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カテゴリー「宗教」の66件の記事

2018年11月10日 (土)

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神アマテラス(天照大神)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがないひとはいなかった。

 たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。天照大神が「至高神」であるというのである。

 一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』は「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」と、さらに詳しく説明している。こういう状況の中で、国民はこの「天壌無窮の神勅」をなかば暗記していたのである。

 さて、こういう「天壌無窮の神勅」歴史観を、普通、皇国史観というが、この皇国史観それ自体の評価は別として、問題としたいのは、皇国史観の支えとなっていた、天照大神が「至高神」であるという考え方である。

 もちろん、残念ながら、現在の日本でも倭国神話の「至高神」は天照大神であるという考え方が、いまでも一つの常識である。しかし、これは厳密にいえば誤った常識であって、倭国神話の至高神がタカミムスヒという神であることは、有名な徳川時代の「国学」の完成者、本居宣長自身が明らかにしていたことであり、また本居の弟子をもって自認し、皇国史観の元祖のようにいわれる平田篤胤も、タカミムスヒが本来の至高神であることは当然のこととしていたのである。現在の神話研究でも、それが引き継がれていることはいうまでもない。

 さて、現代の日本では倭国神話の神といえばもっぱらアマテラスとなっていて、タカミムスヒは、その名前さえもほとんど忘却されているというのは、本居宣長の努力をほとんど無にするに等しいことであることは強調しておきたいと思う。このようなことになっているのは、いうまでもなく、第二次大戦の下で、『国体の本義』のような道徳書が徹底的に普及されたために、あらためて日本神話の至上神といえばもっぱらアマテラスということになったためである。またこういう経過を含む第二次世界大戦の敗戦によって人々は「神話」そのものに疑いの目をもつようになったことも否定できない。本居宣長の国学は、明治時代の国家の国家思想を作る上で決定的な役割を果たしたのであるが、そこに生み出された政治は本居宣長の国学の教説の根本を伝えることに失敗したということになるだろう。

 この問題は、結局、本居にいたる日本の神道学説をどう考え、以降の神道学説をどう考え、それといわゆる国家神道の関係をどう考えるかに関係してくる。

 なお、私は二年ほど前から神話論の研究を始めたのですが、そのとき、まず日本神話の基礎になっている老荘思想を知っておかねばと云うことで『老子』を読み、本居が、神道が老荘思想に近いといっていることが事実であると確認しました。こうして、結局、『現代語訳 老子』(ちくま新書)という本まで書くことになったのですが、他方、『国体の本義』も読まねばということで、詳細に読む作業をつづけてきました。驚いたのは、両者がクロスしてきたことで、『国体の本義』が日本の思想の基調をなした諸思想のうち、儒教と仏教を誉めあげながら『老子』の思想は「歴史的基礎のない個人主義におちいった」としていることでした。『国体の本義』は本居の研究成果を無視すると、同時に老荘思想を批判し、拒否していたということになります。『国体の本義』の主張の要点は、ようするに日本社会に存在していた「個人主義」のすべてを否定するということだったのですが、その個人主義を支えていた伝統思想は老荘思想であった訳ですから、狙いはきわめて正確であったということになると思います。これが驚きでした。

2018年2月21日 (水)

老子には戦争論があります。今の東アジアで重要なものと思います。

 老子には戦争論があります。今の東アジアで重要なものと思います。
 以下、いま本にしている『老子』注釈の一部です。

 中国の戦国時代の後期には、秦の始皇帝の曾祖父・昭王は斬首二万(楚)、斬首二四万(韓・魏)、斬首四万(魏)、斬首一五万(魏)、斬首五万(韓)と戦争で敵国の人々を殺し続け、前二六〇年には趙との戦争で四五万人も殺戮したと伝えられる。これ以外にも戦争は日常の風景であった。この時代の世界で、これだけの戦争による大量死を経験したことは中国の歴史に巨大な影響をあたえた。民衆からでた劉邦が漢帝国を建設し、その漢帝国を巨大な民衆宗教運動、太平道の運動が黄巾の全国一揆を起こして凋落に追い込んだのは、明らかに、この戦争経験の余波である。
 老子の戦争論は、いわゆる平和主義、反戦主義に貫かれている。ただ注意すべきなのは、老子が自衛戦争の必要は否定せず、防衛的なゲリラ戦法の提案をさえしていることである。このような戦争論の基礎に、老子の「死」についての考え方があることも注意しておきたい。というよりも、老子は中国史上ではじめて起きた大量の戦争死を経験するなかで、人間の生死について考えざるをえなかったのであろう。そしてそれが老子の思想が前代の孔子ともっとも異なる点であった。
 
 第76章「固くこわばったものは死の影の下にある」を取り上げてみます。

 人が生まれたときは柔らかで弱々しいが、死体は筋肉と靱帯が硬直して堅くなる。万物も同様で、草木が生えるときは柔らかでなよなよしているが、死ぬと枯れてかさかさになる。だから、固くこわばったものは死の影の下にあり、柔らかで弱々しいものこそ生の仲間なのだ。ようするに、兵が強くても、ずっと勝ち続けることはできない。木が強ければ伐られて終わってしまうのと同じだ。こうして強大なものが地面の下にいって、柔弱なものが地上に残るのである。

人之生也柔弱、其死也筋肕(1)堅強。万物草木之生也柔脆、其死也枯槁。
故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。
是以兵強則不勝、木強則竟(2)。
強大処下、柔弱処上。
(1)「筋肕」は帛書により補入。(2)底本「共」。帛書「競」。「竟」の借字。

人の生まるるや柔(にゆう)弱(じやく)、その死するや筋肕(きんじん)堅強(けんきよう)。万物草木の生(は)え生(しよう)ずるや柔脆(にゆうぜい)、その死するや枯槁(ここう)。故に堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒なり。ここを以て兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち竟(お)わる。強大は下に処(お)り、柔弱は上に処る。

解説
 「人の生まるるや柔(にゆう)弱(じやく)」というのは老子の好きな赤ん坊のイメージである。その対極にあるのが堅い枯れ枝と硬直した死体である。戦国時代の人々にとって戦場に放置された死体は珍しいものではなかった。そして、軍隊がいくら強くても、勝ち続けることはできない。結局、堅く強いものは死の世界に行き、柔弱なものこそが生の世界なのだというのが、人々の痛切な実感であった。

 殷の時代に犠牲とされた多数の異民族の遺骨が出土したことは大きな衝撃をあたえた。ただ、神話時代における人身供犠は、人間論としては重大な問題であるが、多かれ少なかれ世界各地で行われたことである。これに対して、文明化への時代、戦国時代における戦争虐殺はいわば「原罪」の位置を占めるものとして中国の歴史に巨大な衝撃をあたえた。老子の思想はそれを正面から問うたものであった。

 日本において、万をこえる人々を虐殺した内戦は、織田信長の時代までは起きることはなかった。これは幸いなことであるが、しかし、そのため人間の「原罪」を厳しく問うたキリスト教と同様に、老子の思想を深いところで受け止める条件は日本社会にはなかった。そして、「原罪」の思想がこの国に根付かなかったことは、信長・秀吉以降、現在にいたる歴史に様々な思想的問題をもたらしているように思う。

