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カテゴリー「私の好きな■■」の16件の記事

2014年10月 5日 (日)

米田佐代子先生の御元気そうな写真

 Cci20141005
米田佐代子先生が御元気そうである。
もう先生と呼べる人が少なくなってしまった。米田さんのブログをみると年を取ったとあるが、そんなことはない。御元気そうである。先生を「私の好きな」という項目に入れるのは、恐れ多いが、けれども、私は大学院の時代から、変わらない米田さんのはっきりとした発言と声が好きである。
最近、米田さんの平塚らいてう論を読んだ。らいてうの自伝を『日本史の30冊』に入れる予定なので、米田さんの大著を読んだのである。
下記が記事。

 「河野談話」は「吉田証言」を根拠にしていないという「赤旗」論文の指摘はその通りで、研究者の間でも「吉田証言」は早い時期に否定されています。
 「慰安婦」問題が国際的に大きく取り上げられるようになったのは、朝日新聞の「誤報」が理由ではなく、1991年に被害者が名乗り出たことをきっかけに運動が広がったからです。95年の第4回世界女性会議(北京会議)が「女性の権利は人権である」と宣言して以来、国連でも「慰安婦」問題は大きな柱になりました。
 「女性の人権」は、後戻りできない歴史の流れです。「慰安婦」の存在すら否定するような論調は、国際社会だけでは全く通用しません。こんな発言が国内で横行するのは、都議会セクハラヤジ事件でもわかるように、日本の女性の人権保障が不徹底な証拠でもあります。
 安部内閣は「女性が輝く社会」を宣言していますが、それならまず「慰安婦」への「謝罪」と「尊厳の回復」に取り組むべきでしょう。それが日本女性の人権保障にもつながると思います。
2014,10,5 赤旗、


2013年8月 3日 (土)

池上裕子さん 『織田信長』

Ccf20130803  東京新聞をみていたら(7月28日)、池上裕子さんの大きな写真。歴史学研究会の中世史部会で結城氏法度の勉強会をやったころ、つまり30年以上前からの友人なので、なつかしい。この史料はむずかしい史料で、みんなで読んだその解釈は活字にしようということになって、ちょうど、永原先生が結城市史を編纂されていたこともあって、結城市史にのった。解釈では、みんな池上さんの側に立ちたがった、または池上さんの判定が自分にくだることを競った。ポーシャ姫である。
 この前御会いしたのは、去年の歴史学研究会か、一昨年の同部会の中年部会で国立で飲んだときからだから、もうしばらく御会いしていない。もっと会う機会を作らないと、我々も若くはないので、研究上の交流を十分にしないままになってしまう。
 さて、このインタビゥーは吉川弘文館の人物叢書の『織田信長』の話。私もいただいて通読した。見事な本であると思う。信長は「統一政権」とはいえないというに感心。私も京都を押さえるという点が問題で、都市占領がキーだと思う。そのうち京都論をやってみたいというのが夢であるが、いつ自分の研究でそこまでいけるかというのが、最近の地震研究と神話論があって、見通しが立たなくなった。
 この本への感想では「もっと信長を評価すべきだ」という意見が多かったということで、池上さんの感想。「歴史学者って案外、権力者が好きなんです」。痛烈な人である。「歴史学界の権威者からは『信長は統一政権として評価すべきだ」とい意見があったということであった。こういう馬鹿なことをいう権威者とは誰だ? 
 「権力者は史料も多く、研究成果もえられやすい。村のことを調べようとすると史料は少なく難しい。でも民衆を知りたい」というのは、研究者としての職業倫理であると私なども思う。プロになったら難しいことをやるべきだ。上からつめていかないとならないというのは事実ではあるだろう。若い人がそれをやるのはいい。歴史は史料が第一だから地層のように、上からはいでいかないとならない。しかし、それはいわば考古学でいえば準備仕事で重機でやるべき部分だ(といっても近代の地層を重機ではいでもよいという訳ではないが)。そこは集団労働でみんなでやる部分だ。そこに責任をもちながら、地層の下の方に触覚を働かせるのがプロのはずである。信長などは、重機で掘る部分であり、いわば歴史のゴミ部分であり、正味ではない。私の場合は、清盛とか頼朝とか義経にあたるので、私も早くそれらのゴミ処理を終えたいものである。
 さて、池上さんがよく立派な歴史家が出身するところとして知られる新潟、そして佐渡のご出身であることは知っていた。ただ、農作業の経験があるというのはうかがったことがなかった。以下、それを引用して池上さんへのオマージュにかえる。
 記者の質問「池上さんが農民とか、支配される側に目を向ける原点はどこに」。
 池上さんの答え
 「実家は新潟県佐渡市の農家で、田植え、稲刈りも手伝いました。農民の生活はある程度分かっているし、村という共同体の状況も大体分かります。どのくらい田畑を持っていれば、どんな生活が成り立つか。あんまり成り立たないんですけど。村のみんなで水路をいくつも造り、その先をそれぞれの田んぼに分けていく。そういう共同作業がありながら、みんなが仲良く暮らしているわけではなく、それなりに大変だということも知っています。
 村人が生産にどう携わり、家や家族をどう成り立たせていたか。地域はどうつながっていたのか。権力者は資料も多く、研究成果も得られやすい。村のことを調べようとすると資料は少なく難しい。でも民衆を知りたい」。

2012年10月 2日 (火)

堀田善衛・三木清・戸坂潤ー人間の下部構造

 京都出張。朝の総武線のなか。家をでて少し歩き階段を上りきったところで、出張生活必需品を忘れたことに気づく。迷ったが、念のため引っ返して取ってくる。時間はゆっくりあるが、駅まで自転車。家族に手間をかける。
121002_084315  「時間はたっぷり」という歌があったが、出張の時の電車というのは、ともかく出発前にやらざるをえないことはやってあるので、ゆったりする。「旅」についての三木清の『人生論ノート』になにが書いてあったか、PCの中に抜き書きがあったような気がしたので探してみるが、でてこない。私はPCが駄目なのでわからないが、PCに対して、「三木」and「旅」で検索をかけて両方があるファイルをもってこいという命令は出せるに違いない。そういうことができるというのは、記憶の補助的強化であり、瞑想の世界の可視化ということだと思う。経典がすべてPCの中に入っているということが可能になるというのはブッキッシュな人間にはこたえられない楽しみだろう。三木の全集が自分のPCに入っている。さらにたとえば戸坂潤の全集がPCに入っている、あるいは戸坂の「二番目」の奥さんの手記(『とことは異なる愛云々』)もほしい。そして、さらにたとえば堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』が入っているということになればこたえられない。
 この堀田の自伝は第二次大戦中の社会相をほとんど肉体的といってよいほどの精度で感じさせてくれるものだが、高校生のころによんで、そこにイタリアのムッソリーニとの関係か、皇国史観の日本で、ルネサンスについての企画があり(であったと思うが)、その関係で組織された、なにかあやしげな研究所で、三木か戸坂かあるいは古在由重かというような感じの哲学者がアリストテレスの翻訳(であったと思うが)をやっているという一節があった。ともかくも、(私たちが今思うよりも、はるかに)「文化的な社会」であった大正時代以来の日本社会の中で養われてきたものが、戦争体制の社会の片隅に破片になって棲息しているという感じが、このエピソードにはよく出ていたように思う。
 こういう風に連想で思い出す場合は、PCからは『若き日の詩人たちの肖像』は初版の灰色の本の版面がでてきてほしい。あの本の触感が自分にとっては忘れられないものである。一昨日、夜、「平安時代における奥州の規定性」という今週土曜日の東北史学会の講演のメモを作っていて、目の前の本棚に、どういう訳か『肖像』があって、つい読んでしまった。堀田の平安時代についての仕事としては『方丈記私記』がよく知られているが、歴史家として、堀田よりは正確な時代の本質とイメージを確保できるようになっているというのは、私にとっては安息である。先日の『歴史評論』にだした論文は、堀田の『方丈記私記』くらいで感心していては歴史家の名がすたるという気持ちで書いた。若い頃の読書と、今の仕事がこういう形でつながっていて、それで棲息を許されていることは、ともかくもありがたいことだと思う。
 三木・戸坂のテキストが読めて、それに関係する夢想の記憶や小説の記憶を呼び起こせるということを情報化は可能にしている。これが瞑想の世界を客観化し、可視化していくはずである。
 瞑想の世界というのは、ともかくも混沌の上へ突き抜けてしまった世界である。新幹線のゆったりした時間の中でのように、「旅」の途次のようにすべての脈絡の上に一人で浮いているという感じである。
 堀田、戸坂、三木と追ってきて、思うのは、彼らの、自身の下部構造に支配されている生活の姿である。堀田の小説のはしっこには北陸の大きな廻船問屋の家とその周辺の隠靡で肉体的な世界が姿をみせる。こういう言い方をされると、小説家としてはたまったものではないということであろうが、家産を潰したという父への敬愛と母への依存によって、そして自分の家の崩壊の経験によって、堀田は富がもたらす放縦と文化を突き放すことが可能になったのだと思う。以前、富山大学に非常勤講師で行った時に、堀田の廻船問屋「鶴屋」の跡地を歩いたが、その痕跡はほとんどなかった。
 明治時代までの豊かな地方名望家の家の崩壊と第二次世界大戦による国家・社会の崩壊、そして東アジアの崩壊の姿の全体を目撃し、それを身体的な記憶の中で文学とするための拠点は、堀田の下部構造にある。この断定は、『若き日の詩人たちの肖像』を読み、堀田の小学生時代の狂歌(?,内容省略)
を読んで笑ったという自分の記憶と結びついている。こういう「歌」を自伝に残すのでは、堀田はすでに「詩人」ではないのである。
 私は高校時代に、数学のM先生にいわれて最初に読んだ哲学書が、戸坂のカントとの格闘の書、『科学論』であったので、『とことは異なる愛』がショックだった。これを読むと頑張らねばならないという気持ちになる。この『とことは異なる愛』の著者のような人と巡り会って生きたことをふくめて、「殿軍の名将」といわれた戸坂は重要な生活をした人間なのだと思う。そして、戦後の彼女の生き方が見事である。戸坂は、哲学それ自身と同時に、彼女の生き方を残したという、その全体として見るべき人だと思う。いま風にいえば最初にフェミニズムの問題と身をもって格闘した人なのだと思う。堀田には、「なんとか研究所」で苦闘していた哲学者たちが何を感じていたかという歴史家としての視野はない。それは文学者としてやむをえないことなのだろうか。私は堀田の小説を好むが、しかし、このことを確認した時に、根本気分においては堀田から離れた。
 そして三木については林達夫氏の証言がある。林の証言にはいろいろな意見はあるだろう。林は三木と戸坂の対極にいるような、かしこい人間であるが、しかし、その気持ちの根本に、三木も戸坂も生きていてほしかったという愛惜の念がある。それは共有できるものである。林の仕事をふくめて、歴史家としては堀田よりも林ということになるのはやむをえないと思う。
 人間は下部構造に支配されるというのが、本当のことであると思うが、それをどう自覚し、その混沌の上に突き抜けるかということまで、私たちの世代は、いわゆる戦後派の知識人と小説家によって疑似経験をあたえられていた。その幸運を思う。もちろん、戸坂と三木は「戦後」が到達する前に倒されたのでだから「戦後」ではないが、しかし「戦後派」知識人であることは明らかであると思う(「戦後」という言葉には問題があるというのが、歴史家ならば誰でも知っている板垣雄三さんのご託宣であるが、しかし「戦後派(焼け跡派)」ならば許されるのではないか)。
 新幹線に乗り換えて、もう富士がみえる。そろそろ「平安時代における奥州の規定性」の講演レジュメに戻らなければならない。一緒に講演をする大門さんの論題に「対抗」して、「歴史学の視座を問い直す」などという大仰な副題をつけてしまったので、しどろもどろになる訳にはいかない。
  (本の名前などは後から再確認する)

