日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
『日本研究』五五集。日文研編集、20175,31
要約
日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において八世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。問題は、それが論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。それはまた梅原が鈴木が日本仏教を無前提に禅と真宗を中心に捉えているという批判にも通ずるものであるように見える。残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しを必要としていることを示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。
鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。
日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
二〇一一年三月一一日の陸奥沖海溝地震の後、地震・火山史の研究にとりくむようになった歴史家は多い。たしかに歴史家には、この国の地震・噴火について調査し、それを伝える職能的な義務があるだろう。私も、そのように考えて八・九世紀の地震と噴火の史料を読み、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、■■■年)という本を書いた。その条件となったのは、ちょうど、三・一一の前年に私は『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書、二〇一〇年)という本を書く中で、かぐや姫は火山の女神であるという見通しをえて、その関係で地震・火山について基礎勉強をし、この時代には多数の地震・火山史料がありながら殆ど研究がないことを知ったことであった。
意外であったのは、『かぐや姫と王権神話』と『歴史のなかの大地動乱』を執筆したことによって倭国神話には地震・火山神話というべき側面があるのを知ったことで、そこからすると、八・九世紀は厳密にはまだ神話時代の要素が続いており、それが八世紀以降の怨霊の盛行の原点であったという見通しをえたことであった。こうして私は神話論の研究が現代に結びついていることを知った。いまさらということであろうが、私にも、それが日本文化の歴史的研究にとって緊要な位置にあることが徐々に見えてきたのである。
さて、その中で私は哲学の梅原猛の仕事を検討せざるをえなくなった。以下は、その状況の簡単な報告であり、その第一は梅原の論文「神々の流竄」(『梅原猛著作集』第八巻)についてのノート、第二にはやはり梅原の論文「日本文化論への批判的考察」(『梅原猛著作集』第三巻)へのノートとなる。そして、その上で、第三に「日本文化論」について戦前の戸坂潤にまでさかのぼって考えるところを述べ、第四にそれらの関係で、神道と老荘思想についてもふれたいと思う。論点は多岐にわたり、実際のところ私のキャパシティでは無理な部分も多いが、その点は御許し願うこととしたい。
1論文「神々の流竄」について
「神々の流竄」は一九七〇年に季刊誌『すばる』に「日本精神の系譜」という題のもとに連載されたもので、その第一回、第二回にあたる。なお第三回から第五回までが『隠された十字架』としてまとめられ、さらに『水底の歌』もこの連載論文から生まれたということだから、この論文は著者が日本精神史に取り組むにあたっての最初の跳躍台のような位置にあったことが分かるだろう。
この論文の趣旨は明瞭であって、第一は奈良王朝が打ち出した神祇宗教は王家の祖先神アマテラスヲ中心とした国家神道であり、中臣氏によって新たに作られたもので、「遷却崇神」「大祓」祝詞などの詞章に明らかなように、豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であった。この神道は従来の古墳の示す道教的な永世の生命の祭祀や、さらにさかのぼって、銅鐸の示す地霊の祭りなどとは大きく異なる神道であったという。そして第二には、このような新たな国家神道とそれに対応する神話の創造の背後には中臣氏と藤原氏、とくに元明天皇と深い関係をもっていた藤原不比等がいた。とくに梅原は『古事記』の語り手とされる稗田阿礼とは実は不比等のことであったとまでいって『古事記』の編纂には不比等が深く関わっていたという。梅原は、これによって「藤原氏がどうして権力の座に登ったか」が説明できるとしたのである。さらに第三に、梅原は神話論自体についても重要な問題提起をする。オオクニヌシやその同名異体とされるオオモノヌシは出雲の神ではなく大和の神である以上、ここには神話の作り直しがあることになる。それは右の「ミソギとハライ」の神道によって大和の神であったオオクニヌシが出雲に追われ、出雲大社が奈良時代に創建されるのと前後して作り出されたものであるというのである。
私は、これらの梅原の見解には相当の説得力があると考える。まず第一点については「ミソギとハライ」を道具とする国家神道が他の神々への攻撃性をもっており、王権による刑罰権の主張を含むものであるというのが重要だろう。とくに「遷却崇神」の祝詞についての解釈などは詳細な検討を必要としているように思う。私も、このようなイデオロギーは悠久の昔からあった神道思想というものではないと思う。もちろん、禊ぎ・祓えの風習は八世紀以前も存在したことはいうまでもないが、梅原もいうように、それは臨時的・民俗的なものにとどまっていたろう。梅原が本居宣長が神道をこの型にはめて理解する図式をつくったのだと批判するのも重要である。この指摘は梅原の『日本学事始』の「怨霊と鎮魂の思想」ではより鋭い国家イデオロギー批判として定式化されている。現在でも歴史学のなかには神道そのものの成立を一二世紀以降にまで降ろしてしまう見解があるが、私は、この段階での神道の歴史的性格の変化を強調する梅原の見解に賛成である。
第二の『古事記』編纂における藤原不比等の主導性という問題提起についても「古代史」家は賛同しないが、私は賛成である。梅原は『続日本紀』に『古事記』編纂の記事がまったくないこと、さらに『日本書紀』編纂についても舎人親王の編修という二十七字の短文(「先是、一品舍人親王奉勅、修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷」『続日本紀』養老四年五月廿一日)があるのみで十分な記事が存在しないことを不可思議とする。これを明瞭に断言したことの意味は大きいのではないだろうか。しかし残念ながら、その具体的な論述や論証の仕方については、私見は大きく異なっている。まず梅原の「稗田阿礼とは実は不比等である」という主張は、後に梅原の『葬られた王朝』で「不完全な論証」であったとされ、若干の追加的な考証が行われているが、それでも歴史学的な論証の通則からいえば率直にいって無謀というほかないものである。私は、不比等が『古事記』編纂を主導したのではないかという梅原の洞察は、このような無理をせず蓋然性の指摘にとどめておいても十分に説得的であると思う。
また、梅原が、不比等が『日本書紀』の編纂にも深く関わったということにも疑問がある。梅原が『日本書紀』編纂について二十七字の短文しかないことを不可思議としたこと自体は了解できるが、不比等が参加していたとすれば、不比等は責任者の舎人親王の下に参加していたことになる。しかし、これは『日本書紀』編纂が完成した養老四年(七二〇年)には舎人親王は四五歳、不比等は六二歳であるという年齢からしても、不比等の実際の地位からしても考えにくいように思う。むしろ私は、もう一人の王族として長屋王が参加していたと考えたい。この時、長屋王は三七歳、大納言で儒教・道教に通じていたことはよく知られるから、ある段階で編纂メンバーに参加していたことは十分に考えられる。長屋王は後に反乱を問われて自死しているから、そのために記事が短文になったのではないだろうか。これは現在のところ、論証不能の蓋然性の指摘にすぎないが、『古事記』=不比等、『日本書紀』=長屋王という対峙の図式があったとすると、きわめて面白い問題となるように思う。
そもそも大事なのは、梅原が、これに関わって「藤原氏がどうして権力の座に登ったかがよく分からない」という疑問を立てたことである。ただ、それが梅原によってよく答えられたかと言えば、残念ながらそうとはいえない。梅原は、それを結局、中臣氏的な宗教性を踏み台にしつつ、巨大な虚構としての神々の争いを組織し、そのなかで律令制的諸制度を構築したと説明する。しかし、これは藤原氏についての通説的なイメージと異ならない。私見は、藤原氏が「権力の座に登った」理由については、不比等が実は天智天皇の王子であるという伝承を重視するものである(保立『かぐや姫と王権神話』)。たとえば『公卿補任』の不比等の項目に「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大織冠鎌足の二男(一名史、母車持国子君の女、與志古娘也、車持夫人)」とあるのは無下に捨てるべき史料ではない。