2018年1月 2日 (火)

『老子』第一章。星々を産む宇宙の女神の衆妙の門

 新年の御挨拶に。さきほど訂正を終えた原稿。

 普通に行く道と、ここでいう「恒なる道」はまったく違うものだ。普通に名づけることができる名と、ここでいう「恒なる名」もまったく違う。宇宙における万物の始めの段階では、混沌としたものには「恒なる名」はないが、そこに登場した万物を産む母が、物に形をあたえ「恒なる名」をあたえる。同じように、「恒なる道」には最初は「欲」がなく、その様子は微かに渺々(びょうびょう)としているが、「恒なる道」が「欲」にふれれば物ごとが曒(あきらか)にみえるようになる。この「恒なる道」と「恒なる名」は同じ場をもち、字は違うが同じ意味である。この二つの黒く奥深い神秘がつながるのが万物を産む母の衆妙の門である。

*道可道也、非恒道也。名可名也、非恒名也。
無名、万物之始也。有名、万物之母也。
故恒無欲也、以観其眇。恒有欲也、以観其所曒。
兩者同出、異名同謂。玄之又玄、衆妙之門。
 *本章のテキストはとくに帛書によった。

道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非(あら)ざるなり。名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり。名無きは万物の始めなり。名有るは万物の母なり。故に恒なるものに欲無くんば、観(み)るに以てそれ眇なり。恒なるものに欲有るにいたれば、観るに以てそのところ曒(あきらか)なり。両者は同じく出でて、名を異にするも謂うところ同じ。玄(げん)のまた玄、衆妙の門なり。

解説
 本章は現行本『老子』の第一章であり、冒頭に「道」とあることが以下第三七章までを『老子』「道篇」と呼ぶ理由となっている。しかし、それだけ有名な章で有りながら、従来行われてきた本章の解釈はきわめて曖昧であって、しかもほとんど同じものはないといっていいほど相互に違っている。

 それでも、人々は本章からきわめて強い印象をあたえられてきた。たとえば『ゲド戦記』『闇の左手』などを書いた小説家、アーシュラ・K・ルグィンは小さいころから『老子』の謎のような文言に惹かれていたというが、本章冒頭の一節を、彼女のファンタジー『幻影の都市』の中で、主人公が人格崩壊の危機を生き抜くための呪文として使っている。英語でいうと、"The way that can be gone isn't the real way. The name you can say isn't the real name."となり、たしかにきわめて神秘的な印象をあたえる。しかし、呪文のように聞こえるとしても、私は、これは一種の宇宙論ではないかと思う。そしてそう考えれば本章の意味は一挙に明晰になる。

そこで問題の冒頭の一節、「道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非(あら)ざるなり」の解釈から行くと、まず老子は普通に行くような道(「道の道(ゆ)くべき」)は「恒なる道」ではないという。「道の道(ゆ)くべきは」はこれまで「道の道(i)うべきは」(「道」の「言う」という動詞用法)、あるいは「道の道とすべきは」(「道」を名詞それ自体と読む)と読まれているが、もっとも素直なのは「通る、行く」であろう。普通に行く道と、「恒なる道」とは違うというのである。普通の道とはまずは儒教のいう「仁義」の規範としての「道」のことであろう。そして「恒なる道」が、老子のいう「道」、つまり自然と社会の中に存在する不可視・不可聴・不可触な公理、道理のことであるのはいうまでもない。

 また「名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり」というのも同じ語法で、普通に名づけられる「名」は「恒なる名」ではないというのである。普通の「名」を代表するのは、儒教のいう「名分」、つまり社会的な身分秩序や体面のことであろう。「名」という言葉自体は、老子の語法では、名をつけること、そして名をつけることができる万物の形とその差異があることをいうが、ここでは儒教のいう「名分」どころか、そういう一般的な意味での「名=形=差異」もどうでもいい、ここで問題とするのは「恒なる名」であるというのである。老子は「恒なる名」という用語で、差異が生まれる直前の状態、あるいは差異を産む世界の構造それ自体のことをいっている。

 問題は、老子が、この恒なる「道」「名」を一挙に「万物の始め」という宇宙生成の場にもっていくことである。「名無きは万物の始めなり。名有るは万物の母なり」というのは明らかに宇宙の始源の混沌がイメージされているのである。つまり、「名」とは万物の差異のことだから、「名無き」というのは、万物に名を付与するべき差異や形がないということであり、「名無きは万物の始めなり」というのは、宇宙と万物の始めは形のない混沌であるというのである。その逆に「名有るは万物の母なり」というのは万物に形態があたえられ、「名」をつけることが可能になった状態である。「万物の母」とは宇宙生成の最初に混沌から名と形を作り出す力をもった存在、つまり「恒なる名」をいうのであろう。老子は宇宙の原始に母性を想定しているのである。

 従来の解釈には、この部分に宇宙生成過程のイメージを読み込んでいくという発想はまったくないが、老子がそういう発想をもっていたことは、浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店二〇〇六)に明らかであり、本書でも第二部Aで詳しくふれることになる。それはいわゆる宇宙創成神話をうけたものであるが、当時の星空と天文の観察に根付いたもので、現在の天文学の宇宙生成論を借用すれば、ビッグ・バンの理論に少し似ている。つまり、宇宙は非定常な混沌として永久に続いているが、それが特定の形態をもつのは、特定の環境条件の下で最初の衝撃、ビッグ・バンを経過した後である。『老子』本章のいう「万物の始め」における「名無き」から「名有る」への一瞬の転形が、それに似ている。「万物の母」とは、この臨界点の特定の環境をいうということになろうか。これはより近代哲学風の言葉を使えば、形のない無規定なものが特定の環境条件の中で、運動を開始し、自己を産出して、その諸側面が区別されるようになり、「形」(形態)と本質(現象的な側面と本質的な側面)をもつ事物になっていくということであろう。

 次の部分を、私は「故に恒なるものに欲無くんば、観(み)るに以てそれ眇なり。恒なるものに欲有るにいたれば、観るに以てそのところ曒(あきらか)なり」と読んだ。これまでの読みはすべて「恒」を「つねに(常に)」と読んで、「人は常に変わりなく無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始源を認識できるのだが、つも変わりなく欲望のとりこになっているのでは、差別と対立にみちたその末端の現象がわかるだけだ」【金谷通釈】などとして、これを人生訓として読んでしまう。これは『老子』というと「無為・無欲」とする思い込みの一例である。しかし「恒」一字で「恒なるもの、恒遠なるものと解釈するのが分かりやすい。それは決して根拠のないことではなく、『老子』とほぼ同じ時期に知られていた『恒先』『道原』など、最近発見された竹簡書に一般的な語法である。

 こう読めば、この「恒」についての句は、「名無き」から「名有る」への転形と同じ場面を、「恒なる道」の側から説明したものということになる。現代語訳に記したように、この句は、自然と社会の中に存在する「恒なる道」は、それ自体として「欲」の動きがない段階では、目に見えない眇々たるものに止まっているが、「欲」の動きが入ってくれば明らかな形をもつにいたると読めるのである。「万物の母」と「欲」は同じことであるに違いない。