2012年8月14日 (火)

マツリゴトは「祭事」ではないというのは常識だが、成沢光『政治のことば』

120814_082252  成沢光さんの『政治のことばー意味の歴史をめぐって』の解説を書いた(講談社学術文庫)。
 日本史の前近代の研究について法史の側から重要な貢献をしている研究者としては石井紫郎氏、政治史研究の側からは成沢さんだと思う。上記は成沢さんの名著、最近の若い研究者では読んだことがないという人もいて驚いた。とくに「古代」「近世」の人たちには読んでほしいものだと思う。あとがきには石母田正・藤田省三の両氏への感謝の言葉が載っている。
 先日、本になって成沢さんに連絡をとった。私などは、この本を前提に考えてきたことが多いので、感謝をしていただいて光栄であった。

 「マツリゴト=政事」とは「祭事」のことで、祭政一致の日本の「国体」をあらわすというのは、古く北畠親房が『神皇正統記』で述べたところであるが、今でも政治家などは、そう思っている人が多いようである。しかし、竹下登という総理大臣は、「政治」は「ツカサ々々」を束ねて粛々と「ご奉仕」する仕事であると称した。興味深いのは、本居宣長が、奉仕を「マツル」と訓読みすることに注目して「政とは奉仕事である」としていることで、あるいは竹下の口癖はそれをふまえていたのかもしれない。それはすでにわかることではないが、ただ、彼の奉仕の対象が天皇であったことだけは確実であろう。
 さて、政治学の丸山真男も、この宣長説にのっかって「政事の構造」を論じたことがある。丸山は、これを日本では古くから正統性と決定の次元は分離されていたという図式で説明する。そして、政治家は決定を「マツリゴト=奉仕事」という意識でやるから、最後までは責任を取ろうとせず、また天皇は正統性のレヴェルを保証する象徴にすぎないから、そこも無責任ということになっているという訳である。いうまでもなく、これが日本の政治の特徴、いわゆる「無責任の体系」の原型であるというのが丸山の「政事」論の主張である。
 日本人はこういう「語源」の説明が好きで、「ああそうか」と感心してしまう場合が多い。しかしこの種の言葉、本書のいう「政治のことば」の説明に簡単に納得してしまうのは一般にやや危ういことである。私たちは言葉を使っているつもりであるが、実際には、言葉は私たちの外にあって、私たちの心をしばっているのではないか。右にふれた丸山のエッセイも、着眼点はさすがであり、耳に入りやすいものではあるが、私のような歴史学徒からみると実証手続きが十分でなく、本当のところは、どうも落ち着かないところが残るのである。
 それと比べるとに対して、本書で展開された成沢光の「政事」論は歴史学者も了解することができる綿密な仕事である。くわしくはⅠ「古代政治の語彙」の考証を読んでいただくことになるが、次頁の図は、本書の描き出す政治意識の構造の全体を考える中で、私が描いたものである(図、省略、保立『かぐや姫と王権神話』参照)。これを簡単に説明すると、まず「イキホヒ」という言葉は、成沢によれば、「徳」と書く人徳や福徳の力が中核にあるが、さらに「威」と書くことの多い神威や武威もふくむ場合や、「権」と書く政治的な思量の力を意味する場合があって、それらが一種の呪霊的な力によって統一されているという。成沢は、これを『古事記』『日本書紀』などにそくして明解に説明している。
 このうちでもっともオリジナルなのは、最後の「権」という字についての指摘であろう。つまり成沢によれば、この字は「イキホヒ」と読むと同時に「ハカリゴト」とも読む。「ハカリゴト」とは思量・知謀の力であるが、政治は「ハカリゴト」の力であるというのである。そして、そういうことになると、問題の「マツリゴト」は、この「ハカリゴト」の下に位置することになるので、その証拠に「マツリゴトヒト」とは四等官のうちの三等官(「判官」)、役人でいえば下の方に属する。「マツリゴト」とは必ずしも高級な仕事ではなく、私なりにいいかえれば、釣り糸の「オマツリ」を処理するような煩瑣な手続きといえようか。そもそも「マツリゴト」の「マツル」とは「マツワル」と同系の言葉で、主人にマツワリツクように奉仕するのである。
 こういう風にみてくると、政事=祭事が祭政一致の日本の国体だなどというのはただの俗論であり、思いつきにすぎないことは明らかであろう。それは本居宣長以前、レヴェル以下のものであるということであるが、成沢が明らかにしたことは、明らかに、本居宣長(そしてそれに依拠する丸山)を越えている。つまり、「政事の構造」とは、王にとっては、マツリゴトは面倒な雑務という性格をもつのであって、そういうことは他人にやらせて、自分ではやらない。その代わりに、王のそばには、知謀をもってマツリゴトの処理をする「謀」担当者がいて、「政」担当の集団はそのさらに下にいるということになる。王は「無責任」というよりも、この重層的な仕組みによって責任を曖昧にしていくのである。成沢の指摘は、丸山のような説明図式ではなくて、具体的な仕組みに踏みこんだものであるということができるだろう。そして成沢によれば、その「共謀」を代表する地位こそが「摂政」であって、この役職は「政フサネオサム」と訓読みするのだというように敷衍されていく。それを漢字でかけば「総理」となるが、「フサネル」とは束ねる、つまり雑事を束ねて処理するという意味である。そもそも摂政任命の詔勅には「万機を摂政す」などとあるが、「万機」の「機」はマツリゴトと訓読みする。つまり「政を摂る」とは、諸々の「政=機」を総覧してハカリゴトをするという意味なのである。
 以上が、Ⅰ「古代政事の語彙」の紹介であるが、成沢の議論が見事なのは、これが歴史を貫通してⅣ「近代政治の語彙」と密接に関係していく点である。それを味わっていただくためには、読者は、まず以上を頭に入れていただいて、Ⅳの1「『権利』『権力』について」からお読みいただくのがよいかもしれない。そこには、明治初期に作られた「権利」という言葉の「権」が江戸時代においても、「イキホヒ」という意味を保持していたこと、それ故に「権利」とは「イキホヒの利」、恣意的な利益主張というニュアンスをもち、だからこそ、それに対して「義しい務」という言葉が対置されたという目をみはるような説明がある。私はこういうニュアンスはいまだに私たちの社会生活を呪縛していると思う。これはたとえば中学生が日本国憲法の勉強をする際にはかならず伝えるべき、最重要な政治思想史、法思想史の中心問題であると思う。
 そして、Ⅳの2「統治」は、上記のような「政事の構造」から、どのようにして啓蒙的な絶対君主制が生まれてきたかを、「統治」という新語が明治憲法に入るまでの経過にそくして解明している。「万機公論に決すべし」という五ヶ条誓文の一節は誰でも知っているだろうが、それは万機を「フサネオサム」役職、つまり「摂政」をおかずに、政府上層部の「公論」をもって政事を処理するという意味であった。そして、国家上層部内部の「公論」が各省(「司」)大臣制とそれを総括する「総理」という形で組織されるとともに、天皇の絶対的地位について「統治」という言葉が案出されたという。私は、冒頭にふれた「総理大臣」竹下の口癖は、こういう経過を無意識に継承したものではないかと思う。
 このように「古代」と「近代」を一貫して語るというのは、方法と全体像を重視する成沢のような立場ではじめて可能となるものであって、現在のところ、歴史学者にはむずかしい力業である。しかも私などにとっての驚きは、執筆の時期が「近代」の方が早いことである。著者の頭の中では、まず「近代政治の語彙」についての意見が半ばはできていて、それにあわせて「古代政治の語彙」について追究したという経過らしい。そして、このような現在と過去を歴史貫通的にとらえるという方法意識は、Ⅲ「近世都市意識の言語」も同じである。
 そのテーマは、ガラっと変わって江戸期に形成された時間意識、それに対応する労働観、身体観、都市空間論などであり、江戸期社会が都市による(人間自身の身体もふくめた)自然の集団的な平準化が進んだ社会であることを系統的に描き出している。これに対して、歴史学界では、今でも江戸時代を「封建社会」という風習があるが、私は日本社会は「封建制」社会であったことはないと考えている。それは封建制の概念論にかかわる問題であるが、なによりも、「封建制」ということによって、江戸時代と現代社会の共通性が曖昧になっているのが大きな問題である。むしろ本書がいうように、江戸期社会は現代日本の世俗秩序の起源に位置しているというべきものだと思う。とくに重要なのは、江戸期における社会集団の均質化が「文明化」と近代資本主義の展開を直接に支えたとする著者の観点であろう。従来の「封建社会から資本主義」というシェーマでは、多かれ少なかれ資本主義化の条件として「私的・近代的」な社会経済関係が探索される。しかし、そもそも資本主義は現実の社会関係としては、世界史上もっとも集団的な生産様式なのであるから、私にも、その移行は、江戸期都市社会における分節的な集団的構造が直接に編成替えされる過程が中心であったように思えるのである。
 問題は、このような都市的構造と「政事の構造」の関係であるが、著者はそれを歴史論の二冊目、『現代日本の社会秩序ー歴史的起源をもとめて』(岩波書店、一九九七)で追究している。これは本書の解説の範囲を越えているが、そこでは「なぜ学校の先生は”一糸乱れず静粛に整然と”生徒を集団行動させたがるのか」などという問いから発して、現代日本の世俗秩序の起源が語られている。そこに著者の現在から過去にさかのぼる方法の到達点が示されているが、これに対して、著者の歴史研究の初心を物語るのが第二章「国家意識と世界像をめぐって」である。ここには「蕃国と小国」「<辺土小国>の日本」の二本の論文がふくまれている。前者は『日本書紀』などで朝鮮諸国が「宝国」「金銀の蕃国」といわれていること、後者では日本を「辺土粟散の国」に過ぎないとする意識が末法思想や本地垂跡説の裏側にあったという意外な事実が印象深く描き出されている。
 この二つの論文は、私たちの世代の歴史研究者が東アジア世界論に接近していく上で大きな影響をもったものだが、前者はいわゆる仏教公伝記事、後者は道元と親鸞が切り口となっている。つまり、どちらも仏教の世界像が問題の中心なのである。著者が右の『現代日本の社会秩序』でも道元を取り上げていることをみると、どうも著者は、日本の前近代の思想においては、仏教がもつ位置を重く評価しているらしい。そして、これが同じ政治思想史にとり組みながら、丸山と著者の論調が大きく異なる原因になっているように、私は思う。丸山が重視する儒教にくらべて、東アジアの仏教はきわめて錯綜した問題で、そう簡単な図式化を許さないところがあるのである。
 とはいえ、残念ながら、古代から現代におよぶ著者の政治思想史の構想の中で、仏教がどういう位置にあるのかは、右の『現代日本の社会秩序』を読んでも、もう一つ不明であるというのが率直なところである。しかし、それは著者が扱ってきた問題領域があまりに広く、かつ著者の宗教観にもかかわって、やむをえないように感じる。これは、著者の体系が、ともかくも歴史学界によってもう少し理解され議論された後に辿りなおされなければならない問題なのだと思う。
 それにしても、本書の初版が発刊されてから、もう三〇年近くにもなる。学問というものは進まないものだと思う。もちろん、各分野ではいろいろなことが分かるようになったのではあるが、本書の扱っているような根本的な問題、歴史の各時代を通じた問題、あるいはいわゆる学際的な問題というのは容易に突破することができない。私は本書の中身のほとんどを、雑誌論文の形で読み、それはずっと頭の中にあって根を張り続けていたのだが、三・四年前、『竹取物語』の求婚者たちのイキホヒが著者のいう基準でかき分けられているのに気づいた時は本当に驚いた。そして実は、この解説は、その図が著者の目にとまったために私が書くことになったものである。
 先日、そのことではじめてお目にかかった時は、長い間の相談相手に初めてあったとでもいうべきか、非常に奇妙な感じがした。最近、著者は生命医療の問題に研究対象を三転され、すでに歴史研究の足は洗ったとおっしゃっているが、このご縁で実際に御話しをうかがうことができるようになり、この本がでたら飲もうということにもなっていて、人間をつなぐ時間というものの不思議さを感じている。
                  (東京大学史料編纂所教授)

