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カテゴリー「東アジア」の10件の記事

2016年1月 4日 (月)

核時代後という紀年法について

2016gajou
 
 上記が私の賀状です。私は毎年、核時代後という年号をつかっています。20年以上、これでやってきました。昨年も書いたことですが、歴史家としては、年号はリニアーでなければならない、直線的で、ずっとつづく連続数でなければならないと考えます。

 その点では、元号でなく、西暦が便利なのですが、しかし、西暦というのは、やはり、ヨーロッパ中心史観の影があり、それを将来の将来まで使用するということには、無理があります。

 それに代わる紀年法としては、核時代の前か後かというのが、もっとも適当であると考えています。これは地質学などで使用されるBefore Presentの考え方にも近く、その起点を核開発に置こうということです。

 ただ広島・長崎におとされる核爆弾がはじめて実験された年が紀元となるのは日本列島に住むものとしてはつらいことです。それは平均的な「日本人」の歴史意識では無理かもしれません。またこれはもとより、この列島に関わるだけのことではありません。つまり、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争についての感じ方が、まずはアジア・太平洋地域で共有されなければならないと思います。それは現在の状態ではむずかしいかも知れませんが、しかし、東北アジアから出発して歴史意識の共通性を作り出していくことは世界にとって大事な意味があると考えています。

 ヨーロッパ文明が世界にとって大きな貢献をしてきたことを認めない訳ではないのですが、その暗黒面も巨大なものがあります。東アジアがグローバル資本主義とは異なる地域世界を作り出すことができるのならば、それはヨーロッパ文明によってもっとも深刻な打撃をうけ、現在でもその激しい圧力と後遺症にさらされている中近東地帯の人びとに対して、東アジアができることの一つであるはずです。それは、世界で共用できる時間意識というものがどういうものになるのかという問題であり、世界史をどう考えているかという問題に直結してきます。

 PCに残るもっとも古い賀状には、『詩経秦風』渭陽から、「我送舅氏  悠悠我思  何以贈之 瓊瑰玉佩」(下記の詩をとって載せていました。

 上記の賀状には『老子』の80章の現代語訳の私案くを載せました

「邦は小さくて人は少ない方がよい。重機があっても使わず、人は死を怖れず、忙しさを知らない。多人数で船や車を動かすことはなく、ましてや武具をもって陣をはるようなことはない。書類はない。縄を結んで物を数えた昔でも、社会は成り立っていたのだ。住む土地のものを甘いといい、その服を美しいといい、住処に休まって、その慣わしを楽しむ。隣邦はすぐそばで、鶏は競って鳴き、群犬は吠えて行き来する。しかし、人は老いて死ぬまで、何人かの人と深く知りあえればよいのだ。

 これは世界でもっとも早く、またもっとも正確に将来社会の理想像、ユトーピアを描いた詩であると考えています。老子の思想が、日本でも禅や神道に大きな影響をあたえたことはいうまでもありません。それを確証する仕事を今年は位置づけたいと考えています。
 
 さて改めて、今年もよろしくお願いします。
 世界が少しづつでも住みやすい場所になっていきますように。世界文明の交差路である中近東の平和のためにおのもおのもの立場から何ができるのかを考え続ける年になればと思います。アフガンで活動する中村哲医師に敬意を捧げます。災害からの恢復に努力を重ねられている東北・福島の方々に敬意を捧げます。少しでも平安な年となりますように。また辺野古への無法な巨大基地建設に反対し、平和な沖縄を実現しようしている方々に敬意を捧げます。

2015年10月26日 (月)

なぜ日本史研究者が老子を読むか。『老子』66

老子など変わったことを始めたものだと思うが、東アジア史にとって、老子の原型を伝える帛書や楚簡の出土は、たいへんなことであるというのを実感している。

 研究の基本は池田知久氏の仕事や、中国出土文献研究会(代表浅野裕一)の仕事にあり、これは厳しい議論があっても、東洋思想というものを本格的に考えるさらに大きな動きになっていくと思われる。

 特に日本史の研究はなんと言っても津田左右吉の仕事から始まったと考えていますが、津田は本質的に は東洋思想史の研究者ですから、それは日本史が東洋史の一部として始まったということである。

 しかし、津田はようするに『老子』をふくめた東洋思想(中国思想)についての評価が低く、それが津田の日本神話の読み方に影響した。『古事記』『日本書紀』は、いわゆる神仙思想の表面的な影響をうけたもので神話としての本質をもたないという津田の観点の基礎には 『老子』と神仙思想そのものに対する津田の低い評価があったという事情がわかってきたように感じている。『日本史学』(人文書院)では津田左右吉について基本的に肯定的に書いたが、津田の『シナ思想と日本』(岩波新書)が問題を孕んでいることはよく知られている。東アジア論を考え直す原点はここだと思う。


 問題は、津田的な東洋思想史は、甲骨文の発見ですでに古くなっていたが、それは春秋・戦国時代の理解にまでは影響しなかったことで、帛書や楚簡の出土は、この状態を変化させ、日本史の側からいえば、津田の仕事の古さを点検し、それにもとづいてすべてを点検せざるをえないことになっている状況だろう。

 ともかく、漢文を学校でならわなくなっているというのが、東アジアの文化や 歴史というものを無視する文化的な土壌になっていると、私は考えているが、歴史学・日本史研究もそういう状況を放置していてはならないと考えるに至った。先日、国際歴史学会で、中国の済南にいって、中国の歴 史や哲学というものを安定的に考える訓練ができていないという反省もした。

 しかし、私などにとってはやはり福永光司氏が道教の意義を強調しているのを知り、20年前ほどに若干はおいかけたものの、そのままにしていたことの不見識に気付いたことがショックであった。何もしらずに歴史学をやってきたのである。

 以下は、今日の仕事。疲れたので、少し運動をして、別の仕事に移る。沖縄がどうなっているかが気になる。


66 倭国の女神伊弉冉も谷の女神たちの女王である

江海の能く百谷の王たる所以の者は、其れ善く之に下るを以てなり。故に能く百谷の王たり。是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る。是を以て聖人は、上に処りて民重しとせず、前に処りて民害とせず。是を以て天下、推すを楽しんで厭わず。其れ争わざるをもってす。故に、天下能く與にして諍う莫し。

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭。故天下莫能与諍*1。

 大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからである。神の声を聞く人は、(同じように)人々の上席で語るときも一歩下って語り、人々の前に立つときも後見の身分であることをわきまえていた。このように、天下は聖者を推すことを楽しみ、嫌悪や争いはなかった。天下はよく與に共和していて争うようなことはなかった。

解説
 ここで江海が百谷の王であるというのは江海の神が、多くの谷々の神の王であるということであろう。私は、前項でみたように、谷の神が女神である以上、江海の神も女神であると考えておきたい。これまでの解釈では江海の神は帝王などとされて男神とされているが、それは必ずしも論証されたことではないと思う。

 そういう以上、本来は、中国の神話史料を読み解いて、江海や谷の女神について議論する必要があるが、私の知識量の関係で、ここでは倭国神話を例として試論を述べることを御許し願いたい。よく知られているように、天浮き橋から下界におりてきて、ミトの婚合をした女神伊弉那美と男神伊弉諾は、国生をして日本列島、ジャパネシアを産んだ後、神産に取りかかるが、『古事記』はそれを「既に国を生み竟へて、さらに神を生みましき」と表現している。その最初に生まれたいわば環境の神々ともいうべき神々の中で、一〇番目に生まれた「水戸」、つまり河口や湾口の女神である速秋津比売神が江海にいる巨大な女神であって、それは彼女が沫那美、頬那美、水分の神、そして久比奢母智(柄杓持、北斗)神などの母親とされていることで分かる。興味深いのは、『延喜式』の大祓祝詞によれば、この女神は、八塩道の塩の八百会に座す」神で、谷川の水を流れ出た穢と一緒に「持ちかか呑みてむ」神であるとあって、その名前の「アキ」とは、水戸口で大きな口をあけてうるという意味であるという。これに対して、谷川にいる女神は、瀨織津比咩といって彼女が大地の上で活動する人間が作り出す穢を速秋津比売神に渡すのであるという。そして、海の底には、速佐須良比咩神、つまり(『中臣祓訓解』によれば)これらの女神の祖神であるイザナキ自身がひかえていて、すべての穢を「持さすらひ失てむ」「祓ひ給ひ清め給ふ」というのが大祓祝詞のいうところである。

