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カテゴリー「沖縄・琉球史」の14件の記事

2017年7月17日 (月)

日本史の30冊。豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)

豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)
『日本史の30冊』に載せたものです。沖縄について新城郁夫・鹿野政直『沖縄を生きるということ』(岩波書店)を読んでいて、この原稿を載せようと考えました。沖縄の歴史を基礎常識にしていくことの重大性を思いました。

「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」
 1963年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。
 『沖縄』の筆頭著者・比嘉春潮は柳田国男に師事した著名な民俗学者であり、彼がこのように問題を設定したのはめざましいことである。しかし、問題は事実認識にあった。つまり、新書『沖縄』は「本土」と琉球の「民族的」近接性を強調する一方で、琉球を固定的に「僻地」とみてしまう。弥生時代に農業の道をとらなかったために農業の発達が遅れ、停滞的な歩みの中で沖縄は眠っていたとまでいうのである。こうして近縁的な社会の相違は「発展の相違」に還元されて理解され、琉球は「本土」にくらべ、社会発展史上で一〇世紀も遅れていたと結論される。しばらく前までは、「本土」の歴史学界でも一四世紀の琉球王国ははじめての古代国家であり、薩摩の武力進入(一六〇九年)は、封建国家による古代国家の統合であるなどという意見がしばしば聞かれた。
 この種の抽象論は今でも克服されていないが、比嘉たちの議論には彼らなりの理由があった。琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって中央集権を確定した明治国家の支配の下で、琉球が直面した差別と収奪を強調するあまり、彼らは、琉球史の枠組を苦難と「貧しさ」を基軸として描いてしまったのである。
 しかし、近年の琉球史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈、多様な海産物と硫黄・砂糖などの特産品をもち、「僻地」であるどころか東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明瞭にした。琉球史を無前提に「日本史の一環」ということはできないというのである。その起点を作ったのは、太閤検地論で有名な沖縄出身の歴史学者、安良城盛昭であり、その影響の下で本格的な史料分析によって琉球王国の国制を明らかにした高良倉吉であった。
 本書はそれ以来、二〇年ほどの研究の到達点を示している。残念ながら、本書は通史ではなく、編者による序論と六本の論文からなる研究論集であるが、しかし、「本土」と琉球が各々異なりながらも深く関係しあって発展と変化の道を歩んできた枠組を明らかにすることに成功している
琉球王国の歴史
 その時代区分は、序論とⅠ章「琉球王国の形成と東アジア」(安里進)で述べられており、その(1)草創期縄文文化は、南アジアに特徴的な丸ノミなどをともなうもので、琉球弧ルートで鹿児島に到ったが、六四〇〇年前の鬼界カルデラ噴火で壊滅した。その後、展開したのは(2)「貝塚文化」であって、北部九州の縄文文化との交流も維持しながら独自化の道を歩み、中国とのタカラガイ交易などを特徴としていた。そして本土の弥生時代に対応する時期を(3)「貝塚後期文化」といい、そこでは旧石器時代以後の温暖化のなかで発達したサンゴ礁の生態系に依拠した生業システムが形成される。彼らは、豊かな漁撈と独占的な貝交易によって弥生農耕文化を受けいれる必要がなかった。そもそも農業の発展のみを社会分析のモノサシとするようなことは誤りであるというのが本書の視座である。
 「本土」の古墳時代以降に対応する(4)貝塚文化最末期には、ホラガイが仏教の法具とされ、日本を経由して大陸に流通し、さらに唐で発達した螺鈿細工の原料としてのヤコウガイも移出される。その代わりに人びとは鉄器を入手するが、このような交易の統括において役割を高めた首長が、琉球の各地域に盤踞し始めたのである。
 これをうけてだいたい一〇世紀以降、「本土」の平安時代に対応する時期に(5)原グスク時代が始まる。中国の宋代における華僑の東南アジア展開のような交易の広域化に対応して、この時期、長崎産の石鍋や徳之島産の須恵質陶器カムィ焼が琉球全域に流通する。そして、畠作や水田が本格化し、人口が増大する。その中枢には城塞形の小さなグスク的遺跡が位置していた。そして、一三世紀以降、いよいよ(6)大型グスクの時代が始まり、浦添グスクに拠点をもつ初期中山王家の勢力が他のグスクを圧倒した地位をもって出発した。一四世紀に入ると中山から山南・山北が分離して三山時代が始まるが、一四二〇年代には思紹と尚巴志の父子(第一尚氏)が三山を統一し首里へ拠点を移す。その後、第二尚氏への王朝交替があって尚真王期には(在位一五世紀後半から一六世紀)琉球王国は琉球全域におよぶ繁栄した王国となる。(7)琉球王国の時代である。この時期、琉球は東南アジアにまで貿易船を送り、「万国の津梁」と自称したという。
 問題は、この琉球王国の繁栄が明の冊封と海禁体制のなかでの琉球の特権的地位に支えられていたことで、しかも、時代がすぐにヨーロッパ勢力のアジア登場にむかっていたことである。これがアフリカと南アメリカにおける人間の大量殺害によって特徴づけられ、「長い一六世紀」ともいわれる世界資本主義の原始蓄積期であることはいうまでもない。そして、本書Ⅱ章「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(真栄平房昭)に記されているように、この原蓄の推進要因となったグローバルな貴金属流通の中枢に、メキシコ銀のアジア中国還流と膨大な日本銀の増産があった。
 こうして世界史は近代の帝国の競合の時代に入り、東アジアでは中華帝国の最後の建設と崩壊の時期に入っていく。それに先だって日本が秀吉の朝鮮出兵という帝国的冒険に突入し、それは無益な破壊をもたらしただけで終わったものの、極東の小帝国としての日本(参照、本書■頁)を担保する形で、薩摩の琉球への侵略と武力統合が行われた。
 (8)徳川期の琉球王国は、一方で徳川幕藩体制の下に統合され、他方で清への朝貢体制を維持したが、その中で逆に芸能・生活文化から国制にいたるまで琉球としての特色が意識された。Ⅲ章「自立への模索」(田名真之)は、この純化・独自化の逆説を「琉球的身分制」と「史書の編纂」という側面から描き出している。またⅣ章「伝統社会のなかの女性」(池宮正治・小野まさ子)は沖縄の女性史の分野にあてられており、祭祀と芸能、さらに繊維の生産と貢納を中心とした女性の位置について論じている。Ⅲ・Ⅳを通じて歴史学の側から琉球文化の成熟の様相が語られるが、全体として女性の位置が独自なようにみえるのは、本書の論調からすると、海洋国家に独自な男女間の社会分業ということに関わるのであろうか。なお、Ⅱ章において、琉球が日本列島の南北軸の西南端という位置を生かして徳川期の列島市場との結合を高めながら、砂糖を大阪に出荷する見返りに渡唐銀を入手し、北海の昆布などの海産物の輸出ルートに乗るという遠心性を確保していることなども、「両属と自立」という図柄のなかに位置づけられている。
 さて、以上が前近代部分のだいたいの紹介であるが、Ⅴ章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守)、Ⅵ「世界市場に夢想される帝国」(冨山一郎)は、中華帝国体制の崩壊の隙間を狙って明治国家によって行われた琉球王国の政治的廃絶から(「琉球処分」)、日本の帝国経済の台湾への拡大のなかで必然化された徳川期琉球の砂糖産業の経済的破綻(「いわゆる「ソテツ地獄」)までを取り扱っている。とくにⅤの分析は鋭いもので「琉球処分」がやはり国際的な不法行為であったことを明らかにしているように思う(なお、本書には、これに対応する薩摩の琉球王国侵略についての具体的な記述がないが、これは紙屋敦之の仕事などによって補充する必要がある)。
「日本人」という言葉のワナ
 冒頭に述べたように、本書は、通史ではない。しかし、この紹介からもわかるように、本書は、具体的な記述のなかで、前近代史と近代史を統一的・連続的に説明するという通史にとってもっとも重要な視座を提供している。何よりも重要なのは、本書が、琉球史というもっとも重要な部面において、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方を実際の叙述において乗り越えたということであろう。私も、民族なるものは、(法的関係としては固定された、できれば、このように再版で直します)「国家ー国民」の関係とは異なって基本的に状況的なものであると考える。それが実際の社会・社会構造と異なるレヴェルで自己運動し、客観的に「形成」されたり「統一」されたりする実態をもつというのは幻想にすぎない。悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生 活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という民族の固定的定義は、その幻想を形式論理で包んだものにすぎない。
 すでに新書『沖縄』も「どこかに‘日本人’または‘日本民族’なるものがいて、ぜんぶ同じ体質と同じ文化をもち、同じような歴史的発展をしてきたという考え方」を痛烈に批判していた。比嘉らが「ナショナリズム」を「無関心」や「差別」を突き抜けて希求される「国民的な連帯意識」の問題としたことは冒頭に引用した通りである。たしかに「民族」とは、人びとの「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。
 しかし、国家と社会の間に存在する公的な圏域が民族の名をもってよびだされる場合、それが民主主義的なものか、あるいは魔物となるかはすべて時と場合による。琉球史は、この歴史学にとって緊要な方法問題に直結する分野であり、本書は、それを具体的な実証の場所で考える上での試金石となっている。

