうど、三・一一の前年に私は『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書、二〇一〇年)という本を書く中で、かぐや姫は火山の女神であるという見通しをえて、その関係で地震・火山について基礎勉強をし、この時代には多数の地震・火山史料がありながら殆ど研究がないことを知ったことであった。
 意外であったのは、『かぐや姫と王権神話』と『歴史のなかの大地動乱』を執筆したことによって倭国神話には地震・火山神話というべき側面があるのを知ったことで、そこからすると、八・九世紀は厳密にはまだ神話時代の要素が続いており、それが八世紀以降の怨霊の盛行の原点であったという見通しをえたことであった。こうして私は神話論の研究が現代に結びついていることを知った。いまさらということであろうが、私にも、それが日本文化の歴史的研究にとって緊要な位置にあることが徐々に見えてきたのである。
 さて、その中で私は哲学の梅原猛の仕事を検討せざるをえなくなった。以下は、その状況の簡単な報告であり、その第一は梅原の論文「神々の流竄」(『梅原猛著作集』第八巻)についてのノート、第二にはやはり梅原の論文「日本文化論への批判的考察」(『梅原猛著作集』第三巻)へのノートとなる。そして、その上で、第三に「日本文化論」について戦前の戸坂潤にまでさかのぼって考えるところを述べ、第四にそれらの関係で、神道と老荘思想についてもふれたいと思う。論点は多岐にわたり、実際のところ私のキャパシティでは無理な部分も多いが、その点は御許し願うこととしたい。
1論文「神々の流竄」について
 「神々の流竄」は一九七〇年に季刊誌『すばる』に「日本精神の系譜」という題のもとに連載されたもので、その第一回、第二回にあたる。なお第三回から第五回までが『隠された十字架』としてまとめられ、さらに『水底の歌』もこの連載論文から生まれたということだから、この論文は著者が日本精神史に取り組むにあたっての最初の跳躍台のような位置にあったことが分かるだろう。
 この論文の趣旨は明瞭であって、第一は奈良王朝が打ち出した神祇宗教は王家の祖先神アマテラスヲ中心とした国家神道であり、中臣氏によって新たに作られたもので、「遷却崇神」「大祓」祝詞などの詞章に明らかなように、豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であった。この神道は従来の古墳の示す道教的な永世の生命の祭祀や、さらにさかのぼって、銅鐸の示す地霊の祭りなどとは大きく異なる神道であったという。そして第二には、このような新たな国家神道とそれに対応する神話の創造の背後には中臣氏と藤原氏、とくに元明天皇と深い関係をもっていた藤原不比等がいた。とくに梅原は『古事記』の語り手とされる稗田阿礼とは実は不比等のことであったとまでいって『古事記』の編纂には不比等が深く関わっていたという。梅原は、これによって「藤原氏がどうして権力の座に登ったか」が説明できるとしたのである。さらに第三に、梅原は神話論自体についても重要な問題提起をする。オオクニヌシやその同名異体とされるオオモノヌシは出雲の神ではなく大和の神である以上、ここには神話の作り直しがあることになる。それは右の「ミソギとハライ」の神道によって大和の神であったオオクニヌシが出雲に追われ、出雲大社が奈良時代に創建されるのと前後して作り出されたものであるというのである。
 私は、これらの梅原の見解には相当の説得力があると考える。まず第一点については「ミソギとハライ」を道具とする国家神道が他の神々への攻撃性をもっており、王権による刑罰権の主張を含むものであるというのが重要だろう。とくに「遷却崇神」の祝詞についての解釈などは詳細な検討を必要としているように思う。私も、このようなイデオロギーは悠久の昔からあった神道思想というものではないと思う。もちろん、禊ぎ・祓えの風習は八世紀以前も存在したことはいうまでもないが、梅原もいうように、それは臨時的・民俗的なものにとどまっていたろう。梅原が本居宣長が神道をこの型にはめて理解する図式をつくったのだと批判するのも重要である。この指摘は梅原の『日本学事始』の「怨霊と鎮魂の思想」ではより鋭い国家イデオロギー批判として定式化されている。現在でも歴史学のなかには神道そのものの成立を一二世紀以降にまで降ろしてしまう見解があるが、私は、この段階での神道の歴史的性格の変化を強調する梅原の見解に賛成である。
 第二の『古事記』編纂における藤原不比等の主導性という問題提起についても「古代史」家は賛同しないが、私は賛成である。梅原は『続日本紀』に『古事記』編纂の記事がまったくないこと、さらに『日本書紀』編纂についても舎人親王の編修という二十七字の短文(「先是、一品舍人親王奉勅、修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷」『続日本紀』養老四年五月廿一日)があるのみで十分な記事が存在しないことを不可思議とする。これを明瞭に断言したことの意味は大きいのではないだろうか。しかし残念ながら、その具体的な論述や論証の仕方については、私見は大きく異なっている。まず梅原の「稗田阿礼とは実は不比等である」という主張は、後に梅原の『葬られた王朝』で「不完全な論証」であったとされ、若干の追加的な考証が行われているが、それでも歴史学的な論証の通則からいえば率直にいって無謀というほかないものである。私は、不比等が『古事記』編纂を主導したのではないかという梅原の洞察は、このような無理をせず蓋然性の指摘にとどめておいても十分に説得的であると思う。
 また、梅原が、不比等が『日本書紀』の編纂にも深く関わったということにも疑問がある。梅原が『日本書紀』編纂について二十七字の短文しかないことを不可思議としたこと自体は了解できるが、不比等が参加していたとすれば、不比等は責任者の舎人親王の下に参加していたことになる。しかし、これは『日本書紀』編纂が完成した養老四年(七二〇年)には舎人親王は四五歳、不比等は六二歳であるという年齢からしても、不比等の実際の地位からしても考えにくいように思う。むしろ私は、もう一人の王族として長屋王が参加していたと考えたい。この時、長屋王は三七歳、大納言で儒教・道教に通じていたことはよく知られるから、ある段階で編纂メンバーに参加していたことは十分に考えられる。長屋王は後に反乱を問われて自死しているから、そのために記事が短文になったのではないだろうか。これは現在のところ、論証不能の蓋然性の指摘にすぎないが、『古事記』=不比等、『日本書紀』=長屋王という対峙の図式があったとすると、きわめて面白い問題となるように思う。
 そもそも大事なのは、梅原が、これに関わって「藤原氏がどうして権力の座に登ったかがよく分からない」という疑問を立てたことである。ただ、それが梅原によってよく答えられたかと言えば、残念ながらそうとはいえない。梅原は、それを結局、中臣氏的な宗教性を踏み台にしつつ、巨大な虚構としての神々の争いを組織し、そのなかで律令制的諸制度を構築したと説明する。しかし、これは藤原氏についての通説的なイメージと異ならない。私見は、藤原氏が「権力の座に登った」理由については、不比等が実は天智天皇の王子であるという伝承を重視するものである(保立『かぐや姫と王権神話』)。たとえば『公卿補任』の不比等の項目に「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大織冠鎌足の二男(一名史、母車持国子君の女、與志古娘也、車持夫人)」とあるのは無下に捨てるべき史料ではない。
 この私見は、梅原説と同様に歴史学界ではまったく賛同がないが、梅原が元明天皇と不比等の身体的関係を想定するのに比較すれば無理は少ないと考えている。この私説についてはもう少し丁寧な説明を必要としているが、ここでは、八世紀における藤原氏の地位は七世紀後半には一般的であった皇親制の延長として捉えることができるという大枠だけを述べておきたい。
 なおよく知られているように、これらの見解は、梅原個人のものというよりも、梅原と上山春平の討論のなかで成熟したものであり、上山は、それを前提にして平城京のプランに宇奈太理坐高御魂(たかみむすひ)神社が大きく影響したなどの重要な見解を提出している。その意味では、これらの問題は、梅原=上山説の全体の評価を必要としていることは確認しておきたい。
 さて、第三の神話論に関する梅原の問題提起は、右に紹介したように二つの内容をもっている。それはオオクニヌシが本来は大和の神であったという主張と、出雲大社の創建と同時に、「ミソギとハライ」の神道によって大和の神であったオオクニヌシが出雲に追われ、それと同時に、オオクニヌシ神話が出雲神話として語り直されたという主張の二つである。
 このうち前者については、歴史学の側でも相似した意見がある。まずは田中卓「古代出雲攷」(初刊一九五四年。後に『田中卓著作集』第二巻、国書刊行会、所収)には「葦原中国の支配者は大己貴神とされ、その勢力範囲は少なくとも近畿一円を含み、中心が畿内の如く考えられる」とあり、石母田正「日本神話と歴史」(初刊一九五九年、『石母田正著作集』第十巻、岩波書店)も「この神の出自、その本拠は畿内とその周辺にあったとみられ、この神が出雲の杵築宮に祀られたのは畿内勢力による出雲の制服を契機としたものと考えられる」としている。田中が詳細に示しているように大己貴=オオクニヌシについての文献史料を総覧すれば、この神が大和を中心とする畿内地域の神であることは疑うことはできないのである。それ故に、梅原の主張の第三についても、少なくともその前半については重要な先行論文もあり、歴史学の立場からすると、その意味でも了解できるということになる。
 問題は梅原の主張の後半部になるが、梅原は、右の田中の見解がおもに氏族の移住のみを述べているとして「むしろ記紀の制作の中心目的は神々の移住である」と主張している。梅原の見解は、右の石母田の見解の後半傍点部、「この神が出雲の杵築宮に祀られたのは畿内勢力による出雲の制服を契機としたものと考えられる」と相似するものということができるだろう。相違は石母田が『古事記』の出雲神話の成立を六五九年(斉明五)の出雲大社修造から壬申の乱前後の事情に引きつけるのに対して、梅原が、それよりも遅く藤原不比等の営為にひきつけて考えるということに局限される。
 また、これについては、最近、村井康彦が『出雲と大和』(岩波新書)で新たな問題提起をしている。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、石母田が注目した五九年(斉明五)の杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鵜野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発することができたというのは有名な物語である。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。
 この村井の議論は、村井自身がどう考えているかは別として、石母田の議論を『古事記』成立の時期や過程の推測をふくめて、受け継いだものである(参照保立「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」)。私のいう母子王朝(斉明ー天智・天武)の家系的経験が『古事記』における出雲の扱いの原点に存在するという村井の指摘は鉄案というべきものであろう。とくに研究史的にいえば、村井の指摘が村井の独自な邪馬台国論をふまえたものであると同時に、明らかに梅原・上山の神話論的研究の影響をうけていることは注目すべきことである。私は、どちらかといえば、『古事記』の成立は、母子王朝の経験が持統ー元明などの女王たちと不比等のサークルの中での熟成を経ていると考えるので、少なくとも結果としては梅原の理解に近い立場をとりたいが、これについて、ここで本格的に詰める用意はない。
 以上、論文「神々の流竄」において梅原の主張した三つの点について順に検討を加えてきたが、哲学畑からの発想で導き出された梅原の見解が歴史学畑からみても響きあえるものであることを確認できたように思う。ただそれだけに率直に言うべきなのは、梅原が石母田の仕事を知らないままに『神々の流竄』を執筆したことが、大きな行き違いをもたらしたことである。おそらく梅原には、歴史学、とくにいわゆる戦後派歴史学は津田左右吉の議論をそのまま繰り返しているという先入観があったのであろう。また歴史学の側にも、右にふれた梅原の「稗田阿礼とは実は不比等である」というような論証の仕方、さらには『隠された十字架』で繰り返されたような議論の仕方に対する一種の職業的な反発があった。しかし、梅原(と上山)の問題提起には、それらを超えて議論に応ずべき内容があったことは明らかであり、学術としては、それには何をおいても対応すべきであったと思う。
 残念であったのは、石母田がちょうど「神々の流竄」が発表されたころ、一九七一年一月『日本の古代国家』発刊、一九七三年五月『日本古代国家論第一部』発刊、同六月『日本古代国家論第二部』発刊とインテンシヴな作業で余裕のない時期にあったことである。石母田は、ようやくそれが終わり、右の論文「日本神話と歴史」をもおさめた『日本古代国家論第二部』の「あとがき」を記したとき、折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで、第二次大戦の終戦直後に集中して研究した神話論に立ち戻ると宣言している。しかし、「古代史家」にはよく知られているように、そのしばらく後の一一月には発病して仕事が不可能になり、その構想と仕事が具体化することはなかったのである。私は、もし、この仕事が世に出れば、梅原・上山の仕事との接点において活発な論争が行われることになったと思う。それが行われなかったことは第二次大戦後の歴史学にとってきわめて残念な経過であった。
 現在、すでに研究の季節は変わり、とくに出雲荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡からの大量の銅鐸・銅剣の発見、纏向遺跡と前方後円墳形成過程の精査などによって新たな研究仮説が望まれる時期となっている。これに対応して、梅原は『神々の流竄』を自己批判した著書『葬られた王朝』を発刊し、弥生時代の銅鐸文化の原拠地域は出雲にあり、そこに朝鮮からの渡来人を中核として形成された王権が畿内を征服したという壮大な仮説を提出するにいたっている。これも大枠としては有力な仮説ではないだろうか。
 私は前記の『かぐや姫と王権神話』において、有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程を日本海ルートとし、投馬国(出雲)よりの「水行十日」によって丹後半島に到達し、由良川をさかのぼって、「陸行一月」、ほとんど全行程、平坦な道を通って、大阪平野から、大和に到達したという、小路田泰直が示した魅力的な見解に賛成して、これは邪馬台国の中心領域が丹後から大和に広がっていたことを示すものだと論じた。そして、その丹後―大和ルートで活動が推定される女神たちが大和の入り口地域に宿ったのが広瀬神社のワカウカ姫であり、この女神がかぐや姫に転形していったのだという試論を提出した。村井康彦の『出雲と大和』も相似したルートを想定した。もし、そうだとすると、邪馬台国段階では出雲と邪馬台国は区別されていたことになるが、それは出雲に対する邪馬台国地域の反抗あるいは自立を意味するのではないだろうか。邪馬台国において銅鐸の破砕が知られていることは、そのような状況を示すもののようにも思える。
 もちろん、出雲王朝説の当否をふくめて、結論の向かう方向は明らかではないが、しかし、今後、研究状況を一新する論争が展開することが期待されるところである。そして、その際は、梅原・上山説をめぐる様々な議論の経過を各分野において十分に総括することが必要であろう。
2論文「日本文化論への批判的考察」について
 この論文は一九六六年八月の『展望』に掲載されたもので、禅学の鈴木大拙と哲学の和辻哲郎の「日本文化論」への鋭い批判である。この論文「日本文化論への批判的考察」は、後の梅原の述懐によれば「日本文化ないし日本思想の研究を一生の大きな課題と決めた私の処女作に等しいもの」であった。たしかに梅原の仕事は、『神々の流竄』『隠された十字架』『水底の歌』の三部作を除くと、この論文に発するものが多い。
 現在では、鈴木の仕事も、和辻の仕事も若い世代には、あるいは縁遠いものかもしれないが、この論文がだされたころには二人の仕事はまだ大きな影響をもっていた。梅原は、「彼らの日本文化論が影響力のみでなく内容的にももっとも優れたものである」、しかし、「われわれはこれらを無批判に受け入れることは出来ない。鈴木も和辻も大体戦前の思想家である。戦前に出来上がった日本文化論を金科玉条として採用するとき、戦後の歴史はどこへ行ってしまうのか」「日本がヨーロッパから学んだものは、科学技術文明であるばかりか。同時に植民地侵略の思想でもあった。このような『日本歴史』の方向は、昭和二十年(一九四五)で、一応のピリオドを打ったはずである」「かっての日本帝国の在り方にそって、かっての日本文化論がたてられたとすれば、新しい日本国家の在り方にふさわしい新しい日本文化論が必要であろう」と論ずる。
 ここでは、私の準備および論述の関係で鈴木に対する論述についてのみ検討するが、この梅原の論文はもっぱら賛嘆に取り巻かれていた鈴木大拙に対するはじめての果敢な批判であった。梅原が取り上げたのは鈴木の『禅と日本文化』(岩波新書)と『日本的霊性』(岩波文庫)の二冊。どちらも鈴木の『禅とは何か』などの禅の入門書とともに非常に広く読まれていたものであった。まず『禅と日本文化』は、英文で発表されたのが一九三八年(日本語では、その二年後)、美術・剣・茶道・俳句などにふれて禅が日本文化にあたえた影響を強調し、禅が日本人が自然界の一切のものを一様に生命はあるという感情を敏感にし哲学的・宗教的素養をあたえたという。鈴木はこの主張を達意の文章で説明している。
