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カテゴリー「東アジア」の13件の記事

2017年8月28日 (月)

「自(みずか)らを知る」ーー老子の強靭な意志(三三章)

「自(みずか)らを知る」ーー老子の強靭な意志(三三章)

 人と議論することは「智」だが、しかし、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。もちろん他者に勝つものには力がある。しかし、自らの弱さを見つめて最後まで克(たえ)ることこそが本当の強さだ。そして、気持ちに余裕があるものは豊かになることができるが、自分の弱さを見つめて最後に笑うものには志というものがあるのだ。境遇を保つことができた人は命が長いが、しかし死を懸けても志を忘れないものには祝福がある。

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死自不忘*者壽。
*底本「亡」。帛書による。

人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。


解説

 「自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という言葉はたいへんに有名な言葉である。たしかに、人生にとって「自分を知る」ということはもっとも大事なことだろう。それは誰にとっても一生の仕事であろう。

 「そんなことは分かっている」「もう自分のことは知っている」という訳で、本章は、平凡な人生訓に過ぎないもののように読み飛ばされてしまうかもしれない。しかし、実は、本章の語ることをそれを超えている。本章は、老子が「自らを知る」ということの意味を、その先に来るものとの関係で語った章である。実は老子は、ここで「明」「強」「志」「寿(ほぎうた)」という見通しのもとに人生の最後まで貫くべき強靭な意思について語るのである。

 最初の「人を知る者は智といい、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という対句は、『論語』の「衛霊公篇」が「知者は語るべき人を選び、無駄に『言』を共にすることはしない」と述べ、「堯曰篇」が「言語知識は知者の条件である」としたことへの批判である。老子は人と対論する知識よりも、自己と語り、「自(みずか)らを知る」という内面的な能力を「明(めい)」と称して人間に必須のものとするのである。

 次の「人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす」という対句も同じようなことである。他者に勝つ外面的な力についての老子の評価は低く、「自らに勝つ」内面的な強さを真の「強」であるとする。訳文ではこの「自らに勝つ」の「勝つ」の意味を明瞭にするために「克」という字で表し、「たえる」とルビをふった。普通、「勝」と「克」は区別されないが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、この文脈では「己に克つ」の「克つ」の字を使った方がふさわしい。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いであることが確定している(小島毅一九九六)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う(なお「克」の意味が堪えるであり、それは出来る(「克能」)という意味で「克(か)つ」となっていくことについては、五九章の解説も参照)。

 この「自(みずか)らを知る明(めい)」と「自らに勝((克))つ強(きよう)」は、実は五二章にも「小(しょう)を見るを明(めい)と曰(い)い、柔(じゅう)を守るを強(きょう)と曰う」と解説されている。「自(みずか)らを知る明(めい)」は「小(しょう)を見る明(めい)」に、そして「自らに勝((克))つ強(きよう)」は「柔(じゅう)を守る強(きょう)」に対応しているのである。五二章で、老子が、たとえば母子を中心とした家族のような「小」さく「柔」弱な世界を守るためには、この「明」と「強」が必要だとしているのも興味深いことである。老子は「智」や「力」よりも、「小(しょう)を見る明(めい)」と「柔(じゅう)を守る強(きょう)」を、内面的な能力として高く評価するのである。

 さて、次の対句、つまり「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」という対句についても、これまでと同じように、前半は評価が低く、後半は評価が高いはずである。それ故に、前半の「足るを知る者は富み」という部分は「強を行う志」にくらべて評価が低いということになる。もちろん、「足るを知る」ことは、老子にとって重要な知恵であるが、ここではそれを超える意思が表明されていることになる。「足るを知る者は富」の「富」が外面的なものとして評価が低いことからも、これが自然な解釈である。

 そうだとすると、「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」という対句は、右の現代語訳に記したように、「気持ちに余裕があるものは豊かになることができるが、自分の弱さを見つめて最後に笑うものには志というものがあるのだ」という意味になる。「足るを知る」とは形の内側に満ち足りてくるものを知ることであるが、この場合は内側を信頼できる、余裕があるということであろう。あるいは「足す(足し算する、計算ができる)」という意味もふくむかもしれない。これは老子の思想を「足るを知る」だけで理解する人には異様に聞こえるかもしれないが、これについては、「足るを知る」とは「欲望を抑える」ことだという普通の解釈に従えない理由も含めて、第四四章でもふれる。

 重要なのは、ここで「強を行う」ことが高く評価されていることで、この「強」が先の「柔(じゅう)を守る強(きょう)」であることはいうまでもない。老子は、その「柔(じゅう)を守る強(きょう)」を貫くことを「志」としているのである。たとえば【蜂屋注釈】はこの部分を取り上げて「前句の『強』(「自らに勝((克))つ強(きよう)」のこと、筆者注)は例外として『強行』や『志』の是認は老子らしくない。『強行』は『知足』の反対のあり方である(中略)、この句にはなんらかの誤りがある可能性がある」とするが、それにしたがうことはできない。ここでは「強」とならんで「志」が高く評価されていることは明瞭である。ここにいるのは「強」を「志」として実現する決意に満ちた老子なのである。

 以上、本章は対句を重ねて「明」「強」「志」という人生への直截な意思を語っている。これはこれまでの通説の理解を前提とすると『老子』の人生論のなかでは例外であるということになるが、しかし、むしろこれが『老子』の本質なのである。そしてそれを前提としなければ、最後の「その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり」(境遇を保つことができた人は命が長いが、しかし死を懸けても志を忘れないものには祝福があるいいい)という対句は理解できないであろう。【金谷注釈】は、この句を「最も難解」とするが、ここには一種のロマンが語られているとみるほかない。

 こうして、本章全体の趣旨は、自己の心は「小」にして「柔弱」であるからこそ、「小(しょう)を見る明(めい)」と「柔(じゅう)を守るを強(きょう)」を獲得できるのであって、その「柔(じゅう)を守るを強(きょう)」を行い用いる「志」が立ち、その「志」を死を懸けても忘れないものには「寿(ほぎうた)」があり、喜びがあるのだということになる。

 ここにみえる老子は、普通いわれるような「無為、知足、長久」(行動を控え、欲求をおさえて長命を願う)というイメージとは対極にある(なお、これまでの解釈でもっとも私案に近いのは、ここに人生的な意思の連続性を認める池田(二〇〇六)の見解である。念のために引用すると「人間が、最初に、人我(ひととわれ)を洞察する「智」「明」という認識能力を出発点に取り、人我に対して打ち勝つ「有力」「強」という能力を身につけた上で、それらの諸能力を駆って「富」「有志」という社会的に望ましい状態を経過しながら、最後に、持続と永遠を意味する「久」「壽」という理想の境地に到達する、というカリキュラムを述べる 」とある。ただ、これでは「智・明」「有力・強」「富・有志」「久・壽」が並列されていて、その内でも後者、つまり「明・強・志・寿」を高く評価する強調する対句が生きてこない憾(うら)みがある)。

 さて、話題が飛躍するようであるが、こういう老子の強さは、私にソクラテスを想起させる。よく知られているように、ソクラテスが激しい批判をむけたのはギリシャのソフィストであるが、いってみれば、孔子はソフィストの大家である。『論語』が「言語知識は知者の条件である」「知者は語るべき人を選ぶ」とか、「朋あり、遠くより方(まさ)に来たる。また楽しからずや」などというのは、孔子が議論の人、愛知のソフィストであったことをよく示している。本章で、老子が「自(みずか)らを知る」内面的な力、「明(めい)」こそが重要であるとして、孔子の言語的な「智」の考え方を批判したのは、ソクラテスがアテネのデルフォイ神殿に刻まれていたという「汝自身を知れ」を重視し、ソフィストに対して自己の「無知」を強調したことに似ているように思う。二人がほぼ同時代の存在であったことの意味を解くことは、ヤスパースがいうように世界史の理解にとって決定的な意味をもっていると思う。

2017年8月27日 (日)

