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カテゴリー「通史のためのメモ」の16件の記事

2018年6月20日 (水)

奈良時代から平安時代への変化について短く論じました。

 奈良時代から平安時代への変化について短く論じました。

 日本の政治にはたくさんのハムレットがいたわけです。

 奈良王朝は天武と持統、さらには二人に非常に近い位置にあった藤原不比等の血をうけるものに王位継承を限ろうとした。それは一方で王家内部の激しい殺し合いと男系断絶をまねき、他方で参議の地位を藤原氏が半ば独占する状態をもたらした。8世紀初めにはヤマト時代の伝統をうけて参議は石上・阿部・大伴などの各畿内氏族からもでており、その下で伝統的な畿内氏族が太政官と役所を分担していたが、それが崩壊したのである。

 これに対して、天智系から立った光仁は妻の聖武の娘と二人の間に生まれた皇太子を死に追い込み(光孝は彼らの怨霊が地震を起こすと考えて恐怖したことが資料に残っている)を、新たな皇統の形成に舵を切った。そして光仁の跡を嗣いだ桓武は閨閥を藤原氏の式家のみに限定し、最有力であった北家の長者藤原魚名を失脚させ(782年)、奈良王朝の廟堂秩序を崩した。桓武は参議に渡来系氏族を加えたが、畿内氏族の登用を維持することはなく、畿内氏族の合議体というヤマト王権の伝統的な性格も消滅した1。ここでヤマト時代は終わり、いわゆる王朝国家の時代に入ったのである。

 決定的なのは、桓武が権力の基盤を8世紀の経過を通じて発展した中央都市域においたことである。桓武は、王都を列島の真ん中、瀬戸内海・琵琶湖・日本海を繋ぐ水上交通と陸上交通の結節点であって山城国に移した。それは山城の南部、長岡京(784年)、次に山城の北部(「平安京」794年)という経過をたどったが、ここでは前者を山城京(長岡)、後者を山城京と表記する。そこに集中する交通・情報網の掌握を通じて莫大な富を享受するようになったことが、都市王権といわれるシステムの基盤になった。そこでは王権は貴族集団を代表して、首都圏を掌握し、また全体として都市・農村関係をおさえていた。その本質は都市貴族的な所有といわれるが、それは都市に集住した貴族による集団的な所有であって、それを王が代表している以上、国家的な所有という形をとる。

 (ただし、王によって代表された畿内氏族の統一体が地方の共同体を支配する、奈良時代までの国家的所有とは本質が異なっている)。

2018年6月18日 (月)

摂関期の政治史を1000字で書く。この時代は地震がない時代。

 10世紀後半から11世紀(王統迭立期)の政治史を以下のように1000字で書く仕事をやった。

 一昨日からの続きである。『平安王朝』などで書いたことを書き直した概説なので、ブログにあげる。
 
 大阪が心配である。しかし、ともかく仕事を進めるほかない。

 これはいわゆる摂関時代であるが、この時代は地震がない時代という特徴がある。そんなことは3,11の前にはきづかなかった。後三条の院政期は祇園社が地震でやられたところから始まる。
 地震と政治史には深い関係がある。
 


 男児がないまま朱雀が死去した後、醍醐天皇の末子村上が946年に即位したが、しばらくして長男の冷泉が誕生した。冷泉の誕生は朱雀の即位後、20年間も待たれていた醍醐の孫の世代の王の登場である。将門・純友の反乱も鎮圧されており、9世紀に根を引く怨霊の時代は終了し、王権の前途は洋々としたものにみえた。
 問題は、969年、冷泉が精神の強度な失調によって退位したことである。これによって冷泉の弟の円融が11歳で天皇となり、冷泉の子どもの花山が2歳で皇太子となった。天皇と皇太子が政務を取れない年齢で、しかも叔父・甥の関係ではあるが、相互関係を調整する親族がいないという異常事態である。ここに円融の関白となった藤原兼通、それに対して冷泉と花山に忠義を誓い冷泉に娘超子を娶せた藤原兼家の摂関家の兄弟が、天皇と皇太子を支援して激しく対立するという事態が発生した。円融は現天皇であるが、上記の経過からいって、朝廷には冷泉を継ぐ花山こそが正統な血統であるという雰囲気が強い。こうして朝廷の紛争は泥沼化したが、しかし、10歳の年齢差は大きく、兼通が死去したこともあって、兼家は皇太子、花山の支持者としての立場を棄てて、円融に娘詮子をめあわせ、二人の間からは後の一条天皇が生まれた。冷泉に娶せた超子からは、後の三条が生まれていたから、兼家は円融系と冷泉系の二人の王を聟として外孫を儲けたということになる。対立する王統に両天秤をかけるというやり方である。
 こうして円融が退位して上皇となり、皇太子花山が即位し、その皇太子は一条となることによって王位の迭立が始まった。しかし、その初発で、花山は嫌気がさして二年ほどで有名な出家事件を起こして退位してしまい、一条が即位し、その皇太子には花山の弟、三条がつくという巡りとなった。この天皇一条・皇太子三条に対して、兼家の長男、藤原道隆も親父の兼家と同様、定子・原子という二人の娘を娶せ両天秤をかけた。
 摂関家はこのように両王統に娘を配置し、調停権力として権力中枢を掌握するというやり方をとったのであるが、道隆は急死してしまう。道長の登場である。道長は一条に娘の彰子を娶せ、道隆娘の定子を(定子の兄たちを挑発することによって)出家に追いこみ、他方で定石通りに、三条にも二女の妍子を娶せた。そしてさらに一条の子にも娘の威子を娶せた。この過程で、三条の子の小一条院は皇太子の地位を自らおり、両統の迭立は終わったのである。これは王家において円融系の実力が圧倒的となったことの結果であるが、丁寧なことに道長は皇太子を下りた小一条院にももう一人の娘を嫁入らせている。道長の権威は多くの娘をもち、彼女らを両統の天皇に嫁入らせたという偶然的要因によるものである。
 以上のような迭立の経過を確認すると、(1)冷泉、(2)円融、(3)花山(冷泉子)、(4)一条(円融子)、(5)三条(冷泉子)、(6)後一条(一条子)、(7)小一条院(三条の子、後一条の皇太子)ということになる(下線が冷泉系)。普通、この時代を摂関時代と呼ぶが、それは摂関制を王権の衰弱と理解するためであり、それは正しくない。この経過からも明らかなように、この時代は王統迭立期と呼びたい。

9世紀の政治史を1000字で書くと噴火と地震の怨霊が入ってくる。

 9世紀の政治史を1000字で書けという要請で、朝からやっていた。どうしても噴火と地震の怨霊が入ってくる。

 そこに茨木・高槻での地震の情報。人がなくなっているという情報。きつい。

 熊本地震のときから、そして昨年霧島にいってからも、地震噴火との追いかけっこで研究をしているという感じになっている。早く地震火山神話論を仕上げたいといろいろ他の仕事も入る。

 先日も地震研に行ったが、大地動乱と追いかけっこで研究しているというのは地震学・火山学の人と話していると実感する。

  

 桓武が山城北部に再遷都を強行した背景には、長岡京が弟の皇太子早良に反乱の嫌疑をかけて自死に追い込んだ現場であるという事情があった。晩年の桓武は早良の怨霊への恐怖の中で過ごした。桓武が平城・嵯峨・淳和の三人の息子に王位継承権をあたえて競わせる態度をとったのは、この不安に原因がある。しかし、それが裏目にでて、まず平城上皇クーデター事件(810年)で平城が脱落し、嵯峨から淳和への移行は無事だったものの、嵯峨の息子仁明天皇と淳和の息子恒貞皇太子のペアのとき、皇太子が反乱を疑われ廃位された(842年)。この内紛の中で憤死した平城の側近藤原仲成、廃太子恒貞の側近橘逸勢、文室宮田麻呂などが怨霊の列に加わった。

 王統を統一した仁明は大きな権威をもったが、そのため仁明の死は子文徳の即位のみでなく孫の清和を一歳で皇太子につけるという結果を導き、しかも文徳が在位8年で死去したために清和は幼帝即位したのである。この急激な変化が原因となった廟堂の矛盾の中で応天門放火事件が発生し、仁明の側近であった伴善男が配流され、死去して再び怨霊となったのである。

 9世紀は富士の大噴火、播磨地震、陸奥大地震など日本列島の噴火・地震の活発期であったが、それたが怨霊の引き起こしたものと観念されたことが政治の混迷を激しくした。もっとも重大であったのは、菅原道真の怨霊化の問題である。つまり、清和の子の陽成が殺人事件を起こし退位したために王位は仁明の子ですでに老齢の光孝に戻ったが、その子宇多は抜擢した菅原道真の娘を息子の嫁にした。そこに男児が生まれるに及んで、退位した宇多と現天皇醍醐との間隙が大きくなり、その中で攻撃された道真は配流された太宰府で死去し怨霊となったのである。

 そして後々まで強い影響を残したのは、醍醐が清涼殿への落雷のショックで死去したことであった。それのみでなく、さらに二人の皇太子を含む天皇の子・孫などが相次いで死去し、後を襲った子どもの朱雀天皇にも男児がなく、王権の血統が不安定であったことが道真の怨霊への恐れを決定的なものとした。とくに朱雀がようやく元服した翌々939年、平将門が道真の怨霊によって新皇に叙任されたと称して反乱に決起したことは朝廷を大きく動揺させた。道真は普通、雷神とされるが、将門反乱後に吉野に籠もった僧は、道真が吉野の地下で雷神のみでなく地震神を従えているのを目撃したともいい、それが938年畿内大地震などの天変地妖への恐怖からうまれた観念であった可能性は高い。

2018年6月17日 (日)

