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カテゴリー「宗教」の62件の記事

2017年8月18日 (金)

『老子』政治に関わって天下の公共のために働くということ

善の徳はつつましやかに始まって無限の負担となる(『老子』五九章)

政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ。これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれる。人々が早くから服いてきてくれれば、その善の徳(いきおい)を重ねて積んでいくことができる。善の徳(いきおい)を重ねて積んでいけば、克(たえ)られないことはなくなる。克(たえ)られないことがなくなれば、善の徳は極限がなくなる。極限がなくなるまで克(たえ)ていけば、初めて国を守ることができるのだ。国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ。これを四方に根(旁根)を深くはり、主根(柢)を固くするという。そうすれば、長生きをして見るべきものを見ることができる。

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以(1)早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無夫克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有国。有国之母、可以長久。
是謂深根固柢。長生久視之道。
(1)底本「謂」。帛書により改む。

人を治(おさ)め天に事(つか)うるは、嗇(しよく)に若(し)くは莫(な)し。夫(そ)れ唯(ただ)嗇(しよく)なり。是(ここ)を以(もつ)て早く服(ふく)す。早く服する、之(これ)を重(かさ)ねて徳を積むと謂(い)う。重ねて徳を積めば、則(すなわ)ち克(たえ)ざる無し。克(たえ)ざる無ければ、則ちその極を知る莫(な)し。その極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国の母を有てば以て長久なるべし。是(こ)れを根を深くし柢を固くすという。長生久視(ちようせいきゆうし)の道なり。

解説
 「人を治(おさ)め天に事(つか)うる」を「政治に関わって天下の公共のために働く」と訳した。「人を治(おさ)め」とは士大夫としての責任をいうのであろうが、一般的にいえば政治ということであろう。また「天に事(つか)うる」について、これまでの注釈は天帝・天神の祭祀をするという意味が、老子の天はそのようなものではない。天下の公共という意味であろう。

 その条件は、つつましやかな生活(嗇)を送ることだというのは、現在でもあてはまるような原則であろう。老子は、これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれるという(服には「むつむ」「満足させる」「得る」「つける」などの意味がある)。そしてそれによって天下の公共に奉仕するという善の意思の徳(いきおい)を蓄積することができるという。それがあれば何にでも克(たえ)らることができるが、義務は無限に広がっていくというのが老子のいうことである。この「克」は、普通、「何にでも勝つことができる」と翻訳されるが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、老子に「克=勝つ」は相応しくない。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いで、「己をちぢむ」と訳すべきであることが確定している(小島毅)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う。そもそもそれでは本章の意味は通らないのである。

 本章は、こうして、天下の公共に関わることは、進めば進むほど、堪えるべきことと、なすべきことは無限に増えてくることだと述べる。そしてそれを極限まで辿ることが国を守ることだと論ずるのである。

 以上、従来の解釈とは大きく異なっているが、このような読みの根拠となったのは、「徳」という言葉がもっている「いきおい、はたらき」という語義である。本章は、政治との関わりがもたらす無限軌道のようなものを、「徳」を積み重ねるというのはどういうことかを中心にして論じているのだろ思う。そういう観点から考えると、本章の実際の結論となっている「国の母を有てば以て長久なるべし」という言葉は「国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ」と訳せるであろう。老子にとって「徳」という言葉は、その人々を養う徳(はたらき)にそって、どうしても母性的・女性的なニュアンスを含むものになるらしい。これも、本章を「徳」の語義を中心に読む理由である。

 冒頭の「政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ」というのは、日本の政治家、とくに現在、そのトップにいる政治家にいいたいことだ。

 『老子』のいう「天=公共」というのは示唆深い。

 若い人たちが作った「未来のための公共」という言葉に通ずるように思う。

2017年8月12日 (土)

『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

 よく知られているように、毛沢東は自己を秦の始皇帝に比較した。その馬鹿さ加減は、彼が中国史に対して見識と教養をもたず、学術的精神がなく、結局、野心とレトリックとと独裁の政治家であったことの証明である。一種の王朝を作るというのは、どのような時代にも人間に宿る妄想であって、毛沢東は現代的覇王となろうとしたのである。このような怪物を日本の中国侵略が作り出したのである。戦争が作り出したのである。

 トランプをみても安倍氏の友達主義、近親者主義、「自分は例外、自分は偉い」という自己意識をみても、政治権力の「王朝化の妄想」というのは、つねに発生する。北朝鮮をみても、「王朝」というのはけっして過去の問題ではないのだと思う。、

 中国にもどれば、そして共産党を称する中国の支配政党は、実際にはスターリニズムと毛沢東王朝主義を基本的に精算していないといわざるを得ないが、彼らは、自己を法家であるとか、儒家の伝統をうけるだとか、ときどき馬鹿なことをいいだす。しかし、彼らは決して、中国の伝統的な反権威主義と「共同主義」・ユトーピアの思想を代表する『老子』に自己を近づけようとはしない。


 先日の日文研の研究会で教わったハーバート随一の人気講義であるというのマイケル・ピュエットの中国哲学講義『ハーバートの人生が変わる東洋哲学』を読んだ。たいへん面白い。この講義は、アメリカ社会論や世界の現状についての見方も比較的妥当なものだ。アメリカと中国を考えて生きて行かざるをえない日本ということを考えると、私たちがどこまで戻り、どこら辺から考えたらよいかを示唆してくれる。
 『老子』論も面白かった。老子の言う「道」は諸物の関連そのものであるという。老子がいわゆる弁証法(世界の関連性が全面的であり、その関連は目に見えないが実在する)論者であることを正しく指摘している。「道」は関連だという。さらに『老子』を隠遁的な思想家というのは間違いで、むしろ状況や世界を変える方法を説いたという。これも正しいと思う。
 
