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カテゴリー「通史のためのメモ」の12件の記事

2013年12月24日 (火)

平安時代(院政期)の通史メモ

⑦平安時代(院政期)
政治史の考え方
 道長が王家の両流の5人の天皇・皇太子に娘を配し、王家の主要な男子がすべて道長の聟・孫・曾孫ということになって、10世紀の王統分裂は消滅した。迭立する王統を調整することを条件としていた道長の家の権力は、こうして絶頂に達することによって同時に権力の基盤を失った。後を継いだのは道長の孫同士の結婚から生まれ、母を通じて冷泉流の血もうけついだ後三条天皇であった。
 このように両流の統合者という地位に立った後三条は徳政を呼号して新制を発し、長男の白河に譲位して院政を開始しようとしたが、退位後すぐに死去してしまった。問題は後三条が白河の皇太弟に母方の冷泉流の王族との間にうまれた男子を指名していたことで、白河は院政を実際に実現して巨大な権力を握りながらも、この父の素意をおそれ続けた。そして、子どもの堀河が即位しても、孫の鳥羽が即位しても皇太子を置くことを許さず、王位継承順序の決定を自身で握り続けた。さらに従来、天皇や貴族は「王の侍」=蔵人のシステムを通じて官衙機構を動かしていたのであるが、院は「治天の務」を独占し、天皇を形式上の君主としてしまい、実際には院司・院側近を通じて政務をとって官衙を動かすというシステムを作り出したのである。
 これが院政の体制であるが、そのなかで院は、その権力の基礎を武家軍事貴族を直接に臣従させることにおいた。とくに白河は後三条の指名した皇太子に近い立場にあった武家源氏を嫌い、伊勢に留住した平氏の一流を重用した。これに対して源氏の側は復権を期して東国に勢力を広めるなどの戦略をとった。こうして、源平の軍事貴族相互の争いが王権の内部に持ち込まれることになるのである。
 院が王位継承権を握ることは短期的には王位継承を安定させたが、しかし、それは矛盾が生まれた場合、親子の対立をもふくむことになり、兄弟間の迭立よりも深刻なものとなる。そして、後三条ー白河、白河ー堀河の段階では、親子間の対立は潜在していたが、鳥羽と崇徳の親子関係は厳しいもので、鳥羽の死去をきっかけに現任の天皇で弟にあたる後白河に対して崇徳がクーデターをおこした(「保元の乱」)。これは王位をめぐる実際の軍事衝突としては「壬申の乱」から後、初めてのことで、しかも「王城合戦」であったから衝撃は深かった。しかも続いて、院政を敷いた後白河と子どもの二条天皇の間での紛議も軍事衝突に展開した(「平治の乱」)。この二回の合戦の中で、摂関家も分裂し、源家・平家もおのおの分裂して覇権をかけて争ったが、最終的な勝利者は平清盛で、敗北した武家の将・源義朝は東国に向かう途中で殺害された。
 後白河院は、清盛の妻の妹、平滋子を寵愛し、彼女が生んだ子が高倉天皇となった。この過程で、従来は公家貴族の下にいた武家貴族がその実力によって公家貴族に優越するようになった。さらに清盛は自分の娘を高倉の中宮とし、その子・安徳を天皇として、平家の支配する王朝を樹立する一歩手前までいった。しかし、平滋子が死ぬと後白河と高倉の父子関係は冷却し、そのなかで後白河と清盛が対立した。これは権力の正統性を「保元・平治の乱」の段階まで巻き戻して問うことにならざるをえず、これが1180年代の10年間の激しい内乱を結果した。それは平家がどちらかといえば京都と西国に拠点を置いており、義朝の子どもの頼朝が伊豆に流されていたこととの関係で西国・東国との間での史上初めての全国戦争になったのである。
東アジア
 一二世紀、中国東北部の女真族の動きを起点とする大波のような動きが日本に到達した。まず北においては、女真の活動はオホーツク文化(ギリヤーク族とされる)がふたたび北海道において影響を広げることに連動した。彼らと北海道の西部・中央部の蝦夷(アイヌ族)の間の交流と抗争こそが、後のアイヌのユーカラ、「英雄叙事詩」の背景をなすものであるという。1019年、沿海州女真族の一派、刀伊が朝鮮を襲い、さらに北九州に来襲して王朝に強い脅威をあたえたが、実は、それは一時的なもので列島におけるおもな抗争の場は北にあったのである。
 大陸に広がる北方諸民族と倭人の間の、いわば緩衝地帯にアイヌ族が存在したことは、倭人が北方の富を吸収する最大の条件になっていた。そのアイヌとの境界地帯に位置する平泉政権は院や院司に取り入りながらも半ば独立的な様相をみせて繁栄したが、彼らはアイヌ族との関係を媒介することによってそのような立場をえたのである。
 他方、さらに巨大な影響を及ぼしたのが、女真の「金」の建国によって宋が南に追われて南宋となったことである。その状態でも南宋は羅針盤、火薬、紙、印刷(「本」)などの技術と知識の刷新を進め、東南アジアからインドネシアにかけてまで広範な商業活動を展開した。各地の港市に居住した商人たちの姿は華僑の原型となったが、日本でも宋商が九州に居留地をもって活発に往来した。その中で琉球・九州は独自性を強め、広域的なまとまりを強化した。院の近臣たちは、それを直接に支配し富を吸い上げることに狂奔したのであるが、その中心に位置して瀬戸内から九州に広がる海の世界を固有の権力基盤としたのが平氏権力であった。福原京は、いわばそのような海上軍事王国の要に位置する副都という位置にあったのである。
 従来、東アジア交易の世界においては、倭人は基本的には中国に食い込んだ朝鮮の商人との関係を軸として動いていた。しかし、院政期になると、南宋の南方への発展の中で、琉球弧・日本四島・千島につらなる列島ジャパネシアの全体が、南海交易と北方貿易をつないで直接に交易世界に参入していったのである。これはかならずしも平和的なものではなく、1093年、宋人・倭人が乗り組んだ硫黄・真珠などを積載した武装商船が高麗に拿捕されている。これは、後の倭寇につながる動きが芽生えていることを示している。そのなかで、従来のような排外的な意識のみでなく、日本の武士は虎に挑んで射殺した、高麗は弱く、日本は兵が強いというような噂が広がっていた。
 しかし、実際には東アジア世界からの経済的な影響は日本社会の内部に深く及んだ。京・琵琶湖から日本海沿い商業網をひろげた比叡山の神人たち、ある場合は平家と結んで西国に拠点を広げた祇園社の神人などが鎌倉期以降にも続く商業資本の本流としてのし上がったのは、このような対外交易との関わりを抜きに考えることはできない。また一二世紀半ば以降、大量の宋銭が日本に流入したことは決定的であった。もちろん、交換経済自体は遙か昔から存在したが、宋銭の流通は、年貢としておさめた絹布・米の現物貨幣としての流通を前提にしていた従来の官衙・国衙の経済システムに対する大きな打撃となり、経済を動かす商人の力を増大させた。
社会構造の考え方
 院権力は王土思想を強調し、国土高権を振りかざしたが、それは現実には大地の国家的領有を分裂させる方向に向かった。まず院は、その知行国支配の中で院司を相次いで大国の国司に任命したり、隣接する諸国に任命して広域的な支配を展開する場合があった。とくに後白河院の院司集団は関東諸国をほとんど独占して、協力しつつ広域的支配を展開していた。院政の下で発展した知行国は国司職を子弟などに配分するシステムであったから、支配の便宜のために親族や関係者で隣接する諸国を一定期間にわたって支配することがしばしば発生した。これは院の代表する国土高権が現実には広域的支配権に分裂する傾向を意味する。平氏政権の下では、これがさらに進んだ。
 第二の方向はとくに白河院以降、院の国土高権の下で、巨大な院領荘園群が六勝寺などに集中される形で蓄積されたことに関係する。都市の貴族たちの荘園領有は、六勝寺のような都市附属の宗教施設あるいは王権の後宮施設の所職としてひろく分け持たれることになった。これは実際上、国土高権が都市貴族に分割給与されたことを意味する。しかも、院領荘園は山野河海をふくむ非常に広い領域を上から設定して設立されるもので、王の国土高権、大地と海原に対する支配権を分割したといってよい内容をもっている。
 そして、平家が政権を掌握した後には、このような国土高権の相当部分を平家が行使したのである。とくに平氏政権の下では、院領荘園を中心とする大荘園の領主に平氏の家人が補任され地頭といわれるようになった。これは荘園の境目を地頭といったことから始まったことであるが、上から国土高権を分割して荘園が設定される様子をよく示す言葉である。こうして形成された地頭領主制は強い国家的な性格をおびた領主権として鎌倉時代以降にも引き継がれて社会の枠組をきめることになる。
 これに対して村落では地主や有力な百姓を中心とした村落が「古老」などといわれる人々を中心にまとまっていった。その際、村落の側でも「寄人」などといって都などと関係をもって特産物を商品化する動き、村落の備蓄を保有しようとする動き、さらには飢饉に対抗するために開始された二毛作を広める動きなど、活発な動きがあった。
 広域的な地域が生み出されるのと、このような村落の動きは基底の部分では共通した動きで、すでに相当の地域で市庭は平和な場所でなければならないという考え方も生まれていた。それらをつないで地方に出職していく職人たちも生まれており、また商人たちは比叡山などの神人という身分を獲得して資本を動かすようになっている。さらに、平氏政権の下では宋銭が大規模に流入してきて従来の米布の現物貨幣とあわせて、人々の経済活動を活発にした。こうして地域社会の経済は東アジアと同様に活気に満ちたものとなっていったのである。
参考文献
入間田宣夫『武者の世に』(集英社『日本の歴史』⑦)
元木泰雄編『院政の展開と内乱』(吉川弘文館『日本の時代史』)

平安時代(摂関期)の通史メモ

 平安時代(摂関期)の通史メモである。
 院政期もやったので、これでやっとクリスマスのイヴに入れる。
 このメモの基本部分は、すでにWEBPAGEにもあげてある「都市王権と貴族範疇」(『日本史の方法』創刊号、二〇〇五年)という文章と、拙著『平安時代』である。
  

