BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

カテゴリー「火山・地震」の154件の記事

2017年4月21日 (金)

東日本大震災の宮城県以南の死者はすべて国に責任がある

 前橋地裁判決のいうのは3・11の被害は人災だったということです。判決の論理からいうとそれは原発事故に限りません。これを震災後六年たって、国の機関が初めて認めた訳です。
学会では常識でしたから、これが「初めて」というのが悲しいところです。もし国が常識をもって運営されていれば、こんなに損害賠償が少ないことはなかった筈です。

 二〇〇二年に地震学者が中心になって発表した地震本部の「長期評価」は三陸沖から房総沖でマグニチュード8・2クラスの地震が、今後二〇年以内に二〇%の確率で起こりうると予測しました。そのころ同時に八六九年の津波が残した痕跡砂層の研究が進んでいて、日本地震学会が二〇〇七年に出版した『地震予知の科学』には東北には近く巨大な地震・津波が来ると書くまでになっていました。

 そんなことは知らなかったと言われるでしょうが、これは当時の小泉首相を会長とする中央防災会議が、原発業界におされて岩手沖津波しか認めず、「長期評価」を防災計画に反映しなかったためです。
ですから、震災の犠牲者の八割、宮城県以南の死者はすべて国に責任があるということです。小泉さんが、最近、原発廃止の立場に立たれているのは正しいと思いますが、この過誤の責任は曖昧にできないもので、本来、膨大な賠償が必要なものです

 私も三・一一を経て、日本が地震火山列島であることをはじめて本当の意味で認識しました。歴史の根本から考え、それが国民の常識にならねば死者は浮かばれません。(了)

 先日、赤旗(日曜版)のインタビューに答えたもの。23日付けででるらしく、見本紙が届いた。新聞だから出しておいてよいのだろう。

 原告の方の談話がのっていて、胸にせまる。

2017年4月 4日 (火)

おきなわという地名、素人語源論

 沖縄という地名がはじめてみえるのは、七五三年に帰国の途についた遣唐使が「阿児奈波島」に到着したという記録である(鑑真訪日の記録『唐大和上東征伝(とうだいかしょうとうせいでん)』)。阿児奈波は「うちなー」に由来するというが、語源については、伊波普猷が「沖漁場」といい、東恩納寛惇が「沖の場所」であるといっている。

 自然としての大地、「地」を古く「な」といい、「奈良」の「な」も「地」であるというから、あるいはこの「なは」も大地というような意味ではないだろうか。「おき」は「沖」ではなく、あるいは「息」の母音交替形で「行ふ」の「おこ」。つまり、「活動する地」というような意味ではないだろうか。別の漢字で書けば「息土」という訳である。

 これが素人語源論であることは認めざるをえないが、ともかくも倭国神話の世界では、列島の島々は火山噴火によって生まれたものであるという地理認識は根強かった。九世紀の伊豆神津島の噴火で、今の火山の女神、阿波神が「三嶋大社の本后にして、五子を相生む」とされていることは、女神が火山島を生むという観念を物語っている(『続日本後紀』承和七年九月二十三日条)。そして、この神津島の阿波神の「御子神」の名前は「物忌奈乃命」であったが、大隅国の海底火山の噴火によって島を「神造」した神は「大穴持神」(おほあなむち)であった。この両者には「な」が共通する。「な」は「地」こことであるから、これは火山の女神が大量の「な=地」を生むという観念を示していると考える。私は、この女神が阿波神といったこと自体にイザナミの国生神話の雰囲気を想定した(『歴史のなかの大地動乱』)。

 なお『延喜式』に残された「鎮火祭祝詞」は、国生神話を「神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命妹妋二柱、嫁継給弖、国乃八十国・島乃八十島乎生給比、八百万神等乎生給比弖、麻奈弟子尓、火結神生給弖、美保止焼かれて石隠れ座して」と語っている。鎮火祭は、平安時代以降もさまざまな展開をみせる祭祀であるが、それが「八十国、八十島を生み給い」と九世紀の火山史料と同じ神話観念を語っていることは重要であろう。この祝詞は続けてイザナミが火結神(カグツチ)を生んで「ミホト」(陰部)を焼いて死去したと述べているが、神話学の松村武雄は、この地母神・イザナミの死去は、彼女が火山の女神として火の神を生んで傷ついたことを暗喩したものであるとしている。残念なことに松村は、そこで議論を止めてしまったのであるが、そうである以上、カグツチが生まれる前に生まれた他の国・島も、同じミホトから、火山の女神イザナミが生んだものであることは明らかなはずである。

 そして、こういう観念は南島についてとくに強かったのではないだろうか。たとえば、平安時代末期の平氏政権の時代、俊寛が流された硫黄島について、『平家物語』は「嶋の中に高き山あり。嶺には火燃え」、噴煙と火山灰が降下し、「百千万の雷の音」(火山雷)が響き、「地震」によって山崩れが起きると述べている。

 復興大臣が原発の自主避難者を「自己責任」と言い放つ発言を読んで仕事の手がとまってしまった。ともかく何ということだというツイートをして仕事から少し離れてコンピュータの中に入っていったら、上記のような文章を発見。以前、世界の臨時増刊号の沖縄特集(865号)で書いた文章の削り残しである。

 そろそろ夕食。気を取り直して机の片付け。

2017年3月19日 (日)

3月17日前橋地裁判決ーーー3,11後、初めて国家の中から正しい声が聞こえた

3,11後、初めて国家の中から正しい声が聞こえたーー3月17日前橋地裁判決

 前橋地方裁判所の原道子裁判長は2002年年7月に政府の地震調査研究推進本部が発表した巨大地震の想定に基づいて、国と東京電力はその数か月後には巨大な津波が来ることを予測できたと指摘し、それにもとづいて原発事故についての国の責任を認定し賠償を要求する原告(県外に避難した住民一三七人)の訴えを正当としました。
 
 賠償金額は総額3855万と少なすぎると思いますが、これは画期的なことで、国家機構の中から、はじめて常識的な声がでたということだと思います。

 これは地震本部が二〇〇二年に決定した日本海溝地震の長期評価をどう考えるかということになりますので、ことは原発事故をこえて、東日本大震災全体の賠償をどうするべきかに関わってきます。


 つまり、長期評価は三陸沖から房総沖までM8,2の津波地震を予知しましたが、中央防災会議は多くの地震学者の反対にもかかわらず、それを岩手中部で津波波高が高かった明治三陸津波のみに限定してしまいました。そのためは岩手南部の陸前高田市以南で防災体制が不十分となり、3,11で犠牲となった方の八割は、そこに住んでいた訳です。たとえば名取市では長期評価にあもとづいて、高さ8メートルの津波を予想した津波防災マニュアルを作成したが、2008年2月、中央防災会議の想定津波高2,六㍍に従って地域防災計画を下方修正し、津波被害が拡大したことがよく知られています(津久井進『大災害と法』岩波新書141頁)。

 ようするに中央防災会議は原発事故に責任があるだけでなく、一万5000人ほどの人の死に責任があるのです。そして問題は、そうだとすると、この前橋地裁の判決を延長すれば、国は、上記の宮城以南で死去した人びとの命の相当部分に責任がある。それは人災という以上に、政府が地震学者の意見を押し切って誤った決定をしたことの直接の結果であるということにならざるをえないことです。

 この経過に責任のある中央防災会議の責任者は首相の小泉純一郎氏です。国民が災害を予知するシステムはあったのに、政治家と官僚が重大な過誤をおかしたのです。

 
 長期評価の責任者であった地震学の島崎邦彦氏は、このとき中央防災会議事務局に押し切られたことについて人生最大の失敗であったとされています。これがなければあれだけの人が死に、甚大な原発事故が起こることはなかったのです。

 一部には、 「地震学は南海トラフ巨大地震ばかりいって陸奥沖海溝地震をいっていないではないか」という意見があります。しかし、これは巨大な誤解だったということです。

 つまり、中央防災会議が長期評価を認め、それにもとづく防災と調査の体制を強化していれば、二〇〇四年に決定された日本海溝地震についての特別措置法は、大規模地震対策特別措置法に近いものになったはずです。大規模地震対策特別措置法の地域規定は、南海トラフ地震関係しかされていませんが、法の趣旨としては南海トラフ地震に限定されているわけではありません。実際に特別措置法には研究の進展によってそういうことがありうるとされているのですから(第四条)。全体としてはこれをサボったと評価すべきものと思います。このサボタージュがなければ、私たちが目の前にしている風景はまったく異なっていたはずです。


Cci20170319

 添田孝史『原発と大津波』(岩波新書)によると、このような決定に責任のある政治家と高級官僚や中央防災会議事務局トップが、何をどのように判断したかの経過とその反省の記録も存在しないという(最近の情況からみると、実際には存在し隠蔽しているのではないかと思う)。

 ドイツではライン川の氾濫についても厳しい賠償訴訟が起きた。ヨーロッパでならば、このような行動に対しては厳しい賠償訴訟が起き、また国家犯罪として弾劾されて当然のものである。

