著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

カテゴリー「歴史教育」の38件の記事

2017年10月24日 (火)

日本史の時代名と時代区分(再論)

日本史の時代名と時代区分(再論)

 歴史科学協議会編の『歴史学が挑んだ課題』(大月書店)に「前近代日本の国家と天皇」という論文を書いて以降、日本史の時代名、つまり「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名がおかしいという感じがきえない。

 これらの言葉を見るたびに違和感である。だいたい、時代名の付け方が、時代名を作ってきた成り行きまかせで恣意的すぎる。下手に専門知識のある人は、そんなことにこだわってもしょうがない。もっと細かいこと、高級なことに興味があるのだなどという気分の人もいるだろう。所詮、時代名などというのは符丁であって議論してもしょうがないなどというのっては、話はすべて無駄。

 これらのうち、おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を、右の論文で提案した。

 提案した時代名の性格は、大きく二つに分かれる。つまり前の方から言えば、「古墳時代、大和時代、山城時代」は西国国家の時代である。この時代、日本には国家は九州から近畿地方、つまり西国を中心とする国家が一つしかなかった。あず古墳時代からいけば、私は、古墳=壺型墳説にたっているので、王の魂は壺口から天に飛翔すると考えている。それにからまる神話を「前方後円墳」は表現しているのだ。前方後円墳は東北中部まで分布しているが、これは当時、神話が各地で共有されていたことを示している。この時代の国家なので、「古墳時代」でよいと思う。

 しかし、その後の「大和時代、山城時代」の二つは、西国国家の中心地域で表現するのがよい。西国国家の王都がある場所を時代名としたい。これは大王・天皇中心の国家である。王家が日本の文明化を大きく進めたことは疑いがない。そして、この時代は地方にとっては総体的に自由でいい時代であったと思う。

 山城時代(あるいは山城京時代)というのは評判が悪いが、しかし、こうすれば、長岡京以降をすべて同じ時代にできる。これはいつ奈良時代が終わるのかということがわかりにくいが、これは分かりやすい。また私は、石井進説をとって、院政時代は承久の乱(正確には後鳥羽クーデター)まで続いていると思う。たしかに、源平合戦の中で東国国家が成立するが、それが名実ともに明瞭となるのは、北条氏が後鳥羽クーデターを粉砕した後だ。その前は清盛も頼朝も性格としては変わりない。二人を基本的に区別しない。どちらも相当な「ワル」であって同じ穴のムジナというのは、研究を始めたとき以来の信念である。

 それ以降は武家国家の時代になる。これは覇権を握った武家の氏族名、つまり北条・足利・織豊で行くのがよい。もちろん、だからといって王権がすべて覇王家に移るわけではない。旧王家は長く残った。これは結局、長い西国国家の伝統に左右された事態だと思う。ともかく「鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」というのは基本的には地名主義だが、その基準は不明で恣意的すぎる。

 一つ一つ「結鎮」(けち)をつけると、まず「飛鳥時代、奈良時代」というのは、きわめて困る、理解しにくい時代名で研究者ごとに定義は違うだろう。これは欽明大王の時期に王家の血統の世襲性が明瞭になり、大和に拠点を移し、前方後円墳を作らなくなった六世紀半ばから後半以降を「大和時代」として、神話時代をおえた文明化の時代として一括するのがわかりやすい。

 次に平安時代というのはまったく無意味な言葉で、たしかに桓武が愛宕に遷都とした時の歌にあるが、これは桓武の夢におわり、すぐに激しい政争が展開し、地震と怨霊の時代にはいったことを無視する言葉だ。こういう言葉を使い続けるのは余計な言葉と偏った印象を子供にあたえる。歴史家はよく考えれば、誰でもそう考えるに違いないが、慣れというものは恐ろしい。馬鹿な言葉を歴史意識から追放するのは歴史家の役割である。

 鎌倉時代とか室町時代、あるいは江戸時代というのも地域からみれば、実に偏見に満ちた言葉だ。地名で時代を区切るのが、この時代に必要とはとても思えない。鎌倉と江戸を強調するのは、ようするに徳川将軍家から、明治国家が受け継いだ歴史イデオロギーである。これに封建制は東国からという明治の学者の考え方が化学反応してできた言葉で、現在では、これは野蛮な東京史観以外のなにものでもない。そして室町時代というのは、一種の京都史観であろうと思う。東京都と京都で時代名を2対1でわけて手打ちしましょうというようなことだ。

 井上章一氏から、こういう時代名は大阪無視ですよといわれた。これは正論だと思う。最近の大阪の政治はあまりに文化を無視しているが、これを取り戻すには、歴史観から変えていく必要があるのかもしれない。徳川・明治時代は大阪はもっとも文化の高い都市であった。

 さて、問題は、もちろん、こういう大ざっぱなことではなく、時代のより具体的なイメージをどう捉えるかということであり、それは、これらの時代の中での小区分をどうするかという問題に関わってくる。しかし、これについては、上記の論文を参照願いたいと思う。『歴史学が挑んだ課題』は専門的な歴史書にはめずらしく急速に売れているようで、三刷りになったという連絡が出版社からあった。私のものだけでなく、渡辺治氏の論文など、有益なものが多いので、ぜひ、お求めください。

2016年9月17日 (土)

日本史の時代名と時代区分

保立道久

 私は、3・11の後、地震史研究の必要を痛感し、急遽、8・9世紀の地震と火山噴火を調べ、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)という本を書いた。その中で、この時代の政治史には地震や噴火が深く影響しており、その意味でも「大地動乱の時代」といってよいことを確認した。

 そのなかで、いわゆる「薬子の変」についても言及したが、事件名は「平城上皇奈良復都事件」とした。「薬子の変」というのは「薬子=悪」という決めつけが目立ちすぎるし、「変」という言葉自体に「秩序=善」という価値観が含まれている。また、春名宏昭がいうように、この場合は上皇・平城に対して弟で王位を譲られた嵯峨が反逆し、いわば王自身がクーデターに踏み切ったという事件(春名『平城天皇』吉川弘文館)であるからさらに「変」という用語は使いにくいのである。

 もちろん、歴史教育の現場ではむずかしい問題が発生するだろう。たとえば私は春名の意見が正しいと思うが、普通は、クーデターを起こしたのは平城上皇の側であるとされる。また、本来、この事件の真相を伝えるためには相当の背景説明が必要である。つまり、桓武天皇は多数の男子のなかから平城・嵯峨・淳和の三人の男子を選び、彼らに姉妹(桓武の娘)をあてがって近親婚を組織し、それを三人の王子の王位継承資格の象徴とした。そして桓武は、末っ子の淳和の妻・高志内親王が兄弟の姉妹妻のなかではただ一人妊娠し、初孫の男児を生んだことを喜んで、死の直前にこの男子を「正嗣」と定めたのである(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館)。