 こうして、谷川の瀨織津比咩の下に、水戸で口を開けている速秋津比売がおり、さらにその下に海底の伊弉那美などの女神がひかえていて、おのおの穢を引き受けていたというのが倭国神話の語ることなのであるが、これは老子が、大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからであるというのと同じことであろう。というよりも、そもそも、伊弉那美と伊弉諾は中国の神話の神、女媧と伏義を原型とする神であったから、このような水の女神たちのイメージの源流も中国にあった可能性が高いのである。

 さて、以上は本書の最初の部分の解説であって、本章の重点は、むしろ後半の「聖人」についての議論にある。聖人、つまり神の声を聞く人は、女神たちが順次に下側に控えて前のものをささえるような受容する徳をもたなければならないというのである。なお、「是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る」の部分は、「統治者となって人民の上に立ちたいと望むなら、必ず自分のことばを謙虚にして人にへりくだり、指導者となって人民の先頭に立ちたいと望むなら、必ず自分のふるまいを抑えて人の後からついてゆくことだ」(金谷)などと訳されることが多い。老子はこういう世俗的な術策を説いていないというのが私見であるが、少なくとも、ここは統治者の処世を語ってはおらず聖人について語っていることは確認しておきたい(福永・池田)。老子は地域の氏族や協同体やのレヴェルでの「聖人=神の声を聞く人」の役割については十分に尊重していたものと考えられるのである。

2013年3月 7日 (木)

平安時代における奥州の規定性

 以下は昨年秋の東北史学会での報告の要約。投稿済み
 「平安時代における奥州の規定性」はきわめて大きいというのが9世紀陸奥海溝地震の分析をした結果の副産物であった。日本史にとって「蝦夷」問題はきわめて大きい。遅まきながら、本当に遅まきながら、それを初めて実感した。私が直接の影響をうけてきた人々でいえば、大石、遠藤、入間田、菅野、斉藤の諸氏が何を感じ、何を考えてきたのかがはじめて分かったということである。何でこういう周回遅れの結果になるのか。何をやっていたのか。
 9世紀陸奥海溝地震の分析が遅れた歴史学内在的な原因・遠因は、学界が、東北史の位置づけを間違っていた、とまでいわないとしても熟考に欠けていたことである。少なくとも私は、それをやはり地域史ととらえていた。この間違いは思想的な間違いである。
 歴史分析は「後からついてくる」。ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」とはいうが、実感としていえば、それが「後知恵」となるのは、歴史学者の姿勢、あるいは歴史学が置かれている社会的条件によるのであって、歴史学の知恵は、より早くから発動することが可能なのである。それが事態に遅れてしまった歴史学者としての実感である。しかし、最近の『歴史学研究』や『環境の日本史』(吉川弘文館)をみていると、歴史学はさすがなもので、急速に事態にキャッチアップしようとしていることが感じられる。

平安時代における奥州の規定性
 昨年の三・一一の衝撃の中で、平安時代における北方史の規定性ということを考え続けた。研究史を点検した結論は、九世紀以降に「古代帝国」が消失するという石母田正の理解の問題性である。石母田のいう奈良王朝の世界性は、むしろ最終段階における民族複合国家の特徴であり(保立『黄金国家』)、本格的な「小帝国化」は光仁王朝において蝦夷戦争の強行とともに開始された。光仁の蝦夷戦争は防衛戦として開始されたものではなく、むしろ王統の交替の政治不安の中で周到に計画された侵略戦争であった。それ故に光仁期に形を整えた万世一系イデオロギーは、日本における帝国のイデオロギーであった可能性がある。最近刊行された『中世英仏関係史』は中近世ヨーロッパにおける帝国構造を論じているが、これ以降、日本も帝国性を持ち続けたと考えられる。それは平川新のいうように江戸期にまで持続する。
 この「小帝国」は、三八戦争の戦後体制として形成されたが、王権の超然主義、無答責体制の下で、一〇世紀に確定した摂関家の外交代行権が奥羽における摂関家の勢力を規定した。とくに大石直正がいうように、栗原荘が「宇治殿領」にさかのぼるのは重要で、摂関家が奧六郡の南の境界地帯をおさえており、それはおそらく冷泉王統による東国庄園の掌握の中で位置づける必要がある(蜷河荘、三崎荘、波多野荘など)。
 熊谷公男が論じたように、蝦夷戦争の戦後体制は荒ぶる領域を抱え込んだが、院政期にこれが平泉権力として自立した境界権力となる。斉藤利男の言い方では「都市の平和」と「辺境の平和」。王権が津軽・北海道の支配と抑圧を自律的に請け負わせ、内国の「平和」を確保しつつ、諸利益を独占するという体制である。この都市王権と境界権力が相互に支え合う構造は従来の「求心性」という用語では理解できない。
 このような辺境権力の中枢に存在した軍事身分ー「武士」をどう理解するかは、平安時代史研究の根本問題である。斉藤がいわゆる武士職能論を批判して「古代~中世における武士形成の歴史の上で北方の蝦夷支配問題が果たしていた役割」こそが重要であり、「武士職能論を論ずるならば、「都の武士」ではなく、蝦夷追討のための戦士集団という面の解明こそ、第一義的課題になるはずである」としたことに賛成したい。かつて戸田芳実は「武士=刑吏=夷狄説」ともいうべき理解を提起したが、そもそも奈良時代の「武士」の深層には、刑吏=「物部」の職能があった。彼らは、京都の衛門府や市庭などの刑吏としてのモノノフの伝統をひき、一〇世紀以降には、その中から検非違使ー長吏ー非人という指揮系統が明瞭になる。他方で、陸奥における物部氏の広汎な分布にも注意する必要があり、彼らは『陸奥話記』の段階まで跡をおうことができる。京都の刑吏、モノノフは「都市の平和」の裏側、陸奥のモノノフは「辺境の平和」の裏側にいるものとして対応するのではないか。彼らは、本来的に「帝国の武士」というべきものであったと考える。
 ただし、三八年戦争の終了と同時に、九世紀の大地動乱の時代が始まった。小川弘和が「復興行政の臨機応変な実施を目的に国府の裁量権拡大と長官への権限集中」と述べているように、平安期の陸奥の体制は、一つの災害後体制でもあった。そこでは「民・夷」の協力と反発の双方が存在したろう。ここで注目しておきたいのは、蝦夷の祖先を鬼王「安日」(アッヒ)であったとする『曾我物語』の神話である。このアッピが高橋富雄のいうように糠部の「アッピ(安比)」であったとすると、入間田宣夫が「糠部巫女」と『馬医草子』に登場する巫女・大汝(オオナムチ)のイメージを重ねることが重大になる。オオナムチは地震の神であるから、地震を起こす地霊=アッピという観念が存在した可能性を考えてみたい。ここに、遠藤巌のいう鎌倉幕府の夷島成敗権に対応する蝦夷神話の形成をみてよいのではないだろうか。

2013年1月24日 (木)

深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」

130120_124450yato  日曜日に久しぶりに自転車。さすがに気持ちがよい。千葉の奧の谷戸田の周辺にはこの前の雪が少し残っている。殿山ガーデンという乗馬クラブの柵の外から乗馬を見学。
 火曜、朝の総武線。深谷克己さんにいただいた御著書『東アジアの法文明圏の中の日本史』。先週末から目を通していて、日曜日にだいたい読んだ。最後の一節を、いま読んだ。やはり共感するところが多い。
 もちろん、意見を異にすることもある。残念ながら、奈良時代から鎌倉時代の捉え方は承服できない点が多い。そして最後に述べるように、日本の歴史社会の構造の捉え方についても賛同できない点がある。

 しかし、深谷さんの本で共感を呼ぶのは、第一に「東アジアの中での日本」の論じ方であり、第二にその「史論史学」ともいうべき側面である。

130122_135602hukaya  まず第一の点は、日本は東アジア型の国家社会であり、それが江戸時代に一つの到達点にまでいったという捉え方である。これは村井章介氏も、同じ捉え方で、彼は、どこかで江戸時代になって日本は東アジアレベルに追いついたといっていたと思う。私もそう思う。深谷さんは、これを平川新氏の議論をも援用しながら、東アジアにおける日本をイベリア・インパクトからウェスタン・インパクトへの展開の中で位置づけるという議論を展開してみせた。もし、これでよいのならば、1980年代から続いてきた東アジア論も日本史との関係では、一つの落ち着き先がみえてきたということになる。
 もっとも端的な文章はいま読んだ部分(284頁)。

 「近世化」では、イベリア・インパクトに対応して、非入貢が長く続いた周辺王朝としての安全強迫を、大陸侵略で乗り越えようとして、東アジアの危険存在となり、一方、「近代化」に際してもウエスタン・インパクトに対応して、政治文化的にはハイブリッド化しながら、「中華皇帝化」を目ざした。

