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カテゴリー「研究史(歴史学)」の48件の記事

2016年9月 5日 (月)

平安時代、鎌倉時代という言葉をつかわない理由

ある研究会への報告準備ペーパーです。

 8世紀末から12世紀末までの日本の歴史を「平安時代」という用語で表現するのが普通であるが、「平安」というのは、山城愛宕郡への遷都における桓武の主観的希望の表現にすぎない。「平安京」という都城名は史料に登場するが、その実際が「平安」であった訳ではない。それに何時までも呪縛された時代名を使うことには疑問が多い。また奈良京→長岡京→愛宕京の遷都過程は既存建築などの施設を使用しつつ、西北、東北に平行移動したものであることが知られており、政治過程からしても、長岡京以降は同一の時代であって山城時代とし、王朝は「山城王朝」とするのがわかりやすい。私見では、時代名に山城という地名を入れることは、山城時代の国家が八世紀までの畿内国家(西国国家)という本質を残していることを示す上でも便宜である。
 この時代の国家形態を都市王権と呼ぶことができるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「首都域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。9世紀末・10世紀初頭の国政改革によって、五位以上の貴族は山城首都圏居住を標識とする都市貴族として身分化され、九世紀までの経過で各地方の豪族あるいは、そこに留住するにいたった支配層は地方貴族として区分されるにいたった。この山城王朝国家は、都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係、中央都市支配と地方社会における領主支配の関係という中心・周縁関係、都鄙関係を前提に存在していた国家であるということができる。
 山城時代を小区分すると、その第一期は怨霊期である。九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まり、八六九年陸奥地震の背後にいた怨霊としての伴善男、そして大国主命の籠もっていた吉野の地下に地震などの災害霊として籠もった菅原道真によって特徴づけられる。これらの怨霊は王権内部の激しい対立に関わって登場したものであり、この時代の政治史的本質を現している。いわゆる奈良時代、つまり大和時代後期の宮廷が直接の王族内部における殺し合いによって特徴づけられるのに対して、この時代に入って、王権内部における殺し合いが消えるのは、都市王権成立の反映である。殺されて怨霊となるのは、都市貴族であって、これは彼らが内部闘争に積極的に関わっていったことの反映である。
 この時期、初期荘園制の展開と班田収受システムの負名散田請負への移行(「班」は「あがつ」と読むが「散」の読みも同じ。両制度には連続性がある)を前提に、地方制度がいわゆる国衙荘園体制に再編成される。これが上記国政改革の重要な内容をなしていた。なお都市王権の成立は首都の都市的な社会関係が基準関係となることを意味しており、都市宮廷や都市貴族制に対応する官衙制、都市住人諸階層の形成、ジェンダー関係の変容(女性の秘面性など)などが注目される。仏教の顕密主義と神道の複合としての日本的宗教論理が成立することも、それと一連の事態であろう。神社は都市的な清浄論理を代表するものと考える。
 山城時代第二期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。この時期は、都市王権が吉田孝のいう「古典的」形態をとるようになった時期である。王権の代行システム(摂関制など)、後宮組織の充実、官僚貴族制、宮廷貴族と武家貴族の分化などに表現されるよって特徴づけられる。それは都市王権の内部に王身分・元首制(儀礼主宰)・執行権の複層構造をもたらした。王統の迭立は、それにもとづいていただけにきわめて根強いものとなった。道長の権威は、両統に娘を配置することによって王統を合流させることに根付いていたことなどはいうまでもない。この時代を摂関時代というのは、このような政治史の本質を捉えたものとはいえない。
 この時期、王家領荘園、摂関家領荘園の体系化が関係しながら進んだ。これは国司苛政上訴の動きなどにみえるような都鄙関係の展開、「高家」といわれるような地方名望家の形成に対応している。なお、この時期のイデオロギー状況としては、やはり比叡山と山王神道(およびそれとむすびついた賀茂、祇園、石清水など)を中心とした末寺・末社組織の展開が大きいだろう。そこに発生した神人組織が都市的な商工業の受け皿になっていく。
 山城時代の第三期は院政期である。後三条天皇は道長の下での縁戚的な両統の合一を前提として、両統を統一したが、それはすぐに別の形態の王権内部の紛議をもたらした。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期のそれは親子間の対立(後三条―白河、白河―鳥羽―崇徳、後白河ー二条、後白河―高倉など)となり、きわめて激しいものとなったのである。これは、山城王朝国家の全体的な変化に関わっており、基本的には都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係がより直接的な関係に変容していったためである。それは一方では院領荘園の拡大、他方では知行国制の拡大による中央・地方の統合を基礎としていた。
 この下で、院政期国家は国土高権を強化していったのであるが、他方でこの過程は後白河院政期に東国受領が院近臣集団によって統括されているように、各地に一国を超えたレベルの広域的な諸関係を生み出していった。このなかで、王権内部の激烈な矛盾と武家貴族の競い合いが結びつくこととなって。これが院政期国家に内戦と国家の本格的な軍事化をもたらしたのである。
 山城時代の第四期は、都市王権の国家から武臣国家に入っていく過渡期である。この時代は、平氏系王朝、高倉の即位によって開始された。平氏系王朝は、後白河が二条の「二代后」問題に介入したいわゆる平治の乱の経過のなかで形成されたものである。平氏による武臣執政は、地方社会における広汎な矛盾の展開を促し、それが一一八〇年代の源平合戦に展開した。清盛と頼朝の行動も連続性が高く、本質的な相違をおくべきものではない。また、源平合戦と幕初のテロに次ぐテロの時期も、軍事史・政治史の問題としては直結している。それゆえに山城時代第三期の終了は、後鳥羽上皇クーデター事件(いわゆる「承久の乱」)において、西国国家が軍事的に敗北する時点にもとめるべきだろう。
 従来は、幕府の成立によって時代を切り、それ以降を鎌倉時代というのが普通である。たしかに頼朝による東海道惣官職の獲得、東国小国家の形成と、それを前提として頼朝が獲得した日本国惣地頭・惣守護の地位はの意味は大きい。しかし、それらは後白河院政期の院近臣集団による東国支配の枠組みを換骨奪胎したものであり、惣官職自体も平氏政権の下で存在していたものの延長であって、日本国惣地頭の地位も一時的なものであった。これはやはり過渡期的な現象であって、後鳥羽クーデターの打破によって、国土高権の軍事的掌握と、全国的な武臣政権が画定したものと考える。これによって東国の武家領主連合国家は全国国家のなかに自己をビルトインし、それによって全国支配国家となった。これによって、地域名による時代区分は終わることになる。
 鎌倉時代という呼称は、このような政治史の実態にあわない。またなにより、この呼称は北条氏の武臣権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。後鳥羽クーデタ以降は武臣の氏族名によって、北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。
 山城時代第三期・第四期の政治・文化状況をどう論ずるかについては次の機会にゆずることとしたいが、ただ、第四期が地震の多かった時代で、地震が政治史に大きな影響を及ぼしたこと、また平氏が信仰する京都祇園社ー福原祇園社ー厳島神社はどれも地震神の信仰に関わっていることに注意しておきたい。院政期以降の文化状況論については、これらの問題をふくめて考察するべきであろう。

参考
保立道久
『平安王朝』(岩波新書、一九九九年)
『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房
「南海トラフ大地震と『平家物語』」(『災害・環境から戦争を読む』山川出版社、二〇一五年)

2016年1月28日 (木)

何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。何故、「山城時代」というのか、

 何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。それは「平安時代」を「山城時代」という理由につながる。

 以下は、村井康彦『日本の宮都』(1978、角川書店)、瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』を祖述したものですので、ブログにアップしておきます。なお、最近公刊した私論「藤原仲麻呂息、徳一と藤原氏の東国留住」(千葉史学、67号)も御参照下さい。
 
 朝廷にとって、氷上川継の謀反事件がきわめて大きな事件であったことは、このとき、「川継が姻戚、平生の知友」という理由で罪を問われた貴族官人が公卿をふくめて四〇人あまりにのぼったことに知ることができる。そのうち川継との関係がもっとも明瞭なのは、公卿第六座の参議・太宰員外帥浜成である。彼は娘を川継の妻としていた。浜成は藤原不比等の息子の四兄弟の一番下にあたる麻呂の家(京家)を代表する位置にあったが、これによって京家は権力の地位から完全に滑り落ちていった。