この私見は、梅原説と同様に歴史学界ではまったく賛同がないが、梅原が元明天皇と不比等の身体的関係を想定するのに比較すれば無理は少ないと考えている。この私説についてはもう少し丁寧な説明を必要としているが、ここでは、八世紀における藤原氏の地位は七世紀後半には一般的であった皇親制の延長として捉えることができるという大枠だけを述べておきたい。
なおよく知られているように、これらの見解は、梅原個人のものというよりも、梅原と上山春平の討論のなかで成熟したものであり、上山は、それを前提にして平城京のプランに宇奈太理坐高御魂(たかみむすひ)神社が大きく影響したなどの重要な見解を提出している。その意味では、これらの問題は、梅原=上山説の全体の評価を必要としていることは確認しておきたい。
さて、第三の神話論に関する梅原の問題提起は、右に紹介したように二つの内容をもっている。それはオオクニヌシが本来は大和の神であったという主張と、出雲大社の創建と同時に、「ミソギとハライ」の神道によって大和の神であったオオクニヌシが出雲に追われ、それと同時に、オオクニヌシ神話が出雲神話として語り直されたという主張の二つである。
このうち前者については、歴史学の側でも相似した意見がある。まずは田中卓「古代出雲攷」(初刊一九五四年。後に『田中卓著作集』第二巻、国書刊行会、所収)には「葦原中国の支配者は大己貴神とされ、その勢力範囲は少なくとも近畿一円を含み、中心が畿内の如く考えられる」とあり、石母田正「日本神話と歴史」(初刊一九五九年、『石母田正著作集』第十巻、岩波書店)も「この神の出自、その本拠は畿内とその周辺にあったとみられ、この神が出雲の杵築宮に祀られたのは畿内勢力による出雲の制服を契機としたものと考えられる」としている。田中が詳細に示しているように大己貴=オオクニヌシについての文献史料を総覧すれば、この神が大和を中心とする畿内地域の神であることは疑うことはできないのである。それ故に、梅原の主張の第三についても、少なくともその前半については重要な先行論文もあり、歴史学の立場からすると、その意味でも了解できるということになる。
問題は梅原の主張の後半部になるが、梅原は、右の田中の見解がおもに氏族の移住のみを述べているとして「むしろ記紀の制作の中心目的は神々の移住である」と主張している。梅原の見解は、右の石母田の見解の後半傍点部、「この神が出雲の杵築宮に祀られたのは畿内勢力による出雲の制服を契機としたものと考えられる」と相似するものということができるだろう。相違は石母田が『古事記』の出雲神話の成立を六五九年(斉明五)の出雲大社修造から壬申の乱前後の事情に引きつけるのに対して、梅原が、それよりも遅く藤原不比等の営為にひきつけて考えるということに局限される。
また、これについては、最近、村井康彦が『出雲と大和』(岩波新書)で新たな問題提起をしている。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、石母田が注目した五九年(斉明五)の杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鵜野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発することができたというのは有名な物語である。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。
この村井の議論は、村井自身がどう考えているかは別として、石母田の議論を『古事記』成立の時期や過程の推測をふくめて、受け継いだものである(参照保立「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」)。私のいう母子王朝(斉明ー天智・天武)の家系的経験が『古事記』における出雲の扱いの原点に存在するという村井の指摘は鉄案というべきものであろう。とくに研究史的にいえば、村井の指摘が村井の独自な邪馬台国論をふまえたものであると同時に、明らかに梅原・上山の神話論的研究の影響をうけていることは注目すべきことである。私は、どちらかといえば、『古事記』の成立は、母子王朝の経験が持統ー元明などの女王たちと不比等のサークルの中での熟成を経ていると考えるので、少なくとも結果としては梅原の理解に近い立場をとりたいが、これについて、ここで本格的に詰める用意はない。
以上、論文「神々の流竄」において梅原の主張した三つの点について順に検討を加えてきたが、哲学畑からの発想で導き出された梅原の見解が歴史学畑からみても響きあえるものであることを確認できたように思う。ただそれだけに率直に言うべきなのは、梅原が石母田の仕事を知らないままに『神々の流竄』を執筆したことが、大きな行き違いをもたらしたことである。おそらく梅原には、歴史学、とくにいわゆる戦後派歴史学は津田左右吉の議論をそのまま繰り返しているという先入観があったのであろう。また歴史学の側にも、右にふれた梅原の「稗田阿礼とは実は不比等である」というような論証の仕方、さらには『隠された十字架』で繰り返されたような議論の仕方に対する一種の職業的な反発があった。しかし、梅原(と上山)の問題提起には、それらを超えて議論に応ずべき内容があったことは明らかであり、学術としては、それには何をおいても対応すべきであったと思う。
残念であったのは、石母田がちょうど「神々の流竄」が発表されたころ、一九七一年一月『日本の古代国家』発刊、一九七三年五月『日本古代国家論第一部』発刊、同六月『日本古代国家論第二部』発刊とインテンシヴな作業で余裕のない時期にあったことである。石母田は、ようやくそれが終わり、右の論文「日本神話と歴史」をもおさめた『日本古代国家論第二部』の「あとがき」を記したとき、折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで、第二次大戦の終戦直後に集中して研究した神話論に立ち戻ると宣言している。しかし、「古代史家」にはよく知られているように、そのしばらく後の一一月には発病して仕事が不可能になり、その構想と仕事が具体化することはなかったのである。私は、もし、この仕事が世に出れば、梅原・上山の仕事との接点において活発な論争が行われることになったと思う。それが行われなかったことは第二次大戦後の歴史学にとってきわめて残念な経過であった。
現在、すでに研究の季節は変わり、とくに出雲荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡からの大量の銅鐸・銅剣の発見、纏向遺跡と前方後円墳形成過程の精査などによって新たな研究仮説が望まれる時期となっている。これに対応して、梅原は『神々の流竄』を自己批判した著書『葬られた王朝』を発刊し、弥生時代の銅鐸文化の原拠地域は出雲にあり、そこに朝鮮からの渡来人を中核として形成された王権が畿内を征服したという壮大な仮説を提出するにいたっている。これも大枠としては有力な仮説ではないだろうか。
私は前記の『かぐや姫と王権神話』において、有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程を日本海ルートとし、投馬国(出雲)よりの「水行十日」によって丹後半島に到達し、由良川をさかのぼって、「陸行一月」、ほとんど全行程、平坦な道を通って、大阪平野から、大和に到達したという、小路田泰直が示した魅力的な見解に賛成して、これは邪馬台国の中心領域が丹後から大和に広がっていたことを示すものだと論じた。そして、その丹後―大和ルートで活動が推定される女神たちが大和の入り口地域に宿ったのが広瀬神社のワカウカ姫であり、この女神がかぐや姫に転形していったのだという試論を提出した。村井康彦の『出雲と大和』も相似したルートを想定した。もし、そうだとすると、邪馬台国段階では出雲と邪馬台国は区別されていたことになるが、それは出雲に対する邪馬台国地域の反抗あるいは自立を意味するのではないだろうか。邪馬台国において銅鐸の破砕が知られていることは、そのような状況を示すもののようにも思える。
もちろん、出雲王朝説の当否をふくめて、結論の向かう方向は明らかではないが、しかし、今後、研究状況を一新する論争が展開することが期待されるところである。そして、その際は、梅原・上山説をめぐる様々な議論の経過を各分野において十分に総括することが必要であろう。
2論文「日本文化論への批判的考察」について
この論文は一九六六年八月の『展望』に掲載されたもので、禅学の鈴木大拙と哲学の和辻哲郎の「日本文化論」への鋭い批判である。この論文「日本文化論への批判的考察」は、後の梅原の述懐によれば「日本文化ないし日本思想の研究を一生の大きな課題と決めた私の処女作に等しいもの」であった。たしかに梅原の仕事は、『神々の流竄』『隠された十字架』『水底の歌』の三部作を除くと、この論文に発するものが多い。
現在では、鈴木の仕事も、和辻の仕事も若い世代には、あるいは縁遠いものかもしれないが、この論文がだされたころには二人の仕事はまだ大きな影響をもっていた。梅原は、「彼らの日本文化論が影響力のみでなく内容的にももっとも優れたものである」、しかし、「われわれはこれらを無批判に受け入れることは出来ない。鈴木も和辻も大体戦前の思想家である。戦前に出来上がった日本文化論を金科玉条として採用するとき、戦後の歴史はどこへ行ってしまうのか」「日本がヨーロッパから学んだものは、科学技術文明であるばかりか。同時に植民地侵略の思想でもあった。このような『日本歴史』の方向は、昭和二十年(一九四五)で、一応のピリオドを打ったはずである」「かっての日本帝国の在り方にそって、かっての日本文化論がたてられたとすれば、新しい日本国家の在り方にふさわしい新しい日本文化論が必要であろう」と論ずる。
