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カテゴリー「歴史理論」の60件の記事

2017年10月22日 (日)

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

 政治状況が激動期に入ったようだ。一九七〇年頃以来のことである。野党共闘の動きは学術的にも思想的にもきわめて興味深い事態であることは疑いをいれない。

 これは日本社会の中にある対抗関係が大きく変化したということではないかと思う。一種の二極化である。そこでは従来の「保守・進歩」という対立の図式を考え直さねばならないだろう。歴史家から賛成するという言葉を聞いたことはないが、私の年来の主張は、日本には本当の意味での保守勢力はないが、現在、歴史家は職業者としてはまずは保守でなければならないということだった(「中世の開化主義と開発」一九九〇年発表、『歴史学をみつめ直す』校倉書房所収)。さらにまた現在の政治状況の中では「左翼・右翼」という言葉を使うことも止めた方がよいのではないかと述べてきた。右翼思想には既成の知性に対する「分かったようなことをいうな」という感情的な拒否の側面があって、「極右」の暴力に走らない限り、それも当然に思想の自由の範疇に入る価値をもっていると思うのである(ブログ「保立道久の研究雑記」。2014年11月15日2014/12/14、ブロゴス 2016年08月12日)。

 しかし、歴史家の立場から問題を厳密に考えようとすると、この列島に住む人々にとって、最大の問題が何なのか、「保守」といい、「進歩」といい、「左翼」といい、「右翼」といっても、それらが向き合うべき日本社会の問題は何なのかを正確にみきわめなければ、結局、気分に流れて行ってしまうということになると思う。それらは、所詮、符丁であり、言葉である。

 そういう立場から、私は、しばしば新自由主義といわれることの実際の内容がどういうことなのかを考えてきた。ともかく「新自由主義」というのは言葉がわるい。「新しい自由」、それは普通からみればいいことじゃないかということになる。これは符丁としても決していい符丁ではない。そして、それを詰めていくと、結局、それは人種主義(レーシズム)であり、戦争好きなのではないかと考えるようになった。新自由主義というのは、もちろん、経済思想としてはミルトン・フリードマンのマネタリズムが基礎になっているが、政治思想としてはようするに「ミリタリズム」と「レーシズム」であると思うようになった。もちろん、問題は、なぜマネタリズムが「ミリタリズム」と「レーシズム」に結びつくかということであるが、そこまで十分に書けるかどうかは別にして、以下、若干、長文となるが、まず人種主義(レーシズム)について説明しておきたい。

 さて、現在、日本・アメリカ・ヨーロッパで人種主義の動きが急である。これはきわめて心配なことであるが、私は、歴史的にいうとその基礎にあるのは、やはりヨーロッパだと思う。その根はきわめて深く、十字軍の時期以来のヨーロッパによるイスラム文明に対する挑戦、「追いつけ追い越せ、奪い取れ」という対抗文化にからめとられているのではないか。その文化的気分がベースとなって、政治家による中東移民が社会の困難を作り出しているという宣伝が被害感情を生みだし、ヨーロッパに広範な「イスラム差別」が生み出されているようにみえる。

 問題は、これがきわめて曖昧で不定形の歴史意識としかいえないようなものであることである。それはいわばヨーロッパに居住する人々個々人がもつ微細な歴史意識の誤差が社会意識の歪みとして集合的に現れたものといえようか。私はそこで動いているのは現在の世界史がヨーロッパ地域に生み出した「気分」というべきものなのではないかと思う。つまり、現在の中東における戦争状態は、第二次世界大戦中からのアメリカの帝国的な中東支配が作り出したものである。アメリカこそが、中東の戦争と苦難を生み出し、大量の人間の死と故郷喪失を生み出したことは誰が見ても明らかなことである。その中でヨーロッパの人々は次のように考える。つまり、「悪いのはアメリカだ。それなのに、何故、ヨーロッパが中東の困難に関わらねばならないのか。たしかにヨーロッパは第二次大戦で大きな困難を経験し、ヒトラー・ナチスは最悪のことをした。しかし、アーリア人種主義は克服され、民主主義社会が実現された。ヨーロッパは二〇世紀のナチズムを乗り越え、償ってきた。今になって、なぜ、問題の直接の関係者にならねばならないのか。理不尽であり、理解できない。静かにさせてくれ」という意識である。

 彼らの視野には、ヨーロッパがアメリカの世界支配を利用しつつ共同で世界から利益をうけていた共犯性は入ってこない。また中東の困難の直接の歴史的由来が19世紀におけるヨーロッパの中東支配と、その最後の無責任ともいうべきイスラエル建国を推進・容認したバルフォア宣言にあることも視野には入らない。さらには16世紀以降の世界資本主義の形成がまずはアフリカと環インド洋地域からの収奪によって支えられていたという歴史認識もない。こうして彼らの意識は一挙に、ヨーロッパとイスラム世界との文化的対抗と衝突という十字軍によって象徴されるイメージにすっ飛んでしまうのである。それはその意味で世界史が生み出した「歴史気分」のようなものであり、こうして、その中核には中東の諸民族を差別する「人種イデオロギー」を中核にもつものとなるのである。

 その意味で、この「人種イデオロギー」は世界史的に新たに登場した独特なイデオロギーのあり方、社会意識のスタイルなのであって、そのようなものが現在の世界史の重要な構成要素となっているのである。このような独特な歴史意識、より正確にいえは世界史意識は、もちろん、ヨーロッパが一人で産みだしたものではない。それは一九八〇年代のサッチャー・レーガン時代を基点としてヨーロッパ・アメリカの国家意識の交流、そしてそのつぎには社会意識の奔流のような交流のなかで生み出されたものであるといってよいと思う。その社会経済的根源には、この時期以降、明瞭に動き出したナオミ・クラインのいうショック・ドクトリンを具備するにいたった資本主義、そして情報資本主義の急速な発展があることもいうまでもない。その中で、九・一一事件が発生し、それに対して、世界史的愚劣ともいうべきジョージ・ブッシュの「十字軍」宣言が行われ、イラク戦争が中東地域の社会政治状況を決定的に不安定化させ泥沼化させた。

 そして、現在は、ブッシュ以上の「お馬鹿」がアメリカ大統領となって赤裸々なレーシズム、白人至上主義を鼓吹しているというのが歴史の流れである。これがきわめて醜悪なのは、この人種差別がヨーロッパとは違って直近の人種差別の体制、20世紀の人種差別の由来を引いていることである。16世紀以来のネーティヴ・アメリカンの諸民族に対する「人種差別」と、一八世紀以来のアフリカン・アメリカン差別、さらには19世紀以来のユダヤ民族や東欧・ラテンアメリカからの移民に対する差別の根を深く引いていることである。現在、それが一挙に中東の人々に対する「宗教的・人種的差別」、「イスラム」差別に拡大している。アメリカは多民族構成国家でありながら、その支配イデオロギーは人種差別にあり、アメリカの多民族構成資本主義においては民族を「人種」の名の下に身分差別し、賃金を抑え、人々を分断することは根がらみのやり方であった。それは、ネーティヴ・アメリカンの人々、強制連行されたアフリカン・アメリカンの人々のみでなく、後からくる移民に対する差別をもふくんでいた。もちろん、そういう中で、一九六〇年代から七〇年代にかけてのマーチン・ルーサー・キング牧師などの動きをふくむ社会運動の中で20世紀の人種主義の根は一度断たれたかのような雰囲気をみせた。ヨーロッパと同じように、アメリカは人種主義を超克したという訳である。しかし、実はその岩盤はきわめて強固であって、後退したかのようにみえた正真正銘の人種主義が、レーガン以降、急速に肥大化した。そして、現在のトランプ政権下のアメリカにおける人種差別の実態は、その醜悪なる結果であることはいうまでもない。

 そのような直近の歴史を連続的に引いている点では、日本も同じである。つまり、「大東亜戦争」を主導した「八紘一宇」「皇国史観」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーはナチスと同じく、「神話」によって嘉せられた日本の「現人神」たる天皇制とそれに連なる血統・人種こそが世界支配者となる使命をもつのだという明瞭な人種主義イデオロギーであった。しかも、それは、アジアでは日本のみがヨーロッパと対抗できる使命をもっており、それ故に、日本はアジアから離れて、それを支配する地位に到達しなければならないという明治時代以来の「脱亜論」をともなっていた。というよりも、この「脱亜論」によって、日本国家のアジア侵略は合理化され、それによって天皇制的人種イデオロギーが形成されたといった方が事態を正確に反映しているといえるだろう。それはまさに世界支配の思想だったのであって、それによってこそ、ナチスと日本の軍事同盟は、両者が人種主義イデオロギーにもとづいて世界分割をするという了解に達したのである。

 もちろん、日本国憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べ、「戦争」の中で強制した「隷従、圧迫と偏狭」、ようするに人種主義を法的には廃絶する精神を含んでいる。それは、第二次世界大戦において、その中枢にいた昭和天皇自身がいわゆる「天皇の人間宣言」において、神権的な人種主義イデオロギーを基本的なところで離脱したこととセットになっていたのである。日本の王家が、ここ三〇年ほどの実際において、日本国憲法の精神にそって行動してきたこともよく知られている。

 しかし、自民党や経団連の一部などの国家中枢部には、第二次世界大戦で頂点に達した人種差別イデオロギーは根深く生き残っている。彼らは、中国・韓国から東南アジアに対する神権的な人種主義イデオロギーの強制と、それにもとづく植民地支配、戦争侵略の歴史事実を認めず、その事実を隠蔽することにいまだに固執している。彼らは第二次世界大戦において日本は敗北し、その戦争犯罪を認め、その証として日本国憲法が成立し、天皇が国政に対する権限をもたない「象徴」の地位になったことを承認しようとしない。彼らは、戦後世界秩序の公理そのものを承認しようとしないのである。

 これは事柄の性格からして人種主義イデオロギーの維持という本質をもっていることは明らかなことである。しかし、きわめて奇妙なのは、この国家の歴史意識がヨーロッパよりもさらに曖昧であって、そもそも、国家中枢に人種主義、レーシズムが存在するということがほとんど意識されていないことであろう。国民の多数は、我々は第二次世界大戦で敗戦したとはいえ、その経験を克服し、人種主義などという大層な思想とは無縁であると考えている。そもそも、大日本帝国のイデオロギーがナチスとならぶ人種主義であったという世界史についての常識も存在していないし、さらに正確に言えば、大日本帝国のイデオロギーというものがどういうものであったかはほとんどの人が知らないというのが実際である。第二次大戦前までの日本国民のほとんどが信じていて皇国史観の中枢をなした神々の物語り自体をほとんどの人々は知らない。アマテラスという名前だけは知っているが、その物語はほとんど知らず、誰でもが知っていた、アマテラスがこの国土の支配権を天皇家にあたえた天壌無窮の神勅のこともまったく知らないという脱色された世界である。国家中枢部にいて「大東亜戦争」の正統性を信じている人々さえも、実は詳しいことは知らないという奇怪さである。

 そうである以上、背後に「日本会議」があって主導したといわれる、現政権、安倍政権の国家イデオロギーもきわめて曖昧である。その中軸には大日本帝国の天皇制イデオロギーと神話史観があるはずであったが、現在の天皇家自身が現憲法秩序の一部に安定的に入っており、そういうものからは断絶している。それ故にそこにあるのは建前だけの国家史観、内容のない枠組みにすぎない。しかし、それでも、それは人種主義的なイデオロギーと雰囲気をしみ出させる。私にとって、それをあまりに反国民的・反民族的な姿において示してショックだったのは、辺野古基地拡張の反対運動を抑圧するために本土から覇権された機動隊の青年が、沖縄の人々に対して「土人」と罵ったことであった。また韓国・朝鮮・中国の人々に対するヘイト・クライムが日本社会の中には濃厚に持続していることもいうまでもない。中身のないイデオロギーが、このような行為に人々を走らせるというのは、きわめて怖いことだと思う。

 問題は、その歴史的文脈である。つまり、まずそれをささえているのが、明治時代の脱亜論と同じ、東アジアからの「分離」の意識であり、しかもそれが、今回は、アメリカの世界支配にのみ込まれることよって「脱亜」するという志向であったことである。東アジア諸民族を一括して、日本民族とは異なる、「我々は脱亜だ」という心理は民族とはことなる基準での差別、非科学的な「人種差別」の論理にならざるをえない。

 もちろん、私も、アメリカ経済への編入は敗戦国としてなかば必然的な当然の方向であったと思う。戦後社会の復興、戦後資本主義の復興につとめた経済界の動きにも尊重するべきものがあるのはいうまでもない。しかし、歴史家としては、日本資本主義の復興が朝鮮戦争特需から始まり、それ以降、アメリカの側にたって「脱亜」の立場を取ったことまで合理化することはできない。何よりも問題なのは、レーガン・ブッシュ以降の新たな戦争の危機をはらみはじめた世界情勢のなかで、日本の国家中枢が、共和党中枢からトランプにいたるアメリカ人種主義の中枢に従属する姿勢を明瞭にしたことである。日本の国家中枢部はここで、客観的には、ヨーロッパ・アメリカを席巻する新たな人種主義イデオロギーの中に、「脱亜論」を位置づけ、ヨーロッパ・アメリカの人種主義的風潮にことよせて、第二次世界大戦における日本の人種主義イデオロギーを復権するという立場に立ったのである。私は、彼らが自分たちがどういう立場に立ったのかを十分に認識できていたとは思わない。彼らは、世界の大勢ということを理由にしてアメリカに追従したにすぎない。しかし、彼らの選択した立場は、客観的にはそういうことである。

