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カテゴリー「言語・語源」の9件の記事

2015年4月 6日 (月)

政治は「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談

 政治はまずは「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談記事を読んだ。

 東京新聞の記事を読む。気になるのは、リードでの会談の紹介が「菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事はーー」という順序になっていることである。琉球新報電子版の記事は逆の順序である。これは県知事を最初に出すのが当然ではないかと思う。

 これは言葉の問題ではない。マスコミが「聞く」姿勢の問題である。テレビのニュースなどをみていると、菅官房長官の発言、「辺野古移転は普天間の危険性除去のための唯一の解決策である」という主張を冒頭に紹介して、翁長県知事の意見を十分に紹介しない例が多い。ようするに政府のいっていることを紹介すれば瑕疵はない。事務的にこなしているということである。ジャーナリストには言葉と文章にもっと意識的になる訓練をしてほしいと思う。

 翁長県知事は相当に明瞭に発言をした。県幹部によるとこれほど厳しい口調の翁長氏はめずらしいというのが東京新聞の記事である。「県民のパワーは祖先に対する思い、子や孫に対する思いが重なり、一人一人の生き方になっているので、建設は絶対に不可能だ」と言い切ったということである。

 翁長氏は保守の出身であり、保守の立場から、少しは自民党に期待していたのではないかと思う。昨年の総選挙の結果から、それは無理だということはわかっていても、長い間の立場から若干の期待をもつのは当然のことだ。しかし、安倍自民党は保守ではない。保守の自然心情ともいうべき「祖先に対する思い、子や孫に対する思い」に耳を傾ける相手ではないということを見切ったのであろう。翁長氏には、そういう保守の立場を維持してほしいと思う。

 結局、この間の沖縄と内閣の間をみていると、歴史体験の相違、戦争体験の相違に行き着くように思う。沖縄の人びとは、第二次大戦末期の沖縄戦で四分の一の県民の命を失った。その相当部分は本土軍の横暴、県民の放置、追い出し、そして集団自決の幇助と強制によるものだ。それは忘れることはできないだろう。沖縄の現状を辿っていくと戦争に行くのである。

 他方、安倍自民党は、そもそも首相の安倍氏が母方の祖父の岸信介に強い親近感をもっている。岸氏はいわゆる革新官僚の中心人物の一人として、戦争を遂行した人物である。これは根本的に立場が違う。

 それ故にこそ、普通の人間ならば考えるべきことは、安倍氏の場合は、莫大な犠牲をはらった沖縄県民の声に耳を傾けるということであろう。安倍氏がそういう姿勢をもっていないことは「官房長官」菅氏の一挙手一投足に明らかである。あれでは官僚機械だ。

 さて、聖徳太子の称号に「豊聡耳」(トヨトミミ)という名があるのはよく知られている。十人の人の訴えを同時に聞くことができたという説話もよく知られている。たしかにこれは政治ということの本質を示しているといってよいと思う。それは「聞く」ことなのである。問題は、何を聞くかということにあるが、そこには、ヒトの声を聞く背後で、神霊の声を聞くということがふくまれているのであろう。

 沖縄の場合は、沖縄戦の死者の声を聞くということである。岸信介が、安保条約の強行採決をしながら、自分は「声なき声」に支持されているといったことはよく知られている。あれだけ明瞭な沖縄の選挙結果をみながら、民意が示された訳ではないと称した菅氏は同じことをいっている訳だ。

 私は、世代からいって、三島由紀夫の『英霊の声』は、岸発言に対する反発であったのであろうと感じてきた世代である。安保条約は、アメリカとの軍事同盟をあらためて強化するという条約であったから、太平洋戦争における死者の声が、三島には、アメリカと闘って死んだ我々の立場はどうなるのだという声として聞こえたのであろうと思う。沖縄の人びとにには、いまでも沖縄戦の死者の声というものが聞こえてくるのであろうと思う。それが分からなければ、歴史というものも、政治というものもないだろう。ここには歴史的体験、戦争体験というものが「いま」に露出している断層のようなものがある。
 
 さて、歴史家の仕事であるが、横浜市博の鈴木靖民氏から、エッセイ集、『足と目で稼ぐ歴史学』をいただく。國學院の定年が二・三年前、この三月、客員教授も終わったということで編まれた文集である。そこに、聖徳太子の「豊聡耳」(トヨトミミ)という名は、『魏志倭人伝』が投馬国(出雲)の正官を「弥弥(ミミ)」、副官を「弥弥那利(ミミナリ)」というのと関係があるだろうという短文がのっている。「ミミの原義は不詳だが首長の称号でしょう」というのが鈴木さんの推定である。

 私は、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という「ミミ」と「弥弥」の「ミミ」は関係しているのだと思う。つまり、これは「神」霊を「聞く」能力が首長の属性であったことを示すのではないかと思う。ユダヤでも、アフリカでも、平安時代の日本でも、神は「ささやく」ものであった。ささやく神の声を聞くには独自の能力と注意力が必要であるというのは、世界中にある観念である。政治は聞くことというのは人間社会の本性に関わるようなことなのであろうと思う。

 鈴木さんは「ミミの原義は不詳だ」とするが、もっとも有力なのは、溝口睦子氏によるもので、この「ミ」は、「綿津見(ワタツミ)、山津見(ヤマツミ)」などの「ミ」であり、そしてそもそも「神」の「ミ」であるという。そしてそれは「巫」(ミコ)の「ミ」でもあるという。それは「名付けられていない、目に見えないある意思」を聞く能力であるという。溝口氏の音韻論的な、語源学的な説明は精緻なものであるが、ようするに「このある意思に通じて、ときにはこれを動かすことができるのがミ(巫)であった」というのは、鉄案であろうと思う。

 私は、それは世界の歴史的・民俗的事例からいってまず「聞く能力」、その意味で「耳」の能力であるというように考えるのである(なお本居宣長などによると、ミとミミは通じて使われる同一語であるという。これも溝口睦子論文を参照)。

 もしそうだとすると、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という異名ははるか過去の神話的な観念を顕しているということになる。

 日本の「保守」政党はなくなってしまい。真正保守が残るのは沖縄だけになってしまったということであろうか。保守政党がなくなってしまった国というのは、さすがに世界でもめずらしいのではないか。現在の自民党は何とも奇怪な存在である。あれは政党ですらないのではないか。

 こういう状態を考えるためには、どうしても神話の研究が必要であると考えて、最近、神話研究にのめり込んでいるが、そろそろ「基本の30冊」も終わるので、はやくそちらに移動したい。歴史家などは、何もできるわけではないが、ともかく、沖縄は、柳田国男・折口信夫のいうように日本の神話の原質の一部を露頭している嶋である。せめても、神話の本質的な研究によって、「本土」と「沖縄・琉球」の間の理解の通路を探りたいと思う。

2014年6月24日 (火)