  以上は雑誌『経済』今月号(2017年四月号)で弁護士の津久井進氏との対談でくわしく述べました。

2017年2月27日 (月)

南海トラフ巨大地震と『平安京右京七条一坊七町跡』

以下、京都市埋蔵文化財研究所からいただいた報告書『平安京右京七条一坊七町跡』への礼状ですが、その次に9世紀の南海トラフ巨大地震についての私見の論文を載せました(再掲、加筆)。

拝復
 『平安京右京七条一坊七町跡』を御送付いただき、たいへんにありがとうございました。
 放射性炭素の分析によって、やはり九世紀の地震であることが確定ということ、文献資料の多い九世紀京都地震の初めての確認となり、たいへんに大きな成果と存じます。

 また放射性炭素のみでなく土柱試料のX線写真による地震動による撹乱変形構造の観察の結果の報告、そういうことが可能であることを知りませんでしたので、たいへんに驚きました。

 土木工事の際の地質調査情報を公開し、データベース化することを学術会議が提言しておりますが、今後、このような分析が発掘調査時のみでなく、一般工事でも必要な費用と手間をかけて行われるようなこととなれば、相当の詳細な観察が可能になるように思いました。

 今後もこの時期の調査が進み、面的に京都地震の実態が浮かび上がりますように。
 御仕事の発展を御祈りします。
敬具

二〇一七年二月二七日
保立道久

 なお放射性炭素の分析ですと、九世紀前半の可能性もあるのではないかとも考えます。
 推測が多すぎますし、発表したものにミスが多く修正をしたというつたないものですが、何かの参考になればということで論文を以下に転載しました。


八世紀末の南海トラフ大地震と最澄  保立道久

原掲載、『CROSS T&T』No.52.2016.2(一般社団法人 総合科学研究機構)。
ただし、刊行論文には大きな錯誤があり、刊行直後に読んでいただいた石橋克彦氏の指摘をうけ、論の基本部分に変更を加えた。氏の教示に感謝したい。なお論の責任はすべて筆者にあることはいうまでもない。(2016,4,4。さらに加筆2017,2,27)。


 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)8月の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。

 さて、この797年(延暦16)は、いわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、残念ながら『日本後紀』の伝本はない。六国史の抄録本の『日本紀略』の8月14日条には「地震暴風」とあるのみである。これだけでは地震の詳細はわからないが、しかし、幸いなことに菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)には、この地震が「地震暴風。左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」とやや詳しく記録されている。『日本後紀』の原文はもっと詳しかった可能性はあるが、この記録によって「地震・暴風」の被害が相当のものであったことがわかるのである。

 もちろん、史料に余震がみえないのは南海トラフ地震ではしばしば余震が続くとされることからすると問題があるが、『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは考えられるであろう。それよりも問題なのは、「地震暴風」とあることで、そこから、被害は地震被害ではなく、実際は暴風被害であったのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、この頃、坊門はまだ新築であったはずである。それが左右の両京で倒壊したというのをすべて暴風とするのはむずかしいのではないだろうか。

 もちろん、これは蓋然性の指摘にすぎないから、この地震の規模は、将来、考古学が葛野遷都直後、いわゆる「平安京」の最初期における坊門の発掘調査に何カ所かで成功した後になるかもしれない。事柄が大きいだけに、そういう証拠がなければ自然科学の側で史料として使うのは難しいだろう。しかし、歴史学の側から、この地震の大きさを傍証する上では、この地震が早良親王の怨霊が起こした地震と考えられたことが大事なように思う。

 この早良親王とは、時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したという人物である。『歴史のなかの大地動乱』で述べたように、聖武天皇の時代から怨霊が地震を起こすという恐れは朝廷に根付いていたが、桓武の父、光仁天皇も同じであった。つまり光仁は、妻の井上内親王と(桓武の前の皇太子)他戸親王を迫害し死に追い込んだが、775年、彼らが幽閉された場所で死去した直後に地震が連続した。恐怖にかられた光仁は内裏に僧侶二百人を集めて大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の「恠異」を払う大祓を行ったという。

 そして桓武にも同じことが起こったのである。つまり、この七九七年(延暦16)地震の三年前、七九四年(延暦一三)正月一五日に、『類聚国史』によれば小さな地震が起きているが(『日本紀略』には載っていない)、その六日前、「雉あり、主鷹司の垣の上に集まる」(『日本紀略』同日条)という事件があった。主鷹司の垣に雉が集まるというのは、当時の人びとにとって異様なことにみえたであろうが、実は、雉は雷電や地震を察知してなくという観念があった。その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸(くび)を句(ま)げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように、日本でも、そういう史料は多い。この主鷹司への雉の群衆は、三日後の地震の予兆と受け止められたに相違ない。そして、四月に日食の恠異があった上で、五月二八日、時の皇太子、安殿親王の妃の藤原帯子が「忽ちに病あり。木蓮子院に移す。頓逝」という大事件が発生した。しかも、六月一三日にまた地震があったのである。

 そもそも、この三年ほど前、七九一年一〇月から皇太子安殿親王は重病に陥っており、それは早良親王の怨霊の祟りとされていた。私は、これによって長岡京から愛宕京(平安京)への遷都がすすめられたと考えている。そういう状態のなかであったから、皇太子妃の頓死が深い恐怖をよんだことは明らかである。

 こうして六月末には諸国から人夫が動員されて新京を掃除し、七月一日には東西市も移ったのですが、同じ一〇日、「宮中ならびに京畿の官舎および人家に震す。あるいは震死者あり」という落雷事件が起きました。落雷と地震がどちらも怨霊の仕業で深く関係するものと考えられていたことは『歴史のなかの大地動乱』にも書いた通りである。そして、だめ押しのようにして九月一日・二日と連続して地震が起きる。桓武は、これによって耐えられなくなったものとおぼしく、その翌日三日に、天下諸国に、三日間、殺生禁断をし、仁王経を読誦するように命令を下した。そして二八日には諸国名神に奉幣し、二九日には念を入れて新宮(新内裏)で仁王経を読誦したのちに、一〇月五日、桓武は愛宕京に移動したのである。

 冒頭で南海トラフ巨大地震ではないかと推定した七九七年(延暦16)八月地震は、その三年後に起きた。しつこいようだが、その経過を確認してみると、『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があり、さらに、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を早良親王の陵墓のある淡路国に派遣し、仏経を転読させて、早良の霊に陳謝したという経過である。

 問題は、五月十九日条にある金剛般若経転読の対象となった「恠異」とは何かということになる。その中身については、これまで「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであったが、それが五月一三日の「雉あり、禁中正殿に群集す」という事件であったことは明らかである。しかも今度は、「禁中正殿」である。桓武朝廷は、三年前の経過を想起して怖気を振るったのであろう。その結果が「禁中并に東宮」における金剛般若経転読であったことは明らかである。

 これまで早良親王の怨霊はもっぱら雷神としての性格をいわれるのみであったが、以上から、早良親王の怨霊が地震を起こす霊威とも考えられていたことはまったく明瞭となる。

 この恐れのなかで、三ヶ月後、七九七年(延暦16)八月地震が発生したのである。このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。八〇〇年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。地震霊が富士の噴火霊に転変したというわけである。翌月二三日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。

 また、私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使(たとひ)日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧(やす)らかに是(か)くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。

 結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。

 最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。

 説明は紆余曲折したが、私は、こういう文脈で、七九七年(延暦16)八月地震を「崇道天皇地震」と呼んでおきたいと思う。そして、この地震が桓武がその最晩年を恐怖の中で過ごさせるだけの規模をもったものであったと推定しておきたいのである。

 さて、私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。

 もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。

 政府や責任諸官庁あるいは東京電力などは、それらの警告を無視し、マスコミも、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。これはとても科学先進国とはいえない事態であったというほかない。

 右の地震火山部会の建議「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について」が、大略、「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」という趣旨のものとなったのは、それを踏まえたものであった。この建議については2月刊行の『地殻災害の軽減と学術・教育』(日本学術叢書22、日本学術会議編)に詳しく解説される予定で、私も、そこに歴史学からの意見を書いたので、そちらを参照していただければと思う。

 こうして、私は、東日本大震災も東京電力の原発事故も人災であったことを詳しく知って一種の義憤にかられざるをえなかった。これを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、以上に述べたような政治史や宗教史のみならず、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。

2017年1月25日 (水)

オオナムチ(大国主)神話と西宮越木岩神社ーー兵庫ラジオカレッジでの放送原稿

 一月二一日の兵庫ラジオカレッジでの放送の原稿です。関西ラジオのページに放送ものっています。


 私は定年になりましたのが、二〇一二年三月でした。つまり、東日本大震災の翌年、震災からちょうど一年後に東京大学を退職したことになります。多忙な時でしたが、その退職直前に岩波新書の『歴史のなかの大地動乱』という本をだすことができました。この本を無理してかきましたのは、いうまでもなく東日本大震災がたいへんにショックだったからです。それまで少しは火山や地震の記録や史料をみていたのですが、これは本気で研究をしなければならないと考えました。そしてそのなかで自分の歴史学の位置や責任を一から考え直すということになりました。

