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カテゴリー「神道・神祇」の27件の記事

2018年11月13日 (火)

今書いている本『倭国神話論の刷新 タカミムスヒとカミムスヒ』の「はじめに」

 いま書いている本の「はじめに」ができましたので、アップしておきます。
 完全にこのままになるかどうかは分かりませんが、私は本の執筆のある段階で「はじめに」を書かないと続きが賭けない方なので、書きました。これが書けたということで順調に進むことを予期しています。

『倭国神話論の刷新 火山と竈の至高神、タカミムスヒとカミムスヒ』

はじめにー忘れられた神

神話の至高神は天照大神か

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神天照大神(アマテラス)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。アマテラスが、その孫の天津彦彦瓊々杵尊(ニニギ)が下界に下るにあたって与えた神勅であって、この神勅をうけてアマテラスの子孫、ニニギの子孫として天皇家が万世一系の王統を維持し、「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(日本)を統治するという訳である。

 現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがない人はいなかった。たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。

 続いて、一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』はアメリカに対する宣戦布告の五ヶ月前にあたる。そこでは『国体の本義』よりもさらに明瞭に日本の「国体」は天照大神の子孫としての現人神である天皇が国家を統治することにあることが述べられている。「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」というのである。

 またこの『臣民の道』はとくに「臣民」の忠義を強調する。一部引用すると、「我らの祖先は大方は名もなき民として、日に夜に皇国の富強に努めその繁栄に竭くし、忠良なる臣民としての生涯を送ってきたのである」「臣民の道は、皇孫降臨の際奉仕せられた神々の精神をそのままに、億兆心を一にして天皇にまつろひ奉るにある」「神勅を下し給ふて君臣の大義を定め、民の生くべき道を示され、(中略)臣民を赤子として愛撫せられた」「君臣の間に於いて現はれた最も根源的なものが忠であり、(中略)而して天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。神と君、君と臣とはまさに一体である」などとある。天皇と臣民の関係は、神と人間の関係、神とそこに一体化すべき臣下、民の関係であるというのである。このような君臣関係の捉え方は、すでに『国体の本義』にもあって、そこには「身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの」、「上に立つものー下に働くもの、それら各々が分を守ることによって集団の和は得られ」、その上に立って「君臣相和」などとあった。しかし『臣民の道』において、「民・臣下」の忠義の道がさらに強調されるようになっていることは明らかである。

 ここにあるのは、アマテラスが「天壌無窮の神勅」によって現人神たる天皇に国家を統治する権限をあたえたという神話である。その観点からいえば、アマテラスが神話の「至高神」であるということは疑えないことであろう。実際、後にもふれるように『古事記』にも『日本書紀』にもアマテラスを「至高神」として扱う記事はいくつも存在する。またこれが現在の日本でも一つの常識的なものであることはいうまでもない。

 このような歴史観、つまり「国体」の本質は臣民は天皇に対して敬神愛国の精神をもって奉仕することにあり、それによって「国史」は貫かれているという歴史観を、普通、皇国史観という。『国体の本義』と『臣民の道』の二つの文書は、この史観を国定の歴史の見方としたものである。それと対比するため、次に終戦の年の翌年一月に発せられた昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」の要点を引用してみよう。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

 ここにいう<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「架空ナル観念」というものが、以上にみてきた『国体の本義』や『臣民の道』によって展開されたものであることはいうまでもない。現在になってみれば、この思想が有効でないのは自然なことである。

 しかし、本書は、この皇国史観それ自体に立ち入って論ずることは課題としていない。私が問題としたいのは、その前提となっている神話の理解そのものであり、とくに倭国神話の中には天照大神ではない神話の至高神がたしかに存在したという事実そのものである。

 つまり、『古事記』の冒頭には、次のように「天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」の三神が登場する。

「天地初めて発りし時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
現代語訳。天地が始めて発生したとき、高天原に成った神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神であった。この三柱の神は、みな独神と成られて、身を隠しされた)

 これによれば、天地の生成のとき、まず(1)アマノミナカヌシ(天御中主)という神、そして(2)タカミムスヒ(高御産巣日)という神、そしてタカミムスヒのペアのようにして(3)カミムスヒ(神産巣日)という神が登場したというのである。これらの神々は『古事記』序文でも天地が形成される前の混沌から初めて発生して「造化の首」(創造の最初)となったとされている。この順序からいけば、アマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの、いわゆる「造化三神」こそが神話の「至高神」というにふさわしいものではないか。

 それに対してアマテラスはもっと後に登場する。つまり、『古事記』によれば、この造化三神の次ぎには、(4)宇摩志阿斯訶備比古遲(ウマシアシカビヒコヂ)神、(5)天之常立(アメノトコタチ)神が登場し(以上を「別天神」という)、さらに(6)国之常立(クニノトコタチ)神、(7)豊雲野(トヨクモノ)神の二神がきて、次ぎに五組のペアの神がくる。(8)宇比地邇(ウヒヂニ)神、(9)妹須比智邇(イモスヒヂニ)神、(10)角杙(ツノグイ)神、(11)妹活杙(イモイクグイ)神、(12)意富斗能地(オホトノヂ)神、(13)妹大斗乃辨(イモオオトノベ)神、(14)淤母陀流(オモダル)神、(15)妹阿夜訶志古泥(イモアヤカシコネ)神、(16)伊邪那岐(イザナキ)神、(17)妹伊邪那美(イモイザナミ)神である(以上を「神世七代」という)。この部分は全体で「別天神」五柱、「神世七代」一二柱、総計一七柱となるが、文字数にすると決して多いものではなく、神名を並べただけで、その神名の意味も全体の文脈も解釈が定まっていない。そして、最後にイザナキ・イザナミの男女の神がきて、彼らが「天の浮橋」に立って「天の沼矛」でどろどろした海をかき回してオノゴロ島という島を作り、その上に天から降り立って性交して国土や神々を産んだという。その物語がイザナミの死とイザナキの地獄巡り、そして天照大神・月読命・須佐之男命の三貴神の誕生と続くことはよく知られているだろう。

 たしかにアマテラスは「天壌無窮の神勅」によって天皇に国土の統治権をあたえたという点では「至高神」であるといえるかもしれない。しかし、アマテラスは、この長い神々の系図、神統譜の最後に登場するのであって、その側面からすると、神々の世界の中で至高神といえるかどうかは問題があるだろう。これは至高神といっても、その神がどのような意味で至高神であるかは厳密に考えなければならないということを意味する。そもそも、造化三神といわれるアマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの三神はどういう神であって、その神とアマテラスはいったいどういう関係なのかを説明することなしに、ただアマテラスを至上神であるといっても、神話とその物語の理解としてはほとんど意味がないことになるだろう。