 つまり、自然的な感情を敏感にして哲学的・宗教的なものにすると同時にそれを生活文化のなかに浸透させたのは禅宗のみであるというのであるが、これに対してしばらく遅れて一九四四年に出版された『日本的霊性』においては、同じ問題が「日本的霊性」が鎌倉時代に禅宗と真宗において、禅宗は知性、真宗は情性の側面を中心にして自覚されたと繰り返されている。「日本的霊性」という言葉はわかりにくいが、鈴木のいう霊性とは私なりに説明すれば、人間の類的な性格としての宗教性というようなことで、しかも鈴木は、それをインド的な超越性、中国的な実証性、日本的な自然性の統合であって、日本において仏教は人間の個人生活と大地に即したもの、大地的霊性というべきものになりえたのだという。これが、『禅と日本文化』における禅宗が自然に対する生命的な見方と生活文化の基礎となったという見方を別の形で繰り返したものであることは明らかであろう。
 興味深いのは、後者では禅宗は知性、真宗は情性という形で、真宗に対する高い評価が付け加えられていることで、これは「日本的霊性」が長い時間をかけて、鎌倉時代になってはじめて成熟し目覚めたのだという日本宗教史・精神史の段階論と重なる形で提示されたのである。ここには、禅宗と真宗こそを近代的個人にも理解しうる宗教であるとする「日本近代」の知識人に共通する心的あるいは思想的な姿勢を発見できるだろう。このような日本の宗教をいわゆる鎌倉期新仏教に局限してしまう態度は一種の近代主義であることは否定できない。私は、それは歴史の段階論からいけば、明治以降、知識人世界に共有されていた鎌倉時代以降を「封建制」と理解する図式にもつらなっていくものであるように思う。
 梅原は、これは日本人の自然観と宗教についての正確な認識に欠け、実際上あまりに禅に偏った説明であるという。たしかに、鈴木が天台の哲学は抽象煩瑣にすぎ、真言の典儀は費用がかかりすぎ、日蓮宗や真宗は(親鸞の和讃などを除いては)は芸術的・文化的刺激を与えなかったといい、「禅以外の仏教各派が日本文化に及ぼした影響の範囲は、殆ど日本人の生活の宗教的方面に限られたようだが、独り禅は此範囲を逸脱した」と断言していることはいいすぎだろう(『禅と日本文化』)。梅原が「彼はまず禅に興味をもったが、後に大谷大学に就任した彼は、浄土教、特に浄土真宗に興味をもった。日本的霊性は、彼の興味の範囲の中においてのみ目覚めるかのごとくである」と痛烈に批判するのももっともなところがある。やや長くなるが梅原の説くところを下記に引用する。
神道のなかに暗に含まれるこのような存在論は、大乗仏教の中に含まれる「山川草木、悉有仏性」という存在論と結びつくものであった。このような存在論をもとにして、神道の地盤に仏教がそのまま移入され、日本人の自然愛は神道から仏教にそのまま受け継がれるのである。日本的仏教としての最初の独創的試みであった空海(七七四-八三五)の真言密教が、結局自然の神である大日如来をその信仰の本体としていることを深く考えてみる必要があろう。こうして自然愛は、神道から仏教に引きつがれるけれど、何を美とするか、何を浄とするかという価値評価の上で多少の変化があった。神道において、清潔で簡素な美を尊んだ日本人は、密教によって、絢爛にして陰影多き美を美とすることをおぼえた。奈良時代と平安時代、万葉集と『古今集』の美意識の違いは、このような神道と密教の自然観の違いに帰せられると言ってよいかも知れない。そして、平安時代の半ばごろより浄土宗が起り、美を想像の浄土の世界に求める自然観が日本を支配した。そして、さらに、禅が単色にしてしかも無限に複雑な自然観を日本人に教えた。密教や浄土教のけばけばしい色のあでやかな世界に対して、墨一色で塗りつぶされた禅の世界、それは日本人の自然観における、ふたたび簡素単純なるものへと帰ろうとする運動であったかも知れない。
 梅原は日本精神史の研究に仏教史から入っており、梅原が様々な宗教が重なっていった歴史の全体をみなければならないというのは当然のことであったろう。とくに天台の哲学や真言の典儀を切り捨てるかのような鈴木の議論は「深い心の分析を行い日本人に心の何たるかを教えた唯識の思想、あるいは生命の秘かで微妙な知恵を語る密教の思想」を無視するものだというのはうなづけることである。日本の宗教をいわゆる鎌倉期の新仏教にのみ局限してとらえる近代主義的な態度に対する批判は、私は黒田俊雄にも共通するものであると感じる。
 さらに重要なのは、鈴木の禅宗理解が偏頗であることを強調する理由が、第二次世界大戦における宗教者の行動にあったことである。つまり、梅原は第二次大戦の末期に書かれた『日本的霊性』が「当時としては多少大胆国粋主義批判の意義を含んでいた。そして当時書かれた日本精神論のほとんどは、便乗主義の産物にすぎず今日全く一読するに足りないが、鈴木の日本的霊性論は、深い宗教的精神が宿っていて、今日もなおわれわれにある精神的反省をあたえる」ことを認める。しかし、その上で、「(第二次世界大戦の)歴史的状況にあって、死の決意を説く禅は、消極的ではあるがやはり戦争協力の宗教になりつつあったのである。鈴木が(『禅と日本文化』において)『禅と武士』『禅と剣道』の二章を『禅と美術』の章の次ぎにおき、はなはだ重視しているのは。彼の思想が明治以来の日本がとらざるをえなかった軍国主義的方向にそったものであることを物語る」と鈴木を批判するのは、梅原の痛切な世代的体験によるのである。これも長くなるが、引用する。
鈴木の本を持って多くの若者は望まざる死についたのである。この戦争によって死ぬということに意義を認めることができなかった若者たちは、せめて禅によって自己の心に死を用意しようとしたのである。多くの知的にすぐれた青年たちが鈴木の唱える禅的念仏によって成仏しようとしたが、私には彼らが安らかに成仏したように思われない。私にはせめて戦後の鈴木に、戦争中の多くの青年の望まざる死のための念仏の説法者の役割をしたという痛烈な自己反省の言葉がほしいと思うのである。
 私は『禅と日本文化』は別として、鈴木の『日本的霊性』には、鈴木の仏教史の全体的な理解が凝縮された形で示されており、「霊性」というものの理解をふくめて容易な批判を許さないものがあると思う。これは梅原も認める通りである。しかし、鈴木の禅宗を中心とした「日本文化論」、日本的霊性の議論は、たしかに第二次世界大戦における宗教者の行動という問題の全体を背景として、日本思想史における宗教の位置という問題に関わって厳しく問われざるをえないと思う。
 藤岡大拙はこの梅原の論文「日本文化論への批判的考察」について、やはり「大拙に対する批判らしき批判は、まさに梅原がはじめてであろう。大拙に関心をもつものには強い印象を与えた。特に、とらえどころのない無体系の大拙の思想に、漠然とした不満をもちながら、その不満をはっきりとした形に、まとめられない者にとって、一種の爽快感すら感じさせるほど鮮やかなものであった。しかもこの論文の発表直後、七月十二日大拙は九十五年の生涯を閉じたから、いっそうドラマティックな印象を与えた」として、梅原の禅僧の戦争責任、鈴木の戦争責任という問題提起に共感するとしている(藤岡「鈴木大拙」一九六八年に『日本名僧列伝』現代教養文庫に発表。後に、藤岡『出雲学への軌跡』今井書店、二〇一三年に所収)。
 ここで梅原の和辻批判にふれる余裕はないが、梅原の日本文化論批判の位置は大きかったというべきであろう。著作集にまとめられた梅原の業績はあまりに多様であるから、この批判の筋を追うことは困難であるが、近年の円空に関する著作にいたるまで、梅原が、この論文「日本文化論への批判的考察」になんらかの形で関係する仕事をしていることは驚嘆にあたいする。日本文化論への批判的考察はそれだけの広さを必要とするのであろうと思う。
3日本文化論と「神道」「固有信仰」
 視点を「日本文化論」なるもの自体に移動して、その視角から問題を照射することとするが、梅原の仕事に対して、歴史学の側における「日本文化論」を代表するのは、石母田の講演記録「歴史学と『日本人論』」であろう(岩波文化講演会、一九七三年六月、『石母田正著作集』八巻所収)。石母田は、この講演で日本文化論的な思考方法への傾斜をみせる丸山真男の「歴史意識の古層」(初刊一九七二年、後に『忠誠と反逆』筑摩書房所収。なお、丸山の議論については安丸良夫による批判が参考になる。参照、保立「安丸史学の方法と神話研究」『現代思想』二〇一六年九月臨時増刊号)という論文に対しての批判を試みようとした。しかし、前述のように、石母田は、その直後に身体の調子をくずして、その日本文化論は講演記録のままに終わってしまった。ここでも石母田と梅原は行き違いになってしまったといえるだろう。私は、こういう経過のなかで、この日本文化論への批判的考察という問題は私たちの歴史学にとってまだ解かれていない問題となっていると考える。
 ここであらためて確認しなければならないのは、そもそも「日本文化論」という問題の設定の仕方自体をどのように考えるべきなのかということであろう。そしてこれについて歴史学において示唆的なものとされていたのは戸坂潤の『日本イデオロギー論』であったと思う(『戸坂潤全集』第二巻、頸草書房)。戸坂は、「日本的なるもの」が存在することは当然としながら、問題はそれを他の普遍的な諸原理によって説明することであって、それを他のものの説明原理として担ぎ上げることは一つの「日本主義」であって、科学でも学術でもないとしたのである。戸坂は、その具体例として和辻哲郎、西田幾多郎、紀平正美などを上げている。梅原のいうようにそこには鈴木大拙も加えられるべきであろう。
 ここで戸坂の見解を詳しく紹介する介する余裕はないので上記の指摘をふくむ一節を引用しておきたい。
 具体的な現実物が、それぞれ自分の特殊性ないし独自性を持っていることは当たり前である。日本という国家・民族・人類(?)が経済上・政治上・文化上・世界の他の諸国家・諸民族・諸人種に対して、又世界の総体に対して、特殊性ないし独自性を持っていることは、当たり前である。(中略)
 日本的なものの検出、日本の特殊事情の強調といっても、二つの全く相反した動機と興味から問題になることが出来る訳で、日本的なものに特殊な興味を示すことが、それだけでは決して保守的でも反動的でもなく、却って具体的に進歩的であることを意味すべき場合があるのはあまりに判りきったことだろう。だがそうだからと云って、自分の動機を識別することなしに単純に、日本的なものに特殊な力点を置くということが、保守的でも反動的でもなく却ってザハリッヒで忠実な研究態度又は認識態度だ、ということにならぬ。「日本的なるもの」が、他のものの説明原理として担ぎ上げられる場合と、それが他の諸原理によって説明されるべき具体的課題として提出される場合とでは、条件は全く相反しているのである(傍点筆者。仮名遣いなどは直した)。
 なお、歴史学の分野で、戸坂の『日本イデオロギー論』の重要性を最初に指摘したのは、おそらく河音能平と黒田紘一郎であろう。一九七〇年三月七日に行われた日本史研究会七〇年代問題特別委員会の研究会において黒田は「戸坂潤『日本イデオロギー論』について」、河音は「日本ブルジョア民族主義の岩盤」という報告を行っている。二人の報告は両者とも戸坂を論じたもので関係していることは明らかである。梅原論文が一九六六年、河音・黒田の報告が一九七〇年、丸山の「歴史意識の古層」が一九七二年、石母田の講演が一九七三年であったということは、一九六〇年代から一九七〇年代が日本文化論をめぐる最初の議論の時期であったということを示すのであろうか。
 残念ながら、この河音と黒田の報告は活字化されなかったが、しかし、この研究会は、一九七〇年四月に、日本史研究会・歴史科学協議会・歴史学研究会・歴史教育者協議会のいわゆる四者協の共催で行われた「安保廃棄・沖縄返還要求四月集会」への準備報告として行われたものであったため、幸い、その内容がこの集会における藤井松一の報告の第五節「日本ブルジョア民族主義の岩盤としての日本文化論」に反映されている(『七〇年代の歴史認識と歴史学の課題』、青木書店、一九七〇)。それによれば、二人は和辻のほか、津田左右吉と柳田国男の名前などを「日本文化論者」として追加的な検討をしているが、そこでは、ほぼ戸坂の議論をそのまま敷衍しているようにみえる。その意図は多とすべきものがあると考えるが、ただ私には、思想弾圧の激しかった第二次世界大戦と天皇制ファシズムの時代の戸坂の議論を、そのまま敷衍すべきかどうかについて若干の疑義がある。
 つまり、これらの人々、とくに津田左右吉・柳田国男・鈴木大拙などは日本の歴史学にとって大事な先行者である。歴史学は、彼らの仕事において「日本文化論」とすべき側面には注意しなければならないが、「日本文化論」的な偏向は程度の差はあれ、どのような研究者の方法にも忍び寄るものではないだろうか。そもそも、「日本文化論」というものを「日本の文化について論ずる仕事」という意味で使う場合には、それは何の問題もない。津田らの学問が示唆するものはいまでも大きく、現在の危険はむしろ、戸坂のいうザハリッヒで忠実な研究態度に自信過剰となり、先輩の仕事を、それが歴史のなかで負った「日本文化論」的な雰囲気を理由として最初から忌避することにあるようにも思う。
 以上を前提として、今後、日本文化論の批判的検討を進める際に試金石となる問題を、しいて一つあげるとすれば、それは、結局、「神道」なるものをどう扱うかということではないかと思う。全体としてみた場合に、これまでの日本文化論批判を代表する梅原や石母田も、この問題をあつかう安定した方法を確保している訳ではない。たとえば、梅原は論文「日本文化論への批判的考察」において「人間や動植物ばかりか、山や川にすら生きた生命が宿り、世界はすべてこうした生きた生命から成り立っているという世界観が、日本人の世界観の根底にあった。(中略)神道のなかに暗に含まれるこのような存在論は、大乗仏教の中に含まれる「山川草木、悉有仏性」という存在論と結びつくものであった」と述べている。そして「『固有神道』覚え書き」(初刊一九六五年、『梅原猛著作集』第三巻)において、国家神道に対する明解でもっとも徹底的した批判を行い、国学的概念とは慎重に区別しつつも、これを「固有神道」と名づけ根付けている。また石母田は右にふれた講演で「(日本の歴史の基盤には)一つの共同体、あるいは神様なんかの神祇や神道をささえているところの共同体というものが一貫して存在するといってよろしいかと思うのですね。そういうふうな日本の固有の観念というものが、鎌倉仏教の親鸞とか道元とかいうような、ああいう非常に独自な超越者がでてきた場合にどう変わるであろうか。あるいは変わらなかったであろうかという問題があります」と述べている。
 これは実際上、鈴木が「神社神道または古神道などと称えられているものは日本民族の原始的習俗の固定したもので霊性にはふれていない。日本的なものは余りあるほどであるが、霊性の光はまだそこからでていない」というのと大きな違いはないのではないだろうか。歴史の基底を探っていくと、結局、一種の「日本的な」基底信仰があるということでは、ここに「日本文化論」に通じかねないような方法的な曖昧さがあることは明らかである。梅原も石母田も、「日本文化論」批判を試みながら、結局、相似した枠組みを逃れられていないのではないだろうか。
 現代の歴史家のなかで、このことをもっとも強く意識したのはおそらく黒田俊雄であろうか。しかし、黒田をもってしても、これは難問であり続けた。つまり、黒田は梅原・石母田その他の見解を超えて、その顕密体制論=権門体制論といわれる議論の中で、「民族宗教ないし習俗としての『神道』なるものを超歴史的に想定することの一面性と、それを基軸に構想された宗教史の全体構造の虚偽性」を明瞭に主張した(黒田「中世宗教史における神道の位置」『黒田俊雄著作集』第四巻)。黒田はまず顕密体制論の立場においては、九世紀から一五世紀くらいまでの「神道」は顕密仏教に付属するより世俗的な宗教・祈祷・儀礼・呪術の位置におかれていたに過ぎなかったとする。そして権門体制論の立場からは、顕密仏教の権門は、王権に集中して清浄の秩序を維持する神祇体系を擁護するという社会的・国家的役割をもつ権門であったと主張したのである。ここまでは宗教史的な組織論としても国家論としても正当であったと思う。
 問題は、黒田が顕密体制の周縁に組織された神社をふくむ宗教諸形態に一定の自律性を認めること自体を拒否し、「神道」的な宗教・呪術的な観念体系には、そもそも仏教と相対的に区別される独自性が存在しないとしてしまうことである(黒田(俊)の議論についても丸山についてふれた前掲の「安丸史学の方法と神話研究」でふれたので三章願えれば幸いである)。つまり、黒田によれば、「神仏分離という国家権力による強制的・破壊的『矯正』以前には、むしろ日本人は単一のそれなりにまとまった宗教的思考体系ーー原始仏教ないし大乗仏教の理念や民族宗教の観点からはどう評価されようともーーを作り上げていた」ということになる(黒田同右論文)。しかし、これでは日本の精神史・宗教史において存在した、さまざまな歴史的な宗教体系を、事実上、それ以上は独自なものとして分析不能なような、つねに融合一体の姿をもつものと考えることになってしまう。これでは、仏教とも儒教ともいえないような宗教的な観念・祈祷・習俗が、それなりの独自の特徴と主張をもって実在したという問題そのものが消去されてしまう。
 この矛盾は、相対的に早い時期の執筆された論文「中世国家と神国思想」(初刊一九五九年、『黒田俊雄著作集』第四巻)に明らかである。つまり、黒田は、そこにおいて「神話的な神々や霊物崇拝や呪術などは宗教思想や理論より以前からのより広範な存在であり」、「神祇崇拝の本質は、このような霊物崇拝や呪術的信仰にほかならない」「民衆は現世の物質的な苦楽から免れることはできず、したがって霊物崇拝や呪術は絶えず生み出されざるをえなかった」「(穀物の神、田の神などは)農民の共同体的祭祀にどこでもみられる神であり、生産と守護を祈るための素朴な信仰を基礎とする。かかる信仰は、前近代的・共同体的な生産構造を基礎とする社会ではつねに成立し存続するもので、したがって、古代以来の農村の『固有信仰』的なものではある」などとしている。厳しくいえば、黒田は、この「固有信仰」は習俗にすぎず、宗教史で扱わるべきものではないすることによって問題を消去しただけということになる。
 以上がだ、日本文化論をめぐって、津田左右吉・柳田国男・鈴木大拙――戸坂潤――石母田正・梅原猛・黒田俊雄が探求してきた問題の構造についての私なりの整理である。

