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カテゴリー「神道・神祇」の24件の記事

2016年12月14日 (水)

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて

日文研の『日本研究』2016年号に書いた「日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて」という論文のサマリーを今日、送った。下記のようなもの。いわゆる古代史研究の主要メンバーとはまったく意見があわないだろうと思うがーー。
 

 日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。

 本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において八世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。

 問題は、それが論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。それはまた梅原が鈴木が日本仏教を無前提に禅と真宗を中心に捉えているという批判にも通ずるものであるように見える。

 残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しを必要としていることを示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。

2016年1月 7日 (木)

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

 奈良王朝と平安王朝は、両方とも王朝国家と規定してよい(参照、保立『中世の国土高権と天皇・武家』序論)。これは第二次世界大戦前の歴史家、早川二郎の用語法である。

 ただ、その場合の問題はそれ以前からの移行をどう考えるかということであるが、王朝とは、ようするに「宮廷社会」であるから、その中枢がどのように形成されたかを論ずる必要がある。その場合に、7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉えてはどうかと思う。

 私は、特別の場合を除いて、論文で公表していない見解をブログに書くことはしないことにしている。ただ、以下は、「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で書いたことなので、若干敷衍しつつ、母子王朝論の概略を述べたい。


 七世紀は母子王朝の時代である。つまり七世紀はおおざっぱにいえば、皇極天皇(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明)と、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(六七二~六八九)の時代である(なお皇極の夫、天智・天武の父の舒明の在位は六二九~六四一)。この時代を転換させたのが、六七二年のいわゆる壬申の乱、つまり天智の子の大友皇子と大海人皇子(後の天武)の争いであることはいうまでもない。これは大海人の勝利、その天武としての即位に終わったが、天武の妻は兄天智の娘の持統であり、奈良時代の王家の血統には持統を通じて天智の血が流れ込んでいた。

 これは壬申の乱という殺し合いの後に朝廷に平和をもたらすためにも必要だったのであろうが、ようするに母子王朝(舒明・皇極王統)のなかでの血の再生産である。こうして奈良王朝の血統は天武と持統の息子、草壁皇子の血をひくものに厳密に限られることになった。その状況を複雑にしたのが、草壁が早死にし、期待されたその子の文武も夭折したことで(在位六九七~七〇七)、その中で王統は持統の妹の元明(天智の娘)、文武の姉の元正(天武・持統の孫)によってかろうじて聖武につながれることになった。しかも聖武の男児、基皇子と安積皇子が死去することによって、男系が切れ、聖武の娘の孝謙(重祚して称徳)に王統が引き継がれたのである。聖武・孝謙の父娘王朝というべき時代が、淳仁天皇の短い在位期間(七五八~七六四)を除いて、奈良王朝のほとんどの時間を占めたのである。このような母子王朝から父娘王朝へという政治史の基本経過は、様々な偶然性にもよったが、この時期の国家がまだまだ文明化の過程にあり、まだ自律的な官僚や軍事警察の機構をもっていなかったことの表現であった。

 問題は、このような経過は、王権内部の母子・父娘などの狭い関係の外にいる王族に厳しい運命をもたらしたことである。奈良時代の宮廷は、草壁―文武―聖武―称徳(孝謙)の系列に属さない天武の皇子などの多数の王族が王統から排除され、流罪・死罪の運命にさらされるというきわめて厳しい政争にみちていた。よく知られているように、奈良王朝の内紛はしばしば流血をともなう凄まじいものとなったのである。

2015年9月27日 (日)

村井康彦氏の『出雲と大和』について


 村井康彦氏の『出雲と大和』は「古代史」学会では無視されている。ある人に感想を聞いたところ、まったく無意味、そんなことを聞かれて意外だという反応があったのが記憶に新しい。

 私は重要な仕事だと思う。もちろん、村井さんの専門は平安時代史だから、「古代史」からみて素人の仕事だという反応はありうるだろう。方法的にも、史料批判の上でも意見はありうる。しかし、「素人」が正しいことをいえるというのが、歴史学という学問の本質に属することだと思う。

 「石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」という論文の初校を終えた。そこで、村井氏の仕事は、石母田正氏の出雲神話論に直結すると書いた。その部分を下記に引用しておく。

 (1)石母田の出雲神話論
 なぜ『古事記』においてオホナムチが重要な神格として登場し、「出雲神話」がヴィヴィッドに描かれたのか。

 石母田は、『日本書紀』におくれて成立した以上、出雲神話部分の成立を七世紀半ば前後の成立と考えるという点から出発し、当時、出雲神話が強調される伏線として、第一に、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の「是歳。出雲国造<名を逸せり>に命せて、厳神の宮を修めしむ」という大修造がされたこと、第二に、壬申の乱において出雲国造の一族と考えられる出雲臣狛なる人物が活躍していること、第三に、壬申の乱においてオホナムチの子神、事代神が神武イワレヒコの陵に馬・兵器などを奉納せよという託宣を下したことなどの事情を上げた。

 石母田は、これらは大和に分布する出雲系氏族の進出を反映しているとした。とくに第三の事代主の託宣が神武陵への幣物の奉納であったことは重要で、これは神武以下三代の后が事代主神あるいは大物主神という出雲系諸神の出自をもっているという神話に反映している。またイワレヒコは熊野で体制を立て直すが、この物語の背景には熊野と出雲のあいだの深い氏族的・神話的な関係があるとした。『古事記』『日本書紀』において神武紀はもっとも成立が新しいものとされるが、そこには、このような背景があったというのである。

 さらに石母田は、「天武天皇の『意思』について」という節をもうけて、このような動きは、天武が出雲神話の位置を強調したためであろうと論じ、それによって地方社会をふくむ広汎な族長層、氏族・階層を対象とする物語としようとした。それは『古事記』が個々の氏族の神話的由来を神々の血族的体系の一部として位置づけようとしていることに関係していたという。そして『古事記』を文学的な記述としようという以上、専制者、デスポットとしての神権的な物語の位置を高めるためには、その理念とは異質の世界をそれなりに説得的なものとして展開せざるをえないのだという。「津田博士のようにそこに単純に出雲人のしわざ=作為を見出すのではなく、また松村博士のように、『天皇氏神話圏』と『出雲系氏族神話圏』とを分離することによって解決するのではなく、なぜ天武天皇は、その政治理念を『古事記』によって具体化するさいに、出雲系の異質の物語を取り入れざるをえなかったのかを、主体の矛盾として問題とすることにある」というのが石母田の観点である。

 このような石母田の見解は、すでに述べたように、オホナムチを畿内から播磨、出雲までを覆うような広い神話圏をもつ文化的英雄神ととらえたことに深く関係するものであったことはいうまでもない。そのような神であったからこそ、デスポットの神権制に対する対抗者、対抗神話として描き出す価値があったというのが石母田の言いたかったことなのである。私なりに敷衍していえば、『古事記』の出雲神話は、そのような神をいわば出雲に局限された神として祭り籠めるという過程を反映していたということになるだろう。

(2)村井康彦『出雲と大和』の観点

 このような石母田の構想は基本的に継承するべきものであろう。はるか以前に、このような見通しを示した石母田の天才はさすがであると思う。私は、まだ十分に石母田後の出雲神話論の研究史を追跡した訳ではないが、これまでそこから大きく抜け出た仕事はなかったのではないだろうか。

 しかし、最近、村井康彦『出雲と大和』は、そこに新たな分析を付けくわえることに成功した。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。

 村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発するようになったというのは有名なものがたりである。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで斉明が杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。

 この村井の議論は、石母田のいう「主体の矛盾」を見事に正確に示したものであるが、邪馬台国は出雲勢力が立てた国であったという鮮明な主張を追求するなかからでてきたものであるという意味でも興味深い。邪馬台国論は、ここでは論ずることはできないが、出雲と大和のあいだには、本来、領域的な一体性があり、オホナムチの信仰は出雲にはじまって、その全域に及んだとされるのである。私も有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程は日本海ルートで丹後を経過したものとする小路田泰直の新説*25に賛同して、『かぐや姫と王権神話』において、丹後から大和の一帯がヤマト王権膝下の広域地域であったことを論じ、そのなかに丹後奈具社から大和広瀬神社をむすぶ月神・豊受姫の信仰域をみることができると論じた。オホナムチの出雲から大和を覆う信仰域もそれに重なるものであるということになる。
(3)七世紀の地震と斉明・天智・天武の母子王朝
 私は、この村井の意見に、さらに七世紀にしばしば大和飛鳥を襲った地震の影響を付け加えることができると思う。(以下略)。