 右の新書では、ここに根を置いて平城と淳和の関係が悪化するなかで高志内親王が重病におちいり死去したという経過が、平城が自分の息子を皇太子とし、王統を自己の許に止めようとしたことの伏線となったと論じた。そういう理解からすると、この事件の関係人物としては薬子よりも高志内親王の方が重要であって、この事件を「薬子の変」というのはどうみてもおかしいということになる。

 問題はこのような桓武の実態は、ほとんど知られていないことである。それは日本の支配的な社会意識のなかで、王家内部の争いが一種のタブーのようになっているためである。タブーを破るのは学問の責任であるが、現状では研究も歴史叙述も少なすぎる。そういう状況のなかでは、歴史教育の側が慎重になるのは当然である。しかも、こういう種類の問題は歴史学の教育と研究の間にきわめて多数存在する。

 これをどこから議論していくかであるが、私は、そもそも歴史知識の用語法、ターミノロジーの問題にさかのぼって問題の全貌を考えることが意外と早道でないかと思う。上でふれたこととの関係では、たとえば、事件の名称として「薬子の変」といいつづけるか、「平城上皇奈良復都事件」を採用するかという問題である。それは「承和の変」「承平天慶の乱」「安和の変」「保元の乱」「平治の乱」「治承寿永の乱」「承久の乱」などなどの事件名の固有名詞は適当かという問題にすぐに連なっていく。これらの固有名詞において元号は何も意味せず、ただ覚えれば何か分かった気がするという錯覚しかあたえない。これは、「承和の変」は恒貞廃太子事件、「承平天慶の乱」は将門・純友の反乱、「安和の変」はいわば冷泉天皇躁鬱代替紛争、「保元の乱」は崇徳上皇クーデター事件、「平治の乱」は『平家物語』の説明をそのままとって二条天皇二代后紛争とでもいった方が内容的な理解には近くなる(これらについては保立『平安王朝』や『義経の登場』NHK出版を御参照願いたい)。そして「治承・寿永の乱」は源平合戦、「承久の乱」は後鳥羽上皇クーデター事件でよいだろう。

 歴史教育を「暗記物」から解き放つためには、このくらいのことは考えた方がよいのでないか。でてくる人名は多くなるが、元号はどうしても現状の常識として必要なものに限ることにすれば、固有名詞の記憶負荷は全体としては減少するだろう。私たちの歴史学は、いまだに教科書に登場する固有名詞について必要な吟味もしていない原初段階にあるということは自覚しておいた方がよいと思う。

 これは歴史学と社会という知識社会学的な問題の全般に関わってくるから、検討すべき事は多いが、ここでは、以下、前近代の「時代名」について論じてみることにしたい。若干、話しが飛ぶことにはなるが、おそらくこの問題が、歴史教育においてもっとも影響が大きいように思うからである。

 さて、時代名としてもっとも普通で教科書などでも使われているのは、「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名であろうか。私はこれらはきわめて問題が多いと思う。おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を提案してみたいと思う。

 以下、順次に説明すると、まず古墳時代は、普通、3世紀終末あるいは4世紀初頭から始まるとされているが、3世紀初頭から6世紀までとするのが分かりやすい。つまり寺沢薫のいう「纏向型」前方後円墳(寺沢『王権誕生』講談社)が造営される時代、200年代前葉を古墳時代の開始としたい。それは纏向近辺の古墳群の時代であって、箸墓古墳に葬られたのが誰であれ、卑弥呼の擁立期に重なり、4世紀半ばまで続く時代である。その意味で古墳時代の第一期は卑弥呼期である。そして古墳時代は大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意での河内王朝期(5~6世紀)までとなる。河内王朝論には文献史学では異論が多いが、私は考古学の白石太一郎『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎)分社古墳とヤマト政権』(文春新書)を援用して、河内王朝論を維持することが可能だと考えている。なお前方後円墳という用語は幕末の蒲生君平が案出した言葉で、ただの形式的な符丁にすぎない。その形状は山尾幸久氏が判定しているように(『古代王権の原像』学生社)、「壺型」と理解するのが正解で、纏向型はいわば短頸壺、箸墓型は長頸壺ということになる。神仙思想において、壺は天との交通を可能にする媒体であって、その意味では前方後円墳は火山神話を表現しているのである(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』7号)。その意味では古墳時代は神話時代といってもよい。

 次の大和時代という用語は、だいたい7世紀から8世紀まで、いわゆる飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。ヤマト王権を4世紀前半から7世紀後半までとするのが一種の通説であるが(たとえば吉村武彦『ヤマト王権』岩波新書)。卑弥呼「共立」期の大和から7世紀を系譜的につなげるのは大和中心史観であって、「万世一系の天皇」というイメージを支えるものであると考えている。7世紀こそ、6世紀末に前方後円墳の築造が終了し、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代であって、大和が西国国家の機構的な中心として位置づけられる時代であると考える。河内王朝からの過渡期をどう考えるかはむずかしいが、7世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は629~641)、その妻皇極(642年踐祚。655年に重祚して斉明)の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位661~671)・天武(在位672~689)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』18号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、8世紀の「奈良王朝」も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。

 「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」と称して独立させるのは「古代」に特権的な位置をあたえる手垢のついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。

 次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。王朝名は「山城王朝」であろう。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態を示さず無意味な用語である。この時代の第一期は怨霊期、九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる時期である。先に触れた高志内親王も、結局、夫の淳和を恨んで怨霊となって、その治世期の827~828年に京都を襲って激しい群発地震を引き起こしたとされている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、この時期は王権の内紛と地震が続いて騒然とした時代であり、高志内親王は、その意味でも重要な人物であったことになる。

 その次ぎの山城時代第2期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。道長は、その両統に娘を配置することによって王統を合流させる役割を負ったのであって変な過大評価はやめたい。後三条天皇はそれを前提として、両統を統一したのであって、これが山城時代の第三期、院政期の開始である。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期の内紛は親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)となった関係できわめて激しいものとなり、そのなかで国家の本格的な軍事化が進展した(保立前掲『平安王朝』なお前述のことからいってこれは機会があれば『山城王朝』として書き直したいものである)。清盛・頼朝が、この国家の軍事化を推進したのが山城時代の第四期であって、1180年代の源平合戦から後鳥羽クーデタまで。ここで山城時代は終わる。なお、院政期から後鳥羽クーデタまでを一連の時期と捉えるのは石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2)の考え方である。山城時代が400年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じであろう。