いわゆる「院政期」の政治史を1000字で書けという要請に答えて。

 いわゆる「院政期」の政治史を1000字で書けという要請に答えて。

 以下の通り。ただ、10世紀から11世紀を「摂関期」というのはまずくて、「冷泉・円融の二つの王統の迭立期」であるというのが前提となります。王統が迭立する(代わる代わる立つ)というと「鎌倉時代」後期の大覚寺統・持明院統というのが教科書の知識ですが、この迭立が10世紀にもあるというのが決定的な知識であるというのが私見です。

王家専制期の政治史(1000字)

 父を円融系、母を冷泉系にもつ後三条天皇が即位し、王統が合体したことは王権を大きく変化させた。後三条の後をうけて白河が作り出したのは、王家の家父長が「院」という称号の下で作り出した王家専制の体制であった。その専制的性格は後に承久の乱において消失したが、「院政」という制度自体は、15世紀にいたるまで王権の基本的な形となった。「院政」はむしろ正統的な天皇制のあり方であったことに注意する必要がある。それと区別するため、この時期を王家専制期と称することとするが、この王家専制の形骸化が「院政」を作り出したことにも注意されたい。

 王家が専制の傾向を強めた理由は、一統化することによって逆に王権内部の紛議が激化したことにある。実は後三条は母の冷泉系の血を汲む実仁を白河の皇太子とし、そこに王統を流そうとしていた。これに対する白河の反発が自己の血統への固執をもたらし、子の堀河の死去後の政治危機の中で孫の幼帝鳥羽に養女の少女璋子を娶せ、しかも彼女を自己の性的対象としたことである。白河には『源氏物語』の紫上幻想を地で行くという意識があったという。鳥羽と璋子の間に生まれた崇徳が白河の胤であるという噂が発生したのは当然であった。崇徳は曾祖父に溺愛されて即位したが、白河死去後、鳥羽は崇徳を退位させて、異母弟の近衛を即位させる。崇徳は、父の鳥羽が近衛が若死にしても弟の後白河を即位させ、自分の子どもに王位は回そうとしないのをみて、1156年、父の死去と同時に後白河に対してクーデターを起こした。このような王族内の愛憎劇は限度をしらず、勝利した後白河は退位して子どもの二条を即位させたが、二条が前帝近衛の妻を妃にむかえ父鳥羽の周囲の勢力と通ずるのを嫌った。こうして1159年、後白河は男色関係にある近臣が二条を攻撃することを容認し、王都は二度目の合戦に突入した。

 このように王家専制は王家内部矛盾の激しさの表現であった。この時期の王家内紛は従来のような兄弟、親族間の内紛ではなく父子間の対立、しかも院と天皇の対立という決定的なスタイルをとったのである。武力によってすべてを決着するしかない時代の開始である。結局、この二度の合戦の中で、勝者として現れたのは平清盛であった。こうして1168年、後白河と清盛の義妹との間に生まれた高倉が即位し、武家を外戚とする平家王朝が形成されたのである。

 しかし、それは続くことはなく、1179年、後白河と高倉の父子関係が破綻し、後白河が鳥羽殿に幽閉されるや、歴史を20年前に戻そうという敗者源氏の蜂起が全国をおおうことになった。

2013年12月24日 (火)

平安時代(院政期)の通史メモ

⑦平安時代(院政期)
政治史の考え方
 道長が王家の両流の5人の天皇・皇太子に娘を配し、王家の主要な男子がすべて道長の聟・孫・曾孫ということになって、10世紀の王統分裂は消滅した。迭立する王統を調整することを条件としていた道長の家の権力は、こうして絶頂に達することによって同時に権力の基盤を失った。後を継いだのは道長の孫同士の結婚から生まれ、母を通じて冷泉流の血もうけついだ後三条天皇であった。
 このように両流の統合者という地位に立った後三条は徳政を呼号して新制を発し、長男の白河に譲位して院政を開始しようとしたが、退位後すぐに死去してしまった。問題は後三条が白河の皇太弟に母方の冷泉流の王族との間にうまれた男子を指名していたことで、白河は院政を実際に実現して巨大な権力を握りながらも、この父の素意をおそれ続けた。そして、子どもの堀河が即位しても、孫の鳥羽が即位しても皇太子を置くことを許さず、王位継承順序の決定を自身で握り続けた。さらに従来、天皇や貴族は「王の侍」=蔵人のシステムを通じて官衙機構を動かしていたのであるが、院は「治天の務」を独占し、天皇を形式上の君主としてしまい、実際には院司・院側近を通じて政務をとって官衙を動かすというシステムを作り出したのである。
 これが院政の体制であるが、そのなかで院は、その権力の基礎を武家軍事貴族を直接に臣従させることにおいた。とくに白河は後三条の指名した皇太子に近い立場にあった武家源氏を嫌い、伊勢に留住した平氏の一流を重用した。これに対して源氏の側は復権を期して東国に勢力を広めるなどの戦略をとった。こうして、源平の軍事貴族相互の争いが王権の内部に持ち込まれることになるのである。
 院が王位継承権を握ることは短期的には王位継承を安定させたが、しかし、それは矛盾が生まれた場合、親子の対立をもふくむことになり、兄弟間の迭立よりも深刻なものとなる。そして、後三条ー白河、白河ー堀河の段階では、親子間の対立は潜在していたが、鳥羽と崇徳の親子関係は厳しいもので、鳥羽の死去をきっかけに現任の天皇で弟にあたる後白河に対して崇徳がクーデターをおこした(「保元の乱」)。これは王位をめぐる実際の軍事衝突としては「壬申の乱」から後、初めてのことで、しかも「王城合戦」であったから衝撃は深かった。しかも続いて、院政を敷いた後白河と子どもの二条天皇の間での紛議も軍事衝突に展開した(「平治の乱」)。この二回の合戦の中で、摂関家も分裂し、源家・平家もおのおの分裂して覇権をかけて争ったが、最終的な勝利者は平清盛で、敗北した武家の将・源義朝は東国に向かう途中で殺害された。
 後白河院は、清盛の妻の妹、平滋子を寵愛し、彼女が生んだ子が高倉天皇となった。この過程で、従来は公家貴族の下にいた武家貴族がその実力によって公家貴族に優越するようになった。さらに清盛は自分の娘を高倉の中宮とし、その子・安徳を天皇として、平家の支配する王朝を樹立する一歩手前までいった。しかし、平滋子が死ぬと後白河と高倉の父子関係は冷却し、そのなかで後白河と清盛が対立した。これは権力の正統性を「保元・平治の乱」の段階まで巻き戻して問うことにならざるをえず、これが1180年代の10年間の激しい内乱を結果した。それは平家がどちらかといえば京都と西国に拠点を置いており、義朝の子どもの頼朝が伊豆に流されていたこととの関係で西国・東国との間での史上初めての全国戦争になったのである。
東アジア
 一二世紀、中国東北部の女真族の動きを起点とする大波のような動きが日本に到達した。まず北においては、女真の活動はオホーツク文化(ギリヤーク族とされる)がふたたび北海道において影響を広げることに連動した。彼らと北海道の西部・中央部の蝦夷(アイヌ族)の間の交流と抗争こそが、後のアイヌのユーカラ、「英雄叙事詩」の背景をなすものであるという。1019年、沿海州女真族の一派、刀伊が朝鮮を襲い、さらに北九州に来襲して王朝に強い脅威をあたえたが、実は、それは一時的なもので列島におけるおもな抗争の場は北にあったのである。
 大陸に広がる北方諸民族と倭人の間の、いわば緩衝地帯にアイヌ族が存在したことは、倭人が北方の富を吸収する最大の条件になっていた。そのアイヌとの境界地帯に位置する平泉政権は院や院司に取り入りながらも半ば独立的な様相をみせて繁栄したが、彼らはアイヌ族との関係を媒介することによってそのような立場をえたのである。
 他方、さらに巨大な影響を及ぼしたのが、女真の「金」の建国によって宋が南に追われて南宋となったことである。その状態でも南宋は羅針盤、火薬、紙、印刷(「本」)などの技術と知識の刷新を進め、東南アジアからインドネシアにかけてまで広範な商業活動を展開した。各地の港市に居住した商人たちの姿は華僑の原型となったが、日本でも宋商が九州に居留地をもって活発に往来した。その中で琉球・九州は独自性を強め、広域的なまとまりを強化した。院の近臣たちは、それを直接に支配し富を吸い上げることに狂奔したのであるが、その中心に位置して瀬戸内から九州に広がる海の世界を固有の権力基盤としたのが平氏権力であった。福原京は、いわばそのような海上軍事王国の要に位置する副都という位置にあったのである。
 従来、東アジア交易の世界においては、倭人は基本的には中国に食い込んだ朝鮮の商人との関係を軸として動いていた。しかし、院政期になると、南宋の南方への発展の中で、琉球弧・日本四島・千島につらなる列島ジャパネシアの全体が、南海交易と北方貿易をつないで直接に交易世界に参入していったのである。これはかならずしも平和的なものではなく、1093年、宋人・倭人が乗り組んだ硫黄・真珠などを積載した武装商船が高麗に拿捕されている。これは、後の倭寇につながる動きが芽生えていることを示している。そのなかで、従来のような排外的な意識のみでなく、日本の武士は虎に挑んで射殺した、高麗は弱く、日本は兵が強いというような噂が広がっていた。
 しかし、実際には東アジア世界からの経済的な影響は日本社会の内部に深く及んだ。京・琵琶湖から日本海沿い商業網をひろげた比叡山の神人たち、ある場合は平家と結んで西国に拠点を広げた祇園社の神人などが鎌倉期以降にも続く商業資本の本流としてのし上がったのは、このような対外交易との関わりを抜きに考えることはできない。また一二世紀半ば以降、大量の宋銭が日本に流入したことは決定的であった。もちろん、交換経済自体は遙か昔から存在したが、宋銭の流通は、年貢としておさめた絹布・米の現物貨幣としての流通を前提にしていた従来の官衙・国衙の経済システムに対する大きな打撃となり、経済を動かす商人の力を増大させた。
社会構造の考え方
 院権力は王土思想を強調し、国土高権を振りかざしたが、それは現実には大地の国家的領有を分裂させる方向に向かった。まず院は、その知行国支配の中で院司を相次いで大国の国司に任命したり、隣接する諸国に任命して広域的な支配を展開する場合があった。とくに後白河院の院司集団は関東諸国をほとんど独占して、協力しつつ広域的支配を展開していた。院政の下で発展した知行国は国司職を子弟などに配分するシステムであったから、支配の便宜のために親族や関係者で隣接する諸国を一定期間にわたって支配することがしばしば発生した。これは院の代表する国土高権が現実には広域的支配権に分裂する傾向を意味する。平氏政権の下では、これがさらに進んだ。
 第二の方向はとくに白河院以降、院の国土高権の下で、巨大な院領荘園群が六勝寺などに集中される形で蓄積されたことに関係する。都市の貴族たちの荘園領有は、六勝寺のような都市附属の宗教施設あるいは王権の後宮施設の所職としてひろく分け持たれることになった。これは実際上、国土高権が都市貴族に分割給与されたことを意味する。しかも、院領荘園は山野河海をふくむ非常に広い領域を上から設定して設立されるもので、王の国土高権、大地と海原に対する支配権を分割したといってよい内容をもっている。
 そして、平家が政権を掌握した後には、このような国土高権の相当部分を平家が行使したのである。とくに平氏政権の下では、院領荘園を中心とする大荘園の領主に平氏の家人が補任され地頭といわれるようになった。これは荘園の境目を地頭といったことから始まったことであるが、上から国土高権を分割して荘園が設定される様子をよく示す言葉である。こうして形成された地頭領主制は強い国家的な性格をおびた領主権として鎌倉時代以降にも引き継がれて社会の枠組をきめることになる。
 これに対して村落では地主や有力な百姓を中心とした村落が「古老」などといわれる人々を中心にまとまっていった。その際、村落の側でも「寄人」などといって都などと関係をもって特産物を商品化する動き、村落の備蓄を保有しようとする動き、さらには飢饉に対抗するために開始された二毛作を広める動きなど、活発な動きがあった。
 広域的な地域が生み出されるのと、このような村落の動きは基底の部分では共通した動きで、すでに相当の地域で市庭は平和な場所でなければならないという考え方も生まれていた。それらをつないで地方に出職していく職人たちも生まれており、また商人たちは比叡山などの神人という身分を獲得して資本を動かすようになっている。さらに、平氏政権の下では宋銭が大規模に流入してきて従来の米布の現物貨幣とあわせて、人々の経済活動を活発にした。こうして地域社会の経済は東アジアと同様に活気に満ちたものとなっていったのである。
参考文献
入間田宣夫『武者の世に』(集英社『日本の歴史』⑦)
元木泰雄編『院政の展開と内乱』(吉川弘文館『日本の時代史』)