2014年10月 9日 (木)

神話論について講演の準備。

 神話論について講演の準備。
 基本的な考え方は提示しておいた方がよいので、下記のようなメモを作った。
 「人類史は成熟の季節に入らなければならない」というのは網野さんの言い方で、たしかに人類史のこれまでをいわゆる「前史」として考えるという視野は重要であろうと思う。そうなると、人類史の前史のなかでは「神話時代」の時期がきわめて長かった。

(1)歴史は学ぶものー御自分の疑問は学界にとっても疑問である場合が多い
過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。
しかも、歴史学を含む社会科学や人文科学のみでなく、自然科学の力によって過去を新しい形で知ることが可能となっている。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。

(2)人類史の成熟の季節?
人間の作りだしたものによって世界が破壊できるほどの状況が生まれている。歴史と自然に対する責任をふまえ、過去の事柄を正確に偏見なく、事実に即して理解することが成熟した社会のために決定的に重要になっている。人類史は成熟の季節に入らなければならない。
そのための歴史文化というものを考える。


(3)神話を読むときの感じ方について
宗教的心理、呪術的心理を自分で経験しなければならない。けれども研究する場合は、それを外側から冷静に観察する目をもたなくてはならない。原始宗教や呪術を自分で信じようとするのではない。それは無理。むしろ自分を実験台にして観察すること。神話的心理というのは人間に通有のものでその意味では自分を実験台にできる。
童話やファンタジーを読むこと。

(4)神話研究の手続きーーあくまでも事実を重視
次ぎに重要なのは、神話の分析においては、なによりも事実を大事にすることが必要だということである。
手続きとしてはまず神話世界内部の事実の確定から進む。
第一が祭祀、制度と呪術組織、呪術の内容。
第二が神名、言語分析。
第三が神名分析を前提とした神格、
第四が神話それ自体の分析
その上で、経済的・社会的・文化的・政治的な諸事実との照合に進む。

(5)神話の研究はむずかしいーーあくまでも補助線
逆にいうと、神話の分析は、事実分析のための補助線を引くことができるかも知れないが、それだけでは事実を確定することはできない。歴史を考える本筋が神話研究であるとはいえない。

(6)神話と過去への内省
1946年1月1日昭和天皇の詔書。神話は過去において政治的に利用された。政治利用とは、文化ではなく「架空ナル観念」(虚偽)として利用されたということ。この過去を明瞭に内省しておくことが必要。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」 、

2014年9月15日 (月)

京都、天神を祭る人々

Kitano


 先週は京都で4日ほどの調査を終えた。歓待をいただく。
 今帰りの総武線のなかである。新幹線では眠りこけた。

 過去の仕事に点検をうけているような出張調査であった。歴史史料の扱いというのは無限の手間を必要とすることである。仕事を離れているので、その実感から離れているから、こういう機会は大事にするべきものなのであろうと思う。

 しかし、なぜ、こういう仕事にもっと人手がないのであろう。ということを、もう一度感じる。地震史料の蒐集事業の話もあった。

 歴史の史料というものは共有のものである。つまり、それは過去に属するものであって、過去をふり返ることができるということが、人に自信をあたえ、そしてそれによって自分を尊重することができ、他者を尊重することが可能となるということである。これはもっぱら個人の生活と人格に関わることのようであるが、しかし、それは集団となっても同じことであるように思う。民族と民族の関係も普通の私人と私人の関係を律する常識や友情にそったものでなければならないというのは、たしかポーランド問題にふれてエンゲルスがいっていたことであるが、彼にかぎらず、19世紀ヨーロッパで生まれた言葉なのであろう。

 人類あるいは人間社会というものが、私人と私人の常識や友情以外の事情によって左右されない。独占や強欲や自恣というようなコンプレクスなしに、社会が透明になっていくということ。逆にいえば不透明の部分は私人、あるいは私人同士の心の闇と闇の関係のなかに潜められること。

 そういう意味で集団が個人化することが重大なのであろうと思う。個人が集団化すると同時に集団が個人化していかなければ、それは全体主義である。集団自身が透明な個人相互の関係に還元されることによって、集団の「代表」というものが単純で交替的な関係になっていき、それでも集団が維持できるということが、社会の夢であるはずである。人の集団の歩む歴史という曖昧なもののように思われるが、しかし、こういう中で歴史自体が透明化していく。そこに現れるのは圧倒的な過去と無限の未来である。その全体を直覚的に感じながら現在に集中する。

 出張では、また神祇・神社ということを考える。考えさせられる機会をいただく。
 神祇や神社というものは、本来、日本の社会のハレの風景であって、その意味ではもっとも楽しく明るいものであったはずのものであろうと思う。ハレ=儀式ということではないはずである。もちろん、いまでも「祭り」は、この国でもっとも明るいものである。その芯のなかに歴史学は入っていかなければならない。

 黒田俊雄の顕密体制論がいうように、本来の日本の神社は、いわば寺院に付属した宗教の世俗部門である。しかし、世俗部門であるということは、他方で、民衆生活に無限に近い明るさのなかにいるということであろうと思う。黒田の議論も、もちろん、それをふまえているが、その具体までには踏み込んでいない。戦後派歴史学の重深部の建設者である黒田、そして網野善彦が残した最大の問題は神祇であろうというのが、10年ほど前からの考え方。網野的にいえば、神祇=忌み=無縁ということになるのではないのだろうか。明るさというのは、忌みからの解放の明るさである。

 トップにかかげた写真集は、帰宅したら届いていたもの。ありがたい。上記のようなことを考えることが多いので、三枝さんの文章の意味がよくわかる。北野の祭りの明るさが印象的である。
 宮本常一の『民俗のふるさと』には「人は、その共感を持ちうるものによって社会を形成することが一番平和であり、安心できた」とあるが、そういう世界である。

2014年5月29日 (木)

神話論――折口信夫の忘れられた見解からの出発

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 近くの園生市民の森のカラムシ(苧)。
 『中世の女の一生』で繊維生産を勉強して女性労働論として展開したとき、それを御読みになった新潟の繊維の研究家から麻をいただいて、自宅の裏に植えている。「肥え」付きの苗を送っていただいて、それを植えた。
 不勉強な話だが、カラムシは、この市民の森のカラムシがはじめてでないかと思う。自宅の麻よりたくましく、大きい。実際には密植して丈を伸ばすことがあると聞くから、もっと大きくなるのだろう。平安時代に史料の多い「皮剥布」の原料である。等価形態として利用される繊維についても論じたことがあるので、そのうちもう一度論じたいものだ。
 しかし、いまは神話論。いまやっているタカミムスヒ論の書き出しが決まった。安藤礼二氏の「産霊論」にも関わる問題であるので、早く仕上げたいものだ。

折口信夫の忘れられた見解
 天孫降臨神話の主催神がタカミムスヒであるということは、三品彰英の仕事以降、すべての神話学者・歴史学者が認めていることなのであるが、この神の性格をどう考えるかについては学者の意見は実際には、きわめて抽象的で曖昧であり、実際には分裂したままになっている。そのような研究史の状況については、第四章でタカミムスヒという神の名前をどう考えるべきかにふれて、詳しくふれることになる。

 ともかく、本論は、この神の具体的な性格をどうにか解明して、学説の融合と統一の道を開くために捧げられるのであるが、ただ、ここでは、私見にもっとも近接したものとして折口信夫の学説をかかげ、一つの導きの糸として提示しておくことにしたい。

 いうまでもなく、折口は、民俗学者であると同時に、近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家であり、神話論にとっては大事な位置をもつ学者である。そのタカミムスヒについての見解は、「ムスヒ」の神についての解説として展開されたが、ようするに、折口は、タカミムスヒの「ムスヒ」を「縁結び」などという場合の「ムスビ=結び」の神と理解し、ものごとを生み出すことを助ける神、「産霊の神」と解釈する立場に立っていた。これについては後にタカミムスヒについての研究史を紹介するときに詳しくふれるが、これは本居宣長以来の伝統的な神学的解釈であって、折口が早くから明示していたものである。丸山真男が、この本居―→折口の「ムスヒ」神論に依拠して、「歴史意識の『古層』」という日本政治思想史論を構想したことも学界ではよく知られている。