 この本はなにしろ短い間に書いたものということもあって、間違いもあり、不十分なものですが、退職後の五年間、もっぱら地震・火山の研究をしてきました。今日は、そういうなかで気づいた一つの問題をお話したいと思います。それは、西宮市にあります越木岩神社についてです。この神社は、神社の方もいっておられますように、本来は、大国主命を祭るたいへんに由緒ある神社で、『延喜式』という一〇世紀初めの国家の正式の記録にでる大国主西神社という神社であろうということです。

 これは兵庫県の歴史に深く関係することですので、兵庫県の方々に、この話ができるのはありがたいことですが、この越木岩神社がなぜ、地震の話に関係するかといいますと、この神社の祭る大国主命という神様は、今いいました『歴史のなかの大地動乱』という本でくわしく論じましたように、日本の地震の神様だったからです。

 このオオクニヌシという神が日本の国を作った神、国作りの神であったことはいうまでもありません。ただ、この神の名前は若い頃はオホナムチといいましたので、しばらく、そう呼びたいと思いますが、このオオナムチのオオというのは大きいという意味です。そしてオオナムチのナというのは「つち」という意味の古い言葉です。細かい土を「スナ」といいますし、赤土のことを「ヘナ」といいます。ナというのは「つち」という意味なのです。またオオナムチのムチというのは尊いという意味になります。神様の名前のうちで最後にムチがついている神様は尊い神様です。

 ようするにオホナムチという大きな土の神、大地の尊い神様という意味で、『万葉集』には、この神が山を作ったというような和歌が残っています。私は、むかしの人がこの神が山を作ったというのは、この神が地震を起こすような大きな力をもっていたと考えていたのではないかと思うのです。

 ですけれども、それだけではオオナムチが地震の神であったということをはっきり説明することはできません。御納得いただけないだろうと思います。どう説明したらいいか迷うのですが、『播磨国風土記』などによるとオオナムチはいつも琴をもって出歩いていました。それから『出雲国風土記』でもある山の山頂にオオナムチのもっていた琴が石になって存在しているとあります。琴弾岩だとかよく言います。このオオナムチという神の形をした石が能登の国ではまつられていて、この神は石に縁が深いのですが、石の形をしたことがあったというのですね。

 問題はこの琴をオオナムチがどこで手に入れたかということですが、みなさんご存じのように『古事記』によりますと、オオナムチは兄たちに苛められて地下の国、「根の国」といいますが、そこに逃げ込んで、スサノヲノミコトの娘のすせり姫と恋いをするのですね。そして二人で密かに「根の国」を脱出しようとします。その逃げ出すときに、姫の父親のスサノヲが寝ているのを見計らって、スサノヲの宝物の琴をぬすみだします。オオナムチはすせり姫をおんぶして、さらに、肩に琴をかけて駆けだしたといいます。ところが、その琴が庭の木の枝にさわって大きな音がでてスサノヲが起きてしまい、スサノヲはオオナムチをおいかけるという物語です。

 これはジャックと豆の木というイギリスの童話と同じですね。ただジャックが行ったのは地下の国ではなくて空の上、雲の上にある巨人の国であったところが違いますが、巨人のもっとも大事な宝物がハープ、つまり琴だった。そしてジャックが琴を盗み出したときに自然に琴がなりだして巨人が起きてしまいジャックを追っかけたたという、細かなとこぉまで同じです。

 こういう日本とイギリスというまったく違う場所で同じような物語があるのはなぜかというのは神話や物語を研究する学問にとっては最大の問題であるわけですが、日本の神話のスサノヲとオホナムチの話が貴重なのは、この琴がどういう宝物なのかということがわかることです。つまり、ジャックと豆の木の話ではハープがなぜそんなに大事な宝物かはわからないのですが、スサノヲの琴は、『古事記』によりますと、木に触れたときに「地、とよみぬ」とあります。「とよむ」というのは「どよむ」と同じで大きな音がひびくということです。

 つまり琴がなると同時に大地が鳴り動いた。ようするに宝物の琴は地震を起こす道具だということです。『宇津保物語』という物語をご存じでしょうか。『源氏物語』より少し前、『古事記』が書かれた時より300年くらいあとになりますが、比叡山のあたりの山で母と息子が悪い武士に襲われそうになった。そこで宝物の琴をならすと地震がおきて武士を山崩れの中に閉じ込めてやっつけたという話が書いてあります。どうも、琴というのは大地の中の霊のようなもの、大地の霊、地霊ですね。この地霊を呼び出す力をもっているものだったようです。そのころの女の巫子はやはり琴をもっているのです。


 さて話が少しワキにそれましたが、実はスサノヲという神様自身がは地震を起こす神でした。ご存じのようにスサノヲは海の神ですが、父はイザナキ、母はイザナミです。ところが、イザナミが御産のときに死んでしまって、母なし子になってしまいます。そのためスサノヲは父親のイザナキが悪いんだということですねてしまいます。そして母を恋いしたって「哭(な)きいさちる」、つまり泣き叫んで、姉のアマテラスのいる天に昇るといいいだします。アマテラスはいわば母代わりという訳です。スサノヲは海の神だったわけですが、海を守るという役割を抛棄して天に駆け上ります。『古事記』によると、その時、スサノヲは「山川ことごとく動(とよ)み、国土みな震(ゆ)りぬ」という事態を引き起こしました。「山川ことごとく動(とよ)み」、つまり、山川の全体が鳴り動き、そして「国土みな震(ゆ)りぬ」、つまり国土全体がドーンとゆれたというわけです。

 こういう力をもったスサノヲが地震神だというのは明らかです。詳しくは私の本をみてほしいのですが、スサノヲが海の神であると同時に地震の神だというのは、ギリシャ神話のポセイドンと同じです。そういうことですから、スサノヲの宝物で、オホナムチが盗み出した琴というのは、ようするにスサノヲが地震を起こす力を意味しているのです。

 オホナムチがすせり姫と一緒に逃げ出したのを知ったスサノヲは、二人をおっかけますが、オホナムチは地下の国から地上に脱出するのに成功します。そして「根の国」「根の堅州の国」と、この世の間にある坂を一散に駆け下りました。追っかけてきて、やっとその坂の上についたスサノヲは坂の下をかけているオホナムチとスセリ姫をみつけます。そして、オホナムチに対して、「仕方がない。おまえはスセリ姫を妻として、その宝物を使って、地上の国の王となれ。そしてオオクニヌシと名乗れ。こいつめ」と叫んだといいます。いま「こいつめ」といいましたのは『古事記』の原文では「このヤッコや」とありますから、「この野郎」というようなことです。ムスメを取られて聟を「この野郎」とののしっているのですが、ここにはもうあきらめた、娘をよろしく頼むという感じもあります。

 こうしてオオナムチはオオクニヌシと名前を変えたのだというのが『古事記』の語るところです。土の神、大地の神であるだけでなく、国あるいは国家を作り、そのヌシとなった神ということでしょう。ただ、このオオクニヌシというのは『古事記』に独特な名称で、私は『古事記』の作者が作った名前なのではないかと疑っていますが、ともかく、こうしてオオナムチはオオクニヌシとなりました。そして、オオクニヌシは、山の麓に館を建て、スセリ姫と暮らし、宝物をつかって日本の王となったということです。

 ご存じのように、『古事記』では、この館は出雲にあります。ですから、「根の堅州の国」と、この世の境目は出雲国にある坂だというのですね。これは考えてみると奇妙な話ではないでしょうか。つまり、『古事記』は、地下から脱出してきて、この世に来るには長い坂をくだってくるのだというのです。これはどういうことなのでしょうか。地下からこの世に脱出するときに長い坂を上ってくるのなら自然ですけれど、ここには逆に坂を下ってくるとはっきり書いてあるのです。

 私、考えてみまして、地下からでてきて坂を下ってくるというのは、火山の火口をでてきて、その山を下ってくるということ以外に考えられないと思いました。そして「根の国」というのを『古事記』だけが「根の堅州国」といっているのですが、この「堅州」というのは鉄の鍛冶屋さん、鍛冶の「鍛」の字をカタスとよみます。つまり、「根の堅州の国」というのは、地下の鍛冶場の国、火の国という意味であると私は考えています。

 出雲には伯耆大山や三瓶山があって火山地帯ですからぴったり話はあうのです。出雲の国の神話、つまりそれを出雲神話といいますが、この出雲神話はようするに地震と火山の神話であることになります。これが正しいとすると、出雲神話の解釈が大きく変更されることになります。それだけに、これはまだ専門家のうちで一人しか賛成してくれていませんが、ともかく、こうしてスサノヲは地震の神であるだけでなく、火山の神であり、それはオオクニヌシも同じことだろうということになります。最近は火山と地震についての報道も多くなりましたので、ご存じのことと思いますが、火山の噴火の前後には火山性地震といいまして、かならず地震があります。むかしの人にとっては火山の噴火と地震は大事件ですから、噴火と地震の関係は多くの人びとが知っていたに違いないのです。その意味でも、火山の神と地震の神は同じ神だというのは納得いただけるのではないでしょうか。


