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カテゴリー「霊山紀行ー神話の山々」の4件の記事

2014年7月14日 (月)

牛尾山紀行(4)

牛尾山紀行(4)
 「金大巌」の一番上の五角形の巨岩は安定していて、よほどの地震でもない限り落ちては来ない。ただ、それをみていて想起したのは、976年(天延四)の近江京都地震で巨岩が落下したという記事だった。この地震については、西山昭仁氏の「天延四年(976)の京都・近江の地震における被害実態」(『歴史地震』28号)が詳しいが、そこに、崇福寺の記事がある。
「崇福寺法華堂南方頽入谷底。時守堂僧千聖同入谷死。鐘堂顛倒。弥勒堂上岸崩落。居堂上一大石落。打損乾角」〔扶桑略記天延四年六月十八日条〕
 つまり、近江の崇福寺では法華堂が南方に頽れて入谷底に落ち込み、時守堂の僧千聖が同じく谷に落ち入って死亡し、鐘堂が顛倒し、弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちて乾角を打損じたということである。崇福寺の本体は何度も痛めつけられているようだが、しばらく前、965年(康保二)に崇福寺は全焼しており、そのために崇福寺の本堂についての記述がない。その上の地震で、おそらくこれが最後の打撃となったのではないだろうか。注目するのは最後の部分で、「弥勒堂の上岸が崩落して堂上に居る(位置にあった)一大石が落ちた」というのである。
 この金大巌の巨岩は、相当の地震でも揺らぎそうになり。しかし、下の岩盤は少しずつ崩落しているようにみえる。『源平盛衰記』の記事に「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」というのは、こういう岩盤の「頽れ、割けて」いく様子を観察するところからうまれた描写のように思える。現場をみると、そういう想像が可能になる。『源平盛衰記』には師通の幽霊がでてきたとあるのだが、こういう場所で寝ていれば、人はいろいろな夢をみるだろう。
 しかし、登り始めてからまったくの無人である。4番目の曲がり角から5番目にかけて登っているとき、遠くに黄色い動物が道を横切って谷に降りていくのがみえた。犬か鹿かはわからないが大きくみえた。
 誰もいない山に登って、それを崇拝するという心情は神話的なものとしかいいようがないように思う。すくなくともそれをベースとしていることは確実であろう。もちろん、それは同じようにみえても個々人で違うものである。神話のような宗教心情になれば似ているところのみを考えがちだが、現実には、人によってニュアンスとプロットは大きく異なっているに違いない。むしろ、その種差の全体から神話の体系の基礎ができているのでらう。このレヴェルでの神話的な心情とは現代も原始も基本的に変わりはないのではないかというのが、私の考え方。
 ヨーロッパの13世紀以降ののゴシック建築の流行というのは、高さを求め、高さの中に神の目を見る人間の心理であるといわれる。それに対する神の顕現は塔への落雷であるというもの、よく聞く話である。あるいは、日本では、ゴシック建築の代わりをしているのが磐座なのではないだろうか。
 塔への落雷の神秘を解消したのがフランクリンの雷雲の放電の実験的な確認にあったとすれば、磐座からなる、この列島に棲むものの神秘的な感覚を最終的に「科学化」したのは、あるいはプレートテクトニクスの科学ということになるのであろうか。
 そういう科学化の過程は必然的なものであるが、そのなかで自然を搾取するのではなく、「自然への尊重・驚嘆」というものが純粋化していくことが希望であり、そのためには神話論も一定の役割を果たせると思う。

2014年7月10日 (木)

牛尾山紀行(3)

牛尾山紀行(3)
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 七つ目の曲がり角の手前から石段が始まっており、そろそろかと思って、そこを曲がると上に神社の建物がみえる。曲がって上に自然に視線がいくとそこに懸崖作りの社殿がみえるという感覚が何ともいえない。これまで写真でみていた通りのたたずまいであるが、感動する。

