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カテゴリー「『竹取物語』」の28件の記事

2018年7月 7日 (土)

高畑勲さんがなくなった。『かぐや姫の物語』について

 高畑勲さんがなくなった。
 下記はもう5年前『ユリイカ』(638号)に書いた『『かぐや姫の物語』についての感想。


火山神カグヤ姫とカグツチ

 『竹取物語』は平安時代の物語のようにみえる。たしかに、それは王朝において天皇が主催する豊明節会の舞踏会に「舞姫」として出仕させられる女性たちの立場から書かれているように読めるのである。つまり、かぐや姫がミカドの許に召されるのは、まさにその舞踏会への動員の季節であって、かぐや姫は、それを嫌だといい、強制されるなら死んでしまうという。この舞踏会についての具体的なことは『物語の中世』(講談社学術文庫)で書いたので繰り返さないが、この物語が一二・三歳で舞姫に動員される平安時代の中下級貴族の娘たちに好んで読まれたのは、当然であったろう。彼女らも私は天女だと叫びだしたいときがあったに違いない。

 しかし、高畑勲氏の「かぐや姫の物語」が示すように、実際には、『竹取物語』は相当に手のこんだ組み立てをもった話である。ここでは、それが神話の時代にさかのぼる由来をもった物語であることを示すことにしたい。

 それはカグヤ姫の本性の問題にかかわっている。つまり、カグヤ姫という名前をもった王族や王妃が『古事記』『日本書紀』に何人かあらわれるが、これは『字訓』のカグの項によって、揺らめく火のように美しい姫と解釈される。神話時代の火の神をカグツチというが、カグヤ姫のカグはそのカグであって、カグヤ姫はカグツチに対応する存在である。

 検討をカグツチから始めるが、カグツチは列島ヤポネシアを生んだ大地母神イザナミから生まれるとき、イザナミのミホトに火傷を負わせ、イザナミを死に追い込んだ少年神である。神話学の松村武雄によれば、このイザナミのカグツチ出産は火山噴火を神話化したものであって、カグツチは単なる火の神ではなく、火山噴火の火を示す神であるということになる(『日本神話の研究』)。

火の神カグツチと竹珠の物忌女

 さて、カグツチについては、イザナミの出産の場面のほか、『日本書紀』の神武紀に重要な記事がある。それはイワレヒコ(神武)が、大和国に攻め込むにあたって行った呪祷において使用した「火」が「嚴の香來雷(かぐつち)」と呼ばれていることである。この呪祷においては、大和の香具山から取ってきた「土」によって「埴瓮」が作られ、火と水と米と薪などが用意されて炊飯が行われ、イワレヒコは天神タカミムスヒに扮装し、大伴氏の遠祖とされる道臣命が「齋主」となってイワレヒコ=タカミムスヒに奉仕した。その中心は「火」の呪祷であり、神タカミムスヒの前で、「齋主」が「火=カグツチ」の世話をするというものであったから、これは夜の儀礼であったに相違ない。
 問題は、齋主への任命が、道臣命に「嚴媛」という名をあたえるという形で行われたことである。これは名前だけではなく、実際に道臣命を女性に扮装させたということであろう。益田勝実は、このような男が男に女装をさせて自己を祭らせる「神ー齋主」の関係を、サルのマウンティングと同じだとしているが(「日本の神話的想像力」『秘儀の島』))、このイワレヒコがタカミムスヒに扮して営まれた呪祭は、タカミムスヒの祭りの内容を直接に示唆するほとんど唯一の文献史料であり、それが女装者によって営まれたことは、本来のタカミムスヒの祭祀が女性によって営まれたものであることを示唆する。
 そもそも、この祭祀のもっとも重要な祭具である「埴瓮=嚴瓮」は『万葉集』の時代においても、女性の祭る物であった。それは「わが屋戸の 御諸を立てて 枕辺に 齋瓮(いはひべ)を居(す)ゑ 竹玉を間無く貫き垂り」などと歌われる(四二〇)。そのほか「床の辺」(四三三一)という例もあり、ようするに、忌瓮は女が眠って神を迎える夜の臥床のそばに据えられているのである。注目しておきたいのは、これらの歌においては、女が竹玉を貫いた御統(環飾)を身につけていることである。これは、女性の忌姿において青竹(もしくは青い菅玉)の飾りが大事な意味をもっていたことを示している。拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で述べたように、この竹珠を物忌みの証拠とする少女の姿こそ、竹から生まれた「カグヤ姫」の原像であると考えられる。嚴瓮に揺れて光る火。その火の神カグツチと、それをみまもるカグヤ姫である。

火山の女神ーカグヤ姫とワクムスヒ

 さて、右の神武紀の記事について、『日本書紀』(岩波、日本古典文学大系本)の頭注は、ここに「火・水・食物・山・野・木・草の神が現れる」のは「世界生成神話の断片が変形して入り込んだものと見られる」とするが、たしかに、この場面は、列島の国土が形成されるクライマクスの場面、つまりイザナミが火の神カグツチを生んで死去する有り様とそっくりである。一応、下記に『日本書紀』『古事記』の関係部分を引用しておく。
「この子を生みまししに因りて、美蕃登(みほと)灸((焼))かえ((れ))て、病み臥してあり。多具理(たぐり)に成りませる神の名は金山(カナヤマ)毗古(ヒコ)神、次ぎに金山毗売(ヒメ)神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波迩夜須(ハニヤス)毗古神、次に波迩夜須(ハニヤス)毗売神。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売神(ミツハノメノカミ)。次に和久産巣日神(ワクムスビノカミ)。この神の子は豊宇気毗売神(トヨウケビメノカミ)と謂う」(『古事記』)
「時に伊弉冉尊、軻遇突智がために、焦かれて終りましぬ。その終りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姫及び水神罔象女を生む。即ち軻遇突智、埴山姫を娶きて、稚産霊を生む。この神の頭の上に、蚕と桑と生れり。臍の中に五穀生れり」(『日本書紀』神代第五段、一書第二)
 この場面は、地母神の死によって、大地の富がもたらされるというコスモロジーを語っているということができよう。その富が金属・陶土などの非農業的な性格を帯びていることを見逃してはなるまい。そして、松村のいうように、カグツチの誕生が火山噴火を意味するとすると、それは、神話時代の人々が、火山噴火によって大地の富がもたらされたという神話的な直感をもっていたことを証することになる。現代の火山学者たちもまったく同じことをいう。彼らは、自己の学問の職責に関わって、火山噴火こそが、この列島の自然地形の多様性と土壌の豊かさをもたらしたのだと主張するのである。私は、それ神話の言葉でも語った方がよいように思う。
 さて、この世界創成神話における神々の噴火の光景をもう少し詳しくみてみよう。まずこの火山噴火の中心がカグツチであることはいうまでもない。噴火におけるカグツチの威力は爆発力であり、それは火山雷において象徴されているといってよいだろう。現在でも各地にカグツチを祭る神社が存在するが、それは知る限りでは雷神である。
 それ故に、カグヤ姫もただに火の女神であるのみでなく、火山の女神であるに違いない。カグヤ姫が火山の女神であることは、彼女の地上への遺品、不死の薬や手紙が、結局、富士山から焼き上げられたという『竹取物語』の結末が象徴しているのである。富士山頂には竹林があると観念されていたこと、富士の噴火のときに女神が山頂を舞うという幻視がされていることなどは、『かぐや姫と王権神話』を参照いただきたい。
 問題は、このカグヤ姫は、上記の『日本書紀』『古事記』に描かれたイザナミの出産=噴火の場面に登場する神々の誰に比定すべきかということである。金属の神でも、土や水の神でもないとすれば、私は、それはおそらくワクムスヒにあたるのではないかと考える。「ムスヒ」という神名もカグヤ姫にふさわしい。別の機会をえて詳しく説明する予定であるが、すでに『歴史のなかの大地動乱』で簡単に述べてあるように、このムスヒについての本居宣長以来の説明は間違いである。つまり『古事記伝』は「産巣(ムス)は生(ムス)なり、其は男子(ムスコ)女子(ムスメ)、又苔(コケ)の牟須(ムス)など云う牟須(ムス)にて、物の成出るを云」という漢字語義からの推測が一般であり、こういう推測のもとに、たとえば丸山真男の「歴史意識の古層」のような大仰な議論がされているのであるが、しかし、『類聚名義抄』に「蒸<ムス、フスホル、アツシ、ムシモノ、ウモス>とあるのが正解で、「ムス」とはそれ自体としては、暖気・熱気という意味である。八六七年の別府鶴見岳の噴火の様子が「昼は黒雲の蒸し、夜は炎火の熾り」といわれていることを重視したい。そして「ヒ」を「霊」とする本居の解釈があたらないことはすでに溝口睦子がいう通りであって(「記紀神話解釈の一つの試み」『文学』四二ー二)、私は、これは「威力ある日・光」であろうと考えている。ようするに「ムスヒ」とは「熱光」ということである。こう考えた場合、三宅和朗が、倭国の神話の世界においては「神や自然が発する光」「太陽(日)と火の光」が大きな霊威をもつものとして受けとめられていたと述べていることが重要な意味をもってくる(『古代の王権祭祀と自然』)。
 こうしてワクムスヒという神名は「稚い熱火の女神」という意味となり、まさにカグヤ姫にふさわしい。火山噴火においてカグツチを象徴するのは火山雷であると述べたが、それに対応してカグヤ姫の姿を象徴するものを考えれば、それは、九世紀の史料では「金色眩曜」などといわれる火山噴火の時に発生する美しい「奇光」であろうか。エネルギーに満ち、マグマから立ち上って、突進し、揺れながら姿をかえ、金色と黄・赤・青に色をかえていく、美しい火山の光学現象は火山の写真集をみれば、すぐに見ることができる。高畑アニメで嵐のように疾走するカグヤ姫の荒々しさの本質は、これではないかということになる。