2012年7月26日 (木)

昼のカレーとボーヴォワールの神話論

120725_112642  今日は、医者。北部診療所で血液検査の結果がでたが、きれいなものですということで、先週からの疑いが消える。その足で自転車。写真は、花見川サイクリングルートの上流部。樹木に囲まれたルートはさすがに気持ちがいい。
 昨日、午前中は編纂の引き継ぎ仕事。朝方に起きて校正仕事をしていたので茫々となる。昼御飯のカレーの時に、文学部の西洋史のFさんと偶然一緒になる。ちょうどもっていたボーヴォワールの『第二の性』について話題になる。彼の観測だとサルトル、ボーヴォワールへの関心が戻ってきているのではないかということで、この前もR大学の学生がジャン・ジュネを読んでいるのをみて驚いたとのこと。世代的な感じからすると、これはほっと安息するような状況の動きである。
 ボーヴォワールは、おそらく高校か浪人のころに、新潮の生島訳で最初の一・二冊を読んだ。古い歴史学研究会の縁で知っている女性から教えられて入手した『フェミニズムと経済学ーーボーヴォワール的視点からの『資本論』再検討』を読んでいて、『第二の性』を探したが、自分の本と連れ合い分をあわせても一・二冊しかなく、どこかでなくしたことを知って、新訳を買ったが、これが『決定版第二の性』(新潮文庫、第二の性を原文で読み直す会訳)というもので、私たちが読んだ以前の生島訳とは構成が違うことを知って驚く。生島訳では原書と編別順序が違っていて、私が読んだ(のであろう)、最初の一・二冊には「体験」の部分で、肝心の原書第一部の方法論部分はあとの方にまわされていた。そこに書かれたボーヴォワールのエンゲルス批判には記憶があるが、おそらくこの方法論部分は、読んでいたとしてもそこらへんだけであったように思う。
 サルトル、ボーヴォワールは、キチンと読んだ訳ではないまま、一種の卒業意識があって、読み返すことがなかった。そのうちに考えてみたいので、三木清の『構想力の論理』を読んでいたら、サルトルがでてきてたいへんに驚いて、ハイデカー問題もあるので、サルトルを読み直さないとということになり、白水社のサルトル全集の何冊かをを探したら、これもでてこない。『存在と無』の文庫本を買ったのが二・三年前か。ようするに宿題なので、真面目に、これまでの自分のふつつかさを反省しつつ、勉強をする積もりである。
 昨日は、昼過ぎ、岩波の編集者に『歴史のなかの大地動乱』の再校を返すので、F先生が戻られた後は最後の校正。先生にも読んでいただくことを約束する。そもそもボーヴォワールをもっていたのは、この『歴史のなかの大地動乱』の母権制神話から「祟り神」への変化の部分を考えるのに、ボーヴォワールの神話論が有効だと考え、それをゲラに書き込んだため、あまり突然だという連れ合いの意見によって削除したが、その再点検のためであった。ともかくもボーヴォワールの母権制神話論は興味深い。神話論はエリアーデの本を一冊もっていたので、それを読んですませていたが、かくてはならじである。
 以下、一部引用。Mちゃん、入力ありがとう。

 しかし、もっと一般的に男の心にあるのは、自分の肉体的条件に対する反抗である。男は自分を失墜した神だと思っている。男の宿命的な不幸は、輝かしい天空から墜落して、母親の腹という混沌とした闇に入れられたことだ。男が自分の姿を認めたがっているあの火、活発で純粋なあの息吹、女はこれを大地の泥に閉じこめる。男は<一者><全体><絶対精神>のように、純粋な<イデア>として必然でありたいと思う。それなのに、限られた身体のなかに、自分が選んだわけではなく呼ばれたわけでもない時間と場所のなかに閉じ込められて、役立たずで、場所塞ぎで、不条理だ。肉体の偶然性は男の存在そのものの偶然性であり、男は見捨てられて、許しがたい無根拠性のなかで、この偶然性にさらされる。偶然性は男を死にも捧げる。子宮(墓のように閉ざされた秘密の子宮)で作られるあのぷるぷるとしたゼラチン質のものは、ぶよぶよして粘り気のある腐肉を連想させるので、男はぞっとして顔をそむけずにはいられない。発芽でも醗酵でも、生命が作られつつあるあるところはどこでも、嫌悪感を引き起こす。生命は崩壊しながらでなければ作られないからだ。粘液状の胎児は、死の腐敗に終わる過程の始まりである。男は無根拠性と死が嫌いだから、自分が生み出されたことが気にいらない(305頁)。

