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カテゴリー「思い出」の13件の記事

2017年4月14日 (金)

高校の同期会の記念誌に書いた人生紹介

 私は中学高校時代はバトミントン部、生物部、修養部、数研などにいました。一年浪人した後、国際キリスト教大学に行きました。

 ご記憶のような学生運動の状況で、高校三年くらいから大学の最初、当時「反帝・反スタ」といわれた広い意味でのトロツキズムの運動と思想に大きな影響を受けました。ただ、大学の学生運動の現実のなかで、友人が(後には私個人も)暴力をうけたこともあり、また増島先生、右遠先生、山領先生、そして深木先生などの影響もあって、大学の中途から考え方が明瞭に変わり、それとともに社会科学と歴史学の研究に進むことにしました。学生運動への参加もあって、授業への出席も不安定でしたが、日本思想史の武田清子、西洋経済史の大塚久雄の両先生の教えを受けることができたのは好運でした。またともかく高校から大学にかけて反スターリンということを突き詰めて考えたことは結果的にきわめて大事な経験になったと、今では考えています。

 そして一年留年した後に、都立大学の大学院の修士課程に入ることができ、日本中世史の戸田芳実先生の指導をうけて、奈良時代から鎌倉時代の研究に入ることができました。そしてさらに好運にも東京大学史料編纂所の入所試験を受けて、同研究所の助手に採用され、何年か前の定年まで、そこにいました。

 いまやっていることは、一つは歴史地震・噴火の研究です。東京大学の文理融合的研究に研究所長の立場で少し関わっていた関係で、三・一一東日本大震災の直後に東大地震研究所の研究集会の案内をうけて参加したことがそのきっかけです。そのとき、地震学界では、東北沿岸の地質調査で巨大で部厚い津波痕跡が発見されたことによって、二〇年以上前から、次の宮城県沖地震は巨大なものになり、近くやってくる可能性が高いことが常識になっていたことを知りました。この津波痕跡は、私の専門の時代の一つでもある九世紀の大津波であったにも関わらず、それを知らなかったというのがショックでした。

 ただ、二〇一六年のアメリカ大統領選挙をみていて、バーニー・サンダースについて、そしてアメリカ史について研究をしたいと考え、今は、しばらく地震噴火の研究を離れています。さすがに専攻の違うことについての執筆は苦しく、前途がまだ見えませんが、高校大学時代にベトナム反戦運動や、沖縄返還運動のなかで考えさせられたこと、またマーティン・ルーサー・キングJr.牧師の公民権運動について考えたことを思い出しています。大学時代に興味をもった法学についての勉強も少しして、アメリカ憲法と日本国憲法の比較をするというのが主な内容になるはずですが、日本国憲法がアメリカ憲法の古さ、不足分を補う位置にあることを実感しています。

 だいたい、私の現状はこういうところです。右遠先生が先年なくなられたのが残念ですが、先生方がお元気で過ごされることを願っております。
                   保立道久

2014年2月10日 (月)

右遠俊郎先生の追悼会と梶井基次郎

Cci20140210


 昨日は高校時代の師、右遠俊郎先生の追悼会。
 明治神宮球場のそばの日本青年館で午後2時からであった。都心は大雪。総武線が快速は動かず、各駅停車も遅れ気味で、ぎりぎりにつく。絵画館のまえを本当に久しぶりに通る。

 右遠先生は2013年10月11日に死去。87歳だった。2009年に練馬区の島村記念病院にお見舞いしたが、気にかかりながらお見舞いにいけず、御様子は聞いたいただけに、喪失感が強かった。
 会でいただいた『右遠俊郎文学論集』をしばらく読むことになると思う。いま偶然に開いているのは「湯ヶ島での梶井基次郎」である。そこにはこういう一節がある。


 「だが、今の私なら『俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれはいつも私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした』(『檸檬の花』)という文章に、厳しく鞭打たれる思いがする。病む身に背負った強靱な精神による、仮借ない自己点検を私はそこに見る。反俗もまた俗悪と同じ水位にあると知って、さらに高い精神の飛翔を志すのだろう。とかく繊細な感覚と、精密な観察とを喧伝されるこの作家の、これは毅然と直立する倫理性の一面を示しているとはいえないか。


 私は右遠さんの文学評論が好きで、発表時に雑誌で読んだ原民喜論や、小林多喜二論、そして入院後にまとめられた国木田独歩論などを文学論を考えるたびに思い出すが、この梶井論は読んでいない。頁を繰ると、次はガルシア・マルケスである。

 しばらく、これを読んで、遅ればせながら、先生の全体にふれてみたいと思う。とくにその文学評論は読み直してみたい。会冒頭の新船海三郎氏の挨拶では、戦後派の文学精神の最後の一人といわれていたが、右遠さんは、多くの社会的なテーマをもった小説家でありながら、同時に、いわゆる近代文学から戦後派文学の全体について懇切な読書の経験をもち、しかもそれを評論としたという意味でも稀有の方だったと思う。私は高校の授業で右遠さんに堀田善衛の「広場の孤独」と中原中也と立原道造の詩の読み方を教わった。いまでもそれが自分のなかに残っているのをありがたいことだと思う。

 右遠さんは朝日茂さんの朝日訴訟に結核の療養所が同じだったということもあって支援する立場をとり、その機縁で明瞭な政治的・社会的立場を鮮明にして生きてきた文学者である。その面でもほとんど絶対的といってよい影響を受けたのだが、しかし、私は、高校時代、『地下生活者の手記』から始めて、ドストエフスキーを少し読んで、分かったようなことをいって質問したとき、沼袋のご自宅でジョン・ミドルトン・マリーのドストエフスキーの評伝を読めばいいといわれたことを忘れることはできない。マリーの本は手にとったが、ようするに、文学というのは主観的な戯れではないということを知らされたのだと思う。そこでドストエフスキーの世界から離れた。同じ書斎で、高校生らしい質問をしたときに、保立君のいうことは、存在論の問題か、認識論の問題かと反問されて、そういうこともあるのだと知らされたこともわすれがたい。

 けれども、昨日の追悼会では、姪の珠美さんが、叔父の好きであったことはパチンコとたばことコーヒーであったという楽しいお話しを聞き、テープに吹き込まれていた右遠さんの歌声を聞いた。これは私の知っている右遠さんとはまったく違う右遠さんである。本当に話が違う。そんなに自由に享楽的に生きてこられたのだ。

 そして珠美さんの歌う「旅順高校愛唱歌」を聞いた。『風青き思惟の峠に』に自叙されているように、右遠さんは旅順高校の出身で、この小説にも、この歌が出てきたと思うが、これが北帰行のもとの歌なのだということを始めて知った。隣にいた近現代史のA先輩もそれを知らなかったというが、私たちは、第二次大戦から戦後を生きた人々の現実の姿というものをやはり知らないままでいるのかもしれないと感じた。

 『右遠俊郎文学論集』の第五部は、追悼文集で、尾崎一雄・藤原審爾・夏堀正元、阿倍昭、色川武大、戸石泰一などの文学者への追悼文をめくっていると、いよいよ右遠さんのことを知らずに生きてきたという感情が迫ってくる。

 そして追悼会で驚いたのは国文の秋山虔さんのメッセージだった。秋山さんは『右遠俊郎短編小説全集』をしばしば読み返すといわれていた。私は昨年、必要があって『源氏物語』をはじめて本格的に読んだが、その前後にある人から秋山さんのことを聞いて驚いたが、しかし、そのときも右遠さんと秋山さんがそんなに親密な関係にあるということはまったくしらなかった。ようするに、私たちの世代は、先行する世代の交友関係のネットワークとその焦点を知らずに生きてきたのだと思う。
 そのネットワークをそのまま豊かに受け継いでくることができれば、現在の、この国の学芸世界の風景はすこしは違ったのであろうと思うが、この国の第二次大戦から現在へ至る曲折にも相当のものがあり、そのような経験の継続と、そのなかでの右遠さんのいう「思想的共生」の継承は細い細いものになってしまった。必要なのは二歩後退である。
 同期会のようなものにでる最大の楽しみは、先生の等身大の姿を知るということだろうが、亡くなった後になっても遅いことではない。One step foward, two steps back。

2013年8月24日 (土)

最初に神保町に通い始めた頃

 旧職場のPCの中から完全にデータを移植した。以下は、ついでにPCのを整理していたらでてきたもの。ずっとまえ『歴史学研究』の月報に書いたものである。最後のところに削り残しが残っているが、そのままにする。
 それにしても、研究者は誰でもそうなっているのであると思うが、PCの中には自分の頭の一部がそのまま入っている。外部記憶とはよくいったものである。これが研究活動にどういう影響を及ぼすものなのか。以前に書いた「情報と記憶」という論文では、ローマ以来の記憶術ということについて勉強して書いたが、コンピュータは一種の新しい記憶術を必要にしている、あるいは実際上、徐々に生み出しているのであると思う。