参考文献
比嘉春潮・霜田正次・新里恵二『沖縄』、岩波新書1963年
安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス、1980年
高良倉吉『琉球王国の構造』吉川弘文館、1987年
安里進『琉球の王権とグスク』山川出版社、2006年
西里喜行など著『沖縄県の歴史』山川出版社、2004年
赤嶺守『琉球王国』講談社、2004年

2015年4月 6日 (月)

政治は「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談

 政治はまずは「聞く」ことであろう。翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談記事を読んだ。

 東京新聞の記事を読む。気になるのは、リードでの会談の紹介が「菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事はーー」という順序になっていることである。琉球新報電子版の記事は逆の順序である。これは県知事を最初に出すのが当然ではないかと思う。

 これは言葉の問題ではない。マスコミが「聞く」姿勢の問題である。テレビのニュースなどをみていると、菅官房長官の発言、「辺野古移転は普天間の危険性除去のための唯一の解決策である」という主張を冒頭に紹介して、翁長県知事の意見を十分に紹介しない例が多い。ようするに政府のいっていることを紹介すれば瑕疵はない。事務的にこなしているということである。ジャーナリストには言葉と文章にもっと意識的になる訓練をしてほしいと思う。

 翁長県知事は相当に明瞭に発言をした。県幹部によるとこれほど厳しい口調の翁長氏はめずらしいというのが東京新聞の記事である。「県民のパワーは祖先に対する思い、子や孫に対する思いが重なり、一人一人の生き方になっているので、建設は絶対に不可能だ」と言い切ったということである。

 翁長氏は保守の出身であり、保守の立場から、少しは自民党に期待していたのではないかと思う。昨年の総選挙の結果から、それは無理だということはわかっていても、長い間の立場から若干の期待をもつのは当然のことだ。しかし、安倍自民党は保守ではない。保守の自然心情ともいうべき「祖先に対する思い、子や孫に対する思い」に耳を傾ける相手ではないということを見切ったのであろう。翁長氏には、そういう保守の立場を維持してほしいと思う。

 結局、この間の沖縄と内閣の間をみていると、歴史体験の相違、戦争体験の相違に行き着くように思う。沖縄の人びとは、第二次大戦末期の沖縄戦で四分の一の県民の命を失った。その相当部分は本土軍の横暴、県民の放置、追い出し、そして集団自決の幇助と強制によるものだ。それは忘れることはできないだろう。沖縄の現状を辿っていくと戦争に行くのである。

 他方、安倍自民党は、そもそも首相の安倍氏が母方の祖父の岸信介に強い親近感をもっている。岸氏はいわゆる革新官僚の中心人物の一人として、戦争を遂行した人物である。これは根本的に立場が違う。

 それ故にこそ、普通の人間ならば考えるべきことは、安倍氏の場合は、莫大な犠牲をはらった沖縄県民の声に耳を傾けるということであろう。安倍氏がそういう姿勢をもっていないことは「官房長官」菅氏の一挙手一投足に明らかである。あれでは官僚機械だ。

 さて、聖徳太子の称号に「豊聡耳」(トヨトミミ)という名があるのはよく知られている。十人の人の訴えを同時に聞くことができたという説話もよく知られている。たしかにこれは政治ということの本質を示しているといってよいと思う。それは「聞く」ことなのである。問題は、何を聞くかということにあるが、そこには、ヒトの声を聞く背後で、神霊の声を聞くということがふくまれているのであろう。

 沖縄の場合は、沖縄戦の死者の声を聞くということである。岸信介が、安保条約の強行採決をしながら、自分は「声なき声」に支持されているといったことはよく知られている。あれだけ明瞭な沖縄の選挙結果をみながら、民意が示された訳ではないと称した菅氏は同じことをいっている訳だ。

 私は、世代からいって、三島由紀夫の『英霊の声』は、岸発言に対する反発であったのであろうと感じてきた世代である。安保条約は、アメリカとの軍事同盟をあらためて強化するという条約であったから、太平洋戦争における死者の声が、三島には、アメリカと闘って死んだ我々の立場はどうなるのだという声として聞こえたのであろうと思う。沖縄の人びとにには、いまでも沖縄戦の死者の声というものが聞こえてくるのであろうと思う。それが分からなければ、歴史というものも、政治というものもないだろう。ここには歴史的体験、戦争体験というものが「いま」に露出している断層のようなものがある。
 
 さて、歴史家の仕事であるが、横浜市博の鈴木靖民氏から、エッセイ集、『足と目で稼ぐ歴史学』をいただく。國學院の定年が二・三年前、この三月、客員教授も終わったということで編まれた文集である。そこに、聖徳太子の「豊聡耳」(トヨトミミ)という名は、『魏志倭人伝』が投馬国(出雲)の正官を「弥弥(ミミ)」、副官を「弥弥那利(ミミナリ)」というのと関係があるだろうという短文がのっている。「ミミの原義は不詳だが首長の称号でしょう」というのが鈴木さんの推定である。

 私は、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という「ミミ」と「弥弥」の「ミミ」は関係しているのだと思う。つまり、これは「神」霊を「聞く」能力が首長の属性であったことを示すのではないかと思う。ユダヤでも、アフリカでも、平安時代の日本でも、神は「ささやく」ものであった。ささやく神の声を聞くには独自の能力と注意力が必要であるというのは、世界中にある観念である。政治は聞くことというのは人間社会の本性に関わるようなことなのであろうと思う。

 鈴木さんは「ミミの原義は不詳だ」とするが、もっとも有力なのは、溝口睦子氏によるもので、この「ミ」は、「綿津見(ワタツミ)、山津見(ヤマツミ)」などの「ミ」であり、そしてそもそも「神」の「ミ」であるという。そしてそれは「巫」(ミコ)の「ミ」でもあるという。それは「名付けられていない、目に見えないある意思」を聞く能力であるという。溝口氏の音韻論的な、語源学的な説明は精緻なものであるが、ようするに「このある意思に通じて、ときにはこれを動かすことができるのがミ(巫)であった」というのは、鉄案であろうと思う。

 私は、それは世界の歴史的・民俗的事例からいってまず「聞く能力」、その意味で「耳」の能力であるというように考えるのである(なお本居宣長などによると、ミとミミは通じて使われる同一語であるという。これも溝口睦子論文を参照)。

 もしそうだとすると、聖徳太子の「トヨトミミ(見事な耳)」という異名ははるか過去の神話的な観念を顕しているということになる。

 日本の「保守」政党はなくなってしまい。真正保守が残るのは沖縄だけになってしまったということであろうか。保守政党がなくなってしまった国というのは、さすがに世界でもめずらしいのではないか。現在の自民党は何とも奇怪な存在である。あれは政党ですらないのではないか。

 こういう状態を考えるためには、どうしても神話の研究が必要であると考えて、最近、神話研究にのめり込んでいるが、そろそろ「基本の30冊」も終わるので、はやくそちらに移動したい。歴史家などは、何もできるわけではないが、ともかく、沖縄は、柳田国男・折口信夫のいうように日本の神話の原質の一部を露頭している嶋である。せめても、神話の本質的な研究によって、「本土」と「沖縄・琉球」の間の理解の通路を探りたいと思う。

2015年4月 2日 (木)

「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」

 私も、大江健三郎・和田春樹氏らの下記の緊急声明に賛同しました。こういう声明がネットワークによってすぐ広がること、そういう意味では、一人一人の意見がすぐに広がることが可能になったのはめざましいことであると思う。自分たちで自分たちの意見をまとめて出す。それは逆にいうと、それは一人一人の意見と立場というものが問われるということであろう。

 たとえば、中国の現在の体制では、こういうことはできない。こういうようにネットワークで声明が出るということが世界で通常なことであるとはいえない。他方で、しかし、こういう形で意見を表明する機会が増えるというのは、日本の現状のマスコミと世論のあり方が機能不全に陥っているということの表現であるようにも思う。

 ただ、私は、次の部分の表現には、若干、引っかかった。つまり「このまま強引に工事を進めれば、沖縄県民との深刻な衝突や将来にわたる本土への不信の醸成が懸念されるだけでなく、日本という国に対する、内外からの信用が地に堕ちることになるでしょう」という部分である。

 それはその通りであるだろう。しかし、何といってよいか。
 
 「沖縄県民との深刻な衝突や将来にわたる本土への不信の醸成が懸念されるだけでなく」という部分であるが、「深刻な衝突や不信」というものは、実は前からあったということを十分に表現していないのではないか、ということである。それがあるということが誰にも見えるようになった。ということだと思う。すでに、そういうところにいたという認識を共有して考えていこうということであるはずだが、こういう言い方はやや切り口上のように思う。