 なお大和・山城の二つの時代については、王家の内紛をきちんと伝えないと生き生きとした理解はできない。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替あるいはいわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。

 なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。いわゆる社会構成史的な観点が歴史学にとって必須であり、その基本線においては「戦後派歴史学」の業績がいまだに重要であるというのが私などの考え方である。それについては拙著『日本史学』(人文書院)の第5部「研究基礎:歴史理論」を御参照願いたいが、現在の私見では、8世紀から13世紀初頭(後鳥羽クーデタまで)を王朝国家、それ以降を武臣国家と規定している。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の性格をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。19世紀まで続く「旧王―覇王」体制である。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである(前掲『中世の国土高権と天皇・武家』)。

 以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。以下、紙数もないので、それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘していくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。実際には後鳥羽クーデタを討伐して後鳥羽を流罪とした北条氏の権力は全国的なものであって、その時代は北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。

 次の足利時代については、たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。この用語で織豊時代の前までは通した方が理解がしやすいだろう(戦国期は過渡期と処理する)。それなのに、なぜ「室町時代」という無内容な用語が一般化したかといえば、これは足利尊氏が逆賊とされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないか。また「室町」という語には「都」は京都を中心とするという通俗的な中央意識がかいまみえる。

 次の「安土桃山時代」という時代名称には、大阪城と大阪を無視する中央根性がある。これは本稿を考える上で大きな意味をもった井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』8号、2016年1月、人間文化研究機構)の後、京都でばったり会った氏からうかがった意見であるが、たしかに「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているように感じる。

 「徳川時代」についても同じ理由で、覇王=大君の位置にある徳川家を時代名称にもってくるのが適当だろう。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川は東海地方出自で、それは幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、その意味でもこの呼称をとりたい。

 なお、以上のような時代呼称を採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要である。その場合、「内乱」や「乱」という言葉も「世の乱れ」という価値観を含むものなので使用せず、藤木久志がいうように、ザッハリッヒな「内戦」という語がよい(藤木『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)。

 なお念のために述べておけば、現代歴史学はすでに「古代・中世・近世・近代」という時代区分に依拠することはできない。実際に、「古代」とか「中世」とかいっても学術的な定義もなく、研究者によって意見は区々で、論争さえも行われていない。これらの用語を使えという学習指導要領の規制には学術的な意味はないのである(参照、保立「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」『史海』52号、学芸大学歴史研究室、2005年)。また「封建制」という時期区分の仕方も問題が多すぎる。有名な『資本論』の本源的蓄積章の一注記を、新渡戸稲造以来、徳川時代は純粋封建制だと訳してきたのは、マルクスの『資本論』の草稿類をみると誤訳・誤読というほかないのである(参照、前掲『日本史学』、および誤訳問題自体については「C・ギアーツのInvolutionと『近世化』」(岩波講座日本歴史月報13)。

 以上、あわただしい論述となったが、そういうなかで、歴史学にとってどうしても必要な時代区分を考えるなかで、上記のような一応の結論にたどり着いたということを最後に付言しておきたい。

2016年1月 7日 (木)

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

 奈良王朝と平安王朝は、両方とも王朝国家と規定してよい(参照、保立『中世の国土高権と天皇・武家』序論)。これは第二次世界大戦前の歴史家、早川二郎の用語法である。

 ただ、その場合の問題はそれ以前からの移行をどう考えるかということであるが、王朝とは、ようするに「宮廷社会」であるから、その中枢がどのように形成されたかを論ずる必要がある。その場合に、7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉えてはどうかと思う。

 私は、特別の場合を除いて、論文で公表していない見解をブログに書くことはしないことにしている。ただ、以下は、「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で書いたことなので、若干敷衍しつつ、母子王朝論の概略を述べたい。


 七世紀は母子王朝の時代である。つまり七世紀はおおざっぱにいえば、皇極天皇(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明)と、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(六七二~六八九)の時代である(なお皇極の夫、天智・天武の父の舒明の在位は六二九~六四一)。この時代を転換させたのが、六七二年のいわゆる壬申の乱、つまり天智の子の大友皇子と大海人皇子(後の天武)の争いであることはいうまでもない。これは大海人の勝利、その天武としての即位に終わったが、天武の妻は兄天智の娘の持統であり、奈良時代の王家の血統には持統を通じて天智の血が流れ込んでいた。

 これは壬申の乱という殺し合いの後に朝廷に平和をもたらすためにも必要だったのであろうが、ようするに母子王朝(舒明・皇極王統)のなかでの血の再生産である。こうして奈良王朝の血統は天武と持統の息子、草壁皇子の血をひくものに厳密に限られることになった。その状況を複雑にしたのが、草壁が早死にし、期待されたその子の文武も夭折したことで(在位六九七~七〇七)、その中で王統は持統の妹の元明(天智の娘)、文武の姉の元正(天武・持統の孫)によってかろうじて聖武につながれることになった。しかも聖武の男児、基皇子と安積皇子が死去することによって、男系が切れ、聖武の娘の孝謙(重祚して称徳)に王統が引き継がれたのである。聖武・孝謙の父娘王朝というべき時代が、淳仁天皇の短い在位期間(七五八~七六四)を除いて、奈良王朝のほとんどの時間を占めたのである。このような母子王朝から父娘王朝へという政治史の基本経過は、様々な偶然性にもよったが、この時期の国家がまだまだ文明化の過程にあり、まだ自律的な官僚や軍事警察の機構をもっていなかったことの表現であった。

 問題は、このような経過は、王権内部の母子・父娘などの狭い関係の外にいる王族に厳しい運命をもたらしたことである。奈良時代の宮廷は、草壁―文武―聖武―称徳(孝謙)の系列に属さない天武の皇子などの多数の王族が王統から排除され、流罪・死罪の運命にさらされるというきわめて厳しい政争にみちていた。よく知られているように、奈良王朝の内紛はしばしば流血をともなう凄まじいものとなったのである。

2016年1月 6日 (水)

安土桃山時代はやめて安土大阪時代にしよう。室町時代もまずい

日本史の時代名と時代区分

 先日、京都駅のそばのアヴァンティという本屋でばったり、井上章一氏にあって立ち話。

 面白かったのは、「安土桃山時代」というのは時代名としておかしい。これは大阪城を無視するという心理が働いている。先日、ある雑誌で対談をした話しの続きになるが、これは一種の中央史観ではないかという井上氏の見解であった。共感する。地名を時代名につかうのならば、たしかに井上氏のいうように「安土大阪時代」が正しいと思う。