⑥平安時代(9-11世紀)
政治史の考え方
 平安時代とは、平安京を都とする時代ということであるが(平安遷都794年)、普通は、その前の長岡京遷都の時からをふくめることが多い。長岡京と平安京に遷都したのは桓武天皇であり、ようするに平安時代は桓武天皇の時代にはじまったというのである。
 しかし、実際上の時代の転換は、桓武の父の光仁の時から始まっていた。もっとも大きな問題は二つあって、一つは後に述べる蝦夷戦争の開始で、もう一つは、光仁が桓武の皇太子に同母弟、早良親王を指名したことであった。桓武はこの弟を長岡京建設の責任者、藤原種継の暗殺を使嗾したとして死に追い込み、自分の子どもの平城を皇太子の地位につけた。
 殺された種継は藤原氏の式家という家の出身であったが、桓武はこの式家と深い関係をもって式家の女性との間に平城・嵯峨・淳和の三人の王子をもうけ、おのおのに異母妹を配して王位継承権をみとめた。この三人の競争は、まず末弟の淳和がリードした。死の直前の桓武が淳和のもとに初孫が誕生したのをみて、その子を正嫡とする意向をみせたのである。これに反発した平城は即位ののち、式家の仲成・薬子を支えとして王位を独占しようとして破れた。
 この後、嵯峨・淳和が交代に王位につき、さらに淳和の次の天皇に嵯峨の王子・仁明、その皇太子に淳和の王子・恒貞が立った。兄弟間での王統の迭立である。藤原北家の内麻呂(摂関家の祖)は、この複雑な情勢を子どもの真夏・冬嗣の兄弟を各々平城・嵯峨に仕えさせることで巧妙に切り抜け、冬嗣と嵯峨は相互に男女の子どもを配偶させる密接な関係となった。そして、淳和と嵯峨が相次いで死んだのち、仁明は皇太子の恒貞を廃位に追い込んだのである(「承和の変」)。良房は、この時に仁明を支え、かつ仁明の子どもの文徳に配した自分の女子から清和が生まれた。こうして良房は天皇の外祖父として初の人臣摂政の地位についた。これに対して藤原式家は、平城の時に中心人物を失った痛手を回復できないままに力を失っていった。
 このように王位継承の紛議は続いたが、奈良時代のように天皇や王子、王族が怨霊となるようなことはなくなった。もちろん、右の恒貞廃太子事件では侍臣の橘逸勢が配流されて怨霊になった事件、あるいは、9世紀末期、宇多天皇の侍臣の菅原道真が、宇多と子どもの醍醐の間の矛盾に巻き込まれて死霊=雷神となったという事件などはあった。しかし、平安時代の王権の特徴は、上記の例のように、王位を兄弟の間で「迭立」させ、両流の王統が競合するなかで事態を決着させるという形が多くなったことである。
 これは10世紀にも村上天皇の子ども、冷泉と円融の子孫の間で起こった。つまり、冷泉の子孫3人、花山ー三条ー小一条(皇太子)と、円融の子孫3人、一条ー後一条ー後朱雀の両流の間での迭立である。藤原道長は円融系の側にたっていたが、右の6人のうち花山以外の全員に自分の娘を配し、両流を調整して権威をふるった。こうして良房も道長も、王家の迭立と内部矛盾を調整することによって大きな権力を入手したのである。
 これがいわゆる摂関政治の本質であるが、これは10、11世紀の平安王朝を安定したものとした。このような王権の安定の基礎となったのは、上級の王族・貴族が平安京に集中した巨大な富と充実した官僚組織を基礎にして、華やかな宮廷社会の中に自足し、その中での平和を追求したためである。このような都市王権のシステムは実際は人格的な奉仕関係、「侍」の関係の稠密な網の目を通じて動かされていく。侍の中心は天皇と后妃の側近に宮廷貴族の子弟が仕える「男房」(蔵人)と「女房」の組織で、これにならって貴族の家にも「侍」を中心とする奉仕組織ができていく。また侍の中には武官がいたことが重要で、その中には王族などの血を引く、源氏や平氏などの軍事貴族が重要な位置をしめていく。なお、平城上皇の事件の後に設置された蔵人所と検非違使が、この文武の「侍」組織が成長する場となったことは注目しておきたい。
 王権は、8世紀以来の開発振興策によって権力基盤を拡大しつつ、平安京が都市としてもつ求心力を利用して順調に発展した。このような条件の上に乗って、たとえば醍醐が発布した延喜の新制のように、天皇は代替りにあたって維新・新制の法を発布して徳政を標榜した。これは明治維新の「維新」と同じ意味である。そのことが示すように、平安時代の前期、9世紀から11世紀は日本の王権、天皇制の古典時代であったということができる。
東アジア世界
 光仁は、即位すると、すぐに代替りの遣唐使派遣を計画し、他戸を廃位し、桓武を立太子させた後に派遣事業を本格化した。対外的な面子からいって皇太子の人事の決着をまったということである。そして、次の外交政策は蝦夷との戦争であった。王の血統が天智系に切り替わるという不安定な政治状況のなかで、遣唐使の派遣によって正統性を示威し、他方では戦争に訴えるという代替りの方策がとられたのである。
 擦文文化以来、狩猟・農耕を組み合わせた安定した社会を形成していた蝦夷の抵抗は強かった。蝦夷にとっては、文明的な戦闘を戦わざるをえなくなった初めての戦争であったにも関わらず、この戦争は38年続いた。蝦夷にとってもっとも重大なのは樺太から北海道の北東に広がっていたオホーツク文化との競合であったが、東北における戦争=交通の経験は北海道の蝦夷の人々を北へ進出させた。
 こうしてそこに産するオオワシの尾羽などが『新猿楽記』に登場する商人のあつかう北海物資のなかに登場する。彼らが南は喜界が島にもわたり、夜久貝・硫黄などの南海の産物を交易していることが示すように、ここでは南海交易と北海交易が連接していったのである。琉球では農耕も開始され、後の「城」への動きが芽生えている。
 光仁の後、桓武・仁明が代替りにあたって遣唐使を派遣し、宇多も派遣を計画した。ただ、宇多の遣唐使は計画が曖昧になっている間に唐帝国が崩壊したために、以降遣唐使は派遣されなくなったが、平安王朝は、東北・北海道の特産物交易をドル箱としており、それは一貫して重視された。とくに陸奥の黄金は蔵人所の倉庫に収められて王室財政の直接の基礎となったことが特筆される。
 この時期の東アジアは、北方諸民族の活発な活動を原点として、契丹=遼の勃興、朝鮮半島における新羅の滅亡と内乱、高麗の建国、中国における唐の滅亡、「五代十国」の内乱、そして宋の建国と女真族(後の「金」)の台頭と続く内乱の時代であった。このなかで、唯一、王家が続き、域外からの富にもめぐまれた日本は、「君が代」に表現されるような島国的な独特の万世一系思想を強化していった。
 王権は外交においても摂関家による大臣外交のシステムを作り出していた。摂関家は、まず五代十国のうち江南に位置した呉越に対して、仏僧を使者として公的関係をもった。呉越はぶっきょこくで合ったから、これは南方交易のルートを維持する上で大きな意味をもった。さらに摂関家は東北地方や南九州に広大な荘園を設置して、貿易基地とする体制を整えていた。こういう中で相当数の貴族官人が陸奥に下向し蝦夷と通婚するなかで、陸奥鎮守府が改編され、それが平泉権力へ結びついていったのである。
社会構造の考え方
 平安王朝は都市に集中する富と組織を利用して強大な権威を実現しており、国家による大地の領有(国土高権)の強さは変わらなかった。国家的な勧農は本質的な変化はなく、班田収受制も「散田請作」という形にかわって国衙による土地管理は続いた。「班」も「散」も「あがつ」(配る)とよみ、人々が「班田」と「散田」を請作したという点では同じことである。
 ただ、9世紀には荘園の設立が目立った。平安王朝は華やかで平和であったが、宮廷の中心に参加できるのは摂関家を初めとする特権貴族であったから、そこから排除された人々は、国司の経験や人脈を生かし、農業や商業の富をもとめて地方の荘園に留住することも多かった。王族・貴族・寺社の「庄」の領有は8世紀から最初から認められていたが、地方に下った貴族は都との関係は維持しながらも、地域の領主となっていく。国司自身が留住してしまう場合もあり、地域社会は一種の開発ブームのなかで新しい権威を迎え入れることになった。
 9世紀にも温暖化した気候のなかで干魃の被害は続いたから、村の人々の営為とともに、この開発ブームがそれを防ぐための灌漑水路の改善などに相当の意味をもった。そして、そういうなかで「富豪」と呼ばれる人々が多く登場し、「里倉負名」といって、郡衙ではないところに自分の倉を建てることを認められ、周囲の耕地を名請けする地主となっていった。なおこの負名が「散田請作」をするシステムが後々まで続く「名」の原型である。8世紀の班田収受制からの変化は、地方行政組織ではなく、そこから生まれ郡郷の内側に巣くうようになった地主がこのシステムを支えるというという点にあった。
 地域社会には様々な機縁をもってやってきて中央と関係をもちながら土着の道を進む貴族領主たちと、富豪の地主たちが作り出す世界が生まれ、奈良時代につくりだされた経済インフラを前提として経済の基礎的な発展の時代がやってきたのである。なお、9世紀には京都の役所ごとに相当数の工匠(「作手」といった)が抱えられるようになっており、これが後まで続く「道々之輩」の原型である。その意味は役所の関係する「道」(分野)ごとに所属した工匠ということで、工匠の呼び方は「手人ー作手ー道々之輩」と変わっていったことになる。遠隔地商業が発展し、各地の特産物が生まれたことも特筆される。地方では、郡衙や国衙などの行政機関は縮小していったが、しかし、交通・港湾都市は発展して経済を支えた。また8世紀にはじめて導入された銅銭は王朝が改鋳利益をねらって粗悪化したために、民間で交換経済の桎梏として嫌われ、鋳造が行われなくなった。しかし、米・布などの現物貨幣のシステムはむしろ充実していった。
参考文献
保立道久『平安時代』(岩波書店ジュニア新書)

2013年12月23日 (月)

日本通史メモのための前書き

 以下は、ゼミのための通史のメモのための前書き。

 以前、『歴史学をみつめ直す』で書いたことの再論のようであるが、最後の方に、通史の要約的な叙述というものがなぜ必要か、考えたことを書いた。こういう要約なしに歴史理論、史論というものはありえないと思う。

 
 前近代を学ぶ意味

 前近代を学ぶということを考える前に、まず「近代」についていくつか確認しておくべきことがある。

 「近代」は英語でいえばModernという意味であるが、Modernは現代という意味ももっている。英語のModernは近現代とも表現できるように、近代とも現代とも訳すことができるのである。つまりModernとは、私たちが生きている現在の社会と同じ社会構造をもつとと感じている時代をいうといってよいだろう。英語でModernというと、ようするにフランス革命と産業革命以降の時代のことであって、欧米の人々は18世紀の後半からの200年以上の時代を自分たちの時代、近現代の時代という意味でModernといっているのである。

 これに対して、日本では、200年前といえば江戸幕府の将軍家斉が位についてしばらくの時代である。その時代はModernではない。日本でModernと感じる時間はヨーロッパにくらべて明らかに短いのである。しかも、日本では「近代」とは別に「現代」というものがあると感じられている。私たちは、近代というと「明治維新」以降の時代を意味し、現代というと第二次世界大戦の敗戦以降の時代と考えるのではないだろうか。これは短いModernの時代の中でも、時期を明瞭に区別せざるをえないほど、日本社会が、この時代、社会の枠組みに関わるような大きな変化を遂げたことの反映であると考えてよい。

 このように整理してみると、私たちの社会は、まだまだ安定した歴史意識をもつ社会ではないことがわかる。そしていまは、この社会をどのようにして安定的なものにしていくのか、「社会の持続」(Sustainability)をどう実現していくかということを正面から考えるべき時代であろう。

 さて、イタリアの歴史哲学者、クローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べている。ここでクローチェのいう「現代」とは右にふれてきたModernということとイコールではないように思う。それは、英語でいえばむしろContemporaryというのがふさわしい。つまり同時代(あるいは「現在」)ということである。ModernとContemporaryとは歴史に向き合うときの視座が異なっている。そう考えて初めて、この言葉の意味がわかる。そうでなく、「すべての歴史は現代史、Modernの歴史である」となれば、歴史の中にはPre-modernの時代の歴史が入らなくなってしまう。

 つまり「すべての歴史はContemporaryなものである」とは、歴史は時代の古さ、新しさをとわず、すべて現在の社会のもっている問題との関係で考えなければならないといおうとしているのである。これはたしかに正論である。考え方としてはその通りであることは認めざるをえないだろう。しかし、よく考えてみると、これはむずかしいことである。Contemporary(同時代)のことを考えるためにはModernの歴史を考えなければならないのはあたりまえのことのようにみえる。しかし、たとえば、私たちは現在のことを考えるのに「大正」の時代のこと、「昭和」の時代のことを本当に考えているであろうか。そう内省してみれば、その難しさはすぐにわかるだろう。

 また、現在との関係でPre-modernの時代の歴史を考えるというのも難しいことである。どちらが難しいかは一言ではいいにくいが、Pre-modernの時代についての難しさは、まずは時間が長すぎるということであろう。もちろん、Modernの歴史も、Pre-modernの歴史も、どちらも日常生活では実感できないような長い時間を対象にしている。しかし、Pre-modernの歴史というものはともかく長い。江戸時代の歴史となれば、いまから150年以上むかしであり、それ以前となれば、もっともっと前までさかのぼる。それはほとんど無限の時間である。前近代史を考える場合の第一の問題が、この無限に長い時間をどう実感するかということである。以下では、そのために、いわゆる自然史にかかわる問題を意識的に取り上げてある。地殻の変化、気候の変化などは10年あるいは100年の単位よりももっと長い時間の経過の中で動くが、それは人類社会に大きな影響をもたらす。もちろん、Pre-modernの時代を学ぶ意味はまずは社会にとってきわめて大事な意味をもつ歴史的伝統といわれるものを根源にさかのぼって知ることにあるだろう。しかし、長い未来にむけて「社会の持続」(Sustainability)をどう実現していくかを考えるとき、この自然史について知ることも、Pre-modernの時代を学ぶ重要な目的である。

 それは自然的な環境を共通にする列島の島々の連なりや、近隣の国々のことを考えることにもつらなっていく。もちろん、私たちの棲む列島は地球の一部であり、また私たち自身の血のなかにも人類の誕生の時代からみればほとんど世界中の人々の血が入っている。しかし、私たちの棲む列島は、ユーラシア東端、朝鮮半島の外れにあり、また台湾から琉球弧の島々、九州から北海道までの四島からなる本土列島、さらに千島列島に北上していく火山帯の上に形成された島々である。私たちとそこに棲む人類との関係は人類の野生の時代にまでさかのぼる。中国大陸から朝鮮半島という西から東へのベクトルと、台湾と千島列島をつなぐ南北のベクトルの両方が、この列島をつらぬいてきた。列島の形成や火山噴火、繰り返される海進と海退、そして気候の変化などは、しばしば共通する運命として、この東アジア、太平洋西縁の地帯にあらわれたのである。

 いうまでもなく、世界史の波動は、自然の地理的・環境的な自然を共通する近隣の国々との関係の中で、私たちの国と社会を揺るがしてきた。私たちは、海をこえてつらなる国々、島々からさまざまな文化や情報を受け入れてきた。この意味ではこの列島の範囲にすべてが局限された「日本史」という枠組はせますぎる。とくに7世紀の後半に形成された本格的な国家が、「日本」という国号を採用する前には、「日本史」といいにくいという意見は拒否できないだろう。また江戸時代以前の沖縄や北海道を「日本」とはいいにくいのは明らかである。そこで、この解説では、島尾敏雄の用語をとって、必要におうじてヤポネシアあるいはジャパネシアという用語を使っている。世界史と日本の関係を考える場合、とくに前近代では中国大陸の高文明から韓国ー日本という西東軸を中心にしがちであるが、しかし、南北からの影響のベクトルもつねに大きな役割を果たしてきた。