 イエズス会の動きに象徴されるようなイベリア・インパクトの危険性を強調し、それを秀吉の朝鮮侵略の(主観的な)国際的背景条件と結びつけるのは、平川新氏の議論に依拠したものである。深谷さんの議論の特徴は、それを近代化におけるウエスタン・インパクトと対比して、「大東亜共栄圏」にまで突っ走った日本国家の運動を、東アジアにおける江戸期国家の位置づけの延長で議論したことである。
 江戸時代の研究者には、イベリア・インパクトをここまで評価するのは異論があるらしい。スペイン、ポルトガルの世界征服計画、そのイエズス会との関係などを固定的にとらえることはできないというのであろう。この段階でイベリア諸国が東アジアに対する侵略と植民地化の道に具体的に進もうとしていたということはできない。彼らに、そこまでの実力はなかったは事実であろう。しかし、こういう見方によって、ラテンアメリカと東アジアを共時的な世界の中でとらえるのは重要だろうと思う。東アジアにおける明帝国の崩壊という時代の中で、イベリア諸国の動きが重要な背景となったことは明らかである。
 古いことをいうようだが、松本新八郎氏に「聖者の胃袋」という文章がある。このザビエルを論じたエッセイは、当時の奴隷貿易の盛行との関係で、イベリア諸国の東アジア支配の欲求をきびしく論じたものである。イベリア諸国の強欲と奴隷売買に対する批判と、イエズス会の宣教師の美辞麗句の裏にある卑屈な「封建的性格」に対する嘲笑は、いま読んでも納得できるものである。私は、松本・平川・深谷の議論には一定の共通性があり、議論としては成り立ちうるものであるように思う。ともかく一五〇〇年代から一八〇〇年代まで、たしかに東アジア諸国は、ヨーロッパ勢力との諸関係の中で、同じ世界に属しながら、国家としても共軛性と連続性をもった歴史を辿ったという視点が重要なことは明らかだと思う。
 
 第二の点であるが、深谷さんの仕事には「史論史学」というべき側面がある。石母田さんはどこかで山路愛山のような「史論」というべき仕事からの影響をうけたといっていたと思う。日本の社会のもっている多様な側面、肯定的な側面、否定的な側面、一種の体質のようにみえるものなどについて歴史家として論ずる。より一般的にいえば、歴史を参照系として直接に現代を論ずる歴史家の話法というようなことである。「日本文化論」というパターン的な議論を歴史家として批判し、相対化する上でも、これは私は重要だろうと思う。
 現在、「戦後派歴史学」を皇国史観と戦争への批判、そして反封建制の意識にひきつけて理解し、さらにその方法論をイデオロギー的な「社会構成史」と考えるのが一般的である。しかし、戦後派の歴史学は、そのようなイデオロギーや方法論の問題を越えて、活発な「史論」をもっており、それによって説得性を確保していたのだと思う。深谷さんのこの本を読んでいると、それを何らかの形で取り戻した方がよいのかもしれないと考えさせられるのである。
 
 たとえば、深谷さんは、維新期の大久保利通の「浪速(大阪)首都移転論」にふれて、最初は明治の元勲には誰ひとりとして東京(江戸)を首都としようと考えたものはいなかった。それはパークスの秘書をつとめていた前島密の建白にはじめて現れるものであり、この建白の背景には貿易の便や安全を考えたパークスの意向もあるのではないかという。少なくとも、「蝦夷地を視野に入れれば江戸は帝国の中央になる」という前島の建白に国際的な契機を読みとるのは容易だろう。
 これをうけて大久保が東京案に傾き、東京への遷都論に向かっていくことになるが、深谷さんは「その矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という。対外関係の条件が東京が首都になる上で大きな意味があったというのは考えたことがなかった。
 ともかくも大阪と東京というのは矛盾含みの関係であるというのは現在もかわらないように思う。いま大阪は橋下氏、東京は石原氏という変わった知事がいる訳であるが、こういう事態も「矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という側面があるのかも知れない。
 考えてみれば、1960年代のいわゆる革新自治体の動きというのは、大阪と東京が先行していた。大阪も東京も大都市として「中央」に対する抵抗意識や優位意識が爆発する要素をつねにもっているのであろう。いま起こっている大阪と東京の「中央」に対する反発というのは、なかば格好だけのものにすぎないが、こういう政治力学の働きは、日本国家における大都市の独特な位置という問題があるのかもしれないと思うのである。
 橋下氏と石原氏は一種のファシズム的な不気味な要素をもっていると思うが、それが日本を代表する二つの大都市の生理のようなものに根づいているのではないかというのが怖い。
 私は、日本社会にはよい意味でのナショナリズムが存在しないと考えている。このナショナリズムの不在という現象は、きわめて都市的な現象ではないだろうか。農山漁村とそのネットワークが国の中軸にあれば、こういうナショナリズムの不在、沖縄と福島を無視するかのようなナショナルなものの不在というのは考えがたいように思うのである。橋下氏は、沖縄に行って「基地は我慢せよ」に等しいことをいった。
 深谷さんの著書から、話しが脇に脇にずれてきたが、ともかく、我々は昔の人々と同じ自然的な条件、あるいは地政学的な条件の下にいるのだから、こういう「政論」「史論」というものは必要なものかもしれない。

 さて、私などは研究経歴の最初、つまり70年代のいわゆる民衆運動史研究の時期、民衆的社会史の時期の最初に深谷さんの影響をうけた。それ故に、本書で深谷さんが現在の視点の下に広い視野をもった議論を展開され、あとがきで「高齢残余の時間を宿題解答にあてることを約束させていただき」と述べられるのを読むと感慨が大きい。私は日本史の本で最初に感心して読んだのは、佐々木潤之介『大名と百姓』であった。つぎに佐々木さんの『幕藩権力の基礎構造』を読んだが、佐々木さんの理論的、構造的な議論はむずかしく、途中で挫折した。そして、むしろ佐々木さんを批判しながら、室町以前の議論、つまり峰岸純夫さんや戸田芳実さんの議論にも言及していた、あの時期の歴史科学協議会の深谷さんの大会報告に大きな影響をうけた。実際には、深谷さんの報告を読んでから、戸田さんの著書を手にとったような記憶がある。

 とくに私にとって、今でも外せない論点は、あの頃の深谷さんが、峰岸純夫氏の議論をうけて、「東アジアの共通分母」、東アジアの社会構成における共通性としての「地主制」という議論を展開したことである。
 しかし、この論点を深谷さんは封印されたらしい。去年、峰岸さんの著書の書評をした時、記憶にのこっていた文章を、深谷さんの著作集で確認しようとしたが、深谷さんの「地主制」論は、以前の著作でも、今回の著作集でも削除されていることを知った。もちろん、今回の『東アジアの法文明圏の中の日本史』でも「東アジアの共通分母」という問題意識が中心的なものとして維持されていることはよく分かるが、しかし、深谷さんは、本書でも「地主制」論にふれることはない。今度、久しぶりに御会いする機会もあるので、この点、今はどう御考えなのかを聞いてみようと思う。
 冒頭にふれた「日本の歴史社会の構造の捉え方について賛同できない点」というのは、このことである。地主論なしの江戸期社会論というのは、私には了解できない。それではいわゆる「小農社会論」になってしまって、江戸期封建制論と枠組みはかわらなくなる。それは以前と表現は違うが、さらに江戸期社会を、あまりに「明るく」、あるいは建前で論ずる方向に近寄るということになりかねない。江戸期社会を「暗黒」の封建制という用語の中に押し込めようとするのではないが、江戸期社会が、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に矛盾の多い社会であることは本書の中で、深谷さんも強調されているが、問題はその構造的な捉え方である。

 日本が東アジアにどこまで追いついたかという、さきほどの論点でいえば、私は、その極点は江戸期になるとしても、室町時代には日本も相当程度東アジアに追いついていたという意見である。そして、そもそも平安時代・鎌倉時代も東アジア型の都市・地主型国家としての側面をもつという意見である。以下、峰岸さんの著書に対する私の書評の最後の部分を引用しておきたい。

私は、峰岸もいう集団的階級構成を前提として、この列島社会の社会構造が展開したことからいっても、東アジア型の都市・地主制国家を考えることがむしろ妥当ではないかと考えている。もとより、それを立論するためには、平安期から室町期にいたる国家・貴族的領主制・地域地主制の三者の相互関係を追跡しておくことが必須ではあるが、少なくとも、永原のいうように江戸期社会が領主制の極限的展開とそれにともなう自己否定を経過したものであるとすれば、それは封建制とはいいがたいのではないだろうか。実際、それは封建制というにはあまりに組織的・集団的な構成であって、東アジア型の「非封建的な」社会構成というほかないものである。峰岸らの「アジアの共通分母としての地主制」という提案は、そう考えてこそ生きるのではないだろうか。

