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カテゴリー「歴史理論」の63件の記事

2018年12月10日 (月)

『永原慶二著作選集』第九巻(歴史理論編)解説

 『永原慶二著作選集』第九巻(歴史学序説、二〇世紀日本の歴史学)解説

 永原慶二さんの著作集への解説の原稿です。
 もうずっと以前、二〇〇八年、つまり一〇年前に書いたものですので、公開してよいだろうと思います。

 ここに書きましたことで覚えているのは、永原さんの内藤湖南評価が石井進氏の内藤湖南評価を呼び起こしたと考えられるとしたことです。それがさらに勝俣鎮夫氏の内藤湖南評価を呼び起こしてたことはいうまでもありません。
 これは現在でも塾考すべき問題をふくんでいるように思います。いうまでもなく、戦後派歴史学にとって「見果てぬ夢」となっているのは、東アジア史の中で、その社会経済構造全体のなかで日本史を考えるということですが、そのとき確実に戻らなければならないのは、日本における内藤ー宮崎市定の東洋史の伝統をどう考えるかということだからです。

 これが戦後派歴史学の評価にも深く関係してくることはいうまでもありません。たとえば呉座勇一氏の『応仁の乱』の前書きには、勝俣鎮夫の内藤評価がふれられていますが、間に永原ー石井進の関係をいれてみるべきでしょう。内藤の日本史についての議論はその応仁の乱論以外にも示唆多いものがあることはいうまでもありません。
 以下、解説です。

  本巻は『歴史学序説』と『20世紀の歴史学』の二冊をおさめた。この二冊は近現代日本の歴史学の学問史、その思想と方法、その社会的位置などに関する、著者の生涯をかけての思考の筋道を示している。

 まず一九七八年に刊行された『歴史学序説』は、「Ⅰ戦後歴史学の展開」「Ⅱ視点と方法」「Ⅲ歴史教育」の三部からなる論文集である。このうち第一部の「戦後歴史学の展開」は近現代史学史の検討にあてられた二本の論文と付論からなっている。まず付論は『日本史研究入門』Ⅲ・Ⅳ(おのおの一九六九、一九七五年刊行、東京大学出版会)の巻頭総論として発表されたものをまとめたものである。この『日本史研究入門』というシリーズは、日本の歴史学の進展を総括するものとして各時代の研究者によく読まれたもので、Ⅲ・Ⅳは著者と井上光貞の共編にかかる。重要なのは、一九六九年分において、早くも、永原が、戦後歴史学の天皇制批判は国内的視野にかたより、帝国意識に対する批判が弱く、その意味で「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べていることである。さらに永原は、戦後歴史学の発展段階論が一国史的・単線的そして西洋中心主義的な傾向をもっていること、それ故に、当時喧伝された正真正銘の西洋中心主義史観、つまり「近代化論」を批判しきるためにも、戦後歴史学の側の自己点検が必要であることを明快に説明している。現在、このような視点は常識的なものとなっているが、この論文は、それが戦後歴史学の内部から登場してきたこと示している。

 次ぎに「歴史意識と歴史の視点」(一九七五年)は、原論文に「日本史学史における中世観の展開」という副題があったことからもわかるように、著者の専門分野である日本中世に即した史学史論である。直接の前提となったのは永原が鹿野政直とともに取り組んだ『日本の歴史家』の編集作業にあり(同書の公刊は一九七六年三月、日本評論社)、永原も原勝郎・内田銀蔵を担当している。評伝という性格もあってか、そこでは彼等への共感が表面にでているが、しかし、この論文では福沢諭吉以降の近代史学史における「脱亜」的発想を摘出し、しかもそれが戦後中世史学、またその中心をなした石母田正の領主制論においても精算されていないという厳しい指摘に連なっている。また、ここで永原が内藤湖南学説を高く評価し、その関係で戦後歴史学における石母田と鈴木良一の間の論争の意味を論じていることも注目される。これは永原が、『下克上の時代』(中央公論『日本の歴史』、■■年)以下の仕事で室町戦国時代に研究の重点をシフトさせていった事情を表現している。と同時にその背景に、この時期、石井進が展開していた鋭利な「封建制」論批判への応答があることも(永原は明記していないが)留意しておくべきだろう。この永原の内藤評価が石井の内藤評価を呼び起こしたと考えられるからである(参照、石井「中世社会論」など、『石井進著作集』六巻)。

 次の「戦後日本史学の展開と諸潮流」(一九七七年)は、戦後歴史学の全体を俯瞰した雄編である。戦後の社会変動とそれに対応する歴史学の側の課題・方法意識とそれに関わる学会の動向が、原始から現代におよぶ広い視野の下に過不足なく描きだされている。この論文が『二〇世紀の歴史学』の原型をなすことは、一読、明かであろう。「国民的歴史学運動」と、その中心となった「マルクス主義歴史学」に対する評価の厳しさ、大塚久雄・丸山真男などの学問的重みの特筆を確認されたい。また「実証主義」歴史学における個別認識の徹底を目ざす動向を「法則認識の可能性を拡大しつつあるもの」として「歴史研究の本道」と高く評価していることも目立つ。このような論調が、家永三郎が、書評において、本書をマルクス主義歴史学の「自己批判」とし、その「率直さ」を評価する理由であろう(『歴史評論』一九七九年五月号)。と同時に「マルクス主義歴史学」を精算するのではなく、その最良のものを生かそうとする永原の広やかな展望も説得的である。

 第二部の「視点と方法」は六本の論文からなっているが、最初の三本はマルクス歴史学の立場からの歴史学方法論である。まず(1)「歴史学の課題と方法」は、総論であってマルクス歴史学は社会の構造論的把握と人民闘争史的な主体的把握を統合し、さらに歴史の国際的契機を重視することによって、新しい歴史像、世界史像を構想しなければならないとしている。永原の立論はきわめて内省的であって、日本の歴史学は歴史の全体的形象に不得手であり、マルクス歴史学は「いわば孤立しつつ」それに立ち向かわねばならないという。(2)「経済史の課題と方法」は、経済史が経済学とその他の社会科学を媒介する位置にあることを確認した上で、社会構成をウクラードを基礎に論理的・体系的に把握する手法について解説している。永原がウクラードとはエレメント=要素という意味であるとしているのが注目されよう。これは永原のウクラード論が、富のエレメンタルな形態を端緒範疇とする『資本論』的方法に依拠し、封建社会の分析においても小土地所有(フーフェ)ー共同体(ゲマインデ)ー領主制(グルントヘルシャフト)という上向分析が必要であるとする高橋幸八郎のシェーマを受け止めたものであったことを示している。永原には大著『日本経済史』(本著作集第八巻)があるが、経済史の方法論それ自身に関する論文は意外と少なく、その意味できわめて重要な論文である(参照、保立「永原慶二氏の歴史学」『永原慶二の歴史学』永原慶二追悼文集刊行会編、吉川弘文館、二〇〇六年)

 (3)の「歴史認識・叙述における人間の問題」(一九七七年)は、いわゆる昭和史論争を総括した論文である。最近の『昭和史論争を問う』(大門正克編、日本経済評論社、二〇〇六)、とくに同書中の和田悠「昭和史論争のなかの知識人」などを読むと、批判をしかけた亀井勝一郎の思想と処世の実態と対比して、遠山茂樹の反批判が、的確かつ穏当なものであったことが印象づけられる。現在の観点からみれば、日本浪漫派に属したのみでなく、実際に戦争賛美の言論を行った亀井が「歴史教育の究極の目的は自己放棄を教えることにある」(亀井「現代歴史家への疑問」『文藝春秋』一九五六年三月)などと繰り返したことに内面性は感じられず、それこそが「人間不在」と思えるが、しかし、永原の総括も、遠山と同様に、不思議なほど穏やかなものである。そして、昭和史論争を試金石として展開した、歴史の「必然性」に対する「可能性」、「階級」に対する「民衆」の概念などの立論は、永原の歴史理論にとって緊要な位置をもった。なお、永原が遠山の議論に「歴史認識そのものに特定の政治的基準が無媒介に導入されてくる」ニュアンスがあると論じていることも注目される。この論文の重点は、実は遠山の議論を引き継ぐと同時に、遠山と対峙する点にあったのではないかとさえ思える。たとえば前述の『日本史研究入門』の編者がⅡからⅢで遠山茂樹・佐藤進一の共編から井上光貞・永原慶二の共編に変わっていることが示すように、永原は遠山を引き継いで戦後の歴史学界を代表する位置についた。家永教科書訴訟をはじめ、遠山・永原の二人の労苦によって第二次世界大戦後の歴史学界が支えられた面は大きく、本論文は、そのような遠山・永原の関係をふまえて読まれる必要がある。

 その他の第二部の所収論文は、おもに講演記録であるが、どれも歴史学の社会的役割にかかわって学界的共同を訴えたものである。そして六〇年代から七〇年代にかけて新しく展開された「民衆史研究」「人民闘争史研究」を理解し、それを支えようとした永原の姿勢を示す点でも共通している。現在の学界状況では、このような真っ正面からの議論に違和感をもつ人も多いかもしれないし、当時、ちょうど研究の道に進みつつあった私などは、逆にあたりまえすぎると感じた記憶もある。しかし、後に永原の講演を何度かきく機会があり、その理路整然とした、そして戦前の国家と戦争の実態を知る世代としての実感に裏打ちされた気迫に襟を正すこととなった。是非、この明解さに対峙していただきたいと思う。なお講演であるだけに、専門の中世史を例として議論を展開した部分も多く、たとえば「歴史学の方法と民衆像」には、「在地領主=中間層」論など永原理論のエッセンスを意外な言葉で語った部分があり、中世史の専攻者には熟読する価値があるものである。また、本書全体との関係では、この論文が、一九六九年四月の東京地方裁判所民事二部における教科書訴訟(第二次)における遠山証言「『歴史をささえる人々』と日ソ中立条約の記述」から説き起こしていることが重要であろう。遠山証言は、民衆史を基軸にする分析が歴史の総合的把握を可能にするという方法論が、近現代史学史に一貫していることを論じて共感をよんだ。それが永原の史学史研究に影響したことは確実である。

 『歴史学序説』の第三部「歴史教育」は、六本の論文からなる。(1)「歴史学と歴史教育」(一九六八年)は、歴史教育に対して「国家に対する愛情」の涵養を要求した一九六八年の新学習指導要領に対する全面的な批判の文章、(2)「歴史教育の自由のために」(一九七〇年)は家永三郎氏の教科書に対する検定が違憲であるという判決、いわゆる杉本判決に対する評価、(3)「歴史意識の形成と教科書叙述」(一九七六年)は教科書の執筆者としての被検定経験の記録である。これに対して、(4)「史話か通史か」(一九七六年)、(5)「歴史をめぐる事実と評価」(一九七七年)、(6)「歴史から何を学ばせるか」(一九七八年)は、相対的に短文であるが、そのうち(6)は一九七八年の新学習指導要領の点検であって、ちょうど(1)に対応している。

 第三部は、要するに一九六〇年代の最後から一九七〇年代の後半にかけての歴史教育をめぐる全体的な状況を論じたものであり、杉本判決の時期に大学時代を送った私などの世代にとっては自己の原点に関係する諸論文である。多様な内容を含んでいるが、教育論との関係で重要なのは、やはり永原の議論が遠山茂樹の歴史教育論と深く関係しながら形成された事実であろう(参照、遠山『歴史学から歴史教育へ』■■■)。これは戦後史学史における永原と遠山の先述のような位置からしても、歴史教育学の問題としても、今後、詳細な検討が必要となる問題である。なお、本著作集の第一〇巻には『歴史教育と歴史観』として著者の歴史教育論がまとめらる予定であり、歴史教育論については、それをあわせて議論が必要であることも注意しておきたい。

 そもそも永原は、本書の「はしがき」で、自己自身のことを「歴史理論そのものを専攻するものではない。従ってこうした書物をつくることを初めから目ざした訳ではなかった」としている。それにも関わらず、本書を刊行する理由は「最近数年間のあいだに生みだされた」「ほぼ一連の関心」の強さにあると説明している。実際、本書の諸論文のうちの相当部分が、その数年の短期間に執筆されている。そして、この「一連の関心」が、第三部で取り扱われた国民の歴史意識と歴史教育の問題にあることは明かである。永原は、歴史教育の国家主義化を動きを「戦前復帰」とまでは考えない論者が多いことに対して、歴史教育の目的が「教化」へとすりかえられたことの確認を要求している。実際、このような論者は今でも多いというべきであろうが、その錯誤を指摘する永原の論調にはゆずれないものがあるようにみえる。

 『歴史学序説』に紙幅を費やしてしまったが、以上の解説は、永原の思考の筋道が一貫しているだけに、その二五年後に執筆された『二〇世紀日本の歴史学』の解説ともなりうる側面がある。そこで以下では、紙幅の関係もあって『二〇世紀日本の歴史学』の成立事情について簡単な説明をし、若干の特徴にふれることで解説の責めをふさぎたいと思う。もちろん、『二〇世紀日本の歴史学』の扱う問題はさらに広範であり、しかも永原一流の明快さをもって書き下ろされたものである。それ故に、躊躇するところは多いが、ともかく、この解説が無用な蛇足あるいは不協和音とならないことを願うのみである。

 さて、『二〇世紀日本の歴史学』の執筆の事情は、「まえがき」に明記されているように、二〇〇一年、またも歴史教科書問題が発生したことにあった。このような事態が二一世紀になっても繰り返されたことは永原にとっては大きな衝撃であったに違いない。この問題を永原は「教科書問題を歴史学・歴史教育の歴史にさかのぼって根源的に考え、また批判するためにも、史学史への理解・認識が不可欠である」と受け止め、本書の執筆に踏み切ったという。印象的なのは、本書の巻末近く、「国家権力とそのサポーターとしての国家主義者による歴史教育の領有を見すごすことは、歴史学の研究者としては、一歩もゆずることのできないところである。今日、その危険が高まっている事態を、どこまで歴史学と歴史教育の歴史にそくして深く認識するかは、歴史研究者・教育者にとわれている良心と責任の問題である」(284頁)という文章であろう。そして、「現在をきびしく受け止める「批判」精神を堅持すると同時に、多角的に歴史をみてゆく努力のなかから、二一世紀の日本史学もまた新たな発展を生みだしてゆくであろう」という「おわりに」の文章(■■■頁)がそれに対応するものであることも明かであろう。

 この永原の期待に応えられるかどうかは、多くの研究者の意思にゆだねられている問題であるが、この明瞭なメッセージ性が独自な立論によって支えられていることに留意したい。私は、その意味での本書の独自性の第一は、永原が二〇世紀の史学史をアカデミズム歴史学の通史を中軸に描ききった点に求めることができると思う。いわゆる「戦後歴史学」には自己をアカデミズム外のものと認識する傾向があった。永原はアカデミズムのもつ「無思想性」を難詰する点では人後に落ちないが、しかし、永原はアカデミズムという用語をマックス・ウェーバーがいう「職業としての学問」という意味で、自己認識のための用語として正面から使用している。そして、永原の総括したアカデミズム史学史論は、学界の職業的な常識として受け止めるべき内容をもっている。また、永原が、歴史学という職業の日本社会おける困難さを凝視する中から、歴史学の学問の自由と責務の問題として教育問題を取り上げていることは重ねて注意を喚起しておきたい。

