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カテゴリー「文学」の23件の記事

2017年11月21日 (火)

能「船岡山」台本(案)  2015年1月 保立道久

能「船岡山」台本(案)  2015年1月 保立道久


前ジテ(大舎人織手女。泥眼)
後ジテ(大舎人織手女。孫次郎)
シテツレ(大舎人乙名)
子方
ワキ(一休)
ワキツレ(一休従僧)
アイ(今宮神主)
前場(常磐井)
中入り(真珠庵)
後場(今宮神社)

あらすじ
 応仁の乱を逃れ住吉に退避していた一休は大徳寺の法堂再建のために戻ることとなり、応仁の乱のときに西軍の陣の置かれ、焼け跡となった大舎人の織手町を抜け、大宮通りを大徳寺にむかう。その途中で七夕の大施餓鬼の棚がならぶ常磐井のそばで休息するが、井のそばにいた女が施餓鬼の棚をみたら御経を上げよとつっかかる。女は大舎人の織手女で応仁の乱で軍馬に男児を踏み殺され、物狂いがついたと自称し、常磐井の由緒を聞いてほしいといいだす。船岡山には、平安の昔、源家の館があり、源義朝は、そこに常磐を北方として一門の上臈にもてなした。遮那王義経は、ここで生まれたと考えてよい。しかし、保元の乱で、船岡は義朝による父為義らを処刑する場所となり、これが源家の不運の始まりとなった(保立『義経の登場』。常磐井の伝承は宗敏老僧から伺った)。
 その夜、本寺再興のための足場としておいた寺庵(後の真珠庵)で就寝した一休は、その大喝とともに、星が船岡山の織姫社にしばしおりてきて、今宮の方に光り物が飛び、その光の中で常磐が成仏するという夢をみた。
 翌朝、旧知の今宮神主が真珠庵を訪れ、七夕翌朝で境内の掃除の行われている今宮に参向を促し、大舎人の乙名と妻女らとともに、今宮の竹叢に錦の裂れがあるのをみて、すべてを知る。こうして大舎人の衆の関与のもとに今宮に織り姫社が立てられ、西陣の守り神となった。


前場(常磐井)
ワキ(一休)これは大徳寺の一休にて候。戦さの都を逃れ出て、久しく摂津は住吉に候へども、本寺再興に助成せよとの懇請やみがたく、及ばずながら紫野に向かうところに候。
ワキツレ(従僧)。大舎人の織手町の西軍の陣となりて焼け野原。驚き存じ候。汝や知る 都は野辺の夕雲雀 上がるを見ても 落つる涙はとは、このことに候。すでにここは船岡山の麓。あちらにみゆるは常磐の井。本寺へ御到着の前に、井にてしばし休ませ給ふは如何に(脇座で休み)。
<前ジテ> 尊げなる和尚たるに、なんぞ、施餓鬼の棚を御覧もなきか。一節、御経を御読みあるべく候。時はおりしも七夕の大施餓鬼にて候。 <ワキツレ(従僧)>。和尚にむけて、物をとくとは何ぞ。 <ワキ> まあ。あいや女性、暑中の歩行にて意を失し候。されば、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
<前ジテ> いやいや、やいや。 <ワキツレ(従僧)> これ、そなたはいかなる女人に候ぞ。物狂な。
<前ジテ> これは大舎人の織手女に候。宿の戦陣に取りこまれ、軍馬の蹄に幼い息子を踏み殺され、物狂いのつけるよ、とや。織る手の乱れ流れては、筬杼の交ひもたどたどしい。うたてやなう。心あらん人は、とぶらひてこそ賜ぶべけれと待ちおり候。松はもとより常磐なりと申し候らはずや。我は、ときごとに、この井に通い、常磐御前の菩提を祈りて候。戦の恨めしさや。哀れや。夫は突き殺さるるといひ、愛児遮那王は兄に殺され。常磐や、哀れ。あら苦しや目まひや。この常磐井にこもる怨念をしらずや。船岡の悪の由緒を知らずや。なほ執心の、胸の苦しや。肝のやける。
<ワキツレ> 女に狂乱の心のつけるかや。中途より、声変わりてけしからず。
<地> そもそも船岡山といっぱ、源家棟梁の館、保元の昔、左馬頭義朝殿が屋敷をおき、常磐を北方に一門の上臈にもてなし、遮那王義経をもうけしところ。常磐井といい産湯の弁財天といい、都にしるきその遺跡(ゆいせき)なり。
<前ジテ、一声> 龍女になりてぞ語らんか。しかるに保元の王城合戦に勝てる褒美に父を殺せ、兄弟・甥子を殺せとのあまりの勅定、船岡の館は阿鼻叫喚の巷となれり。左馬頭殿の悲運に見舞われ、源家に悪鬼のつくはまさにこの場に始まれり。龍女の目には涙なし。見しものすべて無惨、無惨。
<ワキ>これは紫野は龍寶山、大徳寺の一休に候。そなたすべてを見しと存ずるか。しかるべからず候。北隣にすでに大燈の露柱の立ち、船岡山の龍を伏せるを知らずや。口を開けば即ち錯り、舌を動ずれば即ち乖かんか(大燈)。かーつっ。
<地>和尚の大喝に、女の鎮まるところに、夫の大舎人の首と女子の走り来て(揺れる)女を支え、しがみつく。
<シテツレ> 一休和尚とあい存じ候。これは大舎人の織手座の首(おとな)に候。妻女の男児を失いし後、物の付きたるように候。御無礼候らんか。御許しあるべく候。
<ワキ> なかなか。<シテツレ> 以前、御姿を拝し候。御寺に御戻り候はんか。身どもらにとりても祝着のことに存じ候。やい、娘、父は和尚を御寺に御送りつけまいらせる間、母者の手を引きて、戻れい。よう
<ワキ> おうおう、よい娘子じゃ。そなたも大儀な。ここにて、大事ない。明日にも菴に参られよ。
中入り(真珠庵)
<地> 旅の疲れに住坊の庭の松風更け過ぎて、和尚の夢に現るは、龍女の心の常磐にて、昔を今の物語。
<前ジテ>この路を鞍馬に送りし遮那王の、声を聞きたや、姿をみたや。乱れ心にとりつくは、なぜに大功立てし弟を、無惨に討つは、頼朝殿の、その恨めしさ限りなし。その恨めしさ限りなし。げに先年も、戦さの修羅の鬨の聲、矢叫びの音振動せり*1。聞きたうない。今に繰り返す戦の修羅ぞ、忌まわしき。かきくどき、かきくどく。
<ワキ> 汝、未だその胞胎を出でざるときの本分の事を知るか。エイ。
<ワキツレ・地?>生まれぬ前の身を知れば、憐れむべき親もなし。心を留むる子もなし。野に臥し山に泊まる身の、これぞ誠の栖なる*2。
<地>和尚の喝声の響くや、夜空の星の船岡山におりて、しばし織姫の社を照らし、大徳寺を斜交いに飛んで、女の身体を透過して今宮の社に届くと見えけり。
<後ジテ> うれしきことは船岡の使いし産湯の暖かさ。うれしきことは和尚の声。織姫の星を降ろして、我が身内(みぬち)、我が胸、我が手、熱く通して賜りしこと。ありがたや。この織手。ありがたや。常磐殿さらば。龍女成仏せられよ。なあ。