 

江戸時代研究者にも、江戸期社会を封建制という範疇で捉えるのかどうか、そろそろ、結論をだしてほしいものである。それが研究史に対する責任というものであろう。
 木曜日、帰宅の総武線。

2012年12月10日 (月)

驚いたー「韓日伝統美の饗宴」

 いま総武線。土曜午前だが、昨日金曜日は夕方、韓国文化院で開催された「韓日伝統美の饗宴」に行ったために、予定の仕事ができず、出勤。
121210_113003  連れ合いが申し込んでいて、幸い、券があたって二人でみてきた。私は、従姉妹の一人が仕舞をしていたことがあって、中学・高校時代は、よく能楽堂にいって能・狂言をみた。鼓の音、地謡の響きも好きで、身が引き締まる感覚をしっている。しかし、今日の経験は衝撃。「かくも長き不在」。これまで、歴史家でありながら、何故、こんなに長く、民族的伝統を体現する音と調べと舞踏の世界を忘れていられたのか。見ないでいられたのかと思うほどの感動。それをいって彼女に笑われる。
 おそらく私などは、「村の神社」「村祭り」「盆踊り」が実態的な経験として、文化の一部として生きていた世代の最後にあたるのだと思う。「村の神社の神様の、今日は楽しい秋祭り」という歌の調べとフレーズが、実際の風景と胸の踊りの記憶とともに、なつかしいものとしてでてくる最後の世代だと思う。こう考えると、若い世代は柳田国男を読んでも実感がこないのではないだろうかと思う。そういう意味での素朴なナショナリズムの伝統が切れているのではないだろうか。これは歴史学にも責任がある。どうだろう。違うだろうか。

 簡単にプログラムを紹介すると、太鼓とチャンゴ(朝鮮太鼓)は、大倉流宗家大倉正之助とミン・ヨンチ。大倉正之助氏は三番叟。ミン・ヨンチ氏はジャズとの協奏でも知られている民俗音楽家。一昨年のダボス会議での晩餐会で音楽監督をつとめたという。演目は即興。
 舞踏は長唄とサルプリ舞、花柳貴比と金順子。花柳貴比さんは「水仙丹前」。遊里に通う男たちの身振りを舞踊化した舞踏から毛鑓の技へ。江戸の女の優美な力強さとでもいうのだろうか。金順子さんのサルプリ舞は優美な韓国舞踏で、白い布をまわせる。この布は天と地、生と死を結び、「恨」を解き放ち、魂を昇華させる象徴という。象徴性の高さはモダンダンスに近い雰囲気にまで行く。和服と韓服の取り合わせがなんともいえず美しい。
 民謡は柿崎竹美と金貞姫。柿崎さんは秋田長持歌、秋田音頭。これはなつかしい。金貞姫さんは、西道民謡中、夢金浦打令など。日本的に元気で乗りのよい柿崎さんと韓国のオモニという雰囲気の金貞姫の組み合わせは、会場のスピリチュアルな雰囲気を一気になごませてくれる。舞踏では日本の女と力強さと韓国女性の純粋さという感じだったのが、ちょうど役割がぎゃくになっているのが面白かった。
 琴は安藤珠希さんと張理香さん。安藤さんは生田流箏曲のまだ若い女性。胡弓もやられるという。張理香さんはカヤグムの独奏家。(日本)文部科学省推薦の教育用ビデオ「日本とアジアの音楽」に出演されているという。毎年独奏会があるとのこと。私はカヤグムを見るのも聞くのも初めてで、これは、いま考えているオオナムチ=大国主命のもっていた地震を起こす「琴」の問題にも関係して本当にありがたかった。

 連れ合いとは、本当に似ている。ヨーロッパの人は韓日・日韓の芸能をみ
ても区別がつかないのではないかと話す。私たちは一年ほどベルギーに留学していたことがあるが、ヨーロッパの人は、東アジア、とくに日韓の人を区別できない。とくにヨーロッパに二年以上いる東アジアの人々は、不思議なことに身振りも仕草も徐々に同質化していく。その基礎は根深いものがあるのだと実感。

 さて、今は夜、帰宅途中。今日の仕事は基礎的な下ごしらえで終わってしまい疲労。あとはうちに帰って寝るだけである。上記を読んでいると朝は元気であったことがわかる。昨日の韓国文化院の催しでもらった元気である。
 すでに一日がたって、自分の感情の動きの余韻はきえているが思い出しながら記録を残していくと、ともかくも驚いたのは、プログラムには日韓の芸術家おのおのの演目が書いてあるだけなのに、太鼓・舞踏・琴・民謡のすべてにおいて、競演となったこと。舞踏はあるいは最初から意識されていたのかもしれないが、他は、完全に予定されていた訳ではないように感じた。競演を作り出しつつある現場という感じで、それだけに素晴らしかった。
 まず太鼓と琴で興味深いのは、結局、韓国の音楽の方が音が低いこと。大倉流の包みは、ヨーッ、ホッ、ホッという声と鼓のタンという高い音がチャンゴの律動と響きあうのだが、これまでチャンゴをよく聞いたことがないので、その律動に感情を移入できないのが残念だった。しかし、独特な雰囲気が醸し出される。とくに私でもわかったのは、ミン・ヨンチさんの横笛の音である。これも日本の横笛よりも低音で、ときどきかすれた音になる。笛も日本の横笛より野太い感じのものである。笛を吹いてはチャンゴに写るのだが、その間も大倉流の素手打ちの高い鼓音が響く。これは聞き物であった。
 しかし、何といっても、女性の音楽家の競演は美しく、花がある。太鼓は演目の開始を告げる緊張の場作りの音であって、その後に登場する舞踏・民謡・琴は美々しく、競演になると興奮を呼ぶ。
 和琴と加耶琴の競演も、加耶琴の音が低く、音の揺れも激しく、目をつぶって聞くと地底からの響きのようにも聞こえる。加耶琴は弦を押さえるのに全身を使う。ハープの演奏のように全身を波打たせるが、ひれ伏すようにして弦をおさえ、そして身体を揺れ戻す。それに対して和琴の演者は正座で一音一音が明瞭な響き、高い響きを伝える。驚いたのは加耶琴の強い弾奏のあおに、一拍おいて「サクラ」の耳慣れた調べが高音で響いたとき、不思議な感じであった。
 もちろん、和琴の原型は韓半島から来たものであり、それのみでなく、加耶と倭国は深い関係にあったから、加耶琴は、和琴の直接の原型であるという。田中俊明さんの『大加耶連盟の興亡と任那ー加耶琴だけが残った』(吉川弘文館)を読んで、そういうことは知っていたが、読むと聞くとでは大違いである。
 舞踏の饗宴は圧巻であった。白い衣裳に烏帽子をかぶった花柳貴比さんは独演のときとは違う人のよう。幽明の世界から登場する精霊のよう。薄紅の羽衣をきた金順子さんは悲哀の中の天女のよう(連れ合いの詞)。何の筋もあるわけではないが、一枚の長く透明な白布を取り交わしながら、行き違い、伏し倒れ、二人で舞い、頬をよせ、手をとりあって退場する。
 しかし、この韓国・日本の舞踏・音楽からやってくる感動は何だろう。思い出したのは、入間田宣夫さんが「糠部の駿馬」で論じた『馬医草子』に描かれた「オオナムチ」という名の巫女の姿。彼女はたしか鼓をもった女性として描かれていたが、その着衣は、現代の和服とはことなって、舞台の韓国女性たちの着ていた寛衣に似ている。そして、その名前からすると、日本の鎌倉時代の巫女も地霊を呼び出したに相違ない。韓日・日韓の文化の相似というのは、民話論でよくいわれることであるが、そこには深い基礎があるのではないかと思う。そしてそれは基本的には紀元前後には証拠のある「鬼道」、つまりシャマニズムの伝統までさかのぼるのではないかという夢想が訪れる。岡正雄『異人その他』の描く世界である。網野善彦さんの「無縁」の執拗なる持続という言い方を借りていえば、シャマニズムの持続である。
 ともかくも、男性陣の太鼓はあくまでも序幕であり、人々を呼び集める劇の開始宣言のようなもの、中心は女性の舞踏と演奏である。中井正一は「日本の美」という論説で、アジアの民族は「生きるための努力の中のあやまちに一度、正面から絶望しているところがある」といっているが、その「絶望」のひそかな花芯には、女性の声を姿があるのではないかと思う。