『老子』六九章。平和を望んでも戦争を仕掛けられたらどうするか。

 兵法に、「向こうから仕掛けさせて応戦するだけにし、相手が一寸でも攻めてきたら十倍は退く」という格言がある。進軍していても隊列はみえず、威嚇するけれども臂はみえず、武装していても兵器はみえず、攻撃していても向こうにとって敵はみえないというゲリラ戦法である。これを逆に言えば、国にとっての禍(わざわい)は無敵の軍隊をもってしまうことにある。無敵になると、それは宝を失うのとほとんどかわらない。宝は悲哀である。だから「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目に哀しんだ経験が深い方が勝つ」というのだ。

用兵有言。吾不敢為主而為客、不敢進寸而退尺。
是謂行無行、攘無臂、執無兵、扔無敵(1)。
禍莫大於無敵、無敵(2)幾喪吾寶。故抗兵相加、哀者勝矣。
(1)底本「扔無敵、執無兵」。帛書により改む。(2)底本「軽敵、軽敵」。帛書により改む。

兵を用うるに言有り。吾れ敢(あえ)て主と為らずして客と為り、敢て寸を進まずして尺を退く、と。是れを謂うに、行くに行(れつ)なく、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)なく、執(と)るに兵なく、扔(むか)うに敵をなし、と。禍(わざわい)は無敵なるより大いなるはなく、無敵ならば吾寶を喪うに幾(ちか)し。故に兵を抗(あ)げて相(あ)い加(し)かば、哀しむ者勝つ。

解説

 アーシュラ・K・ルグィンは、本章について「合気道や地下抵抗運動、そしてゲリラ戦などへの、したたかな戦術的アドヴァイスである」としている

 しかし、日本の注釈書は、ほとんど、本章を一般的な非戦論の延長で訳してる。たとえば古く【武内注釈】は、本章を「用兵者の言に吾は挑戦者とならずに応戦者となり、寸を進まんよりはむしろ尺を退かんいうが、これは争う意のないことを述べたものである。争う意のないものは行陣すべきところもなく、攘(はら)うべき臂もなく、執るべき兵器もなく、また争うべき敵もなしというのである」と要約している。現在までの注釈は基本的に、これと同じである。

 たださすがに【福永注釈】は「主と為らずして客と為り、敢て寸を進まずして尺を退く」という部分をとって、自衛の戦争で有り、わずかな前進ではなく大きく退却することを重んじるのは猪突しないゲリラ戦法などもその一つと指摘しているが、十分に明瞭ではない。

 問題は、二行目の「是れを謂うに、『行くに行(れつ)なく、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)なく、執(と)るに兵なく、扔(むか)うに敵なし』、と」という部分の解釈である。上記の試訳では、進軍する隊列はみえず、威嚇するが実態はみえず、武装しも兵器はみえず、どこから攻撃されているかも分からないというように、ゲリラ戦法であることを明瞭に訳した。

 これまでのような解釈では、結局、老子は明瞭な軍略はもっておらず、抽象的な精神論になっているということにならざるをえない。これは前項において、「相手に勝つためには、つけあがらせ、強気にならせ、それに乗ずることが上策だ」と述べた老子の軍事思想としてふさわしくないのではないか。また本章末尾に、「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目にあった悲哀の経験が深い方が勝つのだ」とされているのともそぐわないのではないだろうか。私には、老子が、そのような抽象論を立てるとは考えられないのである。

 老子の軍事思想が決して抽象的なものではないからこそ、結論部分の「国にとっての禍(わざわい)は無敵の軍隊をもってしまうことにある」という断言が説得力をもつのではないかとおもう。そして、最後の「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目に哀しんだ経験が深い方が勝つ」という部分は、書き方からすると一種の格言として流通していたようであるが、その意味も深いものがあるように思う。

 これは日本国憲法の平和主義をどう考えるかということにも関わる。
 外交を基本にしつつ、戦争をしかけられた場合にどうするかという問題は現代世界では、国連があるという点でまったく状況は異なっている。また日本の場合は憲法に平和条項、軍隊不保持の条項があり、しかも実質上の軍隊としての違憲の自衛隊があるという複雑な状況がある。
 現在まで、国連および9条を駆使した外交戦略がとられていないという状況の中で、「万が一戦争を仕掛けられたらどうするか」という問題を純粋に取り出して議論することも難しい。何よりも国連および9条を駆使した外交戦略をどう取るかということを中心に議論することを先行させるのが自然だからである。
 
 しかし、それでも戦争を仕掛けられたらどうするかという問題はある。これは老子のいう自衛戦争の法式、ゲリラ的戦法をとるということではもちろんなく、確実な法式は可能であろうと思う。それは老子の思想の問題ではなく、現代の問題である。しかし、老子の平和思想(および軍事思想)を確認しておくことは無意味でないと思う。つまり、いうまでもなく、老子は私たちがいる東アジア世界における最大の思想家の一人だからである。今から2500年ほど前から、こういう議論があったというのを知るのは無意味ではないだろう。

2017年8月22日 (火)

『老子』77章。天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず

天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず
 アーシュラ・K・ル・グィンを読んでいたら、ルグィンの基本にあるアナキズムは老子に由来するのだと自分で書いていた。本章は、福永光司氏も無政府主義という。
 老子が無政府主義かどうかは別にして、本章は、そういう老子の政治政治思想を考える上では決定的な位置にあるもの。馬王堆からでた帛書によって「天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず」と読み下すのが私見。これまでの読みとは違う新説だが、ほぼ自己納得ができたので、掲げます。

 天地自然の法則は弓を張るように動く。つまり弓を張るには、力が余って高くなってい部分を押し、両端(はし)の下がっているところが挙がってくるようにする。多いところは減らし足らないところは補う。これと同様に人間社会における天下の公共の道は有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが、現在の社会の理屈は不足の者から削って余り有る者に奉らせる。有り余って有るものを取り上げて天のもの、公共のものとして使うように、誰かが動かねばならない。これは道にある者がするほかないことだ。こうして大人は行動にでるが、手柄顔をせず、功をあげてもその地位に居座らない。おのれの賢(えら)さを示そうとはしないのだ。

天之道、其猶張弓也(1)。高者抑之、下者挙之、有餘者損之、不足者補之。
天之道、損有餘而補不足。人之道則不然。損不足以奉有餘。
孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎(2)。
是以聖人為而不恃、功成而不処。其不欲見賢。
(1)底本「興」。帛書により改む。(2)この行、帛書による。

天の道は、それ猶お弓を張るがごときなり。高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然らず。足らざるを損して以て有り余るに奉ず。孰(だ)れか能く有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ずるものぞ。唯有道者のみなるか。是を以て聖人は為(な)して恃まず、功(こう)を成して処らず。其れ賢(けん)を見(あら)わすを欲せず。

解説
 天の道理は弓を張るように動くという場合の、弓はどうはるかについては、四〇章の解説ですでにふれた。「繁弱の弓」などの戦国時代で名高い豪弓は弦を張らない時には強く反り返って逆向きに湾曲した状態になっているので、弦を張るときには弣(ゆづか)(真ん中の部分)を上から押しつけ、両端の弭(低い部分)が自然に持ち上がったところに弦を掛けるという。これは四〇章に述べられた老子の宇宙論の文脈では、「天の道」は上から押さえつけられた弓が下から反発するという「上下=天地」の緊張の中にあるという意味であることは解説した通りである。本章ではそれが「高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う」とも説明されている。

 それが二行目でも「天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う」と繰り返されるのだが、この二番目の「天の道」は天地自然の法則ということではなく、人間社会におけるあるべき公理という意味である。いわば天下公共の道である。通理という自然が人間社会にも通ずる道理であるとされることで、。これと同様に人間社会におけるは有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが「人の道」、人の作為が重なってできてきたやり方は、そうではない。それは足らないところを減らして、有り余ったところに奉ずるというまったく逆転したやり方であるということになる。

 こういう状況は「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」、つまり、有り余って有るものを取り上げて、天のもの、公共のものとする行動を要求しているというのが老子の判定である。