 そう考える理由は、右の『恒先』に次のようにあることである。

濁気は地を生じ、清気は天を生ず。気の伸ぶるや神なるかな。云云(うんうん)相生じて、天地に伸盈(しんえい)し、同出なるも性を異にし、因りて其の欲する所に生ず。察察(さつさつ)たる天地は、紛紛(ふんぷん)として其の欲する所を復(くりかえ)す。明明たる天行、惟(こ)の復のみ以て廃せられず
(現代語訳)(最初は混然として一だった気もやがて分化し始め)濁気は沈降して地を形成し、清気は天地を形成した。気が拡延していく様は何と神妙ではないか。様々な物が互いに相手を生み出しながら、天地の間に満ち溢れた。万物は同一の気を発生源にはしているが、それぞれに性を異にしている。そこで各々の性(本性ー筆者注記)がその欲求に応じて発生してきた(以下略)

 この現代語訳は浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店二〇〇六)によった。

 『恒先』は宇宙の原初に存在するものを「恒」としているが、それが万物に分化していく上で「欲」が決定的な位置を占めるという点も、『老子』本章と共通することは明らかであろう。この文脈からすると、この「欲」には、「万物の母」に対応する男性的な「欲」の意味がこめられているに違いない。少なくとも老子が宇宙の生成を生殖の原理をもって語っていることは明らかであって、それを「母」から語り出していることが何よりも興味をひかれることである。

 こうして本章の結論の「両者は同じく出でて、名を異にするも謂同じ。之を玄(げん)とし、有(また)玄とするは衆妙の門なり」という一節の意味も明瞭になる。まず前半の「両者は同じく出でて、名を異にするも謂同じ」というのは、「恒遠なる『道』と『名』は同じ場をもち、字は違うが同じ意味である」ということである。これも近代哲学の用語に直せば、ものごとの法則あるいは道理が存在するということは(「道」)、ものごとが発展し本質ー形態(形とは「名」である)の関係が変わっていくのと同じことだということになる。話しの筋は通っているのである。

 圧巻は最後の「玄之有玄、衆妙之門」という章句であろう。この「衆妙の門」、つまり衆(おお)くの妙(たえ)なる喜びの門とは、「ほのかな赤みを生の胎動として覗かせる黒く巨大な何者か」(福永注釈)であり、よりはっきりいえば女性生殖器のことである(加藤注釈)。「玄之有玄」という「玄」は「黒く神秘的な」という意味であって、『老子』第六章のいう谷間の奥にあるという地母神の「玄牝之門」(神秘な雌牛の性器)の「玄さ」と共通するものであろう(■■■頁)。ここではそれが天空にあるというのであるが、それは第一〇章では「天門」と呼ばれ、「天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)と為らんか」(天空の女神の生殖の門を開け閉めして万物が生まれるときのように、世界が雌の優美な柔弱さをあらわす)という願望が述べられている。ようするに、「名有るは万物の母なり」といわれる「万物を産み形作る偉大な母」の生殖器=「衆妙の門」が宇宙にあるというのである。

 私はこれは比喩に止まるものではなく、中国の古代の諸史料で天空の星座に現実に存在していた「天門」を意味するものだと思う。それは角宿(おとめ座)の二星の間をいい、『宋書』(薜安都伝)には「夢に頭を仰いで天を視るに、まさに天門の開くを見る」とあって、実際に天門が開くという観念があったことがわかるのである(なお角星はスピカ。ギリシャ語で「穂先」の意)。また老子の「河上公注」は、右の第一〇章の「天門」を北極の星座、紫微宮を意味するものとするが、その可能性もあるだろう。星々を生み出し、万物を生み出す「天門」が天に存在するというのは、そんなに突飛な幻想とはいえないであろう。

 なお、最後に注意しておきたいことは、この第一章は古くから日本でも有名であったことである。たとえば鎌倉時代の書、『類聚神祇本源』に引用された「天地霊覚書」にはこの一章がそのまま引用されている。『類聚神祇本源』は伊勢神道の教説を集大成した書として有名なものであって、「天地霊覚書」は、道教の思想を自在に援用して神道の原理を論じた書である。そして著者の度会家行は、一二世紀に成立した伊勢神道の正統をひく伊勢神宮の神官である。家行は、吉野の南朝の側に立って北畠親房とともに戦った人物であり、その立場から家行は、この書を後醍醐天皇に進上している。その影響はきわめて大きかったろう。
 そもそも伊勢神道には『老子』の影響がきわめて強かった。『老子』を読むということは、日本の歴史と神道を身近に感じていく上でも必須の作業なのである。

2017年11月22日 (水)

『老子』33章「自(みずか)らを知る「明」と「強い志」


 人と議論するには「智」がいるが、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」だ。足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがあるのだ。境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞くことが出来る。

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死而不忘(1)者壽。
(1)底本「亡」。帛書により改む。

人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。

解説
 「自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という言葉はたいへんに有名な言葉である。たしかに、人生にとって「自分を知る」ということはもっとも大事なことだろう。それは誰にとっても一生の仕事である。しかし、そういわれると「そんなことは分かっている」という声が自分の中から聞こえてこないだろうか。分かっていてもどうしようもないことが多い人生の実際からすると、この言葉はお説教に聞こえる。

 しかし、老子は、決して単純なお説教はしない。そこをつかむためには、まず本章が、四つの対句、つまり(1)「人を知る智」と「自(みずか)らを知る明(めい)」、(2)「人に勝つ力」と「自らに勝つ強」、(3)「足るを知る富」と「強を行う志」、(4)「所を失わざる久」と「死しても忘ざる寿(ほぎうた)」の四つの対句でできている全体の脈絡をおさえていく必要がある。老子はこの四つの対句の前句を外面的なものであるとし、後句の意味を強調する。

 まず(1)「人を知る者は智といい、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」は、後句の「自らを知る」という「明」の意味を強調する。前句の「人を知る者は智」というのは、そのままでは意味が分かりにくいが、これは『論語』(堯曰篇)が「言を知らざれば以て人を知ること無きなり」、つまり「言語知識がなければ人を知ることは出来ず、知者ではない」と述べていることへの批判である。もちろん、老子はそういう言語知識が不要であるというのではないが、そういうものは最後には役に立たないというのである。老子は、そういう「智」ではなく、自己と語り、「自(みずか)らを知る」という内面的な能力を育てなければならないというのである。老子の趣旨は前句と後句を対照して論ずることにあるのであって、そう理解すれば了解できるところが増えるのではないだろうか。

 この「明」については最後にもう一度立ち戻ることとして、次の(2)「人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす」という対句も、前句の人と競争して勝つ外面的な力に対しては評価が低く、後句の自己に克つ内面の強さこそが大事だというのである。この「強」は五五章(通項◆番)では「心、気を使うを強と曰う」と説明されているように、自分の内面で心が気を自由に使えるということである。まさに内面の強さということであって、そこで、上記の訳文では、この「自らに勝つ」の「勝つ」については「克己心」の「克(か)つ」という字を使用した。普通、「勝」と「克」は区別されないが、「善くする。堪える。刻む。勝つ」などのニュアンスをもっている「克」の方がふさわしいからである。(なお克については五九章(通項◆番)、六七章(通項◆番)の解説も参照)。