 「日本という国に対する、内外からの信用が地に堕ちる」というのも、同じことで、そういうものがどこまで本当にあったのか。もちろん、現在、「日本という国に対する信用」というものが存在し、現在もあるということは、事実である。しかし、その存在の仕方の危うさというものもあって、くこういう言い方もやや切り口上であると感じてしまう。

 歴史家にとっては、「深刻な衝突や不信」「日本という国に対する信用」というものが、どう存在するか、どう作られているのかということを考えるのは、過去という観点から物事をみる仕事に関わってくる。

 もちろん、こういう声明が事態の変化に応じて、ネットワークを利用して、すぐに発せられること。しかも、こういうように一人一人がどう感じているかということを書くということができるというのは、めざましいことである。ともかく、ナイーヴな言い方をすれば、こういう声明は「みんなで考えよう」ということなのだから。

 希望をみるには、過去を知ることが必要ということを感じる。少しでも、沖縄の人びとにとって、そして現在の状況のなかに希望というものがほしいと思う。

 

             <緊急声明>

「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」

私たちは、沖縄での辺野古米軍基地建設をめぐる問題に、重大な関心を寄せてきました。沖縄県民の意思は、もはや明確です。昨年2014年1月の名護市長選挙では、同米軍基地建設反対を公約する稲嶺進氏が再選、11月の県知事選では、同じく建設反対を明言する翁長雄志氏が、10万票もの大差で、現職の仲井真弘多氏を破り、12月に行われた総選挙では、小選挙区すべてで建設反対候補が勝利しました。思想・信条を超え、また政治的・党派的違いを超えた「オール沖縄」で、辺野古米軍基地建設には、「NO」という県民の強い意思が示されたのです。

にもかかわらず、安倍政権は、仲井真前知事が2013年暮れ、公約を翻して行った公有水面埋め立て承認を盾に、強引に埋め立て工事を進めています。こうした政府の行為は、沖縄県民の意思を侮辱し、日本の民主主義と地方自治の根幹を破壊する暴挙です。

新知事は、「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立承認手続に関する第三者委員会」(以下「第三者委員会」)を設置することを決め、仲井真弘多前知事が行った公有水面埋立承認手続に法律的な瑕疵がなかったかどうか、検証を始めました。つまり、埋立承認、あるいはその根拠となった環境アセスメントの正統性が崩れる可能性があるということにほかなりません。まともな民主主義国の政府であれば、少なくともこの検証期間中、埋立工事を中断するのが当然です。

翁長県知事は3月23日、新たな決断を下しました。ボーリング調査を含むすべての作業を停止するよう、沖縄防衛局に指示したのです。この指示に従わない場合、辺野古沿岸の岩礁破砕許可を取り消すことを視野に入れたものです。

このまま強引に工事を進めれば、沖縄県民との深刻な衝突や将来にわたる本土への不信の醸成が懸念されるだけでなく、日本という国に対する、内外からの信用が地に堕ちることになるでしょう。

私たちは、翁長新知事の基地移設拒否の立場を支持し、今回の知事の作業中止指示と岩礁破砕許可取り消しについても、全面的な支持を表明するものです。私たちは、次の諸点について強く要請します。

日本政府は、海底ボーリング調査を含む、辺野古埋立にかかわるすべての行為をただちに中断すべきである。政府が埋立の根拠とする仲井真前知事の「埋立承認」は、すでに沖縄県民によって拒否されている。
この間、日本政府は、沖縄の総意を代表する翁長新知事との面会さえ拒絶しているが、これは、日本国憲法が保障している地方自治と民主主義の精神を否定するものである。民意の尊重が、民主主義の原点である。日本政府は、翁長新知事による面会要請を誠実に受け入れ、本件に関する真摯な協議に応じるべきだ。
日本政府には、自ら掲げる「地方創生」のスローガンを実践し、沖縄県に基地問題解決と自立経済建設についての実権を移譲するよう、要請する。
環境大臣には、今回の辺野古米軍基地建設に向けての埋立事業に関する環境影響評価書(辺野古アセス評価書)の内容に対して、環境保全上の見地から適切な意見を述べるべき責任がある。とくに辺野古地域・沿岸地域は、沖縄島の環境保全指針で「自然環境の厳正なる保護を図る区域」(ランクⅠ)とされ、ジュゴンをはじめ絶滅の恐れがある多様な生物種が生息する貴重な海域である。今回の埋立工事等による自然形状の人為的な変更や破壊によって不可逆的で取り返しのつかない絶対的損失がもたらされる恐れがきわめて高い。環境大臣には、世界遺産の候補にもなっている誇るべき沖縄の美しい海域を保全する重大な責務を果たすよう、ここに強く要請する。
沖縄県民の辺野古新基地建設拒否の意思の背景には、日本全体の0・6%に過ぎない沖縄に、74%もの米軍基地が押し付けられている現状への不満、憤りがある。日本国民には、この構造的差別ともいえる現状を直視し、日本の安全保障の問題は、その負担も含めて、日本全体で考えていくべきことを要請する。

2015年4月1日

        浅岡美恵(弁護士)
淡路剛久(立教大学名誉教授)
        礒野弥生(東京経済大学教授)
        内橋克人(評論家)
        遠藤誠治(成蹊大学教授)
        大江健三郎(作家)  
        加茂利男(立命館大学教授)
         川瀬光義(京都府立大学教授)
         古関彰一(独協大学名誉教授)
        小森陽一(東京大学教授)
        斎藤純一(早稲田大学教授)
        高橋哲哉(東京大学教授)
        千葉 眞(国際基督教大学教授)
        寺西俊一(一橋大学特任教授)
        中野晃一(上智大学教授)
        西川 潤(早稲田大学名誉教授)
        西谷 修(立教大学教授)
        原科幸彦(東京工業大学名誉教授・千葉商大教授)
        前田哲男(評論家)
        間宮陽介(京都大学名誉教授)
        宮本憲一(大阪市大・滋賀大学名誉教授)                          
        和田春樹(東京大学名誉教授)

2015年3月25日 (水)

民主党の辺野古声明、一体どういうことなのでしょう。

 政府は沖縄県翁長知事の辺野古工事停止の要請、指示に対して、行政不服審査法にもとづく不服審査請求をした。行政的な指示・要請に対して、しかるべき政府の責任者が面談と討議もせずに、不服審査請求にでるというのは常識では考えられない。懸念されていた政府による「全面対決」の選択である。
 
 「指示」というのは、普通の言葉だと偉そうだが、これは許認可権をもつ役所が、その認可をうけた他の行政機関に対して行ったものである。行政機関同士の話である。これは、行政機関同士で話しあい、調整するというのが普通である。調整が無理でも話しあいくらいはするものである。ところが、政府が、翌日、即時に、挨拶もなく、不服審査請求にでるというのが、すごい。

 そもそもこれは指示であって、普通の行政処分ではないから、不服審査という手続きがふさわしいのかも問題がある。不服審査するのならば、7日経って、岩礁破壊許可が取り消しということになったときに不服であると申し立てるのが普通だろう。「指示」の段階で、不服審査を申し立てるというのは、いわゆるけんか腰というものである。

 おどろくべきことである。国民は行政機関同士が喧嘩をするために、行政機関の運営と人員に税金を払っているのではない。余計なやりかたで、世の中を騒がすなというのが、普通の反応である。現在の中央政府というのは、官僚の時間、エネルギーというのは、国民の所有に属することは分かっていないのではないか。政府というものは、国民の公僕である。国民のなかにはさまざまな意見があるが、政府が行動するときは、異なる意見の国民に対しても、礼をつくして行動し、発言するべきものである。そのくらいの上品さをもってもらわないと教育上よろしくない。そういう公僕意識が、けんか腰の内閣にはまったく存在しないのである。

 沖縄県はご苦労なことだと思う。

 しかし、驚いたのは、ブロゴスで読んだ、枝野官房長官による民主党の声明というものである。「政府が沖縄に対してドアをオープンにしていないことは極めて残念である」ということは述べてあって、そこに問題があるのではない。これは常識であろう。

 常識をいうのはいい。私は自分のことを常識的な人間とは思っていないが、文章を書くときは常識で表現しようと思う。枝野氏が常識を表に立てるのも文句をいおうとは思わない。しかし、民主党は政党であろう。政党というのは常識をいっていればすむものではなく、政策をいうべきものである。どうしろといっているのかがまったくわからない。ここには翁長知事の工事中止指示を受け入れよという言葉すらない。