平安時代(摂関期)の通史メモ

 平安時代(摂関期)の通史メモである。
 院政期もやったので、これでやっとクリスマスのイヴに入れる。
 このメモの基本部分は、すでにWEBPAGEにもあげてある「都市王権と貴族範疇」(『日本史の方法』創刊号、二〇〇五年)という文章と、拙著『平安時代』である。
  

⑥平安時代(9-11世紀)
政治史の考え方
 平安時代とは、平安京を都とする時代ということであるが(平安遷都794年)、普通は、その前の長岡京遷都の時からをふくめることが多い。長岡京と平安京に遷都したのは桓武天皇であり、ようするに平安時代は桓武天皇の時代にはじまったというのである。
 しかし、実際上の時代の転換は、桓武の父の光仁の時から始まっていた。もっとも大きな問題は二つあって、一つは後に述べる蝦夷戦争の開始で、もう一つは、光仁が桓武の皇太子に同母弟、早良親王を指名したことであった。桓武はこの弟を長岡京建設の責任者、藤原種継の暗殺を使嗾したとして死に追い込み、自分の子どもの平城を皇太子の地位につけた。
 殺された種継は藤原氏の式家という家の出身であったが、桓武はこの式家と深い関係をもって式家の女性との間に平城・嵯峨・淳和の三人の王子をもうけ、おのおのに異母妹を配して王位継承権をみとめた。この三人の競争は、まず末弟の淳和がリードした。死の直前の桓武が淳和のもとに初孫が誕生したのをみて、その子を正嫡とする意向をみせたのである。これに反発した平城は即位ののち、式家の仲成・薬子を支えとして王位を独占しようとして破れた。
 この後、嵯峨・淳和が交代に王位につき、さらに淳和の次の天皇に嵯峨の王子・仁明、その皇太子に淳和の王子・恒貞が立った。兄弟間での王統の迭立である。藤原北家の内麻呂(摂関家の祖)は、この複雑な情勢を子どもの真夏・冬嗣の兄弟を各々平城・嵯峨に仕えさせることで巧妙に切り抜け、冬嗣と嵯峨は相互に男女の子どもを配偶させる密接な関係となった。そして、淳和と嵯峨が相次いで死んだのち、仁明は皇太子の恒貞を廃位に追い込んだのである(「承和の変」)。良房は、この時に仁明を支え、かつ仁明の子どもの文徳に配した自分の女子から清和が生まれた。こうして良房は天皇の外祖父として初の人臣摂政の地位についた。これに対して藤原式家は、平城の時に中心人物を失った痛手を回復できないままに力を失っていった。
 このように王位継承の紛議は続いたが、奈良時代のように天皇や王子、王族が怨霊となるようなことはなくなった。もちろん、右の恒貞廃太子事件では侍臣の橘逸勢が配流されて怨霊になった事件、あるいは、9世紀末期、宇多天皇の侍臣の菅原道真が、宇多と子どもの醍醐の間の矛盾に巻き込まれて死霊=雷神となったという事件などはあった。しかし、平安時代の王権の特徴は、上記の例のように、王位を兄弟の間で「迭立」させ、両流の王統が競合するなかで事態を決着させるという形が多くなったことである。
 これは10世紀にも村上天皇の子ども、冷泉と円融の子孫の間で起こった。つまり、冷泉の子孫3人、花山ー三条ー小一条(皇太子)と、円融の子孫3人、一条ー後一条ー後朱雀の両流の間での迭立である。藤原道長は円融系の側にたっていたが、右の6人のうち花山以外の全員に自分の娘を配し、両流を調整して権威をふるった。こうして良房も道長も、王家の迭立と内部矛盾を調整することによって大きな権力を入手したのである。
 これがいわゆる摂関政治の本質であるが、これは10、11世紀の平安王朝を安定したものとした。このような王権の安定の基礎となったのは、上級の王族・貴族が平安京に集中した巨大な富と充実した官僚組織を基礎にして、華やかな宮廷社会の中に自足し、その中での平和を追求したためである。このような都市王権のシステムは実際は人格的な奉仕関係、「侍」の関係の稠密な網の目を通じて動かされていく。侍の中心は天皇と后妃の側近に宮廷貴族の子弟が仕える「男房」(蔵人)と「女房」の組織で、これにならって貴族の家にも「侍」を中心とする奉仕組織ができていく。また侍の中には武官がいたことが重要で、その中には王族などの血を引く、源氏や平氏などの軍事貴族が重要な位置をしめていく。なお、平城上皇の事件の後に設置された蔵人所と検非違使が、この文武の「侍」組織が成長する場となったことは注目しておきたい。
 王権は、8世紀以来の開発振興策によって権力基盤を拡大しつつ、平安京が都市としてもつ求心力を利用して順調に発展した。このような条件の上に乗って、たとえば醍醐が発布した延喜の新制のように、天皇は代替りにあたって維新・新制の法を発布して徳政を標榜した。これは明治維新の「維新」と同じ意味である。そのことが示すように、平安時代の前期、9世紀から11世紀は日本の王権、天皇制の古典時代であったということができる。
東アジア世界
 光仁は、即位すると、すぐに代替りの遣唐使派遣を計画し、他戸を廃位し、桓武を立太子させた後に派遣事業を本格化した。対外的な面子からいって皇太子の人事の決着をまったということである。そして、次の外交政策は蝦夷との戦争であった。王の血統が天智系に切り替わるという不安定な政治状況のなかで、遣唐使の派遣によって正統性を示威し、他方では戦争に訴えるという代替りの方策がとられたのである。
 擦文文化以来、狩猟・農耕を組み合わせた安定した社会を形成していた蝦夷の抵抗は強かった。蝦夷にとっては、文明的な戦闘を戦わざるをえなくなった初めての戦争であったにも関わらず、この戦争は38年続いた。蝦夷にとってもっとも重大なのは樺太から北海道の北東に広がっていたオホーツク文化との競合であったが、東北における戦争=交通の経験は北海道の蝦夷の人々を北へ進出させた。
 こうしてそこに産するオオワシの尾羽などが『新猿楽記』に登場する商人のあつかう北海物資のなかに登場する。彼らが南は喜界が島にもわたり、夜久貝・硫黄などの南海の産物を交易していることが示すように、ここでは南海交易と北海交易が連接していったのである。琉球では農耕も開始され、後の「城」への動きが芽生えている。
 光仁の後、桓武・仁明が代替りにあたって遣唐使を派遣し、宇多も派遣を計画した。ただ、宇多の遣唐使は計画が曖昧になっている間に唐帝国が崩壊したために、以降遣唐使は派遣されなくなったが、平安王朝は、東北・北海道の特産物交易をドル箱としており、それは一貫して重視された。とくに陸奥の黄金は蔵人所の倉庫に収められて王室財政の直接の基礎となったことが特筆される。
 この時期の東アジアは、北方諸民族の活発な活動を原点として、契丹=遼の勃興、朝鮮半島における新羅の滅亡と内乱、高麗の建国、中国における唐の滅亡、「五代十国」の内乱、そして宋の建国と女真族(後の「金」)の台頭と続く内乱の時代であった。このなかで、唯一、王家が続き、域外からの富にもめぐまれた日本は、「君が代」に表現されるような島国的な独特の万世一系思想を強化していった。
 王権は外交においても摂関家による大臣外交のシステムを作り出していた。摂関家は、まず五代十国のうち江南に位置した呉越に対して、仏僧を使者として公的関係をもった。呉越はぶっきょこくで合ったから、これは南方交易のルートを維持する上で大きな意味をもった。さらに摂関家は東北地方や南九州に広大な荘園を設置して、貿易基地とする体制を整えていた。こういう中で相当数の貴族官人が陸奥に下向し蝦夷と通婚するなかで、陸奥鎮守府が改編され、それが平泉権力へ結びついていったのである。
社会構造の考え方
 平安王朝は都市に集中する富と組織を利用して強大な権威を実現しており、国家による大地の領有(国土高権)の強さは変わらなかった。国家的な勧農は本質的な変化はなく、班田収受制も「散田請作」という形にかわって国衙による土地管理は続いた。「班」も「散」も「あがつ」(配る)とよみ、人々が「班田」と「散田」を請作したという点では同じことである。
 ただ、9世紀には荘園の設立が目立った。平安王朝は華やかで平和であったが、宮廷の中心に参加できるのは摂関家を初めとする特権貴族であったから、そこから排除された人々は、国司の経験や人脈を生かし、農業や商業の富をもとめて地方の荘園に留住することも多かった。王族・貴族・寺社の「庄」の領有は8世紀から最初から認められていたが、地方に下った貴族は都との関係は維持しながらも、地域の領主となっていく。国司自身が留住してしまう場合もあり、地域社会は一種の開発ブームのなかで新しい権威を迎え入れることになった。
 9世紀にも温暖化した気候のなかで干魃の被害は続いたから、村の人々の営為とともに、この開発ブームがそれを防ぐための灌漑水路の改善などに相当の意味をもった。そして、そういうなかで「富豪」と呼ばれる人々が多く登場し、「里倉負名」といって、郡衙ではないところに自分の倉を建てることを認められ、周囲の耕地を名請けする地主となっていった。なおこの負名が「散田請作」をするシステムが後々まで続く「名」の原型である。8世紀の班田収受制からの変化は、地方行政組織ではなく、そこから生まれ郡郷の内側に巣くうようになった地主がこのシステムを支えるというという点にあった。
 地域社会には様々な機縁をもってやってきて中央と関係をもちながら土着の道を進む貴族領主たちと、富豪の地主たちが作り出す世界が生まれ、奈良時代につくりだされた経済インフラを前提として経済の基礎的な発展の時代がやってきたのである。なお、9世紀には京都の役所ごとに相当数の工匠(「作手」といった)が抱えられるようになっており、これが後まで続く「道々之輩」の原型である。その意味は役所の関係する「道」(分野)ごとに所属した工匠ということで、工匠の呼び方は「手人ー作手ー道々之輩」と変わっていったことになる。遠隔地商業が発展し、各地の特産物が生まれたことも特筆される。地方では、郡衙や国衙などの行政機関は縮小していったが、しかし、交通・港湾都市は発展して経済を支えた。また8世紀にはじめて導入された銅銭は王朝が改鋳利益をねらって粗悪化したために、民間で交換経済の桎梏として嫌われ、鋳造が行われなくなった。しかし、米・布などの現物貨幣のシステムはむしろ充実していった。
参考文献
保立道久『平安時代』(岩波書店ジュニア新書)