 したがって、神話とは男によって利用されるものである、ということで大半の説明がつくと言える。女の神話は贅沢品である。女の神話は、男が生活必需品を緊急に手に入れる必要にせまられずにすむようになるとき、はじめて出現する。関係が具体的に経験される度合いが高いほど、観念化される度合いは低い。古代エジプトの農民、ベドウィンの農民、中世の職人、現代の労働者は、仕事と貧しさにせまられて、妻である特定の女とあまりにもはっきり限定された関係をもたざるをえないため、女を吉なり凶なりのオーラで飾り立てる余裕などない。黒なり白なりの女性像を仕立てあげたのは、夢想する暇ができた時代や階級である。しかし、贅沢にも効用がある。こうした夢想は否応なく利害に左右されているのだ。たしかに、大部分の神話は、男が自分の実存と自分を取り巻いている世界に対して示す自発的な態度に根ざしている。しかし、経験を超越的な<イデア>へと乗り越えること、それは家父長制社会は法律や慣習をイメージ豊かな感覚的な方法で個人に押しつけた。神話のかたちをとることによって、集団的な要請が個々の意識に浸透していったのだ(515頁)。

 カレー屋を出る時、今度は法学部の西洋法制史のN先生とばったり。私は、来年、定年ということをお伝えすると、「編纂という高貴な仕事、ご苦労様でした」といわれる。そういうようにいわれたことは、ここしばらくないので、その事情と、日本史学界の状況が話題となる。

2012年4月16日 (月)

アーレント『人間の条件』と「瞑想社会論」

 今、総武線の中。日曜だが、自宅ではできない文書のドキュメンテーション作業があって、職場環境が必要で出勤途上。その方が仕事が早く、そもそも、作業で作ってきた頭のモメンタムをすぐに動かした方が、合理的。
 昨日は、家でできる公務の作業に目途がついた段階で、和室の整理。3・11で和室の本棚も倒れて、必要な整理をしていなかった。和室には、日本史のほかの本をおいてある。いわば方法論部屋。この一年、この部屋にいる余裕がほとんどなく、念願にしている歴史学方法論の再検討作業ができないままでいた。やっと「地震論」が終わったこともあって、この部屋の整理にかかる。まずは座机と座机の上の本棚の整理にかかった。

 座机の前に板を積んで簡易本棚を作っているが、それが1年前の地震で崩れた後に整理をしていなかった。この板本棚は煉瓦で台をつくってそこに板を横たえただけで、三段の棚になっている。地震の時にくずれてしまうということもあって、妻には不評だが、当面は、これで行かざるをえない。ただ、今回は、下から二段目を煉瓦三個分の幅にして、そこには文庫本をいれることにし、その上の三段目には新書・選書をおくことにした。こうなると軽い本ばかりで、しかも座机の上なので、大きな被害をあたえることもないとは思う。
 実際にやってみると、文庫本と新書が目の前に並ぶというのは別の効果もある。文庫にはどちらかといえば、古典的なもの、新書には自然科学をふくめた他分野のものが並ぶということになり、見通しがよくなる。とくに歴史学方法論に広い意味でかかわるものを机の前一列に並べると、何か仕事の枠がみえてきたような感じがする。

 よかったのは、ハンナ・アーレントの『人間の条件』がでてきたこと。先回、歴科協の会で久しぶりにあったT氏から藤田省三さんのアーレントについての座談のメモをみせてもらった。私は、藤田さんの仕事は、「支配原理」を大学の時代に読み、『安楽』も読んだが、全体としてはよい読者ではなく、真面目に読んではいない。ただ、石母田正さんが亡くなった後の追悼会の時(もう何年前になるのだろう)、懇親会の席が隣りになり、藤田さんから「今の若い人は、どう石母田さんを読むのですか」と聞かれて、「読みません」と答えたところ、藤田さんがぎょっとした顔をされたということがあった。
 私の発言の趣旨は、「読みません。石母田さんの仕事はすでにすべて読んで受けとめています。歴史学はそういう風に進んでいます」という今から思えば、これまた思いこみの強い言葉であったが、その信条を御説明したのを覚えている。「そうですか」ということだったが、その後、石母田さんの仕事の「国地頭論」に本格的に関心するということがあったのだから、その時の私の余計なミエをはったとでもいうのだろうか。しかし、その時の感じで、藤田さんが石母田さんを敬愛しているということがよく分かり、それ以来、何となく親しい感じをもっていた。T氏のメモには、藤田さんが石母田さんについて語っているメモもあって、二人の関係がよくわかったのもありがたかった。

 そういうことで、藤田さんがアーレントの『人間の条件』を高く評価している理由のようなものを考えていて『人間の条件』をこのまえから探していたのである。佐藤和夫氏などの訳した未定稿の大冊はあったのだが、肝心のこれがでてこなかった。

 いま、総武線の帰り。疲労もあって、気も散り、何よりも面倒な「離れ付箋」の処理があって思ったほど作業が進まなかった。

 さて、『人間の条件』はきちんとは読んでいないのだが、ところどころ線が引いてある。私は、国際キリスト教大学の出身なので、いわゆる「ソ連型」社会主義(あるいはいわゆる現存社会主義、自称社会主義)は、特殊な全体主義であるという論理を単にアメリカイデオロギーというのではなく(それもあったが)、それを静かに指摘するキリスト教神学の影響を知らず知らずに受けていたと考えている。いわゆる「現存社会主義」がたいへんに問題の多い、どうしようもないシステムであるというのは大学時代からそう考えていたが、それは全体主義というほかないものであると論文や講演で述べたのは、歴史学研究会の60■周年の講演会でのことであったと思う。その時に想起したのが母校での経験であり、そして(その時も十分には読んでいなかったが)アーレントの仕事であった。
 他方、歴史学方法論で、私がともかくあるところまで考えを詰めたのは労働論である。ところが、これもアーレントのいう活動(action)、労働(labour)、仕事(work)の区別にかかわる。藤田さんのアーレント評価が、ここにあることもいうまでもない。
 西洋哲学史をさかのぼり、アリストテレスから始める、アーレントの議論は労働論を素材として哲学史を切ったという意味で根本的なものであることは衆目の一致するところだろう。それが歴史語義論を素材としているという意味でも歴史家としては興味があることである。私などは三木清のアリストテレス論を思い出してしまうが、哲学の議論としても重要なものであることがよくわかる。それが一九世紀思想を越えた諸問題を追究していることは事実だと思う。これをともかく読み抜いて批判することが歴史学方法論にとっては本源的な問題と考えている理由である。そもそも、歴史学方法論において、どうしてもたたいておく必要のあるハイデカーとの関係でもアーレントを読むことは必須であると位置づけている。

 しかし、私は、アーレントの仕事をそのまま認めてよいとは考えない。それをそのまま認めていては社会科学者の一分が立たない。とくにアーレントが労働(labour)、仕事(work)の区別の議論を自分の独創であるかのようにいうのは、アーレントの経済学への無理解を示すように思う。アーレントが経済学的な議論には満足できないというのはよくわかるが、これはいわばハイデカーからの脱却が十分ではないのではないかというのが、私の観測。
 アーレントの見解に反して、社会科学は、経済学的な価値論レヴェルにおける労働の二重性論から出発して行かざるをえないはずである。つまり、labour抽象的人間労働とwork具体的有用労働の区別であって、これが基本的に重要なことは、右の歴史学研究会の60■周年のシンポジウムでの講演でも述べた通りである。歴史学などの社会科学にとって問題なのは、やはり労働の二重性論から精神労働と肉体労働の対立論に進み、社会の敵対的構成にまで進んでいく体系的な歩みなのではないだろうか。アーレントの議論は、「哲学的、あまりに哲学的」で、これでは現実の社会構造を社会の基礎から解いていくということにはならないと思う。

 もちろん、アーレントの仕事の意味は大きい。彼女の問題にしたレヴェルは価値論レヴェルを越えたものである。それはむしろ精神労働と肉体労働の対立という現実の現象としての支配、精神性の剥奪という意味での人間の物化をはらむ社会的分業の現実論にかかわってくる。精神労働と肉体労働の対立論、そしてそれに関係するレヴェルでの「都市と農村」論、さらにアーレントが展開した「公的領域と私的領域」論が、経済学のレヴェルではとけていないことは事実である。これはきわめて大きな問題である。私は、これをどうにかするというのがフェミニズムの議論とならんで、20世紀思想の最大の問題であったと思う。
 私の関心は、むしろアーレントの「活動」論にある。アーレントは、活動と観照(「瞑想」)を対をなすものと考えている。そして社会生活が「活動」を中心とするものとなり、「劇(act)」となる時に、社会の中に「永遠性」、「無世界性」、網野さんの言い方では「無縁」の自然そのものが立ち現れると述べているように思う。それによって永遠への観照・瞑想が復活するという訳である。それにそって、労働(labour)、仕事(work)が永遠の相の中で位置づけられねばならない。私は、こういう考え方に賛成である。

 私は、この本、『人間の条件』が好きである。20世紀思想のうちで現実との緊張関係をもって体系的な思索を展開したのが、ボーボワールとアーレントであるというのは、ある種の必然なのかもしれないと思う。この文庫本には中年になったアーレントの写真が載っている。右の佐藤和夫氏の訳した大冊にのっているおそらく20歳前後のどこにでもいるような「夢見がちな少女」としてのハンナの写真と比べると、ナチスに追われた時代の苦闘が反映しているような中年の顔。彼女は普通の学者ではない。彼女の文章は強く訴えるものをもっていると思う。