 しかも問題なのは、実は「造化三神」こそ「至高神」であるという主張が古くから存在したことである。しかもそれは古く一二世紀以降に発達した伊勢神道で確認できる。伊勢神宮とは外宮を中心に展開したものであるが、そこでは神話の至高神はトップに登場するアマノミナカヌシであるという意見が強力に主張された。そしてそれを受け継いだ足利時代の吉田神道においても、徳川時代の垂加神道においても同じような主張は繰り返されている。

 またなによりも徳川時代の「国学」の大成者、本居宣長はタカミムスヒこそが神話の「至高神」であるとした。本書で詳しくみていくように、『古事記』でも『日本書紀』でもタカミムスヒはいかにも「至高神」らしい姿と行動をみせており、この宣長の学説は、二三〇年ほどが経った今でも、実は学界では通説というべき位置をもっているのである。

 奇妙なのは、それにも関わらず、現在の日本では倭国神話の「至高神」というともっぱら天照大神であるということになっていることである。他方、アマノミナカヌシやタカミムスヒなどの神が、現在の日本ではほとんど知られていない。神道について相当に深い信仰をもつか、あるいは神話に専門的な興味をもっている人々以外、ほとんどの人は、この神の名前を知らないのではないだろうか。アマノミナカヌシとタカミムスヒの両方の名前を知っている人は、日本の国籍をもつ人のうち一〇〇人に一人もいないのではないだろうか。

 神話の至高神がどのような神であるかというのは神話を世界観として考える上では決定的な問題である。もちろん、ある民族の神話において至高神と考えることができる神が二人、または複数いるということはありうることであるが、その場合は、その複数の至高神の関係、つまり、ここでいえばアマノミナカヌシ・タカミムスヒとアマテラスの関係はどのようなものであるかというのは大問題になるはずである。ところが、日本社会で神話について語られる場合でも、これはまったく問題にならない。それどころかアマノミナカヌシ・タカミムスヒという神の名前さえも知られていないのである。

 これはあまりに偏頗な状態であるといわざるをえない。世界各国では考えられない事態である。ヨーロッパでは一七世紀以降、ゲルマンやケルトなどの民族的な神話についての研究が進み、それはいわゆる国民国家の形成のなかで大きな位置をもった。これと同様に、日本でも早く一八世紀の「国学」において本格的な神話研究が始まったのは学術の歴史として誇るべきことであるが、しかし、もっとも肝心の神話の至上神の名前さえも多くの人びとが知られていない。日本の民族的な神話、というよりも「日本」という国号ができる前、九州から近畿地方を舞台に語られ、日本の国家形成の重要な条件となった神話についての本居宣長以来の研究はほとんど社会の中に知られておらず、神話の至高神の名前さえ十分には知られていないのである。

 日本では人文諸科学の学者の常識と国民の知識の間に大きなギャップがあるということはよく言われることであるが、これはその中でももっとも大きなギャップというべきであろう。もとより、このようになった事情は、この国の近代の歴史が辿った蹉跌多い歴史に原因があったといえるだろう。つまり、日本では明治国家がアマテラス信仰を国定化し、第二次大戦中に、それが戦争の中で鼓舞された。これが、いわば「羹にこりて膾を吹く」というべき事態をもたらし、神話を一種のタブーとし、それについての知識を曖昧なものとし、結果として、伝統文化のなかでの神話の位置を大きく下げる結果をもたらしたことは否定できない。

 しかし、このような奇妙な事態の責任を歴史の経過のみに求めることが許されるのであろうか。つまり『国体の本義』のイデオロギーによって遂行された戦争が無惨な結果を日本と東アジアにもたらしてから、すでに七〇年余になる。また本居宣長によって神話の本格的な学術的研究が開始されてから数えれば二三〇年以上の時間が経過しているのである。それにも関わらず、神話学・歴史学の常識が日本社会に知られていないのは、やはり神話学・歴史学の側にも相当の責任があるというべきなのではないだろうか。

 この責任を果たし、新しく分かりやすい形で伝統的な神話の実像を説明し、それによって、一時はほとんどの日本人が信じていた<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「観念」が、どのような意味で「架空」であるかを説明すること。それによってこそ、『国体の本義』『臣民の道』の影響の下で人生を送った様々な人々の経験を追体験し、記憶し、再出発することが、本当の意味で可能になるのではないだろうか。それを終えなければ「日本人」にとって、あの戦争は終わったことにはならないのではないか。

2018年3月 2日 (金)

神社、神道を日本文化の中に位置づけていく仕事

 ようやく神話論の執筆に入った。下記は、前提となる折口信夫の議論についてのメモである。

 全面的に書き直したので、素原稿を、記録のためにここに掲げておく。四年ほど前の世田谷の市民講座のために作った原稿である。

 こういう研究史に属する問題は、自由に書くことにしている。だいたいの趣旨はすでに『日本史の30冊』(人文書院)にも書いた。また タカミムスヒが火山神、雷神であるという肝心のことについては『歴史のなかの大地動乱』や、『物語の中世』のあとがきで展開してある。

 私は、歴史家として神社、神道を日本文化、日本の歴史文化の中に位置づけていく仕事を人生の一つの仕事としているが、これはその原点のようなものである。
 


折口の目指した神道とムスビの神

 問題の中心は、タカミムスヒという神はどういう神なのかということである。ただ、これについては実に様々な意見があって、その紹介から始めるのは最初からあまりに問題をこんがらがらせる。そこでこれについては、いちおう私見を説き終わった後に、タカミムスヒという神名の由来を考えるときに詳論することとするが、しかし、やはり問題の検討の方向を従来の学説との関係で示唆しておくことは必要だろうと思う。そこでここでは、私見にもっとも近接した見解として折口信夫の学説をかかげ、それを一つの「導きの糸」としておくことにしたい。

 さて、よく知られているように、折口は、民俗学者であると同時に、近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家である。その思想と行動に毀誉褒貶が激しいのは当然のことであるが、神話論の学術的な研究にとってはいわば本居以来の正統を受ける位置にある学者であることは確認しておきたい。

 第二次大戦の結果が折口に大きなショックをあたえたことはいうまでもない。この問題は、近代日本思想史における折口の位置からしても真剣な検討に値する問題なので(参照、安藤礼二『場所と産霊』講談社、二〇一〇年)、ここでも少しだけふれておくと、折口は、国家神道の崩壊と天皇の「人間宣言」をうけて、新たな神道のあり方を打ち出そうとした。そのなかで中心的な論説と目すべきは「天子非即神論」という論説である。その中心部分を引用すると、「今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」ということになる。折口は、国家神道を主導した学説は、「素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」と断言し、国家神道の下でむしろ抑圧されたり、軽視されたりしていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興しようとしたのである。