 安倍内閣のこの間のやりかたがおかしいというのであれば、せめて、「翁長知事の行使中止指示を受け入れよ」「県が許可事項の実施についての調査を行うのは当然のことである調査の間は、工事を止めよ」というのが最低のいうべきことであろう。枝野氏の声明では実際には「まあまあ」といってるだけで何をいっているのか分からない。

 枝野氏の声明が言っているのは、「民主党は、沖縄をはじめとする関係住民の負担軽減に全力をあげるとともに、地元の理解を得つつ、在日米軍再編に関する日米合意を着実に実施するという苦渋の決断をしたが、このような沖縄を突き放した対応は、却って事態の進展を遅らせるものと危惧している」「沖縄の負担軽減と日米同盟の着実な深化を円滑に進めるためにも、政府がより沖縄県民の心に寄り添った姿勢を示すことを強く求める」ということである。
 
 ようするに、この枝野という人は、私だったら、会った上で同じことをもっとうまくやるといっているのである。私たちは「苦渋の決断」をした経験があるので、うまくやれるといっているのである。なぜ、そういうことができるかということの根拠を語らない。信じられない主観的発言である。こういう発言が仮にも政党の幹事長からでるということとは考えられない。「事態の進展を遅らせ」ないために、「日米同盟の着実な深化を円滑に進める」という姿勢、これはようするに、私は、現在の安倍内閣と同じ考え方であるが、私ならばもっとうまくやるということではないのか。

 政党としての民主党は結社であるから、何をいってもいいということもあろうが、しかし、民主党は政治資金規正法にもとづいて税金による補助をうけている政党である。国民は何をいっているかわからない政党に税金を払わされているというのはきわめて不愉快な話しである。政策もいわずに常識をいっているだけというのは政党の溶解である。溶解の政党か、妖怪の政党か。あるいは妖怪の正当化かというようなものである。ワープロというのは変換すると、自然に皮肉がでてくるらしい。

 何という政党であるか。


 民主党が安保条約を維持しようということは、民主党の政策であろう。「日米同盟の着実な深化」というのも考え方としてはありうるであろう。ただ、辺野古の新基地建設で問題となっているのは、軍事同盟をイラク・中近東まで広げようということであって、これは従来の安保の考え方とは違うことである。そこをどう考えるのか、この政党は何を考えているのか。こういうように政策を考えるから、辺野古は、こういう形で沖縄県と相談できるという話しをしないと、何をいったことにもならない。

 辺野古の基地は、新基地建設である。軍港を作り、大規模滑走路をつくり、沖縄の基地群の中心基地として、中近東を爆撃するための基地、海兵隊輸送のオスプレイ派遣のアメリカ軍のベースとして利用しようということである。この基地は、何よりもアメリカの、湾岸戦争以来の失策によって起きた中近東の現状を(またも)アメリカが軍事力で処理しようという行動のための基地である。ヨーロッパがそういう基地として使えないから、太平洋から攻撃態勢を保持しようという基地である。

 たしか10年ほど前、沖縄国際大学への米軍機の墜落は、イラク派遣の訓練中のことであったことはよく知られている。今回の辺野古の巨大基地建設は、普天間の危険性を理由として基地を移転し、日本の費用でアメリカの中近東政策の破綻を取り繕い(実際には拡大する)ための巨大基地を作ろうということであって、その意味で普天間の事故に直接に連接する行動である。

 本当に心配なのは、アメリカ軍の爆撃をうける中近東の人びとにとって、その出撃基地の根本が日本にあるということである。テロは許し難い。しかし、辺野古の巨大基地は、そして沖縄がテロをうける確率が極めて高くなることは十分に予想される。そのとき、いまの内閣、自民党、民主党はどう責任をとる積もりなのであろうか。

 そもそも、中近東からみて、爆撃基地は沖縄にあるのではなく、日本にあるのである。それ故に、テロは日本国内どこにでも起こりうる。逆にいうと、辺野古新基地のような基地は、東アジアを目途に入れたものではないから、別に沖縄にある必要はない。東京にあっても、どこにあっても、テロ側にとっても、アメリカにとっても同じことである。そういう基地が沖縄にあって、沖縄がテロにあったら、どうする積もりなのであろう。

 政策問題というのは、まずはそういうことだと思う。あれだけ、ヨーロッパで、そして各地でテロが起きている。先日の苦しい事件、ジャーナリストが殺害された事件からいって、日本で起きる可能性は当然に考えておかねばならないはずである。テロなどは起きませんというのであろうか。

 福島の原発事故について、安倍首相が、10年ほどまえ、そんなことはおきませんといっており、福島事故のすぐ前には、当時の民主党の菅首相が原発を「市民運動」時代の見解をかえて、原発容認、さらには原発を外国に売るという政策をとっていたことはよく知られている。彼らは実際に原発事故が起きたのちに責任をとっているとはいえない。同じことを繰り返そうというのであろうか。「みんなで進めば怖くない。被害を受けるのは私ではない」ということでないことを願うものである。

 もう、そういうことを忘れている人びともいるであろう。自分の税金で働いているはずの政治家の体たらくなどというものを憶えているのは不愉快な話しである。しかし、枝野氏が「ただちに影響ない」と言い続けていたことは、私は、なかなか忘れられない。

 ヤスパースがナチス党に入党したハイデガーについて、世界史の歯車に何も知らずに手を突っ込んだ子供といったというのは有名な話しであるが、そういう喜劇を21世紀になっても何度もみせられていてはたまらない。

2015年3月23日 (月)

 「本土」の住民の沖縄への責任。基地を引き受けるか。安保をやめるか。

 翁長知事が30日までの期限を限って、防衛局に対して、辺野古作業停止を指示した。これが守られない場合は、辺野古埋め立てに関する岩礁破砕許可を取り消すということである。

 日本政府が、この指示に応じることを願う。

 翁長知事が知事になって以来、長く沖縄の各界において議論と調整が続いてきたに相違ない。翁長知事の会見の様子を動画でみたが、県庁の中枢の意思が固いことは明らかである。翁長氏は「粛々と進む」と述べていた。その通りと思う。
 
 『世界』の臨時増刊号「沖縄、何が起きているか」が、3月24日にでるようである。私も「辺野古を報道しない”異様な”日本のマスコミ」という文章を書いた。
 私の文章は別として、多くの方々がよまれることを願う。

 さて、異様なのは、同時に、「日本人」である。同じ国家に属しながら、国家政策として現在取られている安保条約にもとづく基地の74パーセントを沖縄におしつけていて、恬として恥じない国民というものは、近代国家の組織原則とは外れている。

 これは「日本人」というものを根本から考える必要を示している。

 この場合、「日本人」の義務は、二つに一つ。一つは、可及的速やかに沖縄の基地を本土で引き受けることである。これまで70年にわたって沖縄に基地を押しつけてきた。しかも、アメリカ軍による占領の直前、沖縄戦においては県民の4人に一人が死すという惨禍をあたえた。それも基本的に日本軍がしたことである。これは近代国家の原則である国民の権利の平等という点からいって、基地をすべて本土にもってきても当然ということである。

 とくに、現在の内閣のメンバーが地元に基地をすべてもってくる。たとえば安倍首相が地元の山口県にすべて沖縄の基地をもってきたいと主張するのは筋が通った話である。首相が、私を支持していただいたのだから、地元に御願いしてみるというのは自由である。そして、頼まれれば、安倍氏を支持した山口県民は拒否すべきではないだろう。立派な大人が投票した以上、それは義務的なことである。「長州人」がそんなことがわからなくてどうするということである。

 私は、沖縄の方には、申し訳ないことではあるが、この本土に基地をすべて移すということはいえない。むしろ、もう一つの選択肢で御願いしたい。それは迂遠なことであるが、「本土」で、基地を提供する根拠となっている安保条約を問い直し、それをやめることについての議論をすることである。

 これは、今、沖縄の人がそう簡単にはいえないことである。沖縄では、ともかく基地を減らし、その跡地を民間的に開発する。あるいは自然を保全するということで、沖縄の経済と環境の豊かさを維持するという点で一致して行動している。これだけたいへんな沖縄の人びとに安保条約をどうするかという議論についてまで御願いする訳には行かない。上の『世界』の臨時増刊の対談で、佐藤優氏が、「(沖縄では)安保条約の廃棄、すべての基地の閉鎖という極端な話はしていない」と述べている通りである。74パーセントの基地を半分にせよという話でさえなく、ともかく辺野古だけはどうにかしたいということである。「新たな基地負担、新たな環境破壊はやめよ」ということであり、これならば、アメリカ・日本の両国家と相対的に話が可能であろうというように沖縄が考えるのは当然のことである。

 安保条約についての議論が、今できるのは、明らかに本土である。これにはもちろん、さまざまな意見があろうが、しかし、そもそも基地がおかれている根拠をなす安保条約をどう考えるかという議論さえほとんど存在しないのは異様なことである。「本土」で、この問題を議論するのは、けっして「極端」ではなく、むしろ自然なことである。こういう条約があるから沖縄に不当な負担をかけている。それがそれだけ必要なことかを確認したいというのは実に普通のことである。