 また光仁のもっとも信頼する側近であり、相談相手であった公卿トップの左大臣藤原魚名が大臣を免ぜられ大宰帥として任地に赴くことを命じられたことも大きい。魚名は途中で、病をえて、摂津にとどまり、翌年、京都に召し返されたもののすぐに死去した。そして、魚名とともに、その子、鷹取が石見介、末茂が土左介に左遷され、真鷲が父に従って大宰に下れという処置をうけている。これについては、魚名の処分が六月に遅れたことなどを根拠として氷上川継事件とは無関係だとし、一挙に強化された桓武の専制的な姿勢を示すものだという意見もあるが、川継事件との関係を想定する方が無理がないと思える。 こうして氷上川継謀反事件は、光仁の即位後も残った天武・聖武王統の影響や人脈に関わって発生したものであったということができる。それはほとんど茶番のように終わったが、しかし、これを切り抜けたことは桓武とその側近に権力強化の衝動をあたえた。とくに重大であったのは、村井康彦がいうように、この事件の処理をしながら、桓武とその側近が遷都による新たな都づくりに突っ走ったことである。彼らは、山背国への遷都によって天武・聖武王統の影響力を根絶し、国家組織そのものを組み替えようとしたのである。

 山背遷都の構想の時期、理由などについてはさまざまな見解があるが、やはり重要なのは桓武の即位の宣命に「掛けまくも畏き近江大津宮に御宇しし天皇」、つまり天智天皇の法に従って国政をとると宣言されていることであろう。天智天皇の王都は、大和ではなく難波京→近江京、つまり淀川水系地帯に置かれていたから、それを受け継ぐ桓武が難波京→大津の境域に王都を設定しようというのは自然なことであった。古墳時代以来の経過を長期的にみれば王都をすぐに大和と考えるのは、私見では「古代」天皇制のヤマト・イデオロギーにとらわれた偏見以外のなにものでもない。こう考える立場からは、王都を淀川水系に営むことを決定した長岡遷都こそが遷都としての歴史的意義が大きかった。それ故に、これまで「古代史学界」からは乱暴かつセクト的に無視されてきた、この遷都を「平安京をふくめて『山背』遷都として位置づける」という村井の見解があくまでも正しいのである。

2016年1月 3日 (日)

神社の研究をどう進めていくか。

 大晦日・元旦は例年のように近所の作草部神社にいって、初詣。拝殿にならび、お神酒をいただく。氏子の方々が焚き火をしてくれていて、しばらくそれにあたる。ここに越してきたころにはまだ周囲に住宅はなかったので、秋冬には焚き火をしてイモをやいたりしたが、建て込んできて無理になった。

 焚き火の火にあたらない生活。薪に火がつき、その炎の揺らぎをみない生活というのは、文化的なものとは思えない。そういいながら自分の20過ぎからの生活のなかには、火をたくこともなく、山野で生活する余裕もなしに生きてきた。私は1948年生まれで東京でそだったが、まだ都会生活のなかにも火があり、川があった。そういうものを精神の糧としてきたのを自覚すると、それを大事なことと意識していなかったのではないかと忸怩たるものがある。神社に行って火に当たれるというのはありがたいことである。

 これは神社というものをどう考えるか、という前に、どう感じるかということに関係してくる。新年になると、このことをいつも考える。この国の歴史と文化において神社とその歴史というものがどういう意味をもつのかということは、歴史学がどうしても明らかにしなければならない問題である。私は、歴史学の側から神社と神道を大事考えていくべきことは当然のことであると思う。

 しかし、そのような研究と姿勢が、20年くらい前まではあまりに少なかった。多くの人びとが各地の神社に初詣にでかける。それにも関わらず、歴史学は客観的には、その事実をあってなきがごとくに扱うことになっていたといわざるをえない。私は、以前、中国の学会に出たとき、日本神道史を研究している学者に日本の知識人は神社の研究をし、神社界と関係をもっていることに対してしばしば拒否反応をする。いったいあれはどういうことかと難詰されたことがある。中国で日本史を学び日本との学術交流をしていることの大変さを知らないのかともいわれた。

 このような神社史研究の遅れは、神社史料が少なく、また歴史学者の調査がなかなか及ばない事情があったこと、その分析のためには広く長い視野が必要なこと、などのやむをえない事情があったのであるが、しかし、その状況は変わりつつある。

 やや研究史に細かく入り込んだ言い方をすれば、その平安・鎌倉・室町時代における動きは、私が理解するところだと、井上寛司氏と園部寿樹氏の二人によって牽引されているといってよい(井上氏『日本の神社と「神道」』校倉書2006/房、園部氏『中世村落と名主座の研究』高志書院2011)。この御二人の作業は、この国の歴史学にとって決定的に重要な動きだろうと思う。

 興味深いのは、この重厚な研究を展開する御二人のどちらも黒田俊雄氏の諸研究との格闘と継承を強く意識して研究されていることである。私は、昨年、『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)と『日本史学』(人文書院)、そして「藤原仲麻呂息・徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』67号)で黒田俊雄批判の立場を宣言したので、この御二人の研究と対峙して、黒田の仮説を批判し、作り直すことが、これからの残った研究時間のなかで相当の時間をつかうことになると考えている。現在とりくんでいる地震火山神話論も、これをふまえていなければ方法的には何の意味もないのである。

 実は、元旦から、部屋の片づけをしていて、井上寛司氏からの拙著『かぐや姫と王権神話』への厳しい批判の手紙がでてきて、読んでいる。私の神道論についての御批判である。これをいただいたときには、急に目の前に壁を立てられたような感じがして困ったと思ったが、ようやく少し整理して御批判に答えることができるかも知れないと考えるにいたっている。

 さて、『かぐや姫と王権神話』では、だいたい九世紀に「日本が独自な民族的宗教のスタイルを作り出した」と論じた。この時代に神話時代が終わるのであるが、神話の枠組みは、この列島の宗教意識の中に残ったのであって、それがのちのちまで残った「神道」の実態であるとしたのである。私は『かぐや姫と王権神話』において『竹取物語』を「神話から物語へ」という論調で論じたのであるが、それは他面で云えば「神話から神道」という変化をともなっていたということになる。

 つまり、原文を引用しておくと、「本書は、『竹取物語』の中に神話の痕跡を発見し、その神話がどのようなものであるかを考えてから、その物語への変容を追跡するという手法をとっている。それは神話が先進の文明国・中国からの思想・文物の導入の中で再解釈され、物語の中に再生していく過程の追求であった。考えてみれば、それは日本の社会の文明化の過程を考えることとイコールだったということができると思う。そして、高取正男の仕事によれば、この時代は、日本独自の神道が形成された時代でもあった。神話の時代からの文明化の過程で、物語の成立と神道の成立は並行して進んだものだったのである」ということである。

 これに対して、井上寛司氏は、黒田の「神道なる言葉でいわれる独立の宗教は現実には存在しなかったのであって、あったのは儀礼の系列だけである。還元すれば、いわば禁忌の儀礼の神秘的演出の体系こそが『神道』の名で呼ばれるものであったのである」(『黒田俊雄著作集』②一五八頁)という見解によって、私見を批判する。「日本の宗教のなかの一部だけを切り出して、『日本独自の神道=日本の民族宗教』であるとするのは、存在しない物を存在するかのように述べるものだ。こういう見解は徳川時代末期の国学が作り出し、柳田国男が体系化した言説であって虚妄なものである」という批判をされる。

 よく知られているように、黒田は、現実の前近代の宗教は『融通無碍な多神教』であるが、そのベースは仏教にあった。仏教抜きで『日本独自の神道=日本の民族宗教』が存在していたかのようにいうのは正しくないとするのである。

 私は黒田の意見は重要なところをついていると思う。これは以前書いた「中世の身分と天皇」という論文で「中世における神道が宗教の存在形態としては顕密仏教の二次的・世俗的・儀礼的な付属物に過ぎないことは黒田の説明の通りである(黒田一九七九)」として、黒田説を引用したことでも分かっていただけるだろう。