 以上を前提にして、この地震の神のオオクニヌシが日本でどのように祭られていたかという話に入りたいと思います。史料からわかる限りのことですが、地震の神が祭られた最初は、推古天皇の時代、五九九年(推古七)のことです。つまり『日本書紀』という歴史書によりますと、このとき、たいへん大きな地震がありました。『日本書紀』には大地がゆれて家がことごとく倒れてしまったとあります。「ことごとく」というのはすべてということですから、これは誇張があると思うのですが、ともかく相当に大きな地震であったといってよいのでしょう。この時は推古天皇が即位して七年目ですが、推古天皇のころの『日本書紀』の記述は、すくなくとも年代については信頼してよいのではないかと思います。

 『日本書紀』を読みますと、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ」、つまり、いま申しましたように大地が揺れて、建物や家がすべて倒れたとあります。問題はそれにつづく部分です。読んでみますと「則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあるのです。大きな地震だったので、飛鳥からみて四方、東西南北に命令して地震の神、つまりオオクニヌシを祭らせたという訳です。

 私はオオクニヌシは出雲あるいはその近くの播磨国などに本来は縁の深い神であったと思いますが、相当早くから全国で祭られるようになっていると考えています。遅くとも、このときには各地で祭られたのは明らかでしょう。当時の人びとも日本の各地で同じ地震、同じ災害を経験した。そして、同じ神を祭ったということです。そして逆に、この地震によって同じ神が各地で祭られたのではないかということになりますと、相当の災害があったと考えてよいでしょう。

 もちろん、この時にどのようにオオクニヌシが祭られたのかということはよくわかりません。ただ、この時に祭られた地震の神の中にまず入っていたろうと思われるのが、吉野のオオナムチ神です。オオナムチ、つまりオオクニヌシの本来の名前ですが、この神を祭る神社は、吉野渓谷への入口、吉野川右岸の妹山の麓にあります。このイモ山というのは、歌舞伎の「妹背山女庭訓」をご存じでしたら、あそこにでてくる妹背山のうちの妹山にあたります。これは潮の水が湧くなどという伝説がきわめて有名であったためであろう。それでも今ではあまり有名ではないと思いますが、奈良時代から平安時代のはじめにはたいへん有名な神様で、平安時代はじめに日本全国の神様に朝廷から位を授けることになったとき、この神の位が正一位だというのですね。これは伊勢神宮を別とすれば、淡路国の伊佐奈岐命の一品に並ぶという別格の位の高さです。もちろん、ほかに正一位として藤原氏の祖先の神の天児屋根命がいますが、藤原氏の祖先の神の位が高くなったのは奈良時代のことだと思います。ですから、それより前は、この吉野のオオナムチの神が伊勢のアマテラス、淡路にいるイザナキについで全国で三番目の位置にある神社であることになります。いまでは奈良で一番偉い神様だとされているのはおそらく三輪山の大神神社だと思います。三輪山の神様はオオモノヌシといって、この神はオオナムチ、つまりオオクニヌシと同じ神様だといいますが、ただ、この奈良の三輪神社の神様は、従二位でしたから、吉野のオオナムチ神社の方が高いのです。朝廷のまつるオオクニヌシの神、オオナムチの神のご本家は吉野だったわけです。

 ただ、いま、吉野のオオナムチ神社といってしまいましたが、このころイモ山に神社があったということではありません。もちろんあるいは鳥居くらいはあったかもしれませんが、このオオナムチ神社は徳川の時代に神殿ができただけで、それまでは完全にご神体は山そのものだったといいます*1。これは奈良の三輪神社も同じです。しかもどちらもこんもりと丸く盛り上がった山です。こういう山の形をカンナビ型などといいますが、お椀か、お鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形です。同じような山として有名なのが比叡山の日吉神社の神の山です。牛尾山といいますが、ここにもスサノヲとオオクニヌシの縁の深い神が宿るということです。

 どうも、よくいわれますように、昔の人びとはこういう形の山に神が宿るとみたらしいのです。突飛なことをいうようですが、私は、これはこの形が火山の噴丘の形ににているためだと考えています。阿蘇火山の中には、円錐形のきれいな噴丘がありますが、ああいう山の形に昔の人は山の神の神秘をみていたのではないでしょうか。ああいう形は火山の噴火で岩や火山灰がふきでるとああいう形になる訳ですが、地震で地面から砂が吹き出た場合も、ああいう形の小山ができます。こういうことを昔の人は不思議だと思い、そこに土地、大地の神様の力をみたのではないかと思うのです。人びとが、そこに神がいるということをどのように認識したのか、神様を感じたのかということを考えると、こういうことになるのではないでしょうか。こういう火山の神、地震の神がオオクニヌシであったという訳です。


 そろそろ結論に近づいておりますので、もう少しおつきあいください。さて、最初に申し上げましたように、平安時代の初め頃の国家の記録に、摂津の菟原郡にある神社として「大国主西神社」という神社がみえます。これが西宮市の越木岩神社にあたるだろうと私は思うのです。つまり、大国主「西」というのが問題で、西があれば東があるわけですが、この「東」は吉野のオオナムチ神でしょう。つまり吉野のオオナムチの神と「大国主西神社」は東西一対の神なのではないかということです。これまで大国主西神社は三輪神社と一対のものだという意見もありましたが、三輪神社はむしろ都のそばで真ん中ですから、「東」ではなく、東西一対というのはいいにくいと思います。

 ともあれ、こうして「大国主西神社」は、やはり、吉野のオオナムチの神の山や三輪山の神の山の様子と似たものだろうということになる訳です。そしてそうだとすると、越木岩神社は、いかにもオオクニヌシを祭っているという風景をもっているのです。つまり、越木岩神社には大きな磐座、岩のまとまりがあります。越木岩神社という名前が、そもそも、甑、つまり米を蒸すセイロの形をした巨岩があることによるのですが、それのみでなく、北へ斜面をのぼる途中により大きな磐座があり、この線を北に延ばしたところにある北山の頂上にも磐座らしきものがあるといいます。そして何よりも重要なのは、その北北東に甲山という、まさに先ほど申し上げたような神のこもる山、見事なカンナビ型の山があることです。お椀かお鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形といいましたが、この山は火山の一部がそのまま地上に残って、こういう形になった山として地質学の研究者の間では大変に有名な山です*2。もちろん、火山として噴火したもは1200万年前といいますから、いわゆる死火山あるいはすでに死火山でもない火山のあとといってよいのかもしれませあんが、安山岩からなる岩山なわけです。奈良・京都などの都にもっとも近い火山地帯は出雲な訳ですが、この甲山は火山ではないとしても、都の人びとはオオナムチの雰囲気を感じていたでしょう。なにしろ、もう少し西へ行けば有馬温泉なのですから。出雲も伯耆大山と玉造温泉のセットがありますから。

 人びとは昔の人も、なぜここにだけ、六甲山の山の連なりからぴょこんと離れて、見事な円錐形のあんな形をした山があるのだろうというのを不思議に思っていたに違いありません。四〇年ほど前に甲山からはお祭り用の銅戈(どうか)が出土し、西宮市立郷土資料館に西宮市の指定重要文化財として所蔵されているといいます。古墳時代から(?)甲山は信仰の対象であったのでしょう。それは越木岩神社も同じであったに違いありません。越木岩神社から甲山のあたりは一体として一種の聖地であったのであろうと思います。

 私は五九九年の推古天皇の時代の地震ののちに吉野のオオナムチが地震の神として祭られたろうと申しましたが、以上に申し上げたようなことからいって、そのときほぼ同時に大国主西の神、つまり越木岩神社の神も祭られたに相違ないと思います。ただ、大国主「西」という名前は、もう一〇〇年ほど後にできた可能性が高いと思います。つまり、オオクニヌシという神の名前は、先ほど申し上げたように『古事記』に独特な呼び名で古事記の作者が作ったものです。神社の名前としてもこの大国主西神社を除いてはすべてオオナムチ神社となります。古事記ができたのは七世紀の後半以降ですから、ようするに一〇〇年後です。

 そしてその時代は天皇家はしばしば吉野に行った時代で、吉野は大きな聖地になりました。それと同時に対になる大国主西神社も崇拝されたのではないかというのが私の推定です。しかも、このとき、天武天皇の時代、六八四年にきわめて大きな地震がありました。つまり南海トラフ地震です。ご存じと思いますが、南海トラフ地震は、日本の太平洋岸を西から駿河湾の沖まで走っている海溝、プレートとプレートがぶつかっているところで起こります。この大きな地震は天武天皇に大きな衝撃をあたえましたが、しばらく後の天武の死去も、当時の人々は、そのためと考えた可能性すらあります。この地震のときも兵庫県は大きく揺れたにちがいありません。越木岩の神にもお参りする人が多かったでしょう。私は、そういう中で、この時に使われるようになった大国主という神の名前が、この神社に着けられることになったのではないかと考える訳です。人々は安全の祈願をしたのでしょう。昔も今も、この地震火山列島に住む人間の考えることにはそう大きな相違はないのではないかと思います。
 残念なことに越木岩神社の磐座の一部が破壊の危機にあるというように聞いています。これは是非残していただきたいものです。調査も十分にされていないのではないでしょうか。詳細な調査をすれば何が出てくるかはわからないと思います。もしこれが事実だとするとことは日本全体にかかわってくる歴史遺産ですので、ぜひ、慎重に考えていただきたいものだと思います。