後場(今宮社)
<アイ、今宮神主> これは今宮の神主に候。一休和尚はお目覚めあるか。 <ワキツレ> いままいらりょう。 <アイ> 御久しうござる。この度は無事に御到着。なによりものことでござる。すでに和尚の御到着、氏子の衆に伝わって候。
<ワキ> これはこれは御久しう。今宮の社は無為なりしか。何よりものことに候。昨日は大舎人町を道すがら、目も当てられぬ有様に候。織手の乙名にも対面して候。
<アイ> そのことに候。今朝、織手の衆の参られ候。和尚の接心によりて、乙名の妻女の女の正気に戻りて候とのことに候。 <ワキ> それはなによりに候。
<アイ> また、この夜半、空の星の船岡山におりて織姫の社を照らし、今宮の社に飛ぶと見え候とのことに候。ものに驚ける氏子の衆の、みなみな今宮に詣できて候て、和尚に時宜を申したきとのことに候。如何、御足労賜りたく候。
<ワキ> これは、みなみな懐かしや。まいろうずるにて候。
<地> 今宮は、七夕の翌朝にして、酒掃(さいそう)に参ぜる氏子の人びとのさんざめけるが、そのうちより和尚のもとに大舎人の織手の急ぎ参りてかしこまる。
<シテツレ> 昨日はまことに有り難く存じ候。織手女の第一と大舎人の町に知られたる、妻女の織手の戻れるを喜びおりまして候。
<後ジテ> 昨日の大喝、目が覚めましてありがたく存じ候。夜半、ふと身内の暖かく、瘧の落つるやうに、ほんに悲しみの胸に落ち着きまして候。和尚のおかげさまにて候。夫・娘とともに、涼(すが)しくも今宮の酒掃に出でて候。
立木台(竹)のうえに錦の反物、進入
<後ジテ> あれ、さてもさても、不思議なることの候あいだ、社殿かたわらの竹叢を御覧なされたく候。かしこに。
<アイ> これは如何なこと。見事なる錦の裂れに候。大舎人の織手の手になるものにて候か。あるいは、織り姫社より飛び来る光物とはこれなるか。不思議なることに候。
<地> そもそも大舎人の織手といっぱ、かたじけなくも内裏の北に居所をさだめ、紡織の宿に身を置き*3、都・田舎の通いを回旋し、人を助くるを業とせり。
<後ジテ、シテツレ>
これぞ織手の守り神。今宮にこそあるべけれ。
白妙のとよみてぐらをとり持て いはひぞそむる紫の野に
祝いぞそむる 織り姫のやしろ
我ら戦の修羅の場を、都の錦に織り直し、美々(びび)しく日々を紡がんか。美々しく日々を紡がんか。

2015年12月26日 (土)

歌舞伎『菅原伝授手習鑑』のパンフレット解説

 新橋演舞場の新春歌舞伎の車引(『菅原伝授手習鑑』)のパンフレット解説を書いた。

 下記は草稿。あわてて書いたので、文章がずるずるしている。頭から、もつれ、切れかかった糸を引っ張り出したという感じである。

 私は、道真配流事件のきっかけは宇多が斉世を兄の醍醐の皇太子にしようとしたことから始まったという説をもっていて、それにそって事件としての「車引き」の解説をした。この説は本来、論文にしなければならないもの。まぎれてしまってやっていないが、事件の概要の『平安王朝』に必要なことは書いた。これを、ここ20年ほどにでたすべての論文を読んで正確に記述し直すということは人生の時間との関係でできそうにない。

 道真は雷神であるのみでなく、地震神として吉野の地下にいた(『扶桑略記』)。そして本来吉野の地下にはオオナムチがいたのだから、道真はオオナムチに取って代わったのであると考えている(「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(アリーナ最近号)。 そういう意味でも、斉世は重要な人物であって、くわしく教科書でふれてもいいと思う。河音能平さんの仕事をそういう形で生かしたい。

 『菅原伝授手習鑑』を解説してみて、平安時代や室町時代の歴史を徳川時代の人びとがどう受け止めているかは歴史学にとってもきわめて重要な問題であることを実感した。『日本の近世2』の内山三樹子「演劇史のなかの天皇」によると、浄瑠璃歌舞伎では、上皇・法王と天皇の争いは描かれず、摂関が悪いか「悪王子」が悪いかという筋書きになっているという。これが日本の歴史常識や歴史の教科書などではいまだにつづいている訳である。ここから組み立て直さなければ日本の歴史文化はどうしようもない。

 藤原教通の従者同士が喧嘩した事件で殺された教通の従者が「車借の男」であった事実は、ずっと気になっていたが、ここで初めて活字になった(『本朝世紀』一〇一三年六月)。牛飼が車借であろうというのは網野善彦さんが西の京の論文で推定しているが、これが早い時期の史証である。

 以下のようなもの。
 

 宇多天皇の長男の敦仁親王の母・胤子は宇治郡司の娘で、藤原高藤が雨宿りしたときの一夜の契りから生まれたという女性である。それに対して醍醐の一歳下の弟の斉世親王は宇多の学問の師の橘広相の娘(おそらく宇多の最初の妻)で、母の家柄はかならずしも見劣りする訳ではなかった。ただ上皇という自由な立場にあこがれた宇多は、三一歳の若さで引退するにあたり、道真の献言を入れて、年令を尊重して長男の敦仁を即位させた(醍醐天皇。時に一三歳)。そして宇多は醍醐の補佐に藤原氏の長者、大納言藤原時平と権大納言道真の二人をあて、醍醐は時平の妹を娶った。

 これで醍醐に子供が恵まれれば事態は平穏のうちに過ぎたかもしれないが、醍醐には子供がうまれず、それに対して斉世は道真の娘との間に源英明という男児をもうけた。この子は宇多上皇にとっては初孫にあたる。醍醐の即位三年後のことであった。私は、ここで宇多が斉世を兄の醍醐の皇太子にしようとしたのが、有名な道真配流事件の原因となったと考えている。それは事件の後に斉世が出家させられていることに明らかである。