 管見の限りで、こういう解釈は本書が初めてであるが、その事情は、この部分のテキストが帛書では「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることが分かり、それによって本来のテキストが確定して上記のような読み下しが可能となったためである。これまでは「孰(だ)れか能く有り余りて以て、天下に奉ずるや。唯(た)だ道ある者のみ」などという従来からのテキストによって解釈されており、それにもとづいて「どんな人が、あり余っているものによって世の中に奉仕するだろうか。ただ道を身につけた者だけがそうするのだ」(【蜂屋注釈】)と解釈されてきた。これだと、道を身につけた者で余剰をもっているものは世の中にそれを拠出するという意味になる。これによって一種の慈善や社会事業への協力と理解されてきた訳である。

 しかし、問題は、帛書のテキストが「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることがわかっても、発見(一九七三年)の後、現在まで四五年近く、これがほぼ同じ意味で解釈されてきたことである。それは帛書のテキストが「孰(だ)れか能く余り有りて以て天に奉ずるを取ることある者ぞ。唯(た)だ道ある者のみならんか」(【池田注釈】)などと読み下されてきたためで、これによって従来と同じ余剰の拠出という解釈が維持されてきたのである。私は、これは「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」と読むべきだと考える。こうして、老子は、「有り余るもの」から余剰を取って天下公共に振り向けるという再分配の思想をもっていたということになるのである。これで読みは明瞭になるであろう。

 本書では、従来の注釈書の解釈に踏み込んで私見との相違を解説するという作業は基本的に省略してあるが、この問題は重大なので、以上、やや詳しくふれた。

2016年1月 4日 (月)

核時代後という紀年法について

2016gajou
 
 上記が私の賀状です。私は毎年、核時代後という年号をつかっています。20年以上、これでやってきました。昨年も書いたことですが、歴史家としては、年号はリニアーでなければならない、直線的で、ずっとつづく連続数でなければならないと考えます。

 その点では、元号でなく、西暦が便利なのですが、しかし、西暦というのは、やはり、ヨーロッパ中心史観の影があり、それを将来の将来まで使用するということには、無理があります。

 それに代わる紀年法としては、核時代の前か後かというのが、もっとも適当であると考えています。これは地質学などで使用されるBefore Presentの考え方にも近く、その起点を核開発に置こうということです。

 ただ広島・長崎におとされる核爆弾がはじめて実験された年が紀元となるのは日本列島に住むものとしてはつらいことです。それは平均的な「日本人」の歴史意識では無理かもしれません。またこれはもとより、この列島に関わるだけのことではありません。つまり、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争についての感じ方が、まずはアジア・太平洋地域で共有されなければならないと思います。それは現在の状態ではむずかしいかも知れませんが、しかし、東北アジアから出発して歴史意識の共通性を作り出していくことは世界にとって大事な意味があると考えています。

 ヨーロッパ文明が世界にとって大きな貢献をしてきたことを認めない訳ではないのですが、その暗黒面も巨大なものがあります。東アジアがグローバル資本主義とは異なる地域世界を作り出すことができるのならば、それはヨーロッパ文明によってもっとも深刻な打撃をうけ、現在でもその激しい圧力と後遺症にさらされている中近東地帯の人びとに対して、東アジアができることの一つであるはずです。それは、世界で共用できる時間意識というものがどういうものになるのかという問題であり、世界史をどう考えているかという問題に直結してきます。

 PCに残るもっとも古い賀状には、『詩経秦風』渭陽から、「我送舅氏  悠悠我思  何以贈之 瓊瑰玉佩」(下記の詩をとって載せていました。

 上記の賀状には『老子』の80章の現代語訳の私案くを載せました

「邦は小さくて人は少ない方がよい。重機があっても使わず、人は死を怖れず、忙しさを知らない。多人数で船や車を動かすことはなく、ましてや武具をもって陣をはるようなことはない。書類はない。縄を結んで物を数えた昔でも、社会は成り立っていたのだ。住む土地のものを甘いといい、その服を美しいといい、住処に休まって、その慣わしを楽しむ。隣邦はすぐそばで、鶏は競って鳴き、群犬は吠えて行き来する。しかし、人は老いて死ぬまで、何人かの人と深く知りあえればよいのだ。

 これは世界でもっとも早く、またもっとも正確に将来社会の理想像、ユトーピアを描いた詩であると考えています。老子の思想が、日本でも禅や神道に大きな影響をあたえたことはいうまでもありません。それを確証する仕事を今年は位置づけたいと考えています。
 
 さて改めて、今年もよろしくお願いします。
 世界が少しづつでも住みやすい場所になっていきますように。世界文明の交差路である中近東の平和のためにおのもおのもの立場から何ができるのかを考え続ける年になればと思います。アフガンで活動する中村哲医師に敬意を捧げます。災害からの恢復に努力を重ねられている東北・福島の方々に敬意を捧げます。少しでも平安な年となりますように。また辺野古への無法な巨大基地建設に反対し、平和な沖縄を実現しようしている方々に敬意を捧げます。

2015年10月26日 (月)

なぜ日本史研究者が老子を読むか。『老子』66

老子など変わったことを始めたものだと思うが、東アジア史にとって、老子の原型を伝える帛書や楚簡の出土は、たいへんなことであるというのを実感している。

 研究の基本は池田知久氏の仕事や、中国出土文献研究会(代表浅野裕一)の仕事にあり、これは厳しい議論があっても、東洋思想というものを本格的に考えるさらに大きな動きになっていくと思われる。

 特に日本史の研究はなんと言っても津田左右吉の仕事から始まったと考えていますが、津田は本質的に は東洋思想史の研究者ですから、それは日本史が東洋史の一部として始まったということである。

 しかし、津田はようするに『老子』をふくめた東洋思想(中国思想)についての評価が低く、それが津田の日本神話の読み方に影響した。『古事記』『日本書紀』は、いわゆる神仙思想の表面的な影響をうけたもので神話としての本質をもたないという津田の観点の基礎には 『老子』と神仙思想そのものに対する津田の低い評価があったという事情がわかってきたように感じている。『日本史学』(人文書院)では津田左右吉について基本的に肯定的に書いたが、津田の『シナ思想と日本』(岩波新書)が問題を孕んでいることはよく知られている。東アジア論を考え直す原点はここだと思う。


 問題は、津田的な東洋思想史は、甲骨文の発見ですでに古くなっていたが、それは春秋・戦国時代の理解にまでは影響しなかったことで、帛書や楚簡の出土は、この状態を変化させ、日本史の側からいえば、津田の仕事の古さを点検し、それにもとづいてすべてを点検せざるをえないことになっている状況だろう。

 ともかく、漢文を学校でならわなくなっているというのが、東アジアの文化や 歴史というものを無視する文化的な土壌になっていると、私は考えているが、歴史学・日本史研究もそういう状況を放置していてはならないと考えるに至った。先日、国際歴史学会で、中国の済南にいって、中国の歴 史や哲学というものを安定的に考える訓練ができていないという反省もした。

 しかし、私などにとってはやはり福永光司氏が道教の意義を強調しているのを知り、20年前ほどに若干はおいかけたものの、そのままにしていたことの不見識に気付いたことがショックであった。何もしらずに歴史学をやってきたのである。

 以下は、今日の仕事。疲れたので、少し運動をして、別の仕事に移る。沖縄がどうなっているかが気になる。


66 倭国の女神伊弉冉も谷の女神たちの女王である

江海の能く百谷の王たる所以の者は、其れ善く之に下るを以てなり。故に能く百谷の王たり。是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る。是を以て聖人は、上に処りて民重しとせず、前に処りて民害とせず。是を以て天下、推すを楽しんで厭わず。其れ争わざるをもってす。故に、天下能く與にして諍う莫し。

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭。故天下莫能与諍*1。

 大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからである。神の声を聞く人は、(同じように)人々の上席で語るときも一歩下って語り、人々の前に立つときも後見の身分であることをわきまえていた。このように、天下は聖者を推すことを楽しみ、嫌悪や争いはなかった。天下はよく與に共和していて争うようなことはなかった。