 このような西東・南北の二つのベクトルを組み合わせることによってはじめて列島内部における東西、太平洋側・日本海側などの地域区分も生きてくることになる。ジャパネシアは琉球弧、本州四島、千島弧などの島ごとに区分するとともに、西部日本海側、西部太平洋側、東部日本海側、東部太平洋側という区分が必要なのである。列島ジャパネシアの自然は南北に長く、自然条件はきわめて多様で豊かである。この国は、海・海辺・山地を通じた交通は活発なもののほとんど違う「くに」といえるほどの地域性を帯びているとしなければならない。私たちの祖先は、それを私たちよりも身にしみて知っていたはずである。このことを知ることもPre-modernの歴史を考える重要な目的である。

 さて、次に、以下のようなメモをゼミで議論する意味であるが、そもそも歴史の研究と教育・学習のためには、このような「要約」あるいは「メモ」が必要である。このような時代の概説は大きく時代をとらえるために必須の作業であり、それがなくては知識の蓄積や伝達はむずかしい。とくにこのような要約は授業カリキュラムを構成するためにはどうしても必要になる。

 もちろん、このような要約はあくまでもメモであって、それだけでは知識量は絶対的に不足している。(1)歴史辞書、(2)通史叙述(各出版社からでている『日本の歴史』などの通史シリーズなど)、(3)研究書・論文・講座などによって、機会あるごとにメモを追補し、記憶の世界を作り直していく作業は必須であり、さらにその背後にある「歴史資料」それ自体を点検することも必要になってくる(これについては現在ではデータベースの利用も可能になっている)。こうして知識とイメージを点検しながら、一度は記憶することなしには説得的な歴史像はうまれない。以下の要約は、あくまでもその意味での記憶のための結晶軸である。

 なお、ここでは、前近代の時期区分を、①縄文時代、②弥生時代、③古墳時代、④飛鳥時代、⑤奈良時代、⑥平安時代(摂関期)、⑦平安時代(院政期)、⑧鎌倉時代、⑨南北朝時代、⑩室町時代、⑪戦国時代(以上の項目はだいたい各項目4000字)としている。(幕藩体制と近現代については将来追補)。「古代・中世・近世」などの時期区分ではなく、むしろ時代の特徴や首都の所在によって区分する伝統的でわかりやすい用語を使った。「古代・中世・近世」、あるいは「封建制」などという用語は、時期区分の仕方や意味については議論が多いのが実情であるので、どう転んでも無駄にはならない知識ということで、このような時期区分を採用した。

 また、いうまでもなく、以下の時代概説のすべてが歴史学界の一般意見ではないことにも留意されたい。とくに全体は「通史概説」のようになっているが、そのようなレヴェルで一致することは現在の歴史学ではなかなかむずかしい。つまり、歴史学は本質的に資料と細部にこだわるが学問である。とくに、ここ20年ほど社会科学・人文科学の側での歴史的視野あるいは歴史的理論の議論が活発化していないこともあって、現在では、学界での共通意見が「通史概説」のレヴェルで議論されることも少なくなっている。もちろん、以下の叙述はできる限り通史シリーズなのに記述されている学説、あるいは研究史上でよく知られた学説などに依拠するようにしており、主要なものについては「参考文献」に記したが、紙幅の関係あるいは研究状況との関係では私見により、また諸学説の趣旨を取り合わせて叙述した部分も存在する。この点、ぜひ、参考文献などにもどって利用されるようにお願いしておきたい。


参考文献(あくまでも例示的なもの)。
『日本史史料』(古代から近世3冊、歴史学研究会編、岩波書店)ーー史料から確認するために。
保立道久『歴史学をみつめ直す』(校倉書房)ーー時代区分論について。
『日本史講座』(歴史学研究会・日本史研究会編、東京大学出版会、2004年)

2013年12月21日 (土)

奈良時代の通史メモ

 奈良時代の通史のメモである。
 残りは平安時代だけ。
 書いたものはすべてWEBPAGEにあげた。
 
 これまで書いたものをまとめて考えてみると、永原慶二氏の学説と結論としては近くなっていることを実感する。
 各時代についての4000字の要約を作ってきたわけであるが、それを時代ごとに、土地領有制と王権の形態を中心にまとめると(1)古墳時代ー「首長制ーーー部族連合王権」。(2)飛鳥後期から奈良時代ー「国家貢納制ー専制王権」、(3)平安時代ー「貴族庄園制ーーー都市王権」、(4)鎌倉から南北朝ー「武臣領主制ー王ー覇王体制」、(5)室町時代ー「領国領主制ーーー覇王体制(旧王ー覇王体制)」、(6)江戸時代ー「幕藩体制ーー武家君主制」ということになる。

 永原慶二説とは基礎となる考え方は相当に違うはずだが、結論は似てくるということである。

 以下、奈良時代
⑤奈良時代(3847字)
 奈良時代は平城遷都(710)から平安遷都(794)までの期間をいうが、ここでは紙幅の関係で、「大化改新」の後から説明する。大化改新はもっぱら中大兄の動きによって説明されがちであるが、実際には難波宮への遷都を主導した孝徳の位置も大きかった。しかし、孝徳が死去し、655年、皇極が重祚して(斉明)、中大兄の位置が上昇する。
 この時代より少し前から、列島の北と南の動きについての記紀などの記載がふえる。これはアムール川流域から樺太に広がる靺鞨諸族の活動(オホーツク文化、後の渤海につらなる)が活発化して蝦夷(後のアイヌ族)との衝突が起こる中で倭が蝦夷側にたって介入し、それを梃子として7世紀後半に陸奥を立国したことに関係する。しかし、その拠点は飛び石的なもので、実際には独立性が高かった。同様に南方では屋久・奄美などの諸島の人々の記事ががみえるが、これはこの地域の中心であった流求国が、隋の煬帝によって王を殺害されるなどの大規模な抑圧をうけたことの反映であった。南島には王がいたことが確認されるから、蝦夷や南島との関係は異国あるいは王と王の間の外交的関係として交易を中心としたものであった。
 とくに658年からの阿倍比羅夫による渡島(北海道)にいたる探査行は高句麗への北方航路の開拓もめざしていたといわれる。この時期、南北への動きが目立つのは大陸・半島との関係のみでない、南北への海の道とネットワークが、列島ジャパネシアの視界に入っていたことを明瞭に示している。
 ところが、660年、唐は大軍を送って高句麗の背後にいる百済を打倒し、比羅夫の探査行は中断する。倭軍は翌年から百済救援のために渡海したのである。そして、九州まで下った斉明は、そこで死去し、唐との決戦も白村江において無惨な結果となった。この戦争の惨禍は列島社会に深い衝撃をあたえた。そして668年、高句麗は唐軍によって滅亡し、669年には唐は倭国征討のための軍船を整えた。天智は防人・水城・山城を設置し、近江に遷都して防衛を固めた。そして軍役動員を表に立てて人々を戸籍によって掌握し、太政官を中心に官僚制を強化して、律令のシステムを成立させた(「近江令」671年)。百済・高句麗の滅亡のなかで、王族をふくめた多数の亡命者がいたことも、このような動きを促進したであろう。
 しかし、670年、事態は一変した。唐と同盟を組んでいた新羅が朝鮮半島の統一にむけて高句麗・百済の故地を占拠し、唐と戦う姿勢をみせたのである。これに対して唐は、今度は倭と軍事同盟を結んで新羅にあたろうとし、翌671年、使者を派遣してきた。唐軍の新羅攻撃への援軍の要請である。これに対して新羅も使者を派遣してくるという慌ただしさである。そして、このさなかに天智が死去してしまった。天智の後継に擬せられたのは大友皇子。母の身分は低かったが、天智はそれを無視した。
 事態を処置しなければならない立場にあった大友は唐の援軍要請にこたえる方針を決め、軍隊の編成にとりかかる。これを奇貨としたのが、天智の死去前、叛意を疑われて出家した大海人皇子(天武)であった。天武は吉野で蜂起し、おそらく戦争を好まぬ社会の雰囲気にも乗っかったのであろう。東国に回り、大友の近江朝廷を打倒することに成功した(「壬申の乱」)。そして、天武は派兵と介入の道をえらばず、防衛体制を維持し、交流を求めてくる新羅との関係を深めたのである。唐帝国は、北で突厥、西で吐蕃と対応することで余裕がなく、結局、朝鮮半島への介入をあきらめたから、これが正解であった。
 天武は兄の事業を受け継ぐ立場にあり、全体として保守的な姿勢が強い。「壬申の乱」は史上初めての大規模戦争に展開し、支配層のなかに重大な亀裂を残した以上、これは自然なことであった。内乱後の国内外の状況の安定をみて、天武は、妻の持統が天智の娘であることを強調して、二人の間に生まれた草壁を皇太子に指名し(ただし夭折)、天武と天智の両流を引く血統を正統とさだめた。また「皇親政治」といわれるように、王族の役割を重視した。そして近江令に手を加えて浄御原令とし、官僚制や儀礼を整え、「法」を重視する姿勢をみせた。それと同時に仏教を国教とし、さらに伝統的な神祇と神話の重視も重視する立場から『古事記』などの編纂に着手した。天武は儒教・仏教・神祇の三つをバランスをもって位置づけようとしたのである。
 天武は686年に死去したが、持統と孫の文武の下で、中国的な都城・藤原京の完成、大宝律令の制定などの事業が進んだ。問題は文武が20代半ばで死去して天智・天武の両流を引く男子が、文武と藤原不比等の娘との間にうまれた聖武に限られてしまったことであった。奈良王朝は元明・元正などの聖武のオバたちを天皇にし、あるいは血の近い藤原不比等をもり立てて、この血統問題をクリヤーしようとした。710年の平城遷都から聖武の立太子へと、この代替りはうまくいき、8世紀前半は国家の威信の拡大の時期となった。
 この時期、郡衙や軍団の編成、戸籍の作成、班田収受などなど国家支配の整備が進む。飛鳥時代の国家にもまだまだ西国国家という性格は残っていたが、ここで関東地方をふくめた全国国家ができあがった。この国家的な貢納システムの中心は、直線道路の設定や条里制の設置、一般的にいえば国家による自然=大地の開発と領有にあった。現代で言えば、開発独裁型の国家社会主義のようなものである。その下で国司は灌漑施設などを監察し、春には水田を班ち、種稲を貸し付けて不作のないように耕作させた。勧農と班田収受制である。この中で、従来の首長層にあたる人々は国司の下で個々に郡郷の行政や文筆の担い手として仕奉させられる。そして、その圧力の下で、民衆は、租庸調などの貢ぎ物や労役など共同体の外の世界にかり出された。
 このように7世紀末以降、国家によって大規模に進められた開発や交通の拡大は、全体として開明的な役割を果たし社会の生産諸力を解放した。それが列島規模の経済の基礎インフラを作り出すという歴史的意義があったことは否定できない。しかし、それはすでに解体していた首長制をさらに破片化したのみでなく、その基礎にあった旧来の共同体自体を分解することになった。民衆はそのなかでしばしば厳しい状況に追い込まれたのである。とくに、このころ、8Cからは世界史的に「中世温暖化」といわれる時期であった。温暖化は山野の植生に好条件であるが、農耕の進んだ社会には干魃の危険をもたらし、また疫病の流行のきっかけともなった。
 8世紀後半、重荷を負っていた地域社会に干魃と疫病が襲いかかったのである。それを象徴したのが、734年に河内・奈良で発生した大地震であった。しかも引き続いて735・6年、天然痘が大流行して奈良王朝に大きなショックをあたえた。これによって藤原不比等の4人の子どもなど公卿の半数以上が死去したが、干魃による飢饉とあいまって人口の3割にものぼるような多数の人々が死んだという研究もある。しかも、この疫病の原因は、聖武の皇太子が幼くして死去したという嫌疑をうけて自殺した長屋王の怨霊であるという噂がもっぱらであった(長屋王事件729年)。長屋王は天武の男子で壬申の乱に功の大きかった高市皇子と天智の娘の間に生まれた皇子で、さらに自身草壁の娘の吉備内親王を妻にむかえている。その男子は文武系以外では、唯一、天武と天智の両方の血をうけるという有力な王位継承候補者であった。疫病の流行のような災異がその死に関わるものと感じられたのは無理がない。そして、男子をなくした聖武は、結局、娘の阿部内親王を立太子させることになった(後の孝謙)。
 このような世情と王統の不安定のなかで、聖武は仏教に鎮護国家の力を求め、大仏の建立を発願した。この時期、高句麗の故地に渤海が興隆し、日本に新羅を挟み撃ちにすることを申し入れたこともあって、朝廷では二次にわたって新羅出兵の議論があった。しかし、聖武と孝謙はそれを嫌い、最初の予定地の山城紫香楽京が745年美濃地震で直撃されたにもめげず、東大寺大仏の造営を国家事業の中心にすえつづけ、それを実現した。大仏開眼会に新羅から王子が使者として来訪してきている。そして聖武の死去後、孝謙はさらに東大寺にならぶ大寺・西大寺の建立につとめた。孝謙は天武の孫にあたる淳仁を天皇としたこともあったが、淳仁が藤原仲麻呂とともに実権をにぎり、新羅出兵を決定したことなどを嫌って、結局、淳仁を廃止した。東大寺の建立と背景となった華厳の思想には平和の理念が含まれていたともいわれており、このような聖武・孝謙の姿勢の意味は大きい。
 しかし王位継承の行方は混沌とし、奈良時代の後期には、その中で天武の血を引く男子はほとんど処罰されるか配流されることになった。その度に、彼らの怨霊が疫病を引き起こしたという風評がたったのである。このなかで、770年、称徳(孝謙の重祚後の名)が死去し、結局、天智の孫の光仁に王位は譲られたのである。孝謙は、光仁に嫁いだ妹の井上内親王がもうけた男子、他戸皇子を後継者とする約束をさせたが、即位した光仁は、この天武・天智の双方の血を引く皇太子他戸を廃位してしまったために、奈良王朝の正統の血は絶えたのである。そして他戸も強力な怨霊となって、奈良時代末期の宮廷を混沌としたものにさせた。