 しかし、この折口の議論には重大な錯誤があることは後に述べる通りであり、ここで「導きの糸」というのは、折口の「ムスビ=結び」神論ではない。つまり折口は、その晩年、新たな神道のあり方を打ち出そうとした。折口にとっては、第二次大戦の敗戦による天皇の「人間宣言」と国家神道の崩壊がきわめて大きな衝撃であったことはいうまでもない。折口は、その「人間宣言」の約一年後、「天子非即神論」という論説を発表し、そこで「今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」と述べている。折口が早くから国家神道に違和感をもっていたのは疑えない事実であるが、この論説で、折口は、国家神道を主導した学説は、「素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」と断言している。そして、折口は、明治時代以降、国家神道の下でむしろ抑圧されたり、軽視されたりしていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興する方向に梶を切ろうとしたのである。

 これは近代日本思想史における折口の位置からしても真剣な検討に値する問題であるが(参照、安藤礼二『場所と産霊』講談社、二〇一〇年)、ここでは、それが「ムスビ=結び=産霊」の神についての論説の再検討という形をとったことが問題である。折口は、タカミムスヒをトップとする「ムスビ=産霊」の神は「我々の信仰しつづけている神道」「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であると述べている。そして折口は、若い神道者たちを前にした講演において、この産霊の信仰について「あなた方は、神道の為に努力して頂くのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」とまで強調している。別の講演では、「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」として「民間神道」の意味を強調しているのも重大であろう。折口は「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」とまでいって、いわば民俗学によって、神道の宗教改革を実現しようとしたのである。

 折口が、その中で展開した「ムスビ=産霊」の神についての再検討においてもっとも重要なのは、一九四七年に発表した論文「道徳の発生」で述べた議論であろう。肝心なところを引用しておくと次のようになる。


 「この神には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である」(三四五頁)


 このようにして、折口は、「ムスヒ=産霊」の神という図式を越えて、この神に本来は「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」という性格があったことをみとめようとしたのである。そして、注目されるのは、折口が、「至上神=元の神」に「部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」(傍点筆者)という荒々しい自然神としての性格をも読みとろうとしいていたことである。折口は、この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」であるという捉え方も提出している(「道徳の発生」『全集』一五巻)。ようするに折口のいう「神道」の基礎にある考え方としての「忌み=謹慎」の宗教倫理の原点に、この至上神があるという訳である。

 ここに至上神が「天変地異を降すもの」であるとされているのがきわめて注目される点である。しかも「琉球・台湾・南方諸島にもっとも近似した神観」というのであるから、これを敷衍すれば「天変地異」として火山の噴火や地震が当然に視野に入ってきたのではないだろうか。しかし、残念ながら、折口は、この「至上神=元の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。とくに残念なのは、小川直之がいうように、この論文「道徳の発生」が発表された七ヶ月後に行われた柳田国男との対談でも、この論点が話し合われなかったことであろう。というのは、折口が、「天変地異」について「落雷」を例示しているが、早く柳田が、「雷神信仰の変遷」という著名な論文において同じようなことを述べているからである。これも決定的な文章なので、下記に引用しておこう。


 「久しい年代にわたって我々の国民に、最も人望の多かった『力を天の神に授かった物語』、および日本の風土が自然に育成したところの、雷を怖れて、これを神の子と仰ぎ崇めた信仰(中略)の第一に算えらるべきものは、賀茂松尾の神話として永く伝わった別雷神の誕生譚である。(中略、それは)雷神の奇胎するするところであって、いわゆる三輪式の説話と対照することによって、解読が始めて可能である。すなわちかって我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである。それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない」(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。


 これは折口の見解と実際上同じものである。「皇室最古の神聖なる御伝えと合致しない」、つまりアマテラスよりも古い神として「紫電金線」の神、稲妻を走らせる雷電の神という図式は、柳田・折口において共通するものなのである。というよりも、折口の議論は柳田の議論を下敷きにしていたのであろう。柳田と折口のあいだ、人間の生き方という点でも複雑な葛藤をふくんでいるが、しかし、やはりきわめて緊密な師弟関係にあったから、二人の対談で「既存者=元の神」について論じられなかったのは、当人同士にはあまりに当然なことはふれられなかったということなのかもしれない。

 第二次世界大戦が我々の国にもたらした影響と、敗戦後の状況は、すでに遠いものとなっており、その頃のことでわからないことが多くなっている。学問の歴史においても、そのころのことを取り戻すことはできないのであるが、しかし、ここに確認した柳田――折口の試論、つまり天変地異の神、雷電の神としてのタカミムスヒという忘れられた試論を「導きの糸」として、以下、天孫降臨の至高神・司令神タカミムスヒについて考えていくことにしたい。歴史神話学の根本問題を検討するにあたって、「導きの糸」を歴史学ではなく、民俗学・神道学に求めなければならないというのは、私のような歴史学徒にとっては大問題であり、こういうことになった理由を考えざるをえないという気持ちになる。しかし、この問題については、この研究を終えた後に、よく考えてみることにしたいと思う。

2014年5月 2日 (金)

今日はカツラの木を探して自転車。

Katuranoha


 今日はカツラの木を探して自転車。意外と早く見つかったので昼前に帰宅して、仕事の続きである。これがはっぱ。カツラは、秋の黄葉の美しさでも有名であるが、ハート形の葉は芳香をもち、抹香にも利用される。賀茂両社の葵祭では、葉形のよく似た二葉葵とともに装飾として用いられ、それが「葵かつら」といわれたことは早くは『宇津保物語』(楼のうへ)に記載がある。これは賀茂社においてカツラを神木とすることが先行し、その葉形が相似していることから葵がカツラとあわせて飾られたのであろう。

 カツラについては、まずは松村武雄氏の大著のツキヨミの部分を参照して書きついでいる。松村武雄さんの四巻本『日本神話の研究』は古書で高かったが、石母田正さんが、ともかく、松村武雄の仕事がでたことによって基礎ができたといっているのを知って、神話論をはじめたときに購入。やはり役に立つ。

 カツラを一枝折ってきて庭に挿し木をした。30メートルもの高さになる巨木の素質をもった樹木だが、私の生きているうちはまちがってもそんな高さにはならない。挿し木がつくかもわからない。

 いずれにせよ、月の神話の解明の鍵はカツラである。

 いま夕方までかかって、昨日の神話論のつっかえが、どうにか進んだ。昨日の原稿は没にしなくてもよさそうである。
 カツラのお陰か、あるいは益田さんの読み直しがきいたか。 居直って、これで進もうと思う。


  『古事記』はイザナキが月神ツキヨミに対して「汝が命は夜之食國を知らせ」と命令したと伝えている。この「夜の食國」という言葉は、「夜の国」と「食国」の二つにわけることができるが、まずこの「夜の国」ということの意味から検討を始めよう。

 月神ツキヨミが「夜」の神であったことはいうまでもない。そして、「夜」の神、「夜」の神話については益田勝実の見解から検討を出発することができる。つまり益田はレヴィ・ストロースの『悲しき南回帰線』に描かれた、ブラジルのボロロ族の集落での夕方から延々と続く相談と呼び出しと、そしてそれが一頻りすんだ後に夜中まで続く舞踏と歌と吟唱の共同生活についてふれている。そして、それについていけないと愚痴をこぼすレヴィ・ストロースを「夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませる」と風刺している。ボロロ族にとっては「夜は聖なる半日として一日の最初の部分を占めていたらしい。単なる睡眠の時間ではなかった」。彼らにとって夜の意味はきわめて高かった。夜行性の彼らは必然的に遅くまで寝ているが、その後の狩猟や採取の労働はの集団的な打ち合わせはすんでおり、ある意味では、それは夜に呪物的に獲得したものを手配通りに処置する付随的な時間なのである。

 重要なのは、益田が、そのような「原始的時間構造」こそが神話世界を作り出すのであって、そこでは夜空と夜の風景が人々の心の深層の真実となるといっていることである。益田は、これについて、次のような『播磨国風土記』賀毛郡の条のオオナムチの説話をかかげる。

 飯盛嵩 右、然か号くるは、大汝命の御飯を、この嵩に盛りき。故、飯盛嵩といふ。
 粳岡 右、粳岡と号くるは、大汝命、稲を下鴨の村に舂かしめたまひしに、粳散りて、この岡に飛び到りき。故、  粳岡といふ。     (『播磨国風土記』賀毛郡)


 この飯盛嵩と粳岡という二つの山について、郡内の人々が「褻の日」と「晴れの日」で、どう見方が違ったかをたいへんに印象深く説明している。少し長くなるが全文を引用しておく。