 私jは、社会理論にとって倫理学、非倫理的な存在たる人間をどうするかということは根本的に重要と考えてきた。弱い人間という自己意識がつきまとい現実に弱い人間である私のような存在、社会・歴史理論に現実には耐ええないような存在にとっての根本問題と考えてきた。教条のようでないそれをどう考えるのか。これを考える上で、中国の歴史と思想を検討することが大きな意味をもつということを始めて知った。そういう意味でも、マイケル・ピュエットの議論は参考になる。

 しかし、問題は、老子には一種の社会科学があるということで、これをマイケル・ピュエットは考慮していない。

 以下に注釈した『老子』三七章は、『老子』の社会論をもっともよく示すものの一つであろうと思う。


王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

世界を貫通している恒遠なる「道」は人が名前をつけて管理できるようなものではない。もし諸国の王がこの道理を守って勝手なことをしなければ、万物は自(おの)ずから豊かになるだろう。しかし豊かさの中で王が不当な欲をむさぼることがある。その時は、私はそれを鎮めて止めさせるために、無名の樸(あらき)(生の樹皮がついた木)を示す。自然そのものの樸をみればまさに足るを知ることができる。そして足るを知って静謐さが戻れば、天下はまた自ずから定まっていく。

道恒無名*。侯王若能守、万物將自為(下に心)**。為(下に心)**而欲作、吾將鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦將知足***。知足***以静、天下將自定。

*底本「為」、帛書により改む。**底本「化」。帛書により改む。為(下に心)は為に同じ。***底本「無欲」。楚簡によった。

道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自(おの)ずから為(な)らんとす。為(な)して欲作(おこ)らば、吾れ将(まさ)に之(これ)を鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす。無名の樸、夫れ亦(ま)た将(まさ)に足るを知らん。足るを知りて以て静かならば、天下は将(まさ)に自ずから定まらんとす。

解説
 この章は『老子』が王権との実際上の関わりをどうするかについて、その考え方を明瞭に述べた章である。老子は王権というものを本質的に疑っていたが、王権が「道」の通理を認めることは望ましいと考えていた(参照、第三二章)。しかし、その上で、王権が不当な欲をむさぼった場合は、それを鎮めなければならない。そのために「吾」は王に無名の樸(生の樹皮がついた木)を示すだろう、というのが老子のいうことである。『老子』で「吾」というのは老子自身のことをいうのは明らかで、ここはそう解釈するほかないところである。

 問題は王に「無名の樸」を示すとは、どういうことかであるが、確実なのは、本章の直前、第三二章に、樸(あらき)は誰の臣下でもない自由な存在だと述べられていることである。しかも、本章の冒頭の「道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自のずから」の部分も第三二章とまったく同文であって、これは本章と第三二章が「侯王」の問題、王権論をテーマとしていることを示している。これから考えると、本章で「吾」が樸(あらき)を示すというのは、すべての「名」と「形」を捨ててしまう。つまり王の臣下の地位を降りるという意思表明であろうと思う。老子の口調からすると退任の意思は明瞭ということであろう。

 このような解釈は、これまで存在しないが、「①侯王、もし能(よ)くこれを守らば、②万物は将(まさ)に自のずから為(な)らんとす。③為して④欲作(おこ)らば、吾れ将に⑤これを鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす」という場合、本章のテーマが王権論にあるとすれば、上記の訳文に示したように、(1)の主語は「侯王」であり、②の主語は「万物」であり、③の主語も万物、そして④の主語は「侯王」であり、それ故に、⑤の「之(これ)」は「侯王の欲」と考えるほかないと思う。実際上、これまでの解釈は①~⑤が何を主語として何を意味しているかでまったく一致していない。それ故に私案を提出する意味は十分にあると思う。

 このように、王に対して私はあなたの臣下ではない自由な存在だと述べ、さらに無名の樸は足るを知るためにあるのであって、そうなれば静謐さが戻るというのは「あなたは天下の静謐にとっての障害である」というに等しい。そして、これと前項の第三九章の最終句、つまり、王に対する「名誉ばかり求めていると、名誉は消えるぞ。そもそも美しい琭玉などというものは欲してもしょうがない。本をいえば、それは落ちていた石にすぎない」という警告は一体のものである。実際上、これは、状況によっては王権への公然とした異議申し立てが必要であるという姿勢を示すものであったというほかない。

 そもそも老子の活動期をBC三〇〇年頃と仮定すると、秦の始皇帝が即位したのは、その約五〇年後、同じ年に漢帝国の創始者、高祖・劉邦が江蘇省の庶民の家に生まれている。歴史の流れは急であって、始皇帝はBC二二一年に最後に残った斉を滅ぼして秦帝国の皇帝位につくも、一一年後には死去してしまう。その翌年、BC二〇九年、中国史上、最初の民衆反乱といわれる陳勝・呉広の反乱が発生して秦帝国はもろくも崩壊に向かった。注目すべきなのは、陳勝は若いときから日雇い人として他人の土地を耕していたという出身であったことである。そして彼は、兵役の途上、反乱を起こし「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王も将軍も生まれによって決まっている訳ではない)と呼号した。そして、この過程で成り上がって漢帝国を建設した劉邦も庶民出身の遊侠人であったのである。劉邦の軍事勢力の中心にいたのは劉邦と同郷の庶民たちであって、劉邦の死後に相次いで丞相となった蕭何(しようか)も曾参(そうさん)も胥吏(しより)という民衆から徴用された下級官吏であり(蕭何(しようか)は県の主吏掾、曾参(そうさん)は郷の獄吏)、将軍として名を売った樊噲(はんかい)は犬殺しの身分であった。