 安保条約はよいが、基地負担は減らすという言い方は、もちろん、成立する。しかし、現在の日本の政治家に本当にそれを考え、実行できる集団なり、力があるとは、とても考えられない。戦後70年の間、それができなくて真剣な反省をしてこなかったような政治家たちを、今から信頼せよというのは無理な話である。自由民主党・民主党などの劣化は相当のものである。

 ここのところがどうかという原点に戻って議論しなければ、ものごとは始まらないと、私は思う。

 私には、この議論をせずには、つまりともかくもそこに立ち戻って、そもそもどういうことになっているのかという議論をしなければ、物事は結局進まないと思う。それが「本土」に住むものの責任である。

 こういう議論をせずに、世界最大のアメリカと日本の軍事同盟のキーをなす基地の現状を大きく変えることができるなのというのは、私は幻想であり、相当部分が議論のための議論にすぎないと思う。

 ともかく、こんなことが続くならば、もう安保条約の適否について議論せざるをえないという意見が、(沖縄では現状では出しにくい以上)、本土で強くでてこなければ、沖縄基地が抜本的に減らされるということは、現在の日米の政府のあり方からいってありえない。
 そんなことは少しでも考えれば、誰でもわかることだと思う。

 なお、私は、歴史家なので、これに関係して考えなければならないことが多い。一つは、沖縄がほぼ11世紀以来、「日本」とは別の王国を形成していた事実があらためて呼び起こされるのは当然のことである。状況を知れば知るほど、現在の日本国家が、この琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって国際法に反して琉球王国を消滅させた明治維新権力の行動と似たようなことを繰り返しているという認識が生まれるのは自然なことである。

 これだけの歴史的事情があり、かつこういう状態が続けば、沖縄は独立を主張する十分な権利があるのは国連レヴェルでの判断としては普通の判断である。

 もちろん、現状では、その前の問題、つまり、先に述べたように、近代国家が特定の自治体にのみ特定の負担を押しつけるなどということはありえないという原則で処理すべき問題であると思い、当面は、それが望ましいと思うが、沖縄の方々が、こういう状況でより強い自治権を主張するのは当然であり、また独立を主張する権利もあると思う。

 ただ、その上で、いま、私が興味があるのは、沖縄・琉球の文化と日本の文化が、やはり相当早くから深い関係をもっていたと考えてもよいのではないかということである。
 つまり、柳田国男と折口信夫が主張した日本文化の南方起源という問題である。

 迂遠なことをいうようだが、折口信夫は、沖縄の本来の神話には月の信仰が強かった可能性があるという。私は日本の神話においても月の神の位置は高かったのではないかと考えている。
 逆にいうと、日本で太陽神信仰、アマテラスが圧倒的に強くなるのは10世紀以降と考えている。そして、沖縄でも太陽神信仰が強くなるのは14世紀ころではないかという有力な意見がでている(安里進『琉球の王権とグスク』、日本史リブレット、山川出版)。ようするに、10世紀までは琉球も日本も月神神話が強かったのではないか、同じ神話圏に属していたのではないかという仮説である。

 これらの問題をふくめて、琉球・沖縄と日本「本土」の関係を十分に考えなければならない。そういう議論が「日本国」国籍をもつ人びと全体のあいだで教養として考えることができるようになるといい。そのために歴史家としてできることをやりたいと思う。

 しかし、いま「本土」という言葉を使った。「本土」という言葉を使うのならば、上に述べた二者択一の問題を本当に真剣に考えるべきであると思う。そうでなくて何が「本土」か。

2015年3月15日 (日)

米軍に「良き隣人」をみた沖縄の「保守」--翁長知事の発言

 翁長知事が、当選後、米軍について「良き隣人のなすべきこととは思えない」と発言したことが強い印象に残っている。

 これは知事が、米軍に「良き隣人」たることを期待するという言葉に馴染んでいたことを意味する。それを前提として、少しづつでも状況を改善していく。これが沖縄の「保守」の考え方であったのであろうと思う。

 もちろん、現在の問題は、アメリカも日本の「本土」政府も、どちらも決して「よき隣人」ではないということが誰の目でみても明らかになってしまったということであろう。だから沖縄では、「保守」の知事がアメリカ軍と安倍内閣を強く批判するということになっている。
 
 このままアメリカ軍と安倍内閣が巨大基地建設、キャンプシュワブの大拡大を強行するとすると、問題は日米安保条約にもとづく基地提供それ自身ををどう考えるかということになる。日米安保体制そのものが問われるということになる。もし、そうなれば、またさまざまな議論が必要になってくる。

 けれども、その議論に進む前に、私は、沖縄の「保守」の立場というものが、歴史からみると、ある意味で自然なものであったということを確認しておくべきだろうと思う。 

 翁長知事の発言を聞いて思い出したのは、岡本太郎の沖縄文化論である(岡本太郎『沖縄文化論』、1961年)。

 岡本は1957年に占領下の沖縄を訪れた。岡本は、美術学校の同期で、二科会の会員であった大城皓也に誘われて沖縄に行った。最初は遊びの積もりであったとあるが、この沖縄経験が岡本の仕事に大きな影響をあたえたことはよく知られている。岡本の観察は自己省察もふくめて率直でするどいが、岡本は沖縄では「誰にあっても、底抜けに善良だ。これでピントがあっているんだろうかと、ちょっと心配なくらいだ。沖縄には『いちゃりば、ちょうでえ(行き会ったものはみな兄弟)、ぬう、ひぇだてぬあが(何の隔てがあろうか』という言葉があるそうだ。たしかに、自分と他人を意識し、隔てているような、あの小市民独特のいやったらしさが感じられない」といっている。ようするに気が合う人が多かったのだろう。

 岡本は、インターナショナル・ウィメンズ・クラブという琉米新善機関のパーティに招待されたときの経験を述べているが、そこにも、そういう柔らかい雰囲気があったという。「私はいささか気をぬかれた。ここには征服者と被征服者がいる。そのはずだ。だが、沖縄人の方が自然にふるまっている」としている。岡本は、そこに琉球の上層部の貴族的な弱さをみるなど、複雑な状況をみているという自覚もあるが、ともあれ、ここには琉球社会の一部にアメリカを「よき隣人」としてつきあうという様子があったことがみえる。

 私は、これはある意味では自然なことであると思う。

 もちろん、アメリカの沖縄占領にともなう基地占拠は、国際法に違反した銃剣による土地強奪によるもので許し難いものである。けれども、日本による明治維新後の「琉球処分」、沖縄に対するなかば植民地的な支配、貧困の強制と沖縄差別、そして沖縄戦における日本軍の県民を見放す行動、集団自殺をふくむ大量死をもたらしたなどなど、日本国家のやってきたことと比べて、歴史的にみてどちらがひどいかという比較の問題は、確実に存在したと思う。岡本が沖縄戦の戦跡をめぐって、「この戦跡をみていると、はるかに日本人が日本人に対しておかした傲慢無比、愚劣、卑怯、あくどさに対する憤りでやりきれない」と述べている通りである。

 こういう歴史的経験は、20年前くらい前までは、今日よりもさらに沖縄に濃厚に残っていたのだと思う。これが沖縄の「保守」の考え方や、立場がある意味で自然なものであると考えることの理由である。本来の「保守」というものは、どのような場合でも歴史に根をおくものであって、その限りではつねに尊重するべきものであると、私のような歴史家は考える。

 沖縄の歴史と、「本土」の歴史は大きく異なる道だったのであって、こういう意味での沖縄の「保守」を、日本の「本土」に棲む「革新」が一方的に批判することはできないだろう。

 「琉球処分」によって琉球王国を国際的な信義に違反する形で、日本に強行的に編入し、その上で沖縄県に対してさまざまな行政的差別を行い、沖縄戦において甚大な被害をあたえた以上、「本土」に棲む人間は、「本土」に棲むということ自体によって、特定の責任が発生しているという事態があるはずである。

 先日13日の朝日新聞の電子版に、小説家の目取真俊氏のインタビユー記事があった。そこで「翁長知事は工事を止めることができるでしょうか。あまり期待していないということでしょうか」という質問に対して目取真氏は次のようにいっている。

 「中央から地方への権限の移譲は進んでいません。限られたなかで、やれることをやるしかない。去年の知事選で翁長さんを応援し、路地裏まで歩いてビラをまいたのも、すぐに工事を止めてくれると思っていたからではありません。当選しても厳しいのはわかっていた。それでも、やらなければ事態がもっと悪くなるから応援したわけです。期待とか希望とか、そんな生ぬるい世界じゃないんですよ。私たちはここまで追い込まれているんですよ」
 