 こうして、日本の国家中枢部が人種主義的なイデオロギーに固執するなかで、アメリカの支配層に対する拝跪と従属を強化し、自己が無内容であるだけに、アメリカの人種主義イデオロギーに影響されるというきわめて奇妙な事態が生まれた。これは二度目の道である。これは振り返ってみれば、戦前の大日本帝国が人種主義イデオロギーを共通基盤としてヒトラー・ナチスと結合したことと同じ図式であるといわざるをえないだろう。

 日本社会にとって深刻なことは、このような国家中枢の動きが、アジア経済の拡大と変転、アジアからの経済的なキャッチアップを恐れる意識、そして巨大な中国経済に対する不能感、ダイナミックは韓国の経済と社会の動きに対する不安感などなどをベースとして生まれていることである。さらに最近、ガバナンスや透明性の欠如、企業倫理の欠如などが国際的に明らかになっているだけに、日本資本主義は失速とミスの恐怖感に襲われるようなことがあれば、この混迷はいよいよ深まることになるだろう。

 こうして、世界における人種主義の新たな登場の中心はアメリカにあったが、そのベースはヨーロッパにあり、その反対回りで、アメリカと日本の人種主義的動きが始まったということになるだろう。私は、この基礎となった最大の条件は、たとえば二〇一六年一月の世界経済フォーラムでは世界の資産保有額上位六二人の総資産額が下位五〇パーセント、つまり世界人口の半分の人々の総資産に匹敵するという異様な格差拡大の中にあった。これは世界資本主義の中心、アメリカから始まったが、ヨーロッパでも日本でも、さらにロシアでも中国でも、そのような実態は拡大している。巨大な生産諸力と富の集積のなかで発生した、巨大な階級間格差であって、これは歴史上で初めてのことであるといってよい異様な事態である。この富の集積は単なる奢侈や贅沢を諸個人に保障するというレヴェルのものでなく、富を集中した階層に一般人とはまったく異なる生態系と環境を作り出すものであって、そこには異なる動物が発生しているのである。そして富の集中が極端になれば、そのトリクル・ダウンもそれなりの規模をもつことになり、そこには様々な寄生動物、いわゆる労働貴族などが生息している。こうして、特殊な富者と普通の人間・労働者の生活・環境の相違は、両者が生態系と身体的自由の範囲が絶対的に異なる別の動物であるかのようなレヴェルに達している。1パーセント以下の超富裕層が国民の生産諸力と資産の大部分を横領するという状態が固定化するなかで、実現しているのは、下層の人々は、実際上、一種の労働種族、労働動物にすぎないというシステムである。

 一六世紀の世界資本主義の形成の時期には、ヨーロッパでも大量の人々が浮浪化した。マルクスは彼らを労働種族と呼ぶと同時に、プロレタリアートと呼んだが、これはラテン語のProlesからきたもので、人間らしい資産はなく子供を作るしか能力のない種族という意味であった。同じ時期、たとえばアフリカ・アメリカやインドなどをみれば明らかなように世界では大量の人々が人間として扱われず、死の運命に追い込まれ、あるいは殺された。現在のような巨大な階級格差の拡大という事態は、そのような人間の動物視、労働者蔑視、いわば資本主義的な人間の動物視が新たな形で現れたものといえるように思う。現在の世界史における新たな人種主義の浮上をどのように捉えるかは、たとえばネグリの『帝国』が先駆的な指摘をしているように、今後とも様々な議論があるであろうが、私は、その基礎的な条件は、このような超資本主義ともいえるような資本主義の状況にあるのではないかと考えている。

 このような状況は世界を16世紀からの長期の時間のなかでみること、それゆえに「未来」を見ること、その意味で学術の本質のところから「進歩」の立場を取ることという、歴史学にとってはきわめて困難な、しかし、もちろんそれなくしては学問としての社会的責務を最終的には果たすことができないという課題にぶち当たらせることになる。「進歩」の立場から「保守」をカヴァーする形で学術世界に貢献するという歴史学固有の役割にぶち当たらせる。

 なお、最後に人種主義(レーシズム)というもの、それ自体について確認しておきたい。ユネスコは第二次世界大戦後、この問題を重視して議論を重ね、「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」と結論している(一九六七年声明)。ようするに、「人種」という言葉自身が民族間に身分秩序(ハイアラーキー)をもちこむ無根拠な言葉であるというのが、当時の段階での分子生物学、人類学、歴史学などの参加の中での結論であった。これは世界の学術世界における一種の公準というべきものである。それ故に、歴史学にとっても、人類の誕生、世界への拡散、様々な神話から説き起こして諸民族の歴史にまで説き及び、この公準を説得的なものにしていくのはもっとも重要な仕事であることはいうをまたない。

 人種差別とは、特定のエスニック集団をもっぱら、肉体的・動物的な特徴に還元するイデオロギーであって、そのエスニック集団を同じ「類」と認めないというものである。それ故に、これは一面で、身分差別のもっとも奥深い根拠になり、身分的特権や身分差別の差別の心情を増殖させる。もう一面で、これは女性と男性の肉体的相違を差別的にとらえて、人間を「第一の性」と「第二の性」に区分する男権主義と、必ずといってよいほど響き合うことになる。そしてそれは戦争好き(ミリタリズム)に接続していく。ようするにレーシズムとは身体とその欲望への嗜癖の心情全体の温床なのであり、それが民族間関係、世界的な背景の下で語られる場合はレーシズムにならざるをえないという構造になっているのであるのであるが、現代のイデオロギーはすべて直接にグローバルなものとならざるをえず、すべてが突き詰めたところでは結局人種主義に融解していかざるをえないのである。
 このようなレーシズムにたいこうするものは、単純な「人類意識」、人類は同じという事実であり、その意味でのヒューマニズムになっているのだと思う。これは19世紀とのもっとも大きな相違かもしれない。

2017年7月17日 (月)

「『人種問題』と公共―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」

 先日、国際理解教育学会での報告レジュメです。
 素人のアメリカ論で、しかもレジュメですので、読みにくいと思います。

「『人種問題』と公共性・市民性―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」
                20170715保立道久 国際理解教育学会報告
前提としてーー国民・民族・人種について
 世界的に多民族状況の中での公共性を考える必要。他民族の公共性を否定する現状。世界の公共性を考えるために、多民族国家としてのアメリカ論が必要な時代。アメリカへの関心を研究と教育の世界で共有すること。

国民の定義ーー「国民=Natinal」「想像の共同体」B・アンダーソン
 国籍、市民権。日本国憲法一〇条「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係。神聖な実体ではない(レーガン「(アメリカ市民権は)わが国民のもっとも神聖な所有物」)。「物」に執着する「国家主義(スタティズム)」。
 国籍保持者=国民の利益=国益の自決の原則。The Right of Nations to Self-Determination(民族自決権ではなく、国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳すべき)。レーニン「平和に関する布告」→ウィルソン「十四か条の平和原則」→ヴェルサイユ条約→国連憲章(第1条2)「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」。相互に国益の自決権を認め、無用な衝突や戦争をさける。 

民族の定義ーーエスニシティ
 ネーションは誤訳。ナショナリズムという言葉、国民・民族にまたがり適当でない。
J・S・ミル『代議制統治論』の古典的定義(オットー・バウアも同じ)。
「人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として、歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいう」。
 本質は後者の歴史的経験。長い歴史的経験の共通性と運命による協同意識。内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、民族性が生まれたという。民族を成り立たせる「共通性」は固定的なものではなく、一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在しうる。多様かつ状況的で可変的なもの。しかし、国民とは違って法律的=想像的ではなく実在する関係。エスニック集団の否定は、一種の民族虚無主義

スターリンの民族の定義?
 「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」(『マルクス主義と民族問題』)。
 この四条件をもつ集団のみを民族とする、民族の行政的(恣意的)定義。「民族」を「国民」にほぼ近似したものに限り、多様なエスニックな存在を「人種あるいは種族」にすぎないと切り捨て民族としての権利を認めない。裏返しの人種主義。ユダヤ民族などの虐殺の「理論」根拠。旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自決の権利の困難の原因。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていた。

「人種」(レースrace)の定義
「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」(ユネスコ、一九六七年『人種および人種偏見についての声明』)。人種という語の使用自体が人種主義(racism)と断定。
 リンネ「白色人種(ヨーロッパ、創意に富む)・赤色人種(アメリカ、自己の運命に自足)・蒼色人種(アジア、黄色人種、高慢・貪欲)・黒色人種(狡猾・怠け者)」と分類。
 分子生物学、生物分類学のレヴェルから批判。「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA類型というような用語を使うほかない。「人類ー人種」という言葉は問題ばらみ。普通の分類学では「類」が上位概念であって、その下に「種」がある。「類」は進化の系統が同じ動物で、それに対して「種」は相互に性交繁殖できる集団をいう。ただ「霊長類」の場合は、「霊長類」の下に「人類」があり、人類は一種であり、相互に性交繁殖できる存在である。生物学の用語法では「人種」という言葉は不要なのである。「霊長類」という用語をつくったリンネが同時に「人種」という言葉を作ってしまったのが間違い。
 哲学の「類」(独語gattung、英語genus)という概念に関わってくる。つまり人間の最大の特性が独特な意識をもつこと。フォイエルバッハは、人間の意識が動物とくらべてもっとも独自な特徴を「人間は自分自身にとって同時に我であり、汝である。彼は自分自身を他の人間の立場において見ることができる」点に求めている。人間には霊的な意識というものがあって、そこから自分と他者を同じ本姓をもつものと意識するような存在である。フォイエルバッハはこういう人間のあり方を類的性格(gattungswessen)と読んでいる。
 人種は身分制的な制度、観念としてエスニシティ間関係を作り、その形態を変化させる。人種的身分差別は、特定のエスニック集団をもっぱら、動物的な特徴に還元するイデオロギー。そのエスニック集団を他種動物として扱い、「類」と認めない。暴力を振るうものは自分を人間から人間の顔をした動物に変化させ、同時に他者を人間から動物に引き落とす。特定のエスニック集団に属するものが、他のエスニック集団に対して集団暴力を行使することであり、人種主義とは動物的な暴力の合理化意識。暴力の妄想。

Ⅰ人種主義イデオロギーの系譜とアメリカ資本主義
(1)近代人種主義の起原とキリスト教ヨーロッパ帝国
(イ)人種主義の起原と王権神話ーートマス・ペイン
 ヨーロッパ民主主義の形成を考える場合に、その外側で同時に人種主義の形成と世界化が進んだことを無視できない。人種主義を遡っていくとヨーロッパ諸国の王権の血統神話に突き当たる(フレドリクソン『人種主義の歴史』)。スペイン=ゴート、フランス=フランク、ドイツ=ゲルマン、イギリス=アングロ・サクソンとノルマンなどのゲルマン諸族の神話である。彼らはキリスト教信仰を受け入れるなかで、その神話をアダム・ノア以来の旧約聖書の系譜と奇妙な形で結びつけた。たとえばゴートの王はノアの子のヤペテの血統を引いており、イギリスの先住民ブリトン人も同じだが、アングロサクソン人はノアの長子セムにつながる血統をもっているなどの伝説である。こうしてヨーロッパ各地でゲルマンの王権神話が絶対主義王権の血の呪物性の神話(王権神授説)に結晶したのである。
 トマス・ペインは、これを一言で要約して「異教徒は死んだ国王を崇拝した。そしてキリスト教徒の世界は、このやり方を進めて生きている国王を崇拝した」と述べている(『コモン・センス』)。死んだ国王に対する崇拝とは王権神話そのものである。
 ヨーロッパ諸国の王権は、十字軍以降、イスラム帝国に挑戦する中で、それを融合させ、キリスト教的な一つの「人種」意識を作り出した。先導したのはスペイン・ポルトガルの両国。つまり一四九二年の一月、スペインはグラナダを攻略して、イベリア半島からイスラム勢力を追い落とすことに成功した。そして続いて三月、ユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。グラナダ攻略の成功をうけて、スペインの対外交易に深く関わっていたユダヤ教徒の力を削ぎ、統制しようとした。ヨーロッパでは十字軍遠征の前後からのユダヤ人虐殺(ポグロム)がしばしば発生したが、これによってヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別の体制が決定的となった。
 ユダヤ教徒に対する「人種」迫害は、キリスト教徒を特別な人種ととらえるイデオロギーを成立させる。ドン・キホーテが自身のことを「光輝あるゴート人」と自称し、サンチョが「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、「ゴート人=キリスト教徒」をもってイスラムやユダヤ教徒と差別化する強烈な意識。
 スペインで、世界的な人種主義イデオロギーの枠組みが作られた。「人種=レース」という言葉自身が、スペイン語のrazaから始まった。「カスタ(種姓=身分)」という言葉もイベリア半島で個々のキリスト教徒としての筋目の正しさを表現する言葉。これがポルトガルによってインド支配に導入され、それをイギリスが受け継ぐなかで、英語にもカーストという言葉が入り、それによってインド身分制度の一般的な表現になったのである。