 考えてみれば、こういう庶民出身の人々が反乱の中で巨大な帝国の国家中枢を占拠するというのは、世界史的にも希有な事態である。これは、もちろん戦国時代から秦漢帝国の時代にかけての政治史の激動と戦争の中で起きたことではあるが、しかし、他面で、民衆の中に反権威主義的な思想が相当に深く蓄積されていたことを想定せざるをえない。そしてそのような思想の材料を提供したのは『老子』以外には考えられないのではないだろうか。本章や第三九章が人々の抵抗や反乱の論理を提供した可能性は高いのではないだろうか。

 ともあれ、漢帝国の初期において『老子』の思想が帝国中枢でもてはやされていたのは歴史的事実である。象徴的なのは、『史記』が右の庶民丞相の曾参(そうさん)の政治は老子の教えによっていたとするなかで「治道は清静なれば民自ずから定まる」という言葉を引いていることである。これはまさに『老子』本章の言葉である。また曽参と同じく建国の功臣で丞相をつとめた陳平が「老子の術を好む」といわれ、武帝に九卿の一人であった問う鄧公が「老子の言を修む」といわれているなど、その例は枚挙に暇がない(参照【池田注釈】四五九頁)。また本書でも何度か参照してきた『淮南子』は、前漢の武帝の頃に淮南王の劉安(前一七九~一二二)が学者を集めて編纂させたものであるが、そこには『老子』の思想が大きく取り入れられていた。これは『老子』が民衆反乱をふくむ政治的な行動の指針となりえたというだけでなく国家思想に深く入り込んでいたことを示している。秦の始皇帝の最初の宰相、呂不韋の編纂した『呂氏春秋』にも『老子』の影響がきわめて強いこと、『史記』の著者、司馬遷とその父の司馬談が『老子』の思想を血肉化していたことなどもよく知られている。これは『老子』が、中国にはじめて登場した本格的な思想と哲学の体系を代表していた以上、ある意味で当然のことであったろう。

 よく知られているように、中国には、周王朝の時代から、王権は「天帝の命」をうけて位につくというの国家思想があった。『孟子』には伝説的な聖帝、堯・舜・禹の間での「禅譲」という平和的な方式と、湯・武が行った「放伐」という暴力的な方式の二つが述べられているのはよく知られている。これに対して、老子には儒学が前提としていた「天帝」「天命」という観念はなく、その国家思想は、道理に反して不当な欲望にふける王を元の木阿弥にして退場させるというより単純なものであったが、そこには相当の哲学的あるいは社会科学的な論理があったのである。

 しかし、所詮、漢の帝国秩序の強化とともに、このような老子の思想は周縁に追いやられる運命にあった。そのような動向の中で、儒学は、はじめて漢帝国の国教となり国家思想の中枢の位置を占めることができたのである。私は孔子・孟子の儒学の思想的意味を軽視しようとは思わないが、しかし、それまでの儒学が哲学思想としては何といっても深さと体系性を欠いていたことは否定できないと思う。儒学は『老子』の思想と対決する中で始めて国家思想として自己を作りかえることに成功したのだと思う。その中で、天命をうけた王権が「徳政」をほどこすことによって持続し、そうでなければ「天命」が革まり、王家が交代し、その氏姓が易(か)わるという、いわゆる易姓革命の思想が中華帝国の思想として体系化されていったのである。

2017年8月10日 (木)

『老子』。天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

 危機に直面したとき、行動を決断して死をまねくか。自制を決断して活き抜く結果となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応(こた)え、求めないもののところに来て、泰然として善なるものに配慮するだけである。通理(つうり)の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。
天之道、不争而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疎而不漏*。
*底本「失」。日本では『後漢書』により漏を慣用する。

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利あり、或いは害なるも、天の悪とする所は、孰(たれ)かその故を知らん。天の道は、争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ、召(まね)かざるに自(おのずか)ら来り、坦然(たんぜん)として善なるに謀(はか)らう。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎にして漏らさず。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという結果を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。

 たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判官とする場合であって、その結果、「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」などと全体が訳されることになる(武内一九二七)。他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、裁判官、「殺」「活」の状態となる人間、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。

 しかし、そもそも、こういう思想は法家にこそふさわしい。老子は法家にはある意味で儒家に対するよりも批判的であって、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうとは考えられない。

 また上記では「争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは、「天が争う」という発想がおかしい。ここは私が読み下した通りに、「天道というものは争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応える」と訳したい。

 最大の問題、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈である。普通は、この「天網」の「網」の字を紀綱という意味と解釈する。つまり「天網」とは天の法であり、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないというのである。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(【福永注釈】)のことだということになる。そして、老子が法家と違うのは、老子が威圧的な刑法の運用に賛成せず、悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであると主張するところにあるというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 私は、このような解釈にすべて反対である。長谷川如是閑のいうことも「殺」「活」の部分だけは明瞭だが、ほかは曖昧である。むしろ、老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。問題の「天網恢恢、疏にして失わず」のところは「通理の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、決して、実意ある決断が忘失されることはない」と理解するのである。

 それが、そもそも「道」というものの理解、そして老子の世界観・宇宙観からでていることが重要なところである。つまり、私は、「天網」とは、前々項の一四章がいう透明な縄が集まった「微・希・夷」の目にみえない「道」の広がりのことをいうのではないかと思う。それは一四章では自然の「道」、自然法則のことであったが、この場合は、社会的な諸関係のすべてを貫いている通理であるということになる。この形のない、「無」の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。そういうように考えて、この「天網恢恢」を法家の思想から完全に切り離してしまいたい。