 そして、私は「国家イデオロギーとしてみるならば、やはり神社が第一に来るのが「宗廟社稷」の原則なのであって、神社興行の条項が公武の新制、御成敗式目の冒頭にくるのは十分な理由があるのである。そして、新制法の条文にもしばしば現れる「神は非礼をうけず、人の慎みなからんがためなり」(建久二年三月二二日新制、『鎌倉遺文』五二三)などという文言は神道が「礼」と「恭順・慎」の宗教的な国家儀礼体系であったことを物語っている。その根本に神道的な「忌・浄」の心意があったことはいうまでもない」と述べている。

 問題は、この神道的な「忌・浄」の心意というものをどう考えるかである。それは国家儀礼体系の内部のみではなく、村落と地域社会にひろく存在していたことは認めるべきであろう。このレヴェルの心意を黒田(そして井上)は、ただ「素朴な信仰」「現世利益の呪術的な信仰」とする。しかし、そこにどのような宗教的心情があるかをこそ問題にするべきなのではないだろうか。その意味で、私は『かぐや姫と王権神話』で、「高取がいうように、広くいえば神道は東アジアにおける儒教・道教などの現世宗教Secular religionの一類型である。現世宗教は世俗を観念的に超越する偶像的な価値を主張しない(高取一九七九)。もちろん、宗教である以上、超越性をもつことはいうまでもないが、それは人間に対する自然の絶対性という意味での超越性に限られる。神道についていえば、もっぱら自然に対する「忌み」の心情が基軸となるのである」と述べた。

 神道には神話に淵源し、それの変形という側面をもつ自然神崇拝が「忌み」という形で引き継がれているのではないかと思う。そして、この「忌み」の中には益田勝美のいうように、神話時代から地震噴火に対する絶対的な畏れというものが潜在しつづけてきたのではないだろうか。

 これは黒田も井上も否定しないと思うが、それを黒田も井上も「神道史研究」、「宗教史研究」の外においてしまう。それを各国の一宮その他の権門寺社とは無縁なものとしてしまうのである。もちろん、井上によって一宮級の神社や地域の権門寺社の体系が平安時代に国家組織に近いところでできあがっていっていること、その制度や実態についての構造的・全体的な研究が進展させられたことの意味はきわめて大きい。

 しかし、今後は、それを前提として、各村落の近くにあるような「小さな神社」をみていくことこそが必要なのではないだろうか。園部の『中世村落と名主座の研究』などの研究は、まさにそこを目指している。こういう民衆的な神社と、その宗教心情や祭りの心情の復元を井上のような一宮・権門寺社や国家祭祀の構造論的研究と結びつけることが必要なのではないだろうか。井上は両者の関係は希薄である、国家的寺社は村落寺社を排除しているというのが、しかし、両者には「排除」とのみは言い切れないような複線的な関係があり、そうであるからこそ、国家寺社も社会的な支持をうることができるのではないだろうか。

 神話意識の宗教的展開という意味での民族性が「神道」において強く継続していたこと、そしてそれに対応する独自な神社の組織があったことは正面から研究しなければならないのではないかと思う。たしかに、神道には宗教らしさというべきものが希薄である。『かぐや姫と王権神話』でも、神道は「東アジアと比べた場合の、その最大の特徴は、その結晶軸が道教・儒教という外来思想であっただけに、開祖も教典も存在しなかった点にある。『古事記』は過去の神話の編纂述作物であって教典ではない。そのために日本の神道は、東アジアの現世宗教とくらべても、宗教らしさがきわめて希薄となった」と述べた。しかし、それを「素朴」「呪術」とのみ評価するのは正しくないのではないだろうか。

 なお、『かぐや姫と王権神話』でも論じたように、網野善彦は日本社会には宗教がないという。日本社会の「無宗教性」をいうのである。これは黒田が「神道を自律した宗教とはいえない」と断言するのと通底する考え方であろうと思う。こういう考え方が「神道史研究」を空白にしてきたのではないかと、私は考えている。これはさらに詰めるべき問題が多く、関係する問題もきわめて多岐にわたるので、もう少し考えてみたいが、最後に、これに関わって『かぐや姫と王権神話』における網野見解への批判を引用しておく。

 さて、歴史における未開と現代の問題を考え続けてきた網野善彦は、「境界に生きる人びと」という講演の中で、「なぜ日本の社会に宗教がないのかという問題は、現代にも大きな意味をもつ解決すべき問題だと思います」「それが現在の日本の社会にさまざまの形で”小さな宗教”が現れていることと関係があることは間違いがありません。無秩序きわまる猛烈な自然の開発も、この問題と決して無関係ではありません」と述べたことがある。そして、「人間が人間を滅ぼしうる力を自然の中から自らの力でつかみとってしまった現段階」においては「人間にはどうしようもない力を、聖なるものととらえていた古代人のあり方からも学ばなくてはならない」「人間の力を超えた自然の力について、われわれが認識を深めることと、宗教の問題は深い関わりがあると思います」と断言した(網野一九八八)。網野は、自分は唯物論者であり、宗教によってすべての問題が解決されるとは考えないと断った上で、以上のようにいうのであるが、私も網野と同じような立場から、同じようなことを考えてきた。

 しかし、上で述べたように、私は、やはり日本社会には神道という宗教があり、大きな影響をもったし、もっていることを、回避せずに正面から考えるべきだと思う。神道が、その発生において宗教らしさが希薄になった理由、またその後の歴史的経過、とくに天皇制に自己同一化した国家神道によって大きく傷つけられた近年の過程などを、ナショナルなレヴェルでの常識とすることが望まれると思う。もちろん、国家神道の中枢に天皇崇拝という形で復活した未開のMan-godの崇拝も、それ自身としては信仰の自由の枠内にあり、また神道自体と密接な関係をもつことはいうでもない。しかし、天皇崇拝には「創造された伝統」という側面も強く、明治時代以降の経過からみると、神道それ自身とは区別されるべきものであると考えている。

 私は、これらについての認識が、日本社会が前に進んでいく上で、民族的な自己認識の一つの思想的基礎となり、また革新と保守の間でのバランスと相互理解をもたらし、社会的な問題の見通しをよくする上でも、重要な意味をもつと思う。そして、その議論において、神道を支えた信条それ自身は「人のはたらきのすべてを究極において聖化し、みずからの生活と心のよすがとして絶対視しようとする心性」(高取一九七九)であり、信仰の自由の枠内にあることが当然であると考える。この現世を「言上げ」せず、教典もなく開祖もなく、絶対視しつつ聖化しようとする宗教。別の言葉でいえば絶対的な忌みの思想と感性そのものは、けっして宗教としてレヴェルが低いとか、未発達であるとかいうべきものではない。私は、折口・土橋・益田の仕事が明らかにしているような、神道の自然に対する絶対的な忌みの心的態度は、日本の風土にそくした独特な思想心情たる価値を失わないと思うのである。これを確証していくために、今後も、『日本書紀』『古事記』などの中に、より未開な社会と神話の世界を発見する作業を続けていきたいと思う。

 
 なおもう一点。園部の仕事と井上の仕事の中間をいく仕事として牛山佳幸の『【小さき社】の列島史』(平凡社)がある。私個人の好みからいうと、私の立場は牛山に近い。この本は読みやすいので一読をおすすめする。

2015年11月10日 (火)

米田佐代子さんのブログに「辺野古へ行ってきました」

 米田佐代子さんのブログ(yonedasayoko.wordpress.com/)に「辺野古へ行ってきました。カメラがこわれ、メモも取れず、でも記憶したいこと」とある。

 米田さん(先生)は、私の都立大の時代の先生。もう80歳を過ぎられたはず。

 ブログの写真をみおてもお元気そうだが、沖縄へ行って来られたのに驚く。

 『日本史学 基本の30冊』(人文書院)に米田さんのご本、『平塚らいてう―近代日本のデモクラシーとジェンダー』(吉川弘文館 2002年刊)を加えたので、それについても言及してくれている。「長い留守の間に献本していただいた本が届いていました」という書き出しで以下のように、私の紹介を紹介してくれている。