ここでは、私の準備および論述の関係で鈴木に対する論述についてのみ検討するが、この梅原の論文はもっぱら賛嘆に取り巻かれていた鈴木大拙に対するはじめての果敢な批判であった。梅原が取り上げたのは鈴木の『禅と日本文化』(岩波新書)と『日本的霊性』(岩波文庫)の二冊。どちらも鈴木の『禅とは何か』などの禅の入門書とともに非常に広く読まれていたものであった。まず『禅と日本文化』は、英文で発表されたのが一九三八年(日本語では、その二年後)、美術・剣・茶道・俳句などにふれて禅が日本文化にあたえた影響を強調し、禅が日本人が自然界の一切のものを一様に生命はあるという感情を敏感にし哲学的・宗教的素養をあたえたという。鈴木はこの主張を達意の文章で説明している。
つまり、自然的な感情を敏感にして哲学的・宗教的なものにすると同時にそれを生活文化のなかに浸透させたのは禅宗のみであるというのであるが、これに対してしばらく遅れて一九四四年に出版された『日本的霊性』においては、同じ問題が「日本的霊性」が鎌倉時代に禅宗と真宗において、禅宗は知性、真宗は情性の側面を中心にして自覚されたと繰り返されている。「日本的霊性」という言葉はわかりにくいが、鈴木のいう霊性とは私なりに説明すれば、人間の類的な性格としての宗教性というようなことで、しかも鈴木は、それをインド的な超越性、中国的な実証性、日本的な自然性の統合であって、日本において仏教は人間の個人生活と大地に即したもの、大地的霊性というべきものになりえたのだという。これが、『禅と日本文化』における禅宗が自然に対する生命的な見方と生活文化の基礎となったという見方を別の形で繰り返したものであることは明らかであろう。
興味深いのは、後者では禅宗は知性、真宗は情性という形で、真宗に対する高い評価が付け加えられていることで、これは「日本的霊性」が長い時間をかけて、鎌倉時代になってはじめて成熟し目覚めたのだという日本宗教史・精神史の段階論と重なる形で提示されたのである。ここには、禅宗と真宗こそを近代的個人にも理解しうる宗教であるとする「日本近代」の知識人に共通する心的あるいは思想的な姿勢を発見できるだろう。このような日本の宗教をいわゆる鎌倉期新仏教に局限してしまう態度は一種の近代主義であることは否定できない。私は、それは歴史の段階論からいけば、明治以降、知識人世界に共有されていた鎌倉時代以降を「封建制」と理解する図式にもつらなっていくものであるように思う。
梅原は、これは日本人の自然観と宗教についての正確な認識に欠け、実際上あまりに禅に偏った説明であるという。たしかに、鈴木が天台の哲学は抽象煩瑣にすぎ、真言の典儀は費用がかかりすぎ、日蓮宗や真宗は(親鸞の和讃などを除いては)は芸術的・文化的刺激を与えなかったといい、「禅以外の仏教各派が日本文化に及ぼした影響の範囲は、殆ど日本人の生活の宗教的方面に限られたようだが、独り禅は此範囲を逸脱した」と断言していることはいいすぎだろう(『禅と日本文化』)。梅原が「彼はまず禅に興味をもったが、後に大谷大学に就任した彼は、浄土教、特に浄土真宗に興味をもった。日本的霊性は、彼の興味の範囲の中においてのみ目覚めるかのごとくである」と痛烈に批判するのももっともなところがある。やや長くなるが梅原の説くところを下記に引用する。
神道のなかに暗に含まれるこのような存在論は、大乗仏教の中に含まれる「山川草木、悉有仏性」という存在論と結びつくものであった。このような存在論をもとにして、神道の地盤に仏教がそのまま移入され、日本人の自然愛は神道から仏教にそのまま受け継がれるのである。日本的仏教としての最初の独創的試みであった空海(七七四-八三五)の真言密教が、結局自然の神である大日如来をその信仰の本体としていることを深く考えてみる必要があろう。こうして自然愛は、神道から仏教に引きつがれるけれど、何を美とするか、何を浄とするかという価値評価の上で多少の変化があった。神道において、清潔で簡素な美を尊んだ日本人は、密教によって、絢爛にして陰影多き美を美とすることをおぼえた。奈良時代と平安時代、万葉集と『古今集』の美意識の違いは、このような神道と密教の自然観の違いに帰せられると言ってよいかも知れない。そして、平安時代の半ばごろより浄土宗が起り、美を想像の浄土の世界に求める自然観が日本を支配した。そして、さらに、禅が単色にしてしかも無限に複雑な自然観を日本人に教えた。密教や浄土教のけばけばしい色のあでやかな世界に対して、墨一色で塗りつぶされた禅の世界、それは日本人の自然観における、ふたたび簡素単純なるものへと帰ろうとする運動であったかも知れない。
梅原は日本精神史の研究に仏教史から入っており、梅原が様々な宗教が重なっていった歴史の全体をみなければならないというのは当然のことであったろう。とくに天台の哲学や真言の典儀を切り捨てるかのような鈴木の議論は「深い心の分析を行い日本人に心の何たるかを教えた唯識の思想、あるいは生命の秘かで微妙な知恵を語る密教の思想」を無視するものだというのはうなづけることである。日本の宗教をいわゆる鎌倉期の新仏教にのみ局限してとらえる近代主義的な態度に対する批判は、私は黒田俊雄にも共通するものであると感じる。
さらに重要なのは、鈴木の禅宗理解が偏頗であることを強調する理由が、第二次世界大戦における宗教者の行動にあったことである。つまり、梅原は第二次大戦の末期に書かれた『日本的霊性』が「当時としては多少大胆国粋主義批判の意義を含んでいた。そして当時書かれた日本精神論のほとんどは、便乗主義の産物にすぎず今日全く一読するに足りないが、鈴木の日本的霊性論は、深い宗教的精神が宿っていて、今日もなおわれわれにある精神的反省をあたえる」ことを認める。しかし、その上で、「(第二次世界大戦の)歴史的状況にあって、死の決意を説く禅は、消極的ではあるがやはり戦争協力の宗教になりつつあったのである。鈴木が(『禅と日本文化』において)『禅と武士』『禅と剣道』の二章を『禅と美術』の章の次ぎにおき、はなはだ重視しているのは。彼の思想が明治以来の日本がとらざるをえなかった軍国主義的方向にそったものであることを物語る」と鈴木を批判するのは、梅原の痛切な世代的体験によるのである。これも長くなるが、引用する。
鈴木の本を持って多くの若者は望まざる死についたのである。この戦争によって死ぬということに意義を認めることができなかった若者たちは、せめて禅によって自己の心に死を用意しようとしたのである。多くの知的にすぐれた青年たちが鈴木の唱える禅的念仏によって成仏しようとしたが、私には彼らが安らかに成仏したように思われない。私にはせめて戦後の鈴木に、戦争中の多くの青年の望まざる死のための念仏の説法者の役割をしたという痛烈な自己反省の言葉がほしいと思うのである。
私は『禅と日本文化』は別として、鈴木の『日本的霊性』には、鈴木の仏教史の全体的な理解が凝縮された形で示されており、「霊性」というものの理解をふくめて容易な批判を許さないものがあると思う。これは梅原も認める通りである。しかし、鈴木の禅宗を中心とした「日本文化論」、日本的霊性の議論は、たしかに第二次世界大戦における宗教者の行動という問題の全体を背景として、日本思想史における宗教の位置という問題に関わって厳しく問われざるをえないと思う。
藤岡大拙はこの梅原の論文「日本文化論への批判的考察」について、やはり「大拙に対する批判らしき批判は、まさに梅原がはじめてであろう。大拙に関心をもつものには強い印象を与えた。特に、とらえどころのない無体系の大拙の思想に、漠然とした不満をもちながら、その不満をはっきりとした形に、まとめられない者にとって、一種の爽快感すら感じさせるほど鮮やかなものであった。しかもこの論文の発表直後、七月十二日大拙は九十五年の生涯を閉じたから、いっそうドラマティックな印象を与えた」として、梅原の禅僧の戦争責任、鈴木の戦争責任という問題提起に共感するとしている(藤岡「鈴木大拙」一九六八年に『日本名僧列伝』現代教養文庫に発表。後に、藤岡『出雲学への軌跡』今井書店、二〇一三年に所収)。
ここで梅原の和辻批判にふれる余裕はないが、梅原の日本文化論批判の位置は大きかったというべきであろう。著作集にまとめられた梅原の業績はあまりに多様であるから、この批判の筋を追うことは困難であるが、近年の円空に関する著作にいたるまで、梅原が、この論文「日本文化論への批判的考察」になんらかの形で関係する仕事をしていることは驚嘆にあたいする。日本文化論への批判的考察はそれだけの広さを必要とするのであろうと思う。
3日本文化論と「神道」「固有信仰」