 次の対句(3)「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」も、これまではそう解釈されず曖昧になっているが、曖昧前句は評価が低く、後句は評価が高いはずである。つまり前半の「足るを知る者は富み」という部分は後半の「強を行う志」にくらべて評価が低いはずである。もちろん、「足るを知る」こと自体は、前項四四章(通番6)でみたように、老子にとって重要な知恵であり、「足るを知る」とは人間が自己の自然と身体を信頼して安息にあり、それ故に余裕があるということであった。ここでいっているのは、そのような身心の余裕があれば人間は豊かさをもつことができるということである。老子は「名」「貨」「得」「欲」などに対して強い自己否定を行うが、それが「知足」の境地まで進めば生活の豊かさを享受するのは当然であるというのが、老子の考え方である。

 しかし、老子は決して、そこに止まろうとしない。「富」は外面的なものであって老子は「強を行うものは志有り」として「強を行う」「志」こそを重視するのである。これは老子の思想を消極的なという意味での「無為」と「足るを知る」だけで理解する立場からは異様に聞こえるらしい。たとえば【蜂屋注釈】はこの部分を取り上げて「前句の『強』(「自らに勝((克))つ強(きよう)」のこと、筆者注)は例外として『強行』や『志』の是認は老子らしくない。『強行』は『知足』の反対のあり方である(中略)、この句にはなんらかの誤りがある可能性がある」とまでいう。しかし、ここで「強を行う」「志」が高く評価されていることは明瞭である。ここにいるのは「強」を「志」として実現する決意に満ちた老子なのである。それは「志(こころざし)を天下に得る」(三一章、通項◆番)といわれるような「天下」に関わる「志」であることもいうまでもない。

 以上、本章は対句を重ねて「明」「強」「志」という人生への直截な意思を語っている。これまでの常識では、これは『老子』の人生論のなかでは例外であるということになってしまうが、しかし、むしろこれが『老子』の本質なのである。そう考えなければ、最後の「その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり」という対句は理解できない。【金谷注釈】は、この句を「最も難解」とするが、これは現代語訳に記したように、「最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞く」という一種のロマンが語られているのである。

 今、以前書いたものをブラッシュアップしている。

2017年8月18日 (金)

『老子』政治に関わって天下の公共のために働くということ

善の徳はつつましやかに始まって無限の負担となる(『老子』五九章)

政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ。これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれる。人々が早くから服いてきてくれれば、その善の徳(いきおい)を重ねて積んでいくことができる。善の徳(いきおい)を重ねて積んでいけば、克(たえ)られないことはなくなる。克(たえ)られないことがなくなれば、善の徳は極限がなくなる。極限がなくなるまで克(たえ)ていけば、初めて国を守ることができるのだ。国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ。これを四方に根(旁根)を深くはり、主根(柢)を固くするという。そうすれば、長生きをして見るべきものを見ることができる。

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以(1)早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無夫克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有国。有国之母、可以長久。
是謂深根固柢。長生久視之道。
(1)底本「謂」。帛書により改む。

人を治(おさ)め天に事(つか)うるは、嗇(しよく)に若(し)くは莫(な)し。夫(そ)れ唯(ただ)嗇(しよく)なり。是(ここ)を以(もつ)て早く服(ふく)す。早く服する、之(これ)を重(かさ)ねて徳を積むと謂(い)う。重ねて徳を積めば、則(すなわ)ち克(たえ)ざる無し。克(たえ)ざる無ければ、則ちその極を知る莫(な)し。その極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国の母を有てば以て長久なるべし。是(こ)れを根を深くし柢を固くすという。長生久視(ちようせいきゆうし)の道なり。

解説
 「人を治(おさ)め天に事(つか)うる」を「政治に関わって天下の公共のために働く」と訳した。「人を治(おさ)め」とは士大夫としての責任をいうのであろうが、一般的にいえば政治ということであろう。また「天に事(つか)うる」について、これまでの注釈は天帝・天神の祭祀をするという意味が、老子の天はそのようなものではない。天下の公共という意味であろう。

 その条件は、つつましやかな生活(嗇)を送ることだというのは、現在でもあてはまるような原則であろう。老子は、これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれるという(服には「むつむ」「満足させる」「得る」「つける」などの意味がある)。そしてそれによって天下の公共に奉仕するという善の意思の徳(いきおい)を蓄積することができるという。それがあれば何にでも克(たえ)らることができるが、義務は無限に広がっていくというのが老子のいうことである。この「克」は、普通、「何にでも勝つことができる」と翻訳されるが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、老子に「克=勝つ」は相応しくない。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いで、「己をちぢむ」と訳すべきであることが確定している(小島毅)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う。そもそもそれでは本章の意味は通らないのである。

 本章は、こうして、天下の公共に関わることは、進めば進むほど、堪えるべきことと、なすべきことは無限に増えてくることだと述べる。そしてそれを極限まで辿ることが国を守ることだと論ずるのである。

 以上、従来の解釈とは大きく異なっているが、このような読みの根拠となったのは、「徳」という言葉がもっている「いきおい、はたらき」という語義である。本章は、政治との関わりがもたらす無限軌道のようなものを、「徳」を積み重ねるというのはどういうことかを中心にして論じているのだろ思う。そういう観点から考えると、本章の実際の結論となっている「国の母を有てば以て長久なるべし」という言葉は「国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ」と訳せるであろう。老子にとって「徳」という言葉は、その人々を養う徳(はたらき)にそって、どうしても母性的・女性的なニュアンスを含むものになるらしい。これも、本章を「徳」の語義を中心に読む理由である。

 冒頭の「政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ」というのは、日本の政治家、とくに現在、そのトップにいる政治家にいいたいことだ。

 『老子』のいう「天=公共」というのは示唆深い。

 若い人たちが作った「未来のための公共」という言葉に通ずるように思う。

2017年8月12日 (土)

『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

 よく知られているように、毛沢東は自己を秦の始皇帝に比較した。その馬鹿さ加減は、彼が中国史に対して見識と教養をもたず、学術的精神がなく、結局、野心とレトリックとと独裁の政治家であったことの証明である。一種の王朝を作るというのは、どのような時代にも人間に宿る妄想であって、毛沢東は現代的覇王となろうとしたのである。このような怪物を日本の中国侵略が作り出したのである。戦争が作り出したのである。

 トランプをみても安倍氏の友達主義、近親者主義、「自分は例外、自分は偉い」という自己意識をみても、政治権力の「王朝化の妄想」というのは、つねに発生する。北朝鮮をみても、「王朝」というのはけっして過去の問題ではないのだと思う。、

 中国にもどれば、そして共産党を称する中国の支配政党は、実際にはスターリニズムと毛沢東王朝主義を基本的に精算していないといわざるを得ないが、彼らは、自己を法家であるとか、儒家の伝統をうけるだとか、ときどき馬鹿なことをいいだす。しかし、彼らは決して、中国の伝統的な反権威主義と「共同主義」・ユトーピアの思想を代表する『老子』に自己を近づけようとはしない。