ゴキブリの語源と鉢かづき姫

 ゴキブリの語源のうち、ゴキが御器であるというのは動かない。御器といえば漆塗りの御椀を思い出せばよい。辞書に書いてあるのは、あれをゴキブリが齧るからということである。御器にかぶりつくからゴキブリというのであるということだが、ゴキブリは本当に御器をかじるのであろうか。

 私は、これは「ゴキブリ」=御器かぶりだと思う。御器のようなものを頭にかぶっているから「御器かぶり」=ゴキブリなのではないかと思う。

 ゴキブリの姿を思い浮かべて欲しい。頭から胸の部分が黒く光っていて、これが御器の部分である。そして、そこから茶色い羽がでているが、これは和服の袖を思い浮かべる。
 
 先日、鉢かづきについての授業だった。院生のレポートは刺激的で、帰宅途中に感想を書いたが、時間切れであった。
 授業の題目は「鉢かづき」なので、家にあった『こどものとも』はちかづき姫をもってでた。長谷川摂子再話のものである。
 そこにでてくる鉢かづき姫の姿が頭にしみついていて、そののち、作ってあった鉢かづきのファイルをみていたら、ゴキブリの語源についての上記のようなメモがあった。

 絵本をお読みになってみるとよいが、たしかに、鉢かづき姫の姿がみようによっては「御器かぶり」である。頭に黒い鉢をかぶって、袖がそこから流れていて、たしかに「御器かぶり」にみえる。鉢かづき→御器かぶり

 御器、鉢は乞食の道具である。それが頭に付着してしまい、乞食を身体とする人間になってしまったというのが鉢かづきの物語の本質のところにあるというのが、『物語の中世』に入れた、私の鉢かづき論である。乞食の鉢が頭についてしまったが、これは顔を誰にもみられたことのないという意味でもっとも貴族的な女性である。

 この『御伽草子』の最大の謎は「鉢をかぶる」ということだと思う。なぜ、鉢をかぶるのか、鉢は何を意味しているのかが「謎」として読んだものの心の中に残るかどうかが決定的な問題であろうと思う。私は、この「謎」は秘面ということが、歴史社会においてどういう意味をもつのかという重要な問題にかかわっていると考えている。ヨーロッパのマント、イスラムのチャドルをどう考えるかという物語なのである。

 残念ながら、これを考えに入れた絵本はない。いま読めるのは、上記の長谷川摂子さんの再話のものであろうが、これはよいものだと思うのは、鉢かづきの絵がよい。ゴキブリのことを考えさせてくれたからいいというと画家に悪いようであるが、ーー
 
 しかし、いかにも学者という、うるさいことをいうようだが、いくつか引っかかるところはあって、まず鉢かづきは子どものない夫婦の祈りに答えて観音様の「申し子」として生まれるのだが、絵本では、この漢音様が野原の小さな小屋の中にたっている。これは『粉河寺縁起絵』の場面からとったものなのであろうが、鉢かづきの話は長谷の観音のはなしである。長谷観音という設定は残しておいておいてほしかった。
 長谷寺のことは奈良時代・平安時代のことを考えるときにはどうしても必要な知識である。真言宗豊山派総本山。「わらしべ長者」の話も長谷の観音の話である。『更級日記』にも著者が長谷観音に参詣する話がある。小さな子どもが保育園・幼稚園で鉢かづきの絵本で長谷観音という名前を覚え、中学校で『更級日記』を読んで、すべてを解説してもらうというような形で、日本の歴史文化を徐々に知っていくというようなルートを構想することが必要だと思う。

 もう一つ、この絵本では、鉢かづきは川を流れていく途中に漁師に助けられるのだが、漁師のところで居着くということになった時に、それを聞いた「継母」が、「うらないし」の姿になって漁師の家に行き、「この子は鬼の子だ」と告げ口したために、鉢かづきは海に捨てられそうになったと書き換えられていることである。これは鉢かづきの物語をシンデレラ物語に書き換えたもののように感じる。

 絵本作家と歴史文学・歴史学のあいだには、ほとんど連絡がないので仕方のないことであると思うが、いろいろ考えた方がよいことは多いと思う。
 ゴキブリと鉢かづき姫というのが十分に上品であるかどうかは別として、民族文化というものを十分に理性的に学術的に仕立て上げ、上品なものにしていくことが、世情をみていても必要なことと思う。
 民族感情が下品な形で表現されることはのぞまない。

2013年5月11日 (土)