視点を「日本文化論」なるもの自体に移動して、その視角から問題を照射することとするが、梅原の仕事に対して、歴史学の側における「日本文化論」を代表するのは、石母田の講演記録「歴史学と『日本人論』」であろう(岩波文化講演会、一九七三年六月、『石母田正著作集』八巻所収)。石母田は、この講演で日本文化論的な思考方法への傾斜をみせる丸山真男の「歴史意識の古層」(初刊一九七二年、後に『忠誠と反逆』筑摩書房所収。なお、丸山の議論については安丸良夫による批判が参考になる。参照、保立「安丸史学の方法と神話研究」『現代思想』二〇一六年九月臨時増刊号)という論文に対しての批判を試みようとした。しかし、前述のように、石母田は、その直後に身体の調子をくずして、その日本文化論は講演記録のままに終わってしまった。ここでも石母田と梅原は行き違いになってしまったといえるだろう。私は、こういう経過のなかで、この日本文化論への批判的考察という問題は私たちの歴史学にとってまだ解かれていない問題となっていると考える。
ここであらためて確認しなければならないのは、そもそも「日本文化論」という問題の設定の仕方自体をどのように考えるべきなのかということであろう。そしてこれについて歴史学において示唆的なものとされていたのは戸坂潤の『日本イデオロギー論』であったと思う(『戸坂潤全集』第二巻、頸草書房)。戸坂は、「日本的なるもの」が存在することは当然としながら、問題はそれを他の普遍的な諸原理によって説明することであって、それを他のものの説明原理として担ぎ上げることは一つの「日本主義」であって、科学でも学術でもないとしたのである。戸坂は、その具体例として和辻哲郎、西田幾多郎、紀平正美などを上げている。梅原のいうようにそこには鈴木大拙も加えられるべきであろう。
ここで戸坂の見解を詳しく紹介する介する余裕はないので上記の指摘をふくむ一節を引用しておきたい。
具体的な現実物が、それぞれ自分の特殊性ないし独自性を持っていることは当たり前である。日本という国家・民族・人類(?)が経済上・政治上・文化上・世界の他の諸国家・諸民族・諸人種に対して、又世界の総体に対して、特殊性ないし独自性を持っていることは、当たり前である。(中略)
日本的なものの検出、日本の特殊事情の強調といっても、二つの全く相反した動機と興味から問題になることが出来る訳で、日本的なものに特殊な興味を示すことが、それだけでは決して保守的でも反動的でもなく、却って具体的に進歩的であることを意味すべき場合があるのはあまりに判りきったことだろう。だがそうだからと云って、自分の動機を識別することなしに単純に、日本的なものに特殊な力点を置くということが、保守的でも反動的でもなく却ってザハリッヒで忠実な研究態度又は認識態度だ、ということにならぬ。「日本的なるもの」が、他のものの説明原理として担ぎ上げられる場合と、それが他の諸原理によって説明されるべき具体的課題として提出される場合とでは、条件は全く相反しているのである(傍点筆者。仮名遣いなどは直した)。
なお、歴史学の分野で、戸坂の『日本イデオロギー論』の重要性を最初に指摘したのは、おそらく河音能平と黒田紘一郎であろう。一九七〇年三月七日に行われた日本史研究会七〇年代問題特別委員会の研究会において黒田は「戸坂潤『日本イデオロギー論』について」、河音は「日本ブルジョア民族主義の岩盤」という報告を行っている。二人の報告は両者とも戸坂を論じたもので関係していることは明らかである。梅原論文が一九六六年、河音・黒田の報告が一九七〇年、丸山の「歴史意識の古層」が一九七二年、石母田の講演が一九七三年であったということは、一九六〇年代から一九七〇年代が日本文化論をめぐる最初の議論の時期であったということを示すのであろうか。
残念ながら、この河音と黒田の報告は活字化されなかったが、しかし、この研究会は、一九七〇年四月に、日本史研究会・歴史科学協議会・歴史学研究会・歴史教育者協議会のいわゆる四者協の共催で行われた「安保廃棄・沖縄返還要求四月集会」への準備報告として行われたものであったため、幸い、その内容がこの集会における藤井松一の報告の第五節「日本ブルジョア民族主義の岩盤としての日本文化論」に反映されている(『七〇年代の歴史認識と歴史学の課題』、青木書店、一九七〇)。それによれば、二人は和辻のほか、津田左右吉と柳田国男の名前などを「日本文化論者」として追加的な検討をしているが、そこでは、ほぼ戸坂の議論をそのまま敷衍しているようにみえる。その意図は多とすべきものがあると考えるが、ただ私には、思想弾圧の激しかった第二次世界大戦と天皇制ファシズムの時代の戸坂の議論を、そのまま敷衍すべきかどうかについて若干の疑義がある。
つまり、これらの人々、とくに津田左右吉・柳田国男・鈴木大拙などは日本の歴史学にとって大事な先行者である。歴史学は、彼らの仕事において「日本文化論」とすべき側面には注意しなければならないが、「日本文化論」的な偏向は程度の差はあれ、どのような研究者の方法にも忍び寄るものではないだろうか。そもそも、「日本文化論」というものを「日本の文化について論ずる仕事」という意味で使う場合には、それは何の問題もない。津田らの学問が示唆するものはいまでも大きく、現在の危険はむしろ、戸坂のいうザハリッヒで忠実な研究態度に自信過剰となり、先輩の仕事を、それが歴史のなかで負った「日本文化論」的な雰囲気を理由として最初から忌避することにあるようにも思う。
以上を前提として、今後、日本文化論の批判的検討を進める際に試金石となる問題を、しいて一つあげるとすれば、それは、結局、「神道」なるものをどう扱うかということではないかと思う。全体としてみた場合に、これまでの日本文化論批判を代表する梅原や石母田も、この問題をあつかう安定した方法を確保している訳ではない。たとえば、梅原は論文「日本文化論への批判的考察」において「人間や動植物ばかりか、山や川にすら生きた生命が宿り、世界はすべてこうした生きた生命から成り立っているという世界観が、日本人の世界観の根底にあった。(中略)神道のなかに暗に含まれるこのような存在論は、大乗仏教の中に含まれる「山川草木、悉有仏性」という存在論と結びつくものであった」と述べている。そして「『固有神道』覚え書き」(初刊一九六五年、『梅原猛著作集』第三巻)において、国家神道に対する明解でもっとも徹底的した批判を行い、国学的概念とは慎重に区別しつつも、これを「固有神道」と名づけ根付けている。また石母田は右にふれた講演で「(日本の歴史の基盤には)一つの共同体、あるいは神様なんかの神祇や神道をささえているところの共同体というものが一貫して存在するといってよろしいかと思うのですね。そういうふうな日本の固有の観念というものが、鎌倉仏教の親鸞とか道元とかいうような、ああいう非常に独自な超越者がでてきた場合にどう変わるであろうか。あるいは変わらなかったであろうかという問題があります」と述べている。
これは実際上、鈴木が「神社神道または古神道などと称えられているものは日本民族の原始的習俗の固定したもので霊性にはふれていない。日本的なものは余りあるほどであるが、霊性の光はまだそこからでていない」というのと大きな違いはないのではないだろうか。歴史の基底を探っていくと、結局、一種の「日本的な」基底信仰があるということでは、ここに「日本文化論」に通じかねないような方法的な曖昧さがあることは明らかである。梅原も石母田も、「日本文化論」批判を試みながら、結局、相似した枠組みを逃れられていないのではないだろうか。
現代の歴史家のなかで、このことをもっとも強く意識したのはおそらく黒田俊雄であろうか。しかし、黒田をもってしても、これは難問であり続けた。つまり、黒田は梅原・石母田その他の見解を超えて、その顕密体制論=権門体制論といわれる議論の中で、「民族宗教ないし習俗としての『神道』なるものを超歴史的に想定することの一面性と、それを基軸に構想された宗教史の全体構造の虚偽性」を明瞭に主張した(黒田「中世宗教史における神道の位置」『黒田俊雄著作集』第四巻)。黒田はまず顕密体制論の立場においては、九世紀から一五世紀くらいまでの「神道」は顕密仏教に付属するより世俗的な宗教・祈祷・儀礼・呪術の位置におかれていたに過ぎなかったとする。そして権門体制論の立場からは、顕密仏教の権門は、王権に集中して清浄の秩序を維持する神祇体系を擁護するという社会的・国家的役割をもつ権門であったと主張したのである。ここまでは宗教史的な組織論としても国家論としても正当であったと思う。
問題は、黒田が顕密体制の周縁に組織された神社をふくむ宗教諸形態に一定の自律性を認めること自体を拒否し、「神道」的な宗教・呪術的な観念体系には、そもそも仏教と相対的に区別される独自性が存在しないとしてしまうことである(黒田(俊)の議論についても丸山についてふれた前掲の「安丸史学の方法と神話研究」でふれたので三章願えれば幸いである)。つまり、黒田によれば、「神仏分離という国家権力による強制的・破壊的『矯正』以前には、むしろ日本人は単一のそれなりにまとまった宗教的思考体系ーー原始仏教ないし大乗仏教の理念や民族宗教の観点からはどう評価されようともーーを作り上げていた」ということになる(黒田同右論文)。しかし、これでは日本の精神史・宗教史において存在した、さまざまな歴史的な宗教体系を、事実上、それ以上は独自なものとして分析不能なような、つねに融合一体の姿をもつものと考えることになってしまう。これでは、仏教とも儒教ともいえないような宗教的な観念・祈祷・習俗が、それなりの独自の特徴と主張をもって実在したという問題そのものが消去されてしまう。