 先日の日文研の研究会で教わったハーバート随一の人気講義であるというのマイケル・ピュエットの中国哲学講義『ハーバートの人生が変わる東洋哲学』を読んだ。たいへん面白い。この講義は、アメリカ社会論や世界の現状についての見方も比較的妥当なものだ。アメリカと中国を考えて生きて行かざるをえない日本ということを考えると、私たちがどこまで戻り、どこら辺から考えたらよいかを示唆してくれる。
 『老子』論も面白かった。老子の言う「道」は諸物の関連そのものであるという。老子がいわゆる弁証法(世界の関連性が全面的であり、その関連は目に見えないが実在する)論者であることを正しく指摘している。「道」は関連だという。さらに『老子』を隠遁的な思想家というのは間違いで、むしろ状況や世界を変える方法を説いたという。これも正しいと思う。
 
 私jは、社会理論にとって倫理学、非倫理的な存在たる人間をどうするかということは根本的に重要と考えてきた。弱い人間という自己意識がつきまとい現実に弱い人間である私のような存在、社会・歴史理論に現実には耐ええないような存在にとっての根本問題と考えてきた。教条のようでないそれをどう考えるのか。これを考える上で、中国の歴史と思想を検討することが大きな意味をもつということを始めて知った。そういう意味でも、マイケル・ピュエットの議論は参考になる。

 しかし、問題は、老子には一種の社会科学があるということで、これをマイケル・ピュエットは考慮していない。

 以下に注釈した『老子』三七章は、『老子』の社会論をもっともよく示すものの一つであろうと思う。


王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

世界を貫通している恒遠なる「道」は人が名前をつけて管理できるようなものではない。もし諸国の王がこの道理を守って勝手なことをしなければ、万物は自(おの)ずから豊かになるだろう。しかし豊かさの中で王が不当な欲をむさぼることがある。その時は、私はそれを鎮めて止めさせるために、無名の樸(あらき)(生の樹皮がついた木)を示す。自然そのものの樸をみればまさに足るを知ることができる。そして足るを知って静謐さが戻れば、天下はまた自ずから定まっていく。

道恒無名*。侯王若能守、万物將自為(下に心)**。為(下に心)**而欲作、吾將鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦將知足***。知足***以静、天下將自定。

*底本「為」、帛書により改む。**底本「化」。帛書により改む。為(下に心)は為に同じ。***底本「無欲」。楚簡によった。

道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自(おの)ずから為(な)らんとす。為(な)して欲作(おこ)らば、吾れ将(まさ)に之(これ)を鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす。無名の樸、夫れ亦(ま)た将(まさ)に足るを知らん。足るを知りて以て静かならば、天下は将(まさ)に自ずから定まらんとす。

解説
 この章は『老子』が王権との実際上の関わりをどうするかについて、その考え方を明瞭に述べた章である。老子は王権というものを本質的に疑っていたが、王権が「道」の通理を認めることは望ましいと考えていた(参照、第三二章)。しかし、その上で、王権が不当な欲をむさぼった場合は、それを鎮めなければならない。そのために「吾」は王に無名の樸(生の樹皮がついた木)を示すだろう、というのが老子のいうことである。『老子』で「吾」というのは老子自身のことをいうのは明らかで、ここはそう解釈するほかないところである。

 問題は王に「無名の樸」を示すとは、どういうことかであるが、確実なのは、本章の直前、第三二章に、樸(あらき)は誰の臣下でもない自由な存在だと述べられていることである。しかも、本章の冒頭の「道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自のずから」の部分も第三二章とまったく同文であって、これは本章と第三二章が「侯王」の問題、王権論をテーマとしていることを示している。これから考えると、本章で「吾」が樸(あらき)を示すというのは、すべての「名」と「形」を捨ててしまう。つまり王の臣下の地位を降りるという意思表明であろうと思う。老子の口調からすると退任の意思は明瞭ということであろう。

 このような解釈は、これまで存在しないが、「①侯王、もし能(よ)くこれを守らば、②万物は将(まさ)に自のずから為(な)らんとす。③為して④欲作(おこ)らば、吾れ将に⑤これを鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす」という場合、本章のテーマが王権論にあるとすれば、上記の訳文に示したように、(1)の主語は「侯王」であり、②の主語は「万物」であり、③の主語も万物、そして④の主語は「侯王」であり、それ故に、⑤の「之(これ)」は「侯王の欲」と考えるほかないと思う。実際上、これまでの解釈は①~⑤が何を主語として何を意味しているかでまったく一致していない。それ故に私案を提出する意味は十分にあると思う。

 このように、王に対して私はあなたの臣下ではない自由な存在だと述べ、さらに無名の樸は足るを知るためにあるのであって、そうなれば静謐さが戻るというのは「あなたは天下の静謐にとっての障害である」というに等しい。そして、これと前項の第三九章の最終句、つまり、王に対する「名誉ばかり求めていると、名誉は消えるぞ。そもそも美しい琭玉などというものは欲してもしょうがない。本をいえば、それは落ちていた石にすぎない」という警告は一体のものである。実際上、これは、状況によっては王権への公然とした異議申し立てが必要であるという姿勢を示すものであったというほかない。

 そもそも老子の活動期をBC三〇〇年頃と仮定すると、秦の始皇帝が即位したのは、その約五〇年後、同じ年に漢帝国の創始者、高祖・劉邦が江蘇省の庶民の家に生まれている。歴史の流れは急であって、始皇帝はBC二二一年に最後に残った斉を滅ぼして秦帝国の皇帝位につくも、一一年後には死去してしまう。その翌年、BC二〇九年、中国史上、最初の民衆反乱といわれる陳勝・呉広の反乱が発生して秦帝国はもろくも崩壊に向かった。注目すべきなのは、陳勝は若いときから日雇い人として他人の土地を耕していたという出身であったことである。そして彼は、兵役の途上、反乱を起こし「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王も将軍も生まれによって決まっている訳ではない)と呼号した。そして、この過程で成り上がって漢帝国を建設した劉邦も庶民出身の遊侠人であったのである。劉邦の軍事勢力の中心にいたのは劉邦と同郷の庶民たちであって、劉邦の死後に相次いで丞相となった蕭何(しようか)も曾参(そうさん)も胥吏(しより)という民衆から徴用された下級官吏であり(蕭何(しようか)は県の主吏掾、曾参(そうさん)は郷の獄吏)、将軍として名を売った樊噲(はんかい)は犬殺しの身分であった。

 考えてみれば、こういう庶民出身の人々が反乱の中で巨大な帝国の国家中枢を占拠するというのは、世界史的にも希有な事態である。これは、もちろん戦国時代から秦漢帝国の時代にかけての政治史の激動と戦争の中で起きたことではあるが、しかし、他面で、民衆の中に反権威主義的な思想が相当に深く蓄積されていたことを想定せざるをえない。そしてそのような思想の材料を提供したのは『老子』以外には考えられないのではないだろうか。本章や第三九章が人々の抵抗や反乱の論理を提供した可能性は高いのではないだろうか。