ワクムスヒとオオゲツヒメの殺害

 さて、上に引用した部分からわかるように、このワクムスヒ(=カグヤ姫)という神は、『古事記』では実はイザナミが最後に生んだ神であり、さらにその子にトヨウケ姫が生まれたという。またやはり上に引用した『日本書紀』の一文では、この少女神は、少年神カグツチの娘であるという。グロテスクな話しであるが、カグツチは、火傷に苦しむ母が垂れ流した「屎(くそ)」に生じた女神、土の神「ハニヤス姫」に飛びかかって犯し、ワクムスヒは、そこから生まれたというのである。
 重大なのは、このワクムスヒこそが農業の富をもたらす神であったことである。まず『古事記』では、ワクムスヒからトヨウケ姫が生まれたというが、「豊=トヨ」は「立派な、厳粛な」というような意味であるから、彼女の名前の実態はウケにある。そして「ウケ」とは、『日本書紀』の神武紀に「稲魂女、これを于迦能迷(ウカノメ)と云う」とあるように、稲魂(いなだま)、稲の穀霊のことである。後になると宇賀神などともいって「富」一般を表現する神となるが、厳密にいえば、ウケの「ウ」は、言葉を発する時の勢いで出る発語の「う」であって、語幹の「ケ」が穀物・穀霊を意味する。現在でも「あさげ・ゆうげ」などというのは、この「ケ」が食物の意味で残っているのである。トヨウケ神とは農業の神なのである。
 これに対して、『日本書紀』では、ワクムスヒ自身の頭に「蚕と桑」がなり、臍には「五穀」がなったとある。これはメタファーとしては、ワクムスヒは死んで、その遺体に「蚕・桑・穀物の種」がなったということであろう。そして、『日本書紀』では、火の神カグツチが土の神ハニヤス姫を犯して稚い熱火の女神(ワクムスヒ)が生まれたというのだから、これを焼き畑の象徴と考えるのも自然であろう。この神話には、この列島に棲んだ人々が、火山噴火の火から「火」を獲得し、その「火」が土壌を肥やすということを知ったという遙かな記憶が残されているのであろうか。
 従来、焼き畑の女神とされているのは、もう一人の「ケ」姫、オオゲツ姫(ウケモチ神)という女神である。彼女は月読命、あるいは素戔嗚尊に殺害される女神である。スサノヲの場合について説明すると、彼は、倭国神話の主人公ともいえるトリックスターであって、母をしたって泣き騒ぎ、地震と津波を引き起こすが、天に上って姉のアマテラスに敗北して大地に降ってくる。その途中で、もう一人の姉のオオゲツ姫を無惨に殺害するのであるが、この女神の死体の頭には蚕、目には稲種、耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生ったということになる。
 スサノヲは、この近親殺害の経験によってはじめてマザコンから抜け出し、王者にふさわしい人格を獲得し、人間もその殺害から恩恵をうけて農業の富をあたえられて、今を生きているというのが倭国神話の筋書きである。スサノヲはこの後に、初めて出雲に下って、火山・伯耆大山の下にある「根の鍛すの国」(地下の鍛冶場の王国)に君臨するということになるのである(参照、保立『歴史のなかの大地動乱』岩波新書)。
 
広瀬神社とカグヤ姫

 ようするにどの場合も男の暴力にさらされた女神の遺体から農業がはじまったというわけである。すでに述べたように、『竹取物語』のカグヤ姫の原像は、物忌みの証拠として何重もの青緑の竹珠の御統によって、その身を呪縛された少女の姿にあった。そして、これも『かぐや姫と王権神話』を御参照願いたいが、より具体的には、カグヤ姫の原型は、広瀬神社の大忌祭に奉仕する「物忌」の少女に求めることができる。彼女らは、広瀬神社の大忌祭を前にして長い潔斎の生活を送る。これが『竹取物語』の描く天に帰る前の時期のかぐや姫の引き籠もりと憂愁の生活そのものなのである。
 広瀬神社は、大和国の西部、奈良盆地を乱流する河川が合流する地点にある。広瀬神社をかかえる広陵町は、「かぐや姫の里」をキャッチフレーズにしている町であるが、これは事実を反映したものである。広陵町の南には讃岐神社があるが、竹取翁の名前の「讃岐造」は、それと関係がある。翁などの所属する忌部氏は、朝廷の祭器の資材や建築を担当していた氏族であるから、その縁で竹細工にも関係したのであろう。
 広瀬神社は、忌部氏との関係も深かったと思われるのだが、祭神はワカウカ姫という。さきほどカグヤ姫と同じ女神と考えたワクムスヒと微妙に似た名前である。そして、広瀬ワカウカ姫は、伊勢外宮のトヨウカ姫とも縁が深く、室町時代になると同体であるという説がある。前述のように『古事記』によれば、ワクムスヒートヨオカ姫は親子であったが、そのトヨウカ姫と縁の深い広瀬ワカウカ姫が無限にワクムスヒ=カグヤ姫に近い女神であることは御了解いただけるだろう。しかも、伊勢外宮のトヨウカ姫も、広瀬神社のワカウカ姫も月の女神なのである。比較神話学によれば、どの国でも月神はしばしば女神で農業神を兼ねるということであるが、もし以上の推論が正しければ、それはヤポネシアにおいても同じであったということになる。
 さて、奈良を好きな方なら、広瀬神社の祭神が月の女神であるというのは、すぐにわかるのではないだろうか。奈良では、月は広瀬野に沈む。広瀬野の上、二上山にかかる月は『万葉集』にも歌われていて、よく知られている。
 そして、右の図は、『春日権現験記絵』の巻頭に登場する月の仙女であるが、この竹林も広瀬神社近くの竹林である。平安時代になると、一時は伊勢神宮とならぶような位置にあった広瀬神社は奈良の田舎の神社になっていき、春日神社が藤原氏の氏神として栄えたために、絵巻物ではこの場面は「春日大明神は満月円明の如来」と説明され、この仙女も春日の神ということになっていて、ご丁寧に十二単の女房装束をしている。しかし、本来の広瀬の月の女神は、より凄絶な畏怖すべき美しさをもつものであったろう。それは、今でも、春日神社の夜の森に光る月光の冴え冴えとした様子に近いより原始的なものであったように思うのである。
おわりに
 高畑「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき?娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。
 興味深いのは、高畑アニメが、月の世界を「死の世界」とみて、その世界から地球をみるという視点をとったことであった。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。それが感動的なのは、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。
 高畑勲監督の『かぐや姫の物語』は、火山の女神としてのかぐや姫を描いているわけではない。ただ歴史学からの解説としては、かぐや姫という存在が、なぜ死の世界に近いのかということを、彼女が火山の女神=月の女神=農業の女神であるという事情から説明するほかない。
 試写でみた限りで、もっとも印象的であったのは、月に帰還させられたかぐや姫が、どこまでも清浄な月面に泣き伏している姿であった。私は、神話時代の人々も、月面をこのようなものとして想像したに相違ないと納得した。そこにあるのは清浄で荒々しい「死の世界」、地質学的な自然そのものである。火山の噴火という激しくも凄絶に美しい地質学的な自然のなかに倒れ臥している女神。『竹取物語』という文芸に没入することを通じて、このアニメ映画は、歴史家が『竹取物語』に感じるものと同じものを直感しているのかもしれないと思う。
 物質世界は、社会的自然、生態的自然、地質学的自然、そして宇宙へと拡大する階層的断裂のなかにある。人間が屈曲して生きている社会的自然の周囲に存在する「虫・鳥・草」などの生態的自然をぱっとはぎ取られ、地質学的な自然に直面させられること。神話時代から、人類はその黙示録的な恐怖を知っていたに違いないと思う。原民喜のいう「ぱっとはぎ取られた後の世界」の入り口を見させられた現在、ともかくも歴史学は過去への想像力を提供することに務めなければならないと思う。

2014年12月29日 (月)

かぐや姫と神話についてカルチャーセンターで

 昨年、千葉のカルチャーセンターで、千葉の地震についての連続講座をもった。そのご縁で、担当の丸島さんから『竹取物語』をやってほしいという要望。来年四月から。
 さっき、題名と内容をおくった。

題、『竹取物語』から日本神話の世界をのぞく

内容、『竹取物語』は「私は天女。私は王妃になる」というかぐや姫幻想を平安 時代の物語にもたらしたことは拙著『物語の中世』(講談社学術文 庫)で論じ ました。この講座では、『竹取物語』を原文で読みながら、実はそこにより古い 日本の女神神話が反映していることを詳しくみることに します。

 『伊勢物語』と『竹取物語』はたしかに平安物語のすべてを生みだしたと思う。
 『伊勢物語』は王権内部の不倫の話であり、『竹取物語』は女房として宮廷に召した女性が天女だったという話しである。かぐや姫幻想、少女幻想の話である。『伊勢物語』と『竹取物語』をあわせれば『源氏物語』になるというのは見やすい道理である。『竹取物語』のできた9世紀から、『源氏物語』のできた11世紀にかけての文化と幻想のは、まったく連続的に連なっているのであると思う。
 それはわかっているのであるが、これがあるいは7世紀から、つまり神話時代から連続性をもっているということを、どこまで説得的にはなせるか。事柄自体としては、ほぼ確信するに到っているが、どこまで説得的にはなせるか。
なんとなく楽しみである。

 法学界はどこかおかしいという話を昨日書いていて、ややミスマッチであるが、ーーー

 ただ、ついでに憲法15条の公務員罷免権についての追加。以下は以前の憲法的価値と未来社会論というエントリからコピー。私は国民による公務員罷免権は国家論的にきわめて重要な問題と考えている。