最初に神保町に通い始めた頃
 私がはじめて買った『歴史学研究』は、大学一年の時、一九六八年一〇月号の特集号で、書棚で確認したところ、たしかに記憶通りに、黄色い表紙に「天皇制イデオロギー(明治百年批判)」という赤地に黒の見出しのものであった。色川さん、安丸さん、中村政則さんなどの論文をよく読んだ跡がある。
 後に、中村さんが委員長時代に委員をやることになるとは、その時は知るよしもなかった。歴研の研究者の中でもっとも早い記憶は藤原彰さんと佐々木潤之介さんで、大学の三年か四年の時に一橋大学の授業を盗聴にいった。藤原さんの授業が日本革命論なのに驚き、佐々木さんの授業で「農民的剰余」の概念の説明に感心した。ノートをなくしてしまったのが残念である。
 次の歴史学研究会についての記憶は、大学四年の時、「日本の中世史の勉強をやりたいのだが、どうしたらいいだろうか」と事務所に電話したことである。どうしたらいいだろうかといわれても困ったのではないかと思うが、その電話に答えてくれたのは、事務局の会務担当者で(『歴研半世紀の歩み』によると松崎さんか重松さんのどちらかということになる)、中世の委員であった渡辺正樹さんを紹介してくれた。おそらく渡辺さんの電話を教えてくれたのではないかと思う。それでは『平安遺文』の読み方を教えてあげるからということで、渡辺さんに高田馬場の駅のそばの喫茶店を指定された。たしか、目印に『平安遺文』をもってくるようにということであったように思う。もうほとんど記憶がないが、その後に、時々、中世史部会に出ることになり、古代史部会にもでるようになった。当時は事務所は狭かったのだと思う、よく学士会館で部会が開かれたが、大学のあった三鷹から通うと、会費のお茶代がぎりぎりのことが多くて不安だったことを覚えている。
 結局、一年留年をすることになったが、卒論は、渡辺さんに読み方を教えてもらった『平安遺文』の最初の方に並んでいた近江国大国郷の土地売券を題材にした。私の母校は国際キリスト教大学で日本前近代史の教員がいなかったが、指導教官はありがたいことに大塚久雄先生だった。しかし、ほとんど無手勝流で書いた。
 歴史学研究会の大会の記憶は留年中の一九七二年の東大本郷での大会で、小谷さん、峰岸さんの全体会大会報告を聞き、部会は古代史部会の関口裕子報告の印象が残っている。大会の全体会会場のそばで、部会でやはりいろいろ教えてくれた富沢清人氏に、当時、都立大学にいらした戸田芳実さんを紹介してもらい、いわゆるテンプラで都立の院の授業にでてもいいといわれた。そして翌年、戸田さんによると英語の点がよかったということで都立大学の修士課程に入学できた。大学は大荒れの状態で、自分の将来について考える余裕はないまま、多忙かつ不節制という状態であったから、大学院というものに入れて非常にうれしかったのを覚えている。
 歴研事務所については、ぎりぎり、すずらん通りのあたりにあった旧事務所の記憶がある。『歴研半世紀の歩み』によれば、歴研事務所が現在の事務所に引っ越したのは一九七三年七月のことである。その引っ越しの直前に旧事務所を覗いたような気がする。
 私の高校・大学時代、歴史に興味をもった一つの理由は、高校二年の時に提起された家永教科書訴訟だった。とくに大学時代、一九七〇年の杉本判決は教科書検定訴訟を支援する全国連絡会が発行した青いパンフレットでよく読んだ記憶がある。
 けれども何といっても、私などの世代にとって大きかったのは、ベトナム戦争であった。浪人中に、代々木ゼミで小田実氏の英語の授業でケネディーの就任演説のテープを聞かされ、その明解な文法の説明に感心した。小田さんが亡くなって、急に思い出したが、考えてみると、最初のデモはべ平連のデモで、最近まで神田外国語大学にいらした山領健二先生(その頃は私のいた高校の世界史の先生)に出会ったことも覚えている。『ベトナム戦争の記録』(大月書店)を取り出してみると、一九六八年のテト攻勢、一九七三年のパリ協定、一九七五年のサイゴン陥落の時期におのおの自分が何をしていたかを思い出す。
 私の場合、歴史が動いたという実感は、あれが唯一のものかもしれない。その頃から、社会党の解党、売上税導入、小選挙区制、そしてその先には憲法改悪だといわれ、その予測通りに歴史は「変化」している。だから、あまり動いたという実感はないということかもしれないが、ともかくパリ協定の成立をたしか国会議事堂の近くで聞いたときの強烈な印象が残っている。
 私は、大学時代に、自身の考え方は決めていたが、将来は混沌としており、ともかくも、そういう中で、徐々に方向を決め、歴史学研究会に通うようになった。


最近、『永原慶二著作選集』の『二〇世紀の歴史学』収録巻の解説を書くという難しい仕事を割り当てられ、必要があって『昭和史論争を問う』(大門正克編)を読んでいたら、和田悠氏が山領さんの「著名な亀井論」があるといっているのを読んだ。その論文の掲載されている『共同研究転向』は買ってもっていたのだが、大学院時代に金がなくて古本に売ってしまった。

2013年7月20日 (土)

霞ヶ浦

植物たちに
 めっきり少なくなり、人の目にふれることも希な沈水植物が、わたしの体内で揺れる。時には激しく、時にはゆっくりしたテンポで、羊水の中で動く幼児のようだ。湖の中で生を営む植物にとって、わたしはゆりかごだ。
 しかし、昔のわたしがどんな暮らしをしていたのかを探るために、長い年月をかけて調べてくれた学者がいる。学者は、大声でやや乱暴な意見を述べるが、その姿勢は一貫して、わたしの同居人を大切にしてくれる。
 人びとはわたしの鏡しか見ない。その方が楽なのだ。しかし、わたしの体内では多くのものが揺れながら陽炎のように生きているのだ。今確認されている植物は三百六十四種類もあるという。これから増えるか消えるのか、わたしには分からない。彼らの生き方は実に静かで、死に方も実に慎ましさを心得ているのだが、復活という玉手箱のような技さえ持ち合わせていることには驚きと尊敬がわたしの頬をなでる。
 これまで迷子になっていた植物が地上にその太古の姿を現す。浚渫されたヘドロから生命を復活させるのだ。そして、地上のひとは亡霊にひれ伏すように手をあわせる。こんな形で生まれ変わるとはと、わたしを見つめる。わたしは少しばかりの喜悦に酔う。緊張感の抜けたような世の中でもまだ、わたしに発信を忘れない植物たちの存在に恐怖を越えた慈しみを知るのだ。
 幾多の復活話を聞いてきたがこれまで信じられなかった。浴衣の襟元あたりに匂う少女の戯れごとだとさえ思っていた。白く無垢な柔肌と、透き通るような産毛を揺らして粛々と生まれてくる眠りからさめた植物たち。優しさではない。真実への探求に華を持たせようとしているのだ。


 父の兄が死去した。もうすぐ九九歳というところであった。病院をたずねて手を握り、伯父の家にもどったところで容態が急変した。通夜・告別式が7月2日・3日。土浦で葬儀である。家族で参加。久しぶりに妹にも会う。上の文章は従姉妹のつれあいの写真家の御供文範氏のページの「わ・た・し・は・霞ヶ浦」から(http://mitomo.justhpbs.jp/index.html)。霞ヶ浦の伯父は土浦の自然を守る会の最初のメンバーの一人で、御供さんは、伯父につきあって、その活動を長く支えてくれた。
 火葬をまつあいだに親族と親しい人々が60人ほどもいただろうか。久しぶりの方々に挨拶をする。私は母方の大家族で育ち、大家族のもっている問題の大きさを知っているが、同時に、大家族と親族の間での経験によって人格を作られてきた部分が大きいことを知っている。いわば大家族の苦闘を食って生きてきたということである。
 現在、この列島に棲む人々の多くが送っている都市的な生活の中では、この親族というものが見えなくなりつつのではないだろうか。もちろん、親族に依拠せざるをえない局面というものはあり、大人になってしまえばそれではすまないとはいえ、ここ30年ほどの子供たちにとっては親族というものは目の前にいない存在であって、目の前にいない存在はみえない。現在の子供たちにとってはそれはいわば家族を動物としてとらえることができなくなる。人間の動物の繁殖網がみえなくなるということで、それは自分と自分の家族を動物として相対化し、そのようなものとして悟る機会をなくさせる。第二次世界大戦後の日本は、そういう意味での親族関係を地域社会とともに破壊してきた。物材を独占するためにという機能において、親族を「閥」という形で、残してきたのは一部の人々である。現在の政界・財界を構成している人々は、このような社会からの親族組織の排除を実施し、主導した人々である。この人々に退場を願うことは、これからの社会にとってどうしても必要なことである。
 
 以下は、控え室での挨拶。
 私は父を早くなくしたものですから、小学校・中学校の頃は土浦に入り浸りでした。伯父と伯母には本当によくしてもらい深く感謝しています。私は歴史の研究という仕事をしてきましたが、そういう道をえらぶ上で、伯父からは大きな影響をうけました。昨日、お通夜で和尚さまが伯父の歴史好きは武士や合戦ではなく、町や庶民の歴史が好きだったのだとおっしゃいましたが、私はその影響をうけました。
 私は、伯父が、そういう考え方のうえにたって土浦の自然を守る会の中心メンバーとして活躍されたことにつねに励まされてきました。私は50年前、豊かな霞ヶ浦の町、土浦をよく憶えています。

2012年5月13日 (日)

