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カテゴリー「火山・地震」の161件の記事

2018年9月15日 (土)

皇極女帝の近江行幸と地震神。ある博物館での講演会の要旨。

ある博物館での講演会の要旨。

皇極女帝の近江行幸と地震神

 七世紀初期くらいまでの天皇は四〇前後で即位して、終身、天皇の座にいるもの
であったが、中大兄が蘇我入鹿を襲撃した、有名な645年の事件を機に譲位と
いう天皇の行動の仕方を作ったのが皇極女帝である。女帝は弟の孝徳を天皇と
し、自分は「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)の地位についた。これは、実際
上、後の太上天皇にあたるもので、中国と違って奈良時代から上皇の位置が強
かったという日本の天皇制の特徴の原型を示すものといってよい。女帝は夫の舒
明の死によって即位したのであるが、女帝自身が、継体・欽明・敏達・舒明と続
く継体王統の正統を継ぐ位置にあった。

 いうまでもなく近江は継体王統の最大の根拠地であるが、皇極女帝も近江と深
い縁をもっていた。斉明五年(六五九)に女帝が(おそらく中大兄・大海人の二
人の息子も一緒に、吉野から近江の平浦宮に行幸したことである。吉野には畿内
の神々のうちで最高の神位をもつ大名持神社があり、有名な妹背山のうちの妹山
を神体としている。そして平浦宮の北には日吉神社の神体山である牛尾山があ
る。両方を訪れればわかるように、この二つの山はいわゆる甘南備型の美麗な山
であって、実はそこには地震の神が宿っているのである。講演では、女帝が、こ
の行幸に籠めた意図を御説明したい。

2018年9月12日 (水)

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

 下記はある博物館の友の会の講演会で話す内容の概要。
 これを書くのに三〇分をかけたのであろうか。もう少しかけたのであろうか。
 肱の神経手術の抜糸が明日。順調だが、糸が引きつれるのだろうか。ひりひりする。
 しかし、人間が人間自身の神経をあやつれるようになったというのは、身体の実在論的あるいは唯物論的な理解、より端的に言えばサイエンスという意味での学術的理解・了解にとっては決定的なことだ。と思う。
 これは人間の自己理解を変えていく。

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたのは主に八・九世紀の地震・噴火の歴史でした。私はこの時期を大地動乱の時代と考えました。

 その後、私は、日本列島での地震や火山活動の活発期は、これまでだいたい三回ほどあったのではないかと考えるに至りました。その第一は紀元前後の時期で、東北地方で今回の3,11陸奥沖海溝地震と同様の津波痕跡が確認されており、また南海トラフ地震の大きな痕跡も確定しています。第二は右の新書で取り扱った時期になりますが、第三は一五世紀に起こった3・11と相似した一四五四年の奥州津波から始まり、一七〇七年の南海トラフ巨大地震から富士噴火につながる時期になります。

 ようするに、日本列島における大地動乱期は六〇〇年ほどの相対的安定期をおいて始まって、三〇〇年ほど続くのではないかということです。ただ、このような長期の周期性が本当にあるのかどうかは、地球科学によって確定されるべきことで、これは史料からみる限りではという仮説にすぎません。

 もしそうだとすると、現在は列島が知られる限りで四度目の「大地動乱期」に入ったということになります。これは理学的に確定したことではなく仮説にすぎませんが、ただ「大地動乱の時代」というと今にも天地がひっくり返るかのような印象ですが、もし、この仮説が正しいとすると、この事態を考え、備える相当の時間が許されているということになります(もちろん、ふたたび原発事故を起こすというようなことになれば天地はひっくり返りますが)。

 なお、第一の時期については、これが倭国神話の形成期にあたるのではないか、そのために倭国神話は地震火山神話というべき性格をもったのではないかと考えています。これについては右の新書でふれましたが、現在、それを敷衍して詳しく倭国神話を考える作業をしており、それについて御話しします。その一端は最近出版しました『現代語訳 老子』(ちくま新書)にも記しましたので参照願えれば幸いです。

2018年8月14日 (火)

銅鐸の祭りは雷神の祭り

 文芸春秋で邪馬台国について対談をしました。寺沢薫・倉本一宏の両氏との対談です。

 寺沢薫さんとは初めてで、『王権誕生』をよく読んだので、いろいろ教わりました。
 
 詳細は九月号(芥川賞号)に掲載の対談でお読みいただければ幸いですが、下記の発言は、地震に関係することなので追補しておきます。

 (オリジナルな研究結果については、直接にブログで先行することは、誰に迷惑をかけるかわからないので、しないことにしています。SNSが早い者勝ちの競争の場になってしまっては困ります。ただ、これは発言して記録されたことなので、追補します)。

 発言は下記のようなもの 

 「考古学が銅鐸をえがいたと認める鳥取出土の土器の線描には蛹のような銅鐸の絵が描かれていますが、それが樹状に分かれた模様からぶら下がっているのが重要で、これは雷電を示すと思います。

 大阪の池上曽根出土の壺に龍のそばに描かれた雷電と同じものです。銅鐸は雷神=龍神を祭ったのではないでしょうか。昔の人は落雷で大地が揺れるので、雷神と地震神は同一だと考えていた可能性があります。銅鐸は地震計かもしれません。

 注目すべきは、吉備には早くから「龍神神話」があったと認められていることです。この龍神神話を持った吉備が銅鐸文化圏を先導して誕生したのが、神話国家・邪馬台国ではないかと私は考えているのです」。

 鳥取出土の土器の線描とは下記

 Photo

 


左はその部分拡大図

Cci20180714

 これは春成秀爾氏が鳴らす舌が入っている銅鐸を下から見た図としている。これは蛹(さなぎ)のようにみえるが、周知のように「鐸」の字は「さなぎ」と読む。それは振るとからから鳴るからだと思う。「さなぎ」とは穀霊(さ)が鳴くこと。

 下段の図が、大阪の「池上曽根出土の壺に龍のそばに描かれた雷電」とは下記のようなもの

Photo_2

 こういう論理で上記のように論じました。

 新潮社の講座でも話したことですが、銅鐸の祭りのイメージは、これまでの研究でははっきりしていません。

 もし上記が成立するとすると雷神タカミムスヒの祭り(参照『歴史のなかの大地動乱』)にあたるものが原古より行われていたということになります。

 


2018年7月 7日 (土)

平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波(『HUMAN』Vol3、2012年12月)

 平安鎌倉時代の山崩れを含む洪水の史料を探索して書いた論文を公開します。

 大雨での死者が多数に上るという状態が起きないように国土計画と防災を本格的に考えるべき時期であることは明らかだと思います。歴史学も災害史という側面から何か下支えをすることが求められていると思います。

平安・鎌倉時代の災害と地震・山津波(『HUMAN』Vol3、2012年12月。人間文化研究機構編)

 二・三年前から、この列島を襲う集中豪雨によって各地で山地が地盤崩壊を起こしているという。地質学・土木工学の研究者は、それを深層崩壊(deep-seated landslide)と呼んで国土の安全の保守について警告を発している。とくに二〇一一年三月一一日の東日本太平洋岸地震の揺れは、福島県の葉の木平で、とても地崩れが起こるとは思えないような緩斜面を一挙に崩壊させ、大きな被害を出した。また九月には豪雨が紀伊半島を襲い、和歌山県十津川で谷間の村が対岸の山の深層崩壊によって埋没したことも記憶に新しい。
 このような山地の地盤崩壊は、ただの山崩れというよりも山津波というべきものであろう。集中豪雨は温暖化にともなう気候の不安定化の表現であり、海水温の上昇が直接のきっかけになるという。そして地震がしばしば地盤を揺することが、その深層崩壊に結びつくこともいうまでもない。もちろん、これらは、まずは二〇世紀に進行した国土の乱開発の結果であると考えなければならないが、同時に、温暖化の中で地震の活発期が到来したという条件が、それを倍加しているのである。国土の保守ということが身近な話題となる時代が到来しており、歴史学もそれと無縁ではいられないと思う。