 もし、そう理解できれば、本章は、老子が、「道」というものを自然的な法則であると同時に社会的な法則、あるいは社会的な法則という言葉があまりに社会を固定的に捉えてしまう感じがするということならば、社会的な諸関係を貫ぬく通理としても考えていたことを示す重要な章ということになる。そもそも社会的な関連それ自体というものは目に見えないものであるから、それを透明な網のようなものだというのは「道」についての、もっともよい比喩であると思う。私たちが象にのって歩む自由の道について、見ることも聞くこともできず、味もしないといっているような、人間の「道」、社会の「道」についての表現も(三五章)、この章をベースにして理解できるのである。

 こういうように解釈をしていると、社会的電子情報システムというものは、『老子』のいう「天網」の実態をなすものであるように思う。「電網」である。
 ネットワークが意識をもつのではない。ネットワークは多様で個々人の身体にしか宿らない意識が直接に相互関連する場となっており、それを脈動させるのは多数の人間の意識そのものである。
 これは『老子』のいう「道」の天網そのものではないだろうか。『老子』の夢かもしれない。

2017年8月 8日 (火)

『老子』「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だ(第三八章)。


 『老子』の三八章。「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だという題をつけたが、東アジアの言葉の世界では、つねに顧みられるべき章であろうと思う。老子の怒りは、今にも通ずる実質をもっている。

 「道」から発した善(よ)い「徳」は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)があり、そうでない「徳」は徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がない。善(よ)い「徳」は無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが「仁」というものは為(な)したようでも実際には何も為(し)ていない。また「義」というものは言葉だけで、やることはやったんだと居直るための口実になっている。さらに善いという「礼」になると、働きかけて相手が打算通りに応じないと腕まくりをして詰めよっていく。要するに、「道」を失った世界に「徳」が残り、「徳」を失った世界に「仁」が生まれ、「仁」が消えると「義」がつっぱり、「義」もなくなると「礼」がしゃしゃり出るという訳だ。この最後の「礼」がもっとも問題であって、まっとうな「信」がなくなって、そこから乱離が始まっていき、一方的な打算にもとづいてあだ華のような道理を説く。これほど人間を愚劣にすることはない。これらをふまえて、鍛えられた大人は部厚く構えて軽薄には動かず、実際を大事にして見かけの華々しさは無視する。その取捨選択に筋を通すのだ。

上徳、不徳是以有徳。下徳、不失徳是以無徳。上徳、無為而無以為*。
上仁、為之而無以為。上義、為之而有以為。上礼、為之而莫之應、則攘臂而扔之。
故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後礼。
夫礼者、忠信之薄而乱之首。前識者、道之華而愚之始。
是以大丈夫、処其厚不居其薄、処其実不居其華。故去彼取此。
*底本は、ここに「下徳、為之而有以為」とある。帛書及び『韓非子』(解老篇)にはなく、それに従った。

上徳は、徳ならずして是(ここ)を以て徳あり。下徳は、徳を失わずして是を以て徳なし。上徳は、無為にし而(て)、以て為すこと無し。下徳は、之(これ)を為し而(て)、以て為すありとす。上仁は、之を為し而(て)、以て為すことなし。上義は之を為し而(て)、以て為すありとす。上礼は之を為し而(て)、之に応ずる莫(な)くんば、則(すなわ)ち臂(ひじ)を攘げ而(て)、之に扔(むか)う。故に道を失い而(て)、後に徳あり、徳を失い而(て)、後に仁あり、仁を失い而(て)、後に義あり、義を失い而(て)、後に礼あり。夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにし而(て)、乱の首(はじめ)なり。前識なる者は、道の華(はな)にし而(て)、愚の始めなり。是を以て大丈夫は、その厚きに処(お)りて、その薄きに居らず、其の実(じつ)に処りて其の華に居らず。故に彼れを去(す)てて此(これ)を取る。

解説 
 本章は郭店楚簡にはふくまれていないが、帛書では、『老子』は本章から始まっていた。帛書老子は「德」と「道」という二つの篇名をもって編纂されており、現行本と相違して「徳篇」が先にきているのである。それ故に帛書老子のトップは、この章になっているのである。
 その事情はよくわからないが、郭店楚簡は帛書以降のような五千字の『老子』が出来上がっていく途中の経過を示しているという意見をとると(【池田注釈】)、本章は一種の総論のようにして追加されたものかも知れない。目立つのは「仁・義・礼」という儒学の徳目に対する、『老子』には珍しいほどの激しい論難であって、ほとんど罵倒に近い。
 それだけに『老子』には珍しく分かりやすい話であるが、順にみていくと、「上徳」という言葉は、ほかに第四一章にも「上徳は谷の若し」とみえて、「道」にみちびかれた「徳」という意味である。この上徳は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)がある卓越した徳であり、無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが、「下徳」になると徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がなく、その中から「仁」というものが生まれ、これは形だけやったようでも何もやっていない。さらに「義」というものになると、やることはやったんだと言葉に逃げるだけになる。最悪なのは「礼」というもので、これは実際には相手に自分に都合のよい期待をかけて、相手がそれに応じないと威嚇するというもので、手前勝手な打算が上品そうな顔をしたものにすぎないという。
 こういうことでは世も末だというのが老子の慨嘆であって、「道」→「徳」→「仁」→「義」→「礼」と人間が形だけを気にするようになってきたのは許しがたいという訳である。これはもちろん、「仁・義・礼」を強調する儒学に対する批判である。しかし、このような怒りにも似た感情は単に儒学に対する批判であったとは考えられない。むしろ実際にはすべての徳目を形骸化してしまう社会の風潮に対する慨嘆から発しているのではないだろうか。つまり、これは戦国時代ににおける国家の文明化の中で蕩々と進行していた人間関係の形骸化が「仁・義・礼」などという美名によって隠されることへの批判であり、また国家の官僚機構のなかで強くなってくる形式的な倫理への批判であったというのが至当であろう。
 老子は「仁・義・礼」の徳目自体を否定しているのではないだろう。老子は、上記のような蕩々と進む人間関係と倫理の形骸化に対して孔子から始まった「士大夫」の知識人世界が十分な批判の論理をもたず、それに流されることへの警鐘を発したのだと考えたい。