 そして、折口のいう新しい神道が、「ムスビ」の神を中心にした神道であったのである。つまり、前述のように、本居は、物事を生成する霊威として、「産霊=ムスビ」の神を考えたのであるが、折口は、それをうけて「産霊=ムスビ」の神を文字通り、「結び」の力をもった神、つまり至高な霊魂を人に「結ぶ」という力をもった神として理解できるとしたのである。端的にいえば、折口は「産霊の神」を「縁結びの神」に似たものと考えたといってもよい。詳しくは「ムスヒ」の語義を考えるときに説明することになるが、それは本居の見解をさらに具体化しようとしたものであったということができるだろう。

 折口は、この「産霊=ムスビ=結び」の神を中心とする新しい神道を、タカミムスヒを無視してきた国家神道とは違うものとして作りだそうとしたのである。折口信夫は、「ムスビ=産霊」の神は「我々の信仰しつづけている神道」「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であるという。「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」として「民間神道」の意味を強調しているのも重大であろう。折口は「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」とまでいって、いわば民俗学によって、神道の宗教改革を実現しようとしたのである。若い神道者たちを前にした講演においては、折口は、この産霊の信仰について「あなた方は、神道の為に努力して頂くのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」と高唱している。

折口の忘れられた見解
 ただ、残念ながら、現在の歴史神話学の水準では、この折口の新説は言語学的な解釈として成立しえないことが確認されている。折口晩年の努力はある意味で無駄であったことになるが、ただ、問題は、折口が「産霊=結び」説以外にも重要なことを述べていたことにある。それは第二次大戦後、一九四七年に折口が発表した論文「道徳の発生」で述べたものである。肝心なところを引用しておくと次のようになる。

「この神には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である。

 わが国の神界についての伝承は、其(元の神のこと――筆者注)から派生した神、其よりも遅れた神を最初に近い時期に遡上させ、神々の教えを整理したために、この神の性格も単純に断片化したものと思われる。だから、創造神でないまでも、至上神であるところの元の神の性質が、完全に伝わっていないのである。
 おそらく天上から人間を見膽り、悪に対して罰を降すこともあったのであろうと思う。ところが、天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている。これはその点が喪失したものとみてよい。人間にとって、利益でない神の感覚を迷惑だと思った人々は、そういう知能を持つ神を、悪神と思うようになった。(中略)

 原始基督教的にえほばを考える時も、この研究の為のよい対照になる。もちろん、それぞれ特殊性があるのだから、完全に当らぬ所こそあるべきである。天地の意志と言うほど抽象的ではないが、神と言うほど具体的でもない。私どもは。これを既存者と言う名で呼んで、神なる語の印象を避けようとする。(中略)
 既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う。これは神以前の既存者のなすところである。而も天帝も、えほばも亦、こうした威力ある既存者であったのである」(「道徳の発生」『折口信夫全集⑮、傍点筆者)*1


 つまり折口は、『古事記』『日本書紀』を作る段階で、神界の教えを整理したということがあり、その時、「派生した神=遅れた神」の地位を遡上させたという。ここで折口がいう「派生した神=遅れた神」というのは、ようするにアマテラスのことである。つまりアマテラスを中心に神界の教えを整理したために、「元の神=至上神」の性質についての伝承が喪失した。それ故に、「天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている」という。しかし、「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」などの神々は、本来、彼らは「創造神ではないものの」、「元の神」「既存者」として至上神であって、天変地妖を降すような神であった。折口は、「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」のうちの後の二者、タカミムスヒとカミムスヒを「産霊=ムスビ」の神と考えるのであるが、そのような姿以前に、彼らは「元の神」「既存者」としては天変地妖を降すような悪神としての姿をもっていたというのである。

 この天変地妖とは「大風・豪雨・洪水・落雷・降雹など」ということであるから、折口は、これらの神々に荒々しい自然神としての性格を読みとろうとしいていたことになる。しかも「琉球・台湾・南方諸島にもっとも近似した神観」というのであるから、これを敷衍すれば「天変地異」として火山の噴火や地震が当然に視野に入ってきたのではないだろうか。また上記の引用部分につづいて、折口は、この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」であるという捉え方も提出している(「道徳の発生」『全集』一五巻)。ようするに折口のいう「神道」の基礎にある考え方としての「忌み=謹慎」の宗教倫理の原点に、この至上神があるという訳である。

 これは通常、折口説とされている「産霊=ムスビ神」論とは異なっているが、私が、いまだに「導きの糸」として注目すべきものであると考えているのは、現在ではほとんど忘れられている、この折口の理解である。これは折口にとって一つの確信であったことは、それがしばらく後に行われた柳田国男との対談でも繰り返されていることによってわかる。折口は、「霊魂が入ってできる神以前に神観念がある。それが『既存者』というべきもの」と説明している(折口・柳田一九四九、二三七頁)。

 残念ながら、折口は、この「至上神=元の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。しかし、私は、曖昧な形であれ、この折口の議論は、タカミムスヒを論ずる際の「導きの糸」とするだけの意味をもっていると考えている。

神話の研究の意味と方法

以下は、ある講演で話したことです。

神話の研究の意味と方法
歴史は学ぶものー御自分の疑問は学界にとっても疑問である場合が多い
過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。
しかも、歴史学を含む社会科学や人文科学のみでなく、自然科学の力によって過去を新しい形で知ることが可能となっている。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。

人類史の成熟の季節?
人間の作りだしたものによって世界が破壊できるほどの状況が生まれている。歴史と自然に対する責任をふまえ、過去の事柄を正確に偏見なく、事実に即して理解することが成熟した社会のために決定的に重要になっている。人類史は成熟の季節に入らなければならない。
そのための歴史文化というものを考える。

神話の価値観を正確に読む
神話というものを素直に読むこと。そこには現代とは大きく違った価値観が存在する。
童話やファンタジーを読むように読むことが必要。
他面では、現代の倫理と比べて理解しがたい観念や習慣が存在する。たとえばイザナキ・イザナミ、オオヒルメムチ・スサノヲの兄弟結婚は現代の価値観とは異なる。だからといってそれを明らかにしないという態度は取らない。

神話を読むときの感じ方について
宗教的心理、呪術的心理を自分で経験しなければならない。けれども研究する場合は、それを外側から冷静に観察する目をもたなくてはならない。原始宗教や呪術を自分で信じようとするのではない。それは無理。むしろ自分を実験台にして観察すること。神話的心理というのは人間に通有のものでその意味では自分を実験台にできる。