武田清子先生

Takedakiyoko_2   久しぶりに自転車で。千葉の青葉の森公園から星久喜の都川支流の自転車ルートにでて、もどって、都川水の里公園の休み所でおにぎり・きゅうりで昼食。目の前では「里の田」を耕耘機で代掻きをしている。雷雨の予報があるので、適当に切り上げて帰る予定。
 4月28日の朝日新聞に母校の国際キリスト教大学の武田清子先生の御元気な写真。もう94歳になられたと知る。私は国際キリスト教大学の出で、大学時代は先生をアドヴァイザーとしていて心配をかけた。毎学期、成績のチェックに面談がある。ギリギリの成績で卒業したので、怖い先生であった。ICUから都立大学大学院にまわったので、武田先生から都立の戸田芳実先生に紹介状のようなものがまわり、ブリリアントなところのある子であるというように書いてあったと戸田先生に聞き恐縮した。そのほか、ほめようがなかったのだろう。
 ブログには書きにくいような迷惑をかけた。その上、先生は社会科学研究会リベルテというクラブの顧問で、私はその部員だったので、この点でも御世話をかけた。一昨年だったと思う。クラブの同窓会で久しぶりにお会いした。昨年の同窓会は予定と重なって失礼をした。大学紛争の時代であり、ICUは「革マル」が強く、このクラブは、結局つぶされてしまった。私がほぼ最後である。長い伝統のあるクラブなので申し訳ないように思う。
 先生は神戸女学院の御出身。ただ、お母さんに「あなたは我が強いから宗教が必要です。これからは英語が話せて海外で交流できるようになったほうがよろしい」といわれて神戸女学院に行き、洗礼をうけて留学したという話ははじめて聞く。一度、御宅にうかがったことがあるが、個人的な話はまったくお聞きしたことがない。
 先生の恩師は、ラインホルト・ニーバー。私も大学時代にはニーバーを読んだが、十分残っていない。先生の授業も真面目にきかなかったように思う。ただ、先生の配慮で(ときいている)ICUに授業に来てくれた一橋の種瀬茂先生の授業で『資本論』を読んだ。種瀬先生が武田先生と話されている様子を覚えている。そういえば、そのすぐ側に大塚久雄先生の研究室があったのである。先生たちの研究室は狭かった。そして、もう御一人、武田先生の推薦で、天理大学の宗教史の先生が来られ、授業をうけた。『古事記』『日本書紀』の講義で、これはともかくも勉強をしたという感じが残っている。けれども、授業を最後まではキチンとはきかず、先日のブログに書いた羽仁五郎の「神話学の課題」を種にして感想文をかいてすませた。ノートをなくしてしまい、かつ先生の御名前も失念している。これが苦い記憶である。
 朝日には、日米開戦の後に、ニーバーから保証人になるからアメリカにとどまるようにといわれたが、最後の交換船で帰国した。「日本は負けるとわかっていました。灰になるのなら、そこにいなければならない。愛国心というより、アイデンティティの問題でした」とある。御一人で生活されていると伺った。御元気ですごされるようにと思う。

2011年8月26日 (金)

常陸国の地域史と教育、エッセイ

 今、帰りの総武線。PCの中をみていたら、常陸国の地域史についてのエッセイがでてきた。
 私の父は、茨城県の土浦の出身で、土浦には大事な親戚がいる。その関係で常陸国の地方新聞に依頼されて連続記事を書いた。もういつのことだか記録が残っていない。6話読み切りである。
 先日、歴史教育関係の講演をし、その中で『一遍聖絵』の常陸国の地主の家について言及したが、いま、このエッセイの中にも同じ画面についての言及があるのを知った。その他歴史教育についての言及もあるので、これを上げておくことにした。下記のようなもの。

①石岡市「鹿の子遺跡」の漆紙と日本の人口
 八世紀、つまり奈良時代の歴史史料はきわめて少ない。これが増加するなどということは、私が歴史の研究に興味を持ち出した頃には考えられなかった。もちろん、ちょうどその頃は「木簡」(荷札など、文字の書かれた木の札)が歴史史料として注目され始めた頃で、特に静岡県の浜松市の伊場遺跡という地方の役所の遺跡から木簡が発見され、地方にも木簡が存在する可能性が明らかになって、古代史学会は騒然としていた。
 ところが、最近は、全国各地から木簡に加えて「漆紙文書」が発見され、地方の古代史史料の増加は著しいものがある。漆紙とは、漆壷の蓋紙に使用されたために漆が染み透ってコーティングされ、保護・強化された紙のことである。漆は壷の口にそって丸く染み透るから、漆紙の形は必ず丸くなる(詳しくは平川南『よみがえる古代文書』岩波新書を参照されたい)。
 この漆紙文書が常磐自動車道の建設にともなって調査された石岡市の鹿の子C遺跡から大量にみつかったのである。御承知のように、石岡は古代の国衙(国の役所)の地であり、この遺跡は国衙の付属工房の跡であろうといわれている。そして、この漆紙は、だいたい延暦年間(七八二ー八〇六)に反古として払い下げられた国衙の帳面類であるとされている。これが地方公文書としてえがたい価値をもっていることはいうまでもないが、その量も、これまで発見された漆紙文書の中で最大のものであり、これによって、おそらく常陸国は地方ではもっとも多くの古代の文献史料をもつ国となったのである。
 ここでは、その内の一通の文書断片によって、奈良時代末期の常陸国の人口が明らかになったことについて紹介してみたい。それは図のような帳面の断片(直径約19センチ)である。この図の内、線で囲われている部分は字がないところを復元したもので、その推理は、四行目と五行目から始まる。四行目の下の二行の細字(双行という)の数を足すと一八九七五〇。まず、これが何かの人口であることは「口」とあることからわかるが、郡の人口としては多すぎるから国の人口、しかも当然、常陸国の人口に関わる数字であることになる。そして、五行目の双行は奴婢の人口を記したものだから、上の一九万弱の数字は平民の人口であり、この平民の人口と奴婢の人口を足したものが四行目上部の「□□□□萬壱仟陸佰陸拾」という数字となる。この時代の東国の奴婢の人口は平民の一パーセント程と考えられるから、この足し算の繰り上がりは最小限とみなすことができ、□□□□は「口壱拾玖」と置くことができる(奴と婢の各々の数は分からないが、その総数は一九一〇となることも計算していただければわかる)。
 まさに小学校の算数の「虫食い算」そのものである。ここから先の詳しい考証の紹介は省略するが、戸籍には平民の外に、封戸・神戸(おのおの貴族と神社に割り当てられた人口)があるから、それを勘定にいれると、当時、おそらく延暦の常陸国の人口は約二二万四〇〇〇から二四万四〇〇〇人の間であったということができるのである。
 人によっては、「何だ、それだけのことか」と思うかもしれないが、今から一二〇〇年前の地方の国の人口が確実な証拠によって明らかになるというのは、世界的にみても稀有なことで、歴史家からみれば常陸国は実に恵まれているということになるのである。
 そして、このことは様々な問題の理解に波及してくる。その内の最大のものは、これによって奈良時代末期・平安時代初期の日本の総人口が約六〇〇万であったろうという計算が可能になることである。そして正倉院に残されている戸籍関係史料によって、奈良時代前半の人口を約五〇〇万と推定することができるから、奈良時代一〇〇年間に、だいたい一〇〇万の人口増加があったという計算も成り立つのである。もし、人口増加率が全国並だったとすれば、奈良時代の間に、常陸国でも約4万人の人口が増加したことになる。