(ロ)スペイン・ポルトガルの環大西洋支配
 このスペインで作られた人種身分のイデオロギーがアフリカやアメリカの諸民族にもほぼ同時に適用され、一つの世界的な人種主義イデオロギーに展開した。
 つまり、グラナダ陥落の翌月、イサベル女王はコロンブスの出航計画への支援を決断した。コロンブスの計画は、大西洋を西に航海してインドに到達するという破天荒なものであったが、その構想はイスラム世界をインドの側から包囲し、また中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を最終的に追い落とすこと。グラナダ陥落、ユダヤ人の改宗統制という経過のなかで、それと一体となった世界進出の野望を抱いたのである。
 コロンブスのアメリカ大陸への到達によって、スペイン・ポルトガル両国は世界侵略の拠点として、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を獲得した。両国の急速な世界帝国化であり、これにオランダ・イギリス・フランスが続き、ヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略の衝動に身をゆだねた。それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきもので、多頭の複合帝国であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴。このヨーロッパキリスト教帝国の中核に「キリスト教人種」意識があったことは否定できない。

(ハ)大西洋クレオールとアフリカ奴隷・アメリカ先住民
 イベリア両国の帝国的発展の基礎となったのはアフリカ西海岸への勢力拡張であった。一五世紀にはポルトガル・スペインは西海岸で金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、マディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいていた。
 この地域に進出してアフリカの人々と商業などの恒常的な接触をもつ人々が登場した。彼らは現地で生活を営むなかでアフリカの言語を操り、西海岸の各地に商館を設置してネットワークを広げていった。職業は上級の商人から船員、あるいは通訳や乗組員などさまざま、彼らはクレオールといわれるようになった。
 コロンブスは、到着したカリブ海に金を産する島を発見し、結局、その島の人民を絶滅させ、さらにカリブ海の社会の全体を崩壊させた。アメリカ侵略はすぐに大陸に及び、一五二一年にはアステカ帝国、一五三二年にはインカ帝国を圧伏し、支配拠点として商館を中心として城塞都市を造り出した。クレオールたちはアフリカ西海岸にいとなんだ商館のネットワークを大西洋をこえてアメリカ大陸に拡大したのである。
 長く世界から孤立していて天然痘などの伝染病に免疫をもたなかったアメリカの人々は大量に死んでいき、各地で人口は激減した。そして、その労働力を補うようにして、アフリカの人々がアメリカに奴隷として連行された。

(2)WASPイデオロギーとアメリカ植民奴隷制国家
 ここに生まれたクレオールーーアフリカンーーアメリカ先住民の間の関係が、肌の色の相違にもとづく「白人種」という人種差別のイデオロギーの体系を作り出した。十字軍は「キリスト教人種」という観念は生み出したが、それは「白人種」という観念ではなかった。人々の移動が各大陸にほぼ限定され、出自や共同体・職能集団にもとづく不平等が普通であった前近代のヨーロッパ社会内部で「白人種」という観念は生まれようがなかった。

(イ)WASPイデオロギーと植民侵略国家
 トーマス・ペインはアメリカの独立とイギリスに対する戦いを呼びかけるなかで、「イギリスではなく、ヨーロッパがアメリカの祖国だ。この新世界はこれまで、ヨーロッパの各地方で市民的・宗教的自由を求めて迫害された人びとのための避難所であった。彼らを生まれ故郷から追い出したのと同じ暴政が、今、その子孫をつけねらっている」(『コモン・センス』)といっている。これは絶対主義反対の主張、フランス革命につらなる。
 しかし、ペインはイギリス国王を批判するのに、その野蛮さは「インディアンにも勝る」「インディアン黒人をけしかけて我々を滅ぼそうとしている」とし、先住民やアフロ・アメリカンへの支配を当然視する。これはアメリカ独立宣言がイギリス議会が「植民地の善き人民の正義の声と血族の訴え」に耳を塞いだと恨み言を述べているのと同じこと。先住民とアフリカ大陸出自の人びとの位置を無視している本質は同じ。ここには「白人種」人種主義の成立がある。「アメリカ市民の体内に流れている同類の血はーーアメリカ市民の連邦を聖別している」「偉大な帝国の同胞市民」(マディソン『ザ・フェデラリスト』)
 アメリカ連邦憲法(一条二節三)は選挙権をもつ「自由人」を規定しているが、これは実質上、「白人」憲法である。ネーティヴ・アメリカンやアフロ・アメリカンは「自由人」ではない存在としてそこから明瞭に排除excludeされている。アメリカ連邦憲法は彼らに対して人種主義を宣言した憲法として成立した。キング牧師、「はずかしい憲法」。
 次に人身売買と暴力的強制によってアメリカに連行されたアフリカ大陸出自の人びとを移民ということはできない。彼らも憲法において「自由人以外の人数」として扱われている。アメリカが「移民の国」であったというのは問題が多い。
 19世紀アメリカの人種主義はの中心はWASPの人種主義(White(白い)Anglo-Saxon(アングロサクソン)Protestant(新教徒))にあった。その後にやってきたアイルランド人、ドイツ人などの新しい移民たちは、特権人種WASPをトップとする階層的な秩序に組み込まれていったのである。南北戦争の最中にイギリスの『タイムス』が「(南部の)我々の同族たちにあらゆる精神的な支持をあたえる義務がある」と主張したことは、この段階になっても、イギリスの支配層がアメリカの奴隷主と「同族」のアングロ・サクソン意識をもっていたことを示す。そして『タイムス』が北軍を「略奪者や抑圧者の雑種種属(a mixed race)」と罵って南軍の勇敢さをたたえるのは、ようするに北軍をアイルランド人、ドイツ人さらにはアフロ・アメリカンの混成部隊と蔑視していることを示している。ここにはWASP奴隷主の下にいる「雑種種族」、ドイツ・アイルランド・アフロ・アメリカンなどが連携せざるをえないという状況が明瞭に現れている。

(ロ)アメリカ先住民文明と国家への植民侵略
 白人人種イデオロギーは、アメリカ先住民を「赤」あるいは「褐色」人種とし、東アジアの諸民族を「黄色」人種と一括することによって世界的なイデオロギーとして完成した。
 一八世紀まではアメリカ大陸の中心はヨーロッパに近いカリブ海、さらに金銀鉱山のある中米・アンデス地域にあった。スペイン人はメキシコ・リマ・クスコなどの城塞都市を作り、アステカ・インカ両帝国の支配機構を利用して周囲の農村地帯の支配は現地首長にゆだねるというやり方をとった。このためアメリカ先住民は奴隷化されて連行されたアフリカンとは違って、その文明から切り離されることはなかった。彼らはその地位を前提としてスペイン人クレオールたちの拠点都市に必死になって入り込んだ。都市に居住するクレオールの側でも従者や見習いの労働力は必要であったから、彼らの間に、徐々に労働や婚姻の関係がうまれ、こうして「混血」のメスティーソという存在が広く登場してきた。
 これに対して北アメリカはむしろ辺境であって、イギリスは、そこに定住農業を営むところから植民を始めた。当初はネーティブ・アメリカンの協力をえる側面も強かったが、続々と形を整える先住民の諸民族の国家との条約関係を拡大し破棄し、侵略を強化した。南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由はネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。ワシントンを初めとして一九世紀半ば過ぎまでは大統領はほとんどインディアン・ファイターであった。
 アメリカ先住民はアメリカの大地の本来の領有者であったが、ヨーロッパ人の植民活動によって一九世紀にはきわめて狭い居留地に追い込まれ、それ以外の土地をすべて剥奪された。ここにネーティヴ・アメリカンの諸民族が、ある意味で一つの「民族」として行動せざるをえない歴史が始まった。

(ハ)「白人種」イデオロギーとアフリカ人種
 「白人種ー黒人種」という人種身分は、人種主義の上でもっとも重大な身分となった。ここでも聖書に記されたキリスト教的な「人種」知識は大きな役割をした。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。そして旧約聖書の創世記では、彼は従兄弟たちに奴隷として仕えるという不思議な呪いをうけている。
 アフリカンという人種観念はヨーロッパ王権中枢で作り出されたものである。奴隷貿易はヨーロッパの各王家が特許した奴隷貿易会社に独占されていた。広大なアフリカ大陸で言語も文化も身体的な特徴も異なる民族に属する人々が大地から暴力的に切り離された。彼らの出自を船積地によって「ギネア国」「ギネア種」などと「国」「種」(カスタ)といった言葉で区別する慣習があった。異なる民族を強制的に同一の身分とすることによって、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」身分は成立したのである。
彼らは肥沃な南部農業地帯の農場において奴隷として搾取され、膨大な資本と富をアメリカにもたらした。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあった。一九世紀半ばまでのアメリカ国家元首はみな奴隷所有者である。このアフロ・アメリカンが同時に奴隷身分であり、その刻印が植民奴隷制国家アメリカの基軸として北アメリカという大国において社会システムの中に根深く打ち込まれ、きわめて強固なものとなった。こういう中でアフロ・アメリカンは「人種」ではなく、歴史によって民族となっていった。
 南北戦争(一八六一~一八六五)における北軍の勝利、そして奴隷解放宣言(一八六三年)にもかかわらず、現実には、南部白人民主党のクー・クラックス・クランなどのテロ組織を利用することも辞さない反転攻勢によって、この時期以降、社会生活における人種分離と黒人参政権の剥奪が二〇世紀にむけてむしろ本格的に進展したのである。現実には、一九世紀後半にはドイツ人やアイルランド人などは「白人化」してWASPと一体化し、激しいアフロ・アメリカンに対する人種差別が再登場し、いわば全白人集団によるアフロ・アメリカンに対する厳しい法的差別と生活のゲットー化が進むという最悪の経過を辿った。この居住分離は現在も基本的に同様である。アメリカの人種主義の深さは「異人種婚禁止州法」が長く残り、2000年、最後に州民投票でその廃止をきめたアラバマ州では投票者の40%が禁止法の存続を望んだ事実に現れている。

(3)アメリカ資本主義とヴェブレン

(イ)資本主義と人種主義
 人種主義イデオロギーは資本の本源的蓄積、世界資本主義の形成を先導したイデオロギーであった。アメリカの特殊性はこのなかでアメリカ大陸植民と奴隷制を統合して展開したところにある。レオン・ポリアコフによれば、ナチスを結果したアーリヤ神話は、ゴート・フランク・ゲルマン、さらにはケルト諸族の神話が一九世紀に融合したもの。そこには露骨な神秘主義のほかに、一九世紀後半にアメリカで発展した人種主義優生学が合流した。ヨーロッパの人種主義はナチスの行動によって基本的な点で破綻したから、現在残存している強力な人種主義はアメリカのみとなっている。
 このような経過の最大の理由は人種主義と資本主義の結合にある。資本主義の形成はプロレタリアの形成をともなった。プロレタリアは、普通、労働者と訳されるが、本来は、ローマ時代の貧民ラテン語のProlesからきたもので、子供しか財産のない人々、子供を増やすことでしか国家に奉仕できない人々、いわば貧乏人の子沢山という意味を含んだ言葉、ようするに人間動物ということになる。プロレタリアの翻訳としては「労働種族」がよい。マルクスはプロレタリアは「個体としては弱い、絶えず狩り立てられる動物の種の大量再生産を思い起こさせる」(『資本論』Ⅰ672)、「労働者の諸要求とは、国民経済学にとってはただ、労働者を労働している間じゅう養う必要、しかも労働種族が死に絶えないようにという限りで養う必要でしかない」(『経済学哲学草稿』)などとする。
 動物としての人間の労働はLabourといわれる。これに対してアメリカの経済学者、ヴェブレンはで「勤労laborへの忌避は製作本能(Workmanship)にかならずともなうものなのかどうか」という論点を議論しているが、Labourに対するものが、製作workであると(「製作本能と忌避される労働」)。
 日本語で言えば、Labourは「勤労」。貝原益軒「養生訓」に「身体は日々少づつ労働すべし、久しく安座すべからず」とあって、「体をつかってはたらくこと」という意味。「労」の意味は「疲れる、苦しむ、力を激しく使う、骨を折る」、倭訓では「いたわしい」と読む。英語のLabourも、つらさ、骨折りが基本となる意味で、「重荷を負ってつまずきながら歩く」という意味。
 これに対して、workは「はたらく」「仕事」。もとの形は「はたる(徴る)」(『和訓栞』)。「徴る」は「強く求める、請求する」「取り立てる、徴収する」という意味。『和訓栞』は、この「徴る=強く求める」ということを自分自身に対してする、「我が身をはたる」というのが「はたらく」という言葉のもとであろうという訳である。自分が自分を「はたらかせる」。「事に仕える」、一定の目的をめがけて働く。これは職人的労働。
 一七世紀イギリスの傑出した社会改革者、ジョン・ベラーズの言によって説明すると、ベラーズは「肉体労働Bodily laborはもともと神のおきてである。労働が肉体の健康にとって必要なのは、食事が肉体の生存にとって必要なのと同じである。なぜなら安逸によってまぬがれる苦痛は、病気となって現れるからである。労働は生命のランプに油を注ぎ、思考はランプに点火する」と述べている。ここで「生命のランプに油を注ぐ」労働は勤労laborであり、ランプに点火する「思考」は労働の中に存在する目的意識であり、創造性であるのであって、製作本能workの一部であるということになる。
 資本主義とは、前近代と対比した場合、労働の目的意識を生産流通の巨大な機構が代表し、個々人の労働のWorkの側面を骨抜きにしてLabour化し、そこを基準に労働力を売買し、生産・流通システムの付属「物」として、動物として扱うシステムである。これは社会の側の抵抗によって、そのままの形では動かないが、しかし、人種主義は、このような人間の動物化に対する社会の抵抗をもっとも弱める。