解説
 ここで江海が百谷の王であるというのは江海の神が、多くの谷々の神の王であるということであろう。私は、前項でみたように、谷の神が女神である以上、江海の神も女神であると考えておきたい。これまでの解釈では江海の神は帝王などとされて男神とされているが、それは必ずしも論証されたことではないと思う。

 そういう以上、本来は、中国の神話史料を読み解いて、江海や谷の女神について議論する必要があるが、私の知識量の関係で、ここでは倭国神話を例として試論を述べることを御許し願いたい。よく知られているように、天浮き橋から下界におりてきて、ミトの婚合をした女神伊弉那美と男神伊弉諾は、国生をして日本列島、ジャパネシアを産んだ後、神産に取りかかるが、『古事記』はそれを「既に国を生み竟へて、さらに神を生みましき」と表現している。その最初に生まれたいわば環境の神々ともいうべき神々の中で、一〇番目に生まれた「水戸」、つまり河口や湾口の女神である速秋津比売神が江海にいる巨大な女神であって、それは彼女が沫那美、頬那美、水分の神、そして久比奢母智(柄杓持、北斗)神などの母親とされていることで分かる。興味深いのは、『延喜式』の大祓祝詞によれば、この女神は、八塩道の塩の八百会に座す」神で、谷川の水を流れ出た穢と一緒に「持ちかか呑みてむ」神であるとあって、その名前の「アキ」とは、水戸口で大きな口をあけてうるという意味であるという。これに対して、谷川にいる女神は、瀨織津比咩といって彼女が大地の上で活動する人間が作り出す穢を速秋津比売神に渡すのであるという。そして、海の底には、速佐須良比咩神、つまり(『中臣祓訓解』によれば)これらの女神の祖神であるイザナキ自身がひかえていて、すべての穢を「持さすらひ失てむ」「祓ひ給ひ清め給ふ」というのが大祓祝詞のいうところである。

 こうして、谷川の瀨織津比咩の下に、水戸で口を開けている速秋津比売がおり、さらにその下に海底の伊弉那美などの女神がひかえていて、おのおの穢を引き受けていたというのが倭国神話の語ることなのであるが、これは老子が、大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからであるというのと同じことであろう。というよりも、そもそも、伊弉那美と伊弉諾は中国の神話の神、女媧と伏義を原型とする神であったから、このような水の女神たちのイメージの源流も中国にあった可能性が高いのである。

 さて、以上は本書の最初の部分の解説であって、本章の重点は、むしろ後半の「聖人」についての議論にある。聖人、つまり神の声を聞く人は、女神たちが順次に下側に控えて前のものをささえるような受容する徳をもたなければならないというのである。なお、「是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る」の部分は、「統治者となって人民の上に立ちたいと望むなら、必ず自分のことばを謙虚にして人にへりくだり、指導者となって人民の先頭に立ちたいと望むなら、必ず自分のふるまいを抑えて人の後からついてゆくことだ」(金谷)などと訳されることが多い。老子はこういう世俗的な術策を説いていないというのが私見であるが、少なくとも、ここは統治者の処世を語ってはおらず聖人について語っていることは確認しておきたい(福永・池田)。老子は地域の氏族や協同体やのレヴェルでの「聖人=神の声を聞く人」の役割については十分に尊重していたものと考えられるのである。

2013年3月 7日 (木)

平安時代における奥州の規定性

 以下は昨年秋の東北史学会での報告の要約。投稿済み
 「平安時代における奥州の規定性」はきわめて大きいというのが9世紀陸奥海溝地震の分析をした結果の副産物であった。日本史にとって「蝦夷」問題はきわめて大きい。遅まきながら、本当に遅まきながら、それを初めて実感した。私が直接の影響をうけてきた人々でいえば、大石、遠藤、入間田、菅野、斉藤の諸氏が何を感じ、何を考えてきたのかがはじめて分かったということである。何でこういう周回遅れの結果になるのか。何をやっていたのか。
 9世紀陸奥海溝地震の分析が遅れた歴史学内在的な原因・遠因は、学界が、東北史の位置づけを間違っていた、とまでいわないとしても熟考に欠けていたことである。少なくとも私は、それをやはり地域史ととらえていた。この間違いは思想的な間違いである。
 歴史分析は「後からついてくる」。ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」とはいうが、実感としていえば、それが「後知恵」となるのは、歴史学者の姿勢、あるいは歴史学が置かれている社会的条件によるのであって、歴史学の知恵は、より早くから発動することが可能なのである。それが事態に遅れてしまった歴史学者としての実感である。しかし、最近の『歴史学研究』や『環境の日本史』(吉川弘文館)をみていると、歴史学はさすがなもので、急速に事態にキャッチアップしようとしていることが感じられる。

平安時代における奥州の規定性
 昨年の三・一一の衝撃の中で、平安時代における北方史の規定性ということを考え続けた。研究史を点検した結論は、九世紀以降に「古代帝国」が消失するという石母田正の理解の問題性である。石母田のいう奈良王朝の世界性は、むしろ最終段階における民族複合国家の特徴であり(保立『黄金国家』)、本格的な「小帝国化」は光仁王朝において蝦夷戦争の強行とともに開始された。光仁の蝦夷戦争は防衛戦として開始されたものではなく、むしろ王統の交替の政治不安の中で周到に計画された侵略戦争であった。それ故に光仁期に形を整えた万世一系イデオロギーは、日本における帝国のイデオロギーであった可能性がある。最近刊行された『中世英仏関係史』は中近世ヨーロッパにおける帝国構造を論じているが、これ以降、日本も帝国性を持ち続けたと考えられる。それは平川新のいうように江戸期にまで持続する。
 この「小帝国」は、三八戦争の戦後体制として形成されたが、王権の超然主義、無答責体制の下で、一〇世紀に確定した摂関家の外交代行権が奥羽における摂関家の勢力を規定した。とくに大石直正がいうように、栗原荘が「宇治殿領」にさかのぼるのは重要で、摂関家が奧六郡の南の境界地帯をおさえており、それはおそらく冷泉王統による東国庄園の掌握の中で位置づける必要がある(蜷河荘、三崎荘、波多野荘など)。
 熊谷公男が論じたように、蝦夷戦争の戦後体制は荒ぶる領域を抱え込んだが、院政期にこれが平泉権力として自立した境界権力となる。斉藤利男の言い方では「都市の平和」と「辺境の平和」。王権が津軽・北海道の支配と抑圧を自律的に請け負わせ、内国の「平和」を確保しつつ、諸利益を独占するという体制である。この都市王権と境界権力が相互に支え合う構造は従来の「求心性」という用語では理解できない。
 このような辺境権力の中枢に存在した軍事身分ー「武士」をどう理解するかは、平安時代史研究の根本問題である。斉藤がいわゆる武士職能論を批判して「古代~中世における武士形成の歴史の上で北方の蝦夷支配問題が果たしていた役割」こそが重要であり、「武士職能論を論ずるならば、「都の武士」ではなく、蝦夷追討のための戦士集団という面の解明こそ、第一義的課題になるはずである」としたことに賛成したい。かつて戸田芳実は「武士=刑吏=夷狄説」ともいうべき理解を提起したが、そもそも奈良時代の「武士」の深層には、刑吏=「物部」の職能があった。彼らは、京都の衛門府や市庭などの刑吏としてのモノノフの伝統をひき、一〇世紀以降には、その中から検非違使ー長吏ー非人という指揮系統が明瞭になる。他方で、陸奥における物部氏の広汎な分布にも注意する必要があり、彼らは『陸奥話記』の段階まで跡をおうことができる。京都の刑吏、モノノフは「都市の平和」の裏側、陸奥のモノノフは「辺境の平和」の裏側にいるものとして対応するのではないか。彼らは、本来的に「帝国の武士」というべきものであったと考える。
 ただし、三八年戦争の終了と同時に、九世紀の大地動乱の時代が始まった。小川弘和が「復興行政の臨機応変な実施を目的に国府の裁量権拡大と長官への権限集中」と述べているように、平安期の陸奥の体制は、一つの災害後体制でもあった。そこでは「民・夷」の協力と反発の双方が存在したろう。ここで注目しておきたいのは、蝦夷の祖先を鬼王「安日」(アッヒ)であったとする『曾我物語』の神話である。このアッピが高橋富雄のいうように糠部の「アッピ(安比)」であったとすると、入間田宣夫が「糠部巫女」と『馬医草子』に登場する巫女・大汝(オオナムチ)のイメージを重ねることが重大になる。オオナムチは地震の神であるから、地震を起こす地霊=アッピという観念が存在した可能性を考えてみたい。ここに、遠藤巌のいう鎌倉幕府の夷島成敗権に対応する蝦夷神話の形成をみてよいのではないだろうか。