2013年12月19日 (木)

飛鳥時代の通史メモ

 今日は雨。年賀状を書く余裕もないままメモ作りである。
 以下は、飛鳥時代の通史のメモである。

 なおさいごの部分に「首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた」と書いたことについては、説明が必要。飛鳥時代は石母田正さんがいう意味での首長制が解体される時期であり、律令時代は、それが完全に解体され、破片が国家的貢納制の下部組織に編成替えされる時期であると考えている。石母田正さんは首長制を基礎にして律令制をとらえようとした訳であるが、その趣旨を理解しつつ、私は、結局、そういうように考えてみたいということである。

 これは大学4年のときから、つまり卒論を書いたときからの問題なのであるが、石母田首長制論をどう考えるかというのは、私は、いまだに日本の歴史学にとって基本問題であると考えている。それは様々な意味があるが、石母田さんがいう律令国家の「国家的土地所有」というのは、首長制を解体しなければなりたたない関係である。そして首長制的な関係をこわして、再編成された国家は、きわめて全体主義的なもので、私は、その点では、律令国家を国家社会主義であるといった瀧川政次郎などの意見にも一理があったと考えるのである。瀧川政次郎などとは、自分ながら古いことをいうようですが。

 集団と共同体的な社会編成を通じても、ひどい社会はできる。「社会主義」を標語にし、自称していてもひどい社会ができる。これは歴史理論の側からいっても当然のことであろうと思う。それはすでに10年前に学会で講演した(保立『歴史学を見つめ直す』)。もちろん、「社会主義」ということ、つまり、社会を大事にして社会的関係を豊かにして共同していくのが類社会の道であるという点では、誰も否定できないし、否定すべきものではないが、しかし、社会主義を自称している社会にもかならず病理が発生する。現在、それを自称している社会はとても社会主義という名にふさわしいものではないが、それではあれはどういう社会なのか。集団的編成をとった奇妙な社会。全体主義社会というほかないと、私は思う。そういう社会が20世紀には生まれる条件があったのだ。
 
 どういう社会にも病理はある。その病理を客観的に認識するためには、従来とは異なる歴史理論が必要であるというのが、私などの意見である。病理をおそれて前に進まないということはありえないが、病理を目前にしてきた、私たちの世代は、この問題をとこうという意思なしには物事を進めることができない。

 日本近代国家の責任というものは存在するし、戦争責任というものは厳密に考えなければならないというのは、歴史学者として自然な考え方である。現在の北朝鮮や中国の体制は近代東アジアの歴史、そこにおける戦争ぬきにはありえない。しかし、北朝鮮、そして中国には、すでに病理が病理とはいえないような巨大な問題に広がっているということは別のレヴェルの問題である。これを東アジアの長い歴史のなかで考えることが必要であろうと思う。

 そのとき、日本の「古代国家」が全体主義であったということは、歴史理論上、欠くことはできない論点であると、私は思う。

 さて、これも古い証文を出すようであるが、下記は、早川二郎のいったこと。


「土地国有、アジア的官人などなどをもついわゆる『アジア的封建制』は、この貢納関係における征服者被征服者の共同体的関係がいつとはなしに静かに消滅して、一定地方から他の全地方への支配の形骸だけが残った時にみられるものである。とはいえそこに共同体的遺制は鞏固に保存されるのが普通である」(早川二郎「いわゆる東洋史における『奴隷所有者的構成の欠如』をいかに説明すべきか」1935『唯物論研究』)


 早川は『アジア的封建制』という訳であるが、これは私のいう「国家的貢納制」と同じことである。


飛鳥時代のメモ

 飛鳥時代という時代区分にはいくつかの考え方があるが、ここでは仏教の伝来した6世紀中ごろ(宣化・欽明朝)から「大化改新」のころまでとする。ただ、ここでは、この時期の王統の祖であった大王継体の登場の事情から説明することにしたい。
 応神・仁徳の直系の王統は、最後の武烈が子どものないままに死去し、それまでの激しい内部闘争もあって係累の男子もなく断絶してしまった。継体は越前にいたが、応神の五代の子孫で、皇親氏族の息長氏を出自としていた。継体のノミネートは息長氏が雄略のころから大王と姻戚関係にあったことに原因があったとされている。しかし、507年に即位したものの、継体の王宮は長く山城にあって、ヤマトに入らず、また子どもの安閑・宣化・欽明の間での王位をめぐる政争も推定されている。雄略の即位(465年)から、欽明の即位の540年ころまですでに80年近く王権は、内部争いと不安定な情勢のなかにいたのである。
 これに対して、欽明は30年の在位をまっとうし、男子の敏達・用明・崇峻、女子の推古をあわせると、この父子5人の天皇が約90年のあいだ王位をしめ続けたことになる。このころ王位は出来る限り血の濃い近親婚によって生まれ、成人している皇子が継承する原則があった*2。これが政治史の理解の基礎となるが、欽明の後継は欽明と兄宣化の娘のあいだに生まれた敏達。敏達の後は敏達と異母妹の推古との間の子、竹田皇子となるはずであった。用明・推古・崇峻は欽明と蘇我稲目の二人の娘との間にうまれていたから、竹田が成人するまでの中継ぎであったことになる。ところが、その間に竹田が夭折し、代わりに正統とされたのは、用明と妹の穴穂部皇女(母は蘇我稲目の娘)の間の兄妹婚でうまれた聖徳太子。
 用明の母は蘇我稲目の姉娘、穴穂部皇女の母はその妹という形で蘇我の血が二重に入っているが、当時の王位継承原則からすると、聖徳太子こそがもっとも純血となることは明かである。問題は、これに怒った崇峻が退位を肯んぜず、蘇我馬子が崇峻を殺害したことであった。しかし、これは聖徳につらなる王位継承原則を乱した訳ではない。事態収拾のために推古が即位したのも自然なことで、推古にとっては太子の父、用明は同母の兄、太子の母は母を姉妹同士とする異母妹という密接な関係である。
 ところが、この太子は推古よりも早く死んでしまい、王位は結局、蘇我氏の血をうけていない敏達の孫の舒明に回ることになった。記紀は蘇我氏の悪行譚を中心にした物語を描くが、実際には、この時期は大王の権威の確立期であり、蘇我氏は欽明をささえ、部族連合国家の枠をふみでた国家システムを作り出すのに決定的な役割を果たした。その地位は、仁徳王統の姻族を代表する大和南西部の葛城地域の部族長、葛城氏の地位を奪取したもので、葛城氏は対外関係を統括していた。蘇我氏は、5世紀の渡来系氏族のボスとして台頭した新興氏族(あるいは蘇我氏自身が渡来系ではないかともいわれる)であったから、葛城氏から朝鮮との窓口の役割を奪ったことは決定的な意味があったのである。
 この時代、6世紀の中国の北部は4世紀末に五胡十六国時代をおわらせた北魏が繁栄していた時代である。北魏は鮮卑族拓跋部の部族の連合国家であったが、すでに部族連合国家の枠をでて、法と官僚機構をもって華北を支配する大国に成長していた。また南部はインドから西来した達磨に法を聴いたことで知られる梁の武帝が治国の実を挙げていた時代である。内紛と分裂にも関わらず、中国の富強が目立ち始めた時代であるということができる。そして、その圧力の中で、朝鮮では高句麗・新羅・百済の三つどもえの死闘が繰り返されていたが、その中で加耶は新羅に最終的に併呑された(562年)。この中で、百済が倭を利用する戦術をとり、これが倭の加耶の権益を主張する名目に一致して、百済=倭の軍事同盟が形成される。
 そもそも継体は出身氏族の息長氏が渡来系に近い関係もあって百済勢力と強い関係をもっており、それが擁立の一つの条件であったともいわれる。そして、いわゆる仏教公伝、538年(元興寺縁起)あるいは552年(『日本書紀』)に百済から仏像や経論が贈られた前提にもこの同盟があった。それを主導したのは蘇我氏とその下の渡来系氏族であって、それは結局、蘇我氏による法興寺(飛鳥寺、588年造営開始)、聖徳太子による法隆寺(607年竣工)の造営に結果する。百済と倭の軍事同盟は、仏教を国教とする文化的同盟をも意味することになったのである*1。それを象徴するのが、敏達を最後にして前方後円墳の形式の王陵が終了したことであろう。以後も殯は行われたが、これは神話をイデオロギーとした部族連合国家からの転換を意味している。
 百済の大きな影響の下、こうしてヤマト王権は「文明」国家に転換したのである。社会構造の側面で、その初発を決めたのは、527年、継体が百済に援軍を送ろうとした際に、それに反対した筑紫の族長、磐井を討伐した事件である。これは明瞭な地域国家の抑圧である。王権は、これを御手本にして各地域の首長を王・国主ではなく、「国造」に性格換えしていく。「ミヤツコ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤッコ」(奴)の意味である。そして、磐井の領地は糟屋屯倉(ミヤケ)として没収される。「ミヤケ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤケ」(家)という意味であって、これが東国をふくめた全国に波及し、従来の首長居館のもっていた収納・蓄蔵・経営・交通などの機能が解体されて王権に吸収される。そして、この国造とミヤケへの編成は従来の首長の支配権内部にいた民衆を「部」の民に編成するという形で及んでいく。
 またこれに対応して朝廷のシステムも氏姓制度によって整えられた。朝廷組織をになう有力氏族のもっていた身分は「殯」によって作られる「骨」によって象徴されるのではなく、「臣・連・君」などの官人的な称号としての姓に編成替されていく。そして、そのなかで、たとえば大伴氏は「トモ」(奉仕者)を統括し、物部氏は「モノノフ」(門番など)を統括するという仕奉のあり方が位置づけられる。彼らは、おのおのの職掌におうじて、彼らは国造やミヤケのシステムに依存して、各地の部民を支配するようになっていくのである。もちろん、このようなシステムの前提となるものは氏族の始祖の神話として古くから存在したし、神話の観念自身は、これ以降も長く続くことになるが、しかし、この時代、ヤマト国家が機構による支配の方向に大きく踏み出したことは否定できないのである。その指揮を蘇我氏と文筆・計数能力をもつ渡来系氏族がとったことはいうまでもない。
 このような「文明」的国家への移行は、中国における隋(581年建国)・唐(618建国)の帝国再建の動きに影響され、同期したものである。紀元前後からのユーラシア東部における民族国家形成の動きは漢帝国を南北に分裂させたが、そのなかで多民族の融合と交流のシステムを内包する世界帝国のシステムが組み立てられた。隋も唐も、その王族が北魏の鮮卑・拓跋系の出自をもつという、以前では考えられない体制である。これによって漢にくらべて広大な領域をしめる大帝国が形成され、強大な力をユーラシアに発揮しはじめた。
 600年、推古は聖徳太子の弟を将軍として久しぶりに新羅に出兵し、同時に遣隋使を派遣する。新羅出兵は効果がなく、遣隋使も冷たくあしらわれ、王権は島国日本の思惑をこえる東アジアの動きを実感したはずである。しかし、これにつづいて607年、有名な「日出ところの天子云々」の遣隋使が派遣されるが、今度は、隋は高句麗征服の方針との関係で使者を日本に送り、日本からの留学生をうけいれた。彼らが帰国し始めたのは聖徳太子の死去(622年)の翌年。そしてしばらくすると、推古が死去して舒明が即位し(629年)、翌年には隋に交代した唐帝国への第一次遣唐使が派遣された。
 推古ー聖徳太子ー蘇我氏の枢軸から自由になった舒明の時代は、10年ほどしか続かなかったが、その晩年には留学者が続々と帰国して東アジアの状況が明瞭になっていく。この時期、舒明は勅願寺として百済大寺を建立したが(639年塔竣工)、しかし、留学者たちのなかには仏教のみでなく、儒教や法制を学んだものが多かった。こうして「文明」国家の形態を仏教のみではなく、より広く法的な国家思想にも依拠し、東アジア情勢に対応するという動きが始まる。いわば国家思想の「仏」から「法」への重点の変化である。
 このなかで蘇我氏が退場する。つまり蘇我氏は舒明が死去し、舒明の妻の皇極が即位すると、蘇我馬子の娘を母とする古人皇子に王位をまわすために聖徳太子の息子の山背皇子を殺害した(643年)。そしてそれに対して、645年、軽皇子(皇極の弟、すぐに即位して孝徳))と中大兄(舒明と皇極の子、後の天智)が逆転クーデターを起こし(乙巳の変)、古人と蘇我氏の族長・入鹿を殺害したのである。「乙巳の変」である。これを「大化改新」と呼んで国家文明化の一大画期とみる見方は、天智・天武の治世を誉めあげるというニュアンスがある。とくに6・7世紀の政治史を「蘇我氏の悪行」という見方に塗り込め、そこで進展していた国家の「文明」化を軽視してしまうのは問題が多い。「大化改新」は、実際上は蘇我氏が担った文明化の動きを別の形で引き継いだものであるというべきであろう。
 しかし、そのスタイルは「法」を基礎としていただけに、制度としてみると整ったものであった。「大化改新」が644年から始まった唐の高句麗攻撃など、激変する東アジア情勢に対峙して、「法」国家への転換を急ぐという課題を掲げたことは否定できないであろう。とくに発掘調査の結果、孝徳を中心として取り組まれた難波宮に大規模な官衙遺構がともない、発達した官僚制が構想されていたことが明かとなった。さらに大きいのは、各地でミヤケから「評」への切り替えが進み、統一的な公民支配が指向されたことである。これによって部族的な領有は国家に集中され、必要におうじて分割されて「評=郡」に平準化され、部民支配も解体された。首長は郡司となって国家機構に編成され、首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた。国家は首長を押しつぶして在地社会における下請け人にしていく。
参考文献
吉川真司『飛鳥の都』(岩波新書)