 
 日本国憲法13・14条は個人的所有の保障と特権的所有の否定です。また15条は公務員の任命・罷免権をうたったもので、特権的門地の否定と通ずる規定です。「国家階層制を完全に廃止して、人民の高慢な主人たちをいつでも解任できる公僕とおきかえ、見せかけの責任制を真の責任制とおきかえた」というパリコミューンについてのマルクスの評価に通ずるものがここにはあります。
 そして、25条から28条の規定は、教育をふくめ社会的な労働の尊厳に関わるもので、これは28条の勤労者の団結権をふくめて広く考えれば、労働の具体性・専門性にもとづくアソシエーションを社会のもっとも重要なシステムとして位置づけるということになっていると思います。
 日本国憲法にはさらに「戦争放棄」の規定があり、これが民族と国際性に関わる原則としてきわめて重大であることはいうまでもありません。こういう憲法の許容する未来社会構想からふり返って、過去の世界、つまり歴史的な社会構成を考えるということがあってよいと思います。

 憲法的な立場から過去の歴史を考えるということと、フェミニズムの視点をつらぬいて『竹取物語』を考えるということは共通する問題だと、私は思う。

2014年9月 4日 (木)

両口屋是清さんの宣伝雑誌に書いたもの。

 
Ryougutiya
  両口屋是清さんの雑誌『いとおかし』に書いたもの。きれいな小冊子である。
 月と太陽の暦製作室代表の志賀勝という方も書かれていて、「後の十三夜」という記事。今年は旧暦だと閏九月がある年で、後の十三夜があるので楽しみにしているとのこと。専門家の視点はさすがである。
 私はあわただしい秋になりそうで、若干、まいっている。

 「お月さんで兔がお餅をついている」という子どもへの語り口は、日本の文化のなかでも、ぜひ残したいものだと思う。もちろん、これは月の仙女たちの主人――西王母が兔に不死の仙薬を搗かせたという中国の神仙思想の影響をうけた物語である。しかし西王母の像が古墳時代の三角縁神獣鏡に刻まれていることでもわかるように、本当に古くから、この国でも親しまれた物語であって、日本の月の穏和なイメージにとって欠くことができないものである。

 かぐや姫は天に去る直前になって「いまはとて天の羽衣着るおりぞ 君をあはれと思ひ出でける」という歌を書き、その文とともに「不死の薬」を天皇に残す。最初はつれなかった天女が最後に少しの慕情をみせるという『竹取物語』のクライマクスである。しかし、御門は地上の王の矜持をみせ、薬を呑んで女を天に追っていくという態度をとらず、「不死の薬の文、壺具して」(姫の手紙と壺を一緒に)、富士の高嶺にもっていかせ、天に焼き上げた。

 この部分は従来は「不死の薬に、又壺具して」と翻刻されていたが、先年、『かぐや姫と王権神話』という新書を書いたときに、「又」は「文」であろう、そして「に」(尓)と「の」(乃)の変体仮名は誤写の可能性があると考えて、末尾につけた『竹取物語』の全文翻刻では上記のように改めた。そのときあれこれ考えるなかで、この「不死の薬」というものはどういう味のであろうと考えたことを憶えている。おそらく甘い味なのであろう。

 『竹取物語』は王の脅しに屈せず、しかも王を恋着の虜にしてしまう可憐で誇り高い女性を描いた、いまから一〇〇〇年以上も昔に描かれた物語である。現代的にいえば、はっとするようなフェミニズムの思想がそこには流れている。
 昨日は法事があって、田舎のなつかしい従姉妹たちにあったが、やはり誇り高い彼女たちも甘い菓子が好きで、土産にもらったそれらを食しながら、この文章を書いている。

2014年4月22日 (火)

世田谷市民大学での講座ーージャパネシア神話とかぐや姫

 
 世田谷市民大学での講座を頼まれて昨日、概要を送った。秋から。9月12日から、毎週金曜日。11月28日まで。全12回。神話論について話すのははじめてである。

ジャパネシア神話とかぐや姫――地震噴火の文化史

 私は、東日本太地震が9世紀の大地震と震源や規模が同じであったことを知って、急遽、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を執筆しました。地震学は早くから9世紀と同じ大地震が東北で起こりうることを警告していましが、歴史学界がそれを知らず、必要な歴史研究を行っていなかったことを学界の重大な責任と感じたためです。この本を書いたこともあって、私は、地震火山観測研究の五カ年計画(今年度開始)を審議する政府委員会に歴史学者として参加しました。

 その中で地震噴火の予知予測のためにも、日本が地震火山列島であることを文化常識にする重要性を痛感しました。そしてその出発点は神話論でなければなりません。日本神話の最高神はアマテラスであるというのが社会の常識ですが、歴史神話学の常識ではそれは高皇産霊(タカミムスヒ)という神でした。私は、さらにこの神が高千穂への天孫降臨の主宰神として火山神であり、素戔嗚尊(スサノヲ)と大国主命も地震・火山神であることを解明しました。

 これらの神は男神ですが、イザナミ・オオゲツ姫・トヨウケ姫などの女神も火山の地母神でした。山の神が女性であることの深い理由は、ここにあります。そして、オオゲツ姫やトヨウケ姫は地母神であると同時に月の女神でもあり、これが富士の女神=カグヤ姫につながっていきます。

 講義は、まず日本の神話の全体を見直す必要を明らかにし、そこにはポリネシア・インドネシアにつらなる火山神話の影響があることの説明からはじめます。最後に高畑勲監督の『カグヤ姫』についても御話したいと思います。

2013年12月18日 (水)

「わかんるり」とは何か。クラモチ皇子の言葉

 アニメーションの「かぐや姫の物語」で、クラモチ皇子が、蓬莱島の天女に対して「私はうかんるり」と発言したという部分があった。

 この「うかんるり」という言葉は正しくは、「わかんたふり」であるということは『かぐや姫と王権神話』で述べた通りである。それは隋書に「太子」のことをいうとでてきて、10世紀以降だと『源氏物語』にでてくる。そして、8世紀には奈良の長屋王家の木簡に「若翁」とでてくる。
 
 問題は、この「わかんとほり」=若翁という言葉の意味であるが、下記の長い文章の末尾にあるよう7に、それは「若いタフレモノ=狂者」という意味である。『字鏡集』という辞書に「翁」の読みとして「タフレヌ」があり、「タフル」は普通は「狂」と書く。「タハク(姦・淫)」「タハブル(戯)」「タハゴト」も同じ意味。

 つまり、皇子というのは、あぶない人、恣意的な行動をすることが許されている人であるという訳である。実際、『日本書紀』『古事記』に登場する皇子たちは激情的で、いわゆる「聖なる狂気」を思わせる場合が多い。

 『竹取物語』でクラモチ皇子が天女に対して「私はわかんたふり」といったというのは、いわば「俺は王子だ、何するかわからんぞ」とすごんだということであろう。

 この「わかんとほり」=若翁という言葉の語義については、私は、右の『かぐや姫と王権神話』を書いた時はわからなかった。それを知ったのは、山尾幸久『古代王権の原像』(学生社215頁、2003年)を読んでのことである。山尾さんの仕事はむかしはよく読み、『黄金国家』を書いた時も遣唐使論は前提とした。しかし、さすがに7世紀以前についての山尾さんの仕事を読むことは、最近はなかった。そのために見のがしたのである。