2013年1月24日 (木)

深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」

130120_124450yato  日曜日に久しぶりに自転車。さすがに気持ちがよい。千葉の奧の谷戸田の周辺にはこの前の雪が少し残っている。殿山ガーデンという乗馬クラブの柵の外から乗馬を見学。
 火曜、朝の総武線。深谷克己さんにいただいた御著書『東アジアの法文明圏の中の日本史』。先週末から目を通していて、日曜日にだいたい読んだ。最後の一節を、いま読んだ。やはり共感するところが多い。
 もちろん、意見を異にすることもある。残念ながら、奈良時代から鎌倉時代の捉え方は承服できない点が多い。そして最後に述べるように、日本の歴史社会の構造の捉え方についても賛同できない点がある。

 しかし、深谷さんの本で共感を呼ぶのは、第一に「東アジアの中での日本」の論じ方であり、第二にその「史論史学」ともいうべき側面である。

130122_135602hukaya  まず第一の点は、日本は東アジア型の国家社会であり、それが江戸時代に一つの到達点にまでいったという捉え方である。これは村井章介氏も、同じ捉え方で、彼は、どこかで江戸時代になって日本は東アジアレベルに追いついたといっていたと思う。私もそう思う。深谷さんは、これを平川新氏の議論をも援用しながら、東アジアにおける日本をイベリア・インパクトからウェスタン・インパクトへの展開の中で位置づけるという議論を展開してみせた。もし、これでよいのならば、1980年代から続いてきた東アジア論も日本史との関係では、一つの落ち着き先がみえてきたということになる。
 もっとも端的な文章はいま読んだ部分(284頁)。

 「近世化」では、イベリア・インパクトに対応して、非入貢が長く続いた周辺王朝としての安全強迫を、大陸侵略で乗り越えようとして、東アジアの危険存在となり、一方、「近代化」に際してもウエスタン・インパクトに対応して、政治文化的にはハイブリッド化しながら、「中華皇帝化」を目ざした。

 イエズス会の動きに象徴されるようなイベリア・インパクトの危険性を強調し、それを秀吉の朝鮮侵略の(主観的な)国際的背景条件と結びつけるのは、平川新氏の議論に依拠したものである。深谷さんの議論の特徴は、それを近代化におけるウエスタン・インパクトと対比して、「大東亜共栄圏」にまで突っ走った日本国家の運動を、東アジアにおける江戸期国家の位置づけの延長で議論したことである。
 江戸時代の研究者には、イベリア・インパクトをここまで評価するのは異論があるらしい。スペイン、ポルトガルの世界征服計画、そのイエズス会との関係などを固定的にとらえることはできないというのであろう。この段階でイベリア諸国が東アジアに対する侵略と植民地化の道に具体的に進もうとしていたということはできない。彼らに、そこまでの実力はなかったは事実であろう。しかし、こういう見方によって、ラテンアメリカと東アジアを共時的な世界の中でとらえるのは重要だろうと思う。東アジアにおける明帝国の崩壊という時代の中で、イベリア諸国の動きが重要な背景となったことは明らかである。
 古いことをいうようだが、松本新八郎氏に「聖者の胃袋」という文章がある。このザビエルを論じたエッセイは、当時の奴隷貿易の盛行との関係で、イベリア諸国の東アジア支配の欲求をきびしく論じたものである。イベリア諸国の強欲と奴隷売買に対する批判と、イエズス会の宣教師の美辞麗句の裏にある卑屈な「封建的性格」に対する嘲笑は、いま読んでも納得できるものである。私は、松本・平川・深谷の議論には一定の共通性があり、議論としては成り立ちうるものであるように思う。ともかく一五〇〇年代から一八〇〇年代まで、たしかに東アジア諸国は、ヨーロッパ勢力との諸関係の中で、同じ世界に属しながら、国家としても共軛性と連続性をもった歴史を辿ったという視点が重要なことは明らかだと思う。
 
 第二の点であるが、深谷さんの仕事には「史論史学」というべき側面がある。石母田さんはどこかで山路愛山のような「史論」というべき仕事からの影響をうけたといっていたと思う。日本の社会のもっている多様な側面、肯定的な側面、否定的な側面、一種の体質のようにみえるものなどについて歴史家として論ずる。より一般的にいえば、歴史を参照系として直接に現代を論ずる歴史家の話法というようなことである。「日本文化論」というパターン的な議論を歴史家として批判し、相対化する上でも、これは私は重要だろうと思う。
 現在、「戦後派歴史学」を皇国史観と戦争への批判、そして反封建制の意識にひきつけて理解し、さらにその方法論をイデオロギー的な「社会構成史」と考えるのが一般的である。しかし、戦後派の歴史学は、そのようなイデオロギーや方法論の問題を越えて、活発な「史論」をもっており、それによって説得性を確保していたのだと思う。深谷さんのこの本を読んでいると、それを何らかの形で取り戻した方がよいのかもしれないと考えさせられるのである。
 
 たとえば、深谷さんは、維新期の大久保利通の「浪速(大阪)首都移転論」にふれて、最初は明治の元勲には誰ひとりとして東京(江戸)を首都としようと考えたものはいなかった。それはパークスの秘書をつとめていた前島密の建白にはじめて現れるものであり、この建白の背景には貿易の便や安全を考えたパークスの意向もあるのではないかという。少なくとも、「蝦夷地を視野に入れれば江戸は帝国の中央になる」という前島の建白に国際的な契機を読みとるのは容易だろう。
 これをうけて大久保が東京案に傾き、東京への遷都論に向かっていくことになるが、深谷さんは「その矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という。対外関係の条件が東京が首都になる上で大きな意味があったというのは考えたことがなかった。
 ともかくも大阪と東京というのは矛盾含みの関係であるというのは現在もかわらないように思う。いま大阪は橋下氏、東京は石原氏という変わった知事がいる訳であるが、こういう事態も「矛盾をふくんだ結果はいまも続いている」という側面があるのかも知れない。
 考えてみれば、1960年代のいわゆる革新自治体の動きというのは、大阪と東京が先行していた。大阪も東京も大都市として「中央」に対する抵抗意識や優位意識が爆発する要素をつねにもっているのであろう。いま起こっている大阪と東京の「中央」に対する反発というのは、なかば格好だけのものにすぎないが、こういう政治力学の働きは、日本国家における大都市の独特な位置という問題があるのかもしれないと思うのである。
 橋下氏と石原氏は一種のファシズム的な不気味な要素をもっていると思うが、それが日本を代表する二つの大都市の生理のようなものに根づいているのではないかというのが怖い。
 私は、日本社会にはよい意味でのナショナリズムが存在しないと考えている。このナショナリズムの不在という現象は、きわめて都市的な現象ではないだろうか。農山漁村とそのネットワークが国の中軸にあれば、こういうナショナリズムの不在、沖縄と福島を無視するかのようなナショナルなものの不在というのは考えがたいように思うのである。橋下氏は、沖縄に行って「基地は我慢せよ」に等しいことをいった。
 深谷さんの著書から、話しが脇に脇にずれてきたが、ともかく、我々は昔の人々と同じ自然的な条件、あるいは地政学的な条件の下にいるのだから、こういう「政論」「史論」というものは必要なものかもしれない。