 先日の大阪ダブル選挙の問題があったので、「大阪」ということをよく考えるようになった。大阪を歴史の一つの中心にすえる歴史記述は必要だろうと思う。近代史の側で研究があるだろうが、大阪が日本経済の中心から外れていったのは、おそらく第二次大戦の戦争経済のなかではないだろうか。これによって大阪経済の活力が抜かれ、そして戦後、大阪資本のうちの大資本が東京に進出し、大阪はむしろそれらの大資本の活動の母体として利用され、大阪という町が疲弊していったのであろうと思う。高度成長とグローバル化がそれに拍車をかけたのであろうか。いずれにせよ、大阪が列島経済の中心であった時期というのを明瞭に描き出すことが大阪に歴史と文化を取り戻すうえでも基礎になるのではないかと思う。

 こういうことを考えていると、問題は「室町時代」「鎌倉時代」という言葉が正しいかということである。もちろん、現在のところ、この言葉を使わざるを得ないとは思うが、将来まで、それでよいとは思えない。つまり、子供たちに「室町」という言葉を覚えてもらう必要はどこにもないと思う。室町の「花の御所」の実態は重要な問題ではあるが、これは研究にとって重要であっても、室町という言葉はまったく必要ない。私は「足利時代」の方がよいと思う。たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。それなのに、なぜ「室町時代」が一般化したかといえば、これは「足利尊氏」が逆賊イメージとされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないかというのが私の疑いである。そして一種の中央意識がそこにもあったのかもしれない。東京か京都が中心でないとならないという意識である。

 また鎌倉時代というのも困った言葉で、この時期の国家が初めて全国的な軍事政権に展開している現実をとらえそこなわせる。ミスリーディングな言葉である。ここにはいわゆる「武家政治発達中心史観」が影響している。

 私は最近、江戸時代という言葉はまずい、京都の研究者が徳川時代と呼ぶのが正しいと考えるようになった。『日本史学ー基本の30冊』(人文書院)という読書案内は、その用語法で統一した。以上を一般化すれば、ようするに、地名を時代名にするのはやめた方がよいのである。

 それでは全体をどうするか。私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』の序論で、基本的には8世紀から13世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家としたらいいとしたが、ようするに北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代として「武臣≒武王」の氏族名で時代名をつけるのがわかりやすいと考えている。私見では、王朝時代は中世、武臣時代は近世ということになる。これは明日書くことにしたい。

2015年11月25日 (水)

『歴史学研究』。鹿野政直氏が学び舎の中学校日本史教科書

 Cci20151125_0001 『歴史学研究』が届く。鹿野政直氏が学び舎刊行の中学校日本史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』について書いている。賛同するところが多い。
 とくに「パターン化した教科書は子供たちに歴史に対する受動性を養成する」というのは、その通りだと思う。それは教育を、社会的「常識」なる俗物的な偏見を子どもに感染させる営為にしてしまう。知識のゆがみを子どもにもたらし、教養を疎外させる営為である。私は、鹿野さんもひいている『歴史学と歴史教育のあいだ』(歴史学研究会編)に転載された論文(WEB頁「中世史研究と歴史教育」をみてください)で、教科書的歴史像を徹底的に突き崩すという考え方から、いわゆる「武士中心史観」の批判がどうしても必要だと論じ、その後、それにそって『平安王朝』(岩波新書)にいたる仕事をしてきた。しかし、こんな単純な目的意識もなかなか学界では普遍化はしない。自分の研究も日暮れて道遠しである。
 鹿野さんも書いているように、学び舎教科書では古代・中世・近世という区分は最初無かった。そもそもこの「古代・中世・近世」という区分が問題。学界では、その定義は曖昧である。言葉を付与すれば分かった気持ちになる。何かそこにあるのだという幻想を広めるばかりである。学び舎の教科書のよいのは時間感覚、時期区分を、歴史の切れ目にすべて地球史を入れる、差し込むことで作ってあること。これはいい方法だと思う。
 鹿野さんの意見でもう一つ共感するのは、教師も「ともに学ぶ」存在であるということ。学者も教師も子どもも学ぶという考え方である。
 これについては『歴史学と歴史教育のあいだ』(歴史学研究会編)に転載された論文で下記のように書いた。

 「(重要なのは)学者と教師は、職業としての学者や職業としての教師ということを越えて、両者とも知識人であり、何らかの分野の研究者でも教育者でもあるという事実であろう。学者であることと研究者であること、教師であることと教育者であることが閉ざされた一対一対応の関係にあるものでないことは当然のことである。だから、研究と教育の間では、各々の独自の分野を確認しながら、研究についても教育についても相互乗り入れしつつ付き合うべきことになるのだろう。現実にはこれは大変なことだろうが、それによってこそ歴史の学者と教師が生き生きとしたまとまりや社会的影響力をもちうるのだろう」。

 これを書いたのはもう40年近く前か。同じことを考え続けてきたことだけは感心する。
 いまでは、別の条件がある。教師と学者が、ネットワークで、ブログで、ツイッターで直接にむすびあうことだ。これは本当に推進してほしい。相互に学界のなかと教育界のなかを見通せるようにすることだ。


2015年9月24日 (木)

老子39と42。日本神話を読むための老子

 地震火山神話を中心に神話論をやっていますが、『荘子』を読まねばならず、必然的に『老子』に迷い込みました。形而上学化した荘子にくらべ、老子では神話論的イメージが素朴で、生き生きとしているというのは、いわれるところです。

 私は漢文教育復活論者ですが、その場合、小学校では論語がよいでしょうが、しかし、中学では老子をやったらどうかと思います。老子の方が若者のつらさには響くものがあるのではないでしょうか。

 私は文学の授業には『古事記』を加えたいという益田勝美さんの意見に賛成です。その場合、日本の神話には宇宙論的な要素が少ないのが問題で、これを『老子』で補うことができるのではないかと思います。
 
 我々の世代だと中国の「文化大革命」のときの滑稽な「批孔」の問題があり、不思議の感を持ちました。そののち、蔵原惟人氏の中国哲学論を読み、それ以来、中国哲学をどう学ぶかということは私にとって大事な宿題でした。意外なルートで『老子』を読むということになり、喜んでいるのですが、これまでの現代語訳には納得できないものを感じます。もちろん、素人ですから、先学を簡単に批判すべきではありませんが、あまりに世俗的な読み方になっているか、形而上学をそのまま繰り返すようになっているかのどちらかになってしまう向きを感じます。しかし、老子は日本でもっとも詳細に読まれている古典であることがよくわかりました。
 
 中学生に読ませようとしたら、いろいろな工夫がいるのではないか。いや自身で読むのにも現代語訳をしないとわからないということで、だいたい半分近くの翻訳を終えました。
 
 これは少しものになりそうなので、本格的に勉強するために『津田左右吉全集〈第13巻〉道家の思想とその展開 』を注文しました。私は津田左右吉は端本でもっているのですが、これは読んでいません。

