牛尾山紀行(4)
牛尾山紀行(4)
「金大巌」の一番上の五角形の巨岩は安定していて、よほどの地震でもない限り落ちては来ない。ただ、それをみていて想起したのは、976年(天延四)の近江京都地震で巨岩が落下したという記事だった。この地震については、西山昭仁氏の「天延四年(976)の京都・近江の地震における被害実態」(『歴史地震』28号)が詳しいが、そこに、崇福寺の記事がある。
「崇福寺法華堂南方頽入谷底。時守堂僧千聖同入谷死。鐘堂顛倒。弥勒堂上岸崩落。居堂上一大石落。打損乾角」〔扶桑略記天延四年六月十八日条〕
つまり、近江の崇福寺では法華堂が南方に頽れて入谷底に落ち込み、時守堂の僧千聖が同じく谷に落ち入って死亡し、鐘堂が顛倒し、弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちて乾角を打損じたということである。崇福寺の本体は何度も痛めつけられているようだが、しばらく前、965年(康保二)に崇福寺は全焼しており、そのために崇福寺の本堂についての記述がない。その上の地震で、おそらくこれが最後の打撃となったのではないだろうか。注目するのは最後の部分で、「弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちた」というのである。
この金大巌の巨岩は、相当の地震でも揺らぎそうになり。しかし、下の岩盤は少しずつ崩落しているようにみえる。『源平盛衰記』の記事に「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」というのは、こういう岩盤の「頽れ、割けて」いく様子を観察するところからうまれた描写のように思える。現場をみると、そういう想像が可能になる。『源平盛衰記』には師通の幽霊がでてきたとあるのだが、こういう場所で寝ていれば、人はいろいろな夢をみるだろう。
しかし、登り始めてからまったくの無人である。4番目の曲がり角から5番目にかけて登っているとき、遠くに黄色い動物が道を横切って谷に降りていくのがみえた。犬か鹿かはわからないが大きくみえた。
誰もいない山に登って、それを崇拝するという心情は神話的なものとしかいいようがないように思う。すくなくともそれをベースとしていることは確実であろう。もちろん、それは同じようにみえても個々人で違うものである。神話のような宗教心情になれば似ているところのみを考えがちだが、現実には、人によってニュアンスとプロットは大きく異なっているに違いない。むしろ、その種差の全体から神話の体系の基礎ができているのでらう。このレヴェルでの神話的な心情とは現代も原始も基本的に変わりはないのではないかというのが、私の考え方。
ヨーロッパの13世紀以降ののゴシック建築の流行というのは、高さを求め、高さの中に神の目を見る人間の心理であるといわれる。それに対する神の顕現は塔への落雷であるというもの、よく聞く話である。あるいは、日本では、ゴシック建築の代わりをしているのが磐座なのではないだろうか。
塔への落雷の神秘を解消したのがフランクリンの雷雲の放電の実験的な確認にあったとすれば、磐座からなる、この列島に棲むものの神秘的な感覚を最終的に「科学化」したのは、あるいはプレートテクトニクスの科学ということになるのであろうか。
そういう科学化の過程は必然的なものであるが、そのなかで自然を搾取するのではなく、「自然への尊重・驚嘆」というものが純粋化していくことが希望であり、そのためには神話論も一定の役割を果たせると思う。