 さて、私などは研究経歴の最初、つまり70年代のいわゆる民衆運動史研究の時期、民衆的社会史の時期の最初に深谷さんの影響をうけた。それ故に、本書で深谷さんが現在の視点の下に広い視野をもった議論を展開され、あとがきで「高齢残余の時間を宿題解答にあてることを約束させていただき」と述べられるのを読むと感慨が大きい。私は日本史の本で最初に感心して読んだのは、佐々木潤之介『大名と百姓』であった。つぎに佐々木さんの『幕藩権力の基礎構造』を読んだが、佐々木さんの理論的、構造的な議論はむずかしく、途中で挫折した。そして、むしろ佐々木さんを批判しながら、室町以前の議論、つまり峰岸純夫さんや戸田芳実さんの議論にも言及していた、あの時期の歴史科学協議会の深谷さんの大会報告に大きな影響をうけた。実際には、深谷さんの報告を読んでから、戸田さんの著書を手にとったような記憶がある。

 とくに私にとって、今でも外せない論点は、あの頃の深谷さんが、峰岸純夫氏の議論をうけて、「東アジアの共通分母」、東アジアの社会構成における共通性としての「地主制」という議論を展開したことである。
 しかし、この論点を深谷さんは封印されたらしい。去年、峰岸さんの著書の書評をした時、記憶にのこっていた文章を、深谷さんの著作集で確認しようとしたが、深谷さんの「地主制」論は、以前の著作でも、今回の著作集でも削除されていることを知った。もちろん、今回の『東アジアの法文明圏の中の日本史』でも「東アジアの共通分母」という問題意識が中心的なものとして維持されていることはよく分かるが、しかし、深谷さんは、本書でも「地主制」論にふれることはない。今度、久しぶりに御会いする機会もあるので、この点、今はどう御考えなのかを聞いてみようと思う。
 冒頭にふれた「日本の歴史社会の構造の捉え方について賛同できない点」というのは、このことである。地主論なしの江戸期社会論というのは、私には了解できない。それではいわゆる「小農社会論」になってしまって、江戸期封建制論と枠組みはかわらなくなる。それは以前と表現は違うが、さらに江戸期社会を、あまりに「明るく」、あるいは建前で論ずる方向に近寄るということになりかねない。江戸期社会を「暗黒」の封建制という用語の中に押し込めようとするのではないが、江戸期社会が、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に矛盾の多い社会であることは本書の中で、深谷さんも強調されているが、問題はその構造的な捉え方である。

 日本が東アジアにどこまで追いついたかという、さきほどの論点でいえば、私は、その極点は江戸期になるとしても、室町時代には日本も相当程度東アジアに追いついていたという意見である。そして、そもそも平安時代・鎌倉時代も東アジア型の都市・地主型国家としての側面をもつという意見である。以下、峰岸さんの著書に対する私の書評の最後の部分を引用しておきたい。

私は、峰岸もいう集団的階級構成を前提として、この列島社会の社会構造が展開したことからいっても、東アジア型の都市・地主制国家を考えることがむしろ妥当ではないかと考えている。もとより、それを立論するためには、平安期から室町期にいたる国家・貴族的領主制・地域地主制の三者の相互関係を追跡しておくことが必須ではあるが、少なくとも、永原のいうように江戸期社会が領主制の極限的展開とそれにともなう自己否定を経過したものであるとすれば、それは封建制とはいいがたいのではないだろうか。実際、それは封建制というにはあまりに組織的・集団的な構成であって、東アジア型の「非封建的な」社会構成というほかないものである。峰岸らの「アジアの共通分母としての地主制」という提案は、そう考えてこそ生きるのではないだろうか。

 

江戸時代研究者にも、江戸期社会を封建制という範疇で捉えるのかどうか、そろそろ、結論をだしてほしいものである。それが研究史に対する責任というものであろう。
 木曜日、帰宅の総武線。

2012年12月10日 (月)

驚いたー「韓日伝統美の饗宴」

 いま総武線。土曜午前だが、昨日金曜日は夕方、韓国文化院で開催された「韓日伝統美の饗宴」に行ったために、予定の仕事ができず、出勤。
121210_113003  連れ合いが申し込んでいて、幸い、券があたって二人でみてきた。私は、従姉妹の一人が仕舞をしていたことがあって、中学・高校時代は、よく能楽堂にいって能・狂言をみた。鼓の音、地謡の響きも好きで、身が引き締まる感覚をしっている。しかし、今日の経験は衝撃。「かくも長き不在」。これまで、歴史家でありながら、何故、こんなに長く、民族的伝統を体現する音と調べと舞踏の世界を忘れていられたのか。見ないでいられたのかと思うほどの感動。それをいって彼女に笑われる。
 おそらく私などは、「村の神社」「村祭り」「盆踊り」が実態的な経験として、文化の一部として生きていた世代の最後にあたるのだと思う。「村の神社の神様の、今日は楽しい秋祭り」という歌の調べとフレーズが、実際の風景と胸の踊りの記憶とともに、なつかしいものとしてでてくる最後の世代だと思う。こう考えると、若い世代は柳田国男を読んでも実感がこないのではないだろうかと思う。そういう意味での素朴なナショナリズムの伝統が切れているのではないだろうか。これは歴史学にも責任がある。どうだろう。違うだろうか。

 簡単にプログラムを紹介すると、太鼓とチャンゴ(朝鮮太鼓)は、大倉流宗家大倉正之助とミン・ヨンチ。大倉正之助氏は三番叟。ミン・ヨンチ氏はジャズとの協奏でも知られている民俗音楽家。一昨年のダボス会議での晩餐会で音楽監督をつとめたという。演目は即興。
 舞踏は長唄とサルプリ舞、花柳貴比と金順子。花柳貴比さんは「水仙丹前」。遊里に通う男たちの身振りを舞踊化した舞踏から毛鑓の技へ。江戸の女の優美な力強さとでもいうのだろうか。金順子さんのサルプリ舞は優美な韓国舞踏で、白い布をまわせる。この布は天と地、生と死を結び、「恨」を解き放ち、魂を昇華させる象徴という。象徴性の高さはモダンダンスに近い雰囲気にまで行く。和服と韓服の取り合わせがなんともいえず美しい。
 民謡は柿崎竹美と金貞姫。柿崎さんは秋田長持歌、秋田音頭。これはなつかしい。金貞姫さんは、西道民謡中、夢金浦打令など。日本的に元気で乗りのよい柿崎さんと韓国のオモニという雰囲気の金貞姫の組み合わせは、会場のスピリチュアルな雰囲気を一気になごませてくれる。舞踏では日本の女と力強さと韓国女性の純粋さという感じだったのが、ちょうど役割がぎゃくになっているのが面白かった。
 琴は安藤珠希さんと張理香さん。安藤さんは生田流箏曲のまだ若い女性。胡弓もやられるという。張理香さんはカヤグムの独奏家。(日本)文部科学省推薦の教育用ビデオ「日本とアジアの音楽」に出演されているという。毎年独奏会があるとのこと。私はカヤグムを見るのも聞くのも初めてで、これは、いま考えているオオナムチ=大国主命のもっていた地震を起こす「琴」の問題にも関係して本当にありがたかった。

 連れ合いとは、本当に似ている。ヨーロッパの人は韓日・日韓の芸能をみ
ても区別がつかないのではないかと話す。私たちは一年ほどベルギーに留学していたことがあるが、ヨーロッパの人は、東アジア、とくに日韓の人を区別できない。とくにヨーロッパに二年以上いる東アジアの人々は、不思議なことに身振りも仕草も徐々に同質化していく。その基礎は根深いものがあるのだと実感。