4「神道」と老荘思想
 最近、いわゆる神仏習合について論じた北條勝貴は、この難しい問題について、そもそも「神道」の側に「『固有信仰』、『基層信仰』を自明化すること自体がナンセンスなのである」「習合現象の背景には、中国から連続する儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い、言説・心性・実体の交錯する豊饒な文化が広がっており、軽々に扱うことはできない」と断言して、おそらく今後の公準となる明解な解答をあたえた(北條「初期神仏習合と自然環境」『環境に挑む歴史学』勉誠出版、二〇一六年)。
 日本における「神道」現象は、「固有信仰」の問題ではなく、最初から、東アジアにおける「儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い」の中で解くべき問題なのである。北條によれば、それは縄文時代から続く問題構造であり、そこでは「儒教・仏教・道教」という相互関係の枠組みそのものが流動的であるという。それは北條が注目した中国における癘鬼や、私も論じた日本における怨霊が(保立「火山信仰と前方後円墳」『環境に挑む歴史学』)、この「儒・仏・道(神)」のどれにも関わっていることに明らかである。
 これが確認されれば、最近の東アジア仏教史の研究の進展のスピードからいって、遅くない時期に「日本文化と宗教」に関するまったく新たな歴史像が立ち上がってくるであろう。私は、その際に鍵となるのは、老荘思想と「神道」の関係であるのではないか、日本史の史料をおもに読む研究者も、日本の思想史上の事実と対比して『老子』『荘子』以下の原典に立ち入って自己の知識体系を組み直すことが必要なのではないかと思う。
 たとえばまず指摘したいのは、『老子』の「清静」の思想と日本神道の清浄の観念との関係である。よく知られているように、道教はほぼ三世紀以降、仏教のインド的な清浄思想の影響をうけて「清浄」の観念を発展させ、物理的な清浄を尊重するニュアンスを強めた。しかし、全体としては老子の教えという意味での道教のいう「清静」は心的態度の意味をおもな内容としていたという。次ぎに『老子』第四五章を引用する。
大成(たいせい)は欠くるが若く、其の用は敝(つ)きず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(つた)なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静(せいせい)は天下の正たり)。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。
 これはいうまでもなく、鈴木大拙の「大拙」号の由来となった章であるが、いちおう、大意を取っておくと「大成しているものは欠けるところがあるように見えるが、(その隙があるからこそ)その働きが尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるように見えるが、(その影があるからこそ)その働きは窮まることがない。長大な直線は曲がっており、本当に巧みなものは拙(つた)ないままのところを残しており、雄弁は訥々としているように聞こえる。動作を躁(さわが)しくすれば寒さは防げるが、静かにしていれば動かなくても熱さに勝つことはができる。こうして清静(せいせい)な心が世界の運動の中心にあることを発見する」ということになるだろうか。
 私は、本章は有名なギリシャのソフィスト、ゼノンのアキレスと亀の話を背景に読むべきものであると思う。つまり「大盈(たいえい)は冲しきが若く」とは、満月にも必ず小さな影があるということだろう。月影はつねに動いている以上、満月に影のない状態というものは抽象的にしか考えられず、極小であれ、実際には影があるからこそ月に盈(み)ち虧(か)けがあるのだということだろう。そう解釈すれば、これまでやや問題のあった、後半の「躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ」への意味のつながりも、「躁」は運動、「静」は静止のことをいっているとして何の問題もない。違うのはゼノンの議論や右の月の盈(み)ち虧(か)けの場合は空間的な運動であるのに対して、ここでは人間の身体と心が対象になっていることであろう。またゼノンは、運動と静止の矛盾を語ったのであるが、老子は運動と静止の矛盾において本源的なのは静止であることを強調する点でも違っている。基本的にはヤスパースのいう「軸となった時代」における一致であるが、数学的な明解さという点ではゼノンが、哲学的ニュアンスの点では『老子』が勝っている(なお、最後の一句、「清静(せいせい)は天下の正たり」の「天下」は、普通、「国家=政治世界」の意味とされ、「天下の正」は「天下の首長=王」あるいは模範などの意味で解釈される。これは『老子』の通俗読みであって採用できない)。
 この「清静」という語は、少なくとも『老子』が執筆され広まった春秋戦国時代の段階では、決して物理的あるいは衛生の意味での「清潔・清浄」ということではなかった。そもそも『老子』には「清」という文字の登場例は少なく、三例しかない。その一つが本章であるが、第二は「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く」という天を清澄とする三九章の例であって、宇宙論にかかわる「清」の観念である。そして第三が「谷間の水の濁流が清まわることを待つ」ように清濁を併せ呑むという心的な態度を示す一五章の例であって、この「清静」は自然の循環を熟視するなかで心のエネルギーを豊かにする態度というようなことであろう。いずれにせよ、これらには物理的衛生の意味はほとんど含まれていないのである。
 しかし、七・八世紀日本においては道教・仏教の影響をうけた「清浄」の思想が、「ミソギと祓え」の思想として国家的な猛威をふるったのは梅原が強調したとおりである。この経過については拙著『かぐや姫と王権神話』で若干のことを述べたことがあるが、こういう中で、『老子』の「清静」の思想が、カースト的な浄穢の身分制に対応する神道の「清浄」の理屈に読み替えられるという事態が生まれたのである。つまり、右にふれた『老子』第三九章の「天は一を得て以て清く」というのは、宇宙論にかかわる「清」の観念である。ところが、これが伊勢神道を大成した度会家行の『類聚神祇本源』では「神を祭るコト、清浄ヲ先と為せ。我鎮(とこしなえ)に一を得るを以て念と為す也」という形で引用される。つまり、神を祭る勤めの「清浄」に転換されてしまっているのである。また高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開』(ぺりかん社、二〇一〇年)が指摘しているように、日本でもしばしば利用された『老子』の河上公注には、第一四章の注として「当にこれを受くるに静をもってし、これを求むるに神をもってすべし」とある。これは人間が道に悟入するには心を静寂にし、心の神明を働かせなければならないという内面的な意味であるが、それが伊勢神宮の経典に引用されると、「これを受くるに清浄をもってし」と変更されてしまうのである。「静」から「清浄」への変化である。
 日本の神道が『老子』の「清静」の内面的倫理を受け止めなかったというのではない。神道の中には、それに対応する「物忌み」の心意が維持され続けていたと思う。日本の神道の地盤は、八世紀まで続いていた神話世界にあり、神話から引き継いだ「物忌み」の心意は神道の深層に持続していた。私は、そのような物忌みの思想は、日本社会において依然として重要な意味をもっていると考えている。しかし、文明の時代の到来とともに、日本の神道は「祭祀の礼務、潔にあり」などといわれるように、世俗的・身分的な「清浄」という国家的な儀礼秩序の守り手という役割をおうことになり、神社は都市的な場の空間のなかで伝染し、肥大化する穢を増幅し、キャッチする神経網のような役割を負うようになったのである。
 これが神道を宗教的には仏教の下で、二次的・世俗的な位置に固定する、黒田(俊)のいう権門体制=顕密体制の基礎となった。これに対応して、王権的仏教は、「本地垂跡」、つまり仏教の神々こそが「本地」で日本神話の神々は、その神々が遠くまでやってきて「迹を垂れた」ものであるという理屈を作り出した。問題は、その際のキー範疇となった「和光同塵」という言葉もさかのぼれば『老子』から取られていたことである。次ぎに『老子』第五六章を引用する。
知る者は言わず、言う者は知らず。その孔(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざし、その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(どう)じ、その鋭どきを挫(くじ)き、その紛を解く。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎(うとん)ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。
知者不言、言者不知。塞其孔、閉其門、和其光、同其塵、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。
 これもいちおう大意をとると「真理を知ったものが、それをすべて言葉にできるわけではない。また言葉にしてしまうと、それは真実ではなくなってしまう。人はまず目・耳などの感覚をふさぎ、その門を閉じて瞑想しなければならない。そして、受け入れてきた知識の光を熟成させ、塵のように細かな経験を肯(うべな)い、鋭く辛い経験の記憶、紛(むすぼ)れたコンプレックスをときほぐさねばならない。これを玄同、つまり奥深い合一という。そのように内面的なものである以上、真理の玄妙な力を得たからといって、それで人と親しくなるわけでも、よそよそしくなる訳でもない。それは利益や損害とまったく関係がない。また自分が貴くなったと感じたり、他者を賤しめるなどということとも無縁である。貴いかどうかなどというのは、自分ではなく世界が決めることだ」となる。
 冒頭の「知る者は言わず、言う者は知らず」という一節は、しばしば「沈黙は美徳」という世俗的な意味で理解される。しかし、ここで老子が言っているのは認識における確知と言語表現の関係であろう。『老子』は、この確知と言語の隘路を「その孔(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざす」こと、つまり目をつぶり、感覚器官を閉じて自分の内面に入り込んで瞑想することによって透過せよという。
 問題はそれに続く「その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(どう)じ、その鋭どきを挫(くじ)き、その紛を解く」という一節であるが、これは瞑想の中での心の風景である。「光を和(やわ)らげる」とは、知を外的なものでなく、人間の内面にともってそこを照らし出す微妙な光とすることであり、「塵」は過去の生活の中で蓄積された細かな経験である。瞑想は、その一つ一つに同化し追体験するのである。そして、続いて「挫鋭、解紛(鋭を挫(くじ)き、紛を解く)」といわれているのは、人間の内面に記憶として残っている辛い経験、コンプレックスになって絡まった経験をときほぐすということになろうか。老子は、そのような内的な認識の全体を「玄同」となずけている。
 問題は、ここでは「和光同塵」という言葉が内面世界に関わって使用されているのに対して、『老子』四章ではむしろ外界に関わって使われていることである。詳しくは別に論じたいが、四章の「道は冲(むな)しけれども之を用いてまた盈たず。淵(えん)として万物の宗に似たり。其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず。湛(たん)として或いは存するに似たり。吾れ、誰の子なるかを知らず、帝の先に象(に)たり」、つまりこれも通釈しておくと、「道は空虚であるが、その空虚は満たすことができないような無限の大きさをもっている。この深淵から万物が生まれ出るのである。その動きは、天空の鋭く動く光や密集した光を分けほどき、遍満する光を和らげ、塵のように細かなものまで及んでいく。この淵は無限に奥深いようにみえる。さて、これを看取することができた私について振り返ってみると、私が誰の子であるかは知ることができないが、しかし人が謂う天帝などよりももっと前からいたのだ」という一節である。
 古い時代の中国の人びとは、このように抽象的な言葉を使用して宇宙の様子を描き出すことを好んだ。たとえば、『淮南子』(要略篇)の天文篇は「陰陽の気を和し、日月の光を理(おさ)め、開塞の時を節し、星辰の行を列ねる」ことをテーマとしている(『同』要略篇)。『淮南子』(俶真篇)にも「陰陽錯合し、相い与に宇宙の間に優遊(ゆうゆう)競暢(きょうちょう)し、德を被り、和を含み、繽紛(ひんぷん)蘢蓯(ろうそう)し」などという表現が出る。後半の「德を被り、和を含み、繽紛(ひんぷん)蘢蓯(ろうそう)し」とは「エネルギーを含みハーモニーを抱きつつ、わらわらと群がり集まる」という意味である。ここにつかわれている「光」「和」「紛」などは『老子』本章に共通するものであろう。また「其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き」という句も、やはり満天の星空の観望を前提にして理解すべきものだろう。「鋭」は芒(きっさき、ほさき)という意味で、『説文』には「鋭、芒也」とあり、芒は光芒・星芒などの熟語が示すように、尖った光を意味する。『淮南子』(俶真篇)の「無」についての宇宙論的説明には「光耀に通ずる者(中略)、天地を包裹し、万物を陶冶して、混冥に大通し、深閎広大にして、外をなすべからず、毫を析(ほど)き、芒を剖(さ)きて,内をなすべからず」、つまり「虚無は天地を包み、万物を育むものであるが、混沌をつらぬいて深く広大であって、その外側はなく、また毫(ふでのほ)をほどき、尖った穂芒(ほさき)を裂くようにしても、その内側に入ることはできない」とある。「毫(ふでのほ)を析(ほど)き、芒(ほさき)を剖(さ)き」というのは「其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き」とよく似た表現である。具体的な夜空のイメージとしては、「鋭」とはオーロラなどの大気光学現象や、彗星・流星群などの鋭い動きを意味し、「紛」とは銀河のような星の密集を意味したのであろうか。
 浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店、二〇〇六年)がいうように、この時代の中国には、今では忘れられたような多様な宇宙論があり、それをささえる天文観察もあった。彼らは見上げる満天の星も、形成され変化していくものと考えていたのであって、それを宇宙観・天体観にまだ広げていたのである。このように語るのは、あまりに現代的な宇宙観に引きつけすぎているかも知れない。しかし、老子のもっている宇宙論的な構想力のようなものは湯川秀樹やニールス・ボーアの言を引くまでもなく魅力的なものだと思う。そしてそういう構想力というものは、なかば時代を超えるものであるということも認めておいた方がよいのではないだろうか。
 ようするに、福永光司『老子』(朝日出版社、一九九七年)の解釈にも明らかなように、「和光同塵」という言葉は一方では内面世界の描写として、他方では壮大な宇宙論として使われているのである。なお、そう考えた場合に興味深いのは、『老子』第四章ラストのフレーズの「天帝」という神観念で、これは中国の殷の時代から春秋時代にかけて、中国の中心地帯、いわゆる「中原」では大きな位置をもっていたが、『老子』の宇宙生成論のなかには位置づけられない言葉であるという(浅野前掲書)。そうだとすると、これについては長谷川如是閑が「いかにも儒教の上帝(天)絶対主義を踏み越えた詞で面白い」といっているのが的をいていることになるのではないだろうか(長谷川『老子』大東出版社、一九三六年)。禅宗でいう「仏にあえば仏を殺し、釈迦にあえば釈迦を殺す」と同じことであろう。内面世界と客観世界を「即一」とする世界観ともいえようか。
 なお、さらに追加したいのは、『論語』(子路篇)の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という句との関係である。「世俗には和すが同じない」というのに対して、『老子』の「光に和して塵に同ずるのだ」という文節が見事な切り返しとなっていることである。老子は『論語』のように対人的な関係を「君子か、小人か」という形では裁断しない。老子は、あくまでも内面性にもとづく静かで平等な関係をイメージしているように思う。もしそうだとすると、これまでの「和光同塵」についての解釈、たとえば「知恵の鋭さを弱め、知恵によって起こる煩わしさを解きほぐし、知恵の光を和らげ、世の人びとに同化する」(蜂谷邦夫『老子』岩波文庫)などという解釈は、老子が世俗に妥協し、また結局のところ、知の光、ロゴスの光を軽視しているという判断に結びついていく。これは上記に述べたような第四章、第五六章の解釈とは合致しない。
 問題は、前述のように、このような解釈が実はきわめて古くから「本地垂跡」の論理となっていたことである。つまり『国史大辞典』の「和光同塵」の項目で説明されているように「『老子』第四章で、道は、鋭いものを挫き、紛争を解決し、強い光を和らげ、身を塵と同じに置くと説く「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」の文に拠ったことば。中国の仏教書で用いられ、日本にもたらされたが、己の智徳才気の光を和らげ、隠し、世俗に随うという意味を、日本では特に、仏菩薩が、智恵の光を隠し、人々を救うために塵に交じり、日本の神祇として現われるという意味に解した」(大隅和雄執筆)。それはまさに知を隠し、世俗に妥協するという意味で使われていたのである。私は、これは日本宗教史における、いわばもっとも長きにわたる誤解であったと考える。
 このように「清浄」「和光同塵」などの『老子』の重要な章句に関する誤解が日本における「仏教・儒教・道教」の関係を支えていたのであるが、そのような『老子』の定型的な読みを破ったのが親鸞であった。記録の残る限りでは親鸞の営為は老子の思想を本格的に日本語として日本の思想のなかに取り入れたものではないだろうか。それは下記の『老子』第二七章の理解のことである。
善く行くものは轍迹(てっせき=わだちのあと)なく、善く言うものは瑕讁(かたく)なく、善く数うるものは籌策(ちゅうさく)を用いず。善く閉ざすものは、関鍵(かんけん)なくして而も開くべからず。善く結ぶものは、縄約(じょうやく)なくして而も解くべからず。是を以て聖人は、常に善く人を救い、故に人を棄つること無し。常に善く物を救い、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばす、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷わん。是れを要妙(ようみょう)と謂う。
善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無縄約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師、不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。
 いちおうの解釈をすると「旅するものは車馬の跡を残さず、善い話し手は他者を傷つけず、善く数えるものは計算棒は使わない。そして、善い門番は貫木(かんぬき)を使わないのに戸を開けられないようにし、荷物を善(たく)みに結ぶものは縄に結び目がないのにゆるまないようにできる。神の声を聞く人は常に善く人を世話して、人に背を向けることがない。また物に対しても同じで、物を大事に世話して、それを棄てるようなことはしない。それらの善は襲(かく)された光によって照らされているのだ。そしてそもそも、善き人は不善の人の先生であるのみでなく、不善の人の資(たす)けによってこそ善人なのである。(そして師と資(師と弟子)の関係も同じように見えない光によって結ばれている)。師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師は、賢こいかもしれないが、かならず自分が迷うことになる。ここに人間というものの不思議さがある」ということであろうか。
 ここには「善い」ということの説明がある。老子は、「善」とは丁寧で善(やわ)らかな気配りにあるが、それは人間関係を照らす見えない光と、その不思議さへの感性にもとづいたものであるというのである。これは孟子が「性善説、性悪説」などという場合の「善」ではない。老子は、人間が個体として「善」か「不善」かを問うのではなく、人間の「善」とは人間の関係にあるというのであり、人間の内面は見えないようだが、実は不思議な光の下で相互に直感できるというのである。それが人間が「類」的な存在といわれる理由なのであろうが、老子は、それを人類の「道」の基本には「善」があり、それを照らす「襲明(隠された光)」があるのだと表現する。「師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師」や「親を愛さない子、子を愛せない親」は、迷いの中でその光を失ったものだというのが老子のいうことである。
 ここから、「不善人は善人の資」という老子の思想が導かれた。つまり、善が関係に宿るのだとすれば、人が善であるのは、不善の人を資(たす)けるからであり、逆にいえば、善人は不善人の資けによってこそ善人であるということになる。私は、これは人間の倫理や宗教にとって決定的な立言であろうと思う。老子の立言は、福永光司『老子』(三八六頁)がいうように、少なくとも思想としては親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)という決定的な断言に相通ずるところがある。もちろん、親鸞が「況や悪人においておや」というのは老子の思想をさらに越えているところがあろう。福永が「親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視をもつのに対して、老子には親鸞のような罪業意識がない」というのはうなずけるところがある(福永光司『老子』二〇〇頁)。しかし、「弥陀の光明」の下で、「あさましき罪人」が許されるということと、老子の「道は罪を許す」という思想が基本的には同じことであることを否定する必要はないということも明らかなように思う。とくに私には、「弥陀の光明」ということと、老子のいう「襲明(隠された光)」ということは詩的なイメージとして酷似しているように思う。
 私は福永の指摘を超えて、親鸞は老子の「善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」という格言を知っていたのではないかと思う。親鸞の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の化身土巻の末尾には「外道」についての書き抜きがあるが、孔子についての言及は少なく、ほとんどは老子についてのメモとなっている。『教行信証』に明らかなように、親鸞は一面でたいへんな学者であり、勉強家であった。もちろん『教行信証』の結論は老子を外道とするものではあるが、その筆致はけっして拒否的なものではない。親鸞は、『歎異抄』を述べた晩年までの間には老子「五千文」を熟読していた可能性はあると思う。
 もう一つ、老子の第六二章は次のようなものである。
道は万物の奥。善人の宝、不善人の保せらるる所なり。美言の以って尊を市(か)うべくんば、行いの以て人に加わうべし。人の不善なる、何の棄(す)つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧(へき)を供(すす)めて以て駟馬(しば)に先だたしむること有りと雖も、此れを進むに坐(ざ)すに如(し)かず。古(いにしえ)の此れ貴ぶ所以(ゆえん)の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免(まぬが)ると曰(い)わずや。故に天下の貴ぶものたり。
道者万物之奥、善人之寶、不善人之所保。美言可以市尊、行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有共璧以先駟馬、不如坐進此。古之所以貴此者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。
 これもいちおう解釈をしておくと、「道は万物の奥にある。善人の宝は、不善の人の保つものである。美言によって尊敬を得るのは、実行を人より加えなければならない。人の不善であるというのは棄ててはならない。そもそも天子を冊立し、三公を任命するときは、璧玉を先に立てた四頭だての馬車を前駆させることがある。そのときでも私たちは、この道を進むだけだ。古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で貴ばれているのだ」ということになろうか。
 ここでは二七章のいう「不善人は善人の資」という考え方が、善人の宝は、不善の人の保つものであるという言い方で繰り返されている。老子は、天子即位や三公(大臣)任命はどうでもいいという。これは『老子』五章の「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」に並ぶ強烈な王侯観である。「老子の思想は、君主の存在や国家の行政機構そのものをも否定する無政府主義的な傾向をその根底に内包する」と述べたのは福永光司『老子』(三四四頁)であるが、その通りだと思う。
 上記の現代語訳では、それにそって直截な読みをしてみた。これで、文章の通りは非常によくなる。それに対して、これまでの現代語訳は、(福永のそれをふくめて)「王の即位式などに、見事な玉や四頭だての馬車を並べるのは虚飾なので道にもとづく進言を行う」と解釈する。しかしそれでは「人の不善なる、何の棄(す)つることか之れ有らん」という前段と文脈が続かず羅列的な現代語訳になってしまう。昔日の中国には、老子の思想を徹底的な王権批判と受け止めた人びとは実際に相当数いた。中国の歴史において、老子を始祖とあおぐ道教が大反乱の旗印となった例はきわめて多いことはいうまでもない。もっともよく知られているのは、紀元一八四年に起きて後漢の王朝を崩壊に追い込んだ黄巾の大反乱であろうそれは張角という道士が起こした太平道と呼ばれた宗教運動にもとづいていたが、この反乱は数十万の信徒をえて各地に教団を組織したのである。そもそも、道教は、この張角という道士が起こした太平道から始まったことは特記されるべきことである。
 以上を前提とすると、本章の後半部に「古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ」とあることの意味も明瞭となる。これは前項二七章のいう「不善人は善人の資」(悪人と善人は相身互い)という考え方にもとづく赦しの思想である。福永『老子』は、これが老子の思想のなかでももっとも独自なもので、この赦しの思想こそが、老子の教説が宗教化していく基底にあったという。ここは決定的なところなので、福永の見解の中心部分を引用しておきたい。
「『汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり』というのはイエスの教えであるが、人間の犯した罪が天に対する告白によって許されるという(老子の)思想は、初期の道教のなかにも顕著に指摘される(いわゆる「首過」の思想)。これは告白という宗教的な有為によって人間が天(道)に帰ろうとする努力であり、老子の不善に対する考え方とはそのままでは同じくないが、道の前に不善が赦されるとする老子の思想は原理的に継承されているといえるであろう」(福永『老子』三八六頁)
 この引用の中段にある「首過」の思想とは、太平道の教祖にして、実際上、宗教としての道教を作り出した、黄巾の乱の組織者、張角による罪の懺悔(「首過」)のことである。張角は、それによって苦難や病からの解放を説いたという。そのような思想として、老子の思想は「中国における宗教思想の展開のなかで一貫した底流として生命をもちつづけた」のである。たしかに「求めて以て得られ、罪有るも以て免(まぬが)る」というのは、『マタイ福音書』の「求(もと)めよさらば与えられん」「汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり」と酷似している。それは是非善悪の区別を説く儒教や、義と律法の神であるユダヤ教のエホバの神とは大きく異なっている。老子の思想が宗教的な展開をみせたのは、たしかにそれが「罪の赦し」という側面をもっていたためではないだろうか。
 『老子』の教義は、このように、早い時期から宗教的な救済と政治的な急進性の結合をもたらすような内実をもっていた。もし、老子の思想が親鸞の「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の思想に影響していたとすれば、親鸞の「赦しの思想」が一向一揆を支えたことも、老子に共通するということになる。東アジアの精神史においてもっとも基底にすわるのは老子の思想であろうから、鈴木のいう「鎌倉時代における日本的霊性の目覚め」という図式を採用できないとしても、私は日本の精神史が親鸞段階で東アジアレヴェルの成熟に達したことは事実であろうと思う。
おわりに
 論述は梅原の日本の論文の検討からさまよい出て『老子』の解釈にまで至り、いたずらに紙幅を費やしたが、成功しているかどうかは別として、逆にこれは梅原の仕事のなかで道教、老荘思想はまとまった仕事がないことを追補したものと理解いただければ幸いである。
 また第三章において、八・九世紀における神話の時代から神道へ移行という問題にふれて、石母田・梅原・黒田(俊)の議論を乗り越える方向を示した北條勝貴の議論を紹介しながら、北條の重要な問題提起を取りこぼしている。つまり、北條は東アジアの宗教の相互的で統合的な交流を強調しながらも、中国と日本の神霊観の相違を指摘している。念のためにそれを引用すると、「六朝蒋侯神の創祠譚のように、祟り神の原型らしき物語も漢籍に散見するし、そもそも<祟>の文字・概念の成り立ちは、殷王朝の甲骨卜骨まで遡りうる。しかし、(八世紀段階ではー保立補記)列島のそれには非業の死者の色彩はなく、自然災害の勃発の理由や対処法を説明し、社会不安を抑える災因論としての機能が主軸をなしている。やはり、神観念が中国ほど複雑かつ重層的に抽象化されておらず、地形・植生・気候等々からなる森羅万象のあり方を、直感的に<神>と形象してきたからだろうか」「漢籍の消化を経て徐々に変質はしてきたものの、それでも列島に住む人々の大部分は、山川草木に宿る神霊と人間とを明確に区別していた」ということになる。
 前記のように固有信仰、基層信仰を自明化せず、中国から日本にまで連続する儒教・仏教・道教の複雑な絡み合いを前提としつつ、この相違をどう理解するかは、北條にとっても大きな問題であるようにみえるのである。もとより、これについて、私には確定した私見はなく、すべて新しい研究段階で議論されるべきものと思うが、ただ私は、あるいは問題は倭国神話の自然神話といわれるような側面の理解に関わってくるのではないかと感じている。
 つまり、これまでの神話論研究においては自然神話の範疇に対する異議が多かったが、別稿で述べたように、そこに大きな根拠はない(保立「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』一八号、二〇一五年一一月、中部大学編)。私は、むしろこの倭国神話における自然神話の強力な存在は、早い時期に自然の生態系に回復不能なような打撃をこうむった中国大陸の大地・自然とは相違して、列島の自然の相対的に豊かであり、かつ特に噴火や地震のような大地そのものの擬人化をもたらすようなあり方が条件となっていたと考えてみたいのである。地震火山列島において忘れた頃に周期的に感じることになる自然の畏怖すべき主体性である。益田勝実は火山の噴火に対する人間の絶対的な畏怖の感情にふれて「日本の神道は恐れと慎みの宗教であり、客体として対象化されるべき神の面よりも、禊ぎ、祓い、物忌みして齋く人の側に重心がかけられている」という説明をしたことがあるが、まさにその問題である(益田『火山列島の思想』筑摩書房、一九六五年)。
 以上、論点はあまりに多岐にわたったが、最後にどうしても述べておくべきことは、「精神史」という問題それ自体である。つまり石母田正は、その最初の神話論論文「古代貴族の英雄時代」において津田左右吉の文献学的方法を超え、神話の矛盾を「文学的見地から析出して、その背後にある世界を歴史的に位置づけ」、「その本質を神々との永遠の闘争のなかにみる」「精神史」的な視角を確保しようとした。それは、ヘーゲルの『美学』を一つの参考として構想されたものであり、「従来、精神史の領域ではあまりにも機械的・俗流的であった」「歴史学的=唯物論的方法」を鍛えるという方法意識をもっていたのである(石母田「古代貴族の英雄時代」『石母田正著作集』第十巻)。
 梅原は、この石母田の立言とは異なって、論文「神々の流竄」の冒頭において、「古代史」と記紀分析の方法について「戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方では、とうてい、歴史の真実は見えがたいということである。なぜなら、人間は、卑俗な唯物論者が信じるよりはるかに精神的存在であるからである。物質的存在であると共に精神的存在である人間を研究するのに、精神の研究を度外視して、到底、真実の解明は不可能なのである」と述べている。
 私は、梅原には、このように激しく、歴史学それ自体に対して「戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方」という断定をする理由があったのだろうと思う。私のように、とくにそのようなことを感じないままに石母田の提言にそって研究してきた第三世代にはわからないことだが、戦後派の歴史学のなかに梅原が言う意味での「唯物論」的な傾向、石母田のいう「機械的・俗流的」な「唯物論」があったことも事実なのであろうと思う。しかし、率直にいって、私は、歴史学者の一人として、「戦後日本の歴史学者が、卑俗な唯物論者が信じる物質万能の考え方をとって精神の研究を度外視しした」という梅原の一般論的断定はとても納得できない。ここには「すべては物質的利害によって左右されている→金で解決をつけろ。国家はすべて暴力だ→暴力で解決する」という唯物主義と、哲学および学術の方法としての唯物論の混同があると思う。哲学の方法としての唯物論には、物質の対象的存在の絶対性を承認し、それへの感性を何よりも重視する側面と同時に、物は人間とは区別された物にとどまるとして、商品や貨幣への呪物的な囚われを嘲笑し、その延長上にある国家や社会の暴力から自由になるという、強いて言えば素朴で「禅」的な側面の両者があると私などは考えてきた。
 もちろん、学術にあまりに世界観的な問題を持ち込むべきではないが、それらは相互に認め合うほかないし、それが可能な時期になっているのではないかと思う。ともかくも研究者に明らかなことは、第二次大戦後の学術世界は、このような議論をするための実績のある哲学者、つまり戸坂潤を獄中に失うところから出発したという事実である。戸坂には「唯物論はおけさほどにも広まらず」という川柳があるが、その獄死直前の日記には、ケーラス『仏陀の福音』、鈴木大拙『東洋的一』などの集中的な読書記録がある(『戸坂潤全集』第四巻)。もし戸坂が生き延びていれば、哲学と歴史学、そしてそれらと禅宗との関係もあるいは若干の変化があったかもしれないと思うのである。これは高校時代に戸坂を読むとともに大拙の『禅とは何か』を読み、円覚寺で(一日だけだが)座ったこともあるものとしての実感である。