 さて、以下は、最近やっている「通史のためのメモ」の古墳時代編である。

③古墳時代
 古墳時代とはヤマトに政治センターが遷って、古墳が盛んに作られた時代をいう。その最初の中心は伊勢を通れば東国にも近い、奈良盆地東南のヤマト纏向の地であった。箸墓が卑弥呼の墓であったかどうかなどの詳細については学説はまだ一致をみていないが、纏向の成立は卑弥呼共立の時期に近い、3世紀初頭であり、そこあった権力は近畿地方、中国地方(北の出雲と瀬戸内の吉備)、四国などの諸勢力の連合に基礎をおき、その中でも(前方後円墳の原型が生まれた)吉備の位置が大きかったことは確実である。
 『魏志倭人伝』によれば卑弥呼は伊都国に「一大率」をおいて北九州を支配し外交を統括した*1。これに対して、東国の部族連合が畿内中心の枠組の外にいたことは、卑弥呼の死去(248年)直前に狗奴国(遠江の久努、あるいは濃尾地方という)と紛争を起こしたことに示されている。ヤマトはこのように列島の中央部という地政学的な位置によって卑弥呼共立の場となったのである。こうして縄文時代の東国、弥生時代の九州にひきつづいて、列島史上はじめての国家、畿内中心の西国国家が生まれた。そこには神殿都市(アクロポリス)が形成され、前方後円墳のならぶ王墓域(ネクロポリス)が生まれた。前方後円墳の形は中国思想(天円地方説、壺型説など)に関係するもので、古墳の形や大きさは葬られた首長の身分を表現している。骨のことをカバネと読むことに注目して、氏姓の「姓」とは本来は「骨」の高貴さのランクを意味するという古くからの考え方をとれば、死者は「殯」によって白骨化し、特定の古墳に葬られることによって身分をあたえられたことになる。
 なお「辛亥年」(471年)の稲荷山鉄剣に「オホヒコ」が登場していることによって、5世紀に伝承されていた王統譜に崇神がふくまれていた可能性が高くなった。「ハツクニシラス」(初代の大王)を崇神とする伝承もあった可能性がある。しかし、これはまずは神話の問題である。『古事記』『日本書紀』が、崇神が神を崇め(祭祀制度を創始)、景行が倭建命を初めとする皇子を全国に派遣し、成務が地方制度を作り(国造設置)、仲哀・神功・応神が朝鮮半島を服従させ(帝国形成)、それらをすべてふまえて仁徳が善政を敷いた(国制理念)という形で全国統一の過程を物語るのはそのまま史実とすることはできない。五世紀以前の実態は、記紀をそのまま史料とすることはできないという津田左右吉以来の見解は依然として生きている。
 なお、古墳が全国に広まったことをヤマト王権の全国統一の証拠とする考え方も問題が多い。古墳は身分的な要素をもつとしても、それ自体は葬送の儀礼や神話の表現であるから、それを直接に統一国家の制度表現とすることはむずかしい。少なくとも5世紀までのヤマト王権は「部族連合国家」(United Cheefdom)の枠組のなかにあった。西国国家という枠組のなかで、吉備・出雲・肥(九州)などの地域の部族国家は相当の自律性をもっていた。ヤマトの優位性の相当部分は、その地政学的な位置に支えられて、九州を押さえ、東国に対抗する地域連合の動きを代表している点にあったのである。
 このような政治や列島の地帯構造の激変に対応して、社会構造は大きく変化した。纏向には政治都市(神殿都市)が形成され、外交文書の作成、倉庫や貢納の管理などの実務がとられたことは確実で、詳細は不明なものの、公共的な仕事も行われたはずである。古墳の造営は徭役によったことはいうまでもない。軍事・警察の組織もあったであろう。また鉄製品その他の物流は畿内中心にまわりはじめている。こうして西国国家の中枢にいた各地域の支配層が纏向に集まっていたことは、各地の土器などが纏向から発掘されたことに示されている。
 社会構造の変化でもっとも大きいのは、弥生時代を通じて続いた環状集落が解体し、その中から方形の首長居館が分離したことである。首長居館には畿内製の土器の出土が多く、また前方後円墳の地方普及とともに出現する例があることは、ヤマト王権の成立によって地方社会がうけた影響を物語っている。各地の首長は居館を立てるとともに環濠を埋めたのではないかといわれている。彼らは明瞭に階級的な支配者に変貌したのである。そこでは首長に私的に隷属する人々も生まれていたが、中心は首長が下位の共同体を代表して支配する首長制の社会構造にあったといえよう。支配者は、小さな村、大きな村、部族、さらには部族連合というように重層する集団のシステムの上に大きな権力を確保するに到っていたのである。
 さて、漢帝国の滅亡後、220年頃、魏・蜀・呉が相次いで帝位を立て三国時代がはじまり、約60年後、魏の権臣・司馬懿にはじまる(西)晋によって統一される。しかし、西晋は311年、匈奴によって滅ぼされ、中国は大分裂の時期に入る。華北では五胡十六国の時代が始まり、江南では晋の王族が東晋を建国する。宋・梁とつづく南朝である。これに対して、朝鮮では高句麗が、4世紀初頭、楽浪郡を最終的に滅ぼした。以降、中国は朝鮮半島以東を直接統治できなくなる。そして高句麗の動きに刺激されて、朝鮮半島南部の馬韓から百済、辰韓から新羅が登場し、弁韓は北九州との深い関係を維持したまま加耶に再編成される。中国および北辺諸民族と地続きのためもあって特有の困難をもっていた朝鮮においても「民族」の形成が必然となったのである。
 朝鮮諸国の競合のなかで、391年、加耶と密接な関係をもっていた倭が朝鮮に出兵する状況も生まれた(広開土王碑文)。これは朝鮮南部(とくに加耶地域)と九州の多島海地域における伝統的な部族的な関係に根付いたものであったが、すでにそれは権益化しており、倭国はその維持に必死であった。実際に王権の意向の下で多くの倭人が加耶・百済に渡っており、最近、彼らの墓所として、5世紀末から6世紀初頭には百済に前方後円墳が築造されている。倭人のなかには、百済王権に組織され、その官人・軍人となって倭王権への二重所属になったものも多かった。そして、倭は、5世紀に南朝の宋に何度も遣使し、朝鮮半島に対する影響を担保しようとした。『宋書』に登場する倭王は五人。そのうち「讃」「珍」の兄弟については履中・反正である可能性があり(異説あり)、「済」とその子「興」「武」については允恭、安康、雄略とされている。彼らは5世紀の前半から後半まで13回に上る使者を派遣し、大将軍・倭国王と将軍号をもって冊封されたが、しかし、宋は倭に何の言質もあたえようとしなかった。
 むしろ、この遣使で重要なのは、倭王が将軍・郡大守などの称号を王族や臣下に仮授することを承認されたことである。これは称号の色彩が強いが、稲荷山鉄剣によれば雄略(ワカタケル)の時代に「杖刀人」という軍人身分が生まれていた。ヤマト王権の中に一種の国家組織が生まれていたのである。これを「人」制というが、その一部は朝廷につかえる手工業者を「手人」というなど8世紀までつづいた。また倭王・讃の使者に「司馬曹達」という人物がいたが、これは軍府の軍人の称号(「司馬」)をもつ中国系の渡来人名(「曹」)を示している。
 また、5世紀は、高句麗戦などの結果、従来から深い関係をもっていた朝鮮の人々が亡命・移住してきた時代である。これは、いわば日本の歴史のなかでの最初の対外戦争太りといえる。倭王権は、彼らを動員して河内平野を開発した。灌漑水路の設計、韓式の硬質土器の製作、金工技術など、はじめての本格的な手工業の導入である。有名な騎馬民族国家説は、このとき馬・馬具が入ってきたことを騎馬民族の移動と誤解したものである。河内には応神・仁徳などの大王のものと伝承される大古墳群が形成されたが、それは渡来系の人々を河内の開発に動員することと一体の事業であった。
 こうして、倭国は奈良盆地の四周のみでなく、奈良盆地の入口・玄関にあたる河内に王墓域を突出させて、国家の偉容を示そうとした。このなかで、王権が部族連合国家から脱却する方向に進もうとしたことは疑いない。倭王「武」(雄略、在位465~489?)がその中国への上表文で「治天下」の理念を述べるのは主観の側面が強いとはいえ、それを反映している。記紀の伝えるこの時期の王権の内部闘争ははげしいもので、このころに皇子のことを「わかみたふり」というようになった。それは「若いタフレモノ=狂者」という意味であるから、いわば皇子が恣意的な行動をすることが許される時代がやってきたのである。実際、そのまま事実とすることはできないとしても、允恭の後継を廻る混乱、即位した安康の乱政と弟雄略との不仲、安康の後継と目された市辺押磐皇子の雄略による殺害などなど、そのような事例は枚挙にいとまがない。同時代の中国の諸王朝においても、その内部闘争や乱倫はすさまじく、この時期の国家の要件なのかとさえ思えるものである。
 しかし、5世紀の倭王権の基本的な性格は、依然としてヤマトの部族や筑紫・吉備・出雲・紀などの同盟にもとづく連合国家であったというべきであろう*1。ヤマト王権はむしろ、この内部闘争の経験をへて、徐々に国家的な機構を発展させていったのである。
参考文献
白石太一郎『古墳とヤマト政権』
広瀬和雄『前方後円墳の世界』
都出比呂志『古代国家はいつ成立したか
熊谷公男『大王から天皇へ』(『日本の歴史3』講談社)
鈴木靖民『倭国と東アジア』(『日本の時代史2』吉川弘文館)

2013年12月17日 (火)

じぶり『熱風』にかいたかぐや姫論。「月の神話と竹」

 以下はスタジオじぶりの『熱風』という宣伝紙に書いたもの。12月号。「かぐや姫の物語」の特集である。

 奥様が、内田樹さんのツイッターに、映画館が空いてたという話しがのっているというので、僕もみてみた。以下のよう。


 ミント神戸なう。日曜日の夕方の回なのにがらがらです。空いててうれしいけど、ジブリ的には心配。ジブリの人間じゃないんだけど、ジブリ本書いてますからちょと身内感覚。

 「かぐや姫」びゅ。二時間半近かったんですね。息詰めて見てました。か、かんどう。(T-T)。


 内田さんが感動というのはよい話しである。しかし、私も心配。

 ここは広瀬神社
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 私見では、『竹取物語』はよく知られている物語ですというのが、思いこみ。これが思いこみであるということが正確に、もっと早く伝えられればいいのだが。ヤマトのもっている物語を見直すために、ともかく見ておいた方がと思うのだが。

 とくに教師、歴史と文学の教師が、どうにかして子供たちに、この映画をみてもらうような動きをすることはできないのだろうか。歴史文化のなかにもう一度、文化を引き戻すということを考えないと、将来、困るのではないだろうか。人ごとでなく、文化・芸術との共同ということを教育・学術は考えなければならないのではないだろうか。そういう道を歩むことなしにはなにも生産的なものは生まれない。

 ともかく、歴史学をふくめた学術は「文化」のことをもっと考えた方がよいように思う。しかし、これは他人事ではない。学術に携わってきたものとしては、自己反省。

 しかし、ともかく、今日は飛鳥時代の通史に目処をつけなければならない。歳もとったのに、いま基礎構築をしているというのは申し訳ない。歴史の過去について何もしらずに(何も確認せずに)やってきたのであるということを実感している。

じぶり『熱風』にかいたかぐや姫論。「月の神話と竹」


 「かぐや姫の物語」の原作、『竹取物語』は平安時代の初めに作られた。それは天皇が主催する月明の冬の夜の舞踏会に「舞姫」として出仕させられる、成女式の年齢の少女たち(一二・三歳)の立場から書かれている。かぐや姫がミカドの許に召されるのは、まさにその舞踏会への動員の季節であって、かぐや姫は、出仕を嫌だといい、強制されるなら死んでしまうといった。『物語の中世』(講談社学術文庫)で書いたように、実際に「舞姫」に動員された少女の身分は中級貴族の娘たち。彼女らはしばしば出仕を拒否したり、直前に卒倒したりした。すでに王妃候補者が舞姫から王妃候補者がえらばれる時代ではなく、舞踏会への参加は、男たちの性的な視線の下で品定めされ、女房への道に進まされることを意味したから、彼女らもすべてを拒否し、「私は天女だ」と叫びだしたいときがあったに違いない。彼女らにとって『竹取物語』が物語の「はじめ」の位置にあったのは自然なことである。