堰止め湖の形成と決壊

 さて、先日刊行した『歴史のなかの大地動乱ー奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書、二〇一二年八月)で述べたように、八・九世紀も地震の頻発と温暖化の時代であった。八六九年(貞観十一)に発生した陸奥海溝地震(「貞観地震」)は、三・一一東日本太平洋岸地震とほぼ同じ震源と起震構造をもっていた。私は、この地震の規模が、ここ一〇年ほどの地質学者の調査によって震災前にすでに明らかとなっていたことを知らず、あわてて研究に取り組み始めたが、その中で、この時代、しばしば地震や噴火による山間での堰止め湖の形成とその決壊による災害が起きていたことを知った。それは現在起きている問題と基本的に相似した、まさに山津波=深層崩壊の問題である。右の拙著で概観したように、七一五年(和銅八)の遠江(とおとうみ)・三河地(M6,5-7,5)震にともなう洪水、八一八年(弘仁(こうにん)九)の北関東地震(M7,5以上)にともなう「水潦」(洪水)、八八七年(仁和三)の南海トラフ地震(M8~8,5)にともなう八ヶ岳山体の崩壊によって形成された古千曲湖(こちくまこ)の決壊にともなう大洪水などは、その明瞭な事例である。
 さて、このような山地の地盤崩壊の問題を八・九世紀の史料に即して初めて指摘したのは、『古地震』(東京大学出版会、一九八二年)にのった論文「弘仁九年七月地震」(萩原尊禮・山本武夫)であろう。この論文は右にあげた八一八年の北関東地震の史料に「上野(こうづけ)等の境、地震災をなし、水潦相仍(あいかさな)り」とあることを詳しく論じた。それまでの地震学の見解では、この史料のいう「水潦」は津波と誤解されていたが、史料編纂所の山本武夫は、「水潦」とは「洪水」を意味する語であり、この記事は上野国あたりで山地に堰止め湖が形成され、その決壊によって洪水が発生したのであろうと解釈したのである。それまで地震学の側では、南関東も津波に襲われたと考えていた訳であるが、山本氏の歴史地震研究への参加によって、この地震は北関東の内陸地震であることが確定したのである。
 また現在の状況との関係で重要なのは、最後にあげた八八七年の東海南海大津波地震による大洪水であろう。この地震が東海南海大地震であることを論証したのは石橋克彦の論文「文献史料からみた東海・南海巨大地震」(『地学雑誌』一〇八号4、一九九九)であるが、石橋は、この論文で、同時に、『日本紀略』に記された翌八八八年の信濃の大洪水は、この地震によって信濃の北八ヶ岳の山体の一部が崩壊して、千曲川に塞き止め湖ができ、それが梅雨時に決壊して引き起こしたものと推定した。そして、現在では、この提言をうけて、考古学・土木工学の全体の研究が進み、この大洪水の規模が明らかとなっている。
 シミュレーションによれば、JR松原湖駅付近の河道閉塞によって形成された古千曲湖は、湛水高一三〇メートル、湛水量五.八億トン、その決壊時の洪水流の流量は約三.五万平方メートル/秒、流速一.六から五.〇メートル/秒(井上公夫ほか「八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(八八七)と決壊」(『日本の天然ダムと対応策』、古今書院、二〇一一年)。そしてその洪水によって佐久・埴科・更級の千曲川流域一帯にひろがる広大な九世紀の条里水田が埋没し、回復不能なほどのダメージを受けた。それを明らかにした長野県の考古学関係者による、この五〇年ほどの営々とした発掘調査の成果は、柳澤亮がまとめている(「仁和の洪水と善光寺平の開発」(『考古学からみた災害と復興』東国古代遺跡研究会、二〇一二年)。予想される南海トラフを震源とする地震が東海地震と連動するかは不明であるが、この九世紀の東海南海連動地震の引き起こした大洪水の詳細は多くの人々に伝えるべき歴史地質学の知識であると思う。

但馬国伊由庄百姓の解状

 このような山津波というべき災害は、この地震列島ではしばしば発生していたに違いない。ただ、右にみた八・九世紀は六国史によって、地方史料が編纂物に残されるルートが存在したが、平安・鎌倉時代には、そのようなルートは失われた。それ故に、それを探るためには文献史学の範囲を越えて、地質学・地震学・考古学の学際的な協力が期待されるが、文献史学の立場からも精細な調査を試みるべきものと思う。京都の貴族は首都圏の外のことを自分の日記に書く必要を感じていないが、しかし、当時の社会は、けっして無文字社会ではなく、むしろ災害が発生すれば、必ず文字に書かれて活発に伝達される社会である。それ故に、史料の探索と読み込みによって災害史の史料を発見する可能性はまだ残っているのである。
 ここではまず筆者が気づいた但馬(たじま)国朝来(あさご)郡の伊由庄(いゆのしょう)の史料に残る大洪水の史料を紹介してみたい。それは藤原為隆という平安時代末期の貴族の貴族の日記の紙背に残された伊由庄百姓の解状(げじょう)である(『京都大学文学部博物館の文書、一一輯 永昌記紙背文書』思文閣出版、一九九三年)。それによれば、鎌倉時代初めの一一九九年(正治一)六月二日から八月六日にかけて、伊由庄では六六日間も干天が続き激しい旱魃(かんばつ)となっていた。ところが、伊由庄百姓が、その事情を訴えた申状(もうしじょう)を提出した直後、今度は、八月十八日の子剋(ねのこく)(夜一二時)から十九日にかけての豪雨に襲われたのである。その直後、百姓たちは洪水の被害を訴え年貢の減免のための調査を訴える二度目の解状を提出した。
 現在残っているのは、この二度目の解状であるが、その末尾では、但馬国の惨状を、飢餓に襲われた「食を求めて得がたきの人々、食物を貪る事、餓鬼に異ならず」と報告している。伊由庄は但馬から播磨へぬける生野(いくの)峠の麓の荘園であって、摂関家がこの地域をおさえていたことからも交通の要衝として豊かな生業をもっていたものと思われる。そこに但馬国の飢えた人々がやってきたというのは事実であったと考えても問題ないと思う。そして、洪水は「国中流死人数千余人、以(ママ)牛馬以同也、流失在(以下欠)」という被害をもたらしたという。もちろん、「数千人」という死者数には若干の誇張があったろう。この一節の続きの部分は、この申状が日記の料紙として切りそろえて利用された関係で欠けているのも残念である。しかし、申状が、「先生の業因を知らざるか」「たとえるに蹄叫((啼力))地獄の如し」などと述べていることのすべてを誇張ということはできず、この洪水の規模がなまなかなものでなかったことは確実である。
 この但馬国洪水が発生した一一九九年は鎌倉時代の初め、つまり八・九世紀から一二世紀くらいまで世界中で続いたとされる「中世温暖期」の最末期にあたる(参照、西谷地晴美『日本中世の気候変動と土地所有』校倉書房書房、二〇一二年)。但馬国で六十六日も日照が続いたという記事は虚偽とすべきではないだろう。ここには温暖化の中での日照の連続が海水温の上昇などをもたらし、激しい集中豪雨が発生したという状況を想定してよいように思われる。

円山川の大洪水
 
 この申状の日付は八月二十三日。八月十八日、十九日の豪雨による洪水の直後である。伊由庄の住人が二三人も連署しているから、現地で執筆されたものと思われる。伊由庄という荘園は、但馬国を南北に貫流する円山川(まるやまがわ)の最上流、生野銀山の北に広がる細長い谷間の土地に立地している。この谷間の土地を、いわゆる鉄砲水が襲ったのであろう。解状は「作物、旱魃のため、皆損すと雖(いえど)も、将来の作を募り、餓?の思いを忍び、踵(きびす)を廻らすの思いをなすのところ」「将来の蓄、東西失い了」とある。つまり旱魃で田畠は皆損の状態となったが、飢えながらもどうにか生活を組み立てようとしていたところ、洪水によってすべてを失ってしまったというのである。洪水によって「平地の在家、桑・漆・柿・胡桃子(くるみ)など底を払って流失」、つまり家も樹木も一切が流されてしまった。申状は「日神・水神(のために)、一期の財産奪い取られ了」と嘆いている。
 「山崩のため突き埋めらる名の佃人(でんにん)」とあることから、山崩れによって山際の田地の農民が犠牲になったこともわかる。洪水の規模は、辰戌(たついぬ)(東南東から西北西)の方向に流れる川が、幅二・三町(二〇〇から三〇〇メートル)、長さ二〇町(二キロ)ほどが水に埋まったという。これは方位からいって、伊由庄を貫流して、円山川に流れ込む伊由谷川(いゆだにがわ)のことであろう。そして荘園の「東境川上」の「伊由坂」の付近から「山際」にかけての「洪水の深さ」は「或所は五丈、或所は三・四丈」に達したという。伊由坂とは現在の伊由峠だとすると、そこかを水源とする伊由谷川は、上流ではむしろ東北から南西にかけて流れているから、それが荘園の東境にあたるというのは了解しやすい。一丈を三メートルとすると、高さ一〇メートルから一五メートルの洪水に襲われたことになる。
 この時の但馬国の大洪水では、本流の円山川に流れ込む、この伊由谷川のような、いくつかの河川が流れる山間で山崩が起き、それによってできた小さな堰止め湖が決壊することによって発生した洪水によって災害が拡大したのではないだろうか。たまたま史料が残ったのは伊由谷川だけであるが、「数千人」が死んだ大洪水となれば、それ以外にも何本かの河川で同じようなことが起きたと考えるのが自然だと思う(伊由谷川の南で円山川に流入する多々良木川(たたらぎがわ)の上流には、現在、人造ダムができているが、たとえばそれに重なるような堰止め湖が山崩れによって形成され、それが決壊したのではないだろうか)。円山川は、豊岡・城崎(きのさき)を通って北に流れ、日本海に流れ入っているが、若干の誇張があるだろうとはいえ、「数千人」の死者を出したといわれる洪水は山間地でのこの種の溢水なしには考えられない。