神話研究の手続きーーあくまでも事実を重視
次ぎに重要なのは、神話の分析においては、なによりも事実を大事にすることが必要だということである。
手続きとしてはまず神話世界内部の事実の確定から進む。
第一が祭祀、制度と呪術組織、呪術の内容。第二が神名、言語分析。第三が神名分析を前提とした神格、第四が神話それ自体の分析
その上で、経済的・社会的・文化的・政治的な諸事実との照合に進む。

神話の研究はむずかしいーーあくまでも補助線
逆にいうと、神話の分析は、事実分析のための補助線を引くことができるかも知れないが、それだけでは事実を確定することはできない。歴史を考える本筋が神話研究であるとはいえない。
体系的な知識ー読書。
『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)
『物語の中世』(講談社学術文庫)

神話と過去への内省
1946年1月1日昭和天皇の詔書。神話は過去において政治的に利用された。政治利用とは、文化ではなく「架空ナル観念」(虚偽)として利用されたということ。この過去を明瞭に内省しておくことが必要。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」 、

2016年12月14日 (水)

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて

日文研の『日本研究』2016年号に書いた「日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて」という論文のサマリーを今日、送った。下記のようなもの。いわゆる古代史研究の主要メンバーとはまったく意見があわないだろうと思うがーー。
 

 日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。

 本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において八世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。

 問題は、それが論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。それはまた梅原が鈴木が日本仏教を無前提に禅と真宗を中心に捉えているという批判にも通ずるものであるように見える。

 残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しを必要としていることを示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。

2016年1月 7日 (木)

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

 奈良王朝と平安王朝は、両方とも王朝国家と規定してよい(参照、保立『中世の国土高権と天皇・武家』序論)。これは第二次世界大戦前の歴史家、早川二郎の用語法である。

 ただ、その場合の問題はそれ以前からの移行をどう考えるかということであるが、王朝とは、ようするに「宮廷社会」であるから、その中枢がどのように形成されたかを論ずる必要がある。その場合に、7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉えてはどうかと思う。

 私は、特別の場合を除いて、論文で公表していない見解をブログに書くことはしないことにしている。ただ、以下は、「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で書いたことなので、若干敷衍しつつ、母子王朝論の概略を述べたい。


 七世紀は母子王朝の時代である。つまり七世紀はおおざっぱにいえば、皇極天皇(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明)と、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(六七二~六八九)の時代である(なお皇極の夫、天智・天武の父の舒明の在位は六二九~六四一)。この時代を転換させたのが、六七二年のいわゆる壬申の乱、つまり天智の子の大友皇子と大海人皇子(後の天武)の争いであることはいうまでもない。これは大海人の勝利、その天武としての即位に終わったが、天武の妻は兄天智の娘の持統であり、奈良時代の王家の血統には持統を通じて天智の血が流れ込んでいた。

 これは壬申の乱という殺し合いの後に朝廷に平和をもたらすためにも必要だったのであろうが、ようするに母子王朝(舒明・皇極王統)のなかでの血の再生産である。こうして奈良王朝の血統は天武と持統の息子、草壁皇子の血をひくものに厳密に限られることになった。その状況を複雑にしたのが、草壁が早死にし、期待されたその子の文武も夭折したことで(在位六九七~七〇七)、その中で王統は持統の妹の元明(天智の娘)、文武の姉の元正(天武・持統の孫)によってかろうじて聖武につながれることになった。しかも聖武の男児、基皇子と安積皇子が死去することによって、男系が切れ、聖武の娘の孝謙(重祚して称徳)に王統が引き継がれたのである。聖武・孝謙の父娘王朝というべき時代が、淳仁天皇の短い在位期間(七五八~七六四)を除いて、奈良王朝のほとんどの時間を占めたのである。このような母子王朝から父娘王朝へという政治史の基本経過は、様々な偶然性にもよったが、この時期の国家がまだまだ文明化の過程にあり、まだ自律的な官僚や軍事警察の機構をもっていなかったことの表現であった。

 問題は、このような経過は、王権内部の母子・父娘などの狭い関係の外にいる王族に厳しい運命をもたらしたことである。奈良時代の宮廷は、草壁―文武―聖武―称徳(孝謙)の系列に属さない天武の皇子などの多数の王族が王統から排除され、流罪・死罪の運命にさらされるというきわめて厳しい政争にみちていた。よく知られているように、奈良王朝の内紛はしばしば流血をともなう凄まじいものとなったのである。

2015年9月27日 (日)

村井康彦氏の『出雲と大和』について


 村井康彦氏の『出雲と大和』は「古代史」学会では無視されている。ある人に感想を聞いたところ、まったく無意味、そんなことを聞かれて意外だという反応があったのが記憶に新しい。

 私は重要な仕事だと思う。もちろん、村井さんの専門は平安時代史だから、「古代史」からみて素人の仕事だという反応はありうるだろう。方法的にも、史料批判の上でも意見はありうる。しかし、「素人」が正しいことをいえるというのが、歴史学という学問の本質に属することだと思う。

 「石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」という論文の初校を終えた。そこで、村井氏の仕事は、石母田正氏の出雲神話論に直結すると書いた。その部分を下記に引用しておく。

 (1)石母田の出雲神話論
 なぜ『古事記』においてオホナムチが重要な神格として登場し、「出雲神話」がヴィヴィッドに描かれたのか。

 石母田は、『日本書紀』におくれて成立した以上、出雲神話部分の成立を七世紀半ば前後の成立と考えるという点から出発し、当時、出雲神話が強調される伏線として、第一に、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の「是歳。出雲国造<名を逸せり>に命せて、厳神の宮を修めしむ」という大修造がされたこと、第二に、壬申の乱において出雲国造の一族と考えられる出雲臣狛なる人物が活躍していること、第三に、壬申の乱においてオホナムチの子神、事代神が神武イワレヒコの陵に馬・兵器などを奉納せよという託宣を下したことなどの事情を上げた。

 石母田は、これらは大和に分布する出雲系氏族の進出を反映しているとした。とくに第三の事代主の託宣が神武陵への幣物の奉納であったことは重要で、これは神武以下三代の后が事代主神あるいは大物主神という出雲系諸神の出自をもっているという神話に反映している。またイワレヒコは熊野で体制を立て直すが、この物語の背景には熊野と出雲のあいだの深い氏族的・神話的な関係があるとした。『古事記』『日本書紀』において神武紀はもっとも成立が新しいものとされるが、そこには、このような背景があったというのである。