 第二の独自性は、筆者とほぼ同世代に属する中世史の研究者、稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実らに対する無視、あるいは厳しすぎるとも思える批判である。本書は研究動向を代表する個人中心に叙述にメリハリをつける方法をとっており、その意味と限界は、今後あらためて論じられねばならないであろうが、他の時代の研究者については、むしろバランスのよい評価が目立つから、いわゆる「戦後歴史学」に自己の生き方を重ねてきた同学の同僚に対する厳しい筆致は、一読不思議な感に打たれる。たとえば、永原は、網野善彦の見解は、単なるロマン主義にとどまらず戦前の日本浪漫派に通ずるものとし(227)、黒田俊雄・戸田芳実の研究は(176)、講座派的着眼ではなく労農派的論理に通ずるとまでいうのである。しかし、ここから分かることは、永原の視線が第二次世界大戦前の社会における学術と文化にすえられていることである。そこにあるのは、「はしがき」が「同時代の史学史を書くことは、自分の歴史観をすべてさらけだすことにもなるから、今はただこのような思いに免じてお許しいただく他ないと割り切った」と述べるような「同時代」を生きたもの同士の覚悟だったのであろう。笠松宏至は「網野善彦さんの思い出」という対談で本書にふれて、永原と網野の間の兄弟のように親しい特別な関係を証している(『図書』二〇〇七年五月)。そこには、たしかに後の世代には「うかがいしれない」ような内実があることを忘れないようにしたい。

 本書は、すでに多くの読者に迎えられ、かつ『歴史評論』の特集「歴史学と歴史教育ー二〇世紀から二一世紀へ」(二〇〇四年二月号)において、高橋典幸・大串潤児・今野日出晴・中村政則・鹿野政直などによる充実した批評・書評があり、また著者の逝去後に開催された追悼シンポジウムにおいても多面的な報告があり、私もそこで本書にふれて私見をのべた(前掲『永原慶二の歴史学』)。

 今後、右にかいつまんで述べた本書の独自性や、問題性をふくめ、本書をベースとして、史学史の議論が精密化することになるだろう。しかし、率直にいって、本書を越えるような史学史の書き直しは、きわめて困難な作業である。つまり、永原は、本書の「おわりに」で、戦後の歴史学の第三期、一九七〇年代以降には明瞭な歴史理論が存在しない、そして「二一世紀にむけての日本の歴史学はどのような方向に進むか。それについての答案は、研究者一人一人が書きつづけるほかはない」として、要求される「厳密な実証性と厳しい理論性」の水準を解説している。本書の書き直しは、そのような営為の先に展望するしかない課題である。それがどう展開するかが、まだ見とおせない以上、少なくとも「中世史」の研究者は、当分の間、本書を通じて、永原の声を聞き続けなければならないと思う。

2018年11月23日 (金)

何のために「平安時代史」研究をするのか

おそらく20年ぐらい前のハーヴァードでの「平安時代史研究会」のConcluding Discussionの原稿が、PCの中にあったので載せておく。

このころは元気であった。ボストンの川を船でさかのぼっていった時の景色を思い出す。豊かな土地、アメリカ。これがネルーダが歌ったアメリカ大陸の豊かさなのだ。これがネーティヴ・アメリカンの土地だったのだという感興をもったことをよく覚えている。

 この研究集会の日本側の企画者は学習院の千野香織さんだった。形がととのう直前になくなられたが、その少し前に職場の前でばったり。御元気だったのにショックであった。


1何のために「平安時代史」研究をするのか。

 21世紀の世界、そしてその中で歴史学がおかれた状況は、私たちに対して深刻な思索を要求しています。何のために研究をするか、これについて世界中の歴史家相互で話し合うことが重要になっています。けれども、今日ここで問題としたいのは、歴史学一般ではなく、平安時代史の研究についてです。つまり私はここでみなさんに「何のために平安時代史の研究をやっているか」ということを問いかけてみたいのです。

 実は、こういう問題意識は、これまで日本の学会の中にはまったくありませんでした。そもそも、考えてみるとおかしなことなのですが、日本の歴史学界では、今回のような「平安時代史」をテーマにした研究集会がもたれたこともありませんでした。さらに、今回の集会は、歴史学・文学史・宗教史・美術史をふくめてのインターディシプリンな研究集会として大きな意味があるのですが、こういう研究集会の開催はあきらかに世界中ではじめてのことです。私は、今回の画期的な研究集会が、今後日本でも平安時代史をテーマにした総合的・国際的な集会が行われるきっかけになることを願っています。

 ともかく、anyway、今回の集会の報告は、あまりに多様で内容豊かであるために、個々の報告の内容にふれることはとてもできません。そこで私の発言は、そのような方向を今後組織していくために、現在考えておくべきことを提案するという形で進めることを御許しいたqだきたいと思います。

2古代史研究と中世史研究の狭間

 そういう展望をもってみると、最初の問題は、なぜ平安時代に関する総合的な研究集会が、日本の学界でこれまでもたれなかったのか、なぜこれまで、平安時代研究の意味や展望をめぐっての集中的な討論が行われなかったのかということになります。そして、日本の歴史学界の中にいるものの実感としては、その理由は、この時代が古代史研究と中世史研究の狭間に位置しているという、学界内部の事情にあります。私には、つまりだいたい1980年以降、古代史研究と中世史研究の相互の関係は、とくに排他的・閉鎖的なものになったように思われます。古代史研究と中世史研究は、研究のために必要な知識や修練が大きくことなっており、それに対応して研究者の経歴や生活のパターンもことなっています。冗談ですが、古代史の研究者はきっちりしていて紳士的であり、行政的に有能なのに対し、中世史の研究者は自由というと聞こえがいいが、いいかげんでアナーキーであるといわれます。その中で、平安時代史の専攻者、自分の専門は平安時代史研究であると自覚している人の数はそんなに多くありません。古代史の職業的研究者は、古代の本場である六世紀から奈良時代を、中世史研究者は本格的な中世、つまり鎌倉時代の歴史の究明を自己の第一義の仕事としがちです。こういう状態の中で、平安時代の歴史は「前期」と「後期」にわかれて研究されてきました。つまり、いわゆる「摂関時代」と「院政時代」にわけて研究されてきました。そして、摂関時代は古代史の延長部分として、院政時代は中世史の序論部分として位置づけられ、そういう形で古代史と中世史の棲み分けが行われてきた訳です。

 今回の研究集会のテーマは「平安時代における中心と周縁」というテーマの下に開催されていますが、すくなくとも現状では、平安時代史研究自身が歴史学にとってはいわば周縁的な地位にあり、センターは本来の古代史と本来の中世史にあります。しかし、この約400年間にもわたる時代、平安時代が歴史学研究の上で周縁的な意味しかもたないというのは、私には容認できない考え方です。この時代はやはり一つの歴史的な時代として一貫して位置づけることが必要なのではないでしょうか。平安時代を「前期」「後期」に分断する従来の考え方は、無意識にこの時代が一つの歴史的な時代ではないという考え方を前提にしていると思います。そうではなく私たちは、いわば「平安時代史研究を自立」させなければならないのではないでしょうか。

3王権論の不在
 私は、数年前、岩波新書の『平安王朝』を執筆し、「平安時代史研究の自立」をめざした作業を開始しました*1。それを前提にして、今回の研究集会にそくして、いくつかの論点を提示してみたいと思います。まず第一には、平安時代の国家の中枢、とくに王権と天皇制をどう考えるかという問題です。従来の考え方では、平安時代前期の「摂関時代」は摂関家が権威を確立していく時代、「摂関政治の発達」の時代として描かれ、平安時代後期の「院政時代」は、徐々に源氏・平家などの「武士」の力が優越していく時代、「武家政治の発達」の時代として描かれます。これは王権論にとってどういうことを意味するかというと、天皇家・王権自身についての分析は、摂関政治と武家政治の発達なるものの影に隠れてしまい、ネガとしかとらえられないということです。そこでは王権自身は主語・サブジェクトとはならず、目的語、オブジェクト、あるいは修飾語、アドジェクティヴの地位におしこめられます。今回の集会の第一セッションで問題とされたように、王権の存立、肉体的な存在自身が「政略結婚」の対象であり、そこでは王権はロボットのように意志をもたず操作される客体、オブジェクトととらえられています。こういう政治的過程をジェンダーバイアスによって単純化してとらえてしまう考え方が、日本でも、フェミニズム的な歴史学によって強力な批判にさらされているのは、第一セッションの議論によってよく御わかりいただけたと思います。

 平安時代の天皇制の中には、たとえば桓武と弟の皇太子早良親王の争い、薬子の変と呼ばれた平城上皇と嵯峨天皇の間の争い、承和の変において皇太子恒貞親王を退位させた事件、菅原道真の配流事件にあらわれた宇多と醍醐の父子間の争い、冷泉天皇の狂気をきっかけとして冷泉系とその弟の円融天皇系に分裂した王家が争った問題、それを条件として藤原兼家やその子供の道長が大きな権力をもった問題、白河天皇とその弟の皇太子・実仁親王、輔仁親王との争い、崇徳と後白河の兄弟の争い、そして後白河と高倉の父子の争いなど、最初から最後まで激しい内部的な争いー男と男のはげしくみにくい争いが存在しました。桓武の弟の早良親王は死後、崇道天皇と贈り名されました。そして、後白河の兄の崇徳天皇の贈り名はこの崇道を意識していたのではないかというのが、私の想定です。崇道、崇徳の「崇」とは「崇拝する」「祟りをなすものをおそれる」という意味です。つまり、平安時代は王家内部の兄弟争いによって最初と最後を画されており、当時の人々もそれを自覚していたということになります。王権を中心として摂関家ほかの最高級貴族の全体を巻き込んだ紛争が通常の調停では不可能なほど激化し、結局、武力による決着が必然的なものとなる過程として、平安時代の政治史の全体的な流れと「院政」の登場を分析することが重要です。

 従来の考え方の中には、こういう王権内部の激しい争いを無視し、天皇を非政治的な存在、もっぱらネガでありオブジェクトであるかのように考える見方があったことは疑いをいれません。歴史学の問題としては、日本のアカデミズムの中に、天皇の政治的な役割を明瞭に論じることへのタブーともいうべき感情があったことは否定できません。そのおかげで平安時代の王権の実体的な研究はおおきく遅れていた訳です。『平安王朝』を執筆したとき、こんなことも研究されていなかったのかという問題が実にたくさんあるのをしって大変に驚いたことを思い出します。いわゆる批判派の側は、アカデミズムに対して相対的に寛容でしたし、むしろ理論的な研究あるいは社会経済史の研究で精一杯でしたから、まさかそんなことだとは思っていなかった訳です。

 こういう平安時代イメージが社会的なイデオロギーの反映であることも明らかであります。私は、いま、交順社というリタイアした財界人の談話会で、毎月一度、平安時代の歴史の話をしているのですが、平安時代の王権の内部的な矛盾こういう話をすると、「ようするに昔は、悪いことはすべて臣下の間の争いということだったのですよ」というのが感想でした。交順社というのは本来福沢諭吉が設立した結社ですからさすがに見方がリベラルで教えられることが多いのですが、私の話は戦前の皇国史観の教育のなかで語られた天皇のイメージに対する解毒剤になるようです。皇国史観は天皇を神とすることによって、王権をその肉体や具体的な歴史過程から切り離して神聖化・図式化・抽象化・単純化した訳ですが、これが天皇制に関する現在の日本社会のイメージの基本をいまだに拘束しているのです。そして、それは象徴天皇制という現代天皇制のあり方ともうまくマッチしています。つまり、天皇は権力ではなく、権威・象徴であって、それは平安時代の昔から変わらなかったという訳です。こういう立場からいうと、平安時代は、象徴にすぎない非政治的な王権が宮廷文化を花開かせた理想的な時代ということになり、そういうバイアスの下で美化されることになるのです。もちろん、皇国史観と象徴天皇制に特有な天皇制に対する感じ方は、本質的にはことなるものですが、王権の実態を抽象化・単純化するという上では同じ機能をもっているのです。

4「都市王権」
 しかし、学問的な議論をする上では、問題はさらにふかめられなければなりません。いま、天皇制の権力と権威という問題を申し上げました。天皇制を非政治的な権威とのみとらえることは正しくありません。そう考えてしまうと、実際には王権がしばしば強力な政治的主体であったことが忘れられてしまうのです。しかし、天皇制を単なる権力的支配の論理でとらえることもできません。平安時代の400年間、栄え続けたことによって、天皇制が強力な文化的権威をもち、日本の文化の基礎構造にしみ通っていることも事実なのです。

 これを考えるためには、平安時代の社会構造のなかで、王権と天皇制の位置をとらえ直すというさらに本格的な研究が必要になります。そして、私は、この問題が今回の研究集会のテーマである「中心と周縁」、その相互関係、交通関係という問題に直結していると思います。第一セッションでも、第二セッションのアドルフソン報告でも問題となったように、平安時代の国家と社会は都市と農村の間の統合的関係を維持し発展させていました。従来の考え方では、平安時代は律令制的な中央集権国家の構造が分解していく時代としてとらえられます。平安時代の前期は藤原氏が他の諸氏族を排除していく過程であり、国家が公家貴族のレヴェルで分解していき、後期には武士が公家貴族を圧倒し、さらに本格的に律令国家を分解していくという訳です。まず特定の構造があり、それが分解するという歴史観あるいは歴史の分析方法は、歴史意識としてはもっとも素朴かつ単純なものです。歴史の最初には、黄金の時代、理想的な時代、制度の整った時代があり、それがだんだんだめになっていく、下降していくというとらえ方は、ヨーロッパでも東アジアでも一般的であります。歴史学者も実際上はそれにとらえられいることは、たとえば日本の奈良・平安時代の歴史教科書などをみれば明らかです。都市と地方社会が権力的に一元的に統合されていた時代から、それがバラバラになっていく、私的に分解していく時代という訳です。私の指導教官であった戸田芳実氏は、こういう考え方を口をきわめて批判しました。それは、古代国家の解体史観であって、律令制がどう解体していったかの制度的過程は明らかにできるが、どのように社会構成が変化し、どのように新しい社会が形成されたかは結局明らかにできないという訳です。

 私は、実は、日本で、平安時代を封建制が形成される時代であるととらえ、社会の私的な諸関係への分解を中心において問題をとらえる場合にも、こういう解体史観が影響していたことは否定できないように思います。私は、そういう考え方から、一昨年の歴史学研究会大会で、日本の中世を封建制の時代ととらえる考え方とそろそろ決別すべきである。封建制は西ヨーロッパに固有な社会構成であって、日本は一度も封建制っであったことはないと主張しました。

 もちろん、私は、これまでの歴史学が展開してきた封建制、フューダリズムの議論自身がフュータイルであった、無駄であったというわけではありません。とくに黒田俊雄・戸田芳実の考え方は、封建制という用語は使用していますが、実際上、西ヨーロッパとは大きくことなる社会の構造を指摘していました。つまり、彼らの考え方によると、平安時代の支配階層をなした公家貴族と武家貴族(および宗教貴族)は、基本的には都市貴族として共通した性格をもって連合していたこと、そして、その頂点にはつねに王権と天皇制が存在していたということになります。平安時代の国家、王朝国家は王権を中心とし、中央都市・京都を中心として地方社会を支配し、統合していました。こういう社会における王権の国家的・社会的なあり方は「都市王権」という範疇によって表現するのが適当であるというのが、私の意見です。この「都市王権」の概念について、ここでくわしく論じることはできませんが、ようするに宮廷貴族・軍事貴族は、中央都市領域を固有の拠点として、そこにおける分業を支配し、都市近郊を領主的に支配するとともに、都市が地方社会に対してもっている規制力を自己の支配権力のなかに編成していたということになります。都市王権は、このような都市的な領有を代表しているのです。源氏物語には、都市の民衆生活のなかに「田舎の通い」つまり、地方への出稼ぎ、あるいは商業活動が含まれていたことを示す有名な一節がありますが、王権はそういう都市の民衆の活動をも含みこんで支配権力をつくりだしていたのです。

5ナショナリズムと千野香織さんの問題提起
 さて、本来は、都市王権・都市貴族に対応する地方エリート・地方貴族のあり方、そして都市貴族と地方貴族の関係という今回の研究集会にそくした議論を展開しなけれgばなりません。しかし、第一セッションに関するコメントでほとんどの時間を使ってしまい、すでに時間がありません。そこでたいへん申し訳なく思いますが、ここで、なぜ私たちが平安時代史を研究するのかという最初の問題にもどり、また第二・第三・第四・第五セッションで展開された宗教・文化・国際関係の議論についても若干ふれながら、私の話を終えるということで御許し願いたいと思います。