 これだけのことが、一片の漆紙から明らかになってくるというのは、やはり驚きではないだろうか。私も平川南氏が漆紙を解読する場面を見学させてもらったことがあるが、漆紙はそのままではほとんど字の跡を見ることはできない。赤外線を照射することによって初めてビデオカメラに画像が浮き出るのである。だから、この方法が開発されるまでは、漆紙は正体不明の物品として破棄されていた可能性があるともいわれている。
 分析方法の発達によって、遺跡の価値は将来にむけて無限に高まっていくのであり、そのためにも、できるだけ遺跡を保存し、将来の研究の素材を生の形で残していくことが必要だと思う。それは将来の人々に新たな「驚き」の機会を贈ることになるはずである。
②「常陸国風土記」と亀城公園の椎の木
 前回は、石岡市の鹿の子遺跡から出た漆紙文書を「虫食い算」の方法で分析すると、奈良時代末期の日本の総人口は約六〇〇万、そして奈良時代一〇〇年の間に約一〇〇万の人口増加があったと推計できることを紹介した。
 私は、日本の小学校、特に茨木県の小学校では、かならず前回紹介した漆紙文書を使って「虫食い算」の練習をさせるのがよいと思う。教室に漆紙文書の写真を持ち込んだりすれば、算数の勉強も印象が違ってくるのではないだろうか。また、過去を事実にもとづいて正確に知る習慣を身につけること、あるいはそういうことが可能であることを教えることは歴史学にとってもきわめて大事なことである。
 その上で、小学校・中学校の日本古代史の授業では、奈良時代の間に人口が増加したことの意味を教えるべきだろう。その際にまず使用するべき史料は、いうまでもなく「常陸国風土記」である。
 「常陸国風土記」の行方郡の条は、古代における耕地開発の歴史を語ったものとして歴史家の間では有名なものである。「風土記」の伝えるところでは、継体天皇の時代に、箭括氏麻多智という男が、行方郡の谷地を開発しようとして「夜刀の神」といわれる蛇体の神と闘争し、「山の口」に掘った「堺の堀」に堺の印となる棒杭を立てて「神の地」と「人の田」の境界とし、蛇神のためには神社を設けて祭ったという。そして、孝徳天皇の時代には茨城の国造の地位にあった壬生連麻呂が、この谷に池を築いてさらに本格的な開発に乗り出し、「池の辺の椎の樹」に昇り集まって抵抗する蛇体の神を排除して池堤の構築を完成させたという。
 この「夜戸」・ヤトの神とは「谷戸」の神、つまり谷に開けた湿地の神のことをいうのだろう。常陸にはどこにもそういう谷地が多い。人間の力が及ぶ前は、そこは、当然、山蛇の栖だったのである。「風土記」の説話には、そのような「谷戸」の開発を経験した奈良時代の民衆がもっていた伝承がはっきりと現れている。こういう開発が先述のような人口増加を支えたことは明らかである。
 ところで、私がこの説話を読んで思い出すのは、小さな頃よく遊んだ茨城県の土浦の亀城公園の大きな椎の木である。私は父を中学校一年の時に亡くしたが、それ以降、父の郷里の土浦の家に世話になることが多かった。特に伯父・保立俊一は半ば父代わりの役割を果たしてくれ、私が歴史学の研究に進んだことにも、伯父の影響があったように思う。
 そして、伯父によると、伯父の小さな頃には、右の亀城公園の椎の木には蛇が棲んでいた。よくあるように、この椎の木は地表から約五メートルほどのところで四方に枝別れしており、そこが台のようになっていて登って遊んだものだが、そこに蛇が棲み付いていたというのである。
 「風土記」で蛇の蝟集した「池の辺の椎の樹」も相当の巨木であったことは間違いない。樹木の上に蛇が多数あつまったというのは、ただの神話のようであるが、脱皮の季節などに蛇は群集をつくる生態をもっているから、そのようなことも実際に起こりえたのではないだろうか。これは動物学者に聞いてみたいことだが、日本の蛇で、そういう風習をもっているとしたら、それは何という蛇だろう。
 ともあれ、「風土記」の伝承には、集合する蛇たちをみておそれ崇めた古代人の心意が反映しているのではないかと思うのである。神社の神体の蛇が境内の巨樹に棲みついているというのはよく聞く話である。巨木にはしばしば樹上をふくめて大きな洞が形成され、蛇はそこを栖とするのである。
 大海の東に「扶桑」という巨樹があり、夜、太陽がそこで休むというのは中国の神話であり、イグドラジルの木が天地をつらぬいて聳えていたというのはゲルマンの伝説である。そのような伝承は、原始の人間の自然観として世界中で共通のものだったのだろう。日本にも、古くから、そのような巨樹の信仰があったのである。そして、蛇神の信仰は、そのような巨木信仰と結合して、生きていたのである。
③常陸国風土記と広場のケヤキ
 前回みてみた「常陸国風土記」で、蛇体の神が昇り集まった「池の辺の椎の樹」は、『風土記』が語られた奈良時代には「池の西に椎の株あり」とあるように、すでに失われていたという。興味深いのは、そこの地名を「椎の井」といい、「清水の出づる所なれば、井を取りて池に名づく。すなわち香島に向かふ陸の駅道なり」という立地であったことである。
 つまり、この椎の巨木は、道のそばにあったのである。井戸があったというから、この椎の木の下はおそらく広場になっていたのではないだろうか。そこは、男女が集まり、子どもたちも集まり、旅人も立ち寄る地域の水場だったのだろう。
 古代の広場というと、ギリシャのアゴラが有名だが、日本の古代にも広場はあった。郡衙=郡役所には広場があったというのが、考古学の発掘成果による最近の見解であるが、文献史料でそれを明示しているのも、「常陸国風土記」の行方郡の条の記事である。
郡家の南の門に一つの大きなる槻あり。その北の枝、自ら垂りて地に触り、還りて空中に聳ゆ。その地に、昔、水の沢ありき。今も霖雨に遇へば、庁の庭に湿□れり。
 つまり、行方郡の郡衙(郡役所)の南門の前は「庁庭」・広場になっていて、そこには大きな槻の木があったというのである。槻とは欅のことで、ケヤキは、若い枝がしだれる性質があり、この槻の木は枝が垂れて根付き、一本の木になったというのであろう。このことに気づいてからは、私は、公園や道のほとりのケヤキの姿に興味をひかれるようになった。また、友人がケヤキの大机を手に入れたという話を聞いてうらやましいと思うようになった。
 ほかの史料によっても、郡家の庭には、しばしば槻の大樹がそびえていたらしい。『続日本後紀』という九世紀の歴史書によれば、京都の葛野郡の郡家の前にも「槻樹」があったが、その樹を伐って太鼓を作ったところ祟りがあったという。さらに『万葉集』(四三〇二)に「家持の庄の門の槻の樹の下にて宴飲せる歌」(天平勝宝六年三月十九日)とあるのは、郡家ではなくて庄園の役所の門にそびえていた欅の木の下が広場になっていたという例であるが、そこで饗宴をふくめてさまざまな集会が行われたことは確実である。槻の樹の下の広場は、このように、地域の中で宴会をしたり集会をしたりするような公的な空間と考えられていたのではないだろうか。
 図は、そのような槻の聳える古代の広場の情景をつたえる稀有にして唯一の絵画史料であるといえるだろう。これは、現在佐倉の歴史民俗博物館の所蔵になっている国宝「額田寺伽藍並条里図」の一部、額田寺の南門の辺りの様子を見取り写ししたものであるが、そこに「槻本田」という地字があり、それらしい木が描かれているのである。
 日本の古代で、槻の木の下が広場になっていたのは、郡衙にかぎらない。それは中央でも同じことであった。少しお年の方ならば、「大化改新」を起こした中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を打倒する密約を結んだのが、都の「飛鳥寺の槻の木の下」の広場で、毛鞠をやりながらのことであったという説話をご存じだろう。
 彼らが「大化改新」に勝利した後、この場所は中大兄が群臣に服従の誓約をさせる大集会の場所になっているのである。さらにまた、種子島からの朝貢者や、蝦夷を迎える饗宴の場でもあり、「壬申の乱」において軍営がもうけられるなど、古代の国制において最も、公的な集会場であったのである。
 槻・ケヤキは古代人にとって生命力を象徴する樹木であったらしい。槻の木は「枝を数多く分出して周囲は三メートルにも拡がるところから、生命力の強い木として、『百枝槻』とも『百足る槻が枝』ともいった」そうである(土橋寛『日本語に探る古代信仰』、中央公論社、一九九〇)。たしかに古代人にとって、槻の木は家と生命の持続と繁栄を象徴する巨木として最もふさわしいものであったのかもしれない。
 もとより、各地の郡衙や「館」の前に聳えていたこれらの槻の木は移植したものではないだろう。本来生えていたものであるか、あるいは彼らが郡衙などの役所を建設する際に伐り残したものであったのだろう。そして、その枝葉の茂りに、古代の地域の歴史が象徴されていると考えられていたのである。
④那賀郡の兄妹と雷神
 「常陸国風土記」の那賀郡の条には、古代人のもっていた雷神信仰の様子が、よく描かれている。その話を簡単に紹介してみよう。
 昔、茨城里にヌカビコ、ヌカビメという兄と妹が住んでいた。ところが、妹のところに、夜、誰とも知れない男が通ってきて、昼には帰っていく。子どもが生まれる月になって、妹はついに「小さき蛇」を産んだ。この子どもは、杯にもっておくと、一夜のうちに杯一杯になり、甕にもっておくと、またその内にいっぱいになるというように、どんどん大きくなっていく。母が、「お前は神の子だろう、もう養うことはできない。父のところに帰れ」というと、蛇は「それでは父のところに帰ろうと思うので、小子(ちいさご)を一人、お供につけてくれ」という。母が「家に兄一人、妹一人しかいないのはお前も知っているではないか、無理をいわずに帰ってくれ」というと、蛇は怒り出して、兄のヌカビコをカミナリのように蹴殺して天に上ろうとした。驚いた母が甕を投げ付けたので、蛇はそれにつまづいて天に上ることができず、村の北にあるクレフシ山という峰に留まって山神となり、神社に祭られたという。
 こういう雷神伝説は古代では非常に広く語られていたようである。その中でも、もっとも有名なのは、山城国・京都の賀茂の上社、賀茂別雷社の起源伝説で、同じように父の名前が知れない子どもが家の屋根を突き破って天に上り、後に父が山城国の火雷神であるとわかったという。これらの伝説で、私が興味深く思うのは、雷神が小童の姿で印象されていることである。その外にも、尾張国の農夫の前に、雷とともに天から小子が落ちてきて、妻の腹に宿り、頭に蛇をまとった赤ん坊となって生まれ、異様に強力な男に成長したなどという種類の説話は多い(『日本霊異記』)。
 しかも興味深いのは、これらの伝説の背景には、雷がなっている時のセックスによって孕んだ子どもは異常な力をもっているという観念があったらしいことである。たとえば、雄略天皇が后と「婚合」している最中、その場にお付きの従者が誤って踏み入ると同時に雷がなり、ことを妨げられた天皇が激怒したという話(『日本霊異記』)は、王の後継ぎの受胎は、雷によって聖別されねばならないという観念を示している。
 これがきわめて古くからの観念だったことは、図に略図を掲げた奈良の佐味田古墳から出土した家屋文鏡が示している。辰巳和弘氏の『高殿の考古学』によれば、雷が今にも落下しようとしている高殿の中には、キヌガサがさしかけられていること、戸がしまっていることなどから首長が在宅であることは確実で、この画像は、首長は妃が同衾して神の来臨をまっている様子を表現したものであるという。
 仁徳天皇が、ある朝、高殿の上で国中をみまわし、「民のかまどはにぎわいにけり」という歌を詠んだという話は、戦前は、民衆の生活を憐れむ仁徳天皇がいかに偉かったかという話として語られたものである。しかし、高殿の上での王の生活を詳しく検討した辰巳氏の仕事によれば、仁徳は妃と同衾していたのであって、この話でまず注目しなければならないのは、王が妃とともに神の来臨をまつ性的な儀礼なのである。
 現在の世相をみてもわかるように、こういう迷信は、そう簡単には社会から消えていかないもので、江戸時代になっても、金太郎は山姥に雷神が受胎してうまれた子どもであるという俗説になって残っている。ともかく、カミナリというのは、昔の人にとっては、いろいろなことを考えざるをえなくなるような極めて異常な出来事だったのだろう。
 それは日本ばかりではなく、ヨーロッパでも同じで、カソリック教会ではゴッシクの高い塔への落雷は神の戒めと考えられていたそうである。だから、フランクリンが雷は空中の電気放電であると発見したことは世界観全体の変化にかかわっていたのだともいう。
 さて、話を古代の東国に戻そう。奈良時代の後期、常陸・武蔵などの東国でしばしば「神火」によって役所の正倉が焼けるという事件が発生した。たとえば常陸国の新治郡衙が焼けたという事件はよく知られている。その相当部分は実際には放火だったらしいが、神火という以上、それは雷神の仕業であると考えられていたようである。その事情が詳しくわかるのは、武蔵国の入間郡の郡衙の正倉の「神火」で、それは「郡家の内外にあるところの雷神」によるものであったという。
 「内外にあるところの雷神」というのだから、この雷神は一つではなかった。むしろ、地域社会には、最初にふれたヌカビメの息子の雷神の神社のような神社が相当数あったことを想像できるのではないだろうか。そしてその神体は落雷によって異様な形になった巨木であり、しばしば「カントキの木」といわれていた。
 Dscn2403 追記、まだ総武線の中。PCの中のテキストの改行部分がうまくいっておらず壊れているので、なおしながら読んでいた。ここに「カントキの木」がでてくるのをみたので、昨年、奈良女の小路田先生に案内してもらって御参りした生駒神社のカントキの木の写真を載せておく。