2017年1月12日 (木)

大国主命と越木岩神社と

昨日、放送の録音をした「ひょうごラジオカレッジ」での講演は一月二一日7時からの放送と言うことです。大国主命と越木岩神社というテーマで話しました。

二〇一三年九月にも放送をしました。それは
下記で聞くことができます。
自分の声を聞くのは奇妙でしたが、
http://jocr.jp/podcast/kouza.xml
【2013年9月7日放送分】兵庫県高齢者放送大学ラジオ講座
2013年9月9日 14:00
2013年9月7日放送
メディアファイル
kouza130907.mp3

 みなさんおはようございます。保立道久です。

 もう20年近くまえになるわけですが、1995年の阪神大震災の時、震災の直後から、神戸の歴史家たちは歴史史料の保存、レスキュー運動ということにとり組みました。あるいは、ご存じでしょうか。わたしも、ちょうど、そのとき、歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、その関係で、神戸大学の方々と連絡をとって必要な相談をしました。また、しばらく後、神戸大学で授業をすることをたのまれて、一週間ほどのあいだ、神戸にいました。あの時の神戸の町の様子はわすれられません。

 そして、ちょうどその時に、市民の集会があって、小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。その集会は、歴史の史料をまもるという問題と、地震被害の国家補償をもとめるという二つのテーマをもっていました。この列島では、地震は、どこをおそうかわかりません。ですから、この国に棲むものは、いざという時、地域をまもることを意識する必要がある。その中で、地域に残った歴史史料もまもっていただく必要があるというのが歴史家の考え方です。それと同じように、この国では誰でもが地震被害にあう可能性があるのだから、それは個人的な不運ということではなく、みんなで支えあって国家補償が必要だということでした。東日本太平洋岸地震が起きてみると、これは必要な考え方だということが明らかになっているように思います。

 それにしても、三、一一はショックでした。実は、私はまだ東京大学につとめておりましたので、その直後、東京大学の地震研究所で開催された研究集会に参加しました。そこで、9世紀、869年に東北地方でおきた地震が、三、一一の大地震とほぼ同じような規模をもつものであることを知りました。この九世紀の地震の史料は当時の朝廷の残した記録に残っていて、私もその史料は読んだことがあったのですが、それだけでなく、それに対応する証拠が地面の下に残っていたのですね。つまり、巨大な津波は海底の砂を巻き上げて内陸に運びますが、そこには海洋性のプランクトンがふくまれています。ですから、顕微鏡でみれば、この砂は海からきたものだというのがわかるのです。そういう砂が3㌢だとか、場所によっては10㌢以上の厚さで残っている。9世紀にも海岸線から内陸へ3㌔以上も津波がやってきていた。それは3,11の津波がのぼってきた範囲とほぼあうということなのです。そしてこれだけ津波がのぼってくるためには九世紀の津波もマグニチュード8、5前後あるいはそれ以上の地震が起きているはずだというのが地震学の人の研究でした。ショックだったのは、このことは3、11のほぼ5年前には明らかになっていて、一部ではどう対応するかという議論もされていました。とくに原発についても九世紀の例からいって危険だということが東電に対して指摘されていたということです。研究集会では地震学・地質学の人々が、もう少し早く研究をまとめることができて、東北地方の人々にそれが広く伝わっていれば、いろいろな点で、事態は違っていたと嘆いているのを目前にしました。

 それなのに地震の動きの方が一瞬早かったということでしょうか。これはショックでした。つまり、地震学の人々のこういう研究を、この時代を専門とするほとんどの歴史研究者が、もちろん私をふくめて、知らなかったのです。これは歴史学の方に責任があります。私は、何ということだと考えて、急遽、8世紀、9世紀、奈良時代と平安時代初期の地震の研究をして、岩波新書で『歴史のなかの大地動乱』という本を書きました。

 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思います。とくに御話ししますのは、この869年の陸奥大津波の前年、868年に、兵庫県で発生した地震のことです。これは、この本を書く中で気づいたのですが、阪神大震災との関係で、もっと早く研究しておかねばならない問題だったと考えています。

 さて、この九世紀の兵庫県地震の震源は山崎断層にありました。山崎断層というのは、岡山県の東部から兵庫県の南東部にかけて広がっている断層帯です。主要部は約80㌔の長さで、美作市から斜めに姫路市・三木市までさがってきています。これは日本で一番最初に発掘調査をされた断層で、いまでも京都大学の防災研究所の観測点がおかれています。そして、そのボーリング調査で、868年の地震の痕跡が掘り当てられたのです。これについては、朝廷の記録も残っています。それによると、播磨国の役所や寺院の建物がほとんどたおれた、京都でも、大内裏の垣根がくずれたといいます。

 文字の史料とボーリング調査の両方がありますので、1000年以上前の地震の実態が正確にわかる訳です。震源断層は山崎断層。マグニチュード7。0以上ということです。まだまだ人口密度も少ない時代ですから、幸い、人命の被害はありませんでしたが、もしいま起きればただではすまない強い地震でした。

 問題は、この地震のとき、山崎断層だけではなくて、それにつられて六甲山の断層帯が激しくゆれたことです。つまり、朝廷が神戸の広田社と生田社に捧げた御祈りの文章が残っています。そこには神戸の近辺が何度も激しくゆれた。それは広田社の神の「ふしごり」によるということで恐れ多いとあります。「ふしごる」というのはめずらしい言葉ですが、木にフシが出来るようなごつごつした怒りという意味です。しかも、それがでてくる御祈りの文章は、神主さんの唱え言葉そのままの史料でしたから、読みにくい史料です。そのためもあって、この史料は、これまで地震史料と認識されていなかったのです。この史料を知ったときに、これは本来、阪神大震災の時から研究しておくべきであったということを実感させられました。

 阪神大震災の前、都市計画を作るうえで、神戸ではそんなに地震がないという風評があったといいます。地震学の人たちは、当時からそんなことはないといっていた訳ですが、そういう声は影響をもちえなかった訳です。ですから、この史料をもっと前に知っていれば、それが神戸の人々の常識になっていれば話しは少しは違ったかもしれないということです。後知恵ということになるかもしれませんが、今後はそういうことがあってはいけない。地震学や歴史学のような学問は我々の毎日の生活にとってあまり関係のないものにみえるかもしれません。しかし、そんなことはないので、こういうことから災害を予知する文化というものを根っこから作っていかねばならないと思います。

 さて、以上をまとめてみますと、この868年の地震は、兵庫県の西部が震源で、山崎断層という大断層がゆれた。それがはねかえって神戸も相当にゆれた。そしてそれが京都まで響いたということになります。

 重要なのは、朝廷が、この地震が起きた原因を広田社の神の怒りに求めたということです。実は、これがどのような神の怒りかというのは、朝廷にとっては相当に深刻な問題だったのです。つまり、応天門の変というのをご存じだと思います。伴大納言、伴善男が応天門に放火して政敵をおとしいれようとしたという大事件です。伴善男は、そのためにぎゃくに罪をこうむって伊豆に流されました。この伴大納言が、この年、流罪地の伊豆で、恨みを呑んで死んで、怨霊になっていたのです。怨霊、つまりこの世に災害をもたらすという訳ですが、奈良時代・平安時代の人々は、地震は怨霊によって起こると信じていました。この地震は伴善男の怨霊によるのだという噂が出まわったことは確実です。

 そして、さきほどいいましたように、翌年、陸奥大津波が起きました。三,一一の後、先日の淡路の地震はありましたが、幸い大きな被害をもたらす地震は起こっていません。ところが九世紀は現在よりもっと地震や噴火が激しい時代で、しばらく前には富士が大噴火を起こしています。その上で二年連続して相当の地震が起き、東北地方の津波では、一〇〇〇人もの人が死んだとされます。これは衝撃であったに違いないと思います。

 問題は、この陸奥の大津波の翌月、六月に京都で御霊会があり、京都の祇園社の伝承によれば、このときに播磨国の広峰神社の牛頭天王が京都にやってきたとされていることです。こういう由来で広峰神社は祇園の本社ともいわれています。