(ロ)成立したアメリカ資本主義の略奪的性格ーー南北戦争後
 南北戦争後一八八〇年代に本格的な工業化と都市化の時代が始まり、この前後にアメリカは植民奴隷制社会から資本主義社会に展開する。一八六〇年から一九〇〇年のあいだに、工業投資額は一二倍に、工業生産額は四倍に増加し、アメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国へ変身していった。このときアメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国となったが、同時に金融資本主義化。株式と電信の利用。
 これは移民労働の増大の時期でもあった。一八六〇年から1900年の間に一四〇〇万人の移民。一八八〇年代まではイギリス・ドイツ、スカンディナビア、アイルランド。北・西欧。九〇年代以降は南東欧の出身者。西海岸には中国人、日本人、南西部ではメキシコ系。二〇世紀初頭に大量の移民の流入。
 東部の工場やアパラチア地方の炭坑の労働力はヨーロッパから流入してきたばかりの移民たちの労働に依存していたが、雇用主たちは、様々な民族的背景をもつ労働者たちを、その比率を入念に管理しながら各の作業場・採鉱所に配置していた。民族グループをそのまま労働隊に編成し、そしてグループを超えた組織化や抵抗を未然に防ぐ方策としたのである。フォーディズムは移民労働の組織のために創案された。一九一四年にフォードの労働者は約一三〇〇〇人、そのうち東欧とイタリアなどの移民労働者が九〇〇〇人余。作業工程の細分化にともなう労働の単純化・モジュール化は、このような移民労働組織のために創案された。労働におけるモジュール制。
 これは、ネーティヴ・アメリカンの抵抗の粉砕、フロンティアの終了(一八九三)年、そして同時にアフロ・アメリカン差別の体制確立という人種主義の再編と同時期であった。このように巨大な分裂を抱え込んだ資本主義国家はめずらしい。この分裂と差異を利潤化する運動のなかで自然も肉体もすり減っていった。 

(ハ)ソースティン・ヴェブレンの資本主義批判
 ヴェブレン『有閑階級の理論』は「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例であるとする。ヴェブレンの議論は該博な人類学的知識にもつづく体系であって、その論理はいわば「人種」論的な経済学というべきものである。それはWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から一九世紀末期の資本主義の確立の時代まで一貫して連続していたこと、そしてアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に指摘した仕事である。
 この略奪性が19世紀末に金融化したアメリカ資本主義における略奪性をもった「有閑階級」に遺伝している。彼らは、そのような略奪文化の歴史を前提として生産的な仕事(インダストリ)ではなく、銀行業や弁護士業などの金融的な詐取にかかわる金銭的な職業をバックとした略奪的な気質、敵愾心、習性をもっている。有閑階級の上品な生活は労働(Industryインダストリ)への寄生であり、労働は、その中で「製作本能(Workmanship)」の面よりも「勤労labor」の面を強くしている(三五九頁)と論じた。
 ヴェブレンーガルブレイスの系統に代表される制度派経済学は、ケインズ主義経済学と相互影響しなはら、アメリカ経済学の反主流として強い影響力をもっている。「ヌン兼的市場経済制度が円滑に機能するためには社会的共通資本の強化が制度条件であって、その社会的共通資本は職業的専門家によって専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理運営されなければならない。
 伊東光晴は、日本を代表するケインズ経済学者であるが、その著『ガルブレイス』は、アメリカは「人種が階級をつくった多民族国家」であるという断定から始まっている。伊東は、それを強制連行された奴隷や貧困な移民が、言語・教育・技能などの諸条件による職種選択条件におうじて順次に社会階層を作り、下層が低賃金の単純労働の職種に押し込められ、その最下層に「かって奴隷であった黒人」が位置する構造と説明している。右に述べた意味での、人種主義的な暴力や身分システムがどのように形成されるかは、伊藤がいう社会階層の基本をなす職種や労働実態に論ずる必要があるだろう。

Ⅱ公共性の不在とアメリカ民主主義

(1)私人自由主義イデオロギーー市民権の不平等と社会権の不在
①リバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)
 憲法の「自由人」規定、自立した強者が自由を謳歌し、選挙権をもち公共の主人となるのだというアメリカ的な「共和主義」の観念。このようなイデオロギーのことをリバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)というが、これは現在も生き続けている。「一九世紀の確信は、あらゆる個人が全力をあげて自分のために努力することによって、また機会がありさえすればいつでも隣人を踏みつけることによって進歩は生じるという考え方」(パース「進化の三様式」)。

②労働の尊厳と公共性
 公共性とは人間が「類的存在」であるという公理を社会に貫くことであるとすれば、その基礎は労働の尊厳にある。それは労働のworkとしての専門性を相互に評価すること、そして労働のlaborとしての自然性を提供し合うことにある。前者は専門性のネットワークの中に社会構成員の全員が組織されることであり、後者は身体的自然の再生産と環境的自然の持続的開発に全員がかかわることであるはずである。労働の「労」は身体に関わり、「働く」は社会的職能にかかわる。「労」はコミュニティを通じて身体・家族と環境に関わる。「働く」はアソシエーションを通じて社会の分業に関わる。
 そのようなworkとlabourを環境と歴史の中に感じることができる社会が「公共」の原点。それを諸民族と国家が総括することにより、逆に専門性のネットワークとコミュニティが強化され、国家が軽量化していく道筋を構想すること。
 アメリカのインフラは、その建設が下手をすると南北戦争の後くらいまで遡り修理が大問題。水路・橋・道路などは奴隷労働あるいは差別された労働で作られたことが多く公共で作ってきたという意識が弱い。貧しい自治体は道路が荒れ放題になるという公共心のなさはこの歴史をひいている。

③植民奴隷制国家由来の人種主義と公共性
 植民奴隷制国家においては、奴隷を所有し、先住民の所有を犯すばらばらな原子のような人々の間では社会的連携が生まれない。人種差別がある中での公共とは、自分たちの仲間にとっての公共にしかすぎない。うまれるのは上昇志向サークルと利己派閥ネットワーク。アメリカ社会における個人主義とは、しばしば派閥ネットワークに属していくための「個人的な友人」関係を重視することと一体となっている。トクヴィルは、これをアメリカで非常に多い任意団体、結社の存在に結びつけて語っている。アメリカの結社が、しばしば、実際上は、二大政党の派閥的なネットワークに入っていくための入り口になっていることは無視できないところだろう。身分制社会には結社の自由の発展は困難。

(2)植民連邦制と公共性
①植民地型連邦国家アメリカ
 アメリカ人の大国意識の裏側には個人主義=民主主義=連邦国家という等式がぴったりと張り付いているのである。しかし、アメリカ連邦制は深刻な問題を抱えている。
 アメリカの連邦制は、植民地型の連邦制。北米植民地はイギリス領の段階で先住民を国家とみなして条約をむすんだが、それによって割譲され占有した土地はイギリス国王に帰属するもので、各植民地政府はその代理とみなされた。対英独立の戦争はイギリスと先住民に対する二正面作戦として闘われた。植民地連合にとっての強敵は実際には先住民の部族組織であり、ここを起点として、彼らはそれに対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。対英独立戦争に勝利した連邦はこの国王の位置に就いたのである。
 もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「邦」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、ショーニー族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連邦はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。
 ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。この横領体制を法的に固めたのが合州国憲法。インディアンは「その他すべての人々」および税負担の免除つまりインディアンとの通商を規制することは(諸外国および諸州間の通商と同様に)連邦権限とされ(憲法一条八節三項)、また各州は条約締結の権利をもたないとされ(同一条一〇節一項)、さらに連邦は「直属する領土」を支配するとされている(同第四条第三節第二項)。領土とは各州の外側に広がる先住民の居住する大地のことである。植民地型の連邦制国家の憲法の中でも、連邦成立の根拠が先住民との条約(戦争と占領)の関係にあることが書かれている国家はめずらしい。
 この連邦制の根本的由来(植民地型連邦制)をベースにして、民族分布の濃淡、多様性にともなう多様な人種差別、地域差別が状況をきわめて困難なものとしてきた。

②アメリカの地方制度
 アメリカ憲法は連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。つまり福祉や教育(初等から大学院まで)それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。弁護士・医師などの専門職の資格付与も国家資格ではなく、州政府が行う。
 州(五〇)は「郡、county」の行政区画(全国で三〇〇〇余)に区分されており、その基礎単位は自治体で、その中には憲章を有して自治権を強めて「市」というべきものになった自治体と一般のタウンがある。これらの「郡」「市」「町」などの自治体は約四万にも上り、ほかにも独自の自治的行政を行う学区・特別区などが約五万もあって、その規模や権限が多様であることがアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしている。
 小規模な自治体では市長をおかず、理事会が運営者であったり、運営を外部の行政会社に委託するなどという極端な場合もある。これは田舎の寄り合いがそのまま現代に続いていると考えれば分かりやすい。警察は自治体警察で、刑務所も自治体で運営する。
 これは政府権限の連邦・州分割といわれるが、これは行政の責任を曖昧にする。まず問題なのは、その配分は、基本的には所得税の約八割が連邦、売上税の約六割強が州政府、財産税の九割以上が自治体という配分になっている(なお、連邦に行った所得税の残りが州、州に行った売上税の残りは連邦)。実際には行政責任を曖昧にするものであって、行政の系統性と民衆奉仕を困難にする。アメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。
 連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまう。
 教育予算の財源は自治体の固定資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる。

③連邦制の国際比較ーー財政調整制度
 連邦制の国際比較。ヨーロッパの連邦制はなかば自生的なもの。それは連邦を構成する各邦・各地域の間での財政調整の方式をともなっていた。同一のパイをどう分けるか。
 たとえばドイツ。ドイツ帝国は帝国(ライヒ)が関税、州(ラント)は所得税や地税、営業税を徴収するという税源分離方式をとり、帝国財政から州や共同体(ゲマインデ=コミューン)に資金を分与する垂直的な財政調整を行っていたが、二〇世紀初頭のワイマール憲法は連邦制を規定しながらも、生存権の社会的保障(社会権)などの福祉国家理念を実現するために所得税などを中央に集中した上で、州への分与の形での垂直的な財政調整を強めた(皮肉、これがナチスによる地方主権の剥奪を導いた)。第二次大戦後の憲法はドイツを「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定し、州の主権を復活するとともに、ラントやゲマインデの相互の財政調整について、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出する」役割を与えられている(基本法第72条)。こうして「豊かな州」と「貧しい州」の格差がでることのないように各州の代表者が議席をもつドイツ上院において財政的な調整が行われている。
 ヨーロッパの連邦制・准連邦制あるいは連邦制的な傾向は、以上のように各地方の教育・福祉・道路・インフラなどの公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度を伴っていた。このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつ。これが、ドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。
 これに対してアメリカ連邦制は「財政調整なき連邦制」といわれる。「豊かな州」と「貧しい州」、「豊かな市町村」と「貧しい市町村」が生まれるのは自由競争である以上やむをえない。能力と必要に応じて儲かる企業を連れてきて州財政を維持すればよいという「市場競争型連邦制」といわれる。
 (元首クリントンの行政指令一三一三二号)「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」などとある。州や市町村の抱える問題は、そのレヴェルにまかせ放任する。
 クリントンはレーガンが開始した連邦政府による州や自治体への補助金を削減する動向を拡大。これによってローズヴェルトからケネディ、ジョンソンへと続いた公共分野におけるナショナル・ミニマムを追求する民主党の論理を放棄していったのである。

2016年7月 1日 (金)

グローバル経済と超帝国主義ーネグリの『帝国』をどう読むか

 ネグリの『帝国』をどう読むかを先週から考えている。ハーバートからでた『帝国』はさすがに私などには面白い。アメリカの学界が歓迎し、一時非常にはやった理由もわかるような気がする。

 例によって時季はずれだが、私自身の仕事との関係では、私は8世紀までは日本列島上の国家は「民族複合国家」であると考えているので、帝国が人種的区分を重要な要素としているという『帝国』の議論が面白いのである。訳本の247頁は歴史理論でつかえると思う。

 しかし、木畑洋一氏の『20世紀の歴史』(岩波新書)はネグリへの評価が低い。また柄谷行人氏の『世界史の構造』でも評価が低い。私も、下記のように批判はあるのだが、ネグリの議論の開拓者としての位置はあるのではないかと思う。

 下記が一応の総論のようなもので、批判が表にでるが使えるところは他にもあると思う。

 アメリカは民族複合国家であって、国民国家であったことはない。アメリカ帝国は「国民国家」として帝国であったことはないのである。アメリカが世界の帝国的な構造の中枢にいることは明らかだが、その帝国的な構造それ自体はアメリカをふくめた個別の国家を超えて、むしろ国家と国家の隙間の時空に広がっているもので、それは二〇世紀前半までの帝国主義とは異なるもの、いわば超帝国主義というべき実態をもっている。

 経済のグローバル化ということは、たとえばアメリカ・ヨーロッパ・日本などの経済が世界経済をグローバルに動かしているということではない。そこではすでに個別の国家が単位ではなく、経済活動を動かす主体自身が国際資本そのものとなっている。多国籍企業というのは、国籍を前提とした表現だが、資本はそれ自身は国籍を意識しておらず、それを超越する場、「国」と「国」の境界領域を自分たちの棲処にしている。