 かれらが褻の日の日中、野に出て仰ぐ山は樹木の茂った山そのものであり、山以外ではない。しかし、晴れの日の祭りの庭では、それは神々の世界の舞台・道具立てとなる。祭りの庭のかがり火の傍から、月明の夜空に浮かび出る山々のシルエットを望み見る時、かの山は、まぎれもなく、オオナムチの神の握り飯であり、この山は、同じ神が舂かせた米の糠の堆積となる。幻視は、晴れの日の祭りの庭の心の神秘が生むイメージであり、それゆえに、けの日のものごとのイメージ、かれらの生活体験に基く認識と、せめぎあうことはなかった。時間としては、それは夜に属するものであった。
(『火山列島の思想』)。


 とくに傍点部に注目されたい。益田は、神話時代の人々の心性には「褻の日のものごとのイメージ」=昼の風景を普通に見るだけでなく、つねに「月明の夜空」の「晴れの日の祭りの庭」を幻視する二重構造の視覚がひそんでいたというのである。私も、神話時代の人々は、夜から夜に続いて、そこで永遠に静止している別世界―「国」というものをというもの直感しえる人々であったに違いないと考える。「夜之食國」という言葉については、現在の感覚からすれば、そのような「国」がどこにあるのかと反問することになるかもしれない。しかし、時間と空間の観念が明瞭に弁別されない神話的な「夜の国」というものが存在すると考えてよいのである。益田の言い方だと「時間は眠っている。時は過ぎ去らない。時がいっさいを押し流すというような思考法と異なる、信じて受ける者の心の働きがそこにあった」ということになる。

 そして倭国王権の一部は確実にこの「夜の国」に属していた。つまり、三宅和朗『時間の古代史』は、この益田の指摘をうけて、七世紀に中国的な朝政が始まり、それと平行して時刻制による官衙の運営が導入される以前には、政治は日の出前の時間に行われていたとする。つまり、六〇〇年に派遣された第一次遣隋使を記録した『隋書』東夷伝倭国条によると、隋の高祖文帝が倭国の遣隋使に、国の風俗を尋ねたのに対して、「使者言ふ、『倭王は天をもって兄と為し、日をもって弟と為す。天いまだ明けざる時、出て政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め、云ふ我が弟に委ねむ』と。高祖曰く『此れ太いに義理なし』と。是において訓へて之を改めしむ」(使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天が明けない時に王宮に姿を現してあぐらをかいて座り、太陽が昇ってくると、政治をやめて、あとは弟の日に仕事をまかせよう」と答えた。高祖は「まったく道理にあわないことだ」と教訓してこれを改めるようにしろといった」)ということである。

 これは王宮の周辺では夕方から夜行性の会議がはじまって、その結果が、午前二時か三時ぐらいに王のもとに届き、それから王が決定の諸措置をとって、「聖なる半日」の会議が終わるということであろう。ようするにレヴィ・ストロースが観察したブラジルのボロロ族の集落の会議の大規模なものを考えればよい訳である。

 問題は、「倭王が天を兄とする」という場合の「天」が何を意味するかということであろう。そして、それが「日」とは異なる夜の空である以上、「天」とは、星空であり、「月明の夜空」であったと考えるほかないのではないだろうか。もし『隋書』のいうことに一定の事実の反映があるのであるとすれば、それは神話時代の人々にとって夜空への関心が本質的な意味をもっていたことを示すのではないだろうか。そして、星空と月という場合に、もっとも能動的な天体は月である以上、より端的にいえば、「天をもって兄とする」というのは、七世紀以前の王権は月神を最大の神として崇拝していたということになるのではないだろうか。

 この問いは、本稿の全体で答えられることになるが、ともかく神話における夜空の理解において、これまで一般的であったのは、次にかかげる津田左右吉のような意見であった。

 神代史のみならず、上代人は全体に天界の現象には注意しなかったらしく、すべての文学を通じて、天界の自然現象を取り扱ったものが極めて少ない。上代人に暦の知識がなく、星の名などを殆どもたなかったのも、日月星辰の運行について注意することが、少なかったためであろう。一般に知識の程度が低かったからであることは勿論ながら、それに注意が向けられなかったことも疑いがない。支那においてもかういふ自然説話は余り発達しなかつたが、それでも淮南子天文訓などには、日が東から出て西に入るまでの行程に関する説話風の記述があり、日が馬を駆つて天を行くといふ空想の片影も、そこに認められないでもないやうであるが、シナ思想が著しく混入してゐる神代史でありながら、毫もかういふ説話の顧慮せられたらしい痕跡が見えないのは、上代の日本人が、天體の運行に興味を有たなかつたからではなからうか。かう考へて来ると、日の神(及び月の神)に関する物語が自然説話と見なせないのも、怪しむべきではなからう。日や月を生きたものとして、人として取扱ふことは、未開民族の説話に於いては普通の例であり、それによつて日月の性質や行動が説明せられてゐるが、神代史の日月二神の物語は、さういふ性質のものではない。

 興味深いのは、こういう意見が津田左右吉のみではなく、より早くから一般的なものであったことである。たとえば、文学史研究の先駆者として知られる芳賀矢一は「農業国で昼の疲れに早寝をするので、天体のことには注意が少なかった」(『国文学十講』明治三二年)と述べている。ようするに、農民は早寝・早起きで疲れて倒れるように眠ってしまうという訳であって、ここには一種の農民蔑視と愚民観がある。そして、それが一方で日本の国柄をもっぱら「農村」とみる農本主義的な歴史観に通じている。

 しかし、最近、勝俣隆『星座で読み解く日本神話』が、このような見方を厳しく批判して、農耕者は農作業の指標を月や星によっていたという当然の事実とそれに対応する民俗事例、そしてそれを前提とした『古事記』『日本書紀』の記述のなかに星の神話を読みとる作業を行った。これを前提とすれば、むしろ検討しなければならないのは、そのような夜空の神話が、なぜ『古事記』『日本書紀』の神話テキストにおいて無視されたのかという問題であるはずである。その意味では、右に引用した津田左右吉の「未開民族の説話に於いては普通の例」であるものが、なぜ「神代史の日月二神の物語」においては表面から隠されているのかということこそが大問題となるのである。こうして、津田の問題提起を視野を逆転して検討することが必要になるのである。

 さきほど東京大学出版会のUPが届き、ある文章を読んでいて憤激。「馬鹿につける薬はない」ではなく、「学者につける薬はない」ということであろう。怒っていて仕事が進まない。庭仕事をすることにする。

2014年3月28日 (金)

「ムスヒ」の神・タカミムスヒ論ーー本居宣長・柳田国男・折口信夫

 依然として神話論をやっているが、研究史のところが、当面、不要になった。もう一息である。

 研究史ですので、他の人の研究にはじゃまになりませんし、すでに自己の見解そのものは、『歴史のなかの大地動乱』などで書いていますので、ここで一度、自分のなかで固定したいと思い、ブログにあげておきます。

 今日は夕方から友人と津田沼の蕎麦屋で食事をし、呑む予定。蕎麦屋で飲むというのが好きです。

 柳田国男はさすがだと思う。

 このまえ、アーレントの映画をみた。千葉劇場という映画館。これはいい。毎回みたいがさすがに時間がない。

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これまでのタカミムスヒ論ーー本居宣長・柳田国男・折口信夫

1「物を生成す神霊」ーー本居宣長説

 タカミムスヒの神話における地位の高さにはじめて注目したのは、江戸時代の本居宣長である。つまり、本居の『古事記伝』はただ高御産巣日・高皇産霊などと表記されるタカミムスヒという神名を分析の対象とした。本居は神名の下半部の「ムスヒ」を問題としたのであるが、たしかに後に説明するようにタカミムスヒに関係の深い神としてカミムスヒ・イクムスヒ・タルムスヒ・タマツマルムスヒなどという神がいた。それ故、たしかに「ムスヒ」が、どのような種類の神を表現するのかが決定的な問題となる。本居は、この「ムスヒ」を「ムス」と「ヒ」に分解し、そのうちの「ムス」を「そは男子女子、又苔の牟須などいう牟須にて、物の成出るをいう」とし、「ヒ」を「霊異なるよしの美称」と説明した。「ムスヒ」とは「物を生成すことの霊異なる神霊」であり、「世に諸の事類も事業も成るは、みな此神の産霊の御徳なることを考へ知るべし」としたのである。「ムスヒ」とは、すべてのものの根本にあって物事を生成させる霊力をもった神ということになる。