 これを読んだら、また神話論に立ち返ろうとしています。
 
 以下、39章と42章です。これは神話論に直結するところで、『古事記』『日本書紀』の冒頭を読むためにどうしても必要と思ってやったものです。

39 万物の霊長の誉れ
 本来の初発は次のようなものだ。つまり天は初発から清澄であり、地は安寧である。神は初発から霊魂をもち、谷の女神は最初から孕んでいる。万物は初発において生じており、その王たる人間も初発から世界の長であった。
 天は清澄でなければ破裂するし、地は安寧でなければ傾廃する。神に霊魂が宿っていなければ心が動かなくなり、谷神が孕まなければ身体が尽きてしまう。万物が最初に生じていなかったら、まさに今滅ぶところになり、王たる人間が万物を貴ぶことがなければすぐに躓いて倒れてしまう。
 こうして天と地、神と谷神、万物と人間が、初発から貴賤と高下でつながれており、その貴きは賤しき、高きは下きをもって根源とするのが定めなのである。
 万物の霊長であり、王である人間は、世界の孤児であり、寡であり、僕であるとへりくだらなければならない。これこそ、賤しいものが根源となるということである。そうなのだ。だから王という誉れを数え致(きわ)めていくと、それは誉れではない。王の身分であるからといって美しい琭玉を欲してはならない。むしろ落ちている石のようでなければならない。


昔の一を得る者、
天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、
神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、
万物は一を得て以て生じ、侯王は一を得て以て天下の長と為る。
それ之を致せば、
天は以て清きこと無くんば、将に裂けるを恐れんとす。
地は以て寧きこと無くんば、将に廃くを恐れんとす。
神は以て霊なること無くんば、将に歇むを恐れんとす。
谷は以て盈つること無くんば、将に竭くることを恐れんとす。
万物は以て生ずること無くんば、将に滅ぶを恐れんとす。
侯王は以て貴高なること無くんば、将に蹶づくを恐れんとす。
故に貴きは賤しきを以て本と為し、
高きは下きを以て基と為す。
是を以て侯王は自ら孤、寡、僕と謂う。
此れ賤しきを以て本と為すに非ざるや。
故に数々(しばしば)の誉れを致せば、誉れ無し。
琭琭として玉の如きを欲せず、落落として石の如し。

42 永遠の時間と無限大の空間
 道があって、そこから初発が生じるが、一は二になり、二が三になって急速に万物が生じていく。万物は、永遠の時間のなかで、背に月の陰を負い、前に太陽の陽を抱き、無限大の空間のなかで、沖天の気をもって声を上げ、声を和せる。
 人は孤であり、寡であり、僕であることをいやがるが、しかし、万物の王たるものとして、これは誉称である。万物は損じたようにみえて益し、益したようにみえて損ずるものである。このような損益の関わりについて、人の教えることを私も端的にいってみるとすると、強すぎるものは死に方がむずかしいのだ。私は「孤・寡・僕」というのを教えの始めとしたい。


道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
物は陰を負いて陽を抱き、沖気もって和を為す。
人の悪む所は、唯だ孤・寡・僕なるも、而も王公は以て称と為す。
故に物は或いは之を損じて益し、或いは之を益して損ずる。
人の教うる所は、我も亦之を教えん。
強梁なる者は其の死を得ず。
吾れ将に以て教えの甫と為さんとす。

字は直してしまう。読みやすいテキストにしてしまう。字の原義に関わるものは特に大事にする。老子を読むことは漢字をつかって抽象的な思考をする訓練であると考えることができるように思います。一種の散文詩のように書く感じでやっています。

2015年8月12日 (水)

荘園をどう教えるか4(班田収受との関係)。

 やっと拙著『中世の国土高権と天皇・武家』という研究論集が出版jされた。

 そこで書いたことだが、「荘園をどう教えるか」という場合、それが班田収受制を壊して生まれるというのが決定的な間違いで、これがすべてを分かりにくくしているというのが私見である。

 だいたい、いわゆる大化前代のミヤケなどが、すべて無くなった訳ではなく、それは初期荘園に流入していったというのが、現在の学会のスタンダードな意見である。

 宮原武夫氏の先駆的な論文「班田収受制の成立」(『日本古代の国家と農民』、法政大学出版会)にあるように、そもそも班田とは「たまいだ」と読む場合があって、支配貴族に地方の田地をあたえたり、公認したりする側面があった。これによってミヤケ的な土地所有が律令制王国の国家的土地所有のなかに入りこんできたのは見やすい道理である。藤間生大氏の昔からいわれているように、初期荘園制と班田収受制は決して矛盾するものではなく、表裏一体であったというのが古典的な考え方である。荘園というのは系譜としてはミヤケから続くものである。7世紀から9世紀、10世紀にかけての土地制度は連続的にみなければならなqい。

 問題は、田地を民衆に割り付ける部分であるが、これは班田の「あがち田」的側面であるというのが宮原武夫さんの意見。「たまい田」と「あがち田」を班田収受制の二側面とするというのが宮原理論である。この「あがつ」というのは分配するというような意味である。これも平安時代に連続性をもって継受されたのであって、散田とか負名体制とかいわれるものがそれである。

 つまり私は、『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であると思う(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。

 土地所有の国家的な形式、つまり国衙が田地を割り付けるという形式自身は連続しているのである。

 普通は、ミヤケがあって、班田収受制で厳密な国有にかわったが、荘園がでてきてそうではなくなったというように話しがつなげられる。ところが国衙というものが残っているという説明になって、ここら辺で子供たちは何がなんだかわからなくなる。

 そこで言葉を覚えるだけということになり、それがわからないまま、室町時代まで荘園がでてきて、何がなんだかわからなくなるということになっている。これは最初からボタンを懸け間違ったためだと思う。これは「古代史学会」と「中世史学会」がほとんど議論をしないという日本の歴史学会の奇妙な風習のためにこうなっているのだと思う。

 以下、上記拙著の一部である。

日本史研究会の大会報告「中世初期の国家と荘園制」(『日本史研究』367号)への補論として掲載した。

 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題である。

 報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった(保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した(保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。

 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである(戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。

2015年6月30日 (火)

網野善彦氏の対談集と「日本」通史

150630_195750


 網野善彦氏の対談集、全五巻(岩波書店、山本幸司編)が完結した。網野さんの著作・論集とは区別してよく読んで勉強をしたい。ともかくたいへんに面白い。『現代思想』(2015年2月、網野善彦特集)で山本・桜井英治・成田龍一の三氏と座談会をやって網野さんのことを論じたが、そのときに勉強したことを復習している。