2017年4月11日 (火)

大塚史学の方法と労働論・分業論・共同体論

以下、はじめにだけです。初めにはすぐ書けるのですが、ーーー。

大塚史学の方法と労働論・分業論・共同体論

 はじめにーー永原慶二の仕事との関係について

 戦後派歴史学は、その歴史理論の中核となる歴史経済学の方法を大塚久雄『共同体の基礎理論』に求めていた。もちろん、大塚の理論研究はマルクスやウェーバーの仕事による抽象度の高いもので、またヨーロッパ史研究を直接の対象としていたから、日本史の研究者が、直接に引用することは多くはなかった。しかし、歴史理論といえば多くの研究者がつねに『共同体の基礎理論』が意識していたのは、私などは、経験上、よく知っている。そして、日本史の研究者はいくつかの例外を除いて歴史の理論的考察を経済学理論として純粋に研究課題とすることは少なかったが、それはおそらく大塚の仕事以上のものを構想することが難しかったためではないかというのが、私の推測である。

 ここで紹介したいのは、日本史研究者の中でも経済史の理論的理解に意識的であった永原慶二への大塚理論の影響である。たとえば永原の名著として知られる『日本の中世社会』は、中世社会においては、王権と荘園制が共同体間に広がる社会的分業の世界を固有の支配領域として確保しており、それは共同体が自己の社会的諸機能のうちの賎視される部分を、外部の諸賎民身分に付着させることによって支えられていたとしている。この賎民層の社会的機能が非農業部門の下層に位置して社会的分業の階層制を強め、それによって王権の求心的支配構造が可能になっているという訳である。永原は、このような理解の理論的典拠を「M・ウェーバーの内部経済と外部経済の構造的二重性の理論や、それに依拠しつつ、大塚久雄が指摘した、共同体間に存在する真空地帯がいわゆる前期資本の成長と活動の本来の基盤であるという理論」に求めている(『永原慶二著作選集』第一巻、四一六頁)。これに対して、永原の盟友であった網野善彦は、この共同体間世界を「無縁の自由」に引きつけて捉えた。これは歴史的な評価や位置づけは大きく異なっているが、共同体間の世界に注目し、そこに王権の支配根拠を求めること自体は共通していた。

 ようするに、大塚の理論は、戦後派歴史学の中枢部においては一種の常識であったのである。とくに経済学部で教鞭をとり、日本経済史の通史を講じていた永原が大塚の議論から様々な影響をうけていたのは当然のことであった。ただ、永原にしても歴史経済学の理論そのものを論じた論文は少なく、その詳細は明らかでないが、ただ「経済史の課題と方法」(一九七一年)という論文は間接的ではあるが、永原と大塚理論の関係を示しているように思う(『永原慶二著作選集』第九巻)。

 この論文で、永原は前近代の経済史研究の課題について「奴隷制や封建制生産様式の論理体系と、その生成・発展の運動をも対象とし、それを解明することによって、資本主義経済の位置と特質に歴史的照明をあてる」と述べている。そして、ここで永原が「奴隷制や封建制生産様式の論理体系」というのは、明らかに高橋幸八郎が『資本論』における資本主義社会分析の論理体系、商品ー貨幣ー資本の論理序列にならって設定したフーフェーゲマインデーグルントヘルシャフトの論理構造、つまり、より一般的にいえば、小土地所有ー村落共同体ー領主制の論理序列という議論を受けたものである(『市民革命の構造』、お茶の水書房)。永原は、ここで大塚の議論を参照していないが、この高橋の議論が大塚の影響の下に構想されたものであることはいうまでもない。

 永原の経済史理論は、普通、レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』に依拠したウクラード論であるといわれる。永原が、これによって、いわゆる単一ウクラード論とそれにもとづく単系発展段階論とは異なる視座を獲得した。それ故に、永原は、この論文において自身の経済史理論をそのようなものとして説明している。しかし、注意されるのは、永原が「ウクラードとはロシア語であるが、英語のエレメントにあたるほどの意味である。経済史の理論問題としては、ウクラードの理解をめぐって論争があるが、私は経済構造(構成体)をかたちづくる諸エレメントであると考える」とし、さらに「封建的構成体を直接に規定するウクラードとしての封建的ウクラードとは封建的土地所有制下の小農民経営である」と述べていることである。これが高橋のいう「フーフェ=小土地所有」を意味していることは明らかであろう。それが『資本論』冒頭で「資本制社会における富の要素的形態」として提出された商品範疇、つまり資本制社会の分析の端緒範疇に対応するものであることもいうまでもない。