 道真も、橘広相を学問の師としており、ようするに宇多天皇とは同門の仲である。この時期の天皇家は清和天皇ー陽成天皇と続いた王統が陽成の「御乱心」もあって、光孝天皇の流れに代わった時期で、光孝の子供の宇多は最初から天皇の候補ではなく、一度、臣籍に降下していた。宇多は、生まれた時から神童といわれた道真を同門の若き俊英としてよく知っていて、相談相手としていたのだろう。これが時平を中心とする貴族たちの警戒を招き悲劇がもたらされたのである。当時の記録には道真が「父子の間、兄弟の愛を破ろうとした」とあるが、実際には、事の発起は宇多にあったというのが穏当な理解だろう。

 以上が主人筋の斉世親王、藤原時平、菅原道真についての説明であるが、『菅原伝授手習鑑』は、この事情をほぼ正確に描き出している。さらに驚くのは平安時代の歴史についての知識が豊富なことで、それはまずは、三つ子の兄弟、梅王丸、松王丸、桜丸の名前に現れている。年令順に説明すると、梅王丸の「梅」は、いうまでもなく道真が都から流される時に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌を詠んだところ、その梅が大宰府の配流先の道真の屋敷にまで飛んできて根を下ろしたという「飛梅伝説」にちなむものである。

 次の松王丸の「松」は、北野天満宮の摂社、老松社にちなむものだろう。道真が怖ろしい天神となって京へ戻ってきたとき、道真は「松は我が形のもの也」と託宣したという。「老松」とは、そのとき随従してきた翁神である。『北野天神縁起』によれば、この神はたいへんな「不調者(暴れ者)」であるという。松王丸の激しさにふさわしい神であるように思う。松王丸は翁になっても、神になっても激情一途ということであろうか。

 これに対して斉世親王に仕えた桜丸の「桜」は、斉世親王の優しさと潔さを表現しているといってよいだろう。斉世の出家は一面では強請されたものであろうが、道真が配流された以上、すっぱりと世俗から離れてしまうという決断をしたと考えることができるように思う。

 なお、梅王丸、松王丸、桜丸はおのおの舎人として主人に仕えたという設定になっているが、舎人とは、天皇や王族・貴族に仕える官位のない民間からでた家来のことである。トネリの語源はわからないが、私は、おそらく家の主婦を家刀自(トジ)といい、村の有力な男を刀禰(トネ)というのと関係する言葉だろうと思う。『菅原伝授手習鑑』が、この舎人を牛車をみちびく牛童として描いているのも、作者の豊富な歴史知識を示している。実際に、道真の時代がすぎて一〇世紀後半になると、舎人はしばしば牛車をみちびく牛飼になっていき、牛飼・牛飼童たちは、大人になっても「――丸」という童名のままで烏帽子をかぶらぬ童髪の姿である。

 彼らは、いわゆる京童の中心をなす人々で、その乱暴ぶりがよく知られている。けれども彼らも、いつも騒いだり、牛車を遣っているのではなく、その生業は車借にあった。それをもっともよく示すのは平等院を建てた藤原頼通と弟の教通の従者同士が喧嘩した事件で殺された教通の従者が「車借の男」であったことだろう(『本朝世紀』一〇一三年六月)。そして、実は、このような牛飼・車借たちは、道真の祭られている北野神社に仕える「神人」という身分をもっていたのである。彼らは村上天皇の頃からというから、一〇世紀の半ば頃から、その身分を示す「一寸ばかりなる短冊」を誇示して、京都の関所に盤踞して、物を運び、手数料を悪ねだりしていたことがわかるのである。

 もう一つ面白いのは、梅王丸、松王丸、桜丸の父親の名が白大夫といわれていることで、この白大夫も、北野八幡宮の摂社の一つで、右の老松社に並んで立っている白大夫社にちなんだものなのである。この白大夫(はくだゆう)とは百大夫ともいう芸人の親玉というべき翁神であるが、柳田国男によれば、その遊芸はあるいは木偶(くぐつ)を舞わせる芸であるといい、あるいは遊女の芸であるともいう。ただ、私は『北野天神縁起』が時平・清貫・希世など、さらには醍醐天皇自身までが地獄に堕ちたと語っているのが大事だと思う。鎌倉時代にできた『北野天神縁起』は地獄語りの絵巻なのである。おそらく、北野天満宮の信仰をとれば、その地獄語りをする芸人たちというのが、白大夫社の系列に属する芸人なのではないかというのが私の想定である。物語の芸人は『平家物語』を語る琵琶法師だけではないのは明らかなのである。

 さて、「車曳」の段についての歴史学からの解説は、だいたいこんなところであるが、この浄瑠璃歌舞伎の作者が、菅原道真と北野天神についてよく調べていると思うのは、土師の里の段である。つまり、『手習鑑』では道真の伯母の覚樹は土師の里に住んでいるとなっているが、これは菅原氏が奈良時代末までは土師氏であったという歴史事実をふまえているのだと思う。土師氏は、そもそも相撲の元祖として知られる野見宿弥を始祖とする氏族で、埴輪を作り、前方後円墳を管理する役割をもっていた。道真が生まれる五〇年ほど前まで、菅原氏は冥界の管理者であったのである。その記憶は残っていたに違いない。道真が地獄を支配する神になったのは、その伝統をうけたものなのであろうと、私は、考えている。

2015年9月24日 (木)

老子39と42。日本神話を読むための老子

 地震火山神話を中心に神話論をやっていますが、『荘子』を読まねばならず、必然的に『老子』に迷い込みました。形而上学化した荘子にくらべ、老子では神話論的イメージが素朴で、生き生きとしているというのは、いわれるところです。

 私は漢文教育復活論者ですが、その場合、小学校では論語がよいでしょうが、しかし、中学では老子をやったらどうかと思います。老子の方が若者のつらさには響くものがあるのではないでしょうか。

 私は文学の授業には『古事記』を加えたいという益田勝美さんの意見に賛成です。その場合、日本の神話には宇宙論的な要素が少ないのが問題で、これを『老子』で補うことができるのではないかと思います。
 
 我々の世代だと中国の「文化大革命」のときの滑稽な「批孔」の問題があり、不思議の感を持ちました。そののち、蔵原惟人氏の中国哲学論を読み、それ以来、中国哲学をどう学ぶかということは私にとって大事な宿題でした。意外なルートで『老子』を読むということになり、喜んでいるのですが、これまでの現代語訳には納得できないものを感じます。もちろん、素人ですから、先学を簡単に批判すべきではありませんが、あまりに世俗的な読み方になっているか、形而上学をそのまま繰り返すようになっているかのどちらかになってしまう向きを感じます。しかし、老子は日本でもっとも詳細に読まれている古典であることがよくわかりました。
 