 わたしの本は10年以上前の刊行ですが、当時は「女性史」「女性運動」の視点からの批評を多くいただき、かなり手厳しい批判もありました。保立さんは、それらの批評があまり取り上げてくれなかった平塚らいてうの精神生活にとって原点ともういうべき自然・宇宙にたいする視点に注目、らいてうが20世紀に入ってから西欧でひろがった「神智学(霊知学)」に関心を持っていたのではないか、という点をとりあげてくださいました。それは霊的世界の存在を認める「反唯物論」であり、らいてうが戦時中「天皇は神」と書いたこととつながる彼女の思想の「弱点」であるかのようにみられてきたので「輝かしい女性解放運動」のさきがけであるらいてうにはふさわしくないように見られてきたのかもしれません。

わたしはらいてうをハイカラな近代主義者だとは思っていなかったので、この本でもそのことに触れ、その後1911年にらいてうが『青鞜』に発表した「高原の秋」というエッセイに出てくるのですが、「Devachan」という言葉(じつは著作集にはこれが誤植されて「Deyachan」となっていたため意味不明であった)が、霊知学では「この世を離れた霊が休息するところ」という意味の用語として使われていることを確認、それが彼女の「無限生成」という言葉に示された無限の生命観、『青鞜』から第一次大戦後の平和思想、戦後の平和運動に連なる宇宙観の出発点になった、という仮説を立てたのですが、あまり相手にされませんでした。そこを保立さんは取り上げてくださったのです。全体を読むと彼がこの本のなかで安藤礼二『場所と産霊』(これは鈴木大拙の禅の世界を通して考えた壮大な宇宙論です。わたしも読みました)や福田アジオ『柳田國男の民俗学』をとりあげている理由がわかるのではないでしょうか。とりあえず紹介しますから、関心のある方は(わたしの本のことだけではなく)どうぞ全部読んでください。

「Deyachan」の話はきわめて重要で、平塚らいてう著作集で、これがキーの言葉だというこよはわかったが、米田さんの論文(『日本史学 基本の30冊』で紹介した「青鞜の原風景」)を読んで初めて分かった。

2015年10月 1日 (木)

『老子』第一章。道。大地母神の身体に道が通っていって万物が産まれる

 『老子』第一章の「道」についてのもっとも有名な一節について、いちおうの釈読が終わった。

 研究の基本は池田知久氏の仕事や、中国出土文献研究会(代表浅野裕一)の仕事にあるが、私は日本史の研究者なので、研究成果に学んで楽しんで読むということで許していただく。

 しかし、帛書や楚簡の出土は、たいへんなことであるというのを実感する。日本史の研究はなんと言っても津田左右吉の仕事から始まったというのが、私などの意見である。それは津田左右吉がむしろ本質的には東洋思想史の研究者であった以上、東洋史の一部として始まったということである。問題は、津田的な東洋史は、甲骨文の発見ですでに古くなっていたが、それは春秋・戦国時代の理解にまでは影響しなかったことである。帛書や楚簡の出土は、この状態を変化させ、日本史の側からいえば、津田の仕事の古さを点検し、それにもとづいてすべてを点検せざるをえないことになっている状況だと思う。
 
 うかつなことに、私は神話論の分野に入ることによって、その状況を初めて知った。
 
 これを知った以上、神話論をやるのも、いちおうの教養を身につけてからでないとできない。
 ショックだったのは、津田は『老子』が嫌いなのだということを初めて知ったことである。津田の中国論の基本にそれがあったのだ。そして、津田は日本神話のテキストのなかに道教を発見し、それを摘出して日本的なものをもとめてタマネギの皮むきをやったのだということも分かってきたような気がする。

 いろいろ弁解をするが、ともかく、以下は、『老子』を、一種の哲学詩あるいは神話詩と理解して、読みやすく釈読したものなので、勘弁である。


1  大地母神の身体に道が通っていって万物が産まれる
 普通、道徳だとか、道義だとかいわれる道と、ここでいう永遠(恒常)の理法という意味での道はまったく違うものだ。また、普通、名声だとか、有名だとかいわれる名も、ここでいう理法を認識するという意味での名(概念)とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、道は混沌としていて名づけようのないものだ。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地の神の身体に道が通っていって、母神となり、そこから万物が産まれる時に、はじめて万物に名前をつけることができるようになる。だから、永遠の存在のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は渺々としている。その存在のなかに欲求が生まれて初めて、名前が明らかになってくるのだ。そして、道と、それに対応する認識の両者は、名は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、玄と玄が重なっている場所には、世界万物がうまれる衆妙の門が開いている。

道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒の無欲*1にして、以て其の眇を観、恒の有欲にして、以て其の曒なるを観る。此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

解説
 永遠なる定常宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。ビッグバンからしばらく立って物理法則が働き始め、天地が分かれて星ができ、そこに陰陽、雌雄が生じて、欲求が生じた後に、「道=理法」に対する「命名=認識」が始まるということになる。普通、老子は「無欲」の哲学といわれる。しかし、老子の神話的宇宙論では、「道」は実在的なものであるから、それに対応して欲求の存在を認め、それを見つめるところから出発しているはずである。「恒の無欲・有欲」とは、いわば定常宇宙に動きが生まれ、それが欲という拡張システムになっていくというイメージであろう。老子の宇宙論は『恒先』その他の同時期の道家思想の宇宙論を前提にして、それを詩化しているから、言葉を補って読むほかない。この章を詩的に理解する鍵は、道と名の重なる場、自然の理法と意識活動が重なる場を「玄の又玄」として、地母神・谷神たちの「衆妙の門」に結びつけることである。


*1『恒先』に「(万物は)同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず」とある。

2014年8月15日 (金)

「在地領主」という言葉はそろそろ使用しない方がよい。

 在地領主という言葉は石母田さんが『中世的世界の形成』で全面的に使い出した言葉であるが、『中世的世界の形成』をよく読めばわかるように、石母田は「在地領主」という用語に何らかの意味で「古代的・過渡的な」様相を含意させている。

 石母田の実遠論で特徴的なのは、清廉――実遠の関係をはじめて論証し、多面的な実証をしたにもかかわらず、石母田が実遠のなかに「古代豪族」の様子を読みとろうとしたことである。もちろん実遠に「族長」を読みとろうとした訳ではないが、その側面が残ったとはしている。実遠を少しさかのぼれば「族長的土地所有」を発見できるというのが、石母田の生涯の考え方であって、ここに石母田首長制論の発生根拠がある。

 私はその事情をもっともよく知っていた「古代史研究者」は青木和夫氏であったと思う。青木の『古代豪族』は、石母田の首長制論と実遠論を統合したイメージを描いている。青木氏は石母田さんに私淑していたが、私は石母田さんにもっとも近い研究者であると思う。青木さんの『石母田正著作集』への解説は感動的である。

 石母田が正しかったのは、9世紀から11世紀までのを私営田領主とくくったことで、これは正しかった。大局的なところでは、石母田はしばしば正しい。しかし、石母田は私営田領主に「古代的様相」を認めた。これは間違いであったと思う。

 戸田芳実は実遠について石母田の実証に学んで、実遠に「都市貴族的な領主」という相貌を認めた。戸田の理解は都市貴族的な領主が「当国の猛者」として領主制の根拠を固めるのに失敗した。後を継ぐべき「猛者」的な男児がいなかったという単純なものである。私は、『中世的世界の形成』を読んで、その後に戸田の理解を読んだ時には納得できなかったが、徐々にそういうものだと戸田に賛成するようになった。

 石母田の実証が、あの段階で群を抜いたものであったことはいうまでもなく、戸田は、それに依拠して、その先をザッハリッヒに考える条件があった。そして実遠のイメージはどうみても戸田の理解が正しいのである。

 ただ問題は、戸田は領主制の段階論を明瞭にしなかったことである。石母田批判を最後までは完遂しなかった。

 以上、端的にいえば、在地領主という言葉は領主制の変化と段階規定が不明な段階で使用された用語であり、石母田の規定にもさまざまな問題があるということである。それ故に、学術用語として、この言葉を使用するのはやめようということである。私は私営田領主段階を留住領主制、院政期以降を地頭領主制という提案をしている。
 もちろん、現在の段階でも地域の領主という意味で在地領主という用語を使うことはかまわない。便利な言葉ではある。しかし、現在の段階で、石母田の仕事を受け止め、考え直そうとすれば、そう簡単に使って良い言葉であるとは思えない。