 この本居の見解は、実は本居に対する厳しい批判からその研究を出発させている津田が、このタカミムスヒについての本居の解釈を認めたこともあって、その影響はいまだに根強く、たとえば政治学の丸山真男の「歴史意識の古層」という日本思想史論などが、この本居のムスヒの神の解釈にのっかって展開されていることはよく知られている(丸山真男『忠誠と反逆』筑摩書房、一九九二年)。

 しかし、この説明を乗りこえることが必要になっているのが、最近の研究状況であろうと思う。つまり、すでに溝口睦子が論じているように、この解釈は、「ムス」や「ヒ」という語彙についての厳密な解釈によるものではなく、「高皇産霊」「高御産巣日」というタカミムスヒの漢字表記の「産霊」あるいは「産巣」という部分に引っ張られたものである。本居の業績の大きさはいうまでもなく、ともかくもタカミムスヒという神を発見したことそれ自体に大きな意味があったことは特筆すべきであるが、しかし、これはいわゆる「からごころ」を排するという本居の初心にも反することではないかということになる。そうはいわないまでも、現在の学術レヴェルからいうと一種の素人語義論に近いものにもみえてくる。

 より正確にいえば、本居は、ここで学術ではなく、一種の原理的な神道神学の立場からタカミムスヒという神を論じているというべきなのかもしれない。しかし、結局のところ、このような説明によってタカミムスヒはアマテラスの鮮明なイメージの影に隠れ続けることになった。本居は、そもそもタカミムスヒを実態のある天地創造の至高神としてとらえようという指向はもっておらず、そうである以上、太陽の女神アマテラスのイメージと競いあうことはそもそも無理であったのである。

2折口信夫・柳田国男の挑戦

 この宣長的な説明を乗りこえる課題に最初に挑んだのは柳田国男ー折口信夫と続く日本民俗学の「固有信仰」論であった。(川田稔『柳田国男ー「固有信仰」の世界』)。つまり柳田は「雷神信仰の変遷」という著名な論文において「それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもないが、(中略)我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである」と述べている(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。つまり、「皇室最古の神聖なる御伝え」であるアマテラスよりも古い神として「紫電金線」の神、つまり稲妻を走らせる雷電の神がいたというのが柳田の想定である。この論文は、後にふれる柳田の「玉依姫考」と並んで、柳田の神道史研究の基礎にある論文であって、折口はそこから甚大な影響をうけていることは明らかなように思えるのである。

 そして、折口信夫は一九四七年に発表した論文「道徳の発生」において、この神に「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」という性格をみとめようとした。「日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観ーー素朴なーの最近似している」「元の神」の観念であろうとすることも興味深い点である。折口の主張のニュアンスは複雑であるが、ここで「元の神」は「神以前の有様」というレヴェルにある「既存者」であるという。「既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すおのと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」というから、これはようするに自然神であったというのであろう。この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」、ようするに折口の別の言い方では「忌み」ととらえられていることも重要であろう(「道徳の発生」『全集』一五巻)。

 これはタカミムスヒが「大風・豪雨・落雷」などの神威をもっているという考え方を折口がもっていたことを示唆しているといってよい。これは柳田国男の見解を前提としたもので、折口に師事した筑紫申真が、アマテラスの宗儀の前身である伊勢大神=高木神(後にみるようにタカミムスヒの別名)の神格を雷雨の神と考えたのは、この柳田・折口の見解を発展させたものである(筑紫『アマテラスの誕生』講談社学術文庫)。あるいは筑紫は、そのような意見をもつにあたって、折口の直接の示唆をうけていたのではないかとも思われる。

 ただ、折口は活字になっている限りでは、上記のような示唆にとどまっており、タカミムスヒが雷神であるという見解を明瞭には述べていない。この点では折口はきわめて慎重であって、むしろ折口は、『日本書紀』『古事記』に登場するタカミムスヒの姿には、「さうした伝えが欠けている。これはその点が喪失したものとみてよい」「元の神の性格が完全に伝わっていない」とし、その事情を探ることを重視したのである。

 これはそれとして正当な方法であったと思われるのであるが、折口は、このような「喪失」の事情として、二つの事情を考えた。その第一はタカミムスヒの神が太陽の女神「天照大神の蔭にかくれている神」となったという事情である。これは折口が一九二九年に発表した論文「古代人の思考の基礎」で述べた考え方であって(『全集』三巻)、アマテラスの本来の名前、大◆女貴=オオヒルメムチの「ル」は「ノ」と同じ助詞であって、この神名は「日の妻」を意味する。つまり、ヒルメというのは「日の神の妻・后」ということであって、彼女は「日の神につかえている最尊貴な、神聖な神の后」であり、神に妻として仕える「巫女」であった。アマテラスとは、この巫女が神格化して女神となった存在であるというのである。

 折口は「日本の信仰には、女神の信仰があるが、私の考えでは、女神は皆、もとは巫女であった」「天照大神も、かうした意味の神である。この点で、社々にある姫神と同じに考えることができようと思う」としている。そして別の論文では伊勢内宮の北にある荒祭宮が「日の神」であり、それと「交渉」する位置に「ひるめ」がいたのではないかという想定もしている(「天照大神」『全集』二〇巻)。折口は、ここでタカミムスヒ=高木神がアマテラスの仕える「日の神」(男性太陽神)であったかどうか、また荒祭宮の神がタカミムスヒであったかどうかについては断言をさけているが、そもそも折口はタカミムスヒがアマテラスの陰に隠れた状況を論じているのであるから、タカミムスヒこそがヒルメが仕えた神である可能性も考えていたようにみえる。

 なお、「社々にある姫神」というのは、柳田国男の論文「玉依姫考」(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)によったものであって決して折口の独断ではない。柳田のこの論文は、八幡・住吉・枚岡などの諸社の事例をあげて日本では巫女の神格化する例の多いことを詳細に論じてたもので、神道史研究において決定的な意味をもつものであることはよく知られているのである。巫女が神の妻となることを通じて巫女神となり、さらに独立した姫神となるというルートの存在は確実なものといってよい。折口は、これに依拠して、アマテラスの場合は「巫女神=姫神」が、その仕える古い「日の神」(男性)の姿を隠してしまったとしたわけである。前述のようにこのタカミムスヒという神の本質は『古事記』『日本書紀』の成立の時代、つまり天武天皇の時代に津田のいうような強い政治的な事情で「隠され」たのであるが、それを強調するのみでなく、その代わりにアマテラスが浮上してきた条件が、柳田・折口のいうような宗教的・文化的な事情によるものとみるのが適当であるように思う。

 なお、「大日?貴=ヒルメ=日の妻=巫女」という語源説が成立するかどうかについては、「ヒルメ」とはただ「日の女」という意味であって、「妻」とはいえず、「日」(太陽)の女神という意味にとるほかないという溝口睦子の批判がある(『王権神話の二元構造』吉川弘文館、二〇〇〇年)。私は、この溝口の批判は語義論としては正当なものであると考えるが、しかし、だからといって、アマテラスに巫女の姿の反映をみるという論理それ自体を否定することはできないと思う。柳田・折口の合作といってよいこの学説の説得力は高く、それだからこそ松村武雄・三品彰英などの神話学者によって支持されているのである。

3「結び」の神ーー折口説とその蹉跌

 さて、折口はタカミムスヒが「元の神」の性格を「喪失した」、第二の事情を、タカミムスヒがもっている「ムスヒ」という神の機能にもとめた。つまり、この神には「生産の根本条件たる霊魂付与ーーむすびという古語に相当するーーの力」「産霊神」としての側面がむしろ目立つようになったという訳である(前掲「道徳の発生」)。

 このタカミムスヒの「ムスヒ」についての解釈は、本居の見解を前提としているが、しかし、違うのは「むすび」という言葉に注目する天である。これは相当早くから考えていたことのようで、折口はすでに一九二七年に「”むすび”というのは、すべて物に化寓らねば活力を顕すことの出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱えられる時に、それに憑り来て其の力を全うするものであった」であるとのべている(「国文学の発生(第四稿)」『折口信夫全集』一巻)。よく知られているように、折口は、その最初期の著名なエッセイ「髯籠の話」で「青空の退辺より降り来る神」という観念、つまり神々は虚空を飛翔し、諸方に遍満する精霊を本質としているというアニミズム的な観念を打ち出した(『折口信夫全集』二巻)。そして、その魂を呼び寄せる目印として樹木その他に特殊な呪術性があると主張し、それを表現する「依代」という言葉を案出した。折口は、それにくわえて、精霊を呼び寄せ、固着させる呪術そのものを「結び」という言葉で考えた訳である。つまり、「外来魂」を物にやどす呪術が「むすび」であるというのであるから、これは折口の神道学説にとっては、「依代」論に対応するような緊要な意味をもっていたことになる。