 御霊会というのは、しばらく前から京都だけでなく、各地で行われるようになっていたのですが、これは怨霊を鎮めるための祭りです。ですからこの時期に祇園の御霊会がはじまったというのはありそうな話しです。祇園御霊会というのは、連続した播磨地震・陸奥地震の中で、それを引き起こした怨霊の力を鎮めるということで始まったに違いありません。普通は、御霊会というともっぱら疫病の流行を鎮めるということだといわれるのですが、当時の考え方だと地震を起こす神と疫病を起こす神は同じ神さまなのです。実際に、伴善男も怨霊として疫病の神であったという史料があります。

 表面では、こういうことはなかなかみえませんが、日本の文化の中には地震、そして火山噴火に直面してきた人々の考え方というのが深いところに存在していたに違いないというのが、私の考え方です。祇園会はいうまでもなく、日本を代表するお祭りですが、その始まりには9世紀の地震の影響があったということです。これは、この列島に棲む人々の常識となってもよいことだと私は考えています。

 さらに、今日、申し上げたいのは、そこには兵庫県の歴史が深く関わっていたということです。大事なのは、祇園の牛頭天王が、本来は播磨国の広峯神社の神であったことです。広峯神社は、姫路の北、播磨地震の震源、山崎断層がとおる場所の少し南の谷にあります。この広峰の神が播磨から摂津の神戸を通って、地震とともに京都までやってきたと人々は想像したのではないでしょうか。広峰神社は、奈良時代には決して有名な神ではありませんでしたが、このとき以降、京都の人々には有名な神社になります。そういうことですから、広峯と祇園の関係は祇園会の開始の時期にさかのぼると考えてよいと思います。

 なお、意外と大事なことかもしれないと考えているのは、平家のことです。私は、平家は祇園社と深い関係があったのではないかと思います。白河天皇が祇園に縁のある女性、いわゆる祇園女御を中心として一種のハーレムといいますか、後宮ですね、を作ったということはご存じでしょうか。清盛が白河天皇の御落胤だという話しはお聞きになったことがあると思いますが、鼻は祇園女御(あるいはその妹)などといわれます。これは疑問はあるのですが、ただ、この祇園女御と清盛の父の忠盛は深い関係があったことは事実です。そもそも忠盛が出世したのは、祇園女御を通じて白河院に取り入ったためです。平家と祇園社の関係が深いのは確実だと思います。祇園社にいまでも「忠盛灯籠」というのがあるのはその証拠でしょう。

 ここからすると、平家は祇園社の本社といわれた広峰社との縁も深かったのではないかと考えています。ここから先は、まだいま考えているということなのですが、平家は、なにしろ忠盛・清盛と播磨国をもっとも重要な縄張りにしていましたから、そこにある祇園の本社、広峰と深い関係をもっていた可能性というのはありうるのではないかと考えているのです。そうだとすると、平家の作った福原京の山際に祇園社があることは無視できません。平家は祇園の神、地震の神を味方にしていたのではないかなどと考えています。

 以上、駆け足になりましたけれども、このところ勉強したことを報告いたしました。まだ時間が少しありますので申し上げますが、私は、去年、地震学の知人から歴史学はもっと地震学に協力してほしいといわれました。そして、文部科学省におかれた地震予知の研究計画を議論する委員会に参加してほしいといわれて地震学の人たちと議論してきました。そのなかで、地震学と歴史学の協力のためには、地震の歴史を専門的に研究する組織が必要であるということについて一致しました。これだけ豊かな国なのに、日本の政府はそういうことには十分な予算をだしませんので、こういう組織は、いつ、実現するかは分かりませんが、少しでも歴史学が役に立つように、今後も研究を続けたいと思っています。

 日本は地震・火山列島です。ですから、どの地域の歴史をとっても、地震や火山との関わりが刻まれています。そしてそれは文化の中にも刻まれているということを御伝え出来たとしたら幸いです。こういうことは、毎日毎日の生活の中からはなかなかみえてきません。しかし、私たちは、そういう国で生きている訳で、そこで行われた先祖の経験を尊重しなければならないと思います。またそれが娘・息子や子孫の世代に対する責任であるようにも思います。

2017年1月10日 (火)

大国主神話と西宮越木岩神社

兵庫ラジオカレッジで話し。予告

なお、越木岩神社の磐座の様子は、磐座学会を参照。http://iwakura.main.jp/news/20150419_news/newst_20150419.htmlを参照。そのページには越木岩神社の磐座の様子がくわしく書いてあります。たいへんに興味深い物です。

大国主神話と西宮越木岩神社
 私は東京大学で歴史の教師をしておりましたが、4年ほど前に定年になりまして高齢者の仲間入りをいたしました。ともかくこれで責任が軽くなりましたので、定年後は少し日本の神話と地震の関係について自由な勉強をしております。今日は、その中で気づきました、西宮市にあります甑岩神社と大国主命について御話しをしたいと思います。

 芦屋の東を流れる夙川をさかのぼっていき、山地に入ろうとするところにある越木岩神社は、社殿の背後に高さ約一〇メートル、周囲が約三〇メートルもあるという巨岩があって、徳川時代にも「祭神、巨岩にして倚畳甑のごとし」(「摂津名所図会」)といわれて有名でした。山崎宗鑑の詠句に「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」とありますから、この巨石は足利時代の後期からすでに広く知られていたわけです。甑というのは米を蒸す道具だから、「蒸すほどに暑き」というシャレが通用する訳だが、古くから、そういう形をした巨岩と考えられていたということです。

 私は、この神社こそ、『延喜式』神名帳の摂津兔原郡の項にみえる「大国主西神社」だと思います。莵原郡は明治時代に東の武庫郡に吸収されてしまって消滅しましたが、本来、夙川の西側で、芦屋市と神戸市東半分をふくむ地域でした。そこにはほかに「大国主西神社」と呼べそうな神社はない。越木岩神社の文書に明治五年に「西神社」、明治六年に「大国主西神社」とあるのは、少なくとも、当時、そう考えられていたことを示すと思います。

 さて今日お話ししようと思うのは、この大国主命という神がどういう神であったか、そして、それとの関係で、大国主西神社という神社の性格をどう考えたらいいかということですが、年輩の方は大国主命の物語を覚えておられると思います。兄たちにいじめられた大国主命、その頃の本来の名前はオホナムチですが、彼は出雲国の地下に広がる根の国に逃げ込むのですが、そこには素戔嗚尊がいます。それが逆にいい結果となって、スサノヲの娘のスセリ姫と恋愛をする訳です。そして二人は気脈を通じて、父のスサノヲをだまして逃げ出そうとした。その時、彼らはスサノヲの三つの宝物、「生太刀・生弓矢・天の沼琴」を盗み出すのですが、この時、スセリ姫をオンブしたオオナムチの担いだ「天の沼琴」が「樹に払れて地(つち)動鳴(とよ)みき」(木にさわって大地がゆれた)といいます。このジャックと豆の木の童話でジャックが竪琴を盗んで逃げ出したときに、竪琴が鳴り響いたことを想起させる物語は、「天の沼琴」が地震を発する呪具であったことを示しています。これはようするに、大国主命が地震の神となったということでしょう。

 詳しくは番組で御話しますが、こういう地震の神を祭る神社が、なぜここにあるのか、番組では、それについての私の意見をいおうと思います。

2016年10月15日 (土)

ブラタモリ。貞観噴火は。日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす

 
 ブラタモリをみた。貞観噴火の噴火口を千葉達郎さんが案内いしているというもので、これはみれてよかった。

 スパターの解説がよくわかった。宮沢賢治の「気のいい火山弾」には「牛の糞」というのがでてきたと思うが、あれがスパターなのではないかというのが感想。

 『歴史のなかの大地動乱』を書いたときには、貞観噴火の割れ目、側火山列のことまでわからず、ともかく書いたという記憶である。
 
 ただ、歴史家からみると、この貞観噴火は、日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす資料になる。

 つまり、史料には「富士郡正三位浅間大神の大山」が自ら「火」を発したとあるように、人々は、これを「浅間大神」の仕業とみたのである。

 以下は上記拙著からの引用。

 人々は、火山の神が光炎を噴出し、雷電の大音声を発し、神体=山体を震わせ、地上を暗闇にして溶岩流を押し出して、動植物と人間を殺したとみていたのである。火山の神は、噴火のみでなく、雷電・地震の神と三位一体になり、すべての生殺与奪の権限をもつ恐るべき姿を顕わにするのである。

 人々は、噴火の最中は、富士山に近づくこともできなかったが、そのうちに、富士山の西北部の本栖湖に溶岩流が流れ込んでいるのが発見された。この溶岩流は、富士山の「西峯」=西側斜面で起きた側噴火から流出した大規模なもので、駿河国の報告によれば、全長、三十余里(約二〇㌔余)、幅、三.四里ほど(二.三㌔)で、遠く甲斐国の堺まで到達しているという。

 そして、約一月半の後の甲斐国の報告によれば、溶岩は本栖湖と剗湖の二つの湖水に流入し、水は沸騰し、魚類は全滅。住居は埋没するか、無人の廃屋となってしまい、多くの人が焼け死んだという。これによって、最も西に位置する本栖湖が狭くなり、また広かった剗湖が精進湖と西湖に分かれた。そして、溶岩流は、さらに東の河口湖にも向かったというが、この溶岩流の流れは、現在の青木ケ原溶岩流の状況にほぼ対応している。ようするに、この大噴火によって、現在の富士五湖の原風景が形成されたのである。

