図書館で『活断層』を借りるため、昼前に自転車で出る。少し気が変わって、反対方向の丘の方へ登る。私の住んでいる千葉市の北東を国道16号とそれにそった高速道路が横切っている。そのさらに北東、裏手に入り込んで、裏道を探し、丹後井堰の方角を目ざす。丹後井堰は、江戸時代の灌漑用水遺構。その奧に千葉市が計画した親水公園が、部分的にできあがっている。そこに行くできるかぎり静かな道を、これまでなんども探ったが、うまく行かなかった。しかし、今回はうまい裏道を発見する。
自転車に乗っていてよいのは、都市のスプロール化、無秩序な繁殖というものが、いかに破壊的なものかがわかること。緑の少し豊かな道を探して進むが、すぐにあれた感じの道になる。いわゆる乱開発のあと。巨大な道路、そのそばの荒れたゴミのちらばる空き地。それをつなぐように少し緑の多い道。昨年、自転車に乗りはじめてから、週末ごとにそれを痛感していた。
自宅から、国道を横切り、スーパーマーケットの裏から高速のガードを潜ると、そこは谷戸の水田の保存区域、そこから南に丘に登り、高速の裏側で、できるかぎり緑の多い道をたどっていく。高速が地面に潜るところで、いつもは右に行くが、今日は左をとって、遠くなっても高速の裏側に固執する。そうして出た谷戸から高速道路の覆い屋根がみえる(写真)が、そこでも高速のそばに寄らず、奧に曲がる。谷戸はむかしは水田であったはずだが、水田の耕作はされておらず、荒れた藪沼の土地になっている。
ここは、おそらくおそくも鎌倉時代には、最上等な水田の一つであったろう。もったいないと思いながら、谷戸の中途から、藪道を登る(写真)。この藪道は、そこだけ取ると、普通の山道である。ゆっくり歩いて登る。
こういう自然はうれしい。これらの自然を破壊し、無用化して、都市はスプロール化した。どれだけの自然をこわして都市ができているのか本当に、実感する。
丘の上は、墓場。そして、そこを曲がると、巨大な配電所である。大地におりたった針金機械製の化け物のようにみえる。送電線が集中している。だから、まわりは自然と荒れた空き地があつまっている。千葉市中枢にきわめて近い場所に「自然」が残されている理由を、これで了解。配電所建設の関係で残っていた「自然」であるに相違ない。しかし、そこから下る道は快適。高速の脇道から、丹後井堰の手前にくだる。
配電所の風景はなかなかのもの。これが都市の中枢神経系統であり、動力系統。これは自宅まで続いているはずである。この巨大な配電所が千葉の配電を管理しているに相違ない。このシステムを使って、東京電力が「計画停電」しており、さらにここには福島原発からの電力もきていたかもしれないと思うと、何ともいえない感じである。何もしらずに、この地域で生活していたことを実感する。万が一、千葉を襲う何らかの大災害が発生した時、人は、この配電所のことを知ることになるのだろう。
もちろん、配電所が重要であることはいうをまたない。しかし、だからこそ、このような巨大施設は地中におき、そして内部を見学できるようにしてほしい。そして、歴史家としては、その時、本当に徹底的な考古学的調査を要望したい、そして、配電所の上は、小博物館としてほしいものだと思う。それこそが破壊する自然に対する礼儀というものではないかと思う。それはたんに企業の問題ではなく、都市に住むものが、自分たちの環境諸条件をつねに認識しながら生きていくために必要なのだと思う。
こういう都市の裏の土地、いわば「無縁」の土地。都市の裏手の土地は、意外と日常の目には触れないのかもしれない。いわば「かさぶた」のように自然のうえに覆い被さっている様子が、境界的地帯、裏側、裏道からみるとよくみえる。境界地帯こそが「コモンズ」たるべき自然なのであろうが、実際は、トラップにはめられた自然という感じである。
これは車に乗っている人の目にはふれないのではないかと思う。しかし、こういう風景こそ、都市生活者の常識となるべきことであろう。そのためにも、この道を自転車専用道路にしてほしいと思う。それはきれい事ではなく、無秩序に破壊された自然を実感するための道路である。
それにしても無秩序に破壊された自然は、どこかで、その中に棲んでいる人間の精神の健康を破壊するのではないだろうか。それがどういう経路で進むのかはわからないが、あたかも檻の中の動物が鬱屈するように、対内的自然、主体的自然としての肉体と精神の荒廃がもたらされるのではないだろうか。
丹後井堰のそばでは田圃の荒起こしがすんでいる。