 中学生に読ませようとしたら、いろいろな工夫がいるのではないか。いや自身で読むのにも現代語訳をしないとわからないということで、だいたい半分近くの翻訳を終えました。
 
 これは少しものになりそうなので、本格的に勉強するために『津田左右吉全集〈第13巻〉道家の思想とその展開 』を注文しました。私は津田左右吉は端本でもっているのですが、これは読んでいません。

 これを読んだら、また神話論に立ち返ろうとしています。
 
 以下、39章と42章です。これは神話論に直結するところで、『古事記』『日本書紀』の冒頭を読むためにどうしても必要と思ってやったものです。

39 万物の霊長の誉れ
 本来の初発は次のようなものだ。つまり天は初発から清澄であり、地は安寧である。神は初発から霊魂をもち、谷の女神は最初から孕んでいる。万物は初発において生じており、その王たる人間も初発から世界の長であった。
 天は清澄でなければ破裂するし、地は安寧でなければ傾廃する。神に霊魂が宿っていなければ心が動かなくなり、谷神が孕まなければ身体が尽きてしまう。万物が最初に生じていなかったら、まさに今滅ぶところになり、王たる人間が万物を貴ぶことがなければすぐに躓いて倒れてしまう。
 こうして天と地、神と谷神、万物と人間が、初発から貴賤と高下でつながれており、その貴きは賤しき、高きは下きをもって根源とするのが定めなのである。
 万物の霊長であり、王である人間は、世界の孤児であり、寡であり、僕であるとへりくだらなければならない。これこそ、賤しいものが根源となるということである。そうなのだ。だから王という誉れを数え致(きわ)めていくと、それは誉れではない。王の身分であるからといって美しい琭玉を欲してはならない。むしろ落ちている石のようでなければならない。


昔の一を得る者、
天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、
神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、
万物は一を得て以て生じ、侯王は一を得て以て天下の長と為る。
それ之を致せば、
天は以て清きこと無くんば、将に裂けるを恐れんとす。
地は以て寧きこと無くんば、将に廃くを恐れんとす。
神は以て霊なること無くんば、将に歇むを恐れんとす。
谷は以て盈つること無くんば、将に竭くることを恐れんとす。
万物は以て生ずること無くんば、将に滅ぶを恐れんとす。
侯王は以て貴高なること無くんば、将に蹶づくを恐れんとす。
故に貴きは賤しきを以て本と為し、
高きは下きを以て基と為す。
是を以て侯王は自ら孤、寡、僕と謂う。
此れ賤しきを以て本と為すに非ざるや。
故に数々(しばしば)の誉れを致せば、誉れ無し。
琭琭として玉の如きを欲せず、落落として石の如し。

42 永遠の時間と無限大の空間
 道があって、そこから初発が生じるが、一は二になり、二が三になって急速に万物が生じていく。万物は、永遠の時間のなかで、背に月の陰を負い、前に太陽の陽を抱き、無限大の空間のなかで、沖天の気をもって声を上げ、声を和せる。
 人は孤であり、寡であり、僕であることをいやがるが、しかし、万物の王たるものとして、これは誉称である。万物は損じたようにみえて益し、益したようにみえて損ずるものである。このような損益の関わりについて、人の教えることを私も端的にいってみるとすると、強すぎるものは死に方がむずかしいのだ。私は「孤・寡・僕」というのを教えの始めとしたい。


道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
物は陰を負いて陽を抱き、沖気もって和を為す。
人の悪む所は、唯だ孤・寡・僕なるも、而も王公は以て称と為す。
故に物は或いは之を損じて益し、或いは之を益して損ずる。
人の教うる所は、我も亦之を教えん。
強梁なる者は其の死を得ず。
吾れ将に以て教えの甫と為さんとす。

字は直してしまう。読みやすいテキストにしてしまう。字の原義に関わるものは特に大事にする。老子を読むことは漢字をつかって抽象的な思考をする訓練であると考えることができるように思います。一種の散文詩のように書く感じでやっています。

2015年9月 4日 (金)

老子74

アーシュラ・K・ルグィンの「Lao Tzu Tao Te Ching」、老子の英訳を読んでいる。
眠れぬまま、老子74を訳してみた。これまでの訳は、ルグウィンのものもふくめて、老子を政治的に読み過ぎているように思う。

 人が死に近づいていく定めを怖れなければ
 死は禍々しい姿をみせない。
 禍々しい死への怖れが人に常に取り付いてしまうのは
 どこかに悪の親玉が生まれているからである。
 彼を捜し、おのもおのもの力を集めて殺さねばならない。
 それを首切役に委ねてはならない。
 首切役は自分の役目を大工が木を切るのと同じだと考える。
 人の首を木のように切る大工の手は癒えない傷をうけ、そこから腐敗がはじまる。

 ある友人に教わって加島祥造「タオ」を頼んだら今日、届いた。しかし、これもどうかと思う。老子のいうことはもっと個人的なことのような気がする。友人は老子のずるさ俗的に賢いところがきらいだといっていたが、そこまではまだみえない。倭国神話のことをやり始めて、荘子を読むことはどうしても必要になり、その延長のようにして読んでいるが、面白いうものだ。

2014年7月24日 (木)

地震火山108災害文学としての『方丈記』、朝日カルチャーセンター

 明日は新宿の朝日カルチャーセンターで講演である。「『方丈記』と水」というテーマで、『方丈記』の災害文学としての側面を考えるのは重要なので、御引き受けした。

 昨日から準備をはじめて、だいたいできつつある。パワーポイントのデータをうつして若干の感想を書く。私は堀田善衛をよく読んだので、逆に堀田の『方丈記私記』をいつまでも褒めていられるか、歴史家にも一分の魂と考えてきた。そういう心理の下で、「平安時代末期の地震と龍神信仰」(『歴史評論』2012,10)を書いた。

 そして、必然的に、この論文では評価の高い『方丈記』の文章を災害にそくしてテキスト批判するという立場から、長明の見方を相対化しようとした。今回は、さらに相対化したいと思って昨日からやってきた。

 堀田善衛の『方丈記私記』で感心したのは、右の論文でも書いたが、堀田が長明は「家、住居というものに異様なほどに興味のある人」であり、無常どころか、現世への執着が深かったという指摘である。これは浅見和彦氏がさらに具体的に論証しており、確実な論点である。私も、右の論文で「『方丈記』が「家」というものについての偏執にあふれている」「彼にとっての執念は、都における賀茂社の神主としての身分に照応する居宅をもつことにあったに違いない」と書いた。

 ただ、今回考えているのは、長明は「家」と同時に「地」そのものへの驚異のようなものを考えたのではないかということである。つまり、下記のように繰り返される「地」という言葉である。ここに長明は一種の地盤喪失、ボーデンロースの感情を表現しているように思う。


遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。
軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。
所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。
むなしき地は多く、作れる屋はすくなし。
元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、
國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。
はしり出づればまた地われさく。
四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。


 そして、この「地」は網野善彦のいうところの自然としての大地であり、古語でいえば「な」である。「ナは土地、ヰは居。本来地盤の意。なゐ震り、なゐ揺り、で地震の意味であったが、後にナヰだけで地震。ナは満州語na(土・土地)と同源」(『古語辞典』大野晋、岩波書店)ということである。「なゐふる」が地震だったが、「なゐ」だけで地震という意味となった。これは自然としての大地を考えるとき、人々が古語をつかったということであろう。


 しかし、逆にこう考えてくると、やはり『方丈記』の評価が自分のなかで上昇してくるのを感じる。
 問題の部分を全部引用する。
 これを読むと、日本社会は、現在も変わっていないのではないかという感が深い。

 「人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし」ということにならないように、そして、いまでも長明のいうような社会的格差がかわっていない状況は、災害の関係ではどうにかするのが歴史的な経験を大事にするということであると思う。


 こう考えると、『方丈記』はやはり中学校で教材にしなければならないものだと思う。『竹取物語』はフェミニズム。『方丈記』は災害の感覚の問題であろう。

また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。

都の邊(ほとり)には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも登らむ。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震(ない)なりけりとこそ覺え侍りしか。

 かくおびただしくふる事は、暫しにて、止みにしかども、その餘波(なごり)しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ(ひとひまぜ)、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。

 四大種の中に、水・火・風は、常に害をなせど、大地に至りては、殊なる變をなさず。「昔、齊衡の頃とか、大地震ふりて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、猶この度には如かず」とぞ。すなはち、人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし。

 すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとの、はかなくあだなる樣、又かくのごとし。いはんや、處により、身のほどに隨ひつつ、心をなやますことは、あげて數ふべからず。

 もし、おのづから身かなはずして、權門のかたはらに居る者は、深く悦ぶことはあれども、大いにたのしぶにあたはず。歎きある時も、聲をあげて泣くことなし。進退やすからず。立ち居につけて、恐れをのゝく。たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして、富める家の鄰に居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、諂ひつゝ出で入る。妻子・童僕の羨めるさまを見るにも、富める家のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて、時として安からず。

 若し、狹き地に居れば、近く炎上ある時、その災いを遁るゝことなし。もし、邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。また、いきほひある者は貪慾深く、ひとり身なる者は人に輕めらる。寶あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身他の有(ゆう)なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの處をしめて、いかなるわざをしてか、暫(しば)しもこの身をやどし、玉ゆらも、心をやすむべき。

さて、しかし、カルチャーセンターでのお題は「水」なので、これからもう一がんばりである。

2014年7月 5日 (土)

エヴァ・ホフマンさんと崔善愛さんの対話会

 いま総武線のなか。池袋のジュンク堂でエヴァ・ホフマンさんと崔善愛さんの対話会があって、連れ合いと一緒に参加し、その帰りである。崔善愛さんの間近の席であった。
 たいへんに面白かった。楽しかった。

 エヴァ・ホフマンさんは1945年、ポーランド領ウクライナで生まれたが、生まれた村の人々はナチスにほぼ全員殺害されたが、ご両親と妹とともに、奇跡的に助かり、13歳頃までポーランドのクラフクで育ち、父親の判断で1960年にカナダへ移住。ニューヨークタイムズの編集者の後、その祖国喪失の経験とご両親のホロコースト経験をつめていき『Lost in Translation: A Life in a New Language』で作家・評論家として活動。

 崔さんは、在日韓国人のカソリックの牧師さんの家庭で育ち、ピアニストとして音大へ。ご両親とともに指紋押捺拒否の動きをしながら、アメリカ留学を決意し、アメリカでショパンの手紙を読み、ショパンの音楽の奥底にある社会的・政治的意思に驚嘆して、それを支えとしてピアニストとしての道を歩んできたという方。私は崔さんの本を愛読しており、そのCD「ザル」もよく聞くので、間近にすわれたのは楽しい経験。

 ホフマンさんも、クラクフではピアニストとしての本格的な訓練をしたということで、お二人の共通する話題のショパンの話、そして言語喪失、二つの文化のなかでの孤独あるいは、地盤喪失の問題が重なり合った対話となった。たいへんに濃密な話で共感するところが多かった。音楽と言語という話なので、これは良質の「哲学」の話のように聞いていた。
 崔さんは日本語、ホフマンさんは英語、通訳を早川さんがされる。ホフマンさんの英語は分かりやすく、我々でもほとんどわかると二人で喜んでいた。

 行きの電車では早川敦子さんの『世界文学を継ぐ者たち』(集英社新書)を半分ほど読みながらきた。ホロコーストが欧米の文学に何をもたらしたかという話であった。ヴァージニア・ウルフからはじまる説明を納得しながら読む。

 いわゆるカルチュラルスタディーズの研究に属する。歴史学にとってはカルチュラルスタディーズから言語論的転回へというのは簡単には了解できない問題である。けれども、途中まで読んでみて、カルチュラルスタディーズというものの背後にあるもっとも良質のものが何であるのかがよく分かったようにも思う。少なくとも、この本によって、ホロコーストの問題が現代文学に深い根を下ろし、そこから歴史を問う文学と思想の営みがあることがよくわかる。

 私は前近代の歴史学を専攻しているので、直接に、このレヴェルの問題にかかわることはできないが、しかし、太平洋戦争の問題は、前近代史の研究にも直接に関わってくるところが多々ある。いま、興味があるのは、第二次世界大戦前に行われた人類学・先史学の東南アジア研究をどう考えるかである。ジュンク堂で、対話会が始まる前に、神話論の棚をみたが、ゆまに書房から復刻されている第二次大戦前の神話論のシリーズをぱらぱらみる。東南アジアの神話についての言及が多い。

 さて、この関係で、驚いたことを一つ、報告。三品の名前は、現在ではあまり知られていないかもしれないが、神話学の中では、松村武雄に次いで大きな仕事をした研究者である。ただ、そのエネルギーの相当部分が朝鮮史の研究に捧げられていたのが、神話学一本で通した松村とは違うかもしれない。そして、三品は朝鮮史家としては、いわゆる「日鮮同祖論」の展開に責任のある学者であった。山尾幸久が戦後派歴史学の限界は、一九四〇年に出版された三品の『朝鮮史概説』の徹底的な批判から出発できなかったことにあるとまでいっているように、その仕事を継承するためには、東アジアとの関係でのさまざまなニュアンスをもった問題を詰めて考えておく必要があるような、重たい位置をもった研究者であるということができる(『古代王権の原像』)。
 しかし、私は、三品の初心それ自身は、やはり神話学にあったと思う。とくに興味深いのは、三品がアメリカに留学したときに、アメリカの人類学者アルフレッド・L・クローバーを師としたということである。三品はクローバーの著書『フィリピン民族誌』を翻訳をしている(横田健一と共訳)。先日、この訳書を古本で買うことができた(安い)。三品の時代的限界はあるのではあろうが、その視野はきわめて広かったように思われるのである。
 