⑤常陸国の悪党と「女取」
 私の亡父は土浦の出身である。これも死んでしまった母が、よく話していたのでは、知り合った頃の父は、よく、「自分の祖先は紀州の九鬼の海賊で、黒潮にのって銚子に上陸し、霞ケ浦を荒らし回った」といっていたということである。私の知っている父は温和でむしろ文弱な方だったが、親戚によると若い頃はいたずら好きだったというから、恋人にそういう冗談をいっていたというのはありそうな話である。
 ただ、小さい頃に私を怒って部屋の向こうまで投げ飛ばしたことがあるというから、私と同じように根は短気なところがあったのかも知れないと思う。土浦の保立の家が九鬼海賊の流れであるというのは、伯父に聞いてもまったくの嘘らしいが、ただ、歴史の勉強をするようになって、笑ってしまったのは、鹿島神宮の社家の塙氏のもっている室町時代頃の文書の中に、「悪党帆立」という一節を発見した時である。保立という名字は珍しい方だが、今でも銚子には保立姓の人が多いというから、本来、黒潮に乗って活動していたというのは、まんざらの嘘ではないのかも知れないなどと思ったものである。
 ここで紹介するのは、鎌倉新仏教の内でも最大の宗派であった時宗の祖・一遍の行状を描いた『一遍聖絵』という有名な絵巻物に現れる、常陸国の「悪党」が「女取」をしようとしたという話である。悪党というのは、中世では、しばしば統制外の行動をする武士領主・地方有力者のことをいい、必ずしも犯罪者という意味ではない。また「女取」というのは、「辻取」ともいい、街道などであった女性を捕まえることだが、これもまったくの犯罪というのではなく、中世ではしばしば行われていた求婚方法の一つということもでき
るようである。
 たとえば、『古活字本、平治物語』には、源義経・牛若丸が平泉へ下る途中で伊豆国に流されていた頼朝に面会した時、頼朝が平泉藤原秀衡の郎等、信夫小大夫を紹介したという話がある。もちろん、牛若丸が奥州へ下るときに頼朝にあったという事実はないから、この話を信じることはできないが、興味深いのは、信夫小大夫の妻は源氏の家人の上野国大窪太郎の娘であって、若い頃、彼女は熊野詣の際に頼朝・義経兄弟の父の源義朝に見参し、義朝の死後、平氏を恐れて奥州へくだる途中、街道で信夫小大夫に「女取」されて、
その妻になったとされていることである。
 「道にてゆきあい、よこ取りして、二人の子をまふけたり、今も後家分を得て、ともしからであんなる」。つまり彼女は子どもも設けて、夫の死後も財産を与えられて豊かな生活をしていたというから、女取をただの路上強姦ということはできないのである。
 もちろん、『一遍聖絵』の場合、悪党が女取しようとした女性は、一遍に従って諸国を行脚していた尼であったから、これは明らかな犯罪行為であった。そのため、悪党の夢に念仏の行者が現れて杖で突き、悪党は「中風」を病んで起き上がれなくなってしまったという。心配した親が一遍上人のところへやってきて「助けさせ給へ」と訴え、その懇請に負けた一遍が、仕方なくその家を訪れたとたんに、男の病気はぬぐうように消えたという。
 このような奇跡が実際に起きたのかどうかは別として、この話自身は別に嘘という訳ではなく、時宗の教団で受け継がれてきた話であっただろう。時宗は踊り念仏で有名だが、僧も尼も、つまり男も女も一緒になって全国を遊行したことでも注目される教団で、そこには仏の前では男も女もないという一種の男女平等思想の萌芽が想定できるのである。そしてそうであればそうであるだけ、逆に教団内部の男女関係は大きな問題だったようで、その関係もあって、この話が記憶されたのだろうと思う。
 「女取」でもっとも有名なのは、中世末期に流行した「物ぐさ太郎」の説話で、京都に上った太郎が、「辻捕とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるをとる事、天下の御ゆるしにて有なり」と教えられて、挿し絵が示すように、京都の清水の辻で仁王立ちになって女取に及んだという話である。これは、不用心な姿で繁華街を歩く妙齢の女性はガールハントの対象になって当然であるという、なかば冗談のようにして語られた男本位の調子のいい論理に過ぎない。しかし、まだ社会に未開の様相が残っていた『一遍聖絵』の時代、鎌倉時代の常陸国で、地域の有力者の息子に挑まれた尼にとっては話は冗談ではないということだったに違いないと思う。
⑥常陸国の地主・領主と『一遍聖絵』
 図に掲げたのは、『一遍聖絵』に描かれた鎌倉時代頃の常陸国の大地主・領主の家である。茨木県の小・中学校では、この絵を歴史の授業で利用しているだろうか。
 自分の子どもをみていても、この頃の子どもはテレビやマンガなどで知っている気になっていることが多く、しかも、実際には土を知らず、農村をしらないから、歴史の授業はたいへんだと思う。授業が子どもの興味をひくための工夫だけで組み立てられることは、良いこととばかりはいえないだろうが、しかし、このままでは子どもたちが日本と地域の現実の生活から放れっぱなしになるのではないかというのは心配なところである。
 こういう状態をどうにかするためには、まずは近現代の歴史を事実にそくして伝えることが必要だし、最近のアジアの人々の日本に対する批判を聞いていると、それは歴史学にとって社会的な責務であるとも思えてくる。けれども、子どもに歴史を伝える上で何よりも最初にやるべきことは、まずは地域の身近な歴史を伝えることだろう。そして、そのための努力をするには、現在は、すでに若干手遅れという時期になっているのではないか。たとえば、私の伯父の書いた『水郷つちうら回想』(保立俊一、筑波書林)などを読んで、高度政庁以前の風俗がどしどし消えていっているのを知ると、そういう暗い気持ちになる。
 しかし、遅すぎてもやるべきことはやらねばならない。そして歴史学者は100年先に研究してもわかるようなことを研究するのはやめて、ともかく今の今、地域の歴史を伝えるために必要な仕事をしなければならないと思うのである。
 そういう意味で、この『一遍聖絵』の絵は利用できるように思う。本当はカラーでみていただくと、もっとよくわかるのだが、屋根にうっすらと雪が積もっていることから、季節は冬。残念ながら、常陸国の何処なのかはわからない。注目していただきたいのは、家の裏手に積まれた四つの丸い稲束の山である。これはいわゆる稲堆(イナツカ、イナニオ)で、戦前生まれの人にならば説明する必要もないことであるが、干しあげた稲を円形に積み上げて、その上を藁でふき、食料や種子料として貯蓄したものである。
 平安・鎌倉時代の地主は、こうして蓄えておいた稲束を、まずは、春になってから、自分の「佃」(直営田)の経営のための種子料として使用した。そして種子の用意のない農民には束のままで貸し付け秋に回収していた。ただで与えることもあったが、その場合は、ただほど高いものはないという訳で、その代わりに地主の家の田圃の耕作の賦役に動員する「たづく」という慣習もあった。もちろん、貸し付ける場合も、一束は十把の稲からなっているが、三把くらいの利は普通だったから、相当な高利である(なお、この「把の利」から、打率三割などという時の「割」という言葉が生まれたことは子どもたちに教えておいてもよいと思う)
 その上に、年貢を取ることはいうまでもない。しかも、収穫の時になって、稲を返させる時や年貢として取る時には、稲束を「秤」ではかって取ったことも重要で、「懸け稲のはかりの石の重くとも、今年は民の憂いあらじな」などという和歌は、年によっては、稲をはかる稲秤の石を重くして、余分の年貢を取ろうとしたことを示している。
 平安時代半ば以降、だいたい戦前まで、つまり約八〇〇年間にわたって、このような地主や領主への年貢の供出は普通のことであり、珍しいことではなかった。それが社会のシステムの根本にあったことはいうまでもない。しかし、今の子どもたちは、それがどういうことなのか、十分に説明しないとわからないだろう。説明してもわからないかもしれない。そういう子どもたちに話しをするための切っ掛けとして、しかも常陸国の子どもたちのために、この絵が十分に利用できることは御理解いただけるだろうか。地域に中世の領主の館跡があれば、それとあわせて説明すればもっとよいと思う。
 以上は、あくまでも一つの例にしか過ぎないが、私は、各地でこういう議論を歴史の学者と教師の間でしていく必要があると思う。何といっても地域の歴史をよく知っているのは教師や郷土史家だから、両者が上手く協力を続けて十年経てば、子どもたちが地域の歴史を身近に感じるようになるのに少しでも役に立つことは明らかだろう。
 そのためには、学者の側の研究も変わっていかねばならない。実は、ここで『一遍聖絵』の絵について説明したことは当たり前のことのようだが、普通の史料・古文書では、鎌倉時代の地主がこれだけの稲束を、こういう形で貯蓄していたことはわからないのである。子どもにもわかる史料と説明をたくわえていくこと、それは歴史学者にとっては、もっとも難しい仕事の一つなのである。