 この甲斐国の報告は「地は大震動し、雷電は暴雨のごとく、雲霧は晦冥にして、山野も弁じがたし」としているが、このような強力な火山神のイメージを作りだす原動力は地域社会の内部にあった。つまり、この噴火は駿河国が「年来疫旱、荐ねて臻る」という旱魃と疫病の流行の真っ最中に発生した(『三代實録』貞觀六年十二月十日)。これをうけて、噴火の翌年、八六五年(貞観七)に、甲斐国八代郡の郡司に富士大神が憑依して、「我は浅間明神なり」と称して、神社を建立せよと命令したという。富士大神は、甲斐国司が兇悪で、百姓が病死などの辛苦にあっているのを顧慮しないことに対して怒って、この「恠」をあらわしたのだ。大神に「鎮謝」し、「齋祭」を行えというのが、その託宣であった。この託宣をした時、郡司の身体が八尺(二.四㍍)と二尺(六〇㌢)の間を伸縮するようにみえたという噂が広がったという。これは地域に強力な神を抱え込むことによって、国家に対して要求を強めるという点で、怨霊を祭る御霊信仰と軌を一にするものである。

 今まで、富士を祭る神社は駿河国の側にしかなかったが、これによって甲斐国の側でも富士の山裾、八代郡の郡衙の南側に「浅間明神」の「神宮」が立ったのである。そして、それを検分しにきた国司の使者、溶岩流が剗湖の千余町の広さを埋め尽くしているのを確認し、そこから仰ぎ見たところ、「正中の最頂」にも「社宮」が出来上がっているのを目撃したという噂が広がった。

 火山には「神宮」があって、そこには神が棲むというのは、阿蘇火山の例を筆頭にして、伊豆神津島の例にいたるまで、すでに指摘したように、この時代の一つの通念であった。しかし、富士の「神宮」の様子はさすがに華麗である。目撃譚によると、富士の神宮は四隅に丹青の石でできた垣が組んであり、下からみると、その垣石は、高さは一丈八尺許(五,五㍍)、広さ三尺ほど、厚さ一尺余という巨大なもので、その石垣の中央には、やはり石でできた門があったという。入り口は一尺ほどの狭き門にみえるが、内部には、多彩の石でできた「一重高閣」がそびえ立っていて、その美しさは言葉にすることもできないものであったという。

 九世紀の著名な文人、都良香が作った「富士山記」には、噴火の約一〇年ほど後、国司・郡司や民衆が収穫祭(新嘗祭)の季節に、富士の浅間明神の祭礼をしている時、山峯に「白衣の美女」が二人現れて、天空を舞ったという幻想が記録されている。また、山頂には甑釜のような窪地の底に、周囲を青竹の林でかこまれた純青の「神池」があって、周囲からは沸騰する青い蒸気が噴き出ている。そして、そこに虎のような形をした石が踞っているという。火山学の小山真人は、この「虎石」らしき石はいまでも富士火口にあるから、、これは現実に火口まで上った人の伝聞にもとづいたイメージだろうといっている。これらの幻想が九世紀末の『竹取物語』に実を結ぶことはいうまでもない。

2016年10月 7日 (金)

ひょうごラジオカレッジで3年ほど前にはなしたこと。

 以下は神戸の兵庫県高齢者放送大学、ひょうごラジオカレッジで3年ほど前にはなしたものです。
 

 みなさんおはようございます。保立道久です。

 もう20年近くまえになるわけですが、1995年の阪神大震災の時、震災の直後から、神戸の歴史家たちは歴史史料の保存、レスキュー運動ということにとり組みました。あるいは、ご存じでしょうか。わたしも、ちょうど、そのとき、歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、その関係で、神戸大学の方々と連絡をとって必要な相談をしました。また、しばらく後、神戸大学で授業をすることをたのまれて、一週間ほどのあいだ、神戸にいました。あの時の神戸の町の様子はわすれられません。

 そして、ちょうどその時に、市民の集会があって、小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。その集会は、歴史の史料をまもるという問題と、地震被害の国家補償をもとめるという二つのテーマをもっていました。この列島では、地震は、どこをおそうかわかりません。ですから、この国に棲むものは、いざという時、地域をまもることを意識する必要がある。その中で、地域に残った歴史史料もまもっていただく必要があるというのが歴史家の考え方です。それと同じように、この国では誰でもが地震被害にあう可能性があるのだから、それは個人的な不運ということではなく、みんなで支えあって国家補償が必要だということでした。東日本太平洋岸地震が起きてみると、これは必要な考え方だということが明らかになっているように思います。

 それにしても、三、一一はショックでした。実は、私はまだ東京大学につとめておりましたので、その直後、東京大学の地震研究所で開催された研究集会に参加しました。そこで、9世紀、869年に東北地方でおきた地震が、三、一一の大地震とほぼ同じような規模をもつものであることを知りました。この九世紀の地震の史料は当時の朝廷の残した記録に残っていて、私もその史料は読んだことがあったのですが、それだけでなく、それに対応する証拠が地面の下に残っていたのですね。つまり、巨大な津波は海底の砂を巻き上げて内陸に運びますが、そこには海洋性のプランクトンがふくまれています。ですから、顕微鏡でみれば、この砂は海からきたものだというのがわかるのです。そういう砂が3㌢だとか、場所によっては10㌢以上の厚さで残っている。9世紀にも海岸線から内陸へ3㌔以上も津波がやってきていた。それは3,11の津波がのぼってきた範囲とほぼあうということなのです。そしてこれだけ津波がのぼってくるためには九世紀の津波もマグニチュード8、5前後あるいはそれ以上の地震が起きているはずだというのが地震学の人の研究でした。ショックだったのは、このことは3、11のほぼ15年前には明らかになっていて、しばらく前から、一部ではどう対応するかという議論もされていました。とくに原発についても九世紀の例からいって危険だということが東電に対して指摘されていたということです。研究集会では地震学・地質学の人々が、もう少し早く研究をまとめることができて、東北地方の人々にそれが広く伝わっていれば、いろいろな点で、事態は違っていたと嘆いているのを目前にしました。

 それなのに地震の動きの方が一瞬早かったということでしょうか。これはショックでした。つまり、地震学の人々のこういう研究を、この時代を専門とするほとんどの歴史研究者が、もちろん私をふくめて、知らなかったのです。これは歴史学の方に責任があります。私は、何ということだと考えて、急遽、8世紀、9世紀、奈良時代と平安時代初期の地震の研究をして、岩波新書で『歴史のなかの大地動乱』という本を書きました。

 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思います。とくに御話ししますのは、この869年の陸奥大津波の前年、868年に、兵庫県で発生した地震のことです。これは、この本を書く中で気づいたのですが、阪神大震災との関係で、もっと早く研究しておかねばならない問題だったと考えています。

 さて、この九世紀の兵庫県地震の震源は山崎断層にありました。山崎断層というのは、岡山県の東部から兵庫県の南東部にかけて広がっている断層帯です。主要部は約80㌔の長さで、美作市から斜めに姫路市・三木市までさがってきています。これは日本で一番最初に発掘調査をされた断層で、いまでも京都大学の防災研究所の観測点がおかれています。そして、そのボーリング調査で、868年の地震の痕跡が掘り当てられたのです。これについては、朝廷の記録も残っています。それによると、播磨国の役所や寺院の建物がほとんどたおれた、京都でも、大内裏の垣根がくずれたといいます。

 文字の史料とボーリング調査の両方がありますので、1000年以上前の地震の実態が正確にわかる訳です。震源断層は山崎断層。マグニチュード7。0以上ということです。まだまだ人口密度も少ない時代ですから、幸い、人命の被害はありませんでしたが、もしいま起きればただではすまない強い地震でした。

 問題は、この地震のとき、山崎断層だけではなくて、それにつられて六甲山の断層帯が激しくゆれたことです。つまり、朝廷が神戸の広田社と生田社に捧げた御祈りの文章が残っています。そこには神戸の近辺が何度も激しくゆれた。それは広田社の神の「ふしごり」によるということで恐れ多いとあります。「ふしごる」というのはめずらしい言葉ですが、木にフシが出来るようなごつごつした怒りという意味です。しかも、それがでてくる御祈りの文章は、神主さんの唱え言葉そのままの史料でしたから、読みにくい史料です。そのためもあって、この史料は、これまで地震史料と認識されていなかったのです。この史料を知ったときに、これは本来、阪神大震災の時から研究しておくべきであったということを実感させられました。