歴史用語について、ふたたび

 以下はしばらく前にかいたもの。授業で話したことの一部

 今日はある大学で話。残務の処理に史料編纂所に寄る予定であったが、準備している間に思わぬ問題がでてきて、それを詰めて点検している間に、時間がなくなって直行する。
 学生との世代的な違いがありすぎるという感じが強く、どういう話ができるかとは思っていたが、自由にいいたいことを話していると、それなりに時間は過ぎていき、若干、時間をオーバーする。
 彼は金融論というI君がレポートをしてくれたので、それへのコメント。専攻とは違う、奈良時代の政治史について精細なレポートをしてくれる。
 私は、学術としての歴史学にとって歴史用語の読みなどはなかばどうでもいいことであると考えている。しかし、固有名詞の読みはレポートの途中で、おのおの指摘せざるをえず、どうも、申し訳ないので、レポートの後にまず歴史学と固有名詞についての業界的な説明をする(ただしこれは私の感覚なので業界一般である保証はない。
 まず、研究者の名前について。社会的には名前をまちがえるのは失礼であるが、研究作業にとっては一つの符丁なので気にしなくてよい。「あれ、これは非常識だったかなどと感じる必要はない。研究者は相互に学問の中身だけが問題なので、名前の読みは二次的な問題。もちろん、研究者としての相互関係は、「この門を入るものは一切の希望をすてよ」という訳ではない。同じ地獄に入っているという訳ではない。しかし一種の修道院に入っているようなものであるということは今も昔も変わらない。専門性におうじて社会関係との関わりは多様で、一筋縄ではないが、こういう感覚は出発点の一つだと思う。
 その後は、まず元号・年号について説明する。そもそも王の在位期間や恣意によって時間を区切るなどという思想は、時間の客観性を追求するのが第一の役割である歴史学にとっては不愉快な「子供だまし」である。しかし、元号は日本史の史料をあつかう以上、手間だが、それなりに覚えざるをえない。たとえば弘仁・承和・貞観の前後関係ぐらいは徐々に覚えざるをえないが、それは日本史とつき合う以上、やむをえないということである。そこは醒めているということになるが、歴史の客観的な経過は、(もちろん改元により雰囲気をかえようという動きはあるとはいえ)改元では変化しない。それ故に、まずは西暦に変換するくせをつけることが必要である。そのためにはワープロで西暦と元号の変換を登録しておくとよい。この西暦変換をやりながら、時間の客観性を感じながら物事を考えるというのが前近代の日本史研究ではとくに必須の習性になる。
 その上で、元号で歴史上の事件を呼ぶのは非学問的な行為であることの説明もする。たとえば「承和の変」というのは、それ自身として無内容な用語であって、無駄な記憶の賦課を歴史知識体系にかける。「薬子の変」は平城上皇クーデター、「承和の変」は恒貞廃太子事件などと呼ぶべきものであることを説明する。しかし、学界の側がターミノロジーを一致させるということは、結局、研究によって「事件」の実像をどこまで明瞭にできるかにかかっている。そして、そもそも歴史学界というのも業界なので、ムラの業界用語を自己批判的に点検するということはなかなかむずかしく、そういう点では、すべてを疑うという原則が必要となるという実情も伝える。
 こうやっていくと社会的な歴史常識においては元号を記憶する賦課がへるが、問題は、ぎゃくに記憶するべき人名がふえていくことで、従来は「承和の変」のみ覚えていればよくて、恒貞などという名前は覚えなくてよかったものが、少なくとも経過的には「承和の変」と同時に恒貞という名前を覚えるという手間が生じる。こうして関係の人名リストが増えていくことになるが、これはしょうがないとあきらめるほかはない。
 ただ、人名に関係する固有名詞として『小右記』だとか『中右記』だとかいう史料名がある。『小右記』というのは小野宮実資が右大臣を極官としたのによる、「小」と「右」をとって日記名としたもので、これは歴史家にとっては不要な言葉である。ただ、歴史家としては、これも必要悪で覚えざるをえないし、論文でも引用せざるをえないから、同じように、変換データを作っておいて、『小右記』と入れて変換すると、『藤原実資日記』となるようにしておくと便利であるなどという。なお、『小右記』というのは教科書などにもでてくるが、これは本来教科書にはのせるべきでない。
 こうして、こういう固有名詞は、結局、歴史分析の中では、相当部分が「人物史」「個人史」の分野の問題に関わってくる。どれだけ、その個人のイメージを明瞭にできるかということが勝負になる。その場合、たとえば聖武天皇をとってみれば明らかなように、人物史の常識的な評価には相当の問題があることを前提としておいた方がよい。「すべてを疑え」である。いわゆる「人物史」は要するにすべて政治史の理解に関わってくる。歴史学一般で、「すべてを疑え」というのが学術的な原則であるが、歴史学でとくに疑うべきなのは政治史である。
 というような話をした。ここまではわかりやすい話。
 その上で、むしろ必要なのは、一般名詞、とくに動詞や形容詞などのいわゆる用言の理解になることも説明する。これはうまく話せなかった。具体的な例にそくして話さないとだめであろう。
 ともかく、われわれの世代からは小学館の『国語大辞典』の位置が大きくて、名詞の理解は相当初心者でもできるようになった。この点では、50年・60年前に研究をはじめた人には信じられないような研究用具の改善があった。これを全面的に利用することが必要である。人文系の学問は、所詮、言葉の学問というところがある。その上で、研究の現状からいって、形容詞・動詞は、まだまだ議論は可能で、しかも用言の方が、前近代人の日常意識は反映している。その細部を読む訓練に集中し、どうでもいい固有名詞を記憶するのは徐々に貯まっていく記憶の成り行きにまかせるという構え方が必要になるという、これも一般的な説明をした。
 さて、これを書いていて、あるい尊敬する研究者が、ほとんど固有名詞を知らない。それで本当に歴史をやっているのと娘さんにいわれたといっていたことを思い出した。ともかくも、私は、固有名詞に対するある種の嫌悪ともいうべき感情が、歴史を細部においてみるという研究姿勢において決定的に重要であり、かつその延長線上に歴史の理論的な理解の道が開いているものだと思う。これが史料を読むというところから歴史の方法に直通していく道であるのだと思う。
  前回は、「史料を読む」「歴史の方法を考える」「通史」という三つの事柄は、歴史学にとってはつながっている。「史料の細部を読む」ことは、歴史の方法的な考察につながり、さらにその先に、全体像と通史というものがあるのであろうと思う。

2012年4月23日 (月)

ウナギ鮨と宇治丸

 先週の土曜日は東大の弥生講堂で行われた「低線量被曝に向き合う:チェルノブイリからの教訓」の集会に参加。奥様と娘と一緒。はじめて知ったことが多い。発生している非癌性の慢性病の量に驚く。低線量被曝について京大の今中先生のコメントでは、非癌性の細胞核、DNAの発現の機構の解明が重要のように思うというコメントがあった。かならずしも癌だけの問題ではないとなると、本当に社会的にも学術的にも研究を急がなければならないということなのだと思う。

 低線量被曝に向き合う:チェルノブイリからの教訓

チラシのPDF版をダウンロードできます

以下は、以前、ウナギ水産協会(?)の新聞でのインタヴューに答えたもの。備忘のためにあげておく(年月日と正式名称は後に)。

鰻消費の歴史を紐解く

 万葉の時代から食されていた鰻だが、当時の消費の実態は定かではない。醤油ができたのも戦国時代とされていることから今のような蒲焼きではなかったと推測され、業界の関心も高い。そうした中で、東京大学史料編纂所所長の保立道久教授に鎌倉時代の鰻食文化について話を伺い、その概要をまとめてみた(本紙発行の「日本の鰻二〇〇七データ&ダイアリー」にも掲載)。