 なお、このような議論が、日本経済史研究において当然の理論的前提となっていたことについては、永原の次の世代の中世史研究者、大山喬平が、その『中世日本農村史の研究』(岩波書店、一九七八年)において高橋のフーフェーゲマインデーグルントヘルシャフトの論理序列の議論にそって領主制と村落研究の課題を設定していることに明らかである。

2017年4月10日 (月)

戦後派歴史学と永原慶二氏

 日本読書新聞のインタvユーがでてきました。相当以前なので掲載します。


 「戦後歴史学」を代表する存在であった、永原慶二氏の仕事を集成した『永原慶二著作選集』全一〇巻が刊行された。専門の日本中世史研究のみならず、史学史や歴史教育、歴史学の方法論といった、永原氏の幅広い業績の全体像をうかがい知ることができる。本著作集完結を機に、第九巻『歴史学序説 20世紀日本の歴史学』の解説を執筆した東京大学史料編纂所の保立道久氏に、「永原史学」をめぐって話をうかがった。(5月12日、東京大学にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)
 日本読書新聞
 


「戦後歴史学」内部からの戦後歴史学批判

 ――保立さんは、『歴史学をみつめ直す――封建制概念の放棄』(校倉書房、二〇〇四年)の中で、永原さんを「もっとも戦後歴史学らしい学風をもった歴史家の一人」と書かれています。
保立 それが実感です。私は一九四八年生まれですけれども、私ともう少し下の世代までは、石母田正さんの『中世的世界の形成』を読んで中世史に誘われ、次ぎには永原さんの仕事をテキストにして勉強を始めたという人が多いのです。
 戦後歴史学を代表するというのは、まずはそういう経過の問題です。たしかに永原さんは、皇国史観に対する強い批判、経済史を基礎にした普遍的で透明な論理などの点で、いかにも戦後歴史学という方です。しかし、戦後歴史学の最初の指導者であった石母田さんや松本新八郎さんとは、関係も強いだけに一定の批判があったはずで、早くから戦後歴史学の限界面について意識的な発言をされています。
 これは石母田さんの自己批判にも関わっているのですが、すでに一九六〇年代半ばには、戦後歴史学の発展段階論が一国史的、単線的、西洋中心主義的な傾向をもっており、天皇制に対する批判が国内的視野に偏っていたと指摘されています。近代歴史学は「帝国主義支配民族の歴史学という宿命」の中にあり、戦後歴史学も、その宿命から自由ではなかったという言い方をされています。
――いわゆるオリエンタリズム批判を、一九六〇年代に自覚的になされたわけですね。
保立 いや、オリエンタリズム批判ということになれば、もっと早く、既に一九五〇年代の後半、『日本封建社会論』(本著作集第一巻に収録)の冒頭に、その趣旨を書かれています。もちろん、オリエンタリズム批判という言葉ではありませんが、いわゆる「アジア的停滞性論・宿命論」がヨーロッパ思想の中に組み込まれているという批判は、日本の戦前の学界でも相当高いレヴェルで議論されています。永原さんは、これを明瞭に引き継いで議論を立てています。
ーーそんなに早いのですか。
 こうした批判は、ここ二〇年ぐらいで誰もが言うようになりました。しかし、それは実は、早くから戦後歴史学の中枢部にあったということです。その事情も知らずに周知のことを繰り返しているのはあまりにジャーナリスティックで、研究者の場合は無教養の証明です。
 最近は歴史学がいろいろ批判を受けますし、たしかにそのとおりかもしれません。しかし、では他の学問はいったい何をしていたのか。法学や経済学は、それだけ自前で自慢できることをしているかどうか。他人事ではないはずです。
 いま二〇世紀の人文社会科学全体が問い直されています。その中で、歴史学の問い直しは決定的な位置をもっています。なぜなら、歴史学からみると、我々の対極にあるのは哲学です。そして歴史学と哲学の間には実用性をもった法学・経済学その他の個別科学があります。法・経済などは個別科学であるというのは永原さんの言い方ですが、歴史学は哲学と同じように総合と論理で勝負する学問です。ただ哲学と違って、個別科学と素材を共有し、その全体を直接に総合する位置にあります。ですから、人文社会科学の問い直しの上では、いちばん重要なのです。
 永原さんの歴史学は、いわば全面展開の歴史学です。対象とした時代の幅も広く、たとえば『日本経済史』(本著作集第八巻に収録)などは、原始から明治時代末期までを一人で書いています。そして社会構造論から政治史、思想史まですべて展開しています。ですから、歴史学を問い直す上では、まずこれに挑まないといけません。
――そうした永原さんの仕事の理論的な基盤には、戦前の『日本資本主義発達史講座』の「講座派」の大きな影響があったのですね。
保立 その通りです。ただ、講座派の中心は明らかに経済学と法学でした。講座派によって歴史学ははじめて法学・経済学の厳密な方法を学び、対等な地位に進みました。現在の法学や経済学が講座派の議論をなかば忘れつつあるのではないかと心配ですが、事柄の性格からいって、歴史学は講座派を忘れる訳にはいきません。
 もちろん、歴史学の中でも講座派の議論については批判が強くなりました。私も、戦前の日本社会をすべて封建制というイメージで塗り込めるような傾向には賛成できません。江戸時代の広い意味での「近代性」も無視できないと考えますし、明治以降に発達した市民社会の実質はやはり相当のものです。しかし、戦争遂行のために市民的自由が抑圧され、その抑圧の仕方に前近代的性格が非常に強かったことをことは明かです。いわゆる労農派が基本的なところで錯誤をおかしたのはまったく明らかです。日本社会をはじめて社会構造と歴史に踏み込んでとらえることに成功した講座派の議論の意義は何をおいても再確認する必要があります。
 講座派は、戦争に対する批判をし、戦争の結果がどうなるかについて予測しました。彼らの相当部分は現実に行動して牢獄に囚われたわけですから、経過からしても、永原さんを含めて当時の若い研究者が講座派に流れたのは、自然なことだったと思います。
ーーやはり吉川弘文館からでている『永原慶二の歴史学』(永原慶二追悼文集刊行会編、二〇〇六年)によると、永原さんは学生時代に東大の前の古本屋で講座の一部を入手されたということですね。
 私たちからみると、あの戦争体制の時代に、ひそかに『講座』を読んでいたというのは驚きです。第二次世界大戦を推進したイデオロギーは、ご承知のように皇国史観でした。それがつぶれた訳ですから、戦前社会で階層的にも上の方にいて、エリート教育の中にいた人々がドッと歴史学を専攻するということが起きたわけです。ただ永原さんは、戦争の最中から批判的であった訳で、こういう言い方はよくないかもしれませんが、それは永原さんが、飛び抜けて優秀な人であったことの証明だと思います。
 永原さんが、小学校から秀才で通した人だというのは歴史学界では有名な話しです。戦前にもエリート小学校というものがあったそうですが、永原さんは青山の青南小学校の卒業です。それから、たとえば、永原さんは高校時代、ギリシア史の村川堅太郎氏に習っていますし、大学時代にも東大法学部の川島武宜氏の研究会に出ています。戦後、結婚されたときは戦前からの著名な歴史家・川崎庸之さんが保証人ですが、川崎さんのいとこが戸坂潤です。母子家庭で育った戸坂潤は川崎さんの実家に寄留して、永原さんと同じ青南小学校に通っています。川崎先生は網野善彦さんの仲人もされています。私は、それを知った時、戦後中世史学というのは本当に狭いところから出発しているんだと奇妙な感じになりました。
 話しがずれましたが、人間関係の上でも、戦前の市民派ないしマルクス主義知識人のそばに、永原さんたちの生活圏があったわけですね。講座派を担った経済学者や法学者たちは、戦前の日本社会の中でトップレベルの知識人だったわけですが、さらに一回り広い範囲の若手の研究者が戦争に大きな衝撃を受けて歴史学の道に進んだのです。
――戦後歴史学の人間関係の狭さというのは、はじめて聞きました。
 保立 「戦後歴史学」という言葉ですが、現在の歴史学界では「現代歴史学」とか「批判的歴史学」という言い方をします。なぜかというと、戦後歴史学という言い方では、二〇世紀後半の歴史をすべて「戦後」、それ故に長い平和の時期として見てしまう落とし穴に陥りかねません。第二次世界大戦の終わりから、もう六〇年以上たっているわけですし、しかも世界各地はもとより、東アジアでも戦争が連続してきたことを、学問の論理の中で忘れかねないからです。
 ただ、戦後歴史学という言葉にこだわらざるをえない面もあって、第二次世界大戦に対する本格的な反省が、日本社会では行なわれていないためです。いうまでもないことですが、戦後処理の課題を、日本社会は持ち続けている。もちろん、これは学問的な問題であるよりも先ず政治の問題です。ヨーロッパでは、政治的な問題として決着がついているわけですから。けれども、長い間の政治の不決断が続いていることを他人事とみるわけにもいきません。

 アカデミズムの自己認識、職業としての学問

――永原さんは晩年、『20世紀日本の歴史学』(本著作集第九巻に収録)を書かれますが、ご自身もその史学史のなかの歴史家として、近代以降の歴史学の自己検証という大きな課題を担われた、といえるのでしょうか。
 保立 永原さんは、歴史学研究会などの学会の運営に関わり、日本学術会議の中心メンバーでもありました。文化庁の文化財保存の委員でもありましたし、『中公 日本の歴史』などのほとんどの通史や、学会編集の講座など、大規模な出版のほとんどすべてに企画委員の立場で関わりました。さらに、家永三郎さんが始められた教科書検定訴訟でも中心的な役割を果たされ、教科書をめぐって中国と韓国の間で問題が起きたときも、必ず必要な発言をしました。
 『20世紀日本の歴史学』は歴史学のアカデミズムの通史です。アカデミズムというとあまりよいイメージでないかも知れませんが、それは「職業としての学問」ということです。永原さんは職業人の責任として、歴史教育のあり方や社会に対する歴史の情報の提供の仕方について学界の責任を取るということを、非常に強く意識されていた。
 歴史学が社会的に負っている課題と責任とは何か、それを担うために我々がどういう方法を組み立てなければいけないか、どういう形で議論を展開しなければいけないかを、経験を通じて書いた。これは、永原さんでなければ書けない本です。そして、その特徴は、じつは、歴史学のアカデミズムに対して見方が非常に厳しいことです。中心にいたからこそ、そうみえるのでしょうが、日本の歴史学がどうしても無思想になり、史料の細部を分析するだけに陥りがちであることを、厳しく批判しています。
 ――厳しいということでいえば、たとえば『20世紀日本の歴史学』の中で、網野善彦さんの歴史観に関して、それは一種の空想的浪漫主義であり、日本浪漫派の歴史観に通底する、という評価をされています。その点に関して、どのようにお考えですか。
 保立 このところ、黒田俊雄さん、石井進さん、網野さん、永原さんと、戦後歴史学を担った中世史家が次々に亡くなっています。我々にとってはとてもきついことです。私などは、彼らの関係を目撃した最後の世代に属するのかもしれません。本当に仲がよく、互いに信頼しあっていて、しかも相互にメチャクチャにいいあうのです。
 見ていて羨ましいというのが第一でしたが、なぜ、こういう人間関係が可能なのかということはずっと不思議でした。やはり戦中から戦後への一番大変な時代を共有したことが、決定的だったのだと思います。我々はそんな歴史的経験をもっていません。歴史が大きく動き、その中で歴史学と学問が行動せざるをえないという時代には生きていないわけです。
 私的な話ですけれども、青山の永原さんのお墓にお参りをした時に、奥様の話をうかがいました。網野さんが亡くなった後、永原さんが山梨の網野家にお墓参りをしたときに、泣いたというんですね。奥様は「私は永原が泣くのを初めて見ました」と言われていました。それは網野さんも同じで、笠松宏至さんが永原さんにガンが発見された直後に、それを聞いて、網野さんに電話で伝えたところ、網野さんが絶句して、異様といってよいほど取り乱されたそうです。
 網野さんは永原さんの高校の後輩で、史料の読み方、論文の書き方などは永原さんに教わったといいますから、ほとんど兄弟の関係のような感じだったのだと思います。そういう関係には立ち入れないものを感じます。そもそも、こんなことを伝聞でいう資格はないのですが、五〇年以上、肝胆相照らすという関係で学問をしてきた研究者同士の関係が独特なものとなることくらいはわかります。
 浪漫主義というのは一面では、永原さんが熟知する網野さんの人柄なのだと思います。それは網野さんは本当に魅力的な人でしたから。ただ、他面で、要するに永原さんは、網野さんをだしにして、歴史学が陥りがちな傾向、つまり「無思想」でなければ浪漫主義になる、いわゆる歴史主義の陥穽をいいたかったのだと思います。若い頃から言いあっていたのではないですか。網野さんにしたら、「まったくもう」という感じでしょうけれど。
 ともかく、我々は、網野さんと永原さんの両方を乗り越えなければいけない。そういう立場にありますから、表面でなく、内容に踏みこんで二人一緒に批判することになります。そして、そういう観点から二人の仕事を見てみると、表面的にはまったく違うかのようですが、実は意外と似たところが多いんです。


 永原史学の特徴と方法

 ――永原さんの歴史学の特徴とはどのようなものだったのでしょうか。
保立 二つあって、第一の特徴は、中世社会を構造論的に捉える立場で、『日本の中世社会』(本著作集第三巻に収録)や『日本中世の国家と社会』(本著作集第七巻に収録)などに典型的に表れています。永原さんはそれを、日本社会の集中的・求心的構造といわれますけれども、天皇制的な都市、首都による全国支配の構造がなぜ成立し、発展し続け、残り続けているのかを、執拗に問い続けたわけです。これが、永原さんの社会構造論の中心に据えられています。
 それから第二の特徴は、南北朝・室町時代の研究の開拓者だったことです。戦後中世史学というのは、石母田さんの『中世的世界の形成』で始まりましたから、平安・鎌倉時代が最初の舞台だったわけです。それに対して永原さんは、南北朝・室町・戦国時代を固有のフィールドとして、その時代の研究に責任を持ちました。永原さんが研究を始められた当時は、室町時代と戦国時代については、研究がそれほどありませんでしたし、史料も整っていませんでした。永原さんはそこを配慮しながら共同研究を組織しました。その功績がきわめて大きいことは、この時代の研究を知っているものの共通認識です。
 ――研究方法についても、永原さんの独自性を指摘されていますね。
保立 研究の方法としては、第一の側面として、経済史と社会構成の移行の理解をベースにおいて通史的な枠組みを描き出したことです。その中心となったのは、室町時代の経済発展の理解で、永原さんは、この時代の生産諸力の発展、商品経済と社会的分業の展開を高く評価します。
 耕地は安定化し、都市が発展し、それを基礎にして文化が民衆化する。永原さんは、明らかに、この段階を一三世紀以降のヨーロッパ封建制と同じような経済のテイクオフ、新しい技術と文明という脈絡で捉えています。これを封建制の第一段階というわけで、それをベースとして比較すると、平安時代はやはり古代であり、江戸時代は封建制の第二段階で別の社会ということになります。
 日本の社会構成論にとっては、中間の「中世」をどう捉えるかというのが、決定的な位置をもっているのですが、この点を永原さんがつかんだ訳です。その特徴は、封建制とは支配や抑圧の問題とイコールではなくて、むしろ室町時代はヨーロッパと似て、内乱と地域的な分権、それに庶民と村々が巻き込まれるような時期という意味で封建制概念を理解しています。そして戦乱を中心としてみると、大変暗い時期だけれども、同時に室町時代の社会は逆に不羈奔放で経済が発展するという二面的な把握です。暗黒といわれていた室町時代を中心において、ともかく鎌倉から戦国時代まで理解を通すために、経済史の方法が一番有効に働いたということだと思います。こうして、全体の通史が一応の枠組みとしてできたわけです。
 それから第二には、民衆史を大事にしたことが大きいですね。特に『下剋上の時代』(『日本の歴史』一〇、中央公論社、一九六五年)が有名ですけれども、民衆を主体にして室町時代を描いたわけです。『内乱と民衆の世紀』(『体系日本の歴史』六、小学館、一九八八年)では、室町時代は、貨幣と都市の魔力が本格的に始まった時代といわれています。文化にしても、連歌にしても、村々を中心に生産と交通・分業が発展し、その中で民衆が社会的な地位を向上させる。これは内藤湖南と鈴木良一さんの影響だと思いますが、『下剋上の時代』でマルク・ブロックを引用して、この時代の民衆心性の「野性」を論じていることも印象的でした。
 ――ブロックのマンタリテ、心性論への注目などというのは相当早いですね。
 保立 そうですね。我々は、永原さんというと端正な方と考えがちなのですが、永原さんは、実際には、室町期の民衆の野性的なところが好きなのではないかと思います。社会史の先駆ということですが、社会史研究との接点ということになると、いわゆる公共性の問題についての議論も重要です。これが第三の研究方法の特徴になるかもしれませんが、永原さんの仕事は、いわゆる階級史観でなく、公共性論だったということです。単純に階級原理から論ずるのではなく、社会的・公共的な機能を誰がどう果すかということを中心に、議論を組み立てるスタイルですね。
 室町時代の文化や経済の発達は、国家と支配層と中間層と民衆が一緒にやったことであって、すべてを階級原理で解くことはできない、前近代の民衆の構造を無媒介に階級原理で捉えたり、もっぱら戦うものとして捉えることは正しくないというわけです。庶民の動きはベースにあるけれども、他のさまざまな諸階層の動きが全体として絡まり合って歴史は動くと、明瞭にいわれています。
 ですから逆に、知識人や支配層、および国家の社会的責任を問うことになるわけですね。国家は、公共的機能をどこまで果たしてきたか。室町期の国家は結局それを果せなかった。だから、戦国大名が出てきたというのが、永原さんの把握です。