 さらに石母田は、「天武天皇の『意思』について」という節をもうけて、このような動きは、天武が出雲神話の位置を強調したためであろうと論じ、それによって地方社会をふくむ広汎な族長層、氏族・階層を対象とする物語としようとした。それは『古事記』が個々の氏族の神話的由来を神々の血族的体系の一部として位置づけようとしていることに関係していたという。そして『古事記』を文学的な記述としようという以上、専制者、デスポットとしての神権的な物語の位置を高めるためには、その理念とは異質の世界をそれなりに説得的なものとして展開せざるをえないのだという。「津田博士のようにそこに単純に出雲人のしわざ=作為を見出すのではなく、また松村博士のように、『天皇氏神話圏』と『出雲系氏族神話圏』とを分離することによって解決するのではなく、なぜ天武天皇は、その政治理念を『古事記』によって具体化するさいに、出雲系の異質の物語を取り入れざるをえなかったのかを、主体の矛盾として問題とすることにある」というのが石母田の観点である。

 このような石母田の見解は、すでに述べたように、オホナムチを畿内から播磨、出雲までを覆うような広い神話圏をもつ文化的英雄神ととらえたことに深く関係するものであったことはいうまでもない。そのような神であったからこそ、デスポットの神権制に対する対抗者、対抗神話として描き出す価値があったというのが石母田の言いたかったことなのである。私なりに敷衍していえば、『古事記』の出雲神話は、そのような神をいわば出雲に局限された神として祭り籠めるという過程を反映していたということになるだろう。

(2)村井康彦『出雲と大和』の観点

 このような石母田の構想は基本的に継承するべきものであろう。はるか以前に、このような見通しを示した石母田の天才はさすがであると思う。私は、まだ十分に石母田後の出雲神話論の研究史を追跡した訳ではないが、これまでそこから大きく抜け出た仕事はなかったのではないだろうか。

 しかし、最近、村井康彦『出雲と大和』は、そこに新たな分析を付けくわえることに成功した。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。

 村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発するようになったというのは有名なものがたりである。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで斉明が杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。

 この村井の議論は、石母田のいう「主体の矛盾」を見事に正確に示したものであるが、邪馬台国は出雲勢力が立てた国であったという鮮明な主張を追求するなかからでてきたものであるという意味でも興味深い。邪馬台国論は、ここでは論ずることはできないが、出雲と大和のあいだには、本来、領域的な一体性があり、オホナムチの信仰は出雲にはじまって、その全域に及んだとされるのである。私も有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程は日本海ルートで丹後を経過したものとする小路田泰直の新説*25に賛同して、『かぐや姫と王権神話』において、丹後から大和の一帯がヤマト王権膝下の広域地域であったことを論じ、そのなかに丹後奈具社から大和広瀬神社をむすぶ月神・豊受姫の信仰域をみることができると論じた。オホナムチの出雲から大和を覆う信仰域もそれに重なるものであるということになる。
(3)七世紀の地震と斉明・天智・天武の母子王朝
 私は、この村井の意見に、さらに七世紀にしばしば大和飛鳥を襲った地震の影響を付け加えることができると思う。(以下略)。

2014年10月 9日 (木)

神話論について講演の準備。

 神話論について講演の準備。
 基本的な考え方は提示しておいた方がよいので、下記のようなメモを作った。
 「人類史は成熟の季節に入らなければならない」というのは網野さんの言い方で、たしかに人類史のこれまでをいわゆる「前史」として考えるという視野は重要であろうと思う。そうなると、人類史の前史のなかでは「神話時代」の時期がきわめて長かった。

(1)歴史は学ぶものー御自分の疑問は学界にとっても疑問である場合が多い
過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。
しかも、歴史学を含む社会科学や人文科学のみでなく、自然科学の力によって過去を新しい形で知ることが可能となっている。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。

(2)人類史の成熟の季節?
人間の作りだしたものによって世界が破壊できるほどの状況が生まれている。歴史と自然に対する責任をふまえ、過去の事柄を正確に偏見なく、事実に即して理解することが成熟した社会のために決定的に重要になっている。人類史は成熟の季節に入らなければならない。
そのための歴史文化というものを考える。


(3)神話を読むときの感じ方について
宗教的心理、呪術的心理を自分で経験しなければならない。けれども研究する場合は、それを外側から冷静に観察する目をもたなくてはならない。原始宗教や呪術を自分で信じようとするのではない。それは無理。むしろ自分を実験台にして観察すること。神話的心理というのは人間に通有のものでその意味では自分を実験台にできる。
童話やファンタジーを読むこと。

(4)神話研究の手続きーーあくまでも事実を重視
次ぎに重要なのは、神話の分析においては、なによりも事実を大事にすることが必要だということである。
手続きとしてはまず神話世界内部の事実の確定から進む。
第一が祭祀、制度と呪術組織、呪術の内容。
第二が神名、言語分析。
第三が神名分析を前提とした神格、
第四が神話それ自体の分析
その上で、経済的・社会的・文化的・政治的な諸事実との照合に進む。

(5)神話の研究はむずかしいーーあくまでも補助線
逆にいうと、神話の分析は、事実分析のための補助線を引くことができるかも知れないが、それだけでは事実を確定することはできない。歴史を考える本筋が神話研究であるとはいえない。

(6)神話と過去への内省
1946年1月1日昭和天皇の詔書。神話は過去において政治的に利用された。政治利用とは、文化ではなく「架空ナル観念」(虚偽)として利用されたということ。この過去を明瞭に内省しておくことが必要。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」 、

2014年9月15日 (月)

京都、天神を祭る人々

Kitano


 先週は京都で4日ほどの調査を終えた。歓待をいただく。
 今帰りの総武線のなかである。新幹線では眠りこけた。

 過去の仕事に点検をうけているような出張調査であった。歴史史料の扱いというのは無限の手間を必要とすることである。仕事を離れているので、その実感から離れているから、こういう機会は大事にするべきものなのであろうと思う。

 しかし、なぜ、こういう仕事にもっと人手がないのであろう。ということを、もう一度感じる。地震史料の蒐集事業の話もあった。

 歴史の史料というものは共有のものである。つまり、それは過去に属するものであって、過去をふり返ることができるということが、人に自信をあたえ、そしてそれによって自分を尊重することができ、他者を尊重することが可能となるということである。これはもっぱら個人の生活と人格に関わることのようであるが、しかし、それは集団となっても同じことであるように思う。民族と民族の関係も普通の私人と私人の関係を律する常識や友情にそったものでなければならないというのは、たしかポーランド問題にふれてエンゲルスがいっていたことであるが、彼にかぎらず、19世紀ヨーロッパで生まれた言葉なのであろう。