  アーレントの言葉は力強い。たとえば、
 「科学者の政治的判断を信じないほうが賢明なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬ、この事実によるのである」。
 「世界を、人々が結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには永続性がぜひとも必要である」「公的空間は、死すべき人間の一生を越えなくてはならないのである」。
「人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのはナザレのイエスであった。たしかに、イエスは、それを宗教的な文脈の中で発見し、宗教的な言葉で明確にした。だからといって、それを厳密に世俗的な意味で真面目に考えなくてもいいということにはならない。許しというのは活動からかならず生まれる傷を治すのに必要な救済策である」。

 今は月曜。銀杏は緑。歴史学の公的空間は永続性をもったものとして成立しているはずではあるが、さてそこに「人々が結集し、物(史料)の共同態がある」かといえばそれは疑わしい。

2012年1月17日 (火)

リルケ、ロマン・ロラン、そして宿敵ハイデカー

 今日16日は京都出張。いま、新幹線の中。スーツの上着をぬいで、先日奥さまが買ってきてくれたカーディガンに着替えたところ。
 戦争直後に生まれた世代。今、60前後の世代で、よく読まれた小説の一つはおそらくロマン・ロラン。そして詩人の一人はおそらくリルケ。私たちの世代で両方を読んだ人は、まったく違う小説家と詩人であると読んでいたと思う。もう新しい文学を読む元気はないので、今でもときどき読む。
 この前、『マルテの手記』と『ジャン・クリストフ』の相互で文章と内容が非常によく似ているところがあったような気がした。『ジャン・クリストフ』は「広場の市」の場面だったと思う。両方ともパリのアパートに孤独にいて隣室をどう感じているかという話であった。
 リルケとロマン・ロランはほとんど何もかも異なっている。しかし、ヨーロッパの都市世界の中で生まれた「孤独」というものを見つめる日常的な目は、意外と共通性があったのかもしれない。もちろん、『ジャン・クリストフ』のもう一人の主人公、オリヴィエ・ジャナンより、リルケが圧倒的に強い人間であることは明らか。リルケはドイツ生まれのジャナンのようにみえるが、リルケの散文は強い。何年か前、リルケの年上の愛人、ルー・アンドレアス・サロメの伝記を読んだ時の驚きを思い出す。
 19世紀世紀末から20世紀のヨーロッパの都市は、開放された「ブルジョア的な富」というものが最初に文化を世俗化し、席巻し、作り替えた時期。しかし、その中から生まれたものも多い。その中の「広場の市」、つまり文化をも商品化し、享楽の一部にはめ込んでいく中での「孤独」というものをロマン・ロランもリルケもみていたのだと思う。ここでともかくもフランス革命からはじまった時期が終わった。それ故に、ヨーロッパ史家には、この時代以降を現代とする人が多い。私は世界史全体の段階論からいくと、そうは考えないが、しかし、逆にこのヨーロッパ世紀末が世界史の未来へ向けては決定的な位置にあることも明らかであると思う。それはより深刻な「現在」の位置に関わることである。
 もちろん、世紀末は、その時代の中でも深刻な問題を惹起した。つまり、その都市の爛熟と格差の中からすぐに何が生まれてきたかは、歴史家ならば、誰でも知っていること。ドイツの暗い森である。そしてロシア社会主義は、ヨーロッパ文明の展開に対して何の力ももちえなかった。ヨーロッパとトロッキーの関係は悲喜劇に終わった。ロシア社会主義はロシアのヨーロッパ化、あるいはヨーロッパの東へのジャコバニズムの展開、ジャコバニズムの自己中毒という要素をもっていたという意味でも辺境文化であって、ヨーロッパへの影響を担保するようなことはできなかったのである。ロシア社会主義がロシアのヨーロッパへのコンプレクスのなせる業であったとすれば、アメリカはヨーロッパの夢と欲望の植民地への輸出であった。ロシアのヨーロッパコンプレクスは「革命の輸出」を結果したが、アメリカのヨーロッパコンプレクスはヨーロッパの夢のブルジョア世俗化であったということになろうか。
 18/19世紀ヨーロッパが作りだしたロシアとアメリカが、その建前としての理想を世俗化し、膨大な迷惑を世界中にかけてきたのが、20世紀という時代である。そして片方は醜悪な「党官僚」なるものの姿を世界にさらし、もう片方はお馬鹿のブッシュで終わった。こうして、原民喜のいう「ぱっとはぎ取ってしまったあとの世界」、広島に現出した核時代が、人間の肌をはぎ取り、核兵器が生体の核を破壊する時代をもたらす一方で、おどろおどろしい世俗化と国家理性の空洞化という時代がきた。「国家とはそれ自体として軽く扱われてはならないものなのです」というのは、たしかマルクスのルーゲへの手紙の一節であるが、国家中枢の骨粗鬆症というのは、以前は王権と貴族の享楽の末に生まれた事態だが、いまはシステムがそれを作りだしている。
 国家が、これだけ軽くて良いわけはないというのが、私などの考え方である。こういうと、保立は保守主義であるばかりか国家主義であったかということになるが、少なくとも、現在の国家の中枢部の個人責任のなさという意味では、そして中枢部個人の影響力のなさ、そして軽さという意味では前近代史をやっている立場からすると信じられない状態である。前近代身分社会は、ともかくも最後の結果は個人に懸かってくるからである。だからそこに(実態は見るにたえないとしても)劇もあるのだが、現代は最初から三文芝居の時代である。丸山真男のいう無責任の構造というのは、超歴史的な議論で歴史家としては容易に賛同することができない側面をもっているが、集団的な無能力と無見識の現象形態としてはつねにそれが登場することは事実であって、これは現在では、むしろ世界的な問題となっている。
 ともかくも、21世紀になっても、19世紀末期のヨーロッパの知的爆発と資本主義の矛盾の結合の中で、現在は存在している。こういう事態の中で、現代を現代としてとらえる新しい思潮がどこかで生まれているのであろうが、私などのout of dateの知識水準ではもう一度ヨーロッパ世紀末の思想というものを考えること以外には手はない。
 数学のヒルベルト、哲学のハイデカー、経済学のパヴェルクの世界である。これらは一種の共通した側面をもった哲学として括ることができるはずのもので、ようするにマッハである。マッハの議論がイギリス的なバークリの主観的観念論の焼き直しにすぎないというのは、堀田善衛のいう「男らしいレニンさん」の概括批判であるが、しかし、これらの哲学的議論が全体として世紀末に組織体としての様子を明瞭にしてきたアカデミーの内部議論を反映していたものであることは看過できない。それは、その方法的な厳密化の要求をうけたものである側面、そしてその範囲での有効性をもっていたと思う。私はフッサールは読んでないが、ウィトゲンシュタインには明瞭にそういう有効性があると思う。
 ともかくも、その環境の中で自然科学のニュートン以来の再突破、相対性理論と量子力学が誕生し、コンピュータと核技術の中枢が形成されて、「現在」はその知的爆発の中にとらわれた社会なのである。この爆発、ビックバンによって世界が広がるスピードに追いつくためには、無人格的な致富欲と意識の呪縛の世界を表面においた怪物的な経済社会システム、情報資本主義(電信電話からコンピュータへ)によるほかなかったというのが、20世紀の歴史であって、しかもこれだけ惨酷な時代は、人類史上、存在しなかった。人間による人間の大量殺害と環境破壊。
 21世紀は、ヨーロッパの知的爆発の影響を世界的に最終処理する課題をもつ世紀である。学術の世界の側からいえば、そこからはじまった自然科学のビッグバンに社会科学の拡大が追いつけず、社会科学の拡大に哲学が追いつけず、歴史学は所々で道草という状況である。これはスティグリッツがいうグローバル化の波状現象、つまり金融のグローバル化に経済のグローバル化が追いついて行けず、経済のグローバル化に政治的なガバナンスのグローバル化が追いついて行けないという状況と、実際上、二重化した、その学術世界への反映なのかもしれない。
 こういう状況の中で、学術世界にどこから変化がおきるかといえば、一般には哲学からのはずである。ヨーロッパの知的爆発が人類史上に巨大な意味をもった最初の原点は、ギリシャ自然哲学にある。もちろん、それが八世紀ヨーロッパに復活したのは、まったくヨーロッパ外部の事情によるものであって、その意味では同じヨーロッパが続いている訳ではないが、しかし、そこにはやはり連続性もあるのである。ヨーロッパ中心主義といわれようと何といわれようと、ギリシャの画期性は否定できない。同時代の中国儒教、インド宗教の勃興の中で、ギリシャはもっとも辺境であり、それが有利に働いた。いわゆる三月弧地帯の帝国の周縁文化である。それは完成系を前提にしてその論理的操作によって先へ進もうとする、もっともよい意味での物真似文化であった。そういう限定をつけるとしても、またヨーロッパ独走ではなかったことは宮崎市定などを読めば分かるが、しかしやはりギリシャ文化、そしてそれを受けた近世ヨーロッパ文化の画期性ということは否定できないと、私は思う。
 問題は、二一世紀に、ヨーロッパの知的爆発の最終処理をおこなわなければならないということは、ヨーロッパの中心性が、この世紀に最終的におわることを意味するだろうことである。このグローバリズムの中で、再度、人類史において、ヨーロッパというような地域性が意味をもつ時代が来るとは思えない。その意味で、現在は、ヨーロッパ中心が本当の意味で終わる、終わらせなければならないという時代である。これがいまだにヨーロッパコンプレクスにとらわれたまま、迷惑をかけ放題した後に、普通の国家に利己主義的に縮小しているアメリカには処理できない課題であることはいうまでもない。
 19世紀ヨーロッパの知的爆発の原点は、アカデミズムの生理にあった。アカデミズムという知的機構の形成の中での人間の知的能力の形成。これは誇りと名誉欲と、常識と非常識と、知的活動が動物としての人間にもたらす異常活動性を石臼の上で砕き出す組織である。問題は、この組織の自己組織原則が学者の自己位置づけ、観測者としての自己位置づけの論理によって形成されたことで、ようするにその種の人間の自己像の反映としての観照哲学である。それが経験批判論あるいは現象学という形式をとったのは、現象記述の厳密化が学者の職能的役割であるからであって、そこにあるのは「学者のための哲学」であった。現象学が二〇世紀の哲学界を通じて首座をしめたというのは、世界哲学史の中では奇妙なことである。学者用の哲学で、人間としての哲学の代用品にしてくれと二〇世紀哲学はいいつづけてきたのである。知的爆発なるものの原点の俗物性とみじめさは、爆発の内容の恐るべき豊富さと奇妙な対照をなす。
 学者の安心立命のための観照哲学と呪文。これを代表するのがハイデカー哲学である。ダーザイン、つまりそこにあるという「物」の世界に「まずは」安住できる立場で、それを観照することから始めるというデカルト以前への退行がまず宣言される。そして、その「もの」の世界そのものを「現象」として、現象の膨大な網の目の中をさすらう研究者に、網の目は膨大だ、その網の目の詳細な追跡をするだけでも君の知的労働は意味はあるのだ。「存在論=オントロジー」と呪文をとなえればよいというのが、彼の提供した特効薬である。殺し文句は次。「研究の独自の進歩は、その結果を集録してそれを「ハンドブック」の中に収めることよりも、むしろそれぞれの事象のこのようにして増大した知識から、多くの場合、反作用的に促されたところの、それぞれの領域の根本構造への問いの中に存するのである(『存在と時間』上、三〇頁)。理屈と哲学の不得手な自然科学者を、こういう言葉でひっかける訳だ。いまでもコンプレクスの強い情報学研究者、あるいは諸学の王者としての自信のない情報学研究者は、「オントロジー」という言葉をハイデカーから借用する。
 重要なのは、この「もの」の世界をハイデカーが有用性という言葉で捉えることで、有用性についてのバカバカしい「経済原論」らしきものをやって、「世界内存在」についてのドイツ人(ドイツ語を使う人)にしかわからない素人哲学を展開することである。ドイツ的、というよりもドイツ語的な地方的難解さが、しかし、哲学の深淵さであるかのように受けとめられるのは、ドイツアカデミーの総合力、19世紀末期において多様な諸科学においてアカデミーを形成したドイツの総合力によるものであろう。
 前から確認したいと思っているのは、ハイデガーが、その経済議論のもとねたとした新カント派の経済学の範疇議論の内容と系譜である。ハイデカーが批判したとされるが、おそらく、その程度の低さに逆規定されているはずの新カント派、リッケルト、シェーラー、ロッツェなどの経済議論である。大塚久雄先生が価値論の論者として高く評価している左右田喜一郎氏の仕事も、新カント派をうけていたはずである。彼らとパヴェルクなどの効用価値説の関係は、実際上、きわめて深いのではないだろうか。リッケルト、シェーラーなどは三木清の最初の格闘相手である。三木清と新カント派の関係となれば、私などにとって古典的な問題なので、いつかつめてみたいものと考えてきた。
 ともかくもここら辺を読んでいると、ハイデガーの議論は、素人経済学の域を超えないものというのは明らかである。たとえば、ハイデガーの道具論は、有用性という用語がキーになっている。正確に引用しておくと「世界内存在とは、道具全体の道具的存在性にとって構成的な諸指示のうちに、非主題的に配視的に没入していうということに他ならない。配慮的な気遣いは、世界とのある親密性を根拠として、そのつどすでに存在している」という(16節76)。普通の言葉で言い換えると、道具は、その使用方法を自身で指示する力をもっており、それによって、使用者は、一定の気配りをすれば、その道具を使えるものだということになろうか。しかし、こういう議論は何か意味があるのだろうか。滑稽な感じがしたのは、ハイデガーによる「近頃の自動車に取り付けられている回転式の赤い矢」についての説明である(17節202)。この方向指示器について、いろいろ言った後で、「指示は、何らかの有用性が、そのために用いられる用途性の存在的な具体化であって、ある道具を、この用途性へと規定するのである」と説明する。「方向指示という機能は、安全という効用のための手段に具体化されて、ある道具を方向指示器にする」という訳だ。こういうのは実際の経済学的な分析ではなくて、言葉の遊びである。
 ハイデカーにとっては、物の有用性によって結びつけられた親密な配視的世界と、道具が問題なのである。これはドイツ小市民の夢、ドイツ職人世界のたわごとだというのが、私などの感じ方である。
 私はハイデカーの有用性についての議論を読んでいると若い頃に読んだサムエルソンの『経済学』の冒頭の無概念な叙述を思いだす。実際上、ようするにハイデカーの議論は、効用価値学説に密接な関係があったのであって、ハイデカーの謎は経済学から解くべき点が多いのである。ベーム・バベルクとハイデカーという問題領域である。使用価値あるいは効用価値の世界は現象であって、価値実態や労働の問題が入ってこない。これは効用価値の世界で経済を解こうとするということであるのは明瞭なことだと考えている。経済学者にハイデカー批判をしてほしいものだ。(なお、私は使用価値という訳語は、use-valueの訳語としては適当でないと考えており、日本語としては川島武宜のいう利用価値あるいは効用価値の方がよいと考えている。効用価値説それ自体には、重要な実用性があるというのが大塚先生の御意見)。
 考えてみると、ハイデカーは歴史学の宿敵である。下手な哲学者は歴史哲学をやることによって、自己の哲学の玩具性を表現してしまうが、このような玩具にえらそうな顔をさせてきたのが20世紀の学術世界であったというのはなんと奇妙なことか。