2013年12月23日 (月)

日本通史メモのための前書き

 以下は、ゼミのための通史のメモのための前書き。

 以前、『歴史学をみつめ直す』で書いたことの再論のようであるが、最後の方に、通史の要約的な叙述というものがなぜ必要か、考えたことを書いた。こういう要約なしに歴史理論、史論というものはありえないと思う。

 
 前近代を学ぶ意味

 前近代を学ぶということを考える前に、まず「近代」についていくつか確認しておくべきことがある。

 「近代」は英語でいえばModernという意味であるが、Modernは現代という意味ももっている。英語のModernは近現代とも表現できるように、近代とも現代とも訳すことができるのである。つまりModernとは、私たちが生きている現在の社会と同じ社会構造をもつとと感じている時代をいうといってよいだろう。英語でModernというと、ようするにフランス革命と産業革命以降の時代のことであって、欧米の人々は18世紀の後半からの200年以上の時代を自分たちの時代、近現代の時代という意味でModernといっているのである。

 これに対して、日本では、200年前といえば江戸幕府の将軍家斉が位についてしばらくの時代である。その時代はModernではない。日本でModernと感じる時間はヨーロッパにくらべて明らかに短いのである。しかも、日本では「近代」とは別に「現代」というものがあると感じられている。私たちは、近代というと「明治維新」以降の時代を意味し、現代というと第二次世界大戦の敗戦以降の時代と考えるのではないだろうか。これは短いModernの時代の中でも、時期を明瞭に区別せざるをえないほど、日本社会が、この時代、社会の枠組みに関わるような大きな変化を遂げたことの反映であると考えてよい。

 このように整理してみると、私たちの社会は、まだまだ安定した歴史意識をもつ社会ではないことがわかる。そしていまは、この社会をどのようにして安定的なものにしていくのか、「社会の持続」(Sustainability)をどう実現していくかということを正面から考えるべき時代であろう。

 さて、イタリアの歴史哲学者、クローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べている。ここでクローチェのいう「現代」とは右にふれてきたModernということとイコールではないように思う。それは、英語でいえばむしろContemporaryというのがふさわしい。つまり同時代(あるいは「現在」)ということである。ModernとContemporaryとは歴史に向き合うときの視座が異なっている。そう考えて初めて、この言葉の意味がわかる。そうでなく、「すべての歴史は現代史、Modernの歴史である」となれば、歴史の中にはPre-modernの時代の歴史が入らなくなってしまう。

 つまり「すべての歴史はContemporaryなものである」とは、歴史は時代の古さ、新しさをとわず、すべて現在の社会のもっている問題との関係で考えなければならないといおうとしているのである。これはたしかに正論である。考え方としてはその通りであることは認めざるをえないだろう。しかし、よく考えてみると、これはむずかしいことである。Contemporary(同時代)のことを考えるためにはModernの歴史を考えなければならないのはあたりまえのことのようにみえる。しかし、たとえば、私たちは現在のことを考えるのに「大正」の時代のこと、「昭和」の時代のことを本当に考えているであろうか。そう内省してみれば、その難しさはすぐにわかるだろう。

 また、現在との関係でPre-modernの時代の歴史を考えるというのも難しいことである。どちらが難しいかは一言ではいいにくいが、Pre-modernの時代についての難しさは、まずは時間が長すぎるということであろう。もちろん、Modernの歴史も、Pre-modernの歴史も、どちらも日常生活では実感できないような長い時間を対象にしている。しかし、Pre-modernの歴史というものはともかく長い。江戸時代の歴史となれば、いまから150年以上むかしであり、それ以前となれば、もっともっと前までさかのぼる。それはほとんど無限の時間である。前近代史を考える場合の第一の問題が、この無限に長い時間をどう実感するかということである。以下では、そのために、いわゆる自然史にかかわる問題を意識的に取り上げてある。地殻の変化、気候の変化などは10年あるいは100年の単位よりももっと長い時間の経過の中で動くが、それは人類社会に大きな影響をもたらす。もちろん、Pre-modernの時代を学ぶ意味はまずは社会にとってきわめて大事な意味をもつ歴史的伝統といわれるものを根源にさかのぼって知ることにあるだろう。しかし、長い未来にむけて「社会の持続」(Sustainability)をどう実現していくかを考えるとき、この自然史について知ることも、Pre-modernの時代を学ぶ重要な目的である。

 それは自然的な環境を共通にする列島の島々の連なりや、近隣の国々のことを考えることにもつらなっていく。もちろん、私たちの棲む列島は地球の一部であり、また私たち自身の血のなかにも人類の誕生の時代からみればほとんど世界中の人々の血が入っている。しかし、私たちの棲む列島は、ユーラシア東端、朝鮮半島の外れにあり、また台湾から琉球弧の島々、九州から北海道までの四島からなる本土列島、さらに千島列島に北上していく火山帯の上に形成された島々である。私たちとそこに棲む人類との関係は人類の野生の時代にまでさかのぼる。中国大陸から朝鮮半島という西から東へのベクトルと、台湾と千島列島をつなぐ南北のベクトルの両方が、この列島をつらぬいてきた。列島の形成や火山噴火、繰り返される海進と海退、そして気候の変化などは、しばしば共通する運命として、この東アジア、太平洋西縁の地帯にあらわれたのである。

 いうまでもなく、世界史の波動は、自然の地理的・環境的な自然を共通する近隣の国々との関係の中で、私たちの国と社会を揺るがしてきた。私たちは、海をこえてつらなる国々、島々からさまざまな文化や情報を受け入れてきた。この意味ではこの列島の範囲にすべてが局限された「日本史」という枠組はせますぎる。とくに7世紀の後半に形成された本格的な国家が、「日本」という国号を採用する前には、「日本史」といいにくいという意見は拒否できないだろう。また江戸時代以前の沖縄や北海道を「日本」とはいいにくいのは明らかである。そこで、この解説では、島尾敏雄の用語をとって、必要におうじてヤポネシアあるいはジャパネシアという用語を使っている。世界史と日本の関係を考える場合、とくに前近代では中国大陸の高文明から韓国ー日本という西東軸を中心にしがちであるが、しかし、南北からの影響のベクトルもつねに大きな役割を果たしてきた。