 このような研究に興味をもったきっかけについて、保立教授は「日本では漁業の歴史研究が少なく、二〇年前には五人もいなかった。漁業研究の先達として著名な網野善彦さんから『日本の漁業は日本の重要な文化の一つ。このままでは歴史の見方が歪む』という薫陶を受けた」と振り返る。
 自らも霞ヶ浦の土浦の出身で、コイ等内水面を含めた漁業に強い関心を持っていたことから、専門である中世史の研究で、水産業の研究に力を入れてきた。その中で「前からウナギに興味を持って調べていた」という。研究の過程において、第一に気がついたのは『永昌記』という貴族の日記の裏側に残っていた鎌倉時代初期の「宇治鱣請訴状」であった。
 この「鱣」という字は、本来は「ウミヘビ」という意味で、それがウナギの意味でも使われているのに興味をもったという。
 この中にある「鱣請」の文字は、「ウナギウケ」と読む。この文書を詳しく解釈していくと、彼らは、宇治川で「石積漁」という方法でウナギをとっていたウナギ取りの集団だった。皮に石を積み上げ、その中に「ウケ」と呼ばれる竹籠を仕掛け、中に入った鰻を捕らえるというもので、シーズンの7~8月にはこの仕掛けが川一面を覆ったという。
 また、昔、琵琶湖には多くの鰻がすんでいたようで、江戸時代には、勢多川の流出口、勢多・膳所(ぜぜ)の雨の夜には一つの梁で、一晩三〇〇〇匹以上もとれたといわれる。
 夏・秋の出水のシーズンに大量のウナギが勢多川の急流を下り、宇治のあたりで一休みをして、石組の中にこもる。それを一網打尽にするという訳である。
 興味深いのは、当時の宇治橋を描いた絵には、宇治橋の橋脚のところに橋脚を保護する為の石組みが描かれている。この石組みは、鱣請たちが、毎年、洪水の後、橋を守るために積み直していたものであるとされる。ウナギ漁民は宇治橋の橋守をかねていたことが推測される。
 また、宇治橋は宇治の平等院が管理しており、その関係で、ウナギ漁民たちは平等院の寺男(てらおとこ)でもあったということがわかる。
 ただ、寺男が「殺生」である漁をするというのは矛盾するように聞こえるものの、当時の漁業は相当の実入りのある職業で、特権でもあったから、問題視されなかったようだ。
 そもそもこの史料には同じく河川事業で大きな勢力を維持していた「氷魚(=陸封された小アユ)」の漁師が漁場の問題で鱣請と勢力争いを繰り広げたことが記されている。この「氷魚」の漁師は京都の賀茂社に奉仕する「神人」であった。
 こうした史料からも近畿地方の漁業は著名な寺社がその漁場特権を有していたことがわかる。宇治橋は平等院の近くにあるため、「氷魚」の漁師の意見よりも、鱣請が優先されたようだ。鱣請は、特別な存在で、相当の力をもっていたことになる。
 今でこそ河川事業の雄である天然アユ漁だが、文献によると簗漁や四つ手網漁等、今でも現存する漁の写真も確認できる。琵琶湖をはじめとする全国各河川での漁業は釣り、エリ、簗、四つ手網、追いさで等様々な漁法で漁獲されるアユ漁がダントツの位置付けを誇るのはあくまで現在に入ってからのことのようで、鎌倉時代には、石積み漁をメインとする「鱣漁」に圧倒されていたといえそうだ。
 更に、保立教授は「禪定寺文書」の鎌倉時代中期の一通の文書に「鱣鮨」という言葉がでてくることに気付いた。この字(写真)は活字本では、魚ヘンの隣のツクリが「面」と読まれていた。しかし、保立教授は「面」が「亶」であることを突き止めた。しかもこの字は「鱣請」の「鱣」の字と同じである。鎌倉時代には「鰻」ではなく「鱣」という文字を使うのが普通だった。
 保立教授は「ここにでてくる『鱣鮨』は、スシであるから、そのもとはウナギの白焼であろう。そして、これは室町時代になると『宇治丸』という愛称で呼ばれ、宴会等でもメインの料理として積極的に使われていたようだ」と説明する。
 そして、「宇治丸」を数える単位が「筋」となっていることから、ウナギズシ=宇治丸は、長い、「押し鮨」のような姿をしていたのではないかと推測する。
 うなぎ蒲焼は、かつてブツ切りにした鱣を串に刺して焼き上げた姿が「蒲の穂に似ている」ことから蒲焼といわれるようになったとされる。ただ、醤油の存在しない鎌倉時代において、蒲の穂のような色で焼き上げた蒲焼は勿論存在せず、白焼のみの流通であったことはいうまでもない。
 この「鱣請」が「長焼のような形態のものを使った押し鮨」のような料理だったとすれば、既に割き技術が存在していたことの証明にもなり、蒲焼の語源に対する認識が変わってくる。
 大伴家持の歌にあった鰻料理とはどのようなものであったのだろうか。こうした疑問も解き明かせることが期待されるこの研究は業界にとっても重要な意味を持つことになる。
 また、面白いのはその価格で、室町時代には、「宇治丸筋二五筋に対し、『一〇〇文を払った』という記録が残っている。一〇〇文は今でいうと一〇〇〇円ほど。今の鰻に比べると安かったかもしれない」と語る。
 ともかく、鎌倉時代から、宇治のウナギが京都などに盛んに出荷され、夏の食べ物として好まれたことは確実で、それは「平安時代からも同様の形態で消費されていたといえる」という。
 保立教授は、今後の課題として「『鱣鮨』がどのような料理だったのか、そのレシピを解明してみたい」とした上で、「それには考古学との連携が必要になっていくだろう。遺跡の中からはしばしば食べ物の残りカスがでてくるし、魚の骨も多い。その中にウナギの骨が残っているのを知っている人は知っているはずだ。考古学者に聞いて、つめていきたい」と語った。
 現在、うなぎというと「浜名湖」や「静岡」が代名詞となっているものの、当時は「宇治」がブランドとして通っていたといえそうだ。保立教授は「当時から存在した魚の産地ブランドとしては『明石のタイ』『紀州のカツオ』『越後のサケ』等が挙げられる」と語る。そのいずれもが現在もブランドとして残っている中で、「宇治」に関してうなぎのイメージは一般的とは言い難く、少々残念なことといえそうだ。

2011年12月 2日 (金)

文字を読むこと、教わること。

 私は歴史家ではあるが、編纂が業なので、昨日は文字が一つ読めず、往生していたところ、同僚の後輩が、崩し字辞書を引いてくれて、「薬」ではないかといってくれた。文節の冒頭にくる二文字の名詞で御茶や壺にかかわる名詞であることは明か、そして上の字が「土」であることは明かなのだが、下の字が読めない。「葉」か「参」か、あるいはいっそ「茶」か。こういうのは5分考えてわからなかったら行き止まりに頭が入り込んでいるので、周りに聞くのが一番早い。人の意見を聞いただけで、頭が別に動き出すということもある。1分後、崩し字辞書をもって、机を回ってきて「薬」ではないかと。ありがたく、深々とお辞儀。

 わからない字を読むには文字の形で3つ、文字の意味で3つの候補を出して、その順列組み合わせで考えるのだというのは先輩の教え。とはいっても、しかし、陶器や茶道となると、まったく意味の候補がでてこない。順列組み合わせもできなかった。
 誰もがよくやるように、「似た字メモ」あるいは「わからない字、読めない、読めなかった字メモ」というのを作ってあったのだが、糸がとれてバラバラになって整理も悪いので、ノートの形式を変えることにして、生協に散歩にでてノートを買ってきた。

 この「土薬」は『日本国語大辞典』(小学館)にもないが、散歩しながら、釉薬のことと思われると考える。読めなかった文節の大意は「釉の壺でこれだけ大きい物はなかなかない」という意味であることになる。机に戻って史料編纂所のデータベースで横断検索をかけると、『細川家史料』20巻 56頁、寛永十三年六月廿六日の小田豊斎宛書状 に「土薬も古さも能候へ共」という用例が一個だけみつかる。「土」には「国」という意味があるから、国産の壺でこれだけ大きなものはないという意味にもなるが、これは考えすぎかもしれない。ともかく似た字メモに上記を記入する。
 編纂をしていると、時々、辞書にない言葉、あるいは辞書の用例が少なかったりする言葉を見つける。あるいは江戸時代にならないと用例がなかったり、狂言などの文学史料にしか用例がなかったり、という場合もある。それを発見するのは意味が大きいことだと思う。