 さて、今は夜、帰宅途中。今日の仕事は基礎的な下ごしらえで終わってしまい疲労。あとはうちに帰って寝るだけである。上記を読んでいると朝は元気であったことがわかる。昨日の韓国文化院の催しでもらった元気である。
 すでに一日がたって、自分の感情の動きの余韻はきえているが思い出しながら記録を残していくと、ともかくも驚いたのは、プログラムには日韓の芸術家おのおのの演目が書いてあるだけなのに、太鼓・舞踏・琴・民謡のすべてにおいて、競演となったこと。舞踏はあるいは最初から意識されていたのかもしれないが、他は、完全に予定されていた訳ではないように感じた。競演を作り出しつつある現場という感じで、それだけに素晴らしかった。
 まず太鼓と琴で興味深いのは、結局、韓国の音楽の方が音が低いこと。大倉流の包みは、ヨーッ、ホッ、ホッという声と鼓のタンという高い音がチャンゴの律動と響きあうのだが、これまでチャンゴをよく聞いたことがないので、その律動に感情を移入できないのが残念だった。しかし、独特な雰囲気が醸し出される。とくに私でもわかったのは、ミン・ヨンチさんの横笛の音である。これも日本の横笛よりも低音で、ときどきかすれた音になる。笛も日本の横笛より野太い感じのものである。笛を吹いてはチャンゴに写るのだが、その間も大倉流の素手打ちの高い鼓音が響く。これは聞き物であった。
 しかし、何といっても、女性の音楽家の競演は美しく、花がある。太鼓は演目の開始を告げる緊張の場作りの音であって、その後に登場する舞踏・民謡・琴は美々しく、競演になると興奮を呼ぶ。
 和琴と加耶琴の競演も、加耶琴の音が低く、音の揺れも激しく、目をつぶって聞くと地底からの響きのようにも聞こえる。加耶琴は弦を押さえるのに全身を使う。ハープの演奏のように全身を波打たせるが、ひれ伏すようにして弦をおさえ、そして身体を揺れ戻す。それに対して和琴の演者は正座で一音一音が明瞭な響き、高い響きを伝える。驚いたのは加耶琴の強い弾奏のあおに、一拍おいて「サクラ」の耳慣れた調べが高音で響いたとき、不思議な感じであった。
 もちろん、和琴の原型は韓半島から来たものであり、それのみでなく、加耶と倭国は深い関係にあったから、加耶琴は、和琴の直接の原型であるという。田中俊明さんの『大加耶連盟の興亡と任那ー加耶琴だけが残った』(吉川弘文館)を読んで、そういうことは知っていたが、読むと聞くとでは大違いである。
 舞踏の饗宴は圧巻であった。白い衣裳に烏帽子をかぶった花柳貴比さんは独演のときとは違う人のよう。幽明の世界から登場する精霊のよう。薄紅の羽衣をきた金順子さんは悲哀の中の天女のよう(連れ合いの詞)。何の筋もあるわけではないが、一枚の長く透明な白布を取り交わしながら、行き違い、伏し倒れ、二人で舞い、頬をよせ、手をとりあって退場する。
 しかし、この韓国・日本の舞踏・音楽からやってくる感動は何だろう。思い出したのは、入間田宣夫さんが「糠部の駿馬」で論じた『馬医草子』に描かれた「オオナムチ」という名の巫女の姿。彼女はたしか鼓をもった女性として描かれていたが、その着衣は、現代の和服とはことなって、舞台の韓国女性たちの着ていた寛衣に似ている。そして、その名前からすると、日本の鎌倉時代の巫女も地霊を呼び出したに相違ない。韓日・日韓の文化の相似というのは、民話論でよくいわれることであるが、そこには深い基礎があるのではないかと思う。そしてそれは基本的には紀元前後には証拠のある「鬼道」、つまりシャマニズムの伝統までさかのぼるのではないかという夢想が訪れる。岡正雄『異人その他』の描く世界である。網野善彦さんの「無縁」の執拗なる持続という言い方を借りていえば、シャマニズムの持続である。
 ともかくも、男性陣の太鼓はあくまでも序幕であり、人々を呼び集める劇の開始宣言のようなもの、中心は女性の舞踏と演奏である。中井正一は「日本の美」という論説で、アジアの民族は「生きるための努力の中のあやまちに一度、正面から絶望しているところがある」といっているが、その「絶望」のひそかな花芯には、女性の声を姿があるのではないかと思う。

 いま、月曜朝の総武線。日曜は、久しぶりに論文仕事。はるか昔に書いた経済史・貨幣論関係の論文について、はるか昔に批判をいただいた。反批判をさぼっていたが、必要があって、草稿を取り出し、大幅に追補して論文化している。論文を書くという作業は、単色のデッサンを描き込んでいく作業なので、脳神経の動きをそのままだせばよい。脳内電気情報のPC情報への形態変換である。少々のテニヲハの齟齬などいいやという感じで、また書いていってから、内容がふくらむにしたがって編別構成を考えていけばよいというのが何といっても楽であり、負担感がすくない。他分野の研究者・教育者や普通の読者を頭におく文章よりも楽に進む。
 これだけ自分の論文が批判されていることは再認識。私はいわゆる「戦後派歴史学」の先達に対する批判は別として、ほとんど他者の論文の批判ということをやらないので、自分が批判されても緊迫感がないのだろう。忘れてしまうのである。それにしても、これだけ誤解をうけているのに反批判もしなかったというのは、結局、自分の論文に愛着と執着がないということなのであろうと反省する。

2012年10月 9日 (火)