2011年1月27日 (木)

草の実会、YS先生、平塚らいてう、かぐや姫、原始、女性は月神であった。

 今日は自宅で仕事。明日、大坂の民博で人間文化研究情報資源と知識ベース」という人間文化研究機構主催の研究会があり、そこでの報告を、さっき、つまり本日正午までに送付せねばならず、職場にでている余裕なく、朝早くからパワーポイント書き。
 締め切りは先週だったが、遅れていた。今日正午まで締め切りを延ばしてもらっていたので、必至である。11時30分にパワーポイントを送って、どうにかセーフ。「疲労困憊、思いを明日日帰りの新幹線のビールに馳す」というところである。しかし、今から、原稿化とパワーポイントの再整理をせねばならず、夜まで一日消える。
 慌ただしい日は慌ただしいもので、朝、出身の高校の後輩のお母さん、Nさんから電話。その後輩と共通する高校時代の恩師、小説家の右遠俊郎先生の容態が、二・三年前から良くなく、その関係で何度か連絡をとったので、右遠先生のことかと緊張する。しかし、Nさんの相談は、ご自身が参加されていた「草の実会」の会誌の復刻版の話。復刻版が完成したが、しかるべき歴史の研究機関で、段ボール三箱分ほどの復刻版の寄贈をうけるところがないかという御相談。歴史の研究材料として生かし、永久保存してほしいということ。
 草の実会という名前で相方が反応し、それは朝日新聞の投書欄からはじまった戦後の市民的な女性のサークルのことで、杉並を中心に原水爆禁止運動や、後には60年安保の時の「声なき声の会」につながっていった動きのことだと教えられる。私たちもよく知っている杉並の家永訴訟の主婦の会の人たちとも関係があったはず。私は、そこにNさんが関わられていたとは知らなかった。そうすると共通の知人があったに違いない。スモールワールド現象という訳だ。
 Nさんには、国立の近現代の歴史の研究機関が存在しないこと、アーカイヴズが存在しないこととの関係でなかなかむずかしいのではないかと思うと申し上げる。日本国家の中枢に存在する健忘症症候群、あるいは過去忘却願望の話になる。高校時代以来、もう40年以上。5年、10年、15年に一度ほど御会いしたり、電話で話したことがあったかという御つき合いのNさんと、過去忘却症候群について話すというのは、考えてみれば不思議なこと。個人は個人の過去は忘れられないものである。
 戦後史には登場する組織の一つ。大事なことなので、大学院時代の恩師の御一人、女性史のYS先生に久しぶりに電話して御意見をお聞きすると、「保立さんね。そういう記録が沢山でているけれども、どこも寄贈を受け付けない。本当にむずかしいのよ」といわれる。先生の声音には「あなたは昔から夢見がちだったからわからないかもしれないけど、本当に難しいのよ」という感じがただよう。
 先生のお宅の近くの図書館が『日本歴史』(歴史学の学術雑誌)を一年で断裁してしまい、過去のものが読めないということがわかり、強くいって、一定期間は倉庫に保存するようにもっていけたが、どこもそういう状態だ。昔と違って、学術書の蒐書が貧困化し、入架を要請しても対応ははかばかしくない。さらに相当の貴重書を寄贈しようとしても、あまりよい顔をせず、「処分してもかまいません」という一筆を要請される。本当にどうしようもない。釈迦に説法だろうが、ここ10年の「新自由主義改革」のせいよといわれる。
 けっして釈迦に説法ではありませんと申し上げる。歴史の学術雑誌の図書館による断裁というのは初めて聞いたことで驚くべきことである。それから先生は平塚らいてうのアーカイヴの整理をされているが、その苦労話もうかがう。
らいてうの自伝は、昨年、『かぐや姫と王権神話』を書く時に読んで感動したので、他人事ではない。
 この本では、かぐや姫を月の女神と論定した。『竹取物語』のタイムスケジュール、「かぐや姫年表」を作成した結果によると、天皇によるかぐや姫の呼び出しが秋十月になる。これは新嘗祭の五節舞姫としての呼び出しを意味するはずであり、五節舞姫は月の女神の従者という位置づけであるという形で論じたもの。その部分を引用すると、

 日本における冬至の祭は新嘗祭である。この新嘗祭の後の豊明節会で天女、月の仙女の格好をして舞った舞姫たちが、しばしば天皇と共寝したことも同じことであろう。そこに、中国と同様、月の力によって太陽の力を復活するという考え方が潜んでいたことを示唆するのは、最初の人臣摂政として有名な藤原基経が、清和天皇の大嘗祭の五節舞姫に出仕した妹の高子についてみた夢である。彼女は、五節舞姫として出仕した後、若干の事情はあったが、結局、清和のキサキとして陽成天皇を産んでいる。その夢というのは、高子が庭にはだかで仰向になって、大きく膨らんだおなかお腹を抱えて苦しんでいたところ(「庭中に露臥して、腹の脹満に苦しむ」)、腹部がつぶれて、その「気」が天に届いて「日」となったという生々しいものである(『三代実録』)。それは高子が清和のところに参上する前のことであるから、ちょうど大嘗祭の五節舞姫となった前後のことであったろう。つまり五節舞姫=月の仙女が、地上で裸体となって新しい太陽を産んだという訳である。

 というもの。本来、原稿では、その後に次の文章が続いていた。

 

 「元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く」とは、平塚らいてうの起草した『青鞜』発刊の辞、冒頭の有名な一節である。しかし、考えてみると、月が「他の光」、つまり太陽の光をうけて輝くというのは近代の天動説にもとづく知識である。それ故に、平塚らいてうの真意を受けとめた上で、高子の横臥の姿から、さらにトヨウケ姫ーワカウカ姫ーイザナミとさかのぼっていくと、東アジアにおける日月の観念としては、むしろ「元始、女性は月であった。しかし、太陽を産む月であった」というのが正しいように思われてくるのである。

 これを書くのに、らいてうの自伝3冊を読んだ。第一冊目だけは、以前、読んでいたが、全冊を読むのは初めてであった。『かぐや姫と王権神話』は、難しくなってしまったが、本来、高校生に読ませたい。歴史の細部に興味をもってほしい。らいてうを身近に感じて欲しいなどということを考えたので、上記の文章を作ったが、新書版のぺージ数の制約があって、削除したのは残念だった。
 歴史文化の見直しというのは、過去から近代まで連鎖反応のようにして、さまざまな見直しと再評価を必要とするものだと思う。そのようにして文化は豊かになっていくはずであるが、しかし、らいてうの遺品のなかのアーカイヴが尊重されないような社会というのは何という社会であろう。
 
 週末にはNさんに電話して意見を御伝えすることになっているが、難しい問題だということを御伝えするだけになりそうで、憂鬱である。

2011年1月26日 (水)