 私の机の目の前には、いま、左側に岡田精司さんの黒い本(神話論の古典)、そして真ん中に網野さんの対談集、そして右側に石橋克彦さんの『南海トラフ巨大地震』が並んでいる。
 しばらく、こういう配置が続くと思う。

 それにしても考えるのは「通史」ということである。網野さんの『日本社会の歴史』(岩波新書)は、東国・西国の矛盾関係を動力として進む列島の歴史という感じの本である。これが重要な方向であることを確認している。
 しかし、原点・出発点にどうにか「神話」をすえたいというのが第一。そして第二が地震と噴火などの自然史に直結する時間感覚を通史に導入したいということを考えている。
 
 下記は、友人たちとの「通史」をめぐる議論のためにつくったメモ。私は、ともかく、いま「日本史」には通史らしい通史は存在しなくなっていると考えている。これは困ったこと、ゆゆしいことで、変転の多い近現代を歩んだ「日本」にとってやむを得なかったことかもしれないが、「通史の感覚」をもたない「国民」というのはきわめて変わっていると思う。


(1)「通史」とは何か。
 「通史」というものを実際上は、単に固定的な暗記すべき諸事項の時間順の羅列と理解してしまうことは正しくない。むしろ「通史」という用語は十分な定義を必要とする。それは一般的にいえば歴史認識を時空間、とくに時間の連続性のなかにおくということである。日常生活を超え、時代を貫通していく長い時間というものを、主体的であると同時に客体的あるいは先験的なものとして意識し感覚する能力ということである。そのような歴史認識のあり方をつちかうためには、いくつかの複合的な力を必要とする。ここでは、それを(イ)「追体験」、(ロ)「知識」、(ハ)「理論」という三つの局面から説明する。

 (イ)「追体験」とは、多様な現在的問題についての実感を軸にして過去に遡行する認識スタイルをいい、それを様々な時代的過去、様々な事象について個別的・微視的に確保することによって追体験の「束」のようなものを創り出し、それによって時代的時間を意識することである。これがすべての基礎にある。

 (ロ)「知識」とは、上記のような「追体験」を前提として、様々な歴史的な知識のダイナミックな蓄積のスタイルをいう。これは歴史学のもつ他の学問との相互参照系を実態としているといってよい。過去の諸事象についての認識を自然科学、社会科学、人文科学と関係づけて、通時的に(クロノロジカルな、時間を追った)、空間的に、つまり時空間のなかで発見していく構造をいう。

 (ハ)「理論」とは、「追体験」と「知識」の総体を前提として、人類がどういう社会的課題をもっていたかに即して、その累進的な解決の構造に即して、歴史的過去を再構成してみることである。佐々木潤之介の言い方では、「歴史学とは、歴史的に形成された問題は、歴史的に解決・克服できるということを基礎にして、その営みを続ける学問である」(佐々木潤之介『地域史を学ぶということ』吉川弘文館、16頁)ということになる。

 この(イ)(ロ)(ハ)については、さらにおのおの説明を必要とするが、それは後にふれることにする。また「通史」という言葉は、ある種の略号であって、この言葉にこだわっても仕方がないところがある。しかし、いずれにせよ、歴史認識を時空間の客体性のなかで鍛えるということ、それによって過去を今の時代のものとし、人類史の記憶を培っていくということを中心に議論することになる。

(2)「通史」の困難 

「通史」の困難は、我々の日常というものは、長い時間を意識しないで過ごす局面が多いという一般的な状況によっている。長い時間を、そのようなものとして活かし、歴史を参照系としつつ社会を構成していくという意味での成熟した社会とはいいがたいという現実が問題なのである。

 その上で、(イ)(ロ)(ハ)の歴史認識に関わる歴史学の局面にそくしていえば、(イ)課題意識の共有や調整の困難、(ロ)学際的な協力と知識学的な融合性と洗練の困難、(ハ)社会構成、構造の理論的な認識の困難ということになる。これらを歴史学の分野・時代・地域などの専門をこえて一体化する必要があって、それはまだ夢のまた夢である。この点で歴史学は動脈硬化をおこしており、歴史学研究の立場からいえば、これについての責任を果たしていないままに「通史」ということを歴史教育に対して無前提に主張することは空語にすぎない状態である。議論のためには「通史というものは実際には存在していない」という状況を正確におさえておく必要がある。実際上、日本史では、各時代をこえた課題意識の共有や、学際的協力、理論的な議論などは存在しない、討議も十分ではない状況である。


(3)教科書における「通史」と「通史学習」。
 教科書は、学ぶ者にリーダブルなものでなければならない。教科書は子どもと若者にとって最初の「本」であり、「読書」の対象である。教科書が活字離れを引き起こすなどということがあってはならない。教科書は「面白い」というのではなく、面白く、そして子どもが自主的に興味をもって読み通せる一貫性が必要である。それは通読できるということであって、通読によってはじめて体系的な知識が可能になる。歴史教科書の場合は、「通史」というものは、まず教科書叙述が通読できる、通読に耐えるということです。通読できないのならば「通史とは何か」ということは最初から議論できない。ただしここで「通読」というのは、子どもが、本をもっぱら自分で読んでいくということではない。教師による授業での援助によって「学びを重ねる」ということである。しかし、教科書が「学びを重ねる」ことが可能であるためには、結局、それ自身として通読が可能なものであるということが条件となる。学年の授業が終わり、あるいは学校を修了した段階で、子どもが手もとに残して振り返り通読し、知識の索引として利用できるものである必要がある。

 その意味で、教科書を一つの通史叙述とすることは絶対的な必要である。しかし、それは前記の(イ)課題意識の共有や調整の困難、(ロ)学際的な協力と知識学的な融合性の困難、(ハ)社会構造論にかかわるような理論的な認識などの条件によって、むずかしい。それを突破するためには、学者・教師の相互討論によって、それを活性化していくのは理想ではありますが、これもなかなか困難です。もっとも有効なのは、教師の側が教科書を書き、それに学者の側が協力することでしょう。

 この意味で教科書は「通史」でなければならないということ、また歴史学・歴史認識にとって「通史」が必然であるということになる。しかし、だからといって、とくに小中学校における授業と歴史教育が「通史学習」の形式にそったカリキュラム構成をもつべきであるということはストレートにはいえない。教科書は「通史」という窓を開いておく必要はあるが、しかし、授業がどうなるかは別問題である。とくに地域史や分野史はきわめて重要であり、それを重視するなかでは、すべてを過不足なく授業で教えるという「通史学習」は困難性が多い。これは社会における歴史文化のあり方そのものにも関わってくる。教育のなかでのみ「通史」学習ができるとは考えられない。現在のような非歴史的な文化状況全体をひっくり返していくことなしには、それはむずかしい。