 実は、この問題については、本来は、私ではなく、今回の集会の企画に携わり、ご自身で報告の予定であった千野香織さんからの発言があるべきであったでしょう。彼女が、この場にいらっしゃらないのはきわめて残念です。千野さんは、この点で一つの方針をもっている方でしたから、平安時代史研究のインターディスシプリナリな、学際的な議論の発展のために必要な方であったことを実感します。彼女は、そもそもの何のために平安時代史研究をやるのかについても議論する必要を痛感されていたように思われます。彼女は、昨年12月19日、御死去のしばらく前に連続的な講演会を組織し、その第一回目に御自分で講演をされました。その講演記録が彼女が編者をしていた岩波書店の講座『近代日本の文化史』の四巻目の月報にのっております。彼女はそこで、「日本美術史」というものを物語る枠組み、そして日本美術史という学問の枠組み自身が、基本的なところで19世紀以来あまり変わっていないのと指摘しています。私も、彼女がいうのとほとんど同じ意味で、平安時代史の枠組みが、古くから変わっていないところがあるのではないかと感じているので、この点をとくに議論したかったと痛感しました。

 そして、この旧来の感じ方というのは、一言でいえば「日本美術史を国民意識をかきたてるように使う」、しかもその場合、西洋美術史それ自身を基準にもってきて、日本の芸術家もそれと同じように偉いのだと語るという種類のものであったといいます。平安時代の文化について、たとえば『源氏物語』は世界で最初の長編小説であって、その叙述方法はプルーストの『失われた時をもとめて』と共通するというような言い方が今でもされますが、それと同じものという訳です。こういう見方にかけているのは、日本の文化を実際に大きな相互的な影響をもった東アジア世界のなかでとらえるという観点です。そして、こう考えてみると、実は、第二セッションから第五セッションまでの議論は言語にせよ、宗教にせよ、文化にせよ、貿易にせよ、どれも、この日本と東アジアという問題に関係していること、その視野なしには議論できないものであったことに気がつきます。この点でも、今回の研究集会はきわめてよく組織されていたと思います。私は、いま、『黄金国家ーー東アジアと平安日本』という本を執筆しているのですが、ようするに、平安時代の宗教・文化を最初から日本に独自なものとみるのでなく、平安時代を通じて、相互関係のなかで形成されたものとみることが重要だと思います。

 もちろん、日本は東アジア世界とは違う国であるという見方はきわめて古いもので、それこそ平安時代から存在しました。たとえば「漢文」ではなく、「和歌」こそが日本文化を代表する。つまり「人の心のみならず鬼の心さえも動かすのは和歌である」という古今集序の言説は、平安時代そして中世を通じて繰り返されました。たとえば、史料の上で明瞭に天皇の万世一系の思想をのべた初めての史料である9世紀仁明天皇の四十歳のお祝いのセレモニーの史料には、同時に、古今集の序と同じ言葉が語られています。また中世、和歌の力によって「鬼」をおいはらう、そしてこの鬼にはしばしば異国の人々のことをイメージされていたという史料もあります。こういうきわめてナショナリステイックな思想と文化の観念が古くから存在し、それが現在も再生産されていることに私たちは注意しなければならないでしょう。

 少し、千野さんの文章から話しがずれましたが、こういう問題について意識的な研究を進めることは彼女の本意であろうと思います。そして、私は、彼女が、この講演で、昨年、ナショナリスティックな立場から執筆され、教科書の検定と採択を突破しようとして大きな話題となった扶桑社版の中学校歴史教科書に対して、強い批判を述べています。「奈良時代にはすぐれた仏師が登場した」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵する」というようなことを書く教科書叙述が、政界やメディアの強い支援をうけるという事態は、彼女に強い違和感を抱かせるものであった訳です。私たちの仕事はそれ自身として学問的な作業ですが、歴史学は、どの国でも同じことでしょうが、同時にこういう社会的な問題とつねにきりむすばざるをえません。私は、歴史学・宗教学・言語学・美術史などのインターディスシプリナリーな国際的な交流は、そういう問題に関する交流もふくみこんで展開してほしいと思います。

 とはいえ、いうまでもなく、その出発点は、あくまでも我々の仕事の対象に即したものでなければなりません。過去を過去として突き放して感覚すること、観察すること、分析すること、そのためには、歴史学の立場からいうと、理想的には、過去の痕跡を示す史料を細大漏らさずすべてを自分の視野におさめること、読解に専門的な知識が必要な宗教史の史料であるからといって、また普通の研究者には読みにくい漢文・漢詩・仏教史料・御経・聖教であるからといってそれを排除するのではなく、すべてを見ることの必要性を確認しておくことが必要です。そしてそのためにこそ、学際的な研究態度が必要になるのだと思います。

さいごに
 以上をふまえて最後に強調しておきたいことは、現代の学問、そして国際的な規模で展開される平安時代史研究は、そのために強力な道具をもっている、つまり発達したインターネットの技術とデータベースをもっているということです。実は、来週、6月21日・22日に、私の職場、東京大学史料編纂所で、COEのジャパンメモリープロジェクトの主催で研究集会「日本学研究と史料学の国際化」が開催されます。私は、このプロジェクトの最初からのメンバーで、責任者の一人として、日本史史料のデータベース化の仕事に取り組んできました。その立場から、今、史料編纂所のホームページからは、平安遺文・大日本古文書、貞信公記・小右記などの大日本古記録のフルテキスト、そして、最近では大日本史料の版面画像が公開されていることを御報告しておきたいと思います。また遅くとも、この秋にはいわゆる『史料稿本』、未刊行部分の『大日本史料』の原稿の画像が公開されます。今後、さらに本朝文粋などの文学史料もふくむ『国史大系』をフルテキスト化することを計画しています。ようするに、今後4・5年の間に、平安時代の歴史史料の相当部分がデータベース化されることは確実です。

 平安時代は、世界の同時代の歴史のなかでみても、宮廷社会から在地社会にいたるまで、明らかに例外的に文献史料に恵まれた時代です。それを国際的な共同のなかで共有し、共同的な研究を進めることはきわめて大きな意味があるでしょう。そういう方向にむけて今回の集会が大きなインパクトを与えることは疑いがありません。

2018年1月14日 (日)

世界史の波動の図。

 この図は「世界史の波動の図」と名づけましたが、宮崎市定の『東洋的近世』と『アジア史概説』にのっている図を合成し、地域区分を若干変更し、王朝名を入れ、野生という時代を設定し、古代を神話時代とし、中世を「文明(宗教)とし、近世を文明(物質)としたものです。

 宮崎は「世界史はこれ以上簡単にできない」といっているが、たしかにそう思う。ここにはアメリカ大陸が書けないが、できれば、地球の反対側、アメリカ側も入れて、地球儀に貼り付けたものを使って小学校から教えたい。小学校でプレートテクトニクスを教えるための地球儀(プレートを記入してある物)の上に、これを重ねられるといい。子どもが世界史を一望することはきわめて重要。


20191014


 
 以下は、簡単な説明です。

 人類史というのはサル類ヒト科として半ば野生の時代が非常に長いのですが、それがおわってやはり長い神話時代があった。そこを抜けた文明の時代がいつ始まったかは色々な議論があると思いますが、哲学者のヤスパースが釈迦・ソクラテスなどの哲学思想の発生した時代は人類史の同時代を横軸のように貫いているといっていて、これが一番分かりやすいと思うのですね。だいたい紀元前五世紀から四世紀です。それは西アジアで始まり、ギリシャや中国でも同じ時代ということです。中国では孔子そして遅れて老子ですね。これと連続して、仏教、キリスト教や中国でいうと老子をうけた道教のような世界宗教が生まれて、宗教文明の時代になった。

 次は七世紀頃のイスラム文化圏の中で近代科学の原型が生まれた時代が鍵になって、物質文明の時代に入っていく。それがヨーロッパに受け継がれ、中国でもほぼ同じ時期に大きな技術の発展がある。小島毅『中国思想と宗教の奔流』で生き生きと描かれていますが、火薬にしても、印刷術にしても、この時代の中国で大きく発展する。

 これまでは人類史の発展の先端はつねに西アジアであった訳ですが、この図の上には遊牧民の動きが一貫して存在。それを通じてユーラシアの東西はつねに連動していた。匈奴が秦漢帝国におわれてフンとしてゲルマン民族大移動のきっかけをつくったのは有名な話しです。歴代の中国王朝で遊牧民の陰がないのは、漢・宋・明だけ。隋唐が鮮卑族であるというのは歴史常識のなかにないですが、ヨーロッパは二度目(ヴァイキング)で外からの民族移動がなくなった。一種の長期の平和を保障されたのが非常に大きいというのはブロック『『封建社会』』が強調するところです。これは端的にいうと中国が遊牧民族を受け入れ、そこから新しい世界と富を作っていったから、そのおかげでヨーロッパの平和があったのだと思います。ヨーロッパは、その中で外に対して積極的となり、アラビアから科学を受け入れ、他方で十字軍という攻撃的行動にでて、その延長線上でアフリカ・アメリカにでていく。コロンブスのアメリカ航路出発はグラナダ攻略とユダヤ人抑圧と同じ年であることはよく知られるようになりました。

 こうしてはヨーロッパが中心になって世界資本主義の時代がくる。一六世紀の大航海時代で地球が丸くなって、アフリカ・アメリカ・東アジアの富が大きくヨーロッパに奪われていき、それによって資本の大規模な強蓄積が行われたということになります。

 さて、宮崎のアジア史論は、戦争中に文部省が企画した『大東亜史概説』が原型で、宮崎の西アジアを中心に世界史をみるというのは(日本神話を中心にアジアを論ぜよという)日本中心主義への抵抗であったが、同時に大川的なイデオロギーによって容認されたものだろうと思う。一種の西域趣味もあった。

 アジア太平洋戦争を結果した大アジア主義の主唱者は大川周明であったが、アジア主義がアカデミーに残した最良のものは、井筒俊彦のイスラム研究と宮崎市定のアジア史論であったろう。これは文脈としては(井筒の場合は人脈の上でも)大川のイデオロギーの影響があったと思う。もちろん、日本学士院による『明治前シリーズ』(科学史・産業史など)も大きいが、これらには、やはり未発の契機というべきものがあったと思う。
 

2017年10月22日 (日)

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

 政治状況が激動期に入ったようだ。一九七〇年頃以来のことである。野党共闘の動きは学術的にも思想的にもきわめて興味深い事態であることは疑いをいれない。

 これは日本社会の中にある対抗関係が大きく変化したということではないかと思う。一種の二極化である。そこでは従来の「保守・進歩」という対立の図式を考え直さねばならないだろう。歴史家から賛成するという言葉を聞いたことはないが、私の年来の主張は、日本には本当の意味での保守勢力はないが、現在、歴史家は職業者としてはまずは保守でなければならないということだった(「中世の開化主義と開発」一九九〇年発表、『歴史学をみつめ直す』校倉書房所収)。さらにまた現在の政治状況の中では「左翼・右翼」という言葉を使うことも止めた方がよいのではないかと述べてきた。右翼思想には既成の知性に対する「分かったようなことをいうな」という感情的な拒否の側面があって、「極右」の暴力に走らない限り、それも当然に思想の自由の範疇に入る価値をもっていると思うのである(ブログ「保立道久の研究雑記」。2014年11月15日2014/12/14、ブロゴス 2016年08月12日)。

 しかし、歴史家の立場から問題を厳密に考えようとすると、この列島に住む人々にとって、最大の問題が何なのか、「保守」といい、「進歩」といい、「左翼」といい、「右翼」といっても、それらが向き合うべき日本社会の問題は何なのかを正確にみきわめなければ、結局、気分に流れて行ってしまうということになると思う。それらは、所詮、符丁であり、言葉である。

 そういう立場から、私は、しばしば新自由主義といわれることの実際の内容がどういうことなのかを考えてきた。ともかく「新自由主義」というのは言葉がわるい。「新しい自由」、それは普通からみればいいことじゃないかということになる。これは符丁としても決していい符丁ではない。そして、それを詰めていくと、結局、それは人種主義(レーシズム)であり、戦争好きなのではないかと考えるようになった。新自由主義というのは、もちろん、経済思想としてはミルトン・フリードマンのマネタリズムが基礎になっているが、政治思想としてはようするに「ミリタリズム」と「レーシズム」であると思うようになった。もちろん、問題は、なぜマネタリズムが「ミリタリズム」と「レーシズム」に結びつくかということであるが、そこまで十分に書けるかどうかは別にして、以下、若干、長文となるが、まず人種主義(レーシズム)について説明しておきたい。

 さて、現在、日本・アメリカ・ヨーロッパで人種主義の動きが急である。これはきわめて心配なことであるが、私は、歴史的にいうとその基礎にあるのは、やはりヨーロッパだと思う。その根はきわめて深く、十字軍の時期以来のヨーロッパによるイスラム文明に対する挑戦、「追いつけ追い越せ、奪い取れ」という対抗文化にからめとられているのではないか。その文化的気分がベースとなって、政治家による中東移民が社会の困難を作り出しているという宣伝が被害感情を生みだし、ヨーロッパに広範な「イスラム差別」が生み出されているようにみえる。

 問題は、これがきわめて曖昧で不定形の歴史意識としかいえないようなものであることである。それはいわばヨーロッパに居住する人々個々人がもつ微細な歴史意識の誤差が社会意識の歪みとして集合的に現れたものといえようか。私はそこで動いているのは現在の世界史がヨーロッパ地域に生み出した「気分」というべきものなのではないかと思う。つまり、現在の中東における戦争状態は、第二次世界大戦中からのアメリカの帝国的な中東支配が作り出したものである。アメリカこそが、中東の戦争と苦難を生み出し、大量の人間の死と故郷喪失を生み出したことは誰が見ても明らかなことである。その中でヨーロッパの人々は次のように考える。つまり、「悪いのはアメリカだ。それなのに、何故、ヨーロッパが中東の困難に関わらねばならないのか。たしかにヨーロッパは第二次大戦で大きな困難を経験し、ヒトラー・ナチスは最悪のことをした。しかし、アーリア人種主義は克服され、民主主義社会が実現された。ヨーロッパは二〇世紀のナチズムを乗り越え、償ってきた。今になって、なぜ、問題の直接の関係者にならねばならないのか。理不尽であり、理解できない。静かにさせてくれ」という意識である。

 彼らの視野には、ヨーロッパがアメリカの世界支配を利用しつつ共同で世界から利益をうけていた共犯性は入ってこない。また中東の困難の直接の歴史的由来が19世紀におけるヨーロッパの中東支配と、その最後の無責任ともいうべきイスラエル建国を推進・容認したバルフォア宣言にあることも視野には入らない。さらには16世紀以降の世界資本主義の形成がまずはアフリカと環インド洋地域からの収奪によって支えられていたという歴史認識もない。こうして彼らの意識は一挙に、ヨーロッパとイスラム世界との文化的対抗と衝突という十字軍によって象徴されるイメージにすっ飛んでしまうのである。それはその意味で世界史が生み出した「歴史気分」のようなものであり、こうして、その中核には中東の諸民族を差別する「人種イデオロギー」を中核にもつものとなるのである。