「自民党にも、昔はもっと歴史を肌で知る政治家がいました。戦争で沖縄に犠牲を押しつけた、という意識を心のどこかに持っていた。それがいまでは、歴史認識も配慮もない。基地を押しつけて当たり前という、ものすごく高圧的な姿勢が中央に見えます。沖縄の保守の人さえそう話す。これじゃあ付いていけない、と思う人が出て当然でしょう。政治が劣化しています」。


 「ヤマトゥにいたら、戦争から70年のブランクがあるような感じがするでしょう。でも沖縄の感覚は全然違う。市街地をオスプレイが飛び、迷彩服を着て小銃を手にした部隊が県道を歩いている。戦争の臭いが、ずっと漂っているのです。日本の戦後史は一つではなかったのです」

 「憲法9条だけを掲げる平和運動にも、欺瞞(ぎまん)を感じています。敗戦後、再び侵略国家にならない保証として非武装をうたう9条が生まれました。ただし、共産圏の拡大に対抗する必要から日米の安保体制が築かれ、沖縄に巨大な米軍基地が確保されたのです。9条の擁護と日米安保の見直しが同時に進まなければ、結局は沖縄に基地負担を押しつけて知らん顔をすることになる」

 「ヤマトゥ離れの意識が、この2~3年で急速に広がっています。もっと自治権を高めていかないと二進(にっち)も三進(さっち)もいかない、という自立に向けた大きなうねりが、いま沖縄で起きている。辺野古の海の抗議活動は、この地殻変動の一つの表れなんです」

 
 翁長知事と沖縄県が面とむかっているのは、アメリカの世界戦略と、それに従属する日本の国家と資本主義の構造そのものである。

 そして、目取真氏のいうように、そのなかで「もっと自治権を高めていかないと二進(にっち)も三進(さっち)もいかない」ということになっている。これが沖縄=琉球は、本来、自立した国家、琉球王国であったという問題に結びついてくることはいうまでもない。

 もう一度、沖縄に関わる歴史の全体を知らなければならないと思う。

 岡本太郎『沖縄文化論』(一九六一年)の一節を引用しておく。

 「沖縄・日本は地理的にはアジアだが、アジア大陸の運命をしょっていない。むしろ太平洋の島嶼文化と考えるべきである。(しかも)沖縄・日本は太平洋のなかでもひどく独自な文化圏である」

 岡本は、一九三〇年代、留学先のパリでシュルレアリズム運動に参加する一方で、パリ大学でオセアニアを対象とした民族学の専門的研究に取り組んでいる。この指摘は、その蓄積を前提としたものである。
 これは、有名な島尾敏雄のヤポネシア論より早く、本質的には同じことをいったものである。つまり、日本の歴史は、現在でもほとんどの場合は、インドから中国・朝鮮にいたるユーラシアの東西軸の影響の下で語られる。しかし、岡本と島尾は、そうではなく、むしろ環太平洋の西部、インドネシアから千島列島にむけて北上する群島の連なり、この列島にそくしていえば南北軸というべき軸線の影響が強いというのである。

 アメリカの世界戦略というものは、こういう西太平洋全域の視野から見なければならない。それを「国民的常識」とすることが歴史家の重要な役割だろうと思う。

2015年3月13日 (金)

内閣と沖縄県。粛々とやっているのはどっちか。

 沖縄タイムスから電話取材があった。
辺野古への巨大基地建設の問題である。

 ブログに「このままで行くと、国(というよりも自民党内閣)と県庁の全面的な対立に発展する可能性がある。こういうことは明治維新以降の日本現代史の上ではじめてのことである。自由民権運動のときは地域社会と藩閥政府の対立という実態はあったが行政行為において、こういうレヴェルの対立はなかった」と書いたことについての説明を求められた。

 第二次大戦前の県知事は中央の決定であるから、こういうことは起こりえなかったことはいうまでもないから、行政の相互が行政行為それ自身で対抗しあうというのは、日本国家史上ではじめてのことであると思う。歴史家としてはそういうことを目撃しているという感じで事態をみている。

 公務員が「辺野古」の工事について監視するために立ち番を組むということを沖縄県庁が正規の内部手続きの上で決定せざるをえなかったというのはきわめて重い事件である。

 国と自治体の行政は、主権者の意思を尊重し、それにできる限り従うことを前提として、同じ国家の行政組織として相互に調整し、必要な情報を共有するというのが普通のことである。自治体の側で許可権限を行使した問題について、必要な事後調査が必要になった場合に、政府をふくむ他の行政組織が協力するのは当然の原則である。

 それにもかかわらずそのような情報を提供しない。それゆえに何をやっているかを自治体の行政が監視をせざるをえないなどということは法治主義をとる文明国家では考えられない非常識な事態である。それどころか確認のための調査について「不快」であるなどの感情的な発言を内閣の一員である防衛相がいうなどということは、公務員のあるべき姿からの重大な逸脱である

 自治体が国の関わっている行為を監視せざるをえないなどということは法治主義の下ではあってはならないことである。国は、そのような労働を自治体の公務員に強制したことになる。内閣メンバーも自治体公務員も公務員としては同等の存在であって、内閣メンバーだからといって不当な労働を強制することはできない。内閣メンバーは自分が偉いと思っているのではないだろうか。おかしな話、時代錯誤である。

 行政の普通の常識が機能していれば、こういう労働を自治体の側が組織するなどということは不要なことである。これをやらざるをえないと沖縄県庁が総意として決定したことの意味は重い。この「辺野古監視」という決定は沖縄の新聞で報道され、それを報道した本土の商業マスコミは(私のチェックの限りでは)存在しなかったが、日本の国家と自治体の歴史では重要なターニングポイントであろうと思う。

 昨日、菅官房長官が「法治主義でやっている。何が悪い」という居直りのような発言をニュースセンターでみた。沖縄県がその許認可権限にもとづいて確認調査をするということに対して協力しない、批判するというような非常識な行動をとる内閣が、法治主義というような高級な言葉を乱用することは了解できない。自治体の住民の福利にかかわる重要な問題について、自治体がその行政行為についてフォローすることは当然の権限である。

 菅官房長官の発言は、自治体が、選挙結果にもとづき、公約にもとづいて政策を取ること自身を否定するということである。「自治体が勝手にそういうことをして、政府の政策通りに決められたことを守らないことは許し難い」という訳だ。

 これは国家主義といって法治主義とはいわない。というよりも国家主義という言葉も高級すぎるかもしれない。国家というよりも、この場合は「安倍内閣)が決めたことだから守ってもらう」ということである。しかもそれを機構上は地方自治の憲法原則の上で独立的な権限をもつ国家機構に対していうというのは信じられない神経である。

 これは、ようするに「俺が決めたことだから守ってもらう」「俺が法だ」ということである。こういう発言は、法治主義どころか、国家主義どころが、一つの無法な発言である。それを法治主義という言葉で飾る心情は無教養以外のなにものでもない(ニュースセンターでのコメントが、そういうのは「法治主義であるということでは政治ではない。きちんと話さなければならないじゃないか」とあったのは、コメントとしては甘く、本質を見のがしているように思う)。

 たしかに、翁長氏は仲井真前知事の最末期の行動を批判した。しかし、そもそも、仲井真前知事は辺野古への基地建設に反対であるという公約によって当選した知事である。選挙と住民意思はこの間、基本的な変化はない。仲井真前知事の変心を勧誘し、強圧的に選挙で表現された住民意思を踏みにじったのは、安倍内閣自身である。自身で踏みにじっておいて、それに抗議があると、もう決めたことだ。これが法治主義だというような発言は許されない。これをジャーナリズムは全力を挙げてたたくべきである。そうでなければ、日本の法治主義は地に落ちる。

 沖縄タイムスの記者の方には、東京新聞の夕刊に「政府と県の対立が先鋭化している」とあったが、これは正しくないと伝えた。これだと「国と県の両方が先鋭化している」ということになる。これは正確ではない。先鋭化しているのは驚くべき事に内閣であって、内閣が非常にあせって強行し、大規模自治体と事を起こそう、事を構えようとしているというのが事実であうr。

 沖縄県は常識的な行政行為をしているだけであるという現在のスタンスはあくまでもただしい。

 法治主義にせよ、先鋭化にせよ、日本のマスコミはもっと穏当で正しい言語感覚をもってほしいと思う。

 沖縄タイムスの記者には、なぜ、ブログで意見をかかれたのですかと聞かれたが、考えてみれば、報道の偏りへの違和感からなのだと思う。そしてマスコミがそうである以上、こういうことは学者・研究者としては電子媒体をふくめてどんどん発言した方がよいと思う。
 
 特に問題が「法治主義」といわれている以上、法学界の責任は重い。

 今日の東京新聞は沖縄の民意を無視するのかという記事が一面トップである。ほかのマスコミはどうなのだろう。

2015年3月12日 (木)