2012年1月15日 (日)

ベン・シャーン『ここが家だ』、NHK日曜美術館

 日曜美術館がベン・シャーンやっていると呼ばれて急いで下へ。
120115_135442  アーサー・ビナードさんがでていて、『ここが家だーーベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社、絵ベン・シャーン、構成と文アーサー・ビナード)の紹介をしているところに間に合う。昨日は例年の監督業務で日曜美術館のことなどはなす余裕はなく、就寝。
 いま、総武線の中で『ここが家だ』を再読したところ。出る前に探したが、書棚の居間から移した分にはいっているのがわからず、一騒ぎ。Mちゃん、疑って、という訳ではないが父母で聞いてごめんね。
 大量のベンシャーンの史料を蒐集・分析しているという、福島県立美術館のキュレーター荒木康子さんがでてきて、ベン・シャーンの「The Voyage of Lucky Dragon」を紹介している。Lucky Dragon、第五福竜丸である。
 日常の圧倒的な力の中で埋没する記憶をあらためて語る力をのっていると。「日常の圧倒的な力」。たしかにその通りである。
 『ここが家だ』で紹介されたマーシャル群島での核爆破の情景描写は強烈な印象。

いきなり 西の空が まっ赤に もえた。「太陽がのぼるぞぉー!」と ひとりが さけんだ。西の空の 火の玉は 雲よりも 高く あがっていた。

けれど ほんものの 太陽は 東の空に のぼる。にせものの 太陽みたいな ばけものが うようよ もくもくと もがいているのだ。

 この核爆発の描写は、一種の神話である。巨大な悪神の立ち上がりを世界に告げた神話である。これが悪と恐怖の神話として真正であることは、人類史最初の神話が真正なものであったことと同様である。人類にとって最初の神話と、この核爆発を伝えるものとして語られた「詩」は、その神話性において区別されることはない。
 原始神話というのは、意識をもつようになった人間にはじめて映ったおそるべき、そして光々しい、神々しい世界の形象である。視神経と脳髄の自己意識の力がはじめて直接につながった人間の中に入り込んできた無縁の自然、圧倒的な自然の力の形象化である。
 原子力の「安全神話」という用語における「神話」という言葉の使用のあり方は正しくない。実際には「原子力安全神話」とは「みえていること、知っていることを隠す」ということであって、本来の「神話」は「みえないものをみる精神的営為」を意味しているからであるというのは、前に、このブログで書いた。「安全神話」というのは曖昧主義、オブスキュランティズムであって、これも
マスコミが作りだした操作的な言葉である。しかし、さらに問題なのは、この「原子力安全神話」の背後に、真正の神話、しかも原始神話とは異なるもっぱら恐怖のみの神話が控えていることであると考えた。「安全神話」という言葉はこのことも曖昧にする。
 ともかくも、アーサー・ビナードさんの「詩」が、原始の太陽神話、世界創造神話の印象に酷似することにショックをうけた。そして、世界の神話の中で、もっとも濃厚に火山神話が分布するのは太平洋、環太平洋圏であるという最近の神話論研究で確認したことにあまりに一致することにもショックであった。マーシャル群島にも、大林太良氏が報告しているような世界創造神話があるに違いない。そしてそれは火山神話であるというのが最近の確認点であるので。
 いま、総武線の中。明日からの出張準備で出勤。ベンシャーン展を神奈川近代美術館で、1月29日までやっているということなので、できれば行こうと思う。
 ベン・シャーンは、私たちの世代だと、ドーミエとケーテ・コルヴィツとベン・シャーンという形で親しい版画家。1898年リトアニアの貧しい農家に生まれた。父は帝政ロシアに抵抗し、シベリアに流刑され、逃亡し、社会主義運動に参加し、スウェーデンやを放浪してアメリカへ逃げた人。少年時代から石版工房で働く。
 私たしの世代だと、無実の罪で処刑されたアナキスト、サッコとバッサンディの救援運動に参加し、連作を作ったこと、そして、1945年の「解放」題されたフランスの子供たちが深刻な顔でブランコをしている綺麗な絵がなつかしい。これはテレビでも出てきた。
 番組の最後に、ニュージャージー州のルーズベルトのベンシャーンの家が映し出され、リルケの『マルテの手記』に題材をとった版画集「一行の詩のためには」の紹介がでた。「追憶そのものからでてくるのだ」、追憶がわすれさられた時にでてくるものを語るという言葉は、歴史家にとっても重大なもの。亀戸に、昔、娘とみにいった第五福竜丸はどうなっているのだろう。
  途中9時45分に地震