 このような西東・南北の二つのベクトルを組み合わせることによってはじめて列島内部における東西、太平洋側・日本海側などの地域区分も生きてくることになる。ジャパネシアは琉球弧、本州四島、千島弧などの島ごとに区分するとともに、西部日本海側、西部太平洋側、東部日本海側、東部太平洋側という区分が必要なのである。列島ジャパネシアの自然は南北に長く、自然条件はきわめて多様で豊かである。この国は、海・海辺・山地を通じた交通は活発なもののほとんど違う「くに」といえるほどの地域性を帯びているとしなければならない。私たちの祖先は、それを私たちよりも身にしみて知っていたはずである。このことを知ることもPre-modernの歴史を考える重要な目的である。

 さて、次に、以下のようなメモをゼミで議論する意味であるが、そもそも歴史の研究と教育・学習のためには、このような「要約」あるいは「メモ」が必要である。このような時代の概説は大きく時代をとらえるために必須の作業であり、それがなくては知識の蓄積や伝達はむずかしい。とくにこのような要約は授業カリキュラムを構成するためにはどうしても必要になる。

 もちろん、このような要約はあくまでもメモであって、それだけでは知識量は絶対的に不足している。(1)歴史辞書、(2)通史叙述(各出版社からでている『日本の歴史』などの通史シリーズなど)、(3)研究書・論文・講座などによって、機会あるごとにメモを追補し、記憶の世界を作り直していく作業は必須であり、さらにその背後にある「歴史資料」それ自体を点検することも必要になってくる(これについては現在ではデータベースの利用も可能になっている)。こうして知識とイメージを点検しながら、一度は記憶することなしには説得的な歴史像はうまれない。以下の要約は、あくまでもその意味での記憶のための結晶軸である。

 なお、ここでは、前近代の時期区分を、①縄文時代、②弥生時代、③古墳時代、④飛鳥時代、⑤奈良時代、⑥平安時代(摂関期)、⑦平安時代(院政期)、⑧鎌倉時代、⑨南北朝時代、⑩室町時代、⑪戦国時代(以上の項目はだいたい各項目4000字)としている。(幕藩体制と近現代については将来追補)。「古代・中世・近世」などの時期区分ではなく、むしろ時代の特徴や首都の所在によって区分する伝統的でわかりやすい用語を使った。「古代・中世・近世」、あるいは「封建制」などという用語は、時期区分の仕方や意味については議論が多いのが実情であるので、どう転んでも無駄にはならない知識ということで、このような時期区分を採用した。

 また、いうまでもなく、以下の時代概説のすべてが歴史学界の一般意見ではないことにも留意されたい。とくに全体は「通史概説」のようになっているが、そのようなレヴェルで一致することは現在の歴史学ではなかなかむずかしい。つまり、歴史学は本質的に資料と細部にこだわるが学問である。とくに、ここ20年ほど社会科学・人文科学の側での歴史的視野あるいは歴史的理論の議論が活発化していないこともあって、現在では、学界での共通意見が「通史概説」のレヴェルで議論されることも少なくなっている。もちろん、以下の叙述はできる限り通史シリーズなのに記述されている学説、あるいは研究史上でよく知られた学説などに依拠するようにしており、主要なものについては「参考文献」に記したが、紙幅の関係あるいは研究状況との関係では私見により、また諸学説の趣旨を取り合わせて叙述した部分も存在する。この点、ぜひ、参考文献などにもどって利用されるようにお願いしておきたい。


参考文献(あくまでも例示的なもの)。
『日本史史料』(古代から近世3冊、歴史学研究会編、岩波書店)ーー史料から確認するために。
保立道久『歴史学をみつめ直す』(校倉書房)ーー時代区分論について。
『日本史講座』(歴史学研究会・日本史研究会編、東京大学出版会、2004年)

2013年12月21日 (土)

奈良時代の通史メモ

 奈良時代の通史のメモである。
 残りは平安時代だけ。
 書いたものはすべてWEBPAGEにあげた。
 
 これまで書いたものをまとめて考えてみると、永原慶二氏の学説と結論としては近くなっていることを実感する。
 各時代についての4000字の要約を作ってきたわけであるが、それを時代ごとに、土地領有制と王権の形態を中心にまとめると(1)古墳時代ー「首長制ーーー部族連合王権」。(2)飛鳥後期から奈良時代ー「国家貢納制ー専制王権」、(3)平安時代ー「貴族庄園制ーーー都市王権」、(4)鎌倉から南北朝ー「武臣領主制ー王ー覇王体制」、(5)室町時代ー「領国領主制ーーー覇王体制(旧王ー覇王体制)」、(6)江戸時代ー「幕藩体制ーー武家君主制」ということになる。

 永原慶二説とは基礎となる考え方は相当に違うはずだが、結論は似てくるということである。

 以下、奈良時代
⑤奈良時代(3847字)
 奈良時代は平城遷都(710)から平安遷都(794)までの期間をいうが、ここでは紙幅の関係で、「大化改新」の後から説明する。大化改新はもっぱら中大兄の動きによって説明されがちであるが、実際には難波宮への遷都を主導した孝徳の位置も大きかった。しかし、孝徳が死去し、655年、皇極が重祚して(斉明)、中大兄の位置が上昇する。
 この時代より少し前から、列島の北と南の動きについての記紀などの記載がふえる。これはアムール川流域から樺太に広がる靺鞨諸族の活動(オホーツク文化、後の渤海につらなる)が活発化して蝦夷(後のアイヌ族)との衝突が起こる中で倭が蝦夷側にたって介入し、それを梃子として7世紀後半に陸奥を立国したことに関係する。しかし、その拠点は飛び石的なもので、実際には独立性が高かった。同様に南方では屋久・奄美などの諸島の人々の記事ががみえるが、これはこの地域の中心であった流求国が、隋の煬帝によって王を殺害されるなどの大規模な抑圧をうけたことの反映であった。南島には王がいたことが確認されるから、蝦夷や南島との関係は異国あるいは王と王の間の外交的関係として交易を中心としたものであった。
 とくに658年からの阿倍比羅夫による渡島(北海道)にいたる探査行は高句麗への北方航路の開拓もめざしていたといわれる。この時期、南北への動きが目立つのは大陸・半島との関係のみでない、南北への海の道とネットワークが、列島ジャパネシアの視界に入っていたことを明瞭に示している。
 ところが、660年、唐は大軍を送って高句麗の背後にいる百済を打倒し、比羅夫の探査行は中断する。倭軍は翌年から百済救援のために渡海したのである。そして、九州まで下った斉明は、そこで死去し、唐との決戦も白村江において無惨な結果となった。この戦争の惨禍は列島社会に深い衝撃をあたえた。そして668年、高句麗は唐軍によって滅亡し、669年には唐は倭国征討のための軍船を整えた。天智は防人・水城・山城を設置し、近江に遷都して防衛を固めた。そして軍役動員を表に立てて人々を戸籍によって掌握し、太政官を中心に官僚制を強化して、律令のシステムを成立させた(「近江令」671年)。百済・高句麗の滅亡のなかで、王族をふくめた多数の亡命者がいたことも、このような動きを促進したであろう。
 しかし、670年、事態は一変した。唐と同盟を組んでいた新羅が朝鮮半島の統一にむけて高句麗・百済の故地を占拠し、唐と戦う姿勢をみせたのである。これに対して唐は、今度は倭と軍事同盟を結んで新羅にあたろうとし、翌671年、使者を派遣してきた。唐軍の新羅攻撃への援軍の要請である。これに対して新羅も使者を派遣してくるという慌ただしさである。そして、このさなかに天智が死去してしまった。天智の後継に擬せられたのは大友皇子。母の身分は低かったが、天智はそれを無視した。
 事態を処置しなければならない立場にあった大友は唐の援軍要請にこたえる方針を決め、軍隊の編成にとりかかる。これを奇貨としたのが、天智の死去前、叛意を疑われて出家した大海人皇子(天武)であった。天武は吉野で蜂起し、おそらく戦争を好まぬ社会の雰囲気にも乗っかったのであろう。東国に回り、大友の近江朝廷を打倒することに成功した(「壬申の乱」)。そして、天武は派兵と介入の道をえらばず、防衛体制を維持し、交流を求めてくる新羅との関係を深めたのである。唐帝国は、北で突厥、西で吐蕃と対応することで余裕がなく、結局、朝鮮半島への介入をあきらめたから、これが正解であった。
 天武は兄の事業を受け継ぐ立場にあり、全体として保守的な姿勢が強い。「壬申の乱」は史上初めての大規模戦争に展開し、支配層のなかに重大な亀裂を残した以上、これは自然なことであった。内乱後の国内外の状況の安定をみて、天武は、妻の持統が天智の娘であることを強調して、二人の間に生まれた草壁を皇太子に指名し(ただし夭折)、天武と天智の両流を引く血統を正統とさだめた。また「皇親政治」といわれるように、王族の役割を重視した。そして近江令に手を加えて浄御原令とし、官僚制や儀礼を整え、「法」を重視する姿勢をみせた。それと同時に仏教を国教とし、さらに伝統的な神祇と神話の重視も重視する立場から『古事記』などの編纂に着手した。天武は儒教・仏教・神祇の三つをバランスをもって位置づけようとしたのである。
 天武は686年に死去したが、持統と孫の文武の下で、中国的な都城・藤原京の完成、大宝律令の制定などの事業が進んだ。問題は文武が20代半ばで死去して天智・天武の両流を引く男子が、文武と藤原不比等の娘との間にうまれた聖武に限られてしまったことであった。奈良王朝は元明・元正などの聖武のオバたちを天皇にし、あるいは血の近い藤原不比等をもり立てて、この血統問題をクリヤーしようとした。710年の平城遷都から聖武の立太子へと、この代替りはうまくいき、8世紀前半は国家の威信の拡大の時期となった。
 この時期、郡衙や軍団の編成、戸籍の作成、班田収受などなど国家支配の整備が進む。飛鳥時代の国家にもまだまだ西国国家という性格は残っていたが、ここで関東地方をふくめた全国国家ができあがった。この国家的な貢納システムの中心は、直線道路の設定や条里制の設置、一般的にいえば国家による自然=大地の開発と領有にあった。現代で言えば、開発独裁型の国家社会主義のようなものである。その下で国司は灌漑施設などを監察し、春には水田を班ち、種稲を貸し付けて不作のないように耕作させた。勧農と班田収受制である。この中で、従来の首長層にあたる人々は国司の下で個々に郡郷の行政や文筆の担い手として仕奉させられる。そして、その圧力の下で、民衆は、租庸調などの貢ぎ物や労役など共同体の外の世界にかり出された。
 このように7世紀末以降、国家によって大規模に進められた開発や交通の拡大は、全体として開明的な役割を果たし社会の生産諸力を解放した。それが列島規模の経済の基礎インフラを作り出すという歴史的意義があったことは否定できない。しかし、それはすでに解体していた首長制をさらに破片化したのみでなく、その基礎にあった旧来の共同体自体を分解することになった。民衆はそのなかでしばしば厳しい状況に追い込まれたのである。とくに、このころ、8Cからは世界史的に「中世温暖化」といわれる時期であった。温暖化は山野の植生に好条件であるが、農耕の進んだ社会には干魃の危険をもたらし、また疫病の流行のきっかけともなった。
 8世紀後半、重荷を負っていた地域社会に干魃と疫病が襲いかかったのである。それを象徴したのが、734年に河内・奈良で発生した大地震であった。しかも引き続いて735・6年、天然痘が大流行して奈良王朝に大きなショックをあたえた。これによって藤原不比等の4人の子どもなど公卿の半数以上が死去したが、干魃による飢饉とあいまって人口の3割にものぼるような多数の人々が死んだという研究もある。しかも、この疫病の原因は、聖武の皇太子が幼くして死去したという嫌疑をうけて自殺した長屋王の怨霊であるという噂がもっぱらであった(長屋王事件729年)。長屋王は天武の男子で壬申の乱に功の大きかった高市皇子と天智の娘の間に生まれた皇子で、さらに自身草壁の娘の吉備内親王を妻にむかえている。その男子は文武系以外では、唯一、天武と天智の両方の血をうけるという有力な王位継承候補者であった。疫病の流行のような災異がその死に関わるものと感じられたのは無理がない。そして、男子をなくした聖武は、結局、娘の阿部内親王を立太子させることになった(後の孝謙)。
 このような世情と王統の不安定のなかで、聖武は仏教に鎮護国家の力を求め、大仏の建立を発願した。この時期、高句麗の故地に渤海が興隆し、日本に新羅を挟み撃ちにすることを申し入れたこともあって、朝廷では二次にわたって新羅出兵の議論があった。しかし、聖武と孝謙はそれを嫌い、最初の予定地の山城紫香楽京が745年美濃地震で直撃されたにもめげず、東大寺大仏の造営を国家事業の中心にすえつづけ、それを実現した。大仏開眼会に新羅から王子が使者として来訪してきている。そして聖武の死去後、孝謙はさらに東大寺にならぶ大寺・西大寺の建立につとめた。孝謙は天武の孫にあたる淳仁を天皇としたこともあったが、淳仁が藤原仲麻呂とともに実権をにぎり、新羅出兵を決定したことなどを嫌って、結局、淳仁を廃止した。東大寺の建立と背景となった華厳の思想には平和の理念が含まれていたともいわれており、このような聖武・孝謙の姿勢の意味は大きい。
 しかし王位継承の行方は混沌とし、奈良時代の後期には、その中で天武の血を引く男子はほとんど処罰されるか配流されることになった。その度に、彼らの怨霊が疫病を引き起こしたという風評がたったのである。このなかで、770年、称徳(孝謙の重祚後の名)が死去し、結局、天智の孫の光仁に王位は譲られたのである。孝謙は、光仁に嫁いだ妹の井上内親王がもうけた男子、他戸皇子を後継者とする約束をさせたが、即位した光仁は、この天武・天智の双方の血を引く皇太子他戸を廃位してしまったために、奈良王朝の正統の血は絶えたのである。そして他戸も強力な怨霊となって、奈良時代末期の宮廷を混沌としたものにさせた。