2017年7月26日 (水)

『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

 本業の関係で、陰陽道の知識をえなければならず、ともかく易経の解説書を読み、それによって易経を拾い読みしてみた。「形而上学」という言葉の典拠が易経にあることは知っていたが、それを実際に読んでみて、日本の学術世界が東アジアの学術用語との連携をうしなっていることの問題を自覚した。

 また藤田省三氏の竹内光浩など編『語る藤田省三』(岩波現代文庫)の徂徠を読んで、たいへんに面白かった。そこに「器」論があるので、それと引っかけて、下記を書いてみた。藤田が「我らが同時代人、徂徠」という理由がよくわかる。
 
 また例によって労働論、労働の二重性論にふれる議論となった。

 また世阿弥がほぼ確実に『老子』を読んでいるだろうということも勉強した。
 
 お読みいただければ幸いです。

 『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

車の三十もある輻(や)(スポーク)が一つの轂(こしき)(ドラム)を共にするが、内側の空無によって車の用(はたら)きが支えられている。粘土をこねて陶器をつくるが、内側の空無にこそ器の用(はたら)きがある。戸と窓をあけて室を作るが、内側の空無にこそ室の用(はたら)きがある。有用物が利便なのは、その物のなかの無用にみえる部分の用(はたら)きによっているのである。

三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以為器。當其無有器之用。鑿牖以為室。當其無有室之用。故有之以為利、無之以為用。

三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり。埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無なるに当たって、室の用あり。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

解説
 冒頭の「三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり」というのは、いわゆる「無用の用」、つまり物の有用さは、実はそのもののもつ「無・無用性」によって支えられているということの巧妙な説明としてよく知られている。

 ただ、解説は二番目の「埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり」からする必要がある。つまり、老子のいう「器」というのは、有用な形をもつものすべてを表現する言葉である。経済学的に言えば、物体は、人間にとってほとんどの場合、何らかの有用性(効用)をもつから、この老子の用語法でいけば、すべての具体的な形をもった物は「器」として定義されることになる。

 老子は、この「器」の有用性を「器の用(はたら)き」(「車の用(はたら)き」「室の用(はたら)き」)と表現する。そして老子は「善」を物事の有用な本性をよく発揮させることとしていたから、この「器の用(はたら)き」の良さこそが「善」であるということになる。老子の「善」の定義の基礎には「器」→「用(はたら)き」という考え方があったことはとくに注意しておきたいことである(藤田一九一頁)。そもそも日本語の「はたらく」の元の形は「徴(はた)る」または「剥る」(「強く取り立てる」「削り取る」)であるという(『和訓栞』『字訓』)。「はたらく」とは強い目的意識の下に物や人間から何かを絞り出すことであって、それはドイツ語のアウスボイトング(Ausbeutung)が搾取という意味をもつと同時に自然を利用する、開発するという意味をもつのと同じことであろう。英語でいえばただの労役labourとは区別された目的意識を明瞭にもった仕事workが「はたらく」ということになる。

 また「器」という言葉は、器量・器用などという言葉が示すように、人間の技能・性格なども意味する言葉になった。荻生徂徠は「『器』とは道具だから特定のものに役に立つものだ。特徴のあるものだ。人間みな得手不得手がある。その得手不得手のない奴はぼんくらでどうにもならん。人がある事柄に役立つことを『器』という。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ」と述べている。

 この頃は「器」という言葉を使うこと自体が少なくなってしまったが、これは実は老子から始まったものなのである。それが中国的な思考方法に深く根付いたのは、紀元前二五〇年前後に編纂された『易経』繋辞伝が「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」と老子の「器」という用語を受容したときにさかのぼるといってよい。『易経』繋辞伝は儒家の編纂したものであるが、そこで形而上(形がない超越的な世界)、形而下(形のある世界)という用語を決めたときに「形而下」の世界は「器」の世界とされたのである(なお、この繋辞伝が、日本でメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となったのだから、そこからすると形而上学という語の淵源は老子にあったことになる)。

 はるかくだって日本の足利時代の能の大成者、世阿弥は「有は見、無は器なり。有を現すものは無なり」(『遊楽習道風見』)と述べている。つまり、有は目の前に見えているが、無は器の本質である。有を有として現す力をもつのは無なのであるということであるが、これは『老子』の本章によるものである。ここからみて、世阿弥は、ほぼ確実に『老子』を読んでいたであろう(石田博一九八四)。日本の芸能において「間」「無言」を大事にする伝統があることはよく知られているが、それが老子の言葉によって表現されていることにもっと注意すべきだろう。
 なお、蜂屋は『老子』には意外なことに観念としての「無」という言葉はほとんど出てこない(蜂屋「中国的思考一八二頁)。もちろん、ただの否定詞として否定表現のために使われる「無」はたくさん出てくるが、本章のような哲学用語らしい用例は第四〇章をのぞいてほとんどなく、その意味でも本章はきわめて重要であると述べている。

2017年7月18日 (火)