 いま、月曜朝の総武線。日曜は、久しぶりに論文仕事。はるか昔に書いた経済史・貨幣論関係の論文について、はるか昔に批判をいただいた。反批判をさぼっていたが、必要があって、草稿を取り出し、大幅に追補して論文化している。論文を書くという作業は、単色のデッサンを描き込んでいく作業なので、脳神経の動きをそのままだせばよい。脳内電気情報のPC情報への形態変換である。少々のテニヲハの齟齬などいいやという感じで、また書いていってから、内容がふくらむにしたがって編別構成を考えていけばよいというのが何といっても楽であり、負担感がすくない。他分野の研究者・教育者や普通の読者を頭におく文章よりも楽に進む。
 これだけ自分の論文が批判されていることは再認識。私はいわゆる「戦後派歴史学」の先達に対する批判は別として、ほとんど他者の論文の批判ということをやらないので、自分が批判されても緊迫感がないのだろう。忘れてしまうのである。それにしても、これだけ誤解をうけているのに反批判もしなかったというのは、結局、自分の論文に愛着と執着がないということなのであろうと反省する。

2012年10月 9日 (火)

「小帝国」論と蝦夷ー東北史学会で講演

 10月7日。東北史学会・岩手大学史学会への出席を終え、中尊寺にうかがって、帰りの新幹線。
Cimg0850  中尊寺は久しぶり。平泉の駅を降りたとたんになつかしい感じがする。何度も訪れた寺院は多くはないが、中尊寺は特別のものとなっているらしい。同じく学会に出席・報告された和尚のご案内で、ちょうど御開帳の秘仏・一字金輪仏頂尊を拝観。像高76センチという小型のものだが、見事な尊厳と美しさを示す。金色堂、さや堂、釈迦堂に拝観し、博物館も見学。何度かみているものもあるがさすがにいい。
 写真は金色堂を下ったところの苑地遺構の場所。ここの雰囲気が好きである。ものごとをよく考えるためには、同じもの、同じ風景を何度もみることが必要なのかもしれない。
 今回は、6日、「平安時代における奥州の規定性」という講演をして、はじめて奥羽の通史的な理解について考えてみた。8世紀以降の奥羽の歴史の到達点としての中尊寺の意味が少しだけ分かったので感慨が深い。
 講演の最後で、「北方史最大の謎」としての「仏教都市平泉の巨大な姿」
をどう考えるかにふれた。平泉の奥州藤原氏の権力は、しばしば境界権力であるといわれる。境界権力とは一般的に言えば境界領域を場として、一方では中央につながり、他方では異民族にもつながっているような地域権力を意味する。この権力は、北緯40度以北の世界、北海道と津軽のアイヌの世界と、院政期王権をつなぐ位置にあり、王権からアイヌ世界の「支配」と交易を委任された半ば独立的な権力としてそびえ立っていた。北海の富が京都都市王権にもっていた位置はきわめて大きい。金と昆布その他の海産物、そして馬などのエキゾティックな富を独占し、それを東アジアの貿易システムに投げ入れるのが平安時代の都市王権の重要な基盤であった。
 9世紀の対蝦夷戦争は、蝦夷の人々の民族的な抵抗を押し切り、日本の王権を小規模ではあれ、「小帝国」といってよいものに押し上げたというのが、報告で述べた私見。「古代史」の通説とはまったく逆だが、私は、8世紀には帝国ではないが、9世紀以降は「小帝国」とすることができると考えており、それをはじめて話した。
 この帝国にとって、奥州藤原氏を通じて北奥から北海道の状況を掌握することは喫緊の課題であった。そのために、王権は、この時代の最高の文化・美術・工芸、そしてそれらの基礎に存在する仏教体系を平泉に持ち込んだのである。これは王権にとって別枠の課題であったのだと思う。今日の和尚の報告の中尊寺供養願文は、そのような王権の対外意識を明瞭に示す史料と評価すべきなのだと思う。もちろん、そこには王権の対外意識の片鱗がみえるだけである。そもそも当時の国家が、どれだけ奥州から北海道を従属的に組織することに意を用いていたかをストレートに示す史料は残っていない。
 しかし、たとえば、日本の現在の中枢部はその国家意識の少なくとも三分の一はアメリカを向いている。政治的な従属は明らかである。しかし、日本国家はアメリカに従属しているなどという国家意識は通常の意識の中には上ってこないし、公的な資料や実態は法と行政の影にかくれてストレートに明らかになることはない。院政期王権と奥羽・北海道の関係はそれと同じようなものだと思う。アメリカの普通の人が、アメリカという国家が日本という国家を従属させているとは夢にも思っていないのと同じことだ。
 しかし、平安王権中枢が奥羽をどう考えていたかを示すのは、右に述べたような平泉に投げ込まれた文化・美術・工芸の量と質そのものであると思う。こういう待遇をうけた地域は、当時の列島には存在しないのである。平安都市王権は摂関政治期に都市的な爛熟を遂げた。そのレヴェルはやはり相当に高い。院政期王権は、それを前提として、各地に文化・宗教を広げた。都市的な爛熟にさらに組織的・国家的な性格、別の言い方をすれば一種の男性的な性格を加えたように思う。この段階差をどう考えるかは平安文化の基本問題であるように思う。しかし、ともかくも、それが、ここまで集中的に作り出された場所はほかに存在しない。
 これを導いた東北から北海道の地域社会の動きをもっと知りたいものだと思う。きわめて活動的で矛盾にみちた実相がそこにはあったのに相違ないと思う。その実相を知る手段は限られているが、やはり興味深いのは入間田宣夫氏が注目した鎌倉時代の『馬医草子』に描かれた「大汝」(オオナムチ)という巫女と、その夫と考えられる「越後丹介」という伯楽の姿である。入間田氏は、この巫女に北奥の良馬の産地、糠部で活動する巫女の姿を重ね、さらにイタコの語る「娘と馬の恋」のイメージを重ねていく(同「久慈・閉伊の駻馬」『北日本中世社会史論』)。私は、この巫女の名前が「オオナムチ」であるのが、何といっても興味深い。オオナムチ。つまり、「ナ=大地」の神であり、大国主命である。地底に棲む神。このスサノヲの子孫であり、スサノヲの婿である神を呼び出す行為によって巫女の名がオオナムチとなったのだろう。地底の霊、地霊を呼び出す巫女が東北の馬産地で活動しているのである。これは平安時代に溯るに違いない。『馬医草子』の描く、魁偉な巫女、オオナムチの姿と、峻厳な美にみちた中尊寺の仏像の両方を思い描くと、私は、中尊寺の仏像が見ていたものが何であったのかを考えるのである。
 本州西部とは異なる荒々しい自然と異民族との接触の中で、平安時代の東北は西国とは別のテンポで神話の復活があったのではないだろうか。平泉に展開するような巨大な仏教の世界は、そういう辺境の文化世界を見つめ、安穏を希求し、そして作りかえる装置であったのではないか。
 夕方、いつものお店でご馳走になりながら、和尚の報告についての話しから、ここまで話しは広がっていった。和尚は「東アジアにおける王権」という視野の必要性を説かれる。それだからこそ、ある種の文化戦略の下に、当時の最高の文化がここに具現しているのではないかとおっしゃる。考えてみれば、奥州合戦はそれを破壊したのであって、文化戦略ではなく、頼朝は、暴力によって東北の地に侵入した。その意味で、私は、頼朝は信長とならぶ「仏敵」であると思う。
 以前、「平泉館」柳御所保存問題が起きた時、最初期に東京で尽力された明治大学の高島緑雄氏が、「私は、以前は頼朝を歴史を推進した武士と評価していたが、学会の諸研究を考える中で、そうではなく、頼朝が破壊者であることを知った。そのことを考え直すためにも柳御所の保存に協力している」とおっしゃっていたことを思い出す。


2011年5月 7日 (土)