2013年12月19日 (木)

飛鳥時代の通史メモ

 今日は雨。年賀状を書く余裕もないままメモ作りである。
 以下は、飛鳥時代の通史のメモである。

 なおさいごの部分に「首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた」と書いたことについては、説明が必要。飛鳥時代は石母田正さんがいう意味での首長制が解体される時期であり、律令時代は、それが完全に解体され、破片が国家的貢納制の下部組織に編成替えされる時期であると考えている。石母田正さんは首長制を基礎にして律令制をとらえようとした訳であるが、その趣旨を理解しつつ、私は、結局、そういうように考えてみたいということである。

 これは大学4年のときから、つまり卒論を書いたときからの問題なのであるが、石母田首長制論をどう考えるかというのは、私は、いまだに日本の歴史学にとって基本問題であると考えている。それは様々な意味があるが、石母田さんがいう律令国家の「国家的土地所有」というのは、首長制を解体しなければなりたたない関係である。そして首長制的な関係をこわして、再編成された国家は、きわめて全体主義的なもので、私は、その点では、律令国家を国家社会主義であるといった瀧川政次郎などの意見にも一理があったと考えるのである。瀧川政次郎などとは、自分ながら古いことをいうようですが。

 集団と共同体的な社会編成を通じても、ひどい社会はできる。「社会主義」を標語にし、自称していてもひどい社会ができる。これは歴史理論の側からいっても当然のことであろうと思う。それはすでに10年前に学会で講演した(保立『歴史学を見つめ直す』)。もちろん、「社会主義」ということ、つまり、社会を大事にして社会的関係を豊かにして共同していくのが類社会の道であるという点では、誰も否定できないし、否定すべきものではないが、しかし、社会主義を自称している社会にもかならず病理が発生する。現在、それを自称している社会はとても社会主義という名にふさわしいものではないが、それではあれはどういう社会なのか。集団的編成をとった奇妙な社会。全体主義社会というほかないと、私は思う。そういう社会が20世紀には生まれる条件があったのだ。
 
 どういう社会にも病理はある。その病理を客観的に認識するためには、従来とは異なる歴史理論が必要であるというのが、私などの意見である。病理をおそれて前に進まないということはありえないが、病理を目前にしてきた、私たちの世代は、この問題をとこうという意思なしには物事を進めることができない。

 日本近代国家の責任というものは存在するし、戦争責任というものは厳密に考えなければならないというのは、歴史学者として自然な考え方である。現在の北朝鮮や中国の体制は近代東アジアの歴史、そこにおける戦争ぬきにはありえない。しかし、北朝鮮、そして中国には、すでに病理が病理とはいえないような巨大な問題に広がっているということは別のレヴェルの問題である。これを東アジアの長い歴史のなかで考えることが必要であろうと思う。

 そのとき、日本の「古代国家」が全体主義であったということは、歴史理論上、欠くことはできない論点であると、私は思う。

 さて、これも古い証文を出すようであるが、下記は、早川二郎のいったこと。


「土地国有、アジア的官人などなどをもついわゆる『アジア的封建制』は、この貢納関係における征服者被征服者の共同体的関係がいつとはなしに静かに消滅して、一定地方から他の全地方への支配の形骸だけが残った時にみられるものである。とはいえそこに共同体的遺制は鞏固に保存されるのが普通である」(早川二郎「いわゆる東洋史における『奴隷所有者的構成の欠如』をいかに説明すべきか」1935『唯物論研究』)