 こういうグローバル経済の在り方を超帝国主義と名づけるのは、それが個々の国の「帝国主義」を超える存在だからである。それはよく知られた二〇世紀後半の資本主義の情報化にともなって成立したものであって、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』が指摘したように、アメリカのように巨大な国家も、国家として現代の「帝国」=「超帝国主義」を統御している訳ではない。ネグリの言い方では、「帝国」は「権力の領域的な中心」をもたない。「帝国」はグローバルな領域の全体、その隅々にまで宿っている。「帝国」の主権の空間はグローバルに均質で滑らかであって、そういう平滑空間のなかには「権力の場所」は存在しないということになる。

 私は、このような世界資本主義の状況を「超帝国主義」という言葉で表現することができると考える。ネグリの「帝国」論には、以下に述べるような色々な問題がはらまれているが、しかし、それは超帝国主義の特徴をよく捉えたものとして画期的な意味をもっていると思う。しかし、問題は、だからといって、アメリカのような個別の国家が「帝国主義」でなくなったと結論していいのかどうかということである。私はそんなことはないと思う。ネグリのいう「帝国」=私のいう「超帝国主義」と個別の国家世界は別のレヴェルの存在なのであって、ネグリのようにすべてを「帝国」という言葉で一括してしまえば、その「帝国」が実際には複雑な構造をもっていることが見逃されてしまう。

 「帝国」=超帝国主義の側からみれば、たしかにその空間はグローバルに均質で滑らかにみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。しかし、その空間は透明ではあっても無色であるという訳ではない。「帝国」が国家の境界領域から発生した以上、そこには異なる出所を示す各国の国旗の青・赤・白・黄色など色の母斑が残っており、それが混じり合い、急速に動き回っているために無色・透明にみえるにすぎない。たしかに超帝国主義こそが世界的主体=主権を掌握していることはネグリのいう通りの事実であって、その前提となった個別の国家の帝国主義は表面から退いている。しかし、注意すべきことは決してそれ自身が消滅した訳ではないことである。それは論理的な筋を通すということを重視するあまり、ネグリの目から外れてしまったことだが、ネグリ自身もグローバル経済の主体=主権の位置にある「帝国」を「一つの筋に貫かれ統合された国家的であると同時に超国家的な支配組織」と説明しているように、「帝国」は、その下部に存在する複数の帝国主義的あるいは軍国主義的な国家を動かす筋を確保しているのである。そういう複数の帝国主義が実際にはいまだに実態としては強固に生き延びているという側面からいえば、「帝国」の下位空間には歴史家の栗田禎子がサミール・アミーンの提言にもとづいて議論を進めている「集団的帝国主義」というべきもの実在しているのである。歴史学としては帝国主義的なシステムが、世界的な資本主義の情報化のなかで、現在、ネグリのいう「帝国」が主権を握る方向に展開しているのだとみた方が、歴史の現実には適合的であると考えるのである。

 なお、ここでいう「超帝国主義」という概念は、二〇世紀初頭、ドイツ社会民主主義の代表であったカール・カウッキーが展開した「超帝国主義」論とは用語は同じでも内容はまったく異なっていることである。カウッキーの「超帝国主義」論は「一九世紀末期における世界全体の植民地分割の終了によって個別の帝国主義は眠り込んで、消滅して国際的な政治経済的な組織体に変身した。そこに「平和」の条件を期待することができる」というものである。それはレーニンの厳しい批判をうけたように、第一次大戦が帝国主義戦争として展開されたことを隠し、「祖国擁護」という名のもとにドイツ社会民主党が戦争協力の道に入っていく上で決定的な役割を果たした。私のいう超帝国主義とは、現代に戦争状況を惹起する根本に位置するものであって、その点でカウッキーとはまったく異なった見地である。この点で、歴史家からいえば信じられないのは、ネグリが、このカウッキーの「超帝国主義」を批判する作業をしていないことであって、それはカウッキー批判は常識だということではすまない問題であろう。ネグリの発想は、「帝国」の成立によって個別国家の帝国主義の持続を無視する点ではカウッキーと類似してくるのである。

 以上、現在の世界資本主義は、グローバルな超帝国主義と強固に生き延びていると数の帝国主義、そしてそれが超帝国主義の主権の下で統合されている国家的であると同時に超国家的な支配組織という複合的な構造をとっているのである。

 グローバル資本主義、超帝国主義の運動する空間は均質、透明・無色にみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。普通の生活者にはみえない世界である。そもそも生活者には経済の動きそれ自身はいざという時にならないと感知できない。たとえば日本の年金は二〇一四年より積立金の株式運用の率を倍にあげて五〇%としたため、二〇一五年には五兆以上の損失となり、イギリスのEU離脱問題もあって円高株安が予測されるなか、その損失の巨大化が恐れられている。生活者はそれによって年金財政が破綻したとき気がつくが、その時に放漫な方針を決めた政府に責任を取らせたとしても損失は取り戻せない。恐慌も同じことである。
 これに対して、グローバル資本主義に吸着している人びと、国家や民族的な経済の境界領域に棲んでいる特殊な人間は超帝国主義の均質、透明な空間を感知する能力をもっている。彼らはグローバル資本主義という透明な妖怪のような存在に吸着して、この世ならぬ「富」を吸う仕方を心得ている。

2016年6月29日 (水)

日本史の時代名と時代区分

 以下は友人との勉強会でくばったもの。

 私は、『平安時代』(岩波ジュニア新書)という高校生向けの本を書いた時、たとえば、薬子の乱とせず、実態に近い平城上皇クーデター事件とした。また『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書いたときも貞観津波とせず、九世紀陸奥沖海溝地震とした。政治史上の事件について元号を使用することも余計な記憶負荷をかけるのでやめた方がよいと思う。

 たとえば保元の乱は崇徳天皇クーデター事件でよいし、平治の乱は『平家物語』のいうとおりに二条天皇重婚事件でよいと思う。そもそも歴史教育にとって、不要な固有名詞を削ることは死活問題であろう。遠山茂樹氏の「共有財産論」は、民族の歴史的な知識の現実をどうみるか、人が生きていくための知識体系のなかで歴史意識の位置はどこにあるかを明らかにすることを要求している。それはたんに学者と教師と子どもの関係のなかで処理できる問題ではなく、より広く歴史知識の社会的な用語法、ターミノロジーをどうするかという知識社会学的な問題に関わってくる。

 ここでは、時代名について考えてみたいが、私はかって「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」(『史海』五二号、学芸大学歴史研究室、二〇〇五年)で、「古代・中世・近世・近代」という用語は、現状では定義も不明瞭な通俗概念にすぎないので使用をやめた方がよいとしたことがある。ただ、その上で、各時代の名称というものはやはり知識として必要だろう。そこで、ここでは「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という時代名称を提案してみたい。

 順次に説明すると、まず古墳時代は三世紀初頭の卑弥呼の擁立が箸墓古墳に結果したという意味で卑弥呼期から始まり (四世紀半ばまで) 、大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意味での河内王朝期(五~六世紀)までである。河内王朝論には議論があるが、白石太一郎『古墳とヤマト政権』にそって再評価することが「万世一系の天皇」というイメージを支える大和中心史観をやぶるために必要だと考えている。前方後円墳が火山神話を表現している(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』七号)ことからすると神話時代といってもよい。

 次の大和時代という用語は、だいたい七世紀から八世紀まで、飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。六世紀末に前方後円墳の築造が終了して、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代である。七世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は六二九~六四一)、その妻皇極(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明) の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(在位六七二~六八九)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』十八号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、八世紀も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。

 「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」というのは、 「古代」 に特権的な位置をあたえる手あかのついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。

 次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態と無関係で無意味な用語である。この時代は九世紀から十世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる怨霊期、その次ぎは冷泉・円融の二回の兄弟間の王統の迭立期(道長の時代はそれを解消する過渡期)、そして後三条以降の王家内部で激しい親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)がおこる院政期にいたる。そのなかで国家の本格的な軍事化が進展し、源平合戦から後鳥羽クーデタ(承久の乱)でそれが完成するが、この清盛・頼朝期で山城時代は終わる (これは石井進「院政時代」 のとらえ方に近い)。四〇〇年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じである。

 大和・山城の二つの時代を教えるにあたっては、王家の内紛をきちんと教えるべきである。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替、いわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。

 なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)の序論で、基本的には八世紀から十三世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家とすると述べた。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の本質をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである。

 以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘しておくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。北条氏の権力は明らかに全国的なものである。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化される。
また、室町時代については、子供たちに「室町」という言葉を覚えてもらう必要はどこにもない。たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。それなのに、なぜ「室町時代」が一般化したかといえば、これは「足利尊氏」が逆賊イメージとされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないかというのが私の疑いである。

  「室町」という語には「都」は京都を中心とするという俗物的な中央意識がかいまみえる。これは井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』八号、二〇一六年一月、人間文化研究機構)で考えたのだが、対談後、井上氏から、次の「安土桃山時代」という時代名称にも大阪城と大阪を無視する中央根性があるという意見をうかがった。「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているのではないかというのが、私の疑いである。

 「徳川時代」についても同じ理由で、徳川家を時代名称にもってくるのが適当であろうということになる。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川が東海地方出自であることは、幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、私は実態論としてもこの呼称が適当であると考えている。

 さて駆け足で、おそらく容易に賛同をえられないであろう見解を述べてきたが、最後に強調しておきたいのは、こういう時代呼称をもし採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要であろうことである。その場合、「内乱」という事大主義的な言葉を使用せず、内戦の悲惨さが徐々に増大してくる様子をザッハリッヒに語ることが必要なのは、藤木久志(『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)がいう通りである。

2016年2月24日 (水)

歴史と単独者


 歴史というのは、結局、単独者として過去の総体に向き合うということである。過去のすべての世界のなかへ入っていき、それが目の前に広がっていき走馬燈のように回り出すという感覚である。単独者として世界史の総体に向き合うということである。それは追体験の立場であり、共感とヒューマニズムにかこまれた過去にむけた文化的な愉楽の世界である。

 しかし、追体験によって過去を客観化するということは過去を突き放すことである。それは人が、過去を向いたまま、背中の側から、まさにBack to the futureの姿勢で時間のなかを激しい勢いで突っ切っていくということを意味している。過去を追体験し、それを明瞭にかつ広範囲に対象化すればするほど、過去を突き放す力は強くなり、時間を突っ切っていくスピードは急速になる。それは共感とヒューマニズムの世界を走馬燈のように動かす世界であって、そこには永遠の虚無が入ってくる。

 それはキルケゴール的にいえば想起の立場であり、ユーモアの立場であるが、ユーモアは人と人との間に距離を設定し、それとともに、そこに喜劇性を見出す作業である。それは想起の作業を笑いに充ちたものにするが、それはやはり事態を客観化して、人びとは想起によって実存から永遠性に後退していくことになる。

 その意味で、歴史学は永遠なるものを時間の一点に発見する一神教における永遠性と似た感覚をもつのであるが、しかし、それは神の姿をとらない。それはより徹底した自己の相対化と現在の相対化であって、無限に無神論に近づいていく。そこに登場するのは巨大な歴史の姿それ自体であって、しかも、その一つ一つの要素は無限に極小であるからこそ、ヒューマニズムの対象となり、それに対する追体験は、それを壊すものに対する歴史の怒りをもたらす。虚無は怒りによって満たされる。歴史学は、こうして歴史の怒りを体現する学問になるのであるが、しかし、問題は、人間が行う学術である以上、そこにはアイロニーが忍び込んでくることである。人は怒っているだけでは身がもたない。ヒューマニズムは怒りに燃料を注ぎ込むだけであるが、アイロニーは怒りに対する諦念となり、救いとなる。

 アイロニーは他者である。私たちは、単独者として過去の総体に向き合うのであるが、実は、私たちの隣に同じ単独者を発見することによって、ヒューマニズム→怒りの世界から、急に、現在の私たちの現状をアイロニーをもって発見するのである。こうして、歴史学は、「ヒューマニズムと怒りとアイロニー」をもって他者と協働の世界を発見するはずである。

 それこそが歴史的実践の世界であるはずであって、歴史学は人びとをゆっくりと実践の世界に接近させ、そこに直面させるはずのものである。現在の歴史学はそうはなってはいないかも知れないが、歴史学の地下の作業場を通っていく道の角の向こうには、つねに実践の世界がある。

2015年12月21日 (月)

歴史学における歴史理論。『日本史学』(人文書院)の終章序

以下は、『日本史学』(人文書院)の終章。「研究基礎ー歴史理論」の導入部です。

 これまでの「読書の初め」「史料の読み方」「学際からの接近」「研究書の世界」とは違って、ここで研究基礎というのは研究を行うための入口や方法よりも、その基礎の基礎、足場のようなもので、ようするに理論のことをいう。

 理論は骨組みだから、小難しいのは勘弁してもらうほかない。しかし、理論の根拠は「心」だ。そういうと変に感じるかもしれないが、研究というのは研究者の側からいえば、「心」に根拠がある。そして「理をもって論ずる」のは「心」である。だから、これは研究者個々人の心の奥底にどういう足場が組み立てられているかという問題でもあって、その意味では経験によって、また個々人によって違う。私の場合は世代的にいって、どうしても「戦後派歴史学」の理論ということになる。