 永原慶二氏と網野善彦氏の共通点と相違点

 ――網野さんは、永原さんの仕事を強く意識されていたのでしょうね。
 保立 網野さんは、永原さんの『下剋上の時代』(中央公論社、一九六五年)をよく読まれていたと思います。この本は室町時代の非農業民や社会的分業を構造として明瞭に位置づけた初めての通史ですが、網野さんが『蒙古襲来』(小学館、一九七四年)でそれに対抗しようとしたことは明かです。
 我々から見て、お二人に共通するのは、何よりも、天皇制と日本社会の特質論です。網野さんのいう「日本論」ですね。永原さんの議論は『日本の中世社会』で明示されていますが、ようするに天皇制的な諸関係の根拠を、共同体間の世界と都市・社会分業に対する公共的支配に求めるわけです。網野さんも「無縁」の場、都市と境界領域に王権の根拠を求める訳です。二人とも、日本社会は東アジアやヨーロッパと比べて相当独特な社会であるが、それが何故なのかということを執拗に問い続けられたという姿勢の点でも同じです。というよりも姿勢が同じだから、相似する議論枠組みを取られたといった方がよいかもしれません。
 もう少し詳しく見ると、お二人の共通性は三つあります。一つは、室町時代を、網野さんも日本の歴史の「近世化」の画期とみます。それを「資本主義化」ともいえるなどといわれるので、永原さんは猛反発をするのですが、けれども実態認識としては、先ほどいいましたように、永原さんもそう違わないのです。ですから、全体の通史イメージについて、二人は意外と似ているというのが、私の昔からの考え方でした。
 それから二つ目に、領主と百姓の関係についてですけれども、網野さんは、領主と百姓の関係は単に支配だけではなくて、一種の契約関係だといわれます。永原さんは鎌倉時代以前についてはそんなことはいわれませんが、室町戦国期になると、農民は領主に対して庇護される代償として年貢を出すのだといわれます。つまり、領主と農民の関係には双務性があって、庇護に対して年貢を出すというかたちです。これは永原さんの公共性論からいって当然のことなのです。
 網野さんは、永原さんは暴力と強制で領主制を捉えると批判します。鎌倉期以前について永原さんがそう考えていたのは事実でしょうが、室町期をふくめて考えると、そんなに議論枠組みは違わないのです。もちろん、永原さんは、農奴支配を強調されます。封建制というべきかどうかは別として農奴的な人身隷属があったことは事実ですから、この点では、私は永原さんの見方が正しいと思います。
 それから三つ目ですが、永原さんも網野さんも、中田薫という戦前の法制史家の仕事を前提にしています。中田薫は、日本の中世社会がヨーロッパと似ていて、ヨーロッパの水準によって日本社会を理解できると指摘した研究者ですが、その中田薫をどう読むかということを、お二人は考え続けたわけですね。石母田さんの議論が中田を前提にしていたことはよく知られていますが、戦後歴史学論からいうと、お二人は石母田さんの仕事の根拠を、中田まで戻って問われようとしたということになると思います。

――ようするに中田薫の「職」論ですか。
保立 ええ、その通りです。荘園制の土地所有なり土地関係は「職」という言葉で表現されるわけですが、その職を持っている人びとの間を年貢が動き、職の間で年貢が分割される。その職というものをどう考えるのかを最初に打ち出して「日本中世=封建制」論を組み立てたのが中田薫です。
 単純化していうと、網野さんは年貢所当は租税であるという中田説を認めた上で議論をし、永原さんはむしろ地代であるとして議論を組み立て直しました。ただ、それが国家的な性格を持っているということは、永原さんも網野さんも共通していわれますので、見かけほどは違わないのです。私は、年貢所当というのは租税でもあり地代でもある、いわゆる「租税と地代の一致」と考えていますが、お二人の議論を乗り越えていく上での要点はここにあると考えています。

ーーけれども、理論の上での相違は大きいのではないかと思いますが。
 保立 理論的に一番大きい相違点は、生産諸力の発展をどう捉えるか、ということです。永原さんは、生産諸力が百姓の小経営と私的な所有の中で徐々に蓄積され発展していくというところを、非常に重視されるわけです。網野さんは、そういう私的な所有と経営の中での発展ではなくて、いわゆる「無縁」の場、つまり山野河海や、共同体と共同体の境界、都市的な場での生産諸力の発展を第一とするわけですね。
 私は、折衷するようですけれども、言われていることは両方とも正しいと考えます。農民経営と村落の内部での生産諸力の発展も重要だし、無縁の場も重要である。その意味では、永原さんと網野さんの言われていることは、互いに補い合うものなんですね。
 問題は両方の関係と組み合わせです。我々は、お二人の言っていることを、両方とも正しいと仮定した上で乗り越えることを考えます。その場合、率直に言って、論理が透明で、論理を通すことに全力を傾けるのが、永原さんです。それに対して、これは歴史学者として非常に重要な能力なのですが、新しい史料と、新しい史料の読み方を追求し、その面白さを感性的に理解するのが網野さんです。
 職人としては、網野さんの方をどうしても大事に思いますけれども、歴史学全体として考える場合には、永原さんのいわれるように、論理と分析が通っていない歴史学はあり得ないということは明瞭です。我々は、努力すればどちらももてる世代です。


 歴史学の職能と責務、そして課題

――永原さんは、アカデミズム実証主義史学の「無思想」を指摘され、現実に向き合う姿勢を説かれました。虫の目をもちながら鳥の目をもつといいますか、個々の史料の分析に入りながら、トータルな視野を失わない総合の学たることを見失うべきではない、ということなのですね。
 保立 日本の歴史史料は、ものすごくたくさんあるのです。ヨーロッパや中国よりもたくさんあるので、実際に研究していると「無思想」にならざるをえないんです。永原さんはそれをよくご存知で、その上で、全体の見通しと理論、方法と思想がなくては、これだけ大量の史料の分析はできないという発言を繰り返されました。
 職業として日本の歴史を専門にし、研究している者にとっては、『20世紀日本の歴史学』を読んでいるとその通りということになるわけです。それを永原さんは学史として書いてくれ、それを共有し、そこから再出発しようと呼びかけてくれた。そういうことができる人は、なかなかいないわけです。
 ――たくさんある史料を分析する、歴史家の理論と方法、思想が問題である、ということなのですね。
 保立 現在、東京大学史料編纂所が中心になって、学界の協力を得て、平安時代、鎌倉時代の文献史料の基本部分を、コンピュータにフルテキスト入力したところです。ほかの分野でも歴史学の情報化は進んでいます。永原さんも『20世紀日本の歴史学』で、そうした研究体制と研究条件の拡充について、昔では考えられないことだといわれていますが、これによって、大量の史料を一望のもとに、理論的、全体的に統括して分析できるようにしたいと思っています。
 ともかく、歴史学者は基本的には虫の目になりますので、その職業的な義務は果たしてきていると思います。アカデミズムの歴史学にまず必要なことは、歴史史料を保存し、それを誰もが読みやすい形にし、提供をすることです。歴史学に委ねられている社会的な職能に関わる問題については、着実に成果を積み上げてきています。

 
 グランドセオリーを作り直す、二一世紀の歴史学へ

――『永原慶二著作集』を踏まえながら、二一世紀の歴史学はどう展開されていくのか、今後の課題についておうかがいします。
 保立 歴史学者にとっては、具体的な史料から見えてくる具体的な事実と、その上で組み立てられるイメージが、どうしても第一になります。
 実際には、永原さんだってそうだったわけです。永原さんの最後の著作である『苧麻・絹・木綿の社会史』(著作集第八巻に収録)は、まさに社会史です。永原さんがおばあさんの作ってくれた麻の服をずっと使っておられて、それへの思いが、この本には明らかに見られるわけですね。
 特に、現代の歴史家としては、過去の具体的なイメージを提供するというのは、非常に重要なことです。今の日本社会はバチアタリ社会ですから、日本の風土と歴史、文化に即した過去のイメージが、大量に破壊されて消えていっています。それを残すことは、文化の多様性を残すことに直結します。文化の多様性というのは、世界史的に見ても非常に意味が大きいわけですから、その多様性を維持するために尽力するというのは、歴史学者の主要な役割になります。
 もちろんそれには、他のさまざまな学問分野の協力が必要になります。とくに自然環境保護、いわゆるサステナビリティについて、自然科学分野の研究者との学際的な協力が必要になります。
ーーしかし、それだけでは迂遠な話しのように思いますが。とくに自然科学者は本質的に理論家というか、明解な図式を要求しますから、善意だけでは難しいのではないですか。
 保立 それはその通りで、結局、歴史のグランドセオリーを、もう一度作り直すことを考えざるをえません。それがなければ、過去を認識できないからです。歴史学は、多様な事実を総合して、その上で理論的な解析を加えて、透明な論理的理解をえたいと考えます。その場合、現代社会に対する論理的な理解を、方法的につきつめ延長する形で、過去を理解するということになります。
 ただし、これまでは、現代の市民社会あるいは資本主義社会の理解を延長するかたちで過去を理解するというのが基本でした。ヘーゲル、マルクス、ウェーバーなどすべてそうです。
 しかし、現在は、それでは済まなくなっています。つまり、第一には「二〇世紀社会主義」、自称社会主義なるものの体たらくです。これがどのような「社会構成」であったのかを論理的に明示しなければ、所詮、歴史理論は無力です。そして、私見では、ようするにこれは、集団所有を基礎としながらも、上位の代表集団が特権的・階級的支配を展開するというマルクスの『資本制生産に先行する諸形態』に描かれた論理が現代に実現してしまったということです。これによって集団所有・共同所有がかならずしも協和的なものではなく、強い階級的な性格をもつことがありうるという、石母田さんの首長制論や戸田芳実さんの議論など、戦後歴史学の内部で議論されていたことが劇的に証明されてしまった訳です。
 従来、社会構造論、社会構成体論というと、私的所有を基準にして組み立てられた訳ですが、こういう論争史をふまえると、私的な階級的所有と集団的な階級所有が融合してシステムを作り上げている構造こそが問題となります。これが論理的な帰結です。それはいわゆる「アジア的社会構成」に限った問題ではなく、ほとんど通時代的な問題です。しかも網野さんのいうような「無縁の場」の位置、「無所有」、境界的所有の位置がきわめて重要です。社会構成というのは、それらの所有形態の組み合わせによって出来上がるものですから、非常に多様になる。しかもそれに自然的・歴史的条件(空間・時間条件)の多様性が加わるのですから、四つ五つの範疇ですむようなものではなく、数百の単位で考えなければならないというのが、私の考え方です。
 たとえば柄谷行人さんでさえ、『世界共和国へ』(岩波書店、二〇〇六年)で、依然として原始社会、古代社会、封建社会、資本主義社会という枠組みで議論しています。しかし、それはマルクス段階でもヨーロッパにおける社会構成の変遷の素描なので、世界史をそれで解こうなどというのは無理な話しです。所詮、スターリン型のロシア・マルクス主義のシェーマにすぎません。すべてやり直すほかないのです。
 第二に問題なのは、現代世界における国民国家ごとの社会構成の多様性です。もちろん、現代は、基本的には、社会構成論の問題としては資本主義一本でいけます。ですからグローバル資本主義なのですが、しかし、だからこそ国民国家ごとの社会構成の特徴は、これが同じ資本主義社会か、というほど違ってくる。それを規定しているのが各地域の前近代社会のあり方です。もちろん、そこで問題となるのは、前近代社会そのものではなく、近代化の過程で「創造された」要素もふくみます。
 現代の世界史はそういうが過去からの規定を受けて、さまざまな矛盾を抱え込んでいます。たとえば原住民の抑圧にもとづいて形成されたアメリカ「銃社会」の本質的な野蛮性が、前近代ユーラシアの中心であったイスラム世界と衝突している訳です。世界史の総体分析のために、前近代社会論が必須になってきているというのがグローバル化の帰結です。
ーーそういうグランドセオリーは本当にできるのですか。
 保立 『永原慶二の歴史学』での対談で、質問者が永原さんに、どのようなグランドセオリーを考えるべきかと何度か食い下がっているのですが、永原さんは、それを考えるのはあなたたち若い人の責任だと取り合いませんでした。これは仕方ないのかもしれないと思います。
 しかし、我々としても見通しは暗くはありません。永原・網野の世代と明らかに違うのは、ここ二〇年ぐらいの間に、ヨーロッパや東アジアの歴史研究者との関係が日常的になってきたことです。海外の研究者にメール一本で疑問をきけるというのは決定的です。
 それから、ヨーロッパ・アフリカから南アメリカまで、どの地域の歴史についても、基本的な研究文献が自国語で読め、研究者の層が厚いなどというのは世界中で日本だけです。たとえばアミンだとか、ウォーラーステインだとかがいますけれども、ほとんど講座派段階での議論レヴェルと同工異曲でたいしたことはありません。大塚久雄・宮崎市定・井筒俊彦などをもった日本の歴史学界の実力というのは、総合力でみれば世界トップです。とくにやはりアジアに属しているというのが強みで、その意味でも、最近、中国・韓国の研究者と歴史教材とか歴史意識の問題で共同作業が積み重ねられてきたことは大きいです。
 心配は、何しろ研究条件が貧困なこと。とくに、政府財務省が学術・大学の恒常予算をどんどん削っていますから、後継者が確保できない。私の職場でも、毎年、助教の人件費を一人分づつ切っていかないとならない。実際に首切りなどということはできませんから、その分、事業費を削っていく。だから新しい人は採用できない。私はもうすぐ定年ですけれど、私の跡のポストは採用できないといわれています。
 大変なのは若い人たちです。トラップにはまったようなもので、その上、学術自身が衰退していく。補給を絶たれれば、それは必然的です。いったい何を考えているのか。それこそ「戦後」作ってきたものをすべて崩壊させたいのか。
 けれども、新しい世界史のグランドセオリーを考えなければならない時期に入っているのは客観的な状況の問題ですから、これは必然的に進むとは思います。結局、学術・理論より人間の方が大事ですけれども。
ーー最後に読者に何か付け加えたいことがありますか。
 保立 『永原慶二著作集』が完結しましたので、永原さんが何を言われたかを点検することが可能になりました。網野さんの著作集も刊行中です。二一世紀の歴史家にとって、この二つはとても大切なテキストです。そしてそれのみでなく、広く読書人にとっても、津田左右吉や三木清、鈴木大拙らの著作集を座右に置くのと同様に、常に立ち返って読み直す価値のある仕事だと思います。
                                    (了)

2016年9月 5日 (月)