地震火山26白頭山の南北朝鮮共同調査

 白頭山の共同調査を南北朝鮮が合意したという記事が新聞にあった(2011年4月13日朝日)。中朝国境の白頭山の火山活動をめぐる二回目の専門家会議を開き、6月半ばに現地で共同調査を行うことを合意したということである。韓国が白頭山の現地調査に参加するのははじめてで、5月に学術討論会も開くという。
 これに日本・中国も参加していくということになると、東北アジアの自然史、地震史、火山噴火史の研究は進むだろう。それが同じ地質学的な自然の下で生活しているという常識に結びついていくとよいと思う。
 私は、九州大学の江原幸雄先生の『中国大陸の火山・地熱・温泉』(九州大学出版会)を読んで最初に知ったのだが、この地域は火山を共有する地域である。地球科学では、西北部九州の地震・噴火は、アムールプレートの下に沈み込んだフィリピンプレートからのマントルの上昇に由来し、それは韓国から東北中国までの地震・噴火の運動と地殻の運動としては連続するものだという。
 地殻の運動は、日本列島に極限されて動くものではなく、ユーラシア東北端全体で連動しており、そのため、東北中国、韓国、日本の地震活動は連動し、しばしば同時的に発生するという。とくにアムールプレートの動きは複雑で、アルタイ山脈ーバイカル湖付近ースタノボイ山脈と続く、プレート西北端の周縁地帯や、中国大陸に位置するプレート南部周縁地帯にも地震地帯を発生させている。この問題ではアムールプレートの実在の論証が大きかったらしい。
 このようなユーラシア東北端のプレートとマントルの運動の全体像が、現在、プレートテクトニクスの研究の一焦点となっているらしいが、そこに広範囲な連動が存在することは認められている。たとえば韓国の歴史地震の中で最大規模といわれる江原道の地震は一六八一年に起きているが、中国でも史上最大級といわれる山東省の郯城地震が一六六八年に起きている。そして日本でも、その後しばらくして、一七〇三年の相模トラフに淵源する江戸・関東大地震、一七〇七年の富士山の大噴火をともなった東海・南海地震が起きている。これは偶然的なものであるとは考えにくいという(都司嘉宣「韓半島で発生した最大級の地震」歴史地震20号)。
 このような東北アジアレヴェルの地殻運動の連動を素人が考えてもしょうがないのだろうが、貞観地震との関係で注意しておきたいのは、貞観地震と同型の地震で「奥州ニ津波入テ(中略)カヘリニ、人多取ル」といわれた室町時代、一四五四年一二月二一日(日本王朝暦、享徳三年一一月二三日)の地震が韓半島での地震と連動していた可能性が高いことである。
 これは『大日本地震史料』をみれば書いてあることだが、この室町時代の地震の、ちょうど一月後、一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでた(『朝鮮王朝実録』)。
 貞観地震の前後の史料には、このような韓半島にまで及ぶ地殻運動の連動性を示すものはないが、ただ貞観地震の約二月後に、肥後国において相当の規模をもつ津波地震が発生している。今回も雲仙の噴火が活発化していて、熊本は地震が増えている。そうだとすると、史料は残っていないものの、貞観地震の地殻変動が肥後国のみでなく、小規模なものであったとしても、韓半島の地殻に影響をあたえていた可能性はないのだろうか。室町時代の陸奥国津波が韓半島南部に大地震をもたらした地殻構造は、約六〇〇年の時をへだてて同じ延長線上にあったに違いないと思う。
 日本の大地動乱の時代は、東アジアの地震と火山噴火が動く時代になる可能性があるのだと思う。それを考えさせられる機会が増えるというのは、相手が地震や噴火であるだけにきついことになる可能性は高いが、事態の認識が客観的なものとして共有されていくとよいと思う。
 6月の共同調査がその出発点になるかどうか。こういう東アジアの研究者相互の関係をとっていく上で、韓国の知識人の役割は非常に大きい。

2011年1月26日 (水)

中国の歴史資料と清華大学の劉暁峰先生

 昨日は中国の御客様を中心に、史料保存に関する研究集会。懇親会に出て、本当に久しぶりに気持ちよく飲み、夜、遅く帰宅。先輩のFH氏の『かぐや姫と王権神話』についての礼状が届いていて、目がさめた。「目くるめく内容。歴史学の面白さを堪能」という過分のもの。彼はいつも過分の表現で礼状をくれるが、御元気そうでほっとする。礼状にも昨年の夏ばてから回復とある。今年の年賀状でも、何人かに、もう先輩といえる人、あるいは先生といえる人は少なくなってきているので本当にお元気でという文章を何人かに書いたことを思い出す。
 集会の方は、これも本当に久しぶりに中国清華大学の劉暁峰先生にお会いする。もう10年になるのではないだろうか。来られた時に、根津美術館で南宋絵画の展覧会をやっていたので、そこに案内し、美術館の庭で長く話して以来だと思う。あの南宋絵画の展覧会は画期的なもので、図録を買ったのだが、その後、ベルギーの日本学の先生に差し上げてしまい、補充する積もりがそのままになっている。
 報告を終えた劉先生が、本当に久しぶりと寄ってきてくれて、ようやく顔を思い出す。それにしても、二人ながら、あの頃はまだ若かった。先生は、大江健三郎氏の小説の翻訳者としても知られる方。加藤さんの文章だったか、大江さんの文章で、加藤周一氏の北京での講演を組織した中国の日本学研究者の話は読んだが、それが劉先生のことだとは知らなかった。
 先生は平安時代の年中行事が御専門。ただ、日本学全体を研究していて、いま、1945年から1955年の日本の研究をしていると。そのころの日本の変革とエネルギーから学ぶものがあるというお話であった。
 懇親会で話し込むと、私が、根津美術館の庭で、敗戦後、8月15日過ぎから、霞ヶ関は書類を燃やす煙でぼうぼうであったという話しをしたことが、興味をもつ一つのきっかけであったとおっしゃる。それはたしか荒井信一さんからきいた話だが、その記録はいまどうなっているのだろうか。土浦の伯父からは、土浦の航空隊で、やはり同じ時期、大量の書類をもやしたという話しをきいたことがある。伯父にとっては痛切な記憶。史料保存の研究集会の懇親会で、史料を燃した話をするというのも奇妙な話。
 報告は劉先生、山東建築大学の姜波先生。旧村の併合や旧住宅の立て替え、そして中国社会の「現代化」の中で、歴史史料が隠滅の記紀にある。その蒐集・保存・整理・研究が歴史学者としての最大の課題であるという御話に共感。日本でもそうだが、建築学・建築史の方々とは歴史学は話しがあう。しかし、それにしても本当にたいへんそうであった。劉先生が「東アジアで共有すべき文化財」といわれたのは本当に大きな意味があると思う。
 日本からは国文学研究資料館の青木先生から、日本における、それこそ戦後、1940年代末から50年代の史料保存の学界をあげた動きについての説明。ぴったりの応答であり、中国の先生方も学ぶところが多いと感想。そして史料編纂所からは和紙研究の中心になっている高島修復室主任からの話。これもたいへん好評で中国の先生方にはきわめて印象が強かったようであった。
 経済学部の中国史研究者でアーカイヴ学についても詳しい小島浩之先生の中国史料についての日本の中国史学界の蓄積について話は明解。中国の先生がたも、日本の古文書学、史料論を学びたいと強くおっしゃっていた。私は、有名な『文字の文化史』をかいた藤枝晃が、実は、顕微鏡による料紙観察をその当時から重視されていたという話が衝撃的。この『文字の文化史』は「居延漢簡」についての授業で、佐藤進一先生が必読文献として指示されたもの。そこには顕微鏡のことは書いてなかったから、小島さんの話は衝撃的。さすがに先駆者は違うということであろう。
 シンポジウムの後、史料編纂所の見学をしてもらう。意外な人数になり、図書部には迷惑をかけた。
 シンポジウムの正式名称は「中国民間古文書の整理・保存・利用の研究に関するワークショップ」。司会は、湯山奈良博館長で、彼とも久しぶり。『かぐや姫』の神道論は、彼に読んでもらうことが一つの目的であったので、感想を聞く。
 トヨタ財団の助成企画で、経済学部の小島ホールで開催。トヨタ財団の貢献も大きいようであった。
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2010年11月20日 (土)

