オディロン・ルドンの絵と岡田精司さんの黒い本とドルーズ
いま14時30分の総武線。新宿に向かう途中。損保ジャパンの新宿の美術館にオディロン・ルドンが来ているので、それを見に行き、その後に四谷の韓国文化院で「土俗の乱声」(監督前田憲二)をみる予定。一人である。こんなことは大学時代以来初めてのことではないかと思う。
電車の中で、今日の朝届いた岡田精司氏の『古代祭祀の史的研究』を読んでいる。岡田精司さんの前著『古代王権の祭祀と神話』と同じく真っ黒な布で装幀された本であった。
折口信夫の『古代研究』を、私は角川文庫で読んだのだが、角川文庫は黒い本で、『折口信夫全集』も黒い本である。折口と岡田はまったく異なる思想と立場にいるが、しかし、何か共通性があるのであろうか、私には、折口ー岡田は黒い本というイメージがある。
岡田さんの前著『古代王権の祭祀と神話』という本は、私などの年代に古い時代の歴史の勉強をはじめたのものにはなつかしい本で、私は国際キリスト教大学の図書館で借りて読んだ。黒布に金箔の題字の本である。私は、義江彰夫さんが自分の高校に来ていたので、彼が歴史学研究会の大会でやった報告が、長く、自分の前提であった。義江さんの報告とあの頃の「古代」の研究では岡田さんの位置は大きかった。
さて、ともかく地震論・火山論の延長で神話論を考えているので、歴史学の立場からすると、岡田さんの仕事は隅々まで知っておかねばならない。『古代祭祀の史的研究』におさめられた論文は、いくつか雑誌などで読んだ論文はあるが、すべて読まねばならないということで、入手することにした。この二冊目の著書の題字は、前著とは相当に印象が違うが、両方とも奥さまの字らしい。
折口の問題は、拙著『物語の中世』の中心的なテーマの一つであった。それを見なおす必要もあって、折口のことを考えている。それは後に岡田さんの仕事についてとあわせて書くとして、ルドンの「黒い絵」と岡田さんの本の印象が重なるのである。
さて、ルドンをみて、「土俗の乱声」(監督前田憲二)をみたのは、6月12日であるから、もう相当経ってしまった。「土俗の乱声」は、中国・韓国・日本のシャーマニズムの場面を撮影して編集したフィルム。ともかく疲れた。シャーマニズムというものを実際に考えるというのは相当に疲れる作業であろうと思う。しかし、それが東アジアの基底に存在したことは事実であるから未整理なままであれ、そしてすでに相当忘れているとはいえ、見たのはよい経験であった。とても整理して述べることはできないが、異様にして異形の過去というものは事実として存在するのであるから、こういうフィルムは、ときどき、自由にみることができるといいと思う。
ルドンの方は、一昨年、2011年5月31日のエントリーに記したのだから、その少し前の日曜美術館でみたことの続きであるということになる。いま、読んでみると、「黒の時代」を抜けだしたルドンが友人への手紙で「黒は疲れる」といっていたことにあわせて、「理論は疲れる」「歴史理論は疲れる」という感想を記したもの。
ドゥルーズの『差異と反復』の第一章の最初の節「差異と暗い背景」は実質上、ルドンからはじまっている。ドゥルーズの言い方だと、「オディロン・ルドンは、明暗法と抽象的な線を使った。線は肉付けすることをやめることによって力を倍加させる。線は背景から際立ちながら、背景はひいていくので、いっそう激しく背景に食い入っていくのである。そういう線の中で顔はデフォルメされる」ということになる。区別、ディスティンギッシュというものが怪物をうみだす。「思考は差異を作る」。区別・分類が怪物を生み出すというのは、神話的な思考が思惟の幻想を作り出すという事情をよく示していると思う。怪物が複数登場することによって人格となり、そして人格となることによって神となるのだろうと思う。それ故に、人格神の基礎にはつねに怪物が居るのだろう。暗い空に光りわたる稲妻は、まさにそのようにして怪物=龍となり、世界のどこでも、それが神話の重要な根源となった。ドゥルーズのいうように、差異の思考はプラトンにもとがあり、それはやはり、神話からの哲学の直接の発生の形態なのだろうと思う。それが東アジアではそうならなかった理由は、私にはまだわからない。
ただ、ドゥルーズは、思惟の諸様式に本当の意味で歴史性をみることはしない。ドゥルーズ自身の言い方をすれば、歴史が強制する思考、「思考は強制されることによって発生する」という事情を捉える方法を歴史についてはもっていないように思う。それは「純粋な過去」を捉えるにとどまっており、現実の過去を捉える方法は弱いのではないだろうか。その方法はやはり認識論、エピステモロジーにとどまっているのではないだろうか。神話的な思惟というものを根本から捉えるために、もう少し考えてみたいと思う。
ともかく、折口信夫と岡田精司さんの本、さらに折口をある側面で継ぎ、岡田の先輩であった松前健氏の本『古代伝承と宮廷祭祀』も、黒い本である。もちろん、これは松前・岡田の本が塙書房という同じ出版社からでているという単純な事情ではあるが、しかし、こう黒い本ばかりを読んでいると、それが神話の研究者が折口のあとをおっている証拠とみえてくるのである。もちろん、この黒い本で岡田さんが展開するのは、冒頭から折口批判である。ここで岡田は、有名な「大嘗祭の本義」という折口の論文に対する完膚なきまでの批判を展開し、この点では折口学説は、成立する余地のないものであることがアカデミーでは明々白々になっているはずである。この点で、歴史学における神話と祭祀の研究の先達である岡田の執念たるやすさまじいものがあった。その意味はまだふれたいが、ともかく、それを前提として、「黒い本」、神話論を、いわばルドンのように「極彩色」のものに展開すること、そういうようなことを考える。