平安時代、鎌倉時代という言葉をつかわない理由

ある研究会への報告準備ペーパーです。

 8世紀末から12世紀末までの日本の歴史を「平安時代」という用語で表現するのが普通であるが、「平安」というのは、山城愛宕郡への遷都における桓武の主観的希望の表現にすぎない。「平安京」という都城名は史料に登場するが、その実際が「平安」であった訳ではない。それに何時までも呪縛された時代名を使うことには疑問が多い。また奈良京→長岡京→愛宕京の遷都過程は既存建築などの施設を使用しつつ、西北、東北に平行移動したものであることが知られており、政治過程からしても、長岡京以降は同一の時代であって山城時代とし、王朝は「山城王朝」とするのがわかりやすい。私見では、時代名に山城という地名を入れることは、山城時代の国家が八世紀までの畿内国家(西国国家)という本質を残していることを示す上でも便宜である。
 この時代の国家形態を都市王権と呼ぶことができるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「首都域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。9世紀末・10世紀初頭の国政改革によって、五位以上の貴族は山城首都圏居住を標識とする都市貴族として身分化され、九世紀までの経過で各地方の豪族あるいは、そこに留住するにいたった支配層は地方貴族として区分されるにいたった。この山城王朝国家は、都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係、中央都市支配と地方社会における領主支配の関係という中心・周縁関係、都鄙関係を前提に存在していた国家であるということができる。
 山城時代を小区分すると、その第一期は怨霊期である。九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まり、八六九年陸奥地震の背後にいた怨霊としての伴善男、そして大国主命の籠もっていた吉野の地下に地震などの災害霊として籠もった菅原道真によって特徴づけられる。これらの怨霊は王権内部の激しい対立に関わって登場したものであり、この時代の政治史的本質を現している。いわゆる奈良時代、つまり大和時代後期の宮廷が直接の王族内部における殺し合いによって特徴づけられるのに対して、この時代に入って、王権内部における殺し合いが消えるのは、都市王権成立の反映である。殺されて怨霊となるのは、都市貴族であって、これは彼らが内部闘争に積極的に関わっていったことの反映である。
 この時期、初期荘園制の展開と班田収受システムの負名散田請負への移行(「班」は「あがつ」と読むが「散」の読みも同じ。両制度には連続性がある)を前提に、地方制度がいわゆる国衙荘園体制に再編成される。これが上記国政改革の重要な内容をなしていた。なお都市王権の成立は首都の都市的な社会関係が基準関係となることを意味しており、都市宮廷や都市貴族制に対応する官衙制、都市住人諸階層の形成、ジェンダー関係の変容(女性の秘面性など)などが注目される。仏教の顕密主義と神道の複合としての日本的宗教論理が成立することも、それと一連の事態であろう。神社は都市的な清浄論理を代表するものと考える。
 山城時代第二期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。この時期は、都市王権が吉田孝のいう「古典的」形態をとるようになった時期である。王権の代行システム(摂関制など)、後宮組織の充実、官僚貴族制、宮廷貴族と武家貴族の分化などに表現されるよって特徴づけられる。それは都市王権の内部に王身分・元首制(儀礼主宰)・執行権の複層構造をもたらした。王統の迭立は、それにもとづいていただけにきわめて根強いものとなった。道長の権威は、両統に娘を配置することによって王統を合流させることに根付いていたことなどはいうまでもない。この時代を摂関時代というのは、このような政治史の本質を捉えたものとはいえない。
 この時期、王家領荘園、摂関家領荘園の体系化が関係しながら進んだ。これは国司苛政上訴の動きなどにみえるような都鄙関係の展開、「高家」といわれるような地方名望家の形成に対応している。なお、この時期のイデオロギー状況としては、やはり比叡山と山王神道(およびそれとむすびついた賀茂、祇園、石清水など)を中心とした末寺・末社組織の展開が大きいだろう。そこに発生した神人組織が都市的な商工業の受け皿になっていく。
 山城時代の第三期は院政期である。後三条天皇は道長の下での縁戚的な両統の合一を前提として、両統を統一したが、それはすぐに別の形態の王権内部の紛議をもたらした。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期のそれは親子間の対立(後三条―白河、白河―鳥羽―崇徳、後白河ー二条、後白河―高倉など)となり、きわめて激しいものとなったのである。これは、山城王朝国家の全体的な変化に関わっており、基本的には都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係がより直接的な関係に変容していったためである。それは一方では院領荘園の拡大、他方では知行国制の拡大による中央・地方の統合を基礎としていた。
 この下で、院政期国家は国土高権を強化していったのであるが、他方でこの過程は後白河院政期に東国受領が院近臣集団によって統括されているように、各地に一国を超えたレベルの広域的な諸関係を生み出していった。このなかで、王権内部の激烈な矛盾と武家貴族の競い合いが結びつくこととなって。これが院政期国家に内戦と国家の本格的な軍事化をもたらしたのである。
 山城時代の第四期は、都市王権の国家から武臣国家に入っていく過渡期である。この時代は、平氏系王朝、高倉の即位によって開始された。平氏系王朝は、後白河が二条の「二代后」問題に介入したいわゆる平治の乱の経過のなかで形成されたものである。平氏による武臣執政は、地方社会における広汎な矛盾の展開を促し、それが一一八〇年代の源平合戦に展開した。清盛と頼朝の行動も連続性が高く、本質的な相違をおくべきものではない。また、源平合戦と幕初のテロに次ぐテロの時期も、軍事史・政治史の問題としては直結している。それゆえに山城時代第三期の終了は、後鳥羽上皇クーデター事件(いわゆる「承久の乱」)において、西国国家が軍事的に敗北する時点にもとめるべきだろう。
 従来は、幕府の成立によって時代を切り、それ以降を鎌倉時代というのが普通である。たしかに頼朝による東海道惣官職の獲得、東国小国家の形成と、それを前提として頼朝が獲得した日本国惣地頭・惣守護の地位はの意味は大きい。しかし、それらは後白河院政期の院近臣集団による東国支配の枠組みを換骨奪胎したものであり、惣官職自体も平氏政権の下で存在していたものの延長であって、日本国惣地頭の地位も一時的なものであった。これはやはり過渡期的な現象であって、後鳥羽クーデターの打破によって、国土高権の軍事的掌握と、全国的な武臣政権が画定したものと考える。これによって東国の武家領主連合国家は全国国家のなかに自己をビルトインし、それによって全国支配国家となった。これによって、地域名による時代区分は終わることになる。
 鎌倉時代という呼称は、このような政治史の実態にあわない。またなにより、この呼称は北条氏の武臣権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。後鳥羽クーデタ以降は武臣の氏族名によって、北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。
 山城時代第三期・第四期の政治・文化状況をどう論ずるかについては次の機会にゆずることとしたいが、ただ、第四期が地震の多かった時代で、地震が政治史に大きな影響を及ぼしたこと、また平氏が信仰する京都祇園社ー福原祇園社ー厳島神社はどれも地震神の信仰に関わっていることに注意しておきたい。院政期以降の文化状況論については、これらの問題をふくめて考察するべきであろう。

参考
保立道久
『平安王朝』(岩波新書、一九九九年)
『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房
「南海トラフ大地震と『平家物語』」(『災害・環境から戦争を読む』山川出版社、二〇一五年)

2016年1月28日 (木)

何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。何故、「山城時代」というのか、

 何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。それは「平安時代」を「山城時代」という理由につながる。

 以下は、村井康彦『日本の宮都』(1978、角川書店)、瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』を祖述したものですので、ブログにアップしておきます。なお、最近公刊した私論「藤原仲麻呂息、徳一と藤原氏の東国留住」(千葉史学、67号)も御参照下さい。
 
 朝廷にとって、氷上川継の謀反事件がきわめて大きな事件であったことは、このとき、「川継が姻戚、平生の知友」という理由で罪を問われた貴族官人が公卿をふくめて四〇人あまりにのぼったことに知ることができる。そのうち川継との関係がもっとも明瞭なのは、公卿第六座の参議・太宰員外帥浜成である。彼は娘を川継の妻としていた。浜成は藤原不比等の息子の四兄弟の一番下にあたる麻呂の家(京家)を代表する位置にあったが、これによって京家は権力の地位から完全に滑り落ちていった。

 また光仁のもっとも信頼する側近であり、相談相手であった公卿トップの左大臣藤原魚名が大臣を免ぜられ大宰帥として任地に赴くことを命じられたことも大きい。魚名は途中で、病をえて、摂津にとどまり、翌年、京都に召し返されたもののすぐに死去した。そして、魚名とともに、その子、鷹取が石見介、末茂が土左介に左遷され、真鷲が父に従って大宰に下れという処置をうけている。これについては、魚名の処分が六月に遅れたことなどを根拠として氷上川継事件とは無関係だとし、一挙に強化された桓武の専制的な姿勢を示すものだという意見もあるが、川継事件との関係を想定する方が無理がないと思える。 こうして氷上川継謀反事件は、光仁の即位後も残った天武・聖武王統の影響や人脈に関わって発生したものであったということができる。それはほとんど茶番のように終わったが、しかし、これを切り抜けたことは桓武とその側近に権力強化の衝動をあたえた。とくに重大であったのは、村井康彦がいうように、この事件の処理をしながら、桓武とその側近が遷都による新たな都づくりに突っ走ったことである。彼らは、山背国への遷都によって天武・聖武王統の影響力を根絶し、国家組織そのものを組み替えようとしたのである。

 山背遷都の構想の時期、理由などについてはさまざまな見解があるが、やはり重要なのは桓武の即位の宣命に「掛けまくも畏き近江大津宮に御宇しし天皇」、つまり天智天皇の法に従って国政をとると宣言されていることであろう。天智天皇の王都は、大和ではなく難波京→近江京、つまり淀川水系地帯に置かれていたから、それを受け継ぐ桓武が難波京→大津の境域に王都を設定しようというのは自然なことであった。古墳時代以来の経過を長期的にみれば王都をすぐに大和と考えるのは、私見では「古代」天皇制のヤマト・イデオロギーにとらわれた偏見以外のなにものでもない。こう考える立場からは、王都を淀川水系に営むことを決定した長岡遷都こそが遷都としての歴史的意義が大きかった。それ故に、これまで「古代史学界」からは乱暴かつセクト的に無視されてきた、この遷都を「平安京をふくめて『山背』遷都として位置づける」という村井の見解があくまでも正しいのである。

2016年1月 3日 (日)

神社の研究をどう進めていくか。

 大晦日・元旦は例年のように近所の作草部神社にいって、初詣。拝殿にならび、お神酒をいただく。氏子の方々が焚き火をしてくれていて、しばらくそれにあたる。ここに越してきたころにはまだ周囲に住宅はなかったので、秋冬には焚き火をしてイモをやいたりしたが、建て込んできて無理になった。

 焚き火の火にあたらない生活。薪に火がつき、その炎の揺らぎをみない生活というのは、文化的なものとは思えない。そういいながら自分の20過ぎからの生活のなかには、火をたくこともなく、山野で生活する余裕もなしに生きてきた。私は1948年生まれで東京でそだったが、まだ都会生活のなかにも火があり、川があった。そういうものを精神の糧としてきたのを自覚すると、それを大事なことと意識していなかったのではないかと忸怩たるものがある。神社に行って火に当たれるというのはありがたいことである。

 これは神社というものをどう考えるか、という前に、どう感じるかということに関係してくる。新年になると、このことをいつも考える。この国の歴史と文化において神社とその歴史というものがどういう意味をもつのかということは、歴史学がどうしても明らかにしなければならない問題である。私は、歴史学の側から神社と神道を大事考えていくべきことは当然のことであると思う。

 しかし、そのような研究と姿勢が、20年くらい前まではあまりに少なかった。多くの人びとが各地の神社に初詣にでかける。それにも関わらず、歴史学は客観的には、その事実をあってなきがごとくに扱うことになっていたといわざるをえない。私は、以前、中国の学会に出たとき、日本神道史を研究している学者に日本の知識人は神社の研究をし、神社界と関係をもっていることに対してしばしば拒否反応をする。いったいあれはどういうことかと難詰されたことがある。中国で日本史を学び日本との学術交流をしていることの大変さを知らないのかともいわれた。

 このような神社史研究の遅れは、神社史料が少なく、また歴史学者の調査がなかなか及ばない事情があったこと、その分析のためには広く長い視野が必要なこと、などのやむをえない事情があったのであるが、しかし、その状況は変わりつつある。

 やや研究史に細かく入り込んだ言い方をすれば、その平安・鎌倉・室町時代における動きは、私が理解するところだと、井上寛司氏と園部寿樹氏の二人によって牽引されているといってよい(井上氏『日本の神社と「神道」』校倉書2006/房、園部氏『中世村落と名主座の研究』高志書院2011)。この御二人の作業は、この国の歴史学にとって決定的に重要な動きだろうと思う。

 興味深いのは、この重厚な研究を展開する御二人のどちらも黒田俊雄氏の諸研究との格闘と継承を強く意識して研究されていることである。私は、昨年、『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)と『日本史学』(人文書院)、そして「藤原仲麻呂息・徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』67号)で黒田俊雄批判の立場を宣言したので、この御二人の研究と対峙して、黒田の仮説を批判し、作り直すことが、これからの残った研究時間のなかで相当の時間をつかうことになると考えている。現在とりくんでいる地震火山神話論も、これをふまえていなければ方法的には何の意味もないのである。

 実は、元旦から、部屋の片づけをしていて、井上寛司氏からの拙著『かぐや姫と王権神話』への厳しい批判の手紙がでてきて、読んでいる。私の神道論についての御批判である。これをいただいたときには、急に目の前に壁を立てられたような感じがして困ったと思ったが、ようやく少し整理して御批判に答えることができるかも知れないと考えるにいたっている。

 さて、『かぐや姫と王権神話』では、だいたい九世紀に「日本が独自な民族的宗教のスタイルを作り出した」と論じた。この時代に神話時代が終わるのであるが、神話の枠組みは、この列島の宗教意識の中に残ったのであって、それがのちのちまで残った「神道」の実態であるとしたのである。私は『かぐや姫と王権神話』において『竹取物語』を「神話から物語へ」という論調で論じたのであるが、それは他面で云えば「神話から神道」という変化をともなっていたということになる。

 つまり、原文を引用しておくと、「本書は、『竹取物語』の中に神話の痕跡を発見し、その神話がどのようなものであるかを考えてから、その物語への変容を追跡するという手法をとっている。それは神話が先進の文明国・中国からの思想・文物の導入の中で再解釈され、物語の中に再生していく過程の追求であった。考えてみれば、それは日本の社会の文明化の過程を考えることとイコールだったということができると思う。そして、高取正男の仕事によれば、この時代は、日本独自の神道が形成された時代でもあった。神話の時代からの文明化の過程で、物語の成立と神道の成立は並行して進んだものだったのである」ということである。

 これに対して、井上寛司氏は、黒田の「神道なる言葉でいわれる独立の宗教は現実には存在しなかったのであって、あったのは儀礼の系列だけである。還元すれば、いわば禁忌の儀礼の神秘的演出の体系こそが『神道』の名で呼ばれるものであったのである」(『黒田俊雄著作集』②一五八頁)という見解によって、私見を批判する。「日本の宗教のなかの一部だけを切り出して、『日本独自の神道=日本の民族宗教』であるとするのは、存在しない物を存在するかのように述べるものだ。こういう見解は徳川時代末期の国学が作り出し、柳田国男が体系化した言説であって虚妄なものである」という批判をされる。

 よく知られているように、黒田は、現実の前近代の宗教は『融通無碍な多神教』であるが、そのベースは仏教にあった。仏教抜きで『日本独自の神道=日本の民族宗教』が存在していたかのようにいうのは正しくないとするのである。

 私は黒田の意見は重要なところをついていると思う。これは以前書いた「中世の身分と天皇」という論文で「中世における神道が宗教の存在形態としては顕密仏教の二次的・世俗的・儀礼的な付属物に過ぎないことは黒田の説明の通りである(黒田一九七九)」として、黒田説を引用したことでも分かっていただけるだろう。

 そして、私は「国家イデオロギーとしてみるならば、やはり神社が第一に来るのが「宗廟社稷」の原則なのであって、神社興行の条項が公武の新制、御成敗式目の冒頭にくるのは十分な理由があるのである。そして、新制法の条文にもしばしば現れる「神は非礼をうけず、人の慎みなからんがためなり」(建久二年三月二二日新制、『鎌倉遺文』五二三)などという文言は神道が「礼」と「恭順・慎」の宗教的な国家儀礼体系であったことを物語っている。その根本に神道的な「忌・浄」の心意があったことはいうまでもない」と述べている。

 問題は、この神道的な「忌・浄」の心意というものをどう考えるかである。それは国家儀礼体系の内部のみではなく、村落と地域社会にひろく存在していたことは認めるべきであろう。このレヴェルの心意を黒田(そして井上)は、ただ「素朴な信仰」「現世利益の呪術的な信仰」とする。しかし、そこにどのような宗教的心情があるかをこそ問題にするべきなのではないだろうか。その意味で、私は『かぐや姫と王権神話』で、「高取がいうように、広くいえば神道は東アジアにおける儒教・道教などの現世宗教Secular religionの一類型である。現世宗教は世俗を観念的に超越する偶像的な価値を主張しない(高取一九七九)。もちろん、宗教である以上、超越性をもつことはいうまでもないが、それは人間に対する自然の絶対性という意味での超越性に限られる。神道についていえば、もっぱら自然に対する「忌み」の心情が基軸となるのである」と述べた。

 神道には神話に淵源し、それの変形という側面をもつ自然神崇拝が「忌み」という形で引き継がれているのではないかと思う。そして、この「忌み」の中には益田勝美のいうように、神話時代から地震噴火に対する絶対的な畏れというものが潜在しつづけてきたのではないだろうか。

 これは黒田も井上も否定しないと思うが、それを黒田も井上も「神道史研究」、「宗教史研究」の外においてしまう。それを各国の一宮その他の権門寺社とは無縁なものとしてしまうのである。もちろん、井上によって一宮級の神社や地域の権門寺社の体系が平安時代に国家組織に近いところでできあがっていっていること、その制度や実態についての構造的・全体的な研究が進展させられたことの意味はきわめて大きい。

 しかし、今後は、それを前提として、各村落の近くにあるような「小さな神社」をみていくことこそが必要なのではないだろうか。園部の『中世村落と名主座の研究』などの研究は、まさにそこを目指している。こういう民衆的な神社と、その宗教心情や祭りの心情の復元を井上のような一宮・権門寺社や国家祭祀の構造論的研究と結びつけることが必要なのではないだろうか。井上は両者の関係は希薄である、国家的寺社は村落寺社を排除しているというのが、しかし、両者には「排除」とのみは言い切れないような複線的な関係があり、そうであるからこそ、国家寺社も社会的な支持をうることができるのではないだろうか。

 神話意識の宗教的展開という意味での民族性が「神道」において強く継続していたこと、そしてそれに対応する独自な神社の組織があったことは正面から研究しなければならないのではないかと思う。たしかに、神道には宗教らしさというべきものが希薄である。『かぐや姫と王権神話』でも、神道は「東アジアと比べた場合の、その最大の特徴は、その結晶軸が道教・儒教という外来思想であっただけに、開祖も教典も存在しなかった点にある。『古事記』は過去の神話の編纂述作物であって教典ではない。そのために日本の神道は、東アジアの現世宗教とくらべても、宗教らしさがきわめて希薄となった」と述べた。しかし、それを「素朴」「呪術」とのみ評価するのは正しくないのではないだろうか。

 なお、『かぐや姫と王権神話』でも論じたように、網野善彦は日本社会には宗教がないという。日本社会の「無宗教性」をいうのである。これは黒田が「神道を自律した宗教とはいえない」と断言するのと通底する考え方であろうと思う。こういう考え方が「神道史研究」を空白にしてきたのではないかと、私は考えている。これはさらに詰めるべき問題が多く、関係する問題もきわめて多岐にわたるので、もう少し考えてみたいが、最後に、これに関わって『かぐや姫と王権神話』における網野見解への批判を引用しておく。