『発心集』入間川の大洪水

 次に参照しておきたいのは、鎌倉時代の説話集、鴨長明編の『発心集(ほっしんしゅう)』(巻四)に伝えられる、武蔵国の入間川(いるまがわ)の大洪水の話である。説話集であるためもあって、いつ頃のことかは記していないが、入間川のほとりに大堤を築いて集落ができていた。ところが、五月雨(さみだれ)のころ「水いかめしう出たりけり。されど、未だ年ごろ、この堤の切れたることなければ、さりとも驚かず」にいた。しかし、雨が降り続く中で、その堤が「雷の如く、よに恐ろしく鳴り響(とよ)む声」とともに決壊したという。驚いて外をみると「二・三町ばかり白み渡りて、海の面と異らず」という状態になっており、家は根こそぎ流されてしまう。主人の男は家の屋根にのって漂ったが、途中で飛び降りて泳ぎださざるをえなかった。その時、幸い流れ残った蘆の葉で少し黒みがかった場所を発見して、そこに辿り着くと、それは実は「水に流れ行く蛇どもの、この蘆にわずかに流れかかりて、次第に鏈り連りつつ、いくらともなく蟠(わだかま)り居たりける」というもので、男は蛇に巻き付かれてどうしようもなくなった。そして、一度海まで流されたものの、偶然、足のつくところについて、蛇を身体から切りはなち、浜に泳ぎ戻ってどうにか助かったという。
 この武蔵国の説話は長明が、鎌倉時代の初めのころ、長明が実際に東国に下った時に集話したものではないかというから、このころ、東国に洪水伝説が存在していたことは認めてよいだろう。私が想起するのは、先に述べた北関東地震によって発生した上野国の「水潦=洪水」の話である。この『発心集』の説話の示すような内陸の大洪水説話の背景として、地震などにともなう山地の地盤崩壊と堰止め湖の決壊による大洪水があったのではないだろうか。平安時代、東国で、現在は記録に残っていない大地震があり、それとともに関東平野の中央部の低地で大洪水が起きた、『発心集』の説話はそれを伝えていると考えてみたい。先述の八ヶ岳の山体崩壊にともなう大洪水の事例などは、きわめて大規模なもので、一面の海という『発心集』の大洪水のイメージに共通している(なおそのほかの洪水伝説としては『宇治拾遺物語』三〇の「唐卒塔婆血つく事」があるが、これは『捜神記』の翻案であるため、日本の災害史史料として利用するのは、そのままでは困難である)。
 
『方丈記』元暦二年の大地震

 平安・鎌倉時代、ほかに洪水による田地の水損を伝える史料は多く、根本的にはその一つ一つについて河川氾濫の様子を復元していく必要があるが、山崩れをともなうような大洪水を伝える史料は、以上で尽きる。しかし、現実には、さらに多くの洪水が山地の地盤崩壊をともなって発生していたに相違ない。その点で参考になるのは、一一八五年(元暦(げんりゃく)二)の地震についての『方丈記』の記述であろう。そこには「山はくずれて、河をうずみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土裂けて、水湧きいで、いはほわれて谷にまろびいる」とある。これは地震にともなう山体崩壊によって河の堰止めが起きたことを示している。この一一八五年の地震はマグニチュード約七・四という激しいもので(阪神大震災はM七・二)、ボーリング調査・ジオスライサー調査によって震源は琵琶湖西岸断層帯にあったことがほぼ確証された(金田平太郎など「群列ジオスライサー調査に基づく琵琶湖西岸断層帯南部の最新活動期」『歴史地震』二三号、二〇〇八年)。別に述べたように(「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』七五〇号、二〇一二年)、この地震は比叡山の堅固な山頂岩盤をゆらし、その西の京都も激震となったが(震度六)、さらに琵琶湖西岸断層帯の南につらなる黄檗(おうばく)断層帯を揺らし、北は比良から饗庭野(あいばの)につらなる断層帯までをも大きく揺らしたと考えられる。そして「美濃・伯耆(ほうき)などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『中山忠親記』)という京中の噂の記録によれば、この地震の揺れが少なかった地域は美濃・伯耆以遠であったというから、逆にいえば、日本海側の伯耆と美濃の間の諸国、つまり越前・若狭・丹波・丹後・但馬・因幡の諸国では、震度3を越える場合があったという推定がなりたつのである。そして摂津の側は揺れていないから、『方丈記』のいう津波は、後の美濃あたりを震源とする「天正地震」(一五八六年)の場合と同様に、越前・若狭のあたりを襲ったものとしてよい。日本を代表する古典、『方丈記』に描かれた津波が、原発の集中の危険が問題となっている若狭を襲っていた可能性があるというのは、多くの人が知っておいてよいことだと思う。
 ともあれ、そうだとすると、右にふれた伊由庄のある、但馬国も、この一一八五年の近江・山城地震の時、相当の揺れがあったに相違ない。そして、そのほかにも、この時期、京都ではいくつかの地震が記録されている。右の近江・山城地震のほかに、さらに但馬国の地盤を揺るがす地震があったかどうかは分からないが、この時期の地震が中国山地でも山崩れの起こりやすい状態をつくっていたことは否定できないだろう。地震の被害が「地裂・山崩」と定型的に語られるのは、それなりの理由があったはずである。
 たとえば、少し時期を下るが、一三六一年(康安(こうあん)一)の南海地震では紀伊の熊野が大きな被害を受けた。これについて、大和法隆寺の記録『嘉元記』は「熊野山ノ山路并山河等、多以破損」としている。そしてこれと照らし合わせると『太平記』(巻三六)が、この地震によって「紀州の々程裂たる地もなければ」としているのも事実を反映しているとみてよいだろう。この地震が全体として「すべて山川・江河・林野・村落、この災いに合わずと云ふところなし」という被害をもたらしたというのも、定型句ではあるが、参考にすることが許されよう。
 これは昨年(二〇一一)九月の紀伊半島における深層崩壊の様相を、そのまま想起させる。現在進行している深層崩壊は、地質的には、この時の継続でもあるのであろう。そう考えると、今後、地震史料に登場する山崩れの史料を現地とひきあわせて詳細に検討する必要は高いと思う。

山崩れと「山姫様」伝説

 さて、本稿のテーマとしてあたえられた「災害はどう語られてきたか」については、「山崩・山津波」にしぼって考えると、柳田国男が一九三六年に発表した「妖怪談義」(『定本柳田国男集』筑摩書房、四巻)が参考になる。この論文で、柳田は木曾の川筋に残る山崩れと洪水についての伝説を記録している。それによれば、木曾山地に百人もの杣工が入って小屋をかけて泊まっていると、「この杉林だけは残して置いてくれ」という「山姫様」の夢の告げがあった。それにも拘わらず伐採に取懸かると、やがて大雨が降って山が荒れ出した。そうして、これも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻(しき)りに声が掛かってきた。小屋のもの一同が負けぬ気で声を合わせ、「来いよ!」と遣り返すと忽ち山は崩れ、残らず押し流されて、たった一人、この顛末を話しうるものが生き残ったという。
 こういう山崩れについての伝説が、長い歴史を通じて、この列島で語られてきたのは疑いないだろう。興味深いのは、この山津波を起こした妖怪が「山姫様」という女性であり、柳田は、これを一種の地霊とみていたのではないかと思われることである。柳田は、例の不思議な説得力のある筆致で、この地霊は本来は人々の信仰を集めていた存在であったのではないかと述べている。そして、このような山の女神の例としては、中国地方有数の活火山、石見国三瓶山(さんべさん)西麓にある「浮布池(うきぬのいけ)」に鎮座する邇幣姫(にべひめ)神社の女神の伝承が興味深い。
 野本寛一の紹介によれば、この山に囲まれた幽邃(ゆうすい)な霊池は天武天皇の時代の七世紀南海東海連動地震による山体崩壊にともなう堰止め湖であるという伝承をもち、この池の龍神は、「田を湿す故に人民厚く水霊を崇敬し」、江戸時代までこの池を源流とする静間川流域の人々の信仰を集めていたという(『神と自然の景観論』講談社学術文庫、二〇〇六年)。三瓶山の埋没林調査では、七世紀の噴火や山体崩壊の証拠はでていないようであるが(光谷拓実「年輪年代法と文化財」『日本の美術』四二一号、二〇〇一年)、ともかくも、人々は、この神社は三瓶火山の女神が移座したものと考えていたのだろう。江戸時代の人々は、はるか昔、流域の奧に聳(そび)える火山の女神が身を震わせて堰止め湖を作りだし、人々の生業を助けたのだという信仰を伝えていたのである。

貞観の大災害の伝承

 こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるといわざるをえない。そこでここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくことにしたい。
 実は、この庄司解の冒頭には、「住人など、謹んで古風を承るに、貞観の旱魃の古体承り及ぶところなり、今来は今□□年の旱なり」とあった。「貞観の旱魃」とは九世紀の貞観年間(八五九~七七)に激しかった旱魃ということである。これは鎌倉時代まで有名であったらしいことは『吉田経房記』に一一八五年(元暦二)七月のある貴族の日記に、「貞観の旱」(貞観の日照りの災害)が、この時におきた地震と同じくらい被害が大きかったと回顧されていることでもわかる。先にも述べたように、九世紀は地震の頻発の時代であると同時に、中世温暖期の最初期にあたり、旱魃と飢饉、それに誘発された疫病の流行によって、日本社会は大きな危機の中にあった。
 何よりも興味深いのは、貴族の日記ではなく、地域で作成されたと考えられるこの文書に「貞観の旱魃」が激しかったという伝承が伝えられていることであろう。もちろん、それは中央での記憶を再度持ち込んだものである可能性もあるが、前述のように、この百姓解文は洪水の直後に現地で書かれたものである。この文書の料紙が生漉(きずき)で非繊維物質(柔細胞)が多く少し黄色がかっているというのも、この解状が伊由庄現地で書かれたことを物語っているといってよい。執筆者は百姓の一人か、その中にいる僧形の人物か、あるいは庄家政所に所属する公文のような一定のリテラシーをもっていた人物であろうか。それは分からないが、いずれにせよ地域社会にいる人物が、現在の大旱魃について訴える上で、約三〇〇年の時をこえて過去の大旱魃の伝承を利用しているのである。
 こういう議論を追跡していくことによって、この災害の多い列島に棲み、生活を続けてきた人々の生きた自然意識あるいは自然史に対する意識を追跡していくことはきわめて重要であろう。しかし、歴史学が、そこで十分な役割を果たすためには、本来、奈良・平安時代から江戸時代までの、時代や専攻を超えた歴史家の協同が必要である。しかし、歴史学の現状をみていると、残念ながら、それはまだまだ将来の課題であるから、ここでは、最後にもう一度、但馬国伊由庄の文書にもどって若干の検討をつけ加えておくに止めざるをえない。
 