 いま一二時一〇分。さっき休んでから10分ほどで上についたようである。

 左が三宮、右が牛尾宮と参拝マップにはある。パンフレットでは、両社のあいだに存在する巨岩は金大巌といわれている。五角形のような形の一枚岩で注連縄がかかっている。しかし、その基礎も岩で、三宮も牛尾宮も磐のうえにたてられているから、その巨岩の全体は本来の自然の形ではさらに巨大な感じをあたえるものであったろう。現在は写真にみえるように、両社のあいだには石の階段があり、この階段を上ると巨大な一枚岩がある訳であるが、この部分も本来は磐座であったろう。
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 二つの神殿がいつ頃から存在したかは証拠はないが、しかし、前述のように『源平盛衰記』に「八王子と三の宮との神殿の間に盤石あり」とあるのは平安時代の事実とみてよいのではないだろうか。もちろん、そのころは、巨大な磐座にちょんと仮屋のような社殿が載っているという感じであったのであろう。現在の二つの宮は秀吉の時代の建立であるが、このような懸崖作りがいつ作られたかはわからない。そもそも、現在は両社のあいだには石の階段があるが、それも平安時代の早い時期にはなかったものであろう。平安時代の宮ももっと素朴なものであったろう。規模が大きくなるのは、院政期、先にふれた大地震などをへてのことだろう。いまのような懸崖造りの神殿は早くて室町期ではないか。

 眺望はさすがによい。北の眺望はないが、坂本の町と大津の方面を眺望することができる。曇天でこれだけみえるのだから、快晴であったら、見事な眺めであろう。
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 座りながら、磐座ということについて、色々なことを考えた。磐座=巨岩というのは、それが巨岩であるということにのみ意味があるのではなくて、巨岩によってはじめて眺望がとれるということがあったのではないかと思う。つまり、岩にはさすがに大樹ははえない。大樹がはえれば磐座はくずれるはずである。逆にいえば、磐座=巨木が山頂に聳えている場合は、その磐座に登れば眺望がとれるということである。磐座によって、眺望を確保していたのではないか。磐座の神という存在は、眺望によって、そこにいる人間が神の目をもつということが内面化して神が析出されるということなのではないだろうか。

 そんなに磐座経験がない人間がいうのは恐れ多いが、山を登ってきて印象的であったのは、六つ目の曲がり角で、琵琶湖の北が眺望に入ったことである。ところが、その眺望は、斜面の樹木が伐採されていることによって入った眺望である。山中の道は、伐採がなければ眺望をあたえない。伐採を「切明」ということ、黒山の道を「顕路」とするというのが一つの宗教的善行であることは以前に述べた通りであるが(「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』岩波)、ともかく、いまでも日吉大社が伐採をしてくれるから、琵琶湖がみえるのである。参道の途中から琵琶湖がみえるというのは宗教的行事(つまり山王祭)にとっても必要なことなので、その手間をかけているのではないかと思う(降りてきてそういう目で神輿の保管庫をみたら周囲に倒木や伐採した丸太が集積されていた。これは輿道を維持するなかで集積されたのだろう)。

 おもに杉の木の樹林であるが、その成長力はすさまじい。この湿気のなかで、ぐいぐい伸びていく杉の木のエネルギーが感じられるようである。樹木の繁茂する亜熱帯の日本で巨石信仰が一般的な理由は(火山を別とすると)、ここにあるのではないだろうか。もちろん、これだけの巨岩だと、そこに登れば、周囲の木々をこえて眺望がとれたのではないかということを実感する。

 ともかく、自然を全体としてみるという経験が山に登ることによってえられるということは大きいのかもしれない。自然の全体をみるという経験は山に登るという経験なのだろうと思う。

2014年7月 9日 (水)

牛尾山紀行(2)

牛尾山紀行(2)
 いま11時40分、京阪坂本の駅から10分ほど。はるか昔に叡山から日吉大社は見学して廻ったことがあるが、その時は山僧が駆け下りたというきらら坂を無理矢理あがって叡山にでて、日吉に降りてきた。大津で泊まったように覚えているが、叡山の方の記憶が強く、日吉についての記憶は曖昧である。