 今日は終戦記念日である。
 終戦記念日というか、敗戦記念日というかには、議論がある。事実は敗戦なのだから「敗戦記念日」を使うべきであるという意見も多い。それも一理はある。敗戦した人々に対して、つまり戦争に責任のある人々に対して語る時は、敗戦記念日でよいのであろうし、「終戦」という言葉に事柄を曖昧にするニュアンスをみるのはもっともである。
 しかし、私は、石母田のように「解放」「終戦」という気持ちで迎えた人々がいるというのを忘れないようにするには、やはり「終戦」でよいのであろうと思う。宮本百合子の『播州平野』の世界である。
 ともかくも、「在地領主」という言葉をどうするかというのは、いわば、歴史学にとっての「終戦処理」「敗戦処理」の一部であるのはいうまでもない。石母田に向き合うことである。

2014年6月 2日 (月)

歴史学の研究史の学び方

 いま中央線。金曜。学芸大の授業が終わり、帰宅途中。

 しばらく前、「歴史家と読書――生涯に100冊の本を徹底的に何度も読む」という記事を書いたが、友人と食事しながら、歴史学における研究史の学び方という話になる。研究史については研究史を紹介する文章というものはあって、それは有益ではあるが、しかし、歴史学、とくに前近代史では史料との格闘が第一になるので、ある特別の研究者をえらんで、その人の本・論文をすべて読むというのが一番手早いと思う。そこから関係する研究者を次から次ぎに芋蔓を掘るようにして手繰っていくのである。

 これは小説家を一人特定して、その人の小説をすべて読むというのと同じである。「東大教師が新入生にすすめる本」というのをさきほどあげておいたが、そこに「一人の作家のものを、文字どうり断簡零墨を問わずにすべて読むというのは、頭蓋の中に一人の別人格をもつとでもいえるような奇妙な体験で」と書いたが、歴史家の場合も同じようにして、その人を自分のなかに住ませてしまうことになる。

 その歴史家の仕事をすべて読む。しかもできれば、その論文なり、著書なりで利用されている史料を自分でも探しだして読んでみる。そうすると、この歴史家は史料をこういうように読むのかということが実感できるようになる。その歴史家は独自の方法や理論をもっているはずであるから、それを学ぶというのも重要であるが、しかし、それにはこだわらない。まずは、その歴史家が、その独自の方法なり理論なりによって獲得した史料分析力を自分に受けいれるのである。真似するのである。そしてできれば、自分でも、その歴史家の視角に従って、一本論文を書いてみるのがいい。その間は、その歴史家の方法や視角を全面的に信頼し、信用して勉強するのは当然である。なお、選択するのは、当然のことながら、独自の方法や理論をもっていてある程度の量を書いている歴史家がのぞましい。もちろん、自分の研究テーマを決めるためには、いろいろな論文を読むのが必要だし、史料を探るためにも、それは必要である。しかし、ここでいうのは、そういう実務論文ではなく、研究史に入りこんでいくための勉強ということである。

 けれども、それが終わった段階では、また別の歴史家のものを同じようにして読む。第二の歴史家もやはり信頼して読む。というよりも史料にそくして読んでいると信頼せざるをえないことになる。第一の歴史家のいうことと矛盾している場合があるはずだが、それは簡単にどちらかを捨てることはしない。両方正しいと信じて読んで勉強を続けていく。そうすると、第一の歴史家の視野とは違った視野の中に自分がおかれていることがわかる。最初はやや目がくらむかもしれないが、歴史は多様で複雑なので、第一の歴史家と第二の歴史家の視野が自分のものになって、ピントがあってくるということがあれば儲けものである。私たちは、そのとき、本当に歴史学の中に立ち入ったということになるのかもしれない。これを繰り返すわけである。

 私の場合は、まったく戸田芳実氏の仕事を通じて、すべての史料をみていた時期がある。戸田さんの『日本領主制成立史の研究』がまず来て、次ぎに戸田さんの盟友の河音能平氏の『日本封建制成立史論』がきた。大学院の間は、この二冊、そしてそれ以外の戸田・河音の論文や、二人の論文で参照されている論文を読んだ。
 そして、その後、稲垣泰彦・笠松宏至・黒田俊雄・網野善彦・大山喬平・石井進・永原慶二という順序で、当時活躍していた研究者の仕事に順次にとらわれていった。そういう世代なので、直接に御話を伺い、教えられた経験は本当に身に余るありがたさであった。御二人を除いてなくなられてしまったのは痛恨である。学者は、もちろん、書いたものを通じてしか関係しないというのが正論である。石母田正さんは『戦後歴史学の思想』でそう述べている。しかし、歴史家は職人なので、少し違うところがあるとも思う。史料を分析する息づかいのようなものにふれる、感じるためには、その人の姿をみるというのは意外に励みになった。

 こうやって読み抜いていって、徐々に読み抜いた本が100冊になるということなのだと思う。


 しかし、あるいはすでにそういう時代ではないのだろうか。

 つまり、現代歴史学も、私の専攻する「中世」では、石母田正・藤間生大・林屋辰三郎の第一世代、永原慶二・稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦などの第二世代、そして戸田さんたちの第三世代、さらに峰岸純夫・藤木久志さんたちだから、もう歴史学者の世代は何層にも重なっている。それを一つ一つ剥いでいくのは大変なことだと思う。
 私などは石母田正さんまでさかのぼったが、しかし、そこまでは要求できないように思う。

 今日は月曜。土日は滋賀県で研究会であったが、新しい議論がすでにでてきていて、それを追うなかでは、いまから研究を始める若手は、過去にさかのぼってはいられないのではないかとも思う。そこら辺は、私にはすでにわからない。
 いまは誰でも認めるように研究史は大きな曲がり角である。

2014年5月22日 (木)

拙著『平安王朝』への批判にこたえての私的な手紙。17年前のもの

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 明後日は歴史学研究会大会である。一日目は歴史教育、二日目は地殻災害と文化財保存の問題なので、今年は両日でようと思う。
 毎年出るようにしていたのだが、職場の最後のころは体力がつづかず、3回に一回は出なかったことがある。

 三重県の津波碑のパンフレット『いのちの碑』を三重の新田先生から送っていただいたので、会場で必要な人には買ってもらおうと思う。500円です。顔をみかけたらいってください。

 今年も、卯の花が咲いた。この株だけが花がよく咲く。これを植えた20年近くまえ、戸田芳実さんがやった卯の花垣論を受け継ごうとした。その結果は「和歌史料と水田稲作社会」で一応は書いたのだが、書きたいことは途中までになっていて完了していない。すでに時間がなくなっているが、早く当面の仕事をやって、本来の仕事にもどらなければ申し訳ない。いろいろな人に申し訳ない。歴史学の仕事も、結局、そういう記憶と衝迫力で持続していく。

  以下は、拙著、『平安王朝』についてのある著名な古代史研究者からの手紙への反論です。この本は出したときに、吉田孝さんが呼びかけてくれて、たしか歴史学研究会の古代史と中世史で合同で書評会をもってくれた。高橋昌明氏が批判をしてくれて、ミスを指摘された。なにしろ政治史などをやったのは始めてであったが、いつもあわてて書くので、たしかに私の仕事にはミスがでがちである。これは弁解にはならないが、早く次の仕事がしたいという焦りのまま、突っ走るのがよくない。
 これからいろいろ修正の時間があるだろうか。

 さて、私への批判の手紙は、方法的なもので、とくに保存運動仲間なので遠慮がなく、強い批判をされた。そこで強い批判を返した。ある研究会で配布したことがあり、しかも、もう20年前のの手紙である。御本人に、歴史学研究会で会うかもしれないが、もう時効なので、勘弁してもらう。

 彼、O氏の仕事は傑出しており、強い親近感があるが、しかし、意見は違い、歴史学は、結局、おのおのの信じるところを進むほかないということである。

前略
『平安王朝』についての感想の手紙をもらいました。古代史の研究者との論争は望むところですので、少し、自分の意見の説明をしたいと思います。そのうちに、直接にはなす機会があればありがたいと思います。