2011年2月27日 (日)

私の好きな本。中井正一『美と集団の論理』

 高校から大学時代の最初にかけての愛読書の一つ、中井正一『美と集団の論理』は、背表紙は白、そして表紙全体は黄色。装丁が好きであった本というと、この本、そして従姉妹から長く借りていたカンディンスキーの前衛芸術論であったと思う。
 『美と集団の論理』の方は、ある人に貸したまま、結局、あげてしまった。いくつかの論文については、親しい記憶があり、それでも不便を感じていなかったのだが、昨年、『中国史』の勉強をした時期があって、その中で、小島毅氏の中央公論社版の『中国の歴史』の宋代をあつかったに感心し、それとの関係で、中井の世界史的な情報過程論を再確認したくなって、ネットワークで注文した。1500円しなかったように思う。記憶通りの綺麗な本を入手して喜んだ。下記は、その時に書いたメモを組み直したもの(カンディンスキーの方は、今度、従姉妹にあったら、また貸してもらおう。返したはずだと思うが、まだ返していないということだったらどうしよう。もう40年も前の話だ)。

 中井が『土曜日』に書いたエッセイのうち、もっとも著名なものを下に引用。
 人は営みの轟音のなかで、すき間を洩れる風のような不思議な想いにめぐりあうことがある。
 何故こんなに多くの人が歩いているのか。何故こんなに多くの人々が苦しんでいるのか、何故苦しみがあるのか。何故こんなに忙しいのか。何故人は笑っているのか。何故泣いているのか。
 小さな子供が母親にいくらでも問いかける問いのような、何か大きな問が、次から次へと追いかけるように、止まることなく湧いて来ることがある。
 それは想いというよりは、一つの感じである。自分にも判らない一つの心の動きである。そよそよと吹く風が、大気の全体を音もなく動かしているような、あらゆるものを親しく撫で、触って行く微かな感じである。
 そしてそこに漲るものは、大きな虚しさである。この凡ての営みが全体をあげて、寥々たる無の中に沈んでいくのではないかという感じである。
 それは実に太古の民をもが、大きな自然や、激しい人生に臨んで、懐いた感じであり、その時代その時代に於いて、その色合いが変わりその現わし方が違って来た想いである。そして、その想いの中に立止って、それを「道」にまで変えてきたことが度々である。

 中井正一は、第二次大戦前の京都大学の哲学教室で美学を専攻し、京都大学の講師をつとめた哲学者である。しかし、彼は戦争へ戦争へと流れる時代の動きのなかで、その自由主義的な言論を咎められ、特別高等警察によって検挙された。そして、そのために京都大学を追われ、郷里の瀬戸内海・尾道に戻って雌伏の生活を余儀なくされた。
 敗戦後、中井は、大学に戻ることなく、ふるさとを拠点として在野の立場から活発な文化的・社会的活動を展開した。現在からみると、彼にとっても、そして私たちの学術と文化の豊かさのためにも、彼がそれをじっくりと続けた上で、ゆっくりと大学に戻り、学問の世界にもどった方がよかったのではないか。現在では中井の名前を知る人は少ないかもしれないが、それが中井の仕事を知る、多くの人々の感想ではないかと思う。
 しかし、第二次大戦直後の状況の中で、その履歴や能力、また闊達な人柄がよく知られていたこともあって、中井は国立国会図書館の創立にあたって、副館長を委嘱された。中井の副館長職は、本来、あるいは実質上は館長職であったといわれているが、その仕事の環境は強靱をもって知られた中井の健康と精力を消耗させ、中井は、一九五二年、まだ五三歳という年齢で、胃癌に倒れた。国会図書館のカウンターの壁の上に刻まれている「真理は我らを自由にする」という銘文は(「国会図書館法」前文にも記載されている)、中井が残したものとしてよく知られている。
 大学時代、はじめて国会図書館に行ったとき、その銘文をみて、「ああこれか」と思ったのを覚えている。しかし、もう中井の死去の年よりも十年長生きをした上での、私の感想は、上に述べたように、結果論ではあるが、この就任が日本の学術と文化にとって本当によかったものとは思えないということである。程度の低いサードデグリーの政治家がほとんどを占める、たかが日本の国会のためにあたら貴重な人間を失って、何ということかということである。


 冒頭にかかげた「人は営みの轟音のなかで、すき間を洩れる風のような不思議な想いにめぐりあうことがある」という文章は、中井が、京都で仲間たちと発行していた自由主義的な週刊誌、『土曜日』の一九三六年八月十五日号に執筆した巻頭言の前半部分である。 私は高校時代から中井正一をよく読んだが、中井というと次の歌が思い浮かぶ。
 滔々と
 とよもし来たる敷き波の
 限りなければおもいあえなし
 『美と集団の論理』の「投げ込み」で、中井の次女の徳村杜紀子さんは、「東京にでてきた翌年の夏、台風のちかい大磯の海岸で、おしよせる一丈あまりの波にむかってぬき手をきって泳いでいった父の姿は、いまもはっきりと目にうかぶ」として、この歌を紹介している。
 この時代の京都大学の哲学は、三木清・戸坂潤・中井正一などの俊秀を擁していた。カント・ヘーゲル・マルクス・ウェーバーを読み抜き、フッサール・ハイデガー・サルトルらと共通する議論に挑んでいた彼らの仕事は、あきらかに当時の世界水準を越えている。しかし、三木も、戸坂も獄中で死去し、中井も、第二次大戦からの日本の国家と社会の復興の激務のなかでほとんど討死のようにして死んでいった。
 
 歴史というものは、「滔々ととよもし来たる敷き波」のようなものであり、「この凡ての営みが全体をあげて、寥々たる無の中に沈んでいくのではないかという感じ」であり、「大きな虚しさ」であり、そして「すき間を洩れる風のような不思議な想い」であるというのが、歴史の「営みの轟音」を体験した人、体験せざるをえなかった人々の実感であるのだと思う。
 もちろん、このような感情、感慨をそのまま受け入れてよいのかどうかは一つの問題である。「大きな虚しさ」「不思議な想い」のレヴェルではすまないような経験というものを、私も聞いているし、知っている。しかし、中井のいうことが「歴史とは何か」ということを考える入り口であることはたしかだと思う。
 私は、中井が国会図書館副館長として上京してきた年、一九四八年に生まれた、いわゆる「戦後世代」である。戦争の記憶と経験を、どう考えるかは、私までの世代では大きな問題であったと思う。
 もちろん、「生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか」、個々人の人間としてのつらさというものは、どういう時代でも変わらず、とくに近年では、一人一人の内的な生活としては救いのない局面こそが増えているのではないかとも思う。
 とはいえ、私などの人生は、「平和」の中で経過し、耳をすませば、どこかに歴史の「営みの轟音」が聞こえるような気もするが、「隙間風」のなかで右往左往しているという程度のものである。第二次世界大戦後、日本では「平和」が続いている。世界各地では、多くの人間が、戦争・革命・災害の轟音のなかで裏返され、押しつぶされるという境遇の中におかれているのに対して、日本は奇妙に静かな社会である。第二次大戦をアジア太平洋地域に引き起こした張本人の国でありながら、こういう状態が許されている根拠は、どこにあるのか、それをどう考えるかは、歴史家としては必須の自問である。
 もちろん、「平和」は、どのような平和であっても価値がある。とくに東アジアの平和の意味は深い。しかし、だからといって、我々が「歴史の轟音」を聞く能力を失ってはいけないのではないか。歴史の轟音を聞いたのは、我々の父母の世代であり、あるいは我々の師や先輩にあたる世代であり、私たちにとって、そんなに遠い人々ではない。それが聞こえなくなっているとしたら、それは、現実の日本社会のどこか深くに、何らかの病巣が巣くい始めていることを示すのではないか。あるいは日本社会は、そのような不安を感じることさえなくなっているのだろうか。
 私は歴史と社会が轟音をもって変化することがよいという訳ではない。歴史と社会の変化は、可能であるのならば、漸進的である方がよいのは当然であろう。本質的な変化は着実に人知れずに進められる。一般に世上に取り上げられる変化、マスコミが取り上げる変化は浮動的な変化であることがしばしばである。より基礎的で、身近な組織や集団、会社・役所や(私の場合は大学)などをとってみても、できる限り慎重な過程と周到な合意、未来展望の下に変化の道に進むことがのぞましいのはいうまでもなかろう。
 それは個々人や個々の組織にとっては、実際はきわめて難しいことであるが、しかし、社会の基礎単位での議論と合意について、丁寧で柔らかい態度がとれないようでは、社会全体が軋みだすだろう。そして各所で矛盾がたまり、社会全体が不快な軋みの音になれていけば、それは、いつかは、人々を押しつぶす轟音に転調するだろう。どこでも軋みが聞こえ出すとしたら、それは、その社会のシステムに構造的な問題があったことを意味するから、そうなればとどろき渡る轟音に抗して、暴発し狂い回る社会組織を統御する荒業を覚悟しなければならない。しかし、できることならば、軋み音の段階で、どうにかして不快なシステムを手直しし、調律されたエンジンの回転音を取り戻すことことが望ましいのは明かである。
 いま考えると、私は、高校時代、堀田善衛をよく読み、その中で戦争を経験した人々の姿に引かれ、それが戸坂潤・三木清・中井正一への興味に向かった。そして、そこからいわゆる「戦後歴史学」に親しいものを感じ、その中に踏み入っていった。そうであるだけに、彼らの仕事と比較して、歴史学が何ができるかということをずっと考えてきた。
 それにしても、中井の著作は多様であり、彼の美学関係の著作集の方は、そんなに読んでいない。ほとんど買ったはずだが、最近、見ていない。どこに置いたのだろうか。とくに「日本美」についての中井の分析もよくわからないまま過ぎた。『美と集団の論理』を、読み直した上で、小さな版の美学関係の著作集の方も、そのうちに読んでみたいものだと思う。