『老子』上善は水の若(ごと)し(第八章)

上善は水の若(ごと)し(第八章)

 上品な善というものは水のようなものである。水はすべてを潤して争わない。水は人の利用しない沼沢地に流れ込む。こういう水の性格はきわめて道に近い。それはともかく、住み方の善は地べたに近く棲むことにあり、心の善は奥が深く低いことにあり、友であることの善は思いやり(仁)にあり、言葉の善は言を守る信(まこと)にあり、正しいことの善は自分が治まっていることにあり、事業の善はただ己(おのれ)の能事(できること)をやることにあり、行動の善はただ時を外さないことにある。そもそも争わないというのは人に責任をもっていかないということだ。

上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信(まこと)にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し。

解説
 この「上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る」という章句は人生訓を説いた老子の言葉の中でももっとも有名なものであろう。第七八章には「天下に水より柔弱なるは莫(な)し」とあって、『老子』にとって「水」は柔弱なもの、つまり女性的な「徳(はたらき)」の比喩として使われている。

 人生にとって、この「水」のような争わない「柔弱さ」、「女性的な徳(はたらき)」、そして「水」のような自由が大事だというのが、老子のいいたいことであろうと思う。その意味では、本章は、悠然とした人生の自由を説いた「大きな象に乗って天下を往く」という本節冒頭で掲げた第三五章に対応するものである。ただ、「大象」=「大道」は「道」の比喩であって、どちらかといえば男性的な「道」と自由を説いているのに対して、この「上善、如し」は女性的な「徳(はたらき)」ということになる。そのような意味をふくめてこれを人生訓の最後として掲げることとした。

 本章の主題は「善」はこの「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」にこそあるということにある。それが物体としての「水」のあり方にそくして語られていることが、この章句を味わい深いものとしている。「居・心・与・言・正・事・動」などの人生の生き方に関わる事柄では「善」は水のもっているような自由と「徳(はたらき)」こそ大事であるというのである。つまり、「居=住み方」の善は地べたに近く棲むことにあるが、それは水が低いところに流れるのと同じであり、「心」の善は奥が深いことにあるが、それは水が深い淵を作るのと同じである。また「友(与)」であることの善は水のように柔弱な思いやり(「仁」)にあり、「言(言葉)」の善は水のように純粋透明な信(まこと)にある。「信(まこと)」とは言語の透明さと誠実を意味するというのである。さらに「正しいこと」の善は自分の内面が明鏡止水(鏡のように静かな水面)のように治まっていることにあるというのである。

 このような「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」の評価が、さらに一種の行動原則にも及んでいることが重要であろう。まず「事」の善、つまり大小の事業における「善」はただ能事(できること)をやるだけというのは、諺でいう「能事畢矣(能事(のうじ)畢(おわ)れり)」、つまり「なすべきことをなし、後は運に任せる」ということである。この諺の典拠は、普通、『易経』(繋辞上)によるというが、言葉としてはそうであっても、本来は『老子』に由来するものであった可能性もあると思う。自分の分担は淡々とこなし、結果は静かに待つという柔軟な受動性ということである。そして、「動(行動)」の善はただ自分の時を外さないことにあるというも、冷静であると同時に水のように即座に反応するという受動のイメージだろうと思う。

 これらの「居ー地」「心ー淵」「与ー仁」「言ー信」「正ー治」「事ー能」「動ー時」のすべてについて、「水」のイメージの内観をもって事にあたれというのが『老子』の人生訓ということになる。もちろん、ここであげられている徳目は『論語』『孟子』などにも出てくるものが多いが、しかし、当時の人々にとっては、本章は、儒家の言説を体系的に組み替える衝撃力をもっていたのではないかと思う。それらの徳目が「水」の受動的で柔弱さな徳(はたらき)と一括して捉えられ、「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」とまとめられることによって、全体のイメージがまったく異なってくるのである(なお「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」は、普通、「争わないから尤(とが)められることもない」と訳されるが、ここは、文脈からいって「争わないとは人に責任をもっていかないことだ」と訳したい)。

 なお、本章で面白いのは、冒頭で「水」の性格について述べた後に、「故に道に幾(ちか)し」とされるところだろう。これは「水と同じように道も無為自然だ」というように抽象的に理解されるが、しかし、例によって、まずはもっと即物的に理解されなければならないだろう。つまり、道路の場所としての性格が水辺の土地や水路と似ているといっているのである。たとえば、日本には「水に流す」という言葉があるが、水路・河原はそもそも汚れ物を排出しておく場所であった。そのため、たとえば平安時代によると、そういう場所で汚物をみてそのまま内裏に参上したり、神事に従ったりしても、「穢れ」のタブーにふれたことにはならないという慣習があった。そして実は道路の「穢れ」も、同じくタブーのはならなかったのである。

 これは河原・水路と道路は社会のなかの開放空間という点で共通性をもっているということだと理解されている(山本幸司一九九二)。つまり道が四通八達するのにそって、川や水路も四通八達していく。道と川・水路の開放空間が自然を区分すると同時にしていき、社会のインフラストラクチャとなっていくのである。日本と中国では「浄穢」観念のあり方は相違しているが、水路・河原と道の性格は共通していたに相違ない。「故に道に幾(ちか)し」というのは、まずはそういう具体的なニュアンスであったに相違ない。

 そして、道と川をくらべれば、老子の好むところは川にあったに違いない。それに対して、これまでの解釈には「故に道に幾(ちか)し」を「水は道に近いほどの価値をもっているのだ」というニュアンスがどうしてもつきまとっているように思う。しかし、川の方が自然と大地に近く、より自由で、より謙虚なものであって、老子にとっては、「道」(男性的な道と理法の世界)よりも、「水の徳(はたらき)」(女性的な受動の徳)の方が本質的に「善」なるものであったことは疑いをいれないと思う。