 その意味で、この「人種イデオロギー」は世界史的に新たに登場した独特なイデオロギーのあり方、社会意識のスタイルなのであって、そのようなものが現在の世界史の重要な構成要素となっているのである。このような独特な歴史意識、より正確にいえは世界史意識は、もちろん、ヨーロッパが一人で産みだしたものではない。それは一九八〇年代のサッチャー・レーガン時代を基点としてヨーロッパ・アメリカの国家意識の交流、そしてそのつぎには社会意識の奔流のような交流のなかで生み出されたものであるといってよいと思う。その社会経済的根源には、この時期以降、明瞭に動き出したナオミ・クラインのいうショック・ドクトリンを具備するにいたった資本主義、そして情報資本主義の急速な発展があることもいうまでもない。その中で、九・一一事件が発生し、それに対して、世界史的愚劣ともいうべきジョージ・ブッシュの「十字軍」宣言が行われ、イラク戦争が中東地域の社会政治状況を決定的に不安定化させ泥沼化させた。

 そして、現在は、ブッシュ以上の「お馬鹿」がアメリカ大統領となって赤裸々なレーシズム、白人至上主義を鼓吹しているというのが歴史の流れである。これがきわめて醜悪なのは、この人種差別がヨーロッパとは違って直近の人種差別の体制、20世紀の人種差別の由来を引いていることである。16世紀以来のネーティヴ・アメリカンの諸民族に対する「人種差別」と、一八世紀以来のアフリカン・アメリカン差別、さらには19世紀以来のユダヤ民族や東欧・ラテンアメリカからの移民に対する差別の根を深く引いていることである。現在、それが一挙に中東の人々に対する「宗教的・人種的差別」、「イスラム」差別に拡大している。アメリカは多民族構成国家でありながら、その支配イデオロギーは人種差別にあり、アメリカの多民族構成資本主義においては民族を「人種」の名の下に身分差別し、賃金を抑え、人々を分断することは根がらみのやり方であった。それは、ネーティヴ・アメリカンの人々、強制連行されたアフリカン・アメリカンの人々のみでなく、後からくる移民に対する差別をもふくんでいた。もちろん、そういう中で、一九六〇年代から七〇年代にかけてのマーチン・ルーサー・キング牧師などの動きをふくむ社会運動の中で20世紀の人種主義の根は一度断たれたかのような雰囲気をみせた。ヨーロッパと同じように、アメリカは人種主義を超克したという訳である。しかし、実はその岩盤はきわめて強固であって、後退したかのようにみえた正真正銘の人種主義が、レーガン以降、急速に肥大化した。そして、現在のトランプ政権下のアメリカにおける人種差別の実態は、その醜悪なる結果であることはいうまでもない。

 そのような直近の歴史を連続的に引いている点では、日本も同じである。つまり、「大東亜戦争」を主導した「八紘一宇」「皇国史観」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーはナチスと同じく、「神話」によって嘉せられた日本の「現人神」たる天皇制とそれに連なる血統・人種こそが世界支配者となる使命をもつのだという明瞭な人種主義イデオロギーであった。しかも、それは、アジアでは日本のみがヨーロッパと対抗できる使命をもっており、それ故に、日本はアジアから離れて、それを支配する地位に到達しなければならないという明治時代以来の「脱亜論」をともなっていた。というよりも、この「脱亜論」によって、日本国家のアジア侵略は合理化され、それによって天皇制的人種イデオロギーが形成されたといった方が事態を正確に反映しているといえるだろう。それはまさに世界支配の思想だったのであって、それによってこそ、ナチスと日本の軍事同盟は、両者が人種主義イデオロギーにもとづいて世界分割をするという了解に達したのである。

 もちろん、日本国憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べ、「戦争」の中で強制した「隷従、圧迫と偏狭」、ようするに人種主義を法的には廃絶する精神を含んでいる。それは、第二次世界大戦において、その中枢にいた昭和天皇自身がいわゆる「天皇の人間宣言」において、神権的な人種主義イデオロギーを基本的なところで離脱したこととセットになっていたのである。日本の王家が、ここ三〇年ほどの実際において、日本国憲法の精神にそって行動してきたこともよく知られている。

 しかし、自民党や経団連の一部などの国家中枢部には、第二次世界大戦で頂点に達した人種差別イデオロギーは根深く生き残っている。彼らは、中国・韓国から東南アジアに対する神権的な人種主義イデオロギーの強制と、それにもとづく植民地支配、戦争侵略の歴史事実を認めず、その事実を隠蔽することにいまだに固執している。彼らは第二次世界大戦において日本は敗北し、その戦争犯罪を認め、その証として日本国憲法が成立し、天皇が国政に対する権限をもたない「象徴」の地位になったことを承認しようとしない。彼らは、戦後世界秩序の公理そのものを承認しようとしないのである。

 これは事柄の性格からして人種主義イデオロギーの維持という本質をもっていることは明らかなことである。しかし、きわめて奇妙なのは、この国家の歴史意識がヨーロッパよりもさらに曖昧であって、そもそも、国家中枢に人種主義、レーシズムが存在するということがほとんど意識されていないことであろう。国民の多数は、我々は第二次世界大戦で敗戦したとはいえ、その経験を克服し、人種主義などという大層な思想とは無縁であると考えている。そもそも、大日本帝国のイデオロギーがナチスとならぶ人種主義であったという世界史についての常識も存在していないし、さらに正確に言えば、大日本帝国のイデオロギーというものがどういうものであったかはほとんどの人が知らないというのが実際である。第二次大戦前までの日本国民のほとんどが信じていて皇国史観の中枢をなした神々の物語り自体をほとんどの人々は知らない。アマテラスという名前だけは知っているが、その物語はほとんど知らず、誰でもが知っていた、アマテラスがこの国土の支配権を天皇家にあたえた天壌無窮の神勅のこともまったく知らないという脱色された世界である。国家中枢部にいて「大東亜戦争」の正統性を信じている人々さえも、実は詳しいことは知らないという奇怪さである。

 そうである以上、背後に「日本会議」があって主導したといわれる、現政権、安倍政権の国家イデオロギーもきわめて曖昧である。その中軸には大日本帝国の天皇制イデオロギーと神話史観があるはずであったが、現在の天皇家自身が現憲法秩序の一部に安定的に入っており、そういうものからは断絶している。それ故にそこにあるのは建前だけの国家史観、内容のない枠組みにすぎない。しかし、それでも、それは人種主義的なイデオロギーと雰囲気をしみ出させる。私にとって、それをあまりに反国民的・反民族的な姿において示してショックだったのは、辺野古基地拡張の反対運動を抑圧するために本土から覇権された機動隊の青年が、沖縄の人々に対して「土人」と罵ったことであった。また韓国・朝鮮・中国の人々に対するヘイト・クライムが日本社会の中には濃厚に持続していることもいうまでもない。中身のないイデオロギーが、このような行為に人々を走らせるというのは、きわめて怖いことだと思う。

 問題は、その歴史的文脈である。つまり、まずそれをささえているのが、明治時代の脱亜論と同じ、東アジアからの「分離」の意識であり、しかもそれが、今回は、アメリカの世界支配にのみ込まれることよって「脱亜」するという志向であったことである。東アジア諸民族を一括して、日本民族とは異なる、「我々は脱亜だ」という心理は民族とはことなる基準での差別、非科学的な「人種差別」の論理にならざるをえない。

 もちろん、私も、アメリカ経済への編入は敗戦国としてなかば必然的な当然の方向であったと思う。戦後社会の復興、戦後資本主義の復興につとめた経済界の動きにも尊重するべきものがあるのはいうまでもない。しかし、歴史家としては、日本資本主義の復興が朝鮮戦争特需から始まり、それ以降、アメリカの側にたって「脱亜」の立場を取ったことまで合理化することはできない。何よりも問題なのは、レーガン・ブッシュ以降の新たな戦争の危機をはらみはじめた世界情勢のなかで、日本の国家中枢が、共和党中枢からトランプにいたるアメリカ人種主義の中枢に従属する姿勢を明瞭にしたことである。日本の国家中枢部はここで、客観的には、ヨーロッパ・アメリカを席巻する新たな人種主義イデオロギーの中に、「脱亜論」を位置づけ、ヨーロッパ・アメリカの人種主義的風潮にことよせて、第二次世界大戦における日本の人種主義イデオロギーを復権するという立場に立ったのである。私は、彼らが自分たちがどういう立場に立ったのかを十分に認識できていたとは思わない。彼らは、世界の大勢ということを理由にしてアメリカに追従したにすぎない。しかし、彼らの選択した立場は、客観的にはそういうことである。

 こうして、日本の国家中枢部が人種主義的なイデオロギーに固執するなかで、アメリカの支配層に対する拝跪と従属を強化し、自己が無内容であるだけに、アメリカの人種主義イデオロギーに影響されるというきわめて奇妙な事態が生まれた。これは二度目の道である。これは振り返ってみれば、戦前の大日本帝国が人種主義イデオロギーを共通基盤としてヒトラー・ナチスと結合したことと同じ図式であるといわざるをえないだろう。

 日本社会にとって深刻なことは、このような国家中枢の動きが、アジア経済の拡大と変転、アジアからの経済的なキャッチアップを恐れる意識、そして巨大な中国経済に対する不能感、ダイナミックは韓国の経済と社会の動きに対する不安感などなどをベースとして生まれていることである。さらに最近、ガバナンスや透明性の欠如、企業倫理の欠如などが国際的に明らかになっているだけに、日本資本主義は失速とミスの恐怖感に襲われるようなことがあれば、この混迷はいよいよ深まることになるだろう。

 こうして、世界における人種主義の新たな登場の中心はアメリカにあったが、そのベースはヨーロッパにあり、その反対回りで、アメリカと日本の人種主義的動きが始まったということになるだろう。私は、この基礎となった最大の条件は、たとえば二〇一六年一月の世界経済フォーラムでは世界の資産保有額上位六二人の総資産額が下位五〇パーセント、つまり世界人口の半分の人々の総資産に匹敵するという異様な格差拡大の中にあった。これは世界資本主義の中心、アメリカから始まったが、ヨーロッパでも日本でも、さらにロシアでも中国でも、そのような実態は拡大している。巨大な生産諸力と富の集積のなかで発生した、巨大な階級間格差であって、これは歴史上で初めてのことであるといってよい異様な事態である。この富の集積は単なる奢侈や贅沢を諸個人に保障するというレヴェルのものでなく、富を集中した階層に一般人とはまったく異なる生態系と環境を作り出すものであって、そこには異なる動物が発生しているのである。そして富の集中が極端になれば、そのトリクル・ダウンもそれなりの規模をもつことになり、そこには様々な寄生動物、いわゆる労働貴族などが生息している。こうして、特殊な富者と普通の人間・労働者の生活・環境の相違は、両者が生態系と身体的自由の範囲が絶対的に異なる別の動物であるかのようなレヴェルに達している。1パーセント以下の超富裕層が国民の生産諸力と資産の大部分を横領するという状態が固定化するなかで、実現しているのは、下層の人々は、実際上、一種の労働種族、労働動物にすぎないというシステムである。

 一六世紀の世界資本主義の形成の時期には、ヨーロッパでも大量の人々が浮浪化した。マルクスは彼らを労働種族と呼ぶと同時に、プロレタリアートと呼んだが、これはラテン語のProlesからきたもので、人間らしい資産はなく子供を作るしか能力のない種族という意味であった。同じ時期、たとえばアフリカ・アメリカやインドなどをみれば明らかなように世界では大量の人々が人間として扱われず、死の運命に追い込まれ、あるいは殺された。現在のような巨大な階級格差の拡大という事態は、そのような人間の動物視、労働者蔑視、いわば資本主義的な人間の動物視が新たな形で現れたものといえるように思う。現在の世界史における新たな人種主義の浮上をどのように捉えるかは、たとえばネグリの『帝国』が先駆的な指摘をしているように、今後とも様々な議論があるであろうが、私は、その基礎的な条件は、このような超資本主義ともいえるような資本主義の状況にあるのではないかと考えている。

 このような状況は世界を16世紀からの長期の時間のなかでみること、それゆえに「未来」を見ること、その意味で学術の本質のところから「進歩」の立場を取ることという、歴史学にとってはきわめて困難な、しかし、もちろんそれなくしては学問としての社会的責務を最終的には果たすことができないという課題にぶち当たらせることになる。「進歩」の立場から「保守」をカヴァーする形で学術世界に貢献するという歴史学固有の役割にぶち当たらせる。

 なお、最後に人種主義(レーシズム)というもの、それ自体について確認しておきたい。ユネスコは第二次世界大戦後、この問題を重視して議論を重ね、「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」と結論している(一九六七年声明)。ようするに、「人種」という言葉自身が民族間に身分秩序(ハイアラーキー)をもちこむ無根拠な言葉であるというのが、当時の段階での分子生物学、人類学、歴史学などの参加の中での結論であった。これは世界の学術世界における一種の公準というべきものである。それ故に、歴史学にとっても、人類の誕生、世界への拡散、様々な神話から説き起こして諸民族の歴史にまで説き及び、この公準を説得的なものにしていくのはもっとも重要な仕事であることはいうをまたない。

 人種差別とは、特定のエスニック集団をもっぱら、肉体的・動物的な特徴に還元するイデオロギーであって、そのエスニック集団を同じ「類」と認めないというものである。それ故に、これは一面で、身分差別のもっとも奥深い根拠になり、身分的特権や身分差別の差別の心情を増殖させる。もう一面で、これは女性と男性の肉体的相違を差別的にとらえて、人間を「第一の性」と「第二の性」に区分する男権主義と、必ずといってよいほど響き合うことになる。そしてそれは戦争好き(ミリタリズム)に接続していく。ようするにレーシズムとは身体とその欲望への嗜癖の心情全体の温床なのであり、それが民族間関係、世界的な背景の下で語られる場合はレーシズムにならざるをえないという構造になっているのであるのであるが、現代のイデオロギーはすべて直接にグローバルなものとならざるをえず、すべてが突き詰めたところでは結局人種主義に融解していかざるをえないのである。
 このようなレーシズムにたいこうするものは、単純な「人類意識」、人類は同じという事実であり、その意味でのヒューマニズムになっているのだと思う。これは19世紀とのもっとも大きな相違かもしれない。

2017年7月17日 (月)

「『人種問題』と公共―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」

 先日、国際理解教育学会での報告レジュメです。
 素人のアメリカ論で、しかもレジュメですので、読みにくいと思います。

「『人種問題』と公共性・市民性―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」
                20170715保立道久 国際理解教育学会報告
前提としてーー国民・民族・人種について
 世界的に多民族状況の中での公共性を考える必要。他民族の公共性を否定する現状。世界の公共性を考えるために、多民族国家としてのアメリカ論が必要な時代。アメリカへの関心を研究と教育の世界で共有すること。

国民の定義ーー「国民=Natinal」「想像の共同体」B・アンダーソン
 国籍、市民権。日本国憲法一〇条「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係。神聖な実体ではない(レーガン「(アメリカ市民権は)わが国民のもっとも神聖な所有物」)。「物」に執着する「国家主義(スタティズム)」。
 国籍保持者=国民の利益=国益の自決の原則。The Right of Nations to Self-Determination(民族自決権ではなく、国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳すべき)。レーニン「平和に関する布告」→ウィルソン「十四か条の平和原則」→ヴェルサイユ条約→国連憲章(第1条2)「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」。相互に国益の自決権を認め、無用な衝突や戦争をさける。 

民族の定義ーーエスニシティ
 ネーションは誤訳。ナショナリズムという言葉、国民・民族にまたがり適当でない。
J・S・ミル『代議制統治論』の古典的定義(オットー・バウアも同じ)。
「人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として、歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいう」。
 本質は後者の歴史的経験。長い歴史的経験の共通性と運命による協同意識。内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、民族性が生まれたという。民族を成り立たせる「共通性」は固定的なものではなく、一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在しうる。多様かつ状況的で可変的なもの。しかし、国民とは違って法律的=想像的ではなく実在する関係。エスニック集団の否定は、一種の民族虚無主義