 そして第二次世界大戦後、折口は「産霊の信仰」という特別講義で、宣長のようにタカミムスヒの「ムスヒ」を「ムス+ビ」に分解して理解するのではなく、「ムスヒ」は「結び」を意味するとはっきりと主張した。たしかに『延喜式』で火神カグツチを「火結神」と表記していることは、「ムスヒ」が早くから「結び」という意味で理解される場合があったことを示している。また『万葉集』(巻二、一四一)の「磐代の 浜松が枝を 引き結び まさきくあらば また帰り見む」という和歌は、この時代の人々が、魂を結合させるために木枝や草を「引き結ぶ」ことがあったことを示している。

 折口はこの和歌を「いま、世の人がするように、浜の松の枝を結び合わせて、ここにいらっしゃる道の神に、自分の命や旅路の無難を祈っていくが、その祈った通りの効果が現れて、万一無事に健康でいたならば、ふたたびやって来て、この松を見たいものだ」という意味であると説明し、その信仰の心理は、自分の魂、霊魂の一部を「結び」の中に籠めてあたえるというものだとしている。実際、いまでも神社の神木や境内の木の枝にオミクジを結びつけ、厄を祓っていくが、それも同じようなことであるに違いない。

 ようするに、折口は、「むすぶ」というのは「水を掬ぶ(両手をあわせて水をすくう)」という言葉に示されるように、「外部に逸脱しないようにする」ということが本義であって、そのようにして「人間の身体のうちへ霊魂を容れる、霊魂を結合させる」ことであるというのである。折口によると、このムスヒ=産霊の神というものは、人間の霊魂を「結び」つける呪術、人間の身体と霊魂の関係をあつかう呪術を代表する神であるということになる。そしてここから「からっぽの肉体にも霊魂が入る訳で、それが人間の誕生の時ということになり、たとい、如何に尊い神のような人手も、産霊の技術が行われなければ生まれないだけでなく、神の威力を発揮することがない」という結論が導かれる。

 折口は、さらにムスヒの神の信仰が世俗化したのが「縁結び」の神の信仰であるという。つまり、「近世、男女の名前と年齢とを白い紙に記して、社寺の格子戸とか、境内の木の枝などに結びつけて、夫婦の契りを祈る風習が広く行われたのが縁結びの神の信仰で、これは大体、むすぶの神と発音されている」というのが、その説明である。これらを総合すると、折口はムスヒの神に生殖や性愛にかかわる神の性格を認めるということの直前までいっていたように思われる。

 ただ、残念ながら、折口は、右の「産霊の信仰」という特別講義を行ってしばらくしてから死去してしまい、結局、折口のタカミムスヒについての議論は中途半端なまま終わってしまった。そして、現在では、実は、折口の「ムスヒ=結び」という図式それ自体に大きな錯誤があったことが明らかになっている。つまり、本居から折口までは、タカミムスヒは「タカミムスビ」と濁音に読まれるのが一般であった。ところが、タカミムスヒの神名については、『日本書紀』に「美武須毗」と訓注があり、言語学の大野晋によって、この「毗」は『日本書紀』の場合かならず清音の仮名としてもちいられていることが明らかにされた(大野『上代仮名遣の研究』岩波書店、一九五三年)。溝口睦子が指摘しているように、これによって「ムスヒ」の神を「結び」の神であると説明する折口説は学説としては明瞭に破綻してしまっている(「記紀神話解釈の一つの試み」(中の二)『文学』一九七四年二月)。

 もちろん、柳田ー折口の議論の方向それ自体は、徐々にみていくように、筑紫申真・松前健・岡田精司・中村啓信などによって引き継がれており、いまだに重要な位置をもっているのであるが、しかし、現在の段階では、もう一度、すべてを検討しなおすことが必須となっているのである。

2014年1月23日 (木)

神道史学の達成と歴史学


 『かぐや姫と王権神話』を執筆し、地震・噴火神話の研究をすることになって以来、神道史の論文を読むことが多くなった。

 西田長男、西宮一民、松前健、岡田精司、中村啓信などの人々の仕事である。私はいわゆる社会経済史から歴史学に入ったので、岡田精司氏の仕事をのぞいてほとんど読んだことがなかった分野の仕事である。もちろん、よく読んでいるという訳ではなく、仕事に必要なものがでてくるまま部分的に読んでいるだけなので大きなことはいえないが、たいへんに面白い。これらの仕事が全体として達成しているものの位置は大きいことを、とくにいわゆる「古代史」に興味をもつものは認識しておいた方がよいように思うようになった。

 一つは柳田国男・折口信夫である。これも、これも仕事に必要な範囲でということではあるが、読んでいるので、神道史の仕事はその延長で読めるところがある。柳田や折口の仕事の延長を現在の段階で学術的に考えようという場合には、神道史の研究の進展を知っておくことはどうしても必要なことであるのを理解した。

 もう一つは、本居宣長である。神道史の人々はみな本居の仕事を尊重しているが、しかし明瞭に本居の仕事は古いということを指摘している。この点は見事に容赦がないところがあるように思う。私は丸山真男の「古層」の論文が、実際上、本居に依拠しているところが多いのを知った。そして神話論の研究を始めてから、本居の仕事がいかに大きいかというのも知った。それは逆にどうしても本居の批判が必要であることを確認したということである。日本の歴史学は本居の仕事を総点検する必要があると思う。

 日本の社会史や政治史を考える上で、新井白石の『読史余論』の批判が決定的に重要であるというのは、『平安王朝』を書いて平安時代政治史をまとめた段階で気づいた。これはもうはるか以前のことになる。そして次は本居ということである。これについては成沢光『政治のことば』(講談社学術文庫)の解説を書いた時にも再確認した。歴史学が成熟するためには本居宣長の批判を完了しなければならない。

 文化としての神道に対する共感が必要なことはいうまでもないが、これらの研究でもっとも強いのは儀式・祭祀の精密な研究と言語の研究であると思う。とくに言語の研究は、この国の歴史学、人文科学にとって緊要な意味がある。

 現在、ともかく集中しなければならないのは岡田精司氏の仕事である。井上章一『伊勢神宮と日本美』が指摘しているように、岡田精司の仕事は考古学などとの関係でも重大な焦点となっている。

 その仕事が順調に終わるかどうかはわからないが、しかし、ともかく、そこを乗りこえて、神道史の仕事の勉強を進め、その全体をみた上で、柳田・折口、とくに折口の仕事が、自分にとってどのようにみえてくるかが期待するところである。こういうように考えるようになったのは、西田の戦後の発言を読んで驚いた経験によるものであるが、その前提にあった、第二次大戦における国家神道を経験した柳田の反省、折口の反省は、どのような立場の研究者でも、その感じを知っておくべきものであると思う。

2013年10月13日 (日)

倭国神話論のためにーーー民俗学との関係

 『物語の中世』という本を講談社の学術文庫で再刊行してもらった。そのあとがきである。
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 先日の自転車。公園のわきを上に登っていったところ、ほとんど山道である。ここを自転車で通るのはさすがに気持ちがよい。もっと長く続けばよいのであるが、ーー