この矛盾は、相対的に早い時期の執筆された論文「中世国家と神国思想」(初刊一九五九年、『黒田俊雄著作集』第四巻)に明らかである。つまり、黒田は、そこにおいて「神話的な神々や霊物崇拝や呪術などは宗教思想や理論より以前からのより広範な存在であり」、「神祇崇拝の本質は、このような霊物崇拝や呪術的信仰にほかならない」「民衆は現世の物質的な苦楽から免れることはできず、したがって霊物崇拝や呪術は絶えず生み出されざるをえなかった」「(穀物の神、田の神などは)農民の共同体的祭祀にどこでもみられる神であり、生産と守護を祈るための素朴な信仰を基礎とする。かかる信仰は、前近代的・共同体的な生産構造を基礎とする社会ではつねに成立し存続するもので、したがって、古代以来の農村の『固有信仰』的なものではある」などとしている。厳しくいえば、黒田は、この「固有信仰」は習俗にすぎず、宗教史で扱わるべきものではないすることによって問題を消去しただけということになる。
以上がだ、日本文化論をめぐって、津田左右吉・柳田国男・鈴木大拙――戸坂潤――石母田正・梅原猛・黒田俊雄が探求してきた問題の構造についての私なりの整理である。
4「神道」と老荘思想
最近、いわゆる神仏習合について論じた北條勝貴は、この難しい問題について、そもそも「神道」の側に「『固有信仰』、『基層信仰』を自明化すること自体がナンセンスなのである」「習合現象の背景には、中国から連続する儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い、言説・心性・実体の交錯する豊饒な文化が広がっており、軽々に扱うことはできない」と断言して、おそらく今後の公準となる明解な解答をあたえた(北條「初期神仏習合と自然環境」『環境に挑む歴史学』勉誠出版、二〇一六年)。
日本における「神道」現象は、「固有信仰」の問題ではなく、最初から、東アジアにおける「儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い」の中で解くべき問題なのである。北條によれば、それは縄文時代から続く問題構造であり、そこでは「儒教・仏教・道教」という相互関係の枠組みそのものが流動的であるという。それは北條が注目した中国における癘鬼や、私も論じた日本における怨霊が(保立「火山信仰と前方後円墳」『環境に挑む歴史学』)、この「儒・仏・道(神)」のどれにも関わっていることに明らかである。
これが確認されれば、最近の東アジア仏教史の研究の進展のスピードからいって、遅くない時期に「日本文化と宗教」に関するまったく新たな歴史像が立ち上がってくるであろう。私は、その際に鍵となるのは、老荘思想と「神道」の関係であるのではないか、日本史の史料をおもに読む研究者も、日本の思想史上の事実と対比して『老子』『荘子』以下の原典に立ち入って自己の知識体系を組み直すことが必要なのではないかと思う。
たとえばまず指摘したいのは、『老子』の「清静」の思想と日本神道の清浄の観念との関係である。よく知られているように、道教はほぼ三世紀以降、仏教のインド的な清浄思想の影響をうけて「清浄」の観念を発展させ、物理的な清浄を尊重するニュアンスを強めた。しかし、全体としては老子の教えという意味での道教のいう「清静」は心的態度の意味をおもな内容としていたという。次ぎに『老子』第四五章を引用する。
大成(たいせい)は欠くるが若く、其の用は敝(つ)きず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(つた)なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静(せいせい)は天下の正たり)。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。
これはいうまでもなく、鈴木大拙の「大拙」号の由来となった章であるが、いちおう、大意を取っておくと「大成しているものは欠けるところがあるように見えるが、(その隙があるからこそ)その働きが尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるように見えるが、(その影があるからこそ)その働きは窮まることがない。長大な直線は曲がっており、本当に巧みなものは拙(つた)ないままのところを残しており、雄弁は訥々としているように聞こえる。動作を躁(さわが)しくすれば寒さは防げるが、静かにしていれば動かなくても熱さに勝つことはができる。こうして清静(せいせい)な心が世界の運動の中心にあることを発見する」ということになるだろうか。
私は、本章は有名なギリシャのソフィスト、ゼノンのアキレスと亀の話を背景に読むべきものであると思う。つまり「大盈(たいえい)は冲しきが若く」とは、満月にも必ず小さな影があるということだろう。月影はつねに動いている以上、満月に影のない状態というものは抽象的にしか考えられず、極小であれ、実際には影があるからこそ月に盈(み)ち虧(か)けがあるのだということだろう。そう解釈すれば、これまでやや問題のあった、後半の「躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ」への意味のつながりも、「躁」は運動、「静」は静止のことをいっているとして何の問題もない。違うのはゼノンの議論や右の月の盈(み)ち虧(か)けの場合は空間的な運動であるのに対して、ここでは人間の身体と心が対象になっていることであろう。またゼノンは、運動と静止の矛盾を語ったのであるが、老子は運動と静止の矛盾において本源的なのは静止であることを強調する点でも違っている。基本的にはヤスパースのいう「軸となった時代」における一致であるが、数学的な明解さという点ではゼノンが、哲学的ニュアンスの点では『老子』が勝っている(なお、最後の一句、「清静(せいせい)は天下の正たり」の「天下」は、普通、「国家=政治世界」の意味とされ、「天下の正」は「天下の首長=王」あるいは模範などの意味で解釈される。これは『老子』の通俗読みであって採用できない)。
この「清静」という語は、少なくとも『老子』が執筆され広まった春秋戦国時代の段階では、決して物理的あるいは衛生の意味での「清潔・清浄」ということではなかった。そもそも『老子』には「清」という文字の登場例は少なく、三例しかない。その一つが本章であるが、第二は「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く」という天を清澄とする三九章の例であって、宇宙論にかかわる「清」の観念である。そして第三が「谷間の水の濁流が清まわることを待つ」ように清濁を併せ呑むという心的な態度を示す一五章の例であって、この「清静」は自然の循環を熟視するなかで心のエネルギーを豊かにする態度というようなことであろう。いずれにせよ、これらには物理的衛生の意味はほとんど含まれていないのである。
しかし、七・八世紀日本においては道教・仏教の影響をうけた「清浄」の思想が、「ミソギと祓え」の思想として国家的な猛威をふるったのは梅原が強調したとおりである。この経過については拙著『かぐや姫と王権神話』で若干のことを述べたことがあるが、こういう中で、『老子』の「清静」の思想が、カースト的な浄穢の身分制に対応する神道の「清浄」の理屈に読み替えられるという事態が生まれたのである。つまり、右にふれた『老子』第三九章の「天は一を得て以て清く」というのは、宇宙論にかかわる「清」の観念である。ところが、これが伊勢神道を大成した度会家行の『類聚神祇本源』では「神を祭るコト、清浄ヲ先と為せ。我鎮(とこしなえ)に一を得るを以て念と為す也」という形で引用される。つまり、神を祭る勤めの「清浄」に転換されてしまっているのである。また高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開』(ぺりかん社、二〇一〇年)が指摘しているように、日本でもしばしば利用された『老子』の河上公注には、第一四章の注として「当にこれを受くるに静をもってし、これを求むるに神をもってすべし」とある。これは人間が道に悟入するには心を静寂にし、心の神明を働かせなければならないという内面的な意味であるが、それが伊勢神宮の経典に引用されると、「これを受くるに清浄をもってし」と変更されてしまうのである。「静」から「清浄」への変化である。
日本の神道が『老子』の「清静」の内面的倫理を受け止めなかったというのではない。神道の中には、それに対応する「物忌み」の心意が維持され続けていたと思う。日本の神道の地盤は、八世紀まで続いていた神話世界にあり、神話から引き継いだ「物忌み」の心意は神道の深層に持続していた。私は、そのような物忌みの思想は、日本社会において依然として重要な意味をもっていると考えている。しかし、文明の時代の到来とともに、日本の神道は「祭祀の礼務、潔にあり」などといわれるように、世俗的・身分的な「清浄」という国家的な儀礼秩序の守り手という役割をおうことになり、神社は都市的な場の空間のなかで伝染し、肥大化する穢を増幅し、キャッチする神経網のような役割を負うようになったのである。
これが神道を宗教的には仏教の下で、二次的・世俗的な位置に固定する、黒田(俊)のいう権門体制=顕密体制の基礎となった。これに対応して、王権的仏教は、「本地垂跡」、つまり仏教の神々こそが「本地」で日本神話の神々は、その神々が遠くまでやってきて「迹を垂れた」ものであるという理屈を作り出した。問題は、その際のキー範疇となった「和光同塵」という言葉もさかのぼれば『老子』から取られていたことである。次ぎに『老子』第五六章を引用する。