 カリキュラム構成が、どうなるかは、歴史の学者と小・中・高校の教師が熟議し、歴史学の新しい水準を大胆に取り入れて、歴史の授業の内容と順序編成をすべて組み立て直すなかでしか具体像はうまれない。

(4)教科書の社会的性格について
 教科書は、強い社会的な性格をもっている。社会的費用を使用して作成される公共的教材である。その性格は下記の三つに区別できる。(イ)「主たる教材」、(ロ)「学者と教師の間の」、(ハ)「憲法的基準の反映」。

 (イ)は、ある世代の子どもに共通にあたえらえる教材であり、「読書」の対象であり、教師集団と子どものあいだを結ぶ共通性をもった教材である。「主たる教材」とはその範囲のことであって、個々の授業における教材という点からみれば、そこでは教科書はあくまでも一つの教材である。専門職としての教師は、そのような教材の総合的な扱いにもとづく発語と提示に習熟した教育的人格であるが、同時にその教科に関係する学術を学ぶ者、「学徒」でなければならない。教師が学徒であることによって、教師は、その学的興奮あるいは発見を子どもに伝え、また教師も子どもも学ぶものとして対等な立場に立ちうる。そういう立場からして、教科書以外に多様な教材を準備するのは専門職としての教師にとって義務である。「教科書で」授業する安易さは排除されなければならない。教科書は教師の「教え方」を指示するものであってはならない。「教え方」(教育方法)は個々の教師もしくは教師集団の教育の自由を完全に保証しなければならない。歴史は多様であり、「教育方法」や「教育内容」が一つになることはありえない。それは教育が人間的営為である以上、教室毎できわめて多様になる。そこに大枠での一致と一定の共通知識が期待されることと、「教育方法」や「教育内容」が一つになることは違うことだろう。もちろん、教師集団は大事であって、多様な教師集団が討議と経験によって同一の「教育方法・内容」を志向することは充分にあることであり、それなしには歴史教育は前進しない。しかし、それでも、そのような集団はつねに複数であり、また基軸的に重要なのは教師個人であろう。「教科書を」多様な教材と教師の発語のなかに相対化して位置づけることが必要である。

 (ロ)は、学者と教師の間での議論、研究と教育の統一の媒体という意味である。もちろん、教科書製作の中心は教師であるのが当然であると思う。しかし、教科書が公共的教材である以上、関係する専門性のあいだでの自立的な議論や調整が必須となる。この場合、教科書の執筆者は、まずその教科についての見識をもつ学徒であるのみでなく、研究者として自己規定しなければならないだろう。

 (ハ)は、教科書の教育内容は、憲法の大綱的基準にそっていなければならないということである。教科書が公共的教材である以上、憲法的基準を外れるような主張は教科書のみでなく、教育そのものの中にも持ち込まれてはならない。むしろ、教科書は、どのように憲法に対応しているのかをつねに正確に自己意識している必要がある。

2015年4月14日 (火)

何処かの出版社で、「東アジア世界地図帳」を作ってくれないだろうか。

 何処かの出版社で「東アジア世界地図帳」をつくってくれないだろうか。
Rekisitizu


 北海道から沖縄まで、普通の日本地図で90頁だろうか(60万分の一の地図を基本に)。
 普通の地図帳についている索引などはいらないから、それに50頁ほどの東アジアの世界地図をつけてほしい。全部で160頁ほどで、厚すぎず、重すぎずというものがほしい。

 シベリアからフィリピン・ベトナム・カンボジャまでは、主要な地名が山脈・河川・海の形がわかるように入れてほしい。
 そして、巻頭には、上のようないわゆる「逆地図」を巻頭にしてほしい。日本列島は、こういう視線で見られていたのだし、こういう視座で我々の先祖は生きていたのだから。

 そして、できれば巻末には、旧国名(信濃国・近江国など)入りで、江戸時代の諸藩の詳しい境界図と海路図をあわせて載せてほしい。我々の列島は、文化と産業をふくめて、この時期に現在の姿をとったのだから。
 
 日本列島に棲むものが、江戸時代までに実際に縁をもち、自分たちの世界と関係させてイメージしていた世界である。だいたい、上の「逆地図」の範囲である。こういう地図の精度の良いもの、美しいものを作ってほしい。
 経済・政治・社会で、東アジアとのつきあいは増えることはあっても減ることはない。プラスの関係であることを望むが、マイナスをふくめて、ともかく増えることはあっても減ることはない。実務の上で、そういう地図帳が必要になっているのではないだろうか。
 よくいわれるのは、「お隣の韓国の地名を7ついってみよう。海の向こうのアメリカの地名を7ついってみよう。どっちが楽だった」という設問である。
 これは、普通、アメリカの方が楽だと思う。韓国とアメリカについて、いろいろな考え方はあるだろう。しかし、こういう基礎知識のレヴェルで差があるというのは、私たちの国の文化構造、知識構造の特徴であることは確かだ。別に上の「東アジア世界地図帳」にアメリカを入れるなというのではない。環太平洋世界というものが大きな意味をもちだしているということは事実だからである。しかし、やはり常識的にいってまず「東アジア世界地図帳」があった方がよいように思う。

 地図帳というと、「日本地図」「世界地図」の二冊というのが、そういうパターンがまずいのだと思う。
 (1)「東アジア世界図(ふくむ日本)」、(2)「環太平洋世界図(ふくむ東南アジア)」、(3)「ユーラシア地図(ふくむヨーロッパ・アフリカ)」という三冊構成、あるいは(1)(2)をあわせてしまって、2冊構成の地図帳という考え方があってよいのではないだろうか。

 地理学の人たちはどう考えているだろうか。歴史学からいえば、これは「日本史・世界史」という二パターンで人類史を考えてしまう「慣れ」「慣習」「偏見」と同じことであると思う。

 地理学の場合は、さらに「国境」というのが関わってくるだろう。実務に必要なのは、国境ではなく、地名である。世界はまずばらばらにしなければならない。バラバラにするのが基本であって、そのレヴェルでの知識を基礎知識、基礎感覚というのであろうと思う。

 
 小学生のときにもらったら、ずっと使えるものがよい。同じ本を小学生から中学生、そして大学まで持ち続けるというのは、本との接触の仕方ではたいへんに大事なことだと思う。私は、中学生のときに母に買ってもらった『字源』を、最近、諸橋轍次の大漢和を購入するまで、ずっと使っていた。そういう形で使えるのは、地図と辞典ではないだろうか。
 デジタルとコンピュータは重要で、欠くことはできないが、やはり、「物」としての本をみて、さわってきたという経験の上に、「知識」が残るというのは精神にとって大事なことであるように思う。そんなことを今になって考える。