 グローバル化の中で言語がどうなるかという問題がある。言語の自由、言語集団の自由によってこそ一種の融合が考えられるというのが、私などの知っている古典的議論であるが、そういうことを人類史の将来にかけて本当に考えられるとしたら、それは少なくとも、過去の言語遺産をすべて究明してあることが前提だと思う。日本の言葉は一種の言語遺産であるが、その意味を、正確に読み解いておかなければ、過去言語を相対化でjきない。過去言語の相対化なくしては、「融合」などはありえない。どんなにデータベース化が進み、オントロジー的な言語データができても、いま、「日本語」を使っている人間にしか読み解釈できない言語遺産というのはあるのだと思う。
111127_195650_2   先日、6■歳の誕生日に、スイスのシモン君がきてくれた時に話したこと。将来、言葉はどうなるだろうと話したことを思い出しながら書く。

2011年9月 2日 (金)

「ような=岩砂・山砂」長谷川勲氏の仕事の紹介

 入間田宣夫さんから「ような」についての教示をいただく。
 「な」が「土」を意味するという問題について、電話で話していたところ、山砂のことを東北では「ような」ということを教えていただく。いろいろ調べたが分からなかったので、改めて教示を御願いした。
 入間田さんは、お宅にきた行商のおばあさんに聞いたことで、その後に確認した記憶があるということだったが、今年五月に刊行された『阿賀路』(49集、2011年5月)を送っていただく。そこに掲載された昨年の総会での長谷川勲氏の講演「阿賀町の地名ー綱木・御前ヶ遊」に「ゆう→よう」についての言及があるということで、御送付をいただいたもの。
 

 「綱木」の方も興味深いが、「御前ヶ遊」は阿賀町の柴倉川上流の菅倉山と井戸小屋山の間の尾根路を登り切ったところに広がる岩場と洞窟で、山全体が緑色凝灰岩でできていてまったく草が生えていない異様な風景であるという。平維茂の妻(「御前」)が、ここに逃亡して暮らしたという伝説があるが、長谷川氏は、この「遊」は、それとは直接の関係はなく、岩窟を意味するという説明をしている。東京堂出版の『地名用語語源辞典』には「ゆう」はイワ(岩)または岩屋、洞を意味するといい、柳田国男の『分類山村語彙』にも岩窟をユウと呼ぶという。たしかに「岫」はユウとよみ、史料にも登場したと思う。
 そして、『民俗地名語彙辞典』(山一書房)のユウの項目に、伊豆八丈島で渓谷の岩石の多いところを「ヨウ」というとあるのに注目して、ユウ・ヨウは通ずるものであったろうという。

 それに加えて長谷川氏は「筆者は長らく岩にかかわる地名を全国に追ってきたが、その中で奥秩父で『ヨウばけ』という地名に出会っている。埼玉県小鹿野町、赤平川の左岸。およそ千五百万年前に海底に堆積した泥や砂が岩となり、やがて隆起して赤平川に削られてできた崖だ。高さおよそ百メートル、幅およそ四百メートルというスケールの大きさ」であるという。『阿賀路』から写真を掲載させていただいた。Irtu こういう陸地の大岩壁について、長谷川氏は「村上市蒲萄字矢吹に横幅約120メートル、高さ約45メートルの大岩壁があり岩窟もある」という事例も紹介しているが、これは「岩に関わる地名を追ってきた」とおっしゃる長谷川氏の大きな発見であると思う。私は、(海岸の岩壁とあわせて)このような岩壁の様子が、大地の内部についての昔の人々の観念に影響しているのではないかと考えたい。
 

 それはともあれ、こうして、「ヨウナ」の「ヨウ」は岩を意味する語である可能性が高いということになっていく。こうして「ような」というのはイワスナ、岩砂、それ故にヤマスナのことであるという入間田さんの記憶にそって、一つの問題がつながっていった。本当にありがたい。

 ヨウナという用語は大部な方言辞典にも、他の辞書類にもでてこない。しばらく前の記事で述べたように、「ナ」という語彙が重要なだけに、この確認は一つの重要な蓄積であろうと思う。

2011年7月27日 (水)

火山地震36スクナヒコナ(続き)

 昨日、駅から自転車に乗って帰る途中、左目に小さな痛みが走り、夜から痛み始め、よく眠れず。朝になっても痛いので、午前中の史料撮影の仕事を15分早く切り上げさせてもらう。Uさんどうも失礼。赤門から信号をわたって眼鏡屋の上の眼科へ。10年か15年か前にもかかったが、K先生は御変わりない様子。
 検眼鏡でくわしくみてくれた。「異物」ですということで取ってくれたら、一挙に痛みが引く。薬の会計をしながら、気になって伺うと、「小さくひらべったい透明なもので、ぺったり張りついていた。そこが血管が腫れていた。黒目にはかかってませんから安心していい」と。
 いま職場に帰って消炎の目薬をさして直った。異物は何なのかはわからないということだが、怖い話しである。こういう事故が、たとえば昔の人にあったら、直せるものであろうか。目から異物を取るのは自分でやる人も多いが透明な小さな異物などは専門でなければとれないのではないだろうか。昔の眼病の研究もしなければ、論文はあっただろうか、などと考えるのは、歴史家のサガ。貧乏性。しかし、眼科の史料は『病草紙』ぐらいしか思いつかない。
 ちょうど職場の前で、職場のU氏にあうと、彼からスクナヒコナについて吉田先生が「火の粉」の神ではないかといっていたという情報。たしかに、柳田国男を通してみていくと「硫黄」をふくむ、燃焼性の粒、金気のものという印象なので、的確な言い方かもしれないと思う。
 一つは「火の粉」それ自身というと、柳田国男がいうように忌部の神の一つ、天一箇目命=鉱業神が隻眼の理由は目に金粉が入ったためであるという議論との関係で興味深い。
 さらに問題なのは、U氏もいうように、スクナヒコナは粟柄から飛んで常世の国に帰るという神話の一節である。これは粟の焼畑との関係を思わせる叙述で、その意味では「火の粉」一般の方が説得性がある。とくに大林太良氏のオオゲツヒメ論があるので、オオゲツヒメとスクナヒコナが列島の農業神話の最基層を形成している可能性が、さらに火山神話にむすびつく可能性があることになる。南アメリカの火山神話が焼畑と地母神としての女性に結びついているということから考えると、もしスクナヒコナを火山神と結びつけてよければ、図式としては共通することになる。
 あるいは伊豆神津島の火山の女神の名前、「阿波神」はオオゲツヒメとダブルイメージなのではないかというのが大林太良さんの議論を考えたときの印象である。なお、史料の実態論的な解釈をブログですぐに書くのは研究状況からいって避けている。年取った人間が史料に即した議論をブログで自由にいろいろいうことはひんしゅくの元である。ただ、他分野に関わる語源論的な「思いつき」は御許し願う。
 いずれにせよ、スクナヒコナが火山との関係があることは確実なので、スクナヒコナの神格の中心が硫黄にあるという小路田氏の創見は揺るがせないと思う。
 さて、東北地方の地震で各地で液状化が起きているが、その中に、戦後、燃料不足の時に企業的な採掘が行われた「亜炭」採掘後の農地に液状化がきびしいという話しがある。この「亜炭」が「スクモ」であることはいうまでもない。こういう被害、つまり生産手段が異なる社会的分業の対象となった場合、生産手段の切り替えにともなう見えない瑕疵をどう社会的に扱うか、とくにこういう自然災害の中で明らかになった瑕疵をどう扱うかというのは社会経済にとっては基本的な問題だと思う。これは調整者としての公権力が必要な保障をするべき問題だと、私は、思う。
 社会正義というものを広くとらえて保障の範囲が広くなっているのはヨーロッパの趨勢である。それを日本社会も熟慮の上で採用するべきだと思う。自由勝手、強いモノがちという「規制緩和」なるものを主張していた(主張している)某・某政治家などは、震災後の状況をみていると、政治家としての何の先見性もなかったことが明らかになっていると、私は思う。私は主要責任がどこにあるかを曖昧にしたまま、社会一般・文明一般に問題をつけまわしするような三文知識人の意見にはとても賛成できないが、しかし、某・某政治家の意見が強く流通した時期があったのは事実で、これは社会における熟慮・熟議の伝統の軽さの表現でもあるのかも知れないとは思う。
 先日、ドイツの外務大臣が、ドイツの原発廃止は、「熟慮・熟議」の上に、従来の議論を拡大したものでくつがえることはないと、新聞で語っていた。歴史学はそういう意味での「熟慮」「熟議」のための学問であることはいうまでもないが、そういう力を本当に、現実に発揮できるのかが問われている。
 それにしても、現在は「熟慮」よりも行動の時なのだろう。私はほぼ毎日、防災科研の高感度地震観測網をみているが、福島第一原発のすぐ近くまで双葉断層の地震マークが、かさぶたのように密集し、海側をあわせてあと10キロもないというところまで迫っているのをみて、クワバラ・クワバラである。さっき、そのページを開いたら、12時55分にM2,5の小震が原発のすぐ沖で起きている。それは報道はされないし、地震波は我々にはみえない。
 しかし、このかさぶたが毎日毎日盛り上がってきて、問題の地帯を呑み込もうとするようにみえるのは、目の錯覚か。ともかく、防災科研のHPで、一度、御覧になることを御勧めする。