 しかし、『竹取物語』はさらに深いものをもっていた。高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は、「月」の視点から『竹取物語』を描くという、これまでとはまったく異なる発想でかぐや姫を描きなおし、それを明瞭に示した。そこにはたしかに「隠された物語」があるのである。私見では、その「隠された物語」は神話世界に直結している。そこでここでは、『竹取物語』を「月」と「竹」の神話という側面から説明してみたい。


かぐや姫の「罪」の原因となった月の女


 『古事記』『日本書紀』には月はあまりでてこない。しかし、それは月の神話が存在していなかったということではないと思う。『かぐや姫と王権神話』(洋泉社歴史新書y)で書いたことであるが、伊勢神宮の外宮の女神、トヨウケ(豊受)姫は月の女神であり、平安時代の宮廷の夜の祭りは基本的には彼女の降臨の下で営まれる月の祭りであった。それにもかかわらず、月の神話がなぜほとんど残っていないかというのは日本神話論の最大の謎である。鎌倉時代、いわゆる伊勢神道は外宮の神官たちの思想的運動から始まったが、彼らが挑んだのも、この問題であったように思う。『竹取物語』は、この謎に深く関わっている。

 「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。

 このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき姮娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。

中国の幻想文学と『竹取物語』

 このような天界の仙女の物語は、きわめて洗練された夢幻的な神仙文学として紀元前後から中国で大流行し、日本にも流入した。伊勢内宮のアマテラスや外宮のトヨウケ姫、さらに伊勢外宮と同体とされる大和広瀬神社のワカウカ姫など、日本の神々の中心に女神たちがいることは、その影響を抜きには考えられない。『竹取物語』も、中国の神仙文学の影響の下に作り出されたもので、いまでいえば、世界最先端のSF小説の続編を日本で作ってしまったとでもいえようか。しかし、中国の神仙文学はほとんどが『竹取物語』より短い短編であるから、むしろ『竹取物語』のほうがよくできていると、私は思う。

 こう考えると、「かぐや姫の物語」が、月の側から地球をみるという視点をとったのは正解であったと思う。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。

 それが感動的なのは、月の世界が「死の世界」であることが、アニメをみている私たちに徐々にわかってくるからである。そして、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。

 さらに、私は、試写をみて、かぐや姫を迎えに月から降りてくる使者たちが奏でる音楽に驚いた。何かガムランの音楽という感じの明るいリズムである。彼らが「死」の世界の無表情と厳しさをもちながら、美しく、しかもなんとなく明るくとぼけているのがよいと思う。

 そして、この場面をみて、これが当たっているのではないかと本気で考えた。神話の時代の人々は、死の世界を、暗いものとはみていないのではないか。しかも、私たちは、その世界から呼びかけられることでしか、本当の「生」を知ることができない。しかし、それを知ったときにはもう間に合わないーー。これはいまも昔も同じである。

「太い竹に入って降臨すること」の意味

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 さて、以上が「月」の話しであるが、「竹」の話しについては、最近、気がついたことを報告したい。写真は東北歴史博物館に展示されている会津大塚山古墳南棺に埋葬されていた割竹形木棺の模型である。形成期の前方後円墳では必ず使われているもので、7・8メートルもある大木を二つ割りにして、中をくりぬき、ちょうど人間が竹の節の間にいるような形にして葬る。この模型では灰色の人形が入っているが、実際には「殯(ルビ:もがり)」をへて清められた白骨だったはずで、この白さに清浄性を感じるのが人々の感性であった。古代の身分、氏姓(ルビ、うじかばね)の「姓(ルビ:かばね)」も、本来は骸(カバネ)のことで、白骨の清浄な魂魄になった人こそが高貴なカバネ身分をもつというのが、身分体系を表示する古墳の秩序の本質である。

 時代は下って一〇世紀の『大和物語』(一四七話)には、一人の女が二人の男の求婚をうけ、進退きわまって入水してしまい、それを追った男たちも水死してしまったという悲話がある。悲しんだ男たちの親は、女の塚墓の側に男たちを埋葬したが、片方の男の塚墓には、「くれ竹のよ長きを切りて狩衣・袴・烏帽子・帯とを入れて、弓・胡簶・太刀などを入れてぞ埋ずみける」という処置がされたという。ここにいう「くれ竹」とは、「呉竹」、つまり、中国南部を原産とするハチク(淡竹)のことで、大きいものは、直径一〇センチ、節間は四〇センチ、高さは二〇メートルにも及ぶ。「よ(節)長き」というから、その中でも大きなものなのであろう。それに衣類などを入れて、副葬したというわけである。

 これらは死者(あるいはその持ち物)が竹の節の中に入って昇天するという観念を示している。かぐや姫の降誕は、それとはちょうど反対に死の世界からの復活であるといえよう。私は、昔、『竹取物語』を読んだ人々は、そのことを知っていたのだと思う。

 『竹取物語』には、翁の歌として「くれ竹の世々の竹取 野山にも さやは侘びしきふしをのみみし」という歌が記録されている。これは『竹取物語』が、本来、歌物語であったことを示す証拠と評価される歌であるが、そこに「くれ竹」がでてくるのは太い竹と読まねばならない。私たちは「竹」のことを忘れているが、正倉院にも呉竹製のいくつかの宝物があることでわかるように、当時、竹は南アジアから伝わった万能の素材だったのである。

隼人の物語と広瀬野

 このような南アジア産の竹が、いつ日本に広がったか、植物学の結論はでていないようであるが、「纏向の日代の宮は(中略)竹の根の 根垂る宮」という『古事記』の歌謡は、三・四世紀の大和の纏向宮(ルビ:まきむくのみや)のそばには巨大な竹林があったという記憶を示すのかもしれない。そもそも、割竹形木棺がヤマトを発祥地とする前方後円墳に埋められるということは、竹の文化を抜きには考えられないだろう。そして、そうだとすると、それを持ち込んだのは、考古学の森浩一がいうように、南九州の隼人であったとしか考えられない。

 そして、隼人たちの竹のルーツは、列島ジャパネシアの南端、沖縄の島々、そして、台湾、フィリピン、雲南、インドネシアに広がる竹の文化圏につながる。実際、雲南の苗族の王は、河で洗濯をしていた女の両足の間を流れぬけた大竹の中から生まれたといい、台湾の東南部の蘭嶼島にすむタオ族には、大噴火と大津波の中でうち寄せられた大竹が割れて、中から人間の先祖がうまれたという神話がある。ここにかぐや姫の物語に反映した「竹」の物語の原像があるのである。『竹取物語』が中国の神仙思想の強い影響を受けていることは先述の通りであるが、その基層には、隼人たちを通じて南アジアとのつながりが流れていた。

 さて、同じく森によれば、隼人たちは大和国に移住してきていた。右の地図で示した奈良県の西部が彼らの移住地である。私は「かぐや姫の物語」に描かれた美しい山河と丘陵に、この地域、とくに馬見丘陵から生駒、そして生駒の谷を北へ向かって大阪や木津川方面へと抜けていく道の風景を思い起こした。隼人たちは、この地域で竹工芸を営み、その製品を朝廷におさめていたのである。その中心地が、現在でも「かぐや姫の里」として知られる広陵町のあたりで、そして、そこが、たしかに『竹取物語』の故地なのである。そこには讃岐神社があるが、竹取翁の名前の「讃岐造」は、それと関係がある。翁などの所属する忌部氏は、朝廷の祭器の資材や建築を担当していた氏族であるから、その縁で隼人たちと同じような仕事も行ったのであろう。

広瀬神社の月の女神

 そして、この忌部氏と関係の深かったと思われるのが、この地図の中央に位置する広瀬神社である。『かぐや姫と王権神話』で詳しく述べたように、かぐや姫の原像は、この広瀬神社の「大忌祭」に奉仕する「物忌女」にある。『万葉集』の歌から想像できる彼女らの姿は、何重にもなった青緑の竹珠の御統(環飾、ネックレース)を身にまとった少女の姿である。彼女らは、広瀬神社の「大忌祭」を前にして半年にも及ぶ長い潔斎の生活を送る。これは『竹取物語』の描く、天に帰る前の時期のかぐや姫の閉じ籠もりそのもののように思う。折口信夫が示唆しているように、竹の中に籠もるようにして清浄を維持する心意は、日本の「神道」の根本にすわっているもので、『竹取物語』はたしかにそれを表現しているのである。『竹取物語』を架空の物語と考えてはならないと思う。

 冒頭にふれたように、広瀬神社の祭神は女神ワカウカ姫であり、伊勢外宮と同体の月の女神である。奈良を好きな方なら、広瀬神社の祭神が月の女神であるというのは、すぐにわかるのではないだろうか。月は広瀬野に沈むのである。広瀬野の上、二上山にかかる月は『万葉集』にも歌われていて、よく知られている。また春日大社の由来を書いた絵巻の巻頭には広瀬神社近くの竹林が描かれ、そこに月の仙女が降臨している様子が描かれている。もう平安時代のことなので、彼女はご丁寧に十二単の女房装束を着ているが、しかし、本来の広瀬の月の女神は、より凄絶で原始的な畏怖すべき美しさをもつものであったろう。高畑監督の描くかぐや姫の激しさには十分な根拠がある。