 さて、歴史における未開と現代の問題を考え続けてきた網野善彦は、「境界に生きる人びと」という講演の中で、「なぜ日本の社会に宗教がないのかという問題は、現代にも大きな意味をもつ解決すべき問題だと思います」「それが現在の日本の社会にさまざまの形で”小さな宗教”が現れていることと関係があることは間違いがありません。無秩序きわまる猛烈な自然の開発も、この問題と決して無関係ではありません」と述べたことがある。そして、「人間が人間を滅ぼしうる力を自然の中から自らの力でつかみとってしまった現段階」においては「人間にはどうしようもない力を、聖なるものととらえていた古代人のあり方からも学ばなくてはならない」「人間の力を超えた自然の力について、われわれが認識を深めることと、宗教の問題は深い関わりがあると思います」と断言した(網野一九八八)。網野は、自分は唯物論者であり、宗教によってすべての問題が解決されるとは考えないと断った上で、以上のようにいうのであるが、私も網野と同じような立場から、同じようなことを考えてきた。

 しかし、上で述べたように、私は、やはり日本社会には神道という宗教があり、大きな影響をもったし、もっていることを、回避せずに正面から考えるべきだと思う。神道が、その発生において宗教らしさが希薄になった理由、またその後の歴史的経過、とくに天皇制に自己同一化した国家神道によって大きく傷つけられた近年の過程などを、ナショナルなレヴェルでの常識とすることが望まれると思う。もちろん、国家神道の中枢に天皇崇拝という形で復活した未開のMan-godの崇拝も、それ自身としては信仰の自由の枠内にあり、また神道自体と密接な関係をもつことはいうでもない。しかし、天皇崇拝には「創造された伝統」という側面も強く、明治時代以降の経過からみると、神道それ自身とは区別されるべきものであると考えている。

 私は、これらについての認識が、日本社会が前に進んでいく上で、民族的な自己認識の一つの思想的基礎となり、また革新と保守の間でのバランスと相互理解をもたらし、社会的な問題の見通しをよくする上でも、重要な意味をもつと思う。そして、その議論において、神道を支えた信条それ自身は「人のはたらきのすべてを究極において聖化し、みずからの生活と心のよすがとして絶対視しようとする心性」(高取一九七九)であり、信仰の自由の枠内にあることが当然であると考える。この現世を「言上げ」せず、教典もなく開祖もなく、絶対視しつつ聖化しようとする宗教。別の言葉でいえば絶対的な忌みの思想と感性そのものは、けっして宗教としてレヴェルが低いとか、未発達であるとかいうべきものではない。私は、折口・土橋・益田の仕事が明らかにしているような、神道の自然に対する絶対的な忌みの心的態度は、日本の風土にそくした独特な思想心情たる価値を失わないと思うのである。これを確証していくために、今後も、『日本書紀』『古事記』などの中に、より未開な社会と神話の世界を発見する作業を続けていきたいと思う。

 
 なおもう一点。園部の仕事と井上の仕事の中間をいく仕事として牛山佳幸の『【小さき社】の列島史』(平凡社)がある。私個人の好みからいうと、私の立場は牛山に近い。この本は読みやすいので一読をおすすめする。

2015年11月10日 (火)

米田佐代子さんのブログに「辺野古へ行ってきました」

 米田佐代子さんのブログ(yonedasayoko.wordpress.com/)に「辺野古へ行ってきました。カメラがこわれ、メモも取れず、でも記憶したいこと」とある。

 米田さん(先生)は、私の都立大の時代の先生。もう80歳を過ぎられたはず。

 ブログの写真をみおてもお元気そうだが、沖縄へ行って来られたのに驚く。

 『日本史学 基本の30冊』(人文書院)に米田さんのご本、『平塚らいてう―近代日本のデモクラシーとジェンダー』(吉川弘文館 2002年刊)を加えたので、それについても言及してくれている。「長い留守の間に献本していただいた本が届いていました」という書き出しで以下のように、私の紹介を紹介してくれている。


 わたしの本は10年以上前の刊行ですが、当時は「女性史」「女性運動」の視点からの批評を多くいただき、かなり手厳しい批判もありました。保立さんは、それらの批評があまり取り上げてくれなかった平塚らいてうの精神生活にとって原点ともういうべき自然・宇宙にたいする視点に注目、らいてうが20世紀に入ってから西欧でひろがった「神智学(霊知学)」に関心を持っていたのではないか、という点をとりあげてくださいました。それは霊的世界の存在を認める「反唯物論」であり、らいてうが戦時中「天皇は神」と書いたこととつながる彼女の思想の「弱点」であるかのようにみられてきたので「輝かしい女性解放運動」のさきがけであるらいてうにはふさわしくないように見られてきたのかもしれません。

わたしはらいてうをハイカラな近代主義者だとは思っていなかったので、この本でもそのことに触れ、その後1911年にらいてうが『青鞜』に発表した「高原の秋」というエッセイに出てくるのですが、「Devachan」という言葉(じつは著作集にはこれが誤植されて「Deyachan」となっていたため意味不明であった)が、霊知学では「この世を離れた霊が休息するところ」という意味の用語として使われていることを確認、それが彼女の「無限生成」という言葉に示された無限の生命観、『青鞜』から第一次大戦後の平和思想、戦後の平和運動に連なる宇宙観の出発点になった、という仮説を立てたのですが、あまり相手にされませんでした。そこを保立さんは取り上げてくださったのです。全体を読むと彼がこの本のなかで安藤礼二『場所と産霊』(これは鈴木大拙の禅の世界を通して考えた壮大な宇宙論です。わたしも読みました)や福田アジオ『柳田國男の民俗学』をとりあげている理由がわかるのではないでしょうか。とりあえず紹介しますから、関心のある方は(わたしの本のことだけではなく)どうぞ全部読んでください。

「Deyachan」の話はきわめて重要で、平塚らいてう著作集で、これがキーの言葉だというこよはわかったが、米田さんの論文(『日本史学 基本の30冊』で紹介した「青鞜の原風景」)を読んで初めて分かった。

2015年10月 1日 (木)

『老子』第一章。道。大地母神の身体に道が通っていって万物が産まれる

 『老子』第一章の「道」についてのもっとも有名な一節について、いちおうの釈読が終わった。

 研究の基本は池田知久氏の仕事や、中国出土文献研究会(代表浅野裕一)の仕事にあるが、私は日本史の研究者なので、研究成果に学んで楽しんで読むということで許していただく。

 しかし、帛書や楚簡の出土は、たいへんなことであるというのを実感する。日本史の研究はなんと言っても津田左右吉の仕事から始まったというのが、私などの意見である。それは津田左右吉がむしろ本質的には東洋思想史の研究者であった以上、東洋史の一部として始まったということである。問題は、津田的な東洋史は、甲骨文の発見ですでに古くなっていたが、それは春秋・戦国時代の理解にまでは影響しなかったことである。帛書や楚簡の出土は、この状態を変化させ、日本史の側からいえば、津田の仕事の古さを点検し、それにもとづいてすべてを点検せざるをえないことになっている状況だと思う。
 
 うかつなことに、私は神話論の分野に入ることによって、その状況を初めて知った。
 
 これを知った以上、神話論をやるのも、いちおうの教養を身につけてからでないとできない。
 ショックだったのは、津田は『老子』が嫌いなのだということを初めて知ったことである。津田の中国論の基本にそれがあったのだ。そして、津田は日本神話のテキストのなかに道教を発見し、それを摘出して日本的なものをもとめてタマネギの皮むきをやったのだということも分かってきたような気がする。

 いろいろ弁解をするが、ともかく、以下は、『老子』を、一種の哲学詩あるいは神話詩と理解して、読みやすく釈読したものなので、勘弁である。


1  大地母神の身体に道が通っていって万物が産まれる
 普通、道徳だとか、道義だとかいわれる道と、ここでいう永遠(恒常)の理法という意味での道はまったく違うものだ。また、普通、名声だとか、有名だとかいわれる名も、ここでいう理法を認識するという意味での名(概念)とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、道は混沌としていて名づけようのないものだ。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地の神の身体に道が通っていって、母神となり、そこから万物が産まれる時に、はじめて万物に名前をつけることができるようになる。だから、永遠の存在のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は渺々としている。その存在のなかに欲求が生まれて初めて、名前が明らかになってくるのだ。そして、道と、それに対応する認識の両者は、名は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、玄と玄が重なっている場所には、世界万物がうまれる衆妙の門が開いている。

道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒の無欲*1にして、以て其の眇を観、恒の有欲にして、以て其の曒なるを観る。此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

解説
 永遠なる定常宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。ビッグバンからしばらく立って物理法則が働き始め、天地が分かれて星ができ、そこに陰陽、雌雄が生じて、欲求が生じた後に、「道=理法」に対する「命名=認識」が始まるということになる。普通、老子は「無欲」の哲学といわれる。しかし、老子の神話的宇宙論では、「道」は実在的なものであるから、それに対応して欲求の存在を認め、それを見つめるところから出発しているはずである。「恒の無欲・有欲」とは、いわば定常宇宙に動きが生まれ、それが欲という拡張システムになっていくというイメージであろう。老子の宇宙論は『恒先』その他の同時期の道家思想の宇宙論を前提にして、それを詩化しているから、言葉を補って読むほかない。この章を詩的に理解する鍵は、道と名の重なる場、自然の理法と意識活動が重なる場を「玄の又玄」として、地母神・谷神たちの「衆妙の門」に結びつけることである。


*1『恒先』に「(万物は)同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず」とある。

2014年8月15日 (金)

「在地領主」という言葉はそろそろ使用しない方がよい。

 在地領主という言葉は石母田さんが『中世的世界の形成』で全面的に使い出した言葉であるが、『中世的世界の形成』をよく読めばわかるように、石母田は「在地領主」という用語に何らかの意味で「古代的・過渡的な」様相を含意させている。

 石母田の実遠論で特徴的なのは、清廉――実遠の関係をはじめて論証し、多面的な実証をしたにもかかわらず、石母田が実遠のなかに「古代豪族」の様子を読みとろうとしたことである。もちろん実遠に「族長」を読みとろうとした訳ではないが、その側面が残ったとはしている。実遠を少しさかのぼれば「族長的土地所有」を発見できるというのが、石母田の生涯の考え方であって、ここに石母田首長制論の発生根拠がある。

 私はその事情をもっともよく知っていた「古代史研究者」は青木和夫氏であったと思う。青木の『古代豪族』は、石母田の首長制論と実遠論を統合したイメージを描いている。青木氏は石母田さんに私淑していたが、私は石母田さんにもっとも近い研究者であると思う。青木さんの『石母田正著作集』への解説は感動的である。

 石母田が正しかったのは、9世紀から11世紀までのを私営田領主とくくったことで、これは正しかった。大局的なところでは、石母田はしばしば正しい。しかし、石母田は私営田領主に「古代的様相」を認めた。これは間違いであったと思う。

 戸田芳実は実遠について石母田の実証に学んで、実遠に「都市貴族的な領主」という相貌を認めた。戸田の理解は都市貴族的な領主が「当国の猛者」として領主制の根拠を固めるのに失敗した。後を継ぐべき「猛者」的な男児がいなかったという単純なものである。私は、『中世的世界の形成』を読んで、その後に戸田の理解を読んだ時には納得できなかったが、徐々にそういうものだと戸田に賛成するようになった。

 石母田の実証が、あの段階で群を抜いたものであったことはいうまでもなく、戸田は、それに依拠して、その先をザッハリッヒに考える条件があった。そして実遠のイメージはどうみても戸田の理解が正しいのである。

 ただ問題は、戸田は領主制の段階論を明瞭にしなかったことである。石母田批判を最後までは完遂しなかった。

 以上、端的にいえば、在地領主という言葉は領主制の変化と段階規定が不明な段階で使用された用語であり、石母田の規定にもさまざまな問題があるということである。それ故に、学術用語として、この言葉を使用するのはやめようということである。私は私営田領主段階を留住領主制、院政期以降を地頭領主制という提案をしている。
 もちろん、現在の段階でも地域の領主という意味で在地領主という用語を使うことはかまわない。便利な言葉ではある。しかし、現在の段階で、石母田の仕事を受け止め、考え直そうとすれば、そう簡単に使って良い言葉であるとは思えない。


 今日は終戦記念日である。
 終戦記念日というか、敗戦記念日というかには、議論がある。事実は敗戦なのだから「敗戦記念日」を使うべきであるという意見も多い。それも一理はある。敗戦した人々に対して、つまり戦争に責任のある人々に対して語る時は、敗戦記念日でよいのであろうし、「終戦」という言葉に事柄を曖昧にするニュアンスをみるのはもっともである。
 しかし、私は、石母田のように「解放」「終戦」という気持ちで迎えた人々がいるというのを忘れないようにするには、やはり「終戦」でよいのであろうと思う。宮本百合子の『播州平野』の世界である。
 ともかくも、「在地領主」という言葉をどうするかというのは、いわば、歴史学にとっての「終戦処理」「敗戦処理」の一部であるのはいうまでもない。石母田に向き合うことである。

2014年6月 2日 (月)

歴史学の研究史の学び方

 いま中央線。金曜。学芸大の授業が終わり、帰宅途中。

 しばらく前、「歴史家と読書――生涯に100冊の本を徹底的に何度も読む」という記事を書いたが、友人と食事しながら、歴史学における研究史の学び方という話になる。研究史については研究史を紹介する文章というものはあって、それは有益ではあるが、しかし、歴史学、とくに前近代史では史料との格闘が第一になるので、ある特別の研究者をえらんで、その人の本・論文をすべて読むというのが一番手早いと思う。そこから関係する研究者を次から次ぎに芋蔓を掘るようにして手繰っていくのである。

 これは小説家を一人特定して、その人の小説をすべて読むというのと同じである。「東大教師が新入生にすすめる本」というのをさきほどあげておいたが、そこに「一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で」と書いたが、歴史家の場合も同じようにして、その人を自分のなかに住ませてしまうことになる。

 その歴史家の仕事をすべて読む。しかもできれば、その論文なり、著書なりで利用されている史料を自分でも探しだして読んでみる。そうすると、この歴史家は史料をこういうように読むのかということが実感できるようになる。その歴史家は独自の方法や理論をもっているはずであるから、それを学ぶというのも重要であるが、しかし、それにはこだわらない。まずは、その歴史家が、その独自の方法なり理論なりによって獲得した史料分析力を自分に受けいれるのである。真似するのである。そしてできれば、自分でも、その歴史家の視角に従って、一本論文を書いてみるのがいい。その間は、その歴史家の方法や視角を全面的に信頼し、信用して勉強するのは当然である。なお、選択するのは、当然のことながら、独自の方法や理論をもっていてある程度の量を書いている歴史家がのぞましい。もちろん、自分の研究テーマを決めるためには、いろいろな論文を読むのが必要だし、史料を探るためにも、それは必要である。しかし、ここでいうのは、そういう実務論文ではなく、研究史に入りこんでいくための勉強ということである。

 けれども、それが終わった段階では、また別の歴史家のものを同じようにして読む。第二の歴史家もやはり信頼して読む。というよりも史料にそくして読んでいると信頼せざるをえないことになる。第一の歴史家のいうことと矛盾している場合があるはずだが、それは簡単にどちらかを捨てることはしない。両方正しいと信じて読んで勉強を続けていく。そうすると、第一の歴史家の視野とは違った視野の中に自分がおかれていることがわかる。最初はやや目がくらむかもしれないが、歴史は多様で複雑なので、第一の歴史家と第二の歴史家の視野が自分のものになって、ピントがあってくるということがあれば儲けものである。私たちは、そのとき、本当に歴史学の中に立ち入ったということになるのかもしれない。これを繰り返すわけである。

 私の場合は、まったく戸田芳実氏の仕事を通じて、すべての史料をみていた時期がある。戸田さんの『日本領主制成立史の研究』がまず来て、次ぎに戸田さんの盟友の河音能平氏の『日本封建制成立史論』がきた。大学院の間は、この二冊、そしてそれ以外の戸田・河音の論文や、二人の論文で参照されている論文を読んだ。
 そして、その後、稲垣泰彦・笠松宏至・黒田俊雄・網野善彦・大山喬平・石井進・永原慶二という順序で、当時活躍していた研究者の仕事に順次にとらわれていった。そういう世代なので、直接に御話を伺い、教えられた経験は本当に身に余るありがたさであった。御二人を除いてなくなられてしまったのは痛恨である。学者は、もちろん、書いたものを通じてしか関係しないというのが正論である。石母田正さんは『戦後歴史学の思想』でそう述べている。しかし、歴史家は職人なので、少し違うところがあるとも思う。史料を分析する息づかいのようなものにふれる、感じるためには、その人の姿をみるというのは意外に励みになった。

 こうやって読み抜いていって、徐々に読み抜いた本が100冊になるということなのだと思う。


 しかし、あるいはすでにそういう時代ではないのだろうか。

 つまり、現代歴史学も、私の専攻する「中世」では、石母田正・藤間生大・林屋辰三郎の第一世代、永原慶二・稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦などの第二世代、そして戸田さんたちの第三世代、さらに峰岸純夫・藤木久志さんたちだから、もう歴史学者の世代は何層にも重なっている。それを一つ一つ剥いでいくのは大変なことだと思う。
 私などは石母田正さんまでさかのぼったが、しかし、そこまでは要求できないように思う。

 今日は月曜。土日は滋賀県で研究会であったが、新しい議論がすでにでてきていて、それを追うなかでは、いまから研究を始める若手は、過去にさかのぼってはいられないのではないかとも思う。そこら辺は、私にはすでにわからない。
 いまは誰でも認めるように研究史は大きな曲がり角である。

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