2017年7月12日 (水)

上善は水の若(ごと)し(『老子』第八章)

 上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し。


 上品な善というものは水のようなものである。水はすべてを潤して争わない。水は人の利用しない沼沢地に流れ込む。しかし、これは自然の理法であり、人間の歩むべき道でもある。住み方の善は、地べたに近く棲むことにあり、心の善は奥が深く低いことにあり、交友することの善は自分が仁であることにあり、言葉の善は自分の言を守る信にあり、正しいことの善は自分が治まっていることにあり、事業の善はただ自分の能を尽くすことにあり、行動の善はただ自分の時を外さないことにある。そもそも争わないというのは人に責任をもっていかないということだ。


上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

 読み下しの仕方を通常とは変えてみた。こちらの方が意味がとりやすいと思う。

2017年6月24日 (土)

『老子』六三章。こういうものに私はなりたい。雨にも負けず

 昨日やった『老子』の六三章である。
 
 私はフランスの東洋学をまったく知らないが、 M. カルタンマルクの『老子と道教』(人文書院)がいい。分かりやすく、老子から道教への接続の具合がいい。ヨーロッパ神秘主義の論理で、老子と道教を読むからであろう。さすがにアンリ・マスペロの遺稿をまとめたという学者だけのことはある。

人文系の学問にとって第二次世界大戦が忘れられないのは、要するに先輩が戦争によって殺されて研究史の空白ができたからだと思う。フランスでマルク・ブロックとアンリ・マスペロがナチスに殺されなかったら、研究状況はまったく違ったろう。日本でも歴史家は沢山死んだ。人文科学は人間のなかに蓄積されるほかないから、衝撃が大きいのだと思う。
 
 マスペロの『道教』の翻訳を川勝義雄氏がしているのに気づいた。私は、谷川道雄・川勝義雄で中国史の勉強をしてきたのに、いままで道教を意識していなかったことが、ここに現れている。

 道教の問題に興味を持ち始めたのは、浙江大学の王勇先生に、「日本の歴史家は、なんで神社の研究をしないのか。神社の人々と親しくしているということを聞くと、日本の歴史家は身構えてしまい、一緒に仕事をしようとしたない人が多い。こういうことで本当に東アジア史を研究する気があるのかどうかが疑問だ。中国の道教と日本の神道は、違うものだが似ているところも多い。あなたはおかしいと思いませんか」と真顔で詰められて以来のことである。

 たしかに道教の問題は歴史家としては、結局、日本の神話および神道というものを、東アジアと日本の文化のなかにどのように正統なものとして位置づけるかに関わっていると考えている。いまのままでは神社と学問の関係はきわめて細いものになっている。これはよいことではないと思う。

 以下、昨日の仕事。
 

いつも無為な状態をめざし、無事を目標として、変わった味を味あわないようにしたい。他者に対しては、小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)をあたえてあげたい。仕事はやさしく見えることの中に困難を見届け、些細なことの中に問題を発見するようにできればいい。社会の困難は細部に原因があり、大問題は些細なことに宿っている。だから哲人は問題を大げさに論ずるのを避け、しかし、よく大きな問題を解決することができるのだ。安請け合いすれば信頼は生まれないし、基礎的な問題を安易に考えていると困難に圧倒されるだけが立ちふさがる。哲人は社会の困難を深く分析し、困難を無為・無事に乗り切ることをめざす。

為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳、図難於其易、為大於其細。
天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不為大、故能成其大。
夫軽諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。

無為(むい)を為し、無事を事として、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(はたら)きを以てす。難きをその易(やす)きに図り、大なるをその細(ちい)さきに為す。
天下の難事は必ず易きより作り、天下の大事は、必ず細さきより作る。是を以て聖人は終に大を為さず、故に能くその大を為す。
夫れ軽がるしく諾せば必ず信寡(すく)なく、易しとすること多からば必ず難きこと多し。是を以て聖人は、猶おこれを難しとす。故に終に難きこと無し。


解説
 老子のいう無為とは、しばしば「何もしないこと」「無理をしないこと」「行動を控えること」と理解される。しかし、ここに「無為をなす」とあることは、無為が一つの行為であり、目標であることをよく示している。水上を行く水鳥が静止しているようにみえながら、実は足を動かしているようなものである。

 個人として「無為・無事・無味」であることを目標とするというのは、宮沢賢治のいう「デクノボー」の境地であろう。「雨にも負けず」のいう「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニワタシハナリタイ」である。たしかに老子の人生哲学は、それを最終目標として生きるための方途を組み立てようとしたものにみえる。

 その第一が「小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(いきおい)を以てす」という他者への姿勢である。この句に共通するのは他者から受けたものに対して、より善いものをあたえ返すということなので(福永)、「小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)(励まし)をあたえてあげたい」と解釈した。これを読んでいると老子は「善意の人」であるという感じがする。

 ただ注意していただきたいのは、この「徳」という字に「はたらき・恵み・いきおい」などの訓読みがある。この字は、普通は儒教の意味での仁義・品格・節操というような意味であるが、老子の場合は「はたらき」という意味が強い。それ故に、この一節は決して「仁義に満ちた仁愛の恵みをあたえる」というようなことではなく、とくに女性的な「はたらき」「いきおい」を意味する。