「地球を外側からみる目」

 さて、こうして、「月」の物語の解説から初め、「竹」の神話の説明に入って、また「月」にたどり着いたことになる。謎解きは、ほかにもあるが、しかし、ここまででも、多くの人々が、「かぐや姫の物語」を通じて、はるか一〇〇〇年以上昔の民族的な文化の深層に目を注ぐ機縁になれば幸いである。

 最後に一言。高畑監督がいいたいのは、かぐや姫が自分で地球をえらび、苦しんで去ったのだということであろう。それは私たちの国の神話や物語の中に、地球を外側からみる視点があることの驚きでもあるのだろう。
現在は、この視点を日本列島のみでなく、太平洋の大きさにまで広げ、選び直しをなければならない時期である。その際、先にふれた、大噴火で大竹が割れて、その中から人間が生まれたという神話をもつ台湾南東の蘭嶼島が重要である。この島は火山島で、バシー海峡を隔ててフィリピン最北部の火山列島、バタン諸島につらなる。インドネシア、フィリピンからの竹の文化と神話が日本に伝わってくる上では、この離島の役割は不可欠のものであったろう。私たちの列島は南の火山と連なる火山列島なのである。

 いま、この蘭嶼島のタオ族の人々が、いつの間にか島に設置されていた放射性廃棄物の処理場におびやかされているという。私たちの列島、原発の大事故を起こしてしまった列島の海は、これらの島々に連なっている。地球を外側からみる視点を大事にするとすれば、生駒と広瀬野の美しい自然も、蘭嶼島の火山・海原も、どちらも『竹取物語』の故地であり、一つのものである。我々の運命は、竹の神話と文化を共有する、南の島々と一蓮托生なのである。最近、そんなことを考えている私には、映画の最後に流れる月からの使者たちの奏でる陽気な音楽が本当に南国の音楽に聞こえた。そしてその明るさに感動し、励まされた。

(ほたてみちひさ 歴史学者)

2013年12月 7日 (土)

かぐや姫の「罪と罰」の物語の原型は海外文学

Cce20131208 「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれのもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり」

 『竹取物語』のかぐや姫の「罪と罰」についての記述の原型は、中国の神仙文学にある。

 これについては渡辺秀夫氏の仕事があって、たとえば『妙女伝』(広記巻六十七・『通幽記』という女仙伝に次のようにあるという。

 妙女は、齢十三、四歳、崔氏の婢である。彼女は、もと天上の仙人(提頭頼吒天王)の娘であったが、天界の秘事をもらした罪により、人の世に堕とされ人間に転生した。

<読み下し。もとこれ提頭頼吒天王の小女と言う。天門の間の事を洩らしたがため、故に、謫して人世に堕す>

<原文(言本是提頭頼吒天王小女。為洩天門間事、故謫堕人世) >


 『竹取物語』の作者は、こういう種類の神仙文学を、そのまま翻訳したということになる。
 
ようするに、海外文学のまねをいしたのである。いまでいえば、アーシュラ・K・ル・グゥインのフェミニズムSFのまねをしたということであろうと思う。
 萩尾望都のマンガ『11人いる!』は、我が家の愛読書。その原型はアーシュラ・K・ル・グゥインにあることは明らか。それと似たようなものであるということになる。

 渡辺氏の文章をもう少し引用すると、


 天上界で犯した罪の償いに地上界に貶謫される女仙――「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれのもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり」――、これも女仙伝にも多くみられるもので、例えば、「臨昇天謂其父曰、我仙女杜蘭香也。有過謫于人間、玄期有限、今去矣」(広記巻六十二・杜蘭香・<出『墉城集仙録』>)、「謂父母曰、女本上清仙人也、有小過、謫在人間、年限既畢、復帰天上無至憂念也」(広記第六十三・黄観福・<出『集仙伝』>)、「太上責之。謫居人世、為君之妻、二十三年矣」(広記第六十七・崔少玄・<出『少玄本伝』>)などは、ことに『竹取物語』に近い例であろう。
     (渡辺「竹取物語と神仙譚」『日本文学』1983年3月)

 『竹取物語』がフェミニズム文学であるということは明瞭なことなので、それがもっと知られるとよいと思う。ラディカル・フェミニズム(根源的なフェミニズム)からみると、どう考えるべきかという問題は残ると思うが、幻想文学がフェミニズムになることはしばしばあることだと思う。

 さて、以下は、南北朝時代の通史。tsuusi9としてwebpageに載せた。

⑨南北朝時代と王家の分裂
政治史の考え方 

 後醍醐が大覚寺統のなかでも傍流に属していた。後宇多は譲状において後醍醐は一代限りであることを厳密に命じ、実際に若死にした後二条の子、邦良を皇太子として、後二条ー邦良を嫡系に指定している。この背景には、亀山・後宇多・後醍醐の間での(後醍醐の母が亀山に寵愛されたなどの)矛盾と対立があったとされるが、後醍醐はこうして大覚寺統の皇太子邦良と、その後に即位を予定された量仁(光厳)の属する持明院統の双方から退位を迫られ、幕府もそれを後押しするという状況に立たされたのである。
 後醍醐のクーデターは後鳥羽クーデターと同じように東国・西国戦争から出発し、当初、後醍醐の側に立った武士は西国勢力であった。しかし、全国的な支配を確保していた北條氏の専制的な姿勢は、東国内部の離反を導き、鎌倉幕府の中枢の源氏門葉の家柄が後醍醐側に寝返った。足利尊氏が西国で、新田義貞が東国で蜂起することによって北条氏の権力はあっけなく崩壊したのである。

 後醍醐の目指したものは後鳥羽と同じく、院政時代の復活であり、武臣国家の否定であった。ただ相違していたのは、その国家構想が京都の北の大徳寺を国家寺院とするなど、中国で流行していた禅宗や儒学にもとづく皇帝専制を理念としていたことである。また陸奥将軍府や鎌倉将軍府のような「鎮」=広域行政府を設置する構想も南宋の設置した総領所に類似したものといえる。これは、鎌倉時代、北条氏の下で機動的な全国支配のシステムや広域的な権力のあり方が生まれていたことに対応するものである。もちろん、皇帝専制という思想や法と行政のスタイルは大きく異なっており、それが矛盾を引き起こしたことは事実であるが、後醍醐の構想をただの空論ということはできない。

 逆にいえば、後醍醐の建武政権がもろくも滅びた理由は、北條氏の専制が崩れるのと同じことであったということにもなるが、崩壊のきっかけとなったのは、後醍醐が、蜂起に功績のあった大塔宮護良親王を疎外し、その寵姫・阿野簾子所生の皇子を皇太子に立て、陸奥・鎌倉の将軍府に据えたことであろう。西国武士の組織において中枢的な役割を果たした護良を排除したことは西国武士の組織を脆弱なものとしたことは疑いない。

 そして後醍醐が護良の身を尊氏・直義兄弟に預け、鎌倉に幽閉されたことも大きな影響をもったであろう。つまり、鎌倉将軍府にいたのは、成良親王であったが、それを支える地位にいたのは鎌倉に根拠をおいて鎌倉幕府の伝統を固守する路線にたった足利直義であった。そして後醍醐を見限った尊氏は直義を頼って鎌倉に下り、兄弟で後醍醐に反旗をひるがえし、護良を殺害し、東国の軍勢とともに京都に攻め上ったのである。こうして後鳥羽の時と同じ東国西国戦争が戦われ、結局、尊氏・直義が勝利して、後鳥羽の時と同じように後醍醐の西軍は敗北して建武政権は崩壊したのである。

 これによって後醍醐の構想する宋朝型国家ではなく、武臣国家の路線が定まったのであるが、尊氏が「覇王」となるためには、京都ー西国を抑えるのみでなく、東国を抑え、頼朝が瞬間的についた「日本国惣官」ともいうべき地位を確保することが必要であった。それを実現するために尊氏が選択したのは、自分の息子の義詮を京都に据え、もう一人の息子を鎌倉将軍府に据えて、直義を殺害することであった。いわゆる観応の擾乱の終了、1352年のことであって、これによって、内乱の全局が定まった。そこにいたる過程で、尊氏・直義・南朝は相互に合従連衡と乱闘を繰り返し、その後も同じようなことは続いたが、すでに南朝には独自の力はなかった。

 この過程は兄・尊氏が西国を握り、弟・直義が東国を拠点としたという意味では、頼朝・義経とちょうど逆であったが、ともかくも二回目の西国東国戦争の結果、尊氏は頼朝とは違って、掛け値なしに「覇王」の地位を確保したのである。


東アジア世界

 14世紀に入るとユーラシア全域に拡大したモンゴルの活動は停滞期に入り、それとともに中国の元は内部的な争いが激しくなり、江南を背景とした白蓮教の反乱が起きた。王朝の末期に宗教的な反乱が起きるのは中国ではしばしばあることであるが、それが江南から起きた漢民族復興運動という形をとったのは珍しいことで、中国南部の発展を物語っている。こうして、1368年、反乱軍から出自した朱元璋が明の建国を宣言する。

 鎌倉時代末期、北方において蝦夷反乱が起き、北條氏権力の没落において重大な役割を果たしたが、その背景には、元の衰亡のなかでアイヌ族の人々のサハリンからアムールにかけての動きが再び活発になったことがあった。実際に明建国の直後に、明がアイヌを押さえ込むための動きをしているのはその証拠である。

 南方では倭寇の本格化がはじまった。倭寇はすでに1220年代より確認できるが、彼らが朝鮮半島沿岸部を大規模に襲うようになるのは、1350年、右に述べた直義殺害事件のころのことである。九州では直義の側の動きが続き、内乱状況が存在したから、軍事的な雰囲気の中で九州の島嶼地帯の人々が海賊行為に走ったのである。