2011年2月19日 (土)

私たちの世代の本。太田秀通『史学概論』

 今日(金曜日)は来週の公務の振り替え休日。朝早く目が覚めてベッドサイドメモ。その後は寝られず、頭が重い。起きて、メモをPCに入れていたが、ベッドの中での構想の生き生きしていたようには、文章は走らない。食事の後、やむをえずしばらく再寝=再審。その後に、作業開始。
 メモを起点に、例によってあっちこっちする。ある論文を読んで、その関係史料を読み出し、そこから別の論文に飛んで、そこに引用されているまた別の論文、やっともとの論文にもどって、遍歴過程をPCのいくつもの論題に分けて入れていると、時間は自動的に経っていく。こういう、いわばのんびりした仕事のやり方は楽しい。歴史学が何といっても手仕事であり、手触りのある仕事であるのは、ここに原点がある。私も、こういう時にはデータベースはまったくさわらない。
 こういう少しでものんびりした時間が、一定の年齢だから許されると思うと、申し訳ないような気持ちにもなる。しかし、こういう仕事の仕方を長くしてきたし、そこから何が出てくるかは不明なので、御許しを願う。
 どうなるかわからない知識を記憶するというのが、歴史家の仕事の一部なのだと思う。別の言い方をすれば、太田秀通先生の『史学概論』に、精神的生産は結果を予測できないとある。歴史学の場合は、とくにそうであるということだと思う。今、『史学概論』を取り出してきて、該当の部分をさがしてみた。自分の記憶している文章とも違い、かつ、この本は僕の本ではなく、相方の本の可能性もあって、線が引いてない。しかし、似たところを引用する。おそらくここを覚えていたのだろうと思う。

 
 この生産(精神的生産としての歴史学の研究)においては、あらかじめ生産物の形態が予想されてそれに近いものが生産されるのではなく、生産物としての認識内容は、原則的には、まったく知られないままに生産活動に入らなければならない。研究にはもちろん問題設定が先立ち、その問題に対する一定の予測があってはじめて具体的な研究が始まるのではあるが、その予測は研究過程でどのように裏切られるか分からないし、さらにその予測自体が、途中で変えられるという予測を含んだ、この意味で何ら具体的な姿をとらないものである。この点で歴史学の研究は、工業生産のごときものよりも、むしろ鉱山業に似ているといえよう。歴史研究という作業も、存在としての歴史をいろいろな側面から探し出していく過程である。それはまた歴史を切り開いて中身を見せるという点で解剖学に似ている(63頁)。

 
 記憶の中の言葉とは違うが、この趣旨を大事に頭の中にしまっていたことは事実である。これは職能人としての記憶である。
 久しぶりに取り出してきたので、『史学概論』の最後の文章を読む。この部分は、かってと同じ輝きをもって響いてくる。この部分は、私たちの世代の歴史の研究者の相当多くの人々が読んで知っていたはずである。この文章は記憶通りであった。少し長くなるが、引用してみる。

 人間と生まれてだれしも悔いのないうちこめる生き方をしたいと思う。ひたむきに生命をうちこめる生き方をしたいと思う。誠実に恋を成就し、愛情と仕事とを二つながら完成したいと思う。美を愛し真理を尚び、できれば静かで平凡な幸福の中でひとすじ道を進めたいと思う。苦難にあっても自ら運命を切り開いて進もうと思う。豊かな心をもって醜いままのこの人間を愛し、人間性を最後まで信じようと思う。人生に光を求めて苦悩した人々を理解し、現実ときびしく対決して人類の教師となった人々を尊敬し、虚偽と戦い、ヒューマニズムに生きようと思う。絶望の中で生きる力をあたえる智恵と愛情がほしいと思う。学問以前の問題は、ぼくは(あるいはわたしは)いかに生くべきか、という具体的で切実な問題に集中してくる。これに対して、学問は、歴史学は、あるいは哲学は、どんな助言をすることができるであろうか。現実に対してどういう姿勢をとるか、ということと深くつながっている生き方の問題は、もとより学問の内容と関連してくる。だが、生き方の選択は、めいめいの自由意志に基づく決断によるほかない。学問以前の問題は歴史学と深くつながっているとはいえ、歴史学は、学問以前の問題に対しては、無力ではないまでも、決定的な力をもっていはいない。
 生にとっては、歴史学が明らかにした歴史認識の総体が、かえって邪魔になることさえあろう。歴史を知らぬ人の幸福な生き方は、万巻の史書を恥じしめるであろう。歴史学は人の知らぬうちにその意識を規定している必然性を示すかもしれない。だがその必然性を知らないことほど、愛にも憎しみにも純度を高める作用をするものはあるまい。無知はある意味で生の美徳でさえあるではないか。分別くさい歴史知識は、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ! 地球をわがものにしたからとて、この魂を、この生を失ってはどうにもなるまい。すべての歴史を知ったとて、それで魂が高められ、それで生が高められたなどといえるほどの精神なら、何も生き方について悩んだり、光ほしさに泣いたりするにも及ぶまい。歴史知識の一切を放下して、はじめて現実に動かされぬ自己の立場を明確にすることができる。現実に対し常に異邦人としてさらりと関係しうるのには、歴史から超越した一者との秘密の関係に立って、これをのみ怖れと戦きをもって愛さなければならないのではないか、という考えもあるであろう。この思想を歴史学的に批判し、その社会的根源を示すことは困難ではない。しかし生にとって、そのような批判の何と空しいことか。
 人間は社会的存在であり、未来への扉はみんなで開けて入らなければならないことは当然である。しかし人間は、社会的生産が個人の労働から出発することが示すように、何よりもまず個体である。個体であるとは、それが一つの全体であり、小宇宙であるということである。そのようなものとして、同じような汝と区別されるところに、個体であることの意味がある。人は最愛の恋人の手の傷の痛みを、どれだけ愛していたからといって、わが身に感じることができない。それは愛情にとって我慢のならぬことである。だがそれが個体としてのさだめであり、それだからこそまた愛情は人間を高める不滅の星となることができる。
 この個体である人間の、悔いを知らない、報いられなくとも満足できる、そのようなひたむきな生き方、そのような生き方を可能にするところの生命の燃焼、それを何のためにということが、個体としての人間の小宇宙を賭した生き方の問題の核心である。しかしこの何は、どのように高貴な何であっても、たとえば人間にとって最高の存在である人間の歴史の発展にそった解放ということであっても、外から示されただけでは、個体の生命を燃やす何とはならない。ここで問題なのは、何の質ではなくて、その何が何であれ、そのために力をつくし思いをつくし、そのために生命をすて、そのために生涯をささげて悔いないということではないか。騒がしい饒舌の知識は去れ。小宇宙の静かな星雲がひとりで形をとるのを待て。人は自らの苦悩を自ら征服しなければならないのだ。
 これが人間としての生き方の問題である。人間の科学を自負する歴史学は、この問題にも何がしかの助言をあたえることができかもしれない。しかし小宇宙のことはその内部で解決しなければならない。個体としての人間の尊厳を包蔵するこの問いの前に立ち尽くす若い人々に対して、不惑の歴史学は、自己の無力を悟りつつ、しかし人間の科学にふさわしい愛情をこめて、次のようにいうほかない。
 ――ひとりで開けて入れ。

 この文章は本当になつかしい。太田先生には、よく本郷の通りでお会いした。先生の長身が遠くからみえるとうれしくなって寄っていったという記憶がある。亡くなられてからもう何年だろう。追悼の会のことを思い出す。
 

(上記の入力は娘にやってもらう。ありがとう)。

 『史学概論』は、我々の世代だと必読文献だった。今ではほとんど会うことのない人々も特別の本として読んでいたことを覚えている。しばらく前までは、今でも相当の人がよんでいるのであろうと思っていたが、しかし、絶版のようである。私などは、太田さんの本に教えられることがなければ、歴史学の仕事を続けることはなかったのではないかとさえ思えるのだが、学問の世界における世代の変化を考え、どのようにしてか、語り継がねばと思う。