「小帝国」論と蝦夷ー東北史学会で講演

 10月7日。東北史学会・岩手大学史学会への出席を終え、中尊寺にうかがって、帰りの新幹線。
Cimg0850  中尊寺は久しぶり。平泉の駅を降りたとたんになつかしい感じがする。何度も訪れた寺院は多くはないが、中尊寺は特別のものとなっているらしい。同じく学会に出席・報告された和尚のご案内で、ちょうど御開帳の秘仏・一字金輪仏頂尊を拝観。像高76センチという小型のものだが、見事な尊厳と美しさを示す。金色堂、さや堂、釈迦堂に拝観し、博物館も見学。何度かみているものもあるがさすがにいい。
 写真は金色堂を下ったところの苑地遺構の場所。ここの雰囲気が好きである。ものごとをよく考えるためには、同じもの、同じ風景を何度もみることが必要なのかもしれない。
 今回は、6日、「平安時代における奥州の規定性」という講演をして、はじめて奥羽の通史的な理解について考えてみた。8世紀以降の奥羽の歴史の到達点としての中尊寺の意味が少しだけ分かったので感慨が深い。
 講演の最後で、「北方史最大の謎」としての「仏教都市平泉の巨大な姿」
をどう考えるかにふれた。平泉の奥州藤原氏の権力は、しばしば境界権力であるといわれる。境界権力とは一般的に言えば境界領域を場として、一方では中央につながり、他方では異民族にもつながっているような地域権力を意味する。この権力は、北緯40度以北の世界、北海道と津軽のアイヌの世界と、院政期王権をつなぐ位置にあり、王権からアイヌ世界の「支配」と交易を委任された半ば独立的な権力としてそびえ立っていた。北海の富が京都都市王権にもっていた位置はきわめて大きい。金と昆布その他の海産物、そして馬などのエキゾティックな富を独占し、それを東アジアの貿易システムに投げ入れるのが平安時代の都市王権の重要な基盤であった。
 9世紀の対蝦夷戦争は、蝦夷の人々の民族的な抵抗を押し切り、日本の王権を小規模ではあれ、「小帝国」といってよいものに押し上げたというのが、報告で述べた私見。「古代史」の通説とはまったく逆だが、私は、8世紀には帝国ではないが、9世紀以降は「小帝国」とすることができると考えており、それをはじめて話した。
 この帝国にとって、奥州藤原氏を通じて北奥から北海道の状況を掌握することは喫緊の課題であった。そのために、王権は、この時代の最高の文化・美術・工芸、そしてそれらの基礎に存在する仏教体系を平泉に持ち込んだのである。これは王権にとって別枠の課題であったのだと思う。今日の和尚の報告の中尊寺供養願文は、そのような王権の対外意識を明瞭に示す史料と評価すべきなのだと思う。もちろん、そこには王権の対外意識の片鱗がみえるだけである。そもそも当時の国家が、どれだけ奥州から北海道を従属的に組織することに意を用いていたかをストレートに示す史料は残っていない。
 しかし、たとえば、日本の現在の中枢部はその国家意識の少なくとも三分の一はアメリカを向いている。政治的な従属は明らかである。しかし、日本国家はアメリカに従属しているなどという国家意識は通常の意識の中には上ってこないし、公的な資料や実態は法と行政の影にかくれてストレートに明らかになることはない。院政期王権と奥羽・北海道の関係はそれと同じようなものだと思う。アメリカの普通の人が、アメリカという国家が日本という国家を従属させているとは夢にも思っていないのと同じことだ。
 しかし、平安王権中枢が奥羽をどう考えていたかを示すのは、右に述べたような平泉に投げ込まれた文化・美術・工芸の量と質そのものであると思う。こういう待遇をうけた地域は、当時の列島には存在しないのである。平安都市王権は摂関政治期に都市的な爛熟を遂げた。そのレヴェルはやはり相当に高い。院政期王権は、それを前提として、各地に文化・宗教を広げた。都市的な爛熟にさらに組織的・国家的な性格、別の言い方をすれば一種の男性的な性格を加えたように思う。この段階差をどう考えるかは平安文化の基本問題であるように思う。しかし、ともかくも、それが、ここまで集中的に作り出された場所はほかに存在しない。
 これを導いた東北から北海道の地域社会の動きをもっと知りたいものだと思う。きわめて活動的で矛盾にみちた実相がそこにはあったのに相違ないと思う。その実相を知る手段は限られているが、やはり興味深いのは入間田宣夫氏が注目した鎌倉時代の『馬医草子』に描かれた「大汝」(オオナムチ)という巫女と、その夫と考えられる「越後丹介」という伯楽の姿である。入間田氏は、この巫女に北奥の良馬の産地、糠部で活動する巫女の姿を重ね、さらにイタコの語る「娘と馬の恋」のイメージを重ねていく(同「久慈・閉伊の駻馬」『北日本中世社会史論』)。私は、この巫女の名前が「オオナムチ」であるのが、何といっても興味深い。オオナムチ。つまり、「ナ=大地」の神であり、大国主命である。地底に棲む神。このスサノヲの子孫であり、スサノヲの婿である神を呼び出す行為によって巫女の名がオオナムチとなったのだろう。地底の霊、地霊を呼び出す巫女が東北の馬産地で活動しているのである。これは平安時代に溯るに違いない。『馬医草子』の描く、魁偉な巫女、オオナムチの姿と、峻厳な美にみちた中尊寺の仏像の両方を思い描くと、私は、中尊寺の仏像が見ていたものが何であったのかを考えるのである。
 本州西部とは異なる荒々しい自然と異民族との接触の中で、平安時代の東北は西国とは別のテンポで神話の復活があったのではないだろうか。平泉に展開するような巨大な仏教の世界は、そういう辺境の文化世界を見つめ、安穏を希求し、そして作りかえる装置であったのではないか。
 夕方、いつものお店でご馳走になりながら、和尚の報告についての話しから、ここまで話しは広がっていった。和尚は「東アジアにおける王権」という視野の必要性を説かれる。それだからこそ、ある種の文化戦略の下に、当時の最高の文化がここに具現しているのではないかとおっしゃる。考えてみれば、奥州合戦はそれを破壊したのであって、文化戦略ではなく、頼朝は、暴力によって東北の地に侵入した。その意味で、私は、頼朝は信長とならぶ「仏敵」であると思う。
 以前、「平泉館」柳御所保存問題が起きた時、最初期に東京で尽力された明治大学の高島緑雄氏が、「私は、以前は頼朝を歴史を推進した武士と評価していたが、学会の諸研究を考える中で、そうではなく、頼朝が破壊者であることを知った。そのことを考え直すためにも柳御所の保存に協力している」とおっしゃっていたことを思い出す。


2011年5月 7日 (土)

地震火山26白頭山の南北朝鮮共同調査

 白頭山の共同調査を南北朝鮮が合意したという記事が新聞にあった(2011年4月13日朝日)。中朝国境の白頭山の火山活動をめぐる二回目の専門家会議を開き、6月半ばに現地で共同調査を行うことを合意したということである。韓国が白頭山の現地調査に参加するのははじめてで、5月に学術討論会も開くという。
 これに日本・中国も参加していくということになると、東北アジアの自然史、地震史、火山噴火史の研究は進むだろう。それが同じ地質学的な自然の下で生活しているという常識に結びついていくとよいと思う。
 私は、九州大学の江原幸雄先生の『中国大陸の火山・地熱・温泉』(九州大学出版会)を読んで最初に知ったのだが、この地域は火山を共有する地域である。地球科学では、西北部九州の地震・噴火は、アムールプレートの下に沈み込んだフィリピンプレートからのマントルの上昇に由来し、それは韓国から東北中国までの地震・噴火の運動と地殻の運動としては連続するものだという。
 地殻の運動は、日本列島に極限されて動くものではなく、ユーラシア東北端全体で連動しており、そのため、東北中国、韓国、日本の地震活動は連動し、しばしば同時的に発生するという。とくにアムールプレートの動きは複雑で、アルタイ山脈ーバイカル湖付近ースタノボイ山脈と続く、プレート西北端の周縁地帯や、中国大陸に位置するプレート南部周縁地帯にも地震地帯を発生させている。この問題ではアムールプレートの実在の論証が大きかったらしい。
 このようなユーラシア東北端のプレートとマントルの運動の全体像が、現在、プレートテクトニクスの研究の一焦点となっているらしいが、そこに広範囲な連動が存在することは認められている。たとえば韓国の歴史地震の中で最大規模といわれる江原道の地震は一六八一年に起きているが、中国でも史上最大級といわれる山東省の郯城地震が一六六八年に起きている。そして日本でも、その後しばらくして、一七〇三年の相模トラフに淵源する江戸・関東大地震、一七〇七年の富士山の大噴火をともなった東海・南海地震が起きている。これは偶然的なものであるとは考えにくいという(都司嘉宣「韓半島で発生した最大級の地震」歴史地震20号)。
 このような東北アジアレヴェルの地殻運動の連動を素人が考えてもしょうがないのだろうが、貞観地震との関係で注意しておきたいのは、貞観地震と同型の地震で「奥州ニ津波入テ(中略)カヘリニ、人多取ル」といわれた室町時代、一四五四年一二月二一日(日本王朝暦、享徳三年一一月二三日)の地震が韓半島での地震と連動していた可能性が高いことである。
 これは『大日本地震史料』をみれば書いてあることだが、この室町時代の地震の、ちょうど一月後、一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでた(『朝鮮王朝実録』)。
 貞観地震の前後の史料には、このような韓半島にまで及ぶ地殻運動の連動性を示すものはないが、ただ貞観地震の約二月後に、肥後国において相当の規模をもつ津波地震が発生している。今回も雲仙の噴火が活発化していて、熊本は地震が増えている。そうだとすると、史料は残っていないものの、貞観地震の地殻変動が肥後国のみでなく、小規模なものであったとしても、韓半島の地殻に影響をあたえていた可能性はないのだろうか。室町時代の陸奥国津波が韓半島南部に大地震をもたらした地殻構造は、約六〇〇年の時をへだてて同じ延長線上にあったに違いないと思う。
 日本の大地動乱の時代は、東アジアの地震と火山噴火が動く時代になる可能性があるのだと思う。それを考えさせられる機会が増えるというのは、相手が地震や噴火であるだけにきついことになる可能性は高いが、事態の認識が客観的なものとして共有されていくとよいと思う。
 6月の共同調査がその出発点になるかどうか。こういう東アジアの研究者相互の関係をとっていく上で、韓国の知識人の役割は非常に大きい。