 以上は、もう二・三ヶ月まえに書いたのだが、そのままになっていた。
 クローバーは『ゲド戦記』の著者アーシュラ・K・L・グィンの父にあたるが、これも先日、ルグィンの老子の翻訳を読んでいたら、彼女は、幼いときから父のもっていた老子を読んでいたとある。そして、その翻訳はポール・ケーラスのものであるということで本当に驚いた。鈴木大拙のアメリカでの協働者である。

2014年6月15日 (日)

ル・グィンのSF『天のろくろ、The Lathe of Heaven』について

 ル・グィンのSFでは何といっても『所有せざる人々』が圧巻だと思う。『ロカノンの世界Rocannon's World』、『辺境の惑星Planet of Exail』、『幻影の都市City of illusions』を読んできて『所有せざる人々』を読むという経験をしたので、シュヴェックとタクバの名前を覚えてしまった。

 それと比較すると、『天のろくろ』はいわゆるSFらしいSFで、現実とは違う夢をみると、その通りに現実が変化していく。人々の記憶も世界も変わっていって、そこにケチな悪人が絡んでカオスとなり、破局寸前にまで行くという話だが、ややさびしげな恋愛と出会いの話がうまく筋のなかに入っていて、読後感のいい小説である。

 題名の「天のろくろ、The Lathe of Heaven」というのは、『荘子』の「若有不即是者、天鈞敗之」という文章にある「天鈞」のことである。ル・グィンはこの「天鈞」を「ろくろ、轆轤」と理解した。このSFの第三章冒頭に『荘子』(第二三)が引用されている(訳は訳者の脇明子さん)。次のようなものである。

 「天の助けを受ける者を天の子とよぶ。天の子は学ぶことによって、これを学ぶのではない。行うことによって、それを行うのでもない。論ずることによって、それを論ずるのでもない。理解しえなくなったところで理解を停止させるのは、最高の知恵というべきである。それを行いえないものは、天のろくろの上で破滅の憂き目にあうことになろう」。

 ところがこの本に付された脇さんの訳者解説によれば、「原文の当該箇所にある『天鈞』という言葉は、日本ででているどの解説をみても『天のろくろ』という意味にはとれそうにないのである。たとえば中公文庫の森三樹三郎氏の訳によれば『もし限界を守るということに従わないならば、天鈞――すべてが等しいという自然の道によって罰せられ、破滅の憂き目にあうことになろう』という意味になる」ということである。

 小説の題名が誤解にもとづいてつけられているというのだから、これは訳者としては困ったろう。『天のろくろ』というのが印象的な題であるだけに、それは当然である。

 脇さんはこの日本の『荘子』解釈を信頼し、ル・グィンはようするに『荘子』を誤解した。もちろん、その誤解のもとは彼女が引用句をとった英語版の『荘子』にあるがとしたのである。脇さんは英語版の『荘子』の訳者が誰かを示していないので、そのうち調査をしたいと思うが、しかし、私は、ル・グィンの英訳で問題はないのではないかと思う。脇さんもいうように 「鈞」にはたしかに「ろくろ」という意味があるのである。

 実は、私は必要があって、『荘子』(大宗師第六)にでる「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)について考えたことがある。それは、天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」というものである。これも日本の学者の翻訳をみると、この「大鑪」ついても抽象的な意味にしかとっておらず、右の森訳と同じように「すべてが等しい」というような意味にしていた。しかし、これはおかしいと思う。ということで先日、中国思想史のK氏に意見を聞いたのだが、たしかに、「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)というのをそのままの意味で比喩としてとってもよいのかもしれないということであった。

 そもそも『日本書紀』(顕宗紀)、日本神話の至上神タカミムスヒのことが「天地を鎔造した」神であると説明されている。これは『荘子』の右の一節を典拠とした可能性がきわめて高い。そして、この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというで、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになる。それは益田勝実『火山列島の思想』が、八世紀、海底火山の噴火が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目していることに関係してくる(これはすでに『物語の中世』の文庫版のあとがきで書いたので、このブログに書いても若手の研究をじゃましたことにはならない。このあとがきはいまWEBPAGEにあげた)。

 ようするに、ル・グィンの方が日本の学者よりも正しいのではないかということである。ル・グィンは「東洋思想」に興味があるようで、上記の『幻影の都市City of illusions』では老子の一節がキーとなって記憶を呼び戻す呪術とするという一節がある。これは読んでいても実に自然によめる。なにしろ、ル・グインは自分で老子を翻訳しているということなので、これも入手して読んでみるつもりでいるが、にわか仕立ての私などよりもよく知っているのかもしれない。
 
 
 今日はY先生のお通夜である。上行寺東遺跡の保存運動で頼りがいのあった職場の先輩。昨日、御死去の連絡があった。10年ほど前にお会いしたが、玄関の横の部屋は詩集がならんでいた。
 4・5年前にもまた連絡するから一度いらっしゃいといわれていた。こちらから御連絡するべきであった。十分でない生活をしていることをあらためて思い知り、うちのめされる。
 世情はたいへんに問題が多い。

 次は、この文章の下書きに入っていた『ドゥイノの悲歌』の翻訳、ついでにのせておく。


たとえ私が叫んだとしても、天使たちの序列の中の
誰にそれが届こう
もし、突然に一人が気づき、私を抱き寄せれば、私は滅びる。
その強大な存在の前で。美とはそのような恐怖の始まりであって、
私たちはそれに耐えることはできない。

2014年4月 6日 (日)

エヴァ・ホフマンさんと崔善愛さんの対話会

 いま総武線のなか。池袋のジュンク堂でエヴァ・ホフマンさんと崔善愛さんの対話会があって、連れ合いと一緒に参加し、その帰りである。崔善愛さんの間近の席であった。
 たいへんに面白かった。楽しかった。

 エヴァ・ホフマンさんは1945年、ポーランド領ウクライナで生まれたが、生まれた村の人々はナチスにほぼ全員殺害されたが、ご両親と妹とともに、奇跡的に助かり、13歳頃までポーランドのクラフクで育ち、父親の判断で1960年にカナダへ移住。ニューヨークタイムズの編集者の後、その祖国喪失の経験とご両親のホロコースト経験をつめていき『Lost in Translation: A Life in a New Language』で作家・評論家として活動。