 「戦後」というのは第二次世界大戦後という意味だから、古すぎることのように感じられるかも知れない。しかし、たとえば野間宏・堀田善衛などの「戦後派文学」は、その世界のなかに入っていけば、決して古いというだけでは片づけられないと思う。それと同じことである。ここでは代表として石母田正・峰岸純夫・佐々木潤之介・遠山茂樹の四氏の本を選んだが、私は、ここを足場として仕事をしてきた。

 もちろん、研究は、もう「戦後派歴史学」では間に合わないところにまで進んできた。とくに歴史学は「日本史」という枠組みのなかに自足してはいられない。つまり「琉球史」と「アイヌ史」の問題であり、そこではまったく異なる史料の扱い方と仕事のやり方が必要になっている。これから歴史学に進む人は、最初からこの足場も確保しておかねばならない。ここでは「戦後派歴史学」は無力である。


 「歴史理論の根拠は心だ」というのは、この文章を書いていて自然に気持ちに浮かんできた言葉で、書いてみれば、たしかにその通りだと思う。
 今日はコンピュータの不調・事故など、参ったことがあって、益田勝美『記紀歌謡』を読むほか仕事ができなかったが、心が折れては仕事ができない。心を取り戻すのは、やはり理論であると思う。
 益田勝美『記紀歌謡』はやはりすごい本だと思う。「古代」を対象とする歴史学が学ぶべきほとんど唯一といって良いほど屹立した仕事である。 ここにはともかくも筋道を通そうという強靱な思索がある。そこに立ち戻るほかない。そういうものが体系としての理論なのであろうと思う。体系というと、なにか自己から離れた物のように思うが、しかし、そうではなく、思考の筋であり、樹木のようなものだ。根っこであり、幹であり、そこから枝に通っていく樹液のようなものである。

 それは「歴史学の方法」といわれているものとは違うものなのである。方法は駆使するものだが、理論は私たちを呼び出し、励ますものでなければならない。
 
 これで今年の主要な仕事の一つであった『日本史学』(人文書院)の各章の序の紹介は終わり。ただ、そこで言い残したことがある。それは、歴史学は「心」の勝負ではあるが、もう一つは体力だということ。体力勝負の部分が残るということである。どのような仕事でも同じでであろうが、それは心と結びついた身体の能力である。戦後派歴史学の先輩たちの闊達な身体と強靱さのことを思う。

 

2015年12月16日 (水)

社会的物質代謝と生業論の学融合的な課題

 この図と下記の文章はある研究会で披露したものです。
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物質代謝と社会構造の概念図の説明     保立道久

はじめに
 生業論といわれる議論が歴史学のなかで話題となっている。その中心となっているのは、白水智、盛本昌広、春田直紀、橋本道範などの諸氏であって、私は、この研究動向は、本格的な社会経済史研究の動きを復活させるために、重要だと考えてきた。
 もちろん、生業論といわれる研究動向は、従来の社会経済史の研究に対して批判的な様相を示す場合も多い。いわゆる戦後派歴史学のもっていた社会経済史の方法は原則的・理論的であることを目ざしたといっても、しばしば実証の条件や技術が未発達で、方法的な枠組みが狭い、あるいは狭い印象をあたえたのは事実であるから、これはやむをえないことであるが、しかし、ここには、必要な方法論議をすれば解決できる問題も多いように思う。
 この状況を自然科学の方に自分なりに説明するために、図を作成してみた。以下、簡単に、この図を解説する。
1生業論と自然科学
 生業という言葉は、「なりわい」と読むから、簡単な言い方をすれば、ようするに、生業論とは人間の日常生活からみた経済活動の諸相を論ずる、人間の日常生活から視線を外さないということによって様々な分業(精神労働と肉体労働の分業をふくむ)や経済活動のあり方を統合的にとらえていくという研究視角であり、素材選択と方法意識のことである。私なども、いわゆる社会史研究のなかで、それを強く意識していた。経済史研究が民衆史研究や社会史研究に展開し、それがさらに分岐して生業論という動きにつながっていると私などは考えるが、そういう立場からいっても、当面、上のようにいっておけば歴史学内部では、広く了解可能であろうと思う。

 しかし、問題は、この生業論的な研究が自然科学との接点をもって展開しつつある状況である。上の定義のようなものは、歴史学・考古学内部あるいは社会人文科学の側では了解可能であるが、自然科学にとっては、それをどう受けとめてよいかは不明であろう。自然科学にとって、この生業論なるものに対応する研究対象は何なのか、それに関わって自然科学の側で、どのような方法論議が必要なのかなどの問題は必然的に発生する。

 問題は、その場合、やはり上で本格的な社会経済史といった研究動向が背後にもっていた方法意識に近いものが必要になることであろう。もちろん、それは歴史の具体的な研究の表面にでてきた訳ではない。各世代の研究者のもっていた社会科学の方法論に関わる領域の問題であって、具体的な史料実証作業の表面ではしばしば暗黙の了解事項になっていたようなレヴェルの問題である。

 生業論と自然科学との学融合的な研究ということを考える場合、もっとも大事なのは、生業論という視角が自然科学に対してどういう研究を要求しているのかということを明示することであろう。

 図では自然の運動形態を地球科学的自然(地学と大気海洋現象)、生態学的自然(植物界・動物界)、社会的自然に大別して示した。生業論の枠組みからは地質学、大気海洋科学、植物学、動物学との間で、どういう研究をしたいか、そしてその全体によって何を問題にしたいかということになる。

2人間と自然の物質代謝と「生産・再生産」

 私見では、それはまず、人間と自然の物質代謝における対象的生産(いわゆる「生産」)と主体的生産(いわゆる再生産)の双方を、自然史のなかでとらえるためにはどうしたらよいかということだと思う。

 つまり、生業論の視角、人間の生活の総体から視線を外さない統合的な研究視角という場合に決定的なのは、人間の生活は人間自身の再生産と自然的な生産の両者をふくんでいるということである。なお、日本語の生産という言葉は工場生産、大量生産などという言葉の印象が強く、物を機械的に作りだすという印象がある。これによって歴史学の中にもこれに流されて生産という言葉自体を使用しないようにと考える傾向も生まれている。それに代わって生業という訳である。

 しかし、生産という用語は、決まった方式によって決まった物を作り出すということではない。そもそもproduce,productには「前へ導く、明るみに出す」という行為、自然の内部に入り込んで、そこから物を取り出すというニュアンスがある。「生む」「産む」の前提に入り込むことがある。しかもここで自然の内部に入り込んで生産するという場合、それは二重の意味をもっている。つまり、第一にはそれは対象的な自然、人間の身体の外にある自然に入り込んで生産するということであるが、第二には、主体的な自然、人間的自然=身体の世界に入り込んで生産するということである。後者は、人間が人間自身の自然に入り込んでいって繰り返し関係する、つまり「再生産する」ことである。そこには性的生産のみでなく、生命の成長や死に関わる世界のすべてが含まれる。
 「再生産」という用語を、生産というものが第一次的であり、「再生産」は二次的であると理解してはならない。それはむしろ「自己生産」という意味では基軸の位置にある。「生産」と「再生産」は一体なのである。生業論の視角はこの「生産」と「再生産」の一体性におかれなければならない。

 難しいのは、この人間自身=人間的自然の再生産というものを自然科学的にとらえる方法である。つまり人間が食べ、身体を養い、排泄し、住み、個性的な性関係をもち、前世代・次世代と関わっていくということなど、ようするに人間が自分の動物としての身体(人間的自然=主体的自然)を維持するすべての直接的な行為の結果を探り出す方法である。これは人間の身体の歴史であって、長期的には人類学が行っているような研究であるが、しかし、1万年前から、あるいは歴史時代の歴史を検討する場合、どのようなことが可能か。私の視野では見えない部分が多い。

 ただ、それは広い意味での人口論が基礎となることは明らかであろう。人間自身の身体を維持し、生殖することによって、すべての基礎としての人口を作り出す局面である。人間人口論自体を自然科学がどう扱えるかは私にはわからないが、少なくとも人口の拡大は動物の巣と獣道、猟場と同じような人間的自然の周縁領域を作り出していく。これは人間が食べ、排泄し、住居を営み、さまざまな形と目的で動き回ることによって発生する動物としての人間の再生産にともなう緩衝帯のような生態系であって、それ自身としては本来の意味で社会的なものではないが、しかし、このような人間的自然に直接に付着する生態系の変化が人間と対象的自然との関係のすべての基礎にすわる。

 それを歴史学と自然科学で議論するためには、結局、図の上部に記した自然の無用性のなかで「廃墟=放棄された巣」を探ることが必要になるのではないかと思う。この廃墟の問題については後にふれることとするが、この廃墟、「遺跡」の様相を詳しくかつ統計的にみることによって、人間の生業の痕跡をみるということであって、ここではいうまでもなく考古学が決定的な位置をになう。歴史学が自然科学に奉仕しうるとすれば、やはりそれは最終的には「遺跡」(人間の生活・生業痕跡)の考古学的な分析が基礎となるはずであろう。


3生業経済と市場経済ー有用性と無用性

 生業論にとって、方法的に重要なのは「生業」と「経済」の概念の関係をどうとらえるかであろう。これをとかずには生業論は理論たりえない。その意味では、市川三男「環境をめぐる生業経済と市場経済」(『岩波講座 文化人類学』2)が参考になる。この論文のいう「生業経済」は、自然の有用性、使用価値が営まれる世界であるが、ここに「生産」と「再生産」の一体性の世界がある。

 それは、自然の多様な有用性の占取であって、それは自然を空間的に区分し、時間的にも区分し、また生態学的に区分していく。こうして、自然は様々なランドマークによって空間的に区分され、また季節の巡りの年間暦などによって時間的に分節され、また生態系の中心をなす動植物も区分し命名されていく。対象的自然の有用性の発見の仕方、その有用性を効用価値にしていく過程が人間による生産の本質的な特徴を形成することはいうまでもない。

 他方で市場経済とは自然の余剰、人間にとって無用な自然の過剰に基礎を置く経済である。自然の過剰という形をとった無用性を商品化することである。ここでは商品がかならずしも自然の有用性の表現ではなく、無用性=過剰性の表現であることが重要であろう。人間は自然の直接的な有用性のみでなく、生業経済には現在のところ無用・過剰な自然の存在形態を利用する方向で、生産諸力を拡大するインセンティヴをあたえられる。

 このような生業経済と市場経済のキーをなすのが、人間の空間的・時間的・生態学的な認識、民間知の蓄積である。これが社会的自然が他の諸階層の自然と比べてのもっとも大きな特徴である。それは、一つの社会的な認識のシステムによって媒介されている。もちろん、動物も自然を意識し、観察して、それを記憶する。しかし、その記憶を協同的な意識関係として強化するシステムをもっていない。社会的な自然の形成においてはこれが必須である。たとえば、漁村においては漁場の地理的認識と発遣、その記憶の管理が漁村の社会的自然においては必須の要素である。

 図にみる自然の運動諸形態の矢印が下から上に上がっているのは、有用性・宝庫性の側面である。これを人間的自然が力能としてうけとめて社会的自然の内部に組織したものがいわゆる生産諸力である。「生産力」といわずに「生産諸力」というのは、それが意味する有用性(それに対応する有用労働)がきわめて多様で、機械的に一元化できないからである。生業経済はつねに、こういう多様な生産諸力を統括する主体として存在する。

 これに対して上から下に下がってくるのが、自然の無用性、過剰性とそれが人間を自然的に規定する側面である。

 物質代謝は、この両側面の境界で展開する。市場経済は、自然の無用性を浸食し、それによって生産諸力を拡張する。前近代では、こういう多様な生産諸力を統括する生業経済と市場が主体となって自己運動する動きとの対抗関係がつねに存在する。

4hazards/disastersと社会構造

 自然の無用性と有用性のバランスが大小・諸形態のハザードによって破壊される、生産諸力が破壊される経験が人類史の当初から存在した。採集経済領域の食い尽くしといわれるものである。

 hazards(「異変」、自然的な異変)は、最初は諸形態のdisturbance(「攪乱」)として現れる。そして、自然的なhazardsはdisasters(「災害」、人間社会の災害)に展開する。三者の区別と連関を正確に踏まえることが重要であるが、問題がdisturbance→hazards→disastersという順序で展開するのはいうまでもない。より正確に言えば、このdisturbance→hazards→disastersの系列は。おのおの、Crustalogicalな(地殻的な)それ、Meteorologicalな(気象的な)それ、Biologicalな(生態学的な)それという形をとり、しかもそれらが複合的に登場する。

 また自然の諸階層においてはより低次な運動諸形態のhazardsが決定的な意味をもつ。たとえば地球科学的自然が、通常の枠をこえた地震や噴火などのhazardsを起こすと、社会的自然が攪乱され、disasters=災害が産み出される。また大気海洋の自然は生態学的自然に対して決定的な影響をおよぼし、同じようにdisasters=災害が産み出される。「地殻災害Crustalogical Disasters」「気象災害Meteorological Disasters」「生態災害Biological Disasters」などが複合した場合には社会は大きな危機に陥る。

 社会的自然の形成は、その廃墟の重層の上に展開する。廃墟は、われわれからみれば「遺跡」であるが、それは自然としてみれば、動物の巣のあとと区別できない。前述のように、この廃墟の認識が生業論的視角からいうと決定的な意味をもつ。それを分析すれば、人間の再生産にともなう緩衝生態系を自然科学的に認識することが可能となるのではないかということになる。