倭国神話論のためにーーー民俗学との関係
 この本は、一九七〇年代にさかんだった「社会史」という研究動向の中から生まれたものです。社会史というのは、史料の細部にあらわれる人々の生活や意識に沈潜し、そこから一挙にふり返って社会の全体を一挙に捉え直そうというものでした。日本史でいえば、これは網野善彦・笠松宏至などの中世史研究者を中心とした動きで、この本には、彼らの影響が強く出ていて、たいへんになつかしく感じます。ただ、「社会史」という言葉はヨーロッパ史の側が主唱した言葉で、網野さんなどは、そこから相当の距離をおいていましたから、日本史の側で具体的な研究を行うと同時に、やや先走るように社会史的な方法を強調していたのは、実際上、私ぐらいだったと思います。そういう経過については、最近、『歴史学のアクチュアリティ』(歴史学研究会編、東京大学出版会)で話しましたので、この国の、ここ三〇年ほどの歴史学の研究史に興味のある方は、参照を願えれば幸いです。
 しかし、いま、この本を読み直してみて、読者の方に理解していただきたいと思うのは、民俗学との関係です。この本は民俗学の柳田国男・折口信夫の仕事を読み込み、「社会史」の側から受けとめようとする仕事であったと思います。このあとがきでは、そこを現在の時点から追補し、とくに最近考えるようになった倭国神話との関係を述べておきたいと思うのですが、問題は、とくに折口でした。本書の各所に折口批判が隠れていることは、お読みになれば御わかりいただけると思います。しかし、折口は神話の理解について多くの発言をしており、そこに十分に踏みこむことはできませんでした。本書には『物語の中世』という枠がありますから、これはやむをえないことでしたが、私は、これをどうにかして追補したいと感じてきました。「神話・説話・民話」のベースとなるのはやはり神話の世界だからです。
 ちょうど本書のもとになる論文を書いた頃に、歴史神話学の重鎮、岡田精司氏が、折口に対して完膚無きまでの批判を展開されていました(岡田『古代祭祀の史的研究』、一九九二年、塙書房)。本書の発行後、すでに一五年が経ちますが、この岡田の仕事をうけて問題を見なおすことは、私にとっては長い間の希望でした。岡田の折口批判の魅力は、折口の史料操作の誤りの指摘から社会的・政治的な立場にまでおよぶ厳しい批判をしながら、同時に折口の視座の独自性を高く評価する、その篤実な姿勢にありました。
 私も、及ばずながらそのあとを追いたいということで、実は、最近、倭国神話の全体について、その大枠を見なおす作業を開始したところです。そこで、現在のところ大ざっぱな見取り図ではありますが、以下、そのエッセンスを紹介して、現在の時点での本書への追補ということにしたいと思います。
高皇産霊という神は、火山神・雷神であること
 倭国神話の全体像を見なおすという場合、鍵となるのは、倭国神話の至高神の姿を明らかにすることです。現在でも、世間一般では、倭国神話の至高神はアマテラスという印象ですが、それがタカミムスヒという神であったことは、江戸時代の本居宣長によって指摘され、折口も確認し、神話学でも認められていることです。しかし、明治国家が、皇祖神アマテラスの位置を喧伝したこともあって、日本民族は、その神話の至高神が正確にはどんな神であったのか曖昧という状態のままで、この間、過ごしてきた訳です。
 これには歴史的な事情がありました。そもそも、『古事記』『日本書紀』の編者自身が「この神は自身から身を隠してしまった」と称して、至高神であったタカミムスヒの姿を曖昧にしてしまったのです。これはタカミムスヒが律令国家のような文明的な国家にはふさわしくないということだったと思います。
 そのため、この神の本性はわかりにくく、本居はもっぱらこの神の性格を神名から解こうとして、「ムスビ」の「ムス」は「ムスコ・ムスメ」の「ムス」で生成を意味し、「ビ」は「霊威」を意味するとしました。この神は、物事を「生成する」力をもった「産霊神」であるという理屈です。折口は、その種の理屈が嫌いですので、本居の図式を踏襲しながらも、実態は「結び」の神という点にあると説明しました。
 しかし、言語学的に「ムスヒ」の「ヒ」は清音で読むことが明らかとなり、折口の意見は成り立ちません。私は、「ヒ」は「日」=「火光の精」、そして「ムス」の原義は、『字訓』などの用例からしても「熱」という意味であると考えます。熱光の神、つまりギリシャ神話のゼウスと同様に雷神であるということです。これはタカミムスヒが天孫降臨に対する抵抗を排除するために、天から矢を突き降ろしたことにうまく対応します。タカミムスヒは落雷によって立ち枯れた樹(霹靂樹)に宿るものとされ、その別名を「高木神」ともいいましたが、これが本書でもふれた神話的な巨柱と巨樹の信仰に通じてきます(本書第3章)。
天地鎔造神・タカミムスヒは高千穂に降臨した火山神
 「核爆発」の火のことをふくめ、いつの時代でも人間の世界観は、「火」を中心に組み立てられていたということでしょうか。本書の重要なテーマの一つに、竃神のことがありますが、このタカミムスヒが「天地を鎔造した」神であるといわれているのは(『日本書紀』顕宗紀)、そこにも関わってきます。この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというですから、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになります。『荘子』(大宗師第六)には天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」という一節がありますが、それが倭国に伝わっていたようにも思います。益田勝実『火山列島の思想』は、八世紀、海底火山の噴火が、雷電の神が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目しています。これも同じことでしょう。
 つまり、タカミムスヒは雷神であると同時に火山神だったということです。火山の噴火の時には、火山性の地震があり、さらに黒雲とともに火山雷が鳴り響くといいます。「天地鎔造」というのはまさにそれにふさわしい表現ではありませんか。
 私は、有名な高千穂への天孫降臨神話も、その延長にあると考えています。つまり、『古事記』などによると、タカミムスヒは天孫瓊瓊杵尊を真床追衾で覆って、天磐座を押し離し、天の八重雲をおしわけ、稲穂を投げちらし、「稜威之道別道別而」、天の浮橋に「うきじまりそりたたして」、日向の高千穗峯に天降ったといいます。高千穂は火山ですから、この様子は火山噴火の描写として読み解くことができます。つまり真床追衾というのは、史料で「綿のごとき」物などといわれるスポンジ状の火山噴出物。そして天磐座を押し離すというのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージで、八重雲は噴火の噴煙を表現したもの。さらに稲穂を投げ散らすというのも、九世紀の伊豆の神津島噴火で、白い火山灰が各地で「米花」と呼ばれたというのと同じこと。また「稜威之道別道別而」というのは、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということで、火山雷のイナズマを描写したものでしょう。天の浮橋というのは、火山弾の岩雲のことで、「うきじまりそりたたして」というのは、「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」ということで、火砕流、溶岩流の様子でしょうか。
 天孫降臨を司令したのはアマテラスではなく、タカミムスヒであるというのは神話学者はすべて一致していることですが、タカミムスヒが火山神であると理解すれば高千穂神話の理解はたいへんに簡明になります。
「根の堅すの国」とは、鍛冶神ヴァルカンの国をいう
 さて、本書第一章の「『竹取物語』と王権神話」の続きの位置をもつ拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で詳しく述べましたが、私はいろいろな経緯があって、神道に興味をもつようになりました。そのなかで、『中臣祓訓解』という鎌倉時代初期の神道書を読み、そこに「根国・底国は无間の大火の底なり」という記述を発見しました。
 これは『古事記』のいう「根の堅すの国」という観念と同じことに違いありません。この言葉について、本居は「カタス=片隅」という解釈をしていますが、「堅す」は動詞であることが明らかとなっています。「鍛す」とも書きますので、埴輪を焼くための場所を火をつかって物を堅くする場所の意味で「鍛地」というの同じことでしょう(『日本書紀』)。つまり、「根の堅すの国」とは、ようするに「地下の火の国・鍛冶場の国」ということでしょう。神話時代の人々も、マグマという言葉は知らなくても、地球の深部には巨大な火が燃えていると知っていたことは、ギリシャ神話のいう鍛冶神ヴァルカンの国のことを考えてもわかると思います。
 そして、日本でヴァルカンにあたるのは、素戔嗚尊と大国主命になります。彼らが地震の神であることは、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で必要なことを述べました。私が神話論の研究をすることを決めたのは、実は、三、一一東日本太平洋岸地震の後に、この本を書くなかで、地震・噴火の歴史は神話の時代までさかのぼって考える必要があることを知ってからなのです。その事情については、それを参照願いたいと思いますが、ここでこの「根の堅す国」に関係して述べておきたいのは、出雲神話のことです。話が飛ぶようで恐縮ですが、東北から下りてきた第四紀火山フロントは、近畿地方で西に方向を転じ、中国地方の日本海側を通って、九州につながっていきます。伯耆大山はそこに属する火山で、歴史時代の噴火の記録は残っていませんが、『出雲風土記』で「火神岳」と呼ばれていることからすると、人々は、この山が火山であることはよく知っていた訳です。