祇園御霊会の発祥

 とくに注意しておきたいのは、貞観年間の災害が平安・鎌倉時代の歴史にとって実際に大きな意味をもっていたことである。それは、これが祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)の開始と関わっていたことに象徴されている。つまり祇園御霊会は貞観年間における旱魃と飢饉、そして疫病の流行、さらには八六八年(貞観一〇)の播磨地震(M7・0)、翌八六九年(貞観一一)年の陸奥海溝地震(M8・3)などの地震の頻発という未曾有の災害の中で、それをうち払うようにして始まったものである。よく知られているように御霊会は八・九世紀の王家の内紛の中で怨霊化し、天皇の身体に祟る呪能をもつとされた人々を鎮める祭りであり、しかも、この怨霊こそが、地震・疫病から旱魃までを引き起こすものと考えられていた。そして河音能平(かわねよしやす)が、その概略を描き出したように、続発する災害の中で、むしろこの怨霊を村落に迎え取って地主神に祭り上げ、同時に、その呪能をもって支配層に対して抵抗するアジールを形成しようという村落レベルでの民衆的な動きが存在したのである。河音によれば、この祇園さらには北野に由来をひく天王社、天神社こそが平安時代以降の村落の地主神の主流をなしたのである(「王土思想と神仏習合」『岩波講座日本歴史4』一九七六年、後に『河音能平著作集2』、文理閣、二〇一一年)。河音はアジールという言葉を使わず、「自由の精神の拠点」といっているが、この図式は網野善彦のいう「無縁の自覚化」というアジール論と実質上、同じもので、網野も河音の見解が自説の前提であることを認めている(『無縁・久界・楽』平凡社、一九七六年)。私は、この怨霊の村落への迎え入れと地主神化という民衆的な動きが、日本社会が神話の時代から離陸していく上で決定的な位置をもったと考えている。
 祇園御霊会の発祥は八六九年(貞観一一)、陸奥海溝地震の発生した直後の六月と伝えられている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、祇園御霊会は、折りからの旱魃・飢饉・疫病を鎮めるのみでなく、直接にはこの大地震や前年の播磨地震を鎮めるという背景をもって開始された。そもそも祇園御霊会は、播磨の広峰神社から牛頭天王(ごずてんのう)=素戔鳴尊(すさのおのみこと)が京都にやってきて始まったとされているが、それは陸奥地震の前年の播磨地震が播磨山崎断層を震源として発生したことぬきには考えられない。山崎断層は広峰神社の近くを通って摂津にいたるが、地震はそこから跳ね返って京都を揺らした。人々が地震を引き起こした巨大な地霊は播磨から京都までやってきたという幻想を描いたに違いない。そして、これも小著で論じたように、この地震を引き起こした怨霊は、この播磨地震と同年に伊豆で死去した伴善男(とものよしお)以外に考えられない。もちろん、六国史はそのような事情について語らないが、内裏応天門(おうてんもん)焼失事件の犯人として処断された伴善男が、恨みを呑んで、疫神となっていることは『今昔物語集』に明らかなのである。

村落の伝承と人々の力

 「貞観の旱魃」という言葉は、このような事情の下に朝野で長く記憶されたのである。もちろん、これはたとえば但馬国の人々が御霊会の開始時期として「貞観」という時代を意識し、三〇〇年前の災害と危機の時代を歴史的に位置づけていたということではない。しかし、今津勝紀の論文「古代の災害と地域社会」(『歴史科学』一九六号、二〇〇九年)によれば、貞観年間の旱魃は、とくに中国地方において猛威をふるい、しばしば村落が丸ごと消えてしまうほどの被害をあたえたという。それ故に、「貞観の旱魃」が、但馬国というレヴェルでは、それなりに伝承されていた可能性は否定できないのである。
 我々は、平安・鎌倉時代の荘園村落というと、村落の記憶や伝承などをもたない一時的な結合にすぎないものと考えがちになるのではないだろうか。しかし、伊由庄百姓解のそれなりに整った文字と文面をみていると、それは現代人の一種の偏見にしかすぎないのではないかと感じる。荘園村落の人々がたとえば旱魃の時にあたって自己の要求を摂関家に対して堂々と提出する力量をもっていたということは、彼らが、その経験や記憶においても相当の蓄積をもっていたことを意味しているのである。もちろん、現在残された文献史料には、そのような事情はまったくの片鱗としてしか現れない。また彼らの意識のスタイルは、たとえば柳田が述べたような伝説的な形態をとっていたかもしれない。しかし、生活を作っていくために必要な伝承は、彼らの中に確実に存在していたように思うのである。

「災害はどのように語られてきたか」史料の問題

 さて、右にふれた但馬国伊由庄の洪水についての史料は、「山崩」という用語をふくむという点でも貴重なものである。この用例は、データベースを検索しても、平安・鎌倉時代における地方社会での「山崩」という用語の用例としては唯一のものである。編者の竹内理三先生の御遺族の御許可をいただいて、『平安遺文』(平安時代の全古文書集)は科研で、『鎌倉遺文』(鎌倉時代の全古文書集)は、私のいる史料編纂所の事業としてフルテキスト化して、データベースとして公開された。ただ、この伊由庄百姓解はヒットしない。それは、この文書が翻刻されたのは、竹内先生が『鎌倉遺文』を編纂された後のことであったためである。しかし、この史料が、「山崩」という用語一つをとっても、データベース化されるべき貴重な史料であることは明らかである。同データベースは、現在、「協調作業環境下での中世文書の網羅的収集による古文書学の再構築」プロジェクト(近藤成一代表、科研、基盤(A))によって追補の計画が進んでおり、その成果が期待されているところである。
 石橋克彦を代表とする科研「古代・中世の全地震史料の校訂・電子化と国際標準震度データベース構築に関する研究」によって作成された「[古代・中世]地震・噴火データベース」は、文理融合を実質化するためには歴史史料のデータベース化が基礎となることを鮮明に示した。これによって各地の人々がその地域で起きた「古代・中世」の地震について原データを入手できるようになったことの意味は計り知れないものがある。そして、今後の国土保全を考えると、それを様々な側面で発展させることはアカデミーの責任であると思う。 
 「災害はどう語られてきたか」という問題は、実は、このような問題、つまり、それを今後、どのような準備と態勢で語るべきかということに関わってくる。それにしても、歴史家としては、こういう貴重な史料を残してくれた伊由庄の住人たちに感謝し、この文書を提出して、都の摂関家に訴えた後、彼らが安穏な生活を確保したということを願いたくなるのである。
 
 

2018年3月 3日 (土)

倭国神話論のために(民俗学との関係)『物語の中世』あとがき公開

倭国神話論のためにーーー民俗学との関係

 この本は、一九七〇年代にさかんだった「社会史」という研究動向の中から生まれたものです。社会史というのは、史料の細部にあらわれる人々の生活や意識に沈潜し、そこから一挙にふり返って社会の全体を一挙に捉え直そうというものでした。日本史でいえば、これは網野善彦・笠松宏至などの中世史研究者を中心とした動きで、この本には、彼らの影響が強く出ていて、たいへんになつかしく感じます。ただ、「社会史」という言葉はヨーロッパ史の側が主唱した言葉で、網野さんなどは、そこから相当の距離をおいていましたから、日本史の側で具体的な研究を行うと同時に、やや先走るように社会史的な方法を強調していたのは、実際上、私ぐらいだったと思います。そういう経過については、最近、『歴史学のアクチュアリティ』(歴史学研究会編、東京大学出版会)で話しましたので、この国の、ここ三〇年ほどの歴史学の研究史に興味のある方は、参照を願えれば幸いです。

 しかし、いま、この本を読み直してみて、読者の方に理解していただきたいと思うのは、民俗学との関係です。この本は民俗学の柳田国男・折口信夫の仕事を読み込み、「社会史」の側から受けとめようとする仕事であったと思います。このあとがきでは、そこを現在の時点から追補し、とくに最近考えるようになった倭国神話との関係を述べておきたいと思うのですが、問題は、とくに折口でした。本書の各所に折口批判が隠れていることは、お読みになれば御わかりいただけると思います。しかし、折口は神話の理解について多くの発言をしており、そこに十分に踏みこむことはできませんでした。本書には『物語の中世』という枠がありますから、これはやむをえないことでしたが、私は、これをどうにかして追補したいと感じてきました。「神話・説話・民話」のベースとなるのはやはり神話の世界だからです。

 ちょうど本書のもとになる論文を書いた頃に、歴史神話学の重鎮、岡田精司氏が、折口に対して完膚無きまでの批判を展開されていました(岡田『古代祭祀の史的研究』、一九九二年、塙書房)。本書の発行後、すでに一五年が経ちますが、この岡田の仕事をうけて問題を見なおすことは、私にとっては長い間の希望でした。岡田の折口批判の魅力は、折口の史料操作の誤りの指摘から社会的・政治的な立場にまでおよぶ厳しい批判をしながら、同時に折口の視座の独自性を高く評価する、その篤実な姿勢にありました。