 人類あるいは人間社会というものが、私人と私人の常識や友情以外の事情によって左右されない。独占や強欲や自恣というようなコンプレクスなしに、社会が透明になっていくということ。逆にいえば不透明の部分は私人、あるいは私人同士の心の闇と闇の関係のなかに潜められること。

 そういう意味で集団が個人化することが重大なのであろうと思う。個人が集団化すると同時に集団が個人化していかなければ、それは全体主義である。集団自身が透明な個人相互の関係に還元されることによって、集団の「代表」というものが単純で交替的な関係になっていき、それでも集団が維持できるということが、社会の夢であるはずである。人の集団の歩む歴史という曖昧なもののように思われるが、しかし、こういう中で歴史自体が透明化していく。そこに現れるのは圧倒的な過去と無限の未来である。その全体を直覚的に感じながら現在に集中する。

 出張では、また神祇・神社ということを考える。考えさせられる機会をいただく。
 神祇や神社というものは、本来、日本の社会のハレの風景であって、その意味ではもっとも楽しく明るいものであったはずのものであろうと思う。ハレ=儀式ということではないはずである。もちろん、いまでも「祭り」は、この国でもっとも明るいものである。その芯のなかに歴史学は入っていかなければならない。

 黒田俊雄の顕密体制論がいうように、本来の日本の神社は、いわば寺院に付属した宗教の世俗部門である。しかし、世俗部門であるということは、他方で、民衆生活に無限に近い明るさのなかにいるということであろうと思う。黒田の議論も、もちろん、それをふまえているが、その具体までには踏み込んでいない。戦後派歴史学の重深部の建設者である黒田、そして網野善彦が残した最大の問題は神祇であろうというのが、10年ほど前からの考え方。網野的にいえば、神祇=忌み=無縁ということになるのではないのだろうか。明るさというのは、忌みからの解放の明るさである。

 トップにかかげた写真集は、帰宅したら届いていたもの。ありがたい。上記のようなことを考えることが多いので、三枝さんの文章の意味がよくわかる。北野の祭りの明るさが印象的である。
 宮本常一の『民俗のふるさと』には「人は、その共感を持ちうるものによって社会を形成することが一番平和であり、安心できた」とあるが、そういう世界である。

2014年5月29日 (木)

神話論――折口信夫の忘れられた見解からの出発

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 近くの園生市民の森のカラムシ(苧)。
 『中世の女の一生』で繊維生産を勉強して女性労働論として展開したとき、それを御読みになった新潟の繊維の研究家から麻をいただいて、自宅の裏に植えている。「肥え」付きの苗を送っていただいて、それを植えた。
 不勉強な話だが、カラムシは、この市民の森のカラムシがはじめてでないかと思う。自宅の麻よりたくましく、大きい。実際には密植して丈を伸ばすことがあると聞くから、もっと大きくなるのだろう。平安時代に史料の多い「皮剥布」の原料である。等価形態として利用される繊維についても論じたことがあるので、そのうちもう一度論じたいものだ。
 しかし、いまは神話論。いまやっているタカミムスヒ論の書き出しが決まった。安藤礼二氏の「産霊論」にも関わる問題であるので、早く仕上げたいものだ。

折口信夫の忘れられた見解
 天孫降臨神話の主催神がタカミムスヒであるということは、三品彰英の仕事以降、すべての神話学者・歴史学者が認めていることなのであるが、この神の性格をどう考えるかについては学者の意見は実際には、きわめて抽象的で曖昧であり、実際には分裂したままになっている。そのような研究史の状況については、第四章でタカミムスヒという神の名前をどう考えるべきかにふれて、詳しくふれることになる。

 ともかく、本論は、この神の具体的な性格をどうにか解明して、学説の融合と統一の道を開くために捧げられるのであるが、ただ、ここでは、私見にもっとも近接したものとして折口信夫の学説をかかげ、一つの導きの糸として提示しておくことにしたい。

 いうまでもなく、折口は、民俗学者であると同時に、近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家であり、神話論にとっては大事な位置をもつ学者である。そのタカミムスヒについての見解は、「ムスヒ」の神についての解説として展開されたが、ようするに、折口は、タカミムスヒの「ムスヒ」を「縁結び」などという場合の「ムスビ=結び」の神と理解し、ものごとを生み出すことを助ける神、「産霊の神」と解釈する立場に立っていた。これについては後にタカミムスヒについての研究史を紹介するときに詳しくふれるが、これは本居宣長以来の伝統的な神学的解釈であって、折口が早くから明示していたものである。丸山真男が、この本居―→折口の「ムスヒ」神論に依拠して、「歴史意識の『古層』」という日本政治思想史論を構想したことも学界ではよく知られている。

 しかし、この折口の議論には重大な錯誤があることは後に述べる通りであり、ここで「導きの糸」というのは、折口の「ムスビ=結び」神論ではない。つまり折口は、その晩年、新たな神道のあり方を打ち出そうとした。折口にとっては、第二次大戦の敗戦による天皇の「人間宣言」と国家神道の崩壊がきわめて大きな衝撃であったことはいうまでもない。折口は、その「人間宣言」の約一年後、「天子非即神論」という論説を発表し、そこで「今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった」と述べている。折口が早くから国家神道に違和感をもっていたのは疑えない事実であるが、この論説で、折口は、国家神道を主導した学説は、「素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」と断言している。そして、折口は、明治時代以降、国家神道の下でむしろ抑圧されたり、軽視されたりしていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興する方向に梶を切ろうとしたのである。

 これは近代日本思想史における折口の位置からしても真剣な検討に値する問題であるが(参照、安藤礼二『場所と産霊』講談社、二〇一〇年)、ここでは、それが「ムスビ=結び=産霊」の神についての論説の再検討という形をとったことが問題である。折口は、タカミムスヒをトップとする「ムスビ=産霊」の神は「我々の信仰しつづけている神道」「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であると述べている。そして折口は、若い神道者たちを前にした講演において、この産霊の信仰について「あなた方は、神道の為に努力して頂くのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」とまで強調している。別の講演では、「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」として「民間神道」の意味を強調しているのも重大であろう。折口は「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」とまでいって、いわば民俗学によって、神道の宗教改革を実現しようとしたのである。

 折口が、その中で展開した「ムスビ=産霊」の神についての再検討においてもっとも重要なのは、一九四七年に発表した論文「道徳の発生」で述べた議論であろう。肝心なところを引用しておくと次のようになる。


 「この神には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である」(三四五頁)