 廃墟の形成とはhazardsのdisastersへの転化である。歴史は、自然史の側から見れば、自然の有用性と無用性の衝突、有用的な生産諸力とそれによる自然の廃墟化、hazardsのdisastersへの転化の矛盾をつうじて展開する。そしてこれが(歴史学が固有に扱うような)社会構造自身の矛盾と結合したとき、カタストロフがうまれる。

おわりに

 このカタストロフは、レヴォリューションあるいはレジームシフトを社会に強制するのであるが、それはしかし、自然との関係からは相対的に離れた領域、つまり、図でいえば、一番右側に描かれた社会領域固有の問題である。disturbance→hazards→Regime shiftが自然科学が扱う問題であるとすれば、社会科学は、それを前提としつつ、disturbance→hazards→disasters→Revolutionという系列を扱うことになる。なお、ここでいうRevolutionは社会の強行的転換というような具体的形態を意味するものでなく、本来の意味、つまり世界軸のRevolt(回転)あるいは、「革命」(天命の改まり)を意味することはいうまでもない。軸がどのように回転するか、なめらかに人知れずか、荒々しい音をたてるか。社会が生きのびるためには回転が必要だが、できるかぎり明瞭でなめらかで、カタストロフを拡充しないものになるかどうかには、社会の構え方、予知と予感の力が必要だろう。
 しかし、Regime shiftとRevolutionの研究が学術的には似たような方法的な構えを必要とするのは、人間の歴史もやはり「自然史」の一部であることを認識させる問題である。

 なお、以下は、このような問題を考えるときに、いつも立ち戻っていた戸田芳実「中世文化形成の前提」(戸田『日本領主制成立史の研究』323頁)の一節です。
「前近代社会では、自然にたいする人間の劣位という基本条件のもとで(これは人間の日常が展開する生態的自然の表層に対する劣位ということである。自然総体に対して人間がつねに劣位となるのは誰でも知っていることである。この誰でも知っていることをもって戸田の、この文章を批判するのはフェアではない――保立追記)。「自然の紐帯」・「自然関係」が社会関係と社会意識のなかに浸透し、その意味 で自然と社会とは、近代と異質の有機的な結びつきをもっている。したがって、「社会的に、歴史的に創造された要素」がそれぞれのばあいに対立しなければならないものは、まず優越した自然そのものであり、そしてつぎに人間の特定の歴史的な社会関係にからみついた擬似的自然である。近代以前でも、文化を形成する諸要素は、「社会的に、歴史的に創造された要素」に外ならないが、まず重要な点は、それがその根底においてどのように前近代の 歴史的な「自然規定性」とかかわり合っているかということである。前近代社会の人間関係、階級支配を軸とする前近代の社会構造は、生産者にたいする特定の「自然規定性」(それはなによりもその段階の生産力の質と水準としてあらわれる)を前提とし、また、民衆にたいするそのような自然の規制 力を社会関係の規制力に転化することによって維持される。いいかえれば、生産者が自然にしばりつけられる条件のもとでは、支配者は自然を占取し、 自然を擬似的に体現することによって、生産者を把握することができるのである。これは前近代社会の階級的支配関係の重要な基礎である(なお、現代社会においても社会的自然それ自体が人間の従属の根本条件となっていることはいうまでもなく、それが社会関係の呪物性、フェティシズムとして現れることはマルクスが詳しく論じたことである。そのレベルをふまえて、前近代と近代における自然規定性を(種差をふまえて)解明することが課題であることはいうまでもないーー保立追記)。
 したがって、民衆が自然にたいする相対的独立度を高めるという生産に直結した自生的な実践は、桎梏となった本来の自然規定性を変革すると同時に、社会関係に転化された擬似的自然規定性をも変革せずにはおかない。そのようにすべての変革の起動力となる自然と人間との自生的な実践的関係(すな わち生産力)の進歩の過程は、また同時にその過程と成果を反映し定着した意識的・自覚的な所産を生み出す。それは人間の自然にたいする社会的実践との連関を失わない知的労働の結晶である。技術・言語・科学的知識・理性と文化の発展は、それぞれの時代の歴史的制約を帯びながら、意識的局面に おける人類発展の能動的要因をなしている。そして文化は高次の社会関係から生じた階級意識の規定をうけると同時に、あるいはそれ以前に、そのような自然との闘争過程の意識的側面に深く根ざしているのである。その意味では、文化はルフェーブルのいう「人間が自然を享受する仕方としての人間の 自由」の意識的な歴史的所産であって、その点に、民族的あるいは人類的共同財産としての文化の継承性の根源がある。簡単にいえば、文化は基本的に 生産力と生産関係の二つの側面にそれぞれ規定された二重性を帯びているのである」。

2015年11月20日 (金)

「学際からの視野」が歴史学になぜ必要か。

 以下は『日本史学』(人文書院)の第三部のまえがきです。歴史学は精神衛生に悪いというのが中井久夫さんのご意見で、中井さんが、こう書いた『治療文化論』についても、この第三部で紹介しました。私は学際からの視野を系統的に確保することが、歴史学者の実践的姿勢のために、それゆえに精神の健康のために必要と考えています。

学際からの視野

趣旨

 歴史家は、矛盾する史料と史料が同じ確実性を持つ時の決定に、非常な努力ーー精神衛生にとくに悪い質の努力ーーを払う。いくら足を伸ばしても着底しない泥沼を進む思いが、歴史家には、あるのではないだろうか。また史料がない時の歴史家は空想の禁欲をみずからに強いて苦悶することがあるようだ(中井久夫『治療文化論』)。

 歴史学は学術のなかでもっとも非実用的な学問である。対象が歴史である以上は、現在史(Contemporary History)であっても、それはすでに動かせないものである。歴史家はそれに耐えなければならない。それはどのような場合も過去にむかう内省の組織であって、直接には現実を動かさない。あるいは動かしてはならない。過去は理解されるべきものであるが、現在はかならず理解できない部分をふくみ、本質的に実践と投企の対象だからである。

 それ故に、歴史学が現実に関わるのは、他のより実用的な学問を通じてのみである。私は2011年3月11日の東北東海岸地震の後に地震学・火山学の人々と議論をする機会がふえ、その中で、文理融合の研究がいかに重要かを実感した。歴史学が社会に開かれていなければならないということは、まずは諸学との学際的な関係を要請されているということだというのが実感である。

 そして私などは、それは歴史学と歴史学者の精神の健康のためにもどうしても必要なことだと思う。もちろん、一種の真面目さのあまり、狭い場所で耐え、学際的な場に出ていかない強さをもっている歴史学者も立派だとは思う。しかし、その場合は、歴史学の最大の喜び、つまり他の学問にまったく新しい方法を教えられ、また他の学問を支えているという実感の中で生きていくことはできない。上に引用した中井久夫の言葉にあるように、歴史学はなかなか辛い部分もふくむだけに、凡百の歴史家には、他分野の研究者からの啓発が必要だと思う。

2015年10月15日 (木)

日本史研究の名著30冊/歴史学の勧め。『日本史学』人文書院

先日出版された『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院、ブックガイドシリーズ)に書いた「歴史学の勧め」です。


 歴史学は若く新しい学問である。歴史学らしい歴史学、つまり史料の堅実な操作にもとづいて歴史の変動の総体を考察する歴史学の成立は、人文社会科学の中でもっとも遅く、ヨーロッパでも19世紀からである。しかし、日本の歴史学はもっともっと若い。

 つまり、日本の歴史学の場合、その本格的な学術的出発は1960年代、今から約50年前のことにすぎない。私は、日本史研究の分野でそれを象徴するのが、中央公論社からでた『日本の歴史』シリーズだと思う。あの茶色い本であるが、私などは、まだあの本に愛着がある。私が好きで実際に影響をうけたのは、青木和夫『奈良の都』、佐藤進一『南北朝内乱』、永原慶二『下克上の時代』、そして佐々木潤之介『大名と百姓』などである。このシリーズの著者は、ほとんど、1962年に刊行が開始された岩波書店の『講座 日本歴史』(第一次)の執筆者でもあって、ようするに、この二つの企画のなかで、日本史の研究は、はじめてその学問としての成熟の歩みをみせたのである。

 こういうと、第二次大戦直後のいわゆる「戦後派歴史学」を無視するのかという反対意見がでるだろう。しかし、「戦後派歴史学」は、いわば歴史学の青春時代の輝きであったのだと思う。私が大学時代に指導をうけたのは、西洋史の大塚久雄先生だが、大塚さんのような戦後派歴史学の担い手からいえば、大正デモクラシー末期からの時代の歴史学はすでに新興の意気にもえる青春時代にあったということらしい。ただ、その青春は戦争への流れのなかで、一度、挫折したのであって、本格的な歴史学の青春は第二次大戦の敗戦をへて遅れてやってきたのである。そういう意味で、やはり「戦後派歴史学」の本質は成熟ではなく若さにあったのだと思う。歴史学における学問としての成熟というのは、なによりも着実な考証が内側から充実してきて、具体的な歴史像の叙述にまで自然に進んでいくということである。「戦後派歴史学」にはその余裕はあたえられていなかったのである。

 19世紀ヨーロッパの歴史学のことを考えてみれば分かるが、歴史学は何よりも安定した環境が必要な学問である。アカデミーとしての歴史学にとってまず必要なのは史料の共有と研究のための施設や、人員・予算である。そして、史料が公開されていてアクセスが可能で、史料批判は自由で、テキストクリティークと考証のための人手と時間が保証されていることだろう。歴史学はこういう手間のかかる学問であることを社会に認めて貰わなければやっていけないのだが、しかし、第二次大戦以前には、そういう条件はなかった。たしかに「東京帝国大学」に史料編纂所はあったが、当時の史料編纂所は、狭い意味での国家的な史料の収集・編纂の機関であって、史料編纂所がその設置目的に「史料の編纂と研究」という形で「研究」をかかげ、史料の共有と公開を原則とするのは第二次大戦後のことである。しかもその上に問題であったのは、「皇国史観」といわれた戦争のための「史観」の重圧は、いまでは考えられないほど強烈で、学問研究の自由のために必須の思想・信条の自由は局限されていた。

 もちろん、そうだからこそ、第二次大戦直後の歴史学、いわゆる「戦後派歴史学」は輝かしい光をはなったということはいえる。私は高校生のころ、明治生まれの祖父に「神武天皇は実在しなかったんだという話しを聞くが、それは本当なのか」と真顔で聞かれて驚いたことがあるが、「皇国史観」の呪縛力は社会全体に及んでいたのである。だから、それを崩して歴史を研究し、新たな歴史像を描くという課題は、終戦直後の社会にとって必須のもので、そのなかで歴史学はもっとも目立つ学問であった。研究のための史料的な条件などは、厳しいものがあったが、彼らの歴史的な教養や、史眼・方法意識は、もちろん時代的な限界のなかにあったものの、きわめて高いものがあったのである。「戦後派歴史学」の代表者たちは、井上清氏などの本当に一部を除いて、みな大学を出ており、嫌味な言い方をすれば、家柄もよく、能力も高いトップクラスのエリートたちであった。そのような人びとが大量に歴史学の分野に流入してくる時代だったのである。彼らは第二次世界大戦前の上中流の「市民社会」の文化的・教養的な豊かさを身につけており、最初から、日本国家が戦争に流される様子に大きな違和感をいだいていた。これがいわば彼らの世代的な実力だったのであって、とくに彼らが戦前社会を経験的に知っているということは何といっても歴史家としての圧倒的な強みであったと思う。

 こうして、彼らと彼らの直接の指導をうけた人びとが、「皇国史観」の重圧から解放されるや、研究の方法論を組み立て、それを時代や専門分野をこえて交流し、学問にはげんだ。その努力のなかで1950年代の末くらいから、急速に専門的な歴史学研究の体裁が整い、1960年代に入って、その最初の成果を象徴する、先述の中央公論社の通史シリーズ『日本の歴史』などが出発したのである。


 しかし、それが青春時代だとすれば、それからもう50年以上経っているではないか、それでも「若い学問」というのかという意見もあるかもしれない。しかし、歴史学は長い時間を必要とし、「世代」の単位で進む学問である。私などの世代は、日本の歴史学の青春世代=「戦後派歴史学」のあとをうけた第二世代である。おかげて、歴史学の第一段階での成熟の経験を受け取ることができたが、しかし、たとえてええば、私などの世代はまだ20代だと思う。

 ともかく歴史学は時間がかかる。しかも、歴史学は過去のなかを歩く学問であるから、そこには決まった道はない。それは、人生と同じように、一歩一歩、進んでいくほかない。私たちは、過去の世界のなかに蟻のようにもぐりこみ、歩いた跡がいつかつながって広い道になり、過去が誰にでも見えるようになることを期待はしている。「宇宙の晴れ上がり」ならぬ、「過去の晴れ上がり」である。私たち歴史学者は、過去が誰にでもよく見えるようになることが、現在の人類社会と世界史にとってどうしても必要であると考えている。

 しかし、その仕事の進行となると、つねに確信をもてるというわけではない。「過去を共有し、記憶の歴史像が歪まぬようにしたい」とはいっても、法学や経済学のように現在の社会に働きかけているという訳ではなく、歴史学は直接の有用性をもたない。「過去のなかを歩く」といっても、行き着くところがあるのかは不安だらけである。歴史学という学問は、やはり変わった学問であるといわざるをえないように思う。実際、歴史学を知るようになると、「これは一体どういう学問なのか」と迷うことは多いのである。そこでここでは、そういうときに私たちの世代が参考にしてきた本を紹介してみたい。