 神話時代の人々も、こういう列島の地勢を知っていたのではないでしょうか。ここに、倭国神話のなかでの出雲神話の独特な位置の理由があると、私は考えています。そもそも、「ミトのマグワイ」によってこの列島を生んだと伝えられるイザナミは火山の女神であったというのが、神話学の泰斗、松村武雄の結論です(『日本神話の研究』)。倭国の国土観に火山の影響がきわめて大きかったことは明らかで、しかもイザナミは『古事記』の説明では、その遺体は、「出雲国と伯伎国との堺の比婆山」に葬られ、スサノヲは、母をしたって出雲に降った訳です。私は、この立地は伯耆大山と関係していると考えます。
 こう考えると、よく知られたオオクニヌシと因幡の白兎の話もまったく違う視野からみることができます。赤裸になった兎の皮膚を蒲の穂で治したのは、オクニヌシが火山神であると同時に、温泉神として治病の能力をもっていたためであるとされています。しかし、さらに具体的にみると、これは蒲の雄花の黄色い花粉が、実際に治療効果があり、しかもそれが皮膚病の薬として使われた硫黄とダブルイメージになっているためでしょう。小路田泰直氏によれば、オオクニヌシとともに、この列島の国造りにたずさわった小人神・少彦名命(スクナヒコナ)の「スクナ」とは硫黄を意味するということです(小路田『邪馬台国と鉄』)。人々は、オオクニヌシースクナヒコナの神格を、火山ー温泉ー硫黄という連想の下に考えていたに違いありません。ただ、小路田氏は「スクナ」を「酸粉」と理解しますが、これはむしろ「スクモ」(泥炭)という語から理解した方がよいと思います。なお、折口はさすがに天才で、「手のひらにすくもはたけば光るなり」という歌があります(『定本柳田国男集』26巻)。オオクニヌシがはじめて会った時、スクナヒコナを手の中でもてあそんだため、小人神が怒って、オオクニヌシの頬を咬んだといいますが(『日本書紀』)、折口はそれに気づいて、この歌を読んだのではないかと思っています。
大和に侵入した「神武天皇」の神婚のカガイ
 タカミムスヒの話に戻りますが、この神は、オオクニヌシに「国譲」を迫り、天孫降臨を司令し、さらにその延長でいわゆる「神武東征」を導きました。実際に、天皇(イワレヒコ)が、大和征服の前後に、この神を祭っています。
 面白いのは、大和征服が終了した翌々年、イワレヒコが野原で娘たちに声をかけ、先頭にいたホトタタライススキ姫をつれて河上の家に泊まったという説話です。これが八月のことであったというのが重要で、『竹取物語』によっても、八月は秋のカガイの季節なのです。つまり、イワレヒコ神話には、『竹取』まで続く大和国における男女の出会いの物語がふくまれているのです。問題は、この娘が、三輪山の神が「矢」に変身して溝から厠に侵入して娘の母のホトを突いて生まれたということです。最近、この神が溝から侵入した風情を髣髴とさせるトイレのミニチュアを備えた齋籠の家型埴輪が古墳の造りだし部分にしばしば確認されています。そして、それに対応する「木槽樋」のトイレ遺構が各地で発掘され、それら同時に産屋あるいは神婚儀礼の齋屋の遺構ではないかという意見もでています(黒崎直)。私もそれに賛成で、イワレヒコが泊まった河上の小家も同じような娘宿なのではないかと考えています。
 そして、この齋屋に来臨した神も雷神でした。右の三輪山の神(大物主神)は大国主命の後継者で、天孫降臨を前にして天上に昇ってタカミムスヒの娘神をあたえられていたといいますが(『日本書紀』)、龍の姿をもち、やはり雷神でした。ここには雷神=龍神の血が王家の血筋に入り込むという観念が示されているといってよいでしょう。
 本書でも、王の跡継ぎは雷鳴時の性交によって宿るという神話を論じました。私は、それこそが本来の「ヒ嗣=日嗣」の観念であったのではないかと考えるにいたっています。なによりも問題なのは、漢の劉邦が龍の血をひくとされているように、これが東アジアに共通する王権の血統観念であったことです(■■■頁)。ただ、ここで追加しておきたいのは、『史記』(周本紀)によると、神龍の吐いた泡を収めた秘函を開けてしまったところ、その泡から守宮が生じ、それが後宮の童女を身ごもらせて生まれた女(褒似)が周王朝を亡ぼしたという有名なエピソードです。
 龍神が転じて守宮神となるという訳ですが、これも本書でふれたように、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊が「守宮神」と呼ばれたというのは、こうして直接に倭国神話とその陰に潜む東アジアに普遍的な王権思想に結びつく問題であったことになります(二四二~三頁)。
倭国の王権は海の世界から生まれたのではないか。
 さて、以上、もっぱら火山神タカミムスヒの問題を中心に、追加的な説明をしてきましたが、本書では海の世界についても、第二章「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」、第六章「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」で論じました。とくに第二章では、王権と海上世界の関係がきわめて古くまでさかのぼることを述べてあります。
 御承知のように、柳田と折口は、この列島にいたる南の海の道を重視していました。とくに折口が倭国の王権には南方の「常世の国」に起源をもつ「水の女」の伝説がまとわりついていることを一貫して強調していました。折口の「水の女」論には、岡田の厳しい批判があって、私も、歴史家としては全面的にそれに同意するものです。しかし、現在の日本にとっての沖縄の位置を考えるたびに、私は柳田・折口の考えたことの視野の広さには感心させられることも多いのです。
 これに関係して述べておきたいのが、最近の学界では紀元前後に倭国の政治的中心が九州から近畿地方に移動したと考えられるようになったことです。そして、それとともにいわゆる「神武東征」の背後に何らかの事実があったのではないかという感じ方にだんだん抵抗感がなくなっているようにもみえます。ただ、私は、九州勢力が、長駆、大和を軍事的に征服したというのが事実とは考えられません。むしろ騎馬民族ならぬ朝鮮半島の「海民」の移住を重視する網野善彦氏の見解を前提とすると、列島の王権の萌芽は海の世界にあったのではないかと考えています。
 つまり、王家の直接の祖先神であるイザナキ・イザナミは海の匂いの強い神々です。イサナは鯨ですから、この名前は鯨男・鯨女ということになると思います。そして、岡田がその詳細な国生神話の分析において論じたように、この神の故郷は淡路島周辺の海人集団のなかにありました。ただ、この場合の問題は、火山島ではない淡路島に火山神話としての本質をもつ国生神話が生まれたことをどう考えるかということですが、しかし、これは南島から沖縄、南九州に連なり、朝鮮半島にも広がる火山地帯で縦横に活躍する海民が火山神話をもっていたとすれば解決するように思います。淡路から紀伊、さらに伊勢に固有の地盤をもつ海民集団。そして、彼らは海民によくあるように広域的な血縁関係を九州地方南部や朝鮮半島まで広げていたのでしょう。
 折口が重視したように、そもそも王権は淡路の海人を「海部馳使丁」として駆使していましたし、両者の間には皇子の養育をふくむ伝統的な関係がありました。また九世紀の氏族系譜、『新撰姓氏録』にこの両神を祖とする氏族がまったく現れないことは、王家それ自身の深層の記憶においてはイザナキ・イザナミの位置が大きかったことを意味します。乱暴なことをいうようですが、これは王権の淡路出自を示唆するのではないでしょうか。私はいわゆる「古代史」の研究者ではありませんので、自由に発言しますが、網野が論じたような「海原」の世界の大きさは神話時代の社会に構成的な影響をもっていたはずであると考えるものです。
 こうして、倭国王権が南九州ー北九州ー瀬戸内海をつなぐ海民勢力のなかから生まれた可能性があるとすると、理論的な見通しとしては、王権は石母田正ー網野善彦が強調する通り、地域間・民族間の交通関係から生まれた、あるいは交通形態そのものであったということになります。神話論のみで、こういう議論をするのが適当ではないことは知っていますが、『隋書』倭国伝(開皇二十年(六〇〇年)に「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあることの意味を考えてほしいと思うのです。倭王の姓は「アメ=海」であったのではないでしょうか。日本の天皇家は本来無姓であるとか、「倭」を姓とするという意見が一般ですが、私は、むしろ彼らは瀬戸内の島を出自とするということが記憶に残ることを好まず、もとの姓を隠したのではないかと考えています。王権はまず海民の出身であることを隠し、次ぎに至高神タカミムスヒを隠したということになります。

 以上、気になっていた、折口ー岡田の仕事と向き合うという仕事について、さきは長いですが、ともかく、このあとがきで、中間的な経過を報告できるところまで来たことにほっとしています。そして、この追補によって、ともかくも、本書から徐々にさかのぼって古典神話世界を理解し、この国の歴史の解明と神話理解の刷新に新しい道がついていくかもしれないという可能性を読みとっていただければ、たいへんありがたく思います。