 ともあれ、漢帝国の初期において『老子』の思想が帝国中枢でもてはやされていたのは歴史的事実である。象徴的なのは、『史記』が右の庶民丞相の曾参(そうさん)の政治は老子の教えによっていたとするなかで「治道は清静なれば民自ずから定まる」という言葉を引いていることである。これはまさに『老子』本章の言葉である。また曽参と同じく建国の功臣で丞相をつとめた陳平が「老子の術を好む」といわれ、武帝に九卿の一人であった問う鄧公が「老子の言を修む」といわれているなど、その例は枚挙に暇がない(参照【池田注釈】四五九頁)。また本書でも何度か参照してきた『淮南子』は、前漢の武帝の頃に淮南王の劉安(前一七九~一二二)が学者を集めて編纂させたものであるが、そこには『老子』の思想が大きく取り入れられていた。これは『老子』が民衆反乱をふくむ政治的な行動の指針となりえたというだけでなく国家思想に深く入り込んでいたことを示している。秦の始皇帝の最初の宰相、呂不韋の編纂した『呂氏春秋』にも『老子』の影響がきわめて強いこと、『史記』の著者、司馬遷とその父の司馬談が『老子』の思想を血肉化していたことなどもよく知られている。これは『老子』が、中国にはじめて登場した本格的な思想と哲学の体系を代表していた以上、ある意味で当然のことであったろう。

 よく知られているように、中国には、周王朝の時代から、王権は「天帝の命」をうけて位につくというの国家思想があった。『孟子』には伝説的な聖帝、堯・舜・禹の間での「禅譲」という平和的な方式と、湯・武が行った「放伐」という暴力的な方式の二つが述べられているのはよく知られている。これに対して、老子には儒学が前提としていた「天帝」「天命」という観念はなく、その国家思想は、道理に反して不当な欲望にふける王を元の木阿弥にして退場させるというより単純なものであったが、そこには相当の哲学的あるいは社会科学的な論理があったのである。

 しかし、所詮、漢の帝国秩序の強化とともに、このような老子の思想は周縁に追いやられる運命にあった。そのような動向の中で、儒学は、はじめて漢帝国の国教となり国家思想の中枢の位置を占めることができたのである。私は孔子・孟子の儒学の思想的意味を軽視しようとは思わないが、しかし、それまでの儒学が哲学思想としては何といっても深さと体系性を欠いていたことは否定できないと思う。儒学は『老子』の思想と対決する中で始めて国家思想として自己を作りかえることに成功したのだと思う。その中で、天命をうけた王権が「徳政」をほどこすことによって持続し、そうでなければ「天命」が革まり、王家が交代し、その氏姓が易(か)わるという、いわゆる易姓革命の思想が中華帝国の思想として体系化されていったのである。

2017年8月10日 (木)

『老子』。天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

 危機に直面したとき、行動を決断して死をまねくか。自制を決断して活き抜く結果となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応(こた)え、求めないもののところに来て、泰然として善なるものに配慮するだけである。通理(つうり)の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。
天之道、不争而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疎而不漏*。
*底本「失」。日本では『後漢書』により漏を慣用する。

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利あり、或いは害なるも、天の悪とする所は、孰(たれ)かその故を知らん。天の道は、争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ、召(まね)かざるに自(おのずか)ら来り、坦然(たんぜん)として善なるに謀(はか)らう。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎にして漏らさず。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという結果を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。

 たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判官とする場合であって、その結果、「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」などと全体が訳されることになる(武内一九二七)。他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、裁判官、「殺」「活」の状態となる人間、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。

 しかし、そもそも、こういう思想は法家にこそふさわしい。老子は法家にはある意味で儒家に対するよりも批判的であって、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうとは考えられない。

 また上記では「争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは、「天が争う」という発想がおかしい。ここは私が読み下した通りに、「天道というものは争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応える」と訳したい。

 最大の問題、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈である。普通は、この「天網」の「網」の字を紀綱という意味と解釈する。つまり「天網」とは天の法であり、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないというのである。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(【福永注釈】)のことだということになる。そして、老子が法家と違うのは、老子が威圧的な刑法の運用に賛成せず、悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであると主張するところにあるというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 私は、このような解釈にすべて反対である。長谷川如是閑のいうことも「殺」「活」の部分だけは明瞭だが、ほかは曖昧である。むしろ、老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。問題の「天網恢恢、疏にして失わず」のところは「通理の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、決して、実意ある決断が忘失されることはない」と理解するのである。

 それが、そもそも「道」というものの理解、そして老子の世界観・宇宙観からでていることが重要なところである。つまり、私は、「天網」とは、前々項の一四章がいう透明な縄が集まった「微・希・夷」の目にみえない「道」の広がりのことをいうのではないかと思う。それは一四章では自然の「道」、自然法則のことであったが、この場合は、社会的な諸関係のすべてを貫いている通理であるということになる。この形のない、「無」の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。そういうように考えて、この「天網恢恢」を法家の思想から完全に切り離してしまいたい。

 もし、そう理解できれば、本章は、老子が、「道」というものを自然的な法則であると同時に社会的な法則、あるいは社会的な法則という言葉があまりに社会を固定的に捉えてしまう感じがするということならば、社会的な諸関係を貫ぬく通理としても考えていたことを示す重要な章ということになる。そもそも社会的な関連それ自体というものは目に見えないものであるから、それを透明な網のようなものだというのは「道」についての、もっともよい比喩であると思う。私たちが象にのって歩む自由の道について、見ることも聞くこともできず、味もしないといっているような、人間の「道」、社会の「道」についての表現も(三五章)、この章をベースにして理解できるのである。

 こういうように解釈をしていると、社会的電子情報システムというものは、『老子』のいう「天網」の実態をなすものであるように思う。「電網」である。
 ネットワークが意識をもつのではない。ネットワークは多様で個々人の身体にしか宿らない意識が直接に相互関連する場となっており、それを脈動させるのは多数の人間の意識そのものである。
 これは『老子』のいう「道」の天網そのものではないだろうか。『老子』の夢かもしれない。

2017年8月 8日 (火)

『老子』「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だ(第三八章)。


 『老子』の三八章。「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だという題をつけたが、東アジアの言葉の世界では、つねに顧みられるべき章であろうと思う。老子の怒りは、今にも通ずる実質をもっている。

 「道」から発した善(よ)い「徳」は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)があり、そうでない「徳」は徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がない。善(よ)い「徳」は無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが「仁」というものは為(な)したようでも実際には何も為(し)ていない。また「義」というものは言葉だけで、やることはやったんだと居直るための口実になっている。さらに善いという「礼」になると、働きかけて相手が打算通りに応じないと腕まくりをして詰めよっていく。要するに、「道」を失った世界に「徳」が残り、「徳」を失った世界に「仁」が生まれ、「仁」が消えると「義」がつっぱり、「義」もなくなると「礼」がしゃしゃり出るという訳だ。この最後の「礼」がもっとも問題であって、まっとうな「信」がなくなって、そこから乱離が始まっていき、一方的な打算にもとづいてあだ華のような道理を説く。これほど人間を愚劣にすることはない。これらをふまえて、鍛えられた大人は部厚く構えて軽薄には動かず、実際を大事にして見かけの華々しさは無視する。その取捨選択に筋を通すのだ。