 私も、及ばずながらそのあとを追いたいということで、実は、最近、倭国神話の全体について、その大枠を見なおす作業を開始したところです。そこで、現在のところ大ざっぱな見取り図ではありますが、以下、そのエッセンスを紹介して、現在の時点での本書への追補ということにしたいと思います。
高皇産霊((タカミムスヒ))という神は、火山神・雷神であること

 倭国神話の全体像を見なおすという場合、鍵となるのは、倭国神話の至高神の姿を明らかにすることです。現在でも、世間一般では、倭国神話の至高神はアマテラスという印象ですが、それがタカミムスヒという神であったことは、江戸時代の本居宣長によって指摘され、折口も確認し、神話学でも認められていることです。しかし、明治国家が、皇祖神アマテラスの位置を喧伝したこともあって、日本民族は、その神話の至高神が正確にはどんな神であったのか曖昧という状態のままで、この間、過ごしてきた訳です。

 これには歴史的な事情がありました。そもそも、『古事記』『日本書紀』の編者自身が「この神は自身から身を隠してしまった」と称して、至高神であったタカミムスヒの姿を曖昧にしてしまったのです。これはタカミムスヒが律令国家のような文明的な国家にはふさわしくないということだったと思います。

 そのため、この神の本性はわかりにくく、本居はもっぱらこの神の性格を神名から解こうとして、「ムスビ」の「ムス」は「ムスコ・ムスメ」の「ムス」で生成を意味し、「ビ」は「霊威」を意味するとしました。この神は、物事を「生成する」力をもった「産霊神」であるという理屈です。折口は、その種の理屈が嫌いですので、本居の図式を踏襲しながらも、実態は「結び」の神という点にあると説明しました。

 しかし、言語学的に「ムスヒ」の「ヒ」は清音で読むことが明らかとなり、折口の意見は成り立ちません。私は、「ヒ」は「日」=「火光の精」、そして「ムス」の原義は、『字訓』などの用例からしても「熱」という意味であると考えます。熱光の神、つまりギリシャ神話のゼウスと同様に雷神であるということです。これはタカミムスヒが天孫降臨に対する抵抗を排除するために、天から矢を突き降ろしたことにうまく対応します。タカミムスヒは落雷によって立ち枯れた樹(霹靂樹)に宿るものとされ、その別名を「高木神」ともいいましたが、これが本書でもふれた神話的な巨柱と巨樹の信仰に通じてきます(本書第3章)。

天地鎔造神・タカミムスヒは高千穂に降臨した火山神
 「核爆発」の火のことをふくめ、いつの時代でも人間の世界観は、「火」を中心に組み立てられていたということでしょうか。本書の重要なテーマの一つに、竃神のことがありますが、このタカミムスヒが「天地を鎔造した」神であるといわれているのは(『日本書紀』顕宗紀)、そこにも関わってきます。この鎔造というのは、鋳型によって鋳造するというですから、タカミムスヒは天地を鋳造する巨大な火をつかう神であるということになります。『荘子』(大宗師第六)には天地は「大鑪」(巨大なカマド、溶鉱炉)であって、「造化の働きを立派な鋳物師と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」という一節がありますが、それが倭国に伝わっていたようにも思います。益田勝実『火山列島の思想』は、八世紀、海底火山の噴火が、雷電の神が「冶鋳」の仕業を営むようだと表現されていることに注目しています。これも同じことでしょう。

 つまり、タカミムスヒは雷神であると同時に火山神だったということです。火山の噴火の時には、火山性の地震があり、さらに黒雲とともに火山雷が鳴り響くといいます。「天地鎔造」というのはまさにそれにふさわしい表現ではありませんか。

 私は、有名な高千穂への天孫降臨神話も、その延長にあると考えています。つまり、『古事記』などによると、タカミムスヒは天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を真床追衾(マドコオブスナ)で覆って、天磐座(アマノイワクラ)を押し離し、天の八重雲をおしわけ、稲穂を投げちらし、「稜威之道別道別而(イツノチワキチワキテ)」、天の浮橋に「うきじまりそりたたして」、日向の高千穗峯に天降ったといいます。高千穂は火山ですから、この様子は火山噴火の描写として読み解くことができます。つまり真床追衾というのは、史料で「綿のごとき」物などといわれるスポンジ状の火山噴出物。そして天磐座を押し離すというのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージで、八重雲は噴火の噴煙を表現したもの。さらに稲穂を投げ散らすというのも、九世紀の伊豆の神津島噴火で、白い火山灰が各地で「米花」と呼ばれたというのと同じこと。また「稜威之道別道別而」というのは、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということで、火山雷のイナズマを描写したものでしょう。天の浮橋というのは、火山弾の岩雲のことで、「うきじまりそりたたして」というのは、「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」ということで、火砕流、溶岩流の様子でしょうか。

 天孫降臨を司令したのはアマテラスではなく、タカミムスヒであるというのは神話学者はすべて一致していることですが、タカミムスヒが火山神であると理解すれば高千穂神話の理解はたいへんに簡明になります。
「根の堅すの国」とは、鍛冶神ヴァルカンの国をいう

 さて、本書第一章の「『竹取物語』と王権神話」の続きの位置をもつ拙著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で詳しく述べましたが、私はいろいろな経緯があって、神道に興味をもつようになりました。そのなかで、『中臣祓訓解』という鎌倉時代初期の神道書を読み、そこに「根国・底国は无間の大火の底なり」という記述を発見しました。

 これは『古事記』のいう「根の堅すの国」という観念と同じことに違いありません。この言葉について、本居は「カタス=片隅」という解釈をしていますが、「堅す」は動詞であることが明らかとなっています。「鍛す」とも書きますので、埴輪を焼くための場所を火をつかって物を堅くする場所の意味で「鍛地(かたしどころ)」というの同じことでしょう(『日本書紀』)。つまり、「根の堅すの国」とは、ようするに「地下の火の国・鍛冶場の国」ということでしょう。神話時代の人々も、マグマという言葉は知らなくても、地球の深部には巨大な火が燃えていると知っていたことは、ギリシャ神話のいう鍛冶神ヴァルカンの国のことを考えてもわかると思います。

 そして、日本でヴァルカンにあたるのは、素戔嗚尊と大国主命になります。彼らが地震の神であることは、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で必要なことを述べました。私が神話論の研究をすることを決めたのは、実は、三、一一東日本太平洋岸地震の後に、この本を書くなかで、地震・噴火の歴史は神話の時代までさかのぼって考える必要があることを知ってからなのです。その事情については、それを参照願いたいと思いますが、ここでこの「根の堅す国」に関係して述べておきたいのは、出雲神話のことです。話が飛ぶようで恐縮ですが、東北から下りてきた第四紀火山フロントは、近畿地方で西に方向を転じ、中国地方の日本海側を通って、九州につながっていきます。伯耆大山はそこに属する火山で、歴史時代の噴火の記録は残っていませんが、『出雲風土記』で「火神岳」と呼ばれていることからすると、人々は、この山が火山であることはよく知っていた訳です。

 神話時代の人々も、こういう列島の地勢を知っていたのではないでしょうか。ここに、倭国神話のなかでの出雲神話の独特な位置の理由があると、私は考えています。そもそも、「ミトのマグワイ」によってこの列島を生んだと伝えられるイザナミは火山の女神であったというのが、神話学の泰斗、松村武雄の結論です(『日本神話の研究』)。倭国の国土観に火山の影響がきわめて大きかったことは明らかで、しかもイザナミは『古事記』の説明では、その遺体は、「出雲国と伯伎国との堺の比婆山」に葬られ、スサノヲは、母をしたって出雲に降った訳です。私は、この立地は伯耆大山と関係していると考えます。

 こう考えると、よく知られたオオクニヌシと因幡の白兎の話もまったく違う視野からみることができます。赤裸になった兎の皮膚を蒲の穂で治したのは、オクニヌシが火山神であると同時に、温泉神として治病の能力をもっていたためであるとされています。しかし、さらに具体的にみると、これは蒲の雄花の黄色い花粉が、実際に治療効果があり、しかもそれが皮膚病の薬として使われた硫黄とダブルイメージになっているためでしょう。小路田泰直氏によれば、オオクニヌシとともに、この列島の国造りにたずさわった小人神・少彦名命(スクナヒコナ)の「スクナ」とは硫黄を意味するということです(小路田『邪馬台国と鉄』)。人々は、オオクニヌシースクナヒコナの神格を、火山ー温泉ー硫黄という連想の下に考えていたに違いありません。ただ、小路田氏は「スクナ」を「酸粉」と理解しますが、これはむしろ「スクモ」(泥炭)という語から理解した方がよいと思います。なお、折口はさすがに天才で、「手のひらにすくもはたけば光るなり」という歌があります(『定本柳田国男集』26巻)。オオクニヌシがはじめて会った時、スクナヒコナを手の中でもてあそんだため、小人神が怒って、オオクニヌシの頬を咬んだといいますが(『日本書紀』)、折口はそれに気づいて、この歌を読んだのではないかと思っています。
大和に侵入した「神武天皇(イワレヒコ)」の神婚のカガイ