2011年7月15日 (金)

火山地震35スクナヒコナは硫黄神、小路田泰直『邪馬台国と鉄の道』の発見

 最近、近代史家の小路田泰直は、大穴持命と対になる少彦名命の「ス」を、「酸」(ス)であり、硫黄の神であるとした。それをふくむ小路田氏の本『邪馬台国と鉄』(洋泉社新書y)は、私にはたいへんに面白い。「古代史」のアカデミズムからは無視されるであろうが、一読する価値がある本だと思う。この本の中心的な論点である魏使のとった邪馬台国へのルートを丹後ルートするのは十分に学説として成立すると思う。それだけでも読む価値がある。
 もちろん、私も「古代史」の史料は読むので、小路田さんのいうことに違和感がないかといえば嘘になる。しかし、ある考古学の研究者と彼の噂をしていた時、その人の感想は「頭のいい人だ」ということであったが、たしかに論理の運びをおっていると、頭のよい人だと思う。そして実際に勝れた発想が上の邪馬台国ルート論以外にも多いと思う。いろいろなところへ身軽に車で行き、その現場で考える。「方法は旅である」という小路田氏の宣言はうらやましいし、読んでいて気持ちがいい。
 その中でも、私が教えられたのは、冒頭にふれたスクナヒコナを硫黄の神であるとする議論である。これによってスクナヒコナを対となるオオアナムチ=大穴持命=大国主命と同様に、火山の神と考えることが可能になる。
 「古代史」の研究者からは、こういう発想はでてこない。それも氏の旅好きからきていて、東北にいった時に、出羽蔵王の酢川温泉神社にも少彦名命が祭られている。東北地方に多い「酢」「酸」のつく温泉や地名の「酢」「酸」はすべて「ス」と読むが、酸川温泉の湯が酸っぱかった。これは硫黄のためだ。そしてこの酸川温泉はいうまでもなく、全国の硫黄泉のあるところ、紀伊白浜温泉、伊予道後温泉、摂津有馬温泉には少彦名命が祭られている。そして、硫黄は皮膚病その他に薬効があり、薬問屋の町として栄えた大坂道修町の鎮守が少彦名神社であるのもそのためであるという。
 私は結論からいって、スクナヒコナは硫黄の神だという、小路田氏の意見に賛成である。いままで、そういう学説がどこかで一言でもいわれているかどうかが問題だが、知る限りでは小路田さんの意見がはじめてだと思う。しばしば学者は、重要な発想や言及を「思いつき」を書いただけの文章だとして無視する。しかし重要な発想の場合は、尊重するべきだと思うし、それが研究の柔軟性を保証するのだと思う。もし、この学説が一つの学説として存在することになれば、小路田さんの仕事の意味が大きいのは当然である。もちろん、将来、(賛成した私の意見をふくめて)否定される可能性はあるが、ともかくひとつの「説」としては成立しうるのではないかと思う。
 ただ、「スクナ」の語源として「酢粉」(スコナ)をいうのは、私には疑問がある。これは小路田さんの語源論の方法がやや「素人」的ではないかということで、これはまずいのではないかということでもある。もちろん、「専門家の手法にとらわれず、素人的に」(あとがき)というのはありうると思う。「近代史家」が「古代史」の「専門家」に対して「素人」を称して別の意見を提起するのは許されると思う。しかし、歴史史料の分析が他の学問分野にも関わる場合、他の学問分野(たとえば言語学)に対しての向き合い方は、やはり慎重にするべきなのではないかと思う。他の分野の学問から奈良女子大学教授が歴史の「専門家」として扱われるのは当然なのだから、そこでは「素人」ということはできない。
 もちろん、語源論の方法というものが日本言語学でそう明瞭に展開されている訳でもないように思うし、また以下に述べることも十分に根拠がある訳でもないので、申し訳ない言い方ではあるが、しかし、この語源論に本書を読んでのもっとも強い違和感があることも事実である。
 それでは、別案をどう考えるかであるが、最初は、前のエントリでいった「クナ」から考える方向が一つあるのではないかと考えた。「ス」の取れる「クナ」、スクナ、聖なる土地、占有した土地ということになる。「ナ」は「土」という意味の「ナ」に違いないということになる。柳田国男は会津八一からきいた話しとして「妙高山の谷には硫黄の多く産するところがあるが、天狗の所有なりとして近ごろまでも取りに行くものはなかった」(『定本柳田国男集』(4)158、筑摩書房)という話しを紹介している。こういう硫黄がとれる場所のことを「スクナ」といったということになるのかもしれない。しかし、ただ、若干、これは語法としては、コジツケという感じがしないではなく、言語論的には傍証や類例に欠けると思う。
 むしろ考えたのは、「すくも」との関係で考えることである。「スクモ」にはいろいろな意味があるが、もっとも重要なのは泥炭という意味である。泥炭と硫黄は、意味上も、火性のものとして通ずるのではないか。「スクナ」と「スクモ」というのは音韻からいって通ずる可能性も高い。
 これについては柳田「燃ゆる土」(著作集30,383頁)が重要で、スクモを泥炭のこととして、さまざまな異称の説明もしている。そのうちで特に重要なのは、『四隣譚藪』(一)なる本に「土くれにて燃ゆるもの也。水田に地しぶ浮きたるところに出る。春に至りて蘆のきざしをふくめるや、焼き捨つるに火消えず、硫黄の気多し」とあるということである。硫黄の気が多いというのが印象深い。
 残念ながら、硫黄の気が多い泥炭というものが具体的にどういうものなのかは、私にはわからないが、『日本国語大辞典』がスクモの語義の一つを「泥炭(でいたん)をいう語」と説明していて、*多識編〔1631〕一「石炭 今案伊志乃阿良須美 又云毛乃加幾須美 近江国栗本郡掘地取土加炭燃之代薪 曰須久毛(スクモ)」、*大和本草〔1709〕三「すくも〈和品〉近江国野州郡老曾村は〈略〉其辺の地をほればすくもと云物多くいづ。土にあらず、石にあらず、木にあらず。柴の葉のくさりかたまりたるが如し。火にてたけば能もゆる。里人これをほりて薪とし、是をうりて利とす」、*随筆・松屋筆記〔1818~45頃〕八六・一七「薪土(たきぎつち)すくも 簷曝雑記四巻〈十九丁ウ〉河底古木灰条に〈略〉亦掘之至五六尺許輙得泥如石炭者然不可食以作薪火乃終日不熄其質非土非石」などの用例を上げているのも追加しておきたい。また「スクモイシ」という言葉は「石炭(せきたん)の異称」という説明で、*和英語林集成(初版)〔1867〕には「Szkumoishi スクモイシ 石炭」とあるという。
 ようするに、「スクモ」というのは、硫黄気、金気などの燃えやすい物質のある「毛」のようなものという意味なのであろう。「すくも」については、実はもっと考えなければならないことは、右の柳田の文章を読めば明らかで、それについてもそのうち考えてみたい(これは煙の関係で出てくるスクモというものは堆肥肥料・野焼き・畑焼きなどの農法に関係するかもしれないという話)。ただ、柳田の索引を引いていて(まだ全部引いた訳ではないが)、驚いたのは、著作集26巻の544頁にある、次の折口の連歌の上句であった。