 そこには実際上、朝鮮・中国人々も参加していたが、南海にはそのような国境を越えた集団が形成されていたのである。ただ、広く見れば、このような動きをささえたのは、琉球列島で進んだ「日本国」とは別個の国家の形成の動きであった。つまり14世紀の初めには琉球には北山・中山・南山などと呼ばれる三人の強力な按司に率いられた権力が登場したと考えられている。北条氏は、奄美大島までは影響力を及ぼし、地頭職を広げたが、その勢力は琉球諸島までは及んでいない。宋・モンゴルと続いた南海との交流は、琉球に倭国とは異なる独自な文化をもたらしたのである。こうして、明の成立とともに琉球は南海交易のメッカとして急速な繁栄を遂げることになる。


社会構造の考え方

 日本列島の社会は14世紀には初期的な産業社会に到達していた。そこでは、交通や商業の発達、銭貨の社会的流通、座の広汎な活動などのなかで、庄園の経営それ自身が請負契約によって行われる趨勢となった。請負は従来から庄園のシステムにしみこんでいたが、家来や従者の人格関係に依拠していた部分も多かった。しかし、この時期、庄園の経営権自身が請負契約によって転々と移動することがふえたのである。北条氏が領地を家人に給付するのではなく、「料所」と号して「富有の輩」に経営を委託したというのが典型的な事例である。素性の不明な人間という意味で「甲乙人」という言葉が使われるが、市町は「甲乙人」が富裕となる場であったともいう。

 後醍醐は、全国の庄園公領を検注して「貫高」で評価し、その二〇分の一を(おそらく土倉が運営する)天皇直属の倉に収納しようとし、さらには貨幣を鋳造し、紙幣を発行しようとした。これは北条氏が実際にやっていたことの延長にある。後醍醐の建武政権に「悪党」といわれるような勢力との連携がいわれるのも同じことである。

 このような初期的な産業社会の様相が安定した農山村における地主を中心とした村落システムによって支えられるようになったことも、この時期の特徴である。村落が自治性をもって庄園を下から支える役割をしたのは昔から変わらないが、しかし、地主的な階層が計数能力をもって百姓請・地下請を行い、村有財産をもって代官と折衝し、「大人・老」などとして「惣村」の構成するというのは、このころからの特徴である。

 これとの関係で、『一遍聖絵』の福岡市の場面について簡単に説明をしておくと、向こう側には「絹布・米・山鳥・魚」などを売る店がならんでいる。これは地元産の物資であって、それらの物品が銭によって売買されている様子がわかる(右奥の店内の女、左側の男が銭束をもっている)。中段右側の掘立の左端にみえる赤い丸いものは、男が腰に下げる腰袋という革製の銭袋をうっているところである(詳しくは保立道久「腰袋と桃太郎」『物語の中世』講談社学術文庫)を参照)。実際の市庭はより広い面積をしめており、そのため河原などの無主地が利用されたが、近辺には町場ができており、その町と市の両方をあわせて「市町」といったのである。この時代の地域は、地主を中心とした自治的な農山村と富裕な「甲乙人」がいる市町から構成されるようになっていたのである。

参考文献
 佐藤進一『南北朝の内乱』(『日本の歴史』9、中央公論社)
 筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(講談社日本の歴史10).なお、この筧の著書は後醍醐が祖父亀山の胤であることを明示しており(359頁)、南北朝内乱論としては、崇徳が同じように祖父白河の子であることを明示した竹内理三の『武士の登場』(中央公論『日本の歴史』)とならぶ意味をもっている。

2013年11月27日 (水)

かぐや姫の犯した「罪と罰」とは何か

Kasugakaguya20131127 ユリイカに「死の女神がなぜ美しいかーー火山の女神かぐや姫」という文章を書いた。率直にいえば歴史家としてはかぐや姫のイメージについて違う意見がないかといえばうそになる。しかし、このアニメーションをぜひ多くの人にみてほしい。日本の歴史文化が、このような形でふりかえられるのは、ともかくもよいことだと思う。
 高畑監督自身も、このユリイカの座談会で趣旨を話しているが、私が「かぐや姫の犯した「罪と罰」とは何か」ということについて書いた部分を下記に引用しておく。


 高畑「かぐや姫の物語」の筋は、月に憂愁に沈む女がおり、彼女の姿に惹かれたかぐや姫は、結果的に月世界最大のタブーをおかし、その罪によって地上に落とされたというものである。このプロットは高畑監督の独創ではあるが、空想ではない。益田勝実が論じているように、月にいる憂愁の仙女のイメージの原型は古くから中国で語られている姮娥(ルビ:こうが)にある。彼女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(ルビ:げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、羿が月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。かぐや姫は、この姮娥の憂愁の姿にあこがれ、彼女に近寄りすぎたあまり、月世界にとって最大のタブーというべき?娥の記憶を呼び覚ましてしまう。そして、自身「まつとしきかば、いまかえりこむ」という歌の記憶にとらわれ、その罪をつぐなうために、つらい運命をあたえられたというわけである。
 興味深いのは、高畑アニメが、月の世界を「死の世界」とみて、その世界から地球をみるという視点をとったことであった。そして、その独創は、月からきた王女かぐや姫が、地上での試練に耐えきれなくなって、みずから「助けて! もう死んでしまいたい」と通信を発するというプロットにある。それが感動的なのは、死の世界から来た少女が「死んでしまいたい」と心のなかで叫ぶことによって「生」を発見するという逆説に、我々が動かされるからである。


 この「罪と罰」が明瞭に描かれていないことに不満の方もいるとは思う。とくに『竹取物語』をただのおとぎ話と感じていると「分からない」という感想になるのは自然かもしれない。
 けれども、文学あるいはアニメーションは謎解きではない。ナルニア国物語の『朝開き丸、東の海へ』には、魔法使いコリアキンに関係して、「星のおかす罪は、人にかかわりのないものだ」という断言がある。「かぐや姫の犯した罪」も、「人にかかわりのないものだ」と考えるのが正しいと思う。そのようなものとして実際には共感や理解の彼方にあるのが「かぐや姫の犯した罪」なのではないか。
 
 そもそも『竹取物語』は九世紀に書かれたものである。そしてその時代に書かれたものとしては驚くべきフェミニズム・ファンタジーである。世界に類例がない。
 『かぐや姫と王権神話』ではかぐや姫の結婚拒否を次のように説明した。


「翁、年なゝそぢにあまりぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、男は女にあふことをす。女は男に合ふことをす。その後なん門も広くなり侍る。いかでかさる事なくてはおはしまさん(私ももう七十歳。今日とも明日とも知れない命です。この世の人は男は女にあい、女は男にあうものです。そうしてこそ一族も広まるというものです。どうしてそういうことなしに生きていけましょう)」。翁は自分の年齢をもちだし、カグヤ姫に対して、家の繁栄のために男を聟にとれというのである。
 これに対するカグヤ姫の答えは「なんでふ、さることかしはべらん(どうしてそんなことをしましょうか)」というものであった。この言葉は短く、素っ気ないが、決定的なものである。ここで、カグヤ姫は、結婚と性の結合自身を拒否する、自分の心身をはっきりと自覚したのである。女性が「女性的なもの」についての通念を否定するという意味では、これはフェミニズムの前提である。もちろん、フェミニズムは女性という性を全面肯定することによって行動に踏み出すのであろうが、しかし、カグヤ姫が自分の「変化の物=聖なる存在」としての性格を自覚し、結婚を拒否するという文章の運びは、世俗の束縛からの自由を表現してあますところがない。

 次はナルニア国物語の『朝開き丸、東の海へ』の関係部分。
 「では、あなたは、空をとんでいた、とおっしゃるんですか?」とユースチスが、だしぬけに口をはさみました。
 「わしは、空の上、とおいとおいところにおった。」とその年よりの人は答えました。「わしは、ラマンドゥです。といってもあなた方は、おたがいに顔を見あわせて、この名前をきかなかったように見えるな。いやむりもない。わしが星であった時は、あなた方のどなたもこの世に生まれぬさきに、終わっており、星々はみな、変わってしまったからなあ。」
 「ひええ!」とエドマンドは、声をひそめて、「この人は、星のごいんきょさんだったのか。」
 「もう、星にはもどらないのですか?」とルーシィがたずねました。
 「わしは、地に休んでいる星なのですよ。むすめごよ。」とラマンドゥは答えました。「この前わしは、あなたが見てもわからぬくらいに、よぼよぼに老いぼれた時に、この島にはこばれてきた。いまは、そのころほど、老いぼれてはいない。朝ごとに一羽の鳥が、太陽の谷間から火の実をわしに運んでくれて、その実をひとつぶ食べるたびに、年がすこしずつ消えて若くなる。そしてわしが、きのう生まれた子どものように若がえった時に、わしはふたたび空にのぼり(ここは、地上の東のふちだからな)、ふたたび、大きな星のめぐりを歩むのだよ。」
 「ぼくたちの世界では、星は、もえてるガス体の大きなたまなんですよ。」とユースチス。
 「いや、若いかたよ。あなた方の世界でも、それは星の正体ではなく、成分にすぎない。それにこの世界では、あなたは、わしよりさきに、ひとりの星に出会っている。つまり、コリアキンには、会っただろうな。」
 「あのかたの、もと星だったのですか?」とルーシィ。
 「そうよ。まったく同じではないがな。」とラマンドゥ。「コリアキンが、のうなしたちをおさめる役についているのは、まったくの休みではないからな。あなた方は、それを、こらしめというかもしれぬ。あの星は、万事がうまくいっていたら、南方の冬の空に、まだ何千年もかがやいていられたはずだからな。」
 「あの方は、何をしたのですか?」とカスピアンがたずねました。
 「わが子よ。」とラマンドゥはいいました。「そのことは、人の子の知るべきものではない。星のおかす罪は、人にかかわりのないものだ。」


2013年11月22日 (金)