スターリンの民族の定義?
 「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」(『マルクス主義と民族問題』)。
 この四条件をもつ集団のみを民族とする、民族の行政的(恣意的)定義。「民族」を「国民」にほぼ近似したものに限り、多様なエスニックな存在を「人種あるいは種族」にすぎないと切り捨て民族としての権利を認めない。裏返しの人種主義。ユダヤ民族などの虐殺の「理論」根拠。旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自決の権利の困難の原因。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていた。

「人種」(レースrace)の定義
「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」(ユネスコ、一九六七年『人種および人種偏見についての声明』)。人種という語の使用自体が人種主義(racism)と断定。
 リンネ「白色人種(ヨーロッパ、創意に富む)・赤色人種(アメリカ、自己の運命に自足)・蒼色人種(アジア、黄色人種、高慢・貪欲)・黒色人種(狡猾・怠け者)」と分類。
 分子生物学、生物分類学のレヴェルから批判。「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA類型というような用語を使うほかない。「人類ー人種」という言葉は問題ばらみ。普通の分類学では「類」が上位概念であって、その下に「種」がある。「類」は進化の系統が同じ動物で、それに対して「種」は相互に性交繁殖できる集団をいう。ただ「霊長類」の場合は、「霊長類」の下に「人類」があり、人類は一種であり、相互に性交繁殖できる存在である。生物学の用語法では「人種」という言葉は不要なのである。「霊長類」という用語をつくったリンネが同時に「人種」という言葉を作ってしまったのが間違い。
 哲学の「類」(独語gattung、英語genus)という概念に関わってくる。つまり人間の最大の特性が独特な意識をもつこと。フォイエルバッハは、人間の意識が動物とくらべてもっとも独自な特徴を「人間は自分自身にとって同時に我であり、汝である。彼は自分自身を他の人間の立場において見ることができる」点に求めている。人間には霊的な意識というものがあって、そこから自分と他者を同じ本姓をもつものと意識するような存在である。フォイエルバッハはこういう人間のあり方を類的性格(gattungswessen)と読んでいる。
 人種は身分制的な制度、観念としてエスニシティ間関係を作り、その形態を変化させる。人種的身分差別は、特定のエスニック集団をもっぱら、動物的な特徴に還元するイデオロギー。そのエスニック集団を他種動物として扱い、「類」と認めない。暴力を振るうものは自分を人間から人間の顔をした動物に変化させ、同時に他者を人間から動物に引き落とす。特定のエスニック集団に属するものが、他のエスニック集団に対して集団暴力を行使することであり、人種主義とは動物的な暴力の合理化意識。暴力の妄想。

Ⅰ人種主義イデオロギーの系譜とアメリカ資本主義
(1)近代人種主義の起原とキリスト教ヨーロッパ帝国
(イ)人種主義の起原と王権神話ーートマス・ペイン
 ヨーロッパ民主主義の形成を考える場合に、その外側で同時に人種主義の形成と世界化が進んだことを無視できない。人種主義を遡っていくとヨーロッパ諸国の王権の血統神話に突き当たる(フレドリクソン『人種主義の歴史』)。スペイン=ゴート、フランス=フランク、ドイツ=ゲルマン、イギリス=アングロ・サクソンとノルマンなどのゲルマン諸族の神話である。彼らはキリスト教信仰を受け入れるなかで、その神話をアダム・ノア以来の旧約聖書の系譜と奇妙な形で結びつけた。たとえばゴートの王はノアの子のヤペテの血統を引いており、イギリスの先住民ブリトン人も同じだが、アングロサクソン人はノアの長子セムにつながる血統をもっているなどの伝説である。こうしてヨーロッパ各地でゲルマンの王権神話が絶対主義王権の血の呪物性の神話(王権神授説)に結晶したのである。
 トマス・ペインは、これを一言で要約して「異教徒は死んだ国王を崇拝した。そしてキリスト教徒の世界は、このやり方を進めて生きている国王を崇拝した」と述べている(『コモン・センス』)。死んだ国王に対する崇拝とは王権神話そのものである。
 ヨーロッパ諸国の王権は、十字軍以降、イスラム帝国に挑戦する中で、それを融合させ、キリスト教的な一つの「人種」意識を作り出した。先導したのはスペイン・ポルトガルの両国。つまり一四九二年の一月、スペインはグラナダを攻略して、イベリア半島からイスラム勢力を追い落とすことに成功した。そして続いて三月、ユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。グラナダ攻略の成功をうけて、スペインの対外交易に深く関わっていたユダヤ教徒の力を削ぎ、統制しようとした。ヨーロッパでは十字軍遠征の前後からのユダヤ人虐殺(ポグロム)がしばしば発生したが、これによってヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別の体制が決定的となった。
 ユダヤ教徒に対する「人種」迫害は、キリスト教徒を特別な人種ととらえるイデオロギーを成立させる。ドン・キホーテが自身のことを「光輝あるゴート人」と自称し、サンチョが「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、「ゴート人=キリスト教徒」をもってイスラムやユダヤ教徒と差別化する強烈な意識。
 スペインで、世界的な人種主義イデオロギーの枠組みが作られた。「人種=レース」という言葉自身が、スペイン語のrazaから始まった。「カスタ(種姓=身分)」という言葉もイベリア半島で個々のキリスト教徒としての筋目の正しさを表現する言葉。これがポルトガルによってインド支配に導入され、それをイギリスが受け継ぐなかで、英語にもカーストという言葉が入り、それによってインド身分制度の一般的な表現になったのである。

(ロ)スペイン・ポルトガルの環大西洋支配
 このスペインで作られた人種身分のイデオロギーがアフリカやアメリカの諸民族にもほぼ同時に適用され、一つの世界的な人種主義イデオロギーに展開した。
 つまり、グラナダ陥落の翌月、イサベル女王はコロンブスの出航計画への支援を決断した。コロンブスの計画は、大西洋を西に航海してインドに到達するという破天荒なものであったが、その構想はイスラム世界をインドの側から包囲し、また中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を最終的に追い落とすこと。グラナダ陥落、ユダヤ人の改宗統制という経過のなかで、それと一体となった世界進出の野望を抱いたのである。
 コロンブスのアメリカ大陸への到達によって、スペイン・ポルトガル両国は世界侵略の拠点として、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を獲得した。両国の急速な世界帝国化であり、これにオランダ・イギリス・フランスが続き、ヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略の衝動に身をゆだねた。それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきもので、多頭の複合帝国であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴。このヨーロッパキリスト教帝国の中核に「キリスト教人種」意識があったことは否定できない。

(ハ)大西洋クレオールとアフリカ奴隷・アメリカ先住民
 イベリア両国の帝国的発展の基礎となったのはアフリカ西海岸への勢力拡張であった。一五世紀にはポルトガル・スペインは西海岸で金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、マディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいていた。
 この地域に進出してアフリカの人々と商業などの恒常的な接触をもつ人々が登場した。彼らは現地で生活を営むなかでアフリカの言語を操り、西海岸の各地に商館を設置してネットワークを広げていった。職業は上級の商人から船員、あるいは通訳や乗組員などさまざま、彼らはクレオールといわれるようになった。
 コロンブスは、到着したカリブ海に金を産する島を発見し、結局、その島の人民を絶滅させ、さらにカリブ海の社会の全体を崩壊させた。アメリカ侵略はすぐに大陸に及び、一五二一年にはアステカ帝国、一五三二年にはインカ帝国を圧伏し、支配拠点として商館を中心として城塞都市を造り出した。クレオールたちはアフリカ西海岸にいとなんだ商館のネットワークを大西洋をこえてアメリカ大陸に拡大したのである。
 長く世界から孤立していて天然痘などの伝染病に免疫をもたなかったアメリカの人々は大量に死んでいき、各地で人口は激減した。そして、その労働力を補うようにして、アフリカの人々がアメリカに奴隷として連行された。

(2)WASPイデオロギーとアメリカ植民奴隷制国家
 ここに生まれたクレオールーーアフリカンーーアメリカ先住民の間の関係が、肌の色の相違にもとづく「白人種」という人種差別のイデオロギーの体系を作り出した。十字軍は「キリスト教人種」という観念は生み出したが、それは「白人種」という観念ではなかった。人々の移動が各大陸にほぼ限定され、出自や共同体・職能集団にもとづく不平等が普通であった前近代のヨーロッパ社会内部で「白人種」という観念は生まれようがなかった。

(イ)WASPイデオロギーと植民侵略国家
 トーマス・ペインはアメリカの独立とイギリスに対する戦いを呼びかけるなかで、「イギリスではなく、ヨーロッパがアメリカの祖国だ。この新世界はこれまで、ヨーロッパの各地方で市民的・宗教的自由を求めて迫害された人びとのための避難所であった。彼らを生まれ故郷から追い出したのと同じ暴政が、今、その子孫をつけねらっている」(『コモン・センス』)といっている。これは絶対主義反対の主張、フランス革命につらなる。
 しかし、ペインはイギリス国王を批判するのに、その野蛮さは「インディアンにも勝る」「インディアン黒人をけしかけて我々を滅ぼそうとしている」とし、先住民やアフロ・アメリカンへの支配を当然視する。これはアメリカ独立宣言がイギリス議会が「植民地の善き人民の正義の声と血族の訴え」に耳を塞いだと恨み言を述べているのと同じこと。先住民とアフリカ大陸出自の人びとの位置を無視している本質は同じ。ここには「白人種」人種主義の成立がある。「アメリカ市民の体内に流れている同類の血はーーアメリカ市民の連邦を聖別している」「偉大な帝国の同胞市民」(マディソン『ザ・フェデラリスト』)
 アメリカ連邦憲法(一条二節三)は選挙権をもつ「自由人」を規定しているが、これは実質上、「白人」憲法である。ネーティヴ・アメリカンやアフロ・アメリカンは「自由人」ではない存在としてそこから明瞭に排除excludeされている。アメリカ連邦憲法は彼らに対して人種主義を宣言した憲法として成立した。キング牧師、「はずかしい憲法」。
 次に人身売買と暴力的強制によってアメリカに連行されたアフリカ大陸出自の人びとを移民ということはできない。彼らも憲法において「自由人以外の人数」として扱われている。アメリカが「移民の国」であったというのは問題が多い。
 19世紀アメリカの人種主義はの中心はWASPの人種主義(White(白い)Anglo-Saxon(アングロサクソン)Protestant(新教徒))にあった。その後にやってきたアイルランド人、ドイツ人などの新しい移民たちは、特権人種WASPをトップとする階層的な秩序に組み込まれていったのである。南北戦争の最中にイギリスの『タイムス』が「(南部の)我々の同族たちにあらゆる精神的な支持をあたえる義務がある」と主張したことは、この段階になっても、イギリスの支配層がアメリカの奴隷主と「同族」のアングロ・サクソン意識をもっていたことを示す。そして『タイムス』が北軍を「略奪者や抑圧者の雑種種属(a mixed race)」と罵って南軍の勇敢さをたたえるのは、ようするに北軍をアイルランド人、ドイツ人さらにはアフロ・アメリカンの混成部隊と蔑視していることを示している。ここにはWASP奴隷主の下にいる「雑種種族」、ドイツ・アイルランド・アフロ・アメリカンなどが連携せざるをえないという状況が明瞭に現れている。

(ロ)アメリカ先住民文明と国家への植民侵略
 白人人種イデオロギーは、アメリカ先住民を「赤」あるいは「褐色」人種とし、東アジアの諸民族を「黄色」人種と一括することによって世界的なイデオロギーとして完成した。
 一八世紀まではアメリカ大陸の中心はヨーロッパに近いカリブ海、さらに金銀鉱山のある中米・アンデス地域にあった。スペイン人はメキシコ・リマ・クスコなどの城塞都市を作り、アステカ・インカ両帝国の支配機構を利用して周囲の農村地帯の支配は現地首長にゆだねるというやり方をとった。このためアメリカ先住民は奴隷化されて連行されたアフリカンとは違って、その文明から切り離されることはなかった。彼らはその地位を前提としてスペイン人クレオールたちの拠点都市に必死になって入り込んだ。都市に居住するクレオールの側でも従者や見習いの労働力は必要であったから、彼らの間に、徐々に労働や婚姻の関係がうまれ、こうして「混血」のメスティーソという存在が広く登場してきた。
 これに対して北アメリカはむしろ辺境であって、イギリスは、そこに定住農業を営むところから植民を始めた。当初はネーティブ・アメリカンの協力をえる側面も強かったが、続々と形を整える先住民の諸民族の国家との条約関係を拡大し破棄し、侵略を強化した。南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由はネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。ワシントンを初めとして一九世紀半ば過ぎまでは大統領はほとんどインディアン・ファイターであった。
 アメリカ先住民はアメリカの大地の本来の領有者であったが、ヨーロッパ人の植民活動によって一九世紀にはきわめて狭い居留地に追い込まれ、それ以外の土地をすべて剥奪された。ここにネーティヴ・アメリカンの諸民族が、ある意味で一つの「民族」として行動せざるをえない歴史が始まった。

(ハ)「白人種」イデオロギーとアフリカ人種
 「白人種ー黒人種」という人種身分は、人種主義の上でもっとも重大な身分となった。ここでも聖書に記されたキリスト教的な「人種」知識は大きな役割をした。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。そして旧約聖書の創世記では、彼は従兄弟たちに奴隷として仕えるという不思議な呪いをうけている。
 アフリカンという人種観念はヨーロッパ王権中枢で作り出されたものである。奴隷貿易はヨーロッパの各王家が特許した奴隷貿易会社に独占されていた。広大なアフリカ大陸で言語も文化も身体的な特徴も異なる民族に属する人々が大地から暴力的に切り離された。彼らの出自を船積地によって「ギネア国」「ギネア種」などと「国」「種」(カスタ)といった言葉で区別する慣習があった。異なる民族を強制的に同一の身分とすることによって、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」身分は成立したのである。
彼らは肥沃な南部農業地帯の農場において奴隷として搾取され、膨大な資本と富をアメリカにもたらした。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあった。一九世紀半ばまでのアメリカ国家元首はみな奴隷所有者である。このアフロ・アメリカンが同時に奴隷身分であり、その刻印が植民奴隷制国家アメリカの基軸として北アメリカという大国において社会システムの中に根深く打ち込まれ、きわめて強固なものとなった。こういう中でアフロ・アメリカンは「人種」ではなく、歴史によって民族となっていった。
 南北戦争(一八六一~一八六五)における北軍の勝利、そして奴隷解放宣言(一八六三年)にもかかわらず、現実には、南部白人民主党のクー・クラックス・クランなどのテロ組織を利用することも辞さない反転攻勢によって、この時期以降、社会生活における人種分離と黒人参政権の剥奪が二〇世紀にむけてむしろ本格的に進展したのである。現実には、一九世紀後半にはドイツ人やアイルランド人などは「白人化」してWASPと一体化し、激しいアフロ・アメリカンに対する人種差別が再登場し、いわば全白人集団によるアフロ・アメリカンに対する厳しい法的差別と生活のゲットー化が進むという最悪の経過を辿った。この居住分離は現在も基本的に同様である。アメリカの人種主義の深さは「異人種婚禁止州法」が長く残り、2000年、最後に州民投票でその廃止をきめたアラバマ州では投票者の40%が禁止法の存続を望んだ事実に現れている。