 このようにして、折口は、「ムスヒ=産霊」の神という図式を越えて、この神に本来は「創造神でないまでも、至上神である所の元の神」という性格があったことをみとめようとしたのである。そして、注目されるのは、折口が、「至上神=元の神」に「部落全体に責任を負わせ、それは天変地異を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」(傍点筆者)という荒々しい自然神としての性格をも読みとろうとしいていたことである。折口は、この「元の神」に対する「種族倫理」が「神の処置を甘んじて受けて、謹慎の状態を示し、自ずからそれの消滅を待ってゐる事」であるという捉え方も提出している(「道徳の発生」『全集』一五巻)。ようするに折口のいう「神道」の基礎にある考え方としての「忌み=謹慎」の宗教倫理の原点に、この至上神があるという訳である。

 ここに至上神が「天変地異を降すもの」であるとされているのがきわめて注目される点である。しかも「琉球・台湾・南方諸島にもっとも近似した神観」というのであるから、これを敷衍すれば「天変地異」として火山の噴火や地震が当然に視野に入ってきたのではないだろうか。しかし、残念ながら、折口は、この「至上神=元の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。とくに残念なのは、小川直之がいうように、この論文「道徳の発生」が発表された七ヶ月後に行われた柳田国男との対談でも、この論点が話し合われなかったことであろう。というのは、折口が、「天変地異」について「落雷」を例示しているが、早く柳田が、「雷神信仰の変遷」という著名な論文において同じようなことを述べているからである。これも決定的な文章なので、下記に引用しておこう。


 「久しい年代にわたって我々の国民に、最も人望の多かった『力を天の神に授かった物語』、および日本の風土が自然に育成したところの、雷を怖れて、これを神の子と仰ぎ崇めた信仰(中略)の第一に算えらるべきものは、賀茂松尾の神話として永く伝わった別雷神の誕生譚である。(中略、それは)雷神の奇胎するするところであって、いわゆる三輪式の説話と対照することによって、解読が始めて可能である。すなわちかって我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである。それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない」(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。


 これは折口の見解と実際上同じものである。「皇室最古の神聖なる御伝えと合致しない」、つまりアマテラスよりも古い神として「紫電金線」の神、稲妻を走らせる雷電の神という図式は、柳田・折口において共通するものなのである。というよりも、折口の議論は柳田の議論を下敷きにしていたのであろう。柳田と折口のあいだ、人間の生き方という点でも複雑な葛藤をふくんでいるが、しかし、やはりきわめて緊密な師弟関係にあったから、二人の対談で「既存者=元の神」について論じられなかったのは、当人同士にはあまりに当然なことはふれられなかったということなのかもしれない。

 第二次世界大戦が我々の国にもたらした影響と、敗戦後の状況は、すでに遠いものとなっており、その頃のことでわからないことが多くなっている。学問の歴史においても、そのころのことを取り戻すことはできないのであるが、しかし、ここに確認した柳田――折口の試論、つまり天変地異の神、雷電の神としてのタカミムスヒという忘れられた試論を「導きの糸」として、以下、天孫降臨の至高神・司令神タカミムスヒについて考えていくことにしたい。歴史神話学の根本問題を検討するにあたって、「導きの糸」を歴史学ではなく、民俗学・神道学に求めなければならないというのは、私のような歴史学徒にとっては大問題であり、こういうことになった理由を考えざるをえないという気持ちになる。しかし、この問題については、この研究を終えた後に、よく考えてみることにしたいと思う。

2014年5月 2日 (金)

今日はカツラの木を探して自転車。

Katuranoha


 今日はカツラの木を探して自転車。意外と早く見つかったので昼前に帰宅して、仕事の続きである。これがはっぱ。カツラは、秋の黄葉の美しさでも有名であるが、ハート形の葉は芳香をもち、抹香にも利用される。賀茂両社の葵祭では、葉形のよく似た二葉葵とともに装飾として用いられ、それが「葵かつら」といわれたことは早くは『宇津保物語』(楼のうへ)に記載がある。これは賀茂社においてカツラを神木とすることが先行し、その葉形が相似していることから葵がカツラとあわせて飾られたのであろう。

 カツラについては、まずは松村武雄氏の大著のツキヨミの部分を参照して書きついでいる。松村武雄さんの四巻本『日本神話の研究』は古書で高かったが、石母田正さんが、ともかく、松村武雄の仕事がでたことによって基礎ができたといっているのを知って、神話論をはじめたときに購入。やはり役に立つ。

 カツラを一枝折ってきて庭に挿し木をした。30メートルもの高さになる巨木の素質をもった樹木だが、私の生きているうちはまちがってもそんな高さにはならない。挿し木がつくかもわからない。

 いずれにせよ、月の神話の解明の鍵はカツラである。

 いま夕方までかかって、昨日の神話論のつっかえが、どうにか進んだ。昨日の原稿は没にしなくてもよさそうである。
 カツラのお陰か、あるいは益田さんの読み直しがきいたか。 居直って、これで進もうと思う。


  『古事記』はイザナキが月神ツキヨミに対して「汝が命は夜之食國を知らせ」と命令したと伝えている。この「夜の食國」という言葉は、「夜の国」と「食国」の二つにわけることができるが、まずこの「夜の国」ということの意味から検討を始めよう。

 月神ツキヨミが「夜」の神であったことはいうまでもない。そして、「夜」の神、「夜」の神話については益田勝実の見解から検討を出発することができる。つまり益田はレヴィ・ストロースの『悲しき南回帰線』に描かれた、ブラジルのボロロ族の集落での夕方から延々と続く相談と呼び出しと、そしてそれが一頻りすんだ後に夜中まで続く舞踏と歌と吟唱の共同生活についてふれている。そして、それについていけないと愚痴をこぼすレヴィ・ストロースを「夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませる」と風刺している。ボロロ族にとっては「夜は聖なる半日として一日の最初の部分を占めていたらしい。単なる睡眠の時間ではなかった」。彼らにとって夜の意味はきわめて高かった。夜行性の彼らは必然的に遅くまで寝ているが、その後の狩猟や採取の労働はの集団的な打ち合わせはすんでおり、ある意味では、それは夜に呪物的に獲得したものを手配通りに処置する付随的な時間なのである。

 重要なのは、益田が、そのような「原始的時間構造」こそが神話世界を作り出すのであって、そこでは夜空と夜の風景が人々の心の深層の真実となるといっていることである。益田は、これについて、次のような『播磨国風土記』賀毛郡の条のオオナムチの説話をかかげる。

 飯盛嵩 右、然か号くるは、大汝命の御飯を、この嵩に盛りき。故、飯盛嵩といふ。
 粳岡 右、粳岡と号くるは、大汝命、稲を下鴨の村に舂かしめたまひしに、粳散りて、この岡に飛び到りき。故、  粳岡といふ。     (『播磨国風土記』賀毛郡)