知る者は言わず、言う者は知らず。その孔(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざし、その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(どう)じ、その鋭どきを挫(くじ)き、その紛を解く。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎(うとん)ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。
知者不言、言者不知。塞其孔、閉其門、和其光、同其塵、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。
これもいちおう大意をとると「真理を知ったものが、それをすべて言葉にできるわけではない。また言葉にしてしまうと、それは真実ではなくなってしまう。人はまず目・耳などの感覚をふさぎ、その門を閉じて瞑想しなければならない。そして、受け入れてきた知識の光を熟成させ、塵のように細かな経験を肯(うべな)い、鋭く辛い経験の記憶、紛(むすぼ)れたコンプレックスをときほぐさねばならない。これを玄同、つまり奥深い合一という。そのように内面的なものである以上、真理の玄妙な力を得たからといって、それで人と親しくなるわけでも、よそよそしくなる訳でもない。それは利益や損害とまったく関係がない。また自分が貴くなったと感じたり、他者を賤しめるなどということとも無縁である。貴いかどうかなどというのは、自分ではなく世界が決めることだ」となる。
冒頭の「知る者は言わず、言う者は知らず」という一節は、しばしば「沈黙は美徳」という世俗的な意味で理解される。しかし、ここで老子が言っているのは認識における確知と言語表現の関係であろう。『老子』は、この確知と言語の隘路を「その孔(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざす」こと、つまり目をつぶり、感覚器官を閉じて自分の内面に入り込んで瞑想することによって透過せよという。
問題はそれに続く「その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(どう)じ、その鋭どきを挫(くじ)き、その紛を解く」という一節であるが、これは瞑想の中での心の風景である。「光を和(やわ)らげる」とは、知を外的なものでなく、人間の内面にともってそこを照らし出す微妙な光とすることであり、「塵」は過去の生活の中で蓄積された細かな経験である。瞑想は、その一つ一つに同化し追体験するのである。そして、続いて「挫鋭、解紛(鋭を挫(くじ)き、紛を解く)」といわれているのは、人間の内面に記憶として残っている辛い経験、コンプレックスになって絡まった経験をときほぐすということになろうか。老子は、そのような内的な認識の全体を「玄同」となずけている。
問題は、ここでは「和光同塵」という言葉が内面世界に関わって使用されているのに対して、『老子』四章ではむしろ外界に関わって使われていることである。詳しくは別に論じたいが、四章の「道は冲(むな)しけれども之を用いてまた盈たず。淵(えん)として万物の宗に似たり。其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず。湛(たん)として或いは存するに似たり。吾れ、誰の子なるかを知らず、帝の先に象(に)たり」、つまりこれも通釈しておくと、「道は空虚であるが、その空虚は満たすことができないような無限の大きさをもっている。この深淵から万物が生まれ出るのである。その動きは、天空の鋭く動く光や密集した光を分けほどき、遍満する光を和らげ、塵のように細かなものまで及んでいく。この淵は無限に奥深いようにみえる。さて、これを看取することができた私について振り返ってみると、私が誰の子であるかは知ることができないが、しかし人が謂う天帝などよりももっと前からいたのだ」という一節である。
古い時代の中国の人びとは、このように抽象的な言葉を使用して宇宙の様子を描き出すことを好んだ。たとえば、『淮南子』(要略篇)の天文篇は「陰陽の気を和し、日月の光を理(おさ)め、開塞の時を節し、星辰の行を列ねる」ことをテーマとしている(『同』要略篇)。『淮南子』(俶真篇)にも「陰陽錯合し、相い与に宇宙の間に優遊(ゆうゆう)競暢(きょうちょう)し、德を被り、和を含み、繽紛(ひんぷん)蘢蓯(ろうそう)し」などという表現が出る。後半の「德を被り、和を含み、繽紛(ひんぷん)蘢蓯(ろうそう)し」とは「エネルギーを含みハーモニーを抱きつつ、わらわらと群がり集まる」という意味である。ここにつかわれている「光」「和」「紛」などは『老子』本章に共通するものであろう。また「其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き」という句も、やはり満天の星空の観望を前提にして理解すべきものだろう。「鋭」は芒(きっさき、ほさき)という意味で、『説文』には「鋭、芒也」とあり、芒は光芒・星芒などの熟語が示すように、尖った光を意味する。『淮南子』(俶真篇)の「無」についての宇宙論的説明には「光耀に通ずる者(中略)、天地を包裹し、万物を陶冶して、混冥に大通し、深閎広大にして、外をなすべからず、毫を析(ほど)き、芒を剖(さ)きて,内をなすべからず」、つまり「虚無は天地を包み、万物を育むものであるが、混沌をつらぬいて深く広大であって、その外側はなく、また毫(ふでのほ)をほどき、尖った穂芒(ほさき)を裂くようにしても、その内側に入ることはできない」とある。「毫(ふでのほ)を析(ほど)き、芒(ほさき)を剖(さ)き」というのは「其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き」とよく似た表現である。具体的な夜空のイメージとしては、「鋭」とはオーロラなどの大気光学現象や、彗星・流星群などの鋭い動きを意味し、「紛」とは銀河のような星の密集を意味したのであろうか。
浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店、二〇〇六年)がいうように、この時代の中国には、今では忘れられたような多様な宇宙論があり、それをささえる天文観察もあった。彼らは見上げる満天の星も、形成され変化していくものと考えていたのであって、それを宇宙観・天体観にまだ広げていたのである。このように語るのは、あまりに現代的な宇宙観に引きつけすぎているかも知れない。しかし、老子のもっている宇宙論的な構想力のようなものは湯川秀樹やニールス・ボーアの言を引くまでもなく魅力的なものだと思う。そしてそういう構想力というものは、なかば時代を超えるものであるということも認めておいた方がよいのではないだろうか。
ようするに、福永光司『老子』(朝日出版社、一九九七年)の解釈にも明らかなように、「和光同塵」という言葉は一方では内面世界の描写として、他方では壮大な宇宙論として使われているのである。なお、そう考えた場合に興味深いのは、『老子』第四章ラストのフレーズの「天帝」という神観念で、これは中国の殷の時代から春秋時代にかけて、中国の中心地帯、いわゆる「中原」では大きな位置をもっていたが、『老子』の宇宙生成論のなかには位置づけられない言葉であるという(浅野前掲書)。そうだとすると、これについては長谷川如是閑が「いかにも儒教の上帝(天)絶対主義を踏み越えた詞で面白い」といっているのが的をいていることになるのではないだろうか(長谷川『老子』大東出版社、一九三六年)。禅宗でいう「仏にあえば仏を殺し、釈迦にあえば釈迦を殺す」と同じことであろう。内面世界と客観世界を「即一」とする世界観ともいえようか。
なお、さらに追加したいのは、『論語』(子路篇)の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という句との関係である。「世俗には和すが同じない」というのに対して、『老子』の「光に和して塵に同ずるのだ」という文節が見事な切り返しとなっていることである。老子は『論語』のように対人的な関係を「君子か、小人か」という形では裁断しない。老子は、あくまでも内面性にもとづく静かで平等な関係をイメージしているように思う。もしそうだとすると、これまでの「和光同塵」についての解釈、たとえば「知恵の鋭さを弱め、知恵によって起こる煩わしさを解きほぐし、知恵の光を和らげ、世の人びとに同化する」(蜂谷邦夫『老子』岩波文庫)などという解釈は、老子が世俗に妥協し、また結局のところ、知の光、ロゴスの光を軽視しているという判断に結びついていく。これは上記に述べたような第四章、第五六章の解釈とは合致しない。