 タカミムスヒの話に戻りますが、この神は、オオクニヌシに「国譲」を迫り、天孫降臨を司令し、さらにその延長でいわゆる「神武東征」を導きました。実際に、天皇(イワレヒコ)が、大和征服の前後に、この神を祭っています。

 面白いのは、大和征服が終了した翌々年、イワレヒコが野原で娘たちに声をかけ、先頭にいたホトタタライススキ姫をつれて河上の家に泊まったという説話です。これが八月のことであったというのが重要で、『竹取物語』によっても、八月は秋のカガイの季節なのです。つまり、イワレヒコ神話には、『竹取』まで続く大和国における男女の出会いの物語がふくまれているのです。問題は、この娘が、三輪山の神が「矢」に変身して溝から厠に侵入して娘の母のホトを突いて生まれたということです。最近、この神が溝から侵入した風情を髣髴とさせるトイレのミニチュアを備えた齋籠の家型埴輪が古墳の造りだし部分にしばしば確認されています。そして、それに対応する「木槽樋」のトイレ遺構が各地で発掘され、それら同時に産屋あるいは神婚儀礼の齋屋の遺構ではないかという意見もでています(黒崎直)。私もそれに賛成で、イワレヒコが泊まった河上の小家も同じような娘宿なのではないかと考えています。

 そして、この齋屋に来臨した神も雷神でした。右の三輪山の神(大物主神)は大国主命の後継者で、天孫降臨を前にして天上に昇ってタカミムスヒの娘神をあたえられていたといいますが(『日本書紀』)、龍の姿をもち、やはり雷神でした。ここには雷神=龍神の血が王家の血筋に入り込むという観念が示されているといってよいでしょう。

 本書でも、王の跡継ぎは雷鳴時の性交によって宿るという神話を論じました。私は、それこそが本来の「ヒ嗣=日嗣」の観念であったのではないかと考えるにいたっています。なによりも問題なのは、漢の劉邦が龍の血をひくとされているように、これが東アジアに共通する王権の血統観念であったことです(■■■頁)。ただ、ここで追加しておきたいのは、『史記』(周本紀)によると、神龍の吐いた泡を収めた秘函を開けてしまったところ、その泡から守宮が生じ、それが後宮の童女を身ごもらせて生まれた女(褒似)が周王朝を亡ぼしたという有名なエピソードです。

 龍神が転じて守宮神となるという訳ですが、これも本書でふれたように、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊が「守宮神」と呼ばれたというのは、こうして直接に倭国神話とその陰に潜む東アジアに普遍的な王権思想に結びつく問題であったことになります(二四二~三頁)。
倭国の王権は海の世界から生まれたのではないか。

 さて、以上、もっぱら火山神タカミムスヒの問題を中心に、追加的な説明をしてきましたが、本書では海の世界についても、第二章「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」、第六章「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」で論じました。とくに第二章では、王権と海上世界の関係がきわめて古くまでさかのぼることを述べてあります。

 御承知のように、柳田と折口は、この列島にいたる南の海の道を重視していました。とくに折口が倭国の王権には南方の「常世の国」に起源をもつ「水の女」の伝説がまとわりついていることを一貫して強調していました。折口の「水の女」論には、岡田の厳しい批判があって、私も、歴史家としては全面的にそれに同意するものです。しかし、現在の日本にとっての沖縄の位置を考えるたびに、私は柳田・折口の考えたことの視野の広さには感心させられることも多いのです。

 これに関係して述べておきたいのが、最近の学界では紀元前後に倭国の政治的中心が九州から近畿地方に移動したと考えられるようになったことです。そして、それとともにいわゆる「神武東征」の背後に何らかの事実があったのではないかという感じ方にだんだん抵抗感がなくなっているようにもみえます。ただ、私は、九州勢力が、長駆、大和を軍事的に征服したというのが事実とは考えられません。むしろ騎馬民族ならぬ朝鮮半島の「海民」の移住を重視する網野善彦氏の見解を前提とすると、列島の王権の萌芽は海の世界にあったのではないかと考えています。

 つまり、王家の直接の祖先神であるイザナキ・イザナミは海の匂いの強い神々です。イサナは鯨ですから、この名前は鯨男・鯨女ということになると思います。そして、岡田がその詳細な国生神話の分析において論じたように、この神の故郷は淡路島周辺の海人集団のなかにありました。ただ、この場合の問題は、火山島ではない淡路島に火山神話としての本質をもつ国生神話が生まれたことをどう考えるかということですが、しかし、これは南島から沖縄、南九州に連なり、朝鮮半島にも広がる火山地帯で縦横に活躍する海民が火山神話をもっていたとすれば解決するように思います。淡路から紀伊、さらに伊勢に固有の地盤をもつ海民集団。そして、彼らは海民によくあるように広域的な血縁関係を九州地方南部や朝鮮半島まで広げていたのでしょう。

 折口が重視したように、そもそも王権は淡路の海人を「海部馳使丁」として駆使していましたし、両者の間には皇子の養育をふくむ伝統的な関係がありました。また九世紀の氏族系譜、『新撰姓氏録』にこの両神を祖とする氏族がまったく現れないことは、王家それ自身の深層の記憶においてはイザナキ・イザナミの位置が大きかったことを意味します。乱暴なことをいうようですが、これは王権の淡路出自を示唆するのではないでしょうか。私はいわゆる「古代史」の研究者ではありませんので、自由に発言しますが、網野が論じたような「海原」の世界の大きさは神話時代の社会に構成的な影響をもっていたはずであると考えるものです。

 こうして、倭国王権が南九州ー北九州ー瀬戸内海をつなぐ海民勢力のなかから生まれた可能性があるとすると、理論的な見通しとしては、王権は石母田正ー網野善彦が強調する通り、地域間・民族間の交通関係から生まれた、あるいは交通形態そのものであったということになります。神話論のみで、こういう議論をするのが適当ではないことは知っていますが、『隋書』倭国伝(開皇二十年(六〇〇年)に「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあることの意味を考えてほしいと思うのです。倭王の姓は「アメ=海」であったのではないでしょうか。日本の天皇家は本来無姓であるとか、「倭」を姓とするという意見が一般ですが、私は、むしろ彼らは瀬戸内の島を出自とするということが記憶に残ることを好まず、もとの姓を隠したのではないかと考えています。王権はまず海民の出身であることを隠し、次ぎに至高神タカミムスヒを隠したということになります。

 以上、気になっていた、折口ー岡田の仕事と向き合うという仕事について、さきは長いですが、ともかく、このあとがきで、中間的な経過を報告できるところまで来たことにほっとしています。そして、この追補によって、ともかくも、本書から徐々にさかのぼって古典神話世界を理解し、この国の歴史の解明と神話理解の刷新に新しい道がついていくかもしれないという可能性を読みとっていただければ、たいへんありがたく思います。

2017年10月12日 (木)

白頭山の噴火と広開土王碑文)

一昨年に書いたものの再録です。
高句麗の神話的な建国者、朱蒙についての話で、明治大学の市民講座で話すイワレヒコ(神武)論との関係で、乗せておきます。
両方とも、いわば火山王であるという意見です。

白頭山の噴火と広開土王碑文)

 白頭山の噴火が近いのではないかという観測があり、関係国の火山学者の間での共同研究や議論が行われていると聞く。
 今回の東日本太平洋岸地震との関係で、九世紀の陸奥沖海溝地震が注目を集め、私も、ともかく研究をすることが必要であろうと考えて、専門の時代の噴火・地震の研究にとりくんでいるが、その中で白頭山と、それを含む長白山脈について若干のことを考えた。

 陸奥沖海溝地震は八六九年(なお、この地震は普通、貞観地震といわれるが、私は歴史用語から元号はできるかぎり排除すべきであるという意見なので、九世紀陸奥沖海溝地震という用語を使っている)。『三国史記』によれば、その翌年四月、新羅の王都慶州で地震が発生し、以降八七二年四月、八七五年二月の地震記録が残っている。これは一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことである。そして、九一五年の秋田県十和田カルデラの噴火に引き続いて九四六年に白頭山の大噴火が起きた。この噴火は、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火で、その被害はすさまじく、二〇〇キロメートル先まで火砕流を氾濫させたという。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されている。
 東北アジアの火山分布は、第一にカムチャッカ、日本列島からインドネシアにまでつづく太平洋の火山ライン、第二に韓半島の根本から黒龍江省に東北に上昇する長白山脈、その西に斜行する大興安嶺山脈、さらにバイカル湖周辺、モンゴル高原に分布する大陸東北部に分布する火山群からなるという。
 私は、昨年執筆した『かぐや姫と王権神話』に(洋泉社新書)、この地域の諸民族は、火山神話を共有しているという仮説を述べた。「隠れた皇祖神」として有名なタカミムスヒが「天地を鎔造した日月の祖」であるというのはタカミムスヒの火山神としての性格をあらわすとし、そこを拠点として、ユーラシアに分布する鍛冶王の神話は「騎馬民族国家説」が注目して有名になったものであるが、これが実際には火山神話であることを論じたのである。その必要で村上正二先生の「モンゴル部族の族祖伝承」(『史学雑誌』七三編七・八号)がモンゴル族祖が断崖渓谷(エルグネ・クン)を破って地上に登場したという伝説についてふれているのを知って、急に読み、大学院の頃のことを思い出し、もう少し御話しをうかがっておくのであったと悔やんだ。
 この火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
 この史料の性格は私にはまったくわからないので、木村誠氏に教えを乞い、また末松保和氏や田中俊明氏の仕事によって、『三国史記』より時代があがる可能性のある史料であることを確認し、同時に噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろうと見通しをつけた。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった。
 惟れ、昔、始祖鄒牟王の創基せるなり。北夫餘より出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。卵を剖きて世に降り、生まれながらにして聖を有ち、□□□□、□□駕を命じ、巡幸して南下す。路は夫餘の奄利大水に由る。王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
(武田幸男『高句麗史と東アジア』の釈文によった)
 このうちの「佛流谷の忽本の西の山上に城を築いて、都を建てたが王位を楽しむことがなかった。しばらくして、天が黄龍を遣はし、王を迎えにきたが、王は忽本の東岡にから、龍首にのって天に昇った」という部分が、右の『旧三国史、李奎報文集巻三』に対応するものであることは明らかだと思う。