(3)アメリカ資本主義とヴェブレン

(イ)資本主義と人種主義
 人種主義イデオロギーは資本の本源的蓄積、世界資本主義の形成を先導したイデオロギーであった。アメリカの特殊性はこのなかでアメリカ大陸植民と奴隷制を統合して展開したところにある。レオン・ポリアコフによれば、ナチスを結果したアーリヤ神話は、ゴート・フランク・ゲルマン、さらにはケルト諸族の神話が一九世紀に融合したもの。そこには露骨な神秘主義のほかに、一九世紀後半にアメリカで発展した人種主義優生学が合流した。ヨーロッパの人種主義はナチスの行動によって基本的な点で破綻したから、現在残存している強力な人種主義はアメリカのみとなっている。
 このような経過の最大の理由は人種主義と資本主義の結合にある。資本主義の形成はプロレタリアの形成をともなった。プロレタリアは、普通、労働者と訳されるが、本来は、ローマ時代の貧民ラテン語のProlesからきたもので、子供しか財産のない人々、子供を増やすことでしか国家に奉仕できない人々、いわば貧乏人の子沢山という意味を含んだ言葉、ようするに人間動物ということになる。プロレタリアの翻訳としては「労働種族」がよい。マルクスはプロレタリアは「個体としては弱い、絶えず狩り立てられる動物の種の大量再生産を思い起こさせる」(『資本論』Ⅰ672)、「労働者の諸要求とは、国民経済学にとってはただ、労働者を労働している間じゅう養う必要、しかも労働種族が死に絶えないようにという限りで養う必要でしかない」(『経済学哲学草稿』)などとする。
 動物としての人間の労働はLabourといわれる。これに対してアメリカの経済学者、ヴェブレンはで「勤労laborへの忌避は製作本能(Workmanship)にかならずともなうものなのかどうか」という論点を議論しているが、Labourに対するものが、製作workであると(「製作本能と忌避される労働」)。
 日本語で言えば、Labourは「勤労」。貝原益軒「養生訓」に「身体は日々少づつ労働すべし、久しく安座すべからず」とあって、「体をつかってはたらくこと」という意味。「労」の意味は「疲れる、苦しむ、力を激しく使う、骨を折る」、倭訓では「いたわしい」と読む。英語のLabourも、つらさ、骨折りが基本となる意味で、「重荷を負ってつまずきながら歩く」という意味。
 これに対して、workは「はたらく」「仕事」。もとの形は「はたる(徴る)」(『和訓栞』)。「徴る」は「強く求める、請求する」「取り立てる、徴収する」という意味。『和訓栞』は、この「徴る=強く求める」ということを自分自身に対してする、「我が身をはたる」というのが「はたらく」という言葉のもとであろうという訳である。自分が自分を「はたらかせる」。「事に仕える」、一定の目的をめがけて働く。これは職人的労働。
 一七世紀イギリスの傑出した社会改革者、ジョン・ベラーズの言によって説明すると、ベラーズは「肉体労働Bodily laborはもともと神のおきてである。労働が肉体の健康にとって必要なのは、食事が肉体の生存にとって必要なのと同じである。なぜなら安逸によってまぬがれる苦痛は、病気となって現れるからである。労働は生命のランプに油を注ぎ、思考はランプに点火する」と述べている。ここで「生命のランプに油を注ぐ」労働は勤労laborであり、ランプに点火する「思考」は労働の中に存在する目的意識であり、創造性であるのであって、製作本能workの一部であるということになる。
 資本主義とは、前近代と対比した場合、労働の目的意識を生産流通の巨大な機構が代表し、個々人の労働のWorkの側面を骨抜きにしてLabour化し、そこを基準に労働力を売買し、生産・流通システムの付属「物」として、動物として扱うシステムである。これは社会の側の抵抗によって、そのままの形では動かないが、しかし、人種主義は、このような人間の動物化に対する社会の抵抗をもっとも弱める。

(ロ)成立したアメリカ資本主義の略奪的性格ーー南北戦争後
 南北戦争後一八八〇年代に本格的な工業化と都市化の時代が始まり、この前後にアメリカは植民奴隷制社会から資本主義社会に展開する。一八六〇年から一九〇〇年のあいだに、工業投資額は一二倍に、工業生産額は四倍に増加し、アメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国へ変身していった。このときアメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国となったが、同時に金融資本主義化。株式と電信の利用。
 これは移民労働の増大の時期でもあった。一八六〇年から1900年の間に一四〇〇万人の移民。一八八〇年代まではイギリス・ドイツ、スカンディナビア、アイルランド。北・西欧。九〇年代以降は南東欧の出身者。西海岸には中国人、日本人、南西部ではメキシコ系。二〇世紀初頭に大量の移民の流入。
 東部の工場やアパラチア地方の炭坑の労働力はヨーロッパから流入してきたばかりの移民たちの労働に依存していたが、雇用主たちは、様々な民族的背景をもつ労働者たちを、その比率を入念に管理しながら各の作業場・採鉱所に配置していた。民族グループをそのまま労働隊に編成し、そしてグループを超えた組織化や抵抗を未然に防ぐ方策としたのである。フォーディズムは移民労働の組織のために創案された。一九一四年にフォードの労働者は約一三〇〇〇人、そのうち東欧とイタリアなどの移民労働者が九〇〇〇人余。作業工程の細分化にともなう労働の単純化・モジュール化は、このような移民労働組織のために創案された。労働におけるモジュール制。
 これは、ネーティヴ・アメリカンの抵抗の粉砕、フロンティアの終了(一八九三)年、そして同時にアフロ・アメリカン差別の体制確立という人種主義の再編と同時期であった。このように巨大な分裂を抱え込んだ資本主義国家はめずらしい。この分裂と差異を利潤化する運動のなかで自然も肉体もすり減っていった。 

(ハ)ソースティン・ヴェブレンの資本主義批判
 ヴェブレン『有閑階級の理論』は「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例であるとする。ヴェブレンの議論は該博な人類学的知識にもつづく体系であって、その論理はいわば「人種」論的な経済学というべきものである。それはWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から一九世紀末期の資本主義の確立の時代まで一貫して連続していたこと、そしてアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に指摘した仕事である。
 この略奪性が19世紀末に金融化したアメリカ資本主義における略奪性をもった「有閑階級」に遺伝している。彼らは、そのような略奪文化の歴史を前提として生産的な仕事(インダストリ)ではなく、銀行業や弁護士業などの金融的な詐取にかかわる金銭的な職業をバックとした略奪的な気質、敵愾心、習性をもっている。有閑階級の上品な生活は労働(Industryインダストリ)への寄生であり、労働は、その中で「製作本能(Workmanship)」の面よりも「勤労labor」の面を強くしている(三五九頁)と論じた。
 ヴェブレンーガルブレイスの系統に代表される制度派経済学は、ケインズ主義経済学と相互影響しなはら、アメリカ経済学の反主流として強い影響力をもっている。「ヌン兼的市場経済制度が円滑に機能するためには社会的共通資本の強化が制度条件であって、その社会的共通資本は職業的専門家によって専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理運営されなければならない。
 伊東光晴は、日本を代表するケインズ経済学者であるが、その著『ガルブレイス』は、アメリカは「人種が階級をつくった多民族国家」であるという断定から始まっている。伊東は、それを強制連行された奴隷や貧困な移民が、言語・教育・技能などの諸条件による職種選択条件におうじて順次に社会階層を作り、下層が低賃金の単純労働の職種に押し込められ、その最下層に「かって奴隷であった黒人」が位置する構造と説明している。右に述べた意味での、人種主義的な暴力や身分システムがどのように形成されるかは、伊藤がいう社会階層の基本をなす職種や労働実態に論ずる必要があるだろう。

Ⅱ公共性の不在とアメリカ民主主義

(1)私人自由主義イデオロギーー市民権の不平等と社会権の不在
①リバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)
 憲法の「自由人」規定、自立した強者が自由を謳歌し、選挙権をもち公共の主人となるのだというアメリカ的な「共和主義」の観念。このようなイデオロギーのことをリバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)というが、これは現在も生き続けている。「一九世紀の確信は、あらゆる個人が全力をあげて自分のために努力することによって、また機会がありさえすればいつでも隣人を踏みつけることによって進歩は生じるという考え方」(パース「進化の三様式」)。

②労働の尊厳と公共性
 公共性とは人間が「類的存在」であるという公理を社会に貫くことであるとすれば、その基礎は労働の尊厳にある。それは労働のworkとしての専門性を相互に評価すること、そして労働のlaborとしての自然性を提供し合うことにある。前者は専門性のネットワークの中に社会構成員の全員が組織されることであり、後者は身体的自然の再生産と環境的自然の持続的開発に全員がかかわることであるはずである。労働の「労」は身体に関わり、「働く」は社会的職能にかかわる。「労」はコミュニティを通じて身体・家族と環境に関わる。「働く」はアソシエーションを通じて社会の分業に関わる。
 そのようなworkとlabourを環境と歴史の中に感じることができる社会が「公共」の原点。それを諸民族と国家が総括することにより、逆に専門性のネットワークとコミュニティが強化され、国家が軽量化していく道筋を構想すること。
 アメリカのインフラは、その建設が下手をすると南北戦争の後くらいまで遡り修理が大問題。水路・橋・道路などは奴隷労働あるいは差別された労働で作られたことが多く公共で作ってきたという意識が弱い。貧しい自治体は道路が荒れ放題になるという公共心のなさはこの歴史をひいている。

③植民奴隷制国家由来の人種主義と公共性
 植民奴隷制国家においては、奴隷を所有し、先住民の所有を犯すばらばらな原子のような人々の間では社会的連携が生まれない。人種差別がある中での公共とは、自分たちの仲間にとっての公共にしかすぎない。うまれるのは上昇志向サークルと利己派閥ネットワーク。アメリカ社会における個人主義とは、しばしば派閥ネットワークに属していくための「個人的な友人」関係を重視することと一体となっている。トクヴィルは、これをアメリカで非常に多い任意団体、結社の存在に結びつけて語っている。アメリカの結社が、しばしば、実際上は、二大政党の派閥的なネットワークに入っていくための入り口になっていることは無視できないところだろう。身分制社会には結社の自由の発展は困難。

(2)植民連邦制と公共性
①植民地型連邦国家アメリカ
 アメリカ人の大国意識の裏側には個人主義=民主主義=連邦国家という等式がぴったりと張り付いているのである。しかし、アメリカ連邦制は深刻な問題を抱えている。
 アメリカの連邦制は、植民地型の連邦制。北米植民地はイギリス領の段階で先住民を国家とみなして条約をむすんだが、それによって割譲され占有した土地はイギリス国王に帰属するもので、各植民地政府はその代理とみなされた。対英独立の戦争はイギリスと先住民に対する二正面作戦として闘われた。植民地連合にとっての強敵は実際には先住民の部族組織であり、ここを起点として、彼らはそれに対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。対英独立戦争に勝利した連邦はこの国王の位置に就いたのである。
 もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「邦」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、ショーニー族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連邦はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。
 ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。この横領体制を法的に固めたのが合州国憲法。インディアンは「その他すべての人々」および税負担の免除つまりインディアンとの通商を規制することは(諸外国および諸州間の通商と同様に)連邦権限とされ(憲法一条八節三項)、また各州は条約締結の権利をもたないとされ(同一条一〇節一項)、さらに連邦は「直属する領土」を支配するとされている(同第四条第三節第二項)。領土とは各州の外側に広がる先住民の居住する大地のことである。植民地型の連邦制国家の憲法の中でも、連邦成立の根拠が先住民との条約(戦争と占領)の関係にあることが書かれている国家はめずらしい。
 この連邦制の根本的由来(植民地型連邦制)をベースにして、民族分布の濃淡、多様性にともなう多様な人種差別、地域差別が状況をきわめて困難なものとしてきた。

②アメリカの地方制度
 アメリカ憲法は連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。つまり福祉や教育(初等から大学院まで)それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。弁護士・医師などの専門職の資格付与も国家資格ではなく、州政府が行う。
 州(五〇)は「郡、county」の行政区画(全国で三〇〇〇余)に区分されており、その基礎単位は自治体で、その中には憲章を有して自治権を強めて「市」というべきものになった自治体と一般のタウンがある。これらの「郡」「市」「町」などの自治体は約四万にも上り、ほかにも独自の自治的行政を行う学区・特別区などが約五万もあって、その規模や権限が多様であることがアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしている。
 小規模な自治体では市長をおかず、理事会が運営者であったり、運営を外部の行政会社に委託するなどという極端な場合もある。これは田舎の寄り合いがそのまま現代に続いていると考えれば分かりやすい。警察は自治体警察で、刑務所も自治体で運営する。
 これは政府権限の連邦・州分割といわれるが、これは行政の責任を曖昧にする。まず問題なのは、その配分は、基本的には所得税の約八割が連邦、売上税の約六割強が州政府、財産税の九割以上が自治体という配分になっている(なお、連邦に行った所得税の残りが州、州に行った売上税の残りは連邦)。実際には行政責任を曖昧にするものであって、行政の系統性と民衆奉仕を困難にする。アメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。
 連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまう。
 教育予算の財源は自治体の固定資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる。

③連邦制の国際比較ーー財政調整制度
 連邦制の国際比較。ヨーロッパの連邦制はなかば自生的なもの。それは連邦を構成する各邦・各地域の間での財政調整の方式をともなっていた。同一のパイをどう分けるか。
 たとえばドイツ。ドイツ帝国は帝国(ライヒ)が関税、州(ラント)は所得税や地税、営業税を徴収するという税源分離方式をとり、帝国財政から州や共同体(ゲマインデ=コミューン)に資金を分与する垂直的な財政調整を行っていたが、二〇世紀初頭のワイマール憲法は連邦制を規定しながらも、生存権の社会的保障(社会権)などの福祉国家理念を実現するために所得税などを中央に集中した上で、州への分与の形での垂直的な財政調整を強めた(皮肉、これがナチスによる地方主権の剥奪を導いた)。第二次大戦後の憲法はドイツを「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定し、州の主権を復活するとともに、ラントやゲマインデの相互の財政調整について、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出する」役割を与えられている(基本法第72条)。こうして「豊かな州」と「貧しい州」の格差がでることのないように各州の代表者が議席をもつドイツ上院において財政的な調整が行われている。
 ヨーロッパの連邦制・准連邦制あるいは連邦制的な傾向は、以上のように各地方の教育・福祉・道路・インフラなどの公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度を伴っていた。このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつ。これが、ドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。
 これに対してアメリカ連邦制は「財政調整なき連邦制」といわれる。「豊かな州」と「貧しい州」、「豊かな市町村」と「貧しい市町村」が生まれるのは自由競争である以上やむをえない。能力と必要に応じて儲かる企業を連れてきて州財政を維持すればよいという「市場競争型連邦制」といわれる。
 (元首クリントンの行政指令一三一三二号)「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」などとある。州や市町村の抱える問題は、そのレヴェルにまかせ放任する。
 クリントンはレーガンが開始した連邦政府による州や自治体への補助金を削減する動向を拡大。これによってローズヴェルトからケネディ、ジョンソンへと続いた公共分野におけるナショナル・ミニマムを追求する民主党の論理を放棄していったのである。

2016年7月 1日 (金)

グローバル経済と超帝国主義ーネグリの『帝国』をどう読むか

 ネグリの『帝国』をどう読むかを先週から考えている。ハーバートからでた『帝国』はさすがに私などには面白い。アメリカの学界が歓迎し、一時非常にはやった理由もわかるような気がする。

 例によって時季はずれだが、私自身の仕事との関係では、私は8世紀までは日本列島上の国家は「民族複合国家」であると考えているので、帝国が人種的区分を重要な要素としているという『帝国』の議論が面白いのである。訳本の247頁は歴史理論でつかえると思う。

 しかし、木畑洋一氏の『20世紀の歴史』(岩波新書)はネグリへの評価が低い。また柄谷行人氏の『世界史の構造』でも評価が低い。私も、下記のように批判はあるのだが、ネグリの議論の開拓者としての位置はあるのではないかと思う。

 下記が一応の総論のようなもので、批判が表にでるが使えるところは他にもあると思う。

 アメリカは民族複合国家であって、国民国家であったことはない。アメリカ帝国は「国民国家」として帝国であったことはないのである。アメリカが世界の帝国的な構造の中枢にいることは明らかだが、その帝国的な構造それ自体はアメリカをふくめた個別の国家を超えて、むしろ国家と国家の隙間の時空に広がっているもので、それは二〇世紀前半までの帝国主義とは異なるもの、いわば超帝国主義というべき実態をもっている。