2013年12月18日 (水)

「わかんるり」とは何か。クラモチ皇子の言葉

 アニメーションの「かぐや姫の物語」で、クラモチ皇子が、蓬莱島の天女に対して「私はうかんるり」と発言したという部分があった。

 この「うかんるり」という言葉は正しくは、「わかんたふり」であるということは『かぐや姫と王権神話』で述べた通りである。それは隋書に「太子」のことをいうとでてきて、10世紀以降だと『源氏物語』にでてくる。そして、8世紀には奈良の長屋王家の木簡に「若翁」とでてくる。
 
 問題は、この「わかんとほり」=若翁という言葉の意味であるが、下記の長い文章の末尾にあるよう7に、それは「若いタフレモノ=狂者」という意味である。『字鏡集』という辞書に「翁」の読みとして「タフレヌ」があり、「タフル」は普通は「狂」と書く。「タハク(姦・淫)」「タハブル(戯)」「タハゴト」も同じ意味。

 つまり、皇子というのは、あぶない人、恣意的な行動をすることが許されている人であるという訳である。実際、『日本書紀』『古事記』に登場する皇子たちは激情的で、いわゆる「聖なる狂気」を思わせる場合が多い。

 『竹取物語』でクラモチ皇子が天女に対して「私はわかんたふり」といったというのは、いわば「俺は王子だ、何するかわからんぞ」とすごんだということであろう。

 この「わかんとほり」=若翁という言葉の語義については、私は、右の『かぐや姫と王権神話』を書いた時はわからなかった。それを知ったのは、山尾幸久『古代王権の原像』(学生社215頁、2003年)を読んでのことである。山尾さんの仕事はむかしはよく読み、『黄金国家』を書いた時も遣唐使論は前提とした。しかし、さすがに7世紀以前についての山尾さんの仕事を読むことは、最近はなかった。そのために見のがしたのである。

 さて、以下は、最近やっている「通史のためのメモ」の古墳時代編である。

③古墳時代
 古墳時代とはヤマトに政治センターが遷って、古墳が盛んに作られた時代をいう。その最初の中心は伊勢を通れば東国にも近い、奈良盆地東南のヤマト纏向の地であった。箸墓が卑弥呼の墓であったかどうかなどの詳細については学説はまだ一致をみていないが、纏向の成立は卑弥呼共立の時期に近い、3世紀初頭であり、そこあった権力は近畿地方、中国地方(北の出雲と瀬戸内の吉備)、四国などの諸勢力の連合に基礎をおき、その中でも(前方後円墳の原型が生まれた)吉備の位置が大きかったことは確実である。
 『魏志倭人伝』によれば卑弥呼は伊都国に「一大率」をおいて北九州を支配し外交を統括した*1。これに対して、東国の部族連合が畿内中心の枠組の外にいたことは、卑弥呼の死去(248年)直前に狗奴国(遠江の久努、あるいは濃尾地方という)と紛争を起こしたことに示されている。ヤマトはこのように列島の中央部という地政学的な位置によって卑弥呼共立の場となったのである。こうして縄文時代の東国、弥生時代の九州にひきつづいて、列島史上はじめての国家、畿内中心の西国国家が生まれた。そこには神殿都市(アクロポリス)が形成され、前方後円墳のならぶ王墓域(ネクロポリス)が生まれた。前方後円墳の形は中国思想(天円地方説、壺型説など)に関係するもので、古墳の形や大きさは葬られた首長の身分を表現している。骨のことをカバネと読むことに注目して、氏姓の「姓」とは本来は「骨」の高貴さのランクを意味するという古くからの考え方をとれば、死者は「殯」によって白骨化し、特定の古墳に葬られることによって身分をあたえられたことになる。
 なお「辛亥年」(471年)の稲荷山鉄剣に「オホヒコ」が登場していることによって、5世紀に伝承されていた王統譜に崇神がふくまれていた可能性が高くなった。「ハツクニシラス」(初代の大王)を崇神とする伝承もあった可能性がある。しかし、これはまずは神話の問題である。『古事記』『日本書紀』が、崇神が神を崇め(祭祀制度を創始)、景行が倭建命を初めとする皇子を全国に派遣し、成務が地方制度を作り(国造設置)、仲哀・神功・応神が朝鮮半島を服従させ(帝国形成)、それらをすべてふまえて仁徳が善政を敷いた(国制理念)という形で全国統一の過程を物語るのはそのまま史実とすることはできない。五世紀以前の実態は、記紀をそのまま史料とすることはできないという津田左右吉以来の見解は依然として生きている。
 なお、古墳が全国に広まったことをヤマト王権の全国統一の証拠とする考え方も問題が多い。古墳は身分的な要素をもつとしても、それ自体は葬送の儀礼や神話の表現であるから、それを直接に統一国家の制度表現とすることはむずかしい。少なくとも5世紀までのヤマト王権は「部族連合国家」(United Cheefdom)の枠組のなかにあった。西国国家という枠組のなかで、吉備・出雲・肥(九州)などの地域の部族国家は相当の自律性をもっていた。ヤマトの優位性の相当部分は、その地政学的な位置に支えられて、九州を押さえ、東国に対抗する地域連合の動きを代表している点にあったのである。
 このような政治や列島の地帯構造の激変に対応して、社会構造は大きく変化した。纏向には政治都市(神殿都市)が形成され、外交文書の作成、倉庫や貢納の管理などの実務がとられたことは確実で、詳細は不明なものの、公共的な仕事も行われたはずである。古墳の造営は徭役によったことはいうまでもない。軍事・警察の組織もあったであろう。また鉄製品その他の物流は畿内中心にまわりはじめている。こうして西国国家の中枢にいた各地域の支配層が纏向に集まっていたことは、各地の土器などが纏向から発掘されたことに示されている。
 社会構造の変化でもっとも大きいのは、弥生時代を通じて続いた環状集落が解体し、その中から方形の首長居館が分離したことである。首長居館には畿内製の土器の出土が多く、また前方後円墳の地方普及とともに出現する例があることは、ヤマト王権の成立によって地方社会がうけた影響を物語っている。各地の首長は居館を立てるとともに環濠を埋めたのではないかといわれている。彼らは明瞭に階級的な支配者に変貌したのである。そこでは首長に私的に隷属する人々も生まれていたが、中心は首長が下位の共同体を代表して支配する首長制の社会構造にあったといえよう。支配者は、小さな村、大きな村、部族、さらには部族連合というように重層する集団のシステムの上に大きな権力を確保するに到っていたのである。
 さて、漢帝国の滅亡後、220年頃、魏・蜀・呉が相次いで帝位を立て三国時代がはじまり、約60年後、魏の権臣・司馬懿にはじまる(西)晋によって統一される。しかし、西晋は311年、匈奴によって滅ぼされ、中国は大分裂の時期に入る。華北では五胡十六国の時代が始まり、江南では晋の王族が東晋を建国する。宋・梁とつづく南朝である。これに対して、朝鮮では高句麗が、4世紀初頭、楽浪郡を最終的に滅ぼした。以降、中国は朝鮮半島以東を直接統治できなくなる。そして高句麗の動きに刺激されて、朝鮮半島南部の馬韓から百済、辰韓から新羅が登場し、弁韓は北九州との深い関係を維持したまま加耶に再編成される。中国および北辺諸民族と地続きのためもあって特有の困難をもっていた朝鮮においても「民族」の形成が必然となったのである。
 朝鮮諸国の競合のなかで、391年、加耶と密接な関係をもっていた倭が朝鮮に出兵する状況も生まれた(広開土王碑文)。これは朝鮮南部(とくに加耶地域)と九州の多島海地域における伝統的な部族的な関係に根付いたものであったが、すでにそれは権益化しており、倭国はその維持に必死であった。実際に王権の意向の下で多くの倭人が加耶・百済に渡っており、最近、彼らの墓所として、5世紀末から6世紀初頭には百済に前方後円墳が築造されている。倭人のなかには、百済王権に組織され、その官人・軍人となって倭王権への二重所属になったものも多かった。そして、倭は、5世紀に南朝の宋に何度も遣使し、朝鮮半島に対する影響を担保しようとした。『宋書』に登場する倭王は五人。そのうち「讃」「珍」の兄弟については履中・反正である可能性があり(異説あり)、「済」とその子「興」「武」については允恭、安康、雄略とされている。彼らは5世紀の前半から後半まで13回に上る使者を派遣し、大将軍・倭国王と将軍号をもって冊封されたが、しかし、宋は倭に何の言質もあたえようとしなかった。
 むしろ、この遣使で重要なのは、倭王が将軍・郡大守などの称号を王族や臣下に仮授することを承認されたことである。これは称号の色彩が強いが、稲荷山鉄剣によれば雄略(ワカタケル)の時代に「杖刀人」という軍人身分が生まれていた。ヤマト王権の中に一種の国家組織が生まれていたのである。これを「人」制というが、その一部は朝廷につかえる手工業者を「手人」というなど8世紀までつづいた。また倭王・讃の使者に「司馬曹達」という人物がいたが、これは軍府の軍人の称号(「司馬」)をもつ中国系の渡来人名(「曹」)を示している。
 また、5世紀は、高句麗戦などの結果、従来から深い関係をもっていた朝鮮の人々が亡命・移住してきた時代である。これは、いわば日本の歴史のなかでの最初の対外戦争太りといえる。倭王権は、彼らを動員して河内平野を開発した。灌漑水路の設計、韓式の硬質土器の製作、金工技術など、はじめての本格的な手工業の導入である。有名な騎馬民族国家説は、このとき馬・馬具が入ってきたことを騎馬民族の移動と誤解したものである。河内には応神・仁徳などの大王のものと伝承される大古墳群が形成されたが、それは渡来系の人々を河内の開発に動員することと一体の事業であった。
 こうして、倭国は奈良盆地の四周のみでなく、奈良盆地の入口・玄関にあたる河内に王墓域を突出させて、国家の偉容を示そうとした。このなかで、王権が部族連合国家から脱却する方向に進もうとしたことは疑いない。倭王「武」(雄略、在位465~489?)がその中国への上表文で「治天下」の理念を述べるのは主観の側面が強いとはいえ、それを反映している。記紀の伝えるこの時期の王権の内部闘争ははげしいもので、このころに皇子のことを「わかみたふり」というようになった。それは「若いタフレモノ=狂者」という意味であるから、いわば皇子が恣意的な行動をすることが許される時代がやってきたのである。実際、そのまま事実とすることはできないとしても、允恭の後継を廻る混乱、即位した安康の乱政と弟雄略との不仲、安康の後継と目された市辺押磐皇子の雄略による殺害などなど、そのような事例は枚挙にいとまがない。同時代の中国の諸王朝においても、その内部闘争や乱倫はすさまじく、この時期の国家の要件なのかとさえ思えるものである。
 しかし、5世紀の倭王権の基本的な性格は、依然としてヤマトの部族や筑紫・吉備・出雲・紀などの同盟にもとづく連合国家であったというべきであろう*1。ヤマト王権はむしろ、この内部闘争の経験をへて、徐々に国家的な機構を発展させていったのである。
参考文献
白石太一郎『古墳とヤマト政権』
広瀬和雄『前方後円墳の世界』
都出比呂志『古代国家はいつ成立したか
熊谷公男『大王から天皇へ』(『日本の歴史3』講談社)
鈴木靖民『倭国と東アジア』(『日本の時代史2』吉川弘文館)

2013年12月17日 (火)

tsuushi10室町時代

 これは通史の室町時代分。
 ここからは本当は、峰岸純夫・藤木久志の両氏の仕事を読み込み、安良城盛昭批判をしておかないとまとまりがつかないのではあるが、ともかく中間報告である。