 木村氏にうかがったところだと、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないということであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である(中国側)。朱蒙神話の位置については李成市氏の充実した仕事があるが、ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
 さて、この東北ユーラシアのプレートをユーラシア・プレートと相対的に別の運動をするアムールプレートとするというのは、地震学の石橋克彦氏などが主唱する理解であるが、このプレートの運動をどう考えるか、それに関係して、この地域の火山活動をどう考えるかは、まだまだ定説がないということである。文献も私がみれたのは小山真人「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年秋季大会ポスターセッション発表内容)くらいであった。しかし、これを読んでいると、東北ユーラシアの遊牧民族の活動地帯から、日本列島にいたるまで火山神話が分布しているという仮説は、それなりの意味があると考えるにいたった。
 火山学・地震学の東部ユーラシア全域での共同研究が東アジアの未来を考える上で緊急な必要であり、歴史学も、そこでそれなりの役割を負わねばならないと思う。それは、長期的な視野を必要とし、歴史学の側がいわゆる文理融合の体制を用意しなければならないことを意味している。そして、それとともに、これは「神話の時代」とその時代からの分岐をどう考えるかという歴史学固有の問題も提示しているように思うのである。


 以上、都立大の研究会の雑誌「メトロポリタン史学」7号に「白頭山の噴火と広開土王碑文」として載せた者。

2017年4月30日 (日)

日本史の30冊。石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会

石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)

 本書は21世紀に相当の確度で発生する南海トラフ巨大地震についての、現在、もっとも明解な解説であって、そして歴史地震学の最良の入門書でもある。その構成は第一章「南海トラフ巨大地震の歴史」、第二章「南海トラフ巨大地震の科学」、第三章「南海トラフ巨大地震と社会」となっている。

 以下、専門分野の違いもあって、要約がどこまで正確かについて躊躇もあるが、順次に紹介していくと、まず第一章では、昭和(1946、1944年)、幕末(1854年)、江戸期(1707、1605、1614年)、室町期(1498、1361年)、平安期およびそれ以前(1096、1099、887、684年)の各時期の南海トラフ巨大地震について、歴史をさかのぼるようにして、説明されている。史料の多い新しい時代の地震で南海トラフ地震の説明をして、史料の少ない古い時代にさかのぼっていくという叙述がわかりやすい。これによって、これらの大地震のもつ(1)伊豆から九州までの強震動、(2)静岡県御前崎などの隆起と伊勢湾沿岸などの沈降という地殻変動、(3)海底の上下にともなう大津波、(4)和歌山県熊野の湯峯温泉、四国の道後温泉の湧出停止などの特徴的な現象が過不足なく解説されている。

 このような南海トラフ巨大地震の系統的な分析は、「14世紀前半までのまとめ」という副題をもつ著者の論文(1999年)によって手がつけられたものであるが、本書で通史の枠組みが完成したことになる。歴史学者としては、このような研究が地震学研究者のほどんど独力によって遂行されたことに驚嘆する。私などは新参者だが、著者とほぼ同時期に歴史地震学の構築を開始した矢田俊文氏(参照、矢田『中世の巨大地震』2009年、吉川弘文館)を初めとする歴史学者がよく知っているように、著者の史料収集と分析の力は、地震学的な視野と直感に支えられているだけに、プロの歴史学者も容易には追尾できないレベルにある。歴史学徒は、本書を読んで、それを実感することが必要だと思う。

 第二章は、南海トラフ巨大地震の発生機構がプレートテクトニクスの概論、地震・津波現象それ自体の理解、現在政府が想定している南海トラフ巨大地震の地震像などを素材として、最先端の研究視野から説明されている。その説明は自然科学にとくに詳しくなくても理解可能なもので、たいへん興味深い。本章によって南海トラフ大地震の全体像をどう予知するかという地震学の最新の到達点を知ることができると思う。

私などにとっても興味深いのは、著者が主張して有名になった駿河湾地震説を始め、七〇年代以来の地震学の研究史が概括されていることで、そのなかで著者の旧説が、いわゆる「アムールプレート東縁変動帯仮説」に新らしい形で統合されていることである。アムールプレート(以下AMプレート)とは、中国の南部地塊を中心とするユーラシアプレートの部分プレートであるというが、これが毎年一定のスピードで東進していることが明らかになっている。AMプレート南東端が、太平洋プレートと押し合うようにして、静岡の遠州ブロックまで伸びており、南海トラフ巨大地震によってプレート間の固着が剥がれると、それを条件としてAMプレートが一挙に東進し、糸静線断層帯周辺が破壊されるというのが、著者の主張する「駿河湾地震」の発生機構である。さらに著者によれば、この仮説によって、南海トラフ巨大地震前後に、北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造体沿いに発生する地震・続発地震などが理解可能になるという。またプレート間地震と内陸地震の関連の基礎理解の道が開かれるともいう。

 この「アムールプレート東縁変動帯仮説」は地震学界のなかでも論争は続いているようで、もとより、私には、この仮説の地震学的な評価はできないし、また正しく要約しているかどうか自体にも自信はない。しかし、第一章の歴史地震の様相をみても、この仮説には説得力があるように感じる。ともかくインド亜大陸の北上衝突によって中国大陸が東へ押し出されることを原動力とするというAMプレートの東進の観察を基礎に構築された雄大な仮説である。これが学説として具体性をましていけば、日本列島の自然史を現在と関係させて理解するうえで大きな意味をもつことは明らかであろう。地球科学の側での論争を期待したいももである。

 第三章は、地震学の目からみた巨大な危険施設として原発とリニア中央新幹線をあげ、南海トラフ巨大地震が超広域複合大震災のトリガーとなることを警告している。著者は一・二章がふくれあがったために、三章が短く不十分なものとなったとしているが、これについては著者の『原発震災』(七つ森書館2012年)が参照されるべきである。著者が「自然災害は輸出も移転もできない地域固有のもので、自然の恵みと表裏一体だから、それと賢く共存していくこと(自然との共生)こそが大事なろう」「いまの日本の社会経済システムが被災者を一人も切り捨てることなく試練を乗り越えることができるかどうか、見きわめる必要がある」などと述べるのは学者としての自然な発想であろうと思う。

 さて、私は、二〇一二年から二〇一三年にかけて、科学技術・学術審議会の地震火山部会におかれた次期計画検討委員会に専門委員として参加して、2014年度から5ヶ年間の観測研究計画の審議に参加した。そこでは従来の地震学研究において歴史地震データの注目が不足していたことへの反省がなされ、今後のことを考えると歴史地震を研究する研究機関がどうしても必要であることが文部科学大臣への「建議」の形で決定された。研究機関といっても、地震学・火山学・地質学などの理学系計四人、歴史文献・考古で四人からなるセンターを、たとえば自然科学研究機構・人間文化研究機構の学際領域として設定するというような小規模なもので出発すればよいのだと思う。現在のアカデミーの実力ではこれを政策として実現させることはなかなかむずかしいが、社会的に訴え、遅くない時期に実現するべきものであると思う。それは防災行政に責任をもつ政府の責任であろう。

 そして、日本のような火山列島・地震列島で国民の税金から給料をうけている学者にとっては、どのような分野であれ、噴火と地震に関わる災害科学の仕事に参加することは、その職能的責務である。災害科学とは、必然的に発生する自然的な災異natural hazardsが社会的な災害に転化するのを抑制し、自然的な災害誘因trigerがどのような災害disastersの複合を結果するかを理学的・社会学的に予知し、それを防止するための巨大な科学分野である。そこでは地球科学の第一線から、経済学・法学などの社会科学の実働部隊から歴史学などの人文社会系の基礎学術分野にいたるまで、すべての学術分野がおのおの独自の役割を果たさなければならない。

 この科学分野を体系的で有効なものに育て上げ、かつそれについての社会的・国際的な理解を深めていき、それを担えるような政府機構を各国に形成することは、二一世紀の人類にとっての最大の課題であるということができるだろう。これについては、発展途上国における社会的災害の研究から出発して災害科学の大系をはじめて創成したBen Wisnerの、"At Risk: Natural hazards,people's vulnerability and disasters"(邦訳『防災学原論』築地書院)を参照することができる。

 社会的な災害は一般に生態災害(Biological Hazards)、気象災害(Meteorogical Hazards)、地殻災害(Geological Hazards)に区分できるといわれる。生態災害とは虫害・鳥獣害から広域流行病(パンデミック)にいたるまでの生態系の災異を誘因として発生する災害をいい、気象災害とは落雷・竜巻・台風から温暖化や冷涼化にいたるまで大気の運動にかかわって発生する災害をいい、最後の地殻災害とは山崩れあるいは土壌の深層崩壊から地震・噴火にいたる地殻の変異を誘因として発生する災害をいう。