 まず哲学の分野での定番は、三木清『歴史哲学』であった。いうまでもなく、三木清は、治安維持法違反の被疑者をかくまったことを理由にして逮捕され、第二次世界大戦の終戦から一月以上たった9月26日、48歳で豊多摩刑務所の独房で死亡した哲学者である。西田幾太郎の最良の弟子であり、新カント派から出発して、ドイツに留学してハイデガーに師事し、アリストテレスからマルクスまでを読み抜いたオールラウンドの哲学者である。「戦後派歴史学」を代表する研究者は日本史では石母田正、西洋史では大塚久雄であろうが、二人とも三木を通じて歴史学、社会科学の方法論を身につけたことが知られている。いわばご先祖さまのようなものであるから大事にしてもバチはあたらない。

 この『歴史哲学』は難解をもって知られるが、日本の哲学界には、体系的な歴史哲学の書としては、いまでも、この本しかないといわれている。そのよいところは、歴史というものについて、「事実としての歴史」「ロゴスとしての歴史」「存在としての歴史」の三つを区別したことであろう。まず「事実としての歴史」の「事実」とは、Tatsacheというドイツ語の翻訳であって、三木は、Tatsacheとは、Tat(行為)とSache(物事)をあわせたもので、「そこでは行為と物とが二つでない」と説明している。三木は、ハイデガーがこのTatsacheという用語に「問題」「運命」という意味を読み込んだことを前提として(『存在と時間』12節)、「事実Tatsacheとしての歴史」を運命的・歴史的な実践それ自体の意味で使っている。これはイタリアの歴史哲学者、クローチェが「すべての歴史は現在史である(現在性Contemporaneitaをもつ)」というのに通ずるもので、人びとは、「現在の瞬間」に立って、その「運命」「問題」につらなる過去を手繰り寄せる。だから歴史は、ここでは本質的に遡行的に認識されるものとなる。

 このような「遡行」(retroactive)は「回顧」(retrospective)とは違う。それは現在まで連続してきた歴史の運動、「行為=物」(Tatsache)の実体を手繰り寄せて、自己の経験や記憶と具体的に付き合わせて確認することであって、むしろ「追体験」という表現がふさわしい。そしてこれが「ロゴスとしての歴史」に関わってくる。つまりこの「ロゴスとしての歴史」とは具体的には「叙述(歴史叙述)された歴史」という形をとるが、しかし、ロゴスというギリシャ語の原義は、三木においてもハイデガーと同様に「告示=知」という意味である(『存在と時間』第7節B)。それは過去の記憶と追体験を組み直し、その中から精神に対する「告示=知」を獲得する作業であり、そこに歴史叙述の本質があるというのである。

 もちろん、歴史学が分析の測錘をおろすのは過去それ自体であって、「存在としての歴史」の圧倒的な力と永遠に近い時間は、人間に自己の位置感覚を忘失させる。過去は人間の環境となり、環境と人間との物質代謝の中で逆に人間の自己変化がもたらされる。それは一つのランダムな傾向性(法則)として貫いていて、人間を押し流す。歴史は、多数の意思とその環境との多種多様な相互作用の結果であって、たしかに人間の歴史ではあるのであるが、それは人間から疎外されたもののように存在している。三木の別の言い方では「歴史は人間の被造物でありながら、創造者たる人間を隷属せしめる」のである。「存在」はハイデガーのいうように、現在から、外へEx投げ出された存在istenz (Existenz)として偶然的なもの、「過去=無」として重層していくということになる。

 しかし、三木の『歴史哲学』はハイデガーへの批判の書であった。三木が「過去=存在=無」という場合、それはハイデガーのように意味を了解しがたいものとしての「存在=無=不条理」であるのではなく、「存在としての歴史」は「ロゴス(告示=知)」の光に照らされて、「ロゴスとしての歴史」の意味をもっていく。そしてこれによって人びとは、過去の全体像を記憶のなかに追体験し、過去を取り戻して、その先端に立って、歴史的な実践に踏み出すということになる。三木が、ハイデガーのナチス礼賛とユダヤ人弾圧への協調をどこまで知っていたかはわからないが、決してハイデガーのような非合理主義と虚無の立場に落ち込むことはなかったと思う。そこに、三木が戦争体制のなかで獄死するということになった理由があったこともいうまでもない。

 私は、三木の仕事は歴史哲学の達成としては、今でもめざましいものだと思う。しかし、残念ながら三木の死によって『歴史哲学』は未完に終わってしまった。ハイデガーが、結局、『存在と時間』を完結することができず、それを目指すといっていた「歴史哲学」の基礎構築もできなかったのはいうまでもない。結局、こういう中で、日本の哲学界にも、そして世界の哲学界にも体系的な歴史哲学は存在しておらず、「歴史とは何か」「歴史学とはどういう仕事か」という問題については、結局、歴史家自身による論著やエッセイを参照するほかないというのが実際なのである。

 歴史家の歴史論の代表は、フランスの歴史家、マルク・ブロックの『歴史のための弁明』(岩波書店、2004年)であった。ブロックは20世紀最大の歴史家といわれるが、ナチスへのレジスタンスに参加し銃殺された。この本はブロックが、なかばそのような運命を予感しながら書いたものであり、「『パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ』と、私に近しいある少年が数年前、歴史家である父親に尋ねたことがある」と始まる。この少年がブロックの息子であることはいうまでもない。ブロックは、それに答えるという形をとって、自分の仕事がどういうものなのかを語る。ブロックは歴史家の仕事は職人に似ているといい、この書を「日々の務めに関して瞑想することを常に好んできた職人の備忘録」であるという。そこにあるのは手順にもとづいて史料を読み、考証し、組み立てる職人的な愉楽、「独自の美的な愉楽、その他のいかなる学科のそれとも異なる愉楽」であるという。それを突き動かすのは、歴史学が人間科学としてもつ人間に対する無限の興味であるというのがブロックの説明である。

 その歴史学という仕事それ自体を見つめる内省的な記述は、フランス語の微妙なニュアンスもあって、そう読みやすいという訳ではないが印象的なものである。一番有名なのは「歴史学の対象は本質的に人間である。風景や道具と機械、さらに文書や制度などの背後に歴史学がとらえようとするのは人間たちなのである。よい歴史家とは伝説の食人鬼に似ている。人の肉を嗅ぎつけるところに獲物があると知っているのである」という文章であって、これは端的に歴史学が人間の科学であることを主張している。しかし、そのほかページを繰るごとに「知ろうと望む頭脳の要請に合わせて史料がお膳立てしてくれることは決してない」「感情の強さが言語の精密さをうながすことはあまりない。歴史家たちにおいてさえ、封建制と領主制という二つの言葉は実に残念な形で混同される」「まず一つの過ちの告白から始めることは決して悪いことではない。過去を研究する人びとが自然におちいるのは起源の強迫観念である」「西欧文明は、その他のタイプの文化とは異なり、常に記憶というものに多くを求めてきた。我々の最初の師匠であるギリシア人とローマ人は歴史を書く民族であった」などなど(一部縮約した)、歴史家に内省をもたらす言葉が連ねられている。史料の考証・選択・比較と批判、歴史用語の言語学と分析概念の関係、歴史事象の分類と分野史の意味、自然科学をふくむ隣接科学による分析技術の改善、時代の連続性と区分、世代の概念などなどの話題は味読に値する。とくに前近代史に興味のある方は、よく知られたブロックの名著『封建社会』とともに必読のものである。

 ただ、『歴史のための弁明』はブロックがレジスタンスの運動に忙殺されるなかで未完に終わっており、それを補うものとして私たちの世代で読まれたのが、ギリシャ史の大家、太田秀通の『史学概論』であった。章節の題名だけを掲げると「歴史に対する懐疑」「歴史意識の発展」「実証的科学としての歴史学」「精神的生産としての歴史研究」「歴史研究の構造(研究材料・研究手段・研究主体)」「歴史研究の過程(問題提起・研究作業・叙述)」「歴史学の社会的機能(イデオロギーとしての歴史学・歴史学の存在理由・歴史学の社会的有効性)」「人間の科学としての歴史学」ということになる。

 最後の「人間の科学としての歴史学」の部分は、ブロックと同じような内省的な雰囲気がある。太田は歴史学にとっては研究主体の世界観・人生観や人生的な経験が直接の意味をもつとし、歴史学を「研究主体の人間的な苦悩を包摂する力をもつ人間的な科学である」と特徴づける。そしてその上で、「人間としての生き方の問題。人間の科学を自負する歴史学は、この問題にも何がしかの助言をあたえることができかもしれない。しかし小宇宙のことはその内部で解決しなければならない。個体としての人間の尊厳を包蔵するこの問いの前に立ち尽くす若い人々に対して、不惑の歴史学は、自己の無力を悟りつつ、しかし人間の科学にふさわしい愛情をこめて、次のようにいうほかない。――ひとりで開けて入れ」と、この書を閉じている。

 これは歴史学の分野に進もうとする若者への情熱的な呼びかけになっており、私たちの世代の歴史家にはよく知られていたものである。たしかに歴史学は変わった学問ではあろうが、過去を精細に総合的にみる能力は養い、人間が、その心と経験をふくめて過去を客観視するための訓練にはなる。私のような惑いの多い人間も、ともかく歴史学によって生きる力を支えられてきたと思う。
 
 さて、ともかく、歴史学はまだ若い学問であり、やるべき仕事は数限りなくあり、覚悟を決めた人手はいくらあってもたりない。本書は、それをわかっていただくために書いた。何歳から始めても、中年になっても、定年後になっても、いま始めれば、人生の時間はたっぷりである。歴史学の研究はやり方になれれば、そう金もかからず、また特定の分野の考証にしぼれば、史料の公開やデータベース化が進展した現在、誰でも一級の仕事ができる。その仕事場をのぞいていただくために、以下、30冊の本を選んで、(1)「読書の初め」、(2)「史料の読み」、(3)「学際からの視野」、(4)「研究書の世界」、(5)「研究基礎ー歴史理論」という順序に分類して紹介していくことにしたい。

参考文献
三木清『歴史哲学』(『三木清全集』第六巻、初出1932年)
マルク・ブロック『歴史のための弁明』
        『封建社会』
太田秀通『史学概論』(学生社、1965年)

2015年10月 1日 (木)

『老子』14章 歴史の始源を理解する

『老子』14章 歴史の始源を理解する
 目をこらしても見えない(「微」)、耳をすましても聞こえない(「希」)、循でさすっても感じない(「夷」)ような関係が、この世界にはある。つまり人間の直接の感覚では明らかに詰めることができないものが混沌として一体になっている。その一体となったあり方は、上が遠いとか、下が近いとかいうものではなく、時空を貫通している。それは絡み合った縄が透明な網のように偏在していき、名付けることができないまま、もとの無主の世界に戻っていく。その運動は形状もなく、物としての現象もない。だから意識の抽象力、一種のトランス=恍惚の中でしか認識できない。それは後ろから追いかけても尻をみることはできないし、前から出迎えても首を見ることはできないのである。しかし、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御すれば、その中で、はじめてこの理法=道が発した歴史の始源も理解することができる。これが道を理解する要点(道紀)である。

之を視れども見えず、名づけて微と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。之を循れども得ず、名づけて夷と曰う。三者は、致詰すべからず、故に混じて一と為す。一なるものは、其の上は悠からず、其の下は忽からず、縄縄として名づくべからずして、無物に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂う。是れを惚恍と謂う。之に随いて其の後を見ず、之を迎えて其の首を見ず。今の道を執りて、以て今の有を御さば、もって古への始めも知らん。是れを道紀と謂う。


視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希*1。循*2之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠*3、其下不忽。縄縄不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今*4之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。

*1「希」の原義は透かし織りの布。まれ、少ないの意になる。少ない望みを希望という。
*2帛書は捪。「循」(したがう、めぐる、なづる)はその同義(『列子』など)。
*3帛書には「攸」。
*4「今」とあるのは帛書。従来の諸本は逆に「古」であった。


解説
 この章は現代的な自然科学、社会科学の考え方からいっても、きわめて分かりやすいものである。つまり、自然の世界の理法・自然法則や、社会や歴史を貫いている理法というものは、直接の五感では捉えることはできないもので、そのままではカオスにしかみえない。それ故に、その認識のためには一種の抽象力あるいは超越というものが必要となる。自然法則の認識のためには五感を超越した数式が必要になり、商品のような単純な社会的物品を認識するためにも抽象力が必要になるのである。自然を認識するためには実験だけでなく、その中での直感的発想が必要になり、商品を五感で認識できる金に置き換えるだけで満足するのでなければ、そもそも商品とは何かということを考えざるをえないのである。『老子』は、そういうことを極めて直感的にいっているのである。『老子』の時代には具体的な個別科学は存在しないから、言い方が神秘的な表現になるのはやむをえない。そもそも科学認識というのは対象と主観の融即のようなものを常に含むから、直感的で神秘的な要素が自然に生まれるものでもある。
 さらに帛書の発見によって『老子』の歴史認識がきわめて現代的なものであった可能性がでてきた。つまり、歴史というものは、現在の理法の立場に立って、現在の状況を統御するという実践的立場によって遡及的に(retroactive)に認識できるものだ(参照三木清『歴史哲学』)と考えていた可能性がでてきたのである。

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