上徳、不徳是以有徳。下徳、不失徳是以無徳。上徳、無為而無以為*。
上仁、為之而無以為。上義、為之而有以為。上礼、為之而莫之應、則攘臂而扔之。
故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後礼。
夫礼者、忠信之薄而乱之首。前識者、道之華而愚之始。
是以大丈夫、処其厚不居其薄、処其実不居其華。故去彼取此。
*底本は、ここに「下徳、為之而有以為」とある。帛書及び『韓非子』(解老篇)にはなく、それに従った。

上徳は、徳ならずして是(ここ)を以て徳あり。下徳は、徳を失わずして是を以て徳なし。上徳は、無為にし而(て)、以て為すこと無し。下徳は、之(これ)を為し而(て)、以て為すありとす。上仁は、之を為し而(て)、以て為すことなし。上義は之を為し而(て)、以て為すありとす。上礼は之を為し而(て)、之に応ずる莫(な)くんば、則(すなわ)ち臂(ひじ)を攘げ而(て)、之に扔(むか)う。故に道を失い而(て)、後に徳あり、徳を失い而(て)、後に仁あり、仁を失い而(て)、後に義あり、義を失い而(て)、後に礼あり。夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにし而(て)、乱の首(はじめ)なり。前識なる者は、道の華(はな)にし而(て)、愚の始めなり。是を以て大丈夫は、その厚きに処(お)りて、その薄きに居らず、其の実(じつ)に処りて其の華に居らず。故に彼れを去(す)てて此(これ)を取る。

解説 
 本章は郭店楚簡にはふくまれていないが、帛書では、『老子』は本章から始まっていた。帛書老子は「德」と「道」という二つの篇名をもって編纂されており、現行本と相違して「徳篇」が先にきているのである。それ故に帛書老子のトップは、この章になっているのである。
 その事情はよくわからないが、郭店楚簡は帛書以降のような五千字の『老子』が出来上がっていく途中の経過を示しているという意見をとると(【池田注釈】)、本章は一種の総論のようにして追加されたものかも知れない。目立つのは「仁・義・礼」という儒学の徳目に対する、『老子』には珍しいほどの激しい論難であって、ほとんど罵倒に近い。
 それだけに『老子』には珍しく分かりやすい話であるが、順にみていくと、「上徳」という言葉は、ほかに第四一章にも「上徳は谷の若し」とみえて、「道」にみちびかれた「徳」という意味である。この上徳は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)がある卓越した徳であり、無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが、「下徳」になると徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がなく、その中から「仁」というものが生まれ、これは形だけやったようでも何もやっていない。さらに「義」というものになると、やることはやったんだと言葉に逃げるだけになる。最悪なのは「礼」というもので、これは実際には相手に自分に都合のよい期待をかけて、相手がそれに応じないと威嚇するというもので、手前勝手な打算が上品そうな顔をしたものにすぎないという。
 こういうことでは世も末だというのが老子の慨嘆であって、「道」→「徳」→「仁」→「義」→「礼」と人間が形だけを気にするようになってきたのは許しがたいという訳である。これはもちろん、「仁・義・礼」を強調する儒学に対する批判である。しかし、このような怒りにも似た感情は単に儒学に対する批判であったとは考えられない。むしろ実際にはすべての徳目を形骸化してしまう社会の風潮に対する慨嘆から発しているのではないだろうか。つまり、これは戦国時代ににおける国家の文明化の中で蕩々と進行していた人間関係の形骸化が「仁・義・礼」などという美名によって隠されることへの批判であり、また国家の官僚機構のなかで強くなってくる形式的な倫理への批判であったというのが至当であろう。
 老子は「仁・義・礼」の徳目自体を否定しているのではないだろう。老子は、上記のような蕩々と進む人間関係と倫理の形骸化に対して孔子から始まった「士大夫」の知識人世界が十分な批判の論理をもたず、それに流されることへの警鐘を発したのだと考えたい。

2017年7月26日 (水)

『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

 本業の関係で、陰陽道の知識をえなければならず、ともかく易経の解説書を読み、それによって易経を拾い読みしてみた。「形而上学」という言葉の典拠が易経にあることは知っていたが、それを実際に読んでみて、日本の学術世界が東アジアの学術用語との連携をうしなっていることの問題を自覚した。

 また藤田省三氏の竹内光浩など編『語る藤田省三』(岩波現代文庫)の徂徠を読んで、たいへんに面白かった。そこに「器」論があるので、それと引っかけて、下記を書いてみた。藤田が「我らが同時代人、徂徠」という理由がよくわかる。
 
 また例によって労働論、労働の二重性論にふれる議論となった。

 また世阿弥がほぼ確実に『老子』を読んでいるだろうということも勉強した。
 
 お読みいただければ幸いです。

 『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

車の三十もある輻(や)(スポーク)が一つの轂(こしき)(ドラム)を共にするが、内側の空無によって車の用(はたら)きが支えられている。粘土をこねて陶器をつくるが、内側の空無にこそ器の用(はたら)きがある。戸と窓をあけて室を作るが、内側の空無にこそ室の用(はたら)きがある。有用物が利便なのは、その物のなかの無用にみえる部分の用(はたら)きによっているのである。

三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以為器。當其無有器之用。鑿牖以為室。當其無有室之用。故有之以為利、無之以為用。

三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり。埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無なるに当たって、室の用あり。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

解説
 冒頭の「三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり」というのは、いわゆる「無用の用」、つまり物の有用さは、実はそのもののもつ「無・無用性」によって支えられているということの巧妙な説明としてよく知られている。

 ただ、解説は二番目の「埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり」からする必要がある。つまり、老子のいう「器」というのは、有用な形をもつものすべてを表現する言葉である。経済学的に言えば、物体は、人間にとってほとんどの場合、何らかの有用性(効用)をもつから、この老子の用語法でいけば、すべての具体的な形をもった物は「器」として定義されることになる。

 老子は、この「器」の有用性を「器の用(はたら)き」(「車の用(はたら)き」「室の用(はたら)き」)と表現する。そして老子は「善」を物事の有用な本性をよく発揮させることとしていたから、この「器の用(はたら)き」の良さこそが「善」であるということになる。老子の「善」の定義の基礎には「器」→「用(はたら)き」という考え方があったことはとくに注意しておきたいことである(藤田一九一頁)。そもそも日本語の「はたらく」の元の形は「徴(はた)る」または「剥る」(「強く取り立てる」「削り取る」)であるという(『和訓栞』『字訓』)。「はたらく」とは強い目的意識の下に物や人間から何かを絞り出すことであって、それはドイツ語のアウスボイトング(Ausbeutung)が搾取という意味をもつと同時に自然を利用する、開発するという意味をもつのと同じことであろう。英語でいえばただの労役labourとは区別された目的意識を明瞭にもった仕事workが「はたらく」ということになる。

 また「器」という言葉は、器量・器用などという言葉が示すように、人間の技能・性格なども意味する言葉になった。荻生徂徠は「『器』とは道具だから特定のものに役に立つものだ。特徴のあるものだ。人間みな得手不得手がある。その得手不得手のない奴はぼんくらでどうにもならん。人がある事柄に役立つことを『器』という。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ」と述べている。