 御手紙の順にそって、反論をします。

まず、私は、御手紙のいうようには、この本を「現代歴史学への批判の書」とは考えていません。現代歴史学、特に戦後中世史学の基本線をそのまま維持しているつもりです。同封の「歴史を通して社会をみつめる」という文章に、ありますように、従来の摂関政治・院政というシェーマは、いわゆる「武士発達史観」の裏返しであると考えています。そして、黒田俊雄氏によるこの「武士発達史観」批判は、中世史研究においては共通理解たりうる性格をもっています。私の意図は、「武士発達史観批判」を政治史にまで延長することにあります。もちろん、研究史に対する批判はあります。しかし、明示しませんでしたが、批判の対象は、率直にいって、アカデミズム政治史、たとえば土田氏、橋本氏、石井進氏などの平安時代・院政期政治史です。

 それらは全体として政治史の体裁をなしていない、特に平安政治史にかぎっていえば、異様に評価の高い土田氏の『王朝の貴族』はほとんど役に立たない。土田氏は政治史の何たるか、国家の何たるかがまったく分かっていない、と考えています。少なくとも、平安時代の政治史叙述のための基礎実証作業は、山中・角田の仕事の方が位置が大きいことは確実です。アカデミズムを駄目にしていたのは、王家の内部矛盾に踏み込んでタブーをおそれず議論することの忌避、頼朝を偉大な政治家と述べるような時代錯誤、非政治的・非階級的観点などなどであることは明らかです。私は、戦後歴史学批判なる論調が事実上、アカデミズム歴史学の免罪しか意味していない場合が多いことは、たいへんにおかしいと考えています。本書で述べたことの相当部分は、その職責からいって、当然にアカデミズムの側で議論しておくべき点が多かったはずです。

 さて、次に、本書の直接の執筆意図についてですが、御手紙が本書の執筆意図として挙げたのは、二点、第一は、「平安時代400年が一つの時代として総体的理解がなされていなかった現状への批判」、第二は「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論に対し、時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態を、摂関対天皇の図式からではなく王権の歴史として描き出してみせること」です。第一点は、ありがたい読みですが、「一つの時代としての総体的理解」とまでいわれますと、過分かつ少し違っていて、本書がねらったものは、あくまでも政治史の(と王権の歴史の)総体的理解に過ぎません。平安時代の総体的理解に政治史の総体的理解は絶対に必要であるとは考えますが、そこから先の社会経済史の理解(その運動と移行)こそが、もっとも困難な課題と考えているものです。


 第二点の読みについては、率直にいって不満です。まず「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論」が政治史のイメージとしては、王権の免罪と美化になっていたこと、いわゆる不執政論の最大の根拠になっていたことという現状認識、これは中世史の研究者ならばすぐに理解いただけることだと期待していますが、お手紙の雰囲気では、我々の間での共通認識にはなりえないようです。そして「時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態」を分析することに、本書の意図があったのではなく、むしろ平安王朝、王家内部における熾烈な権力闘争の「日常的」存在を描き出すことを通じて、王権の歴史を描こうとしたものです。端的にいって「摂関政治による天皇権力の相対化・無実化という議論に太子、時たま現れる天皇親政という形での天皇権力の発現という実態を、摂関対天皇の図式からではなく王権の歴史として描き出してみせること」ぐらいの議論の建て方や志向などは、むしろ通説を補完する議論としてむしろ一般的なものであるというべきでしょう。

 お手紙では、以下、批判が続くことになります。まず「王の物語、それが血縁関係をどう構築するかという一点に絞られて叙述されるのはいいのですが、これが平安時代史だとは、いや平安時代の政治史だとはどうしても思えないのです。御著書の最後には宮廷政治史とありました、これならわかるのですが」という強烈な文言が登場します。これについては、まず、従来の摂関時代史は、たとえば後三条の血統論をとっても単純に血縁関係を論じていたという研究史の現実を見ていただきたいと思います。そして、「血」とは王の呪物的な身体の実態であるという王権論の基本問題をどう考えるかというレヴェルで議論が必要です。古代史研究者は、たとえばマルクスのヘーゲル国法論批判、その他の王権論を真剣に考えたことがあるのでしょうか。私は、最近の古代史研究者には理論の貧血・貧困を感じることがしばしばです。そして、私は、単なる王の血族的系譜論ではなく、それを王権内部の対立を導くものとして、特に天皇と皇太子の対立から院と天皇の対立という形態転化を追跡する形で問題にしていることは、序を読んでいただければ明らかです。これは「あまりなお言葉」というものではないでしょうか。問題にするならば、この内容に踏み込んで議論をしていただくか、理論全体を問題にするかで進んでいただきたいものだと思います。いずれにせよ、そのような議論を抜きにして、「宮廷政治史」を現在研究することの意味に否定的な態度をとるのは、現実には史料の多い「宮廷政治史」のような簡単な仕事でさえ、戦後アカデミズムは不徹底な仕事しかしていないということを免罪するものです。たとえば石井進氏は後三条天皇について「天皇は久しぶりに現れた藤原氏を生母としない天皇(宇多天皇即位以来、実に一七一年目にあらわれた)、(中略)摂関家との対立感情も強烈であった。帝王学を学んだ皇太子は、すぐれた学才をあらわすとともに「世の乱れたらんことを直させ給はん」と、摂関政治の是正に意欲を燃やしていた」としていますが(『日本歴史大系①』九三二㌻)、158㌻で述べたような、このような見解に対する批判が成功しているかどうかをお聞きしたいのです。

 なお、お手紙では、「私は奈良時代で政治史を追究しています。その基本にあるのは政争史ではない政治史です。奈良時代の政治史といえば、プレ平安時代史=藤原氏による政権独占体制の前史としての、天皇・藤原氏関係をえがく政争史を克服することが課題である」とされていますが、しかし、本当に奈良時代の「政争史」は政治過程の運動にそくして解明されているのでしょうか。私は、天武系王統が内部で最大限の殺し合いを展開するという形で展開した奈良時代政治史の運動過程を総体として理解し、天皇制がどのような母班を刻みつけられて登場することになったかを明らかにすることはきわめて重要であると考えています。たとえば「仲麻呂の乱」は知られていても、それが偽王を担いだものであり、王統内部の殺し合いと密接に関係して展開したこと、それは傾向としては天武系から天智系への王統交替を導き出すものであったことなど、古代史家にとってはあまりに当然のことでしょうが、それは国民的常識になっていません。それは古代史学界が政争史の全体的理解を打ち出しておらず、結局図式としては、「プレ平安時代史=藤原氏による政権独占体制の前史」という安易なシェーマに流されているためであると考えています。今でも、長岡京遷都は、奈良の宗教勢力から逃れるとか、水陸の要衝の地をしめるだとかいう常識がまかり通っている現実をどう御考えなのでしょうか。

 これは政治史というものの理解の仕方に関わるのでしょう。お手紙は、政治史のなすべき仕事を「政策論レヴェルでの党派形成、政策論にもとづく政権抗争、実態としての国家権力の発現装置=官僚機構、天皇権力の展開」などと述べられていますが、これはあまりに静的な政治史の捉え方であり、実質上その政策論と制度論への解消というものです。政治史とは、政治を社会的政治的矛盾の焦点として位置づけ、何よりもそのようなダイナミズムをふまえることによって、運動としての政治、政治過程の展開を叙述することであったはずです。それは政争や「政策」などのきれい事では必ずしもない諸契機によって形成される党派の形成や術策、そして軍事史などの政治史の現象形態を「政争史」であるとして切り捨てることからは生まれてこないはずです。

 もちろん、本書が「政治を社会的政治的矛盾の焦点として位置づけること」に成功しているとはいいません。本書は政治過程における矛盾の焦点として王権の動きを追究したもので、政治的社会的矛盾全体との媒介の追跡は直接の課題としてはいません。しかし、いくつかの指摘はしたつもりで、たとえば、武家の登場が国家中枢の暗闘と関係していること、特に冷泉系王統と源氏の近接という論点を提起しています。これは、本書にとっては最大の仮説で、平安初期王統対立の中での師輔・花山・満仲の評価、尾張国司藤原元命の評価、小一条院から輔仁王への王統対立の中での源家の評価、そして源平対立の初発形態の評価などの問題と関わってくるもので、この点の批判を受けたいと考えています。