  手のひらにすくもはたけば光る也

 これは大国主命=大穴持命が少彦名命にあった時、少彦名命を「取置掌中に取りおいて翫そんだ時に、則はち跳ねて其頬を囓る」(『日本書紀』巻一第八段一書第六)という話しを彷彿させる。柳田国男は、この連歌上句に解説をつけて「すくも」について解説しているが、折口はあるいは、この連歌をスクナヒコの関係で詠んだのであろうか。折口の方を点検しないとならない。
 さて、タカミムスビが「天地鎔造」といわれるのは、タカミムスビが天地創造神であることを意味しているが、この「鎔造」は、タカミムスビが鉱業、金属産業の神であることを意味している。そして、タカミムスビの子供といわれ、忌部氏の祖神である「天一箇目命」が鉱業神であるのは、柳田国男のいう通りである。やはりタカミムスビの子ともされる少彦名命が硫黄神であるというのは、この点からも話しがあうように思う。
 

2011年7月10日 (日)

大地を区切ることと「国」の語源

 くに【国・邦】の語源について『日本国語大辞典』(小学館)に掲げられた語源説は15もある。しかし、「クニ」の「二」については「土」であるというのが多数意見である。「土」を「ナ・二」と読むのが、朝鮮・日本に共通する言語らしいこともよく知られている。
 問題は「ク」であるが、『字訓』が「所(ク)、処(ク)、陸処(クガ)」のクであるとするのにしたがって良いと思う。『字訓』は「所(ク)、処(ク)
」について、「もと神聖な場所を示す語であったらしい」とする。
 面白いのは「クナ」という言葉。これは、「ニ」と「ナ」が通ずるところからすると、実際上、「クニ」と同じ言葉だと思うが、これは方言では、「農作物の連作」(神奈川県津久井郡316)、「連作の畑。《くなばた〔─畑〕》とも」(静岡県磐田郡546)、「豆を作った翌年の畑。次に粟(あわ)を作る。《くなばたけ》」(青森県三戸郡083)、「焼畑の二年目。《くな》」(山梨県南巨摩郡464)、「焼畑の三年目。《くな》」(静岡県磐田郡546)、「一年中作物のある牧畑」(島根県隠岐島725)のことをいうという。
 つまり、「土」=ナ=大地のうちで、囲い込んで利用しているものを「クナ」といっているということになる。なお、文献でこの「クナ」という言葉があるのは、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、現在のところ一例のみで、玉塵抄〔1563〕二六に「こぞの秋いねをかったもとの茎のみじかうのこってたをくなと云ぞ。此の字を田舎にいた時に人に問たぞ。古納(クナ)とかくと云たぞ」とあるものであるというが、つまり、そこでは「クナ」とは、「稲を刈り取った後に残った切り株」であるということである。これは、上記のように、方言で「クナ」が「農作物の連作」であることに対応して生まれた用語法であろうと思う。
 興味深いのは、上記の方言の用例では、連作していること、とくに二年目・三年目になると「くな」として占有しているということが言葉の上で表現されるということで、これは逆にいうと、三年使用していなければ、「くな」から外れるということを意味するのではないだろうか。
 昔から考えていることなのだが、いわゆる「墾田永年私有令」なるものの段階からみえる「三年不耕」の原則はまずは農事慣行として存在していたはずである。「クナ」とは、まさにそれを示す民俗語ではないかと思うのである。方言では「住居から離れた普通の耕地」(山梨県南巨摩郡464)、「水田」(岡山県真庭郡746)のことをもいうようだが、ようするに「自分の領分のナ=地」ということを、こういっていたのではないだろうか。沖縄では「組織すること。まとめること。《くな》」(沖縄県首里993)というのも面白い。
 この方言の分布からみて、この言葉の淵源はきわめて古いと考えてよいのではないかと思う。そして、『字訓』が「ク」について「もと神聖な場所を示す語であったらしい」というのに反対する訳ではないが、より深い言語層、より古い言語層では、日常的な関係としての「占有」を表現するといってよいのではないだろうか。日常的な語彙とより宗教的・イデオロギー的な語彙は、関係しつつも、一応、区別して考えるべきであろうと思う。そして、歴史学にとってまず解明が必要なのは、ブローデルではないが「日常性の構造」であると思う。
 「クニ」の語源説でもっとも有名なのは、本居宣長の「垣」(クネ)説であるようである。『日本国語大辞典』(小学館)から、その語源説を引いておくと「(4)古語で分界のことをいうクマリの転で、クム、クモと同根〔東雅〕。 クモニ、クムニの約〔古事記伝〕。(6)限りの意〔古事記伝所引賀茂真淵説〕」ということになる。「クニという名は限りの意なり。東国にて垣根をクネというにて知るべし」(『古事記伝』)ともある。
 しかし、現代の学問あるいは学問条件というのは、やはり進歩しているもので、この「クネ」についても『日本国語大辞典』(小学館)を引けば、用例が相当でてくる。そして、それを読んでいると、これは上記の「クナ」に深く関わる言葉で、こうして「クナ」「クネ」はたしかに「クニ」に関わるということが、本居のレヴェルを越えて具体的にわかることである。けっして本居の判断や直観をなみする訳ではないが、学問を一つ一つ新しくしていく決意が、現代の学者にも必要だと思う。こういうことをいうと、学問条件の進歩に乗っかっていい加減なことをいうと怒られることがあるが、なにしろうまくやれば「簡単」にできるのだから。