 歴史学には、このような災害科学を、その基礎から支える役割があるのである。そして、その試金石は明らかに地殻災害であろう。そもそも、歴史学が全面的に関わることなしに、国民に地震・噴火というものの実態を伝えることができるとは考えられないのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

2017年4月21日 (金)

東日本大震災の宮城県以南の死者はすべて国に責任がある

 前橋地裁判決のいうのは3・11の被害は人災だったということです。判決の論理からいうとそれは原発事故に限りません。これを震災後六年たって、国の機関が初めて認めた訳です。
学会では常識でしたから、これが「初めて」というのが悲しいところです。もし国が常識をもって運営されていれば、こんなに損害賠償が少ないことはなかった筈です。

 二〇〇二年に地震学者が中心になって発表した地震本部の「長期評価」は三陸沖から房総沖でマグニチュード8・2クラスの地震が、今後二〇年以内に二〇%の確率で起こりうると予測しました。そのころ同時に八六九年の津波が残した痕跡砂層の研究が進んでいて、日本地震学会が二〇〇七年に出版した『地震予知の科学』には東北には近く巨大な地震・津波が来ると書くまでになっていました。

 そんなことは知らなかったと言われるでしょうが、これは当時の小泉首相を会長とする中央防災会議が、原発業界におされて岩手沖津波しか認めず、「長期評価」を防災計画に反映しなかったためです。
ですから、震災の犠牲者の八割、宮城県以南の死者はすべて国に責任があるということです。小泉さんが、最近、原発廃止の立場に立たれているのは正しいと思いますが、この過誤の責任は曖昧にできないもので、本来、膨大な賠償が必要なものです

 私も三・一一を経て、日本が地震火山列島であることをはじめて本当の意味で認識しました。歴史の根本から考え、それが国民の常識にならねば死者は浮かばれません。(了)

 先日、赤旗(日曜版)のインタビューに答えたもの。23日付けででるらしく、見本紙が届いた。新聞だから出しておいてよいのだろう。

 原告の方の談話がのっていて、胸にせまる。

2017年4月 4日 (火)

おきなわという地名、素人語源論

 沖縄という地名がはじめてみえるのは、七五三年に帰国の途についた遣唐使が「阿児奈波島」に到着したという記録である(鑑真訪日の記録『唐大和上東征伝(とうだいかしょうとうせいでん)』)。阿児奈波は「うちなー」に由来するというが、語源については、伊波普猷が「沖漁場」といい、東恩納寛惇が「沖の場所」であるといっている。

 自然としての大地、「地」を古く「な」といい、「奈良」の「な」も「地」であるというから、あるいはこの「なは」も大地というような意味ではないだろうか。「おき」は「沖」ではなく、あるいは「息」の母音交替形で「行ふ」の「おこ」。つまり、「活動する地」というような意味ではないだろうか。別の漢字で書けば「息土」という訳である。

 これが素人語源論であることは認めざるをえないが、ともかくも倭国神話の世界では、列島の島々は火山噴火によって生まれたものであるという地理認識は根強かった。九世紀の伊豆神津島の噴火で、今の火山の女神、阿波神が「三嶋大社の本后にして、五子を相生む」とされていることは、女神が火山島を生むという観念を物語っている(『続日本後紀』承和七年九月二十三日条)。そして、この神津島の阿波神の「御子神」の名前は「物忌奈乃命」であったが、大隅国の海底火山の噴火によって島を「神造」した神は「大穴持神」(おほあなむち)であった。この両者には「な」が共通する。「な」は「地」こことであるから、これは火山の女神が大量の「な=地」を生むという観念を示していると考える。私は、この女神が阿波神といったこと自体にイザナミの国生神話の雰囲気を想定した(『歴史のなかの大地動乱』)。

 なお『延喜式』に残された「鎮火祭祝詞」は、国生神話を「神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命妹妋二柱、嫁継給弖、国乃八十国・島乃八十島乎生給比、八百万神等乎生給比弖、麻奈弟子尓、火結神生給弖、美保止焼かれて石隠れ座して」と語っている。鎮火祭は、平安時代以降もさまざまな展開をみせる祭祀であるが、それが「八十国、八十島を生み給い」と九世紀の火山史料と同じ神話観念を語っていることは重要であろう。この祝詞は続けてイザナミが火結神(カグツチ)を生んで「ミホト」(陰部)を焼いて死去したと述べているが、神話学の松村武雄は、この地母神・イザナミの死去は、彼女が火山の女神として火の神を生んで傷ついたことを暗喩したものであるとしている。残念なことに松村は、そこで議論を止めてしまったのであるが、そうである以上、カグツチが生まれる前に生まれた他の国・島も、同じミホトから、火山の女神イザナミが生んだものであることは明らかなはずである。

 そして、こういう観念は南島についてとくに強かったのではないだろうか。たとえば、平安時代末期の平氏政権の時代、俊寛が流された硫黄島について、『平家物語』は「嶋の中に高き山あり。嶺には火燃え」、噴煙と火山灰が降下し、「百千万の雷の音」(火山雷)が響き、「地震」によって山崩れが起きると述べている。

 復興大臣が原発の自主避難者を「自己責任」と言い放つ発言を読んで仕事の手がとまってしまった。ともかく何ということだというツイートをして仕事から少し離れてコンピュータの中に入っていったら、上記のような文章を発見。以前、世界の臨時増刊号の沖縄特集(865号)で書いた文章の削り残しである。

 そろそろ夕食。気を取り直して机の片付け。

2017年3月19日 (日)

3月17日前橋地裁判決ーーー3,11後、初めて国家の中から正しい声が聞こえた

3,11後、初めて国家の中から正しい声が聞こえたーー3月17日前橋地裁判決

 前橋地方裁判所の原道子裁判長は2002年年7月に政府の地震調査研究推進本部が発表した巨大地震の想定に基づいて、国と東京電力はその数か月後には巨大な津波が来ることを予測できたと指摘し、それにもとづいて原発事故についての国の責任を認定し賠償を要求する原告(県外に避難した住民一三七人)の訴えを正当としました。
 
 賠償金額は総額3855万と少なすぎると思いますが、これは画期的なことで、国家機構の中から、はじめて常識的な声がでたということだと思います。

 これは地震本部が二〇〇二年に決定した日本海溝地震の長期評価をどう考えるかということになりますので、ことは原発事故をこえて、東日本大震災全体の賠償をどうするべきかに関わってきます。


 つまり、長期評価は三陸沖から房総沖までM8,2の津波地震を予知しましたが、中央防災会議は多くの地震学者の反対にもかかわらず、それを岩手中部で津波波高が高かった明治三陸津波のみに限定してしまいました。そのためは岩手南部の陸前高田市以南で防災体制が不十分となり、3,11で犠牲となった方の八割は、そこに住んでいた訳です。たとえば名取市では長期評価にあもとづいて、高さ8メートルの津波を予想した津波防災マニュアルを作成したが、2008年2月、中央防災会議の想定津波高2,六㍍に従って地域防災計画を下方修正し、津波被害が拡大したことがよく知られています(津久井進『大災害と法』岩波新書141頁)。

 ようするに中央防災会議は原発事故に責任があるだけでなく、一万5000人ほどの人の死に責任があるのです。そして問題は、そうだとすると、この前橋地裁の判決を延長すれば、国は、上記の宮城以南で死去した人びとの命の相当部分に責任がある。それは人災という以上に、政府が地震学者の意見を押し切って誤った決定をしたことの直接の結果であるということにならざるをえないことです。

 この経過に責任のある中央防災会議の責任者は首相の小泉純一郎氏です。国民が災害を予知するシステムはあったのに、政治家と官僚が重大な過誤をおかしたのです。

 
 長期評価の責任者であった地震学の島崎邦彦氏は、このとき中央防災会議事務局に押し切られたことについて人生最大の失敗であったとされています。これがなければあれだけの人が死に、甚大な原発事故が起こることはなかったのです。

 一部には、 「地震学は南海トラフ巨大地震ばかりいって陸奥沖海溝地震をいっていないではないか」という意見があります。しかし、これは巨大な誤解だったということです。

 つまり、中央防災会議が長期評価を認め、それにもとづく防災と調査の体制を強化していれば、二〇〇四年に決定された日本海溝地震についての特別措置法は、大規模地震対策特別措置法に近いものになったはずです。大規模地震対策特別措置法の地域規定は、南海トラフ地震関係しかされていませんが、法の趣旨としては南海トラフ地震に限定されているわけではありません。実際に特別措置法には研究の進展によってそういうことがありうるとされているのですから(第四条)。全体としてはこれをサボったと評価すべきものと思います。このサボタージュがなければ、私たちが目の前にしている風景はまったく異なっていたはずです。


Cci20170319

 添田孝史『原発と大津波』(岩波新書)によると、このような決定に責任のある政治家と高級官僚や中央防災会議事務局トップが、何をどのように判断したかの経過とその反省の記録も存在しないという(最近の情況からみると、実際には存在し隠蔽しているのではないかと思う)。

 ドイツではライン川の氾濫についても厳しい賠償訴訟が起きた。ヨーロッパでならば、このような行動に対しては厳しい賠償訴訟が起き、また国家犯罪として弾劾されて当然のものである。

  以上は雑誌『経済』今月号(2017年四月号)で弁護士の津久井進氏との対談でくわしく述べました。

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