 早川は『アジア的封建制』という訳であるが、これは私のいう「国家的貢納制」と同じことである。


飛鳥時代のメモ

 飛鳥時代という時代区分にはいくつかの考え方があるが、ここでは仏教の伝来した6世紀中ごろ(宣化・欽明朝)から「大化改新」のころまでとする。ただ、ここでは、この時期の王統の祖であった大王継体の登場の事情から説明することにしたい。
 応神・仁徳の直系の王統は、最後の武烈が子どものないままに死去し、それまでの激しい内部闘争もあって係累の男子もなく断絶してしまった。継体は越前にいたが、応神の五代の子孫で、皇親氏族の息長氏を出自としていた。継体のノミネートは息長氏が雄略のころから大王と姻戚関係にあったことに原因があったとされている。しかし、507年に即位したものの、継体の王宮は長く山城にあって、ヤマトに入らず、また子どもの安閑・宣化・欽明の間での王位をめぐる政争も推定されている。雄略の即位(465年)から、欽明の即位の540年ころまですでに80年近く王権は、内部争いと不安定な情勢のなかにいたのである。
 これに対して、欽明は30年の在位をまっとうし、男子の敏達・用明・崇峻、女子の推古をあわせると、この父子5人の天皇が約90年のあいだ王位をしめ続けたことになる。このころ王位は出来る限り血の濃い近親婚によって生まれ、成人している皇子が継承する原則があった*2。これが政治史の理解の基礎となるが、欽明の後継は欽明と兄宣化の娘のあいだに生まれた敏達。敏達の後は敏達と異母妹の推古との間の子、竹田皇子となるはずであった。用明・推古・崇峻は欽明と蘇我稲目の二人の娘との間にうまれていたから、竹田が成人するまでの中継ぎであったことになる。ところが、その間に竹田が夭折し、代わりに正統とされたのは、用明と妹の穴穂部皇女(母は蘇我稲目の娘)の間の兄妹婚でうまれた聖徳太子。
 用明の母は蘇我稲目の姉娘、穴穂部皇女の母はその妹という形で蘇我の血が二重に入っているが、当時の王位継承原則からすると、聖徳太子こそがもっとも純血となることは明かである。問題は、これに怒った崇峻が退位を肯んぜず、蘇我馬子が崇峻を殺害したことであった。しかし、これは聖徳につらなる王位継承原則を乱した訳ではない。事態収拾のために推古が即位したのも自然なことで、推古にとっては太子の父、用明は同母の兄、太子の母は母を姉妹同士とする異母妹という密接な関係である。
 ところが、この太子は推古よりも早く死んでしまい、王位は結局、蘇我氏の血をうけていない敏達の孫の舒明に回ることになった。記紀は蘇我氏の悪行譚を中心にした物語を描くが、実際には、この時期は大王の権威の確立期であり、蘇我氏は欽明をささえ、部族連合国家の枠をふみでた国家システムを作り出すのに決定的な役割を果たした。その地位は、仁徳王統の姻族を代表する大和南西部の葛城地域の部族長、葛城氏の地位を奪取したもので、葛城氏は対外関係を統括していた。蘇我氏は、5世紀の渡来系氏族のボスとして台頭した新興氏族(あるいは蘇我氏自身が渡来系ではないかともいわれる)であったから、葛城氏から朝鮮との窓口の役割を奪ったことは決定的な意味があったのである。
 この時代、6世紀の中国の北部は4世紀末に五胡十六国時代をおわらせた北魏が繁栄していた時代である。北魏は鮮卑族拓跋部の部族の連合国家であったが、すでに部族連合国家の枠をでて、法と官僚機構をもって華北を支配する大国に成長していた。また南部はインドから西来した達磨に法を聴いたことで知られる梁の武帝が治国の実を挙げていた時代である。内紛と分裂にも関わらず、中国の富強が目立ち始めた時代であるということができる。そして、その圧力の中で、朝鮮では高句麗・新羅・百済の三つどもえの死闘が繰り返されていたが、その中で加耶は新羅に最終的に併呑された(562年)。この中で、百済が倭を利用する戦術をとり、これが倭の加耶の権益を主張する名目に一致して、百済=倭の軍事同盟が形成される。
 そもそも継体は出身氏族の息長氏が渡来系に近い関係もあって百済勢力と強い関係をもっており、それが擁立の一つの条件であったともいわれる。そして、いわゆる仏教公伝、538年(元興寺縁起)あるいは552年(『日本書紀』)に百済から仏像や経論が贈られた前提にもこの同盟があった。それを主導したのは蘇我氏とその下の渡来系氏族であって、それは結局、蘇我氏による法興寺(飛鳥寺、588年造営開始)、聖徳太子による法隆寺(607年竣工)の造営に結果する。百済と倭の軍事同盟は、仏教を国教とする文化的同盟をも意味することになったのである*1。それを象徴するのが、敏達を最後にして前方後円墳の形式の王陵が終了したことであろう。以後も殯は行われたが、これは神話をイデオロギーとした部族連合国家からの転換を意味している。
 百済の大きな影響の下、こうしてヤマト王権は「文明」国家に転換したのである。社会構造の側面で、その初発を決めたのは、527年、継体が百済に援軍を送ろうとした際に、それに反対した筑紫の族長、磐井を討伐した事件である。これは明瞭な地域国家の抑圧である。王権は、これを御手本にして各地域の首長を王・国主ではなく、「国造」に性格換えしていく。「ミヤツコ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤッコ」(奴)の意味である。そして、磐井の領地は糟屋屯倉(ミヤケ)として没収される。「ミヤケ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤケ」(家)という意味であって、これが東国をふくめた全国に波及し、従来の首長居館のもっていた収納・蓄蔵・経営・交通などの機能が解体されて王権に吸収される。そして、この国造とミヤケへの編成は従来の首長の支配権内部にいた民衆を「部」の民に編成するという形で及んでいく。
 またこれに対応して朝廷のシステムも氏姓制度によって整えられた。朝廷組織をになう有力氏族のもっていた身分は「殯」によって作られる「骨」によって象徴されるのではなく、「臣・連・君」などの官人的な称号としての姓に編成替されていく。そして、そのなかで、たとえば大伴氏は「トモ」(奉仕者)を統括し、物部氏は「モノノフ」(門番など)を統括するという仕奉のあり方が位置づけられる。彼らは、おのおのの職掌におうじて、彼らは国造やミヤケのシステムに依存して、各地の部民を支配するようになっていくのである。もちろん、このようなシステムの前提となるものは氏族の始祖の神話として古くから存在したし、神話の観念自身は、これ以降も長く続くことになるが、しかし、この時代、ヤマト国家が機構による支配の方向に大きく踏み出したことは否定できないのである。その指揮を蘇我氏と文筆・計数能力をもつ渡来系氏族がとったことはいうまでもない。
 このような「文明」的国家への移行は、中国における隋(581年建国)・唐(618建国)の帝国再建の動きに影響され、同期したものである。紀元前後からのユーラシア東部における民族国家形成の動きは漢帝国を南北に分裂させたが、そのなかで多民族の融合と交流のシステムを内包する世界帝国のシステムが組み立てられた。隋も唐も、その王族が北魏の鮮卑・拓跋系の出自をもつという、以前では考えられない体制である。これによって漢にくらべて広大な領域をしめる大帝国が形成され、強大な力をユーラシアに発揮しはじめた。
 600年、推古は聖徳太子の弟を将軍として久しぶりに新羅に出兵し、同時に遣隋使を派遣する。新羅出兵は効果がなく、遣隋使も冷たくあしらわれ、王権は島国日本の思惑をこえる東アジアの動きを実感したはずである。しかし、これにつづいて607年、有名な「日出ところの天子云々」の遣隋使が派遣されるが、今度は、隋は高句麗征服の方針との関係で使者を日本に送り、日本からの留学生をうけいれた。彼らが帰国し始めたのは聖徳太子の死去(622年)の翌年。そしてしばらくすると、推古が死去して舒明が即位し(629年)、翌年には隋に交代した唐帝国への第一次遣唐使が派遣された。
 推古ー聖徳太子ー蘇我氏の枢軸から自由になった舒明の時代は、10年ほどしか続かなかったが、その晩年には留学者が続々と帰国して東アジアの状況が明瞭になっていく。この時期、舒明は勅願寺として百済大寺を建立したが(639年塔竣工)、しかし、留学者たちのなかには仏教のみでなく、儒教や法制を学んだものが多かった。こうして「文明」国家の形態を仏教のみではなく、より広く法的な国家思想にも依拠し、東アジア情勢に対応するという動きが始まる。いわば国家思想の「仏」から「法」への重点の変化である。
 このなかで蘇我氏が退場する。つまり蘇我氏は舒明が死去し、舒明の妻の皇極が即位すると、蘇我馬子の娘を母とする古人皇子に王位をまわすために聖徳太子の息子の山背皇子を殺害した(643年)。そしてそれに対して、645年、軽皇子(皇極の弟、すぐに即位して孝徳))と中大兄(舒明と皇極の子、後の天智)が逆転クーデターを起こし(乙巳の変)、古人と蘇我氏の族長・入鹿を殺害したのである。「乙巳の変」である。これを「大化改新」と呼んで国家文明化の一大画期とみる見方は、天智・天武の治世を誉めあげるというニュアンスがある。とくに6・7世紀の政治史を「蘇我氏の悪行」という見方に塗り込め、そこで進展していた国家の「文明」化を軽視してしまうのは問題が多い。「大化改新」は、実際上は蘇我氏が担った文明化の動きを別の形で引き継いだものであるというべきであろう。
 しかし、そのスタイルは「法」を基礎としていただけに、制度としてみると整ったものであった。「大化改新」が644年から始まった唐の高句麗攻撃など、激変する東アジア情勢に対峙して、「法」国家への転換を急ぐという課題を掲げたことは否定できないであろう。とくに発掘調査の結果、孝徳を中心として取り組まれた難波宮に大規模な官衙遺構がともない、発達した官僚制が構想されていたことが明かとなった。さらに大きいのは、各地でミヤケから「評」への切り替えが進み、統一的な公民支配が指向されたことである。これによって部族的な領有は国家に集中され、必要におうじて分割されて「評=郡」に平準化され、部民支配も解体された。首長は郡司となって国家機構に編成され、首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた。国家は首長を押しつぶして在地社会における下請け人にしていく。
参考文献
吉川真司『飛鳥の都』(岩波新書)

2013年12月18日 (水)

「わかんるり」とは何か。クラモチ皇子の言葉

 アニメーションの「かぐや姫の物語」で、クラモチ皇子が、蓬莱島の天女に対して「私はうかんるり」と発言したという部分があった。

 この「うかんるり」という言葉は正しくは、「わかんたふり」であるということは『かぐや姫と王権神話』で述べた通りである。それは隋書に「太子」のことをいうとでてきて、10世紀以降だと『源氏物語』にでてくる。そして、8世紀には奈良の長屋王家の木簡に「若翁」とでてくる。
 
 問題は、この「わかんとほり」=若翁という言葉の意味であるが、下記の長い文章の末尾にあるよう7に、それは「若いタフレモノ=狂者」という意味である。『字鏡集』という辞書に「翁」の読みとして「タフレヌ」があり、「タフル」は普通は「狂」と書く。「タハク(姦・淫)」「タハブル(戯)」「タハゴト」も同じ意味。

 つまり、皇子というのは、あぶない人、恣意的な行動をすることが許されている人であるという訳である。実際、『日本書紀』『古事記』に登場する皇子たちは激情的で、いわゆる「聖なる狂気」を思わせる場合が多い。

 『竹取物語』でクラモチ皇子が天女に対して「私はわかんたふり」といったというのは、いわば「俺は王子だ、何するかわからんぞ」とすごんだということであろう。

 この「わかんとほり」=若翁という言葉の語義については、私は、右の『かぐや姫と王権神話』を書いた時はわからなかった。それを知ったのは、山尾幸久『古代王権の原像』(学生社215頁、2003年)を読んでのことである。山尾さんの仕事はむかしはよく読み、『黄金国家』を書いた時も遣唐使論は前提とした。しかし、さすがに7世紀以前についての山尾さんの仕事を読むことは、最近はなかった。そのために見のがしたのである。