 「クネ」について、『日本国語大辞典』(小学館)が文献からあげるもので、もっとも古いのは、虎寛本狂言・瓜盗人〔室町末~近世初〕で、「瓜つるを引立てのけう。〈略〉腹も立つ。くねをも引ぬいてやらう」とある。そして、読本・飛騨匠物語〔1808〕三「垣のくねより覗き見るに」、歌舞伎・隅田川花御所染〔1814〕中幕「『道は無いが、それともくねを破って』『なにサ、荷を担いでは垣を破って行けまいて』」、菊池俗言考〔1854〕「西国にては屋鋪廻りの藪を久禰と云」などが上げられている。
 たしか「くくね」という形で、私の編纂した文書か、研究した文書にあったように記憶するので、もっと古くから「竹などを編んだ垣根。また、いけがき。くね垣」という意味で使用されていたことは明らかである。これはこの前発表した「地頭領主権と土地範疇」という七面倒くさい論文で、田畠の境界、畔についての細かな議論をやったので、その関係でもう一度再検討はする予定である。
 仕事の話しはやめて、「クネ」の方言を『日本国語大辞典』(小学館)で紹介すると、下記のようである。長いのでとばし読みしてください。
(1)垣根。生け垣。《くね》石巻†055会津†062常陸†064東国†035岩手県092秋田県130山形県144福島県163茨城県188栃木県198群馬県234埼玉県258千葉県261東京都310神奈川県319新潟県361山梨県461長野県470488静岡県520長崎県西彼杵郡054宮崎県西臼杵郡038《くねばら》新潟県中頸城郡384《くに》阿波†025《けね》宮崎県東諸県郡952《くぎい》長崎県西彼杵郡054
(2)屋敷の周りに植えた木。屋敷林。防風林。《くね》栃木県安蘇郡208東京都八丈島335新潟県西蒲原郡371長崎県南高来郡905《くねばやし〔─林〕》長野県諏訪481《けねやま〔─山〕》鹿児島県肝属郡970《くねやぶ〔─藪〕》西国(屋敷周りのやぶ)†131
(3)やぶ。竹やぶ。《くね》千葉県安房郡001山梨県455
(4)屋敷の周囲。《くね》新潟県岩船郡362長野県諏訪481静岡県小笠郡537宮崎県西臼杵郡038
(5)田の周囲の畔(あぜ)。《くね》伊勢†035長野県東筑摩郡054三重県伊勢002高知県長岡郡869《くねいり》岐阜県稲葉郡498《ふね》石川県河北郡404《くな》島根県隠岐島740
(6)畑の境の垣根。《くね》青森県上北郡082
(7)里近くに所有する山。持ち山。《くねやま》とも。新潟県佐渡358
(8)山の立ち木。山林。《くね》山梨県南都留郡459長野県東筑摩郡480
(9)年古い樹木。《くね》静岡県庵原郡521
(10)山腹の峰のような形の所。《くね》愛知県北設楽郡062
(11)山のふもと。《くね》新潟県佐渡348
(12)境。《くね》新潟県佐渡352
(13)杭。《くね》福島県東白川郡157千葉県市川市040《くねんぼ》福島県南部155
(14)農作物などの支柱。《くね》群馬県勢多郡236新潟県上越市382長野県493《くねぼう〔─棒〕》長野県小県郡469《くねぼや》長野県北佐久郡469《くねぼよ》新潟県上越382《くねそだ〔─粗朶〕》長野県北信469
(15)芝草を長方形に切り取ったもの。《くね》岩手県九戸郡088
(16)一定の長さに切った薪。《くね》新潟県中頸城郡382
(17)植物、うつぎ(空木)。《くね》青森県036秋田県036《くねしば》秋田県003
(18)植物、いぼたのき(水蝋木)。また、ねずみもち(鼠黐)。《くね》山形県飽海郡139
 【語源説】に、〔俚言集覧〕が上げられていて、「界限のあることをいうところから、クニ(国・邦)と同語」という解説がされているから、以上、述べてきたことは、いってみれば昔から分かっていたことということになるかも知れず、上記の広言が恥ずかしくはなるが、議論が細かく、明解になってきたことだかへ確かだろうと思うので、御勘弁を願いたい。
 私と同じ時代の研究者、平安時代から戦国時代までの研究者ならば、上記をみてもっとも感動するのは、おそらく(17)の「植物、うつぎ(空木)」を《くね》というという部分だろうと思う。『日本国語大辞典』(小学館)は、
「くね‐うつぎ」という言葉もとっている。ウツギはいうまでもなく、卯の花のことで、これが氏神の花とされて、平安時代の田堵百姓の宅地・耕地をめぐる垣根の花として和歌に頻出することは、戸田芳実氏の著名な研究以来、知らない研究者ないないはずである。
 しかし、それにしても思うのは、こういう「クネ」「クナ」という言葉が、東アジアでは異様に大量に存在する日本の「古文書」にほとんどまったくあらわれないことである。その意味では、私の記憶する「ククネ」という古文書は大事な意味をもっているはずであるが、古文書にはまったく登場しない言葉を、昔の人々、庶民が使っていたということを十分にふまえて、土地所有に関わる議論はしないとならない。そこに到達できないと、実際上、大地、土地、土地占有ということの具体性がわからないということである。
 歴史学が、こういう議論を平安時代から江戸時代まで通して処理できるようになるのは何時のことになるのだろう。ともかく、現代は、「大地」と人間の関わりが問われている時代であることは明らかであるから、迷うこと、そしてきついことも多いし、多かろう
が、急いで急いで前進しないとならないと思う。
  昨日「地頭領主権と土地範疇」を送った、T・Y氏から懇切な手紙をいただき、研究仲間の大事さを思う。もう30年前か。