 外務省は沖縄駐留米軍の意向を取り次ぐべきではない(辺野古サンゴ礁調査)

 外務省は沖縄駐留米軍の意向を取り次ぐべきではない(辺野古サンゴ礁調査)

 本日(3月12日付け)早朝の沖縄タイムスおよび琉球新報の電子版によると、辺野古のサンゴ破壊の調査のために沖縄県が米軍に通告した、「臨時制限区域」への立ち入り調査を米軍が拒否したということである。しかも外務省が、それをそのまま「取り次いだ」という(東京新聞朝刊も同様)。


 現在行われている防衛局の海底作業が、昨年8月に県が許可した岩礁破砕の範囲を逸脱していないかどうかを検証する必要があるという県の見解は当然のことである。「制限区域」外の部分において許可条項以上の行為が行われているということを、県が行政行為として確認した以上、一連の工事について点検するというのは合理的な処置であり、むしろ行政の義務である。

 何事かを許可した機関が、合理的な必要がある場合に、許可した条項の実施が妥当かどうかを調査することは、許可権限のうちに入る。こういう米軍の主張は了解しがたい。外務省はこのような米軍の主張の通告を拒否し、沖縄県の主張にそって調査を行うと解答するのが当然であろう。これでは外務省は日本国の外務省ではなく、米軍の出先取り次ぎ機関である。

 外務省の公務員は公務員であって、少なくとも、その生計の一部は沖縄県民の税負担によって供給されている存在である。その県の自治体が当然の行動をするのに対して、外国軍の意思を取り次ぐというのは一般的には背任行為である。そのような疑問をもたないのは、自己の有する権限についての錯覚というものである。常識的な職業倫理をもっている人間とは考えられない。

 日本国家は、沖縄県と事を構えようとしている。

 沖縄県が、選挙結果にしたがって慎重にひとつひとつ、きわめて漸進的な姿勢で慎重にものごとを進めている。それに対して、内閣が沖縄県を批判し、不快感を表明し、無視する。そして米軍の意思を県に伝達する。適法的に行動する自治体に対して勝手に外国軍に抗議せよ、外国軍と交渉せよ、政府は知らないというのである。

 このような行動をする内閣は、普通の現代国家では考えられない行為である。それに従う公務員は公務員の倫理に反している。自分はそういうことはできないということが何故言えないか。それで馘首されるということではない。それができないのはきわめておかしい。

 先日、政府と沖縄県の全面対立というような異常な事態は望ましくないと書いたが、このままではさらに米軍+政府と沖縄県の対立ということになっていく。そのように極端に不利益な立場に沖縄県が立たされるというのは、この国の国家のあり方が「行政と行政の対立」という目に見える形で問われることになる。そのような異常な事態が自分の棲む列島で起きることをのぞまない。

 望まないといっても、どうしてもそうなっていきそうな様相である。沖縄の方からは、いまさら何をいうかということであろうが、これは改めて根本から考えざるをえない。

2015年3月10日 (火)

政府と自治体(沖縄県)の全面対決は望ましくない(巨大基地の建設は白紙に戻すほかない)

 今日(3月10日)の朝の琉球新報電子版によると。3月9日、沖縄県は「辺野古」監視のために職員を常時派遣し、独自に情報収集する体制を決めたという。

 県庁の部局横断的な組織である「辺野古移設問題連絡調整会議」が9日に確認し、これが翁長知事らによる同日の三役会議を経て決定されたという。

 「マスコミ情報頼みではなく、独自に情報を収集し事実関係を確認する必要がある」(浦崎唯昭副知事)ということで、調整会議に詳細な検討を指示した上での決定ということである。

 10日に知事公室の職員が現地を視察し、細かな監視態勢などを決めるということであるから、現在12時少し前、すでに現地視察は始まっているのだろう。知事公室や農林水産部、環境部などの関係各課の交代で監視体制を組むということである。

 これは中央国家と地方自治体との対立が現場の行政レヴェルで行われるということを意味する。沖縄県としては当然のことであろう。県知事選挙の結果をうけて、県民が県知事選の結果に反する行動をしようとする集団を監視するというのは住民自治の原則からいって当然の行為である。その行為を住民にまかせていては地方自治体の行政自治の面目が立たない。

 このままで行くと、国(というよりも自民党内閣)と県庁の全面的な対立に発展する可能性がある。こういうことは明治維新以降の日本現代史の上ではじめてのことである。自由民権運動のときは地域社会と藩閥政府の対立という実態はあったが、県庁レヴェルでの対立はなかった。

 東日本大震災前にプルサーマル計画にきびしい態度をとり、東電を強く批判していた福島県の前県知事、佐藤栄佐久氏が、もし県知事を続けており、東日本大震災と福島原発事故に直面したとしたら、同じような事態が展開していたかもしれないが、佐藤前知事の告発・辞職という経過のなかで、そういうことにはならなかった。しかし、原発とアメリカ基地のような大きな問題は、このような中央政府と地方自治体の行政的対立ということを生む可能性をもっているということになる。

 こういうことは望ましくないと思う。これは現在の自民党政府が法治主義の原則をとっていないから発生することである。法治主義の第一の基本は選挙結果に行政はしたがうということであるはずである。沖縄県民の総意によって選出された知事の公約を無視するなどということは法治主義の大原則に反する。県知事選はいわば住民投票である。住民投票による住民自治に従うというのは民主主義国では普通のことである。それを越えるような国家判断なるものをすることは許されない。

 こういうことが起こるのは、現在の「安倍自民党内閣」に特徴的なことで、外には、ご近所だと現在の中国の体制であろうか。広くみれば、ここには政治と社会の関係の「東アジア的」な特質があるということであろう。しかし、日本の「本土」であれば、住民投票は決定的な意味をもつにもかかわらず、「基地」「沖縄」となるとそうはならないというのは、東アジア的な特質一般では理解できないことである。

 しかも、これは「自民党政府」ということでもないのが深刻な問題である。自民党の前幹事長野中氏が、辺野古への巨大な新基地建設には自己の政治責任の問題として「耐えられない」と述べていることは、それを明瞭に示している。

 普通の現代国家においては、こういう政府と自治体の全面対決という事態の発生は予定されていない。考えられない事態である。こういう形での問題の発生は望ましくない。「自民党政府」は現在の姿勢を撤回してほしいと思う。

2015年2月 9日 (月)

琉球・沖縄は、歴史学にとってはきわめて大事な場所である。

 琉球・沖縄は、歴史学にとってはきわめて大事な場所である。現在の沖縄のことを考える上で、過去の長い歴史を前提にして、それを考えるのは当然のことである。

 「沖縄は、日本社会のなかで、個性ある文化一般をこえたきわめて特殊・例外的ともいえる地域的独自性と文化的個性をもっており、日本社会の他のいずれの府県にも類例を見いだすことのできない、きわめて特殊な地域として歴史的に存在しているだけでなく、現在の時点においてもなお、きわめて独自な地域として存続している」

 これは1978年のNKHKの全国県民意識調査を分析した歴史家・安良城盛昭氏の言葉であるが、たしかに沖縄は独自なものをもっている地域だと思う。沖縄における「保革」の連携というのは、おそらく、前近代から続く長い沖縄の歴史というものと切り離せないものであろうと思う。沖縄における「保守」の思想というものの実態を知りたいと思う。
 
 沖縄は、独特な文化をもち、長く東アジア・東南アジアの窓であるような社会であった。私は、柳田国男・折口信夫が沖縄に惹かれたことは、彼らにとって自然なことであったし、重要なことであると思う。もちろん、高良倉吉がいうように、もっとも重要な学者が伊波普猷であり、伊波ー河上肇のルートの上に問題を考えなければならないが、しかし、柳田・折口問題は、現在の沖縄の雰囲気、そして「本土」の雰囲気を前進的に見通しのよいものにしていく上では検討を欠かせないと思う。ともかく、そういう積もりで、神話論をやっている。
 
 それにしても、そういう目で沖縄の現在を考えるという学術文化の雰囲気がなくなっているのではないかというのが心配なことである。

 さて、下記は、いま書いている『日本史の30冊』の一冊、豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、二〇〇三年)の紹介文である。やっと書けた。歴史に興味のある人には、安良城盛昭・高良倉吉氏などの本とともに、是非、読んでほしいものである。


 一九六三年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテー マであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。

 『沖縄』の筆頭著者・比嘉春潮は柳田国男に師事した著名な民俗学者であり、彼がこのように問題を設定したのはめざましいことである。しかし、問題は事実認識にあった。つまり、新書『沖縄』は「本土」と琉球の「民族的」近接性を強調する一方で、琉球を固定的に「僻地」とみてしまう。弥生時代に農業の道をとらなかったために農業の発達が遅れ、停滞的な歩みの中で沖縄は眠っていたとまでいうのである。こうして近縁的な社会の相違が「発展の相違」に還元され、琉球は「本土」にくらべ、社会発展史上で一〇世紀も遅れていたと結論される。しばらく前までは、「本土」の歴史学界でも一四世紀の琉球王国ははじめての古代国家であり、薩摩の武力進入(一六〇九年)は、封建国家による古代国家の統合であるなどという意見がしばしば聞かれた。