 崔さんは、在日韓国人のカソリックの牧師さんの家庭で育ち、ピアニストとして音大へ。ご両親とともに指紋押捺拒否の動きをしながら、アメリカ留学を決意し、アメリカでショパンの手紙を読み、ショパンの音楽の奥底にある社会的・政治的意思に驚嘆して、それを支えとしてピアニストとしての道を歩んできたという方。私は崔さんの本を愛読しており、そのCD「ザル」もよく聞くので、間近にすわれたのは楽しい経験。

 ホフマンさんも、クラクフではピアニストとしての本格的な訓練をしたということで、お二人の共通する話題のショパンの話、そして言語喪失、二つの文化のなかでの孤独あるいは、地盤喪失の問題が重なり合った対話となった。たいへんに濃密な話で共感するところが多かった。音楽と言語という話なので、これは良質の「哲学」の話のように聞いていた。
 崔さんは日本語、ホフマンさんは英語、通訳を早川さんがされる。ホフマンさんの英語は分かりやすく、我々でもほとんどわかると二人で喜んでいた。

 行きの電車では早川敦子さんの『世界文学を継ぐ者たち』(集英社新書)を半分ほど読みながらきた。ホロコーストが欧米の文学に何をもたらしたかという話であった。ヴァージニア・ウルフからはじまる説明を納得しながら読む。
 いわゆるカルチュラルスタディーズの研究に属する。歴史学にとってはカルチュラルスタディーズから言語論的転回へというのは簡単には了解できない問題である。けれども、途中まで読んでみて、カルチュラルスタディーズというものの背後にあるもっとも良質のものが何であるのかがよく分かったようにも思う。この本によって、ホロコーストの問題が現代文学に深い根を下ろし、そこから歴史を問う文学と思想の営みのなかで生まれた動きであることがよくわかった。


 以上は昨年11月5日の崔さんとホフマンさんの対談を聞いて書いたもの。御二人の対談がユーチューブに乗っているのを発見して、みて、メモをPCから呼び出した。
 
 私は前近代の歴史学を専攻しているので、直接に、このレヴェルの問題にかかわることはできないが、しかし、太平洋戦争の問題は、前近代史の研究にも直接に関わってくるところが多々ある。
 いま、興味があるのは、第二次世界大戦前に行われた人類学・先史学の東南アジア研究をどう考えるかである。そういうことで必要があって、『フィリピン民族誌』(アルフレッド・L・クローバー著作、三品彰英・横田健一訳)を入手した。

 神話論をやっていて、三品彰英氏の論文をよむことがふえた。いまでも考古学では、銅鐸については地霊の祭祀であるといい、それに対して前方後円墳は天的な祭祀であるというが、それを最初にいいだしたのは三品である。

 三品は、神話学の中では、松村武雄に次いで大きな仕事をした研究者である。ただ、そのエネルギーの相当部分が朝鮮史の研究に捧げられていたのが、神話学一本で通した松村とは違うかもしれない。そして、三品は朝鮮史家としては、いわゆる「日鮮同祖論」の展開に責任のある学者であった。山尾幸久氏は、戦後派歴史学の限界は、一九四〇年に出版された三品の『朝鮮史概説』の徹底的な批判から出発できなかったことにあるとまでいっている。

 三品彰英は戦前の京大の西田直二郎門下であって、その仕事は、まさに戦前のアカデミズムがどういう環境の中で仕事をやったかということを考える上ではどうしても検討をさけることができない人のようである。前近代史の研究者が戦争のことを正確に考えるためには学史の検討をもう一度やらなければならないと思う。

 しかし、この『フィリピン民族誌』の「あとがき」で驚くのは、三品がアメリカに留学したとき、この『フィリピン民族誌』の著者、アルフレッド・L・クローバーを師としたということである。彼は『イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語』を書いたシオドーラ・クローバの夫、そして、『ゲド戦記』の著者アーシュラ・K・L・グィンの父である。『イシ』は大学時代に読んだが、文化の地盤喪失の話しである。

 三品がアメリカ留学で何を考えたかはわからない。すでに戦争の体験を研究者がどう受け止めたかを直接に聞くことはできない時代である。
 しかし、第二次世界大戦の前からの学史のなかで、我々が研究をしていることは明らかであり、しかも、日本の帝国的な条件のなかで行われた東南アジア人類学・先史学の調査をふくめて、知的生産の歴史の国際的な網の目のなかで、我々は仕事をやっているのであって、その全体をすべて点検しなおさなければならない。

 そういうことを国籍と音楽にかかわるホフマンさんと崔さんの対談をききながら考えた。ジュンク堂で、対話会が始まる前に、神話論の棚をみたが、ゆまに書房から復刻されている第二次大戦前の神話論のシリーズがあった。東南アジアの神話についての言及が多い。しかし、そこまでは一人で追跡はできない。

2014年2月10日 (月)

右遠俊郎先生の追悼会と梶井基次郎

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 昨日は高校時代の師、右遠俊郎先生の追悼会。
 明治神宮球場のそばの日本青年館で午後2時からであった。都心は大雪。総武線が快速は動かず、各駅停車も遅れ気味で、ぎりぎりにつく。絵画館のまえを本当に久しぶりに通る。

 右遠先生は2013年10月11日に死去。87歳だった。2009年に練馬区の島村記念病院にお見舞いしたが、気にかかりながらお見舞いにいけず、御様子は聞いたいただけに、喪失感が強かった。
 会でいただいた『右遠俊郎文学論集』をしばらく読むことになると思う。いま偶然に開いているのは「湯ヶ島での梶井基次郎」である。そこにはこういう一節がある。


 「だが、今の私なら『俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれはいつも私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした』(『檸檬の花』)という文章に、厳しく鞭打たれる思いがする。病む身に背負った強靱な精神による、仮借ない自己点検を私はそこに見る。反俗もまた俗悪と同じ水位にあると知って、さらに高い精神の飛翔を志すのだろう。とかく繊細な感覚と、精密な観察とを喧伝されるこの作家の、これは毅然と直立する倫理性の一面を示しているとはいえないか。


 私は右遠さんの文学評論が好きで、発表時に雑誌で読んだ原民喜論や、小林多喜二論、そして入院後にまとめられた国木田独歩論などを文学論を考えるたびに思い出すが、この梶井論は読んでいない。頁を繰ると、次はガルシア・マルケスである。

 しばらく、これを読んで、遅ればせながら、先生の全体にふれてみたいと思う。とくにその文学評論は読み直してみたい。会冒頭の新船海三郎氏の挨拶では、戦後派の文学精神の最後の一人といわれていたが、右遠さんは、多くの社会的なテーマをもった小説家でありながら、同時に、いわゆる近代文学から戦後派文学の全体について懇切な読書の経験をもち、しかもそれを評論としたという意味でも稀有の方だったと思う。私は高校の授業で右遠さんに堀田善衛の「広場の孤独」と中原中也と立原道造の詩の読み方を教わった。いまでもそれが自分のなかに残っているのをありがたいことだと思う。