 京阪坂本駅から歩き始め、将軍塚神社という神社があることに驚く。鳥居をこえ、日吉馬場をあがっていく。金蔵院、実蔵坊などの名前はいかにも室町の叡山の院坊という感じで、側溝に清水の流れる静かな馬場を登っていく。赤鳥居をこえて、日吉大社の東受付で牛尾宮への様子をうかがう。参拝料、三〇〇円。地図をいただく。牛尾山の神さまが東本宮に降りてこられているから、そこを参拝してから御山に登ってくださいといわれる。
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 東本宮の楼門を入って、樹下宮(旧称十禅師)とその拝殿に拝礼してから、参道を登り出す。樹下宮は、大山咋神の妻神の座す場.
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 樹下宮の奧(北)に本殿(およびその前の拝殿)があるが、軸線は一致していない。樹下宮はその東に拝殿をもっている。樹下宮とその拝殿を結ぶ軸線は東西方向で、東本宮の建物配置の軸線は南北と東西の二つがあることになる。これは興味深い。あるいは東に位置する八王子山の方向に軸線をそろえていたのが本来の軸線なのであろうか。いま、東本宮の楼門を一度でて、石段を下りて5メートルほど西へいってから、八王子山への参道にかかるが、もし右のような想定がなりたつとすると、むしろ樹下宮の後から参道にかかったのかもしれない。そうなれば、八王子が神体山であることは一目瞭然である。

 興味深いのは、樹下宮の掲示によれば床下に泉があり、この神は本来は泉の女性神であって、その神格は鴨玉依姫と表現されるとされていることである。柳田のいう日本の泉の神はヨーロッパと同様に女性神であるという泉の仙女論にぴったりの話である。それにしても床下に泉があるというのが興味深い。女神性を重視するとすると巫女の祭る社は本殿と横並びになるという柳田の意見で軸線の問題を考えるべきなのだろうか。素人議論はつつしまねばならないが、こういうのは現地に立たないと考えられない。それにしても十禪師というのは何度も文献で読んでいるが、はじめて面とむかう。華やかな感じの美しい社である。

 牛尾山の石段をあがって20分ほどか。広い道だが急な坂の直登が続いて、一昨日、昨日の夜の疲れがでている。4つ目の曲がり角に草が生えていたので、そこに座って休む。

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 自然の中で一人でいるという感覚はおそらく原始から変わらないような感情だろうと思う。そういう自然との一体感あるいは自然に支配されているという感情は昔と変わらないのではないだろうか。山に登ると、そこでは時間は止まっている。原始以来の不変のものをみているというのは、木曾駒に上ったとき、師の戸田さんと話したこと。
 もちろん、山に用もなく、一人で入るというのは、昔ならば狂気の証拠であろう。労働のために入るという慣れた場を通るという感覚こそ日常的なものかもしれない。しかし、原始の人も一人で山に入り、自然に圧倒されるという感覚は知っていたのではないだろうか。

 もう一つは、もちろん、この七曲がりの急坂は一〇〇〇年以上の時をかけて、日吉大社の営為によって維持されてきた。日枝神社の山王祭りの神輿上げと神輿下ろしの道である。 この道は実際には原始の自然のままではなく、自然の時は止まっていない。そして、目の前の杉の木も下草のシダも自然史のなかで動いている。しかし、そうではあっても、自然と人間の向き合い方は変わらないところがあるのではないだろうか。

 急坂の一曲がり目のところから、下をみると、さっき目の前にみえた神輿の保管庫が木々にかくれてみえない。神輿の保管庫は樹下宮をでて、登り口からさらに10メートルほど西にいったところ。ともかく、ここが日吉神輿の出動基地であったのだと思うと、その現場に立ったことのないまま、それらの史料を読んできた自分が不思議に思える。そして、神輿保管庫がすぐにみえなくなるような自然の濃密さのなかに平安時代の日吉神人たちがいたということを実感する。

2014年7月 8日 (火)

日吉大社、牛尾山紀行(1)

牛尾山紀行(1)
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 いま京阪電車の石山の駅である。7月7日
 いまから日吉大社の牛尾宮へ行く予定。牛尾山は神体山だが、「観光案内」だと登れるようにも見えるので、ともかく山腹までは行ってみようと思う。

 昨日、研究会で近江地震と日吉社神体山という報告をした。

 報告の中心は平安時代から江戸時代初期までの近江地震の史料を列挙して、これまでの地震学の研究に若干のことをつけ加えるという点にあった。二〇〇年から三〇〇年の間をおいて近江の各地の断層が動いて京都・山城をふくめ大地震が起こるという地震学では常識的な事実をおってみたというものである。ただそれだけでは能がないので、その最後に日吉社の神体山が地震の神の宿り場所と考えられていた可能性を論じた。これは基本部分はすでに活字にしたものなのでかかげさせていただく。