 さて、「御著書を拝読して驚かされたのは、国家権力とか、人民支配とかいった側面がスッポリ抜け落ちている。やはり平安時代における国家権力の、権力形態の構造分析、人民支配の内実、支配階級の支配の実相などが総体的に説明されて初めて平安時代政治史になるのではないか」という最後の指摘は、私にはお説教と響きます。これに直接にお答えすることはせず、以下、「王の身体の呪物性」「王の物語」「都市王権」という序での三つの執筆意図の説明と重ならない限りで、私の執筆意図とその前提を記しておきたいと思います。

第一には、日本史における天皇制の展開、そのハイタイムをどう捉えるかということです。私は、日本天皇制は、8世紀に国家権力全体の中に構造的に位置づけられ、挫折を経て、9世紀・10世紀・11世紀に古典時代を迎えると考えています。この点では吉田孝氏の見解と相似してくるでしょう。そして、平安時代末期の内乱を創出することによって、そのハイタイムは終了し、南北朝内乱でなかば自滅すると考えています。その政治過程の現象形態の特徴をなすものは都市宮廷内部における王の恣意の拡大とそれによる矛盾の再生産にあると考えます。これがデスポットというよりも、都市的な場の内部における恣意という形態をとったのが、都市王権の特質といえるのでしょう。ここで、重要なのは、やはり天皇制を歴史的な条件の中で見るということであって、それはほぼ400年ほどの期間、十全の形で存在したものに過ぎないというように、考えることです。その400年は、日本の政治支配と文化にとって決定的な意味をもったことも事実ですが、しかし、天皇制が実体的に同一論理で持続したとは、私には考えられません。この点、保立の議論は裏返すと皇国史観であるという御意見もあるようなので、念のため付言します。

 第二は、平安時代史研究の現状をどう考えるかということです。社会構成体の移行論が取り組まれないようになり、トリヴィアリズムが一般化し、制度史に対する否定的評論が忌避されるというような状況は学界として健康であるとは考えられません。どうにかして制度史は相対化せねばなりません。私は、制度史という研究分野が必要であることを否定はしませんが、少なくとも、制度の論理と社会的機能の分析につながらないような研究は嫌いです。さらに旧態依然たる「政治史」を放置したままでの制度史への入れ込みは、本質的には国家論的分析を深めることにならないと考えています。ようするに研究課題の選択の仕方が違うということなのですが、初心をいえば、どうにかして政治史を人民闘争史・民衆史との関係で考えたいということになります。そして、私は、尾張国解文論や後白河論の部分で、少しそのきっかけをつかむことができたかと考えています。また、「誰でもできる平安時代」という言い方が賛同を得られないようですが、実は、これは平安時代史料フルテキストデータベースの構築を行っている者としての感想であるということも付言しておきたいと思います。ともかくすべての勝負は社会経済史であり、構成体論とその移行論であるという立場は、まったく変わっておりません。

 第三は、歴史学研究の社会的文化的役割をどう考えるかということです。特に中世前期の研究者は、日本文学・平安文化論との対応をしなければなりません。中世史の中でもそのような役割が大きい分野であると思います。私は歴史学が物語をかたってよいとは考えていませんが、しかし、文化の中で、どのような役割を果たすべきかについては十分意識的でなければならないと考えます。
以上、長くなり、激越なことばも入っておりますが、私信ということでお許し下さい。

1997年7月12日
保立道久

2013年10月28日 (月)

前方後円墳と骸=姓の身分秩序

 昨日は久しぶりに千葉市の奥の都川支流域へ自転車
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以下は、前方後円墳論であるが、すべて研究史と既発表論文なので、ブログにのせます。
 こういうことを考える上で、山折哲雄氏の『死の民俗学』が参考になりました。一種の骨カルトとでもいうべきものを考えています。


 柳田国男が次のように述べていることは、山折がいうような「骨」の観念を前提として考えるべきものであろう。

 古墳と名づけられる大きな人工の塚山、内に完形をもって古人の姿を保存しているものも、第二次の葬処だというかと質問する人があるであろうが、私は多分そうだろうと答える積もりである。(中略)土佐国群書類従に採録せられた御子神の記事などを読んでみると、死して六年とかの後には人を神に祀ることができるといって、その方式が載せてある。(中略)現実に骨を移し、且つこれを管理しなければ、子孫は祖先と交通することができず、従って家の名を継承する資格がないものと考えていたのではあるまいか。姓をカバネといい、カバネが骨という語と関係があるらしいから、私は仮にそう想像する(「葬送の沿革について」『定本柳田国男集』一五巻、筑摩書房)。

 ここで柳田が「カバネが骨という語と関係があるらしい」というのは、たとえば栗田寛「氏族考」などでもいわれていることで、昔は常識といってよいほどよく知られていることであった。
 中田薫も、論文「可婆根(姓)考」で、骨をカバネという語にあてることに注目し、恩師の宮崎道太郎が、倭国のカバネ制には新羅の身分制度、すなわち骨品制の影響があり、それは朝鮮語では「骨」という字は宗族親族の義をもつことと関係していると述べていることを引用している。中田はカバネ制度自体を韓国から輸入したものであると論じている。たしかに、新羅では王族を真骨と呼び、その中でも父母が王族に属する者を聖骨といった。カバネ制度それ自身が韓国から輸入されたかどうかは別としても、ここには骨自身を神聖視する観念があり、倭国のカバネ制度も本質的に同じものであることは明かだと思う。
 これは前方後円墳についての長いあいだの論争にかかわってくる。つまり、ヤマト王権と前方後円墳について、国家論というにふさわしいレヴェルの議論を最初に行ったのは、中国史家の西嶋定生であった。西嶋は前方後円墳という葬送の制度、葬制においてもっとも特徴的なことは、それが「殯によって骨肉を分離し骨のみを葬る」ものであったことにあるとしている。古墳の埋葬部には基本的に「骨」のみがあるというのが特徴だというのである。古墳を考える上では、この「殯」という「骨肉を分離」する二次葬法の意味が決定的であることは前述の通りであり、この指摘の意味は重い。言及がないところをみると、中国史家の西嶋は、柳田や中田などの仕事を参照しなかったのではないかと思われるが、しかし、その指摘は柳田・中田の先を行っているように重う。
 ようするに西嶋は、「姓=カバネ」は「同族関係の象徴的表現としての骨と同語となっている」ことの意味を重視し、古墳時代に列島のほとんどの部分にひろがった古墳のネットワークは、「骨」のネットワークであるとみたのである。古墳時代は骨が身分をもつ社会なのだというわけである。私は、この西嶋の見解は、遺骸そのものが社会や文化体系の中枢に位置しているという前述のような人類学の見解に見事に対応していると考える。
 しかも、西嶋は、古墳時代においては、このネットワークが国家と文明化の道に入り込んでいることを問題とした。西嶋は、中国史家として、柳田や中田などの仕事とはまったく別に問題を発想し、そこに東アジアにおける中華帝国の存在を前提とする国家システムをみた。つまり、古墳に葬られた大王・王族・首長たちの骨は、彼らの身分を表現するものであり、その意味で古墳のネットワークはヤマト王権の国家的な身分秩序を表現していると考えたのである。
 なお、西嶋は単に抽象的な発想をしたのではない。西嶋は千葉県の自宅近辺の古墳の保存問題にかかわり、「東国史」に並々ならぬ感心をいだいていたから、その発想の根拠には、おそらく『国造本紀』という記録の解釈があったように思われるのである。つまり、この史料によると、上毛野(現群馬県)の国造の始まりは、古墳時代(と仮託された時代)に、大王崇神の子ども豊城命の孫にあたる彦狭島命という人物が東方十二国を支配したことにある。ところが、これに対応する記事が『日本書紀』(景行五十五年条)にあって、それによると彦狭島王は実は東国に赴任しなかったという。そもそも祖父の豊城命は大王崇神から東国統治を命じられており、彦狭島王は、その血統をうけて東国の支配を命ぜられたのであるが、赴任の前に大和国で死去してしまった。それを知った東国の百姓たちは、王がやってこないことを悲しみ、ひそかに王の「尸」を盗んで上野国に埋葬した。この尸=遺骸は古墳に埋葬され、こうして彦狭島王は上野国の国造家の始祖として神格化されたのではないかというわけである。
 たしかに、「骨」あるいは「遺骸」の現物の衝撃力は強い。その人物が尊貴な身分にあった場合や強い威力をもっているとされた場合には、その全身骨格が、その人物の存在を代表するものとして特殊視されたということは容易に理解できる。それは都と東国の間のような一定の距離をもこえて効果を発揮したにちがいない。
 また、そのような感覚は時間をもこえる側面があったのではないだろうか。つまり、『日本書紀』(持統五年八月条)によると有力な氏族に、「その祖等の墓記」を上申せよという指示が下っている。大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿部・佐伯・采女・穂積・阿曇などの十八氏族である。これは当時編纂中の『日本書紀』の資料とするためであったといわれるが、白石太一郎がいうように、古墳論にとってなによりも重大なのは、「このような各氏の祖先伝承が『墓記』と呼ばれていることである。これは、当時、氏族の系譜を含む祖先の事績が『墓』を媒介として伝承されていたこと、いいかえると、『墓』すなわち古墳ないしはその系譜をひく諸氏の伝統的墳墓が、一族の系譜や祖先の事績を伝承する機能をもっていたことを物語っている」(白石「日本神話と古墳文化」)。これは「墓」についていえると同時に、その中の「骨=カバネ」こそが氏族の「身分=カバネ」にとって重大であったということではないだろうか。
 『新撰姓氏録』の序文には「ウジカバネ」を「氏骨」と表記しているというのは早くから指摘されていることであるが、それは、古墳時代が終わっても、「姓=カバネ=骨」の観念が実際には持続していたことの表現ではないだろうか。私が、この点で想起するのは、九世紀の恒貞廃太子事件(いわゆる承和の変)で、反逆の疑いをかけられて伊豆に流された橘逸勢の遺骸の運命である。彼は、配流の途中、途中の遠江国板築駅において、憤激のなかで命を終えた。彼に付き従って来た娘は、そこに父の屍体を葬り、出家して妙冲と名乗って八五〇(嘉祥三)年の恩赦の時まで、八年間墓を守って去らず、それを見る行旅の人は流涙しない人はなかったという。ようやく帰葬を許す詔をえたとき、娘、尼妙冲は、父の屍体を堀出し、それを背負って東海道を還ったという。『日本文徳天皇実録』は「時の人、これを異しみ、称して孝女となす」と伝えているが、この時、逸勢はすでに白骨化していたに相違ない。娘が白骨を背負うというのは、白骨信仰の極限を示しているといってもよいのかもしれない。九世紀にも王家の内紛が多く、それに関与して恨みをのんで死んだ王族・貴族はしばしば怨霊となって畏れられたが、橘逸勢ももっとも強力な怨霊として知られている(この事件については保立「東国の留住貴族」『中世東国史の研究』峰岸純夫編。東京大学出版会を参照)。