シンポジウム『韓国強制併合一〇〇年、韓日歴史認識の違い』

 先週土曜、13日、「韓国強制併合一〇〇年、韓日歴史認識の違い」というシンポジウムがあった。主催は在日本大韓民国民団中央本部、主管は在日韓人歴史資料館。私は、東大のホームカミングデイにさいして行われた職場の史料展示会の立番があって行けなかったが、奥さまがいってきた。
101118_124443  話をきいてみて、できれば行きたかったと思う。講演された李成市さんも、姜徳相さんも尊敬している人だし、もう御一人の講演者は韓国の国史編纂委員会の委員長、李泰鎮ソウル大学名誉教授だった。これはどうにかして行き、自分の目と耳で確かめるべき集会であった。
 写真は、李成市氏が報告でふれた『歴史地理』の臨時増刊号、韓国併合の年、明治四十三年十一月三日に発行されたものである。このような臨時増刊号がでていることをはじめて知ったので、それを探し、ここに紙と目次を掲げた。
 表紙は、出雲の神・八束水臣津野命が、対岸の新羅の地を綱をかかえて引き寄せたという『出雲風土記』の国引き説話のイラストである。そして雑報に書かれた「本号表紙説明」には、次のようにある。
 「抑も、八束水臣津野命が、国引きの大理想は、遠く祖宗より伝えられ、而して遙かに後世に残さる。すなわち神功皇后の征韓となり、豊公の出兵となり、さらに征韓論となり、韓国統監府の設立となり、終に韓国の併呑となり、朝鮮総督府の設置となる。所謂、事績後に顕はれ、徴証前に備わるもの、今日において国引の古話を曰ふ。亦、可ならずや。吾人が特に之を選びて、本号の表紙を飾りしこと、聊か意の存するところ無きにあらざるなり」
20101118_130917_0013_2  やはり、これは驚くべきものである。明治43年というのは、ようするに1910年。日本が韓国の独立をうばう不法条約を強制した年である。この歴史地理の特集号には上に掲げたように「韓国併合詔書」なるものが巻頭に収められているのである。
Daimokuji_3    さらに、目次の写真を掲げたが、執筆者は、星野恒「歴史上より観たる日韓同域の復古と確定」、久米邦武「韓国併合と近江国に神籠石の発見」、関野貞「朝鮮文化の遺跡」、吉田東伍「韓半島を併合せる大局面」、大森金五郎「任那日本府の興廃」、喜田貞吉「韓国併合と教育家の覚悟」、那珂通世「新羅古記の倭人」、黒板勝美「偶語」、三浦周行「日韓の同化と分化」、田中義成「倭寇と李成桂」、渡辺世祐「足利季世における朝鮮との交通」、辻善之助「徳川時代初期における日韓の関係」。こう列挙してみれば、彼らは、当時の「日本史家」のほとんどすべてである。
 ようするに、「日本史家」のすべてが、韓国併合に荷担し、明瞭な政治的行動をとったということである。これは、少なくとも現在の観点からみるならば、歴史家としてけっしてしてはならないことである。「近代歴史学」の出発時点が、このような実態のものであったということを、私たちは正確に記憶し、忘れてはならないと思う。
 もちろん、たとえば永原慶二氏が、1969年出版の『日本史研究入門Ⅲ』(東京大学出版会)で、いわゆる「戦後歴史学」においても帝国意識に対する批判が弱く、「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べているように、日本の歴史学の中に、このような問題があることは、歴史家ならば常識であるはずのことである。しかし、それと、実際に、直接に「韓国併合」を「人は、これをもって旧状態に復せりといはんも、我はかならずしも復旧といわず、これ実に二千余年の精華の発揚にあらずして何ぞや」と述べている、この特集号の「発刊の辞」を実際によみ、その下で執筆された論文の内容と筆者を確認していくことは、やはりまったく違うことである。
 李氏は、たとえば日本が「任那日本府」なるものを設置して韓国南部を支配したという虚像など、「近代日本における通念形成の淵源」の形成には、これらの歴史家の責任が大きいと述べている。それはその通りであろう。
 李氏も指摘しているように、このような観点からみると、永原慶二氏の『20世紀の歴史学』が、三浦周行を「オーソドックスな歴史家」、喜田貞吉を「官学アカデミズム歴史学の枠を越え、自由な発想に基づく広い関心をもつ個性豊かな学者」と評価することは、氏自身もいうところの国内的視野に偏った見方であることは否定できないだろう。
 李氏は、講演で、私は永原さんを尊敬していますと明言されたということだが、私も、それは同じである。その上で、永原さんの描いた史学史を、さらに越えていくためには、上記の歴史家一人一人の学問の成果と、さらには方法の中に踏みこんで、総括的な批判を行うべきものと思う、結局のところ個人としての歴史家を批判する場合には、その個人個人の学問に踏みこんでの方法的批判とならざるをえないはずである。
 現代日本の最良の歴史家の一人である永原さんが執筆した『20世紀の歴史学』に甘さがあるということは、日本の歴史学界全体の近代歴史学に対する方法論的批判が甘いということを意味するのである。
 ただし、これは永原慶二さんの本に対する批判というよりも、まずは自分の気づきの問題である。おそらく永原さんたちの世代は、この特集に執筆した学者たちの「帝国意識」は骨身にしみてよく知っていたということであると思う。私などの世代にとっても、それは当然の常識であり、出発点であったが、しかし、この特集号をみて、実際をそれをどこまで実感していたかに疑問がでてきた。私が高校生の頃、大学生の頃は、古本屋に行くと、古色蒼然たる皇国史観にもとづいて書かれた本が書棚の隅には残っていたものである。それらは一括していぶかしいものに過ぎなかった。それらの淵源となるものが、この特集号には現れているのだと思う。
 もう一つは、やはり『歴史地理』特集号表紙の「神話」のことである。永原さんたちの世代と私たちの世代の相違は、「神話」教育あるいは帝国文化としての「神話」というものを実感しているかいないかという問題があるように思う。考えてみれば当然のことであるが、「神話」というものが文化の隅々まで、「民話」「民俗」を媒介として入り込んでいた時代ということを考えねばならない。「神話」論も、「民話」論も、それを意識しながら考えるようにしていきたいと思う。
 なお、以下は、聞き取りメモ。姜徳相さんが「韓国のナショナリズムと日本のナショナリズムは違う。両方おかしいなどというのは歴史の考え方としておかしい」といっていたということ。また李泰鎮氏の講演は、日韓外交文書作成にあたっての強制や捺印の偽捺などの問題に詳細にふれたもの。「併合条約」は外交関係としては合法的に締結されたという海野福寿氏の議論にもとづいて日本の首相の発言が組み立てられたのは有名な話であるが、「最初の段階では一緒の仕事ができたのですが、結局、立場はまったく異なることになってしまいました」と発言されていたということである。

2010年9月25日 (土)

自称社会主義ー中国の「労働教養制度」

 昨日、9月24日の朝日(朝刊)に「意のまま批判者勾留、中国の労働教養制度」という記事があった。いくら新聞、とくにその朝刊が嫌いだとはいっても、これは重要な記事で、読まざるをえない記事である。朝日の解説によれば、行政機関である各地方政府の労働教養管理委員会が、裁判や弁護士の弁護なしに修養を決定できる制度。同委員会は、事実上、警察当局が運営している。紹介されているのは、北京の外資系企業のキャリアウーマンだった野靖環さんが、投資した会社の倒産処理をめぐってデモを組織した一人であったために、警察に連行され、1年9ヶ月にわたって「労働教養所」に拘禁されたという事件である。

 これは深刻な問題だと思う。私は、現存する社会主義を自称する諸国家の実態をどう考えるかは、歴史理論にとってクルーシャルな問題、決定的な問題であると考えてきた。それについて、若干でもまとまった形で自分の意見を述べたのは、2002年に行われた歴史学研究会の創立70周年記念シンポジウムでの報告「社会構成論と東アジア」が初めてだが、いま、それが、たかだか八年前のことであるというのを確認してみると不思議に思う。私としては、この問題は、それほど、もっとも長く考え続けている問題なのである。歴史家として、できるかぎりのところまで詰め切ってみたいと考えている。
 この講演の最後で述べたのは、前近代を専攻する歴史家からみると、現存する自称社会主義というものがどうみえるかという話しで、網野善彦さんや戸田芳実さんの議論からそれを考えるという現代史家からみれば迂遠な話しであったかもしれない。それ故に、ほとんどこれについては、誰からも、意見も感想も聞いたことがない。シンポジウムが終わった後、懇親会の行われる早稲田大学の会館へのスロープを歩きながら、永原先生が網野さんの見解は「ロマン主義なんだよ。保立君」と強い批判を語られたことぐらいである。それはたしかにそうなので、講演を本にいれた時は(『歴史学をみつめ直す』)、それを入れて置いた。