 右遠さんは朝日茂さんの朝日訴訟に結核の療養所が同じだったということもあって支援する立場をとり、その機縁で明瞭な政治的・社会的立場を鮮明にして生きてきた文学者である。その面でもほとんど絶対的といってよい影響を受けたのだが、しかし、私は、高校時代、『地下生活者の手記』から始めて、ドストエフスキーを少し読んで、分かったようなことをいって質問したとき、沼袋のご自宅でジョン・ミドルトン・マリーのドストエフスキーの評伝を読めばいいといわれたことを忘れることはできない。マリーの本は手にとったが、ようするに、文学というのは主観的な戯れではないということを知らされたのだと思う。そこでドストエフスキーの世界から離れた。同じ書斎で、高校生らしい質問をしたときに、保立君のいうことは、存在論の問題か、認識論の問題かと反問されて、そういうこともあるのだと知らされたこともわすれがたい。

 けれども、昨日の追悼会では、姪の珠美さんが、叔父の好きであったことはパチンコとたばことコーヒーであったという楽しいお話しを聞き、テープに吹き込まれていた右遠さんの歌声を聞いた。これは私の知っている右遠さんとはまったく違う右遠さんである。本当に話が違う。そんなに自由に享楽的に生きてこられたのだ。

 そして珠美さんの歌う「旅順高校愛唱歌」を聞いた。『風青き思惟の峠に』に自叙されているように、右遠さんは旅順高校の出身で、この小説にも、この歌が出てきたと思うが、これが北帰行のもとの歌なのだということを始めて知った。隣にいた近現代史のA先輩もそれを知らなかったというが、私たちは、第二次大戦から戦後を生きた人々の現実の姿というものをやはり知らないままでいるのかもしれないと感じた。

 『右遠俊郎文学論集』の第五部は、追悼文集で、尾崎一雄・藤原審爾・夏堀正元、阿倍昭、色川武大、戸石泰一などの文学者への追悼文をめくっていると、いよいよ右遠さんのことを知らずに生きてきたという感情が迫ってくる。

 そして追悼会で驚いたのは国文の秋山虔さんのメッセージだった。秋山さんは『右遠俊郎短編小説全集』をしばしば読み返すといわれていた。私は昨年、必要があって『源氏物語』をはじめて本格的に読んだが、その前後にある人から秋山さんのことを聞いて驚いたが、しかし、そのときも右遠さんと秋山さんがそんなに親密な関係にあるということはまったくしらなかった。ようするに、私たちの世代は、先行する世代の交友関係のネットワークとその焦点を知らずに生きてきたのだと思う。
 そのネットワークをそのまま豊かに受け継いでくることができれば、現在の、この国の学芸世界の風景はすこしは違ったのであろうと思うが、この国の第二次大戦から現在へ至る曲折にも相当のものがあり、そのような経験の継続と、そのなかでの右遠さんのいう「思想的共生」の継承は細い細いものになってしまった。必要なのは二歩後退である。
 同期会のようなものにでる最大の楽しみは、先生の等身大の姿を知るということだろうが、亡くなった後になっても遅いことではない。One step foward, two steps back。

2013年12月25日 (水)

多和田葉子『言葉と歩く日記』

 メリークリスマス。ご褒美のケーキ。

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 多和田葉子さん。小説は残念ながら、私には飛びすぎているらしいが、エッセイを好んで読む。『言葉と歩く日記』(岩波新書)を連れ逢いが買ってきたので、横から読ませてもらう。
 毎日の日記が新書になっているのだが、この日記は、「ーーーということですぐに寝た」というような記述があるから、翌日に書くのだろうか。正確に前日のことを振り返って、記憶していて、その記憶を躊躇なしに書けるというのは、すばらしいことである。
 私のように、内省をすれば目を覆いたくなるようなことが多い生活、省みて恥多しというよりも「省みなくても恥多し」という生活を送っている人間には、こういうことはできない。一月一日から四月半ばまでの毎日の日記である。意識と記憶の継続性を自然につくっていける。多和田さんは若いときから日記をつけ続けていたというから、そういうことができる人なのだと思う。
 しかし、多和田さんのエッセイを読まれた方にはわかるように、それは倭語とドイツ語という二つの言葉、言語の体系をつきあわせるという意識の動かし方がほとんど習性になっているためでもあるだろう。言葉のなかには、あるいは言葉の向こう側には客観的な言語体系というものがある。そこのなかに入りこめば、騒がしい日常は消えていく。恥多い日常はきえていく。これは言語世界のなかに入り込んでいく方法としては「禅」に似ているように思う。私に「禅」というものがわかる訳ではないのだが、「禅」には、そういう客観性があるように感じるのである。言語世界を想起することによって、意識と肉体のあわいにある常同的な世界に入り込む。すくなくとも、漢文、漢詩世界というものは、この国の知識人にとっては長くそういう役割をしていたはずである。
 国際性というのは、本来はそういうことなのではないかと思う。

 ハンナ・アーレントの映画についての感想がのっている。慌ただしい生活をしているまま、結局、見ることができなかった。多和田さんの感想を読んで、やっぱり見ればよかったと思ったのは、多和田さんの、この映画に描かれたハイデカーについての感想。

 多和田さんいわく。「ハイデッカーは、この映画の中では、母語であるドイツ語をいじりまわして、スピード操作したり、意外なところで区切ったり、独自のアクセントをつけたりして、意味ありげに語る滑稽でケチな野郎として描かれていた」という部分。その通りなのだと思う。

 さて、しかし、学者の言語生活というものは、乾いた雑巾をしぼるようなもので、本当につらい。これは歴史学者にとって、とくにそうなのかもしれない。あるいは僕だけのことかもしれない。けれども記憶の底をさらい、その途中で足りない材料を急に仕込み、そして全体の不協和音にさらされながら体系的な筋を通そうとする。体系というよりも、ともかく「ストーリー」を組み立てようとする。歴史は物語ではないが、しかし、ストーリーというものは必要であり、それは夢ではいけない。

 こういう作業を繰り返していると、不足感、不満足感がたまってきて、しかも仕事の無限さに打ちひしがれることも多い。歴史学者が体系がほしくなるのは、こういう理由だろう。私のように「省みなくても恥多い」という人間、そして歴史学外の理論と学史の筋というものが、個人としては大事な人間、やっかいな人間にとっては、さらに面倒な作業になる。
 
 ともかく一日、材料を頭に入れて寝てしまうというのが、最大の手段。寝てしまい、途中で目覚めるか、朝目覚める直前、自動的に頭のなかでストーリーが組み上がっているような「幻想感」が、ときどきある。これは救いである。