 この種の抽象論は今では笑い種にすぎないが、比嘉たちの議論には彼らなりの理由があった。琉球王国に武力統合した薩摩藩、「琉球処分」によって中央集権を確定した明治国家の支配の下で、琉球が直面した差別と収奪を強調するあまり、彼らは、琉球史の枠組を苦難と「貧しさ」を基軸として描いてしまったのである。

 しかし、近年の琉球史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈、多様な海産物と硫黄・砂糖などの特産品をもち、「僻地」であるどころか東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明瞭にした。琉球史を無前提に「日本史の一環」ということはできないというのである。その起点を作ったのは、太閤検地論で有名な沖縄出身の歴史学者、安良城盛昭であり、その影響の下で本格的な史料分析によって琉球王国の国制を明らかにした高良倉吉であった。

 本書はそれ以来、二〇年ほどの研究の到達点を示している。残念ながら、本書は通史ではなく、編者による序論と六本の論文からなる研究論集であるが、しかし、「本土」と琉球が各々異なりながらも深く関係しあって発展と変化の道を歩んできた枠組を明らかにすることに成功している(想起されるのは、かって岡本太郎が「沖縄・日本は地理的にはアジアだが、アジア大陸の運命をしょっていない。むしろ太平洋の島嶼文化と考えるべきである。(しかも)沖縄・日本は太平洋のなかでもひどく独自な文化圏である」と述べたことであろう。有名な島尾敏雄のヤポネシア論も同じ発想である。本書が歴史の舞台として設定したのも、同じ琉球弧から千島列島にいたるジャパネシア世界である。)

 その時代区分は、序論とⅠ章「琉球王国の形成と東アジア」(安里進)で述べられており、その(1)草創期縄文文化は、南アジアに特徴的な丸ノミなどをともなうもので、琉球弧ルートで鹿児島に到ったが、六四〇〇年前の鬼界カルデラ噴火で壊滅した。その後、展開したのは(2)「貝塚文化」であって、北部九州の縄文文化との交流も維持しながら独自化の道を歩み、中国とのタカラガイ交易などを特徴としていた。そして本土の弥生時代に対応する時期を(3)「貝塚後期文化」といい、そこでは旧石器時代以後の温暖化のなかで発達したサンゴ礁の生態系に依拠した生業システムが形成される。彼らは、豊かな漁撈と独占的な貝交易によって弥生農耕文化を受けいれる必要がなかった。そもそも農業の発展のみを社会分析のモノサシとするようなことは誤りであるというのが本書の視座である。

 「本土」の古墳時代以降に対応する(4)貝塚文化最末期には、ホラガイが仏教の法具とされ、日本を経由して大陸に流通し、さらに唐で発達した螺鈿細工の原料としてのヤコウガイも移出される。その代わりに人びとは鉄器を入手するが、このような交易の統括において役割を高めた首長が、琉球の各地域に盤踞し始めたのである。

 これをうけてだいたい一〇世紀以降、「本土」の平安時代に対応する時期に(5)原グスク時代が始まる。中国の宋代における華僑の東南アジア展開のような交易の広域化に対応して、この時期、長崎産の石鍋や徳之島産の須恵質陶器カムィ焼が琉球全域に流通する。そして、畠作や水田が本格化し、人口が増大する。その中枢には城塞形の小さなグスク的遺跡が位置していた。そして、一三世紀以降、いよいよ(6)大型グスクの時代が始まり、浦添グスクに拠点をもつ初期中山王家の勢力が他のグスクを圧倒した地位をもって出発した。一四世紀に入ると中山から山南・山北が分離して三山時代が始まるが、一四二〇年代には思紹と尚巴志の父子(第一尚氏)が三山を統一し首里へ拠点を移す。その後、第二尚氏への王朝交替があって尚真王期には(在位一五世紀後半から一六世紀)琉球王国は琉球全域におよぶ繁栄した王国となる。(7)琉球王国の時代である。この時期、琉球は東南アジアにまで貿易船を送り、「万国の津梁」と自称したという。

 問題は、この琉球王国の繁栄が明の冊封と海禁体制のなかでの琉球の特権的地位に支えられていたことで、しかも、時代がすぐにヨーロッパ勢力のアジア登場にむかっていたことである。これがアフリカと南アメリカにおける人間の大量殺害によって特徴づけられ、「長い一六世紀」ともいわれる世界資本主義の原始蓄積期であることはいうまでもない。そして、本書Ⅱ章「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(真栄平房昭)に記されているように、この原蓄の推進要因となったグローバルな貴金属流通の中枢に、メキシコ銀のアジア中国還流と膨大な日本銀の増産があった。

 こうして世界史は近代の帝国の競合の時代に入り、東アジアでは中華帝国の最後の建設と崩壊の時期に入っていく。それに先だって日本が秀吉の朝鮮出兵という帝国的冒険に突入し、それは無益な破壊をもたらしただけで終わったものの、極東の小帝国としての日本(参照、本書■頁)を担保する形で、薩摩の琉球への侵略と武力統合が行われた。

 (8)江戸期の琉球王国は、一方で江戸幕藩体制の下に統合され、他方で清への朝貢体制を維持したが、その中で逆に芸能・生活文化から国制にいたるまで琉球としての特色が意識された。Ⅲ章「自立への模索」(田名真之)は、この純化・独自化の逆説を「琉球的身分制」と「史書の編纂」という側面から描き出している。またⅣ章「伝統社会のなかの女性」(池宮正治・小野まさ子)は沖縄の女性史の分野にあてられており、祭祀と芸能、さらに繊維の生産と貢納を中心とした女性の位置について論じている。Ⅲ・Ⅳを通じて歴史学の側から琉球文化の成熟の様相が語られるが、全体として女性の位置が独自なようにみえるのは、本書の論調からすると、海洋国家に独自な男女間の社会分業ということに関わるのであろうか。なお、Ⅱ章において、琉球が日本列島の南北軸の西南端という位置を生かして江戸期の列島市場との結合を高めながら、砂糖を大阪に出荷する見返りに渡唐銀を入手し、北海の昆布などの海産物の輸出ルートに乗るという遠心性を確保していることなども、「両属と自立」という図柄のなかに位置づけられている。

 さて、以上が前近代部分のだいたいの紹介であるが、Ⅴ章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守)、Ⅵ「世界市場に夢想される帝国」(冨山一郎)は、中華帝国体制の崩壊の隙間を狙って明治国家によって行われた琉球王国の政治的廃絶から(「琉球処分」)、日本の帝国経済の台湾への拡大のなかで必然化された江戸期琉球の砂糖産業の経済的破綻(「いわゆる「ソテツ地獄」)までを取り扱っている。とくにⅤの分析は鋭いもので「琉球処分」がやはり国際的な不法行為であったことを明らかにしているように思う(なお、本書には、これに対応する薩摩の琉球王国侵略についての具体的な記述がないが、これは紙屋敦之の仕事などによって補充する必要がある)。
 冒頭に述べたように、本書は、通史ではない。しかし、この紹介からもわかるように、本書は、具体的な記述のなかで、前近代史と近代史を統一的・連続的に説明するという通史にとってもっとも重要な視座を提供している。何よりも重要なのは、本書が、琉球史というもっとも重要な部面において、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方を実際の叙述において乗り越えたということであろう。それを敷衍すれば、民族なるものが実際の社会・社会構造と異なるレヴェルで自己運動し、「形成」されたり、「統一」されたりする実態をもつというのは幻想にすぎないということであろう。私見では、悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生 活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という固定的定義は、その幻想を形式論理で包んだものにすぎない。

 すでに新書『沖縄』も「どこかに‘日本人’または‘日本民族’なるものがいて、ぜんぶ同じ体質と同じ文化をもち、同じような歴史的発展をしてきたという考え方」を痛烈に批判していた。比嘉らが「ナショナリズム」を「無関心」や「差別」を突き抜けて希求される「国民的な連帯意識」の問題としたことは冒頭に引用した通りである。たしかに「民族」とは、実在する「国家ー国民」の関係とは区別される「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。
 しかし、国家と社会の間に存在する公的な圏域が民族の名をもってよびだされる場合、それが民主主義的なものか、魔物であるかはすべて時と場合による。琉球史は、この歴史学にとって緊要な方法問題に直結する分野であり、本書は、それを具体的な実証の場所で考える上での試金石となっている。

比嘉春潮・霜田正次・新里恵二『沖縄』、岩波新書1963年
安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス、1980年
高良倉吉『琉球王国の構造』吉川弘文館、1987年