 しかし、ともかく、よく知られている方の、網野さんの見解から紹介すると、網野さんの議論は、世界史の全体を「社会構成」の観点から捉える上で、一方で「奴隷制ー農奴制ー資本制の発展段階」という私有をめぐる発展段階をおき、他方では、「無所有・無縁の深化・発展に関わる法則」「共同体の歴史に関わる法則」をおくというシェーマである。また、戸田さんの言い方も、世界史における様々な「社会構成」を考える上で、私的所有と集団所有、そしてその絡み合いを基本におくというもので、これは網野さんの議論と共通するものであった。
 ただ、議論の仕方としては戸田さんの方が厳密であって、戸田さんは、普通の考え方では、共同所有というものをアプリオリに「よい関係」、支配隷属の諸関係とは対象的なものとしてしまうが、それは正しくない。そして、逆に私的所有をかならず「悪い関係」、支配隷属をともなう関係としてしまうのも正しくない。引用しておくと、従来の歴史理論研究は「集団所有をもっぱら非階級的な共同体に結びつけ、私的所有をもっぱら階級関係にむすびつけることによって前資本制的所有の二側面を分離する傾向が強かった」という訳である。そして戸田さんは「奴隷制規定や封建制規定の枠をこえた」問題追究の必要を強調して、「集団所有の側面が優越し、それに規定された階級的所有形態という点にその特質がある」とする。
 この戸田さんの表現はやはり難しいかもしれないが、網野さんのいうよりは正確に意味をとることができる。私は、戸田さんのいうことに大塚さんの声を聞く。そうでなくても、我々の世代のように、一度は、例のマルクスのアジア的生産様式論という面倒な議論の跡を追跡してみたことのある人、そういう練習をしたことのある人には、戸田さんのいうことの方が簡明に理解できると思う。網野さんは、そういう厳密さにはこだわらなかったから。
 ようするに、戸田さんのいうのは、所有の私的側面と集団的側面の相互関係を解明し、集団所有というとついつい理想化してしまったり、私的所有というとついつい利己主義という言葉を思い出してしまうような感じ方からはなれて問題を考えなければならないということである。「共同所有」という言葉をつかわずに、もっと無色な「集団所有」という言葉を使うのが重要ということである。そして、網野さんの議論には、「共同性」というものを美化してしまうところがあるので、歴史理論の議論としては、戸田さんの議論から出発する必要があるのである。

 ただ、問題は、網野さんも戸田さんも、この集団所有と私的所有の関係や絡み合いの構造について具体的な議論をしていないということである。歴史学では、古くからこういう「二重の社会関係・所有関係」という議論は多いのだが、問題は、戸田さんのいう「絡み合い」の具体相をどういうように方法的に論じることが可能かという点にある。

 まだ十分に整理はできていないが、集団的な所有は、かならず執行者や代表者をもっているが、集団が代表者をもつと、横並びの集団の代表者同士の関係ができ、下部集団、つまり集団の内部を構成する集団の代表者との関係もできる。そして、上下につらなる集団関係は、代表者の個人関係という要素を内部に含みはじめる。代表関係とは、集団の「精神」を代表するということで、一種の分業関係であるから、これは一つの客観的な社会関係に展開する。代表と代表との個人関係は、個人関係ではあるが、粗野な関係の下では個人関係を維持することは当然の権利となり、習慣となる。これが集団から個人が分離して私的権利を維持する合法的な権利をあたえる。私的な権利は、本来的には家族的な権利、個別的な権利という性格をもっており、これは個々人の自由を基盤としているが、これが集団関係の中での私的権限に展開する過程は、個別家族の「男」支配が、男連合による男権主義的権限という性格をもつようになる過程と深く関係している。こうして、この集団関係の中に存在する私的権限は、個別家族の本来的な個別的な所有の関係とは区別された性格をもつところまで跳躍するのである。
 私的関係というのは、こういう集団間関係との関係をもつことによって、私的支配にまで拡大していく条件をあたえられる。集団関係と私的関係の絡み合いの基礎には、つねにこのような動きがあり、これが社会全体に展開する中で、複雑な構成、コンプレックスができあがっていく。
 問題は、集団間関係が、私的関係によって再編成されることである。代表者や執行者は、他集団の代表者との個人関係をもつことによって、母集団から浮き上がり、独自の関係を維持し始める。このような独自の関係は、それ自身として自己を合法化する力はもっていない私的な関係であるが、しかし、自分の内部に、それなりの専門性、管理労働、精神労働などを含みこむことによって、社会的な分業、専門性の相互関係のネットワークの中に紛れ込み、それらの分業関係全体の主要な一部として自己を偽装することによって、客観性を獲得する。

 しかも、その場が、集団間の境界的な場、共同体間の境界的な場であることが問題である。ここでは人々は自由な個人として向かい合うが、それは一面で市場であるが、一面で人は人に対して狼であるという動物的な関係となる。自由な個人として側面を強調するのは網野さん、境界の場の困難で動物的な性格を強調するのは大塚先生。どちらも正しいことはいうまでもない。この境界的な世界、無所有に近い世界、自然と人間が直接に向かい合う世界に、人間の発達の希望があることは事実だが、他方で、そこでは金力と暴力がものをいう。共同体間、集団間の関係から浮き上がった私的関係は、この世界で金力と暴力を握ることによって初めて社会全体を掌握し、それを最終的に構造化していく。このような金力と暴力を内部にはらむ集団間の神経系統=伝導ベルトを掌握した代表者あるいは代表に対する奉仕者集団相互の個人関係の位置が社会からそびえ立つのである。その原型は広域暴力団であって、ここでは暴力は共同体と集団を越える。暴力も一つの社会的分業であって、暴力を身に帯びるものは独特の身分となる(私も『中世の愛と従属』で書いたように、私たち平安時代研究者にとっては、広域暴力団が上等化し、身分化したものが「武士」であるというのは常識であるが、それはより一般的な問題であることになる)。
 集団間関係の組織が私的関係によって組織される。集団間関係の重層化は、集団と集団が伝動ベルトによって結合されるという形で展開するが、これは伝動ベルトは、集団の観点からみれば私的関係である。このような私的関係なしには集団間関係は強制関係には展開しないし、逆に私的関係は、このような集団関係なしには社会の梃子を握ることはできない。また国家は暴力組織であるということがしばしばいわれるが、それは国家機構が暴力装置であるという単純な話しではなく、それを体系として捉えるならば、その根っこが境界領域における日常的な暴力の存在にあることが重要であり、そしてそれを前提として合法的暴力であるということが重要であるということにもなる。

 スターリンの「前衛党」なるものについての言い方に、社会の伝導ベルトであるという言い方があったと思う。もちろん、政党というものは結社の一つであって、その意味では、様々な社会の諸集団に属する人々が、結社を形成するのは近代社会の原則に属する重要な権利であり、自由である。しかし、社会の集団、職能集団、専門性集団の自立性が存在しない場所で、自己を集団をこえる伝導ベルトであると主張する「前衛党」なるものは怖い。政党は議会と公的空間、一人一票の世界に属するものであって、その意味では社会全体に直結する場に成立するものである。金力や暴力とは本質的に無関係でなければならない組織である。本来的に必要なのは、集団間関係が透明な民主主義、一人一票制の全体によって統括され、「神の手」によって合理的で友愛にあふれ、さらに賢く慎重で、その意味で保守的な選択が行われることであって、そのような賢さは、一方では、集団間関係が無意識な市場であることの中から、他方では各集団のもつ専門性が相互に尊重されるという構成的な社会関係の中から生まれていくほかないように思う。
 なお、ヨーロッパ社会が強いのは、12・13世紀、経済史的には手工業の自立とともに、市場関係の安定化がもたらされるとともに、専門職の世界、専門性の世界が生まれてきたためである。この専門職の世界が、ヨーロッパ的な広さの中で、広域組織として生まれてきたこと、その意味でヨーロッパの封建国家からは超越したカソリックな組織であったことも重要であった。このような超地域性が専門職の組織化には必要なのであって、国家が最初から広域的な帝国であった東アジアでは、このような専門職発生の条件はなかったことになる。ロシア・中国を中心とした自称社会主義と専門職問題というのはきわめて大きな問題であるということが、ここからもわかる。

 さて、中国の「労働教養制度」の話しの深刻さは、この意味で境界領域が警察暴力によって支配されているということだと思う。集団を越えたところで、境界領域において不自由である。本来、網野さんのいうように、もっとも境界領域として典型的な場所である道路の場が、怖いということは深刻であると思う。
 もちろん、社会のシステムが違ったからとって、そこに住んでいるのは同じ人間である。社会のシステムが違ったからとって、そこにいる人間自身が違うかのように思うのは、よい意味でも悪い意味でも幻想である。中国の映画をみていると、また中国の歴史家たちと付き合うと、自然に共感することが多い。

 そして、自称社会主義の社会は、いわば戦争社会主義であり、和田春樹さんがいうように世界戦争の時代としての20世紀に生まれたものである。中国社会主義がアジア太平洋戦争の結果であり、そのあり方には、日本の中国侵略が重大な条件となっていることはいうまでもない。歴史家としては、日本と中国の間の歴史的な貸し借り関係への顧慮なしに、中国の社会を論ずることはできない。
 私としても、それをよくよく考えるのが歴史家の第一の仕事であることは重々承知している積もりだが、しかし、未来を考える条件を支える仕事をもつ歴史家、とくに、集団所有というものが実際上、きわめて大きな意味をもっていた前近代史を専門とする歴史家は、「社会主義」の問題に無関心でいることはできないのである。