 阪神大震災の前、都市計画を作るうえで、神戸ではそんなに地震がないという風評があったといいます。地震学の人たちは、当時からそんなことはないといっていた訳ですが、そういう声は影響をもちえなかった訳です。ですから、この史料をもっと前に知っていれば、それが神戸の人々の常識になっていれば話しは少しは違ったかもしれないということです。後知恵ということになるかもしれませんが、今後はそういうことがあってはいけない。地震学や歴史学のような学問は我々の毎日の生活にとってあまり関係のないものにみえるかもしれません。しかし、そんなことはないので、こういうことから災害を予知する文化というものを根っこから作っていかねばならないと思います。

 さて、以上をまとめてみますと、この868年の地震は、兵庫県の西部が震源で、山崎断層という大断層がゆれた。それがはねかえって神戸も相当にゆれた。そしてそれが京都まで響いたということになります。
 重要なのは、朝廷が、この地震が起きた原因を広田社の神の怒りに求めたということです。実は、これがどのような神の怒りかというのは、朝廷にとっては相当に深刻な問題だったのです。つまり、応天門の変というのをご存じだと思います。伴大納言、伴善男が応天門に放火して政敵をおとしいれようとしたという大事件です。伴善男は、そのためにぎゃくに罪をこうむって伊豆に流されました。この伴大納言が、この年、流罪地の伊豆で、恨みを呑んで死んで、怨霊になっていたのです。怨霊、つまりこの世に災害をもたらすという訳ですが、奈良時代・平安時代の人々は、地震は怨霊によって起こると信じていました。この地震は伴善男の怨霊によるのだという噂が出まわったことは確実です。

 そして、さきほどいいましたように、翌年、陸奥大津波が起きました。三,一一の後、先日の淡路の地震はありましたが、幸い大きな被害をもたらす地震は起こっていません。ところが九世紀は現在よりもっと地震や噴火が激しい時代で、しばらく前には富士が大噴火を起こしています。その上で二年連続して相当の地震が起き、東北地方の津波では、一〇〇〇人もの人が死んだとされます。これは衝撃であったに違いないと思います。
 問題は、この陸奥の大津波の翌月、六月に京都で御霊会があり、京都の祇園社の伝承によれば、このときに播磨国の広峰神社の牛頭天王が京都にやってきたとされていることです。こういう由来で広峰神社は祇園の本社ともいわれています。

 御霊会というのは、しばらく前から京都だけでなく、各地で行われるようになっていたのですが、これは怨霊を鎮めるための祭りです。ですからこの時期に祇園の御霊会がはじまったというのはありそうな話しです。祇園御霊会というのは、連続した播磨地震・陸奥地震の中で、それを引き起こした怨霊の力を鎮めるということで始まったに違いありません。普通は、御霊会というともっぱら疫病の流行を鎮めるということだといわれるのですが、当時の考え方だと地震を起こす神と疫病を起こす神は同じ神さまなのです。実際に、伴善男も怨霊として疫病の神であったという史料があります。

 表面では、こういうことはなかなかみえませんが、日本の文化の中には地震、そして火山噴火に直面してきた人々の考え方というのが深いところに存在していたに違いないというのが、私の考え方です。祇園会はいうまでもなく、日本を代表するお祭りですが、その始まりには9世紀の地震の影響があったということです。これは、この列島に棲む人々の常識となってもよいことだと私は考えています。

 さらに、今日、申し上げたいのは、そこには兵庫県の歴史が深く関わっていたということです。大事なのは、祇園の牛頭天王が、本来は播磨国の広峯神社の神であったことです。広峯神社は、姫路の北、播磨地震の震源、山崎断層がとおる場所の少し南の谷にあります。この広峰の神が播磨から摂津の神戸を通って、地震とともに京都までやってきたと人々は想像したのではないでしょうか。広峰神社は、奈良時代には決して有名な神ではありませんでしたが、このとき以降、京都の人々には有名な神社になります。そういうことですから、広峯と祇園の関係は祇園会の開始の時期にさかのぼると考えてよいと思います。

 なお、意外と大事なことかもしれないと考えているのは、平家のことです。私は、平家は祇園社と深い関係があったのではないかと思います。白河天皇が祇園に縁のある女性、いわゆる祇園女御を中心として一種のハーレムといいますか、後宮ですね、を作ったということはご存じでしょうか。清盛が白河天皇の御落胤だという話しはお聞きになったことがあると思いますが、鼻は祇園女御(あるいはその妹)などといわれます。これは疑問はあるのですが、ただ、この祇園女御と清盛の父の忠盛は深い関係があったことは事実です。そもそも忠盛が出世したのは、祇園女御を通じて白河院に取り入ったためです。平家と祇園社の関係が深いのは確実だと思います。祇園社にいまでも「忠盛灯籠」というのがあるのはその証拠でしょう。

 ここからすると、平家は祇園社の本社といわれた広峰社との縁も深かったのではないかと考えています。ここから先は、まだいま考えているということなのですが、平家は、なにしろ忠盛・清盛と播磨国をもっとも重要な縄張りにしていましたから、そこにある祇園の本社、広峰と深い関係をもっていた可能性というのはありうるのではないかと考えているのです。そうだとすると、平家の作った福原京の山際に祇園社があることは無視できません。平家は祇園の神、地震の神を味方にしていたのではないかなどと考えています。

 以上、駆け足になりましたけれども、このところ勉強したことを報告いたしました。まだ時間が少しありますので申し上げますが、私は、去年、地震学の知人から歴史学はもっと地震学に協力してほしいといわれました。そして、文部科学省におかれた地震予知の研究計画を議論する委員会に参加してほしいといわれて地震学の人たちと議論してきました。そのなかで、地震学と歴史学の協力のためには、地震の歴史を専門的に研究する組織が必要であるということについて一致しました。これだけ豊かな国なのに、日本の政府はそういうことには十分な予算をだしませんので、こういう組織は、いつ、実現するかは分かりませんが、少しでも歴史学が役に立つように、今後も研究を続けたいと思っています。

 日本は地震・火山列島です。ですから、どの地域の歴史をとっても、地震や火山との関わりが刻まれています。そしてそれは文化の中にも刻まれているということを御伝え出来たとしたら幸いです。こういうことは、毎日毎日の生活の中からはなかなかみえてきません。しかし、私たちは、そういう国で生きている訳で、そこで行われた先祖の経験を尊重しなければならないと思います。またそれが娘・息子や子孫の世代に対する責任であるようにも思います。

2016年10月 3日 (月)

石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーの編別構成です。

石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーの編別構成です。
長いものをかかせていただいた編集部に感謝しています。

はじめに
一 英雄と英雄神論――イワレヒコとヤマトタケル
A津田史学と混迷した英雄時代論争
(1)津田史学の評価について
(2)「英雄・英雄神」への着眼への正当性と誤り
(3)石母田のヘーゲル依存の問題性について
B石母田のイワレヒコ論とヤマトタケル論の限界
(1)イワレヒコと久米歌――益田勝実の見解
(2)イワレヒコのタカミムスヒ祭祀
(3)ヤマトタケルは浪漫的英雄か?
(4)ヤマトタケルの遍歴と神々との戦い
C前方後円墳論と英雄時代論争
(1)王権祭祀と前方後円墳
(2)前方後円墳と骨カルト
(3)前方後円墳と「屍=骨=カバネ」身分
(4)英雄時代論争をどう考えるか
二 地震神・火山神論――オホナムチ・オホクニヌシ
A松村神話論への石母田の批判
(1)松村武雄『日本神話の研究』--神話学と歴史学
(2)松村武雄のオホナムチ論と小川琢治「東西文化民族の地震に関する神話及び伝説」
(3)石母田正のオホナムチ論
Bスサノヲ論--前提として
(1)国生・神生神話と火山の女神イザナミ
(2)海神スサノヲと穢のスサノヲ
(3)根国の无間大火と気吹戸主
(4)スサノヲとオホナムチの遭遇--地震と火山
C火山地震神としてのオホナムチ・スクナヒコナ
(1)オホナムチの神名の理解--前提として
(2)オホナムチの火山神としての本質
(3)巨人神オホナムチの地震神としての本質
(4)スクナヒコナの土壌神としての本質
(5)土壌神スクナヒコナと硫黄・焼畑
(6)津波の光と海から来た土
D生業神・性神としてのオホクニヌシ・大年神
(1)オホクニヌシの神名の理解--前提として
(2)三輪山の龍神、王権の性神
(3)三輪山の大年神
(4)大年神の系譜
(5)山末の大主神(日吉と松尾)の系譜
(6)オホナムチ(+スクナヒコナ)からオホクニヌシ(+大年神)へ
三 『古事記』と出雲、根の堅州国
A出雲神話の位置
(1)石母田の出雲神話論
(2)村井康彦『出雲と大和』の観点
(3)七世紀の地震と斉明・天智・天武の母子王朝
B根の堅州国ーー出雲
(1)「根の国」の語義
(2)「堅州国」の語義
(3)「根の堅州国」の空間的位置 
(4)出雲の火山と地震
C奈良王朝と多元神話
(1)出雲神話の本質
(2)多元神話の収斂と伊勢・東大寺
(3)天武の「吉野神話」とその変容
おわりに--津田批判と松村武雄批判

より以前の記事一覧