問題は、前述のように、このような解釈が実はきわめて古くから「本地垂跡」の論理となっていたことである。つまり『国史大辞典』の「和光同塵」の項目で説明されているように「『老子』第四章で、道は、鋭いものを挫き、紛争を解決し、強い光を和らげ、身を塵と同じに置くと説く「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」の文に拠ったことば。中国の仏教書で用いられ、日本にもたらされたが、己の智徳才気の光を和らげ、隠し、世俗に随うという意味を、日本では特に、仏菩薩が、智恵の光を隠し、人々を救うために塵に交じり、日本の神祇として現われるという意味に解した」(大隅和雄執筆)。それはまさに知を隠し、世俗に妥協するという意味で使われていたのである。私は、これは日本宗教史における、いわばもっとも長きにわたる誤解であったと考える。
このように「清浄」「和光同塵」などの『老子』の重要な章句に関する誤解が日本における「仏教・儒教・道教」の関係を支えていたのであるが、そのような『老子』の定型的な読みを破ったのが親鸞であった。記録の残る限りでは親鸞の営為は老子の思想を本格的に日本語として日本の思想のなかに取り入れたものではないだろうか。それは下記の『老子』第二七章の理解のことである。
善く行くものは轍迹(てっせき=わだちのあと)なく、善く言うものは瑕讁(かたく)なく、善く数うるものは籌策(ちゅうさく)を用いず。善く閉ざすものは、関鍵(かんけん)なくして而も開くべからず。善く結ぶものは、縄約(じょうやく)なくして而も解くべからず。是を以て聖人は、常に善く人を救い、故に人を棄つること無し。常に善く物を救い、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばす、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷わん。是れを要妙(ようみょう)と謂う。
善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無縄約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師、不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。
いちおうの解釈をすると「旅するものは車馬の跡を残さず、善い話し手は他者を傷つけず、善く数えるものは計算棒は使わない。そして、善い門番は貫木(かんぬき)を使わないのに戸を開けられないようにし、荷物を善(たく)みに結ぶものは縄に結び目がないのにゆるまないようにできる。神の声を聞く人は常に善く人を世話して、人に背を向けることがない。また物に対しても同じで、物を大事に世話して、それを棄てるようなことはしない。それらの善は襲(かく)された光によって照らされているのだ。そしてそもそも、善き人は不善の人の先生であるのみでなく、不善の人の資(たす)けによってこそ善人なのである。(そして師と資(師と弟子)の関係も同じように見えない光によって結ばれている)。師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師は、賢こいかもしれないが、かならず自分が迷うことになる。ここに人間というものの不思議さがある」ということであろうか。
ここには「善い」ということの説明がある。老子は、「善」とは丁寧で善(やわ)らかな気配りにあるが、それは人間関係を照らす見えない光と、その不思議さへの感性にもとづいたものであるというのである。これは孟子が「性善説、性悪説」などという場合の「善」ではない。老子は、人間が個体として「善」か「不善」かを問うのではなく、人間の「善」とは人間の関係にあるというのであり、人間の内面は見えないようだが、実は不思議な光の下で相互に直感できるというのである。それが人間が「類」的な存在といわれる理由なのであろうが、老子は、それを人類の「道」の基本には「善」があり、それを照らす「襲明(隠された光)」があるのだと表現する。「師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師」や「親を愛さない子、子を愛せない親」は、迷いの中でその光を失ったものだというのが老子のいうことである。
ここから、「不善人は善人の資」という老子の思想が導かれた。つまり、善が関係に宿るのだとすれば、人が善であるのは、不善の人を資(たす)けるからであり、逆にいえば、善人は不善人の資けによってこそ善人であるということになる。私は、これは人間の倫理や宗教にとって決定的な立言であろうと思う。老子の立言は、福永光司『老子』(三八六頁)がいうように、少なくとも思想としては親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)という決定的な断言に相通ずるところがある。もちろん、親鸞が「況や悪人においておや」というのは老子の思想をさらに越えているところがあろう。福永が「親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視をもつのに対して、老子には親鸞のような罪業意識がない」というのはうなずけるところがある(福永光司『老子』二〇〇頁)。しかし、「弥陀の光明」の下で、「あさましき罪人」が許されるということと、老子の「道は罪を許す」という思想が基本的には同じことであることを否定する必要はないということも明らかなように思う。とくに私には、「弥陀の光明」ということと、老子のいう「襲明(隠された光)」ということは詩的なイメージとして酷似しているように思う。
私は福永の指摘を超えて、親鸞は老子の「善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」という格言を知っていたのではないかと思う。親鸞の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の化身土巻の末尾には「外道」についての書き抜きがあるが、孔子についての言及は少なく、ほとんどは老子についてのメモとなっている。『教行信証』に明らかなように、親鸞は一面でたいへんな学者であり、勉強家であった。もちろん『教行信証』の結論は老子を外道とするものではあるが、その筆致はけっして拒否的なものではない。親鸞は、『歎異抄』を述べた晩年までの間には老子「五千文」を熟読していた可能性はあると思う。
もう一つ、老子の第六二章は次のようなものである。
道は万物の奥。善人の宝、不善人の保せらるる所なり。美言の以って尊を市(か)うべくんば、行いの以て人に加わうべし。人の不善なる、何の棄(す)つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧(へき)を供(すす)めて以て駟馬(しば)に先だたしむること有りと雖も、此れを進むに坐(ざ)すに如(し)かず。古(いにしえ)の此れ貴ぶ所以(ゆえん)の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免(まぬが)ると曰(い)わずや。故に天下の貴ぶものたり。
道者万物之奥、善人之寶、不善人之所保。美言可以市尊、行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有共璧以先駟馬、不如坐進此。古之所以貴此者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。
これもいちおう解釈をしておくと、「道は万物の奥にある。善人の宝は、不善の人の保つものである。美言によって尊敬を得るのは、実行を人より加えなければならない。人の不善であるというのは棄ててはならない。そもそも天子を冊立し、三公を任命するときは、璧玉を先に立てた四頭だての馬車を前駆させることがある。そのときでも私たちは、この道を進むだけだ。古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で貴ばれているのだ」ということになろうか。
ここでは二七章のいう「不善人は善人の資」という考え方が、善人の宝は、不善の人の保つものであるという言い方で繰り返されている。老子は、天子即位や三公(大臣)任命はどうでもいいという。これは『老子』五章の「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」に並ぶ強烈な王侯観である。「老子の思想は、君主の存在や国家の行政機構そのものをも否定する無政府主義的な傾向をその根底に内包する」と述べたのは福永光司『老子』(三四四頁)であるが、その通りだと思う。
上記の現代語訳では、それにそって直截な読みをしてみた。これで、文章の通りは非常によくなる。それに対して、これまでの現代語訳は、(福永のそれをふくめて)「王の即位式などに、見事な玉や四頭だての馬車を並べるのは虚飾なので道にもとづく進言を行う」と解釈する。しかしそれでは「人の不善なる、何の棄(す)つることか之れ有らん」という前段と文脈が続かず羅列的な現代語訳になってしまう。昔日の中国には、老子の思想を徹底的な王権批判と受け止めた人びとは実際に相当数いた。中国の歴史において、老子を始祖とあおぐ道教が大反乱の旗印となった例はきわめて多いことはいうまでもない。もっともよく知られているのは、紀元一八四年に起きて後漢の王朝を崩壊に追い込んだ黄巾の大反乱であろうそれは張角という道士が起こした太平道と呼ばれた宗教運動にもとづいていたが、この反乱は数十万の信徒をえて各地に教団を組織したのである。そもそも、道教は、この張角という道士が起こした太平道から始まったことは特記されるべきことである。