中国の歴史資料と清華大学の劉暁峰先生

 昨日は中国の御客様を中心に、史料保存に関する研究集会。懇親会に出て、本当に久しぶりに気持ちよく飲み、夜、遅く帰宅。先輩のFH氏の『かぐや姫と王権神話』についての礼状が届いていて、目がさめた。「目くるめく内容。歴史学の面白さを堪能」という過分のもの。彼はいつも過分の表現で礼状をくれるが、御元気そうでほっとする。礼状にも昨年の夏ばてから回復とある。今年の年賀状でも、何人かに、もう先輩といえる人、あるいは先生といえる人は少なくなってきているので本当にお元気でという文章を何人かに書いたことを思い出す。
 集会の方は、これも本当に久しぶりに中国清華大学の劉暁峰先生にお会いする。もう10年になるのではないだろうか。来られた時に、根津美術館で南宋絵画の展覧会をやっていたので、そこに案内し、美術館の庭で長く話して以来だと思う。あの南宋絵画の展覧会は画期的なもので、図録を買ったのだが、その後、ベルギーの日本学の先生に差し上げてしまい、補充する積もりがそのままになっている。
 報告を終えた劉先生が、本当に久しぶりと寄ってきてくれて、ようやく顔を思い出す。それにしても、二人ながら、あの頃はまだ若かった。先生は、大江健三郎氏の小説の翻訳者としても知られる方。加藤さんの文章だったか、大江さんの文章で、加藤周一氏の北京での講演を組織した中国の日本学研究者の話は読んだが、それが劉先生のことだとは知らなかった。
 先生は平安時代の年中行事が御専門。ただ、日本学全体を研究していて、いま、1945年から1955年の日本の研究をしていると。そのころの日本の変革とエネルギーから学ぶものがあるというお話であった。
 懇親会で話し込むと、私が、根津美術館の庭で、敗戦後、8月15日過ぎから、霞ヶ関は書類を燃やす煙でぼうぼうであったという話しをしたことが、興味をもつ一つのきっかけであったとおっしゃる。それはたしか荒井信一さんからきいた話だが、その記録はいまどうなっているのだろうか。土浦の伯父からは、土浦の航空隊で、やはり同じ時期、大量の書類をもやしたという話しをきいたことがある。伯父にとっては痛切な記憶。史料保存の研究集会の懇親会で、史料を燃した話をするというのも奇妙な話。
 報告は劉先生、山東建築大学の姜波先生。旧村の併合や旧住宅の立て替え、そして中国社会の「現代化」の中で、歴史史料が隠滅の記紀にある。その蒐集・保存・整理・研究が歴史学者としての最大の課題であるという御話に共感。日本でもそうだが、建築学・建築史の方々とは歴史学は話しがあう。しかし、それにしても本当にたいへんそうであった。劉先生が「東アジアで共有すべき文化財」といわれたのは本当に大きな意味があると思う。
 日本からは国文学研究資料館の青木先生から、日本における、それこそ戦後、1940年代末から50年代の史料保存の学界をあげた動きについての説明。ぴったりの応答であり、中国の先生方も学ぶところが多いと感想。そして史料編纂所からは和紙研究の中心になっている高島修復室主任からの話。これもたいへん好評で中国の先生方にはきわめて印象が強かったようであった。
 経済学部の中国史研究者でアーカイヴ学についても詳しい小島浩之先生の中国史料についての日本の中国史学界の蓄積について話は明解。中国の先生がたも、日本の古文書学、史料論を学びたいと強くおっしゃっていた。私は、有名な『文字の文化史』をかいた藤枝晃が、実は、顕微鏡による料紙観察をその当時から重視されていたという話が衝撃的。この『文字の文化史』は「居延漢簡」についての授業で、佐藤進一先生が必読文献として指示されたもの。そこには顕微鏡のことは書いてなかったから、小島さんの話は衝撃的。さすがに先駆者は違うということであろう。
 シンポジウムの後、史料編纂所の見学をしてもらう。意外な人数になり、図書部には迷惑をかけた。
 シンポジウムの正式名称は「中国民間古文書の整理・保存・利用の研究に関するワークショップ」。司会は、湯山奈良博館長で、彼とも久しぶり。『かぐや姫』の神道論は、彼に読んでもらうことが一つの目的であったので、感想を聞く。
 トヨタ財団の助成企画で、経済学部の小島ホールで開催。トヨタ財団の貢献も大きいようであった。
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2011年1月11日 (火)

西行と頼朝ーーさやの中山から、

 やっと義経論の前半が終わってほっとしている。いま、連休の翌日の夕方。総武線の中。計画としては、これで平安後期の政治史研究は終わりにする積もり。
 私は本来は経済史なので、こんな仕事をやることになるとは考えていなかった。こういう仕事をやることになった事情を『義経の登場』のあとがきに、西行の「としたけて、またこゆべしと思ひきや、命なりけりーー」の和歌を引用して、次のように書いた。

 さて、例によって長くなったあとがきをそろそろ終えるが、小夜の中山は、私が大学院時代に指導をうけた戸田芳実氏が、結婚したての妻と私をさそって一緒に歩いてくれた峠である。峠の上をまっすぐに続く平坦な道と掛川の側の日坂に降りるときの急坂の記憶は忘れることができない。そして、掛川の先の磐田市は、石井進氏・網野善彦氏・峰岸純夫氏をかついで保存運動に参加した一ノ谷墓地遺跡のある町であり、考古学関係者との相談や市民集会出席のために、何度も何度も通って、その地理をもっともよく知っている町の一つである。この経験をいまでもしばしば思い起こすのは、それが私にとって一つの研究の曲がり角の時期と一致していたからである。私は、この遺跡の保存問題に関わる中で、それまで平安時代を中心にした経済史・社会史の研究に限られていた自分の研究視野を鎌倉時代にまで引き延ばさざるをえなかった。この遺跡の所在する見付は、遠江国の国衙が置かれた地であり、代々遠江国の守護をつとめたのは北条氏の一流、大仏氏である。それ故に、この遺跡のことを考えるためには、当然に、鎌倉幕府関係史料を読み込むことが必要となった。こうして、私は、この遺跡の保存問題に関わる中で、鎌倉時代の国家論・政治史に関わる史料をほぼ始めて勉強することになった。その中で学んだものは大きく、その経験は、研究者としての私の再出発点となったともいえると思う。
 この保存運動は十分な実を結ばずにおわったが、遠江考古学研究会を中心とする考古学研究者の努力によって、遺跡の破壊された後も、毎年、一ノ谷遺跡の学問的意義を再考するための連続的なシンポジウムが開催された。その中で、私は、論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」を執筆し、それを起点として平安時代政治史の研究にさかのぼると同時に、義経論に興味を持ちはじめた。磐田での研究集会に出席した後、石井・網野両氏と一緒の新幹線で帰った時、調べだした義経の話をして、網野さんが「政治史が変わるね」といってくれたのに、石井さんが「そうかなあ」とおっしゃったのをよくおぼえている。石井進・網野善彦の両氏は、最近、相次いで死去されてしまったが、御二人からはいろいろなことをおそわった。遺跡が破壊される中で、運動の中心となった山村宏氏も死去してしまい、石井氏も網野氏も死去してしまった今となっては、自己の非力の実感と役割を果たせていないという悔恨のみが残る。研究だけは蓄積してきたというのでは本当にどうしようもないが、御許しいただきたいと思う。