⑩室町時代
政治史の考え方
 南北朝の併立は、1392年、尊氏の孫にあたる第3代将軍足利義満の調停によって終息した。内紛を自力でさばけなかった王家の権威は低落し、「覇王」足利氏に「旧王」として戴かれると同時に保護される存在となったのである*1。もちろん、義満は天皇にとって代わったのではない。室町殿は「治天の務=政務」を担当する「院」として公家を含む国家機構を領導する役割を担ったのであって、その意味では天皇を形式上の君主として政務は院が握るという院政以来の王権の形式は維持されたのである。こうして、武臣国家において「旧王ー覇王」の二つの王権が並立するという、以降、江戸時代まで続く体制が確立したのである。なお、足利氏が後醍醐の敷いた禅宗国家の路線を採用したことも重要で、これによって室町殿は聖武天皇以来の仏教国家という国制を維持し、禅宗の大檀越として王権を領導するという立場から天皇王権の名分を吸収したのである。
 この南北朝終息期のころから西国守護の家柄はほぼ固定し、しかも島津・大友(九州)、大内(北九州・中国西部)、細川(四国・中国東部)、山名(山陰)、斯波(北陸)、今川(東海)のような隣接地帯を押さえる場合や、あるいは能登・紀伊・日向の畠山のように離れた地域を押さえるかの違いはあっても、複数領国をおさえる広域守護の権力が安定するようになる。これは平安時代以来の広域支配システムの成熟の上にできあがった体制であったということができる*2。室町殿は畿内近国を強力に支配して、このような広域守護の上に聳え立ったのである。さらに室町殿が九州探題を設置して、九州を支配し、さらに西国を代表して関東公方を押さえ込むことを機軸的な戦略としていたが、ここにも室町期国家が広域権力の相互バランスの上にたっていた事情が明らかである。
 しかし、このような体制は将軍の代替りや実力・軍事力のバランスの失調によってしばしば危機におちいり、そのため室町時代の政治史は、そこに由来する政変や戦闘の連続となった。それでも尊氏→義詮→義満→義持までは将軍の軍事指揮権は強力であった。しかし義持が後継者を決めないままに死去し、それに称光天皇の死去が重なって二重の代替りとなったとき、「日本開闢以来」といわれた大土一揆が代替徳政を求めて蜂起した(1428年、正長の土一揆)。そして、その後をうけた弟の義教は専制に走って、鎌倉公方を自殺に追い込み、さらに有力守護家の家督継承に乱暴に介入した。これに恐怖した播磨・備前などの守護、赤松氏が義教を謀殺するや(1441年、嘉吉の変)、ふたたび代替りの嘉吉の土一揆が発生したのである。東国・西国の争い、広域権力相互の争いの中での大規模な民衆的運動の高揚によって、幕府は一挙に危機の時代に入ったのである。
東アジア世界
 明は、成立後すぐに日本に対して国書を送り、中国沿岸に対しても侵攻するようになっていた倭寇の禁圧を求めた。その背景には、元の崩壊時に、洪武帝(朱元璋)と同じように反乱を起こした諸勢力が、明建後にも明に従わず、倭寇と行動をともにしていたという事情があった。倭寇の行動は明が「海禁」政策をとる最大の理由の一つであったのである。日本・朝鮮・琉球・中国の境界地帯から南海にまでおよぶ倭寇の問題は東アジア世界にとって決定的に重要な問題であった。
 もちろん、明は南宋・モンゴルの展開した世界的な交易体制を前提とした貿易政策をとった。これは史上初めて中国南部から興起した帝国・明にとっての重要な権力基盤であったのである。しかし、それは朝貢貿易など以外は、禁制の対象とする特権的・閉鎖的な貿易関係であった。華僑たちは、東南アジアからインドネシアにかけて広がっていた港市のネットワークに食い込み、あるいは華僑街を作り出していたが、明にとっては、朝貢貿易などを拡大するという形で、そのような貿易関係を国家的な統御の下におくことが重要であったのである。
 対外交通の窓口、大宰府は、このころ南朝の南朝方の懐良親王であったために、懐良が明の国書をうけとり、「日本国王」として冊封された。もちろん、懐良は室町幕府の九州探題によってすぐに大宰府を追われたが、これは対外関係が政治に及ぼす影響を実感させた。実際、明の洪武帝は義満を陪臣であるとして冊封することを拒否し、義満が明と冊封関係を結ぶことに成功して「日本国王」の地位を承認されるのは1402年、孫の建文帝の時代まで遅れたのである。しかし、南朝を併呑し「院」の立場に立った室町殿にとっては、これが覇王の実質を宣言するものであったことは明らかである。日明貿易の利益も無視できないものであったことはいうまでもない。
 また明王朝は、宋学の本場、江南から出自した明王朝は朱子学を国教としていたが、朝鮮王朝は、これをうけて朱子学を国教とした。これに対して日本が禅宗国家、仏教国家という形式を維持したことは、後の時代に大きな影響をあたえた。公家貴族からは中国皇帝から冊封をうけることについては非難があったが、重要なのは、このとき義満はすでに出家しており、かつ外交関係の実務をとったのが、相国寺などの五山の禅僧であったことである。これは太政官などの宮廷国家機構の外側で室町殿の下で外交関係を統括するというほとんど抵抗しがたい方策がとられたことを意味する。この点でも室町幕府は禅宗国家の体裁をとったことは巧妙であったというべきであろう。
社会構造の考え方
 政治の不安定にもかかわらず、京都を中心とした庄園制的な経済はきわめて活発であった。それは都市的な産業社会の成熟あるいは爛熟ともいえるような様相をみせている。しかし、その中で、15世紀、新しい様相が現れた。庄園年貢輸送を担っていた中央向け航路の港町の没落、貨幣信用システムの激変(地域ごとに銭の撰銭の仕方が異なるようになり、また中央向けの替銭が機能しなくなる)、比叡山などの中央寺社の神人らの商工業支配の終焉などの事態である。これは庄園制的な求心的な経済構造が大きくシフトして、広域守護の勢力圏に対応するような広域経済が自律的に発展していったことを意味する。
 それを支えたのは大鋸、大桶などの木工技術、金屋(鋳物師・鍛冶)の発達、木綿生産の開始、入り浜式塩田の開拓などの様々な技術と分業の発達があった。市町の分布はさらに稠密なものとなっていき、職種ごとにきわめて細分された職人の座が発展している。そして鋳物師の一国営業圏を守護が保証するような動きに明らかなように、社会的な分業の発展を前提として、一国あるいは複数国の単位での営業のネットワークが発展していった。
 他方、考古学的な発掘の成果から、農山村においては、だいたい15世紀に、村落がなかば恒久的に現在に続く場に立地するようになったことが想定されている。これにともなって、有力な地主・農民たちが構成する惣村が隣接する惣村とある場合は連合し、ある場合は対立する諸関係を広げていった。もちろん、国・郡・郷というような国内部の統括関係は残ったのであるが、惣村が主体的な単位となって、国堺にとらわれない広域的な関係がひろがっていた。各地で戦争が続き、また室町時代に気候の冷涼化とともにしばしば飢饉が発生したことも重要である。このなかで、村々は京都との庄園制的な関係に集約されないような広域的なネットワークを広げ、その中での自己の地域的な利害を意識していった。
参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』(悠思社1994年)
村井章介『分裂する王権と社会』(『日本の中世』)
榎原雅治編『一揆の時代』吉川弘文館 


2013年12月16日 (月)

tsuushi2弥生時代の通史

 地震・火山論をつめることが必要になって、自分のできる奈良・平安をいちおう見込みをつけたので、神話論を考えなければならなくなった。その関係で徐々に仕事が過去へ過去へとさかのぼった。

弥生時代が500年遡ったことをどう考えるかという問題である。弥生時代というと、鉄器ということがいえなくなった。弥生時代が300年から500年と考えられていた時代より、弥生時代の動きがゆっくりしてきたことになる。これは歴史像にとっては大きな変化であることを実感した。

 また昨年、教科書を考える会の場で通史について意見をいったことの影響も大きい。

 縄文時代・弥生時代の勉強をしようとは、以前は夢にも考えていなかったが、こういうことで弥生時代論である。寺沢薫さんの仕事をまとめただけかもしれないが、ともかくこの線でメモをためていく予定。


②弥生時代
 弥生時代の開始はこれまで土器編年などの作業によって前5世紀から前3世紀ごろと考えられてきた。しかし、土器の煮焦げなどの微量炭素(C14)を素材とした加速器による年代測定(AMS)によって、九州北部では前10世紀後半に水田稲作が始まったという結果が出た。水田稲作が弥生時代の指標であることはいうまでもなく、これによって弥生時代は全体で1100年弱の長さをもち、早期、前期(紀元前8世紀から)、中期(紀元前4世紀初頭から)、後期(紀元前1世紀末から2世紀末)に区分されるという意見が強くなっている(なおAMSによる年代の見直しが縄文文化論にどう影響するかはまだ考古学界でも一致点がない)。
 このような弥生時代の開始時期の変更によって、東アジア規模での水田耕作の拡大の年代観が可能になった。水田稲作と弥生文化は朝鮮半島南部から北九州に伝わってきたものであるが、朝鮮における水田農耕の開始は、中国に殷が形成(BC17世紀頃)されたことの影響にまでさかのぼる。この農耕の波及はゆっくりとしたものであるが、殷が崩壊し、西周が形成された紀元前1000年のころは、いわゆるヤンガー・ドリアス期の寒冷期にあたる。そもそもこの時代に「日本」「朝鮮」という民族も国境もある訳ではなく、北九州と朝鮮半島は日常的な交流とネットワークの下にあったが、気候の寒冷化は、その中でより適した気候と立地の九州を選択させたという。また日本の弥生式土器が朝鮮の無文土器と基本的に同じもので、弥生土器が朝鮮南部で発見されていることも、朝鮮半島南部と北九州地域が一体的な関係にあったことを示している。そして、朝鮮半島の無文土器に付着したC14の加速器による分析は弥生式土器と同じ結果がでている。
 なお、弥生時代の開始のBC10世紀後半といえば中国では西周がはじまってしばらくしての時代である。そして、それに続く春秋時代は紀元前8世紀前半から同5世紀後半頃までで、ここまでは青銅器時代に分類されている。そして鉄器時代といわれる戦国時代は、5世紀後半にはじまって紀元前3世紀末までである。それ故に、弥生時代のほとんどが、中国史でいえば春秋戦国時代にあたり、また弥生時代の前半は日本では実際上は「石器時代」であったということになる。
 これは学説の大きな変化であるが、しかし、弥生時代が東アジア文明の本格的な影響の下に列島ジャパネシアがはじめてさらされた時代であるという従来のイメージは変わらない。この時代こそ、中国において本格的な文字の利用にもとづく法文明、自然と人間の支配が開始された時期であった。水田稲作は前者の自然支配であるとすれば、後者を意味するのが、銅剣・銅矛などの武器と軍事防衛の機能をもった環濠のセットであろう。
 もちろん、「文明」の意味のすべてを否定することはできないが、文明の辺境にあった平和なBarbarisum地域にとっては、自然を支配する灌漑技術と人間を支配する暴力がセットになって入ってきたは肯定的な影響のみではなかったろいう。とはいっても、弥生時代の始まりが500年も遡ったことは、この時代の歴史の動きが、従来考えられていたよりも、ゆっくりしたものであって、縄文文化からの継承と融合にも長い時間がかかったことを意味する。縄文時代後期の西国は柔軟で開放的な社会システムをとっていたにも関わらず、弥生式土器を代表する北九州の遠賀川式土器が伊勢湾周辺に到達するのに2・300年もかかったのである。
 しかし、このなかで、縄文時代に芽生えていた地域性、部族的な諸関係はさらに明瞭になっていった。彼らはおのおの異なる定住・移住の経緯にそくして祖先意識(リネージ)をもって部族を構成していく。たとえば、山口県土井が浜遺跡の墓に埋められた相当数の人骨の人種的な特質は、移住の初期から不変で、それは、朝鮮の故地から、何波にも渡り、世代を越えて、人々がやってきたことを示しているという。縄文時代から引き継いだ部族的な関係は、弥生文化にともなう他者の部族意識によってさらに強化されたであろう。たとえば、伊勢湾を東にこえた三河においては、西からの移住者との遭遇にの局面では、部族と部族のあいだでの殺し合いをともなう軋轢も想定されている。弥生中期から始まる銅矛・銅鐸などの青銅器祭祀は、朝鮮半島に由来するものであるが、それをあつかうシャーマン(神懸かり呪能者)によって部族意識はさらに拡張されたはずである*1。
 弥生時代における部族的な関係は、水田・畑作などの農業的な関係にもとづく拠点ー周辺集落を単位として組み上がっていた。これは水田農耕の普及とともに全国に広がり、弥生時代を通じて維持されていく。拠点集落の代表的なスタイルは内外に二重の濠をもつ環濠集落で、徐々に、内区には指導層、外区には一般の人々など、居住区の階層編成をもつようになる点で縄文の馬蹄形集落とは異なるものである。縄文時代よりも社会の階層化がさらに進展したことは疑いない。もちろん、環濠は集落の自衛とともに灌漑水路の設定と関係しており、共同体の共同労働を象徴するものであった。集落が大規模化した場合は、集団性・共同性の内側に対立が内蔵され、首長が継続的に存在するようになっており、このような集落においては素朴な共同労働はすでに存在しない。その協業の規模が広い大型水田となるのは(従来考えられていたのとは相違して)例外的なもので、低湿の適地をえらび必要な場合は田植えも行うような集約的な個別水田経営による部分が大きかった。縄文時代以来の個別化の動きは根強く、畑作や森林利用、狩猟・採集もあわせて、人々は複合的な生活様式の中にいたのである。
 弥生時代の中期に入るころ、中国は戦国時代に突入する。「倭は燕に属す」と『山海経』(海内経)にあることからして、そのころ倭は中国東北部の広い領域にあった戦国七雄の一つ、燕につながる地域として知られていた。倭は燕の南部の環渤海・黄海地域という歴史的世界のさらに辺境にあって、朝鮮南部と北九州が一つのネットワークを通じて東アジアに接していたことになる。
 燕は前3世紀末、戦国時代の終了とともに秦によって滅ぼされるが、そのとき多くの避難民が朝鮮に逃れ、朝鮮に存在していた「古朝鮮(実態は不明であるが「箕子朝鮮」と伝承される)」は、その中で動乱の時期に入り、結局、前2世紀初め、燕国の亡命者衛満によって衛氏朝鮮が建国された。しかし、BC206年に成立した漢帝国は、BC108年、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置した。
 以上のような東アジアの動乱とともに起きた人々の大規模な移動が、弥生時代中期の倭国にも戦争状態をもたらす。弥生文化の開始は大陸からの武器の流入をともなっていたが、人骨に戦争の痕跡が目立つようになるのは、弥生中期、BC4世紀ころからで、とくに北九州に多い。そしてBC3世紀からBC2世紀になると瀬戸内東部や大阪平野でも犠牲者が増える。こうして戦争とその準備体制が従来の部族相互の関係を緊張させ、列島の交通・交流関係を密接化し、一挙に部族相互の上下関係を作り出されていった。そしてBC1世紀後半から1世紀前半ころ、瀬戸内・近畿に大型石製武具をそなえた高地性集落が確認されるが、これは九州と畿内のあいだでの軍事的な緊張を表現している。
 『前漢書』地理志の「燕地」に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来たり献見す」とあるのは、紀元前1世紀半ばに、部族がすでに「国」と呼ばれるような実態をもち、国家形成の初期段階に入っていたことを示している。それを象徴するのが、AD57年の「奴国金印」の授与、そして107年の倭国王師升(伊都国王)などによる生口(奴隷)の献上記事である(『後漢書』)。大陸との窓口に存在し、朝鮮半島に産出する鉄の輸入をほぼ独占していた北九州の位置はきわめて大きかった。初期的な国家はまず北九州に成立したのである。
 しかし、2世紀半ば、奴国・伊都国を支えていた漢帝国ー楽浪郡の体制が、黒竜江流域の扶余から起こった高句麗などの反乱に直面し、さらに漢自身が、黄巾の乱によって没落していき、もとの燕の地では遼東大守公孫氏が王位を称し、50年ほど覇権を握る。このような漢帝国の崩壊に対応するように、「倭国大乱」といわれる状況が生まれたのである(『後漢書』)*1。この時期にも瀬戸内から近畿にかけて高地性集落が顕著になる。
 こうしたなかで、3世紀初頭(200年頃)、倭国の女王・卑弥呼が「共立」されたのである。『魏志倭人伝』(三世紀後半の成立)には「その国、本亦男子をもって王となし、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」とある。卑弥呼がどこで即位したかについては周知の論争があるが、ここでは、すぐに述べる最近の纏向の発掘成果と整合させるために、ヤマトで即位したとして説明をしておきたい。
 彼らは伊都国と関係あった楽浪郡から離れて公孫氏に属した。しかし、220年、魏が漢帝国を最終的にほろぼし、さらに公孫氏を滅ぼすと、その翌年、卑弥呼は魏に使者を派遣して、239年「親魏倭王」に補任された(『魏志倭人伝』)。従来、奴国・伊都国などの北九州の国々は、弥生文化の故地である朝鮮半島、とくにその南部との強い関係を維持し、鉄器や先進知識の輸入を主導していた。邪馬台国論争はまだ決着してないが、いずれにしても、この時期以降、列島の外交の主導権が、九州から近畿地方に移動したことは確実である*1。
参考文献*2
寺沢薫『王権誕生』
山尾幸久『古代王権の原像』(学生社)
藤尾ほか「弥生時代の開始年代」(『総研大文化科学研究』創刊号2005年)