 この頃は「器」という言葉を使うこと自体が少なくなってしまったが、これは実は老子から始まったものなのである。それが中国的な思考方法に深く根付いたのは、紀元前二五〇年前後に編纂された『易経』繋辞伝が「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」と老子の「器」という用語を受容したときにさかのぼるといってよい。『易経』繋辞伝は儒家の編纂したものであるが、そこで形而上(形がない超越的な世界)、形而下(形のある世界)という用語を決めたときに「形而下」の世界は「器」の世界とされたのである(なお、この繋辞伝が、日本でメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となったのだから、そこからすると形而上学という語の淵源は老子にあったことになる)。

 はるかくだって日本の足利時代の能の大成者、世阿弥は「有は見、無は器なり。有を現すものは無なり」(『遊楽習道風見』)と述べている。つまり、有は目の前に見えているが、無は器の本質である。有を有として現す力をもつのは無なのであるということであるが、これは『老子』の本章によるものである。ここからみて、世阿弥は、ほぼ確実に『老子』を読んでいたであろう(石田博一九八四)。日本の芸能において「間」「無言」を大事にする伝統があることはよく知られているが、それが老子の言葉によって表現されていることにもっと注意すべきだろう。
 なお、蜂屋は『老子』には意外なことに観念としての「無」という言葉はほとんど出てこない(蜂屋「中国的思考一八二頁)。もちろん、ただの否定詞として否定表現のために使われる「無」はたくさん出てくるが、本章のような哲学用語らしい用例は第四〇章をのぞいてほとんどなく、その意味でも本章はきわめて重要であると述べている。

2017年7月18日 (火)

『老子』上善は水の若(ごと)し(第八章)

上善は水の若(ごと)し(第八章)

 上品な善というものは水のようなものである。水はすべてを潤して争わない。水は人の利用しない沼沢地に流れ込む。こういう水の性格はきわめて道に近い。それはともかく、住み方の善は地べたに近く棲むことにあり、心の善は奥が深く低いことにあり、友であることの善は思いやり(仁)にあり、言葉の善は言を守る信(まこと)にあり、正しいことの善は自分が治まっていることにあり、事業の善はただ己(おのれ)の能事(できること)をやることにあり、行動の善はただ時を外さないことにある。そもそも争わないというのは人に責任をもっていかないということだ。

上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信(まこと)にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し。

解説
 この「上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る」という章句は人生訓を説いた老子の言葉の中でももっとも有名なものであろう。第七八章には「天下に水より柔弱なるは莫(な)し」とあって、『老子』にとって「水」は柔弱なもの、つまり女性的な「徳(はたらき)」の比喩として使われている。

 人生にとって、この「水」のような争わない「柔弱さ」、「女性的な徳(はたらき)」、そして「水」のような自由が大事だというのが、老子のいいたいことであろうと思う。その意味では、本章は、悠然とした人生の自由を説いた「大きな象に乗って天下を往く」という本節冒頭で掲げた第三五章に対応するものである。ただ、「大象」=「大道」は「道」の比喩であって、どちらかといえば男性的な「道」と自由を説いているのに対して、この「上善、如し」は女性的な「徳(はたらき)」ということになる。そのような意味をふくめてこれを人生訓の最後として掲げることとした。

 本章の主題は「善」はこの「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」にこそあるということにある。それが物体としての「水」のあり方にそくして語られていることが、この章句を味わい深いものとしている。「居・心・与・言・正・事・動」などの人生の生き方に関わる事柄では「善」は水のもっているような自由と「徳(はたらき)」こそ大事であるというのである。つまり、「居=住み方」の善は地べたに近く棲むことにあるが、それは水が低いところに流れるのと同じであり、「心」の善は奥が深いことにあるが、それは水が深い淵を作るのと同じである。また「友(与)」であることの善は水のように柔弱な思いやり(「仁」)にあり、「言(言葉)」の善は水のように純粋透明な信(まこと)にある。「信(まこと)」とは言語の透明さと誠実を意味するというのである。さらに「正しいこと」の善は自分の内面が明鏡止水(鏡のように静かな水面)のように治まっていることにあるというのである。

 このような「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」の評価が、さらに一種の行動原則にも及んでいることが重要であろう。まず「事」の善、つまり大小の事業における「善」はただ能事(できること)をやるだけというのは、諺でいう「能事畢矣(能事(のうじ)畢(おわ)れり)」、つまり「なすべきことをなし、後は運に任せる」ということである。この諺の典拠は、普通、『易経』(繋辞上)によるというが、言葉としてはそうであっても、本来は『老子』に由来するものであった可能性もあると思う。自分の分担は淡々とこなし、結果は静かに待つという柔軟な受動性ということである。そして、「動(行動)」の善はただ自分の時を外さないことにあるというも、冷静であると同時に水のように即座に反応するという受動のイメージだろうと思う。

 これらの「居ー地」「心ー淵」「与ー仁」「言ー信」「正ー治」「事ー能」「動ー時」のすべてについて、「水」のイメージの内観をもって事にあたれというのが『老子』の人生訓ということになる。もちろん、ここであげられている徳目は『論語』『孟子』などにも出てくるものが多いが、しかし、当時の人々にとっては、本章は、儒家の言説を体系的に組み替える衝撃力をもっていたのではないかと思う。それらの徳目が「水」の受動的で柔弱さな徳(はたらき)と一括して捉えられ、「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」とまとめられることによって、全体のイメージがまったく異なってくるのである(なお「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」は、普通、「争わないから尤(とが)められることもない」と訳されるが、ここは、文脈からいって「争わないとは人に責任をもっていかないことだ」と訳したい)。

 なお、本章で面白いのは、冒頭で「水」の性格について述べた後に、「故に道に幾(ちか)し」とされるところだろう。これは「水と同じように道も無為自然だ」というように抽象的に理解されるが、しかし、例によって、まずはもっと即物的に理解されなければならないだろう。つまり、道路の場所としての性格が水辺の土地や水路と似ているといっているのである。たとえば、日本には「水に流す」という言葉があるが、水路・河原はそもそも汚れ物を排出しておく場所であった。そのため、たとえば平安時代によると、そういう場所で汚物をみてそのまま内裏に参上したり、神事に従ったりしても、「穢れ」のタブーにふれたことにはならないという慣習があった。そして実は道路の「穢れ」も、同じくタブーのはならなかったのである。

 これは河原・水路と道路は社会のなかの開放空間という点で共通性をもっているということだと理解されている(山本幸司一九九二)。つまり道が四通八達するのにそって、川や水路も四通八達していく。道と川・水路の開放空間が自然を区分すると同時にしていき、社会のインフラストラクチャとなっていくのである。日本と中国では「浄穢」観念のあり方は相違しているが、水路・河原と道の性格は共通していたに相違ない。「故に道に幾(ちか)し」というのは、まずはそういう具体的なニュアンスであったに相違ない。

 そして、道と川をくらべれば、老子の好むところは川にあったに違いない。それに対して、これまでの解釈には「故に道に幾(ちか)し」を「水は道に近いほどの価値をもっているのだ」というニュアンスがどうしてもつきまとっているように思う。しかし、川の方が自然と大地に近く、より自由で、より謙虚なものであって、老子にとっては、「道」(男性的な道と理法の世界)よりも、「水の徳(はたらき)」(女性的な受動の徳)の方が本質的に「善」なるものであったことは疑いをいれないと思う。

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