 この女性的な「徳」の問題は別の主題となるが、ここでは「徳」の字の意味を説明しておくと、その原型は「彳」と「省」をあわせた字。「省」は「眉」の類字で、その古い字形(金文)からもわかるように、目の上に呪飾りを加えた形で、呪力を持った巫女の目をいう(『字統』)。つまり女性の目のもっている「魅力」の自然な働きが「徳(いきおい)」「徳(はたらき)」ということになる。ようするに「さみしい怨みの気分にはやさしい徳(はたら)きをあたえてあげたい」ということになる。

 次は仕事のやり方についての考え方で、「難きをその易きに図り、大なるをその細さきに為す」というのは、初歩的なことの難しさこそをよくつかむということであって、大問題も細かな問題に解析して一歩一歩処理するということになる。これは常識的な人生訓であり思考法であるが、上述のような他者への姿勢と一緒に、これを実践するには相当の修行が必要なことはいうまでもない。

 老子の人生訓が重要なのは、その先に「天下の難事」「天下の大事」を見据えていることである。この天下については、蜂谷が『老子』に出現した「天下」をほとんど場合に「世の中」「世の中の人々」などと訳していることが参考になるだろう。ようするに天下は「社会」という意味なのである。『老子』は、この「天下=社会」というものの観察で満ちており、『老子』はその意味では社会観の書なのである。

 そして、本章からもはっきりするのは老子は人生訓というものは「社会」の中で考えるほかないという立場をとっていることである。これについては、老子は社会というものは個々の人間という小さな場から見通さなければならないことを直感しているように思う。以下は現代語訳に譲るが、これを読んでいると、老子は、「善意の人である」とともに「正論を言う人」であると思う。

2017年6月21日 (水)

学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい

さいきん、やってる『老子』、これは二〇章です。みにつまされます。

 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人の畏れることは畏れない訳にいかない。しかし、学問をやったって茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。

 衆人は嬉々として、豪勢な肉料理の饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。

 私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは敏腕を振るうが、私の仕事はもたもたしている。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながらも田舎住まいを続けている。だが、私には、ここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。

絶学無憂。唯与訶*、相去幾何。美**与惡、相去何若***。人之所畏、亦不可以不畏。恍兮其未央哉。衆人熙熙、如享太牢、如春登臺。我独泊兮未兆、如嬰児之未孩。累累、若無所帰。衆人皆有餘、而我独遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨若昏。俗人察察、我獨悶悶。惚兮、其若海、恍兮若無止。衆人皆有以、而我独頑似鄙。我欲独異於人、而貴食母。
*底本「阿」。帛書による。**底本「善」。帛書による。***底本「若何」。帛書による。

学を絶てば憂い無し。唯(い)と訶(か)と、相去ること幾何(いくばく)ぞ。美と悪と、相去ること如何(いかん)。人の畏(おそ)るる所は亦た以て畏れざるべからず。恍(こう)として其れ未(いま)だ央(つく)さざるかな。衆人は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊(はく)として未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如く、累累(るいるい)として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺(とぼ)し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(どんどん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏(こん)たるが若し。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶々(もんもん)たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして以って鄙(ひ)なり。我れ独り人に異(こと)なりて、食母(しょくぼ)を貴ばんと欲す。

解説ーー知の鬱屈

 最後の「食母(しょくぼ)を貴ばん」を、普通は、食母を「道」の象徴と理解して「学問を絶っても万物を育む道を母として大事にすることは変わらない」などと訳す。しかし、そういう負け惜しみのようなことをいっては詩にならない。これは夏目漱石の『坊ちゃん』にでる乳母の清(きよ)と同じで、老子にも大事にしている乳母がいたとみた方がよい。
 この章は老子というのが、どういう男なのかを伝えてくれる章で、私は、自分が学者だからかも知れないが、もっとも好きなところである。この章からすると、春秋戦国時代には確実に知識人の生活というものがあるようになっていて、学問をすることを一つの職分とみるようになっていたことが分かる。
 
 何よりもよいのは、学問をするものの誇りや自嘲や鬱屈という、今でも私などには親しい心情のあり方が語られていることで、学問なぞは、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。何の役に立つものか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ、という訳である。しかし、このようにはるか過去の人間の本音を時を隔てて確かに聞き取ることができるというのは、歴史学に独自の愉悦であることも自覚させられる。

 老子には、陶淵明の「帰去来兮辞」と同じ田園主義の最初の現れがある。「帰去來(かへりなん)兮(いざ)、田園 將に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる、既に自ら心を以て形の役と為す、奚(なん)ぞ惆悵して獨り悲しむ」という例の詩である。漱石の『坊ちゃん』には、老子や淵明の感傷が生きていたが、それ以降、日本では田園主義らしい田園主義はなくなってしまったように思う。それは文化として必要なものではないかと思うようになった。

2017年4月18日 (火)

人類が類(類的存在)であることと「霊」スピリットという言葉


人類が類(類的存在)であるというのは、人類が身体でも霊的にも自身の類や他の類をも類として対象とするからであるが、そればかりでなく、むしろ、人類は個々に自分自身に対して目の前にいる類それ自身であるかのように振る舞うし、自分自身が人類の霊の一部をなしている自由な存在であるかのように振る舞うからである。

 この超越に人類の霊的な性格と自由が現れている(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」藤野訳一〇四頁の一節をパラフレーズすると、こうなるのだと思う。「霊」スピリットという言葉でないと言い表せないことがあると思う)。

 これは「本来の物質的生産の領域の彼岸にある」「自由の王国」、分業もなく、個人が中心の連なりあった社会という場合にも、この人間が類的な存在であるという本質規定は生きていく。つまり「必然性の国」を超越する存在であるということになる。霊は身体に宿り、そこを越えていくことはないが、社会的な分業の排他領域を越えていく。

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