 この飯盛嵩と粳岡という二つの山について、郡内の人々が「褻の日」と「晴れの日」で、どう見方が違ったかをたいへんに印象深く説明している。少し長くなるが全文を引用しておく。


 かれらが褻の日の日中、野に出て仰ぐ山は樹木の茂った山そのものであり、山以外ではない。しかし、晴れの日の祭りの庭では、それは神々の世界の舞台・道具立てとなる。祭りの庭のかがり火の傍から、月明の夜空に浮かび出る山々のシルエットを望み見る時、かの山は、まぎれもなく、オオナムチの神の握り飯であり、この山は、同じ神が舂かせた米の糠の堆積となる。幻視は、晴れの日の祭りの庭の心の神秘が生むイメージであり、それゆえに、けの日のものごとのイメージ、かれらの生活体験に基く認識と、せめぎあうことはなかった。時間としては、それは夜に属するものであった。
(『火山列島の思想』)。


 とくに傍点部に注目されたい。益田は、神話時代の人々の心性には「褻の日のものごとのイメージ」=昼の風景を普通に見るだけでなく、つねに「月明の夜空」の「晴れの日の祭りの庭」を幻視する二重構造の視覚がひそんでいたというのである。私も、神話時代の人々は、夜から夜に続いて、そこで永遠に静止している別世界―「国」というものをというもの直感しえる人々であったに違いないと考える。「夜之食國」という言葉については、現在の感覚からすれば、そのような「国」がどこにあるのかと反問することになるかもしれない。しかし、時間と空間の観念が明瞭に弁別されない神話的な「夜の国」というものが存在すると考えてよいのである。益田の言い方だと「時間は眠っている。時は過ぎ去らない。時がいっさいを押し流すというような思考法と異なる、信じて受ける者の心の働きがそこにあった」ということになる。

 そして倭国王権の一部は確実にこの「夜の国」に属していた。つまり、三宅和朗『時間の古代史』は、この益田の指摘をうけて、七世紀に中国的な朝政が始まり、それと平行して時刻制による官衙の運営が導入される以前には、政治は日の出前の時間に行われていたとする。つまり、六〇〇年に派遣された第一次遣隋使を記録した『隋書』東夷伝倭国条によると、隋の高祖文帝が倭国の遣隋使に、国の風俗を尋ねたのに対して、「使者言ふ、『倭王は天をもって兄と為し、日をもって弟と為す。天いまだ明けざる時、出て政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め、云ふ我が弟に委ねむ』と。高祖曰く『此れ太いに義理なし』と。是において訓へて之を改めしむ」(使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天が明けない時に王宮に姿を現してあぐらをかいて座り、太陽が昇ってくると、政治をやめて、あとは弟の日に仕事をまかせよう」と答えた。高祖は「まったく道理にあわないことだ」と教訓してこれを改めるようにしろといった」)ということである。

 これは王宮の周辺では夕方から夜行性の会議がはじまって、その結果が、午前二時か三時ぐらいに王のもとに届き、それから王が決定の諸措置をとって、「聖なる半日」の会議が終わるということであろう。ようするにレヴィ・ストロースが観察したブラジルのボロロ族の集落の会議の大規模なものを考えればよい訳である。

 問題は、「倭王が天を兄とする」という場合の「天」が何を意味するかということであろう。そして、それが「日」とは異なる夜の空である以上、「天」とは、星空であり、「月明の夜空」であったと考えるほかないのではないだろうか。もし『隋書』のいうことに一定の事実の反映があるのであるとすれば、それは神話時代の人々にとって夜空への関心が本質的な意味をもっていたことを示すのではないだろうか。そして、星空と月という場合に、もっとも能動的な天体は月である以上、より端的にいえば、「天をもって兄とする」というのは、七世紀以前の王権は月神を最大の神として崇拝していたということになるのではないだろうか。

 この問いは、本稿の全体で答えられることになるが、ともかく神話における夜空の理解において、これまで一般的であったのは、次にかかげる津田左右吉のような意見であった。

 神代史のみならず、上代人は全体に天界の現象には注意しなかったらしく、すべての文学を通じて、天界の自然現象を取り扱ったものが極めて少ない。上代人に暦の知識がなく、星の名などを殆どもたなかったのも、日月星辰の運行について注意することが、少なかったためであろう。一般に知識の程度が低かったからであることは勿論ながら、それに注意が向けられなかったことも疑いがない。支那においてもかういふ自然説話は余り発達しなかつたが、それでも淮南子天文訓などには、日が東から出て西に入るまでの行程に関する説話風の記述があり、日が馬を駆つて天を行くといふ空想の片影も、そこに認められないでもないやうであるが、シナ思想が著しく混入してゐる神代史でありながら、毫もかういふ説話の顧慮せられたらしい痕跡が見えないのは、上代の日本人が、天體の運行に興味を有たなかつたからではなからうか。かう考へて来ると、日の神(及び月の神)に関する物語が自然説話と見なせないのも、怪しむべきではなからう。日や月を生きたものとして、人として取扱ふことは、未開民族の説話に於いては普通の例であり、それによつて日月の性質や行動が説明せられてゐるが、神代史の日月二神の物語は、さういふ性質のものではない。

 興味深いのは、こういう意見が津田左右吉のみではなく、より早くから一般的なものであったことである。たとえば、文学史研究の先駆者として知られる芳賀矢一は「農業国で昼の疲れに早寝をするので、天体のことには注意が少なかった」(『国文学十講』明治三二年)と述べている。ようするに、農民は早寝・早起きで疲れて倒れるように眠ってしまうという訳であって、ここには一種の農民蔑視と愚民観がある。そして、それが一方で日本の国柄をもっぱら「農村」とみる農本主義的な歴史観に通じている。

 しかし、最近、勝俣隆『星座で読み解く日本神話』が、このような見方を厳しく批判して、農耕者は農作業の指標を月や星によっていたという当然の事実とそれに対応する民俗事例、そしてそれを前提とした『古事記』『日本書紀』の記述のなかに星の神話を読みとる作業を行った。これを前提とすれば、むしろ検討しなければならないのは、そのような夜空の神話が、なぜ『古事記』『日本書紀』の神話テキストにおいて無視されたのかという問題であるはずである。その意味では、右に引用した津田左右吉の「未開民族の説話に於いては普通の例」であるものが、なぜ「神代史の日月二神の物語」においては表面から隠されているのかということこそが大問題となるのである。こうして、津田の問題提起を視野を逆転して検討することが必要になるのである。

 さきほど東京大学出版会のUPが届き、ある文章を読んでいて憤激。「馬鹿につける薬はない」ではなく、「学者につける薬はない」ということであろう。怒っていて仕事が進まない。庭仕事をすることにする。