 経済のグローバル化ということは、たとえばアメリカ・ヨーロッパ・日本などの経済が世界経済をグローバルに動かしているということではない。そこではすでに個別の国家が単位ではなく、経済活動を動かす主体自身が国際資本そのものとなっている。多国籍企業というのは、国籍を前提とした表現だが、資本はそれ自身は国籍を意識しておらず、それを超越する場、「国」と「国」の境界領域を自分たちの棲処にしている。

 こういうグローバル経済の在り方を超帝国主義と名づけるのは、それが個々の国の「帝国主義」を超える存在だからである。それはよく知られた二〇世紀後半の資本主義の情報化にともなって成立したものであって、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』が指摘したように、アメリカのように巨大な国家も、国家として現代の「帝国」=「超帝国主義」を統御している訳ではない。ネグリの言い方では、「帝国」は「権力の領域的な中心」をもたない。「帝国」はグローバルな領域の全体、その隅々にまで宿っている。「帝国」の主権の空間はグローバルに均質で滑らかであって、そういう平滑空間のなかには「権力の場所」は存在しないということになる。

 私は、このような世界資本主義の状況を「超帝国主義」という言葉で表現することができると考える。ネグリの「帝国」論には、以下に述べるような色々な問題がはらまれているが、しかし、それは超帝国主義の特徴をよく捉えたものとして画期的な意味をもっていると思う。しかし、問題は、だからといって、アメリカのような個別の国家が「帝国主義」でなくなったと結論していいのかどうかということである。私はそんなことはないと思う。ネグリのいう「帝国」=私のいう「超帝国主義」と個別の国家世界は別のレヴェルの存在なのであって、ネグリのようにすべてを「帝国」という言葉で一括してしまえば、その「帝国」が実際には複雑な構造をもっていることが見逃されてしまう。

 「帝国」=超帝国主義の側からみれば、たしかにその空間はグローバルに均質で滑らかにみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。しかし、その空間は透明ではあっても無色であるという訳ではない。「帝国」が国家の境界領域から発生した以上、そこには異なる出所を示す各国の国旗の青・赤・白・黄色など色の母斑が残っており、それが混じり合い、急速に動き回っているために無色・透明にみえるにすぎない。たしかに超帝国主義こそが世界的主体=主権を掌握していることはネグリのいう通りの事実であって、その前提となった個別の国家の帝国主義は表面から退いている。しかし、注意すべきことは決してそれ自身が消滅した訳ではないことである。それは論理的な筋を通すということを重視するあまり、ネグリの目から外れてしまったことだが、ネグリ自身もグローバル経済の主体=主権の位置にある「帝国」を「一つの筋に貫かれ統合された国家的であると同時に超国家的な支配組織」と説明しているように、「帝国」は、その下部に存在する複数の帝国主義的あるいは軍国主義的な国家を動かす筋を確保しているのである。そういう複数の帝国主義が実際にはいまだに実態としては強固に生き延びているという側面からいえば、「帝国」の下位空間には歴史家の栗田禎子がサミール・アミーンの提言にもとづいて議論を進めている「集団的帝国主義」というべきもの実在しているのである。歴史学としては帝国主義的なシステムが、世界的な資本主義の情報化のなかで、現在、ネグリのいう「帝国」が主権を握る方向に展開しているのだとみた方が、歴史の現実には適合的であると考えるのである。

 なお、ここでいう「超帝国主義」という概念は、二〇世紀初頭、ドイツ社会民主主義の代表であったカール・カウッキーが展開した「超帝国主義」論とは用語は同じでも内容はまったく異なっていることである。カウッキーの「超帝国主義」論は「一九世紀末期における世界全体の植民地分割の終了によって個別の帝国主義は眠り込んで、消滅して国際的な政治経済的な組織体に変身した。そこに「平和」の条件を期待することができる」というものである。それはレーニンの厳しい批判をうけたように、第一次大戦が帝国主義戦争として展開されたことを隠し、「祖国擁護」という名のもとにドイツ社会民主党が戦争協力の道に入っていく上で決定的な役割を果たした。私のいう超帝国主義とは、現代に戦争状況を惹起する根本に位置するものであって、その点でカウッキーとはまったく異なった見地である。この点で、歴史家からいえば信じられないのは、ネグリが、このカウッキーの「超帝国主義」を批判する作業をしていないことであって、それはカウッキー批判は常識だということではすまない問題であろう。ネグリの発想は、「帝国」の成立によって個別国家の帝国主義の持続を無視する点ではカウッキーと類似してくるのである。

 以上、現在の世界資本主義は、グローバルな超帝国主義と強固に生き延びていると数の帝国主義、そしてそれが超帝国主義の主権の下で統合されている国家的であると同時に超国家的な支配組織という複合的な構造をとっているのである。

 グローバル資本主義、超帝国主義の運動する空間は均質、透明・無色にみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。普通の生活者にはみえない世界である。そもそも生活者には経済の動きそれ自身はいざという時にならないと感知できない。たとえば日本の年金は二〇一四年より積立金の株式運用の率を倍にあげて五〇%としたため、二〇一五年には五兆以上の損失となり、イギリスのEU離脱問題もあって円高株安が予測されるなか、その損失の巨大化が恐れられている。生活者はそれによって年金財政が破綻したとき気がつくが、その時に放漫な方針を決めた政府に責任を取らせたとしても損失は取り戻せない。恐慌も同じことである。
 これに対して、グローバル資本主義に吸着している人びと、国家や民族的な経済の境界領域に棲んでいる特殊な人間は超帝国主義の均質、透明な空間を感知する能力をもっている。彼らはグローバル資本主義という透明な妖怪のような存在に吸着して、この世ならぬ「富」を吸う仕方を心得ている。

2016年6月29日 (水)

日本史の時代名と時代区分

 以下は友人との勉強会でくばったもの。

 私は、『平安時代』(岩波ジュニア新書)という高校生向けの本を書いた時、たとえば、薬子の乱とせず、実態に近い平城上皇クーデター事件とした。また『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書いたときも貞観津波とせず、九世紀陸奥沖海溝地震とした。政治史上の事件について元号を使用することも余計な記憶負荷をかけるのでやめた方がよいと思う。

 たとえば保元の乱は崇徳天皇クーデター事件でよいし、平治の乱は『平家物語』のいうとおりに二条天皇重婚事件でよいと思う。そもそも歴史教育にとって、不要な固有名詞を削ることは死活問題であろう。遠山茂樹氏の「共有財産論」は、民族の歴史的な知識の現実をどうみるか、人が生きていくための知識体系のなかで歴史意識の位置はどこにあるかを明らかにすることを要求している。それはたんに学者と教師と子どもの関係のなかで処理できる問題ではなく、より広く歴史知識の社会的な用語法、ターミノロジーをどうするかという知識社会学的な問題に関わってくる。

 ここでは、時代名について考えてみたいが、私はかって「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」(『史海』五二号、学芸大学歴史研究室、二〇〇五年)で、「古代・中世・近世・近代」という用語は、現状では定義も不明瞭な通俗概念にすぎないので使用をやめた方がよいとしたことがある。ただ、その上で、各時代の名称というものはやはり知識として必要だろう。そこで、ここでは「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という時代名称を提案してみたい。

 順次に説明すると、まず古墳時代は三世紀初頭の卑弥呼の擁立が箸墓古墳に結果したという意味で卑弥呼期から始まり (四世紀半ばまで) 、大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意味での河内王朝期(五~六世紀)までである。河内王朝論には議論があるが、白石太一郎『古墳とヤマト政権』にそって再評価することが「万世一系の天皇」というイメージを支える大和中心史観をやぶるために必要だと考えている。前方後円墳が火山神話を表現している(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』七号)ことからすると神話時代といってもよい。

 次の大和時代という用語は、だいたい七世紀から八世紀まで、飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。六世紀末に前方後円墳の築造が終了して、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代である。七世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は六二九~六四一)、その妻皇極(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明) の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(在位六七二~六八九)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』十八号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、八世紀も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。

 「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」というのは、 「古代」 に特権的な位置をあたえる手あかのついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。

 次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態と無関係で無意味な用語である。この時代は九世紀から十世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる怨霊期、その次ぎは冷泉・円融の二回の兄弟間の王統の迭立期(道長の時代はそれを解消する過渡期)、そして後三条以降の王家内部で激しい親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)がおこる院政期にいたる。そのなかで国家の本格的な軍事化が進展し、源平合戦から後鳥羽クーデタ(承久の乱)でそれが完成するが、この清盛・頼朝期で山城時代は終わる (これは石井進「院政時代」 のとらえ方に近い)。四〇〇年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じである。

 大和・山城の二つの時代を教えるにあたっては、王家の内紛をきちんと教えるべきである。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替、いわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。

 なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)の序論で、基本的には八世紀から十三世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家とすると述べた。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の本質をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである。

 以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘しておくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。北条氏の権力は明らかに全国的なものである。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化される。
また、室町時代については、子供たちに「室町」という言葉を覚えてもらう必要はどこにもない。たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。それなのに、なぜ「室町時代」が一般化したかといえば、これは「足利尊氏」が逆賊イメージとされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないかというのが私の疑いである。

  「室町」という語には「都」は京都を中心とするという俗物的な中央意識がかいまみえる。これは井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』八号、二〇一六年一月、人間文化研究機構)で考えたのだが、対談後、井上氏から、次の「安土桃山時代」という時代名称にも大阪城と大阪を無視する中央根性があるという意見をうかがった。「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているのではないかというのが、私の疑いである。

 「徳川時代」についても同じ理由で、徳川家を時代名称にもってくるのが適当であろうということになる。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川が東海地方出自であることは、幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、私は実態論としてもこの呼称が適当であると考えている。

 さて駆け足で、おそらく容易に賛同をえられないであろう見解を述べてきたが、最後に強調しておきたいのは、こういう時代呼称をもし採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要であろうことである。その場合、「内乱」という事大主義的な言葉を使用せず、内戦の悲惨さが徐々に増大してくる様子をザッハリッヒに語ることが必要なのは、藤木久志(『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)がいう通りである。

2016年2月24日 (水)

歴史と単独者


 歴史というのは、結局、単独者として過去の総体に向き合うということである。過去のすべての世界のなかへ入っていき、それが目の前に広がっていき走馬燈のように回り出すという感覚である。単独者として世界史の総体に向き合うということである。それは追体験の立場であり、共感とヒューマニズムにかこまれた過去にむけた文化的な愉楽の世界である。

 しかし、追体験によって過去を客観化するということは過去を突き放すことである。それは人が、過去を向いたまま、背中の側から、まさにBack to the futureの姿勢で時間のなかを激しい勢いで突っ切っていくということを意味している。過去を追体験し、それを明瞭にかつ広範囲に対象化すればするほど、過去を突き放す力は強くなり、時間を突っ切っていくスピードは急速になる。それは共感とヒューマニズムの世界を走馬燈のように動かす世界であって、そこには永遠の虚無が入ってくる。

 それはキルケゴール的にいえば想起の立場であり、ユーモアの立場であるが、ユーモアは人と人との間に距離を設定し、それとともに、そこに喜劇性を見出す作業である。それは想起の作業を笑いに充ちたものにするが、それはやはり事態を客観化して、人びとは想起によって実存から永遠性に後退していくことになる。

 その意味で、歴史学は永遠なるものを時間の一点に発見する一神教における永遠性と似た感覚をもつのであるが、しかし、それは神の姿をとらない。それはより徹底した自己の相対化と現在の相対化であって、無限に無神論に近づいていく。そこに登場するのは巨大な歴史の姿それ自体であって、しかも、その一つ一つの要素は無限に極小であるからこそ、ヒューマニズムの対象となり、それに対する追体験は、それを壊すものに対する歴史の怒りをもたらす。虚無は怒りによって満たされる。歴史学は、こうして歴史の怒りを体現する学問になるのであるが、しかし、問題は、人間が行う学術である以上、そこにはアイロニーが忍び込んでくることである。人は怒っているだけでは身がもたない。ヒューマニズムは怒りに燃料を注ぎ込むだけであるが、アイロニーは怒りに対する諦念となり、救いとなる。

 アイロニーは他者である。私たちは、単独者として過去の総体に向き合うのであるが、実は、私たちの隣に同じ単独者を発見することによって、ヒューマニズム→怒りの世界から、急に、現在の私たちの現状をアイロニーをもって発見するのである。こうして、歴史学は、「ヒューマニズムと怒りとアイロニー」をもって他者と協働の世界を発見するはずである。

 それこそが歴史的実践の世界であるはずであって、歴史学は人びとをゆっくりと実践の世界に接近させ、そこに直面させるはずのものである。現在の歴史学はそうはなってはいないかも知れないが、歴史学の地下の作業場を通っていく道の角の向こうには、つねに実践の世界がある。

2015年12月21日 (月)

歴史学における歴史理論。『日本史学』(人文書院)の終章序

以下は、『日本史学』(人文書院)の終章。「研究基礎ー歴史理論」の導入部です。

 これまでの「読書の初め」「史料の読み方」「学際からの接近」「研究書の世界」とは違って、ここで研究基礎というのは研究を行うための入口や方法よりも、その基礎の基礎、足場のようなもので、ようするに理論のことをいう。

 理論は骨組みだから、小難しいのは勘弁してもらうほかない。しかし、理論の根拠は「心」だ。そういうと変に感じるかもしれないが、研究というのは研究者の側からいえば、「心」に根拠がある。そして「理をもって論ずる」のは「心」である。だから、これは研究者個々人の心の奥底にどういう足場が組み立てられているかという問題でもあって、その意味では経験によって、また個々人によって違う。私の場合は世代的にいって、どうしても「戦後派歴史学」の理論ということになる。

 「戦後」というのは第二次世界大戦後という意味だから、古すぎることのように感じられるかも知れない。しかし、たとえば野間宏・堀田善衛などの「戦後派文学」は、その世界のなかに入っていけば、決して古いというだけでは片づけられないと思う。それと同じことである。ここでは代表として石母田正・峰岸純夫・佐々木潤之介・遠山茂樹の四氏の本を選んだが、私は、ここを足場として仕事をしてきた。

 もちろん、研究は、もう「戦後派歴史学」では間に合わないところにまで進んできた。とくに歴史学は「日本史」という枠組みのなかに自足してはいられない。つまり「琉球史」と「アイヌ史」の問題であり、そこではまったく異なる史料の扱い方と仕事のやり方が必要になっている。これから歴史学に進む人は、最初からこの足場も確保しておかねばならない。ここでは「戦後派歴史学」は無力である。


 「歴史理論の根拠は心だ」というのは、この文章を書いていて自然に気持ちに浮かんできた言葉で、書いてみれば、たしかにその通りだと思う。
 今日はコンピュータの不調・事故など、参ったことがあって、益田勝美『記紀歌謡』を読むほか仕事ができなかったが、心が折れては仕事ができない。心を取り戻すのは、やはり理論であると思う。
 益田勝美『記紀歌謡』はやはりすごい本だと思う。「古代」を対象とする歴史学が学ぶべきほとんど唯一といって良いほど屹立した仕事である。 ここにはともかくも筋道を通そうという強靱な思索がある。そこに立ち戻るほかない。そういうものが体系としての理論なのであろうと思う。体系というと、なにか自己から離れた物のように思うが、しかし、そうではなく、思考の筋であり、樹木のようなものだ。根っこであり、幹であり、そこから枝に通っていく樹液のようなものである。

 それは「歴史学の方法」といわれているものとは違うものなのである。方法は駆使するものだが、理論は私たちを呼び出し、励ますものでなければならない。
 
 これで今年の主要な仕事の一つであった『日本史学』(人文書院)の各章の序の紹介は終わり。ただ、そこで言い残したことがある。それは、歴史学は「心」の勝負ではあるが、もう一つは体力だということ。体力勝負の部分が残るということである。どのような仕事でも同じでであろうが、それは心と結びついた身体の能力である。戦後派歴史学の先輩たちの闊達な身体と強靱さのことを思う。