 私は歴史家なので、地名の知識が必要になる。実にしらないもので、それを手早く確認するためには、もちろん、今はネットワークを使わしてもらう。平凡社の歴史地名辞典があるので、すぐに詳しく調べられる。それはすばらしいことだと思う。40年前、研究をはじめたころにはそんなことはできなかった。グーグルアースでやれば、地形までわかる。
 ただ、地図帳で確認する驚きというのはやはりある。

 いま、「基本の30冊」の29冊目で、榎森進氏の『アイヌ民族の歴史』を取り上げるので、やっと半分読んだ(600頁あるのです)。ともかく地名を確認しながら、東北北海道の全体を地図帳でみながら読んできた。そういうなかで、上のようなことを感じる。

 昨日は「アシタカ」の地名を確認した。「もののけ姫」のアシタカはアイヌ出身と設定されているが(入間田宣夫「もののけ姫と歴史学」『東北学』25号)、そのアシタカの出自の地を、北奥のアイヌ地名を追いながら確定していく、榎森進さんの作業を読むなかで確認した。

 ところが、アイヌの歴史に直結するサハリンとマンジュ国のヌルハチの動きを確認するなかで、清の初期の首都、審陽の場所を確認するために、そしてサハリンとシベリアの地名を確認するために世界地図帳を探したが、でてこなくて、時間がかかった。

 そういう事情で、「東アジア世界地図帳」がほしいと考えたのです。どこかの出版社がださないでしょうか。アイデアは、協力します。

2014年9月 5日 (金)

荘園をどう教えるか(3)


 たしか去年の夏であったと思うが、「荘園をどう教えるか」という記事を二回書いた。それが書けなくなったのは、荘園をどう教えるかはまず8世紀から10世紀の土地制度をどう教えるかが重要であるが、それについての私見を書くのは、学界に発表していない見解を書く訳には行かないと考えたからである。ブログで私見を野放図に書きだしたら、これはこまるというのが、歴史学であると思う。

 ただ、下記については、今度の新著に書いたことで、年内にはでるし、この程度ならば、ほとんど方法論だし、他の研究者のオリジナルな発見のじゃまということにはならないだろうということで、書くことにする。

 ようするに、荘園をどう教えるかという場合の最初のネックは、いったい、班田収受制というものはどうなったの?ということであろうと思うが、基本的なシステム(あるいは制度枠組)としては似たシステムとして「負名体制」というものがあると考えれば、このネックはクリアーできるということである。

 日本史研究会の大会報告「中世初期の国家と荘園制」(『日本史研究』367号)への補論として掲載するもの。

 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題である。

 報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった(保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した(保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。

 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである(戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。

 なお、散田には、この「あがつ」の意味とともに、荒れた田地あるいは分散した田地という意味も一貫して存在した。たとえば一一一二年(天永三)の大和国広瀬荘使解は「散田・町田」として分散した田地と「町田」(満町坪のこと)を対比している(『平』一七七九)。そして、八四二年(承和九)の因幡国高庭荘預解にみえる「散田」という言葉は「散田」という用語の初見であるが、これは「得田」との対比において損田という意味であらわれている(『平』七三)。「班田」ではなく、「散田」という用語が使われるようになる上で、「散」には「あかつ」と「散らばった」という二重の意味があったことが大きかったのではないだろうか。つまりすでに散田という用語の登場の時から、「散」の「分散した、重要でない」というような状態をあらわす語義と、「配る、頒つ」という個々に処理するという営為をあらわす語義が融合・二重化して使用されているのである。後に「能悪を相交へ散田」(『平』一七四九)、「暗に膄迫の地を度り」(『新猿楽記』)などといわれる田地の豊度の判断もふくめ、この作業の手間や散文性を、この「散田」という言葉で一挙に表現したものであろうか。手間の中心が「満作」をめざして行われる耕作強制であったために、状態としての「散田」が強く意識されたと考えておきたい。

 もちろん、班田収受においては、その六年一班制はその前年の十一月から翌年五月までのうちに造籍することと結びついており(六年一造)、この点で大きく違っているが、班田の季節は収穫後の十月から田文の授造を開始し、翌年二月に終えることとなっており、散田の季節と大きく異なる訳ではない。造籍の問題を別とすれば、負名の散田請作は毎春のこととなっており、村井の言に反して、これは田地の収授=散田と請作がより日常的でシステム化された管理をうけるようになっていたことを表現するといってよい。戸田は東大寺領阿波国新島・勝浦・枚方などの荘園の九八七年(寛和三)の「当年散田之務」を行う使者が、その「春時各進請文」の処置を二月に行った様子を復元し(『平』三二五号)、「当年散田の実質的作業は、現地の荘官・刀禰らによって行われていたはずである。寺家符を帯びて巡回する寺家使は、その確認と公的際かが主たる任務であり、その上に(中略)高次の決済の職務があったのではないかと私は考えている」と論じている(戸田「一〇~一三世紀の農業労働と村落」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年)る。ようするに寺家使がまわってくる前に実質的な作業を現地で遂行するシステムがあったのである。ともあれ私は戸田と村井のあいだの論争については依然として戸田の側に賛同したいと考えている。

 村井見解については戸田「書評、泉谷康夫著『律令制度崩壊過程の研究』」(『史林』五八―五、一九七五年)が、ほぼ同一の見解に立つ泉谷の見解とあわせて反批判している。戸田はそこで「当時の国衙(在庁・郡司の機構)はその必要とする特定の行政的実務能力と諸手段を備えていた(必要ならば煩瑣な事務手続きもとることができた)のであって、春時の利田請文を提出させる”勧農”は、検田・収納とならんで主要な国衙行政の一つであった。だから事務能力低下論による否定は論外である」としている。この事務能力否定論に対する批判は佐藤泰弘「国の検田」(同『日本中世の黎明』京都大学学術出版会、二〇〇一年)によって継承され、佐藤は検田論を素材として一〇世紀以降の国衙が「きわめて現実的な収取制度を構築した」ことが明らかにした。ただ、佐藤は、村井・泉谷による戸田の「公田請作」論批判について、戸田の「利田請文」論や伊賀国黒田庄の国衙関係史料の理解に関わって、それを承認している。本論で述べたようにたしかに戸田の「利田請文」論には問題があるが、「春時起請」の理解そのものについては、つまり論の大枠については、戸田の見解はいまだに有効であると考えている。

より以前の記事一覧