 電車は粟津・膳所・石場など歴史家にはなじみで、いろいろな想像の浮かぶ駅を通って、いま、浜大津。叡山大津神人の本拠である。次は三井寺。できれば帰りは三井寺にも参詣したい。

 空は曇天。京都側の山には雨雲がさがってきている。本当は自転車をレンタルして走るつもりだったが、この梅雨空のなか、とても無理である。


  一〇九五年(嘉保2)に八月に京都で「大地震」。九月には、時の天皇の堀河の周囲に物恠が跳梁し、「咳病」から「不予」。この時、堀河が祇園社に立願している。一〇月には叡山が美濃国司源義綱を訴える日吉社神輿の「動座」をともなう最初の嗷訴に突入するという大事件。日吉神輿の動座の最初。これに対して義綱を保護していたと思われる関白師通が「まったく神輿をはばかるべからず」という強硬姿勢をもってのぞんだために、武士が矢を放って神輿と神人を傷つけたことが山僧・神人の激昂を呼ぶ。これを伏線として、一〇九六年(嘉保3=永長1)、永長大田楽の熱狂が導かれた。この年、二月に地震があり、五月頃には旱魃と疫病の流行が始まっている。
 こういう事態のなかで、『源平盛衰記』(巻四、殿下御母立願の事)は右の叡山神人の負傷事件にふれて、叡山の衆徒が近江坂本にくだって七社の宝前で祈祷をし、八王子の前で師通に対して「鏑矢一つ放ち給へ」と祈祷をしたところ、八王子「御神殿より鏑箭鳴り出でゝ、王城を指して鳴行く」。「去る程に、関白殿の御夢御覧じけるこそ恐しけれ、比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝると覚え、打驚き給ふて浅猿と思し召す処に又うつつに東坂本の方より、鏑矢の鳴り来たって御殿の上に慥に立つとぞ聞こし召されける」。これによって髪の生え際に悪瘡ができ、これに対して、母の麗子が祈祷をし、八王子から「二年の命を奉る」(『平家物語』(延慶本)では三年)という示現をえたという物語を作りだしている。また『平家物語』(延慶本)では「山王」に憑依されて麗子に託宣をしたのが陸奥国からのぼってきた童神子とされているのも興味深い。
 そして、師通は、一〇九九年に寿命が尽き、1099年(承徳三)一月二四日の南海地震の直後、二月から「風気」を発して調子を崩し(『後二条師通記』二月二四日条)、三月下旬になって発病して、六月に死去したというのである。
 この師通が地震の地霊にやられたという伝承が、次のように語られているのが興味深い。『源平盛衰記』(巻四、殿下御母立願の事)
「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」
「関白殿薨去の後、八王子と三の宮との神殿の間に盤石あり、彼の石の下に雨の降る夜は常に人の愁吟する声聞へけり、参詣の貴賤あやしみ思ひけり、餘多人の夢に見けるは束帯したる気高き上臈の仰には、『我はこれ前関白従一位内大臣師通なり、八王子権現我魂を此岩の下に籠め置かせ給へり、さらぬだに悲きに雨の降る夜は石をとりて責押すに依て其苦堪え難きなり』とて、石の中に御座すとぞ示し給ひける」
『山王霊験絵巻』(第十二紙、詞書)
「八王子・三宮のあはひに磐狭間とて大なる巌あり、雨の降る夜は、かならず人の叫ぶ声聞こゆ。上下あやしみ思程に、関白殿束帯うるはしくて『八王□□□□のここに戒めおき給へるが、雨の降る夜は石のふとるによりて、その苦しみたへがたし、ただし其時も□□□□講(法華講)をきくにぞ、苦しみいささか軽む』と人の夢に見えたまひけり」。「駿川国大岡庄の役にてはじめおかれはじめし」
 牛尾山は標高三八〇メートルであるが、いわゆる神隠型の山であって、山頂に露出した岩盤は信仰と祭祀の対象であって、八王子宮には大山咋神、三宮には妃の玉依姫が鎮座している。前者の大山咋神は大国主命と同体とされる大物主神=大年神の御子神の系譜の中に「亦ノ名は山末之大主神。此ノ神は近淡海国之日枝山に座し、亦葛野之松尾に座す」と登場する。ようするに地震の神、オオナムチの分身なのである。