 書き上げた義経論の中には石井さんの仕事への批判が多い。けれどもあのとき、「そうかなあ」といってくれなかったら、本気ではやらなかった仕事かもしれない。記念に、右の馬鹿長い論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をWEBPAGEにあげておいた。そういえば、これの書き直しもしなければならない。
 さて、今回の義経論には頼朝論も入った。義経論をなぜ始めたかといえば、私は頼朝が大嫌いで、これを叩きたいというのが、実は先行していた。「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」にも頼朝はマザコンだとか書いている。
 かって論じたように、現行の歴史教科書を読んでいる子どもたちは、頼朝は偉い人だったと思って何の疑問をもっていないのではないだろうか。これは「歴史を通して社会を見つめる」(東京大学出版会、『共生する社会』、『シリーズ学びと文化(4)』一九九五)という文章で考えたことだが、最近、さらに気になるようになった。
 頼朝については、地方武士の期待をうけて全国を統一し,「簡素」な幕府機構を創設したというようなことが書いてあって、その上に御家人が心服していたとか、平氏とは違って朝廷での地位は望まなかったとか書いてあるのだから自然にそう思うだろう。
 しかし、このような「頼朝びいき」は、だいたい一九六〇年代以降の傾向、つまりここ五〇年ほどの傾向だろうと思う。まず、戦前,皇国史観が猛威をふるう中では、頼朝には皇権の簒奪者という印象がつきまとい、おおっぴらに誉め上げるのははばかられる場合があった。また「判官びいき」の心情は、ある意味では皇国史観よりも国民の中に根深く浸透していた。そこでは頼朝というのは、ようするに「陰険な陰謀家」であったと思う。
 私は一九四八年の生まれだが、義経の物語を祖父から聞いた記憶がある。また泥絵のような絵本で、頼朝が娘・大姫の婿として招いた木曽義仲の息子・義高を殺したという話を読んだ記憶がある。その頼朝イメージはまさに「陰険」そのものであった。私は、こういうイメージが正しいと思う。『曾我物語』を読んでいると、頼朝への怨念は、社会の基礎には鎌倉時代から強いと思う。
 このような状況が変化したのは、まず「判官びいき」の基盤をなしていた戦前以来の大衆文化,歌舞伎や歴史読み物が、歴史文化の中で地位を低下させたためである。あげつらうようで恐縮だが、たとえば、永原慶二さんが頼朝について「理非曲直を正すことに公平で,院や天皇の権威も憚らない新しい価値観政道思想」をもって「歴史の変革者」の道を歩んだとまで述べているように、そこでは、戦後の歴史学も大きな役割を果たしてしまった(『源頼朝』)。
 私は、日本の歴史文化というレベルで考えると、こういう状況それ自体をくつがえしていくべきではないかと思う。もちろん、昔のような「判官びいき」を復活しようというのではない。義経も徒手空拳の若者というイメージとは異なって、王権と後宮世界、貴族世界に意外と近い素性をもち内乱の時代の軍事貴族のエリートである。相当の策略も弄し、さらに政治や行政の面でも有能なエリートとしての顔をもっている。「兄も兄なら、弟も弟」。所詮、この兄弟は「悪縁の家族」であるといわざるをえないのである。
 「悪縁の家族」。これこそ、平安時代から鎌倉時代にかけて、国家の中での軍事力の位置が大きくなったということの結果なのだろうと思うのである。ようするに頼朝の陰険さや悪行というものを歴史的にとらえ直していく作業が必要なのではないかということだが、あらためて考えてみれば、平安時代の半ば過ぎまでは、日本列島は「文明化」は遅れていたものの、地方社会をふくめていわば相対的な「平和」と「富」にめぐまれていた。しかし、平安時代の後半、国家中枢に爛熟と頽廃と暴力が巣くいはじめる。
 そして、院政期の国家から武臣国家の時期、つまりだいたい一二世紀から一三世紀は、王家や公家貴族・武家貴族のすべての家の内部、および相互において、頽廃的で残虐、裏切りにみちた争いが繰り返されることになった。その異様さは際立っており、この時代は、日本史上でもきわめて特異な時代であったということができる。
 かっては、この時代において、未開の素朴な力、「野蛮」が、頽廃した都市の支配をくつがえし、「封建制」の時代、「地方の時代」が作られたという見方が一般的であった。しかし、これはもはや通用しない見方である。むしろこの時代は国家中枢の爛熟と頽廃の中で、国家社会の全体が軍事化し、暴力化していった時代と考えるほかない。私は、こういうストレートな言い方が、あまり歓迎されないことは知っているが、この時代の「野蛮」ともみえるような惨酷な争いは、腐敗した国家が上から軍事化していく中で生まれたことであったと考える。その意味でも封建制の形成というのは駄目で、これはむしろ東アジア的な王朝の頽廃、内紛、軍事紛争という類型が、列島社会でも始まったといっていいようなことだと、思う。石母田さんがいっているように、頼朝の勤皇イデオロギーはうさんくさいものがあるが、しかし、結局、その意味は大きかった。入間田さんの言い方では、「東アジア辺境の野蛮な風景」ということになるが、私は「野蛮」の意味を、こう考える。
 そもそも、頼朝ー頼家ー実朝の時期の「鎌倉幕府」なるものは、実際には、組織の体をなさないような、内部での激しい叩き合い、殺し合いに終止していた。それを詳細に追跡してみると、「武士道」「忠義」「質実剛健」「御恩ー奉公」などという言葉は、冗談か、あるいは現実のあまりの醜悪さを隠すためのものに過ぎないのではないかと思わせるのである。
 この時代の救いは、都鄙を往反する女性だと思う。たとえば頼朝の乳母たちは、全員、京都に出ていたはずだ。しかも、彼らは地域の出身で京都へ出ていたはずだ。そういう活動をした女性は多い。『義経の登場』で注目した資隆入道の母も老女の身で、平泉まででかけた。
 そしてもう一つの救いは宗教者。やはり重源。そして、西行。西行は頼朝との出逢いがあるが、頼朝とはつき合わないよという姿勢が明瞭だと思う。そして、「資隆入道の母」は、法然がらみのように思う。

2010年12月14日 (火)

石田衣良の小説と思い出

101214_132422  石田衣良の小説『非正規レジスタンス』を読んだ。
  率直にいってやや安易といわざるをえないプロット。文章も荒れている。消耗品としての小説である。それにふさわしい小説作法で書いているのもミエミエである。しかも、主人公がライターで、その関係でライターなるものについての風俗的省察のようなものが書かれているのもあまり愉快な感じはあたえない。
 けれどもだからこそ、疲れた時などには読ませる力をもっている。自己の内面の荒さにちょうどよい荒さをもった文章、あるいは小説。疲労を疲労として受けとめるための肌合いをあたえてくれるという訳だ。プロットが安っぽいのも、それに適合していて気を楽にしてくれる。これをもっと意識的にやれればたいしたものだ。そして一つ一つの短編の長さが丁度よい。全体を通したテーマは「透明な家族・透明な人間」。巻頭を引用する。

「この世界には見えない家族っているよな。壊れてしまったせいで、まるで汚物のようにディスプレイから隠されてしまう家族の話だ。そこにいるのに誰も気づかず、いくら悲鳴をあげても誰もきいてくれない。苦しみや貧しさはすべて家族の内側に押しつけられて、外に漏れだすこともない。そして、いつのまにか汚れた春の雪のように世の中から消えていくのだ(この部分、原文は、「いつのまにか春の雪のようにきれいさっぱりと世の中から消えていくのだ」。趣味の問題だが、「春の雪のようにきれい」という文節が入るのは違和感。ともかく書き飛ばしているとしか思えない)。ばらばらに空中分解するか、立ち腐れたまま溶けていく無数の家族」。

 こういう家族の運命というのは、現代社会では、誰の家族の運命にもなりうる。家族の内部を腐らせることによって社会を正規化するというのは資本主義社会に特有のシステムである。労働力の平準化と諦めの心理を人々の内面から作り出していくということが、家族の再生産機能の中に密接に組み込まれている。社会の表皮は、そのような家族を透明にしてみえなくさせるようにその清潔機能をフル回転させている。情報化社会なるもののもっとも大きな問題は、デジタル情報が、家族内部に直接に社会が現象するための手段をあたえたということだろう。人と文化を通じて社会が入ってくるのではなく、直接に社会が現象する。その力たるやすさまじい。
 しかし、そのすさまじさは現実社会のすさまじさの反映であることはいうまでもなく、石田の小説は、そのすさまじさを切り取ることに成功している。
 表題作の「非正規レジスタンス」は、ベターデイズという派遣請負の「大企業」に対して、モエという女性が代表をつとめるフリーターズ・ユニオンが、労働法違反を摘発するという筋。それに主人公の果物屋の息子兼ライターというトラブル処理相談を趣味にする男がいやいやながら協力しているうちに引き込まれるという話。なにしろこのモエという女性が、実は、ベターデイズ社長令嬢であったという安易プロットである。その上、男親をやっつけて、死んだ母親が、この企業に懸けた善意を思い起こさ、社長を会長に引退させ、自分が取締役となるという勧善懲悪話である。こういう水戸黄門的な筋書きでも、ともかく「正義感」がベースに座っているのがよいということではある。
 なお、「よりよい日」ではなく「善き意思」という派遣業社があったことは、いまは忘れられているだろうか。この名前は私には忘れられない事情があるが、それはおいておくとして、次のところを読んだら鮮烈なイメージがやってきた。

 冬の朝6時は、夜明けまえだった。真っ暗ではないけれど、朝焼けも始まっていない青い時間である。池袋のマルイから芸術劇場にかけて、たくさんのガキが白い息を吐いてたむろしていた。劇場通りにはミニバンとマイクロバスがびっしりとならんでいる。おれの住んでる街でこんな景色を見たのは生まれて初めてだった。池袋駅の西口は日雇い派遣の有名な集合地点だったのだ。

 これを読んで思い出したのは、大学院時代のアルバイトの風景。私の場合は、日暮里駅の南口だったと思う。早朝、そこにいって、ミニバンに詰め込まれ、いくつかの働き場所にいった。いまでもよく憶えているのは、高島平にあった倉庫。いま、時々、職場から神保町に出る時などに使う三田線に乗ると、終点の高島平という表示を見て、いつも思い出す。
 この倉庫はアイスクリームの物流の一中心であったらしい。巨大な倉庫の中には、耐寒服をきて、グローブをして入り、アイスクリーム・氷菓の入った段ボールの積み替え作業である。冬でも、外にでてくるとほっとした。帰りはどう帰ったのかは憶えていない。郊外の荒れた町並みしか憶えていない。
自分がまったくの肉体労働力であり、そのようなものとして扱われている。そのような「労働」によってしか生活ができないということ、そういう境遇であるということを当然のごとく自覚したということだろうか。
 悲しかったのは、アイスクリーム段ボール箱の積み方で、紛議があったこと。おそらく私よりは恒常的に長く、その倉庫で積み替えをやっていた私よりも年長の男の人は、たしか互い違いに段ボール箱を積んでいた。身体も強そうでしゃっきりした感じの人だったから、彼を中心になんとなく集団ができていた。ところが、ある時、もっと「上」の別の男がきて、そんな必要はないといって、ただただ平に積んでいった。どちらにどのような必要があったのかは憶えていないし、はっきりはしないことなのだろうが、これは、段ボールの積み方という小さなことでも、自分のやり方でできないということを露骨にみせられた。


 石田衣良の小説でも、ミニバンに乗せられていった先は、やはり倉庫で段ボールの積み替えが仕事である。これはようするに、同じことだ。しかし、派遣労働は、私の大学院時代には非合法面が強く、日暮里駅でもいかにもこそこそという感じで、人買いの車に乗せられた。いまでは堂々とやっているという訳だ。石田の小説を読んで、「派遣」とはそういうことなのだ、あの労働が合法化し、全面化しているということなのだという実感のイメージ。
 そして、この種の労働にはいまではアドホックな集団もできないという訳だ。いま、東京近郊のどの街でも、早朝の駅は、寝場所を確保できなかった人々が、若い人、中年の人、「透明人間」が、あの通路、この通路を歩いている風景がある。こういう風景をみるためだけでも、六時前に駅にいったら、周辺を歩いてみるとよいと思う。何という社会だという単純な怒り。石田の小説は、この怒りを呼ぶ力はもっている。