以上を前提とすると、本章の後半部に「古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ」とあることの意味も明瞭となる。これは前項二七章のいう「不善人は善人の資」(悪人と善人は相身互い)という考え方にもとづく赦しの思想である。福永『老子』は、これが老子の思想のなかでももっとも独自なもので、この赦しの思想こそが、老子の教説が宗教化していく基底にあったという。ここは決定的なところなので、福永の見解の中心部分を引用しておきたい。
「『汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり』というのはイエスの教えであるが、人間の犯した罪が天に対する告白によって許されるという(老子の)思想は、初期の道教のなかにも顕著に指摘される(いわゆる「首過」の思想)。これは告白という宗教的な有為によって人間が天(道)に帰ろうとする努力であり、老子の不善に対する考え方とはそのままでは同じくないが、道の前に不善が赦されるとする老子の思想は原理的に継承されているといえるであろう」(福永『老子』三八六頁)
この引用の中段にある「首過」の思想とは、太平道の教祖にして、実際上、宗教としての道教を作り出した、黄巾の乱の組織者、張角による罪の懺悔(「首過」)のことである。張角は、それによって苦難や病からの解放を説いたという。そのような思想として、老子の思想は「中国における宗教思想の展開のなかで一貫した底流として生命をもちつづけた」のである。たしかに「求めて以て得られ、罪有るも以て免(まぬが)る」というのは、『マタイ福音書』の「求(もと)めよさらば与えられん」「汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり」と酷似している。それは是非善悪の区別を説く儒教や、義と律法の神であるユダヤ教のエホバの神とは大きく異なっている。老子の思想が宗教的な展開をみせたのは、たしかにそれが「罪の赦し」という側面をもっていたためではないだろうか。
『老子』の教義は、このように、早い時期から宗教的な救済と政治的な急進性の結合をもたらすような内実をもっていた。もし、老子の思想が親鸞の「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の思想に影響していたとすれば、親鸞の「赦しの思想」が一向一揆を支えたことも、老子に共通するということになる。東アジアの精神史においてもっとも基底にすわるのは老子の思想であろうから、鈴木のいう「鎌倉時代における日本的霊性の目覚め」という図式を採用できないとしても、私は日本の精神史が親鸞段階で東アジアレヴェルの成熟に達したことは事実であろうと思う。
おわりに
論述は梅原の日本の論文の検討からさまよい出て『老子』の解釈にまで至り、いたずらに紙幅を費やしたが、成功しているかどうかは別として、逆にこれは梅原の仕事のなかで道教、老荘思想はまとまった仕事がないことを追補したものと理解いただければ幸いである。
また第三章において、八・九世紀における神話の時代から神道へ移行という問題にふれて、石母田・梅原・黒田(俊)の議論を乗り越える方向を示した北條勝貴の議論を紹介しながら、北條の重要な問題提起を取りこぼしている。つまり、北條は東アジアの宗教の相互的で統合的な交流を強調しながらも、中国と日本の神霊観の相違を指摘している。念のためにそれを引用すると、「六朝蒋侯神の創祠譚のように、祟り神の原型らしき物語も漢籍に散見するし、そもそも<祟>の文字・概念の成り立ちは、殷王朝の甲骨卜骨まで遡りうる。しかし、(八世紀段階ではー保立補記)列島のそれには非業の死者の色彩はなく、自然災害の勃発の理由や対処法を説明し、社会不安を抑える災因論としての機能が主軸をなしている。やはり、神観念が中国ほど複雑かつ重層的に抽象化されておらず、地形・植生・気候等々からなる森羅万象のあり方を、直感的に<神>と形象してきたからだろうか」「漢籍の消化を経て徐々に変質はしてきたものの、それでも列島に住む人々の大部分は、山川草木に宿る神霊と人間とを明確に区別していた」ということになる。
前記のように固有信仰、基層信仰を自明化せず、中国から日本にまで連続する儒教・仏教・道教の複雑な絡み合いを前提としつつ、この相違をどう理解するかは、北條にとっても大きな問題であるようにみえるのである。もとより、これについて、私には確定した私見はなく、すべて新しい研究段階で議論されるべきものと思うが、ただ私は、あるいは問題は倭国神話の自然神話といわれるような側面の理解に関わってくるのではないかと感じている。
つまり、これまでの神話論研究においては自然神話の範疇に対する異議が多かったが、別稿で述べたように、そこに大きな根拠はない(保立「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』一八号、二〇一五年一一月、中部大学編)。私は、むしろこの倭国神話における自然神話の強力な存在は、早い時期に自然の生態系に回復不能なような打撃をこうむった中国大陸の大地・自然とは相違して、列島の自然の相対的に豊かであり、かつ特に噴火や地震のような大地そのものの擬人化をもたらすようなあり方が条件となっていたと考えてみたいのである。地震火山列島において忘れた頃に周期的に感じることになる自然の畏怖すべき主体性である。益田勝実は火山の噴火に対する人間の絶対的な畏怖の感情にふれて「日本の神道は恐れと慎みの宗教であり、客体として対象化されるべき神の面よりも、禊ぎ、祓い、物忌みして齋く人の側に重心がかけられている」という説明をしたことがあるが、まさにその問題である(益田『火山列島の思想』筑摩書房、一九六五年)。
以上、論点はあまりに多岐にわたったが、最後にどうしても述べておくべきことは、「精神史」という問題それ自体である。つまり石母田正は、その最初の神話論論文「古代貴族の英雄時代」において津田左右吉の文献学的方法を超え、神話の矛盾を「文学的見地から析出して、その背後にある世界を歴史的に位置づけ」、「その本質を神々との永遠の闘争のなかにみる」「精神史」的な視角を確保しようとした。それは、ヘーゲルの『美学』を一つの参考として構想されたものであり、「従来、精神史の領域ではあまりにも機械的・俗流的であった」「歴史学的=唯物論的方法」を鍛えるという方法意識をもっていたのである(石母田「古代貴族の英雄時代」『石母田正著作集』第十巻)。
梅原は、この石母田の立言とは異なって、論文「神々の流竄」の冒頭において、「古代史」と記紀分析の方法について「戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方では、とうてい、歴史の真実は見えがたいということである。なぜなら、人間は、卑俗な唯物論者が信じるよりはるかに精神的存在であるからである。物質的存在であると共に精神的存在である人間を研究するのに、精神の研究を度外視して、到底、真実の解明は不可能なのである」と述べている。
私は、梅原には、このように激しく、歴史学それ自体に対して「戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方」という断定をする理由があったのだろうと思う。私のように、とくにそのようなことを感じないままに石母田の提言にそって研究してきた第三世代にはわからないことだが、戦後派の歴史学のなかに梅原が言う意味での「唯物論」的な傾向、石母田のいう「機械的・俗流的」な「唯物論」があったことも事実なのであろうと思う。しかし、率直にいって、私は、歴史学者の一人として、「戦後日本の歴史学者が、卑俗な唯物論者が信じる物質万能の考え方をとって精神の研究を度外視しした」という梅原の一般論的断定はとても納得できない。ここには「すべては物質的利害によって左右されている→金で解決をつけろ。国家はすべて暴力だ→暴力で解決する」という唯物主義と、哲学および学術の方法としての唯物論の混同があると思う。哲学の方法としての唯物論には、物質の対象的存在の絶対性を承認し、それへの感性を何よりも重視する側面と同時に、物は人間とは区別された物にとどまるとして、商品や貨幣への呪物的な囚われを嘲笑し、その延長上にある国家や社会の暴力から自由になるという、強いて言えば素朴で「禅」的な側面の両者があると私などは考えてきた。
もちろん、学術にあまりに世界観的な問題を持ち込むべきではないが、それらは相互に認め合うほかないし、それが可能な時期になっているのではないかと思う。ともかくも研究者に明らかなことは、第二次大戦後の学術世界は、このような議論をするための実績のある哲学者、つまり戸坂潤を獄中に失うところから出発したという事実である。戸坂には「唯物論はおけさほどにも広まらず」という川柳があるが、その獄死直前の日記には、ケーラス『仏陀の福音』、鈴木大拙『東洋的一』などの集中的な読書記録がある(『戸坂潤全集』第四巻)。もし戸坂が生き延びていれば、哲学と歴史学、そしてそれらと禅宗との関係もあるいは若干の変化があったかもしれないと思うのである。これは高校時代に戸坂を読むとともに大拙の『禅とは何か』を読み、円覚寺で(一日だけだが)座ったこともあるものとしての実感である。