 

2015年12月16日 (水)

社会的物質代謝と生業論の学融合的な課題

 この図と下記の文章はある研究会で披露したものです。
Busitutaishanozu_3

物質代謝と社会構造の概念図の説明     保立道久

はじめに
 生業論といわれる議論が歴史学のなかで話題となっている。その中心となっているのは、白水智、盛本昌広、春田直紀、橋本道範などの諸氏であって、私は、この研究動向は、本格的な社会経済史研究の動きを復活させるために、重要だと考えてきた。
 もちろん、生業論といわれる研究動向は、従来の社会経済史の研究に対して批判的な様相を示す場合も多い。いわゆる戦後派歴史学のもっていた社会経済史の方法は原則的・理論的であることを目ざしたといっても、しばしば実証の条件や技術が未発達で、方法的な枠組みが狭い、あるいは狭い印象をあたえたのは事実であるから、これはやむをえないことであるが、しかし、ここには、必要な方法論議をすれば解決できる問題も多いように思う。
 この状況を自然科学の方に自分なりに説明するために、図を作成してみた。以下、簡単に、この図を解説する。
1生業論と自然科学
 生業という言葉は、「なりわい」と読むから、簡単な言い方をすれば、ようするに、生業論とは人間の日常生活からみた経済活動の諸相を論ずる、人間の日常生活から視線を外さないということによって様々な分業(精神労働と肉体労働の分業をふくむ)や経済活動のあり方を統合的にとらえていくという研究視角であり、素材選択と方法意識のことである。私なども、いわゆる社会史研究のなかで、それを強く意識していた。経済史研究が民衆史研究や社会史研究に展開し、それがさらに分岐して生業論という動きにつながっていると私などは考えるが、そういう立場からいっても、当面、上のようにいっておけば歴史学内部では、広く了解可能であろうと思う。

 しかし、問題は、この生業論的な研究が自然科学との接点をもって展開しつつある状況である。上の定義のようなものは、歴史学・考古学内部あるいは社会人文科学の側では了解可能であるが、自然科学にとっては、それをどう受けとめてよいかは不明であろう。自然科学にとって、この生業論なるものに対応する研究対象は何なのか、それに関わって自然科学の側で、どのような方法論議が必要なのかなどの問題は必然的に発生する。

 問題は、その場合、やはり上で本格的な社会経済史といった研究動向が背後にもっていた方法意識に近いものが必要になることであろう。もちろん、それは歴史の具体的な研究の表面にでてきた訳ではない。各世代の研究者のもっていた社会科学の方法論に関わる領域の問題であって、具体的な史料実証作業の表面ではしばしば暗黙の了解事項になっていたようなレヴェルの問題である。

 生業論と自然科学との学融合的な研究ということを考える場合、もっとも大事なのは、生業論という視角が自然科学に対してどういう研究を要求しているのかということを明示することであろう。

 図では自然の運動形態を地球科学的自然(地学と大気海洋現象)、生態学的自然(植物界・動物界)、社会的自然に大別して示した。生業論の枠組みからは地質学、大気海洋科学、植物学、動物学との間で、どういう研究をしたいか、そしてその全体によって何を問題にしたいかということになる。

2人間と自然の物質代謝と「生産・再生産」

 私見では、それはまず、人間と自然の物質代謝における対象的生産(いわゆる「生産」)と主体的生産(いわゆる再生産)の双方を、自然史のなかでとらえるためにはどうしたらよいかということだと思う。

 つまり、生業論の視角、人間の生活の総体から視線を外さない統合的な研究視角という場合に決定的なのは、人間の生活は人間自身の再生産と自然的な生産の両者をふくんでいるということである。なお、日本語の生産という言葉は工場生産、大量生産などという言葉の印象が強く、物を機械的に作りだすという印象がある。これによって歴史学の中にもこれに流されて生産という言葉自体を使用しないようにと考える傾向も生まれている。それに代わって生業という訳である。

 しかし、生産という用語は、決まった方式によって決まった物を作り出すということではない。そもそもproduce,productには「前へ導く、明るみに出す」という行為、自然の内部に入り込んで、そこから物を取り出すというニュアンスがある。「生む」「産む」の前提に入り込むことがある。しかもここで自然の内部に入り込んで生産するという場合、それは二重の意味をもっている。つまり、第一にはそれは対象的な自然、人間の身体の外にある自然に入り込んで生産するということであるが、第二には、主体的な自然、人間的自然=身体の世界に入り込んで生産するということである。後者は、人間が人間自身の自然に入り込んでいって繰り返し関係する、つまり「再生産する」ことである。そこには性的生産のみでなく、生命の成長や死に関わる世界のすべてが含まれる。
 「再生産」という用語を、生産というものが第一次的であり、「再生産」は二次的であると理解してはならない。それはむしろ「自己生産」という意味では基軸の位置にある。「生産」と「再生産」は一体なのである。生業論の視角はこの「生産」と「再生産」の一体性におかれなければならない。

 難しいのは、この人間自身=人間的自然の再生産というものを自然科学的にとらえる方法である。つまり人間が食べ、身体を養い、排泄し、住み、個性的な性関係をもち、前世代・次世代と関わっていくということなど、ようするに人間が自分の動物としての身体(人間的自然=主体的自然)を維持するすべての直接的な行為の結果を探り出す方法である。これは人間の身体の歴史であって、長期的には人類学が行っているような研究であるが、しかし、1万年前から、あるいは歴史時代の歴史を検討する場合、どのようなことが可能か。私の視野では見えない部分が多い。

 ただ、それは広い意味での人口論が基礎となることは明らかであろう。人間自身の身体を維持し、生殖することによって、すべての基礎としての人口を作り出す局面である。人間人口論自体を自然科学がどう扱えるかは私にはわからないが、少なくとも人口の拡大は動物の巣と獣道、猟場と同じような人間的自然の周縁領域を作り出していく。これは人間が食べ、排泄し、住居を営み、さまざまな形と目的で動き回ることによって発生する動物としての人間の再生産にともなう緩衝帯のような生態系であって、それ自身としては本来の意味で社会的なものではないが、しかし、このような人間的自然に直接に付着する生態系の変化が人間と対象的自然との関係のすべての基礎にすわる。

 それを歴史学と自然科学で議論するためには、結局、図の上部に記した自然の無用性のなかで「廃墟=放棄された巣」を探ることが必要になるのではないかと思う。この廃墟の問題については後にふれることとするが、この廃墟、「遺跡」の様相を詳しくかつ統計的にみることによって、人間の生業の痕跡をみるということであって、ここではいうまでもなく考古学が決定的な位置をになう。歴史学が自然科学に奉仕しうるとすれば、やはりそれは最終的には「遺跡」(人間の生活・生業痕跡)の考古学的な分析が基礎となるはずであろう。


3生業経済と市場経済ー有用性と無用性

 生業論にとって、方法的に重要なのは「生業」と「経済」の概念の関係をどうとらえるかであろう。これをとかずには生業論は理論たりえない。その意味では、市川三男「環境をめぐる生業経済と市場経済」(『岩波講座 文化人類学』2)が参考になる。この論文のいう「生業経済」は、自然の有用性、使用価値が営まれる世界であるが、ここに「生産」と「再生産」の一体性の世界がある。

 それは、自然の多様な有用性の占取であって、それは自然を空間的に区分し、時間的にも区分し、また生態学的に区分していく。こうして、自然は様々なランドマークによって空間的に区分され、また季節の巡りの年間暦などによって時間的に分節され、また生態系の中心をなす動植物も区分し命名されていく。対象的自然の有用性の発見の仕方、その有用性を効用価値にしていく過程が人間による生産の本質的な特徴を形成することはいうまでもない。

 他方で市場経済とは自然の余剰、人間にとって無用な自然の過剰に基礎を置く経済である。自然の過剰という形をとった無用性を商品化することである。ここでは商品がかならずしも自然の有用性の表現ではなく、無用性=過剰性の表現であることが重要であろう。人間は自然の直接的な有用性のみでなく、生業経済には現在のところ無用・過剰な自然の存在形態を利用する方向で、生産諸力を拡大するインセンティヴをあたえられる。

 このような生業経済と市場経済のキーをなすのが、人間の空間的・時間的・生態学的な認識、民間知の蓄積である。これが社会的自然が他の諸階層の自然と比べてのもっとも大きな特徴である。それは、一つの社会的な認識のシステムによって媒介されている。もちろん、動物も自然を意識し、観察して、それを記憶する。しかし、その記憶を協同的な意識関係として強化するシステムをもっていない。社会的な自然の形成においてはこれが必須である。たとえば、漁村においては漁場の地理的認識と発遣、その記憶の管理が漁村の社会的自然においては必須の要素である。

 図にみる自然の運動諸形態の矢印が下から上に上がっているのは、有用性・宝庫性の側面である。これを人間的自然が力能としてうけとめて社会的自然の内部に組織したものがいわゆる生産諸力である。「生産力」といわずに「生産諸力」というのは、それが意味する有用性(それに対応する有用労働)がきわめて多様で、機械的に一元化できないからである。生業経済はつねに、こういう多様な生産諸力を統括する主体として存在する。

 これに対して上から下に下がってくるのが、自然の無用性、過剰性とそれが人間を自然的に規定する側面である。

 物質代謝は、この両側面の境界で展開する。市場経済は、自然の無用性を浸食し、それによって生産諸力を拡張する。前近代では、こういう多様な生産諸力を統括する生業経済と市場が主体となって自己運動する動きとの対抗関係がつねに存在する。

4hazards/disastersと社会構造

 自然の無用性と有用性のバランスが大小・諸形態のハザードによって破壊される、生産諸力が破壊される経験が人類史の当初から存在した。採集経済領域の食い尽くしといわれるものである。

 hazards(「異変」、自然的な異変)は、最初は諸形態のdisturbance(「攪乱」)として現れる。そして、自然的なhazardsはdisasters(「災害」、人間社会の災害)に展開する。三者の区別と連関を正確に踏まえることが重要であるが、問題がdisturbance→hazards→disastersという順序で展開するのはいうまでもない。より正確に言えば、このdisturbance→hazards→disastersの系列は。おのおの、Crustalogicalな(地殻的な)それ、Meteorologicalな(気象的な)それ、Biologicalな(生態学的な)それという形をとり、しかもそれらが複合的に登場する。

 また自然の諸階層においてはより低次な運動諸形態のhazardsが決定的な意味をもつ。たとえば地球科学的自然が、通常の枠をこえた地震や噴火などのhazardsを起こすと、社会的自然が攪乱され、disasters=災害が産み出される。また大気海洋の自然は生態学的自然に対して決定的な影響をおよぼし、同じようにdisasters=災害が産み出される。「地殻災害Crustalogical Disasters」「気象災害Meteorological Disasters」「生態災害Biological Disasters」などが複合した場合には社会は大きな危機に陥る。

 社会的自然の形成は、その廃墟の重層の上に展開する。廃墟は、われわれからみれば「遺跡」であるが、それは自然としてみれば、動物の巣のあとと区別できない。前述のように、この廃墟の認識が生業論的視角からいうと決定的な意味をもつ。それを分析すれば、人間の再生産にともなう緩衝生態系を自然科学的に認識することが可能となるのではないかということになる。

 廃墟の形成とはhazardsのdisastersへの転化である。歴史は、自然史の側から見れば、自然の有用性と無用性の衝突、有用的な生産諸力とそれによる自然の廃墟化、hazardsのdisastersへの転化の矛盾をつうじて展開する。そしてこれが(歴史学が固有に扱うような)社会構造自身の矛盾と結合したとき、カタストロフがうまれる。

おわりに

 このカタストロフは、レヴォリューションあるいはレジームシフトを社会に強制するのであるが、それはしかし、自然との関係からは相対的に離れた領域、つまり、図でいえば、一番右側に描かれた社会領域固有の問題である。disturbance→hazards→Regime shiftが自然科学が扱う問題であるとすれば、社会科学は、それを前提としつつ、disturbance→hazards→disasters→Revolutionという系列を扱うことになる。なお、ここでいうRevolutionは社会の強行的転換というような具体的形態を意味するものでなく、本来の意味、つまり世界軸のRevolt(回転)あるいは、「革命」(天命の改まり)を意味することはいうまでもない。軸がどのように回転するか、なめらかに人知れずか、荒々しい音をたてるか。社会が生きのびるためには回転が必要だが、できるかぎり明瞭でなめらかで、カタストロフを拡充しないものになるかどうかには、社会の構え方、予知と予感の力が必要だろう。
 しかし、Regime shiftとRevolutionの研究が学術的には似たような方法的な構えを必要とするのは、人間の歴史もやはり「自然史」の一部であることを認識させる問題である。

 なお、以下は、このような問題を考えるときに、いつも立ち戻っていた戸田芳実「中世文化形成の前提」(戸田『日本領主制成立史の研究』323頁)の一節です。
「前近代社会では、自然にたいする人間の劣位という基本条件のもとで(これは人間の日常が展開する生態的自然の表層に対する劣位ということである。自然総体に対して人間がつねに劣位となるのは誰でも知っていることである。この誰でも知っていることをもって戸田の、この文章を批判するのはフェアではない――保立追記)。「自然の紐帯」・「自然関係」が社会関係と社会意識のなかに浸透し、その意味 で自然と社会とは、近代と異質の有機的な結びつきをもっている。したがって、「社会的に、歴史的に創造された要素」がそれぞれのばあいに対立しなければならないものは、まず優越した自然そのものであり、そしてつぎに人間の特定の歴史的な社会関係にからみついた擬似的自然である。近代以前でも、文化を形成する諸要素は、「社会的に、歴史的に創造された要素」に外ならないが、まず重要な点は、それがその根底においてどのように前近代の 歴史的な「自然規定性」とかかわり合っているかということである。前近代社会の人間関係、階級支配を軸とする前近代の社会構造は、生産者にたいする特定の「自然規定性」(それはなによりもその段階の生産力の質と水準としてあらわれる)を前提とし、また、民衆にたいするそのような自然の規制 力を社会関係の規制力に転化することによって維持される。いいかえれば、生産者が自然にしばりつけられる条件のもとでは、支配者は自然を占取し、 自然を擬似的に体現することによって、生産者を把握することができるのである。これは前近代社会の階級的支配関係の重要な基礎である(なお、現代社会においても社会的自然それ自体が人間の従属の根本条件となっていることはいうまでもなく、それが社会関係の呪物性、フェティシズムとして現れることはマルクスが詳しく論じたことである。そのレベルをふまえて、前近代と近代における自然規定性を(種差をふまえて)解明することが課題であることはいうまでもないーー保立追記)。
 したがって、民衆が自然にたいする相対的独立度を高めるという生産に直結した自生的な実践は、桎梏となった本来の自然規定性を変革すると同時に、社会関係に転化された擬似的自然規定性をも変革せずにはおかない。そのようにすべての変革の起動力となる自然と人間との自生的な実践的関係(すな わち生産力)の進歩の過程は、また同時にその過程と成果を反映し定着した意識的・自覚的な所産を生み出す。それは人間の自然にたいする社会的実践との連関を失わない知的労働の結晶である。技術・言語・科学的知識・理性と文化の発展は、それぞれの時代の歴史的制約を帯びながら、意識的局面に おける人類発展の能動的要因をなしている。そして文化は高次の社会関係から生じた階級意識の規定をうけると同時に、あるいはそれ以前に、そのような自然との闘争過程の意識的側面に深く根ざしているのである。その意味では、文化はルフェーブルのいう「人間が自然を享受する仕方としての人間の 自由」の意識的な歴史的所産であって、その点に、民族的あるいは人類的共同財産としての文化の継承性の根源がある。簡単にいえば、文化は基本的に 生産力と生産関係の二つの側面にそれぞれ規定された二重性を帯びているのである」。

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