2013年12月15日 (日)

縄文時代の通史

 昨日は、日本通史のメモを古墳時代の分まで仕上げて、夕方から自転車。以前通れた谷戸の道が通れなくなっていた。私のいる千葉市の近郊でもっとも長い谷戸の道。谷の河の上にコンクリート板がおいてあるという道で、開発されている途中ではあったが、よい道であった。住宅が建てられる。残された緑地帯のなかで、そういう状況にある場所がふえている。緑地帯を意識的に残す都市計画をする最後の機会が失われていっているのではないかと思う。

 薄暗くなってから、複合施設の銭湯にまわる。コーヒーを飲んで、そこの食堂で一時間ほど仕事。これはいいやり方をみつけたと喜んでいる。いざとなれば電源もある。
 
 飛鳥時代の通史に取り組むがうまくいかない。風呂に入って、背中にジェット水流をあてて、そのあと揉んでもらう。身体だけを意識した1時間。夜寝ていて、身体があつい。こういうことをやった方がよさそうである。飛鳥時代のメモが順調に進めばもっとよかったのだが。

 以下は、縄文時代のメモ。明日は弥生のメモ。あさっては古墳時代のメモをあげる。それにうまく飛鳥が続くかどうか。

 なお、Savagery、Wildnessを野生と訳し、Barbarismを異文明と訳すべきであるという持論も書いてある。野蛮はないだろう。そして野蛮・未開というのでは、どこが違うかわからない。これは人類学の祖、ルイス・モルガンの段階にもどって正確に考えるべきことだと思う。
 
 
①縄文時代
 猿人の発生はだいたい500万年前、そしてこの猿人が原人にまで進化したのはだいたい200万年前とされる。ただし、現生人類(新人)の直接の祖先はおよそ5万年前にアフリカを出て世界に広がった。その痕跡は、日本列島でも約3・4万年前に始まった後期旧石器時代に確認される。アフリカを出た人類が相当のスピードでユーラシアの端まで到達したのである。このような世界中への拡散は、まだ野性(Savagery、Wildness)の強さと柔軟性をもっていた人類しか担えなかった課題であったといえる。またそのような移動とフロンティアの存在こそが、他のサル類のもつボス社会、序列社会のあり方とは相違する人類の自由さの重要な条件であった。この中で、人間は人間としての身体・神経組織の錬磨を果たしたのである。
 そして、約13000年前に氷河期が終わると、人類は「文化」をもちはじめる。新石器時代の開始である。当時の生業システムと移動能力の限界のなかで、人口が、局地的にであれ、いわば初期的な飽和状態に達したのであろうか、人類は定住を開始して、居住環境に永続的な変化をもたらすようになる。労働と技術の体系化が進み、農耕や牧畜などの生業システムが生み出されていったのである。それは野生の自由を制約していくことでもあったが、平等と自由の習慣は強く残っており、他方で徐々に進む人間の個性の発達は、人間のなかに社会と個人の矛盾を芽生えさせる。現在とは相当に異なる文明(Barbarism、しばしば未開と訳されるが本来は理解不能の言葉、バルバロイの意)であるとはいえ、これこそが文化の基であり、それは彼らがもちはじめた原始的な宗教にも反映していく。
 新石器時代は、スタイルの相違や時期の前後はあるものの、ユーラシア中央部と辺境の列島ジャパネシアでも、ほぼ同じ時期に始まった。つまり縄文時代の開始である。彼らの作った土器が有名な縄文土器であることはいうまでもない。なお、縄文式土器について、これが世界でもっとも古いということを無限定に強調するような傾向もあったが、土器が古くから作られたのは東アジアの特徴として検討を進めなければならない。
 ここでは縄文時代を草創期(BC13000-9000)、早期(BC9000-5000)、前期(BC5000-3500)、中期(BC3500-2500)、後期(BC2500-1200)、晩期(1200-800)と区分する説によって説明するが、先頭を切ったのは南九州の人々であった。彼らは土器や石斧などをもち、成熟した生業戦略をもって採集や狩猟にもとづく定住生活を営なんでいた。彼らの生活は、琉球弧から台湾、フィリピン、インドネシアにつらなる南海の民をルーツとしていたことは疑いがない。それは南九州の鬼界カルデラや桜島の大噴火にともなう大火砕流によって、ほとんど中絶というべき被害をうけたが、その文化は、すでに太平洋岸にそって影響を広げていた。
 これは、この時期がちょうど温暖期であったことにもささえられていたが、草創期の後半(BC11000-9000)はヤンガー・ドリアス期といわれる世界共通の冷涼期となった。世界的には、この冷涼期の中で農耕が準備され、冷涼期がすぎるとともに生産諸力のスパートが起きたが、きわめて豊かな列島の自然のなかで、すぐに農耕への道をたどる必要はないまま、縄文時代は、早期から前期の極盛期に入る。北方ではシベリア・樺太方面との関係の影響が及んでおり、漁撈・狩猟が豊かに発達し、東北では山内丸山遺跡で有名になったようにクリの栽培まで行われていた。そして、関東地方に下れば、落葉広葉樹林の豊かな堅果類と狩猟・漁撈によってもっとも人口の集中する地帯となる。
 そこでは相当の人口をもつ大集落(環状集落ともいうが、後の弥生時代の環濠集落と区別するために別名の馬蹄形集落という用語を使う)が営まれ、人々は早くも、長期にわたる定住地を中心に労働を結集し、必要な物資は遠隔地とも交易して入手するというシステムを作り上げていた。馬蹄形集落は中央の広場をとりまいて環状に住居が配置されているが、この円形は集団性と平等の象徴である。もちろん、すでにチーフ(首長)はおり、集落を構成するより小さな単位には弱小な個人も生まれ、社会は階層化の道にあったはずである。しかし、有名な火焔式土器など縄文式土器を代表する儀礼的土器が集団生活のなかで使われたこと、馬蹄形集落中央の広場が墓地区画となっていたことなどは、この集落がその集団性に依拠して生業を維持し発展させた様子を示している。人々は結集することを支えとして環境を人間化し、定住システムを作り上げていったのである。
 この馬蹄形集落は縄文時代を象徴するものであり、それが東国にのみ分布したということは、縄文時代が東国を中心として動いていたことを示している。これに対して、西国地方は、全体として長期的な定住集落それ自体が少なく、人口は東国よりもはるかに希薄であった。鬼界カルデラの噴火が南九州の拠点集落を破壊した影響もあったろうが、さらに西国は照葉樹林帯であって、照葉樹は堅果類の食料化に不適であったという事情が大きかった(堅果がなる場合もアク抜きの手間が多い)。一時もてはやされた「照葉樹林文化論」は、この点への目配りが不足しており、現在では否定されている考え方である。そこでは温暖化のなかで繁茂して利用しにくい照葉樹林に入り込んでいくのではなく、ぎゃくに、その周縁を必要な場合は移動して効率的に利用しつつ、狩猟・漁撈と組み合わせるような柔軟な生業戦略がとられていた。また、北九州では朝鮮や済州島などとの関係の深い漁民が活動している。それは西日本に人口増をもたらす要因ではなかったとしても、西日本の流動性が高く、柔軟な社会組織のあり方に影響していたのであろう。
 しかし、縄文時代後期に入ると、極盛に達した東国の縄文文化が変動をみせるとともに、このような東西の関係と人口バランスが変化していった。つまり、縄文文化の極盛化のなかで、まずその形式的な平等の精神が宗教的な形をとっていく。その代表は東国から北海道にかけて発見されているさまざまな環状のモニュメントである。代表は秋田県鹿角市大湯遺跡などの東北地方の環状列石であって、これはイギリスのストーンサークルと同じような冬至の日出・日没を祭る仕組みである。東国で同じような例は、有名な栃木県小山市寺野東遺跡の環状盛土であって、これは日の祭りが繰り返されるなかで、その遺構が徐々に盛り土になっていったというものである。同じような遺構は北海道でも確認できるといい、またそこからみると縄文時代の馬蹄状貝塚なども同じ性格があったという。環状列石が馬蹄形集落の中央広場に列石ができてきて、それが独立していくものであったように、このような遺構モニュメントはどれも馬蹄形集落と関係するものであった。
 このモニュメントは宗教の自立、超自然的な存在の浮上を意味する。別の言い方をすれば、自然の中に人間の世界とは無縁の恐るべきものを発見し、その前では人間は平等であるという観念の浮上を意味するが、それはこのころ、同時に土偶が奇怪な精霊の姿をとりだしていくことに対応している。また、それまではいかにも縄文土器らしい儀礼的な土器が日用にも使用されていたが、このころより以降、土器が儀礼的な精製土器と粗製の日用土器に別れていくことにも関係している。つまり、儀礼や宗教の場と時間が、日常からは区別された姿を現していくのである。
 問題は、このような宗教の自立が、実際には、その地盤となった縄文時代の馬蹄形集落が消えていくなかで進んだことである。つまり、縄文時代の中期のおわり近くなると、馬蹄形集落が二・三軒から四・五軒の住居からなる小村落に分解していく傾向があらわれる。これは一つは、温暖な気候に恵まれていた縄文時代も、このころになると再び寒冷化したという条件があった。しかし、それだけでなく、本来、縄文時代の社会のなかに存在した個性が集団性を突き破って明瞭になっていったということを意味する。実際、集落が分解するだけでなく、このころから柄鏡形住居といわれる特別の住居がうまれたり、身体の携帯品・装飾品や墓の副葬品がふえるなどの個人性が目立つようになった。逆にいえば、このような個人性の伸張こそが、観念の上で、人間の集団性や平等性を象徴する呪術や宗教の世界が強調されるという傾向を招いたのである。
 ようするに、縄文時代の後期に入ると、縄文社会のなかに以前から存在した共同性と個性の矛盾が明瞭な形をとっていき、馬蹄形集落を中枢にくみ上げられたネットワークが分解・分散していったのである。そして、こういうなかで、長い時間をかけてではあるが、東国から西国へ少しづつ人口の移住が行われていった。それは西国にも、東国に特徴的な柄鏡型住居などの文化要素がみえるようになることなどで知ることができる。こうして、それまでは圧倒的な懸隔があった東国と西国の人口比が5:1くらいには接近していった。
 そもそも西国社会は人々を迎え入れることのできる柔構造をとっていた。とくに、この場合、縄文時代後期以降の寒冷化が海退を引き起こして、瀬戸内海などの海辺に低湿地帯が形成されたことも大きかったという。そこをふくめた補助的な雑穀栽培(早くからイネもふくむ可能性がある)と海辺の生業の複合は西国社会に相当の変動をあたえた。西国社会も独自の色彩を帯び始めていったといってよい。それに対してとくに近畿地方など西国のうちでも東側の地域には縄文文化の諸要素が継承されていることが指摘される。これは人口の東から西への漸次的な移動にともなう融合現象であったということになる。詳細は不明としても、近畿地方やフォッサマグナ以西の濃尾平野などが独特の地域性を帯びていたことは事実である。
 こういうなかで、列島ジャパネシアの全域が「脱縄文化」ともいうべき状況にいたりつつあったのである。そこには、寒冷化や資源の消尽による人口の減少や移動の影響も大きい。しかし、縄文時代を通じて展開した遠隔地交易のネットワークが新たな地域の再編や移住を可能にしていったという側面は否定できない。そして、その結果として部族が形成された。縄文時代は地理と自然条件の異なる各地域への定住を社会の動きの基調とする時代であったが、それが再編成され、集落をこえて独自な歴史・文化・人脈をもつ人々のまとまり、部族が構成されたのは自然なことであった。
参考文献
宮本一夫『神話から歴史へ』(『中国の歴史』①、講談社2005年)
松木武彦『列島創世記』(『日本の歴史』一、小学館、2007年)。