カグヤ姫と仙女姮娥

カグヤ姫と仙女姮娥
 あさってから御寺へ出張で、その用意にかからねければならないのだが、今日までかかって、やっと寺史についての論文をかきあげて送った。出張と直接に関係するわけではないのだが、御寺へうかがう前に仕上げておきたかった。原稿の期限は相当前、しかも内容的にいえば「芽の芽」はおそらく20年ほど前からの作業で、どちらの意味でも長いあいだの負債で、疲労困憊であった。論文の関係の本、メモをすべて片づけて、疲れてPCの前。

 16日にとんぼ返りして、また京都なので、しばらくブログの更新ができない。フィリピンの台風被害が心配である。レイテ島の被害ということであるが、大岡昇平の『レイテ戦記』のことを考える。

 少し、「かぐや姫の物語」についても書いておく。というよりも使用しなかった原稿の一部をのせておく。
 
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 紀元前2世紀に中国で書かれたといわれる『淮南子』には月にいる憂愁の仙女のイメージがある。それによると、姮娥(こうが)という仙女は中国の英雄で強弓の達人として知られた羿(げい)の妻であり、深く愛し合っていたが、結局、姮娥は月の女神・西王母から獲得した「不死の薬」を盗んで月に帰らざるをえなかったという。しかし、こうして月世界にもどった姮娥は夫と地上が忘れられず、月の都で永遠の憂愁の時を過ごしているというわけである。
 最近亡くなられた益田勝実さんによれば、『竹取物語』は、この中国の姮娥の物語の続きを「日本の風土の中で語るという文芸精神」によって書いたものだという(『文学』一九九〇年冬号)。つまり、かぐや姫は、この不死の薬をもう一度地上にもってきたのだが、結局、天上へ帰り、しかも「不死の薬」は富士山の上で焼き上げてパーになってしまった。こういう形で中国の神仙文学の続きを日本で語ったのが『竹取物語』であるというわけである。

 ようするに、『竹取物語』は、死の話しである。

 一〇世紀の物語に『大和物語』があるが、その一四七話に、一人の女が二人の男の激しい求婚をうけて、進退きわまり、入水して自死してし まったが、男たちもそれを追って川に飛び込んで水死してしまうという悲話がある。悲しんだ二人の男の親は、女の塚の側に塚をたてた が、片方の男の塚には、「くれ竹のよ長きを切りて狩衣・袴・烏帽子・帯とを入れて、弓・胡?・太 刀などを入れてぞうずみける」という処置がされたという。ここにいう「くれ竹」とは、「呉竹」、つまり、中国の黄河流域以南に広く分布するハチク(淡竹)のことで、大きいものは、直径一〇センチ、高さは二〇メートルにも及ぶ ものである。「よ(節)長き」とされていることから推測すると、節間は三〇センチ あるいは四〇センチにもなるというから、相当の長さのものであったのであろう。それに衣類を入れて、副葬したというわけである。これは考え方としては割竹形木棺と同じことである。
 かぐや姫は、こういう太い竹に入って降臨してくるのである。当時の人々の常識からすると、そこには「死」のイメージが色濃かったであろう。この点では『竹取物語』にも、翁の歌として「くれ竹の世々の竹取 野山にも さやは侘びしきふしをのみみし」という歌が記録されていることが大事だろう。これは『竹取物語』が、本来、歌物語であったことを示す証拠として重要なものであるが、そこに「くれ竹」がでてくるのは偶然ではない。「竹」というものに対する神秘的な感じ方を抜きには、『竹取物語』は鑑賞できない。

(最後の部分は、オリジナルな史料の解釈である。若手の歴史家のじゃまになってはならないので、そういうことをブログで書くのはさけているが、しかし、ジブリの『熱風』にすぐに乗るので載せます。しばらく前の割竹形木棺の話しとあわせて読んでください)。

 なお、下記が書いた論文の一節。


 そもそも室町国家が禅宗国家という外形をもつようになったこと自体も建武新政における禪律国家の構想の影響がある。周知のように尊氏と直義は、後醍醐が死去した一三三九年(暦応二=延元四)、その四十九日に嵯峨の亀山殿を禅院に改め、暦応寺(天龍寺)を建立して後醍醐の冥福を祈ることを発意し、その住持に夢窓礎石をすえた。一三八二年(永徳二)、義満が夢窓礎石を開山として相国寺を建立したことも、その延長線上にある。室町期国家の正統的なイデオロギーとして禅宗と儒学が位置づけられ、禅宗寺院が顕密寺院との関係でも、経済的・社会的にも重要な位置を占めるに至った過程において、建武新政における禪律国家の構想との連続性は否定できない。重要なのは、この過程で、第一に社会勢力としての宗教勢力の中枢が、天皇家=旧王の直接の統御をはなれて、基本的に幕府の側に回収されてしまったことであろう。しかし、第二にそれは日本の伝統的な国制、つまり奈良時代の聖武の決定した「仏教国家」の伝統が形態をかえつつも維持されるという結果をもたらした。小島毅は、この経過を外から見た場合には「韓国は明の登場に連動して、仏教国家から儒教の国家へと変わるのですが、日本はそうしなかった。(中略)明は日本のことを仏教国家だと考えているのです。それは東南アジアでは当たり前で、タイとかカンボジア、マラッカが、当時は仏教国です。たぶん、明の皇帝からみると、韓国は自分のところと同じ宗教である朱子学を宗派にしているが、日本はタイやカンボジアと同じ仏教国だというようにみえていた」ということであると概括している(『歴史を動かすーー東アジアのなかの日本史』)。


 「日本はタイやカンボジアと同じ仏教国だというようにみえていた」というのが、最近考えている列島ジャパネシア論に関係する。そもそも、仏教東漸の極点が東大寺とボルブドールであるというのと、これは(はるかに時代を超えるとはいえ)対応することなのかもしれないと思う。そして、考えることはまた大岡昇平の『レイテ戦記』にもどる。ヤポネシアからフィリピン、インドネシアをみる視点というのは、本当に、大事なことなのかもしれない。
 

2013年11月21日 (木)

ジブリの「かぐや姫の物語」の試写会

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 いま中央線のなか。東小金井のジブリで、「かぐや姫の物語」の試写会があって、10月31日、見る機会をいただける。
『かぐや姫と王権神話』で詳しく述べたように、かぐや姫伝説の故地は、大和国西部、いまでも「かぐや姫の里」といわれる広陵町を中心にした広瀬野・馬見丘陵の地域である。彼女のイメージは、そこにある広瀬神社の巫女、「物忌女」にある。『万葉集』の歌から想像できる彼女らの姿は、何重にもなった竹珠の御統(環飾、ネックレース)をかざった少女の姿である。それゆえに、彼女のイメージは、広瀬神社の祭神、女神ワカウカ姫の神話のなかに根付いているに違いない。月の女神としてのかぐや姫の原イメージは倭国神話のなかにすでに存在したはずなのである。
 そもそも『竹取物語』の時代に、奈良盆地からみる月で、もっとも印象深いのが、広瀬野から二上山にかかる月である。別にのべたように、このイメージが『日本書紀』『古事記』の神話に登場しないことが、日本神話論にとっての最大の謎なのであるが、時代を平安時代に下らせれば、ヤマトの月の女神が広瀬野にかかる月の女神であったことは明瞭である。それを示すのが右の図に掲げた『春日権現験記絵』の巻頭に登場する月から広瀬野の竹の上に降臨してきた女神の姿である。これはしかし、平安時代のかぐや姫である。より原始的なかぐや姫の畏怖すべき姿とは何かが問題である。
Kasugakaguya20131101


この図は、『春日権現験記絵』巻1の竹の上に降臨した女神。

 高畑監督には絵巻物についての面白い仕事があって昔読んだ。私も絵画史料論にとり組んだことのあるので、芸術と歴史ということを考えさせる。芸術と歴史、美術と歴史という前に、いまも昔も同じ人間が生きているのだということを感じるということである。その場合、昔の人の創造性を正面から認めることができなくてはならない。そうでなければ対等とはいえない。しかしなにしろ日本の歴史のなかには創造的な人間という感じの人々がいない。少ない。たとえば『今昔物語集』はよくできた物語集であるが、その作者を創造的とは、私は思わない。平安時代の人間というのは日本的俗物形成の最初の揺籃期という感じで好きになれないのである。私は平安時代宮廷社会について「都市貴族」範疇を使用することにしているが、都市貴族は一般に都市俗物である。石母田さんが『徒然草』を書いた吉田兼好を俗物であるといって口をきわめて罵っているのに、どうしても歴史家は共感してしまう。
 さて、専門が違うからそう感じるのだといわれればそれだけのことだが、そういうなかで、絵巻物を書いた人々には創造性を感じる。もっとも好きな絵巻物といえば、やはり『粉河寺縁起』であろうか。人々を見る目の暖かさが何ともいえない。そこには思想というものが動いていると思う。私は、音楽がわからないので駄目なのだが、音楽と美術には純粋な形で思想があらわれると思うのである。
 しかし、『竹取物語』の作者は、平安時代、唯一、正面から創造性を感じさせる人である。まさか道真本人ではないとは思うが、道真の周辺にいた人物であろう。少なくとも知人ではあろうというのが、私の想定である。『竹取物語』の作者は言葉の厳密な意味でフェミニストであろうと思うが、道真もフェミニストであろうと考えている。
  『かぐや姫と王権神話』(洋泉社歴史新書)を書くので、半年ほどはかぐや姫に密接して頭を動かしてきた。『かぐや姫と王権神話』ではおもわず「火山論」にとり組むことになり、その後に、三・一一が起きて地震の研究に進んだために、かぐや姫が頭のなかに棲みついている状況が長く続いてきた。このアニメの作者たちも、ほぼ同じ時期に同じ経験をしていると思うと、どういう映画かが楽しみである。