2013年10月21日 (月)

峰岸純夫さんの本の書評と学術フォーラム「地殻災害の軽減と学術教育」

 ゼミの必要があって、峰岸純夫さんの本、『日本中世の社会構成・階級と身分』の書評のテキストをWEBPAGEに載せた。
 今週後半はまた台風が予想されている。災害科学を文理融合の学術体制の中核をなすものとして全力をあげて造り上げるということを考えないと、学術の社会的位置が確保できないのではないかと思う。
 各地域の詳細な地質学的な調査にもとづくハザードマップの作成が絶対的な必要なのではないだろうか。これを10年かかっても作成する計画を立てないのは、信じられない話しである。巨費を使用することになってもやむをえないのではないか。それがこの国土にいま棲んでいるものとしての世代的な義務ではないか。私はそういうように考えない人は政治や行政の中枢にいては困ると思う。
 それをすべての基礎にして、「災害予知」ということを考えなければならない。最近、「予知」という言葉は評判が悪いが、しかし、文理融合であたらしい分野を作り出しながら進める災害科学の創成という観点からしても、またその地にすむ人々の動物的な直感をも動員して未来をみる目を確保していくという作業の性格からいっても、ここでは「予知」という言葉が必要だと思う。「予測」という言葉でよいという一部の意見は、ようするに災害科学の全体を考えない。それは別の人の仕事と思っているということにならないかというのが心配である。私は、「予知」という言葉を非常にピンポイントな予測についてのみ、実際上、警報と同じような意味で使うブループリントの用語法には賛成できない。しかし、自然科学的な予測のみでなく、災害科学全体で、未解明の部分に取り組んでいこうという意味で、広い意味で「予知」という言葉を使うことは必要だと思う。
 峰岸純夫さんの仕事は平安鎌倉室町の時代を通して、はじめて災害史を構想し、研究を実践し、考古学との交流を作り出してきたことにあると思う。
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学術会議での11月16日に「地殻災害の軽減と学術教育」というテーマでもたれるが、この「地殻災害」という言葉も峰岸さんの作った言葉である。それにふれた今年3月の東京の歴教協での私の講演の一部を下記に引用しておきます(全文は『東京の歴史教育』42号、2013年8月)


 今回の東日本太平洋岸地震と原発震災の複合という事態の中で、今、どういう教材研究が必要なのか、そして小・中・高・大学でどういうカリキュラムを系統的につくっていくべきなのかということを、みなさん、御考えなのではないかと思います。問題はたしかにきわめて大きく、私は、歴史の研究者としても、それに対応して、基本的な部分から考えなおしていくべきことが多いのではないかと思います。
 まず御紹介したいのは最近の『歴史学研究』(2013年3月号)にのった峰岸純夫さんの「自然災害史研究の射程」という論文です。峰岸さんはたんたんと書かれているのですが、それを読んでいると、端的にいえば自然史を本格的に歴史学の研究と教育の中に組み込んでいくことの重要性を改めて認識させられます。とくに私はいま地震学や災害論の研究者と議論する機会が多いのですが、彼らと話して、この論文で重大だと思ったのは、峰岸さんが、自然災害を(1)気象災害(a風水害、b干ばつ・冷害、)、(2)地殻災害(a地震・津波、b火山爆発、)、(3)虫・鳥獣害(a昆虫の大量発生、b鳥獣の作物荒らし)と区分していることです。とくに(2)の地殻災害という言葉は、峰岸さんは「日本列島の地殻構造に起因する地震・津波・火山爆発などである」と説明されていますが、災害研究のキーワードの一つになるのではないかと感じています。ヨーロッパの災害研究では、災害はMeteorological Hazards Geological Hazards Biological Hazardsの三つに分類されているということですが、峰岸さんは、それとは独立に同じ結論に達したようです。このうち、二番目のGeological Hazardsというのは地質災害とも訳せるかもしれませんが、地殻災害という訳は新鮮だというのが災害研究の方の意見でした。
 ただ、三番目の虫・鳥獣害というのは、もっと広くBiological hazards、つまり直訳すれば生態災害とでもいうのがよいのではないかと思います。いま鳥インフルエンザのパンデミック(世界流行)の危険が問題となっていますが、これもある意味での鳥獣害ですが、生態系の攪乱からくる災害という広い意味で分類した方がよいように思います。
 話のはじめに、なぜ、この災害の三類型について御紹介したかといいますと、実は、今日お話しする奈良時代から平安時代は、温暖化、地震・噴火、そしてパンデミックがまさに日本の歴史上、最初に一緒にやってきた時代だからです。地震・噴火などの地殻災害は、そのような人間と自然との関係の歴史全体の中で分析する必要があります。
 (以下略)
なお、学術会議のフォーラムのポスターの趣旨文は、次のようになっている。


 東日本大震災の後、地震学・火山学を中心とした自然科学分野と実学としての人文社会科学の連携が強くのぞまれている。そこで地震学、火山学、地 質学、地理学、歴史学(文献・考古)、防災研究などの諸分野が集まって、状況を報告しあい、地殻災害の予知・予測・警告や情報管理のあり方、防 災・地学教育のあり方、歴史地震・噴火の研究など多様な問題を討議することとした。なお、科学技術学術審議会測地学分科会より、来年度から5年間 の地震火山観測研究計画(中間まとめ)が発表されている。この計画も地震学を災害科学の一環ととらえ、文理融合研究を強調するものとなっており、 その趣旨も討議の対象となる。現在、地殻災害をめぐって、学術の鼎の軽重が問われている。文理の連携と融合の実現をめざす、このフォーラムに多くの方々の参加をお願いした い。

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