2013年12月 7日 (土)

かぐや姫の「罪と罰」の物語の原型は海外文学

Cce20131208 「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれのもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり」

 『竹取物語』のかぐや姫の「罪と罰」についての記述の原型は、中国の神仙文学にある。

 これについては渡辺秀夫氏の仕事があって、たとえば『妙女伝』(広記巻六十七・『通幽記』という女仙伝に次のようにあるという。

 妙女は、齢十三、四歳、崔氏の婢である。彼女は、もと天上の仙人(提頭頼吒天王)の娘であったが、天界の秘事をもらした罪により、人の世に堕とされ人間に転生した。

<読み下し。もとこれ提頭頼吒天王の小女と言う。天門の間の事を洩らしたがため、故に、謫して人世に堕す>

<原文(言本是提頭頼吒天王小女。為洩天門間事、故謫堕人世) >


 『竹取物語』の作者は、こういう種類の神仙文学を、そのまま翻訳したということになる。
 
ようするに、海外文学のまねをいしたのである。いまでいえば、アーシュラ・K・ル・グゥインのフェミニズムSFのまねをしたということであろうと思う。
 萩尾望都のマンガ『11人いる!』は、我が家の愛読書。その原型はアーシュラ・K・ル・グゥインにあることは明らか。それと似たようなものであるということになる。

 渡辺氏の文章をもう少し引用すると、


 天上界で犯した罪の償いに地上界に貶謫される女仙――「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれのもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり」――、これも女仙伝にも多くみられるもので、例えば、「臨昇天謂其父曰、我仙女杜蘭香也。有過謫于人間、玄期有限、今去矣」(広記巻六十二・杜蘭香・<出『墉城集仙録』>)、「謂父母曰、女本上清仙人也、有小過、謫在人間、年限既畢、復帰天上無至憂念也」(広記第六十三・黄観福・<出『集仙伝』>)、「太上責之。謫居人世、為君之妻、二十三年矣」(広記第六十七・崔少玄・<出『少玄本伝』>)などは、ことに『竹取物語』に近い例であろう。
     (渡辺「竹取物語と神仙譚」『日本文学』1983年3月)

 『竹取物語』がフェミニズム文学であるということは明瞭なことなので、それがもっと知られるとよいと思う。ラディカル・フェミニズム(根源的なフェミニズム)からみると、どう考えるべきかという問題は残ると思うが、幻想文学がフェミニズムになることはしばしばあることだと思う。

 さて、以下は、南北朝時代の通史。tsuusi9としてwebpageに載せた。

⑨南北朝時代と王家の分裂
政治史の考え方 

 後醍醐が大覚寺統のなかでも傍流に属していた。後宇多は譲状において後醍醐は一代限りであることを厳密に命じ、実際に若死にした後二条の子、邦良を皇太子として、後二条ー邦良を嫡系に指定している。この背景には、亀山・後宇多・後醍醐の間での(後醍醐の母が亀山に寵愛されたなどの)矛盾と対立があったとされるが、後醍醐はこうして大覚寺統の皇太子邦良と、その後に即位を予定された量仁(光厳)の属する持明院統の双方から退位を迫られ、幕府もそれを後押しするという状況に立たされたのである。
 後醍醐のクーデターは後鳥羽クーデターと同じように東国・西国戦争から出発し、当初、後醍醐の側に立った武士は西国勢力であった。しかし、全国的な支配を確保していた北條氏の専制的な姿勢は、東国内部の離反を導き、鎌倉幕府の中枢の源氏門葉の家柄が後醍醐側に寝返った。足利尊氏が西国で、新田義貞が東国で蜂起することによって北条氏の権力はあっけなく崩壊したのである。

 後醍醐の目指したものは後鳥羽と同じく、院政時代の復活であり、武臣国家の否定であった。ただ相違していたのは、その国家構想が京都の北の大徳寺を国家寺院とするなど、中国で流行していた禅宗や儒学にもとづく皇帝専制を理念としていたことである。また陸奥将軍府や鎌倉将軍府のような「鎮」=広域行政府を設置する構想も南宋の設置した総領所に類似したものといえる。これは、鎌倉時代、北条氏の下で機動的な全国支配のシステムや広域的な権力のあり方が生まれていたことに対応するものである。もちろん、皇帝専制という思想や法と行政のスタイルは大きく異なっており、それが矛盾を引き起こしたことは事実であるが、後醍醐の構想をただの空論ということはできない。

 逆にいえば、後醍醐の建武政権がもろくも滅びた理由は、北條氏の専制が崩れるのと同じことであったということにもなるが、崩壊のきっかけとなったのは、後醍醐が、蜂起に功績のあった大塔宮護良親王を疎外し、その寵姫・阿野簾子所生の皇子を皇太子に立て、陸奥・鎌倉の将軍府に据えたことであろう。西国武士の組織において中枢的な役割を果たした護良を排除したことは西国武士の組織を脆弱なものとしたことは疑いない。

 そして後醍醐が護良の身を尊氏・直義兄弟に預け、鎌倉に幽閉されたことも大きな影響をもったであろう。つまり、鎌倉将軍府にいたのは、成良親王であったが、それを支える地位にいたのは鎌倉に根拠をおいて鎌倉幕府の伝統を固守する路線にたった足利直義であった。そして後醍醐を見限った尊氏は直義を頼って鎌倉に下り、兄弟で後醍醐に反旗をひるがえし、護良を殺害し、東国の軍勢とともに京都に攻め上ったのである。こうして後鳥羽の時と同じ東国西国戦争が戦われ、結局、尊氏・直義が勝利して、後鳥羽の時と同じように後醍醐の西軍は敗北して建武政権は崩壊したのである。

 これによって後醍醐の構想する宋朝型国家ではなく、武臣国家の路線が定まったのであるが、尊氏が「覇王」となるためには、京都ー西国を抑えるのみでなく、東国を抑え、頼朝が瞬間的についた「日本国惣官」ともいうべき地位を確保することが必要であった。それを実現するために尊氏が選択したのは、自分の息子の義詮を京都に据え、もう一人の息子を鎌倉将軍府に据えて、直義を殺害することであった。いわゆる観応の擾乱の終了、1352年のことであって、これによって、内乱の全局が定まった。そこにいたる過程で、尊氏・直義・南朝は相互に合従連衡と乱闘を繰り返し、その後も同じようなことは続いたが、すでに南朝には独自の力はなかった。

 この過程は兄・尊氏が西国を握り、弟・直義が東国を拠点としたという意味では、頼朝・義経とちょうど逆であったが、ともかくも二回目の西国東国戦争の結果、尊氏は頼朝とは違って、掛け値なしに「覇王」の地位を確保したのである。


東アジア世界

 14世紀に入るとユーラシア全域に拡大したモンゴルの活動は停滞期に入り、それとともに中国の元は内部的な争いが激しくなり、江南を背景とした白蓮教の反乱が起きた。王朝の末期に宗教的な反乱が起きるのは中国ではしばしばあることであるが、それが江南から起きた漢民族復興運動という形をとったのは珍しいことで、中国南部の発展を物語っている。こうして、1368年、反乱軍から出自した朱元璋が明の建国を宣言する。

 鎌倉時代末期、北方において蝦夷反乱が起き、北條氏権力の没落において重大な役割を果たしたが、その背景には、元の衰亡のなかでアイヌ族の人々のサハリンからアムールにかけての動きが再び活発になったことがあった。実際に明建国の直後に、明がアイヌを押さえ込むための動きをしているのはその証拠である。

 南方では倭寇の本格化がはじまった。倭寇はすでに1220年代より確認できるが、彼らが朝鮮半島沿岸部を大規模に襲うようになるのは、1350年、右に述べた直義殺害事件のころのことである。九州では直義の側の動きが続き、内乱状況が存在したから、軍事的な雰囲気の中で九州の島嶼地帯の人々が海賊行為に走ったのである。

 そこには実際上、朝鮮・中国人々も参加していたが、南海にはそのような国境を越えた集団が形成されていたのである。ただ、広く見れば、このような動きをささえたのは、琉球列島で進んだ「日本国」とは別個の国家の形成の動きであった。つまり14世紀の初めには琉球には北山・中山・南山などと呼ばれる三人の強力な按司に率いられた権力が登場したと考えられている。北条氏は、奄美大島までは影響力を及ぼし、地頭職を広げたが、その勢力は琉球諸島までは及んでいない。宋・モンゴルと続いた南海との交流は、琉球に倭国とは異なる独自な文化をもたらしたのである。こうして、明の成立とともに琉球は南海交易のメッカとして急速な繁栄を遂げることになる。


社会構造の考え方

 日本列島の社会は14世紀には初期的な産業社会に到達していた。そこでは、交通や商業の発達、銭貨の社会的流通、座の広汎な活動などのなかで、庄園の経営それ自身が請負契約によって行われる趨勢となった。請負は従来から庄園のシステムにしみこんでいたが、家来や従者の人格関係に依拠していた部分も多かった。しかし、この時期、庄園の経営権自身が請負契約によって転々と移動することがふえたのである。北条氏が領地を家人に給付するのではなく、「料所」と号して「富有の輩」に経営を委託したというのが典型的な事例である。素性の不明な人間という意味で「甲乙人」という言葉が使われるが、市町は「甲乙人」が富裕となる場であったともいう。

 後醍醐は、全国の庄園公領を検注して「貫高」で評価し、その二〇分の一を(おそらく土倉が運営する)天皇直属の倉に収納しようとし、さらには貨幣を鋳造し、紙幣を発行しようとした。これは北条氏が実際にやっていたことの延長にある。後醍醐の建武政権に「悪党」といわれるような勢力との連携がいわれるのも同じことである。

 このような初期的な産業社会の様相が安定した農山村における地主を中心とした村落システムによって支えられるようになったことも、この時期の特徴である。村落が自治性をもって庄園を下から支える役割をしたのは昔から変わらないが、しかし、地主的な階層が計数能力をもって百姓請・地下請を行い、村有財産をもって代官と折衝し、「大人・老」などとして「惣村」の構成するというのは、このころからの特徴である。

 これとの関係で、『一遍聖絵』の福岡市の場面について簡単に説明をしておくと、向こう側には「絹布・米・山鳥・魚」などを売る店がならんでいる。これは地元産の物資であって、それらの物品が銭によって売買されている様子がわかる(右奥の店内の女、左側の男が銭束をもっている)。中段右側の掘立の左端にみえる赤い丸いものは、男が腰に下げる腰袋という革製の銭袋をうっているところである(詳しくは保立道久「腰袋と桃太郎」『物語の中世』講談社学術文庫)を参照)。実際の市庭はより広い面積をしめており、そのため河原などの無主地が利用されたが、近辺には町場ができており、その町と市の両方をあわせて「市町」といったのである。この時代の地域は、地主を中心とした自治的な農山村と富裕な「甲乙人」がいる市町から構成されるようになっていたのである。

参考文献
 佐藤進一『南北朝の内乱』(『日本の歴史』9、中央公論社)
 筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(講談社日本の歴史10).なお、この筧の著書は後醍醐が祖父亀山の胤であることを明示しており(359頁)、南北朝内乱論としては、崇徳が同じように祖父白河の子であることを明示した竹内理三の『武士の登場』(中央公論『日本の歴史』)とならぶ意味をもっている。

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