 さて、以下は、最近やっている「通史のためのメモ」の古墳時代編である。

③古墳時代
 古墳時代とはヤマトに政治センターが遷って、古墳が盛んに作られた時代をいう。その最初の中心は伊勢を通れば東国にも近い、奈良盆地東南のヤマト纏向の地であった。箸墓が卑弥呼の墓であったかどうかなどの詳細については学説はまだ一致をみていないが、纏向の成立は卑弥呼共立の時期に近い、3世紀初頭であり、そこあった権力は近畿地方、中国地方(北の出雲と瀬戸内の吉備)、四国などの諸勢力の連合に基礎をおき、その中でも(前方後円墳の原型が生まれた)吉備の位置が大きかったことは確実である。
 『魏志倭人伝』によれば卑弥呼は伊都国に「一大率」をおいて北九州を支配し外交を統括した*1。これに対して、東国の部族連合が畿内中心の枠組の外にいたことは、卑弥呼の死去(248年)直前に狗奴国(遠江の久努、あるいは濃尾地方という)と紛争を起こしたことに示されている。ヤマトはこのように列島の中央部という地政学的な位置によって卑弥呼共立の場となったのである。こうして縄文時代の東国、弥生時代の九州にひきつづいて、列島史上はじめての国家、畿内中心の西国国家が生まれた。そこには神殿都市(アクロポリス)が形成され、前方後円墳のならぶ王墓域(ネクロポリス)が生まれた。前方後円墳の形は中国思想(天円地方説、壺型説など)に関係するもので、古墳の形や大きさは葬られた首長の身分を表現している。骨のことをカバネと読むことに注目して、氏姓の「姓」とは本来は「骨」の高貴さのランクを意味するという古くからの考え方をとれば、死者は「殯」によって白骨化し、特定の古墳に葬られることによって身分をあたえられたことになる。
 なお「辛亥年」(471年)の稲荷山鉄剣に「オホヒコ」が登場していることによって、5世紀に伝承されていた王統譜に崇神がふくまれていた可能性が高くなった。「ハツクニシラス」(初代の大王)を崇神とする伝承もあった可能性がある。しかし、これはまずは神話の問題である。『古事記』『日本書紀』が、崇神が神を崇め(祭祀制度を創始)、景行が倭建命を初めとする皇子を全国に派遣し、成務が地方制度を作り(国造設置)、仲哀・神功・応神が朝鮮半島を服従させ(帝国形成)、それらをすべてふまえて仁徳が善政を敷いた(国制理念)という形で全国統一の過程を物語るのはそのまま史実とすることはできない。五世紀以前の実態は、記紀をそのまま史料とすることはできないという津田左右吉以来の見解は依然として生きている。
 なお、古墳が全国に広まったことをヤマト王権の全国統一の証拠とする考え方も問題が多い。古墳は身分的な要素をもつとしても、それ自体は葬送の儀礼や神話の表現であるから、それを直接に統一国家の制度表現とすることはむずかしい。少なくとも5世紀までのヤマト王権は「部族連合国家」(United Cheefdom)の枠組のなかにあった。西国国家という枠組のなかで、吉備・出雲・肥(九州)などの地域の部族国家は相当の自律性をもっていた。ヤマトの優位性の相当部分は、その地政学的な位置に支えられて、九州を押さえ、東国に対抗する地域連合の動きを代表している点にあったのである。
 このような政治や列島の地帯構造の激変に対応して、社会構造は大きく変化した。纏向には政治都市(神殿都市)が形成され、外交文書の作成、倉庫や貢納の管理などの実務がとられたことは確実で、詳細は不明なものの、公共的な仕事も行われたはずである。古墳の造営は徭役によったことはいうまでもない。軍事・警察の組織もあったであろう。また鉄製品その他の物流は畿内中心にまわりはじめている。こうして西国国家の中枢にいた各地域の支配層が纏向に集まっていたことは、各地の土器などが纏向から発掘されたことに示されている。
 社会構造の変化でもっとも大きいのは、弥生時代を通じて続いた環状集落が解体し、その中から方形の首長居館が分離したことである。首長居館には畿内製の土器の出土が多く、また前方後円墳の地方普及とともに出現する例があることは、ヤマト王権の成立によって地方社会がうけた影響を物語っている。各地の首長は居館を立てるとともに環濠を埋めたのではないかといわれている。彼らは明瞭に階級的な支配者に変貌したのである。そこでは首長に私的に隷属する人々も生まれていたが、中心は首長が下位の共同体を代表して支配する首長制の社会構造にあったといえよう。支配者は、小さな村、大きな村、部族、さらには部族連合というように重層する集団のシステムの上に大きな権力を確保するに到っていたのである。
 さて、漢帝国の滅亡後、220年頃、魏・蜀・呉が相次いで帝位を立て三国時代がはじまり、約60年後、魏の権臣・司馬懿にはじまる(西)晋によって統一される。しかし、西晋は311年、匈奴によって滅ぼされ、中国は大分裂の時期に入る。華北では五胡十六国の時代が始まり、江南では晋の王族が東晋を建国する。宋・梁とつづく南朝である。これに対して、朝鮮では高句麗が、4世紀初頭、楽浪郡を最終的に滅ぼした。以降、中国は朝鮮半島以東を直接統治できなくなる。そして高句麗の動きに刺激されて、朝鮮半島南部の馬韓から百済、辰韓から新羅が登場し、弁韓は北九州との深い関係を維持したまま加耶に再編成される。中国および北辺諸民族と地続きのためもあって特有の困難をもっていた朝鮮においても「民族」の形成が必然となったのである。
 朝鮮諸国の競合のなかで、391年、加耶と密接な関係をもっていた倭が朝鮮に出兵する状況も生まれた(広開土王碑文)。これは朝鮮南部(とくに加耶地域)と九州の多島海地域における伝統的な部族的な関係に根付いたものであったが、すでにそれは権益化しており、倭国はその維持に必死であった。実際に王権の意向の下で多くの倭人が加耶・百済に渡っており、最近、彼らの墓所として、5世紀末から6世紀初頭には百済に前方後円墳が築造されている。倭人のなかには、百済王権に組織され、その官人・軍人となって倭王権への二重所属になったものも多かった。そして、倭は、5世紀に南朝の宋に何度も遣使し、朝鮮半島に対する影響を担保しようとした。『宋書』に登場する倭王は五人。そのうち「讃」「珍」の兄弟については履中・反正である可能性があり(異説あり)、「済」とその子「興」「武」については允恭、安康、雄略とされている。彼らは5世紀の前半から後半まで13回に上る使者を派遣し、大将軍・倭国王と将軍号をもって冊封されたが、しかし、宋は倭に何の言質もあたえようとしなかった。
 むしろ、この遣使で重要なのは、倭王が将軍・郡大守などの称号を王族や臣下に仮授することを承認されたことである。これは称号の色彩が強いが、稲荷山鉄剣によれば雄略(ワカタケル)の時代に「杖刀人」という軍人身分が生まれていた。ヤマト王権の中に一種の国家組織が生まれていたのである。これを「人」制というが、その一部は朝廷につかえる手工業者を「手人」というなど8世紀までつづいた。また倭王・讃の使者に「司馬曹達」という人物がいたが、これは軍府の軍人の称号(「司馬」)をもつ中国系の渡来人名(「曹」)を示している。
 また、5世紀は、高句麗戦などの結果、従来から深い関係をもっていた朝鮮の人々が亡命・移住してきた時代である。これは、いわば日本の歴史のなかでの最初の対外戦争太りといえる。倭王権は、彼らを動員して河内平野を開発した。灌漑水路の設計、韓式の硬質土器の製作、金工技術など、はじめての本格的な手工業の導入である。有名な騎馬民族国家説は、このとき馬・馬具が入ってきたことを騎馬民族の移動と誤解したものである。河内には応神・仁徳などの大王のものと伝承される大古墳群が形成されたが、それは渡来系の人々を河内の開発に動員することと一体の事業であった。
 こうして、倭国は奈良盆地の四周のみでなく、奈良盆地の入口・玄関にあたる河内に王墓域を突出させて、国家の偉容を示そうとした。このなかで、王権が部族連合国家から脱却する方向に進もうとしたことは疑いない。倭王「武」(雄略、在位465~489?)がその中国への上表文で「治天下」の理念を述べるのは主観の側面が強いとはいえ、それを反映している。記紀の伝えるこの時期の王権の内部闘争ははげしいもので、このころに皇子のことを「わかみたふり」というようになった。それは「若いタフレモノ=狂者」という意味であるから、いわば皇子が恣意的な行動をすることが許される時代がやってきたのである。実際、そのまま事実とすることはできないとしても、允恭の後継を廻る混乱、即位した安康の乱政と弟雄略との不仲、安康の後継と目された市辺押磐皇子の雄略による殺害などなど、そのような事例は枚挙にいとまがない。同時代の中国の諸王朝においても、その内部闘争や乱倫はすさまじく、この時期の国家の要件なのかとさえ思えるものである。
 しかし、5世紀の倭王権の基本的な性格は、依然としてヤマトの部族や筑紫・吉備・出雲・紀などの同盟にもとづく連合国家であったというべきであろう*1。ヤマト王権はむしろ、この内部闘争の経験をへて、徐々に国家的な機構を発展させていったのである。
参考文献
白石太一郎『古墳とヤマト政権』
広瀬和雄『前方後円墳の世界』
都出比呂志『古代国家はいつ成立したか
熊谷公男『大王から天皇へ』(『日本の歴史3』講談社)
鈴木靖民『倭国と東アジア』(『日本の時代史2』吉川弘文館)